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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

森山安英 オーラル・ヒストリー 第3回

2017年2月5日

北九州市戸畑区、北九州テクノセンターにて

インタヴュアー:小松健一郎、細谷修平、黒川典是

書き起こし:小松健一郎

公開日:2018年7月15日

インタビュー風景の写真

小松:昨日は第3回の動向展(「第3回九州・現代美術の動向展 〈別の世界展〉」、1969年2月25日~3月2日、福岡県文化会館/福岡市)までお聞きしたので、その続きで万博破壊九州大会(1969年5月3日:戸畑文化ホール/北九州市、4日:農民会館/福岡市、5日:明治生命ホール/福岡市)に入っていくんですけど、こういう運動について、県外の情報はどういうふうに手に入れていたんですか。

森山:〈ゼロ次元〉関係は桜井(孝身)さんやら〈集団“へ”〉の新開(一愛)たちが、しょっちゅう接触してたからさ、いろんなものを持ってきて配りよった。

小松:福岡市美に森山さんが寄贈された資料のなかには、結構ほかのグループのビラとか機関紙みたいなのがありますけど。

森山:なんやかんや僕んところに送ってきよったのよ。〈プレイ〉でもね。

小松:じゃあ、ほかの全国的なグループの動きは知っていたんですね。

森山:そうですね。その頃はもう送ってきてましたんでね。

小松:〈ゼロ次元〉の映像とかは見ていましたか。

森山:《シベール》(1968年、ドナルド・リチー監督)とか《いなばの白うさぎ》(1970年撮影、加藤好弘監督)とか、そういうのは見てましたね。どこで見たのかな。よく記憶してないけど、たぶん桜井さんたちが福岡でやったりしてたんじゃないかな。

小松:直接会うのは「万博破壊九州大会」の当日まで。

森山:うん、当日会った。それもね、何回かしか会ってません。彼らは前日(5月2日)に福岡に入って、それから農民会館っちゅう〈九州派〉の溜まり場があって、そこで徹夜で会合やったりなんかしてて。そんときは、菊畑(茂久馬)さんなんかも来てたかな。

黒川:森山さんは、そのときはずっといたんですか。

森山:うん。僕らもみな行ってました。そんときは計画だとかして、決起集会みたいなもんですね。で、朝方5時ぐらいから天神にくり出して、デモンストレーションしようっちゅうて(万博破壊九州大会キャンペーン、1969年4月27日、天神/福岡市)。そのときはプレ反博みたいなもんで。本番は北九州から始まっとんですよ。北九州にみな来て、市民会館(実際は隣接していた戸畑文化ホール)ですかね。そんときは僕らが会場を抑えとって、〈蜘蛛〉の主催っていうかたちでやるんだってことで。僕らの意識としてはですよ、向こうはそんなことどうでもいいんでしょうけど。〈蜘蛛〉の名前で申し込んで。そんときはまだそんな悪い集団とは向こうも知らんもんやから(笑)。何しろ(会場は)警察署の隣ですからね。来てからびっくりっていうやつですね(笑)。向こうは知らなかったんですよね。だから初めから揉めましたけど、やめるわけいかんから。「せんならせんでいいよ。僕らだけでやるから」とか言うから、向こうも仕方なく(笑)。〈告陰〉の誰やったかな……末永蒼生さんなんかが、もう「うんざりした」っち言ったけど(笑)。

黒川:森山さんが〈蜘蛛〉の主催にこだわったのは。

森山:まあ、北九だからですね。「僕らが仕切るんだ」っていうふうに言って、みんな桜井さんたちは了解して。だから「全部プログラムも僕らの言う通りにしてくれ」っていう言い方ですね。

小松:「九州芸術研究会」(注:ハガキにはメンバーとして「深野、働、尾花、桜井」と記載)っていうタイトルで1969年4月13日の会合通知ハガキがありますけど、反博の打合せをしていたっていうことですか。3日間あるので、戸畑と福岡2会場があって、全体は桜井さんとか深野(治)さんが仕切っているという。

森山:そうですね。

黒川:〈ゼロ次元〉とか各グループに対してと、それとは別のグループ連合みたいなかたちになっている〈万博破壊共闘派〉というものに対して、森山さんはどうお考えでしたか。

森山:別にいいんじゃないのみたいな感じで、もちろん万博に対する批判は〈蜘蛛〉の側にもありましたし、共闘することについては問題なかったですね。菊畑さんやら会合にずっと来てたけど、距離を置いてですね、〈ゼロ次元〉のいろいろ見聞きしていたけども、万博反対と(ハプニングの内容が)どういうところでドッキングするかっていうことを、しつこく粘って聞き出してましたけどね(注:5月4日の農民会館での討論か)。菊畑さんは微妙な立場だったんでしょう。菊畑さん自身は「万博に呼ばれるもんだと思うとった」って言うんだ(笑)。「お茶ひいた」ってから(笑)。だから、万博粉砕とか万博反対っていうかたちでは、菊畑さんのなかにはほとんどなかったんですね。こういう運動っていうかたちで出てきたときに、菊畑さん「あれ?」っていう感じで、結局は一緒に行動はしませんでした。福岡の前夜祭っちゅうかプレイベントのときも来てましたし、朝(万博破壊九州大会キャンペーン)も一緒に天神まで出てきて、桜井さんが(ハプニングに)引きずり出そうとしよったけども(笑)、嫌がってからどうしても入らなかった。菊畑さんは、この運動に関しては一緒にはしないっていう気持ちだったんでしょう。ただ、目撃っちゅうか、見るのはちゃんと見るぞ、みたいなかたちで、全スケジュールに来てましたね。

細谷:今おっしゃった〈蜘蛛〉にとっての万博、あるいは反博の意識は、具体的にはどういうところがあったんですかね。

森山:やっぱり万博の前からいろいろキャンペーンがやられてたし、政界財界含めてですね、日本の文化運動をそういうかたちで引きずっていくことに対する批判は、〈蜘蛛〉としては当然もってたわけで。ただ〈ゼロ次元〉の場合、菊畑さんがこだわったのもそこだろうと思いますけど、(〈万博破壊共闘派〉の運動は)ある種の社会性っちゅうか、政治性を帯びてるわけでしょ。それに〈ゼロ次元〉っていう運動体みたいなものが、どういうかたちで急にくっついたのか、そのへんをもっとはっきり聞きたいみたいなことを言うけど、なかなかその答えっていうのが、言葉で綺麗に説明はできんのでね。だから、かなりゴチャゴチャしてましたよ。農民会館で徹夜でやってるわけですからね(笑)。あっちで小競り合い、こっちでケンカになったりするし。その全体がどうなってんのか、議長がおってやりよるわけじゃないからですね。はじめは深野さんやらが交通整理してたけども、手に負えんことになってしもうて(笑)。だから菊畑さんのそういう批判っていうか、質問に対しても、〈告陰〉やらなんやら若い連中はさ、「何を今さらそんなことを言ってんのか、帰れ!」みたいなことを言い出すしね。

黒川:何をやるのかっていうことについても、そういう話し合いの場で決まっていったんですか。それとも、事前にある程度は決まっていたんでしょうか。

森山:各グループちゅうか、〈ゼロ次元〉なら〈ゼロ次元〉、〈蜘蛛〉なら〈蜘蛛〉でプログラムはありました。そこで何をするんだみたいなことは、行って決めるようなことじゃありませんでしたね。だから、〈九州派〉は〈九州派〉として何かしてるわけじゃないんで、田部光子さんやら、尾花(成春)さんやら、オチオサムやら、参加はしてましたし、働(正)さんやらも一緒に行進するぐらいのことはしますけども、〈ゼロ次元〉やら〈蜘蛛〉みたいに、何かそこでハプニングをやらかすようなことはないわけで。桜井さんなんかはずっと〈ゼロ次元〉を手伝って、尾花さんも〈ゼロ次元〉が「手を上げろ」って言ったら上げるし、みたいな(笑)。

小松:それと違う感じなのが、万博破壊九州大会キャンペーン。道路に白い布を敷いたり(『機關16 「集団蜘蛛」と森山安英特集』海鳥社、1999年、27頁参照)。これは誰の計画なんですか。

森山:わかりませんね。要するに、自分たちが動いてるとこしか、全体は見てないからですね。前の日に「キャンペーンとしてデモンストレーションを天神に行ってやるぞ」って話はしてて。ただ、こんな布やらなんかを誰が用意したのかわかりませんね。

黒川:〈蜘蛛〉ではないということですか。

森山:いやいや、違いますよ。僕らが着てるのは農民会館の寝間着なんですよ、浴衣ちゅうか(笑)。そのまま出てですね。〈集団“へ”〉の連中が匍匐前進したり、ぐるぐる転がって回ったりしてるだけですね。

黒川:朝やるっていうのは決まっていたんでしょうか。

森山:そうでしょうね。

黒川:雨でしたよね(笑)。

森山:うーん、雨が降ってた気もするな。まあ、どしゃ降りじゃなかったんでしょうけど。

黒川:より多くの人に見せるということであれば、もうちょっと時間帯を考えることもあるのかなと思ったんですが。

森山:そうですねえ。だけど、天神の交差点に布を敷いたり、これは早朝じゃないとできんでしょう。

小松:女性を担いで歩くパフォーマンス(『肉体のアナーキズム』グラムブックス、2010年、449頁、fig.211参照)をやるっていうのは、その場で決めているんですか。ゲリラ的に。

森山:そうそう。

小松:全体のハプニングはかなり計画されたような感じですね。

森山:そうですね。桜井さんたちやら〈集団“へ”〉の連中やら、いろいろ準備してたんでしょう。僕らはそういうかたちでは一緒に入ってませんので。

小松:この全体のプログラムは誰が作ったのでしょう。

森山:おそらく桜井さんじゃないですかね。

小松:参加しているのは地元の福岡の作家とか詩人っていうことですか。

森山:そうですね。福森さんちゅうのは詩集を一冊ぐらい(『屋台のバラード』、創言社、1968年)出しとるけども、『屯田兵』っていう、カタログみたいなビラみたいなものを自分でずっとやってたみたい。

小松:森山さんたちは最後、列から離れて遠くに行って。

森山:そうそう。通勤が来よるから、もう(午前)7時、8時になりよるんでしょうね。かなりの時間やってたんでしょう。この頃になると電車も動くから、線路も使えませんのでね。

黒川:〈集団“へ”〉と新開さんについては、森山さんの印象というか。

森山:新開っちゅうのは背も高かったし、それから風貌がね、もういかにもカリスマみたいでね。新開は柳川なんですけど、大牟田に拠点を置いてたんですよね、〈集団“へ”〉っていうあれ(グループ)作って。働さんところ(西部美術学園)が溜まり場みたいになっとった。「ヘドロの新開」っていう名前でですね(笑)。汚いドブ川が近所に流れてるもんだから。菊畑さんは大牟田まで会いに行ったって言ってました。それで(第3回)動向展(の出品者)に入れようっていうことで。ただ、作品としてはロールみたいなキャンバスをダーッと、10メートルも20メートルもあるようなキャンバスを壁にぶら下げてるだけで、何も描いてませんでしたけどね。ほとんどハプニングっちゅうか、そんなの中心で。

黒川:絵画を描いていた時期はまったくないんですかね。

森山:新開は伝習館(福岡県立伝習館高等学校)の美術部におってですね、県展やらも出したって言ってましたね。どこまでほんとか分からないんですけど、賞とったとか何とか言ってますが、誰も信用はしてませんけども。新開の友だちたちはどんな絵描きよったか知ってますけど、僕ら見たこともないし、知りませんでしたね。ただ、あれが死んでから(1988年没)、柳川に「御花(おはな)」っていう料亭があるんですよね、立花藩の。北原白秋の生家の裏にですね。そこで、それこそ(伝習館高校の)茅嶋(洋一)先生だとか、海鳥社の社長の西(俊明)さんとか同級生の連中が、三回忌か何かのあれ(法要)をするんですけどね。そんときには絵がズラッと並べてあったって。椿の花の絵やったりなんか(笑)。それを飲み代の形(かた)に配って回ってた、とかいう話は聞きましたけどね。いわゆる表現としての絵画っていうかたちでは見たことありませんね。

黒川:最初にどこでお会いになりましたか。

森山:(第3回)動向展前だと思いますよ。これ(万博破壊九州大会キャンペーン)が4月か5月で、動向展が3月やったから、この一ヶ月、二ヶ月ぐらい前か。その後、〈集団“へ”〉との関係は、なにしろ何かやろうっちゅうたって〈蜘蛛〉は3人しかおらんし、彼らはどこまでが〈へ〉かわからんように兵隊いっぱい持ってますんで(笑)。何十人集めるったら集めてくるし(笑)。だから、〈蜘蛛〉のイベントには彼らを全部入れてたんですよね。

黒川:それは森山さんが声をかけたんですか。

森山:そうです。

黒川:〈へ〉の中心は新開さんと考えていいんですか。〈蜘蛛〉のように合議するような組織ではなく……

森山:いやいや。新開の独裁制ですね。もちろん、ナンバー2の片川(憲昭)って片腕、右腕か左腕か、おりますけど。それから、福岡の呼び屋ちゅうか、タモリ呼んできたり、芸人を東京から呼んできたりするプロモーターになった……誰やったかな。ああ、北島(匡)だとかですね、大坪(秀弘)だとか。それから、柳川から市会議員に出た江上(注:正しくは江口吉男、元福岡県議)っていうのもおりますね。ずっと何十年もやっとったんじゃないですかね、もちろん自民党ですけど(笑)。

黒川:でも組織としてはかなり流動的というか、コアメンバーが誰かというのは緩やかな感じで。

森山:そうですね。だから柳(和?)さん(注:現在は「共星の里 黒川INN美術館」アート・ディレクター)なんかも、いたのは知ってるけど、どういう位置におるのかわからなかったですね。直接の付き合いは新開としか僕はなかったですからね。新開と話して、新開がみんなに説明して、っていうかたちだったんでしょうね。ただ、〈集団“へ”〉の方から〈蜘蛛〉に一緒にやるから来てくれっていうのは、柳川の伝習館闘争(注:1970年7月19日と11月29日に行なわれた伝習館高校の三教師処分に対する抗議デモ)だけですね。

黒川:やっぱり特別だったんですかね、伝習館のときは。

森山:うーん、どうなんだろうな。まあ、かなり〈集団“へ”〉っていうのは風俗的な部分が強くて、はっきり風俗の方に片足を置いて、アートの方に比重はかかってなかったからですね。風俗っていってもドロップ・アウトした、要するにヒッピーみたいな、フラワー・チルドレンみたいなかたちだから。〈蜘蛛〉の場合は、はっきり境界線があって、その両方を片一方踏んどって、片一方上げたりしてましたけどね。一回だけ、今の(福岡)県立美術館の横の須崎公園っていうところでロックフェスティヴァル(「KIRAIYAWAR IN KYUSYU BATSUGUN FESTIVAL LOVE PEACE MUSIC 愛と平和と音楽の三日間」前夜祭、1970年10月9日)をやるのに協力してくれとは言ってきましたけど。協力してくれったって、することがないんですよね、僕らは(笑)。第一、楽器もしきらんし、ロックやら世代も違うしですね。行って酒飲みよるだけで、徹夜で外で。彼らはそれが目的じゃないんでしょうけども、えらい情熱をもって電気を盗ったりですね、電柱から。

一同:(爆笑)。

森山:それで夜通しガンガン、ロックをやるんですよね。警察やらもいろいろ来てましたよ。でも「バレんやった」とか言ってましたけどね。まあ、そういうことが面白かったんじゃないですかね。犯罪っちゃあ、犯罪ですよね(笑)。

小松:ちょっと時系列的には先ですけど、「バツグンフェスティヴァル」ですよね。

森山:はいはい。

小松:連絡先が「集団蜘蛛」となっているんですけど(注:「バツグンフェスティヴァル」のビラに掲載)、中身には全然関わっていないんですか。

森山:関わっとらんですね。

小松:勝手に連絡先にされているわけですか。

森山:いやあ、そうですよ。

黒川:協力して欲しいというのは、何かやってくれということなんですかね。

森山:それもあったでしょうけど、はじめから「なんもできんばい」って言ってから、「それでもいいから来るだけ来てくれ」みたいな。その辺はもういいかげんで、例えば僕らがいろいろ集会したりするのに、「〈ゼロ次元〉が来る」とかメンバーを勝手に書いて、誰も来やせんのに(笑)。〈蜘蛛〉の場合は入場料を取ってするからですね、詐欺だけど(笑)。大学の映研とか劇研に行って、チケットを売って回るわけですよね。そして、行ってもそんなもん一人もおらんわけで(笑)。各大学やらに少しおかしいのがおってから、オルグしていってですね(笑)。そういう連中があとで映画の自主上映運動をやったりするようになっていきますけどね。ドキュメンタリー映画の増永(研一)さんなんかも、そんときのね(注:増永は映画のプロデュースや上映会などを行なっている)。

小松:ちょっと戻りますけど、4月27日のキャンペーンから5月3日の戸畑までは結構日があって、この間にシンポジウムをしたというような発言もあるんですけど(注:『機關16』、25頁には、4月29日に農民会館でシンポジウムとある)。

森山:いや、わからないですね。農民会館にみんな泊まっとるわけですからね。それを称して言ってるんじゃないですかね。もう朝から晩まで誰かがワーワー騒いでるわけで。
これ(万博破壊九州大会のビラのひとつ)は働さんが作ったビラです。

小松:「反は犯である」という言葉がありますね。

森山:そう。働さんは映画の看板書きやらしよったから、字もうまいわけですよ。

小松:ほかのビラのデザインはどういった方なんですか、こういったポスターとか。

森山:それは桜井さんでしょ。桜井さんの自画像かキリストか何か知らないけど(笑)。

小松:こういった「BOBO(ビオビオ)」の名前があるリーフレットなんかも。

森山:みんな桜井さんでしょ。

小松:じゃあ、やっぱり全体の中心は桜井さん。

森山:桜井さんですよ。

小松:これが(万博破壊九州大会)戸畑会場のビラ。

森山:それは僕らが作ったやつですね。

小松:この内容を見ると、映画の上映とか、映像関係が多いですよね。これはやっぱり大学の映画研究部の人たちと一緒にやっているからですかね。

森山:どうだろうなあ。

細谷:金坂健二《ホップスコッチ(石けり)》とか、《にっぽん’69 セックス猟奇地帯》(中島貞夫監督、1969年)とか、アングラやいわゆる一般的ではない映画ですよね。

森山:かわなか(のぶひろ)さんが持ってきたんじゃないかなあ。僕らは《胎児が密猟する時》(1966年)だけを(若松プロダクションから)借りてましたんでね。映してるときの写真もたしかあったはず。「隠れ蜘蛛」の松島(捷)が一生懸命映してましたけどね。

小松:開催時間として記載されている午後6時から10時までの間に、ハプニングもあって、これだと……

森山:いや、この映画は全部は(上映)してないと思いますよ、時間的に。

黒川:会場は時間で借りているんですか。

森山:そうです。夕方から借りとんじゃないですかね。まあ準備やらあるから、昼から借りとったんかも知れんですけどね。

黒川:そういう事務的なことを〈蜘蛛〉が仕切ったんですか。

森山:そうです。だから、何かで田中幸人さんが、自分が会場を借りたって発言してるらしいんですけど、それは明らかに勘違いで。

小松:見には来たりするんですか。

森山:もちろん、そうでしょうね。ただ、(〈蜘蛛〉を)辞めてからは〈蜘蛛〉については一切、毎日(新聞)にも書かないって決めてですね。話によると、〈蜘蛛〉は書くなっていうような指令が言い継がれてたらしゅうて。だから裁判中も取材は一切なし。フクニチ(新聞)の深野さんだけ。よっぽど、あの「敵前逃亡」(と田中が〈蜘蛛〉を脱退する際に森山が言ったこと)が堪えたんでしょう(笑)。

小松:こういうビラ(「われらに血ぬられた風俗を!!」)は会場で配ったりするんですか。

森山:そうですね。配ったり、事前にあちこち貼って回ったりしてましたね。これ書くの、みんな加藤ですよ。

小松:文章はみんなで考えるけれども、書くのは。

森山:そうです。

黒川:このビラ(「アングラ映画とハプニングの夜」)も〈蜘蛛〉ですか。

森山:そうです。

黒川:「集団蜘蛛とゼロ次元の大激突!!」っていうキャッチコピーが、「竜虎相搏つ」みたいな(笑)。

森山:「窮鼠猫を噛む」じゃないですかね(笑)。やっぱ向こうは数が多いですからね、ケンカしましたけど、勝負にならんですよ。ただ、満座のなかでやるから、目立つは目立つし、負けた方がですね、格好いいわけですよ(笑)。

黒川:このとき知り合い以外の一般のお客さんも入ったんでしょうか。

森山:室内で入場料も取りますし、そんなに通行人が来るわけじゃないですけど。一応、〈蜘蛛〉でキップを売って回っているからですね。500円くらいだったと思うけど、大学関係やら、高校生やら何やら。

小松:この(観衆を写した)写真を見ると結構お客さんも入って。

森山:そうですね、これ、「隠れ蜘蛛」の松島(フィルムを映写している)。

小松:松島さんはいつ頃から協力してくれたんですか。

森山:(第3回)動向展の、菊畑さんが作った本(パンフレット)を売りにいったときからの知り合いで、あと、僕について回ってた。桜井さんはもっと前から知ってて。桜井さん、一時期教育大(福岡教育大学。当時の福岡学芸大学)におったことがあるんですよ。「オルグのため」とか言ってましたけど。(松島は)そんときの学生やったんでね。頭は切れるし、腕は立つし、アカデミックな描写なんかも抜群でですね。「それを鼻にかけるから絵がつまらんのだ」って、僕はボロクソ言うんですけどね(笑)。それにまた、ハリウッド俳優並みの男前なもんやから(笑)。

小松:(戸畑会場の写真を見ながら)このあたりのハプニングは覚えてますか。

森山:覚えてますね。ほとんど〈ゼロ次元〉のハプニングで、尾花さんやらも「お風呂」とかって言ってから出てますけど、役者として協力させられとるだけで。

黒川:このなかに森山さんもいらっしゃるんですか。

森山:いやいや、僕は〈ゼロ次元〉のあれには入ってません。主催者だからいろいろ仕事があってですね。照明もあるし、出演する人の世話やらもせないかんし。3人でやってますんでね(笑)。だからほとんど見とらんわけです。

細谷:このときは時間を決めて、この時間は何をやるっていうのは決まっていたんですか。

森山:一応、桜井さんやらと話して、例えば〈蜘蛛〉はいつやるとか、一緒に誰がやるとかっていうのは話しました。ただ、どのぐらいの長さになるか見当つかんからですね(笑)。だから「自分たちで希望を言うてくれ」みたいなかたちで、それを調整して回ったり、裏方の仕事が多かったもんやから。僕らがやったのは自分たちがやるのと(女性メンバーの剃毛ハプニング。『肉体のアナーキズム』、14頁参照)、あと僕がやったのは、ステージの上から日の丸の旗にションベンかけるのを(『機關16』、30頁参照)、「やれ」っちゅったら「やる」っていう子がおってですね。「大丈夫? 出るか?」ったら、「大丈夫。頑張る」とかってね。それこそ正面向いて、観客の方を見て。これ、出らんのよ(笑)。いつまで経っても出らん。みんなから「頑張れ」とか。名前もよく覚えてないんだけど、当時、加藤のところに、うちにもやけど、居候しとるのがおってですね。アフガニスタンにずっとおった、やっぱりヒッピーなんですけどね。それが北九州に流れ込んできて。僕らは面白がって、「アフガンちゃん」っちゅうて可愛いがりよったですけどね。それがマリファナを吸ってんですよね。で、かなりの時間、長いこと出らんでね(笑)。笑いの渦になって、最後チョロチョロっと出たとこで拍手喝采でさ(笑)。

一同:(爆笑)。

小松:もうひとつ、このとき森山さん、盗作版画を売ったんじゃないですか、100円で。

森山:ああ、うん。受付に置いとって、「100円」って書いてありますんでね。

小松:売れましたか。

森山:かなり売れましたよ。ただね、帰るとき見たら、ゴミ箱にボンボン捨ててあった(笑)。グシャグシャにして。菊畑さん、それ見てから情けないで、「あんなこと一生に一度の経験だ」って言ってましたけど(笑)。

小松:いよいよ、この〈蜘蛛〉のハプニング(『肉体のアナーキズム』、14頁参照)ですが、今まで着物とか浴衣姿が多かったんですけど、今度はシャツにネクタイですね。

森山:うん。もっと日常的な普通の人(の格好)でやろうっていうんで、下半身だけ脱いで。ちゃんとネクタイ締めてですね。こんときやっぱり〈ゼロ次元〉を意識して考えたんでしょうね。周りの壁にズラーッとポスター(全裸のポートレート版画)を貼り巡らしてですね。一種異様な雰囲気でしたよ。はじめは恥毛を剃るってことだったんですけどね。泣き出したもんやから(笑)。

小松:一応、事前に剃るところまで決めて、本人にも言ってあるんですよね。

森山:もちろん言ってありましたけど、満座の中で裸んなって、そんなんやから、やっぱ心境がね。想像を絶するっちゅうか、聞いて頭で考えとったのと実際のショックは違うでしょうしね。でも、当時はみなまだ脇毛を生やしてたんですよね。脇毛を剃ることにしようって急遽変えたんですけど、それも評判よかったですよ、ユーモアがあってから(笑)。そっちの方がよかったんかなとも思いますよ。やっぱり恥毛を剃るってのは、ひどすぎるんじゃないかっていう感じもしますもんね(笑)。

細谷:ある種のサディスティックなものをやるというのはあったんですか。

森山:うん、やっぱり「犯す」っていうようなコンセプトが、加藤(勲)なんかにはかなり強くあってですね。僕はもう少しユーモラスな、上半身ネクタイして下だけ裸になるっていうような、笑い誘うようなことのほうに興味がありましたけどね。

黒川:〈ゼロ次元〉を意識したのは、どのあたりですか。

森山:〈ゼロ次元〉もほら、背広着たりするから。あのほうが日常のなかに、なんかポッとエアポケットができるようで、面白いんじゃないかって思ったんですね。だから〈集団“へ”〉はすぐ全裸になるわけですけど、柳川の伝習館(高校)で、屋上で裸になったときも、〈へ〉の連中はみんな裸なんですよ。僕は下半身だけ下ろすみたいに(『肉体のアナーキズム』、452頁、fig.214参照)、それがやっぱあるんでしょうね。

黒川:日常のエアポケットという意味でいうと、入場料を取って屋内でやるのと、街中で突然やるのは、やっぱり違ってくると思うんですが、その辺の意識は何かありましたか。

森山:そうですね。やっぱ建物の中で同志が集まって観客を呼んでやるっていうのは、ある種の秘密の儀式みたいな、密教的なね。日常、街中でやるっていうのはまるっきりゲリラで、日常のど真ん中に裂け目を作るみたいなことなんでしょうけどね。

小松:日の丸の上でハプニングをやるっていうのも象徴的な。国家とか体制を犯すみたいな感じがあるんですか。

森山:そうですね。やっぱり天皇制の問題がありますしね。

細谷:そこはかなり意識してましたか。

森山:無意識に意識しとるみたいな。天皇制の問題は難しいですよ。国家っちゅうとわりとあれですけど、天皇制っちゅうと相当難しいですね。菊畑さんなんかとも、いろいろ話やらしてましたけど。天皇制反対っていう、わりと反体制運動のなかじゃ当り前みたいになってるところが、〈ベ平連〉であろうと、マルクシズムであろうと、みんなあるんでしょうけど。菊畑さんなんかは、もう少し複雑というか、反対って言って済む話じゃないし、みたいなところがあると思います。それは僕もわかります。

黒川:このとき森山さんとしては、政治的なことに片足を突っ込むというような意識はあったんでしょうか。

森山:ありますけどね。デモの頃からの経験則で言えばですね、僕のニヒリズムなんでしょうけど、やっぱり革命は難しいと。政治にどれだけ比重っていうか、夢を託すっちゅうか、やっぱ確信をもてないわけですよね。だからって芸術至上主義に安住するわけにはいかんし。結局、僕の体質もあるんでしょうけど、政治に片足を突っ込むことで、性と政治っていうか、エロチシズムの問題が出てくるんじゃないかって思うわけですね。大島渚なんかでもそうですけど。大島が扱っているのは、ただの政治じゃありませんのでね、性の問題が絡んでるから。だから、こういう日の丸だとか、エロスだとかをくっつけることをやるのは、やっぱり政治運動に対する失望感、敗北感みたいなものが根っこにあるんだと思います。

黒川:万博に向かっていくと同時に、この頃、社会は70年安保に向かって、学生運動もあったと思うんですけど、そのあたりはどのようにご覧になっていましたか。

森山:過激派の赤軍だとか、全共闘も含めてですけど、結局、敗れていくわけでしょ。あとは何もなかったみたいに、揺り戻しが来てしまうと。そういうのをずっと見てきてるもんだからですね。それからもっと先になれば、ソ連自体が崩壊して、革命幻想みたいなものが崩壊してしまうから、やっぱり幻想、あるいは幻影だと思うわけですよね。虚しいっていう言い方をするのも、ある種の敗北感っていうか。やっぱり、ずっと負けてきた歴史なんですよね、僕らが経験してきているのは。だからって私の師匠の久保田(済美)さんみたいに、芸術だけにですね(閉じこもるのは)、それもつまらないなあと思うし。僕にとっては、言葉が悪いですけど、政治だとか性の問題を抱え込むことで、自分を刺激してるみたいなところがあってですね。

黒川:森山さんにとって、性は政治を相対化するものなんですか。

森山:性の問題と政治の問題、そのメカニズムですけど、ずっと底まで下りていくと、つながってるみたいな、要するに、生命力の問題と権力の問題が根底にあるもんだからですね。そこに芸術表現っていうものがどれだけ力をもつのか、はじめから僕のなかには不信感っちゅうか、疑問があって。子どもの頃はただ絵を描きたいだけやったのが、歳を取るにつれて「なんで絵を描いてるんだろう」とか、「絵を描いてどうするつもりだ」とか、いろいろ考えるようになるわけですよね。でも、絵を手放すわけでもないし。僕は絵を手放したことは一回もないわけですよね。「絵を放棄した」みたいに言われますけどね。事実、何十年も描いとらんわけですし、〈蜘蛛〉の場合は、それこそ全部運動として否定するわけですけど。でも否定するっていう旗印をコンセプトとして掲げるのは、結局、芸術に幻想をもってるからなんですよね。その辺り矛盾してますけど、急に割り切れるもんじゃないんですよね。

黒川:ご自身の根っこには、絵描きという要素があると思われますか。

森山:あります。黒ダライ児が「森山は絵描きじゃない」ってから、本人に聞いたら「言ってない」って言ってるけど(笑)。そう言われたときも、絵を描かなくても絵描きだと言い張るっていうか。絵描きっちゅうときの範疇が、それぞれ違うんでしょうけども。今「アーティスト」って言ってしまえば、みんな一緒くたになるけど、僕らの世代っちゅうのは「絵描き」としか言いようがないわけで。事実、筆で平面に描くことの生理は、否定したことは一回もないですよ。そりゃ、面白いし。それで20年も(絵が)できなかったんですよ。20年もできんってこと自体が、放棄してないってことなんですよね。これも幻想なんでしょうけどね(笑)。

黒川:すいません、話の流れでひとつだけ。60年安保はどのように見ていましたか。

森山:若かったせいもあるんですけど、それから生活的にも、足立山におった乞食の時代ですからね。完全にドロップ・アウトしてたし。もちろん政治的にもですね。だから、働さんとよう話したけども、「お前、何しよった」って言うから、60年安保のとき。「俺はパチンコしよった」「俺もそうや」とか言ってね(笑)。特にデモに入って、っていう気にはならんやったですね。その前、2年ぐらい(1957~59年頃)八幡製鉄所の飯場におりましたけどね。そんときに見た社会っていうのは、八幡製鉄ですからね、政治やら社会やらのある意味で最先端だったんでしょうけど。労働運動はあってましたけど、僕らみたいな未組織労働者(笑)が入るような問題じゃなくてですね。ただ最下層の民衆の一人みたいな感じでしたから。そんとき体験したことは、ずっと大事やと思ってますけどね。僕みたいなのが大学行って、ちゃんと就職するはずもないわけで(笑)。

小松:戸畑文化ホールの夜は、森山さんの家にみんな集まって。

森山:終わってから1~2時間、うちで集会をやろうっちゅうんでね。うちは大きな家やけど、部屋が別々になってますんで、だから40~50人入るのは入ったんだけど、あっちでなんか言い、こっちでなんか言いやからさ(笑)。「総括する」とかって言ってね、〈ゼロ次元〉の誰やったかな、加藤(好弘)さん、いや、岩田信市さんやったかな、演説しよったのを覚えてるけど。

小松:それはどんな内容なんですか。

森山:覚えてない。ただ、そんときに〈九州派〉の宮﨑凖之助さんが、深野治さんが司会しよったんやけど、〈蜘蛛〉のハプニングと〈へ〉のハプニングの質の違いを、「〈集団“へ”〉のハプニングは農民一揆、土の匂いがする。〈蜘蛛〉の場合は都市犯罪だ」みたいなね。そういう都市民俗学みたいなこと言ってたのを覚えてるけど。

黒川:森山さんはその意見について、どう思いましたか。

森山:まったく同じ、そういうことだと思いますよ。(GALLERY)SOAPで展覧会やったり、講演会やったり、毛利(嘉孝)さんやら呼んでから、宮川(敬一)たちがしよるとき(「thinking on the borderland art talk session vol.3 森山安英―日常への抵抗―」、2008年3月23日)。北九大(北九州市立大学)の先生で、都市民俗学をやってる人がおるっちゅうんで、いっぺん呼びたいって話しとったけど、流れたみたいで。毎日新聞の東(靖晋)さん、東さんっちゅうのは、九大(九州大学)の有馬(学)さん、今(福岡市)博物館の館長ですかね、なんかと一緒に谷川健一のグループに入ってて、民俗学をやってる人やったから。その人の紹介で計画はしたんだけど、何かの理由で実現せんやったみたいね。〈蜘蛛〉と都市民俗学っていう視点は面白いと思うんだけどね。

小松:ほかにはどんな話し合いっていうか、飲んで(笑)。

森山:女房がしょうがないから、ご飯炊いて、おにぎりを何十個作ってから、配りよるのを覚えとるけど(笑)。酒出したら、わやになるけんが(笑)。あとは街に流れたんやないかな。向こうから来た人たちは福岡に宿を取ってましたんで、そのまま福岡に行ったと思いますけど。次に農民会館でやっとるでしょ(万博破壊九州大会、5月4日)。それに僕は(ハプニングには)参加してないんですよ。〈ゼロ次元〉やら「協力してくれ」って言うけど、僕ははじめから〈ゼロ次元〉とする気はないわけで断ってから。加藤と春元は手伝おうかっちゅって。それは〈ゼロ次元〉のアイディアなのか、桜井さんなのかわからんけども、肛門に薔薇の花を挿したりね。「あ~あ、痛いやろ」みたいな(笑)。

一同:(爆笑)。

森山:「そーっと挿せよ」って「何の話や」みたいな(笑)。女の子たちもいっぱい来とうでしょ。ただ笑うだけでさ。「どこが反博なんかい」って(笑)。

小松:福岡会場では参加しなかったということですが、写真に森山さんが何かやっているのが写っているような気がするんですけど。

森山:50年も経つと記憶が、あんまり人のことばっかり言えんので(笑)。

小松:新開さんたちが男性器をホースに直結させるっていう(『肉体のアナーキズム』、280頁、fig.101参照)。これ森山さんじゃないですか。

森山:(写真を見ながら)うーん、僕くさいなあ。僕ですね。参ったなあ(笑)。

一同:(笑)。

小松:むしろ、このホースのハプニングを新開さんたちに指示しているというか。

森山:そうですねえ。〈ゼロ次元〉のあれを断ったのは覚えてますけど、〈集団“へ”〉のは手伝ったんかな。

小松:内容は新開さんたちが考えるんですか。

森山:そうです。

小松:重要なのは、このあたりの時期で春元さんが脱退するというか。

森山:そうですね。この直後に「辞める」って言いましたね。

小松:理由とか、どんな感じでお辞めになったんですか。

森山:彼は訥弁だから、あんまり言葉で理路整然と、こういう理由で辞めるっていう言い方するようなタイプじゃないので、よく覚えてませんけど。やっぱり彼なりに「こんなことやっててどうなるんだろう」っていうような将来に対する不安だとか、自分の夢とのズレみたいなもんやら、感じてたんじゃないですかね。急に、これがつまらんから辞めた、みたいなことじゃなくて、ずっと考えてたと思いますよ。

小松:それを受けて、森山さんや加藤さんの反応は、「いいよ」っていう感じなんですか。

森山:そうですね。まあ、これは止めようがないし、仕方ないんだろうと思ってですね。あとは春元の、生活の問題がありましたんでね。その前にもいっぺん、(第3回)動向展の前(1969年2月以前)かな。僕んところから出て、佐賀に戻ったことがあるんですよね。「結婚する」っちゅうて。もう何年も付き合ってた女性がいて。8つ年上で、僕もよく知ってたから。春元がこっちで僕と同居してたから、彼女が来たりなんかして知ってるんですけど。僕は結婚に反対してですね。ズルズルになってたから、責任を取らないかんみたいなかたちで一緒になるような感じがあったから、やめた方がいいって。うちの女房も反対してたんですけど、それでも春元は押し切ってから、いっぺんは佐賀に戻ったんですよ。そしたら一週間ぐらい経ってから、福岡で動向展の話し合いがあったとき、いきなり会場に現れてですね、「結婚やめた」とか言って(笑)。「どうしたっちゃ」って聞いたら、彼女が「今から何をしてもいい」と。洋裁師で、洋裁教室か何かしてたんで、「私が食べさせていくから、ただ〈蜘蛛〉との関係だけは絶ってくれ」と。「森山との関係だけは絶ってくれ」と。「それ聞いてやめた」と。「復帰させてくれ」って言うてきて。その問題は棚上げにしてしまったんだけど、僕と春元との間でもタブーになってしまいまして。その話には触れんようにしてましたけど、何十年も経ってから、「実はまだ付き合っとる」ってからさ(笑)。それこそ2、30年経ってからの話だけどね。それとは別に、今度の場合は別の道を行きたいっていうことがあったんでしょうけど。たまたま〈九州派〉の米倉徳さんが福岡で仕事を紹介してくれて。看板屋ですけど、そこに住み込みでね。

小松:〈蜘蛛〉の活動からは、この時点で脱退していくんですね。代わりに(これまでハプニングに参加していた)女性を正式メンバーにするっていう話もあったんですか。

森山:もう反博の頃から正式メンバーとして、彼女は全部のイベントに参加してるからね。

小松:じゃあ、一時期は4人だったんですね、メンバーは。

森山:うん。反博のときは、こっちがスカウトして使ったんだけど。あとは自主的にメンバーに入って、っていうことだったですね。

黒川:その女性が発案したハプニングも何かあったんでしょうか。

森山:それはないですね。

黒川:演者としての関わりですね。

森山:そうです。だから「畸型三派」(1969年7月5日、小倉労働会館)やらにも、新開なんかと同じように一緒に参加してます。最後、伝習館(高校でのデモ)まで来てます。裁判になって降ろしたんです。

小松:その「畸型三派狂乱大集会」なんですけど、これは反博を受けて、今度は自分たちでやろうという意識で。

森山:うん。〈蜘蛛〉のイベントですね。〈集団“へ”〉と桜井さんは、「俺も入れてくれ」って入ってきたですけど(笑)。

小松:顔を白塗りにしているんですかね。

森山:そうですね。こんとき前貼りつけてね。ちょっと揉めたみたいだけど。桜井さんが「(全裸は)やめろ」って。労働会館っちゅうこともあって、ここで警察が入ると迷惑がかかる、みたいなことがいろいろあってから。

小松:もうすでに戸畑文化ホールという警察の近くでやってるんですけどね(笑)。

森山:そうそう。

黒川:戸畑文化ホールのときは意図的にその場所を押さえたんですか。

森山:自然の流れでっていうか、警察が近いぞ、構うもんかみたいな感じで。警察を狙って、っていうことではなかったですね(笑)。

細谷:桜井さんが前貼りを貼った方がいいって言ったんですか。

森山:だと思いますよ。桜井さんはやっぱ大人だから(笑)。事実、こんとき僕は狙われてましたんでね。尾行もついてたし。「逮捕する」って、向こうも言ってるわけですからね。逮捕されるのはまずいぞっていう判断が、桜井さんにあったと思いますよ。

細谷:公安がついてるなっていうのは、どのへんから感じているんですか。

森山:しょっちゅう、うちの周りにライトバンが停まっとったりするもんやから(笑)。現に戸畑のあれ(万博破壊九州大会)には私服(警官)がいっぱい入ってましたんでね。

細谷:「反博」っていうことですね。

森山:それもあるし、そこであんなハプニングをしてるわけですからね。

小松:それは森山さんだけじゃなく、ほかの桜井さんとかにも。

森山:当然でしょうね。(逮捕されて)向こう行ってから写真見せられて、「これ誰か、これ誰か」って言うんで、「知らん、知らん」って言ってますけど。「嘘言いなさんな」ってね。全部資料を持ってましたよ(笑)。知らんと言わないとね、新開たちは裁判所のすぐ近くにアパートを借りとって、マリファナを栽培しとんですからね(笑)。これ挙げられたら、やっかいなことになるからですね。

小松:このとき、「おおわれらがゼロ次元よ!!」っていうビラを作って、出演に〈ゼロ次元〉の名前を勝手に書き入れてるんですね。「万博破壊九州大会」をパロディ化するみたいな感じもあったんでしょうか。

森山:さっきも言ったように、茶化したりするのは、裁判でも何でもそうですけど、僕は無力感みたいなものが根底にあるもんだから、〈ゼロ次元〉であろうと運動であろうと、そういう目で見る癖があるわけでね(笑)。

黒川:いくつかあるグループのなかで、茶化す相手としては〈ゼロ次元〉がよかったということでしょうか。

森山:要するに、菊畑さんと一緒で(笑)。相手が大きい方がいいやみたいな。

細谷:加藤(好弘)さんや岩田さんが来たときに、議論というか、ぶつかったりとかは。

森山:戸畑のあと、福岡に移って集会をやるときに、〈告陰〉の末永蒼生さんとか、加藤好弘さんやら岩田信市さんやら、会場の問題でね。「捕まえさせるつもりか」みたいな言い方をしてきて、議論になりましたよ。「そんなんじゃないよ」って言い訳してたんですけど、桜井さんが「森山、遠慮するな。妥協するな、やれ」とかってけしかけたりしてね(笑)。だけど、はっきり言って、向こうが勝手に過剰反応しとるだけで、こっちはそんなつもりはないわけで。「そういうふうに過剰反応すること自体が滑稽だな」みたいなことを言うんだけど。末永さんなんか特に若かったしね(笑)。

細谷:〈ゼロ次元〉の行為とか、反博について、加藤好弘さんとぶつかる、あるいは議論したっていうのはありますか。

森山:全然ありませんでしたね。彼らはああいうふうにしてパターン化してから、形式としてやるんだっていうことに全然疑いも持ってないわけだし。それがくだらんとか、面白いとか言ったってしょうがない話なんで。特に〈ゼロ次元〉批判を僕らがもってるわけでもないし。ただ同調しないだけで。一緒にしないっていうのは、〈ハイレッド・センター〉なんかもそうですけど、マスコミ呼んで、要するに予定調和だと。そういうことはしないみたいな〈蜘蛛〉のやり方がありまして。はじめからカメラマンを置いて、記録することを前提にしてから。〈蜘蛛〉は全然違いますんでね。徹底的に、本当のハプニングだし、ゲリラだし。

黒川:〈蜘蛛〉のハプニングで様式、あるいは決めごと、記録を前提にしないとか、そういう方法論的なこととは別に、例えば小道具で反復的に使ったものとか、特にないですか。

森山:特にはありませんね。ただ、中村宏の影響もあるかもしれませんけど、セーラー服を使いたがるような傾向はありましたけども(笑)。

一同:(笑)。

小松:「畸型三派」で行進するときに、みんな「ゼロ次元」って書いた札を首から下げていますよね。

森山:〈ゼロ次元〉が来るって、金を取って嘘言っとるから(笑)。

一同:(爆笑)。

小松:パフォーマンスの動きも〈ゼロ次元〉をちょっと真似しようとしている感じが出てますけど。

森山:パロディって言うのもおこがましい(笑)。こういうときに〈集団“へ”〉は何十人も呼んでくるからですね、迫力あるわけですよ。〈蜘蛛〉だけで3人では見せ物にならんわけ(笑)。桜井さんなんかは大人っちゅうこともあるけど、面白がっとったですよ。「こいつら〈ゼロ次元〉をバカにしてから」って(笑)。

黒川:これは〈ゼロ次元〉のパロディみたいな意識なんですか。

森山:そうですね。ビラもそうですけど、「からかってやろうや」みたいな(笑)。パロディっちゅうよりもコケにしよるわけで(笑)。そのへんが、菊畑さんの「盗作版画」なんかもそうやけど、現代美術の最前線をコケにする、っていうような意図があるわけですよね。当時は前衛の最前線をコケにしたり、こちらとしてはアナクロニズムみたいなものを逆に使おうとしてるんですけど、そこらへんが誤解されたりはしてましたね。

黒川:顔の白塗りは何か意識したんでしょうか。

森山:土方(巽)やら、アングラのひとつの形式ではあったですからね。〈蜘蛛〉の場合は、それをはっきり風俗だと捉えて、茶化したりしてるわけですよね。

小松:頑張って逆立ちをする人がいるんですけど。

森山:片川(憲昭)ですね。サンフランシスコか、ロサンゼルスか知らんけど、柳(和?)さんと一緒に向こうに行って、写真やらなんかの仕事をしてて。いっぺんだけ、裁判中に帰ってきてから、うちに泊まったことあるけど。「あんたが好きそうなもん、持ってきてやったばい」ってから、当時はまだヘア解禁じゃなかったからね。その頃に金髪の、いっぱい持ってきてくれたことあったけど(笑)。

黒川:ドラッグに関心はなかったんですか。

森山:僕はなかったですね。新開から吸わされたりしましたけど、マリファナをですね。そんなに面白くもないし、酒の方がええやぐらいに思ってて。「隠れ蜘蛛」の松島なんか、異常に興味もってね、あいつはコソコソするのは好きなもんやから。だから、騙くらかしてやるっちゅうてから、「これドラッグだ」って言うて、バナナの皮を乾燥させて焼いたのを売りつけたことがあるけどね、「何もきかんやった」って(笑)。

小松:数人が台車に乗って、台車にも「ゼロ次元」って書いた札を貼ってあるんですけど。

森山:リヤカーですね。あれは土方のパロディやないですかね。暗黒舞踏で使ってたから。

小松:このあとすぐ、花束に糞便を付けて観客に向かって投げるんですが、ハプニングとしては一種類なんですかね。

森山:そうです。

小松:これ(糞便投げつけ)をやって、最後。

森山:あれ投げ始めたらどうもならんので(笑)。臭いしね。

黒川:これも悪戯系なので、森山さんの案ですか。

森山:そうですね(笑)。糞便を集めるのも、当時、水洗になっててなかなか取れんからですね。小倉城の公園の公衆便所に夜行って。バケツぶら下げてから、紐つけて、こうするけど(汲み上げる仕草)なかなか取れんでね、女性メンバーと二人でから「もう時間ないよ」とか言ってから(笑)。

黒川:それは前日の夜にやったんですか。

森山:前日の夜ですね。

細谷:その日はどこに置いたんですか(笑)。

森山:もう記憶ないね(笑)。

小松:最後、桜井さんが片づける写真(『機關16』、31頁参照)がありますけど、周りの反応というか、お客さんはどうでしたか。

森山:それこそ、うんざりっちゅうやつですよ(笑)。働さんが反対向きに座ってますよね(『機關16』、62頁参照)。働さんはステージの下の観客の方を向いて、ずーっと1時間か2時間、座ってるわけですね。働さんの場合は、〈蜘蛛〉が何をするか見届けるっていうような、ある種の使命感みたいなものがあったみたいですね。

小松:この辺までが反博と絡んだ動きなんですけど、最後、〈万博破壊共闘派〉のメンバーが逮捕されたりしたことに対して抗議のビラ(「今すぐあらゆる所で万博破壊の火の手を!!」)を。一方では「畸型三派」で茶化しているように見えて、このビラだと「共闘派」の一員みたいな。

森山:やっぱり逮捕されたりすればね。警察に対しては、そりゃあ、こういう姿勢を取らざるを得んでしょうね。これを茶化すわけにはいかんでしょう(笑)。

黒川:茶化すというかユーモアの要素は、森山さんのなかでハプニングをするときにどういう位置づけでしたか。

森山:〈蜘蛛〉の場合はそれがないと、刺激的で、ショッキングで、強いんだけど、単純すぎてつまらないっていう感じが僕にはあって。つまり、遊びの要素が入ってないとですね。余裕っちゅうか、そういう意識はあったでしょうね。だいたい〈蜘蛛〉のハプニングは時間的にも短いし、瞬間芸みたいなもんだからですね。それと、菊畑さんの贋作(盗作版画)でもそうだけど、そういうフェイクっていうか、どっかやっぱ滑稽でしょ。「犯す」とかそういうコンセプトはありますけど、やっぱり殺すまではいかないですね。殺人でも政治と性が絡んどるんでしょうけども、そのからくりを明らかにしたいだけで、殺すことが目的ではないみたいなね。だから、まあ、中南米のサッカーみたいなもんで、戦争を回避するための装置みたいなところがあるんじゃないですかね。

細谷:「畸型三派狂乱大集会」のとき《胎児が密猟する時》を上映しますよね。若松孝二さんの映画で、やっぱり性と政はひとつのテーマとしてあると思うんですけど、そこは何か共鳴するところってありましたか。

森山:そうですね、若松ファンでしたね。僕がファンやったもんやから、加藤やらも見るようになって。向こうに僕は誘われたんですよ。

細谷:パレスチナですか。

森山:そうそう(笑)。

一同:ええー。

細谷:誰から誘われたんですか。

森山:若松孝二さんですよ。裁判で証人に呼びましたんでね。終わってずっとあとから連絡を取ってましたんで。「足立(正生)やら行くから、行きませんか」みたいな(笑)。断りましたけどね。ちょっと僕とは違うなと思ってから。行っとったら、また全然違っとったでしょうね(笑)。

黒川:若松映画のなかで特に好きだったものはありますか。

森山:全部好きだったですけど、《胎児》の頃よりあとの《処女ゲバゲバ》(1969年)だとかね、《赤軍-PFLP・世界戦争宣言》(1971年)とか、あの辺の全部見てます。キャンペーンやって来ましたんでね、車に積んで(笑)。

細谷:「赤バス」ですね。

森山:そうそう。加藤は高倉健ばっかり、ヤクザ映画ばっかりやったけど、だんだん「あっちも面白いな」みたいに言い出してから。

黒川:春元さんはどうだったんですか。

森山:春元も僕が言ってから見るようになって、僕みたいにペラペラ喋る男じゃないんだけども、興味津々みたいやったですよ。

細谷:足立さんの《略称・連続射殺魔》(1969年)は関心をもたれたところはありましたか。

森山:そうですね。いつぐらいか、ちょっと記憶しませんけど、見ましたね。たしか、増永さんが上映会をやったんじゃないかな。このあいだ、宮川(敬一)たちがやったときも(注:「北九州国際ビエンナーレ’07」、2007年9月28日~10月31日、北九州市門司港地区で、9月29日に「幽閉者(テロリスト)」(2007年)の上映とシンポジウムを開催)、本人が来てから、見ましたけどね。その間、何十年も経ってるけど、やっぱり新鮮でしたね。

黒川:その元となっている事件(注:1968~69年に起きた永山則夫による連続射殺事件)についてはどうですか。

森山:あれは貧困の問題がありますしね。彼は中に入って(獄中で)勉強してから小説を書いてるでしょ。僕も読みましたけども。死刑はしょうがないですけど、制度の問題がありますから。でも、あの映画を足立さんが撮ったおかげで、救われとんじゃないですかね。あれはやっぱり歴史に残る映画だから。大島なんかとは別の意味でですね。

細谷:もう一人、年上になると思いますが、瓜生(うりゅう)良介さんが若松高校(福岡県立若松高等学校)で。

森山:はいはい。瓜生良介さんはですね、〈蜘蛛〉が3人になった頃ですかね、下関で(〈発見の会〉の)公演がありましてね。たしか佐藤重臣さんが下関出身やもんやから、彼の肝いりでやったんじゃないですかね。あれは何やったかな、「エンツェンスベルガーの政治と犯罪」(注:エンツェンスベルガー「政治と犯罪」よりの幻想、1968年11月26日、下関婦人会館か)っていうやつやないですかね。初めて見たアングラ芝居やったもんやから、ものすごく新鮮で、面白いでね(笑)。だからその後、働さんに「大牟田でもやらんか」って言ってですね。働さんが「よし、わかった」ってから、〈集団“へ”〉の連中と一緒に、大牟田の日吉神社っちゅうところで。例の僕らがデモをやったところ(注:デモは柳川の三柱神社の敷地内)ですけど(笑)。働さんのところにみな泊まり込んでですね、役者もなんも。あとで知ったんですけど、(北九州市)若松で、兄さんが瓜生……

細谷:正美さん。

森山:正しい演劇の御大将でね。「できの悪い弟」って言ってたけど(笑)。瓜生良介さん自身は、ションベン療法を広めるっちゅうてね。尿療法の本を書いたり、「あんたんとこ、九州支部にしてくれ」っちゅうてからさ(笑)。勝手に僕んとこを〈発見の会〉の九州支部にしてね。インドの方まで行ってたでしょ。「一緒に行かんか」とか、僕にはそんな誘いばっかりきてから(笑)。
その後、もう十何年になるか、いきなり電話がかかってきて、「今、働さん(の息子)のとこにおる」と。鹿児島とか沖縄の方から帰って、「今から行くから」って。終着駅の門司港の改札口に来てくれとかって(笑)。こっちから連絡の取りようがないから、行ったらおってから、「今日は金いっぱい持っとるから、飲み回ろう」ってね。それで船で(下関市)唐戸の方に渡って。壇ノ浦やら、あっちこっちで僕にポーズさせて写真を撮るわけよ。「あんた、何すると」って(笑)。「いつかのネタに撮っとく」とか言って、門司港のトイレとかね(笑)。そんなんして遊び回って、挙げ句の果てに夕方になってから、壇ノ浦の岸壁の飲み屋で飲み始めてさ。気がついたら船も汽車も何もないでね(笑)。どうしたかな、タクシーで小倉まで帰ってきたんかな。それでまた「ろぷろぷ」(北九州市小倉北区馬借のジャズバー)で飲んだくれてからさ。
向こうの勘違いだろうけど、なんか仲間意識をもってから(笑)。しょっちゅう言うてくるわけよ。尿療法には参ったけどね。ときどき来てから、講習会をやるわけよ。「場所を確保しとってくれ」とかって、たまったもんやないわけでね(笑)。客を集めてきてね、その前で飲むわけ。ガンにはならんけど、ほかのことで死んだんよ(注:2012年、肺炎のため死去)、あの人。

小松:先に進むと、ここからまた動きが変わってきて、「1969朝日西部美術展」(1969年10月21日~26日、福岡県文化会館)を粉砕したり、「可能性への意思」展(1970年2月26日~3月18日、北九州市立八幡美術館)を粉砕したり、今度は展覧会とかコンクールの粉砕に向かっていくような動きが見られます。出所は桜井さんなんですかね、朝日西部美術展粉砕なんかは。

森山:桜井さんでしょうね。〈蜘蛛〉は「賞金取ってくるならいいよ」みたいなところもありましたんでね(笑)。〈九州派〉のなかにはコンクールやら団体展の問題がずっとありましたけど、彼らも徹底してるわけじゃないんでですね。その問題は、ずっと桜井さんのなかでは引き続いていただろうし、あの人はヒッピーみたいになって、かなり早い時期にサンフランシスコなんか行ってますんでね。当然、そこでは制度の問題と反権力の問題が日常生活のなかであるわけでしょ。でも、コンクールを粉砕するっていうのは、ブームでもありましたよね。日宣美(日本宣伝美術会)から草月(フィルム・アート)フェスティヴァルから、その頃ですからね。
〈蜘蛛〉の場合は、どうしても許せんっていうようなことではありませんでしたけども。ただ、審査員に針生一郎さんが入っとるっていうんでね。「仲間じゃないか」っていうようなところが、桜井さんたちにはあったみたいで。浜田知明さんとかね(注:当初、審査員は針生一郎、浜田知明、河北倫明、斎藤義重。最終的に針生と斎藤は反対運動や体調不良を理由に辞退)。だから、団体交渉の場では浜田さんを吊るし上げに行った。かわいそうに、あのおじちゃん(笑)。桜井さんは演技でしょうけども、髪振り乱してから、「あなたは仲間と思ってたけど裏切った」みたいな言い方をね、芝居がかってからさ(笑)。さすがに針生さんも一生懸命言い訳してたけど、針生さんの言い訳が下手でね(笑)。「まだ地方がそこまでの段階に至っとらん、未熟だから」とか言うもんやけん、火に油を注ぐようになってね。結局は降りてしまったもんね。そんときは強行して、向こうは警察を呼んだりしたんだけど、次の年かな、桜井さんから聞いた話では朝日から「今後は(西部朝日美術展を)やめます。ごもっともでした」っていう手紙が来たって言うたけど(笑)。ほんとに来たのか僕は知らないですけど。

小松:朝日西部美術展は絵画とか彫刻とかのジャンルもなしにして、わりと現代アートに理解がある方だったんですけど、わざわざこのコンクールを狙うというのは。

森山:いやー、朝日(新聞)っていう権威ですよ。

小松:粉砕声明とは別に、「自分を作品として出品させろ」みたいな。

森山:それは、みんなあったんやないですかね。例えば、働さんは大牟田から石膏か何かのリンゴなんかを持ってきてから、出品の手続きとって、「やっぱりやめた」って持って帰る。して、また明くる日に持ってって、そういう行為を作品だって言って。受付はもう面倒くさがって(笑)。要するに、因縁つけよるわけよ(笑)。あるいは箱の中に入って「俺が作品だ」みたいな。それは桜井さんだったのかなあ。どれも似たようなもんで、「作品ってのはブツだけか」って言ってるわけで。

黒川:この朝日西部の粉砕は、桜井さんから声がかかったからという要素が大きいんですか。

森山:そうですよ。〈蜘蛛〉も朝日が相手ならよかろうっちゅうことで。

小松:桜井さんの場合は、本気で運動として制度改革を狙っていたのでしょうか。

森山:あったでしょうね。桜井さんっていうのは、かなり具体的に政治的で。労働組合出身だからっていうこともありますけど、制度を変えるっていう意識はかなり強くて。その辺は体質的に〈蜘蛛〉とはだいぶ違ってて。桜井さん自身、教養的にも日共(日本共産党)に近かったからですね。田部さんなんかもそうですよ。岩田屋の労働組合で日共の指導を受けてたからですね。日共とサルトルが一緒くたになっとるようなもんで。僕らの頃は、はっきり日共に幻滅してましたんでね。新左翼の方に近いもんだから。それで今泉(省彦)さんなんかを意識し始めたんですけど、ただ、もろ政治ですからね。成果がないと「負けだ」って総括するから。僕らからしてみたら、朝日をやっつけりゃ、それで目的に達するみたいな。だから、また次にやれば、また叩くだけの話で。

小松:朝日西部美術展粉砕が9月で、そのあと記録上の動きとしては1月まであまりないんですけど、こういった空いている期間はどんなことをしていたんでしょうか。絵画教室も並行してやっているわけですか。

森山:してましたけどね。もうスキャンダルで、あっちこっちクビになるっちゅうか(笑)。逮捕されたら全部ダメになりましたけど、その前からガタガタ状態だったですね。加藤も(1970年、八幡大学附属高校の美術教師を)クビになるしですね(注:形式的には依願退職)。加藤の場合は、相手がもろに雇い主だから(理事長から辞表提出を求められていた)、「〈蜘蛛〉を辞めろ。辞めんなら懲戒免職だ」と。懲戒免職になると退職金も出らんわけね。そこで「徹底的にやれ」っちゅう桜井さん……桜井さん、だいたいいつもそう言うんだけどさ(笑)。僕は板挟みになるわけで。結局、加藤の意向を聞いたら、「ここでそういう理由で辞めるのは……」。伊達男やから、格好いいっちゅうことが基準になっとるからさ(笑)。これは自分で決断できんなって思って、僕が(〈蜘蛛〉を)辞めさせたわけですよ。だから桜井さんから「お前が逃がした」って。逃がしたっちゅうたって(笑)。事実、奥さんの国籍(帰化申請)問題があってね。奥さんが中国籍、台湾やったかな。こっちで生まれて、こっちで育っとんだけど、当時はまだ、やかましゅうて。もう手続きを取ってたらしいんだけど、こういう問題が起こると許可されんみたいな。

黒川:森山さんはこの時期、生活はどうしていたんですか。

森山:いやー、語るも恥ずかしいっちゅうか(笑)。〈蜘蛛〉が始まってから、ろくに仕事せんのでね。女房に全部おんぶにだっこでね。それをまたメチャクチャするから、(子ども向けの絵画教室の)仕事がなくなっていくわけでさ。極めつけがわいせつ罪で、こりゃあ、幼児教育どうもなりませんよ(笑)。娘はずっとそれを見てきとるわけで。女房が死んだときに荒れてね。「あんたが殺した」っちゅうて(苦笑)。でも、うちの女房はスケールが大きいっちゅうか、腹が大きいっちゅうか、愚痴は一切言ったことがありません。

小松:「九州ルネッサンスのための大討論会」(1970年1月18日、農民会館/福岡市)というのがあるんですけど、「九州ルネッサンス」というのは「英雄たちの大祭典」とか「第4回九州・現代美術の動向展 コミュニケーションを問う」(1970年3月10日~15日、福岡県文化会館)、「可能性への意思」展粉砕とか、全部含めた総称みたいな感じなんですか。

森山:そうでしょうね。はじめから僕らは、これ自体を茶化してやろうっちゅうのがあってね。「隠れ蜘蛛」の松島がビラを作って回ったりして、「KYUSHU RENONSENSE(リ・ナンセンス)」みたいなコピー作ってからさ(笑)。あのときはファッション・ショーもやってたし、デザイナー中心みたいなところがあって(「英雄たちの大祭典」の命名はファッション・デザイナーの泉孝佳)。それから音楽も入れてた。そこまで当時の風俗のね、メディアを全部抱き込んでっていうのには〈蜘蛛〉は馴染まないっていうかさ。そういうのがあって、準備段階から衝突し始めてね。もちろん〈ゼロ次元〉とも衝突するし、最後は桜井さんともケンカになって。「邪魔するために参加しとんのか。何もやらんどって、ゴチャゴチャ足ばっかり引っ張って、雰囲気悪くするから、帰れ!」みたいなことを言うし。「じゃあ、やるか」みたいなかたちで、天神のハプニングを強行してるわけですね。その辺まではね、計画通りやってるわけですよ。だから桜井さんも知っとって乗るわけね(笑)。菊畑さんもそうですけど、〈九州派〉の人たち、特に桜井さんと菊畑さんっちゅうのはさ、何もかんもわかっとって芝居して、どっちが利用しとるかわからんようにしとるわけ(笑)。

小松:そのなかで、いよいよあの天神交差点でのハプニングです。

森山:(午後)5時に(博多)プレイランドを出発したのかな。ラッシュの頃。横断歩道、全部止まりましたもんね。(交差点の)真ん中を占拠してるから、電車も入ってこれんわけで。

小松:女性は着物みたいですね。

森山:彼女も自分で訪問着を着て来とるし。私は女房の訪問着、前、KBCで使ったときのを着てると思いますよ。いや、よく覚えてないですけどね。

黒川:このときは本気で性交しようと思ったんですか。

森山:そうです。したら、勃たんわけで。不安がなかったわけじゃないけども(笑)。

一同:(笑)。

黒川:このあと新開さんが旗を持って森山さんを応援して。

森山:うん。(日の丸の)旗持って跨がっとったから(『肉体のアナーキズム』、459頁参照)。そんなんは全然、予定に入っとらんやった。あれが勝手に上から。

小松:「万博粉砕 蜘蛛 〈へ〉」と書かれた横断幕を用意したのも〈へ〉ですか。

森山:これは〈へ〉ですね。

小松:意図がちょっとズレてるような。

森山:何でもよかったのよ、あの連中にしてみたら(笑)。

小松:これは警察が来たんですか。

森山:僕は行為中やからわからんですよ。ただ、新開たちと逃げる潮時は相談してました。逃げ場所も新開たちが用意してね。走っていく次の路地か何かに、新開のシンパのバーのマダムがおってね。高級バーやったよ(笑)。そこに逃げ込むようにね。(写真を見て)ああ、この靴も覚えとる。登山靴。これ危ないよね、タクシーが横を通りよるのに(『肉体のアナーキズム』、14頁参照)。こんなところに人がおるってタクシーの方も思わんだろうから。

小松:こうして、ついに雑誌(『週刊新潮』1970年3月21日号)に載って県外にも知られるようになっていくのはどうでしたか。

森山:僕は確信犯だから仕方ないんだけど、この子はまだ若いからね。全家族っちゅうか、兄さんやらなんやら、うちに押し掛けてきたりしたからね。僕が拉致しとるみたいにとって。だから、(雑誌に載った写真では)顔が判定できないから、ホッとしたってことですね。

小松:じゃあ、〈ゼロ次元〉みたいに雑誌に載って、宣伝されてよかったみたいな感覚はまったくないんですか。

森山:まあ、両方微妙なところでしょうね。僕はそれでいいわけですけど、この子のことを考えたらね。

黒川:このとき取材をするように、森山さんから声をかけたりっていうのは。

森山:全然ないですね。この人(平田実)が来てることも知らないし。山本太郎(注:記事に「カメラ」として記載されている平田の変名)って誰やっていう感じで。平田さんっていうのは最近まで知りませんでした。

小松:「英雄たちの大祭典」の方に取材に来てたってことですか。

森山:そうです。誰にも、桜井さんたちにも言ってませんのでね。それまで「出てこい」ってケンカ売ってね(笑)、桜井さんは「おお、見てやろう」みたいに言って出てきましたけど、何のことかわからんから。それで僕らバーっと〈へ〉の連中と出ましたので。ほかの東京から来た〈ゼロ次元〉の人やらは意味わからんから、全然来てないですよ。会場に残ったまま。

黒川:新開さんは事前に知っていたんですね。

森山:〈へ〉だけですね。このときはもう加藤を外してますんでね(注:実際、加藤は不参加だったが、この1970年2月時点ではまだ在籍)。私しかおらんわけで。

黒川:加藤さんはどの段階で外れたんでしたっけ。

森山:伝習館の柳川のデモに、2回行ってるわけですよ(1970年7月と11月)。1回目は7月か何かですよ、暑いときやったから。そんとき、加藤に「ついてこい」っちゅうて、連れて行きましたんで。「ここまで見届けろ」と。で、「辞めろ」と。それが最後ですね。

小松:同時並行して「九州ルネッサンス」でいろんなことが起きているんですけど、八幡美術館で「可能性への意志展」。これに対しても「調子よすぎるぜ!!」という反対のビラを出してますね。「自らの日常性を告発せよ」のビラは、実はうちの美術館(注:北九州市立美術館。前身は八幡美術館)に残っていたんですけど。「八幡美術館企画展粉砕声明」と(ビラの上部に手書きで)書いて、美術館側に見せているということですか。

森山:そうですね。これは加藤の字だな。

黒川:文案も加藤さんが中心だったんでしょうか。

森山:いや、僕だと思いますよ。僕の字は読めんから(笑)。加藤と春元がみんな書いてましたけど。

小松:あと美術館に「可能性への意志」展ファイルというのが残っていて、八幡美術館の玄関に「〆切」っていう紙が扉を塞ぐように貼られている写真が、何の説明もなく入っていたんですけど。要はこの展覧会に入れないように、誰かが勝手に貼ったんじゃないかと思うんです。「45.2.25(昭和45年2月25日)」ですから、展覧会開会前日の朝に。

森山:記憶がないから、僕がやったんではないな。この頃になると、「隠れ蜘蛛」の松島やら勝手にやってたからね。〈蜘蛛〉の名前において(笑)。

小松:打合せなしに各自がいろんなことを仕掛けて。

森山:そうそう。

小松:この「可能性への意志」展を粉砕しようというのは、さっきは朝日っていう権威でしたけど、美術館が作家を評価して権威化しているっていうことに対するものなんでしょうか(「可能性への意志」展は、美術館が特定の作家に呼びかけた展覧会であったため、声がかからなかった作家からの反発があった)。

森山:どうだろうね。もうこの頃になると何でもよかったみたいな気がするけど。例えばこのとき、田部光子さんやらを侮辱するようなことを書いてるけど。

小松:「調子よすぎるぜ!!」のビラに「居残った粉砕派は田部のおばちゃん唯一人だけ」。

森山:そう。「メンスがあがりかけての更年期前衛」とかデタラメ書いて、あれが怒ってからさ(笑)。もう茶番というか、同士討ちというか(笑)。美術館批判っていうよりも、唯々諾々と美術館ならありがたがって参加する作家側を問うとるようなところが。この前に集会があったわけですね。そんときに〈蜘蛛〉が参加しないっていう声明を出したとき、田部さんやらが、「朝日ならあれやけど、美術館がするのに文句つけるのはおかしい」みたいなことを言うから、「それ、どういうことや」ってケンカになったりしてましたね。だから仲間内での意趣返しみたいなところもあるしね。こうなったら泥仕合でさ(笑)。その頃から終末が近くなっていったんじゃないですかね。僕は死に場所を探しよったわけで(笑)。

小松:「可能性への意志」展とほとんど同時ですけど、「第4回九州・現代美術の動向展」については。

森山:会合でそれも不参加と。じゃなくて「許さん」っていう立場でしたからね。

小松:その「許さん」はどういう理由ですか。

森山:やる理由がないっていうことですね。

小松:じゃあ、会合だけに出て、出品はしていない。

森山:いやいや、「展覧会をやめろ」って言ってるわけです。

小松:仲間とも言えるような人のなかでどんどん対立を作っていくという。

森山:そうです。運動自体が自壊作用を起こしてるっていうか。崩壊の状況にあったんじゃないですかね。

小松:この辺りの時期で、どういうふうに終わるかっていう予想みたいなものはあったんですか。

森山:いやもう、僕が「逮捕されればいいんだろ」って腹をくくってましたよ。いつ、どういうふうに終わるかで、死に場所として伝習館を選んだわけです。確実に向こうも逮捕予告を出してるし、7月の段階で。11月のときは逮捕される準備してましたんでね。ただ、どの規模で逮捕するのか、新開も僕も一緒にやるのか、そういうのはわかりませんでしたのでね。僕はもう覚悟してました。新開は地元ですからね。田舎ちゅうのはどうなっとるかわからんから(笑)。それから、新開のお父さんは学校の先生ですからね(笑)。大変だったでしょう。

小松:森山さんの方から加藤さんに「〈蜘蛛〉を辞めろ」と言ったというお話がありましたが、それを受けてどうでしたか。

森山:やっぱり辛そうにしとったよ。加藤の方から依願退職しない限り、懲戒免職にするっていうことだから。このままだと懲戒免職になって、奥さんの国籍問題がダメになるっていう状況がありましたんで。

黒川:加藤さんについては、活動方針を巡って違いが出たというわけではなく、この問題があって、ということなんですか。

森山:実際にはいろいろありましたけども、一応これで筋を通そうっちゅうことでですね。

小松:高校の前で辞職勧告への抗議ビラを配ったり(1970年3月12日)してますけど、それは〈蜘蛛〉としての活動というより、個人としての加藤さんを助けたいということで。

森山:そういうことですね。実際問題として、僕はあとで考えて、正解だったと思いますよ。あのまま懲戒免職になったって、加藤の家族がひどい目に遭うだけで。勝利でも何でもないし。桜井さんたちは僕の裁判のときもそうやけど、「最高裁までやれ」やらね。「誰がやるんや」みたいな(笑)。ただ桜井さんは、僕が逮捕されたとき、話ではサンフランシスコに行くのに飛行機の準備までして東京に行っとって、逮捕されたっちゅうんで、中止して帰ってきたって。また「敵前逃亡」って言われる恐れがあってから(笑)。

小松:森山さんのなかで〈蜘蛛〉の運動と、生活者っていうか、実際の生活とか家庭っていうのは分けているということですかね。

森山:僕はもう白痴的に、そういう能力はなかったね。田部さんのあれ(田部光子オーラル・ヒストリー 2010年11月29日)で菊畑さんについて、指一本家族には触れさせない、運動ときれいに分けてって言ってますけど、僕にはその能力ははじめから欠落してましたね。だからもう、女房については、あの田部さんなんかも「すごい」って言ってましたよ。第一、生活のあれ(基盤)を全部壊されていきよるわけですからね。

小松:その死に場所として出てきた伝習館のデモというのは、新開さん経由で情報が入ってきたんですか。

森山:そうです。もちろん、伝習館問題は知ってましたし、新開たちとの関係も。海鳥社の西さんと、舞踏の原田(伸雄)さんっておるでしょ。あれと新開は、〈へ〉の連中、北島たちも含めて、みな伝習館の茅嶋先生の生徒なんですよ。

小松:森山さん自身は茅嶋先生と面識は、この時点ではないんですか。

森山:ありません。僕のとこにも伝習館闘争の本隊の方からいろんなビラも来てたし、カンパやらも来てたし、してたし。ただ、裁判で明らかになっていくけど、支援とは名ばかりでっちゅうか。デモは排除されんで行くわけですけど、実際には僕らみたいなのに先頭に立ってもらったら困るわけでさ(笑)。デモは労働組合ですからね。後ろからついて行く程度やけど、何の役にも立たんし(笑)。それどころか、おかしなハプニングしたりするもんだから、マスコミは喜んで書いたりするけども、運動主体に対してはマイナスに作用するっていう取られ方が一般的で。当然なんですけど。その時点では茅嶋さんも、三教師の半田(隆夫)さんと、もう一人誰やったかな。

細谷:山口(重人)さん。

森山:何も言ってきませんでしたけど、あとで茅嶋さんやらから聞いた話では、松下村塾をもじってね、柳下村塾っていうのを武田(柱二郎)さんってのがやっておられたんですけど。そっちの運動主体の方からは、「迷惑だ」みたいな声が出てたって言ってましたね。裁判では茅嶋さんが証人に立って、〈蜘蛛〉について、あるいは運動やらについての批判みたいなものがキチッと出て。やっぱり、すごい証言でしたよ。だから、大した裁判じゃなかったですけど、僕としては茅嶋さんの証人訊問があったから救われたみたいな感じがしますね。そりゃあ、若松さんやら深野さんやら、いろいろ言いますけど、それははじめからわかったことで、そう言うやろうと思ってたら、そう言いよるみたいな(笑)。はっきり言って、表現の自由の擁護なんですけどね。茅嶋さんはハプニング批判、つまり、表現とは何かっていうところまで踏み込んでるからですね。

黒川:伝習館の問題というのは、これに森山さんがこだわったというよりも、死に場所を探しているときに、この問題があったという感じなんでしょうか。

森山:そうなんです。「これで終われるなあ」と思いましたよ。はじめから伝習館を死に場所として考えてたわけじゃないんです(笑)。

小松:政治の場っていうものに対して、こだわりはありましたか。

森山:やっぱり、最後はそれを絡ませてと思ってましたね。ウンコをばら撒くんで終わったんじゃ、締まらんもんな(笑)。

一同:(笑)。

小松:7月の最初のデモに参加して何をやったかは覚えていらっしゃいますか。

森山:ほとんど覚えてないねえ。行列について回ったりなんかしたのは覚えてるけど。校門のところで、誰が用意したのか知らんけど、布団敷いてね(注:布団を用いたのは11月)。そこで寝転んだのは覚えてますね。デモの横ですからね。デモ隊も、うさんくさそうに横を通って行ったけど(笑)。

小松:7月の方は伝習館高校の屋上にのぼって垂れ幕を下ろしています(『肉体のアナーキズム』、452頁、fig.214参照)。写真が小さいんですけど、森山さんはどれなんですか(注:fig.214に記されたアルファベットのCが森山)。

森山:あちゃー、わからんなあ。

一同:(笑)

森山:これ、警察(の証拠)写真なんですよね。もう柳川の警察署は緩いっていうか、牧歌的っちゅうか。「証拠写真あるやろ。コピーしてくれ」って言ったら、「はい」って(笑)。働さんが呆れとった。「あらあ、脆弱な国家権力ばい」って(笑)。普通くれんですよ。

小松:このときに脱いで警告を受けているんですか、警察から。

森山:うん。(屋上から)下に降りてきて。(性器が)「見えた」「見えん」の話になるんですよね。3階かな、遠いですから。近所の時計屋のおじさんやら証人に出てから、「見えた」とか「見えん」とか、バカな話なんですよ(笑)。だから、2回目は何もしてないのよ。デモについて、ただ歩きよっただけ。

黒川:(性器を描いた)ムシロ旗を持った瞬間に連行されたんですか。

森山:うん。その旗が何やったかも知らんのよ。あとで証拠写真見せられたら、いかんやつやった。僕が作ったわけでもないし。女性が持っとってね。〈へ〉の若い連中でしょう。風の強い日でね、木枯らしが吹きよった頃やから。長い物干し竿やから、支えきれんで倒れかかったわけ。そのとき支えただけなんよね。

小松:当日は伝習館高校の文化祭だったんですよね。

森山:そうやったんかなあ。

小松:デモには結構、大勢集まってますよね。

森山:うん、やっぱり全国から来てるから。

小松:行進には最後に加わるっていう感じですか。

森山:そうですね。遠慮してから。やっぱり、ここは北九州じゃないですからね。新開のシマなんで(笑)。茅嶋さんに敬意を表して。

小松:全身に包帯を巻いた人がいますが。

森山:これ、誰かわからんやった。新聞にも載ったけどね(フクニチ新聞、1970年11月30日)。

小松:やっぱり〈集団“へ”〉の誰か。

森山:だろうと思いますよ。

小松:で、中央に布団(を置いて森山と女性メンバーが入っている)。

森山:オノ・ヨーコとジョン・レノン(の「ベッド・イン」パフォーマンス、1969年)のパクリじゃないですか(笑)

小松:そのあと森山さんが捕まえられて。

森山:とにかく逮捕されたときに、田部さんが至近距離におったのは覚えてる。「女房に電話して」って言ったら、(顔の前で激しく手を振りながら)「私は関係ない。知らんよ!」「お前なんだよ」って(笑)。もっとも、女房が来たから連絡はしたんだろうと思うけどね。女房は北九州からやから、すぐっちゅうわけにはいかんやった。次の日かなんか、来たのは来たけどね。

小松:警察の狙いは何だったんでしょうか。政治的なものに絡んでいるのか、「わいせつだ」って警告していたのにやったから捕まえたのか。反博の頃からずっとつけられているわけですからね。

森山:放っとくと警察の面子に関わるやろうし。

小松:死に場所を探していたとは言いつつ、あれで逮捕されるとは思わなかったですよね。「これをやったから、ついに逮捕された!」みたいなのがないままに。

森山:そうそう(笑)。だから、あれで逮捕せんと、また次まで待たないかんぞって向こうも思ったんやろ。

黒川:もうちょっとハプニング的なことをやって逮捕されようと思っていたんですか。

森山:いや、もうやる気なくなっとったね。飽きてた。やっぱプロの芸人じゃないからさ(笑)。生活もかかっとらんし、アホらしゅうなってきたっていうか(笑)。

黒川:このとき女性メンバーはまだいたんですか。

森山:いました。裁判になってからはまずいなと思って。そりゃあ、家族にも知れるし。

黒川:迷惑をかけるから、森山さんから辞めさせたということですね。

森山:そうです。そして、もうすることないんだから(笑)。裁判になって、弁護士ははっきりいって、議事進行係みたいなもんでね。手続きやら何やら、専門家じゃないとできないから。最初の弁護士は社会党系の、労働問題やら何やらの弁護士やった、戸畑の。どこから(話が)いったのか、たぶん深野さんやろうと思うけども、仕方なく引き受けたみたいなかたちやったんですけど。もちろん、アートもなんも興味もないような弁護士さんで。何回目かで「ちょっと僕は忙しい」とかって言い出してね(笑)。それで、葦書房の久本(三多)社長か、どこから来た話かわからないけど、そのとき九大(九州大学)出たばっかり、学生中に司法習生かな、試験を通ったっていう逸材がおってね。何人かで平和問題やら社会問題専門の弁護士事務所を設立したって、そこに話をもってった。で、引き受けてくれてね。
僕は裁判する気なんてその時点では何もないわけで。ただもう、状況が状況、極限状況で。身体も悪かったし、潰瘍がひどくてね。拘置所の中でもね、薬を女房に持ってきてもらって。あとまでのことは考えてなくて。中では「やっかいなやつが来た」っちゅうようなもんで。ヤクザもおるし、海苔業者でケンカしたのもおるし、そんなのいっぱいおってからさ、独房に入れられてね。独房に入れること自体が、特殊扱いされてるわけだから、周りが「あれ、何したんや」みたいなね。週に1回だけ、木曜日か、裏の空地に出してくれて、空地ったって5メートル四方ぐらいの場所ですけど。そこで「タバコ吸ってもいい」って。そんときヤクザが「何したんや」って言うけん、「こうこう、こうです」って言ったら、「偉いのお」ってね、尊敬されてからさ(笑)。

一同:(笑)。

黒川:思想犯として理解されたってことですかね。

森山:そうですね。タバコくれたりなんかしてね。週2回、風呂もあるんやけど、背中流してくれたりしてからさ(笑)。

細谷:取り調べでは〈集団蜘蛛〉について聞かれましたか。

森山:もちろん、そうです。メンバーについては黙秘と。やってることやらについては、全部喋ってますんでね。確信犯ですから。「俺は間違ってない」っていうようなことを言ってるわけで。ただ、そんなもん何もならんってことを向こうは知っとるわけで。検事からいろいろ聞かれてね。そんときに写真やらダーッと並べて、桜井さんやら新開たちも、みんなおるわけ。「知らん。見たこともない」とかって(笑)。「あんたも一緒に写っとる!」「飲み屋の流れで一緒になったんやないか」とか言って。

小松:そういう活動の内容は、向こうはどのぐらい理解というか、調べていたとはいえ、どういう意義をもっているとか、わかっているんでしょうか。

森山:彼らは警察ですからね。そんなことはどうでもいいわけで。それから体質として、いくら反対してもそれが通ることはないっていう気があって、「無駄なことするな」って顔つきをしてました。

小松:じゃあ、少なくとも取り調べている人は、単にわいせつ事件として解決したいという。

森山:そうです。ただ、一応、公安から来てる事件だからですね。その辺はかなり、どうでもいいっちゅう感じじゃなくて、やかましかったですね。こっちがやってることを全部認めるもんやから、向こうは拍子抜けしてましたけどね。

小松:全部認めるというのは、闘おうとか、さらに延ばそうとかではなく。

森山:闘うような相手じゃないわけ(笑)。

小松:「終わった」って、ホッとした面もありましたか。

森山:ありましたね、やっぱり。あと「いつ出してくれるんかな」っていう(笑)。向こうも「これ、どうもならんわ」みたいなもんで、叩いてホコリ出てこんし。ホコリったって、罰金刑が決まっとるわけで、略式でね。面会は認めませんでしたけど、女房が差し入れやら来るでしょ。上手いこと言うたんだろうと思います。「もう済んだから、お金を払いなさい」と。女房はわからんから払ってる。払った時点でもう(わいせつ罪は確定している)。

小松:外からの情報というのは。

森山:全然なし。面会も許さんし。

小松:急に釈放ってなるわけですか。

森山:そうです。「ああ、そうですか」って言って出てきたのよ。で、女房が待っとって、「農民会館で集会やっとる」って。顔出さんわけにはいかんから、先に帰らせて、博多駅で降りて農民会館行ったら、いっぱいおってからさ。で、喧々諤々やっとるわけ。もう夜やったけどね。「森山奪還闘争」って書いてあるからね。それにノコノコ出てきて、「よお」とか言ってからさ(笑)。

一同:(笑)。

森山:「おお、俺にもタバコ吸わせろ」「酒飲ませろ」みたいな。オチが怒ってね。「ノコノコ出てきやがって! もっかい入ってこい!」って(笑)。「俺らはお前のために連日連夜しよんのに」ってから、「ごめんなさい」って言うしかない(笑)。向こうは弁護士に誰立てるとか何とか、準備しよったんやろうからさ。で、深野さんが「公判にもち込めば覆せるから」っちゅって。それからまた大変たい。「しょうがねえなあ」と思ったけどさ。

黒川:森山さんとしては「しょうがねえなあ」っていう感じだったんですか。

森山:そうですよ。もう闘う気はないし(笑)。だって、100パーセント有罪になるの決まっとるし、本人が認めとるんでさ(笑)。闘うったって、それこそ芸術裁判しかないわけで。それも無罪になった例なんかないんでね。武智鉄二のとき(1965年の武智監督《黒い雪》のわいせつ性を巡る裁判。いわゆる「黒い雪事件」)だけが、映倫(管理委員会の審査通過)を前提として(いたため、製作者に犯意はなかった)ってことになっとるけど、あとはみんな有罪だし。

小松:その会合にはどんな人がいたんですか。

森山:オールキャストですよ。それこそ〈ベ平連〉からね。見たことない人も入っとるわけで。

細谷:政治運動の人たちもいるし、かたや〈九州派〉の人もいるし。

森山:そうです。伝習館関係の人もおるし、それこそ一般市民もおるし。もちろん絵描きさんたちもおるし、みたいなかたちで。指揮をとってたのは深野さんで。田部さんやらオチやらが強硬派で、「闘え」っていう方でね。僕が「もう嫌だ。せん」って言やあ、それで済んだんですけど、「それじゃあ、この人たちが収まらんな」みたいな感じがあって(笑)。(不服申立をする期限まで)1週間余裕がありましてね。特別弁護人を誰がするかでね、早い話がそれしかないんですよ。弁護士は法的なあれ(手続き)するだけで。こちら側の主張を繰り広げて、(赤瀬川)原平さんたちみたいにやろうとしたら、特別弁護人と証人しかないわけで。証人は誰でもOKしてくれるけど、特別弁護人はそういうわけにはいかんから、大変でね。ましてや孤立無援でやらないかんのだから、被告より大変なんで。働さんしかおらんな、っていうんでね。オチやら田部さんやら、実際のところ何もしやせんのやから(笑)。文章を書くのだって大変なんだからね。働さん抜きにはあり得んやった。

細谷:森山さんの方から働さんに話を。

森山:まあ、働さんから言い出したんやないかな。「俺がやるしかない」っちゅうことでね。「しょうがない。引き受けようか」っちゅうのが本当のところでね。菊畑さんなんか、その前からも相談してたけど、僕の気持ちやらみな知っとるわけ。「お前もひどいことになったな」みたいな。自作自演ちゅうか、「自分でシナリオ書いて、楽しむしかないぞ。俺は向かないから協力できないけど」っちゅうようなことを手紙に書いてきとった。その時点で、証人を誰にするかっちゅうことやらもね、オチやら深野さんやらが、上野英信さんに打診してるわけ。それは僕がいないときからやってるわけでね。えらい恥かいた。

小松:不服申立直後に作られたビラに、特別弁護人を働さん以外の方にやってくれないかっていうビラもあるんですけど、そのなかに上野英信さん、赤瀬川さん、針生一郎さん、〈ゼロ次元〉の加藤さん、末永蒼生さんとか。この辺は全然ご本人の意図とは関係なく。

森山:知らないもん(笑)。原平さんやら、おそらく返事もなかったんやないの? こういうことがあってることも知らないだろうし。

黒川:やっぱり万が一にも判決を覆すとしたら、芸術裁判にもっていくしかないんですかね。

森山:そういうことでしょうね。微妙なんだけど、これは言葉の綾でね。深野さんやら田部さんやら、働さんも結局は芸術表現だっていうことを言って、当然、無罪を主張するわけです。僕は「意味がない、くだらん。それじゃ闘えない」って思ってるけども、何だろうね。僕としても普通の行為じゃないことはわかってるわけで、何が芸術かっていうところまで踏み込まないと、そこが明らかにならないわけですよね。例えばですけど、芸術を否定するアクションなり、パフォーマンスなり、それも芸術だって言えばね、表現の自由の範疇に入るだろうけど。そんなもんが裁判の土俵で通るわけがないんだよな。だから、無罪を(主張する)っていうかたちで、いろんなことを展開していくのは、ほとんど僕は無益だ、意味がないって判断したわけですよ。これはもう「ふざけ散らかすぞ」と。もちろん、有罪で結構と。あるいは、有罪を望むと。その時点で、オチやら田部さんやらの支援団体の人とは、つながらなくなってしまって。「こんなのをなんで支援せないかんの」って(笑)。あとは顰蹙を買うばっかりでね。だから、誰も判決公判なんか来てませんよ。特にオチやら田部さんやら、当時の(森山裁判)実行委員はさ、最初の一回と深野さん(の証言)だけ。あと公判は何回もありましたけど、新開たちと働さん近辺の詩人とかがたまに来たりするだけで。

黒川:〈べ平連〉とか、そういった人たちも来なくなった。

森山:もちろん。深野さんの(証言の)時点で、僕らが、働さんも含めてやけど、対立したわけですよね。「表現の自由で、芸術だから無罪っていう言い方はダメだ」みたいに言って。深野さんなんかは相当気分悪うしたと思うよ。証人として出てやっとるのに、ありがたがりもせんで批判して(笑)。それからあと絶縁状態になってしまって。気持ちはわかるんだけど。菊畑さんやら「あの連中は騒げりゃいいんだからさ(笑)。そのうち熱が冷めるよ」とか言ってましたけど、案の定、その通りになりましたけどね。菊畑さんはそこまで見たうえで、自分の手に負えないっちゅうんで、退いとるんですけどね。今考えれば、あの闘いはほとんど働さんの力です。働さんが「できない」って言われたときには、あれは終わっとるわけで。僕は看板ですから、裁判をふざけ散らかして、コケにするっちゅうしかないわけでね。そんなかに最終的には働さん、特別弁護人も入ってきたわけよ(笑)。そりゃあしょうがない、制度ですからね。だから僕の最終意見陳述っちゅうのはメチャクチャでね。支援者から弁護人から、当たり散らしてるようなもんで(笑)。

細谷:裁判の仕組み自体を茶化す、相対化していくみたいな。

森山:それしか方法がないっていう。ただ、それにしても無残ではありましたよ(笑)。金も何十万とかかってますんでね。最初の弁護士は普通の弁護士さんやから、ちゃんと払わないかん。払えんからね、「絵で堪えてもらえんやろか」って言ったらさ、「森山さんの絵っちゅうのは珍しいですな、貴重なもんですな」とか言ってね(笑)。芸術を否定しとる人の絵は珍しいからって。ところが、僕は絵を全然描いてないわけ。働さんとこ行ってね。あの人は器用な人で、売り絵も描けるしっちゅうんでから。ときどき生活の糧っちゅうか、飲み代がわりに個展してたんですよ。大牟田のデパートか何かで。そこ行ってからさ、「この絵、俺にカンパしてくれんかな」って言ったら、「いいよ。どうするんかい」って言うから、「弁護士が絵をくれっち言うけど、俺、描きよらんから、俺のサイン入れてから渡すけん、いいかな」って言ったら、「よかよか」っちゅうけん、「働」を消して「森山」って書いてね、持ってったら喜んで(笑)。二番目の九大の人たちも金に困っとるわけで。金のない裁判ばっかり引き受けて。「国民救援会」やらっちゅうのがあって、そこに属してて。美奈川成章さんっていうんだけど。「火星ちゃん(注:わちさんぺいの漫画『火星ちゃん』の主人公。常陸宮正仁親王の愛称)」っちゅうて、天皇陛下の弟やったんかな、義宮(常陸宮)っていうのによう似とってね。「火星ちゃん、火星ちゃん」って僕らからかいよったけどさ。真面目な人でね。三池の炭塵爆発(1963年11月9日、三井三池三川坑炭塵大爆発)の長期にわたった裁判の弁護士を最後まで引き受けて。何十年かあとにテレビで見ましたけど。あの人たちも金に困ってて、何とか工面して10万円持ってって、「これで堪えて下さい」って言ったら、「ありがとうございます!」とかって(笑)。裁判長もね、ずっとあとになってから、福岡で全国初めてのセクハラ裁判(1992年4月16日、福岡セクシャル・ハラスメント事件)に関わってた、人権派の岡村道代さん。

細谷:八千草薫さん似の。

森山:そうそう。だから、楽しい裁判でしたけどね(笑)。で、彼女が転勤になると。「続けるならほかの裁判官に代わる」っちゅうんで、「やめます」と。岡村さんに「判決出して下さい」とかってね、バカげた話(笑)。

小松:その方が異動しなかったら、ずっと続けていた可能性はありますか。

森山:いやあ、もう証人がおりませんのでね。証人なしじゃ、公判を維持できないんですよね。

小松:最後が若松孝二さんだったんですね。

森山:若松さんも、金を一銭も払わんのに来てくれてからさ。焼酎は飲ませるけど、あとは飯も食わせんでさ、「割り勘です」みたいな(笑)。第一、新開たちのところに転がりこんでるからね。3日ぐらい付き合ってくれたかな。

小松:若松さんの前に、実際に逮捕した警察官を証人に呼んでいますが、弁護側が逮捕した人を呼ぶっていうのは、なかなか面白いんですけど(笑)。

森山:まあ、儀式だからさ。勝手にそういうふうにするって言えば、「どうぞ」っていうようなもんでさ。僕は座らされとるだけやから。

黒川:それは弁護士のアイディアなんですか。

森山:そうです。

小松:その警察の方もよく引き受けてくれましたね。

森山:柳川よ、やっぱ(笑)。ただ、3年っちゃあ長いですからね(注:1973年9月最終公判。「公然わいせつ、わいせつ図画公然陳列」により罰金3万円)。最後に深野さんから「控訴審をどうするか」みたいに言われて、断って。「絵描きに戻る」みたいなことを言って、やめたんですけど。一般的には不毛っていうか、そういうネガティヴな捉え方は僕もわかるんですけど、僕個人で言えば、「あのまま逮捕されんやったら、どうなったやろか」とか、いろいろ考えるわけね。「あんなもん、続けてもどうしようもない」っていうのもあるし、「もうできない」っていうのがあるし。それから、裁判のおかげでいろいろ勉強もさせられたし、けじめもついたしっていうんで。とはいっても、すぐ絵描きに戻れるわけでもなくて、それから十何年もかかりましたけども、僕としては、やっぱりやってよかったんやないかなと思いますよ。重苦しい、苦い思い出ばっかりだけども、あれをやったあとでないと、どういう絵を描くのかっていう……何も出てこなかったと思いますね。具体的なきっかけは、菊畑さんのあれ(「反芸術綺談」新聞連載、1982年)で引きずり出されたっちゅうことがありますけど。ああいった(《アルミナ頌》以降の)絵を描くには、あれだけの時間かかったんだなと思いますよ。

細谷:せっかくなので、これからの制作活動についてもお聞きできたらと思います。

森山:今、被爆者の(遺品の)ね、石内都さんっていう写真家の写真集(『ひろしま』集英社、2008年)を見て、加藤典洋との対談やら読んで面白いと思って、これ引用しようと思ってね。ちっちゃい写真を100号大に拡大するから、もう半年かかっとうけど、まだできあがっとらんのやけども。これ、エロ写真と違いますんで(笑)。れっきとした芸術ですし。写真家の石内さんの作品ですしね。ゴッホが浮世絵を描いたみたいにはいかんわけですね。あれは自由模写ですけど。表紙になってたスカートの絵なんですよ。被爆者のスカートやから、もちろんしわくちゃなんだけど、しわを描くのがねえ、受験生じゃないんだから、今さらね、みたいな(笑)。西洋美術っていうのは、衣服のしわの技術から発達したんやないかっちゅうほど、ものすごい技術なんですよね、徒弟制度ですから。それを受験勉強もしたことない落ちこぼれの絵描きが、ちょっと大変でした(笑)。
僕は今描いてるこの絵が最後だなと思ってます。普通の絵を愛おしむように描いていきたいと思ってるだけですね。ただ、普通の絵っちゅうのが「ひろしま」やったっていうのが、どういうことなんかなと思いますけどね。石内さんの作品やら、写真集が美しかったっちゅうことがありますけど。具体的には、そのまま写してるだけじゃなくて、自分の絵にしてますけど。精密に拡大して、窓ガラスにプロジェクターで投射したようなかたちの絵になりつつあるんですけどね。

黒川:決して石内さんを茶化しているわけじゃないんですよね(笑)。

森山:全然違いますね。その辺はちょっと変わったんじゃないですかね。だから失礼にならんように。もちろん本物にはかなわないけど、(見て写しているのは)印刷ですからね、色も違うだろうし。加藤典洋との対談でも「オリジナルプリントはすごい」って言ってて、見たいなって思うんだけども、見たって写真の通りになるわけじゃないし。石内さんの写真に感動して、それを引用させてもらったっていうだけで、僕はいいわけですから。技術的には難しかったです(笑)。

小松:2日間にわたって、ありがとうございました。

森山:ありがとうございました。