池上:それでは、中川衣子さんに二回目のインタヴューを行います。
中川衣子(以下、衣子):「衣(きぬ)」っていう名前はね、京都で生まれたけど、実家が五郎兵衛さんの神戸だからね、籍を入れるのは神戸で。そのときに五郎兵衛さんが「女の子に『子』は不必要だ」と。せっかく華岳夫婦が私につけた名前を、五郎兵衛さんが「子」を消しちゃったの。
池上:ご両親がつけたお名前は「衣子」さんで、「子」は必要ないということで戸籍上だけ「衣(きぬ)」というふうに。
衣子:そうそう。
中川直人(以下、直人):京都は染織、衣(ころも)の町でしょ、それだから衣(きぬ)ってつけたんでしょ。
衣子:かもね。お父さんはその方が綺麗と思ったんよ。でも五郎兵衛さんはだめやった。
直人:「中川衣子」の方が僕はいいと思うけどね。
池上:素敵な響きですよね。
直人:「中川衣」っていうと何となく、ちょっときついね。
衣子:だけど戸籍は、五郎兵衛さんが京都から預かって役所へ行くときに、勝手に「子」を消しちゃった。(華岳は) 怒ってたけどね。
直人:さっき、この絵のこと話してたんだけども。(注:《冬の山》、1935年、『村上華岳』展図録、京都国立近代美術館、2005年、186頁。以下、「図録」と記す)。
衣子:ちょっと(印刷が)黄色っぽいね、これ。
直人:ちょっと黄色っぽい。この白のね。
衣子:こんな真っ白じゃなくて。
飯尾:昭和10年。
衣子:筆が滑りやすいのかな。
直人:この絵を見るとね…… いかにも冬の山を抽象化された感じで。
衣子:木枯らしが吹いている感じやね。
直人:素晴らしいよ、ほんとに。何度見ても素晴らしい。こういうリズムのある線は、中国とか日本の絵にも絶対に見られないですよ。この辺が華岳さんの近代性っていうのかな、本当に感じますよね。音楽的に捉えてるでしょ。華岳さんが『画論』で言っているのは、ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452-1519年)が《モナリザ》を描いていたときに、隣の部屋で、静かに音楽家が何かを弾いていたんですよね。静かに。華岳さんはその例をとって、一枚の絵を見るときに、「ひとつのいい音楽を鳴らしてごらん」って。
衣子:やってました。
直人:やってたでしょ。音楽とイメージが一致すると、それは非常にすばらしいと自分は思う、ということを書いておられましたね。
池上:本当にカンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866-1944年)のような。
衣子:機嫌のいいときに。
直人:機嫌のいいとき。ああ、そう。どんな音楽だったの。
衣子:そうねぇ、ドビュッシー(Claude Achille Debussy、1862-1918年)の「海」とか。一人でおるときに、ベッドの上でその音楽でこういう風になんかやって「機嫌がいいんだな」と思って。
直人:お母さんね、この絵みるとね、中国の唐紙でしょ。黄色いやつでしょ。
衣子:これは黄色い紙。
直人:これが非常にブルーに見えるんだけどね。墨にブルーを入れているのかしら。あるいはそういう墨を持っていたのかな。
衣子:そういうのは、母がお皿に命令通り溶いて。それが手助けの大事な要素やったね。
直人:これ(《冬嶽図》、2005年図録、215番、207頁)は1937年。この作品もすごいですよ。筆の動き見て、これ。
衣子:むちゃくちゃみたいね。
直人:むちゃくちゃな線なんだけども、僕の大親友で、アメリカでは非常に尊敬されている作家でね、ジェイク・バーソート(Jake Berthot)っているんですよ、彼にこの本もあげたんだけれども、非常に傾倒しているんですよ、華岳さんに。「こんな絵を描く人は、僕は今まで知らなかった」って。ジェイクさんの作品見てごらん。彼はこういうことを一生懸命やろうとしている作家なの、ずっと前から。ところがこれを見てね、大ショックしているの。こんなことをしていた作家がいるとは知らなかったみたい。僕のスタジオによく来てね。華岳の絵たくさんあるでしょ、本なんか。それを見ながらね、“This is incredible! ”って、 2時間くらいこうして研究しとんねん。
衣子:聴濤先生(聴濤襄治、1923-2008年)もこういうのを見たら、どっちかいうたら抽象の世界でしょ。あの先生とはなんか通じるとこあったんやね。
直人:こういうダイナミックな線とか、責任感のないような点があるでしょ。ポンポンと。これは近代的な考え方の作家しかできないよ。これなんかもすごいでしょ(《山嶽図》、1938年)。ほんとにすごい作品だと思う。何を考えているんかなと思うぐらい不思議な作家やね、この人は。日本にも中国にもこういう線を描いた人はいません。面白い人だ。
飯尾:「線は人格の現れである」ということも画論の中で語ってらっしゃいますし、線ということに関して非常にこだわってらっしゃった、ということは言えるんでしょうか。
直人:彼はね、「東洋の表現描写は線の描写である」と言ってましたよね。彼はウィリアム・ブレイク(William Blake、1757-1827年)だとか、素晴らしい西洋の作家も好きなんだけど、「私はだんだんと、東洋のこういう線の絵が非常にありがたいと考えるようになりました」って言うてね。
飯尾:先程の紙の話ですけれども。にじみの少ないアート紙のようなものを使ってらっしゃったりですとか、唐紙にわざとにじませて描いたりですとか、そういうのは自分の表現の方向によって使い分けてらっしゃったんでしょうか。
衣子:これはやっぱり、この紙が上等の紙と違うから、こういう風に、にじんで出てくる。
直人:でも彼は狙っているわけよ。そうでしょ。いろんなことしているんですよね、この人。いろんな実験してるんだよね。
衣子:生きてたら仲良くなれそうだな。
直人:僕と? そりゃそうだよ。僕と比べたら、華岳さんの方が遥かに上だから、喧嘩にならへんねん、これ。
衣子:でもおこりんぼのところが似ている。
直人:そうですか(笑)。僕はそんなに怒らへんよ。
飯尾:ひとつお伺いしたかった作品がありまして、この《紅葉の山》(1939年、図録245頁)という作品なんですが。これは珍しく赤を、朱をわりと使っていらっしゃって。ほんとに最晩年の作品なんですが。他の山の絵と少し趣の異なるような印象を受けるんですが。
直人:これ1939年でしょ、華岳さんが亡くなられた年ですよね。これ見るとね、抽象表現主義者たちのやったような、非常に表面的な絵で。上から下にずーっといくと、奥行きがあんまりないんですよ。いわば、ロスコ(Mark Rothco、1903-1970年)みたいな作品よ、これ。分かる?
池上:そうですよね。色面がちょっと浮いてくるような感じで。
直人:そう。線がきちっと入ってね。面白い作品だと思ったよ。
飯尾:この作品を制作されているときのエピソードですとか、思い出、印象などは。
直人:あなたが17歳の時だ。
衣子:出来た時しか見せないからねぇ。
飯尾:こちらが最後の作品と……
衣子:やっぱり家に置いときたかった。ほんとに自分の快心の作は常に見ていたいから。
直人:そうでしょうね、それは僕と一緒です。売りたくない作品があるんですよね。売った作品もあるけれども、僕自身も「売らなければよかった、ちょっと失敗した」いう作品が何点か。
池上:ではこの《紅葉の山》は本当に快心の作で、手元に置かれていた作品なんですね。
直人:あの安い、黄色い紙に描いてる。
衣子:ほんとに安もんの紙。
池上:アート紙っていうのも、高価ではないんですか。そのにじまない方の。
直人:あれも安い紙だろうな。
衣子:アート紙? あれも安いと思う。
飯尾:普通の紙ですね。伺った話で、華岳画伯は何枚も描きかけの絵をアトリエにかけていらして、眺めながら少しずつ手を入れていかれたと聞いたことがあるんですが。そういうような制作、アトリエっていうのはそういう何枚も描きかけの絵が……
衣子:アトリエって言うほどのもんじゃないですけどね。アトリエみたいなん、持ってないもの。
直人:どういうこと、それは。ただ家の一室で?
衣子:そうそう。
直人:自分の瞑想する部屋と、絵を描く部屋と隣同士、っていう感じ。
衣子:半病人みたいだから、あいだはほとんどベッドの上。
直人:病弱でね。この頃特にそうだったね。最後の年だもんね。
衣子:家に「広縁」って、縁の広いところがあって。そこが絵を描くところ。お部屋の中じゃなく。縁側に広い縁があるでしょ。そこにシート引いて、そこで。
池上:お天気が良いときによく制作をされてらしたんですね。
衣子:そうやね。
直人:華岳さんは、こういう題名にも、ものすごくエネルギーをかけたみたいね。自分でこういう題名を作る。
衣子:辞書がとにかく、いつも必要だった。
直人:非常に、独特なタイトルを作ったんですよね。その題名を考えてる、一番いい場所はどこだったの。
衣子:その広縁の縁側。
直人:縁側で、ポータブルのトイレットがあったわけでしょ。
池上:おまるですか。
衣子:昔のおまる。
池上:その上でタイトルを。
衣子:うん。そのときが一番冴えて、良かったん違うかな(笑)。可笑しい、ほんとに。家にトイレが3つも4つもあるのに、家のトイレ入ったことないの。
池上:おまるを愛用されてたんですか。
直人:一番困ったのは……
衣子:ママ。
直人:ママでしょ、それをクリーン・アップする。
衣子:とにかく朝起きたら、お母さんが一番にしなきゃなんないのは、おまるを抱えて、トイレへ持って行って、そこで捨てて、タワシで洗って、綺麗にする。それが一番の仕事。
池上:聞いたことがない話ですね。
衣子:私も「どうしてトイレ行かないのかなー」と思って。
直人:考えるところだったんだ。フランスの巨匠の彫刻家、ロダンの《考える人》ってあるでしょ。あれもトイレット座ってたんちゃうか。《考える人》。
衣子:なんとなく私らはクスクス笑ってた。
直人:だけどそこで《懸崖夏景図》(1939年、図録244頁)っていう、こういうのを考えた。
衣子:懸崖(けんがい)ってあるでしょ。鉢を高いところに置いて、菊をずーっと下へ向けて(咲かせる)。あれを「懸崖」っていうの。菊作りの人は「懸崖の菊」っていうの。
直人:そういう題をおまるに座りながら考え出すんだな。
衣子:絶対に辞書が必要。
直人:どんな辞書ですか、それは。
衣子:なんだかこんな辞書。
直人:まあ、奇人ですね、ちょっと。ちょっとそういうことをする。こういう題でもね。これはどういう風に読むんですか (《巖頭黄昏》、1939年、図録247頁)。ガントウかな。オウコンっていうの、こういうの。
衣子:これなんか知らんね。これは黄昏。
直人:今ちょっと気づいたんですけど。これも唐紙だと思うんですけどね、この黄色が全部違うね。いろんな唐紙を探しておられた。色味がちょっと違うのかな。ものすごい黄色っぽいね。
池上:この辺も黄色いですね。
直人:面白いね。ずいぶん違うんだな。これも相当の黄色いな。こんな色とは。これは写真の具合なのか。
池上:写真の写り具合でもちょっと変わるでしょうね。
衣子:黄色い紙に青いものをこう描いてるんじゃないかな。ほとんどやっぱり唐紙。
直人:唐紙だね。ほとんどね。
池上:ちゃんと見ていくと圧倒的に多いですね。
衣子:にじみ具合が良いんで。
直人:多いですね。
飯尾:これは最後の作品、絶筆とされている《牡丹図》(1939年、図録251頁)ですね。牡丹もお好きな花でよく描いてらっしゃいますよね。
衣子:うん。牡丹の花が好きみたいだね。
直人:どうしてだと思います。
衣子:これはほんとに、花が咲いたらこんな大きいからね。とにかく艶やかで、派手な花やったな。
直人:これ完成したんだね、一応。ハンコを押してるから。だけどサインはしてないんだ。
衣子:ドーサ引きをして、それは自分でやったみたいよ、死ぬ日に。
直人:彼、この絵を描いたときに、もう自分は死ぬと思ったん違う?
衣子:かもわからんね。
直人:どうしてそう思うかって言うと、このイメージね。この鳥が…… この形がね、鳥の翼に似てるんですよ。
衣子:これは葉っぱ。
直人:そうだけどね。いかにも「飛んでいく」っていう感じに僕は受けるのよ。華岳さんがその自分の死を感じていたん違うかな、と思うわけ。この絵を見るといつでも僕の目はね、ここに行かないですぐにここにいっちゃうわけ。
飯尾:翌日もこう描き続けるつもりで、ドーサ引きをして、その夜にお亡くなりになったということですけど。
直人:そのときの喘息、覚えてますか。喘息も頻繁に数が増していったわけ?
衣子:季節的に。気候の変わり目とかね。
直人:いつだったの。彼が亡くなられたのは。冬のとき、夏?
衣子:忘れてる。いつかな。
飯尾:11月では。
衣子:やはり気候の変わり目がちょっとね。でも変な写真(図録296頁、左)があるでしょ。ベッドの上でこんな、お化けみたいな…… あれそっくりね。
池上:いつもああいう感じで、ベッドの上にいらしたんですか。
衣子:ベッドの上に掛け布団を4つぐらいに折って、高くして、それに寄りかかってね。
直人:苦しかったんだな。
衣子:チアノーゼなんか出ましたね。爪なんかが紫色。お医者さんは、それが出てきたら注射を打つ。
直人:息ができなかったわけ。
衣子:みんなが寝た頃ぐらいがね。冬なんかでも空気が非常に大事やから、広縁の縁側のところの戸を開けてたんね。私は一応寝て、母だけ起きてて、そしたら2時ごろぐらいかな、母が私を呼んで。私は一番お姉ちゃんだから。そしたらベッドの上で布団を積んでいたとこに寄りかかって、苦しんでね。あーこれはいけないな、と思って。「電話」って言って。西村先生という、先生のとこに。
直人:その人はかかりつけの先生? 近くに住んでいたの。
衣子:県庁の近く。兵庫県庁のね。先生はすぐ飛んできてくださったな。15分くらいで。じいやがいましてね。じいやが門を開けて、先生が入って来たときに、(華岳が)すーっと静かになった。でも先生が脈を見て、心臓に針を。ああいうことできるんかな、って思ったけど、心臓に直角に針を入れて。「大概これで戻る」って先生が言って。でもそのときばっかりは戻らない。何回もやってて、(過去には)ほんとに戻ってきたんですけどね。そのときだけはもう戻らない…… あっという間。だから苦しかったと思うけれども、ひょっとしたら楽だったかもね。その横にこれをドーサ引きしたのをね、ちゃんとやって。ドーサ引きってなんですかね、私はそのとき分からんかったけども。
池上:にじみ止め、というものですよね。
衣子:ですよね。なんかそれを自分で気に入った作品かなんか、自分でやったみたいよ。だから夜中12時ごろからやってたんじゃないですかな。
池上:描いてからその上にドーサ引きをするっていうこともあるんですか。
衣子:膠を溶くの? あれ。
池上:そうだと思います。明礬かなんかで……
衣子:こんな小さな、瀬戸物のお鍋みたいなので、ぽきぽきと折って、火にかけて溶かす。
直人:亡くなられてから、デスマスクなんかとったん違う。
衣子:とった。それは業者の人かな。
直人:どうしてとったの、デスマスク。誰が考えたの。
衣子:華岳会の人じゃないかなと思う。
池上:それはどこかに残ってるんですか。
直人:それをちょっと今聞こうと。
池上:そのデスマスクは、今どちらにありますか。
衣子:空襲で。
直人:ああ、焼けちゃった。
池上:焼けてしまったんですね。残念ですね。
衣子:よくできてた。見たら部屋を逃げようかと思うぐらい(笑)。足が動かなくて後ろ足引っ張られるぐらい、お父さんのデスマスクは良くできてるの。それくらい怖い。怖かった。もちろんデスマスクを作るときは、「家族の人は出てください」って。白い型取りをするでしょ。それでできてきたらね、ぞっとするくらいうまいことできてるね。ちっちゃい妹なんかも、怖いからお部屋から出ようかと思うのに足が行かなかったぐらい。ベートーベンだって、よくできてるもんね。
直人:あんまり聞かないけどね。デスマスクを作るというのはね。
衣子:誰がそんなこと言い出したか知らないけど、「デスマスク、とりましょう」って。
直人:ということは、華岳さんの存在を、非常に重要な画家として思ってた人たちがいたんだね。
衣子:そうかもわからんね。
直人:だけど葛藤の人生だな。考えてみたら、苦しかったね、非常に。
衣子:50歳まで。
直人:第二次大戦の始まるちょっと前でしょ。大戦が始まったらもう、どっちみち……
衣子:第二次大戦いうたら真珠湾のこと?
直人:そうそう。
衣子:そこまで知らないよ。
直人:もちろん。だけど、ある意味では良かったという見方もあるわね。よう生きてなかったでしょう。
衣子:あの人の戦争の体験は支那事変、それから南京の……
直人:華岳さんは、中国には行ったことあるの。
衣子:1回。
直人:インドにも行きたかったの?
衣子:それは行きたかった。
直人:そうでしょうね。
池上:中国にはご旅行で行かれたんですか。
衣子:山を見に行ったんと違いますか。お弟子さんなんかいっぱい連れて。土田麦僊さんとか、入江(波光、1887-1948年)さんとか、国画創作協会のグループが一緒に行ったんと違いますか。
池上:昨日、アメリカにも本当は行きたいと思っていらした、と伺いましたが。
衣子:あの頃、親戚がね、家族でアメリカへ移住した人があるんですよ。伊丹の辺のね。写真にうつってる、アメリカ行った人が。
池上:ご親戚を尋ねて行きたいと思ってらしたということですよね。
衣子:千鶴というおばあさんの兄弟。
直人:(カタログを見ながら)昨日の書は、これでしょ(《寒厳青松》、1933年、図録254頁)。今度家を建て直すからね、昨日、色々ごそごそしとったんよ。これがでてきた。ものすごく痛んでんのよ。
衣子:早く直さんと。カビ生えてんのよ。
直人:虫が食べとんのよね。
衣子:糊を食べてるみたい。
直人:だから僕、ニューヨークに持って行こうと思って。メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art)の大場さんってご存知。
池上:修復の方ですか。
直人:あの人に治してくれって言おうと思って。これはまだ、(この作品が)健康なときの写真や。
衣子:墨の色がねぇ。これなんかみんな、アート紙。アートペーパーっていうんですか、つるつるの紙。
池上:すべるように書いてらっしゃる感じですよね。
衣子:筆の先をちょっとこうカットしてね。
池上:カットするのは、そのほうが字が書き易いからそうされてたんですか。
衣子:でしょうねえ。すべりやすいんでしょうね。
直人:あるいは特殊な、自分の好みの形がこううまく……
池上:書きやすくなるんですかね。
直人:そうそう。ほとんどの絵描きがね、僕はそうじゃないけども、だいたい下手な絵描きがやることやねんけども、一所懸命絵を描いてさ、なかなかうまくいかない絵をね、最後の手段としてね、とっておきのブラシがあるんですよ。こういう無茶苦茶な。それでくっとやると、なんとなく形がいくような、そういうシークレット・ウェポンが。
池上:伝家の宝刀。
直人:そう、伝家の宝刀(笑)。
衣子:なんか難しい言葉たくさん書いている。
直人:そうやね、くねくねくね、と書いて。
衣子:これはね、何回も書いていたけど、これは一休さんの詩みたいよね(《春衣行路》、1935年、図録256頁)。
直人:そや、一休さんやね。
衣子:晩年には書なんかもちょっと凝ってたからね。
直人:そうやね。こういう松も描いたのかしら。描いたんだな、これ。最初ちょっと薄く書いてね。銀箔かなんか入れて、ちょっとやったんだな。
衣子:墨の色が綺麗から。
直人:綺麗ね。昨日見つけたやつは、これが非常に綺麗に残ってる。ここに行くとちょっと駄目なんだな。僕がね……
衣子:これが《聖者の死》(《聖者の死(下図)》、1918年、図録267頁)、これが関東震災で焼けた。
直人:焼けちゃったんだ。あっそう。だけどこれ京都市美術館って書いてあるよ。
池上:これの完成作が焼けてしまったということですか。
直人:これの完成作やな。そやね。これは残ってるんだ、きっと。
飯尾:これはジョットとか、イタリアのルネサンス絵画のような作品を参考になさったとか。
池上:ジョットがお好きっていう風に『画論』でもずいぶん書かれてますけれども。
衣子:好きみたいねえ。
池上:昨日、日本画の先達では、特に影響を受けた画家はいらっしゃらなかったというふうにお聞きしましたが、逆に西洋の画家からインスピレーションを受けるということはあったんでしょうか。
直人:いい質問やね。最初は華岳さん、ある程度若いときの《夜桜之図》(1913年、図録32-33頁)なんか、非常に浮世絵の影響を……
衣子:若いのにお芝居なんか好きみたいやったね。京都にいたからか知らんけど。芝居の絵なんかもあるでしょ。(注:《京の春》、《演劇 定九郎》、1914年、《操り人形道成寺》、1916年、《舞妓》、《二人舞妓》、《都踊り》、《文楽人形》、1918年など。図録34-35、46-48頁)
直人:ありますね。踊る舞妓の踊りだとか、文楽のちょっと描いたやつもあるわね。だけど、日本の作家で非常に彼が好きな作家っていました?
衣子:学校の先生は、竹内栖鳳(1864-1942年)先生やね。
直人:だけど、絵描きとしてさ。例えば雪舟(雪舟等楊、1420-1506年)とか雪村(雪村周継、c.1504-1589年)だとか、そんな人。あんまり書いてないね、『画論』にも。特に彼は中国の作家に非常に惹かれてたん違うかな。僕なんか好きなんですけどね、八大山人(はちだいさんじん、1626-1705年頃)っているでしょ。
衣子:知らん。嫌いな人は一人知ってるけどね。
池上:どなたですか。
衣子:そんなん言うたら悪いでしょ。
直人:もう死んでる人?
衣子:そりゃもういないと思う。
直人:じゃあ、かまわへんやん、別に(笑)。
飯尾:聞きたい、是非。
衣子:嫌いやった人はあったみたい。
直人:絵描きとして、一応成功しているからかな。誰だろう。別にかまへんよ。僕にちょっと言うてみい (笑) 。
衣子:なんか、嫌いみたい。
直人:2、3分考えとき。誰かを傷つけると思っているわけ。
衣子:そう。
直人:ああ、そう。じゃあ、もう言わなくてもいいよ。僕は小さいとき、この絵(《六甲の雪》、1936年)を見て育ってるのよ。
衣子:これは六甲山。
直人:そう。この辺が好きだったん違う、これが。
池上:たしかに六甲の山並みですね。
衣子:阪急電車に乗ったらね、必ず山のほうが見えるほうの席に座って。
直人:あった、出てきた。
衣子:これは《巒峯春雪之図》じゃないの。(1933年、図録130頁)。冬になって、山の頂に……
直人:だけどお母さん、この山のところ、昨日見てたでしょ、みんなで。同じ山でしょ。だけどこれ、こんなに黄色じゃないよね、写真良くないね。これ鉛筆で書いてあるんですよ、墨じゃないですよね。僕が興味を持っていたのは、この女の人(《女の顔 婦人像(1-4)》、1919年、図録269頁)。これが誰かっていうこと。なんていう名前の人?
衣子:名前は分からない。
直人:この人は華岳さんが神戸ばあちゃんと結婚する前に付き合っていた人?
衣子:いや、知らないねえ。どなたかの紹介やね。
直人:1919年だから、彼きっともう結婚していたよね。
衣子:大学の先生の奥さんだとかいうこと。
直人:何度も描いてるからね。
衣子:母が言っていたんは、ちゃんとした大学の先生の奥さんだって。
直人:そう。じゃあ、お母さんは別に異議があったわけではないんだ。華岳さん、別にこの人とラブ・アフェアーをしていたわけではないの。
衣子:……は、なかったみたい。
直人:華岳さんは女の人好きだったの。
衣子:そうやろねえ(笑) 。でも時々、お母さんがやきもちやいてたって、なんかね。あんな偏屈な親父さんだけども、子供には自分をパパと言わせてたの。
池上:ハイカラですね。
衣子:パパはね、悪いことゆったらね、「どこかの彼女の耳を触ったら、兎の耳みたいに柔らかいよー」って、お母さんに(笑)。私は子供というか、15歳ぐらいやから何のことか分からなかったけれども、お母さんはちょっとやきもちを……
池上:『画論』の中にも、「愛の告白というものほど、自分を当惑させるものはない」というような文章があって、告白をされたのかなって思ったんですけど(笑)。
衣子:おませだからね。
池上:おモテになったんでしょうか。直人:この絵(《自画像》、1922年、図録271頁)も僕が育っていたときにしょっちゅうかかってたんですよ。
衣子:これ油絵。
直人:華岳さんはこの1点だけでしょ、あ、これも油絵かな。だけど自画像を油絵で描いたっていうのは面白いね。線で描かなくて。油絵独特の、なんかを追求できるような立体感を持たしてね。
池上:東京美術学校なんかでは、卒業制作が油の自画像ですよね。そういうのを思い出したりしたんですけど。
直人:こないだ僕のニューヨークのスタジオに、インド人の人が来ましてね。この絵(《タゴール像》、1924年、図録270頁)を見せてあげたの。芸術家じゃなくて、科学者だったけどね。これ見て、すごく感心してね、これ(タゴールの銘)を読んでくれたんよ。即座に、これはベンガル語だって。ベンガルはインドの一番東にある町だそうです。そして、「インドでは知識人はみんなベンガルからでてくるんだ」って。「ここから出てきた人は一番頭がいいんだ」って。「あなたもここから出たの」って言うたら、「僕はそうじゃないけども、タゴールさんもここから出てる」って。
池上:これは昨日おっしゃっていた、タゴールが講演に来たときに、聞きに行かれたときに描かれたものですね。
直人:そうですね。これも素描やね、鉛筆やね。
衣子:(カタログを見ながら)こんな様なものをね、ちょこちょこベッドの上で思いついて書いたり…… こんな中で弟子がいたりしたでしょ。そんなかで一人ちょっと曲者がいて。
直人:盗んでいくわけ?
衣子:あれが来るとね……
直人:絵がなくなっていく。
衣子:なんかちょっと…… 分かってたみたいね。
直人:華岳さんは、表具もちゃんと考えていたのかな。
衣子:表具屋さんに指示してるってこと? そうそう。
直人:こういう風にしてくれ、とか。
飯尾:表具の材料にする古裂を集めてらっしゃったりとかは……
衣子:裂はあんまり集めてなかったと思う。
飯尾:お好みの傾向というのはおありだったんでしょうか。
衣子:やっぱり好きずきはあったと思うね。
直人:彼はある意味で、宗教家っていうことを自分で意識していたと思うんですけどね、お寺なんかには行かれました、彼は。
衣子:行きません。
直人:行きません。面白いですね。
衣子:信心はゼロです。
直人:これなんですの、これは。これは屏風ですか。
衣子:風呂先屏風かなんか。(《風炉先屏風(雲門胡餅趙州茶)》、図録262頁、《風炉先屏風(貼交)》、1936年、図録262頁)
直人:こういうものを、藤岡さんがやったのかな。
衣子:うん、たぶん。
直人:藤岡さんっていうのは表具師の人でね。こういうのやったんだな。その藤岡さんの娘が、常一郎さんの奥様。村上暉久子さん。
池上:表具屋さんの娘さんとご結婚をされたんですね。
直人:そう。表具さんの娘で、いいおばちゃん。それで華岳さん、手紙はよく書きましたね。すごく書かれたですね。色んな悩みをね。
衣子:口下手。
直人:大体描く人ってそうだよ。これが関東大震災でなくなった作品(《聖者の死》、1918年、図録284頁)だ、これ。
池上:写真だけ残っているんですね。
直人:写真だけ残ってんだ、これ。ふーん。これは大きな作品だ。
衣子:東京の新橋まで運送屋さんが運んでいるの。それで震災が起こって、運送屋さんが東京までは運んだの。そこから消えてるから。まず新橋駅の倉庫に一応入って、そこで燃えたんだと思う。
直人:華岳さんは生きている間に、東京でも展覧会を一度くらいしたん違う。していない?
衣子:晩年は、行きましたけどね。
直人:誰か亡くなられたでしょ。華岳のその……
衣子:土屋(楠熊)さん。
直人:土屋さんか。華岳会の、すごく華岳に傾倒していた人。それは高島屋かどっかで展覧会をやったんか。
衣子:そうそう、東京の。
直人:それはもう華岳さんが亡くなられてからやね。
衣子:いや、生きてる。
直人:やっぱり。だから言ったやん、東京でやったのかって。何年頃ですか、それ。
衣子:ちょっと知らない。私は連れてってもらえなかったからね。
直人:それでその帰りの汽車で足を踏み外して、土屋さんは事故を起こして亡くなられた。
衣子:汽車から落ちて。
直人:大変なパトロンをなくしたっていうことやね。
衣子:そうやね、一番の理解者だった。奥さんも亡くなられて、息子さんも亡くなられて、娘さんが一人。
直人:僕の最後の質問ですけどね、お母さんが華岳さんの作品を1点選ぶとしたら、どの作品を選びますか。どんな作品が一番頭の中に残ってる?
衣子:私、個人で?
直人:個人的に。例えばこの作品を一番なんていうか、自分に近いというか、好きだとか。
衣子:木枯らしの山。紅葉の絵。(《紅葉の山》、1939年)
直人:やっぱり、赤いやつ。あれ、取り戻さなあかんね、そしたら。
池上:さっきからおっしゃっている、まさにあの作品ですよね。それはどういうところが一番印象に。
直人:これですね。最後の亡くなられた年の作品や。これはどこの山なん。やっぱり自分の頭ん中の山だな。
衣子:でもこれとこれと、同じ山やん。
直人:似てるね。
飯尾:最晩年だとやはりご病気もあって、なかなか外にはスケッチなどには出歩かれないですよね。
衣子:はい、体の調子のいいときでないと出かけられません。
飯尾:ご記憶にある山のイメージというのを描いてらっしゃる。
直人:彼は六甲の山へ行くときに、お母さんを連れて、あなたは薬箱を担がされて、山のとこに登っていったわけやね。
衣子:好きな山は六甲の山と芦屋の山。芦屋では借家を借りまして、神戸の家と行ったり来たりして。時々芦屋に。ばあやを一人雇ってましてね、お世話さしてね。
直人:そこで泊まって。
衣子:私の学校がないときに芦屋に行って、芦屋の山を登って。
直人:よく行ったね、それ。
衣子:いやそんな、こんな山と違うよ。
直人:それ何、下駄を履いて行くわけ。
衣子:そう、年中和服やから。
直人:下駄でこう行って (笑) 。それで……
衣子:下駄をお尻の下に引いて、風の音を聞いて。
直人:よっぽど風景のいいとこでしょうね。いいとこ見つけたんだな。じーっと考えてるわけ。写生もしなくて。あなたは何してたの。
衣子:おそばについてただけ(笑)。
直人:何時間もいるわけ。
衣子:うん。
直人:食べ物も持って行くの。
衣子:ちょっと。
直人:ちょっと持ってって。それで山を降りてきて、またちょっと描く。
衣子:その日、晩にできたら、夜中にいっぱい描いてるから。寝ないでやってるからね。ちょっとずつ小出ししてたんでしょうね。
池上:こちらの絵はどういうところがお好きですか。
衣子:これはね、やっぱり下地に山を描いてるんですよね。
直人:描いてますね。
衣子:それで後から紅葉を。
池上:赤い。
衣子:赤い。どっかのね、間違いかもわからないけど、お芝居の緞帳いうのありますよね、あれにこれを使わせてくれっていうてきたことがあったのよね。でもそれはできてない話かもわかんない。
直人:絶筆の牡丹の絵と、この絵、何ヶ月くらい離れてるのか。同じ頃なのかな。これは最後の年ですよね。
衣子:まあ秋やね。同じ頃かな。
直人:そしたら牡丹だから、同じ頃だな。
池上:11月にお亡くなりになってますから、近い頃の制作ですね。
直人:だけど、華岳さんは秋だと思ってこういう赤い色を使ったのか、絵画的にそういう赤の色を使ったのか、そのへんが神秘的やね。山がそうとう深いですよね、見ているとね。
衣子:でも、これは技巧だと思う。だから先に下地に山を描いているでしょ。同じような山でしょ。真ん中にぽこってある、同じような山。何枚も描いて。そして技巧的にこれを描いたんと違うかな。
直人:これサインが入ってないね。判子が2つ、印は入っているけども。
衣子:落款だけ。
直人:落款だけだな。こういうの後で書くつもりだったんだろうな、きっとね。構図が非常に似てるわね。
衣子:おんなじ。だから色んなことがね、不可解なまま。急に死んでるからね。
直人:この『画論』を読むとね、非常な知識人やね、彼は。こういう文章、普通の人は書けないですよ。
衣子:こういうの出てるんですか。
直人:うん、『画論』。これはちょっとだけ現代的に直してる。僕の持ってるのはオリジナルのやつでね、ぼろぼろだけどね。
池上:相当色んなものを読んでらしたと思うんですけど、どういう作家がお好きだったとかっていうのは。愛読書などそういうものはありましたか。
衣子:彼の愛読書。
池上:はい。この思想家が好きだ、とか。
直人:ウイリアム・ブレイクだな。
衣子:ブレイクは何でか好きやったね。
直人:好きだったね。ダ・ヴィンチも好きだったね。それからジョット、セザンヌのこともちょっと書いてますよね。
池上:思想家とか、文筆家でお好きな作家というのはいらしたんでしょうか。
衣子:志賀直哉(1873-1971年)さんとか。文通もしてましたね。
飯尾:お写真が。(図録296頁、右)
衣子:志賀直哉さんと。
飯尾:昭和12年の写真ですね。
衣子:それから、武者小路(実篤)(1885-1976年)さん。
飯尾:岸田劉生(1891-1929年)が、関東大震災を避けて、京都に住んでた時期があると思うんですけれども。
衣子:同級生ぐらいじゃないかな。
飯尾:ご交流というのはあったんでしょうか。岸田劉生は、本当に村上華岳のことを非常に高く評価されていたと書かれているんですが。
衣子:うん、好きみたいよ。華岳も、岸田さんとは本当に心を通わせてた人で。岸田さんも「自分が選ぶなら華岳だ」って言ったりしてくれて。
直人:それで聞いた人が「華岳って誰ですか」っていうて聞いたんだ(笑)。
衣子:名前が出たんは岸田さんのほうが先。
飯尾:手紙のやり取りとかもされてたんですか。
衣子:だけどその手紙は見つかってないね。
飯尾:入江波光さんが、華岳画伯が亡くなられた後に、作品を整理されたりとかという話を伺ったことがあるんですけれども。
衣子:いらっしゃいました。
飯尾:生前からかなり親密にお付き合いがあったんですか。
衣子:なんでも打ち明けてた。
飯尾:国画創作協会のメンバーとしては、土田麦僊さんと入江波光さんというお二人。
衣子:あと、小野竹喬(1889-1979年)。それからもう一人……
直人:榊原紫峰(1897-1971年)さん。
衣子:紫峰さん。
飯尾:榊原紫峰さん。国展が解散した後もずっとお付き合いはあった。
衣子:だけどこの人は、京都から離れて神戸に隠遁したみたいだったから、ほとんど晩年は付き合いはなかったですね。でも入江先生とはしょっちゅう文通して、病気の悩みとか、制作の行きづまりだとか、色んなこと入江さんに話をして。
池上:制作が行きづまるっていうようなこともやはりあったんですか。
衣子:と、思うんですけどね。
池上:それはご家族にはあまり言われなかったんでしょうか。
衣子:私は聞いてませんね。
衣子:わりに何でも自分で決めてね、居候までおったんですよ。家の裏に物入れ、納屋があるんですよ。そこ改造してね、彼を住まわせてやろうと。
池上:それは画学生の方ですか。画伯を慕って来られた絵描きになろうとしてた方ですか。
衣子:この辺に写ってないかな。
直人:絵描きさんやね?
衣子:違う。変なおっさんやったけど。偉そうな顔して、いつもそばにいてたよ。(図録の写真を見て)これが紫峰さん、ひげの生えた人が。
直人:華岳さんはこう小さい人やったんやな。
衣子:小さいよ。小さくて痩せてて、ガリガリ。
直人:これ藤岡さんでしょ。
衣子:そうそう。そのこっちが林松竹さん。
直人:土屋さんはどの人?
衣子:土屋さんもこのとき死んでる。この髭の生えたのが宮崎安衛門先生、これがまぁわりに親友みたいだったね。
直人:中川栄次郎はここにいないね。
衣子:いる。これ。
直人:いるいる、ほんとだ。面白いね。粋な背広着てるやん。おしゃれだな。
衣子:貿易屋だもん。
直人:おしゃれだな。ちゃんとここに、何ていうんですか、このポケットに入れるものは。
池上:ポケットチーフですか。
直人:うん、ちゃんとはいってるね、なんか。紳士ぶっんてんだな。
衣子:おしゃれだよ。いつも居候がちょこんと座ってたのにな。
池上:お弟子さんでなく居候の方がいらしたというのが面白いですね。
直人:ただで?
衣子:ただ飯食い。
直人:それがほんとの居候だな。
衣子:納屋にね、ちゃんと畳もひいてね。
直人:よっぽど気に入ってたんだな、その人を。
池上:よくして差し上げてたんですね。
衣子:変なおっさんやったけどねえ。だから母は、「あれは食いついて離れへんの違うか」って。
池上:その方は、華岳画伯が亡くなられるまでいらしたんですか。
衣子:いや、勝手な人よ。(亡くなる)ちょっと前にね、「ええ人ができたから出て行く」って出てった。この中に、今いった水上さんいうのがいる。
直人:これね。水上さん。
衣子:おるでしょ、哲。これは時々来て、ご飯食べて。
直人:それが居候?
衣子:いや、外部の人。もう一人、竹中っていうのは裏に住んでた。
直人:よっぽど気に入ってたんだな、華岳さんはその人を。
衣子:だからお母さんが、いつも博愛を衆に及ぼして、「一人やったら、かわいそうやから、哀れやったらみんな来い」って言って。私がご飯を持っていって。
直人:こういう、土田さんとか入江さんとかね、まだ絵がちゃんと売れなくて、みんな貧しい画家だったでしょ。
衣子:そうねぇ。でもあの頃、土田さんは一番先にデビューしたと思うね、麦僊さん。
直人:彼は絵を売っていた。
衣子:それから榊原紫峰さん。竹喬さんもやってたね、小野竹喬さん。
直人:華岳さん、そういうほかの貧しい人たちに金銭的な援助もしたんですか。華岳さんはお金には困らなかったよね、五郎兵衛さんのおかげで。
衣子:そうねぇ。昔は家作でおまんまが食べられたでしょ。借家がいっぱい作ってあるからね。家の周囲は借家ばっかり。
直人:その借家の家賃は誰が集めたの。
衣子:じいや。そのためにじいやというのを雇って。
直人:嫌な仕事だろうね。
衣子:おじいさんばっかり。
直人:締めくくりとして、何か聞きたいことありますか。
飯尾:締めくくりとしましては、最初の質問に帰ってしまうんですが、一番強く心に残ってるお父様の思い出というか、エピソードというのは。
衣子:いつもお父さんが私のことをね、夜でも、学校の都合があっても、試験があっても、とにかく私を引っ張り出すのに、お母さんがいちゃもんをつけてたわけ。勉強している学校の課題とか、そんなもん全然聞こえてない。で、私はもう、お父さんがすーと部屋の前に来て、「衣ちゃん」っていったら、もう何もできなかった。トコトコついて行っちゃって。「あんたも甘いから」って、お母さんいつも言ってたけどね、「私しかいない」と思って。母はいつも「子育てだけしたい」って。「絵の奥さんは別にもらってください」って言ったくらいやから。「私はできません」って。子供が4人いるでしょ、子供のこと、学校のこと、そういうことで大変だから、「絵専用のお嫁さんをもらってくださいって言ったら、もうお父さんはぶーっとふくれた」言うてましたけどね。
池上:でもある意味、その役割を衣子様が果たされてたっていうようなところがあって。それはお二人の絆ですよね。
衣子:でもね、自分のこと言ったらおかしいけど、うちの近くの人が「中川さんは90歳だけどね、いつもちゃんとしてるね」って言うてくれて。「そう思う?」って。その奥さんは、「うちのお父さんなんか、おじいちゃんになっちゃって、朝の食事もね、自分でやってもらってるの」って。そんなんしたらあかん。で、私の生い立ちを話して、うちのお母さんは夜になってお父さんともめごとがあって、けんかしてても、夜の11時になっても、着物の襟、襦袢の襟が汚れてたらね、みっともないから、鼻水たらしてでも着物の襟を付け替えたり、いつも気配ってね。「絵描きさんの奥さんやから、ちゃんとしてるんや」って、母からいつも言われてたからね。「私もまあ、そこまではいかないけれども、女の人は目をつぶるまで、気を抜かない方がいいのよ」って言ったら、「そうかしら」って。「私は朝起きたら『朝の食事はまだかー』って言うから、『自分の食事ぐらい、パンを焼くだけだからやってくださいよ』言うてね、ほっとくの」って言うから、「そんなことしたらあかん」て。私はいつもお母さんがね、お父さんが画家だから、鼻水たらしても、汚れるから揮発(油)でふいたり。揮発でふくなんて考えれられへんでしょ。さっとやってた。女中さんとか召使さん、そういう人の示しのためにね、自分がやっぱりこうせないかんって。それだけ。
飯尾:ありがとうございました。
直人:よかったね。これ、ひとつの記録になったからね。
池上:ほんとに貴重な話がたくさん聞けて、ありがとうございました。
衣子:だから母が亡くなってね、ちょっと非業な最期だったんですけど、お葬式には華岳会の人なんかもたくさん来られてね。「たいてい先生は立派な人でも、奥さんのお葬式はひっそりしてさびしいもんだけど、あなたのお母さんのお葬式にはびっくりしました」と。
池上:たくさん人がいらした。
衣子:何百人の人が惜しんでね、送ってくれた。
直人:いいおばあちゃんだったよな。すごく親切な人やったね。
衣子:それだけが……
直人:ありがとうね。
飯尾、池上:ありがとうございました。