富井:前のインタヴューの時にニューヨークからヴァーモントに移ったというところまでお話を聞いたと思うんですけども、もう一度ちょっとニューヨークの方へ戻って。たとえば、最初に船から降りた時には12丁目にお住まいだったということですが、その後はニューヨークはどこにお住まいでしたか。
中川:前にも言いましたけども、飯野海運の貨物船にはバーバラ・ホワイトさんっていうフルブライトの人がいて、この人は日本の和紙の研究に行った人。それからアメリカの大写真家のW・ユージン・スミス(W. Eugene Smith)。『ライフ』マガジンのジャーナリストですよね。彼らのおかげでまず12丁目のアパートをもらって。その後は「やっぱり学校に行かないといけない」と思って。友達がいなかったんで。まずアート・ステューデント・リーグ(Art Students League)に行ったんだけども、あんまり感心しなかったんで(笑)。日本人があまりにいたのよ。もう20人ぐらいいたと思います。それで、バーバラさんとかユージンがね、「今ニューヨークで一番いいアー・トスクールはブルックリン・ミュージアム(Brooklyn Museum Art School)だからあそこに行ったらどう」って言って。ちゃんとスカラーシップもらって、ブルックリンのアパートを借りました。プレジデント・ストリート(President Street)にアパートを借りて。そこは40ドルのレントを払って。
富井:じゃあブルックリン・ミュージアムの学校の近くということですか。
中川:そうですね。僕の同級生は荒川修作。日本人の先生が大館(敏夫、おおだてとしお)さんっていう彫刻家の人がいました。
富井:日本人の人も教えていたんですか。
中川:そうそう。なかなか素晴らしい人なんですけども。そこに僕は3年ぐらいいました。その後、21歳の時に僕はアメリカ人と結婚しました。彼女と一緒に住むにはブルックリンのアパートはちょっと狭すぎたんで、ロワー・イーストサイドの10丁目の、BとCアヴェニューのところでアパートを借りました。非常に悪いところで。一番上の階だったんだけど、レントが月23ドルです。だけど非常に危険なとこなんで(笑)。ドラッグ・ディーラーなんかもうたくさんいまして。一番すごかったのは、ある時河原温とその辺を歩いてたんですよ。そしたらいきなり鉄砲の弾飛んできて、「バーン」と。パッと見たら男の人が、ピストル持ってこちらへ走ってくるわけ。その後ろを見たらポリスがこう、やってるわけよ、バンバン、っと。河原さんと「こりゃ大変だ!」って、もう(笑)。「撃たれる」っていうことで。それぐらいひどいとこですね。
富井:そこにはどれぐらいいらっしゃったんですか。
中川:そこには多分2年か3年ぐらいいたと思います。それで河原さんと平岡弘子さん、彼女はネオダダの人ですけども、123チェンバー・ストリートにロフトを借りていました。で、河原さんたちが今度もうちょっと大きなところ、ファースト・アヴェニューと13丁目のロフトに移るというんで、「直人、このロフトどうですか」って言うから、河原さんにもらって。そこはレントが50ドルぐらいだったと思う。
富井:ちょっと高くなりましたね。
中川:ちょっとだけね(笑)。それで面白かったのは、123チェンバー・ストリートのところにはオノ・ヨーコさんもいたし、荒川修作もいた。みんな偶然なんですけど、いたんですよ。
富井:確かオノさんが最初に持ってて、それを荒川さんが、オノさんが日本に帰るときに譲り受けた、というようなことも聞いてますけども。
中川:そうそう。もちろんヨーコさんのエクス・ハズバンドの一柳(慧)さん。彼も僕はよく知ってますけども。123チェンバー・ストリートっていうのは非常に面白いところで、カナダで一番活躍していたマイケル・スノウ(Michael Snow)っていう作家がいるんですけども。
池上:映像作家ですね。
中川:そうそう。マイケル・スノウの一番有名な《Wavelength》っていうありますでしょ。僕出てるんですよ、あの映画に(笑)。こないだのホワイト・ボックス(White Box)の展覧会の時も、マイク・スノウの《Wavelength》の映画を借りて、24時間ずーっと映しっぱなしにして。マイクもカナダから僕のオープニングに来てくれたんですけども。
富井:ちょうど入口のあたりですよね、ロフトの。そこでみんなが行き来してるのをそのままリアルタイムで映してて。「あ、これが僕」みたいな形で中川さんが教えてくださいました。
中川:そうそう。マイクとの交友で、彼を通じて、ナム・ジュン・パイクだとか、デヴィッド・テューダー(David Tudor)、それからラ・モンテ・ヤング(La Monte Young)、もう色んな人と一緒に会いました。非常に楽しい時だったよね。
富井:前にお話を聞いた時は、そこで毎日パーティーだった、というお話を聞きました。
中川:そうそう。毎日パーティーで、みんなマリファナ吸って、ピアノがあって、みんなでピアノ弾いて。随分クレイジーな時でしたね、その時は。マイクの奥さんはジョイス・ウィーランド(Joyce Wieland)って、彼女も非常に有名なカナダ人ですけども。そういう時代があったんだけど、73年の僕の作品をご覧になると、ものすごく変わるんですよ。72年までは僕自身も非常に、マクルーハン的な考え方とか、パフォーマンスを(重視してた)。たぶんパフォーマンスとかハプニングっていうのは、日本で僕が交流していた具体美術、そういうものが非常に僕の体の中に入っていたと思うんですけど。73年に、僕はインドのヨガの瞑想を始めたんですよ。この時に僕の人生は180度変わるんです。瞑想を始めたことによって、外に対して僕が求めていた表現が、非常に内面的な表現に変わっていくんですよね。だからこれは非常に、日本語でどう言うんだろう、英語で言うと「crucial moment」 ですね。
富井:「決定的」ね。
中川:決定的なチェンジがあるんですよ。だから今の僕の作品なんか、今日もちょっとあなたたちが来る前に考えていたんですけども。たとえば今、「中川直人の今の作品はどういうことを考えているのか」ってもしも聞かれたら、「実存」という言葉がまず来ましてね、それから「純意識」。英語で言うと「pure consciousness」。そういう自分の存在と「永遠」、っていうのかな、「eternity」っていうのかな。そういう一つの宇宙的な関係っていう。そういうことを僕は自然を通して、今求めていると思います。
富井:ヴァーモントに移る前には、ハプニングとか、外の世界との関係を求めてた、みたいに表現なさいましたけども、実際にハプニングのようなこともなさってましたよね、ニューヨークにいた時に。どういうことをなさいましたか。
中川:ジョン・ペロー(John Perreault)だとか、エドワード・コスタ(Edward Costa)、それからヴィト・アコンチ(Vito Acconci)、彼らが僕の仲間だったんですよ。しょっちゅう、「次はどんなハプニングする」だとか色々考えてたんですけど。ジョン・ペローはストリート・ハプニングだとか、ヴィトはポエトリー・ハプニングだとか、そういう人たちと僕はしょっちゅう一緒にいたんで、僕自身も色んなハプニングをして。たとえば、僕は自分の体を使うようなハプニングだった。昨日の夜、ドリー・アシュトン(Dore Ashton)さんと一緒にいた時に、ドリーがそれを覚えていて。その一つのハプニングが自分の体を傷つけていくようなハプニング。ナイフでね、僕の体をこう、切って。
富井:自分で切るんですか。
中川:そうそう。自分で切って。こう血が流れている。ヴィトもそれにちょっと近いことやってたんですよね。
富井:自分で噛むやつありますね。
中川:うん。掻いたりね。彼のここをさ、(実際に掻きながら)1時間。
池上:痛くなるまで。
中川:そうそう。僕も一緒に座ってたの、その時。「マックス・カンザス・シティ(Max’s Kansas City)」というナイトクラブがあって。そこに行くときれいなお姉ちゃんたちがたくさんいるんですよ。だからみんなアーティストはそこに行って(笑)、ウォッカを飲みながら、彼女たちを見ながら、色んなパフォーマンスの話なんかしてたんだけど。一つのハプニングは、ヴィトは(掻きながら)自分のこれをしている。僕がやっていたのは、そこに30個ぐらいテーブルがあるんですよ。白と赤の格子のテーブルなんです。僕がやったのは、テーブル一つずつを、ブルーのクロスに変えていく。ヴィトはこう(掻きながら)しながら。僕は一つずつテーブルに行って、またそれを全部出して、変えていくとか。
富井:お客さんはそこに座ってるんですよね。
中川:うん。そういうことをしましたね。外出する時は必ず何か自分の体を使った表現しようと思って、やってましたね。たとえば頭の半分を剃ってみたり、アイブロウを一つ剃って、あるいはその次はこっちを剃って。次はもうしょうがないから両方とも剃って(笑)。パーティーに行く時なんか、特に一番そこで自分の表現をしたいようなパーティーに行く時はちょっと奇抜なことをして。一番奇抜なことをしたのは、自分のペニスを緑で塗って、パーティーに行って。「I have something to tell you」と言って。「I have a green penis」って言うと、みんなぎょっとするわけですね(笑)。
池上:するでしょうね(笑)。
富井:するする(笑)。
中川:そういうパーティーに行くと、非常にゲイ・コミュニティが大きかったので。もちろんエドワード・コスタっていうのはアンディ・ウォーホルのラヴァーだったでしょ。ジョン・ペローさんもゲイでしょ。こないだジョン・ペロー、結婚しましたよ。新聞に出てたよね、大きく。
富井:あっ、知らなかった。
中川:こないだ一緒にお会いした、ジェフ・ワインスタイン(Jeff Weinstein)さんとです。
池上:同性婚で結婚されたんですか。
中川:そうそう。「ニューヨーク・タイムズ」に半ページ、大きく出た(笑)。
富井:それ見逃しました。
中川:フォーマル・マリッジだよ。僕はすぐに「コングラチュレイション」と言ったんだけど。そういうとこに行くんですから、みんなが「ほんとか」って言って、「ああ、ほんとだ」って。バスルームに行って、ズボン脱いで、「あ、ほんとだ!」って。「He really has a green penis!」って(笑)。そういうこともやったし、さっき言ったように自分の体を切ってみたり。
富井:そういうのも「マックス・カンザス・シティ」とかでやるわけですか。
中川:それはね、どこかのロフトで人を呼んで。もちろんチェンバー・ストリートのロフトでもやりましたけども。とにかく自分の体を使って表現したい、っていうことがものすごくありましたよね。一度ジョン・ペローと、ジョンのその時のラヴァーと、ヴィト・アコンチと…… ヴィトはその頃、女の人が2人いたんですよ。みんなで同棲して。奥様がいて、ガールフレンドがいて、3人で一緒に住んで、色々悪いことしてるんですけども(笑)。その時に、僕の当時のワイフと、ファーラっていうんですけど、みんなでジョン・ペローさんの家でご飯を食べて、「何かしよう」っていうことになって。「僕が始めるよ」って言って。カーテンがあるんですよ、窓の。僕はカーテンの後ろに行って、マスターベーションしたんですよ。で、カーテンが動いてるわけよ。みんなぎょっとしちゃってね(笑)。「これはすごい」って言うわけね。それからそうですね、一ヶ月ぐらいしたら、ヴィト・アコンチが、ソーホーの、あれ何ていう画廊だったっけ。
池上:イリアナ・ソナベンド(Ileana Sonnabend Gallery)じゃないですか。
中川:そうそう。あそこでね、スピーカーを入れて。
池上:床を斜めにして中に入る、《シードベッド(Seedbed)》っていうパフォーマンス。
中川:そうそう。で、こう「Oh! I’m coming!」とかね、やるわけよ(笑)。それで、ジョン・ペローがさ、「だけどあれナオトの考えだったんだよ」って(笑)。
池上:うまいこと取ったわけですね(笑)。
中川:とにかくヴィトさんも非常に面白い、色んな自分の体を使うハプニングしてたでしょ。もう一つ彼がやった非常に面白いハプニングは、僕の近くに住んでいる、(デニス・)オッペンハイム(Denis Oppenheim)さんとやった。
富井:デニス。
中川:デニスと2人でハプニングした。これはすごかったんだけど、ヴィトの奥さんが真っ赤なリップスティックをつけて、ヴィトの体に、彼は裸なんだけども、リップスティックでキスするんですよ。あっちこっち。そしたらもう赤いリップがいっぱい付いてるわけ。で、今度はヴィトがデニスを捕まえて、自分のリップスティックを彼にこう、インプリントするわけ。これはちょっとすごかったですね。
富井:抱きついて?
中川:抱きついて。でもデニスはその時、恐怖の顔をしてましたね。そういう経験ないから、彼は。たぶんこれは練習しなかったと思うの。だからデニスがほんとにもう恐怖の顔をしてるわけ。嫌だったんだろうな、あれ。当時そういうハプニングのクライマックスにいったのが、あの人誰だったっけ。自分の体を鉄砲で撃った人いるでしょ。
富井:クリス・バーデン(Chris Burden)。
中川:そうそう。クリス・バーデン。今ガゴーシアン(・ギャラリー)でやってる人ね。そこまで行ったんですよね。だから非常にボディーを使うっていうこと、みんなある程度そういうこと考えてたんじゃないかな。僕自身ももちろん。
池上:中川さんのそういうパフォーマンスとかハプニングは、写真として残したりはされなかったんですか。
中川:(カタログをめくりながら)ここにね、一つ残ってる。いくつか残ってるよ。こういうの。
富井:それは大きいペインティングの前でね。
中川:ここに15、6人いたんですよ。それでハプニングを僕がしてね。
池上:今おっしゃられた、体そのものを素材にするようなものっていうのは。
中川:だけどあの頃はね、ヴィトもそうだけども、ビデオカメラで誰も撮ってなかったんじゃないかなと思う。
富井・池上:写真は。
中川:写真ぐらいはあるでしょうね。
池上:中川さんのも探せばどこかにある、ということですか。
中川:僕もそれちょっと見たいな、と思うんだけども。
富井:自分では誰かに「撮って」とか頼むんじゃなくって。
中川:そう。だから草間(彌生)さんみたいにクレバーに、最初からちゃんとカメラでっていうことは考えなかったですね。
池上:アコンチの場合も写真で今に知られているわけじゃないですか。
中川:そうかな。だけど彼とかね、ジョージアなんとかっていう、あの人。ディアーノ?なんかイタリア系の名前で、詩人なんだけど、その人もそういうドキュメンテーションは全然なかったと思うよ。彼らが写真でドキュメンテーション始めたのはもうちょっと後だったと思う。当時はみんなもう、エネルギーだけでやってた。
池上:自然発生的にやってたわけですね。
中川:そうそう。あんまりね、考えてなかったですよね。たとえば日本の、篠原ギューちゃんなんか、「絵を描きました」と言っても、誰も見てないでしょ、その絵を。というのは、デストロイしてるわけだ。「そのドキュメンテーションあるんですか」って言ったら、ギューちゃんは「何もない」って言うわけ。その意味じゃ非常にピュアだったと思う。考えてなかったと思う、あんまり。たまたま横にいて、みんなが撮ってるっていうのが残っただけで。だからこの写真だって僕は全然、写真家を入れようとかしなかったですよ。
富井:写真家が勝手に撮ってたんですよね、この場合は。《シードベッド》とかだと、ヴィト・アコンチのドキュメンテーションかなり残ってますよね、あれは。
池上:と、思いますね。
中川:フルクサスはもっとオーガナイズしたから。だいぶ残ってんのと違う。
富井:そうですね。中川さんも随分、フルクサスのハプニングなんか見に行かれました?
中川:見ましたよ。河原温も一つのハプニングは参加しているし、それも見ましたし。一番面白かったのは、ロング・アイランド・シティのすごいウェアハウスを借りてやったのをよく覚えてるし。それから靉嘔さんの家でやったのも覚えてるし、NYUのジャドソン(注:Judson Memorial Church Theater)でやったのも見てる。たとえばコカ・コーラのビンを割りながら、ポルノの写真を見せたのが靉嘔さんのピース。靉嘔さんはどこでああいうポルノの写真を取ってきたのかしらないけど、非常にえげつない写真を見せて。横で河原さんがコカ・コーラの瓶を割っていったりさ。
富井:河原さんもパフォーマンスしたんですね。
中川:あんまり彼はエンジョイしてなかったと思うんですけども。
富井:でもパフォーマンスをした、っていうことも私は今まで知らなかったので、今聞いて面白かったです。
中川:僕と河原さんっていうのは、4年間ぐらいほとんど毎日会ってましたね。
富井:それは60年代の頃ですよね。
中川:そう。大体パターンとしては夕方の6時ぐらいから始まって。僕は毎晩そこでご飯を食べて。僕はお金がなかったので。
富井:じゃあ平岡さんが料理してるわけですか。
中川:そうそう。平岡さんは非常に料理上手なんですよ。平岡さんがご飯作って、食べて、その後チェスをして。それからもう、夜の11時ぐらいから朝の6時ぐらいまでポレミックス(polemics)。議論ばっかりしとった。延々と議論してね。その辺ぐらいから僕の言葉が非常に純粋になったんじゃない(笑)。
富井:それは日本語でしてたんですか。河原さんだから。
中川:そうそう。大体朝の7時ぐらいに、「じゃあ僕帰るよ」って(笑)。また次の日6時ごろ行って。
富井:何の話してたか覚えてます?
中川:覚えてるよ。デュシャンの話だとか、コンセプチュアルな話なんかね。というのは、河原さんは今もう非常に素晴らしい作家になってるけども、当時は完全に無名で。可哀想だったですよ。
富井:じゃあまだデイト・ペインティングも始まっていなかった頃ですか。
中川:始まっていない。だけど、たとえば僕が面白いな、と思ったのは、彼は家具を作るんですよ。(テーブルを示しながら)こういうテーブルを。
富井:作品として。
中川:そう。テーブルを作るわけ。大きなたとえば、4 x 8(フィート)ぐらいのサイズで。ちゃんと足をつけて。それをピンクに塗るんですよ。ピンクに塗って、白い字でメッセージ入れるんですよ。
富井:えっ、じゃあ机にメッセージが入るんですか。
中川:そうそう。横から見るんじゃなくて、上から見るわけ。
池上:そんなの聞いたことないですね。
中川:僕はもう見て知ってるよ。それは。
富井:ピンク色のやつは《ベトナム、1965》っていう作品、あれが確かピンク色のキャンバスなんですよね。
中川:僕と河原さんの付き合いっていうのは、その頃と違うかな。そのぐらいから始まってんのと違うかな。
富井:テーブルをピンクに塗って、メッセージが書いてあるなんてのは初めて聞きますね。
中川:メッセージはね、非常にコミュニスト的なメッセージなんだよ。「What did you eat today」にクエスチョン・マークが入ってる。
富井:(笑)
中川:うん、そうやねん。「What did you eat today?」っていうクエスチョン。とにかく非常にポップ的でダダ的なエヴリデイのメッセージですよね。それで、彼はその頃、ブルックリン・ミュージアム・スクールに来てたんですよ。
富井:河原さんも行ってたんですか。
中川:そう、同じクラス。河原さんはトラブル・メイカーだから、学校でも面白いんだ。誰も考えつかなかったことなんだけど、「来週の火曜日、3時からディベートやります」って。ディベートはたとえば、「What is art?」だとかさ、クエスチョン・マークでね。そういうビラをあちこちに貼るわけ、学校中。「モデレーターは誰々とナオト・ナカガワ」って。「河原さん、僕モデレーターになるなんて約束してないよ」って。「やってくれよ、頼むよ!」って(笑)。
富井:だってモデレーターが流れを作っとかないと、河原さんしゃべれないですもんね。
中川:その頃から僕はなんとなく、そういうとこに引っ張り出されてたんですよ。
富井:河原さん、随分しゃべってたんですか。
中川:彼はもう好きなんだ、それ。
富井:やっぱり英語でしゃべってたんでしょ、それは。
中川:まあへたくそな英語やけどね。それで荒川も来たり、30人か40人ぐらい学生も来て、みんなで喧々囂々とやるわけ。必ず喧嘩すんねん、みんなが。
富井:喧嘩も中川さんがモデレートしてたんですか(笑)。
中川:そうそう(笑)。そのうち学校の先生も参加し始めてさ。だから河原さんっていうのは、そういうことをするのが好きな人ですよね。
富井:結構アジテーターですね、じゃあ。
中川:ものすごいアジテーター。荒川もアジテーター。僕もアジテーター。だから僕と荒川は喧嘩ばっかりしとったもん。
富井・池上:(笑)
中川:「バカヤロー」とか、もうそんなんばっかり。「お前はもう考えてることがほんとバカやね」とか。今はそんなことないよ。こないだ会った時なんかほんとにこう、ジェントルマン的に、今は話します。当時はそういうポレミックスですごかったですね、その頃は。もう相手の弱いとこばっかり探してさ、やるんですよ。
富井:たち悪いですね。
中川:そうですね。今から考えると非常に面白い時だったよね。それで僕はファーラと結婚してから、多分70年ぐらいだったと思うんだけど、メキシコに行ったんですよ、2ヶ月ぐらい。それで河原さんもちょうどメキシコに行くから、「メキシコにいらっしゃい」って言って、同じホテルに泊まってたの。ホテル・モンテカルロって言うホテルで。ディキンソンっているでしょ。
池上:エミリー・ディキンソン(Emily Elizabeth Dickinson)。
中川:そうそう。あ、エミリーじゃないよ、チャールズと違う?(注:Charles Dickinson、19世紀初頭に活躍した弁護士で決闘家)
池上:エミリーは詩人ですね。
中川:うん。元々はそのチャールズ・ディキンソンの持っていた家で、まあモナスタリー(monastery、修道院)なんだけど、その頃はホテルになってたの。割と大きなホテルで、1日5ドル。サービスもいい。河原さんがいて、僕が隣にいて。彼はちょうどその頃、デイト・ペインティングを始めてたのよ。1970年ぐらいだから、もう始めてた。僕は寝坊だけど、彼はもう朝早く起きてね、一生懸命デイトを描いてたんだ。僕は真面目だからさ、メキシコのランドスケープを描いたりしてたんですけども。そこに2ヶ月ぐらいいたのかな。それで僕は河原さんの123チェンバー・ストリートのロフトを受け継いで。彼は13丁目の、ファースト・アヴェニューのロフトを借りたんですよね。そこは草間彌生と半分ずつ取ったの、巨大なロフトで。というのは1ブロックなんですよ。13丁目から14丁目まで。
池上:それは大きい。
富井:半分ずつにしてたんですか。草間さんの文章の中にリース(lease、借家契約)のドキュメントがあるんですけどね。
中川:だけど彼はあんまり好きじゃなかったようですね、それは。
池上:そのシェアで使う、ということが。
中川:うん。もちろん僕も行って、引越し手伝ってあげたりしてさ。面白いビルで、彼の上はね、(クレス・)オルデンバーグ(Claes Oldenburg)でしょ。それから一番上にラリー・リヴァース(Larry Rivers)。それで河原さんが13丁目側で、草間さんが14丁目側で(笑)。ニューヨークの規定で、壁を作って鍵をかけちゃいけないんですよ。だからお互いにこう行けるんですよ。彼がそれを非常に嫌がってた。河原さんはその頃、デイト・ペインティングも始めていたし。暗号の手紙もやってたし。それから言葉ね。さっき言ったような、「What did you eat yesterday ?」だとか、「What did you do today ?」だとかね、そういうのをやってましたね。それが1970年ぐらいやったと思うんやけどね。草間さんのところも僕は何度か行ってるけども、素晴らしかったですね。
富井:何がありました、その頃は。
中川:巨大な絵で、やっぱこれですよ(指で輪を作って)。
富井・池上:ネット・ペインティング。
中川:そうそう。ネット・ペインティングで。ブラック・アンド・ホワイトで。
富井:ブラック・アンド・ホワイト。
中川:そう。グレーだったと思う。それをやっておられたですね。
池上:地がグレーっぽくて上に白で塗っていくやつですか。それとも画面全体が。
富井:下地は黒なの、あれ。下地は黒でその上から塗っていくの。
池上:それで白を塗るからグレーに見えてくるんですか。
中川:でも下地は真っ黒じゃなかったと思う。グレーだったと思う。グレーで、その上に白で描くか、あるいは白いバックグラウンドにグレーでやっていくか。非常に面白い作品だな、と思ったですね。草間さんの名前出てきましたけど、草間さんの展覧会も僕は2度行ってます。カステラーニ(Castellani Gallery)のオープニング行ってるし。こないだ言った大橋豊っていうのが、草間さんと非常に親交のあった人で。彼を通じて僕は彌生さんに初めて会ったわけ。彌生さんとはなんとなく、因縁があって。東京でもフジテレビ画廊で一緒になったし、僕のオープニングにも来てくれますし。彼女は僕の顔を見ると必ず、「中川さんね、あなたも早く本を書きなさい」って言うんですよ。「本書いたら絶対売れるから」って(笑)。
池上:そうですか(笑)。
富井:今お話聞いてると、ニューヨークで随分色んなことなさったから、それを書くだけでも充分一冊ぐらいにはなりますね。
中川:オノ・ヨーコさんも時々チェンバー・ストリートで会ってたんですよ。だけど正式にはお互い自己紹介していないので。ただ彼女も日本人がいる、っていうのは分かってるわけ。僕も日本人でヨーコさんの顔を覚えてるから。お互いにこうして(会釈をしながら)。彼女はベイビー・ガールをこう抱いてるわけ。女の子いるでしょ。
富井:キョウコちゃん。
中川:そう。キョウコちゃんはジョン・レノンと彼女が一緒になった後、アメリカ人のジャーナリストがキッドナップ(kidnap、誘拐)したでしょ。ディサピア(disappear、失踪)したんですよ。それはまた別の話だけど。
富井:ヴァーモントに移る前にもう一つだけ、パフォーマンスのことでお伺いしたいんですが、結局その方向っていうのは作品として追求なさらないで、ペインティングを続けられた、ということになるんですか。
中川:ヴァーモントに行ったこと?
富井:いえ、行く前にニューヨークで今で言うところのパフォーマンス・アートをされてて、ヴィト・アコンチさんなんかはそれで知られてるわけですけども。中川さんはそっちを追求しようと思わなかったのかな、と思って。
中川:それはね、やっぱりインドのヨガの瞑想を始めて、全てが内面化しましたよね。それまでは外に向けて僕は一生懸命自分を(表現してた)。その頃は自分もそう言っていたし、他の人も僕のことを「angry young painter」なんて言ってたんだけど。それがものすごく内面化しちゃって。そんなことしなくても「直人、それは必要ない」って。「絵でちゃんと表現できる」っていうことを自分で感じたんですよね。
富井:じゃあそういう意味でもやはり一つの大きな転機になるんですね。
中川:ものすごい大きな転機です。多分僕の人生の中で一番大切な転機だったと思う。僕、今でも瞑想しますから。瞑想することによって、一つの自分の中心ていうのかな。それがちゃんとできてると思うの。だからもし僕が誰かに「あなたのストレンス(strength、強さ)は何か」と言われたら、多分それだと思う。
富井:そのヨガの発見をなさってから、ヴァーモントに行かれた。
中川:そうです。そしてヨガの瞑想と同時に、アイヴァン・カープ(Ivan Karp)さんがオーケー・ハリス(OK Harris Gallery)の画廊を始めたでしょ。1972年にオープンしたんですけど。僕もたまたまリース・ペーリー(Reese Paley Gallery)でグループ展に出していた時に、何人かの人がアイヴァン・カープに「面白い日本人の作家がいるから、今度見に行ったらどうか」っていうことで。
富井:こないだのインタヴューで詳しく教えていただきましたね。
中川:そうそう。一番最初の展覧会の時は、小さな作品が2点ぐらい売れたと思うんですよ。ところが3度目、それから最後の1975年になると、最初から全部売れちゃって。売れただけじゃなくて、ウェイティング・リストもできて。ちょうどその頃、僕のワイフがもうニューヨークが嫌で、「どっかに出て行きたい」っていうことで。たまたまヴァーモントの大学から教授の仕事があったんで、それでヴァーモントに行きました。
富井:そこで初めて教えるっていう経験を持たれた。
中川:そうです。
富井:教えるっていうのはやっぱりアーティストにとって色んな意味があると思うんですが、中川さんの場合は教えることがどう自分の展開とつながるのか、あるいは中川さんの中でどういう意味があるのか、ということを教えてください。
中川:そうやね、アーティストである限り、少なくとも一度か二度は教える経験をされた方がいいですよね。どうしてかって言うと、やっぱり芸術家っていうのは内面的になりすぎちゃって、自己評価とかそういうことが非常に下手になってしまうんですね。僕もそうだったと思う。だけど教えることによって、自分の見えなかったことが表現できるんですよ。そうすると自分の作品ももっとクリアに見えてくるんですよ。
富井:教えるっていう場合には実技を教えられてたんですか。
中川:実技も教えたし、理論も教えた。理論っていうのはたとえば、デザインの基礎。僕はそういうことものすごく知ってますから。たとえば画面を見て、中心の問題とか、横の問題とか、縦と横の問題とか、遠近法とか、色んなこと。それからもちろん一番大切なのが色彩の理論ですよね。そういうことをやっぱり自分だけでやるんじゃなくて、実際に教えるとなると、自分で疑問を持っていたことでもちゃんと生徒に教えなくちゃいけないから、非常に自分の考え方がはっきりしてきます。だから教えることは非常にプラスだったと思います。僕は教えるの好きですから。
富井:先ほどそれで英語が上手くなったという風にもおっしゃってましたけど。
中川:絶対そうですね。だから自分が内面的に考えていることを言葉にするっていうのは、ものすごく大切だと思いました。ヴァーモントはニュー・イングランドの北のほうで、僕はずっとニューヨークにいたから、最初はちょっと怖かったんだけども。
富井:田舎ですよね。
中川:もうほんとに田舎。だけどニュー・イングランダーっていう、ああいう人たちっていうのは、ほんとにアメリカの一番良いところを持っています。ほんとに素晴らしい性格っていうのかな。だからフレンドシップにしても、ほんとに心の触れ合うことができるようなフレンドシップができます、彼らとは。僕はヴァーモントではそれまで全く知らなかったことをいろいろ学んだ。たとえば、ハンティング。アメリカっていうのはガン・カルチャーでしょ。僕なんか「ガン」って聞いただけでドキッとするんですけど。
富井:日本人は特にそうですね。
中川:そうやね。だけどヴァーモントに行くと、ガンのことを知らない人はやっぱりだめなんですよ。だからどこの家に行っても必ずショットガンがありますし、ライフルもちゃんときれいにしてあって。僕も移った時に「ナオトね、あなたもちょっとシューティングの勉強したら」とか(笑)。僕は動物は撃ったことないけど、一応ガンを持っていて、どういうふうにシュートするとか、ちゃんと知ってます。
池上:それはやっぱり一人前の男性のたしなみだと思われてるんですよね。
中川:そうですよね。だからね、生活と非常に密接な関係なんですよね。たとえば僕の隣に住んでいたヴァーモントの夫婦がいて、ボブさんとヴァージニアさんっていうんですけど。必ず牛を2、3頭飼ってるんですよ。それで10月とか秋の終わりごろに、彼らは「mother and father」ってお互いに呼び合うんですけども、「Mother, which one shall we go with this year ?」。そしたらヴァージニアさんが、「Father, I think we should go with Susan」。「Okay」。で、もうスーザン連れてきて。
富井:牛のスーザンですね。
中川:そうよ。名前がついてんの、ちゃんと。ピーターだとかさ。で、こう木にくくりつけて、ボブさんはうちに入って、ライフル持ってきて、「Okay, Susan, see you next year」。バーンって、それで撃っちゃって。近所の人たちも来て、このスーザンさんを納屋の上から吊り上げるんですよ。
池上:血抜きをするわけですか。
中川:そう、スキンを取って。3日か4日ほったらかしてるんですよ。そうするとね、ジュースが出てくるんだって。ジュースがうまいことかかっていくんですよね。
池上:すいません、気持ち悪い(笑)。
中川:そうすると肉がおいしいんだって(笑)。それで娘さんもいたんで、もちろん僕も、僕のワイフも、みんなで一緒にきれいにカットして。ベースメントに行くとフリーザーがあるんですよね。そこにちゃんと入れて。一区切りずつそれを食べて生活するわけ。もう一つ面白かったのは、アメリカの人種差別、レイシズムです。一年間大学で教えて、非常に好きになったわけですよ。「じゃあ家を買おう」って。僕のワイフも「家を買いたい」って言うから「じゃあ買おう」って。それで家を見つけたの。きれいな丘の上の家。ブローカーに、「OK, this one」って言ってね。「いくら」って言ったら、「23,000ドル」。「OK」って。安いでしょ。ちゃんと3エーカー付いてくるわけ。眺めがすごく良いんですよ。「OK、じゃあ売り手にちゃんと言ってください」って。3週間ぐらい経ってもね、全然返事が来ないんですよ。「変だな」と思って、後でわかったんだけども、サウスニューフェン(South Newfaneっていう小さな町なんですけど、そこはもうジェネラル・ストアが一つしかないような村で、教会があって。アメリカの小さな町に行くと、教会でタウン・ホール・ミーティングをやるんですよ。そこで3週間延々とみんなで話をしていたのは、あの家をアジア人に売ってもいいかどうか、っていうこと(笑)。
富井:でも奥さんはアメリカ人っておっしゃってましたよね。
池上:でもミクスト・レイス(mixed race、人種間)の結婚っていうことですよね。
中川:そう。東洋人と白人ということで。だから僕らだけが知らなかったんですよ。その家がいくらで売れてるとか、みんな分かってるんですよ。
池上:田舎町のことで、みんな知ってるんですね。
中川:そう。僕の隣に住んでいたボブさんとヴァージニアさん、彼らはヴァーモントに5世代ぐらいいる家の人たちで。彼らが最後に、ナカガワっていうのは素晴らしい人だから、「We should allow them to buy this house」って。
池上:「allow」なんですねえ。
中川:それでOKが出たわけ。今その話をするとみんなびっくりするけど、これは実際の話ですよ。
富井:30年ぐらい前の話ですね。
中川:そう。それでそこに移ってね。丘の上ですからその間に3つ家があるんですよ。僕の家が一番丘の上なんだけど、3つ目の家の人たちとものすごく仲良くなったんですよね。クライドさんと、奥さんの名前はちょっと忘れましたけど、みんなハンターなんですよ。非常に仲良くなって、そこに1年ぐらいいたら、僕の家の後ろの40エーカーぐらいの土地が「for sale」になったんですよ。オーナーが売りに出した。僕も「買いたいな」と思ったけど、ちょっと高すぎたし、まあ考えていて。クライドさんがある時、自分のライフルを持ってハンティングに通りかかったんで、僕のところでちょっと話していてね。非常にびっくりしたのは、彼がね、英語で言いますと、「We don’t wanna sell that land to niggers. We don’ t want to sell」。それで、「No sir, if they come up to this hill, I’ll be waiting with my rifle」って。そういうような、人種偏見のすごいところがあるんですよ。その時僕が思ったのは、「じゃあ彼、僕のことどう思ってるのかな」って(笑)。
池上:名誉白人ですかね(笑)。
中川:「Honorable Japanese」ですよ。
富井:「Honorable White」ですね。
中川:そうそう。だから南アフリカに行くと、日本人は「honorable white」でしょ。
富井:ヴァーモントでもう一つ大きな変化は、風景が作品の中に入ってくることですね。
中川:そうです。
富井:「風景の発見」みたいなことで。それまではずっと静物画とか、日常のオブジェみたいなものを描いていて、静かな作風になっても、やっぱりまだ「静物」でしたよね。
中川:そう。(カタログを見せながら)こういう具合にね(《EchoⅡ》、1972年)、これが1972年ぐらいですよね。ずーっと来て、73年に瞑想の世界に入った時に、これ(《Still Life》、1973年)が出てくるんですよ。
池上:やっぱり全然違いますね。
富井:静物の背景が本当に黒くなってるわけですね。
中川:これは一年しか違わない。だけど描いてるオブジェはおんなじなんですよ。鉛筆とかハサミとかが出てくるんですよね。その後に、これ(《Still Life with Earth》、1975年)が出てくるんですよ。これがヴァーモントに行って一番最初に描いた絵です。
富井:土が入ってますね。それから耕運機ですよね
中川:そう。「earth」が入るんですよね、初めて。これは非常に僕にとっては記念的な作品なんだけども。こないだ僕のディーラーのイーサン・コーエン(Ethan Cohen)が、これをmost important collectorに売りました。
富井:そうですか。《Still Life with Earth》って、そのままズバリですね。《土のある静物》ということになります。それは畑の土で。
中川:そうです。1975年の作品です。ここ(《Still Life》、1973年)でちょっと飛躍して、ここ(《Still Life with Earth》、1975年)でまた自分の自然の世界にもう一度こう……
池上:がらっと展開して。
中川:どうしてかって言うと、こないだお見せした、僕の中学生時代の風景画があったでしょ。ヴァーモントに入って僕は、自然にリ・イントロデュース(reintroduce、再紹介)されたんですよね。僕の両親の宝塚の家っていうのは非常に素晴らしい家なんですよ。武庫川があって、六甲山があって、トンボがいて、コウモリがいて。夏なんかは色んな蝶々が出てくるんですよ。その自然というのは、ものすごく自分のエッセンスになってるんですよね。多分日本の人はそういう人が多いんじゃないかと思うけど。それをヴァーモントに行って、もう一度(発見した)。それまではニューヨークのハイ・テクノロジーだとか、機械の文明だとか、マクルーハンのああいうフィロソフィカルなアイデアに非常に僕は影響を受けてましたけど、ヴァーモントに行って、「あ、やっぱりこれだ」と思ったんですね。
富井:それ以降ずっと自然物を描いておられますよね。人工物はなくなりましたよね。
中川:もうほとんどなくなりました。明日僕65歳になるんですよ。
池上:おめでとうございます。
富井:じゃあシニア・シチズンですよ(笑)。
中川:だから昨日も真っ先にサブウェイの窓口に行って、「Give me a form」(笑)。
富井:地下鉄が割引になるんですよね、ニューヨークは。
中川:そうなんだ。あれは半額だそうです。だから友達が、「ウェブサイトでBenefit for the senior citizen.comに行ってごらん。色んなベネフィットがあるから」って言うからさ(笑)。それ楽しみにしてるんだけど。だからこれから僕は、まあ北斎じゃないけども。北斎は82、3歳の時に神に向かってお願いしましたよね。「神よ、私にもう10年ください」ってね。「もう10年いただいたら、ほんとに素晴らしい絵ができるんです」っていうことをお願いした。それで神は北斎に5年ぐらいくれましたよね。僕は神に「すいませーん」って、「こういう人間ですから、たぶんまだ30年ぐらいいると思うんです。ほんとに立派な絵を描けるまでは30年ぐらいいりますから、明日僕はシニア・シチズンになりますけど、もう30年ください」って。明日僕は、それを瞑想でお願いしてみようと思うの。そうするとほんとに立派な絵が描けるんじゃないかな。やっぱり芸術家っていうのは、早死にはだめですね。僕の友達でも自殺したり、早く死んだりした人たちいますけど、早死にするとだめですね。ほんとに素晴らしい絵を描いていても、見ていると段々やっぱり消えていきますよね。作品の数も少ないし。もちろんフェルメールみたいな人もいますけど、彼は特別ですね。35、6点でしょ、彼の全作品。ものすごく特別やと思う。今の人はね、やっぱり5,000点ぐらいないとだめよね。
富井:中川さんは何点ぐらいこれまでありますか。
中川:そんなにないです。たぶん2,000点ぐらい。
池上:でもあと30年あれば(笑)。
中川:そう(笑)。一番プロダクティヴな時代に僕自身は入ってるから。多分いけるんじゃないかなと思いますけども。
富井:あと、皆さんにお聞きしてることがあるんですが、日本で生まれてこちらに来られたわけですけれど、制作の中では日本人として制作してるのか、あるいはニューヨーカーとして制作してるのか、何かそういうアイデンティティに関するような意識っていうのを持って制作なさってるんですか。それともそういうことは関係なく制作なさってるのか。
中川:「中川直人」というのはやっぱり日本がなくては存在できなかったと思います。だからやっぱり僕の頭にはその意識は絶えずあると思います。「やっぱり日本人」っていう。
富井:先ほど自然との関わり方、っていうこともおっしゃってたし。
中川:そうですね。たとえばアーシル・ゴーキー(Arshile Gorky)っていう素晴らしい作家がいます。ゴーキーの伝記なんかを読んでいると、彼の絵には非常にバイオモルフィックな、色んな不思議な形が出てきますね。その本を書いた人が、「この形はどこから出てくるんですか」ってゴーキーに聞くと、「あれは私が12、3歳の時まで育ったアルメニアの自然なんです」って、そういう答えが出てくるんですよね。「あ、素晴らしいこと言ったな」と思って。僕もやっぱりそういうところがあると思う。ほんとに自分のハートにある、頭にある自然っていうのは、日本人としての僕という人間と、日本の自然っていうのかな。やっぱりそれが僕の本質だと思います。
富井:それでいてニューヨークで、画家としてのキャリアを始められて、今まで展開して来られたわけで。その部分はアメリカ的なアーティストのアイデンティティっていうのもあるわけですか。
中川:そうやねえ。あんまりそれは考えたことないけど、僕の場合は割と半々に入ってると思うの。僕のアメリカ人のワイフ、もう2人目でしょ。家に帰るとほとんど英語ばっかりでしょ。もちろん外に行っても英語ばっかりだし。僕は英語で喧嘩するのもうまいし、議論も大好きだから(笑)。割と僕はそういう意味では、非常にアグレッシヴに前に出ていける人間だと思うんですけど。だけどそれも、アメリカに40年以上いて、自分でそういうトレーニングをしてるんじゃないかなと思うんですよ。たとえばコロンビア大学なんかで教えてると、やっぱり日本人的に黙っていると何もハプニングしないんですよ。ここではとにかく、もうしょうがないから、とにかく前に出て行かないと自分が駄目になるんですよね。だから今ニューヨークにもたくさん日本人が来てますけど、やっぱり日本人にとっての最大の問題は、西洋人と一緒にいて、どないして喧嘩して、自分を前に出すかっていうことやと思う。ここでじっとしていたら、絶対にレコグニション(recognition、認知)は出てこないと思います。もちろんネットワークも大切なんだけど、とにかくここでは勉強をむちゃくちゃしないと。だから僕なんか今でも色んな本読んでます。アートの本だけじゃなくて、政治とか経済とか、色んなこと知っていないと、ここでは生存できないんですよ。知らなかったら相手にされないから。だから昨日も会ったドリー・アシュトンさんとか、フロラ・ビドル(注:Flora Miller Biddle、ホィットニー美術館の前プレジデント)さんとかね、ニューヨークに住む人たちってのは、ものすごくソフィスティケイトしてるんですよ。文化的にもインテレクチュアルにも。だからちょっと知らないことが出てきたらね、やっぱりだめなんですよ。そこでもう議論が終わっちゃうから。だから彼らよりも、それ以上に知っておくっていうのはものすごく大切ですよね。それを僕は日本人のアーティストに対して言いたい。コロンビア大学でも、大学院のプログラムには、日本人がほんとに入れないんですよ。なんで入れないかというと、日本人のアーティスト的に考えると、「仕事が良ければ認めてくれるだろう」っていう気持ちがあるわけ。それは甘えなんだよ。
富井:学生さんだけじゃなくて、日本のアーティストの人も「作品が良かったらそれで勝負」みたいなことをおっしゃいますよね。
中川:そう。でもそれは勝負の一部なんですよ。まあ半分だよ。たとえば今コロンビア大学のグラデュエイト・プログラムは、イェールを抜いてアメリカでナンバーワンです。すごいですよ。僕はそのグラデュエイト・プログラムを作った「a member」なんですよ。もう今は教えてないけど、僕はあそこで非常に大切なロール(role、役割)をしたんですよ。僕が最初に教えた頃は、世界中から応募者が600人来た。600人のうちから、14人だけ選ぶんですよ。
富井:少数精鋭ですね。
中川:今は何人だと思う。
池上:10倍ぐらいですか。
中川:2,000人よ。2,000人からね、14人なんだ、これ。
池上:すごい倍率ですね。
中川:すごいですよ。だから僕が学生だとしても絶対入れない。何で決まるかっていうと、もちろん半分は作品よ。選考を重ねて、半分になって、また半分になって、最後はだいたい50人ぐらいになるんですよ。50人ぐらいに今度はメールを出して、「何月何日の何時に来てください」って。そこで30分間、自分の仕事、自分の人生、これから考えてるアイデア、過去のアイデア、それをまとめて、グラデュエイト・プログラムのステューデント全部、それからプロフェッサーも全部、その前で30分しゃべる。これで決まるんですよ。いかに自己表現できるか、っていう点を一生懸命見てるわけ。これができない人はもうぱっと切られちゃう。僕なんかは「こんなんで決めたらおかしいよ」って最初言ってたんだけど、今の方向としてはもうこうなんですよ。
富井:それまでに一応作品の選別っていうのはまずあったわけでしょ。
中川:そう、作品はみんな知ってるわけ。だからほとんどの人はね大体、何点だったかな、20点スライドを提出できるんですよ。だからもう一人ずつスライドもずらーっと並んでるわけ。
富井:コンクールの選別と一緒ですね。
中川:そうそう。それを見て、「どうだ」って。イエスの場合は手を挙げて、ディフェンドする。ほとんどの場合はノー(手を振りながら)(笑)。もう無残ですよ。
富井:最後にその発表があるわけですね。
中川:そうです。だから普通の人は絶対に入れない。一番最後はもうポリティカルになるわけよ。アジア人もちょっと入れないといけないし、白人ばっかり入れたらみな怒るから。女性も入れないといけないし。結局そうなっちゃうんだよ。そこからほんとにグレート・アーティストが出てくるかっていうと全然。Nobody cares about that。
富井:その先は学生さんの問題もありますから。個人の。
池上:本人ががんばらないと。
中川:そうね。僕がアーティストになろうとした時とは違って、今はコロンビアの学生に「どうしてアーティストになりたいんですか」って聞いたら、「I wanna make money」って言いますよね。
富井:もうそれははっきり。
中川:むちゃくちゃなこと考えとるな、と思うんだけど。僕は非常に嫌な方向に行ってると思う。なんでこんなけったいな方向に行ってるのかな、と。
池上:「口で全部説明できて、プレゼンできたら最初から作ってないよ」っていう考え方もあるわけですよね。
富井:一方でね。
中川:そうそう。だからこの点はドリー・アシュトンと僕は同意するんだけど、最近アーティストでもね、Ph.D.をほしがるのよ。
富井:いますね。
池上:それは日本でも同じ傾向がありますね。
中川:ドリーなんかは「This is ridiculous」って言うわけ。「なんでPh.D.が関係あるの」って。でもやっぱりこの傾向と、言葉による表現がつながってるって、分かるでしょ。だから僕らから見たら、けったいな方向に行ってるの。こんなに一生懸命に絵を描いてる人って、もう僕らぐらいで終わるのとちがうかな。たぶん。
富井:そのあたりが興味深いですね、将来どうなるのかね。
中川:と、思うよね。
富井:言葉が来て、あと映像とか、ニュー・メディアの傾向もあるし。でもだからといって「アートを作る」っていう方向自体は、多分なくならないだろうっていう気もするし。
中川:なくならないと思うけどもね。僕は明日シニア・シチズンになって、神が僕にあと30年ぐらいくれたら一番嬉しいけど。まあくれるか、くれないかは別として、僕の今後も考えてみると、「世界の静寂」、「サイレンス」、それがなくなる前に僕は一生懸命そういう絵を描きたいな、と思う。
富井:サイレンス。
中川:サイレンスを。それが僕のほんとのウィッシュ(wish、願い)ですね。だから時々考えて、僕のワイフにも言うんだけど、僕は75歳とか80歳になって、まだニューヨークにいるっていうことはしたくない。どこか田舎に行きたいですね。そこで静かに僕は絵を描きたいと思ってる。それが僕の今の計画ですけども。分からへんよ、またクレイジーな血が沸いてきて、ニューヨークでもう一暴れしようかな、っていうことになるかも。あるいは日本の政治界に入りたいなという気持ちもあるわけ。
富井:そうするとあんまり静寂ではないですけど(笑)。
池上:むしろうるさい生活ですね(笑)。
中川:それで僕は思うんですけど、アメリカが僕を必要としているよりも、日本の方がやっぱり僕を必要としているんじゃないかな、という気持ちもするわけ。
富井:そのあたりはこれから楽しみですね。こちらも拝見してて。
中川:だからキャリア・チェンジがあるかもしれないよ。だけど(フェルナンド・)ボテロ(Fernando Botero)さんなんか、コロンビアの国連大使ですよね。もちろんバーネット・ニューマンなんかも、市長選に出たしね。だからこれからもっとアーティストたちが政治に入ってもいいんじゃないかと思うのよね。日本にも『政治と芸術』という本を書いた花田清輝という人がいるでしょ。河原温とよくその人の話をしたんですけどね、やっぱり芸術と政治っていうのは似たところがあるんですよ。だから僕が政治に入っても不思議じゃないと思うんだけどね。
富井:こうやってお話をお聞きしてると、そのままの弁舌で政治に入っていかれても不思議ではないですね(笑)。河原さんがそっちへ行くようには思わないですけども。
池上:(中川さんは)向いてらっしゃると思いますよ。
中川:河原さんはね、政治家に向かない。全然向かない。
富井:でも中川さんだったら向きそう(笑)。最後に聞く質問は、これからどういう風にしたいかという質問だったんですが、聞く前にもう答えられてしまいましたので(笑)。あなたの方からは何かある?
池上:いえ、非常にたくさんお話を聞かせていただいて、大変面白かったです。
富井・池上:ありがとうございました。
中川:どうもありがとう。がんばってください。