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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

中ハシ克シゲ オーラル・ヒストリー 第1回

2021年6月26日

滋賀県大津市伊香立 アトリエにて

インタヴュアー:菊川亜騎、山下晃平

書き起こし:京都データサービス

公開日:2025年11月25日

インタビュー風景の写真
中ハシ克シゲ(なかはし・かつしげ、1955年〜)
美術家 
1955年香川県に生まれる。東京造形大学彫刻専攻研究室を修了。塑像の技法を修得した上で、犬や松、塀や茶室など、記憶する日本の風景や昭和という時代を想起させる立体作品を数多く制作している。1987年の兵庫県彫刻コンペティションで優秀賞を受賞する。1991年には信濃橋画廊(大阪)で個展「松のある風景」を開催。1996年には福岡市美術館で「ああ、「日本の風景」?--大和堀と案内嬢の部屋--」展を開催している。また2000年より約10年間、プラモデルの零戦を2万枚以上も撮影し、そのプリントを用いて参加者と一緒に零戦を再現し燃やすプロジェクト「ZERO Project」を国内外で行っている。2000年には「あなたの時代」(西宮市大谷記念美術館、兵庫)というタイトルのもと、昭和天皇をモデルとする塑像を制作し、昭和を総括する展覧会を開催している。主な所蔵先は、国立国際美術館、兵庫県立美術館、東京都現代美術館など。2005年より京都市立芸術大学美術学部の教員に着任し、2020年3月に退任した。京都市立芸術大学芸術資源研究センターでは「奥行きの感覚のアーカイブ」プロジェクトを開始し、西洋由来の「彫刻」という概念を再考する活動も行なった。1回目のインタヴューでは、生い立ちから秋田や米子など複数の地域で暮らす幼少期の様子、また大学で塑像を学ぶに至る過程、そして記憶を手がかりにイヌや身近なものを題材としていく経緯を中心にお話を伺った。

山下:中ハシ克シゲ先生のオーラル・ヒストリーのインタビューを始めます。マスクをしたまま話しをさせていただきます。それではまず最初に中ハシ先生の生い立ちについてお聞かせ下さい。1955年の香川県にお生まれということで、話せる範囲で大丈夫ですが、ご両親はどういった方でしょうか。

中ハシ:私は香川県の、今は三豊市になっているんですけど、昔は三豊郡だったんです。仁尾町には太陽発電所があったんです。日本で最初にできたところで、塩田の非常に盛んな町ですね。特に香川県は塩田の盛んなところで、そこが私の故郷ですね。中橋家は先祖はそこの仁尾で江戸時代からお酢を作っていたんです。それで仁尾酢っていう、今もあるんですけど、もう何代目か分からないけど、そこが私の故郷です。

山下:それでは、ご家族でそこで酢を作るというのを商いとして。

中ハシ:昔はね。僕のおじいさんのその上ぐらいで分かれたのかな。でもお墓はそこにあるもんだから、墓参りはそこへ行ってという感じです。それで父は国鉄の職員に、愛媛大学で機械工学に出たんですよ。それで最初に川崎造船に入ったんですけど、戦争になって、長崎のほうの大村海軍航空隊というところで、零戦のエンジンを取っ換え引っ換えする、要は技術者になったんですね。それで戦後は川崎造船には行かないで国鉄に勤めるようになったんですよ。そのときは公的な機関だったので、みんなに良かったって言われたらしいです。それに伴って、おやじは香川県の多度津って予讃線と土讃線が交わっているところに国鉄の大きな工場があって、その工場で働くようになったんですよ。そこで貨車の設計をするようになったんですね。それでその多度津に鉄道の官舎があって、僕はそこで多分ものごころついた頃からは家族で暮らすようになったんです。それで母はその当時では珍しく、職業婦人だったんですよ。栄養士だったんですね。だから僕が小さい頃からもうずっと働いてました。その代わりに、日中は僕のばあちゃんが、母の母ですけども、幼いときから一緒にいてくれて。それで小学校3年ぐらいまでずっと一緒に。だからばあちゃんとそれから僕と、それから下の妹がいて、5人家族です。妹は4歳下でしたけど、一緒に暮らしてたんですね。

山下:お母さんが栄養士というのは、何か、小学校とかそういうところで。

中ハシ:病院の栄養士です。

山下:そうなんですか。それでは、もうほとんど平日は朝から夕方までお仕事ですね。その間は、中ハシ先生は、おばあちゃんと小学校から帰ってきたら一緒にいて。それで、妹さんもいてという。
中ハシ:ええ。別に楽しく(笑)。ただ、どういうのかな。それから仁尾酢の僕のじいさんが絵描きだったんです、日本画家だったんですね。

山下:美術関連の話が出てきましたね。

中ハシ:そうなんですよ。それでじいさんは、京都の今の(京都)工芸繊維大学に入ってたんです。浅井忠とかが先生だったんですよ。

山下:つながってきますね。

中ハシ:そうですね。それで仁尾に、じいちゃんのアトリエがあったんですね。だから僕は仁尾に帰る時はじいさんのアトリエ、一緒に住まいもあってそこで何かしていたんですよ。それで、じいさんは月に1回、僕の父親にお小遣いをもらいに(笑)、多分そうだと思うんだけど、月に1回多度津を訪れて来たんですよ。

山下:中ハシ先生の住まいとは少し離れているんですね。

中ハシ:そう。おじいさんは仁尾にいて、僕らは多度津にいたので、電車で20〜30分。それで、じいさんは僕にいつも画を描いてくれたんですよ。例えば僕がゾウさん描いてって言ったらゾウさんを描いてくれる。で、ネコ描いてって言ったら、要するに僕が言うものは目の前で全部描いてくれた。それで、お土産は必ずクレヨンだった。それが本当に嬉しくて。

山下:おじいさんはチラシの裏とかに描いて。

中ハシ:そうそう。そのときあった、広告の裏にでも、要するに白い紙の上にぱぱっと描いてくれるんですけど。いつもお土産のクレヨンで描いてくれる。それで僕が、それが本当に嬉しくて、飛び上がって喜んでましたね(笑)。それだけじゃなくて、こうやって、外に出て走り回ってましたね(笑)。

山下:そんなに。だから、中ハシ先生もやはり絵を見るのは好きだったんですね。

中ハシ:そうそう、自慢でした。僕にとってのスーパースターでしたね。

菊川:でもその頃、近隣で画家のような方はあまりいらっしゃらなかったんじゃないですか。

中ハシ:全然いなくて、知らないし。ともかく、もう僕にとってはスターだったですね。毎月来てくれるので、それで僕は絵が大好きになっちゃって、僕も描くようになりますよね、自然に。僕はクレヨンをせっかくもらってるのに鉛筆で描いて、そこを塗りつぶすような感じでしたね。だから小学校から帰ってくると、よく2階から見える風景とかを鉛筆で描いたり、それが嬉しくて。それとかこだま号とか、新幹線とかが雑誌に出始めてて。

山下:お父さんつながりですね。

中ハシ:そうそう、お父さんつながり(笑)。それでそれを写すっていうか、そういうことをしていまし
た。

山下:妹さんも一緒にですか?

中ハシ:妹は僕の4歳下で、まだ幼稚園ぐらいだったので、絵はそんなにしていないかもしれないね。何せ僕が、おじいちゃんが大好きだったので、それで絵が好きになっちゃったので、でもじいさんはおやじには克シゲは絵が好きだけど、絶対絵描きにしちゃいかんと。

山下:そうなんですか。

中ハシ:もう言明していたようですね(笑)。

山下:その後の運命とはですね。

中ハシ:そうですね。もうそれは懇々と言ったようです。にもかかわらず、じいさんはお土産としては絵の具とかそういうのを持ってくるんですよ。

山下:それでは、お父さんは技術者みたいなことを考えておられた?

中ハシ:そうですね。自分の父親が食えないのをよく知っていたので(笑)。それでもう家族で食っていくためには、自分はそういう公務員にならなきゃならないと思ったんだと思いますよ。賢明だと思います(笑)。だから家に沢山、じいさんの絵が掛かっていたんですね。

菊川:おじい様はどこかでご発表されたりしていたんですか。

中ハシ:それは知らないの。

菊川:団体に属されたとか。

中ハシ:そういうのは多分どこにも出してないんじゃないかな、分からない。

菊川:香川から出かけて一緒に展覧会を見に行ったり、そういうことはありましたか。

中ハシ:僕はじいさんの展覧会を見たことは一度もないですね。ただ、その頃の絵の売れ方っていうのは、そういう展覧会でどうのじゃなくて、例えば仁尾なら仁尾の素封家っていうかお金持ちみたいなのが来て、それで絵を頼んで、描いて渡すみたいな。あるいはお寺だったらしいですよ。仁尾のお酢屋さんは大きいんですよ、だから蔵とか何かがあって。そしたらお寺がいくつかあって、そういうお寺はすごい昔から仲よしですから、境内でじいさんの絵を並べてはそれを売ったと聞いています。

菊川:頒布会というか、そういう即売会みたいな。

中ハシ:それはおやじから聞きました。そうやってお金がなくなると、お寺で並べて、売ってたんだって(笑)。そう言ってましたね。だから多分、仁尾に行くと、僕のじいさんの絵はたくさんあるんじゃないかと思うんです、いろんなところに。だからお酢屋さんにもお酢を作ってる絵なんかが、僕のじいさんが描いた絵がずっと掛かっていました。こないだ行ったら(笑)。

山下:すごい。それは中ハシ先生への影響は大きそうですよね。

中ハシ:とても大きかったと思います。

山下:水墨でしょうか。

中ハシ:水墨です。色彩も少し入れるんですけど、もちろん。どちらもやってたね。

山下:掛け軸で。

中ハシ:軸物も、それから屏風も。家にまだ屏風があります。僕の部屋にも時々広げて。そうすると、何かいい気持ちになりますね。包まれているような感じになる。

山下:それでは、やはり幼少期の思い出がだいぶ中ハシ先生の記憶に残っているんでしょうね。

中ハシ:そうですね。今も、こんな箱に100枚ぐらい、もっとあるかな、こういう仕立てていない描いたものがたくさんありますね。

山下:絵を描いていない時の様子もお伺いしてるんですが、おじいさんが来ない時とかは普段どんなふうに中ハシ先生は遊んでいたのでしょうか。外で遊ぶタイプだったとか。

中ハシ:母親が高松の病院だったんですね。朝早くに6時ぐらいにもう病院に出かけて。僕はそのあとを追いかけて。

山下:追いかけて?

中ハシ:もう母親がいなくなるのがすごい辛くて、それで朝そっと出ていくのに僕が気がついて、捕まえて、行かないでくれって泣き叫んでる記憶がありますよ。それで母親はすごく困った顔をしたのを何度も、いや、本当に記憶にありますよ。今考えるともう母親の気持ちになると本当辛かったと思いますね。

山下:でも寂しかったですよね。

中ハシ:であったと思いますね。それでだから僕のおばあさんが相手をしてくれましたね。妹は小さかったので、どちらかというと、ばあさんが一番僕を育ててくれた人になるかもしれません、日中ですね。それから幼稚園に連れて行ってもらった。3歳のときからもう保育園で、3年保育だったんですね。だからその当時も珍しいと思います、3、4、5歳で。

山下:小学校の時の休み時間や友達とはいかがでしたでしょうか。

中ハシ:僕はどちらかというと、今思うとアスペルガーだったんじゃないかと思うのね。先生が話しているのがよく分からないのね。例えば保育園で運動会とかがあっても、「用意ドン」って言っても僕だけほかを見ている、みたいな子なんですね(笑)。それで何をしているのかが理解できないような感じの子だったみたい。それで母親はだいぶ心配して、それでいまだに覚えているんです。高松の、週にとか、毎月なのか何回か連れて行って、相談に行っていたのを思い出す。僕はただ何をしているのか分からなくて。

山下:そうですか。

中ハシ:そうだったですね。ぼんやりしてるっていうか。

山下:仲のいいお友達とかは? よく話す子とかはいましたでしょうか。

中ハシ:そこは鉄道の官舎なので、20戸とか30戸の家が並んでるんですよ。それで同学年の僕の小さい頃からの友達ですね。その子は保育園はいってないので、幼稚園ぐらいからは一緒になって遊んだり、それからその時はいわゆる蒸気機関車ですから、土讃線と予讃線が交わってるから大きな工場とは別に機関区っていうところがある。そこにも官舎があったんですよ。そこで例えば、機関車の運転手の息子とかがいて、そこの子とまた遊んだり。だからクラスでも40人いたら10人ぐらい、もっとかな、国鉄の職員がものすごく多かったんですよ。

山下:それでは学校が終わったらそういう鉄道の乗り物のそばとかで遊んで。

中ハシ:そうですね、機関区のあたりでそういう友達と遊んだりとかいうことをよくしてましたね。そうすると、その機関区の友達のお父さんは機関車の運転手じゃないですか。そうすると、自分の息子なんかを見つけると、こう、鳴らしてくれるんですよ(笑)。

山下:そうなんですね、いいな。

中ハシ:それで大きな台車でぐるっと回転して。

菊川:乗せてもらったりとかね。

中ハシ:そうそう。

山下:それは楽しいです(笑)。ちょっとうらやましい。

中ハシ:お風呂もおやじが働いているその工場のほうに家族で行くんです。大きなお風呂があって、国鉄の職員さんだけが入れるんです、男風呂と女風呂のお風呂に。その機関区にもお風呂があったな。工場のほうに、家族でみんな連れて行って、ばあちゃんも一緒に行って。それで(おやじの帰りが)遅いときは、おやじがまだ仕事をしてるのを見たりしてました、図面を引いてんのね。

山下:お父さんは近くにいた存在だったんですね。

中ハシ:そうですね。同じ町にいて、だから歩ける距離の中にいたっていう。そうそう、そのお風呂は自分にとってはプールのような印象なんですよ。それも三つだったんじゃないかな。もう100人でも入れるような感じだったね。

菊川:町自体が鉄道関係者で成り立ってるんですね。

中ハシ:そうです。あと少林寺で有名だったの。多度津は少林寺拳法の発祥地なのよね。そうすると、町を歩いてると、少林寺の格好をした若者が歩いてましたね。

山下:中ハシ先生の子どもの頃の様子が見えてきました。

中ハシ:僕はぼんやりしてるというか、活発ではあったんですけど、授業が何してるのか分かんないような子だったの。だから成績むちゃくちゃ悪かったんですよ。通知票は、そのときは小学校1年生では、どうやら1はつけないっていう主義だったらしい。なので、僕の通知簿は全部2だったらしいんですよ。それで絵だけがちょっと成績がいいのね。ところがその絵も出さないんだって、僕は。

山下:出さない? 提出しない?

中ハシ:提出してないんだって。それで先生がすごく困ったと先生が母親にこぼして。母親は毎学期通知票をもらってくるじゃないですか。それで僕を目の前に座らせて、しまいに泣いてましたね(笑)。

山下:本当ですか。

中ハシ:すごい泣いてましたね。畳をこうやって、畳に泣いてました(笑)。それで僕はなぜ泣いてるのかもよく分からなかったんですよ。だから何かちょっとぼんやりした子だったんですよ。

山下:中学生とか、高校はいかがですか。

中ハシ:それで、小学校の4年生から転勤で秋田に行ったんですよ。

山下:そういえばそういう記事がありました。

中ハシ:おやじは国鉄職員、転勤族で。それでまた秋田にも土崎工場っていうのがあって。秋田市の土崎っていう。そこは大きな港がある。国鉄の工場って必ず港があるところにできるんですよ、運ばなきゃならないから。それで、その土崎工場で今度は働きだして、やっぱりそこに鉄道の官舎があるんですよ。

山下:4年生だとちょっと転校はさみしいですよね。お友達もいるので。

中ハシ:そうです。だから、そのお別れの日はよく覚えてて。多度津駅のところに鉄道関係者がばーっといて、それで僕の友達もそこにいて、すごい泣いて。みんな万歳とかやってるんですけど、僕は全然万歳じゃなくて。もう辛くてですね。

山下:私も転勤したことがあるので分かります。

中ハシ:そうなんですよ。駅全部がこういう感じだったのでびっくりしましたね。そんなの僕も初めてじゃないかな。おやじがそんなにたくさんの人がやってきてくれる人だと知らなかったので。それで秋田に行ったんですよ。3月に入ってたんですけど、東京回りだったんですよ。新幹線だったのかな、こだまで行って。そうしたら、だんだん東北に行くにつれて雪が降ってきて(笑)。それでもう、生まれて初めてこんなに雪がうわっと積もってるのを見て。でもわくわくもしました、何も知らないからね。

山下:また新しい環境で。

中ハシ:それで小学校3年ぐらいになると、一応何となく授業とはどういうものか、先生が何を言っているかがちょっと分かってきて、大体その頃はオール3になってたの(笑)。それで、やっぱり美術もその頃になっても出さないので、5にはしてくれなくて4とかそんなのだったの。

菊川:出さないっていうのは、どういうことなんでしょうね。

中ハシ:分かんないの。家に持って帰っちゃったらしい。完成してないので出さないんだと思うんだ。ともかくすごく緻密に描くんですよ。だからよく家に帰って、2階から風景描くって言ったでしょ。向かいの瓦の一枚一枚全部描くんです。全部描かないと気が済まないような。とにかくちっちゃく、細かく描くのが大好きで。だからこだまとか機関車の動輪の下のこのピストンとか何かを細かく描いたり(笑)。

山下:もうどんどん時間が経ちますね。

中ハシ:そうそう。そういうようなことだったと思います。どっちかっていうと、家を塗るよりは線、鉛筆で細かく描いていくのが好きだったと思いますね。

菊川:熱中してずっと書き込んじゃう感じですか。

中ハシ:どうか分かんない。ただ、自分は絵が上手なんだっていう意識がどっかにあって。それで、周りもほめてくれるわけ、母親とかおやじが。ちょっとおだててるんだと思うんですけど。

山下:お父さんも絵描きにはなってほしくはないけど一応ほめてはくれる。

中ハシ:そうなんだけど、おだてられましたね(笑)。それで職員が出す国鉄の図画のコンクールみたいなのがあって。それは工場に行って描いたの。

菊川:描きたいものがいっぱいありそうですね、そんな環境にいたらね。

中ハシ:フォークリフトみたいなのを描いたように思います。

山下:すごい細かい。

菊川:小さい男の子にとっては楽しいことばかりですよね。

山下:わくわくの場所で。

中ハシ:そうそう。そしたら入賞して、賞状がきたんじゃないかと思いますね。

山下:もう入賞されたんですね。

中ハシ:それはちゃんと提出できたわけ(笑)。色を塗った記憶があるの、黄色い色をと思いますね。

山下:小学校時代の絵以外の運動とかはどうですか。

中ハシ:普通ですね。

山下:球技とかは好きでしたか。どちらかといえば、家に帰ったら絵を描いてるほうが好きだった。

中ハシ:絵が好きで、それから小学校3年の時に、犬をもらってきたの。ものすごい反対されたんだけど妹と一緒に言って。それでとうとう犬を飼うことになったんだ。それで小学3年生の1年間ぐらいはその犬と一緒だったのね。

山下:それは香川の時に?

中ハシ:そうそう、多度津のね。

山下:それじゃあ、連れて行って。

中ハシ:いや、それで秋田に行く時にじいさんが引き取った。秋田には連れて行かないと言われて、それも辛かったんですよ。

山下:そうですよね。そんな出来事があったんですね。

中ハシ:そうでしたね。秋田は小学校6年の2学期までいたんですね。それが普通なら6年生、卒業するまでいるもんじゃないですか。転勤って大体そうじゃないですか。ところが無情にも、あと数ヶ月っていう時に神戸に転勤になっちゃったんですよ。

山下:神戸ですか。ここで関西が出てくる。

中ハシ:関西が出てくる。それで、僕にとって少年時代の一番いい思い出は、秋田の思い出でしたね。

山下:秋田は結構心地よかったんですか。

中ハシ:僕にとって最高の時間でしたね。今でも一番、神戸の小学校なんて少しも覚えてないし、中学校の思い出なんて苦い思い出しかないし(笑)。秋田の小学校の2年間とちょっとの思い出だけが僕に深く刻まれてますね。

山下:秋田の小学校の人数は少ないですか。

中ハシ:そこも鉄道の関係者ばっかりなの。小学校もクラス40人いたら、3分の1は国鉄の職員だったと思いますよ。

山下:でも一クラス40人ぐらいですね。

中ハシ:そうそう45人か何かで。もう10人以上は、もっといったかもしんないね。そしたらですね、普通、最初に紹介されるじゃないですか。新学期から4年生で、みんな新しくクラス替えして、この子どもが香川県から来たナカハシカツシゲくんです、みんなよろしく。それもね、秋田弁で言うわけですよね。僕は何を言ってるか分からないと(笑)。名前は分かったんだけど。ところが、その国鉄の子どもたちは、僕が新しく来ることは知ってる子がいるわけです。今回も周りは全部官舎で。だからもう国鉄だらけなのよ(笑)。それで、明治から建ってるような家だったの。だからその官舎は馬小屋がありました、家にね。家に馬小屋はあるんだけど、馬はいないのよ。馬小屋の隣は、冬の間中、大丈夫な薪の積まれている倉庫があって、それで女中部屋があったんですよ。

菊川:立派なお屋敷なんですね。

中ハシ:そうそう。1階で平屋なんですけど、でかいんですよ。僕なんかもうびっくりするような官舎だったんですよ。

山下:官舎だけどそういう形なんですね、すごいな。

中ハシ:広い庭があって、池があって、大きな松の木が生えててすごい大きい家だなって思ってたんですよ。でも、もっと大きな家があるんですよ。それは工場長の家で(笑)、平屋で100坪以上あるのよ。でっかいの。もう堂々としたもんなの。それで夜になると部下が来るんです、飲みに。そうすると、秋田に行って初めてなんだけど、部屋できりたんぽができるって知ってる?

菊川:囲炉裏みたいな。

中ハシ:囲炉裏が初めて、そうしてそこに、きりたんぽができるそういう囲炉裏で上から吊るせるようなもんがあるわけ。

山下:それは素敵だな。

中ハシ:すごく古い古い家だったの。それで、便所も二つあったと思いますよ。ともかくびっくりしたの。それで塀があって、秋になるとそこにツタが生えて。するとツタが絡んでて真っ赤になるんですよ。それがきれいで、柿の木があったり。柿は渋柿で食べられなかったんだけど。そういうようなんで、僕としては庭で遊べるし、松の木がこうなったところに、自分で小屋を作って。それで金魚とか何かを飼って。

山下:揃ってますね。

中ハシ:そんな頃があったんだよ。それで、僕は秋田の小学校の4、5年生と、秋田弁をもう1週間ぐらいで覚えちゃって。もう2週間後には普通の秋田の子だったんですよ(笑)。毎日がすごい楽しかったですね。秋田県の教育方針っていうのがとってもいいんです。教育県なんですよね。子どもたちをとっても大切に扱うっていう感じがしみじみと伝わってきて、それで教え方もとっても上手でしたね。最初は何言ってるか分からなかったんですけど。そうそう、国語の朗読の時間に、最初に先生も僕がどのぐらい学力があるのかと思って読ませたのを、今も覚えてる。で、僕が読むと、みんなクスクス笑うの。ちゃんと読んでるんですよ。

山下:秋田弁ではないから?

中ハシ:ちゃんと全部読んでも笑って。もう笑いが止まらなくなんの、みんなが、クスクス。それでもう先生が「分かった分かった、中橋くん座りなさい」って言った。で、そのクラスの一番優秀な級長だった女の子が、その子も国鉄の職員の娘だったんだけど、その子が立って読み始めたの。そうしたら僕がびっくりしたの。秋田弁で読んでる(笑)。言葉はその通りなんだけど、秋田弁のイントネーションで読んでるわけ。それで僕が今度そのときこういうふうに読まないといけないんだなって。それで帰るでしょ。そうすると、その子が僕の家の前で遊んでるわけ、その子はまた違う官舎にいて。その子が来て、でも最初ね、何をしゃべったかよく分かんないです。官舎から歩いてすぐのところには購買部っていうのもあるんですよ。要するにスーパーみたいなもので、国鉄の職員だけでなく一般の人も入れるんだけど、そこでいろんなものが売ってるわけね。だから国鉄って、もう福利厚生がすっごいよくできてるわけ。

山下:町みたいですね。

中ハシ:そうそう、大きな町。それでそこへ母親と一緒に行ったんだけど、おばさんが野菜とか売ってるんですけど、何を言っているのか全然分かんなかったです。で、母親も立ち尽くしてましたね(笑)。

山下:やっぱり違うんでしょうね。

中ハシ:もうびっくりして、僕も何を言っているのかさっぱり分からなかったですね(笑)。

山下:お母さんは主婦ですよね。

中ハシ:あ、それからね、母親はそのときどうするか困ったみたいね。それで、主婦を選びました。

山下:栄養士はちょっとおいといて。

中ハシ:そうそう。栄養士をやめて。それで、母親が家にいてくれるんで、僕はすごく気持ちが(嬉しかた)。おじいちゃんとおばあちゃんは一旦来ようとしたんですよ。それで、1カ月かそこいらは家族6人になって。だって部屋が多かったから、いたんですよ。でも、おばあちゃんはこんな寒いところはとても嫌だと。おじいさんも「わしも好かん」とか言うて(笑)、それで2人とも帰っちゃったわけ。犬は誰がそのとき見ていたのか、分からないんだけど、しばらくして、犬は車にひかれちゃって死んじゃったって聞いちゃって、それでもう泣き崩れたのを覚えてますね。

山下:それは悲しいですね。

中ハシ:それから僕はもう犬は飼わなくなったんですね。

山下:作品には出てきますね。それでは次に、神戸には中学生からですか。

中ハシ:そうそう。小学校の6年生の3学期から神戸の住吉っていう小学校だったんですね。そこに官舎があったんですよ。今度は小さいアパートだったの。初めてアパート暮らしをしたんだ。おやじはその住吉から大阪の鉄道管理局に働きに行ってたんですね。それで僕は小学校へ行っても、もう言葉は、一応関西弁は大体分かるんだけど、語気がすごい強くて。優しくないわけですね、全然。

山下:私、神戸には住んでいたので分かります(笑)。

中ハシ:それからびっくりしたのは、小学校の途中から特殊な教育を受けている子がクラスにいるわけ。それで、中学校は私立の中学校に行くっていうんで、もう既に勉強しているわけ。だって住吉には灘中、灘高があるわけ。僕のアパートのすぐ近くに。そうすると、灘中とか灘高の子どもたちの制服を着ている子が行き来してるわけですよ。それで、隣が甲南の幼稚園だか小学校だか、別のがあって、(ちょっと覚えてない。)アパートの隣がそうだった。全然感じが違って。僕、秋田では百葉箱当番だったの、気象係だったんです。朝9時になると、降りていって今日の気温、湿度、それから雨量、それか雲量、雲を調べる係だったんだ。雨量って雨量計はあったんだけど、それは僕が測る。あとで考えたら、学校内で僕だけがやったっていうことですよ。

山下:中ハシ先生だけが。

中ハシ:てことになりますでしょ。小学校の5年からそれをしたから、1年と半年以上僕がずっとやってたんです。だから夏休みも冬休みも、学校まで来て記録をして、冬はこうなってるのを給食のおばさんのところに行って、雪を溶かしてもらってメスシリンダーに入れて、何ccって計ってたんですよ。それは冬もですよ。冬休みも行ってたの。雪かき、ラッセルしながら行ってたんですよ。

山下:それはやっぱり楽しかったということでしょうかね。

中ハシ:秋田の先生は僕の性格をよく知ってたんだと思うんですよ。折れ線グラフとか棒グラフを書かなきゃならないんです。文化祭になると、その先生がわざわざ模造紙1枚分が全部入る大きなライトテーブルを作ってくれて、そこに書きなさいって言って。それで模造紙をずっとつないでいったんですよ。そうしたら折れ線グラフとかが、教室を1周半したんですよ。

山下:大作ですね。

中ハシ:大作だったんだ。生まれて初めて、そんなでっかいのをやったのね。それが大きい思い出になってますね。それで僕はそういう毎日何かすると、何かができるんだなっていう。また褒めてもらったし、成績もちょっと良くなって。それで僕は秋田弁でしゃべらないこともできるでしょ。

山下:話した方のスイッチを戻せるという。

中ハシ:ちょっと戻せるわけ。そうすると、正しい標準語も一応は言える子だったらしいんですよ(笑)。いわゆるテレビのアナウンサーと同じイントネーションでしゃべれる。おやじも実はそういう人材だったの。おやじは動輪の研究してたんです。機関車の動輪っていうのは鋳造で、よくその頃は脱線することがあった、動輪が折れて。だから、非破壊検査って、要するに、超音波で測って中にクラックがないかどうかっていうのを始めた、日本で最初の人だったらしい。それで特許を取ったんです、国鉄で。それが今も使われてるようです。そういう研究はチームでやったらしいんだけど、発表はおやじがしたようです。東京で発表したらしいんだけど、そういうところで発表するのを秋田の人はできないみたいなんです、秋田弁がなまっているから恥ずかしいらしい。それでおやじが発表をして。今も使われているらしいんだ。勲章みたいな、メダルみたいなのをもらいましたね。国鉄総裁賞か、そういうのをもらって家にあります、今もね。

山下:中ハシ先生の素地みたいなのものが見えてきています。お父さんやおじいさんや、あと引っ越しと。

中ハシ:だから僕ね鋳物をやったんじゃないかなと思うのね。それで小学校6年生の時の思い出は、校歌が歌えないっていう。卒業式になるとみんな校歌を歌って卒業するじゃないですか。みんな涙を流しながら校歌を歌ってるじゃない。僕だけ歌えない、校歌を覚えてないのよ。しょうがないから、リズムが違う土崎小学校の校歌を何となく口の中で(笑)。僕は歌えないので涙を流すっていう感じだったの。それで僕が小学校の終わりの頃は少しだけ成績が良かったので、母親はどう思ったか、僕をその灘中学校に入れようと画策しちゃったんですよ。それで、他の人たちはもう小学校の4年とかからずっとそういう専門的な勉強をしてるわけじゃない。それで模試とか受けさせて、うちの子はどうだろうって。そうすると全然成績が違うわけじゃない。それでどうやら諦めたんですけど(笑)。担任の先生に、「いや、全然違うんですよ。あなたの子どもはそりゃ秋田ではできたかもしれないけど、ここではもう全然勝負になりません」とか言われて。それで随分言われて、またこんなになってと悔しがったのを覚えてますね(笑)。母親のその辛いような顔は常にどこか覚えてんだよね。

山下:何かありそうですね。

中ハシ:母親を喜ばしたいっていうのが常にありましたね。

山下:そうしたら、そのまま公立の中学校に。

中ハシ:公立の小学校にいって、住吉中学校にいきましたね。それで秋田では元気いっぱいだった。スキーはできるようになって、相撲が面白くて。それから小学校の話をもうちょっと言うね。裸足で登校だったのよ。6月とか7月になると、1カ月間、自宅から小学校まで裸足で登校しなさいって。それで、みんなが裸足で歩いたんですけど。そうすると学校の上がるところに水場と洗い桶があったのよ。そこで洗って上にあがるんですけど、その学校は100年以上経っている木造の校舎で、廊下にも隙間があって、その隙間からほうきでこうやって、ごみを全部落とすような感じで。それで拭き掃除でしたよ。だから釘がぴかぴかになって光ってた。校庭は石ころが全然ないの。だから朝礼になると、ちっちゃい石をそうやってみんなで拾いなさいって言って。だからね、その土崎小学校のことをものすごいよく覚えてる。

山下:だいぶ出ましたもんね、中ハシ先生の素地が。

中ハシ:小学校の運動会はみんな裸足靴じゃなくて足袋みたいな、走る用の足袋をみんな買うのね。それでみんな走るの。多分それもそういうこともあったからだと思う。歩くじゃない? そのときは馬が荷車を曳いていた。それで馬がうんちするのを見てて、初めてアスファルトになったぐらいの頃だった。なので、犬が歩くコースが分かりました。犬は日陰をいつも歩くんですよ。太陽が照っているところは熱いのよ。僕も同じですよ。橋でも欄干の陰のところを自然に歩くようになって。そうすると犬はどう歩くかとか、猫がどう歩くか本当によく分かるようになって。それで足の皮が厚くなって、そのうちひびが入るようになるの。そうするとひびの間に当然泥が入るじゃない。で、かちかちになるんだね。それでお風呂に入って、そのかちかちになったところをタワシで取るのが日課だったの。でも、それがとっても楽しい感じ。もちろん夏が終わるとやっぱりまた靴になって、それから長靴を履いて、今度はスキー登校で、スキーで学校まで行くとか、あるいはスケートで行くとかそういうのだった。それで、何せ秋田の時の小学校の2年間とちょっとの思い出は、僕の最大の思い出。だから中学校は住吉中学だったんだけど、それもう大嫌いだった。もう思い出したくないくらい。

山下:そのまま高校は神戸でしょうか。

中ハシ:住吉中学で、そこの東灘区の高校はどこかって、そういうのをまた勉強をするわけ。それで学年でトップクラスは神戸高校に行くわけ。その次はどこどことか。そうするとまた母親は「頑張って克シゲ、模試で頑張んなさい」とか言う。それでまた学習塾に行かされて。もうつまらない。おやじはテニスをやってたの。国鉄のテニスの大会で準優勝をしたりして。ちょっと運動もできた。だから僕も中学校はテニス部に入って、おやじがちょっと相手してくれたり。アパートの隣にテニスコートがあったの。甲南小学校のテニスコートだったと思います。すると、日曜日はやってないのね。忍び寄って、それで友達とテニスで遊んだりしてた。テニスはちょっと好き、ほんの少しだけ(笑)。大体運動はあんまりできないけど。ところがまた転勤になったの。今度は鳥取県の米子市に。中学3年生の1学期から米子市立第一中学校に転校になったんですよ。そうするとまた方言が。

山下:そうだったんですね。本当にずっと転校だったんですね。

中ハシ:そうそう。

菊川:それでは高校も鳥取になるんですか。

中ハシ:そうなんですよ。だから中学校の最後の年でしょ。そこでまたどこの高校に行くかって、一応進学校っていうのはあるんだけど、わかります? それで、ああ、僕は良かったって、ちょっと、マッタリして。ここってフルイがちょっと粗いわけ、フルイが細かくないの。それで、ああ、良かったと思って(笑)。それで米子東(鳥取県立米子東高等学校)というところに行ったんです。

山下:すごい環境が変わるんですね。

中ハシ:米子東高校は、その地域では野球で有名だったの。甲子園で準優勝したことがあるっていう。

山下:それはすごい。

中ハシ:明治からある歴史のある高校で。どのクラブも全国制覇をしてるような、柔道も剣道もとかいう。それでむしろ野球はまだ全国制覇してないっていわれてたんだ(笑)。僕が高校に入ったその春は甲子園に出たんです。それで見上げるような大きな人が、あ、こんな人が野球部なんやって。そういう人がバスに乗っていくのを見ました。そうすると既に寄付が始まってて(笑)。母親は喜んで寄付してました(笑)。

山下:そこではクラブのほうは。

中ハシ:それで僕は映画研究部に入ったんです。

菊川:そこから文系にシフトにしていく。

中ハシ:そう。

菊川:ずっと美術の話をあまり聞かれなかったので(笑)。ご関心がどういうふうに動いていくのかなと思って。

中ハシ:そうそう(笑)。だんだんそっちになっていくからね。それで米子東に入るじゃない。高校に入ったら、「ええっ」て。みんなよくできるわけだ、当然のことながら(笑)。それで、僕なんて80点以下になってくるわけで。80点以下の点数ってあんま取ったことないのに、何で僕80点以下になるんだっていう感じになるわけですよ。それで僕は勉強がだんだんつまらなくなってきたわけ。だって、自分はできるって思ってたのが、「ええー、何でー」みたいな感じですよ。

菊川:絵を描くご趣味とかは続けておられたんですか、小さい頃から。

中ハシ:中学校とかは出しなさいって言われれば出してたんで、まあまあって感じだね。でも特にすごいクラスで一番とか、そんなんじゃなかったと思いますよ。大体クラスで一番っていうのは漫画のうまい子ね。成績とは無関係にあいつは絵ができるっていうやつは漫画ができるやつなんですよね。

菊川:そうかもしれないですね。

中ハシ:それで僕は漫画はそうでもないので。漫画が描ける人には劣ってましたね。漫画を描くっていう感じはあんまりなかった。

山下:でも高校時代も映画研究部には入ってるけど、家で絵を描いたりしたんですか。

中ハシ:まったくしていません。なぜ映画研究部になったかっていうと、月に1回ぐらい映画研究部の部員さんがやってきて、映画を見たいやつはいるか、みたいな、割引券やるよとか。

菊川:神戸にいる時には、例えば映画をご覧になったりとか、展覧会を見に行ったりとかは。秋田とは全然違う環境になると思いますけど。

中ハシ:いいことを聞いてくれた。中学校1年とか2年ぐらいから映画をこっそり見に行く趣味ができました。歩いていける映画館が本山(神戸市東灘区)にあったんですよ。それで『招かざる客』とかを見に行ってましたね。シドニー・ポワティエとか……。

山下:それは映画館が近くにある環境になったからですか。

中ハシ:あったんだ。

山下:友達に薦められたとかではなくて。

菊川:でもそういうのに関心のあるお友達とかもいそうですよね、やっぱり。

中ハシ:どうだったんだろうな。

山下:映画は結構先生に影響を与えてそうですよね。

菊川:中学校だとなかなか行動範囲や、できることは限られる。

中ハシ:映画は時々見に行って、お小遣いで月に1回ぐらい見に行ってた。あと、僕はプラモデル狂だったんですけど、それは小学校からずっと続いてて。それから住吉にいた頃もプラモデルをやってたんですよ。それで中学校に入っても少し、米子にいってもちょっとはやってたんだけど、だんだんつまらなくなってきて、映画が好きになってきちゃって。それで映画をよく見るようになったんですよね。いいこと言ってくれた。中学校ぐらいから映画を見る趣味ができて、それで高校に入って映画研究部に入ると割引券がもらえるし、それから招待券をもらえる。映画研究部の部長は招待券を何枚も持ってる。

山下:それはいいな(笑)。

中ハシ:米子にその頃映画館が三つ四つあったんですよ。それで割引券をもらった時に、招待券ももらえる。機関紙を出して、そこに映画評を書かなきゃならない。それで僕は、部員になったら招待券で映画評を書きますと言って。映画研究部の部長さんはいっぱしの映画評を言うわけですよね。ここはつまんないとか、ここはいいとか、もうちゃんと。僕はそういうのを生で初めて芸術論を聞いたような気分がしました。それで映画にのめり込み始めまして、高校の2年生から映画研究部の部長になっちゃったんですよ。

菊川:映画のジャンルとしてはどういうものを。

中ハシ:すべて。もうオールラウンド。それだけじゃなくて、鳥取県西部映画連合会っていうのが、連盟会かな、その会長だったんですよ。

菊川:かなり本腰を入れて。

中ハシ:(笑)。そこの高校が主催する西部映画連盟会っていう、いくつも高校があって、その高校は全部映研があって。僕の高校生活はそういうふうになっちゃうんです。それで一応機関紙とか出したり、それから映画も作ると。作るって言っても配役とか、シナリオを書いたりなんかはできなかったので、文化祭の記録映画とかそういうの。8mmカメラを貸してもらったりなんかして、そのときにはフィルムに音声を録画できるような。それから学校で映画を上映していた。文化祭は映画祭といって、『禁じられた遊び』とかを上映した。東京の映画会社に言って、そして朝の一便で米子駅に着くわけ。それを取りに行って、そしたら9時の映画に間に合うんですね。1人50円で(笑)。そしてあと『禁じられた遊び』とか、それから『忘れられた人々』、ルイス・ブニュエルね。ルイス・ブニュエルって分かる?

菊川:分かります。

中ハシ:そういうのを。自分でも今思うと、いいのをやってたんだなって思います。

菊川:自主制作とかはどうでしたか。

中ハシ:自主制作は文化祭の様子を撮って。学校から特別予算をもらって初めて撮ったの。つなぎ合わせるとかそういうようなことを初めてした。誰も教えてくれる人がいないから、どうやってフィルムを撮影するとか。その頃は富士フイルムで、要するに安いフィルムです、ダブルのやつで、それで撮っていたんですね。シングル8(注:個人向け8ミリ用のフィルム)はだいぶ後でしたね。ぎりぎりシングル8が間に合ったんだか、ちょっと覚えてないけど。

菊川:今の素地がありますね。

中ハシ:そうですね。それを撮ってました。ともかく高かった、フィルムがね。僕が申請をして学校に特別予算を出してもらって。

山下:中ハシ先生が部長をしていたときの研究会の規模は、大人数なんですか。

中ハシ:実際に活動してるのはほとんどいないです、2、3人で。それで僕は2年生から美術部にも入ったんですよ。美術部と映画研究部の2つに入ったんです。兼部で入ったの。それで高校の2年生の夏休みが始まった頃に進路相談がありまして、もう俺は美術大学にいくと。というか、映画を作りたいと、映画を作れる大学に行きたいと。そうしたら東京造形大学と日大(日本大学)の芸術学部に日本最初の映画学科があったんです。

山下:そこで(東京造形大学が)出てくるんですね。

中ハシ:ええ。なんだけど、それでやっぱり黒澤明とか、篠田正浩とか調べるじゃないですか。そうすると、そういう人は映画の大学がないときですから、普通の早稲田とか何か出て、それから映画監督になってるわけじゃないですか。

菊川:そうですね、その時代の方は。

中ハシ:そうでしょ。だから別に、映画学科のある学校に行かなくてもいいんだと、一応は思ったわけ。でももうそこに行くのが一番いいのかなと思ったけど。

山下:迷いが。

中ハシ:そう、迷いが出た。それで一応高校2年で、いろんな大学の入試問題をすると美大は2年の2学期のレベルで大体合格できたんですよ。それでもう終わった、で、もう勉強しなくていいと。つまりあと僕に足りないのは絵だと。それで美大だと。黒澤も絵コンテをたくさん描いた。それで、絵なんだと。でも、デザイン科を受けようと思ったんですね、多摩美のデザイン科とか、あと東京藝大の工芸科のデザイン。そこを目指そうと。それで高校2年の夏休みに初めて、すいどーばた(美術学院)に行ったんです。

山下:そこからなんですね。

中ハシ:もうだから美術の勉強をしないといかんって。高校の美術の先生は東京藝大出身の先生だったのね。金畑実って地域で有名な方で、本当にいい絵描きなの。美術の時間もただ描いてこいって言うだけなのよ。もう自由な。そのとき、何を思ったかっていうと、美術の先生になりたいと思いましたね(笑)。だって、高校の美術の先生って自由だな。美術の準備室で自分の絵を描いていればいい。

山下:時代ですね。

中ハシ:なんですよ。しかも尊敬されてて、髙島屋とかで個展を開いているんですよ。超売れてて。美術館にも(作品が)入ってて、「何これ」って。今も遺作展とか美術館で展覧会やってます。こないだそれに僕は出品させられたんです。

菊川:鳥取も美術サークルというか、鳥取県内の美術館ネットワークとがしっかりありますよね。

中ハシ:そう。それと彫刻家の辻晋堂がいたから。辻晋堂は米子の近くの安来の出身なの。米子の公会堂の前には辻晋堂のブロンズの彫刻があって、毎日それを見てたんですよ。

菊川:その頃は京都芸大の先生ですよね。

中ハシ:そうですよ。京都芸大の最初の彫刻科の先生ですよ。

菊川:中ハシ先生の進路の選択として、京都芸大というのは。

中ハシ:なかった。

菊川:近いからっていうのはなかったんですか。西日本の方は京都芸大は選択肢に挙がりますけど。

中ハシ:全然なかったし、京都は目の中に入ってません。鳥取は東京ですね。何で京都みたいな。何で大阪みたいな感じです、その頃は。だから私学でも早稲田ですよ。みんな早稲田とかそっち行くんですよ。あと国立大学は鳥取大学とか広島とかはありますよ。でも私学は大体東京で、同志社もいましたけど、早く帰れるからかなっていう感じで、思考が東京でしたね。僕自身もそうだったんですね。だから研究所は、高校2年にすいどーばたに。大阪に中の島美術学院とかあったけど、全然レベルが違ってて。そういう資料とか配られているじゃないですか。もうこれはすいどーばただなって行きました。僕の先輩もすいどーばたで浪人をしていて、僕が2年生のとき3年生で、東京藝大受けるっていうすごく成績のいい先輩がいたんですよ。芸術学科だったら余裕で入れるのに、何でか油画で受けるって言うんですよ。その人も2浪するんです。僕はすいどーばたに2年生のときも3年生のときにも夏休みに行きました。最後に合評があるでしょ、デッサンを描くたびに。そして上中下に分かれて、上段だと大体東京藝大入学可能性がありっていうね。

菊川:東京藝大でもデザイン科のコースを受けようと思って、すいどーばたに行っていたのですか。

中ハシ:行きました。そのときに今でも覚えてるけど、高校2年生の夏休みの夏期講習で教えてくれたのは、東京藝大の学長になった人でした(笑)。イルカの先生ね、でした。

菊川:宮田(亮平)先生。

中ハシ:ものすごい話が上手で、「おまえら、地方からやって来た村一番の絵の上手な子だろう」とか言うんですよ。言い方がうまいんですよ。「そうだろう、俺(宮田先生)もそうだった」って(笑)。「それで僕はもう自信満々で東京藝大受けたんだけど落ちて、このすいどーばたに来たんだよ。ギターペイント水彩だったかな、なんかで12色のやつできたんだよ」と言って。「村一番だったんだけど、ここへ来たら本当にびっくりした」とかって言って(笑)。それで「おまえらは幸運だ、僕らに教わるからな。今からしごいてやる」とか言うんです(笑)。そのまま覚えてます、一言一言を覚えてる。

山下:でもそれは泊まり込みでっていうことですよね。鳥取からですので。

中ハシ:そうそう。

山下:親御さんはいいよと。

中ハシ:母親は大反対ね。「何で… 克シゲ」とか言って。

山下:遠いですしね。

中ハシ:でも成績がどんどん悪くなってますし(笑)。なんだけど、おやじはあんまり言わなかったのね。

山下:最初「絵描きにはなるな」みたいなことでしたが。

中ハシ:そうそう。

菊川:でもデザイン科でしたらね、就職にも有利かと。

中ハシ:でも言ったのは、僕は最低でも高校の先生、美術の先生になるからと。だって僕はそのときは美術の先生になりたいと。ほとんど可能性として80%、90%が高校の美術の先生、金畑先生のような。

山下:そういう、イメージができてたんですね。

菊川:地元に戻る。

中ハシ:もう、金畑先生についていくっていう感じだったわけで。それで東京藝大、多摩美も武蔵美も受けたんです、現役のときに。もう軽く落ちましたね。学科は本当に何もしてなかったんです。それで僕、学科っていうのはやらなかったら成績下がるんだっていう、初めて判ったんですよ(笑)。学力はしなければ落ちるんだと(笑)。それで、あれーみたいな、何やこれは。英語の成績でもぎりぎりのところにおるやないか、何だこれはみたいな。英語で稼いで、国語で稼いで、それで実技でちょっと何とかしないといけないのに。これはもういかんと。それから新宿美術学院っていうのに行くんだ。そのときに下宿も探して。

菊川:それでは浪人ということで。

中ハシ:東京で浪人しました。

菊川:でも東京での浪人をよく許してくださいましたね。

中ハシ:というか、でないと入れないの。もうだって金畑先生が「無理だ、東京しかあり得ない」と。「東京に行くしかない、長い目で見てやってくれ」と、直接言ってくれたの。「僕には見どころがある」と言ってくれたんですよ。

菊川:そうやって、力強く推してくださった。

中ハシ:そうなんですよ。デッサンを見て、「(東京に)行ったら大丈夫だ」って言ってくれたんですよ。

山下:金畑先生の影響が大きいですね。

中ハシ:金畑先生は今思うととってもいい先生でしたね。それで僕が浪人時代に家がまた引っ越したんですよ。

山下:4回目の。

中ハシ:俺の妹がまたかわいそうなんですよ。今度は高松に。

山下:だいぶ元の所に近づいてきましたね。

中ハシ:それで今度、おやじは高松の鉄道管理局に移ったのね。そうすると、今度はまた高松は米子とはまた違うフルイがあるんですよ。米子よりはフルイが細かいんですよ。そうすると、僕の妹はフルイの細いところにいかされるわけじゃない(笑)。そのうちの妹が高校2年か1年のときだったかな、また引っ越しちゃったんです。今度は大阪。大阪でまた鉄道管理局だったの。それでそのときに岸和田に家を建てたの。それで僕は帰省先が岸和田になったわけです。大学の最中にっていう感じですかね。とにかく、僕が大学に行ったらもう帰るところは、最初の年は高松だったかもしれないけど、次の年は岸和田だったっていう感じだったと思う。その辺はちょっとよく覚えてないです。

山下:かなりすぐですね、引っ越しになるのが。

中ハシ:とにかく妹はそれでまた受験の狭間で、妹はついてかないで高校で高松に下宿しました。

菊川:妹さんは美術にご関心は。

中ハシ:全然ない。妹はしっかりお勉強のコースだった。文系だったんですけども。

菊川:中ハシ先生がデザイン科から最終的に彫刻科に入られた経緯っていうのを、お伺いしないと。

中ハシ:そうそう、それで僕は2浪したんです。3回も落ちちゃったんです、東京藝大。それで、最初1年目は、現役のときは全部デザイン科だったでしょ。1浪目は東京藝大はデザインじゃなくて工芸を受けたんですよ。なぜかというと、工芸のほうが魅力的に思えたんですよ。デザイン科は出たら会社員に思えた。ちょっと違うっていう感じになっちゃって。それで工芸科を出てる人は作家っぽいなと。そのときは、工芸出身の毎日現代(注:毎日新聞社が主催した現代日本美術展の通称)に出してる作家とか多いんです、金属の。彫刻に出てる人よりも、工芸に出てる人の出品がかっこいいみたいな感じだったんですよ。それで目がそっちにいちゃって。で、2浪しちゃう。でも3浪はできないと。一応工芸科は彫塑もあるんですよ。立体構成もあれば彫塑もある。何が出るか分からないっていうね。それで彫刻も受けたんですよ。それで僕は平面構成があまり好きじゃなかったの。ポスターカラーを溶いてカラス口を使ってぴたっとやって、きれいな画面を作るのはできてるけど、引いてみると、どうもあとで塗り直したいとか、できてから塗り直し塗り直しで、時間がどんどんかかって、3回も4回も塗り直して最後はパリパリとか、そんな感じだったのね。もうほかの連中は一発で決めてるんで。それで僕は普通の絵みたいにとかできない感じだったの。着彩は上手だったんです。だから工芸は着彩で課題が出たときもあるんで、こっちはいけたんですよ。それで2浪するんで、今度落ちたら3浪目は絶対だめ。それで武蔵美も彫刻で受けて。

菊川:何で彫刻が急に出てくるんですか。工芸科ではなくて彫刻が、代替案として出てきた。

中ハシ:倍率が低かったからです。倍率が。あと東京藝大は工芸科を受けて。彫刻じゃなくて。でも倍率は低いんだけど、新宿美術学院からなかなか彫刻は入れないんですよ。その頃定員が20人いたら、21人すいどーばただった、補欠も含めてすいどーばただったんですよ。

菊川:それぞれに強みっていうのがありますもんね。

中ハシ:だから彫刻を受けるんだったら、すいどーばたへ行かないと、もう無理だなっていう感じだった。それで、僕が塑像を好きなのはちょっと分かってくれて、それで今度は落ちるわけにはいかない、今度藝大に落ちたら私学。「じゃあ、中ハシくん、もう造形大学は人体の木炭デッサンだけだから、中ハシくん、大丈夫だ」と。だけど人体デッサンって僕はあんまりしたことないし。一応描いたんです、コンクールだったのか、そういう時間があって予備校でも描いた覚えがあります、木炭で。それで武蔵美と東京造形。一応入っちゃった。

山下:彫刻で入るんですか。

中ハシ:そうそう。でも予備校の先生は「東京造形大学の方が絶対いいんじゃないの」って言ってくれたんですよ。なぜかっていうと、予備校の1年生の時に東京国立近代美術館へ行った時に《群馬の人》(1952年)が出てたんですよ。それ、すごいなと思ったんですよ。彫刻から職業まで分かるっていう感じで、群馬出身に見えるっていう感じがあって、他と全然違う感じがしたわけですね。それで予備校のデザインの先生に「佐藤忠良って知ってますか」って聞いたら、「知ってるよ、いい作家ですよ」とか言う。それで、ああ、そうなんだ、知ってるんだ。それで彫刻の先生と話しても、「造形大がいいよ、受けるなら造形大を受けろ。日大もいいよ」って言うんだ。「あそこに柳原義達っていういい先生がいるんだ」と。

山下:それでは3回目の受験のときは工芸科は東京藝大だけですか。

中ハシ:そう。

山下:他は全部彫刻にされたということで。

菊川:その頃って、多摩美は建畠覚造さんが。

中ハシ:だったろうね。あとそれから、舟越(保武)さんが入ったのはそのだいぶ後だったのかな。それから多摩美の受験生が増えたと思います。だから具象の巨匠の先生がいくと、予備校からはいく人が多かったですね。

菊川:柳原さんと舟越さんがいらっしゃればそっちを薦めますよね。

中ハシ:そっちに行ってましたね。東京藝大の先生よりも、むしろ柳原さんとか佐藤忠良さんのほうが名前は通ってたからね。それでどちらも大学を見に行ったんですよ。その頃オープンスクールなんてなかった。春休みに行ったんです、まず武蔵美から行ったんですよ。そうしたら、作ってる人があまりいないんですよ。大学院生が1人だけいて、それで一応学内を説明してくれたけど。やってる人いないんです、休みだからね。それで造形大へ行ったんですよ。そうしたら服装の汚い男の人がいてね(笑)、お話が上手なんですよ。「それじゃ、案内してやろう」とか言って。それで塑像、立体の自分の作品を見せてくれました。その頃は大学院がないんです、造形大学。研究室だけだった。研究室は3年間いれて、3年残ってる人はすごいんです、僕から見ると。そうすると、首なんか見てびっくりするわけですよ。「えーっ」みたいな感じだったんですよね。空間が立ち上がってて、どれも。先生もそこで作ってるんですよ。

菊川:学生に交じって一緒に。

中ハシ:研究生と一緒に。先生も一緒にやるんです、助手とかもね。それで石切り場に行ったら、こうやって石を彫ってるんです。「えーっ」て。なんかね、作ってるっていうか、違うの。「やばい」みたいな感じで(笑)。これは造形大かもしれんなと思ったんですね。受ける時に面接があって。忠良先生が「なぜ来たんだ」って言われて、「いや、4年ぐらいは立体の勉強をしないといけないかなと思いました」とか言ったら、「ほおー」とか言われましたね(笑)。変なこと言ったのかなって……。思ったとおり言ってた。それで入って、先生が覚えていたらしいんで、「おお、おまえ来たな」みたいな(笑)。新入生を並べて、実際、忠良先生が最初に言ったのは、「おまえらは全員落ち武者だ」って言うんです。確かに落ち武者ですよね(笑)。だって第一志望に落ちた連中だし、全員。

菊川:そういうふうな感じなんですね、学校で。

中ハシ:そうですよ。最初第一声は、「おまえらは落ち武者だ」って言うんですよ。それで、「よし、だから、俺は約束してやる」と。「おまえらが卒業するときのビリ、ここのビリと東京藝大の卒業するビリ、1番と1番は比較するのはちょっと分からないけど、ビリとビリだったら保証してやる、うちのほうがいい」って言うんです(笑)。

山下:面白い言い方ですね。

中ハシ:面白い言い方でしょ。「よし、分かったか、そうなれば俺の言うとおりしなきゃだめだぜ」って言うんですよ。それで、これ何度も言うんだけど、三つかかなきゃいけない。「汗をかけ」ってね。それから「恥をかけ」って。そして「手紙を書け」って言うんですよ。この三つをかけって言われましたね。

菊川:手紙というのはどういうことなんですか。

中ハシ:忠良先生はいつも夜の11時ぐらいまで仕事をして、夜中に手紙書くんです、毎日手紙を書いてた、まるでゴッホみたいに。だから忠良先生、文章が上手なんですよ。

菊川:手紙はいろんな関係者に毎日こまめに書かれるんですか。日記を書いてるとかそういうことじゃなくて。

中ハシ:そうじゃなくてね。関係者に手紙を書くんでしょうね。そうそう、教え子からもたくさん手紙が来るみたい。それで誰かを手紙だけで彫刻家にしたんですよ。

菊川:言葉で指導しているということですか。

中ハシ:そう。徳島に住んでる人で新制作展(注:新制作協会主催)に出してる。教育大学を出て、彫刻をやりたいっていう人が忠良さんと手紙のやり取りだけで、新制作の会員になったりしてたの。だって忠良先生は、小学校とか中学校の教科書を作ってるんです、知ってます? これ本当の話なんだよ。電話で話す内容が、そのまま文章になったんですよ。校正だとは思うけど、それを見た人がいるから。

菊川:口述筆記みたいなことですか。

中ハシ:そうそう、それも電話で。中学校の美術の教科書を僕も買いました。それを見ると本当に分かりやすい。あと面白いのはシベリアに行って帰ってきたでしょ。それでそのあと共産党員になるんですよね。それで娘も共産党員になった、佐藤オリエっていう女優ですよね。それで言うのは、「僕(佐藤忠良)は27歳で彫刻に入った」と。彼は浪人も長かった。母子家庭なんです。お父さんが早く亡くなってるんですよ。それで北海道で中学、高校と育って、それから高校を卒業をしてほとんど単身で東京に出てきて、どうやってやったのか知らないけど、絵描きになりたいと思ったみたい。でも忠良さんが言うには、絵がモディリアーニの絵みたいになっちゃったんだって、描く絵、描く絵が。こんな絵になっちゃって困って、それで彫刻を始めたらやっとそこから離れられることができた。27歳で東京藝大に入ったんですよ。遅い人ですよね。

山下:少し休憩を入れましょうか。休憩前の最後に、浪人中の中ハシ先生の、東京にいるときの様子だけ聞かせてもらっていいですか。画塾通いとあとどんな暮らしをされてたのか。

中ハシ:僕は中野区に住んでた。浪人時代は。

山下:東京ですから、色々と見ながら研究所に行ってという感じでしょうか。

中ハシ:割に鼻っ柱の強い人でしたね。もの派とか好きでした。

菊川:大学に入られるのが……

中ハシ:ちょうど二十歳の時なので、1975年ですね。

菊川:ということは、ちょうど浪人のときに、田村画廊とかそういうものを見たり。

中ハシ:そういう『美術手帖』をやっぱり見てたのね。ただ、かけ離れてて。

菊川:予備校の現実と『美術手帖』で見られるような現代美術とがですね。

中ハシ:川俣正と僕、同じだったの。川俣くんとは2浪のとき一緒だったんですよ。川俣正も最初は造形大だったんですよ。油絵で入ってたの。それで2年目にもう一回東京藝大を受けて、東京藝大に行ったのかな。僕、川俣さんと一緒に石膏デッサンのコンクールやったことあったの。全国のいろんな予備校から参加できるそういうの、あるじゃない。それで、そのとき川俣正は1番でした。僕は3番とか4番だった。

山下:でもすごい。そういうのをしつつ、せっかく東京にいらっしゃるんで、結構出歩いていたという。

中ハシ:そう。僕は川俣くんとは予備校のときも全然で、大学でもほとんど口は聞いたことない。彼が浪人の時は。ただ、薄塗りで、あっさり描くやつだなって。そこにエネルギーを込めないような感じ。冷静で。

菊川:でも造形大の油絵科は、割とコンセプチュアルアートにいく方、今でも多いですよね。

中ハシ:多いんですか。

菊川:だから予備校の段階では皆さん一緒でしたけど、大学の選択のときに中ハシ先生が現代美術ではなく佐藤忠良先生のような具象系にむしろ惹かれて、惹かれていったというところが面白いように思います。次の話につながってくる。

中ハシ:予備校のときにも学園祭っていうのがあるんです。そのとき川俣正はキュビズムの絵を描いてたのね。これでデッサンが一番だからもう有名でしたね、予備校でも。だからちょっと距離がありました。僕は頑張って描くほうなんだよね。彼は頑張ろう、がないわけ。汗の感じがしない。

菊川:中ハシ先生は、汗水垂らすっていう佐藤先生のほうに惹かれた。

中ハシ:惹かれて(笑)。佐藤さんは汗をかいて、恥をかいて、手紙を書けって。

山下:色々と見えてきますね。ありがとうございました。

(休憩)

山下:佐藤忠良先生の影響の話も随分伺っていますが、1981年に東京造形大学の彫刻専攻の研究室を修了するまで、大学ではどういった教育環境だったのか。どのような表現方法を学んだのか、「新具象彫刻展」の情報もありますが、少し思い出していただいて、学生生活の様子をお伺いできますでしょうか。

中ハシ:まず、僕は彫刻にいって、それから東京藝大をまた受験したいと思ってたの、未練があったの。川俣がほら、やったように、僕も。

菊川:仮面浪人というか。

中ハシ:そうそう。思ってたの。でも、最初の授業が石の授業だったんです。多摩美もそうかどうか分からないんだけど、まず石の長さ1メートル、幅30-40cmぐらいの石を割る作業から入るんですよ。それも電気を使わしてくれないんですよ。最初に教わるのが、ノミの焼き入れなんですよ。切った丸棒だけ渡されて、これで今から作るぞっていう。それを赤めて、叩いて、焼きを入れるって、今も持ってますよ。それをまず何本か造って。それから今度は、豆矢っていうんですけど、くさびみたいなものなんですね。先程の大きな石を、新小松っていう石に。(注:アトリエにあるノミを見せてもらいながら、)ノミで穴をちょっと掘って、藁をひいてそこに豆矢を入れて、そしてそれを大きなハンマーで叩いて、それで落とすんですよね。古い城壁なんかへ行くと、削岩機はその当時ないわけだから豆矢の入ったあとがありますよね。だから叩いたなって分かるんです。ところが割れないんですよ。大きなハンマーでするんで、僕は体重がそのときやっと50キロぐらいしかなくて、体が振り回されて、当たったと思ったら豆矢が飛んでいくんです、芯に当たらないから。それで石切り場は山の方にあったから、探しに行くんだ。それでまた戻ってきて、やってもやっても当たらないから、それで手はもうまめだらけ。

山下:なかなかにハードな始まりですね。

中ハシ:それで何日もかかってやっと落ちて。そしてそれを直方体にしなさいと。岩の処理、要するに四角くにしなさいと。それで一面を磨けっていう課題なんですよね。そうだった、多摩美の彫刻は?

菊川:確かに丸棒をノミにするっていうのはやりましたね。石材は、電動ドリルで穴を開けて割るところまで。電動は使ってました。

中ハシ:とにかくそういうんで、それでハンマーも柄は裏山に行って取るんです、ウシゴロシっていう木をね。のこぎりは持っていくわけ。それで、「これがウシゴロシだ、切ってみろ」って言うんだよ。切れないです、硬すぎて。こんな木が世の中にあるのかなと思いました。それはもうくたびれ果てるんですよ。

山下:修行ですね。

中ハシ:今も(ノミが)ありますよ。そこにあるかな。これですね(注:自作のノミを見せてくれながら)。

山下:すごい。中ハシ先生の名前も入ってる。

中ハシ:そう。だから大学1年ときから「ハシ」はカタカナなんですよ。

山下:それもお聞きしたかったですけど。

菊川:作品を発表するときのお名前としてカタカナにするのは、もう初めから決めていたんですか。

中ハシ:というのは、じいさんもこういう玄能とか何かに焼きごてで名前を入れるじゃないですか。ハシは漢字だと細かくて入れられない。だから中ハシ家では代々ハシはカタカナなんだよ。

山下:もうずっと使っておられるんですね。

中ハシ:そうですね。柄と頭が水平なの。柄を削るのも全部手ですよ。

山下:手ですか。

中ハシ:うん。電動は全然ないの。

菊川:そうやって、道具を作る体験からさせるっていうのが教育だったんですね、造形大は。

中ハシ:そう。1カ月ぐらいかかって、直方体を作るっていうんだけど、僕は立方体を作ろうと思った。全部がおんなじ辺で。とにかく全部手でやって、最後は手磨きだからね。それで一面ができて回転した瞬間に、端がこぼれるんですよ。大丈夫なように下に座布団みたいなのを敷く。でも回転させると座布団の隙間に小さい小石があって、それで余計に欠けるんですよ。だから座布団しちゃいけないなと。で、垂木のちょっと軟らかいやつに乗せて、ゆっくり廻すと。糸面っていうのをつけなきゃならない。石の角に細い1ミリぐらいの面がありますよ。あれはこう廻したときに欠けないようにです。それを身をもって分かったのね。だから江戸時代のお墓とかを見ると、本当に感動する。どう掘ったかがもうリアルに分かるから。

山下:中ハシ先生はデザインや工芸の関心があった訳ですが、そのようにいきなり彫刻の作業に入っていきますが、すんなりとというか、やってみたら楽しかったんでしょうか。

中ハシ:その肉体労働に驚いた。これ、芸術なの? って思ったんだよ。もう怒りでいっぱいだった。「何で俺、こんなことせなあかんの!」と怒りで爆発しそうだったよ。でも、僕って競争意識が強い人なのね。だからやるんなら一番になりたいわけ。だから一番でかくて、立方体で。

山下:より大変ですね。

中ハシ:そう。もう全部の面が同じ大きさで。できれば全部磨きたいって思いました。石を磨くでしょ。磨いても磨いても光らないんだよ、上手くは光らない。それで最後は少し水を与えて、ちょっとつやを出したりした。それで、合評で先生が、「おおー、中ハシ、でかいの作ったな」とか言う。「おおー、磨いてるなー」とか言って、こうやって、覗き込んでうーってやるんですよ。分かります? こうやって、(石に)先生の顔が映るじゃん。顔が歪んでる。どうやったら歪まないで磨けるわけがあるんだ。光らせるだけでも大変なのに。ああ、俺は四角い石さえ作れんなと。頭ん中では四角とか丸とか言えるじゃない、ね。だけど実際に作るってことはこんなにハードなんだと、できないんだと。概念ということと、ものとの間の恐ろしいギャップをそのとき感じたんです。それまで僕はすっごい鼻っ柱高かったの。さっきもの派の話もしたけど、先端の作品は何となくかっこいい作品だった。なんだけど、まずは目に見える、目の前にあるものができないようではいけないと思ったんですよ、ね。丸とか四角とか、そういうものさえ全くできんのやと。そしてひょっと先輩方を見てたら、新小松じゃなくて御影石で人体を平気で彫っていた。しかもその台座もこれぐらい大きくで。向こうはでっかい台座を御影を磨いて。「これはあかんわ」と思った。その時に、技術のレベルから、意識のレベルから、果てしない差を最初に見せつけられた。それで「やっていけるんかな」って思いましたね。

山下:そういう始まりだったんですね。そのときの同期の1年生は、みんな似たように苦労している感じだったんですか。

中ハシ:どばた(注:すいどーばた)で(東京)藝大を落ちた人たちがたくさんいて。そういう連中は石膏取りとか何かも全部知ってて、最初からすごい作業のレベルがありましたね。それから塑像になって、最初は、お爺さんを養老院から連れてきて首を作るんです。要するに、年齢を作んなきゃいけない。その人の歴史を作んなきゃいけないわけ。そうすると、どばたからきたやつは、ばーってそれができるし。

菊川:このときの造形大の先生方って、どなたがいらっしゃったんでしょうか。

中ハシ:三木さんね。

菊川:俊治さん。そして佐藤先生。

中ハシ:佐藤先生とそれから西常雄、それから岩野勇造先生。一番厳しかった人です。ほかに石の先生いるんですよ。大成浩さんとか。ただ、どちらかというと、塑像の学校なんですよ。石の授業はその四角のあとで、首を一つ作ったら、その首を石に移すっていうだけで終わりましたね。だから、石をやる人は授業が終わったあと勝手にやれっていう感じなんです。だけど石をやる人はとっても多かったですね。だから始終、削岩機の音が聞こえてました。

菊川:でもカリキュラムとしては、人体モデルを使った塑像の実習の時間が多いということなんですよね。

中ハシ:そうですね。それがもうずっと朝から晩まで。というか、それだけでは足りなくて、夏休みなんかはモデルを呼んで自分たちでやってました。そのモデルもプロのモデルじゃなくて、町で声をかけて。きれいな水着のモデルでお願いしましたけどね。

菊川:予備校でいろんな技術を持っている先輩方とかもいたと思うんですけど、予備校の手癖みたいなものについて、佐藤先生なり大学の塑像の指導はどうでしたか。

中ハシ:手癖とかそういうのはなかったですね。本当に自然でした、みんな。だからむしろ、僕の模範になってくれた、ああ、こうやって作るんだなっていうような手順が分かるような感じがしましたね。

菊川:例えば、大学に入って一回そういう予備校の知識を消すような。

中ハシ:それはない。

菊川:それはやっぱり塑像の技術は技術として認めながら、そこから育てていこうという感じなんですか。

中ハシ:面白かったのは、作品を作っちゃいけないんです。大学は作品を教えるところじゃないって。それは方針でしたね。つまり習作なんだと。

菊川:学生の間は発表しちゃいけないとか、そういうことですか。

中ハシ:基本、できるはずないだろうみたいな感じでした。何考えてるんだ、おまえ。全然できないことは身に染みてるわけじゃないですか。四角いのさえ作れないのに何を言ってるんだ、という感じでした。だから、京芸(注:京都市立芸術大学)にきてびっくりしたのは、最初から「作品」とか言うんですよ。びっくり。僕が作品を意識したのは研究生の2年になってからですよ。

山下:それでは、中ハシ先生にとっての学部生活は課題をこなす日々だったということで。

中ハシ:できないから。だって立たないし、変だし。妙な表現をしようとすると、その表現が立ってくるし、見えてるものをどう自分で消化して、形にするかっていうのには長い工程があるんですけど、それを単純化してすっとこっち側に持ってゆくっていうこと、とてもできなかったですね。ただごまかしてるだけに見えてて。

菊川:先生方からもそういうところについては厳しく指導をされますか。

中ハシ:それはね、先生方はいろいろな方がいたから。岩野勇三先生が一応一番べったりで。佐藤先生は岩野勇三先生をすごく信頼していて、忠良先生は週に1回しか来ないのね。岩野先生はほとんど毎日来られてました。ものすごく厳しかった。というか、手が入るんですよ。こうやって。そのへらの一太刀が本当に素晴らしくて、もうその次ができなかったですね。その面の意味がはっきり分かるまで、手をつけられない。せっかくあるのに、その良い面の意味がわからないまま崩すと、せっかくのものを失ってしまうと思って、それでよほど見てましたね。そういうことの連続です。

山下:彫刻の世界に入って、中ハシ先生にとってはそれは楽しかったですか。苦しかったですか。

中ハシ:どうなのかな。苦しさと楽しさは紙一重なんじゃないですか。皆さん、浪人時代の石膏デッサンにもそれは言えるのかもしれないけど、あ、こうやったら空間生まれてるわとか。そうすると、面ができてるわとか、触れるようになったとかっていうような順序を追って、自分の頭にあるものと手が徐々についてきてる感じっていうのがあったわけですね。だから僕は石膏デッサンが嫌になったこと一度もないですね。今は描く気もしないけど。だけど嫌いになったことはなかった。

山下:修行が好きだったんですね。

中ハシ:そうですね。それで、具象が好きなわけじゃないんだけど、何せそれができないのに、次にいけないっていう感じがしたの。だって、目に見えないものを描けなきゃならないんですよね。目に見えるものが描けて、初めて目に見えないものが描けるんだとそう思ってたの。

菊川:学部生の頃は、町中ではいろんな現代美術の個展や個展形式の展覧会とかを見に行ったりは。

中ハシ:大学は高尾だったから、展覧会っていうのに行くのはもう……。

菊川:見に行かなくなったんですか。

中ハシ:そう。よほどでないと行かなくなったね。

山下:その辺も聞いてみたかったんですが。

中ハシ:行かなくなった。田舎もんになりました。

菊川:そこでこもって、制作に没頭することになる。

中ハシ:だからね、時々多摩美の学生なんかと話すと、「ビニール栽培されてるんじゃないの、君ら」って言われた。その中で温室育ちだろうって。

菊川:小さい世界の中でという感じで。

中ハシ:具象でも造形とか多摩美とか日大(注:日本大学)で、できあがってくるものが違うんですよ。それで見た瞬間、「ああ、造形やね」って言われる。悔しいんだけど、かといって、わざわざ日大風に作るっていうのが、何かおかしくて。

菊川:学生の中で話題になっている、目標としている作家は? どこのシーンを見ながら、自分たちで切磋琢磨をし続けてたのかなと思いました。

中ハシ:周りはみんな佐藤忠良とか、それから柳原義達とかやってました。そういうのがいいとか言ってました。でも、僕はもの派だったんですよ。

菊川:そうなんですか。でも、もの派に関心を持ちながら、人体を作り続ける、その技術を高めるっていうのはなかなか難しいのではないですか。

中ハシ:ずっとやってた。だって僕、目の前の問題をやれないと、もの派みたいなところに絶対いけないと思ったの。

山下:先の方にそういうのが見えていた。

中ハシ:だけど小清水(漸)さんのを見たら、ああ、何だ、簡単なことなんだなって、思いましたけどね(笑)。あともう一つ、僕の先輩に黒川弘毅がいたんです、2年上に。彼も鋳造をやっていて。それで一緒に鋳造をやったのね。彼も具象をやってたんです、ずっと。いつも作品の話をよくしたのね。それで、「黒川さん、こんな人体とかやってて大丈夫なんですかね」とか言ったんですよ。そうしたら、「いや、人体だって全然構わない。」って言うわけよ。これだけ頭のいい黒川さんがそう言うんだなと思って。僕より2年も上で、研究生だったから、2年一緒にやったんですよね。僕は、鋳物は2年生から始めたから、一緒にずっと。彼は4年から始めて研究生1、2と3年いったのかな。だから僕は、始めてずっと一緒に、彼が部長だったら僕は副部長みたいな感じ。それで黒川さんが出たあとは僕が仕切ってたの。年間1トン吹きましたよ。だから毎月吹いてたの。いろんな人の首のシリコン型の指導をしたり、蝋の貼り方の指導をしたり、湯道のつけ方とか、指導をしながら型を10個ぐらい集めて、そして脱蝋窯を作って、二晩徹夜して、最後に吹くっていう。その鋳造炉も全部手作りなの。黒川さんはそういうことを最初にやっていく力があった。学校と土地の交渉をして、それからプレハブを建てて、砂場を作って、そしてレンガをもらってきてっていうことを彼は自分1人でやれた人なのね。ものすごく僕は影響されました。そういう何もないところからやっていく力というか。それからよく働く人なんですよ。すごく一生懸命働くけど、肉体を感じさせない。力自慢の人じゃないんですよ。とても理性的な人。疲労しているにもかかわらず、そういう疲れてるってことを漏らしたことがない。計画していく方針と、理論とものとがものすごくうまく合っていて。

山下:制作以外の様子もお伺いするんですが、単純にお酒を飲んだりとか、そういったことはどうでしょうか。

中ハシ:お酒は全然飲めなかったの。

山下:息抜きとかはどんな感じですか。友達関係とか。一日中作っているのでしょうか。

中ハシ:そうだね。だって、授業が終わった後に首を作ってたもんね。デザイン科の子みんなで。

山下:あまり遊んだりとかの思い出もない。

中ハシ:遊んだことなかったね。

山下:すごい。修行ですね。

中ハシ:修行っていうのかな。毎日が楽しかったよ、研究生になって、親からの仕送りがこなくなったので。でも学費はすごく安くて、モデル代だけだったんです。そのモデル代をみんなで分けるだけの話だから、ものすごい安かったの。だから、本当にただみたいなもんだった。

菊川:私学なのにそんなに安いんですか。

中ハシ:そうだった。だけどそこを出ても、別に何かの役職に就くわけじゃなく、ただ研究生っていうだけの話だな。それで僕は朝の早朝バイトを始めて、黒川さんもそれをやってたんだけど、スーパーのおそばを配達するっていう。だからそばの工場で1トンぐらいのおそばを積んで、早朝にスーパーへ行っておそばを売り場に並べる。それをお昼10時とか11時ぐらいまでやる。モデルは1時から始まるので、そのあと学校に行った。それでやってたんですね。結構何とかなったんですよ。だから、一生これでいけると思ったんですよ。だって本当にお金がなかったらそばを食えばいいんだからね。だってほら、いっぱい余るじゃん。持って帰っていいっていうのがあるから。でもそのうち、匂いかいだだけで、嫌になった。それから研究生になってからですが、八王子霊園に石屋さんがあるんだけど、お店の後ろに空いてる部屋があって、そこを安いお金で借りて暮らしてた。夜中は誰もいないんですよ。土日はそこで墓参りに来る人を案内するバイトをするわけ。それでお坊さんを呼んで花を売ってたので、それから駅まで車で送り迎えする。線香に火をつけて、「お坊さんお願いします」とか言って。それをずっとやってお給料をもらってていた。それから早朝のバイト。これでもう全然やっていけると思った。

山下:様子が見えてきました。

中ハシ:一生やれるんだと。だからもう、モデル代がなければ全然やれるやんっていう感じだったのね。僕はもう彫刻しかなかったの。ほかに何かできると思ってなかったの。

菊川:作品を発表したいっていうようなお気持ちとかもなかったんですか。

中ハシ:研究生2年ぐらいから少し出てきた。それで三木さんが「新具象で会員を辞めた人がいるので、補充があるんだけど、おまえどう、入る気ないか」って言ってくれたんですよ。

菊川:新具象彫刻展は定員があるのですか。

中ハシ:あったんですよ。四十何人だったかな。

山下:そこで中ハシ先生は会員になっていくんですね。

中ハシ:僕はすごい悩んでて。新制作っていうテーマも僕にはあったんです、頭にはあったんですよ。で、いいやつはみんな新制作に出すよ。(注:新制作協会。展覧会名は新制作展。)

菊川:やっぱり定期的に新制作には見に行ってたんですか。

中ハシ:もう必ず行ってた。そして僕の同学年だと藤森民雄ってのがいて、それで彼は東京藝大の院に行っているんだけど、大体、新制作に入ると東京藝大の大学院に入ったな。

菊川:つながりがやっぱりあるっていうことですか。

中ハシ:いや、できるっていうことでしょう。4年くらいじゃ入れないから。本当にいないよ。今は知らないよ。4年生で新制作にその当時入れるやつはそういなかった。

菊川:新制作に入るのが難しいということ。

中ハシ:僕もあこがれでした。僕は入れるとは思わなかった。

山下:最初に中ハシ先生はもう一回受験しようかとおっしゃっていました。もうそれはしなかったんですか。

中ハシ:それが、実は4年たったときに大学院を、東京藝大の工芸の鋳金科に入ろうかと思ったんだ、鋳造をやってたから。それで作ったやつを持っていったんです、大学院の先生のところに。「おお、蝋型をやってるんだな」って言われて、「自分でやったほうがいいんじゃないか」と言われた(笑)。「ここは蝋型はあまりやってないからね、君は彫刻をやったほうがいい」って言われて。「ああ、そうかな」と。しかも、何か意識がちょっと違う感じがしましたね。その先生の作ったものは、本当、工芸品だったんですよ。何か違うっていう感じがした。それから研究生に残れそうだったので。1年、2年と残ってやったんですね。黒川さんもいたし。黒川さんと別れるのは嫌だったんだ。

山下:この新具象彫刻展での出品以外にも、卒業制作展とかそういうのはあるんですよね。

中ハシ:それは必ずあります、卒展と同じだから。裸婦を作ったやつを持っていきましたよ。でも今思うと、作品でも何でもないですね。作品になっていないですね。

山下:そういう卒業制作展の中ハシ先生への評価はどうだったんでしょうか。

中ハシ:友人のブロンズを作ったら、岩野さんから、「中ハシ、彫刻じゃねえ」って言われて(笑)。とてもよく似たものを作ったんですよ。本当に、言うならばそっくりですよね。

山下:それじゃだめなんだ。

中ハシ:岩野さんに彫刻じゃないって言われて。それを聞いたとき、足ががくがく震えて、ものすごい冷や汗がもうだーっと流れる感じがして、それでめまいがしました。どうして彫刻じゃないんだろうと思いましたね。

山下:一応単位は取っていかれたということで。塑像もしていたという。

中ハシ:まあまあ、そこそこです、塑像はね。でも僕はトップクラスっていうかな、そういうんではなかったと思うな。トップクラスはやっぱり、ああ、これは新制作だなっていうとか、そういう連中が上に、どばた出身のやつが上に何人かいて。僕はそのメンバーとちょっと距離があったんですよ。何か違う感じがしたんですよね。それから黒川さんと親しかった。僕の首を作ったんです、彼。今、国立国際(美術館)にありますよ。びっくりするよ(笑)。(注:黒川弘毅《首像7》1976年、国立国際美術館蔵。)

菊川:黒川さんが抽象に移るのはもうちょっとあとですよね。

中ハシ:抽象っていえるのかな、コンセプチュアルっていうのかな。要するに鋳物屋さんに就職したじゃない。僕もすぐに鋳物屋さんに就職しようと思ってたの。

菊川:山岸鋳金ですね。

中ハシ:僕は山岸さんところに最初に行ったのね。山岸さんは東京藝大の彫刻出身なんですよ。それで鋳物屋さんになったので、この話しちゃいけないのかもしれないけど、もうすごいの、いっぱいお宝があるんだよ、裏にね。

菊川:抜いたあとの作品とかってことですか。

中ハシ:例えば、いいなと思ったら3体吹くんですよ。それで一番いいのをもちろん渡して、あとは、つぶすんですよ、ね。本当の職人さんは3体吹くんです、失敗したとき間に合わないから。3体吹いて1回失敗するでしょ。だからあと2つのうち、どちらかを選ぶっていう感じなんですよ。それが本当の職人さんなんですよ。だんだん1つぐらいになりますけど、本当の職人さんはそういうふうなことをしてたの。だからもちろん鋳つぶすんだけど、鋳つぶす前のいいやつがある。ロダンは目の前で見れるし、(アントワーヌ・)ブールデルが見れるし。だってギリシャのヘレニズムが手に取って見れるの。「おおー、これか」みたいな。(マリノ・)マリーニとかも。ここで手を抜いてるなとか、ここでぼかしてるわ、みたいな。ここがいいかげんだなとか。どちらかというと、いいかげんなところを見ました。具象をしていると急所があって、最初皆その急所から見るんですよ。そこができているかどうかで大体レベルが分かるんですよ。だからいろいろやっていても、その急所をはずさない、誰も。急所をどう扱うかで、自分の勉強になるんですね。「ああ、なるほど」と。それが手に取って分かるので、鋳物屋さんは僕にとってはもう一番勉強になったんですよ。それで鋳物屋に行こうと思った。自分でもしも彫刻に携わらなかったら、鋳物でやれるって思ったの。それで先に黒川さんが行って、真土(まね)型を始めて、「中ハシ、真土型がすごい」って言うんです。「何がすごいって、何をしているのか分からない」って(笑)。「黒川さんが何をしているか分からないんですか」、「そう、自分が今を何していのるか分からない。ともかく工程が激しくてものすごい作業量だ」って言うんですよ。そんな大変なんだと思って。その当時は真土型を吹いてたんですよ。それからだんだんガス型に代わっていくわけですけどね。

山下:それでは中ハシ先生は研究室のほうに。

中ハシ:残ってやってました。それで2年目のときに、僕の母親が癌になるんですよ。

山下:ちょうど会員になる頃ですか。

中ハシ:それで、僕の妹はそのとき中学校の家庭科の先生をしていたんです。同志社女子大学にいって家政学部だったかな、それから家庭科の先生になったんです、岸和田で。それで父親は国鉄を退職したけど、次の系列の会社に移っていて、僕だけだったんです、看病ができるのが。それで、「もうおまえ、帰ってこい」って言われて。僕も具象の人体をやるのが行き詰まってた。作品ができないっていう感じが、人体をいくらやっても自分のオリジナルが見えてこないっていう感じがしてさ。それで人体じゃなくて、動物を記憶で作ろうとしたのがそれだ。

山下:行き詰まってるときに《Cat on the rock》(1980年)が。

中ハシ:そうですね。

菊川:この新具象展というのが一つ母体にあって、そこで発表し始めたときに出したのが動物だったということでなるんでしょうか。

中ハシ:最初はね、首とか、それから人体も最初の年に出しました。それっきり出してないですけど、でもそれは残してます。人体は壊したんですけど、全部なくなっちゃうので、それだけは今もあります。見ると、何かほろ苦いですね、やっぱり。どこで迷ってて、どういう意識か切実に分かるので。その人体は佐藤先生も作っていたモデルなの。だから同じ対象を使って作っていたもんだから。先生も同じモデルでポーズを変えて作っていたし、僕もそのモデルを原寸で作っていた。

山下:先ほどの記憶で作ってみようと思ったのは、中ハシ先生の中でのひらめきですか。

中ハシ:さっき秋田の話ししたでしょ。8月を過ぎて小さい軽自動車に乗って、1人僕の友達を乗せて行き先のない旅行をしようと言ったんですよ。T字路になれば右左って言って、さいころ振ったりなんかして。日本海側まで出て、北に北に向かうようになったんですね。そしたら途端に僕は小学校のことを思い出した。新潟ぐらいまで来て僕が「小学校を見たい、いいかい?」って言うと、「いいよ」って言ってくれて、それで秋田の小学校を見る旅になったんです、僕にとっては。そして、小学校の前の駄菓子屋を発見したんだ。「まだあるわ」と思った。もう何十年も昔でしょ。それで駄菓子屋を見て、振り返ると(記憶の中に)懐かしい小学校がある。旅の途中で小学校の木造の校舎をありありと思い出すわけ。時計の位置とか植わってる木とか、それから校庭とか、穴の開いた床とか。それからクラスメート全員の名前が出たの。それでもう胸がいっぱいで、僕の楽しかった唯一の子ども時代の小学校にもうすぐ会えると。秋田の町に入ると、もう懐かしい通りがあるじゃないですか。それでもう迷いがないんです、何年も経っているのに同じ道路を車で走れる。そして駄菓子屋を見つけて、振り向いたら学校がない。校庭だったとこに変な建物が建ってるわけ。建て替わってたんですよ。でもせっかくだからと思って校庭に入っていった。そしたら元校舎のところが今は運動場になっていて、それで子どもたちが標準語なんだよ。秋田弁じゃないんですよ。

山下:時が流れましたね。

中ハシ:子どもたちに「おじさん」とか言われて。それで、じゃあ、百葉箱を見に行こうとして行ったら、僕の見た百葉箱じゃなかったの。雨量計がなかったんです。それで地面に僕が使ってた銅製の筒が、ひしゃげた雨量計があったんですよ(笑)。もうすごい、感動して。ああーっていう感じですよね。それで僕はそのときに大きな体験をしたんですね。目をつぶったら、本当に克明に絵が描けたんです、校舎の絵が。すごいリアルにね。それで「写真がないのにこんなに描ける」と思った。それでそのまま青森まで行って、恐山まで行っても、もやもやしてたの。南下して岩手に入って、それから平泉にちょうど入る頃に、どうして俺は目の前にあるモデルを作っているんだろうと。こんなに記憶があるのに、なぜその記憶を大事にしないんだろうと。で、僕は自分の記憶に序列があることがわかったんですよ。もう忘れてしまった、ちょっと分からないものとか、完全に分からないものは記憶に出てこないから。そういう序列がある記憶に気がついてしまった。ところがモデルを見ると、体の細部や全部が序列もなく並んでいるように見えるわけよ。要するにどれを大事にして、どれを省くべきかがよく分からなかったのね。本当は取捨選択がなければ作品化しえない、モデルを見て自分で選ばなきゃならないのに、選ぶことができないでいた。ところが記憶っていうのは、自分がどうしてそれが選んでいるか分からないけれど、序列があることに気がついたわけ。そしてその序列どおりに作ったら、自分の見えているものが作れるんじゃないかと思ったんですよ。それは安易に抽象へいくのではなくてーー安易に抽象にいく人はみんな嘘をついている感じがしたんですよね。何かある概念で作り上げていくだけで、自分の中で自然に生まれてくるっていうよりは、何か自分の中じゃないものとひっついて、作り上げていく感じがした。実を言うと、もの派もそんな感じがした。それで、じゃあ、その記憶でやってみようかと思って、そのとき強烈に記憶を持っているものがあって、それはイヌだった。

菊川:イヌと犬小屋の作品ですね。(注:《Three dog houses》1981年)

中ハシ:イヌは飼ってないんですよ。僕は大学のすぐそばにさっき言った藤森とか、どばたの連中と一緒に5人ぐらいでアトリエを借りてやってたのね。そのアトリエのすぐそばにイヌを飼っていた家があって、ちょっと坂道でですね。それで、振り向いた瞬間に犬小屋のイヌと自分の目が合ったんですよ、イヌの目と。僕はすごく大事なものを見たっていう感じがした。でもその大事なものが説明できなかった。とても大事なものを見たんだけど、それは何を見たのかは分からなかったわけ、言葉にはならなかったの。だから、じゃあ、その犬小屋もまとめて作ってみようと思った。そしてそれだけじゃない、それを野外コンクールに出してみようと。そのときに兵庫で第1回の具象彫刻展があったんですね。そのときは神戸具象彫刻展ってそのあと名前改称されたんですけど、そのときには、神戸新進彫刻家彫刻展とかいう、野外って何かついてたかな。(*後日確認:1981年に「神戸新進彫刻家の道大賞展」が開催される。1983年には「神戸具象彫刻大賞展’83」と改称して再び開催された。)それに出してそれが1等賞だったんですよ。

山下:大賞ですね。

中ハシ:初めて出して大賞で、それは大学でも初めてだったんですよ。高村光太郎大賞展には出ているけど、野外展で1等賞は僕が初めてだったんです。それでみんなびっくりした。それでポートアイランドで野外展覧会をしたんです。母親が癌だったので、賞が取れたら母親も何て喜ぶだろうと思っていて、間に合ったんですよ。読売新聞が主催していたから新聞にも結構大きく出してくれて。それから評論家の本間正義さんも文章を書いてくれて、とても褒めてくれたんですよ。本間さんが審査員だったのね。そして柳原義達も審査員だったの。それで授賞式のときに、「あんた、どこの大学かね」って言うから、僕が東京造形大学と応えると、「へえ、東京造形大学に君みたいなのがいるかね」って驚いた顔を今でも覚えています(笑)。

山下:嬉しいですね。

中ハシ:それまでの私は実を言うと、これはどこかのフォルム、ある様式に合わせてるわけです。本当の記憶じゃなくて、何かのスタイルに自分が寄せていって作ってるわけ。《cat on the rock》(1980年)もこれも、一生懸命作って本気でやってますよ。でも、いわゆる素直な記憶で作ったわけじゃないわけ。記憶で作るっていうのは別にデフォルメする必要はないんです、記憶どおりに作ればいいわけですね。で、イヌは本当に犬小屋の中にいたんですよ。それで目だけ光ってたの。一生懸命作ったけど、(小屋を)上からかぶせたら目が光らないんだよ。それでもう困っちゃって、何をしたと思います? ビー玉を入れたんですよ。

山下:仏像みたいですね。

中ハシ:信じられないですよね。だって、漫画みたいな話じゃないですか、ビー玉を目の中に入れるなんて。子どもの発想ですよね。表現でも何でもないわけです。でも入れた瞬間に、「ああ、近づいた」と思ったんですよ。そのイヌは茶色のイヌだったんだけど、上から光が入るように上に隙間を作って、破れた犬小屋にして、上から光が落ちるようにして。その光のもとで顔が見えるようにしたのね。それは嘘で本当じゃないんだけど、そこはアレンジですね。それとイヌ、小屋も全部FRPで取って。それは蝋型鋳造とやり方同じです。木で作った犬小屋は耐火石膏で被せて、それから全部焼いた。そしたら板目が残るじゃない。そこに樹脂を流して作ったのがこれなんです。僕に本当の記憶があったのは、その真ん中のイヌだけ。その周りはアレンジです、構成上そういうふうにしたのね。

山下:構成上。そうですね、私も何で3匹にしたのかなと今思っていたんですよ。

中ハシ:そうそう、野外で一つじゃもたない。だって小屋の中に入ってるから、だから広がりがないわけ。広がりが出るように、周りをそういうので固めたのね。(注:横たわっている犬の周りに地面と外灯が付いている《視線の鍛錬》(1991年)を確認しながら。/浅井俊裕(編)『MITO ANNUAL `92 大きな日記/小さな日記』水戸芸術館現代美術ギャラリー、1992年、21頁参照。)

山下:この1年の違いですけど、記憶への関心があったけれども、まだ多少、様式とかを借りながら。(注:ブロンズの頭像作品《節》(1983年)とFRPの胸像作品《Man of the TORROAD》(1984年)とを見較べながら。/三木俊治、中ハシ克シゲ、北本雅久(編)『新具象彫刻展を出発点とした東京造形大学の出身者たち』東京造形大学、2014年、34頁参照。)

中ハシ:だってこれ以外、僕、何の記憶もないわけですから。

菊川:中ハシ先生にとって、リアリティというか実感の持ち方というのが作品制作のテーマとして出てきたってことですね、このイヌの作品も。

中ハシ:そうです。

山下:そこに模索があるなと思って。

中ハシ:いくらでも作れるって感じがしたの。これがイヌであろうがネコであろうが、何であろうが。つまり自分がその様式に入ってアレンジして、構成と空間を考えればいいわけだから。でもそれは貧しいなと思ったんですよ。つまりそれは、抽象作家がやっている罠に落ち込んでいると。でも僕はそう言いながらもこういうのを作ってますけど。

菊川:一つ思ったのが、こういうイヌの作品とかを出されたのは神戸具象彫刻大賞展ですよね。ほかの野外彫刻展ではなくって、やっぱり具象の展覧会に出すっていう。

中ハシ:「新進」とついていた。それと母親の居る岸和田に近いと、見に来てくれると思った。

菊川:たくさんコンクールはあるけれども、具象という一つのくくりの中に出すということは、中ハシ先生にとっては必要なことだった?

中ハシ:神戸で初めてじゃない。初めてっていうのは、前がないから傾向がないわけ。分かる? 大体出すときは、前年度が大賞を取ったとか、そういうのってあるじゃない。

菊川:そういうことなんですね。第1回の色がまだついてないコンクールだから。

中ハシ:ついてないでしょ。柳原さんが審査員だったでしょ。そうしたら公平に見てくれると。

菊川:それも大切ですよね。

中ハシ:佐藤忠良に学校で見せていたら、僕は出さなかったと思う。

菊川:一つ思ったのですが、造形でやっていた新具象展もそうですけど、当時、具象彫刻をどういうところで発表するか。個展というのは割と現代美術の作家がやることで、具象で団体展に属さないっていうスタンスでやるならば、どこで発表するかが難しかったという話がありました。

中ハシ:その通り。発表場所が本当になかったの。でも具象をやっていきたいと思ったの。

菊川:具象でも、人体じゃなくしかも記憶の中の動物というふうになると、周りの反応とかも、なぜこうなったんだろうときっと思われることもあったんじゃないかなと思うんです。

中ハシ:私には人の反応は分からなかった。後に幸い神戸市がブロンズにしてくれたんです。今、ラインの館(神戸市)のところに置いてあるの。今、神戸で一番写真撮られてる彫刻かもしれない(笑)。この前で記念撮影みんなするわけ。新具象にも出したの。そしたら岩野先生に、「おまえは今までいろいろたくさん作ってきたけど、これが最低だった」と言われた。

山下:最低ですか。大賞ですよね。

中ハシ:「最低だ」と言われた。4年生で出たときに「これは彫刻じゃない」って言われてさーっと汗が流れたでしょう。でも「最低だ」と言われた瞬間に、さーっとはならなかったですよ。というのは、世の中にはいろいろな見方があるんだなと(笑)。だって柳原義達先生は「すごくいい」って褒めてくれた。柳原さんに「いい」って言われたならいいじゃないかと思ったんですよ。岩野さんが嫌いになったわけじゃないけど、いろんな見方があって一つじゃないんだと本当にわかりました。骨身に染みて(笑)。それから自分は記憶でやろうと。その記憶は何かの様式を引っ張ってきてそこに自分をかぶせていくんじゃなくて、自分の記憶に忠実にやっていこうと。そしたら自分の様式がーー様式とも思わない様式が自然に生まれるんだと思えました。

山下:確認なんですが、仲間のアトリエの近くで振り向いたらそこにイヌがいた。それがとても、中ハシ先生にとっては印象に残ったんですか、そのイヌが。

中ハシ:そう。その目がね。僕とずっと目が合ったんです。軽自動車で上がっていって、こっちを見てたらイヌと偶然眼が合って、ちょっとアイドリングをして見てた。それで、ふっと坂道を上がっていったんですよ。ああ、バックしてもう一回見たいなと思ったんですけど。

山下:ターニングポイントですね。

中ハシ:そうそう。でも、後ろに下がってもう一回見たら、またあの視線、きっとそれには出会えないと思って。それでもうそのままにしたんですよ。でもその記憶は、ものすごく強くあって、新聞紙にボールペンでその顔を何百と描きました。だからそれがあってから僕は今も記憶で新聞紙にボールペンで描くようになっちゃってるの。いくらでも描いて、失敗したらこうやって(破って)いけるじゃん、ね。それで、印刷の文字が入ってるからボールペンで描いてもあまりよく分からないじゃないですか。そうすると、どんどん出てくるじゃない、線が。ちょうどいいのね。真っ白な紙に描くと、始まりが強くて。だから新聞紙があるとちょうどいいのね。

山下:それでは、この作品もできるまでにかなり準備と、どうしようかと考えて。

中ハシ:記憶したものを描いて、そして作るのは、最初は大変だったけど、一瞬でした。でも、自分でも、これはいったい何を作ってんだろうって思いましたね。今までの自分の文法の中に全くないんですよ。犬小屋をかぶせてから覗いてみるわけ。それで作るときは犬小屋に入れてから作るじゃない、ね。もう何か絵を描いてるような感じ。それで犬小屋を降ろしてまた見ての繰り返しでしょ。だから体の構造とか何か、自分でももうむちゃくちゃだと思った。こんな漫画みたいな、イヌの構造から離れたものを作っていて自分は何をしてるんだろうと思って、情けなくなったんだけど。でも、これは確かに見えたとおりだった。本当に(笑)。大事なものが出てると。

山下:直感したんですね。

中ハシ:直感っていうか、これには嘘がないと。眼がビー玉(笑)。それで石膏取りしたのね。そしてポリ取りするじゃない。そうしたらビー玉が石膏雌型のほうについていったのよ。言ってる意味分かる? てことは、目玉が凹面でポリが取れたの。そうしたら、ばかみたいな話だけど、ポリが凹面できれいに球面になってて、光ったのよ。そうしたら自分でも、「おお、やった」みたいな。ばかばかしい(笑)。でも、それは確かに自分の記憶に似てたの。それでそのイヌに名前もつけました、レモンって(笑)。それでメス犬じゃないのにメス犬にしちゃったの。お腹に乳首を作って、それをピンク色に塗って。イヌの彫刻に色をつけるってことだって、すごい抵抗があったんだけど、でも暗いところだから、だから色をつけないわけにいかないわけ。しかも色をつけると、目玉のところが光ってくれて、ああ、これだって。だから、生まれて初めて自分の記憶と本当にそうだなっていえるものが作れたの。でも、そうやって記憶できるものっていうのは、これが最後かもしれないんですよね。いつ次がやってくるかは自分には分からないわけじゃないですか。違います? だって、記憶って、これはたった1秒か2秒かいいものを見たっていう体験で、もう1回あるとすれば、いいものを見たっていう体験がない限り、次のができないってことじゃないですか。ですよね。

山下:そうですね。

中ハシ:それがないと、また何かの様式を借りて何か怪しげなものになっちゃう気がして、それが怖かったです。実際これだけじゃ成立しないから周りを補強して、空間を一応もたせて、それで本間正義にも、「いや、こういういろんなアレンジがあるのも一つの在り方かもしれない」と言われたぐらいなんですよ。

菊川:例えば新具象展でご一緒されていた舟越桂さんも、1970年代終わりから1980年代頭にかけてクスノキを彩色したような人物像とか作られてきて、やっぱり具象彫刻のシーンが少しずつ変わりつつあったと思うんですね。さっきイヌに色をつけられたという話もありましたけど。

中ハシ:舟越さんが初めて色をつけた年と同じか次の年だったんじゃないかなと思います。だけど僕は舟越さんに影響されたのではなくて、白く塗らないと形が見えなかった。犬小屋、暗かったから、だから僕はそれをまねをしたとは思っていません。

菊川:それはもちろんそうだと思います。これまでのやっぱり彫刻には色がないもんだとか、そういういろんな固定概念みたいなのが、少しずつ全体的に変わりつつあったのかなと。

中ハシ:(固定概念みたいなものは)あった。だから僕にとっては革命でしたね。彫刻の様式から、イヌの形の構造から離れることができた。それから岩野さんにぼろくそに言われた。それから色をつけた、そして自分の記憶とそれは本当に嘘じゃないものができたっていう感じがあった。でもそれはとても怖いことで、作ってみたい記憶が自分の中に次にできるのはいったいいつなんだろうって思いましたね。

菊川:1985年の大阪のトアロード画廊でも、イヌをタイトルにつけた個展をされてます。(注:個展「Dog・Days」トアロード画廊、神戸)

中ハシ:そこから始まっていきますけど。

菊川:そのイヌという一つのテーマが、引き続きつながっていくのですね。

中ハシ:これはそういうふうに作ったけど、じゃあ、視線というのをどう作ったらいいんだろうっていうんで、今度はアルミ棒みたいなのを目の中に、ばちっと飛び出すみたいにして。これはどっか(載って)ないかな、写真。《視線の鍛錬》(1991年)っていう。

山下:目録にもありますね、こちらに。(注:『中ハシ克シゲ works 1980-1993』米子市美術館、1994年、25頁参照。)

中ハシ:電柱も、あると思う。それはだからこの初めて見た記憶のイヌを引きずってるの。だからそういうのを何かを借りて、その様式に合わせるんじゃなくて、自分が見た視線というものは、どう形にしたらいいんだろうっていうことだったの。だからこれも本当にイヌかなって自分でも思う(笑)。これが犬小屋の中に入ったときもあったのよ。そういうのもあるんですよ。(注:《Dog・Days》(1984年)/『中ハシ克シゲ works 1980-1993』米子市美術館、1994年、21頁参照。)

山下:出発点にイヌがずっと頭にあって、そして関西での個展につながっていくっていうことになる。

中ハシ:トアロード画廊は、ネコが面白いといってくれたのね。それで「遊びにおいでよ」って言われたので、言ってその主人と話してたら石橋さんという人で、魅力的な顔立ちをしていて話も面白い。この人だったら記憶できるんじゃないかなと思ったんですよ。それでトアロードに行って、石橋さんに「僕に作らせてくれますか」って言ったんですよ。考えてみればさ、作家がギャラリーの中で作るって言うんだから、結構な度胸だよね。僕、それ全然平気だったのよ。それで石橋さんを目の前で作ったの。家では記憶で作った。結局、二つ作った。そして、そこ(図録)にあったと思う。石橋さんは帽子を被っていたんですよ。シャッポを被った石橋さん。

菊川:これですか。(注:《Man of TORROAD》(1984年)/『中ハシ克シゲ works 1980-1993』米子市美術館、1994年、21頁参照。)

中ハシ:帽子も被っている。割と似てると思うけどね。彼はシャッポも被っているんですよ。記憶で作って色をつけたので、それは舟越さんの影響があるだろうって言われたら、あるかもしれない。でもそれは記憶で作ったことは間違いないの。その二つを持っていったのね。そしたら石橋さんが「いいじゃん」って、「両方とも買ってやる」って言ったの。それでこんなぺーぺーの者に悪いので、「鋳物代だけでいいです」って言って、二つとも鋳物代だけいただいた。石橋さんも記憶で作ることができて、それで記憶が面白いと思って、それから兵庫県彫刻コンペティションという野外展があって、そこに出したんですよね。それは一等賞じゃなくて優秀賞か何かで、今もあるんですけど。(注:兵庫県彫刻コンペティションは1987年に開催され、中ハシは《Dog・Nights》(1987年)を出品し、優秀賞を受賞。兵庫県庁公館東庭園(神戸)に設置された。)

山下:そうですね、優秀賞です。

中ハシ:さっきだって電灯みたいなのがあったじゃない。あれ、本当に実物大でついてるんですよ。うなだれたイヌが。これは写真で審査されたんですよ。普通、スケッチじゃない? エスキースを写真で撮ってそれを送ったんですよ。これも記憶があったんですよ。これは写真の記憶でした。うなだれたイヌ。全然違うイヌだったんだけど、すごいすてきだなと思って。写真の記憶でも作れるっていうことが自分は驚いたんです。イヌの種類は、自分の知っている白いイヌが小屋の外に行ったらどんな形をしてるだろうっていうイメージで。

山下:そこからスタートして。

中ハシ:そう。だからダブルイメージっていうか。そんなふうにして、でもそれは自分のものだっていう感じがした。

山下:そこから個展の話も増えていくことになりますね。

中ハシ:それから悩み続けました。

山下:それでは次の<松>の話は結構深くなりますよね。

菊川:そこから明日にしましょう。

中ハシ:分かりました。

山下:記憶やイヌの貴重な話を伺うことができました。そこから松のある風景になっていくんですね。

菊川:でもお父様の作品など造形時代の人物彫刻をベースにしたブロンズの胸像もある。(注:『新具象彫刻展を出発点とした東京造大学の出身者たち』(東京造形大学、2014年)を確認しながら。)

中ハシ:《Second Marriage》があるでしょう。(注:『MITO ANNUAL `92』(水戸芸術館、1992年)掲載の作品を確認しながら。)僕のイヌも入ってるでしょう。

山下:確かに。イヌと松と。(注:《Dog・Watch》(1988年)/『MITO ANNUAL `92』水戸芸術館、1992年、20頁。)

中ハシ:これは記憶というよりは、ボクサーのタイソンみたいなイヌを作った(笑)。

山下:そして松に動いていくわけですね。

菊川:イヌがある風景の中にあったパーツは今度表面化して、個々のテーマになってくる。

中ハシ:イヌと犬小屋がいなくなって、塀と松が残った。

菊川:風景の中からテーマが立ち上がってくるということ、面白いですね。リアリティを持っていたスタート地点から、それぞれのストーリーが始まる。

中ハシ:全部失敗ですよ。すごいドンクサイです、僕の作品ねえ。でも人のまねするの、ともかく嫌だったの。人の様式におぶさっていったら、自分は絶対後悔するっていう。何が何でも自分じゃないと思ったもんで。

山下:いきなり大賞を取ってしまうっていうところが先生だなっていうか、今に至ってますね。

中ハシ:自分でも驚いた。本当に。百何十点かあったと思うよ。

山下:これはターニングポイントですね。ありがとうございます。ちょっと時間も長くなってきました。明日、引き続き宜しくお願いします。