中ハシ克シゲ オーラル・ヒストリー 第2回
2021年6月27日
滋賀県大津市伊香立 アトリエにて
インタヴュアー:菊川亜騎、山下晃平
書き起こし:京都データサービス
公開日:2025年11月25日
山下:第2回目の中ハシ克シゲ先生のインタビューを始めます。昨日、イヌの記憶をというところから一つ新しい作風が登場した話までしていただきましたので、その後の展開から伺いたいと思います。その後に1990年代を前後して信濃橋画廊で、イヌの作風から次に個展「松のある風景」(1991年、大阪)を開催していくということで、松とか塀のシリーズが出てきます。少し制作の苦労もあったというようなお話もありますけれど、改めてそのイヌから松や塀へと展開していく中ハシ先生の構想やプロセスについて、展覧会の作品と一緒にお伺いでれきばと思います。
中ハシ:イヌと犬小屋を作ったんですけど、その一番のポイントは台座がない彫刻ってことだったんですね。だから、彫刻を意識せずに近づけるということがポイントだったんです。普通、いわゆる塑像だと台座がついてて、見るからに、ああ彫刻があるっていう感じだったんですけど、特に具象はそういうものが多くて。だけどそういうのではなくて、歩いてたらいつの間にか犬小屋。近づいたら、あっ、イヌがいるっていうようなことであれば、要するに日本の風景の中に溶け込んでいるんじゃないかなと、そう思えたんですね。
山下:イヌのときに、それを思いついたという。
中ハシ:芝生の上に最初置かれていたんですけど、容易に近づけるというか、気づかずに近づいていけるっていう感じがあって、それでそのときに既に日本の風土にマッチングする彫刻かなと思ったわけです。
山下:松の前、イヌのときに日本という言葉は浮かんだ。
中ハシ:日本というより、風景の中に溶け込むっていう感じ。
山下:溶け込む。そうか、それで松が出てくるということですか。
中ハシ:そうなんです。イヌと後ろに塀があって、その上に松の枝が乗かってるものを作ったんですね。それを毎日現代だか国際美術展だかに出品して、一応入選したりしたんですよ(注:1988年の第17回日本国際美術展に入選)。実を言うと、松は僕にとっては屈辱だったんですね。その塀の上にあるちょろとした松の枝は、自分としては情けない感じがしてました。
山下:その後続々と出てくるようになりますけれども。
中ハシ:実を言うと、蝋材で松を作りたかったんですね。つまり線材じゃなくてね。要するに松は粘土ではできないから。だから蝋を直づけして細くして、それで盆栽みたいに作ったんですよ。それをトアロードで発表したんですね。(注:《BONSAI》(1985年)。『中ハシ克シゲ works 1980-1993』米子市美術館、1994年、21頁参照。)それもあんまり大した出来じゃなかったんですけど。要するに大きい、普通にある松を作りたいと思って、そのとき小さなアトリエを借りてたんですけど、天井いっぱいぐらいになるのを蝋で作り始めたんです。1年半ぐらいかかったかな。ところがね。夏場は暑くて蝋が垂れてくるわけ。それで下から突っかい棒をするじゃない。そうしたら、突っかい棒なのか、蝋の枝なのか分かんなくなって、それでこうなったやつをまたこうやって、奥は手が入らなくなって、それでもう本当泣きました。
山下:それはだから展覧会があるから。
中ハシ:展覧会にと思ったわけじゃなくて、要するに松を彫刻したいと。彫刻は蝋材でしたかったの。いわゆる塑像の延長としてやってみたい。だって髪の毛とか細いじゃない。これはこう細いからって、細いものをたくさんつけたら髪の毛になるかっていうと、髪の毛じゃなくて、何か変なもの、面白いかもしれないけど、何か変ですよね。松も細い松の葉っぱがついているけど、あれをそうやって作るのはおかしいと思って。何とか蝋で作って、かつ近くに寄ると空が見えるとか、マッスがあるんだけど、離れるとマッスは見えていて稜線が見えるんだけど、近づくとそれがスカスカになって、隙間から空が見えるじゃない。それが松の特徴ですよね。枝はくねくねしてて、いじめているわけ。そういうのを彫刻で作りたいと思ったんだよね。普通は彫刻は植物を作ったりはしないけども、ああいう、いじめてるようなものは何かできるような気がした。
菊川:ある種人工的な植物というか。
中ハシ:そうだね。日本の風土とか文化も背負ってるし。
菊川:そうですね。日本人の美的感覚でそういうふうな入り組んだものができている。
中ハシ:そう。それで、1年半ぐらいやったんだけど、毎日。毎日、今日だめだったって思ってしょげて帰るじゃない。そうすると、家に帰ると小さなアイデアが生まれるんですよ。こうしたらいいんじゃないかって。次の朝に行って、やってすぐ30分ぐらいで、あ、これだめだと分かるわけ。そうするとずっと、暗くなるまでずっとうつむいている。そんな毎日。何か、つらくてね。
菊川:それはこの大阪に拠点を移されてから。
中ハシ:そう、自宅の近くにね。小さいアトリエを月3000円で借りました。あの辺は泉南で繊維工場がたくさんあって、だけど不況でもうだんだん辞めていく。僕はいわゆる住宅街にいたんですけど、歩いていると空いている工場を見かける。だけど買うお金はないわけ。そこで、おやじと一緒に町内会長という人に会いに行った。私は東京から来て、貧乏して、でも彫刻をやりたいと思ってる、場所が欲しいと思っていると。ありったけの今までの作品資料みたいなのを見せて、おやじは後ろで黙って立っている。信用が一番大事なんだよ、田舎の人だから。それで「3000円しか出せないんです」って(笑)。そうしたら、その人が「お母さん、何かあるかね」とか言ってね。要するに彼は繊維工場の社長さんだったの。そうしたら職人さんがお昼ご飯を食べる食堂が空いてたの。「うちの食堂がある。そこだったら水も出るし、いいんじゃないですか」ってその奥さんが言った。「そこ貸していただけますか、3000円ですよ」と言ったら「いいよ、もう壊そうかって思ってたから」って言ってくれて。
山下:すごい。
中ハシ:そこ畳だったんですよ。だけど、石膏か何かで汚れるこんな状態になりますけどいいですか、畳も全部上げますけどと言って。そうすると構わない大丈夫だって言ってくれました。そして月3000円で貸してくれたの。敷金礼金なしで。
山下:交渉は大事ですね。交渉と出会いと。
中ハシ:だからね、僕はいつも「不動産に行くな」って。「必ず町内会長のところ行け」って言う(笑)。それから「信用できる人を1人連れていけ」って。向こうは要するにお金のことじゃなくて、変な人じゃないってことだけが重要。おやじの名刺が要ったわけ。そこに何年もいたな。1989年までいたんじゃないかな。そこでずっとさっきのネコみたいなのとその延長みたいなのと、そこで作ってたと思いますね。
山下:こちらですね。(注:『中ハシ克シゲ works 1980-1993』(米子市美術館、1994年、20-21頁)を確認しながら。)
中ハシ:そこで作ってた。これは学校で作ったけど、《Cat in the dark》(1982年)と《Lying cat》(1982年)は作ったと思います。
菊川:それでは大阪で作ったものを新具象展に出していた。
中ハシ:出してた。それで松の盆栽みたいなのを作った。これは蝋型です。
山下:《BONSAI》(1985年)ですね。
中ハシ:1985年。蝋型鋳造と砂型鋳造とごっちゃになってるやつを作ったんですよ。
山下:ブロンズと鉄ですね。
中ハシ:鉄は下の台座でね。
山下:ここで模索が続いてたんですね。
中ハシ:初めて松を作ったの。それで今度大きくしようと思ったんですね。だけど上手くいかなくて、本当に、死にかけました。絶望して。
菊川:関西に移られてから、動物を作ったり、イヌを作ったり、盆栽を始めたりとか割と大きく作風が変わっていくと思うんですが、転居は作品とも関係があるんでしょうか。
中ハシ:まず、モデルが雇えなかった。イヌもネコも動物はじっとしてくれないじゃない。だから記憶で作るよりないのね。《Three dog houses》も記憶で作りましたでしょ。記憶で作ることを自分の中で積極的に取り入れたら、具象でやっていけると思った。でも、限られてるじゃない? 動物って、せいぜい近くにいるのはネコかイヌ。それで本当に行き詰まって、しかも日本の風景の中に溶け込むものって思うと、そこにものすごく飛躍があるんですけど、松があるかなっと思った。それでまずは、大きいのからじゃなくって小さい盆栽を作ってみようと。それもできたときは、何かひでえなあと。何か自分としてはものすごいだめだと思ったね。
山下:私はちょっと彫刻史よりも制度論の方に寄ってしまって、不勉強なところがあってすいませんが、この盆栽や松を彫刻作品にするというのは、やはり今までの彫刻の流れからしても、新しさは出るとかそうい
うことを考えたりはあるのでしょうか。
中ハシ:笑われるだろうなと思いました。何て言うか、全然だめだろうと思ってましたね。望みがない感じがしたの。
菊川:ある意味では盆栽のように一つの概念として成立しているものをあえて彫刻にするみたいなところでキッチュさやユーモアのような、そういう印象もやっぱりありまして。何を主題としていくかというところの切替があるような。
中ハシ:いや、キッチュなことは考えてない。自然と出てくるユーモアなんだと思うんだけど。確かに大きな飛躍で。大阪に来てたでしょう。そのときに僕をすごく助けてくれたのは、大賞をもらって新聞なんかで出たものだから、寝屋川にある摂南大学の建築科からお声がかかって、造形演習の非常勤に来てくれないかっていう話が突然やってきたんですよ。そこを担当している人は画家でかつ建築科の助教授でもあったの。一陽会の画家で岬和男という方でした。ここに書いていると思うんですけど、毎週1日木曜だか金曜に、1週間に1回だけ午前中に2コマ授業を担当した。その授業の合間にその岬さんが美術の話ができる唯一の人だったの。他に面と向かって美術の話ができる人は誰もいなかった(笑)。坂口正之という、《仮作体》(1989-1990年)というのを作って、毎日現代(注:現代日本美術展の通称。)で賞を取ったり、野外展に出品していた人がいて、その人とはコンクールなんかで会うから電話とかをたまにしていた。彼はそのとき有名で、宝塚の造形大(注:宝塚造形芸術大学)の先生だったのね。話していたのはその人ぐらい。毎週話せる人はその岬さんだったんですよ。本名は小豆島一男という。その人はとてもいい絵描きさんだったんですよ。自宅や自分の家の近くの風景を描くんですけど、クスノキがあって家があるとか、あるいは自分の家のファミリーを描くとかということをしていたのね。それで彼も絵の中に自宅の松が入るときがあったの。そうしたら、ちょうどその僕の盆栽とそのところはテーマ的には合ったのね。その彼との会話で僕は松をどう作るかということをすごく学習しましたね。
山下:すごく貴重な話です。
中ハシ:本当にすごく学習した。その人(岬和男)は「松はわびとかさびとか言われて、いわゆる日本的な情緒のものと言われているけど、中ハシくん、本当にそう思うかい?」って言うんですよ。僕は「よく見るとそうは見えない。ただあるだけ」って言う。いろいろと話をして、「その背景にある文化というよりは、松そのものを眺めたらどうだ」という、すごいいいアドバイスをしてくれたんですよ。そして、「ああなるほど」と思って松を見始めたら、わびさびはないなと。もっとからっとしてるなと。からっとしてることをむしろ取り上げていったほうがいいんじゃないかと思ったんだよ。蝋で失敗したから、仕方がないので僕の家にも松の枝があったわけ。それを切ってそして枝の寸法測って、枝の部分を鉄で作って、さびると茶色になるじゃない。全部その通りに作ったんです、溶接して。先っちょは銅線で絡めて作って、それを酸化させたら緑になるじゃない。枯れないわけじゃないですか。そして、今まで松の化け物だったんだけど、2メートルぐらい離れて、本物の枝と作った枝を見るとね、一応どっちか分からない感じになったわけ(笑)。だけどこれ彫刻とは言えないなあっていう感じがして、敗北でしたね。
山下:敗北でしたか(笑)。
中ハシ:自分としてはすごい恥さらしなことをしてるっていう。
山下:制作の先生の苦悩がうかがえます。
中ハシ:だって、自殺しようと思ったもん。1年半もかかって何もできなくて。
山下:でも、このあと《チラリノヘイ》(1993年)とか続々と展開されていきます。だから、向き合っていかれたのかと思いました。
中ハシ:これがあるじゃない。(注:前掲書『中ハシ克シゲ works 1980-1993』23頁に掲載の《Dog・Watch》(1988年)を確認しながら、)これはトタン板でそのブロック塀を作ってね。ここは緑なの、本当に緑青が吹いてるわけ。一つのフォルムにして、(枝はなくして、)下で溶接されて網目にはなってるけど枝はない。だから一つのフォルムにしたものですね。ブロック塀に差し込みになっています。そして思ってたのは、できれば等価にしたいと思ったの。(注:前掲書23頁の《Pine・Block》(1989年)を確認しながら。)
山下:等価にしたい。
中ハシ:等価ってどういうことかというと、これってね、磁器じゃない。(注:机の上にあるコップを持ちながら、)これはジバンシーのコップだから、定価がいくらって出てくる、ね。彫刻でも定価が分かるようなものを作りたいと思ったの。だってそれが質じゃない。言わば人だと人格ってことになるけど、ものだと定価って感じがしたの。言っている意味わかります? ブロック塀を作るときには何を思って作っていいか分からないじゃないですか。彫刻って中身を作るじゃない。
菊川:工業製品をさらに彫刻にするってことですかね。
中ハシ:だから、ものすごくばかばかしいことをやってるわけなんだけど。素材は何ででもできるよね。鉄の溶接でもできるし、焼き物でもできるし、何ででもできるけど、あのブロック塀というのを彫刻に置き換えるってことは、その安物臭さっていうか、何かそういうようなトランスレーションをしないと、彫刻として成立しないんじゃないかって。だって相手がじっとしているから。じっとしてるものを彫刻にするって本当ばかばかしいじゃないですか。それで本当は松の枝はじっとしていないはずなのに、じっとしているものとして作っちゃってるわけですよ。
山下:そういう松とか塀に向き合っていったことは、私も伺いたいと思っていたのですが、今のお話を聞いていますと、昨日も中ハシ先生は「もの派」に興味があったっておっしゃっていましたが。
中ハシ:でもそこに「もの派」は関係ない。
山下:そこは違うんですか。
中ハシ:全然違う。すごく興味があるんだけど、遠く離れてて、自分のやっていることと向こうとは大きな溝があって。興味はあるんだけど、その溝を飛び越えるってことは自分を破壊することのように思えましたね。
山下:そうですか。その辺りをお聞かせいただければ。とにかく塀や松というそれを切り取って。
中ハシ:むしろその日本の彫刻をどうやって作ったらいいんだろうっていうふうに自分を意識的にシフトしてる。「もの派」が持っている東洋的な思想が背景にあるって昨日言いましたよね。例えば李禹煥のキャンバスには毛筆の伝統を感じる。だってアメリカ人がやっても感じない。かすれ方の中に筆の文化を持ってる、筆っていっても墨と筆の文化ね。油絵の具とブラシじゃなくて、柔らかい筆を持った文字の文化。それを感じたんですよ。特に李禹煥に東洋的な思想を感じたんです。石をこう置いたりしても、その背景に東洋思想を感じた。だから、僕としてはやられたなって感じがした。すごくやられた。
山下:やっぱりすごく関心はあった。
中ハシ:すごくあった。でも、言い訳として、置けへんやんって(笑)。あったけど、置けないじゃん、野外に。こう置いても、ただ石があるだけになる。しょうがないから、彼は金属を置いたりして、何かしてる。
山下:鉄板とかね。
中ハシ:何か風景の中にあるっていうのではなく、コンセプチュアルにそこに置きましたって感じしかしない。まだ風景の部分が残ってると思ったんです。でも、すごいショックでした。東洋を持ってるなと思って。それで、やれることはないかなと思ったんです。目の前にあるイヌを何とか発展させて、日本の風景の中に何とかはまり込みたいと思って、塀を作って、瓦のあるような塀を錆させて。それで、ここはFRPだけど中にセメントを混ぜて、色合いもそう。そして、松の枝をやると何かそこだけぽっかりちょっとした空間に見えるようにしたのね。
菊川:松っていうものが風景の中から出てきたことはすごくよく分かるなと思ったんですけれど、一方で1980年代には例えば、福島敬恭さんが松の絵を描かれて京都で発表されたりしています。
中ハシ:僕も見ました。あとから。
菊川:彼もアメリカから帰ってきて、プライマリーストラクチュアズみたいなものを作ってたところから、どんどん日本的なものとか、日本のシンボル的な記号的なものを今度どう解釈、解体していくかという作業に入っていた時期で。中原浩大さんは《pine tree installation》をギャラリー16(京都)で発表されて、松というテーマがいくつか見えるときがあるんですけど。
中ハシ:僕、それ知らない。福島さんのは個展で見ました、その絵は。でもすごく抽象的で、松と言われるまで松と分かんないような感じがした。なので全然クロスをしてないですね。中原先生がやっているとは全然知らなかった。でも、自分としてはこんな松みたいなばかばかしいことやるのは自分が初めてだと思っていた。これを作ったときに岬さんにスタジオまで来てもらった。このときには既にそこの小さいアトリエは引っ越して、大きなところに移っていて。それで最後の展覧会にしようと思ってたんです。もうだめだから。最後に展覧会をするので大きなスタジオを1年間だけ借りて、そこで制作して発表した。というのはそのときに子どもが生まれたんですよ。結婚するときも自分は子どもはいないつもりでいて。僕は収入ないから自分の生活するだけで精いっぱいで、家内は公務員だったものだから、郵便局員だけど。米子にいた人で地方公務員だったんです。小学校の事務員をしていた。それで僕と恋愛をして、結婚するというときに彼女が試みたのは大阪で公務員試験を受けることだったの。それで「郵便局員になったわよ」って言われたら、僕は目が点みたいになった。恋愛ってのは別にできると思うんだけど、これは本気やなあと思って(笑)。それでおやじに言ったんですよ。
菊川:行動力がある。
中ハシ:長距離恋愛で結婚するまで10回も会ってないんじゃないかと思いますけど、月に1回ぐらい会って。「そんな人がいるんですけど」っておやじに言ったら、「克シゲ、それはもう結婚せないかん」って言うですよ。「よし結婚しろ」とか言って、えらい押されて。それで彼女は僕の自宅の近くの郵便局に就職。
山下:パートナーのお話も聞きたかったので、ありがとうございます。
中ハシ:そのときに結婚するときの誓いが、ダブルインカム、ノーキッズでいくよねって。要するに、でないと僕は暮らせないんだって思ったんですよ。「これは絶対お願いします。子どもができたら僕は彫刻できないから、お願いしますよ」って言って。「分かったね」、「はい」と(笑)。僕は家内を養うことができなかったんですよ。でも男として養われるのは嫌なんで。なんとかこう節約して生きて1カ月の食費も最後に2分の1で割って払ったりして、それから机を買うのでも、裏側にどっちが買ったとか名前を書いて。
菊川:(笑)。
中ハシ:本当だよ。別れるときにさっと別れられるから……。
山下:そこを考えていた。
中ハシ:思った。でないと自分が踏ん張れないと思ったのね。養われるのだけはいやだと思ったんですよ。おやじが僕に結婚を勧めたのは自分が結婚したかったから。というのは僕の母親が癌で亡くなって。2年ほどやもめをしてたの。そして、また再就職をして年金もちょっと来るし、収入もあるし、それで次の嫁さんをもらいたいと思ったらしいんですよ。そして「おまえにこの家やるから、俺は結婚して出ていく」って言ったんですよ(笑)。再婚相手も以前の嫁さんの記憶があるような家は嫌だったらしいんですよ。それで新しい方に移っていったわけ。それで《Second Marriage》(1990年)を作ったんですよ。
山下:この作品も確認と思いました。そういう経緯があったんですね。
中ハシ:そうです。それで何だ、どこまで言ったっけ。
山下:そのあと小錦さんも作品に出てきますが。
中ハシ:それで最後の展覧会をしようと思ったの。
山下:最後の。
中ハシ:そうそう、家内が前の年ぐらいに身ごもって……。
山下:1989年です。
中ハシ:そうそう。それで大事なものとして、一番に自分の命ってのがある。ね、一応。その次に作品とか、その次に家内とかの順番。家内と作品では作品の方が上なのね。家内と離婚してもいいけど、作品とは離婚したくなかったわけ。ごめんなさい。驚いたのは一番が自分じゃなくて生まれてくる子どもだった。子どもと別れろったってね。それで最後の展覧会のために大きなスタジオを借りて、最後にありったけ全部、僕の母親が残したほんの少しのお金があったので、それを全部はたいて、1年ぐらいの前から、村松(画廊)というところで、村松は二つギャラリーがあって、その二つとも借りたんですよ。東京の銀座の一番広い面積でやれる。僕の夢としては、美術手帖の後ろにレビューってあったじゃない。そこに出ることだったの。そして子どもが中学生ぐらいになったら、「お父さんは昔彫刻をしてたんだよ。ほら見てごらん、『美術手帖』のこのレビュー、ここに中ハシ克シゲってあるだろう」、「へえ、お父さんそんなことしてたの」って。それだけを目指したんです。何せ活字になること。何ていうか少なくとも、それは僕の誇りとして。それで村松を1週間借りたんだ。1日10万円だったそのとき。だから7日で70万でしょ。往復のトラックで、30万だったですよ。それだけで100万じゃない(笑)。それから1年間の家賃と。最後だと思って、それでおやじを作ったんです。ブロンズこれ1体100万するからね、鋳造費。(注:「中ハシ克シゲ展ー松のある風景 OTOMI. 1990」村松画廊、1990年7月9-14日。)
菊川:さっきの松の話も聞いていて、そんなに大きいものをブロンズにするのは大変だったろうなと。
山下:そうなんですね。経緯が見えてきました。
中ハシ:それで、その再婚した時の顔をよく覚えていて、おやじはもともと小柄だったんだけど、さらに小さくして。小市民的な小さい幸せを願うような。だけど僕にとっては大事な人で、いとおしいんだけど、どこか、もう一度再婚するのかよっていうような複雑な…… 本人が希望するから賛成するけど、内心はこのやろうみたいな感じ。だけど僕の結婚を許してくれたり、自宅をそのまま使っていいとか言ってくれたんで。そういうので《Second Marriage》を作ったんです。最初、その隣に再婚相手も作るつもりだったのね。おやじよりでかいんですよ、太ってて。けばい着物のすごい柄のやつを造って(笑)。でも、にこっと笑ってるようなのを作ろうと思ったけど、いくらなんでもそうしたら、何かが破綻するかもしれないって(笑)。おやじは何とかごまかせても、二つやったら絶対こりゃやばいと思って。でもずっと長い間、そう思ってたんです。作りたいと思ったんだけど、でも、隣にそういう人がそれだけで十分かもしれないと思って。それでこれも村松に出したの。それと最後だと思って、(蝋ではなくて)この《OTOMI》(1990年)を1年かけて作り出したんですね。だからお富っていう歌にもなってる。与三郎とのお話を背景に、(背景が明瞭にあったわけじゃないけど、)ただ《OTOMI》っていうタイトルを見たら、日本で私より上の世代はそうした背景を思い浮かべと。それから見越しの松、それから柿渋の大和塀っていうのがお妾さんの家。豪華なね。そういうのをちょっとイメージしてたの。お話の中での与三郎とお富とは元恋人だった2人で、その塀の隙間から相手を確認したわけですよ。与三郎はお富が二号さんになってるのをそこで発見するわけです。だからこういうのを作ったら、その背景が浮かび上がるだろうと思ったの。これだったら日本ということにダイレクトになる。こういうのはアメリカ人は作らんだろうと思いましたね。それから、《MATSUNOHA KUZUSHI》も作ったのね。(注:図録『MITO ANNUAL ’92 大きな日記/小さな物語』(水戸芸術館、1992年、18-19頁)の《OTOMI》シリーズを確認しながら。)これはLアングルを互い違いに。これは大和塀じゃないわけ。Lアングルは互い違いにこうあって、完全に閉まっても見えるし、こうやると隙間が全部ぱあーとこう、すかっと見えるように。だから大和塀みたいな構造を持っているけど、閉じたり開いたりする構造を持った壁の上に松が出るっていう。少し構成的に作ったんですね。
山下:この1990年代の《Second Marriage》や、塀というものが続々と出てくるのは、時代の周辺の状況には、いわゆるニューウェイブという言葉も出てきていますが。
中ハシ:それは僕にはなかった。
山下:そうではないってことなんですね。その辺のところを聞いてみたくて。
中ハシ:全く孤独でした。
菊川:関西に移られて、京都の画廊を回ったりとか。
中ハシ:ない。
菊川:さっき寝屋川の先生のお話はありましたが、あまり京都や大阪の作家さんとの交流はそんなになかったんでしょうか。
中ハシ:松井紫朗と少しだけ。というのは、1990年に「Inside Eye」という展覧会があったの。(注:「INSIDE EYE The 1st-1990」は、東京銀座アートセンターと京都アートセンターで開催された。)これで、造形大(注:東京造形大学)の三木(俊治)さんが、作家が選ぶ作家の展覧会をしたいと。東京アートセンターと、その頃は京都アートセンターというのもあって。それで三木さんが私を選びたいと言ってくれて。あともう1人の選ぶ人はさっき言った坂口正之です。彼は今村源と松井紫朗を選んだんですよ。別にそう親しくはなかったらしいの。だから、すかっとした関係で。それで僕と金沢健一さんを三木さんは選んだかな。彼の同級生だったのが坂口くん。僕はこの松(注:《OTOMI》)を出した。それからこれ(注:《Dog・Watch》1988年)を出したの。(注:「Inside Eye」の図録を見ながら、)それから橋本真之、鍛金の銅板を叩いて。とてもいい作家だった。それと舟越(桂)さん。それで保田井(智之)さんというブロンズと木を使った、今、東北芸術工科大学の教授だったかで。(注:2022年8月に名誉教授となった。)これは松井紫朗のね。このときに、吉野辰海もやってたんですね。それでね、このコンセプトは選ばれた人が、今度は選ぶ人に変わるというコンセプトで、それから東京と京都でやるという。二つの会場でやって、こういうカタログも作ってくれて、あと出品費も出してくれたんですよ。輸送費とか。僕としてはすごく嬉しくて、人がたくさん来て。
山下:新しい世代の作品が続々と見えてくるんですが、中ハシ先生は見ていて自分との親和性を感じたり、私には私の路線があるとか、についてはいかがでしたか。
中ハシ:松井紫朗はそのとき既にスターだしね。年は僕より下だけど、もう世の中に出てるでしょ。僕は全然無名だったので。要するに松を出したときに、一番面白がってくれたのは三木さんだったわけですよ。三木さんはこれ面白いよって言ってくれて、おまえを選びたいって言ってくれて。僕はそういう人たちと一緒に展覧会ができるのを夢にも思っていないので。
山下:そうだったんですね。
中ハシ:割に評判だったの。それで関西で初めて僕が松を作ってるってことが知られたようなんですね。それから松井紫朗さんと親しくなったの。僕のスタジオを見たいと、来たこともあったの。どんな仕事しているのかとか、だから肖像のああいうのを見せたりしたんです。
菊川:この頃って、「フジヤマゲイジシャ」など西と東で作家交流をしている。
中ハシ:すごい勢いだった。
菊川:京都のアートシーンがすごくホットだったってことなんですね。
中ハシ:圧倒的に関西のほうが面白かったね。だから、銀座に行っても、松井紫朗の名前は知られていたし、源さんはまだ知られてなかった。でも僕、今村さんのはすごいいいなと思ってね。僕の発想にああいうものなかったので。
山下:そういう様子から影響を受けたのではなく、中ハシ先生にとっては日本の風景を一つ置くという、それが根幹にずっと流れていたということですかね。
中ハシ:そうですね。関西ニューウェイブはショックだったんですけど。僕にはそれができないって。僕にできることから離れてると思ってました。
山下:その岬さんの影響もかなりあった。
中ハシ:そう。岬さんはね、影響というか、アドバイスというか。松の向かい方とか、見えてるものをどう捉えるかということで、むしろ考えの素みたいなことでしたね。
山下:そのような色々な出会いがある中で、1993年に小錦さんを作られたのは。
中ハシ:ちょっとごめんなさい。それでね、個展の話だけど『美術手帖』のそのときの(東京エリアの)ライターはね、長谷川祐子さんだったんですよ。村松画廊は必ず来るって言うから、私はDMは出してないんですよ。村松画廊から当然行ってるわけですから。でもね、来てくれなかったんですよ。僕としては命がけだったのに、でしょ。違う雑誌には少し載ったけど。それで、内田芳孝さんという僕のことを割と知ってくれている写真家がいて。その方が写真を全部撮ってくれたんですよ。僕は手持ちのカメラでバシャバシャ撮っているだけで足りると思っていたら、「中ハシくん、写真は大事だよ」って言って、大型のフィルムでカラーもポジも全部撮ってただでくれたの。そのとき現像代も出してくれた。
山下:すごいですね、それは。
中ハシ:沢山撮ってくれたの。東京から僕はしょげて帰ってきて、それでアトリエを閉じようと思って、(お金払えないから、)もう終わったと思ったの。そうしたら松井紫朗から電話がかかってきて、どうだった? って言うからね。どうだったって、もう散々ですよ(笑)。何にもありませんでした。どんなの作ったの? って言うから、そういえば内田さんが大きいポジフィルムで撮ってくれたから紙焼きじゃないけどあるよって、アトリエでそれを見せたんですよ。そうしたら、今から信濃橋(画廊、大阪)に電話してあげるよとか言って。松井紫朗がその場で電話をかけてくれて、どんな作品かその資料を持ってこいって言ってるよって言って。僕はそのポジフィルムを持っていったの。そうしたら、4月の何日かだかな、空いてるから、2週間、あなたの展覧会をしましょうと。それで僕は最後の展覧会がもう一回あると思って、また新作を作ろうと思って。2カ月半でまた信濃橋をいっぱいにするやつを作ったんですよ。そうしたらね、今度は全国から学芸(員)が来ました。2週間ぐらい取ってくれたんです。それも企画だから、DMも作ってくれたし。
山下:それは信濃橋画廊が中ハシ先生の作品を置きたいと思ったんでしょうね。(注:1991年に信濃橋画廊(大阪)で個展「松のある風景」を開催する。その後は1992,1993,1995年と信濃橋画廊で定期的にグループ展(1995年には個展)に参加している。)
中ハシ:いや珍しいと思ったらしいの。こういうのあまりいないなと。だから、その東京であったやつを置くと思ったらしいの。僕としては、もう一回チャンスがあるのに、どうして同じものを出すわけあるのと思って。せっかくのチャンスでもあるからね。そこで一生懸命作って。
山下:2カ月は短いですね。
中ハシ:2カ月半で、これを作ったの。(注:《OTOMI》1990年。図録『MITO ANNUAL ’92 大きな日記/小さな物語』(水戸芸術館、1992年、18-19頁)を確認しながら、)これ信濃橋ですよ。
山下:でも松と塀はそのまま展開して。
中ハシ:そうですね、ここを赤く塗ったりして。それでね、日本中から沢山の学芸の方が来たんですよ。村松では1人も来てないのに。
菊川:うわさが回って。
中ハシ:なのかな? そして、次から次と展覧会が決まって。
菊川:関西での受け止められ方と東京での受け止められ方の違いとかありました? それはあまり感じずですか。
中ハシ:分かんなかった。このときも乾由明さんも来て。「乾ですけれども」って。そうですか、名前だけ知ってますけど(笑)。「君が松を作るんだね」って言って、いろいろ聞かれたけど、うまくは答えられなかった。それで水戸からも来て、長谷川祐子さんじゃない人が。それで次の年の何年か何月に君のをやりたいんだって、すぐにそのときに。
山下:MITO ANNUALの「大きな日記/小さな物語」ですね。
中ハシ:選ばれると思ってなかったです。(注:『MITO ANNUAL ’92 大きな日記/小さな物語』は、水戸芸術館で1992年2月15日-4月5日に開催された。)
山下:続々と、松井先生が電話してからの展開があったんですね。
中ハシ:そうですね。松井さんは僕の恩人なんだよ。その前にね、ここがあったんですよ。イトーキギャラリーっていう所で。(注:イトーキ大阪ニューオフィスギャラリー9Fのイトーキ・クリスタル・ホールにて1991年11月20日から12月10日に開催された。)
山下:確かに1991年ですね。
中ハシ:ここはね村松画廊の3倍ぐらいあったの。イメージとしてはいきなり野球場みたいな感じ。だから、また「新作を」ってなってね。ステンレスでこれを作ったのね。(注:図録『MITO ANNUAL ’92 大きな日記/小さな物語』(水戸芸術館、1992年、18-19頁)を確認しながら、)野外にも置けるっていう。これをね、実を言うと、さっき言ったこの京都アートギャラリーの梶川さんが「君の《OTOMI》を買う」って言ってくれたんです。《OTOMI》を買うのはいいですけど、どこに置きますか。「外に置く」っていうの。「いや外に置かないでください。外に置いたらすぐぼろぼろになるから、だから、ちょっと時間くれたら、外に置ける松作りますから。梶川さんの庭のサイズで、それにぴったり合わせて作りますから」って言ったら、「おおそうか、じゃ作ってくれ」って言うので、それで松の枝をステンレスで作った。それから葉は上からフッ素樹脂をかけて太い真鍮線で作ったんですよ。
山下:中ハシ先生としては松には苦悩があったという今日の話ですけど、これ自体は続けていきたい、松自体はいいなと。
中ハシ:僕としては、意外な反応だったんですよ。だけど、短時間で空間をすぐにいっぱいにできるっていうのは、初めての体験だった。だって、盆栽を作るのに1年ぐらいかかってたんですよ。それで、ロウでちょっと大きいのを作るのに1年半かかっても途中までしかできなかったでしょう。ところが溶接っていうのは何て便利なんやろうっていう。何だこんなものか。現代美術、組み易しだよ(笑)。これだったらできるよみたいな。
菊川:でもそういう量感を捨てていくっていうか、塑像をしなくなるっていうことは、中ハシ先生にとって結構大きなことだったのでは?
中ハシ:空間が一発で獲得できるということ。
菊川:視野が変わっていくっていうことですよね、作品の。
中ハシ:でっかいものが最初からイメージできるっていうこと。最初にマケットが作れるんですよ。塑像でマケットはできないじゃない。だけどこれはマケットを作らないとできない。だから最初に会場を見て、どう置くかを全部決めて、ライティングも全部決めて、それからマケットに入っていって。全部を縮小したものを作って。あとはマケットをただ拡大するだけ。だから実制作のときの悩みは何一つないわけ。マケットを作るときは緻密に、構成するけど、それを過ぎたら建築家と同じで、あとはもう自動的に、ただ正確に作って、溶接したりするだけの話なんで、気が楽になって。
山下:では、中ハシ先生としては造形大時代の彫刻を学んできた、その彫刻という分野に関しては超えてもいいかという迷いはありましたか。
中ハシ:自分としては「こんなんでいいんかな」と思って。オブジェみたいな感じがするわけ。
山下:迷いつつこの1990年代はどんどん進んで行く感じですか。
中ハシ:だからね、彫刻といわずに、かぎ括弧の「彫刻」。必ず彫刻のところにかぎ括弧をつけてました。自分のはかぎ括弧入りの彫刻だけど、これは日本人にしかできないものと、唯一の言い訳みたいにしていた。松の葉っぱの茂みは直接見ると、向かってきてるじゃない。でね、切りそろえなかったの。ラインをわざとそろえなかったの。だからね、ちょっとずつ出入りがあるわけ。
山下:凹凸が。
中ハシ:そう。だからきちっとわざとしないで、そして上から見ると、こっちにこう向かってくる。こう向かってくるこれは、奥行きだと思ったの。そこだけ、だからすごい痛い感じがするのね。その痛さはOKって感じ。
山下:そこで整理をしながら、突き進んでいくわけですね。
中ハシ:そうです。そこだけを自分の言い訳みたいに。
山下:ありがとうございます。ここで1990年代の「NIPPON cha cha cha」とか、中ハシ先生独自の展覧会について確認をしたいと思うのですが、その前に少し戻るのですが、1970年代は日本万国博覧会とか、よく言われる「第10回東京ビエンナーレ 人間と物質」が1970年にあるのですが、中ハシ先生は10代でしたが、何かご記憶とかそういうのはありますか。
中ハシ:太陽の塔だけです。
山下:行きましたか?
中ハシ:僕はその時は米子にいて、神戸の友達と一緒に万博を見に行った。
山下:それでは、学生同士で行って楽しかった。
中ハシ:神戸の住吉中学校の友人と……。
山下:そうですよね、10代ですし、「人間と物質」展は気にならないですよね。
中ハシ:そんなの意識にない。ただすごい美術が華やかな感じがしましたね。いわゆる前衛と言われている人がたくさんやって、にぎやかな感じっていう。美術家がすごく頑張って、やってるんだっていうことはあるけど、僕はそこと接点が全くないですね。ヤノベ(ケンジ)くんはいろいろ言うけど、ただにぎやかなもの、すごいお祭りで、外国人がたくさんやって来てるっていうことが驚きで。コンパニオンって言葉を初めて聞いて、わあ、きれいな案内する女性がコンパニオンっていう感じでした。
山下:ありがとうございます。あとこれも10代の記憶の確認なのですが、いわゆる1968年前後、学生運動のニュースはあったかと思うのですが、そういうのはどのように感じていましたか。
中ハシ:僕ね、米子東高に入ったときにね。やっぱりそういう左翼の活動家は学生でもいました。浅間山荘で死んでるんですよ、僕の先輩は。あの事件の1週間か10日前に母校に来ていたらしい。僕の同級生も私服(警官)が常についてるやつがいた。それで朝行くとね、机の上にそういうアジビラがあったりした。ただ、その頃、頭のいいやつみんな左翼がかっていた。あと映画もそういうような感じの映画を見てたので、アンダーグラウンド系。新藤兼人の『裸の19歳』という映画をすごく覚えてるね。そのときの連続殺人事件、タクシーの運転手をピストルで殺して、犯人の永山は死刑になるんだけど、牢獄から手記を出して、そして結婚するんだよね。最後は離婚するんだけど、結局死刑執行されて、その彼を新藤兼人が『裸の19歳』っていう映画で撮って、僕には衝撃でした。こんな映画が世の中にあるんだっていう。すぐそばの現実と映画が離れていなくて、競って一緒に歩いていく感じがして。ドキュメンタリーを見てる感じがしたね。
山下:そういう社会不安の情勢を見つつ、大学に向かうから制作とかそちらに奔走していたということですね。
中ハシ:そうね。高校3年のときにね。僕は映画を400本見ました、年間。
山下:すごいですね。
中ハシ:もちろんそのただ券もあったけど、1日に6本とか7本見る。映画館が3本立てとかあるじゃない。日曜日はそのはしごをしたもんね。だから最初見た映画は何が何やら分かんなくなっちゃう。でもそのくらい見たね。それが僕の栄養になっていると思う。でね、面白いのは、すいどーばたでも新宿美術学院でも、「映画を見なさい」って言われたの。すごいじゃない。「絵を描くのもいいけど、君ら映画を観なさい。映画にはとてもいいものがあるよ」って言って。それでね、映画研究部じゃない? 勉強しないで映画ばっかり見てるわけじゃないですか。「よっしゃー」って拍車かかりましたね。よしこれで映画が思い切って観れると思って。朝早くから(映画館に)行って深夜までいて、見続けてくらくらになって帰ってきた。
山下:そうしたら展覧会が続々出てきた経緯も分かったのですが、中ハシ先生の文脈の方について、《視線の鍛錬》が出てきて、その後にも出てくるように、昨日のお話で、記憶がもたらすもの、記憶のリアリティへの関心があって、そこでイヌとか松が出てくると思うんですが、ここで私が思ったのが、視線ということがタイトルに入ってくる。結構大きいなと思いまして、先ほど中ハシ先生が奥行きっておっしゃっていましたが、この1990年前後のご関心は、もう一つ後々につながるような空間把握ですよね。
中ハシ:松を作るときは身が引き裂かれそうな感じだった。自分の中で評価できてなかったんですよ。彫刻を作りたいのに、こんなんでいいのかなっていうのがあって、それでさっき言ったような、松の葉っぱを見て、直視している感じ。それからイヌの目が光ってるって言ったでしょ。それをリアルタイムで目を飛び出させている。そういうことと相まってこの「視線の鍛錬」というタイトルが生まれたの。自分自身も鍛錬してるという感じがしていて、彫刻への疑い。人体塑像は好きだけど、見込みがないって感じがずっとあったの。もしも作れるんだったら、お相撲さんは作れるとは思ったの。なぜかというと、言い訳みたいだけど松もイヌもそうだけど、人間との間で作られて、イヌの習性は人間に改造されているというか、普通だったらオオカミだったのが、人間と一緒に暮らせるようになって、習性が変わったていうか。松は人工的でしょ。牛とか馬とか、要するに人間の周りにいる動物はみんな人間に合わせて作られてるっていう感じがして、じゃあ人間が人間を作ったらどうなるか。もちろん、われわれはそうなんだけど、形として見えるのはボディビルとかでしょ。体を実際に作ってくっていう。
山下:作っていくってことですね。
中ハシ:それで裸の人間っていうんだったら、一応は文脈としてあるんだけど、だけど日本の風土っていうときには、お相撲さんになってくるなと思ったの。何かこう説明的に思われたら困るんだけど、でも僕としては、裸の文化はお相撲ぐらいしかないかなと思ったんですけど。それでしかも小錦って、要するにアメリカ人じゃん、もともと。それでこの日本に来て、強いのに横綱になりそこねたみたいな感じがして。その巨体のために膝を痛めて、強いのに大関どまりっていう、その人柄とか、日本の文化というのがより際立ってくるような感じがしたので、《NIPPON cha cha cha》(1993年)というタイトルつけたんです。一個ずつの名前はしょうがないから《Sally》(1993年)とか。(愛称としてはサリーって言われてたもんね。)区別するためにだけど、タイトルとしては全部まとまって日本を応援するというような意味だね。日本の文化に揺らぎはあるけど、それを応援したいっていう気持ち。だから《Second Marriage》と心理的にはよく似ていて、(一応、応援はしたいみたいな)。日本の相撲はこれから外国人によって横綱に全員なっていくかもしれないっていうような気持ちと、日本はどうなるのだろうなっていうような、応援もしてるけど不安という気持ち。
菊川:なにか今の日本の家族制の問題とか、伝統文化って言われてるけれども実際はアメリカの方がリードしていたりとか、そういうごちゃ混ぜになっているような日本文化ということですね。
中ハシ:そうそう外国人がやってきて。そのときはモンゴルの力士はいなかった。最初は、色をつけるつもりだったの、ブロンズの上から。ブロンズで鋳造、これはお金がものすごくかかって300万か400万ぐらいかかったんです。これね、ギャラリー日鉱というギャラリーがあって。それね、今はエネオスになっているのかな。金属関係の大きな会社だったの。そこがね、鋳物屋さんを教えてくださって、それで通常よりも安く鋳物をしてくれたんですよ。あと僕の天皇陛下を展示した、やの美術ギャラリー(米子市)が、そのお金を出してくれたんですよ、鋳造費を。ある時、「何してるの?」って電話があって、「小錦を作ってんだけど、お金、全然ないんだ」って金曜日かに話をしたら、月曜日に400万入ってましたね。僕の口座に。「どうすんですか。僕は返せません」って言ったら、「いいわよ、できたときでいいから」とか言って。
菊川:それは、今の所蔵はどちらですか。
中ハシ:福岡市美術館に。結局、その400万円は幸い返すことができたんですよ。美術館に売れたので。そのギャラリーはこれを丸ごと全部買ってくれたんですよ。
山下:丸ごと全部。すごい。
中ハシ:全部。「ええーっ」みたいな感じ。それを福岡市美に売ったんですよ。余談ですけど、九州場所になると福岡市美にお相撲さんがやってくるんですよ。それで小錦と戦ったことのある親方がこれを見ながら、取組の話をするんだって(笑)。これだけは入場券買わなくても見れる。今もそうなってるみたい。
山下:オープンな場に置いてあるんですね。中ハシ先生、この《NIPPON cha cha cha》というタイトルもかなり面白いのですけれども、このあたりから展覧会にマークというか自分なりに規則事を設けてくるのですが、そのひらめきはどこから出てきたんでしょうか。
中ハシ:言葉でなかなか言えないっていうか、むしろマークにしたほうがいろんなことが言えるんじゃないかなと思った。例えば、これは何か、土俵にも見えるじゃない。(注:ギャラリー日鉱で1993年11月に開催された「中ハシ克シゲ展 NIPPON cha cha cha」の冊子の表紙にある二本線のマークを確認しながら、)あるいは豚の鼻にも見えたり、あるいは日本の国旗にも見えるじゃない、こうやると。日本の国旗の上で対決してるようにも。理屈を言ってるかもしれないけど、そう見えない人もいるかもしれないんだけど、そんなようなことでマークにするといろんな意味合いが引っつけられると思って。ただ《NIPPON cha cha cha》はしょうがないからつけたけど、応援してるんですねっていうだけで終わるけど、マークにするとそこに複雑な。
山下:この発想は斬新だなと思ったんです。それは本当にひらめいた? 中ハシ先生が、次なる展覧会依頼があって今の自分を表現するにはどうしようかと。
中ハシ:それ、いつ頃からやり始めたかな。
山下:キュレーターの方が決めたのではないんですね。
中ハシ:そうじゃない、全然。米子市美の展覧会にもマークで出したんですよ。
山下:水戸芸術館も「+(プラス)」のマークにされている。
中ハシ:そうそう、ここにね。あれはクリストの意味があって。アンブレラ。あの展覧会の前にクリスト、「アンブレラ・プロジェクト」があったんですよ。(注:クリスト&ジャンヌ=クロードによる「アンブレラ、日本−アメリカ合衆国、1984-91」/日本は茨城県北部で開催された。)それで死人が出たんですよ、日本とアメリカで。そのときに「失敗だった」というふうな言い方をする人もいたの。僕は場所と時間をいつも一致させたいっていう気持ちがあって、その時でないと見れない、それが本当のインスタレーションだと思ってるの。つまりぴったり奇跡のような場所と時間が合って、そのときに見ると面白いみたいな。それで水戸でアンブレラを出したらクリストのことを思うじゃんとか言って。死のイメージ、それからクリストの十字架のイメージ、それからクリストという名前の。実際にクリストのアンブレラは下にこういう(十字型の)土台を置いてたんですよ。そういうようなものを全部掛け合わせて、こういう。だけどそれって何て読むかって、しょうがないから「ポジティブ(POSITIVE)」っていうふうにしたんですよ。だって僕はそれを肯定してるから。それを問い詰められるんですよ。
山下:確認されるという。
中ハシ:いちいち「マークをこんなふうにしてください」って言ったら、すごく面倒くさがるんですよ。特に新聞社が面倒くさがるの。
菊川:そうですね(笑)。わざわざそうは作らない。
中ハシ:ZEROもそうだったの。ZEROは「◎」の横倒しにした、ゼロを二重にしたやつを横にしたゼロにして、それがマークだったのね。それをずっとやってたの。そうしたら特に海外ではめんどくさくて。ゼロでいいじゃないかと。最初のオーストラリアではしてくれたけど、海外でやっていったら、どこも見向きもしてくれないわけ。しかもZERO Projectじゃなくて、ZERO Projectのあとにいろいろつくじゃないですか。日付と場所、どこでやって、何やってっていうの。マークにもっと何か言葉がついてって変じゃないですか(笑)、そうでしょう。それで、しょうがねえなっていう感じ。
山下:中ハシ先生は記号的なのが好きなのかと思ったんですけど。
中ハシ:記号のほうが都合が良かったんだよ。いろんなことがむしろ言えるという。だから茶室を作ったときも記号だったんですよ。知ってます? どんなのか。
山下:茶室はちょっと、見れてないですね。
中ハシ:茶室、そこに入ってないかな。茶室は、こんなようなマーク。茶室でしょ。ちょっとコップのイメージ。これがタイトルだったの。(注:中ハシが取り出した作品ファイルを確認しながら、)これとこれ、顔は髪の毛にも見えるでしょ。
山下:見えますね(笑)。あと煙。
中ハシ:これでお茶碗にも見えるんですよ。あれは髪の毛をイメージした茶室だから。だから、茶室の壁面は両面とも僕の頭の髪の毛を写してるんですよ、頭頂部を。これで鯉も陶器で作って。庭からこちらに来るようなイメージ。それでここに茶室があるから、日本庭園と茶室。何て読むんだって。しょうがないから、《BO-BO-BO》(1994年)って。毛がぼうぼう。
山下:でも、日本には家紋の文化とかもありますし。
中ハシ:どうかな、そこらへんは。これが僕の頭頂部なんですよ。写真なんです。これ、色が違うでしょ。これは赤っぽいでしょ。これ青っぽいじゃない。分かる? このときから頭が禿げてたのよ。それで頭、真ん中だけちょっと残ってたのね。それをいじって、こう、ほらこれちょっと怒った顔に見えるじゃない。
山下:なるほど(笑)。
中ハシ:怒った顔とか泣いた顔とか、喜怒哀楽にしたんです。
山下:いい写真ですね。
中ハシ:これは僕の頭のメタファーなの。茶会は透明の野球帽をかぶってやるんですよ。そうすると、ここからチョンマゲみたいな、黒い毛とか、そういうのが生えるんじゃない。何かもう、ばかばかしい。
山下:ユーモアたっぷりな。
中ハシ:茶会をばかにしてるような、そういうのをやったんですよね。新聞社が取材したいんだけど、記号を入れろって言ったってね、分からないとか言うんですよ。だからBO-BOでいいじゃないかっていうふうに、どんどん外圧が。でもZEROのところまでは頑張ったのね。
山下:中ハシ先生の、1990年代半ばにこういった《NIPPON cha cha cha》とか、マークとか、小錦さんとかが入っていきますと、やはり日本というものにご関心があったということですが、くどくなりますが、一方でネオポップとか、キッチュなものとか、そういう地域文化をもう一回見ていくような。
中ハシ:それは僕の中にはあまり分からなかったね。
山下:そういう批評は少しはありましたか。
中ハシ:むしろ「君のは何か毒気があるね」とは言われた。
菊川:先ほどの小錦さんの彫刻にも、批判的な声はなかったですか。
中ハシ:むしろ無視されたと思うよ。
菊川:批評しにくいということですか。
中ハシ:とにかく僕は無視されてました。批評なんかなかった。小錦を出したけど、何にも言われなかったよ。
菊川:このあと天皇の話も出てきますけれど、やっぱり具体的で象徴的な存在であればあるほど、書く側も態度を示す必要がありますし、批評も難しいでしょうか。
中ハシ:今は日本的な力士を作ったとか、必ずそういう話が出てくるけど、そんなこと言う人、誰もいなかった。もう、無視されたから。おなじみの人体をやってるのという。だけど僕の友人に、中ハシはこういう技術があるんだからこういうのを捨てないほうがいいよとか、せっかくこういうものがあるんだから生かしたらどうだというようなことは、やなぎ(みわ)に言われた。
菊川:技術があるというのは、彫塑の技術とか。
中ハシ:そう。せっかく、記憶で作ってるからね。小錦には会えないじゃん、一度も会ってないの。テレビの大相撲番組を1年半撮りためて。後ろ10分ぐらいに出てくるんだから。1年半分撮りためて、1本テープにして、ずっと見てて。それをドローイングして、最後に記憶で描いて。それで1週間ぐらいで作る。だから、こんなのも作ったよ、ローラーみたいなのね。(注:《Chariot》1992年、『中ハシ克シゲ展』(ギャラリー日鉱、東京、1993年)を確認しながら。)
菊川:戦車の車輪。
中ハシ:「Chariot」というタイトル。これが海外から日本にやってきちゃったんだよ。それもものすごい力で。
菊川:これに中央に十字のマークを持っていってるのは、キリストとかそういうイメージがあったのでしょうか。
中ハシ:もちろんあった。それからキリストの西洋文化。それと一つには。
菊川:日の丸を轢いてしまう。
中ハシ:そう(笑)。もうばかみたいな話だよ。
山下:でも、そのように批評があまりなかった一方で、このあと続々と展覧会が決まっていくということで、やはりすごく中ハシ先生の作品を見たいという人が増えている状況ですが、それは彫刻の歴史の中で見ている方が多かったということでしょうか。ネオポップとかキッチュとかではなくて。
中ハシ:よくそんなふうにいわれるんだけど。塑像の苦労からすると、現代美術って簡単だなっていうのが正直なところです。というのは、すぐに空間をいっぱいにすることができるし、一つのアイデアをちょっと膨らませて形にしていくと結果は出てくるっていう。自分にとっての反省は、西洋のモデリングにこだわるあまり、本当のものが見えてないかもしれないとは思った。つまり、自分が日本に暮らしてるっていう意味を考えずに、ただ習ったことをどうするかっていうふうにしている。だから、ちょっとそこでは行ったり来たりしていた。松は予想外に受け入れてくれて、美術館に入ったし、展覧会は続いたんですよね。でも手首が腱鞘炎になってしまったの。ひねって。
山下:売れっ子作家の悩みですね。
中ハシ:そこで手でひねらないで、治具を作って、松ができるようにした。2台作って。あるよ、今も。そうしないと特にこのステンレスをやったときに、軸はステンレスなの、これ。ステンレスの生線をねじっていた。
菊川:1本1本、葉を留めるところ。
中ハシ:葉を留めるのに、ねじって留めるから。それで両手とも腱鞘炎になってしまって。プライヤーでひねったんだけど、プライヤーの取手をさらに溶接して長くして、ひねった(笑)。それでもできなかったのね。知り合いの工場にお願いしたの。「こういうふうなものができる? 作ってくれって」言って。二つ作ってもらって。それでアルバイトを雇って、それを使って回すとできるっていうので、松葉の大量生産ができるようになったの。
山下:そういう経緯もあったんですね。
中ハシ:それでも、腱鞘炎なので、茶室のときがもう限界だった。今でも、作ったら手首が倍ぐらい腫れると思う。
山下:そういう苦労を経てから、カメラのほうにいくんでしょうか。もう一点だけ、1990年代の状況確認なんですが、もう一回多文化主義とか、地域再考とか、少し自分たちの捉え直しみたいなのも動き始めているのかなと思うのですが、ご自身の松とか鯉とか茶室とかそういった1990年代の社会情勢との関連については。
中ハシ:リンクしているとは思っていなかったですね。仲間はずれだったと思ってた、自分としては。展覧会に行くと、僕のだけ何か違う感じがしたの。いつも出すと、僕だけ何か違う感じがするので。他の人と交じり合わない感じがしていて。自分だけ何か交わらないっていう変な感じがいつも。でも交じり合いたくもないわけ。美術の文脈に自分が入り込んでいないということは、自分にとっては一ついいことだなって。何か違う感じがするという感じを持ってくれるというのは、嬉しいことだなってね。
山下:たまにギャラリーなどで美術評論家と話しをすることもありましたでしょうか。
中ハシ:どうだろうな。色々と会っているんだろうけどね。だからあそこの本棚にそういう本がたくさん並んではいるけど。
山下:あまり思い出とかは特にない。
菊川:でも、色々な周囲のシーンはありますけど、その中で状況に呼応するわけではないけれど、中ハシ先生はすごくご自身の軸がずっと一貫してあるような。そこは何か中ハシ克シゲらしい面白さがある。
中ハシ:現代美術に対する憧れはもちろんあったの。あったんだけど、なぜ作るのか、それはどうしておまえがそれを作らなきゃいけないのかっていう問いかけは、いつも自分にあったんですよ。
菊川:その葛藤みたいなのが、やっぱり見ている者にも伝わってくるところもあって。
中ハシ:そこだけははっきりしたいと思ってたの。なぜこれを作るのかっていう理由をはっきりすること。それから、なぜそれは僕でなければならないのかっていうこともはっきりさせるっていう。
菊川:それを真正面から、作品を通してすごく実直に応えようとしている積み重ねのように、私なんかには見えますけどもね。
中ハシ:どうもありがとう。嬉しいです。
菊川:(笑)。
山下:展覧会をしている時に、周辺の方に、自分は日本の景色、日本の風土を見せていきたいとか、そういうこと話はされていましたか。
中ハシ:言っていたとは思うね。美術は明治9年とか10年ぐらいに発生して、彫刻は特にそこから生まれているから。彫刻を勉強すると、必ずその伝統は、やっている先は必ずヨーロッパにいってしまうと。これはせっかく日本で何かしようとしてるのに、自分のやってることは伝統がないからそっちに行ってしまう。仏像があるじゃないかって、仏像はどう考えてもインド、中国だったりどこかつながってるわけじゃない。自分がこれを作っている基は何? を明らかにしたかったの。だから彫刻、かぎ括弧の理由はそれで、いまだにそれは僕にとって大きな問題ですよね。何をもって「彫刻」の上に重ねていってるんですか? って。
山下:それはイヌのあたりから思っていた。
中ハシ:そうね、公園に裸の女を置きたいけど、置けないと。
菊川:関西に転居されてから、例えば東京にまた戻って活動拠点を移すとかいうことは考えたのでしょうか。
中ハシ:最初からそうでしたよ。だけど、摂南大学の非常勤が決まったので、それで週1回でも一応職があるわけじゃないですか。無職じゃない。非常勤っていう一応肩書ができたわけ。クレジットカード作れない。東京に行ってもそんな職は絶対ないから。だって、全く誰にも知られてないし。
菊川:関西のアートシーンというか環境の方が、ご自身が作りやすい環境があったとか。
中ハシ:そうじゃなくて。それと全く逆です。
菊川:むしろやりづらかった?
中ハシ:やりづらいというよりも、何もなかったの。言ってくれる人がいないから寂しくやれたんですよ。僕、京都芸大の学生によく言うのは、「違うところに行け」と。周りにいると色々なニュースが飛び込んでくるでしょ。聞きたくもない話ばっかりだろ、と。聞きたくもない話は、誰も知らないところ行くとできるよって(笑)。僕はそうだったんですよ。だけど東京に毎晩のように電話してた。
菊川:東京にいる頃は、そういうニュースをやっぱりずっと気にしながら制作していた?
中ハシ:耳を塞いでも聞こえてきた。どこで賞を取った、何した、ああしたって。具象でもいくらでもそういうのがあるんですよ。
菊川:環境からちょっと遠ざかって、もう自分のことだけ追求したいっていう。
中ハシ:僕にとっては幸運でしたね。ただ、絶望と一緒にあるわけです。岬和男という人が、とてもいい人だった。画家だったから、僕は唯一、彫刻というものについて距離をおいて話せたのね。なので僕は「マエストロ」っていう文章を書いたんですけども、マエストロっていうのは岬和男のことなんですよ。岬さんも作ったんです、首を。あんな顔してるんですよ。そっくりですよ。あれを見るたびに、もう亡くなったんですけど、彼のことを思い出しますね。
菊川:村岡(三郎)さんとかもそうですけれど、関西の中で、割と京都とか一つのグループに属さず、淡々と制作されてる方っていうのはやっぱりいらっしゃって。東京でもし活躍していたら、中ハシ先生もこういうかたちでの作家にはならなかったんじゃないかということを感じたりはしますか。
中ハシ:本当にそう思う。何もニュースが聞こえてこない、断絶したところにいられたんで。そして、自分にとっていいアドバイザーというか話し相手が1人という環境が僕を育てて、自由に作ることができたっていうことですね。それから松井紫朗が次々に非常勤の口を僕にくれたんですよ。
山下:最後は(京都芸大で)一緒に(笑)。
中ハシ:彼は芸大を辞する時、その後釜を僕にいつも推薦してくれたの。成安女子短大でも、「こういうのがいるから」って。精華(注:京都精華大学)を辞めるときも僕にということで。成安造形大学の方は名前が少しだけ出ていたので、それで気に入ってくれた。精華では今村さんも一緒だったの。今村さんとは「Inside Eye」(注:「INSIDE EYE The 1st-1990」)で親しくなったんで、大学で毎週顔を合わせるようになって、彼の考えもだんだん分かってきて。だから彫刻のモデリングにはこだわらなくてもいける、彼のことを考えたら全然平気だなって(笑)。
菊川:彫刻とはこういうものだとか、こうでなきゃいけないんだろうというような。
中ハシ:そういうのは、一応皮が取れた。
菊川:取れていったと。なるほど。
中ハシ:でもやなぎみわは、僕は塑像があるから、小錦みたいなのはあまり他の人はできないから捨てるべきでない、小錦がすごい面白いって。わずかです、彼女ぐらいですよ。僕にそういうこと言ってくれたのは。僕は疑ってましたけど。誰もいいって言ってくれないしね。僕を応援してくれたギャラリーの人は面白いって言ってくれて、それを美術館に売ってくれたもんで。美術館が買うんだなと思って。あんな時代から全然はずれてるやつを(笑)、どうして買ってくれたかなと思って。不思議でしたよ。今さらモデリングのあんなものをよく買ったなって感じだったですね。ほんまかよっていう感じでした。
菊川:強烈な作品ですよね、これは。
山下:ですよね。そこも記憶という兼ね合いなんですね。
中ハシ:ばらばらになるしね。全部ばらばらになる。ばらばらになった写真ないかな。
山下:それも記憶との兼ね合いというか。
中ハシ:いや、違う違う。小錦はお餅を積んだような感じしない?
山下:そうですね。私もよく千代の富士戦とか見てましたけど(笑)。
中ハシ:だからお餅のフォルムじゃない。
山下:そうですね。量塊具合が(笑)。
中ハシ:これは2人で持てるサイズにしているの。全部で400キロぐらい。
山下:400キロ。すごい。そうしたらこの流れで、プロジェクトの話をさせてもらって、少し休憩をしたいと思います。今の流れで中ハシ先生が展覧会を続々進めていったことが分かり、松を量産していくっていうこだわりも見えて。記憶とか時間という一貫したテーマがあるのですが、1998年に「アート遊園地」や、その後「On the Day project」という情報があります。腱鞘炎の話もありましたが、この辺りから変えていこうと思ったんでしょうか。
中ハシ:いいですか。日本の木って、松、竹とか、桜とかあるじゃないですか。だから松、竹、梅とか桜をやろうと思ったの。松の次は桜の木を作ろうと思ったの。それで桜をどんな素材で作るのかというのを、写真で作ろうと思ったの。枝をばちばち撮って、幹はどうするか分からないけど、とにかく写真で全部できた彫刻、桜の彫刻を作ろうと思ったんですよ。これは失敗しちゃったんですよ。
菊川:そこで写真で素材を作るっていう方法論に。
山下:失敗ですか。
中ハシ:僕は最初から、自分の人生の計画として線、面、量とがあったの。次、面じゃないですか。
菊川:線っていうのは、松のことですか。
中ハシ:松。線もどちらかっていうと、辛かったけど(笑)。しょうがないっていう。
山下:苦労が分かりました。
中ハシ:だからもう次、面の彫刻を作ろうと思ったの。桜を面で作ると。面が一番面白いのが、写真だといけるんじゃないかなって。すごい沢山撮ったんだけど、一番困ったのは写真の裏側なんだ。裏側がどうしても見えてくるわけ。裏側がでないようにきっちり取るとますます難しくなって。いろんな折り紙みたいにして色々とやったから。それは今村源のようにやると何かできるかもしれないと。困ったのは、写真を撮る時間って1年で1週間ぐらいなんだよ、開花して散るまで、そんな間に撮れないじゃん。素材が間に合わないわけ。それで花見をするときにブルーシートを敷いてみんなでやるじゃないですか。桜っていうのは時間と関係している植物ですね。桜は立体にする方向にいくのではなくて、桜は、時というものを本質的に持ってる。日本人は桜を見るときに時を意識する。例えば4月の入学式とかね。散る時が桜を象徴化する。それは竹にはないと。梅にもないと。時をテーマにしたら桜は面白いと。そうするとブルーシートに、例えば4月5日でもいい、4月4日でもいいんですけど、花びらが落ちるじゃない。その落ちたのを朝から晩までずっと撮り続けていく。そうすると、最初は新鮮な花びらが、だんだん日光で乾いていってからからになってしまう。
山下:夕暮れになると。
中ハシ:そうそう。そしてそれとともに、時間も光もどんどん変化していって、露出不足から露出オーバーになって、また露出不足になるっていう一連のブルーシートが撮れる。これは桜のイメージなんじゃないかなと。
山下:ブルーシートにしたときに、はっと思ったという。
中ハシ:というか、これだったら写真が使えると。写真の裏側は見えなくて済むと。最初は桜の木を作ろうと思ったんだけど、桜の木を作るっていうことじゃなくて、桜はその本質が時なんだから、時を抽出する作品を作ったらいいのではないかなと思ったんですよ。写真は茶室の時からあるわけだから、茶室のときも5000枚ぐらい撮ってるけどね。だから写真が集まったときに起こる異様なこの質感っていうか、ぎとぎとするような、ねっとりしたような、要するに清潔じゃない感じ。
山下:生々しい感じ。
中ハシ:生々しい。茶会ができない茶室じゃないですか。
山下:それは中ハシ先生の面白いところですね(笑)。
中ハシ:相矛盾して。切り裂かれていくような(笑)。だけどそこにユーモアが少しあると。
山下:写真に対する抵抗はなかったんですね。
中ハシ:頭頂部が気になって(笑)。それで4月5日というのを撮ったんです。そうしたら西から東になったのと、東から西側に撮った2通りがあるんですよ。そうすると桜の木の幹の影ができるわけじゃん。その幹の影を追いかけるようにして撮ったの。次は方向を変えたの。だから幹の影とぶつかるように。まだそれは展示してないんだけど。だからその2つを並べたいの。つまり幹の影をずっと追いかけていくってことは、ブルーシートのここに、ずっとこういう半円形の桜の幹の影ができるんだけど、もう一つの4月5日は、ぴっと、ばーんとぶつかって、もうほかないっていうのができるっていう。それを作りましたね。まだ発表してないですけど。2年後に撮りました。いまだ2つを発表するチャンスがありません(笑)。
山下:でも「アート遊園地」ではカメラの桜の作品を、この日づけの作品を出していて。(注:「アート遊園地」は、太田三郎、中ハシ克シゲ、藤本由紀夫の3名によるグループ展として、伊丹市立美術館で1998年8月1日から9月20日にかけて開催された。)そのあと、中ハシ先生は「On the Day project」の方に関心が。
中ハシ:これを「On the Day project」というふうに名づけたの。だから「ZERO Project」より「On the Day project」の方が先なんです。
山下:ですから中ハシ先生としては、松のような立体でなくてもいいということだったんですね。
中ハシ:桜は時間が本質だから、時間というものをどうしたら表せるかというところに焦点を当てていって、だから記号でもなくなるのね。日付になる。そして、それはどこかというのを表記するようになります。沖縄の桜も、あれは硫黄島にアメリカ軍が上陸した2月19日に沖縄の海岸の近くの桜を撮ったんですよ。沖縄の桜は彼岸桜でとても赤いんですよ。そうするとそこにも時間というものがもちろんあるし、背景に戦争ということが出てくると。沖縄の桜はさらさらと散らないの。ぽとっと落ちるんですよ。転がる。首ごと落ちるわけ。それが転がっていく感じ。それをちょうどその戦争ということとイメージし、血が垂れているような。それで沖縄の2月19日のというようにすると、戦争のことをイメージしてくれるんじゃないかと。
山下:中ハシ先生にとっては、そちらに関心が移ることには別に。
中ハシ:だんだん。ZEROは最初は時間がなかったんですね。ただのプラモデルだったわけ。機体番号03-09は撃墜王の乗っていた零戦で、その人が落とすたびに機体にマークを付け足したんですよ、零戦に。とてもきれいなので、いつもプラモデルの零戦のデカールとして扱われるんですよ。それで最初のZEROはそれだったの。
山下:最初のZEROはプラモデルのそこから始まってるんですね。
中ハシ:最初にやった大阪府立現代美術センターだな。初めての零戦だったの。ここがデカール(注:個展「ZERO」(大阪府立現代美術センター、1998年)のパンフレットを確認しながら)。
山下:本当ですね。
中ハシ:これはお正月の展覧会で、年末の休館中に会場で一生懸命に作ったんだけど。終了した時、作品がはエレベーターに乗らないんです。要するに、全部つながっているから入らないわけ、どう丸めても。なので、ばさばさ切って捨てちゃったんですよ。
菊川:搬出のときに?
中ハシ:そうです。1メーターぐらいの2、3枚だけ記念に丸めて、あとは捨てちゃったの。
山下:そうしたらこちらの最初の零戦は、中ハシ先生の関心で写真を撮ったという。時間の関係ではなくて。
中ハシ:時間はないの。
山下:このプラモデルの形態に惹かれて。
中ハシ:それよりは、僕のおやじとの関係だけがあったの。おやじは一度も僕の展覧会に来てくれたことないのに、零戦をやってるって言ったら初めて会場に来て、「克シゲ、色が違う」だって。それが最初の言葉ですよ(笑)。「ええっ」。
菊川:整備士をされていたことがあるんですね。
中ハシ:そうそう、大村海軍航空隊。それで「克シゲ、これはいったい何だ」、「アンテナじゃないですか」、
「こんなもんないよ」とか。「ええっ」(笑)。いろんな話をしてくれましたよ。プロペラを回すと自然に動き出したんですよ。なのでいつも胴体に馬乗りになって、機体が浮かないようにしたらしい。エンジンの取り換えのようなことをしょっちゅうやってたって。大村から特攻機がどんどん行くわけですが、整備不良で帰ってくる飛行機もあるわけ。特攻に行って。それは失敗ですよね、作戦としては。だけど命は助かってるわけじゃない。ですからおやじとしては、整備士としては非常にアンビバレンツな気持ちになるはずなんですね。右と左に引き裂かれていったところに作品を作る意味があるんじゃないかなと思う。子どもの頃、ずっとプラモデルを作っていたって言いましたね。そうすると特に零戦はおやじがいつも取り上げて自分で作るんですよ。セメダインのつけ方が悪いとか。会場では、大村海軍航空隊のこととか、原爆を見たって言うんですね。初めてプラモデルを奪っていた理由がやっと分かった。それから大村は長崎ですからね。その日、彼は洞穴に松根油という零戦のガソリンを運んでいたの。そのときに、近くでぴかっと何か光ったらしいの。「中橋、おまえちょっと電柱に上がって見てこい」って。それで上がっていったんだって。そうしたら、山の端から見たこともないようなきれいなピンク色――きれいなって言った。「ピンク色のきれいな入道雲が出たんだよ。それが忘れられないんだ」と。そして、半日もしたら、次々にマグロみたいになった人が貨車に積まれて、どんどん大村に運ばれてくるんだ。それがおやじの原爆体験。何で今まで黙ったかというと、自分は被爆っていうか、要するに浴びてると思っている。
菊川:被爆していたかもと。
中ハシ:被爆して。それから戦争が終わったあとも貨車で広島を横切っているんですよ。長崎も広島も見てるから。僕にも子どもできたでしょ。できたんで、それで話せる気になったらしいのよ。子どもが生まれるまで、影響があったらどうしようかと思って、黙ってたほうがいいと思ったらしいんだよね。それも分かって、二重に。それだったら零戦を作るのは僕でないとできないっていうことがでてくるじゃない。僕はプラモデルでもやってたし、おやじはそうだということで。それから面ね(笑)。
山下:中ハシ先生が最初、零戦のプラモデルで写真を撮りたくなったのは、プラモデルをずっとされていたからということですか。
中ハシ:そのときはもうしてないよ。どうやって思い出していいか分からないんだけど、なぜか零戦を写真で撮ると面白いと思ったの。多分それは桜を写真で撮ったらどうなるかなっていうのが一回あったので、零戦だったらプラモデルで撮れる。つまり普通は写真を撮るっていうのは、零戦の本物を撮るよね。プラモデルだったら、拡大鏡さえあれば、机の上で撮れるんです。倍率を調べて、それでぴったり合わせれば撮れると思って、何シートかやってみたんですよ。レンズを買って。そしたら何か不思議な感じ。ピンぼけのところもはっきりしちゃうところもあるし。集めると何やってるか全然分からないじゃない。それでこれは何かこう宙づりみたいな。何かこう存在が不安定というか。零戦でもなければ、プラモデルでもない。何かこう所在不明なものができあがると。でも呼ばれるとしたら零戦としか呼ばれないと。でも何かこう、ふにゃふにゃで分からない。本質的には何かというと、敗戦っていうのがある。零戦は栄光と失敗があるじゃない。つまり最新鋭機だったのが、最後、特攻としてくずみたいに使われて、そこで人が死んでいるわけでしょ。アンビバレンツな存在ですよ。「On the Day project」と零戦を重ねあわせて、零戦にも時間と場所を合わせていったら面白いかなと思ったの。だから仕方なく燃やしたけど、燃やす意味を与えたい、せっかく燃やすんだったら。もったいないと。燃やす場所と時間があるやないかと、と思ったわけですね。
山下:そう思ったので、中ハシ先生はプロジェクトにしようと思ったんですか。
中ハシ:そう。その時からゼロにマークはなくなった。そのときにアジア・パシフィック・トリエンナーレというのが、ブリスベンであって、調べたらそこにマッカーサーチャンバースがあったわけですよ。マッカーサー司令部が。しかも美術館から歩いて5分ぐらいのところに。今は保険会社になってて。「やった!」みたいな。ちょうど展覧会が9月から始まるから、ここを9月2日に、日本が降伏文書を書いた日にそのタイミングで撮れると。ブリスベンにマッカーサー通りっていうのがあるんですよ。僕がお願いしたのは、「この展示した零戦は終了したら、マッカーサー通りで燃やしたい」って言ったんですよ。そうしないとこれは成立しないとか、言ったわけ。そうしたら学芸員は「ぶー(だめ)」って(笑)。そうでないと僕は出品しないって言ったの。そうしたら、分からないけど考えるから出品しろって言ったの。(注:「第3回アジア太平洋現代美術トリエンナーレ」クイーンズランドアートギャラリー、オーストラリア、1999年に出品した。)
菊川:考慮しますと(笑)。
中ハシ:だってこれは、国際展の展覧会は「先にゆけ」があるのよ。これポイントなのよ。国際展っていうのは、最初に言うだけ言って、それでだめだったらもういいっていう感じぐらいにいかないと物事は進まない。だってすごい作品が来るわけじゃないですか。そうすると、そういった時に何かね、ぐっと最初にしとかないと、あとでいくら言ってもだめ。それは宮島達男さんから言われたんですよ。「中ハシ君、最初が肝心だな」って(笑)。「言うだけ言わなあかん」とか言って。
山下:でもこのプロジェクトはそうやって燃やしてしまう。今までずっと塀とか形を残してきたから、それは抵抗なかったのかなと思いまして。
中ハシ:だって捨てるより、燃やすほうがいいじゃないですか。残りますよ。ネガフィルムで。何度でもやれるってこと。ネガフィルムを持っているってことは、何回でもできるってことです。
菊川:これをプラスチックに固定して、物として残して、どこかが収蔵するってことは今まで一度もありませんか。
中ハシ:ありません。
菊川:やっぱり、物として。
中ハシ:フィルムを売ってるんですよ。この写真は売ってない、フィルムを売ってるの。
菊川:フィルムを売って、現像は自由にさせる。
中ハシ:現像は自分でやるの。
菊川:プロジェクトとして販売するということですね。
中ハシ:組み立て方を買えと。同時に二つは作っちゃいけない。一つを作って、それを燃やしたら、次もう一回作れよと。永久に作れるっていうコンセプト。
菊川:なるほど。よく分かりました。
山下:中ハシ先生にとっては、このプロジェクトの根幹は場所と時間だから、こういうプロジェクト形式でやっていくときにも、自分は今は残さなくていいということで進めたということですか。
中ハシ:場所と時間。フィルムは残るという。つまり、実在としていつも残してたんだけど、本当にタフなのかと。DVDでもいいわけですよ。普通現像するときはDVDに一回するんです、データを。DVDに残るんですよ。それは別に捨てなくていいわけじゃないですか。フィルムはひょっとすると劣化するかもしれないけど。DATAは永久だってことですよ。フィルムはこのぐらいになるんですよ。だからまとめてジュラルミンのケースで売るの。
山下:でも根本のところには、中ハシ先生はカメラとか映画が好きだったとか、そういうことも。
中ハシ:どうかな。映画は知れば知るほどできないなっていう。だってあの音楽とかシナリオを書いたり、到底もう無理やね。彫刻がすごく楽しくなったんですよ。
山下:中ハシ先生はこれまでの作品をお一人で1年かけて制作されるということでしたが、プロジェクトにすることには抵抗はなかったんですか。いろんな人を取りまとめないといけないですけど。
中ハシ:賭けですね。
山下:賭けですか。次なる展開にいきたかった時期ですか。
中ハシ:まず、ブリスベンのそれは別にボランティアを集める必要はなくて、美術館にスタッフはいるわけじゃないですか、展覧会だから。あと展示をどうするかだけがあるわけです。そこを考えるでしょ。あと、燃やすとこはどこだ。結局、元海軍の基地で燃やしたんですよ。そうしたらテレビとか何かも取材が来て、一応はちょっとうまくいったの。消防車もやってきたりして、面白かったの。そして燃やした足でダーウィンに飛んだんですよ。というのは、展覧会のときにダーウィンからやってきた作家がいて、ダーウィンに零戦のがらくたが置いてあると。それでダーウィンに寄ったんですよ。ダーウィンにあるノーザンテリトリー大学には美術学部があって、そこの学部長としゃべって、その零戦が置いてあるところに行ったの。航空
博物館にあって。ダーウィンの航空博物館というのは、実は軍機を置いているんです。B-52とかそういうのをいっぱい。それと実際にそこの飛行場は、軍事飛行場と民間とが一緒になってるんですよ、大きな。ヘリテイジセンターに零戦の残骸があったんですよ。調べるとそれが日本が最初にダーウィンを攻撃した零戦だったの。豊島一っていう、南忠男っていう偽名を使っていたんですけど、それがダーウィン攻撃したあと被弾して、近くのメルビルアイランドに着陸して、5日後にアボリジニに救出された。食べ物を食べている時にオーストラリア軍に捕まっちゃった兵隊さんがいて、それでオーストラリアの最初の日本人兵捕虜となる。その後、カウラ収容所というところに護送されて、1年半後に脱走したんですよ。脱走するときは231人と一緒に脱走したんです。
山下:大量脱走ですね。
中ハシ:彼が脱走の合図を、突撃ラッパを吹いた本人なんです。彼は英語もしゃべれたわけです。1年半もいたんで。それでカウラには231人の墓標が残ってるんですよ、今も。(注:インタヴュー後に確認。在豪日本大使館による公式データ(2016-205)では234人。)それも偽名の墓標が。南忠男っていうのは南方で忠義を尽くす男という意味なんですよ。そして生還者もいて。脱走をカウラインシデントっていうんですけど、カウラは、今は日豪の平和の象徴になってるんですよ。町に日本庭園なんかもできたりして。そして僕は豊島一を撃った高射砲台跡があるので、ここで燃やしたいと。それは国立の自然公園だったの。8月15日に、日本に向けて燃やしたいって主張した。これだ(注:手元の資料を見ながら)。後ろにあるのは高射砲台跡ですよね。
山下:すごい、大勢の人が関わっていますね。
中ハシ:ガンタレット(注:砲台跡の意味)っていうんですけど。
山下:いい写真ですね。
中ハシ:ここで「ZERO Project」、最初は豊島の残骸のある横に、日本から写真を送っていって、日本からもボランティアを集めて作りました。まさかオーストラリア人が参加してくれるとは思ってないから。で、作り始めたわけ。そうしたらちょうど東ティモールで紛争があった時だったんですよ。世界中の記者がダーウィンに集結した。そうすると僕が変なことやってると。取材があって、国際ニュースになっちゃったんですよ。ロイターですね。BBCからも電話があった。直接僕に電話が。そんなことがあって、世界配信しちゃったんですよ。「あなた、何をするのか」って。「これで今度行進したいんだ」、「どこから行進するんだ?」「ノーザンテリトリーの州都、国会議事堂から。」その国会議事堂はどうしてそこに建ったかというと、爆弾が落とされた跡に国会議事堂が建ったの。元は郵便局だったのを爆破されて、郵便局員が死んでいる。1階のフロアには、爆弾の落としたプレートが、ここで日本人が殺したってプレートがついているわけです。「そのフロアで展示したい。1日でいいんだ。1日だけここに展示させろ」って言ったんです。そうしたら絶対そんなことしてくれるはずないじゃない。だって議事堂の中で。向こうは要するに州の政治の場所だからね(笑)。でも国際発信にしたりしたので、ちょっと話題になった。そうしたらそこのダーウィンの教会の牧師が僕に賛成してくれて。有力な牧師で、「こんな日本人が平和のためにやって来ている。どうして彼のこういうたった1日の展示を許してやらないんだ。美術なのに」と言ってくれたんですよね。それでノーザンテリトリーパーラメントハウスの展示と行進が実現した。パーラメントハウスからガンタレットまで。10キロありました。
山下:かなりありますね。
中ハシ:10キロの行進。下からこう持ち上げて。50人×2=100人が、後ろのバスで交代しながら。朝の9時ぐらいから12時ちょっと過ぎまでってことで。休憩時間に冷たいお茶を振る舞ったり何かして。ハンカチーフのでっかいやつをも作ったの。暑いから頭にかぶってもいいし、座るときはそれを下に敷いてもいいっていうような。ゼロのマークのついた。5色入りのその日のマークのついたものをみんなに配ったの。何かその辺にあると思うけど。そうしたらベトナム従軍帰還兵がまず名乗りを上げてくれて。屈強な人が20人ぐらいやってきて、とうとうダーウィンの70過ぎの市長まで「俺も参加したい」とか言って。市長室に行ったんだよ。行ったら、「僕もやるよ、カツさん」とか言ってくれたの。それで町が盛り上がった。そうしたらダーウィンの警察署からパトカーが先導してくれて。一番後ろにマイクロバスがついて、一番後ろにまたパトカー。そうして車道全部。そのあと全部渋滞。
山下:まさに祭典ですね。
中ハシ:そんなことなっちゃったんだよ。それで日本で言うと、『日曜美術館』みたいなものがオーストラリアでもあって。15分ぐらいの番組を作ってくれたんですよ。これが放映されちゃって。燃やしたのは8月15日。みんなが群がってるの。(注:当時の写真資料を確認しながら、)それから消防車がすごく素敵だっ
たのは、延焼しないように水を周りにだけかけてくれたの。
菊川:だからきれいに、かたちが。
中ハシ:そう。オーストラリアのガムテープの繊維は糸が太いのよ。だからああいう白い燃え焦げが残るの。だからトンボの羽みたいになっちゃったの。そうしたらプロペラのところにね、花束を置いてくれた人がいて、カウラでは脱走した時に、231人が全員殺されたわけじゃない、自殺してる人もたくさんいた。首をくくってぶら下がってる人もいれば、線路に首をおいてひかれた人とかを話してくれました。そして、中には民家に行って、死ぬ前におなかいっぱいにしたかったんでしょうね。そうしたらそこのお母さんがお茶とお菓子を振る舞って(食べて)帰りなさいと。そんな話がカウラにいっぱいあるの。そういう話をしてくれたんだ。そうしたらカウラに行かないとあかんと思ったんですよ。カウラでこの飛行機を、もう一回カウラの収容所跡でやろうと思ってたから、カウラに行ったんですよ、その次の年に。カウラに州立の美術館があって、その館長に話をしてたら、助成金が出たの。
山下:それについて聞いてみたかったんです。助成金が。
中ハシ:ダーウィンのときもノーザンテリトリー大学から助成金が出たの。そうやって助成金から結構出してくれた。それからTV番組をプレゼンで紹介したら、結構うまくいった。それでカウラはキャンベラ大学に近いんですよ。1時間ぐらい。あとシドニーからも学生が7時間とか8時間、バスに乗って作りに来てくれるの。ホテルで泊まって作ってくれたんだよ。
山下:それはカウラには日本の人ではなくて、ですね?
中ハシ:だって日本人いないよ、1人も。
山下:ボランティアで日本の人が来たわけではないのですか。
中ハシ:いませんでした。
山下:ではオーストラリアの方が全部手伝ってくれて。
中ハシ:そうですね。ダーウィンで作るときは日本人の僕のスタッフ。学生が2人。でも運ぶのは。あ、運ぶっていうので来た人もいた。大阪芸大の女の子が2人。
菊川:こういう零戦の一連のプロジェクトとかの写真を貼りつけて、運んで燃やして灰になって、灰がまた土に還っていくっていう、そういうプロジェクトについて、今、オーストラリアの事例を細かくお聞きしましたけど、海外でたくさんこれからも展開されていこうと。
中ハシ:これからって、もう終わってます。
菊川:いや、ほかにも展覧会もたくさんあったわけですけれど、海外、国によっては受け入れられ方が違ったりとか、何でこんなことをやるんだとか、零戦の持ってる意味をどういうふうに、アートとはいえ、いろんな感情を持たれてる方が向こうにもいらっしゃると思うんですけれど、そういうトラブルというか、対話のシーンっていうのもやっぱりたくさんあったんですか。
中ハシ:ダーウィンに行った時はもう死んでもいいと思ってた。石ぶつけられて怪我してもいいって、覚悟があった。だって敵国ですから。そこでたくさん死んでるからね、本当に。そういう死んだ家族がいるんだから。だけど、燃やすっていうのが両方に取れるんですよ。僕が兵器を破壊してるっていうふうにも取れるわけ。でも僕としては悼んでると。つまり、その死者をこれで弔ってると思って。要するに、お盆の火祭りの話ってあるでしょ。だから両方に、これもアンビバレンツ。取り方によっては、僕が反戦運動家で平和主義者で。
菊川:自分たちの兵器を燃やして反戦の証明をしてると。
中ハシ:だからそのように取る人もいたわけ。
菊川:一方で乗っていた兵士を悼むというような意味もありますよね。
中ハシ:と僕は思ってる。だけどそれは日本人的な感覚。だから燃やすなという人も、いっぱいいた。なぜ燃やすのだって。だから困ってね。もったいない、要するに不経済なことやってると。でも戦争は一番不経済だから、命をもそれで失うってことだというふうなことを言いましたね。もったいないって言葉が英語にないのね。僕は不経済って言い方したんですよね。ちょっと今、言葉を忘れちゃったけど。それから和解っていうことを言いましたね。
菊川:先生のほうから提案というか、そういうことでやってるんだというようなスタンスですか。
中ハシ:ラジオ局に招かれて、生放送で、僕が英語をしゃべれると思ってるわけ。連れていく人も僕の英語力をわかってるのに連れていくんですよ。一応しゃべってる内容は分かるけど、緊張するじゃない(笑)。それで和解ってことを一言だけ。すーっと青ざめてく顔は見ました(笑)。でも記者がやってきて、たどたどしいけど言ってることは分かるわけ。文法はひどいけど、伝わるのよ、そういう時って。
菊川:あとでアメリカなんかでも零戦の展示をしたりするわけですけど、国によっての違いが感じられるとかはなかったですか? あるいは、アート関係者からのコメントであるとか。
中ハシ:どちらかっていうと、いいコメントが多かった。ダーウィンでやった時に–ここはオーストラリアのパールハーバーって言われてるんですよ、ダーウィンのことを–だから「次はパールハーバーかい?」って言われました。だから「アメリカのハワイでやりたいです」と事あるごとに言って、それで本当になったわけです。2016年だったかな。パールハーバーの攻撃も、よく似てるんですよ。やっぱり攻撃した後、被弾して、近くの島に着陸して、そしてパイロットが島の人に助けられた話が、やっぱり同じようにあるんです。その島は日系の農園の管理者がいて、そしてあとは原住民なの。それでラジオが聞こえてこないところだったの。だから戦争が始まっていることも知らなかった。1週間ぐらいしてそういうの分かって、そしてディレクターは、日本人がけがをしているって介抱した。家に連れていって介抱しようとしたら、そのパイロットはじっとして動かない。着陸地にいるって言うんですよ。24時間以内に潜水艦が僕を助けに来るから、という取り決めになってたの。だけど24時間しても来なかったんですよ。仕方なく諦めてその家に行ったわけ。そしてそこから本当の2人だけの戦争が始まるんですけど。それで結局その2人は殺されるんですよ、島民に。最後に零戦を燃やして死にました。というのは奪われるといけないでしょう。機体もマップも。
菊川:機密情報も燃やしてからってことですね。
中ハシ:そう。それがもとで日本人っていうのは何をするか分からないと。日系2世がそんなことをするから。それで日系人が収容所に送られたの、この事件が元なんですよ。不思議なことにハワイの日系人はそうされてないんですよ。どうなったかというと、ハワイの男はみんな兵隊になろうと志願したの。それが自分はアメリカの国民だっていうこと。一番の激戦地に送られていくんですよ。それで8割が死んでしまうっていう兵隊、「第100歩兵大隊」、そういう部隊ができるの。それ映画にもなっているんですよ。そして僕はハワイに行って、ハワイ大学はホノルルにあるわけですから、その当時の防空壕の場所のところで燃やしたわけなんですけども。そうしたら日系のその軍隊さん、「応援する」とか言ってくれるの。
山下:また出会いが。
中ハシ:また。俺のおやじがどうのこうのって言ったら、おまえのおやじに会いたいとか言うんですよ。それでおやじがハワイに来たんですよ。それから半年ぐらいで死にましたけど。日系人がものすごい協力してくれた。3交代。朝昼晩。10日間でできちゃった。
山下:中ハシ先生にとってこの一連のプロジェクトは、そういう方の記憶とか時間というものがどんどんつながっていく。それに中ハシ先生も惹かれてやっていったということでしょうか。
中ハシ:一つ、すごく僕が発見したのは、大パズルゲームだった。
山下:ピースが、こう。
中ハシ:そう。
菊川:作る工程自体がですかね。
中ハシ:大パズルゲーム。だから1人が間違うと隣とつながらない。簡単なように思うけど、ものすごいシビアですよ。だってピンぼけもあるし、しかも若い人からお年寄りまで来るわけじゃない。お年寄りは失敗します。自分はどこを作ったのかっていうのを全部サインしておく。そうするとすごいシビアになりますよ。つながらないとなると、みんながすごい集中して。
菊川:でも言葉は通じなくても、そういうマップを見ながら継ぎはぎくっつけていくって、老若男女できますもんね。そこが大事ですね。
中ハシ:始めると夢中になるの。
菊川:夢中になるんですね。子どもも大人も(笑)。
中ハシ:大人も。もうかんかんになりますよ。面白いから。パズルゲーム。ちょっとして、この白い点とこれとが同じかとか、いや違うとかやりながら、もうそれに一生懸命なるんだよな、みんなが。そうすると、最後はできたときはすごく高揚するんですよ。
菊川:みんなで達成感を共有するみたいのがあるんですね。
中ハシ:みんなでできたっていう、手と心がつながったんですよ、それで。敵国の飛行機なのに。ふにゃふにゃしてるけど何かきれいなんです、やっぱり、飛行機だから。そうすると、これが燃えるのかっていう、みんなそう思うわけ。僕からは戦争の話は一つも言わないの。ただ戦争体験者の方が来てくれる。戦争体験者に話をしてもらう時間は必ず持つんですよ。僕は「この日に燃やします。雨が降っても燃やします」っていうふうにだけ言うわけ。ハワイで燃やしたのはその零戦が燃えた日です。この2人が死んだ日でもある。それで何が言いたかったかというと、失うっていうことが分かるんですよ。作らないと失うって気持ちにならない。できたものが失われるっていう。失うっていうことを知るということが、すなわち戦争を知るっていうことなんです。戦争を疑似体験することかもしれない。だって零戦を作るために、高校生や女学校の方が一生懸命作ってたわけですよ。大学ではそういう話が出るわけですよ。大体、君らと同じような子が、みんな軍事工場に行って作ってたんだ。そういう話しするでしょ。当然アメリカの人たちにもそういう経験を持ってる人がいるわけでしょ。そうすると僕が別に言わなくても、失うことを、それから零をゼロにするという。それからもう一回芝生が再生することは、命が再生するっていうことでしょ。
山下:元々の桜から中ハシ先生が出発されて、そのままどんどん連鎖していって、10年のプロジェクトが進んでいったということですかね。
中ハシ:そうそう。だから10年以上やってはいけないの。体験者もういないから。2009年ぐらいで90歳以上になるんですよ。体験者が一生懸命来てくれたの。来てくれるはずの人が亡くなった場合もあったのね。回天がそうだったの。飛行機じゃなくて回天もあった。サンフランシスコで。そういうことだったので、もう最初から10年って決めてたんですけど、それで良かったと思う。
山下:分かりました。ありがとうございます。そうしたらここで少し休憩を入れまして、終盤の新たな時代以降の方にいきましょうか。
(休憩)
菊川:先ほどのZERO Projectの話を詳しくお伺いしたんですが、2001年に村上隆さんがキュレーションしました「Superflat展」がロサンゼルスでありましたけれども、そこにも零戦の作品を出品されていました。その出品の経緯とか、向こうでどういうふうに受け入れられたか、それに対して中ハシ先生がどうお感じになったかについてお伺いしたい思います。
中ハシ:それがね、このダーウィンでやったこととどっちが先だったか、年表を見たら分かると思うんですけど、「Superflat展」はアメリカを巡回しました。(注:ZERO Project、オーストラリア、ダーウィンは2000年に行われた。)最後は1年後ぐらいにシアトル、最初はロサンゼルスだったんです。(注:「Superflat」展は、2001年1月14日-5月27日までロサンゼルス現代美術館で、7月15日-10月14日までミネアポリスのウォーカー・アート・センターで、2001年11月10日から2002年3月3日までシアトルのヘンリー・アート・ギャラリーで開催された。中ハシ克シゲは《ZERO Project #03-09》で参加した。)それで、それらが終わったらシアトルで燃やしますと、最初に言っといたの。シアトルで戦争があったわけじゃないんだけど、巡回して、そのまま帰ってくるわけにはいかないので、そこで燃やしますと言ったわけです。しかも#03-09の零戦は、どちらかというとプラモデルとしては有名だけど、そのパイロットは生きてるんですよ。戦後も生きていたんですよ。お会いしたこともあります。村上は「Superflat」っていうことから平面的な、この平らな、フィギュアと重なると思ったらしいのね。フィギュアってマンガから立体にしてるじゃない。僕も写真、平らなものを立体化しているので、それだと面白いと思ったのが一つと、日本の戦争をイメージしていることと二つあったんだと思う。
菊川:グループ展とかでご一緒される機会はそんなに多くなかったかなと思うんですけど、面識はおありだったのでしょうか。
中ハシ:うん、あった。何回かあったよね、ニューヨークと韓国でも一緒だった。それで、韓国で僕は茶室を出したんですよ。その時村上くんに「次は何やるの?」と聞かれて。「次は飛行機やります」、「飛行機かあ」って(笑)。「飛行機だ」とかと言って、すごくからかうの、僕を。なぜか知らんけど。
菊川:でも、TAMIYAのシリーズとか当初からやられてたプラモデルという、フィギュアの文化に同じく関心を持っている。
中ハシ:そこでつながってるんだと思う。
菊川:そういうことと理解されたんでしょうね。
中ハシ:最初に日本のパルコで(村上隆が)展覧会をやって、そのときも出してくれって言われて。(注:「Superflat」展は2000年4月28日-5月29日にパルコギャラリー・東京で、2000年6月9日-26日にパルコギャラリー・名古屋で開催された。)だから最初からアメリカじゃなくて、小さい「Superflat」っていう展覧会があったんです。それで切断したZEROの翼を出したかな。そしてブリスベンで燃やした映像も一緒につけて。そして「アメリカでも「Superflat」展をやりたいから一緒に出してくれ」ってわざわざ京都まで新幹線でやってきて、朝早く。「是非、肝ですからお願いします」とか言って。それで、そのときZEROは売れたんです。
菊川:作品が。
中ハシ:うん。村上くんがいたからだと思うよね。
菊川:Superflatという文脈の中で受け入れられたから、売れたということですか。
中ハシ:ノートンユーティリティーってあるじゃないの。知ってる? コンピューターを修理する。
菊川:ノートンってセキュリティソフトの。
中ハシ:そうそう、そのノートンさんはロサンゼルスの大コレクターなの。美術館の理事長でもあるんですよ。ピーター・ノートン(Peter Norton)っていうんですけど。それで作品が欲しいと。「欲しいから燃やすな。ニューヨークに持っていきたい」と。だからSuperflatの展覧会は巡回するけど、「俺は君のを買って、ニューヨークに持っていく」と言ったんです。「いやいや、燃やします。だから買ってくれなくていいですから」って言ったんです。「写真を売ってる訳じゃないんだ。僕はコンセプトを売ってるんだから、買うならフィルムです」と。だから「作りたかったら、作り方を書いてあるのを渡すから、それでやってくれ」って強硬に言ったんですよ。
山下:それは大変だ。
中ハシ:そしたらね。シアトルで燃やす時、専属の学芸員がやってきて、雪が降ってしょうがないから白灯油を掛けました(笑)。強制的に燃やしちゃった。そうしたら残骸が残って。残骸をどうするかって、「残骸をもらって帰りますよ」って言うから、「どうぞどうぞ、もらって帰ってください」と。風がパーッと吹いて、一生懸命ワーッと(拾った)。
一同:(笑)。
山下:だいぶ惹かれていたんですね。
菊川:「Superflat」展として見せると、どうしても村上さんの文脈に沿って見せるような形になっていたと思うんですけど。フィギュアやポップカルチャーとの関わりとか。向こうからの反応っていうんでしょうか、中ハシ先生が思っていた趣旨、オーストラリアとかでの趣旨とかとは若干ずれた理解をされる可能性もあるのかなと思ったんですけど、そのあたりは感触としていかがでしょうか。
中ハシ:どうだろうな。Superflatという中には、いろいろな人がいた。奈良美智と僕と村上か……。村上くんは目玉の作品を出した、それからMr.とかは、いるじゃない、村上軍団みたいなのが。何かこうちょっと違うんだけどっていうような感じ。だけど、アメリカの人は何か面白がるんだよ。僕は全然面白いとは思わない。それで、自分で言うのもなんだけど、僕のと奈良のは人気だった。村上はね、すごくコレクターを集めるのうまいの。最初にパーティーを開いて、テーブル席をDMで送って、そこに1席100万とか全部売って、その代わり彼の小さな作品を渡すわけ、ピーター・ノートンがお金出すわけ。僕も持ってるの、村上フィギュア。音楽までついてる。小さいCDがついていて、かけるとさ、音楽が鳴る、そういうの。それがクリスマスプレゼントなの。ちょうどクリスマスと重なってた。
山下:村上さんと話もされたんですか、会期中は。
中ハシ:どうかな。僕がちょっと話題になったんで、「中ハシさんやってよー」って言って、「買おうって言ってるよ」ってそんな感じなの。
山下:商売的ですかね(笑)。
中ハシ:彼はいつもそうですよ。電話口で、「俺は売りたいんだ」みたいな。売りたい、本当に直接的です、彼は。
菊川:隠さないというか。
中ハシ:隠さない。
山下:でも作家同士なんで、お互いに作品のことを話したりということはありませんか。表に出さないかもしれませんが。
中ハシ:口先だけだけど、「リスペクトしてる」と言っていた。「すごく出して欲しい」って言った。
菊川:口先だけってことはない、それはないと思います。
中ハシ:そんなこと言ってました。だって、韓国ではぼろくそに僕をからかってたんですから。「カッちゃん先生」って言ってたんですよ、大声で、みんなのいるところで。「カッちゃん先生」って、自分は向こう向いて、「カッちゃん先生」とか言って。「茶室でカッちゃん先生。」「こんにちわー」とか言って。とくにかく僕をからかうっていうか、気になってたんだろうね、今思うと。すごく。やっぱり文脈とすごく重なったのかな。
山下:気になってましたか。
中ハシ:気になってた。僕が大学生を集めてやった行進と焼却のイベント。あのときもものすごく気にしてたね。そのあと、Superflatのカタログに大学のが出てくるじゃない。何か重なるところがいくつもあって、それがすごい気になってたんだと思うよ。
菊川:でも面白いですね。同じではないですけど、重なる関心を持ちながら、どういうふうにアートの世界に提示していくかという方法論が全然違って。最終的にコレクターが所蔵するためのフォーマットにどう落とし込むかもそれぞれ違いますから、面白いんだと思います。
中ハシ:話しているとすごく面白いと思ったのは、彼は「自分はアーティストとしては才能ない」と言うんですよ。本当にそう言いますよ。だけど、「僕はディレクターとしてはちょっとやれると、それでやってるんだ」と。だから才能は本当に僕はないって言う。真顔で言うんですよ。いつもそんなふうに何かね、割りかし本気で言ってるよ。彼はあまり嘘を言う人じゃないの。ただね、言い方が露骨というかな、それが嘘に聞こえる。彼は嘘は言わない人ですね。本当に思ってることを言うっていうこと。だから、そういう人はちゃんとついてくんで。彼はアメリカの学芸員とよくけんかして泣かしてます。だからね、本当に横で聞いていたらすごいなって。露骨なの。売りたいとか。「ピーター・ノートンが君は古いタイプのアーティスト。俺は新しいタイプのアーティストだと言ってるぜ」って。別にそんなことを俺に言う必要ないじゃない。君は古いタイプだと。いいよ、古いタイプで(笑)。
一同:(笑)。
菊川:少しですけど世代のずれもありますから、それぞれの違いが見えて面白いなと思います。何かお互いにいい関係にあって、意識し合うことがあるんだなと。
中ハシ:だからね、東京で個展したときね。花束が届きましたよ、村上から。
山下:やっぱり気になっているんですね。
中ハシ:これ、やばいなと思った。これはずしてくれって(笑)。村上って書いてるんですよ。どっちの宣伝なのか? 何か怪しいな。彼のやり方だよね。いっちょう俺が押さえているんだ、みたいな感じに見えるんだな。
山下:そうしたら中ハシ先生、先ほどのプロジェクトの話に戻ります。ここで時間とか戦争が出てきているわけですが、やはりそれにリンクしてるかと思うんですが、2000年代になりますと、西宮の大谷記念美術館で「あなたの時代」という展覧会をされることになります。(注:「中ハシ克シゲ展―あなたの時代」は、西宮市大谷記念美術館で2000年1月8日-2月20日に開催された。)これに関しては、これまでにもインタヴューがあったかと思いますが、改めて、この個展の名前「あなたの時代」にということや、展覧会全体の構想をもう一度振り返って頂けますでしょうか。
中ハシ:要するに2000年はミレニアムというちょうど区切りの年というイメージがあって、それから昭和というものが一つのまとまりとして見える感じでもあったんですよね。僕はずっと昭和を作りたいなという一方で、(昭和は戦前と戦後と大きく分かれてるじゃない。)僕は戦前を知らないし、戦後の高度成長期に育った人間ですよね。ところが太平洋戦争を取り上げると、昭和の戦前も戦後も一緒に引っ張りあげることができると思って。2000年という区切りの年に、私が育てられたものを作りたいと。着々と育ったもの、さっき言った記号的なものを集めて行く作業を準備し始めました。
山下:それでは西宮市の大谷記念美術館からは、自由にやってくださいという依頼で。
中ハシ:そうですね。展覧会をしたいと、それも何年か前から言われていたので、1室ずつ埋めていくわけ。だからブリスベンのマッカーサー・チャンバースの正面に沖縄の桜を置いて。西宮の部屋の大きさを考えながら。
山下:ご自身で昭和をテーマにしていこうと。
中ハシ:そうです。「あなたの時代」っていうのは君が代ですよ。「あなたの時代」はわれわれの時代。私たちに向けられている時代。僕は昭和の人だと思いますね。だから昭和の人であるあなたに、あなたの時代です、という意味と、それから天皇陛下。「Your Majesty」って英語がついているから、天皇陛下が統治したその時代、あなたの時代という二重にかかってる。だから記号も同じですが、意味が重層化する。(注:展覧会の英語タイトルはANATA NO JIDAI: YOUR MAJESTY’S REIGN)重層化しすぎてるという人もいるんですよ。ややこしすぎると。もっと整理せいという人もいるんですけど、重層化が実はとっても面白くて。でも、作品としては一つなんだから、その作品にそういうものが見えるっていうことは見る方の責任なんです。見るほうが色々と考えるような仕掛けを作品に込めていることは間違いないです。
山下:しかもやはり時間ですかね。昭和という。中ハシ先生にとってはさらに時間という関心があるから、それを次は全面に出すという。
中ハシ:時間。「オン・ザ・デイプロジェクト」と「ZERO Project」があったので、時間っていうふうに言えればいえるんですけど、どうだろうな。むしろ、そういうことよりは。
山下:日本ですか。
中ハシ:というよりは場所と時間がぴったり合う、その時のその場所と時間で、こういうことが起こったっていうそういう奇跡のような作品を作りたい。それはインスタレーションの根本だよね。だけど、インスタレーションにしちゃ重装備ですね。そこは矛盾ですけど、ものすごくタフな材料でその一瞬の時間だけを成立させるというような、そちらにポイントがあって。だから、お正月、元旦から始めたいって言ってたの。1月1日から。それはできないということで、1月の3日から始めてます。だから富士山があるのも、初登頂とか日の出とか正月ならではのそういうこと。
山下:かけがえのない感じですね。
中ハシ:それから三社図を作ったのも、お参りをするためじゃない。だからお正月にちなんだ日本の行事としてやってるの。
山下:でも、塀もまだ出てくる。
中ハシ:塀はだからその三つの社があって、塀越しに見えると。
山下:そうですよね。日本のずっと前からある、日本の景色という、それも一応根幹にはありながら。
中ハシ:もちろんそうですよね。
山下:その中で中ハシ先生は白い菊と、昭和天皇のモデルということで。これはすぐやろうと考えたのですか。
中ハシ:もう大変でした。僕は天皇陛下を見たい。直に出したい。「直に出したい」と言ったんですよ。まあ、全然駄目でした。それで、もう、相当言い合いになりました。
山下:それは美術館とですか。
菊川:前に、1980年代に富山県美(注:富山県立近代美術館)で大浦信行さんの天皇の肖像を扱った版画作品の《遠近を抱えて》で、随分大きな問題になりましたけど、やはりそういうのも、中ハシ先生もご存じでしたか。それを踏まえて構想された。
中ハシ:もちろんですよ。それで、どうして昭和天皇像の彫刻が作れないのか。どうしてないのか。僕は作りたい。僕しか作れる人はいないと思ってる。日本のことで、しかも昭和を作るっていうことで、これはずせないテーマ。それで、まあ、いろいろ言って、じゃあカバーをしたら許可できると。そこで妥協した。それで中之島公会堂(大阪市)で最初にカバーだけ展示したんです。あそこ(注:貴賓室)は天皇の部屋なんだ。天皇陛下の、いわゆる壁画は全部皇室に合わせて作った。それで中身のないものを。だけど、最初からそこに何かを入れようと思っていた。だから、天皇陛下の体がすぽっと入るようにあの筒を作っている。それで、今、菊と言いましたか。
山下:あ、菊と。
中ハシ:菊とおっしゃった。あれはね、蓮に見えるって人がいるんだよ。一個一個蓮の花。菊にももちろん見えるね。それからね、原子爆弾のキノコ雲にも見えると。
山下:そういう話もあったんですか。
中ハシ:あるんです。というのは、それを意識したというよりは、そう見える、まあしょうがないというか(注:作品ファイルを確認しながら)。
山下:確かに見えるな。
中ハシ:上からこういうライトが落ちてくるから、ちょうどその影がこうきて、映るんですよね。人影が何となく分かる。それで金色の足が見えると。そして順路の最後の展示がこれだから、まあそれとなくわかるわけですよ。それで年配の女性は両手を合わせて拝んでいる人もいるわけ。そうだと分かってね。だからまあ、三つの社が事前に意味を持たせているから。
山下:なるほど。
中ハシ:子どもたちが描いた戦争画もあって。これは、徳島か香川だかどこかのお寺の襖の中から出てきたんで。そして、これをぜひ借りたい。この当時の子どもたちの意識がわかるわけじゃない。それでプラモデルは子どものおもちゃなんですから、ですから戦争と子どもという。二重に重なり合う。プラモデルから子どもと、大人という二つの対立項も入れてみたい。その当時の新聞も裏側に出てる。アクリルで挟んであるから、その新聞も読めるようにしたわけ。
山下:中ハシ先生にとってこの展覧会は、そのような昭和をどのように見せるかという、色々なもの集めてくるっていう方に関心が移っている。
中ハシ:そうですね。富士山も実を言うと、大スクリーンで上から垂れ下がって、床に横たわっている。てことはね、横から見ると、富士山のシルエットに見えるわけ(笑)。これは向かい合わせなの。後ろからライティングして。だから不二も、実を言うと二重になってるでしょ。記号的なんです。
山下:やはり記号的な。塀で隠したところなんかも、色々と見る者に推測してもらうということ。
中ハシ:だから、伊勢神宮なんかも中はよく見えないじゃないですか。
山下:はい、神社とかも。
中ハシ:だから聖なるものは、少し見えにくくしているっていうこともあった。
山下:そういう昭和天皇の像もあって、会期中に何か話はありましたか。
中ハシ:いやあ、どうだろうかねえ。あの展覧会はすごく、色々な所から声が。NHKの『日曜美術館』にもさ。そうなんだけど、主任学芸員とはなかなかうまく折り合いがつかなくて。そして、カタログを読んでくれたら分かりますけど、相当に書かれてますね。だから、このカタログは海外に持っていくと、「カツ、どうしてこれ…… 不思議だね」ってよく言われますね(笑)。
山下:でも中ハシ先生としては、やはり2000年で一つ、「あなたの時代」昭和を定義したかった。
中ハシ:それができるのは僕だと。今までの作品と矛盾しないし、無理してるわけじゃない。マッカーサー・チャンバースも、零戦のあるところから、入り口が開いてて、ここを通り抜けれる。だから、ただドアが開いてるだけです、こう振り向くと、自分がそれを通ったところがマッカーサー司令部。戦後の日本人の意識、アメリカの統治が、民主主義とか自由主義っていうものを、知らぬ間に通って振り返る感じ。
山下:昭和という時代を切る場合は、避けて通れないですね。
中ハシ:だから正面のドアの隙間からは沖縄戦の作品が見える。それで、振り返るとマッカーサー・チャンバースが見える。もう、何年も前から計画してた。だから、そのときの奇跡のような、もう出会えないそういったものを作っていこうと。しかもそのサイズに合わせて作るわけですから。
山下:この流れで少し引きまして、あいちトリエンナーレ2019で「表現の不自由展・その後」の展示中止ということがあったんですが、1人のアーティストとして、表現の自由や検閲のことで何か思うところとか、考えることはありますか。
中ハシ:僕のところには何もないんですよ。でもね、考えることはよく考えますね。僕ね、離婚したんです。天皇を作る前に、家内と。というのは何が起こるか分からなかった。怖かった。まず成安(造形大学)にも辞表を出したんですよ。だって、街宣車が大学の周りをくるくるくる回っていたら、やってられないじゃないですか。それとね、家内の父に会って、俺はこんなのを作るので、子どもになにかあったら嫌だ、火でもつけられたらどうするか! だから籍を、つまり姓を変えると。家内は郵便局に勤めていたんで、郵便局の近くにアパートを借りて、そこで子どもと一緒に暮らした。1年半。直前じゃなくて、もうかなり前から。
山下:そうだったんですね。
中ハシ:1年半前ぐらいから籍を抜いてるほうがいい。そうしないと、分かってそうなったっていうんじゃなくて、仲たがいして、展覧会と関係ない感じで離婚してるほうがいい。それで僕は京都に下宿して、アパートを借りて、月に1回ぐらい僕が会いに行ったり、向こうが家族を連れてきたりっていうことをやってたんですね。
菊川:そこまで用心しながらやっておられたってことですね。
中ハシ:みんな笑うけどね。でも怖かったんですよ。本当怖かった。
菊川:やっぱり身の危険を感じたり、そういうこともあった。
中ハシ:僕をいつも助けてくれてる、やの美術ギャラリー(注:個展「あなたの時代」2001年)が、一番最初に二つ並べてくれた。初めて2体を直に。そのときの展覧会の図録がこれ。1ヶ月間、警察が画廊の廻りを見てくれたそうです。
山下:入手できなかったです。大きいですね。
中ハシ:中はピンナップになってる。ばらばらになっていて、やっぱりピンナップ。
山下:すごい。中ハシ先生が仕様を決められた。
中ハシ:いや、デザイナーの西岡(勉)さんのアイデアです。大谷で実現できなかった展示を、やの美術でやるんだ。それで「作ってくれ」って言ったら、こういうのを。綴じないで、何のデータもない。ただ写真だけ。印刷所も協力してくれた。「これはどうですか」って言うので、もう「ありがとう」って言って。このカタログ費は全部やのが出した。
菊川:支えてくださったんですね。
中ハシ:そうそう。恩人ですよ。いつも困ったときに、お金をどーんと払ってくれる。何とか返したけどね。
山下:中ハシ先生にとっては、昭和ということで、やはり一つの象徴というか、記号的に天皇を使ったことになりますか。
中ハシ:どうかな? 僕が昭和の人なので、天皇陛下っていうと昭和天皇なんですよ。平成天皇は自分の天皇じゃないんです。昭和天皇だけ。何か不思議なものだね。誰もがそれぞれの天皇がいるんじゃないですか? 世代が、僕も3代重なっていますけど、僕は昭和の人ですよ。日本人は自分は何の人って言えると思うのね。その感じは日本人だけの感覚だと思うんですよ。僕のじいさんは明治の人だし、僕のおやじも昭和の人だった。そうやって自覚する、内々な時代の人っていうのがあると思うから、その感じを、そういう世代、時代を彫刻としてというか、作品として作りたいっていう思いがあった。
山下:まさに1人のアーティストとして、色々と規制があるのは分かるけれども、したい表現はさせてほしいということですよね。
中ハシ:そうですね。何でこれができないのかな。もちろん分かるけど、僕も怖いからそうしたんですけど、大谷の学芸員は「俺の家庭はどうなると。俺も離婚すんのか」と言われましたよ。「俺はどうなるんだ。君はいいかもしれない、君は離婚したらいいだろう。俺はどうなるんだ」と、言われましたよ。本当にそれは返す言葉がなかった、この人に。
山下:そんなことが。
中ハシ:思いましたね。気の毒なことしちゃったなと。
菊川:でも、そういった日本国内での難しい問題は、ある意味、海外に行ったほうが発言しやすいっていうこともありますか。
中ハシ:不思議がられます。最初に、天皇を作っているから天皇賛美者だと思われるの。いや、そうじゃないんですよという感じで話します。それから「なぜ金で作る」って言われますよね。右翼だと思われるのね。アンビバレントな、どっちにも取られるような事柄に、特に僕は表現をしてみたいと思う。どうやら(笑)。
山下:そろそろ2000年の締めくくりをしていくのですが、2000年代に入りましたら、京都市立芸術大学で教鞭を執られるということで、そちらについても確認しておきたいと思います。彫刻の技術を学び、そして現代美術にも触れていた中ハシ先生ですが、指導者という立場では、いつも心がけていたこととか、どういうふうに学生と京都市立芸術大学で接してきたのか。今、振り返るとどうでしたでしょうか。
中ハシ:僕が非常に困ったのは、僕の育った教育のシステムと、京都芸大の教育システムはまるで違ってるんで、例えば石を削った教育っていうのは到底できないわけです。そういう経験はできないのでね。つまり、手で教える、手で染み込ませるっていうことじゃないわけ。僕は随分言ったんですよ。僕にとって、あの四角い石は、6、7年間の中で最もいい授業だった。そして、作っている時は怒りでいっぱいで。俺はこんなものを作るために大学に来たんじゃないんだっていう怒りでいっぱいだったけど、今振り返ると、あんないい授業なかった。そういう思いなの。それで京都市立芸術大学は、まったく逆で、機械でできることはどんどん機械でやってしまったらいいと。そして、できるだけ早く自分の作品をどう作るかっていうことに焦点が当たっている。それで僕は、そういうシステムにちゃちゃを入れたくないって言ったんですよ。僕の考えはもちろんあるけど、でもそちらに合わせたいと。僕がそれで頑張ったら分裂しちゃうじゃん。何か変なことになると思ったの、そのときにね。
菊川:中ハシ先生が入られたときの彫刻科の教授陣っていうのは?
中ハシ:小清水さん、野村(仁)さん、松井さんと中原さん。
菊川:もうその皆さんはいらっしゃったんですね。
中ハシ:自分としても、「おお、すごいメンツだな」と。本当そう思った。ただ俺はここでどうするかなと思って。それも悩みだった。彼らの合評を聞いてると、僕の合評と全然違うんです。小難しいんです。何かすごく(笑)。でも、正確だと思うよ。なんだけど、僕とはちょっと違う言い方をするなとは思った。僕はどちらかというと接近していくんですよ、学生に。接近していって、話を聞くっていう感じなんだけど、彼らはどっちかというと離していく、距離を取っていく感じの教育だったのね。だから、悩んでるやつに寄り添う感じじゃなくて、悩んでるならそれもいいじゃないかって、勝手に悩んでろと。悩んでれば何か出てくるっていう感じで、もう突き放してる。僕はそんなことされたことなかったので、辛くしている人にそれはあんまり良くないのかなと思ったり。そこの葛藤がありましたね。それからもう一つは、どうしても、僕は塑造中心の教育を受けたので、僕が何か塑造的な話をすると、アンチ中ハシになっていくんですね。つまり中ハシさんの言うことを逆、反対をしなさいという感じにだんだんなるんだ、空気的には(笑)。
山下:そうなんですか(笑)。
中ハシ:だって、僕は塑像の奥行きの話をするじゃない? たった2週間、1週間で首とかをするだけじゃないですか。それで、僕には蝋型鋳造もやれっていう。蝋型鋳造なんか最初から最後までもう1カ月半もかかる。僕だけすごく長いんですよ。ずっとやってきたんだけど、どうも変だと。何を変えたかというと、僕が教えたいのが塑像なので、蝋型鋳造は僕じゃなくて、そういう技術者が教えたらええやんかと言った。塑像を1カ月にするわけ。それを提案した。本当は塑像は野村先生だったの。僕は木彫だったんです。
菊川:そうなんですか。それは随分印象が違います。
中ハシ:野村先生は塑像の先生で入ったの。昔の教育は塑像もできた。というので野村先生を取ったらしい。僕は木彫で取られた。木彫はあまりやったことないんで。それで小清水さんに「のみの研ぎ方を少し教えてください」って。こう、八の字に「うーん」とか言って。
一同:(笑)。
中ハシ:のみも、どこののみがいいとか、どうしても道具の話になると専門的になるし、なんかちょっと。
山下:そんな日々があったんですね。
中ハシ:だから最初の授業は木彫で、木で石を作りなさいっていう課題だった。木で石を作れと。具象なのか、抽象なのか? レアリティーを含ませた。
山下:中ハシ先生にとって、そうやって見てきた京都市立芸術大学の学生の様子は、どういうふうに映っていましたか。15年ですので、時代時代に対応していってるなとか、技術もつけたいという雰囲気はあったなとか。(注:2005年より京都市立芸術大学美術学部の教員に着任し、2020年3月に退任した。)
中ハシ:僕はやっぱり野村先生に言って塑像を。野村先生は「もう塑像はやりたくないと」言うし、僕に見てくれって言うんですよ。
菊川:「やりたくない」(笑)。
中ハシ:言うんですよ、野村先生は。それで野村先生、「木彫ならOKですか」って。野村先生は「木彫は絶対やれます」と。「そうですか」と言って、「そうしたらじゃあ僕は塑像やりましょうか」って。そしたら小清水さんは特に反対して、「何だそれは」って言って。「だって僕、塑像専門じゃないですか。基礎教育に塑像、専門的なところが一番大事ですよ」って言って、「なら勝手にやれ」って怒られちゃいました。それで、やったんですよ。そして、僕が最初にやったのは、男の人で、かつ、ある程度職業的なキャリアのある人を呼んできて、「人の顔を作るというよりは、そのキャリアの部分が作れているかどうかっていうことを自己確認したらどう?」って言ったの。それで労働組合の委員長が知り合いにいたんで、労働組合の委員長に来てもらって。労働組合の委員長には、「君を1年生が最初から作る。そして最後に蝋型でブロンズになるから、一つ、どれか、10人ぐらいの中から一番好きなやつを選んで、それをあなたにプレゼントするから、どうだ、来てくれないかな」と。もちろんモデル代も出すと。「本当か?」と言ってね。和歌山から来てくれた。そうしたら次も労働組合の委員長で、しばらく労働組合の委員長が続いたな。
一同:(笑)。
山下:学生はどうでしたか。
中ハシ:僕は「モデルと話せよ」と。「ただものとして見るんじゃなくて、この人は労働組合の委員長だ」と。「だから、どんな経歴を持っているかっていうことが、作ることの意味なんだと。いいか、輪郭線で見るな」って言っても輪郭線で見るけどね。そういう話をして、彫刻といえば輪郭線の、こうやって作るんじゃないぜって言うけど、できないね。そりゃそうだよね。その中身を作るんだよっていってもできないです。もちろんできない。だけど、そういうものだっていうことを教えたかったわけ。そして最後はホンダトルコの社長が来ました。
山下:本当ですか。
中ハシ:BMのすごい車に乗って来て。その人も社長さんだから学生に何か言うかなと思ったら、何にも言わない。「何か言ってくださいよ」って頼んだりして(笑)。でもまあそういうことだった。
山下:教育のカリキュラムでの中ハシ先生の様子は分かりましたが、毎年の「作品展」ですね、15年間、中ハシ先生はどういうふうに見ていましたか。
菊川:そういう技術を習得させながら次の世代を育てていくなかで、彫刻という意識を持ったり、あるいは手放したりしながら、どう考えておられたのかなと。
中ハシ:僕は、彫刻と工作は違うんだよっていうことを言いたかったの。だけど学生は、先生どこが違うんですかって言うわけ。彫刻することと工作することはどう違うのか分からない。何が違うのか分からないの。どっかをペイントするのと絵とは違うでしょ。もちろんどっちもペインティングだけど。でも、そういうところで、最初からそう言う学生がいて、彫刻の素養がまず全然ないわけ。僕の世代はあった。それをどう耕すかだったけど、最初からないわけ。
菊川:それは京都芸大自体にそういうところもありますよね。やっぱり、すいどーばたで塑造の訓練をした学生が受けるわけじゃないですし、やっぱり京都芸大の彫刻(科)が持ってきた、割と抽象的な志向とか、そういう教授陣も多かったっていうのもありますよね。
中ハシ:そうですね。抽象と一括りに言えないと思うけど。総合基礎の感じを学生がずーっと持っていて。とてもいい授業だと思います。非常にいい、だからその感覚で彫刻というのを捉えているわけ。でも僕が言う彫刻は、一応こうなんだよと。今はそうじゃなくなってるかもしれないし、もう興味は持たないかもしれないけれど、一応こういうことから出発しているよとは言わざるを得ない。でなけりゃ僕の存在は意味がないと思った。さっき卒制(作品展)の話が出たけど。
山下:毎年、京都市美術館(注:2020年より京都市京セラ美術館と改称。)のあの真ん中の部屋に、いっぱいいろんな作品が出てきて、それを見てきたわけなんですが。インスタレーションもあれば。まあ、温かく見守っていたということでしょうか。
中ハシ:そう。温かく見守るしかないの。それで、どうつながるかなっていう。そうですね。
菊川:作家としてどうやっていくか。
中ハシ:この後、どう続いていくかなっていうことを見てみたいなという感じはあってね。例えば中原くんとか松井くんは、確かにそのままやれた。そういう意味では期待してるんだなとは思うんだよ。まあヤノベくんもそうかもしんないね。名の出てるやつはもう、学生のときからその路線でずっとつながってるんじゃない? だから、まあそういうことなんだろうなとは思うから、第二、第三のそういった人を探してるんだろうし、待ってるんだろうとは思う。でも、僕は少なくともそうじゃない。それに作品を作ろうと思ったのは、もう25歳とも6もなってから、やっと自分はどうかしらとかっていう感じで。やっと形が見えてきたのは、30歳過ぎてからですから。なのでもう大学1年、2年、あるいは大学院生ぐらいから始めて、自分っていうものをどう築いていくのかしらっていうのが、いつも疑問だった。というのは、ワンパターンで、要するに同じことを何回も繰り返すことになるから。自分の様式の中を繰り返すだけ、広がらないで……。
山下:それでは、中ハシ先生はゼミも含めてなかなか悩みの日々だったということですかね。
中ハシ:僕は最後はどう言ったかというと、「美術というものをどう携えていくかっていうふうに、発表するとか何とかっていうことじゃなくて、美術というものと一生つき合っていくとはどういうことなのか? そのためには日記がいるんだ」と。日記を自分の友人にしなさい。そうすると、日記を書いてそれを読むとたくさんの自分に出会える。自分の日記を時々見直して、日記帳に大体6年分ぐらいの日記がたまりますね。そうすると6年前の同じ日の自分に出会える。次の日の自分にも出会える。だから僕は今年を書くときは全部、前の年の同じ日の日記をずっと読むわけ。読んで今年のコメントをそれぞれに書いてくわけ。すると毎日6通りの自分に、今年を入れると6通り、あるいは5通りの自分に出会えるわけなんです。そうすると自分を客観化ができるじゃない。展覧会は確かに客観化ができるんですけど、展覧会だけじゃなくて日記を書いてそれと毎日出会う。そうすると何年も続けてると複数の違う自分、でも同じ日の自分に出会えます。服は同じような服を着ていて同じ景色を見ていて、同じような気候で……。大体同じような環境においてどんなことしてるかっていう複数の自分と出会えるので。それからスポーツ選手はみんなやってるよ。大谷投手の日記を見てるかいと、高校時代から毎日書いてるよ。大谷だけじゃなくてスポーツ選手はみんな書いてる。毎日、体温測って、今日はどんなトレーニングしたっていうのみんな書いてる。美術家はなぜそれをしないのか、美術家が一番しなきゃいけない。僕は海外にアーティストレジデンスに行ったら、海外のアーティストはそれをしていた。日記を見たら、自分の構図を描いて、それについてどう思うかと一生懸命記述している。そこに構図の考えがあるわけですよ。そういうことを丹念にやってる。それなのに、どういうわけか日本ではその日をその日を感覚的に生きて、その記録を残さない。アメリカでそれを2カ月ほどやっていたアーティストレジデンスでルーマニアかどこかからやってきた作家が、ヴェネチア・ビエンナーレに行った帰りにやっていた。ああそうかと思って。俺はそういうのを見習わないとと思って。だけど、やろうとしていつもだめなんですよ。あるいは本当にできるようになったのは2011年からです。それは本当に悩んだから。ZERO Projectのあと2009年から次、何をしようかって。なにか量的なもので何か次に。線、面といったら量があるんだと思うけれど、その量で何をしようか。粘土がいいなと思ったけど思い浮かばない。それでその悩みをとにかく書く。そうやっていつも逃避する自分を書いていましたね。それをずっと1日こういうふうに書く。だからもう最初を読むと涙が出るよ。でもある意味解放してる。展覧会があるとあれ(日記)を一緒にぽんと置いてもいいですし。
山下:ありがとうございます。作家像や学生についての話になっていますので、さらにぐっと引いて、1人のアーティストとしての視点、コメントを伺ってみたいと思います。中ハシ先生は西洋由来の彫刻を修得してきましたが、1970年代には彫刻から立体という言葉も出てきて、そうして最近ではアートという言葉が使われているという、今の日本のアートシーンですよね。ギャラリーや美術館だったけれども今は芸術祭やアートプロジェクトとか、本当に作品が設置される環境がだいぶ変わってきたかなとは思うのですが、振り返って中ハシ先生は1人のアーティストとして今の日本美術界はどのように映るでしょうか。
中ハシ:すごく自由になってるようで、実は希薄になっていると思うんですよ。
山下:希薄に。
中ハシ:希薄になっている。何て言うか、面白いようなんだけど深みがないみたいな。そんな感じがして。
山下:それは作品もあふれてるというような。
中ハシ:須田剋太とか、すごいなと思いますね。彼は抽象を途中でやったけども、司馬遼太郎の『街道をゆく』で一緒に行って挿絵を描いたりしたじゃない。千何点も描いてその一つ一つが本当にスケッチにちょっと色をつけているようなものなんだけど、本当すばらしいですね。この画力っていうか本当に打たれますよ。おまえ、じゃあやってみろと、誰かと一緒に行って帰りに描けるのかと言いたいですよ。もう本当に圧倒される。だから僕は、彫刻とは何ぞやっていう時にいつも言うのは、「彫刻は動的存在を作るんですよ」といつも言ってるんですね。動的な存在っていうものを求めている。その動的な存在から離れたときに、彫刻の本来持っているものではなくなってるんではないかなって、僕は今もそう思ってる。だから今、僕は目隠しで作ったりもしていますけど、特に彫刻はもともと触っても鑑賞でもできる芸術だったはずなの。もともと。だから見ても触ってもいいのが彫刻だった。ところが美術館制度になって彫刻がいつの間にか視る存在になってしまった。触って鑑賞できなくなってきたんです。
山下:そうですね、「展示」によって。
中ハシ:それで僕、目の見えない人が彫刻をできるのではないかと思ってる。
山下:今のこともお聞きしたかったんです。
中ハシ:というのは、僕は目が見えてるじゃない。だから目をつぶっても視覚的なイメージを持ってしまっていますよね、隠しても隠しても。だから作るものが手ざわりはもちろんそうだけど、でもそこには視覚的なイメージ、視覚的なフォルムが僕にはあるんですよ。それはどうしたって入ってくる。目をつぶっても。でも目の見えない人はそれが幸い、僕から言うと幸いないので、その触覚による面白いフォルムが。時間的な奥行きになると思う。そこを伸ばすと、本当に時間の奥行きができるのではないか?と。そういうために僕が今、作った粘土はとても便利です。目の見えない人のための粘土を各県に1校ずつ盲学校があるから、そこへ行って彫刻の指導をしようと考え、もう愛媛県でやったんですよ。滋賀県で今度2学期からやろうとしてるんですけど。粘土はある薬品会社と4年間ぐらい関わっていて今、特許申請中なんです。これがそうです。試験場で作ってきたんです。それで、これを元にデータ化して数値化、要するに実験にかけてどういう性質か、それを特許出願しようかと。
山下:中ハシ先生のその「奥行きの感覚のアートプロジェクト」を京都芸大で立ち上げていくんですけど、それは生徒との教育のカリキュラムの中でこういうのはやっていかないといけないと。
中ハシ:「奥行きの感覚」というよりも、最初はモデリングの話から始めたの。だから最初は「モデリング」というタイトルだったの。ところが、奥行きの感覚というのは別に彫刻だけじゃなくて絵画もそうで、あらゆる芸術の中に奥行きがあるのでは?アルタミラの壁画も、それから若冲とかマティスの絵を横並びにして評価できないじゃない。あまりにも地域とか時代が違うから。そうでしょ。だけど奥行きという物差しで、あらゆるものが時代を越えて地域を越えて様式を越えて、全部が横並びに奥行きという物差しで評価する。そういう物差しを作りましょうというのが、この奥行きの感覚の目的なんです。それで、立体も平面もない。
菊川:この奥行きの感覚は、中ハシ先生がイヌを、次第に松を作るようになった時に、彫刻というものを括弧つきで扱うようになって、これが彫刻と言っていいのかなと思っていた、その思いがまた括弧を取って話ができるようになったというところなのでしょうか。
中ハシ:全くそのとおり。この粘土に入っていって自分が今、ちっちゃいけれども、これは何て言うか、この日本の塑像じゃないかなと疑っている。というのは、自分が作ったものを自分の家に持って帰って床の間に置いて、大丈夫なの。不思議なことにちゃんと調和するわけ。自分のブロンズを持って行っても、「あっ」てなるわけ。このおやじ(の作品)なんか持っていきたいんだけど、これは入ったときに、「うわっ、誰これ」っていう感じなんですよ、もう。びっくりするんだから。
山下:分かりやすいです。
中ハシ:それですよ。なんかね、強すぎる。
菊川:例えば滋賀にいらっしゃると信楽とか焼き物との関係にも、結構関わることもあると思うんですよ。
中ハシ:そう。窯業試験場に行ってるんですよ。
菊川:特に関西にいるとやっぱり焼き物文化が非常に強いので、それで陶芸のほうに転向する人も結構多いですけど。やっぱりその陶っていうことと彫塑の可能性っていうのは何か。
中ハシ:あのね、陶芸っていうのは中ぐりがいるんですよ。だから、適当に作って、できましたっていうんじゃ釜の中で爆発するわけ。そうですよね。自由な塑像はできません。彫刻のモデリングは焼き物とは全然違いますよ。それが陶芸家では分かんない。全然違うんだけど、彫刻の勉強をしないから分からない。だから同じように見えてしまうらしい。
菊川:日本の仏像でも塑像ってあるじゃないですか。だから何でしょう、中ハシ先生のおっしゃる日本的な彫塑を遡っていくと、陶芸ではない日本的な彫刻を遡ることになるのでしょうか。
中ハシ:僕の塑像を遡っていくと石庭になります。一番近いのは。
菊川:石庭。庭?
中ハシ:庭の石ですね。あの感覚ですね。つまり、自分が作るというよりは。というか、与えられていく。それを選択していくんだと。自分が作り上げていくというよりは半分向こうに作ってもらう、それをどう選ぶかっていう半々の関係。
山下:対話みたいな。
中ハシ:木彫だとやっぱり自分が作っているから。円空はちょっと違うかもしれないけど。でも石庭とか物作りは半分向こうと、こっちとが相対してやってるっていう感じがあるわけね。それが僕が今やってるものですね。例えばこれは失敗作ではあるけど、こういうのっていうのは、絶対型取りできないんですよ。じゃない?(注:粘土の制作物を見ながら。)
菊川:はい。
中ハシ:そうですよね。こういう彫刻ってないですよ。あり得ないから、型取りできないし。焼き物でもないと思うんですよ、中身が詰まってるから。焼いてこれらしいものはあるかもしれない。でもこれはモデリングが全然違う。これは作品として出したこともあるけど、これは《蓄膿症》っていうタイトルなんです。こうしたタイトルが《蓄膿症》に感じるものになるわけですよ。
山下:またキッチュな。
中ハシ:これは《蓄膿症》を作ろうと思って作るんじゃないんですよ。やってる最中に《蓄膿症》ができちゃう。
菊川:(笑)。
中ハシ:半分これも奇跡。もう一回同じようにはできない。同じような手つきをしてもこうならないんです。でしょ?
山下:その括弧つき彫刻を取っていくようなこのプロジェクトをやりたいという、それはずっと心の中にあったものをやりたくなったという。
中ハシ:日本の風土に似合った彫刻を作りたいのに、自分の作ったものは自分の家に置けない。しかも僕はでかいのが好きだったの。作品を全部を美術館、ギャラリーといういわゆる西洋由来の空間の中に納めていた。それで「何で俺は、日本なの?」と。
山下:そのように2015年あたりに何かもやもやしてきていたという。
中ハシ:そう。ZERO Projectが2009年に終わったあとね。俺は日本の風土に合ったものを作りたいのに、何で自分の部屋に自分の彫刻が置けないのか? ずっと長い間テーブルの上とか台座の上に置けるようなものは絶対作らないと思ってたんですよ。何かプライドみたいなのがあって。だけど、運べて、持てることのほうがいいなと。
山下:かなり新しいというか、次なる段階に入っている。
中ハシ:僕は今が一番幸せなんです。
菊川:(笑)。
中ハシ:本当に。「中ハシさん、だめだ」ってみんなは言うんだけど、だけど今、僕はやっと安定した居所を。いわゆる伝統っていうか日本のいわゆる…… ここにあるんだけれど。(注:資料を探しに行きながら、)これです。長谷川等伯の中に僕はいるなっていう(注:長谷川等伯の図録を見ながら)。
山下:そうなんですか。
中ハシ:長谷川等伯の絵を立体にしちゃうことがあるもの。
山下:プロジェクトで。
中ハシ:うん。奥行きの感覚の中でできるんですよ。粘土でできる。これって岩を見て描いてるわけじゃないの。
山下:形を自分で抽出して。
中ハシ:形の感じを。そうこういうふうに粘土で作っていって、これができますね。だから、途中のどれがいいだろうな。
山下:自分の感じ取った形を生み出して。
中ハシ:この筆跡と粘土の跡は同じことなの。例えば粘土ですね。似てない? 筆跡と。(注:粘土を叩きつけながら、)でもこんな彫刻はなかったじゃない。
菊川:よく分かります。
中ハシ:こんな感じで彫刻は出来るんじゃないか。これは西洋由来のモデルじゃない。盲学校の子どもたちに彫刻っていうのは動的存在だよって。それを実際に造って体験させています。
山下:境地というか、中ハシ先生の今までの中にあったものが全部出てきてるんですね。
中ハシ:触ってみて。この粘土自身が生んでくれる形、それをどう取り上げるか。例えばこうやって押さえると、その部に力が出てくるじゃん。これを形でまねろと言ってもできない。
菊川:素材から開発するっていうのがすごいですね。そういう塑像の可能性は、多分多くの人がずっと思っていたけれども、やっぱり技術的な問題が。水粘土が一番いいですけど、結局割れちゃうから、形にできないっていうような思いをしてきた人が、実はいっぱいいると思うけれど。
中ハシ:学内助成金を3年間もらって。実はこれはそうして出来た粘土なんです。見ても分からないけど。既に粘土の中に薬が入ってんの。だから乾燥しても割れない。割れにくい。そして、最後に仕上げ液をかけるとそのまま固まる。これ結構硬いです。叩くとコンコンって音がする。
山下:これが今、中ハシ先生が取り組んでいる粘土なんですね。(注:実際の粘土を見せてもらいながら。)
中ハシ:そう。ちょっと見せようか。
山下:はい。そういう素材の研究もされていると。
中ハシ:盲学校の子どもに教えるのにとってもいいの。盲学校の子どもたちは視覚的なモチーフがないわけですから。ネコは動く、でも触れられないわけです。だから最初から自然をやってもだめなの。むしろ粘土が持っている自然からいったほうが話が早い。それを愛媛でやって、今度、滋賀でもやって。僕は授業料は要りません。素材もただで、薬品会社にお願いして。(注:子どもたちが作った作品の資料を一緒に見ながら、)これが子象とか。だから二度とできない(笑)。
山下:抱えられる大きさなんですね。
中ハシ:《どっちを見てる》とか。こういうのを作ってる。
山下:あの松の作品とかが嘘みたいな感じになりましたね。
中ハシ:そうだね。
山下:ありがとうございました。そういうのを作っているんですね。特許なんですか。
中ハシ:粘土のね。でも、別にどうでもいいの。要するに、モデリングっていうものの可能性と、新しい彫刻っていう。それは動的存在。もちろん目が見えてて、そういうのを作っても、もちろん構わないし。要するに、みんなに開かれていって。日本がヨーロッパに貢献できる彫刻とは何か?今まで西洋から日本は美術の非常に大きな貢献をいただいていますよね、と思うんですよ。だけど日本画の例えば水墨画を、どうしてヨーロッパ美術に貢献する材料として提供しないのか?してないですよ。日本の美術大学で水墨画を教えているところ、一つもないんだ。
山下:確かに。
中ハシ:日本画でさえない。硯と墨と紙との、それから筆の間には、面白い化学反応がある。例えば、これはその水墨。誰もまだ見せていないですよ。(注:資料を見せてもらいながら、)これはだから水墨画ですよ。
菊川:中ハシ先生のですか。
中ハシ:もちろん、僕のサインが。だからさっき鳥取県博でのワークショップを見せたよね、あそこでやったんですよ。これと粘土とは、同じ発想ですよ。
山下:動的存在で。
中ハシ:動的存在で、かつ、墨が。
山下:向こうからやってくると。自分と向こうとの、素材との対話みたいな。
中ハシ:そうそう。
山下:今の取り組みも、最後聞こうと思っていたんですが、それがよく分かりました。
中ハシ:日本の風土に、今、自分が入っているなっていう気がして、無理なくやってます。そして、目の見えない人にも彫刻の意味で貢献できるじゃないですか。新しい触覚彫刻というジャンルを立ち上げたいな、死ぬまでに。目が見えてる人が作る触覚彫刻があっていいし、目が見えない人が作る触覚彫刻があってもいいし、そして触らないと分からないの。見た目には分からないの。
菊川:鑑賞の中に触れるということも加えられてるという。
中ハシ:必ず入れる。触れないと分からないの。触れた時に初めて分かる。
山下:それは、中ハシ先生が今までの展示をやってきた経験を踏まえて、そこに至ってるということですかね。
中ハシ:大きな疑問が突然やってきて、日本の風土、風土っていうけど、おまえの彫刻、どこが風土に合っているのかと。おまえの部屋、家に作品が何一つもないじゃないかっていう。床の間に置いて置物だとか言ってるけど、床の間になぜ彫刻が置けないんだ。それは西洋流のそういう概念でやるから、日本の生活空間に置けないんだよ。だからそれを置けるものがあれば、新しい提案なのではないか? 西洋に向かって、東洋が貢献できる彫刻はあるかもしれない。それは焼き物じゃない。
山下:ありがとうございます。もう終盤なんですが締まりました。
中ハシ:(笑)。
菊川:学生時代から塑像を始められて、色々な現代美術でのご活動があった中で、今ここに至ってることがよく分かりました。
中ハシ:今は割に安定してる。
菊川:でも、ずっと一つの問いみたいなものを、色々な形で発展されていっている。
山下:そうですね。あと最後に、定型的な質問をさせてもらってよろしいですか。普段の一日は、どのようにお過ごしてでょうか。
中ハシ:これを。(注:壁に掛けてあるホワイトボードを指差しながら、)例えば、4月18日、6時30分、アトリエに到着って書いてある。18時11分に出る。今日のスケジュール書いてあるでしょ。今年のスケジュール。6月のスケジュール。
山下:基本的には、ここで制作をされている、構想を練ってるという。
中ハシ:もう二度と先生にならない。
一同:(笑)。
中ハシ:盲学校はいいけど、要するに何というか、もういい。自分のここでいたいの。
山下:息抜きはどのようにされていますか。
中ハシ:息抜き? いや、家に帰って、家内が必ず居て、ご飯を作ってくれる。それで呑んで、寝ます。9時ぐらいにもう寝る。
菊川:奥様とのお話は伺いましたけど、やっぱりすごく作家活動を支えてくださる方。
中ハシ:美術関係の人じゃなくて、演劇をやってた人なのね。
山下:芸術がやっぱり好きなんですね。
中ハシ:演劇が趣味なのね。それで米子に演劇を呼ぶ、そういうサークルの会長か何かをやっていた。劇団を呼んで。
山下:すごいですね。
中ハシ:劇団の貧しさ。要するに、俳優がどんな暮らしぶりをしてるかはよくよく知ってる。なので、僕がどんなに貧乏かっていうのは、割かし理解してくれたの。ただ僕は意地でも家内に養われたくなかったの。それで、あの(佐藤)忠良さん、杉並区で一番の最高納税額者で表彰されたんだよ。それはどういうことかっていうと、節税しなかったってことですよ。杉並区で彫刻家が一番の納税額者になるわけないじゃないですか。美術家がどんなにもうけたって最高納税額者になるわけがない。彼は節税っていうことを、わざわざしなかったわけ。つまりそういう人なんです。文化勲章を断ったり、シベリア抑留のときの、人間の在り方っていうのを骨身に染みて分かっている人なの。「その最高納税額者の忠良さんでさえ、奥さんも40歳まで働いたんだよ」って家内に言ったのよ。「忠良さんは家内に40歳まで働かせてしまった」って言ったんだ。そしたら40歳で本当に辞めたのよ。
中ハシ:それでよくよく調べたら、忠良さんの奥さんは47歳で辞めたんだよ。
山下:でももう大学の先生になられて。
中ハシ:大変、もう火の車(笑)。
菊川:お子様もいらっしゃって。
中ハシ:2人もいますよ。
菊川:何か美術のほうに進まれていますか。
中ハシ:いや、1人進もうとしたんだけど、もう辞めたみたいですね。良かった。
菊川」でも、先ほど展覧会を見越して離婚されたりとか、やっぱりその…… 。
中ハシ:子どもにものすごい悪いことしたなと思って。だって名字が本当に変わるでしょ。そしたら、今までナカハシだったのが、違う名前になっているわけじゃない。
菊川:そういった、中ハシ先生の活動とか作品の意味も、理解したうえで、ご家族も支えておられたんでしょう。
中ハシ:いやいや、できるだけ僕は遠ざかろうとして。
山下:それは理解されてるんだと思います。やっぱり奥さんは応援してるんだろうなと。
菊川:本当にすごいことですよね。
中ハシ:どうなんだろうね。僕の家内は褒めてもらっていいと思いますね。僕は本当に、だから家内に頭が
上がらない。
山下:ありがとうございます。あと時期が時期だけに、お聞きしておきたいのですが、今この新型コロナウィルスの流行になってしまいましたが、作品、制作、展示、そういう人と人とのコミュニケーションなどの環境が変わってきています。デジタル化もどんどん進んでますが、そういう人と人とのコミュニケーションなどの状況は中ハシ先生はどういうふうに感じていますか。あるいは逆に触れていきたいとか。
中ハシ:僕はつくづく逆をやってるんだなと思って。今、全部インターネットの画面越しのコミュニケーション。会社の仕事もそうなってくるじゃない? なんだけど、例えばネコと接するときに、触れないで言葉だけでネコの世話ができないじゃない? そうですよね? ネコを抱いて、鼓動が感じられて、自分が愛してるっていうことを声に出さなくても、そこに伝わるものがあるじゃない。ネコも今は飼ってるけど、自分は愛されてるっていう意識があると近寄ってくるはずですよね。人間も絶対そうだと思うんですよ。そのことをいつの間にか、見えてるっていうことで、声が聞こえてるってことで、失っていくんじゃないか? 例えば料理もそうじゃん。料理って、目の前で作って、一緒に食べて、味覚っていうのはインターネットでつながってないじゃない。それから風景もそうですね。風景は、この場にいないと感じられません。いくらパネルで見ても。
山下:画像だけで。
中ハシ:そう、風景。風、気温、それから音、さえずりとかいうのは、五感でしか感じられないでしょ。そのことを忘れさせようとしているような気がしてしょうがないの。だから触覚に僕はこだわるのは、彫刻には触覚の鑑賞の仕方が半分あったはずなのに、それがいつの間にかなかったことになっている。私は美術館の、大理石のつるつるしたの嫌だったの、磨いてる感じが。だけど触覚をやり始めて、ああなるほど、あれは触り心地なんだなと思ったよ。なので、ちょっと僕は大理石の見方が変わってきた。お茶椀もそうだけど、触ってお茶を飲むとか、ただ見てるだけじゃ、お茶碗は鑑賞できないじゃない。触って、お湯の温かさとか、それから陶器の厚みをじかに感じて、重さも。それで飲んで、包んでいる周りと、それをどう調和させているかっていう。インスタレーションって言えばいいんでしょうね。そういうことを全部含んでるんじゃないの。
山下:では、今も展覧会の準備やオファーが来ていて、コロナ禍ではありますが、これからもそういう触って欲しい環境作りでいきたいという。
中ハシ:僕、むしろ、特に積極的に触るっていう展覧会はあっていいんじゃないのと。だってゼロ・プロジェクトも触ってできたもんでしょ、あれ。手と手でできたもの。あれは目では作れないんだから。よくよく考えたら、触覚彫刻だと。まさしく、触りまくって作れた。だからそういうふうに考えると、僕は長野県立美術館に今出してる作品はいつか劣化するでしょと。でも大事なのは型なんですと。それで何回でも取れる。本当は型を納めてもいいんだけど、この型があるから何回でも作れますというふうに思ってくださいと言いました。だから型の考え方。ZERO project風に言うとフィルムのカメラ。そういうふうな、版画で言うと版木の考え方があっていいし、ルーブルでは原版があるから、時々刷って売ってるじゃない。ああいうことが、それは売っているというよりは、実を言うとその版の状態を見るために行なっているんだけど。でもそういうことも一緒にやっていいよね。
菊川:永続性とかオリジナルの一点物主義があるから触れないとか、色々な制約がついてますけど、型を納めることで、何個もあってもいいし、触れてもいいという。
中ハシ:そう。
菊川:彫刻でもそういう発想ができるようになるのは面白いことですよね。
中ハシ:そう。だからブロンズ彫刻は、原型があるからブロンズでしょ。だから同じブロンズ彫刻がいろんな美術館にあるでしょ。あれは劣化しても大丈夫なの。原型があるんだから。もしも割れたら、その原型から型取りすればいいんですよ。だからブロンズは、まさしく触れる彫刻。だから野外でブロンズを立ててるじゃない。あれは鳥が触ってますよ。ヘビが触ってますよ。
山下:確かに。
中ハシ:何で人間が触っちゃいけないの。不思議でしょ。雨は触ってますよ。だからブロンズは触っていいんですよ。それでもしも変になったら、また鋳造すればいいんですよ。
山下:長野県立美術館では、そういう触れる場にしたいという話だったんですか。
中ハシ:それに特化したギャラリーができたの。最初はタッチアートギャラリー。今は違う名前になったけど。(注:常設されたスペースの名称は「アートラボ」。長野県立美術館は本館を新築し2021年4月にリニューアル・オープンした。)
山下:それは中ハシ先生も賛同だったということですね。
中ハシ:触覚彫刻を作ってくれっていう話で依頼されたの。それで今回は赤ちゃんを作ったの。
山下:また見に行きたいです。
中ハシ:イヌの次は何をやるんですかって言われて。イヌの次はネコかなと思ったんだけど。考えてみれば、赤ちゃんは触っていると。だって赤ちゃんを触らない人はいないよ。だけど僕も何十年も前の記憶はもうないですよね。だからお母さん方にお願いして赤ちゃんに来てもらったの。2組に。もう2カ月間、触りまくって、しっかり手に記憶させて作ったの。素材が問題で、赤ちゃんは肌理が問題になるの。イヌは毛が生えてるから緻密じゃなくても、それからプロポーションも多少変わってもイヌはイヌなのよ。でも赤ちゃんは月齢が分かるんですよ。それで、1歳の子を連れてきてもらってね。立つ瞬間があるんだよ。
山下:1歳は立ち上がる直前ですね。
中ハシ:プロポーションがちょっと違うだけでも1歳に見えない。困ってね。素材も新素材でちょっとぶよぶよしている。それでね、何作ってるか見ていてももよく分からないの。ちょっとこれ。
山下:(注:見せてもらいながら、)新素材ですね。
中ハシ:これ、耳が柔らかいの。耳は柔らかいじゃないですか。
山下:ああ、すごい。楽しすぎる。
中ハシ:それで、ここの中の石膏、石膏じゃないんだけど、二重になっている。これは新しい樹脂なの。
菊川:ビニールみたいな感じ。
中ハシ:そう。ここへまた白い水系樹脂を加える。
山下:それが展示されているというか、置いてある。
菊川:こんな質感のものが触れていいですね。
山下:長い時間、ありがとうございました。
中ハシ:いえいえ。
菊川:最後にこれは言っておきたいというようなことがありましたら。
中ハシ:美術と一緒に暮らすっていうのは、とても人生を豊かにすると思うんですよ。ですから、よく、心ならずも制作を辞めますっていう人がいっぱいいるんだけど、実を言うと、自分が辞めない限り、美術は身についちゃってるわけですから、美術はいつも横にいるんだと、自分と一緒にいるんだというふうに思っていただくと、美術と一生仲よく暮らすことができると思うんですよ。美術の心を持った人が制作するというのは、料理の中にもあるし、お掃除の中にもあるし。一番人間にとって大事なものだと思いますよ。だから制作は、日々の暮らしの中にもあるので、あまり悲観的になって、美術で食えないとか、もちろん僕も食えないんですけど。美術で食えてるやつは、おかしいやつだよ。むしろそっちのほうがおかしいんだよ。
一同:(笑)。
中ハシ:美術ですごいお金を稼いでいる人、疑問符のつく人が多いですよ。生きるか死ぬかぐらいでやっているのが一番美しく、楽しい人生なんだから。そう思って美術と一緒に生きていれたらいいなと。
山下:貴重なお話ありがとうございました。じゃあこれでインタビューを終えたいと思います。