美術評論家
名古屋市生まれ。名古屋大学文学部哲学科美学美術史卒業。1960年代後半より評論活動を展開。新聞や雑誌への寄稿、展覧会の企画に携わり、国際展のコミッショナーや審査員なども務める。『新・北斎万華鏡 ポリフォニー的主体へ』(美術出版社、2004年)など著書多数。名古屋造形大学名誉教授。生い立ちから学生時代、美術評論の活動、名古屋の現代美術の状況、国際展を含む展覧会の企画、北斎への関心、名古屋造形大学での教育活動などについてお話しいただいた。
加治屋:まず生い立ちからお伺いします。1940年名古屋市のお生まれということですが、どういったご家庭でお生まれになったのでしょうか。
中村:父は小学校や中学校の先生をしていました。私が生まれた時分の住所は、今の名古屋駅のすぐ前で当時の島崎町です。私が実際に生まれたところは名古屋大学医学部の病院で、鶴舞公園の近くです。父は、私が生まれたときも先生をしていたのですが、自宅でタバコ屋さんもやっていたという記憶があります。
加治屋:先生もやりながらタバコ屋をやることができた時代だったんですね。
中村:そうですね。家族がやっていたと思いますけれど、それについてははっきり覚えていません。生まれたのはそこなのですが、40年というのは、その次の年に例の太平洋戦争が起こったので、生まれてすぐに爆撃を避けて春日井市の神領というところに疎開した覚えがあります。その神領では、近くの寺に駐留していた兵隊さんにお菓子をもらった記憶とか、防空壕の中に入っていたら爆撃機B29がやってきて照明弾を投下したとか、すぐ近くの古墳の上に立って名古屋が燃えているのを見たといった記憶が微かにあります。それは戦争が始まって間もなくですから、おそらく3歳か4歳くらいだったと思います。その後、もう一度、篠木町というところに引越したのですが、篠木町は、愛知県の碧南市に美術館がありますが、今、その館長をしている木本文平さんが住んでいる町です。
加治屋:篠木町というのは名古屋市内ですか。
中村:いや、愛知県の春日井市内です。国道19号線が自宅の前を走っていたのですが、同じ町内に篠木小学校がありまして、小学校はそこに入学し、卒業しました。偶然にも、なんと私が退職まで教鞭を取っていた名古屋造形大学のスクールバスがその横を通って行くという、そういう位置に篠木小学校はあります。篠木小学校のすぐそばに酒屋さんがあったのですが、父親が大酒飲みで、夜遅く酒を買いにやらされて、それがどうも私のなかでトラウマになっているのではないかという心当たりがあります。ちょっと遡りますが、神領にいたときに、父親は先生をやっていたので、兵隊で実際に戦地に行くということはずっと遅くまでなくて、終戦直前に召集されて九州の佐賀県に行ったのですね。そこで敵前上陸に備えていて突っ込んで死ぬはずだったのですが、終戦になって、原爆の落ちた広島を避けて、瀬戸内海を渡って夜中に名古屋にたどり着き、後ろに背嚢を背負って帰ってきました。その背嚢を開けたら、なかから金平糖が出てきたのです。その当時甘いものなんてない時代ですから、金平糖を食べて、「こんな美味しいものがあるのか」と思った覚えがあります。そういう苦労した父親ではありましたが、学校の先生をしていまして、私に対して教育熱心というか、勉強しろ、勉強しろと非常にうるさい人でした。同時に、これは今だから言えるのですが、父親自身が兄弟や父親からあまりやさしくされてなかったのではないかと思われる節があるのですね。だから父親が私をあまり可愛がらないというか――私のことを憎んでいたわけではないし、一生懸命教育してくれたけれども――なんだか全体としては冷たい感じがしていました。生い立ちから語れということでしたから、いきなりこんな話になりましたが、それが私の原体験の一つです。
私が葛飾北斎やルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois)のことを書いたのは、実は、それとちょっと関係あるかもしれません。葛飾北斎という絵師は、小さい時に実の親から離されて養子に出され、鏡磨きばかりさせされていたから、6才の頃から絵を描くことが好きになってそこに自分を見いだし、それで絵画にのめり込んでいったわけですね。ルイーズ・ブルジョワは、自分の家庭教師の女性が父親の愛人で、母親とも一緒に住んでいたから、それがすごくトラウマになって、アメリカに移り住んで、アメリカ代表としてヴェネチア・ビエンナーレに出品するまでになり、九十何才までニューヨークで制作していた。小さい時のトラウマ、そのトラウマに負けてしまう人もいるかもしれないけれども、それを乗り越えて自分で自分の精神的なパワーをつくっていくところが北斎やブルジョワに共通する、私はそう考えています。話が飛んでしまいますけども、私が妙に気がかりになったのは、実は、例のレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》誕生の秘密ですね。考えてみると、レオナルドも私生児で、フロイトが書いているように、小さい時のトラウマがレオナルドを突き動かしていたのではないでしょうか。私は、そんな偉い人たちとは違いますが、小さい時に逃れがたく重苦しかったことを何とかしたい、いつかそれを突き抜けて明るい世界へたどりつきたいというような、そういう願いが自分の根っこにあったのではないかという気がしないでもないのです。
小学校1年生のときの担任は、戦争で足を失って義足で歩いていた先生でした。それから2年生の時の担任が、密蔵院という春日井市内にある多宝塔が立つ由緒あるお寺の僧侶でしたね。そのお寺に先生を訪ねて行ったことをよく覚えています。3年生のときの女の先生は、代用教員で、ほとんど教え方も分かってないような先生でした。その先生だったかどうかはっきりしませんが、ある嫌な記憶が残っています。その当時も図画の時間はありましたが、その図画の時間というのは、今のように丁寧に教えてくれるのではなく、「外へ行って絵を描いてこい」というような、ただそれだけでした。それで、描いてきてそれを見せたら、先生はあんまりいい顔をしなかったのですね。自分では強く印象に残った風景を素直に描いたつもりでした。だけど先生は、手抜きじゃないかみたいなことを言うわけです。絵を描くことは好きだったのですが、もともと私の手先はあまり器用ではありません。おまけに、先生に何か言われると怖気づいてしまうのです。だから、名古屋造形大学で教えるようになってからも、「みんな、小さい子に教えるときには『おまえはだめだ』というようなことは言わない方がいいよ」と説き聞かせたりしてきました。小学生のときのその絵を思い出しながらもう一度描いて、それを学生に映像で見せたりもしていました。実は、その再制作した絵が箱の中から出てきたのです。
加治屋:すごい(笑)。
中村:妙なものを見せて恐縮ですけれども、これですね。
一同:お~。
中村:これが私の小学校3年生頃の絵。まず間違いなくこんな感じの絵でした。
高橋:これは再制作なのですね。
中村:再制作です、もちろん。もとの絵ではなくて。ここの部分は、何を描いたと思われますか。
粟田:古墳ですか。
加治屋:野原。この盛り上がっているのは、何だろう。
中村:これはお茶の木です。手前に、麦畑だったかどうか忘れましたが、広い緑の畑があって、お茶の木がその向こうの農道の横に一本だけ盛り上がっていて、あとは真っ青な空でした。子供で背が低いから、作物と同じぐらいの目の高さに立って見ると、緑の葉がキラキラ光ってとても美しく感じたのです。それで、これは素晴らしい景色だと思って自分が描いたのに、「こんな簡単で、何も描いてないような絵は…」と言われたのが、そもそもびびって絵が描けなくなってしまった原因のようですね。
加治屋:大きさもこの大きさくらいで。
中村:いや、これは実物の4分の1ぐらいですね。
加治屋:これは、『最深のアート』(『最深のアート/心の居場所 実録・窮鳥はいかにして自己救済したのか?』彩流社、2005年)でお書きになっている絵ですね。
中村:ちょっとその本に出てきますね。こういうものを見せたほうが学生には分かりやすいと思ってつくってみたのです。
粟田:では、絵は、独学といいますか、学校の授業で……。
中村:学生時代に少しだけデッサンを学んだ記憶があります。たしか独立美術協会の会員だった尾崎良二という人に習った覚えがありますね。
加治屋:それは大学時代。
中村:高校かな。高校時代のような気がしますね。
高橋:それは画塾ですか。
中村:いや、個人的に。尾崎さんのところに行って。それから主体美術協会の山田光春という人にもちょっと習った覚えがあります。
加治屋:高校の時に絵を習われていたというのは、大学でも美術のことをやりたいなという意識もあったんでしょうか。
中村:ごめんなさい、高校時代ではありませんね。大学の初めの頃かな。その辺りのことを思い出すのに、小学校や中学校時代の話が抜けてしまいましたので、そこから順に話します。小学校のときに先ほどのようなことはあっても、確かに絵はもともと好きでした。それから後も自然のなかで遊びたくて、父親に勉強しろと言われても、父親の目を盗んで逃げ出したことがよくありました。それから自分で言うのはおかしいのですが、そんなに無茶苦茶勉強した覚えはないけれども、ずっと成績は良かったですね。小学校1年生から高校までの通知表が残っています。中学時代のことは私の本のどこにも書いてないと思いますけれども、中学高校はミッションスクールの名古屋学院でした。それは、今は移転して名古屋ドームのそばの東区大幸町にありますが、その当時は「長塀町」という市電の停留所を挟んで金城学院というミッションスクールの女学校の北側にありましたね。実は、私が大学退職までずっと名古屋で借りていた東区芳野のマンションは当時の中学校のすぐ近くでした。私はその中学の入学試験の成績が4番だったのかな。でも、最初の中間試験から、中高一貫ですので、高校の3年生になる頃まで、少なくとも2年生までは、300人以上いる生徒のなかでトップを譲ったことがなかったですね。
加治屋:すごい(笑)。
中村:奨学金が貰え、母親が将来のために貯金をしろというので貯金しておいて、親孝行ができると思っていたら、貨幣価値が大きく変わって何の意味もなさなくなってしまいました。どうしてそんな話をするかというと、別に自慢するわけではなくて、実はそういうなかで最初の将来の夢が芽生えていました。野口英世の伝記を読んだのがきっかけですね。「世の中の役に立つこういう人間になりたいなあ」と感動して、それで医者になろうと思いました。ところがそのうちに湯川秀樹先生がノーベル賞をもらったのです。それだけではなく、自分はやっぱり緻密に考えることが好きだなと気づいて、物理学を学ぼうと考えを変えたわけですね。それで原子物理学の研究で知られる京大に入りたいと思ったりしました。その辺りは、あとから考えると中原佑介さんと同じだったかもしれません。
ところが、高校の2年生のときか3年生になってからかはっきりしませんが、学校である演劇を観ることになったのです。学校が実際に劇団を招いて公演させたからです。それは新劇の新しいグループでしたが、それを見て、(先ほどの小学校時代の絵を示しながら)小さいときのこの思いがよみがえったようですね。つまり、科学的なことを勉強するのも嫌いではないけれども、自分が生きている世界には、「ああ、こういう人間臭い分野もあるのだ」と刺激されて、演劇のほうに惹かれていったのです。その演劇のグループは「新制作座」だったと記憶します。今考えると、当時のロシアの社会主義的な思想の影響を受けた劇団です。ということは、その当時の学校では、演劇を観るのはいいけども、演劇を志すということは「左」に片寄ることを意味するので歓迎されませんでした。生徒同士で演劇部をつくると言い始めたら、相当妙な目で見られました。父親は非常に堅い人なので、演劇を志したいとほのめかすと、趣味で何かやるのはいいけれども、うちは貧乏だし、とにかくお金がないからそれは駄目だと言い通しました。何しろ理学部を受験するのもいい顔をしませんでした。つまり、工学部のように、就職がきちっとできる大学に行けと言って譲らなかったのです。さらに京大、東大に行きたいという希望を打ち明けたら、父親は「そんな金はない」と言って拒否し、それが後々まで私の生き方に影響しました。仕方ないから名古屋に留まることにして、名古屋大学の文学部を受けると言ったらすごく嫌な顔をされたので、名古屋工業大学も受験したのです。両方とも合格しましたが、即刻、工業大学のほうに断り状を出したら、また親に怒られました。そんな経緯で名古屋大学の哲学科美学美術史に入ったのです。今でこそちゃんとした先生がいますが、入学時には薬物に依存しがちな先生が1人いただけで、どうしようもなかったですね。後にその先生の排斥運動が起こります。実習旅行で奈良とか鳥取とかいろいろなところに仏像などを見に行ったりしましたが、先生が途中で消えていなってしまいました。だけど後から考えると、それはむしろ良かったかなという気もします。
加治屋:と、言いますと。
中村:つまり、研究するのは自分で道を切り拓いていくことでしかないと、身をもって知らされる結果になったわけですね。
加治屋:当時、美学美術史は1学年何人ぐらいいたんですか。
中村:4、5人ぐらいか、多くてもその倍ぐらいでしたね。第一に、当時の美学は女性の来るところではなかったですね。女性はフランス文学とか英文学には多かったのですが、美学では非常に少なくて。なかには女子学生もいましたけれど、例えば、東大出身で著述や翻訳をしている鈴村和成という人の弟と後に結婚した女性など。
加治屋:フランス文学者の。
中村:そのフランス文学者の弟さんと結婚した女性が、1人か2人の数少ない女子学生だったという記憶があります。
加治屋:ほんとに小規模の講座で。
中村:そうですね。そのときの先生は、仏像の研究家というか、日本美術史の仏教美術が専門でしたね。
加治屋:お名前は。
中村:今ちょっと思い出せませんが、そのうちに出てくるでしょう。
加治屋:町田(甲一)先生ではないんですね。
中村:違います。もっともっと前ですから。いまでも美学美術史は1年に1度、3月に同窓会をやっていて、案内が来るので、だれかに聞いてみれば分かります。
高橋:同窓生や学年の前後で、美術の世界で今生きていらっしゃる方はどなたか。
中村:同窓生で、美術に関係がある人で今でも活動している人というのは……。もう会社は辞めましたが、まだ健在で仕事をしているちょっと先輩で、ずいぶん私がお世話になった人がいます。美術出版社の重役にまでなった田中為芳さんですね。
高橋:いくつぐらい年上ですか。2つか3つ。
中村:一緒に在学したことはないから、3つ、4つは年上だと思います。彼は美術出版社の編集者をずっとやっていて、実は『北斎万華鏡 ポリフォニー的主体へ』(美術出版社、1990年)を出版するときにも、『新・北斎万華鏡 ポリフォニー的主体へ』(美術出版社、2004年)に改訂するときにもまだ現役で、大変お世話になりました。
加治屋:その方も名古屋の美学美術史に。
中村:そうです。一番近い関係といえばその人かもしれないですね。
粟田:大学の中で一番印象に残っているのは仏教美術の授業だったんですか。
中村:これもまた説明しなければならないのですが、いま言ったように、専任の先生がほとんどいなかったということは、逆に、外からいろいろな先生を呼ぶ必要があったわけです。その一人が針生一郎さんです。針生一郎さんとか佐々木基一さんとか多くの人が教えてくれました。私には、その影響が結構あるかもしれません。
加治屋:針生さんとか佐々木さんはどういう授業をなさっていたんですか。レクチャーですかね。
中村:こうやって机を囲んで、レクチャーを聴くのが半分、ディスカッションするのが半分みたいな感じでしたね。ただ、これは亡くなってから言うのはおかしいけど、針生さんという人は遅れてくるので有名でしたね。
加治屋:そうなんですか(笑)。
中村:ほとんど終わりがけに来たりしましたね。美術評論家連盟の会議でも同じでした。
粟田:ちなみに針生さんとか佐々木基一さんは誰が呼ぶんですか。大学側で?
中村:先ほど思い出せなかった専任の先生の名前は柏瀬清一郎です。その先生は有力な人材に関してわりに広い視野を持っていましたね。いろいろ人のつながりを広げて人間関係をつくりながら、次々に講師を招いたのでしょう。実は、私が聴講したときの針生一郎さんの姿は、もう少し後のことですが、1965年長良川でのアンデパンダン展の光景につながります。
加治屋:在学中だと思いますが、1962年(注:正しくは1957年)に『美術批評』(美術出版社)が終刊します。『美術批評』とか『美術手帖』(美術出版社)といったような雑誌は、中村先生はご覧になっていましたか。
中村:1960年代初めには、あまり見てなかったと思います。1960年というのは、ご承知のように安保闘争の年です。闘争に明け暮れる社会状況のなかで大変だったというのが、正直なところです。それがその後の私にかなり影響していると思われますね。その当時、新左翼系の人と共産党系の人との対立が激しかったとか……。また、私はその前年の1959年に大学に入学していますから、その年の9月に伊勢湾台風があって、入学したその年の前期の試験はなかったのです。台風の被害でそれどころではなかったのですね。伊勢湾台風では支援活動のために筏に乗って屋根の上の人を助けに行くとか、これも大変でした。
加治屋:先生がですか?
中村:はい。今の熱田神宮の南の方は全部水浸しでしたからね。そういう記憶が鮮明です。もう一つだけ、高校までのことで付け加えさせてください、高校まででなく大学に入ってからもそうだったけれども、これもまた私の心の中で、もう一つ先ほどのトラウマの問題に潜在的に付け加わっていることがあるのです。先ほど私の通った中学高校はミッションスクールだと言いましたね。プロテスタントですけれども、私はずっと長くその影響を受けてきました。お話した移転前の名古屋学院があった市の中心部、私が大学退職まで住んでいたマンションの近くに中京教会という教会がありましたが、そこで洗礼を受けて、日曜学校の先生をしていました。
加治屋:中村先生が?
中村:はい。
加治屋:そうですか。
中村:つまり、一旦はキリスト教徒になったということです。これはまた別の意味で、私の生き方に非常に大きな影響を及ぼしたことですね。どういうことかといいますと、その当時は、サルトルの思想とか、いわゆる実存主義の思想が広がり始めていた頃です。そのもとが、デカルトに始まる近代的自我で、実存主義ではそれが生身で生きている人間の問題として展開します。近代的自我のもとは何かというと、一神教的な世界の見方です。その一神教のもとで実存主義の思想と出会った私にとっては、ほかの日本の人たちに比べると、西洋的な哲学の考え方がとても身近でした。一方で、一神教的な世界の見方には無意識的な違和感もあったようです。西洋的な自我の在り方から実存主義にまで至る思想的な流れにどう向き合うべきか、今後の自己がどうあるべきかという問いは、私の中で後々まで長く尾を引くことになります。
加治屋:洗礼を受けられたのはいつ頃ですか。大学時代ですか。
中村:大学1、2年生の頃だと思います。
加治屋:中学、高校でキリスト教の教育というか授業があって、個人的にもご関心を持って教会に通われたりした。
中村:それも今考えてみると、(先ほどの絵を指しながら)これとつながると思います。自分にとって何か心の拠りどころになるものを自分の中で確かなかたちにしていきたいという気持ちですね。その答えがキリスト教にあったかどうか、結果論的にだけ言えませんけれども。しかし今の私はどうかというと、ある意味では一神教的な世界の見方、捉え方というのは、お互いに共存共栄していくために必ずしもプラスにならなくて、一神教的な世界の見方が、いろいろな政治体制のなかで、独裁的とまでは言わないにしても、そういう傾向の支配の仕方を生み出しているのではないか、そう考えています。ですから、私が最近書いている論文のなかに「あいだ」という言葉がよく出てくるのですが、それは人間という存在を、人と人の〈間〉として捉えるような世界の見方のほうが適切ではないかという考えに基づいています。西洋的なものの考え方の、ある意味での「積極性」というのは、没我的な「消極性」よりもいい点があるかもしれないけれども、一神教的な世界の見方だけでは、今のような、キリスト教とイスラム教の宗教戦争のような事態が起こる。それは、16世紀のヨーロッパにも似ています。16世紀のヨーロッパはプロテスタントとカトリックの宗教戦争の時代ですよね。ともあれ、西洋近代の自我だけでも日本的な没我だけでもないそういう哲学的なものの考え方が、後の拙著『ハイブリッド・アートの誕生――東西アート融合に向けて』という書名に反映することになったのです。
加治屋:キリスト教へのご関心は、そのあとずっと続いていると考えてよろしいでしょうか。
中村:大学を卒業する頃には、否定はしないけれども、あまり積極的ではなくなって、教会にも行かなくなりましたね。
加治屋:ご両親は特に反対とかはされなかったんですか、教会に通われることに関しては。
中村:反対しなかったというよりも、あまりよく分かっていなかったというほうが正確だと思いますね。
高橋:大学にはもちろんご自宅から通学されていた。
中村:当時、私が住んでいたのは、高橋さんはよくご存知でしょうが、名古屋市北区の今の地下鉄「平安通」駅の階段を上がってそのすぐそばです。その頃は、まだ市電が走っていましたね。市電とバスで通学しました。
高橋:大学は4年でご卒業なさっているんですか。
中村:4年で卒業して、それから大学に研究生としてずっと残っていましたね。
加治屋:じゃあ1963年の3月に卒業ですね。
中村:63年の3月に卒業です。
加治屋:そのあと研究生を。
中村:1971年の3月までですね。
加治屋:長いですね。8年間研究生をなさった。
中村:その間に、これもまた事情を言わないといけませんが、1年間だけ東洋哲学の研究生もやりました。
加治屋:美術だけではなくて。
中村:目的は何かというと、チベットの「タンカ」という仏画を研究したいと思ったのです。
加治屋:先ほど60年安保の話が出てきましたが、安保の中では先生は何かご活動というか、関わりはあったのでしょうか。
中村:デモにはもちろん、もちろんというと変ですが、参加しましたが、リーダー的に、堀浩哉さんとか、それはもうちょっと後の70年安保ですけれど、そういうところまではやっていなかったですね。ただ、その当時、日本共産党系の組織は、民青(日本民主青年同盟)と言っていましたけど、どちらかというとまだ戦前からの影響が残っていて、「個」をあまり尊重しない傾向があり、それと新左翼の人たちとの対立が激しくて、どう行動しようかと迷いました。
加治屋:名古屋大学は、先生が研究生をなさっていた頃だと思いますけれども、廣松渉さんが教えてましたよね。
中村:はい。(本棚を指して)その辺に廣松さんの本があると思いますが。
加治屋:じゃあ研究生の頃は、60年安保のときに関心があってデモにも参加したけど、そのあとは特に関係はなく。
中村:政治的運動には、ですね。ただ名古屋大学の哲学科というのは、美学美術史も哲学科のなかにありましたが、哲学科には、わりに左寄りの人たちが多く、マルクス主義の教授が中心だったので、私のなかでもそういう雰囲気への共感は続いていましたね。
高橋:先生は、卒業論文は当時お出しになった。
中村:書きました(笑)。何とか提出しましたが、これは気恥ずかしくて見せられません。ポール・クレー(Paul Klee)について書きました。
加治屋:なぜクレーを選ばれたんでしょうか。
中村:おそらく、一つには画家の水谷勇夫さんの影響があったのでしょう。水谷さんの絵には、クレーと同じ特徴があります。先ほどの針生一郎さんの話に戻りますけれども、針生さんは、名古屋に来ると、戦争反対の姿勢をはっきり示すとか、そういった作風の画家や彫刻家のところに行くことが多かったのですが、その一人が水谷勇夫さんですね。たまたま水谷さんは、私の住んでいたそばの今の「平安通」駅から地下鉄で1駅の「大曽根」駅から遠くない矢田というところに住んでいました。その頃の水谷さんの住まいは、ほんとに狭い家でしたが、そこに針生さんが訪れ、その機会に私も同席させていただいて話を聞いたのです。また変なことを言いますが、針生さんという人は、お酒を飲むとすぐ寝てしまうのが癖ですね(笑)。そのときにこれぐらい小さな3歳くらいだった男の子が、今、現代美術家になっている水谷イズルという人です。
高橋:クレーはそのときにどういうふうに。
中村:水谷さんの絵の描き方のなかに、平面的な捉え方とか記号的な捉え方とか自立的な描線の用い方とか、クレーに通じる要素を見つけました。
粟田:それはどういう感じで書かれたんですか。作品論。
中村:まあ一応は作品論ですけれども、それはほんとに不十分で。その当時は演劇にのめり込んでいましたし。
高橋:実際に演じるほうですか。劇作を書かれたんですか。
中村:そのことはまだ話してなかったのですが、名古屋大学にも演劇サークルがあって、実際に半年ぐらいにいっぺんずつ公演をしていました。グループ全員に演出やブタカン(舞台監督)、キャスト、大道具、小道具、照明などを割り振って、半年ぐらい続けて稽古をするわけです。私が最初に加わったのは、その辺に台本がありますが、「怒りを込めて振り返れ」(原作・ジョン・オズボーン)の公演です。サルトル劇を上演するなど、いろいろな劇をやりました。「アンネの日記」もその一つですね。自分は、実際に演じたこともありますし、ブタカンをやったこともありますし、演出をしたこともあります。
加治屋:高校のときも演劇を。
中村:先ほど言いかけたように、ちょっとやっていましたね。美学に入ったのは、最初は、絵を描こうというよりも、演劇に興味を持ったということがあったのです。でも、実際に演劇活動をすると、半年ぐらいグループでずっと継続して稽古しなければいけないし、名古屋の場合は多くの制約があるわけですね。グループで継続して活動するのはなかなか難しいということもあって、卒業する頃には絵のほうに目を向けるようになりました。さらに、実際に絵を描くことは自分に向いているのかと問い直して、美術を論じるほうに次第に傾きました。
実は、かつて名古屋に丸山静という思想家がいまして、ブレヒト劇のことなど、私はこの人の影響もかなり受けました。近年『思想』(岩波書店)に「視覚的表現に根差すメルロ=ポンティ」という一文を書きましたが、メルロ=ポンティやジャック・デリダについて最初に教えてくれたのが丸山静さんです。その辺の本棚に丸山さんの『はじまりの意識』(せりか書房、1971年)があります。丸山さんは名古屋駅のすぐそばに住んでいて、和服を着て、3畳か4畳半ぐらいの狭い部屋で本を読んでいました。フランス語が得意で、せりか書房に大きな影響を与えた人です。その直接の弟子だったのがのちに和光大学の先生になった前田耕作という人です。彼はまだ健在で、バーミヤーン遺跡の調査について、この前ちょっと朝日新聞に書いていました。
加治屋:丸山静さんという方は、名古屋在住で、どこかで教えていらしたんですか。
中村:丸山さんも名古屋大学の美学美術史に来ていた一人ですね。それとは別に丸山さんを囲む研究会があって、私はそこにも出入りしていたのです。先ほどの水谷勇夫さんと思想的に近かったのですが、両方とも強烈すぎて、そのうちに合わなくなったようです。
高橋:ブレヒト演劇でお互い組まれて、舞台美術を水谷勇夫さんがやったんですけど、そこで火花が散って決裂するという。
中村:(高橋さんを指して)その辺りはそちらのほうが詳しそうですね(笑)。
高橋:いえいえ。名古屋大学の劇団は、そのあとに「新生」というのが出ますけど、その当時は違うんですよね。
中村:違います。
高橋:新生というのは、どうやら64年に旗揚げになっているのですが、中村先生たちは。
中村:64年には、もう卒業していましたから。
高橋:先生たちのサークルは、名前はついていたんですか。
中村:特に劇団の名前というのはなかったと思います。
高橋:公演は、主に大学の講堂?
中村:名古屋市の鶴舞公園のなかに講堂がありますね。そこで主に公演していた記憶があります。野間美喜子さんというのちに弁護士になった人がアンネの役を演じたときのことや、小説家としてわりに知られるようになった山下智恵子という女性の話し振りなど、その当時の稽古の様子はよく覚えています。
粟田:大学の頃に影響を受けたのは、針生さんと丸山さん……。
中村:影響を受けたのは、丸山さんや針生さん、それから先ほどの画家の水谷勇夫さん辺りが大きいといえば大きいですね。水谷さんは民俗学的な事物にも興味を持っていて、それが私の関心を引いたのです。チベットに関していうと、水谷さんからの直接の影響もあるけれども、それだけではなくて水谷勇夫さんの知り合いの眼医者さんがネパール国王の眼科医でもあり、チベット仏教のタンカを持ち帰って見せてくれたのです。
加治屋:すごい(笑)。
中村:ネパールですから、チベット仏教の「タンカ」という密教的な仏画ですね。男と女が抱き合う「ヤブユム」と呼ばれるミトゥナ像図を持ち帰って、見せてくれたのですね。
加治屋:現物を。
中村:ええ。それが私の問題意識にちょっと影響しています。その一方で、水谷さんの影響によるだけではありませんが、日本の原点を踏まえたいということで、その当時、縄文遺跡とか、柳田國男や南方熊楠の民俗学とか、そういうことにも興味があって、その辺がもう一つの私の問題意識の根底にある特徴的な要因になっています。要するに、のちに現代美術と言われるような20世紀以降の美術の最先端を探ることと、日本的というか東洋的というか、古来の原初的な自分たちに還って美術を見直すこと、その両方をかみ合わせて切り拓かれる方向性がその頃の私の最大の関心事でした。それはいまだに大問題ですね。それで思い出しましたが、大学生の頃から私に影響を与えた人がもう一人いました。今の話をしながらふと思い出したのですが、木村重信さんです。
加治屋:木村さんは京大出身ですよね。
中村:京大ですけれども、やはり名古屋大学にも来て教えていたのです。旧石器時代の魅力を私にたたき込んだのは木村さんですね。木村さんが「京大の大学院に来ないか」と勧めてくれたので、ぜひ京大に入りたいとまで言ったのですが、父親に猛反対されてやめたという経緯があります。木村さんには約束までしたのに申し訳ないことをしました。のちに大阪でのある公募展のときに、木村さんが、審査員を頼むと声をかけてくれました。旧石器時代の洞窟壁画に関する木村さんの研究と直面させられたことが――『思想』に連載した「目と手が育む精神」第一章にそれが出てきますが――あとまでずっと私の仕事に影響を及ぼしました。原初的な絵画や彫刻と、20世紀以降の美術との間についてどう考えるかは、私たちにとって根本的な問題です。それは、実はピカソが抱えていた問題でもあると思われます。キュビスム独特の多面体に似た画面構成をしたピカソは、セザンヌの多視点的な描き方に学んだだけでなく、アフリカの原初的な仮面や彫刻などに触発されて描きました。それがその後の20世紀美術の問題とうまく融合しないで立ち消えになってしまい、20世紀の現代美術はコンセプチュアルアートやミニマルアートにまで至って、そのあとうまく展開しなくなってしまった。原初的な絵画や彫刻の意味の問い直しが一つの大きな未解決の問題として私たちの奥底に残っていると思いますね。
加治屋:木村さんは、当時非常に若くして名古屋大学に教えに来ていらっしゃったんですね。
中村:そうですね。その当時は京都市立美術大学という名称だったかな、そこで教えていらっしゃって、高槻に住んでいたのですね。何度もそこに泊めてもらった覚えがあります。
加治屋:先生は63年に卒業なさって、研究生を8年間なさっていたということですが、この間はどういうことをなさっていたんでしょうか。研究生は何らかの研究をするという目的で残るんでしょうか。
中村:特に研究成果として報告しなければいけないということはありませんでしたが、やはりその当時から、名古屋を中心とした美術活動を検証するといったことをしていました。何といっても、大学を卒業して親に頼るわけにもいかないし、メシを食わなければならないことになるわけですね。それで研究生のときに1年だけ、母校の、高校の非常勤講師をしました。
加治屋:科目は何ですか。
中村:社会科です。実は美術の教員免許は美学では取れないのですね、実技がないから。それで最初、私は菊里高校というところで教育実習をしたのです。
高橋:江上(明)さんのところですね。
中村:高校の先生をしていた江上明さんという方がいて、名古屋では非常に少ない美術評論的な活動をしていました。その高校で教育実習をしたのです。高校3年生を教えましたが、なにしろ私は大学の2年生ですから、ほとんど年が違わないうえに、その学校は受験校ですからね。生徒のほうがよく知っているのではないか、と思いながら教えた覚えがあります。ともあれ卒業してから社会科の先生を母校で1年間して、それでまた親父に叱られて。「非常勤なんかしていてこの先どうするんだ」というようなことを言われて、仕方がないから公立の夜間高校の先生になりました。夜間高校の先生になって夜遅くまで教えなければならず、最初、自分の活動を続けるにはどうすればよいのか悩んだけれど、でも考えてみると比較的時間に余裕があるものですから、かえって昼間にいろいろな活動ができた記憶がありますね。
加治屋:この頃は名古屋で美術評論をやっていこうという考えはあったんですか。
中村:美術評論を志そうとはっきり決めたのは、美術出版社の芸術評論募集に応募した1965年頃からですね。私は佳作入選だったのですが、そのときにトップで入選したのが岡田隆彦さんです。岡田隆彦さんはどちらかというとシュールレアリスムへの関心が強かったですね。瀧口修造さんがまだ健在だった頃のことです。
粟田:審査員がそうですね。
加治屋:生田(勉)さん、瀧口さん、針生さんですね。
中村:それで私は「もう少し頑張らなくてはいけない」と思って、もう一度応募しました(笑)。
加治屋:最初の芸術評論の話を伺ってよろしいでしょうか。タイトルが「両義的イメージの予感」という文章で、選考結果が『みづゑ』に載っていたので見たのですが、先ほど言われた近代芸術と原始芸術の両方について書かれていて、岐阜のアンデパンダンについても書かれている。この文章について少しお伺いしてよろしいでしょうか。
中村:文章の全体は、実は、ここにある『所沢ビエンナーレ美術展 引込線』(所沢ビエンナーレ実行委員会、2011年)に載っています。
粟田:『引込線』に載っているんですね。
加治屋:なんと、気づきませんでした(笑)。
高橋:再録なんですか。
中村:ちょっと補足したり、書き換えたりしている箇所はありますが、基本的には変わってないので、詳しくはこれをお読みになっていただいたらと思います。『引込線』2011年版ですね。
加治屋:ちょうど岐阜アンデパンダンを見られて投稿したという感じですね。
中村:そうですね。岐阜アンデパンダンというのは、ご承知のように、読売アンデパンダンがなくなって、そのあとを何とかということで開かれた。VAVAのリーダー、何といいましたっけ。
高橋:西尾一三さん。
中村:西尾一三さんがお金の面でも結構……。岐阜で開かれたのですが、その光景がかなりはっきり私の頭に焼きついていますね。一つは、河口龍夫さんたちが穴を掘ってまた埋めた「位」です。水谷勇夫さんは、素焼きの焼き物の立体作品を出した。いくつかの作品が頭に残っているのと、何よりも私の頭の中に一番残っているのは、鵜飼い船の上に評論家御三家と言われた東野芳明さんと針生さんと中原さんが三人揃って乗っていた光景ですね(笑)。
加治屋:船に乗って……。それは何ですか。
中村:要するにエライ評論家の先生方が招待され、歓迎か何か接待で船に乗せてもらっていて、われわれはそれを岸のほうから眺めていた。それが非常に鮮明に頭の中に焼きついていますね。
加治屋:グループ位の穴掘りは、実際にご覧になったんですか。
中村:見ています。
加治屋:あのアンデパンダンは、何日かにわたってあったものですよね(注:開催期間は1965年8月9日から19日まで)。
中村:そうです。長良川のまさにお城の下の河原と、別の屋内会場で展示されたのですが、その当時としては野外でのかなり大掛かりな展示だった点が特に記憶に残っていますね。
粟田:情報などは針生さんから聞かれて。
中村:個人的にはそうですね。でも全体の企画としては、先ほどのVAVAの企画者がすごく熱心にやってらっしゃったのを直接的に見聞きしたと記憶しています。
粟田:長良川のアンパンというのは、中村さんのところにもわりと情報が入ってくる感じだったんでしょうか。名古屋大学の研究生をしていると。
中村:名古屋大学に在籍していたからというよりも、水谷勇夫さんとのつきあいとか、外でのつながりのほうが大きかったですね。これはいいことか悪いことは分かりませんが、私の活動の仕方の特徴は、あまり大学の研究室とのかかわりではないところで、たまたま出会った人とのつながりが大きかったのです。とはいっても、針生さんにしても、木村重信さんにしてもつながりの始まりは研究室での出会いですが、でも直接的に研究室でというよりも、外での活動を通してのつながりのほうが大きいと思います。
高橋:65年の夏にアンパンがあって、直後に、ある種高揚した気持ちも含めて短期間で論文を書かれたんですかね。
中村:そうですね、どちらかというと。それとその頃、三河の山奥の縄文の遺跡とかそういうところを、とにかく足で歩いて考えを深めるということにこだわっていました。
加治屋:それは、柳田國男を読まれたり、民俗学的な関心から。
中村:縄文土器には水谷勇夫さんが随分興味を持っていたのでその影響ということもありますね。それから、長野県の諏訪湖のすぐそばに、奥さんが旅館を経営するかたわら、ご本人は縄文研究の第一人者だった考古学者の藤森栄一さんという方がいたのですね。その人を訪ねて行って話を聞いたり、その旅館に泊めてもらったりしました。その辺を歩き回って、畑の真ん中に黒い地層を見つけて「これは焼き畑の跡ではないか」と言ったら、藤森さんが「間違いなくそうだと思う」と言ってくれました。また、尖石の遺跡に行くとか、そういうことをして、つまり縄文の造形がどういう精神的パワーを持っているかを見極めようとしたのです。その当時はまだ漠然としていたけれども、私の中で今でも重要な問題の一つになっているのは、視覚的な力のもととなるS字形ですね。私は北斎のS字形についても書きましたが、縄文土器の渦巻文様もS字形や反転した逆S字形が基本ですね。そういう風に、どちらかというと美術史的に調べるというよりも、作品を構成している要素同士がどういう関係にあるのかというような点を構造的に見定めることに興味があります。時々、「理系の人みたいですね」と言われることがあるのですが、もともと理系のようなものの見方が好きだったことも根底にあるかもしれません。でも、考えてみれば、粟田さんが榎倉康二さんのことをお書きになっている「榎倉康二における出来事性と層の構成」にも、そういう感じがありますね(笑)。
粟田:ありがとうございます。中村さんはこれを書くときに、何かほかの評論を参照したとか、読んだものとかいうのは。
中村:これに関しては、あまりほかの評論を参考にしていません。
粟田:初めて評論を書くというかたちで応募されて。
中村:そうですね。例えば瀧口修造さんの著作とか針生さんの評論集、そういった書物は多少読んでいましたけれども、自分の評論文を書くにあたって、それらをベースにしたり、引用したりというようなことはありませんでした。
加治屋:縄文土器といいますと、私なんかの後の世代から見ると、やっぱり岡本太郎の縄文土器論がどうしても頭に思い浮かんでしまうのですけれども、岡本太郎の縄文土器論に対してはどういうふうにお考えになっていましたか。いま話を聞くと、ちょっと違うアプローチなのかなという気もしたのですが。
中村:岡本太郎の場合は、そういう言い方をしては何ですが、本当に見たままというよりも、むしろ少し観念的というか、原始のパワーをまとめて賛美するようなところがあります。それからもう一つ、縄文土器自体には、周囲の脅威に対するパワーの発揮ということがあるけれど、岡本太郎の場合には、パワーを発揮するという側面よりも、受け身の姿勢で恐れを感じさせられる側面が前面に出ているように見受けられます。だから、岡本太郎の作品を見ていると、内側から外に跳ね返していくというよりも、力強いけれども、力強さのなかに外部への恐れというか恐怖感というか、なにかそういう風な要素が優っているような気がします。作品のすべてを否定しているわけではないのですが。私は、学がないといえば学がないからというか、とにかく自分が見ている対象になるべく素直になって――誰でも素直に見ているのだけど、自分は素直に見ていると言うけれども――素直に見ている自分が何を見ているか、はっきりさせていこうと心がけています。見るときに、ほかの枠組みにとらわれないように自分が見ていることを見分けるというのはとても難しいことです。そういう意味で、見たままの対象がどういう構造を持っているかということが少しずつ浮かび上がってくればいいなと考えています。それが縄文土器の装飾文様や北斎の構図のS字形に対する私の見方に表われているのでしょうか。
高橋:65年でまだ25歳でらっしゃったわけじゃないですか。1回、全国の批評公募に入選というか認められたとはいえ、批評家として生きていく人生は、どのあたりから自覚したというか目指されたのですか。日常的には夜間高校で教え、昼間は比較的、批評・研究活動に時間を費やしておられていましたよね。
中村:そうですね、おそらく次の芸術評論募集に二回目の投稿をした69年前後ですね。その頃までにはかなりその気になっていたと思います。
高橋:68年に『自立芸術』を、2号までですが、石井守さん、吉岡弘昭さんらと出していらっしゃいます。批評誌を立ち上げられたというのは、布石というか、自分たちでもメディアをつくって発表していこうと……。
中村:高橋さんはどう感じられているか分かりませんけれども、その当時の名古屋は、批評メディアがまるっきりなかったわけです。新聞はほとんど団体展のことしか書かなかったし、批評らしいものがほとんど見当たらない時代でした。そのような状況をどう打開するのかが自分たちの大きな問題で、当時の状況を突き動かす必要があったのは確かですね。そのなかで『自立芸術』を石井守や吉岡弘昭らが立ち上げた。今どうしているか分かりませんけれども、石井守も同じ名古屋大学美学美術史の卒業生です。あとで名前を変えましたよね。
高橋:ペンネームで文章活動をされて。もともと「中日新聞」の。
中村:「中日新聞」の重役にまでなった人で、私よりも1年上です。彼が『自立芸術』立ち上げの言い出しっぺです。
加治屋:石井守さんと吉岡弘昭さん。
高橋:吉岡さんは版画の方ですね。
中村:そうです。版画が主ですね。
加治屋:ああ、作家の方ですか。
中村:池田満寿夫のような作風ですね。
加治屋:(『自立芸術』の現物を見ながら)御沢昌弘さんというのですか。ミサワさん?
中村:ミサワと読んだような気がするけど、よく覚えていないな。
加治屋:この方も作家さんですか。
中村:詩人ですが、はっきり覚えてないですね。
加治屋:批評誌ということは、先生は評論を書かれた。
中村:それも、今見せるのは気恥ずかしい文章ですけれども、書いたことは事実です。ちょうどその頃から「朝日新聞」の名古屋本社版にも書き始めました。今は、高橋さんが盛んに書いていらっしゃいますね。O Junさんの作品についての美術評を読みました。
高橋:ありがとうございます。
加治屋:「朝日新聞」の「土曜の手帳」という囲みは、庄司達さんについてものが最初ですか。
中村:庄司さんは、2回目の1968年9月14日付夕刊です。実は、名古屋市美術館『アートペーパー』のコラムに次号から「批評の役割を考える」という副題で、この時分どのようにして美術批評を始めたかを書こうとしています。『アートペーパー』は年三回発行される広報紙で、私は「明日を呼ぶ私の記憶」というシリーズを連載中です。こちらは副題「過ぎ去って気がつく」の⑥で、アンディ・ウォーホルと私が写ったその掲載写真は1976年にニューヨークで撮影したものです。「朝日新聞」への寄稿開始よりも少し後のことです。
高橋:先生、ご結婚は何年でいらっしゃいますか。
中村:何年ですかねえ。
高橋:何歳の時という記憶。
中村:わりに早かったような記憶はありますが、調べないと分からないですね。
加治屋:20代半ばぐらいですかね。
中村:60年代だということは間違いないですね。
高橋:なれそめは(笑)。
中村:なれそめは、どうだったかなあ……。絵を描いていましたからね。
加治屋:奥様が。
中村:はい。
高橋:65年の長良川アンパンの市民センターのほうに奥様が出していらっしゃいますよね。
中村:よく覚えていませんね、それも。
高橋:そのときはまだ出会ってらっしゃらない?
中村:ちょっとはっきり分かりませんね。
加治屋:奥様は絵を描かれていて、どこかで会われて。
高橋:で、ご実家から出られて、20代後半に所帯を持たれた。
中村:そうですね。
高橋:そのときはどちらにお住まいに。
中村:私が教えていた夜間高校のそばです。その当時は学校名がちょっと違っていたのですが、後の名古屋市立第二工業高校です。どこにあるかと言いますと、中川区ですね。新幹線で名古屋駅を出て東京方面に向かうとき、すぐにナゴヤドーム、昔の中日球場を越して鉄橋を通過しますが、そのあたりが六番町というところです。私の住まいはその近くでした。ほんとに工業地帯の真ん中で、今の中国みたいに真っ黒な煙がもうもうと空高く上がっていました。
高橋:では夜間高校に通っている学生さんは、男の子で、なかなかの荒くれだったんですか。そうでもない?
中村:いや、九州からの集団就職が多くておとなしそうでした。1人だけ女子がいましたね。
加治屋:夜間高校は何年間教えられていたんですか。
中村:あとから数えたら、11年になります。ただ、半分ぐらいは名古屋造形大学の前身の短大で非常勤講師として教えていて、専任になるときに夜間高校を辞めました。
加治屋:短大の専任になったのは何年ですか。
中村: 75年の4月から専任です。非常勤講師を始めたのが1970年ですね。そのとき最初に教えたのが久野利博さんで、私は直接教えなかったけれども1年上の2年生に在学していたのが遠藤利克さん。
高橋:栗本百合子さんはもうちょっと後ですか。
中村:栗本さんとかその辺りは何年か後ですね。
高橋:名古屋造形大では、美術史の授業を非常勤、専任で(教えておられた)。
中村:最初から「芸術概論」と、ある時期まで「西洋美術史」も教えていました。「芸術概論」の最初の講義ノートが残っていますよ。
加治屋:「芸術概論」というのは、1年生や2年生の導入の授業ですか。
中村:そうですね。
加治屋:そこでは、今までお話しになった原始美術とか、そういう話もなさる。
中村:どちらかというと20世紀の美術のほうが主でした。
加治屋:西洋美術史のほうは、昔から現代までということですか。
中村:そうです。
加治屋:美術史とか美学を教えてられていた方はほかにもいらっしゃったんですか。
中村:それが、ですね、講義科目の先生は、当初私ともう一人、フランス文学を教えていた鈴木孝という人と二人しかいなかったのです。
加治屋:その方はフランス文学を教えられていて、先生が美学、美術史全般を教えるという。
中村:そういうことです。私がその短大に赴任してからしばらくして、学校の中に画廊というか、展示施設ができました。それがずっと後に小牧市に移転して四年制大学になってからも残っているのですが、その名付け親が私なのです。「Dギャラリー」という名前で、なぜ「D」なのかというと、単純な話で、大学が同朋学園に属していたので、その頭文字を取って「D」にしたのです。私が最初に企画した展覧会は「身辺からの飛翔」です。
加治屋:大学のギャラリーで展覧会を企画なさった。
中村:はい。最初に企画したときに東野さんと中原さんと私が、3人ずつ作家を選んで展覧会を開いたのです。
加治屋:Dギャラリーで企画をなさったのは、着任されてすぐくらいですか。
中村:専任になってしばらくしてからです。
加治屋:75年に専任なので、75年とか76年。
中村:もっと後の1984年ですね。
加治屋:頻繁に企画をなさったんですか。何回かなさったんですか。
中村:間隔をおいて時々ですね。でも、最初の「身辺からの飛翔」がかなり重要で、おそらく大学内での本格的な展覧会企画ということでは、わりに先駆的だったと思います
加治屋:そのときどういう作家を選ばれたのか覚えていらっしゃいますか。
中村:吉澤美香さんや松井智恵さんが入っていたのは間違いありません。
加治屋:では80年代ですか。70年代……
中村:のちに活躍する人たちがあまり知られてない頃に選んでいます。
粟田:東野さんと中原さんには、中村さんが声をかけて、選んでくださいと。
中村:そうです。
高橋:非常勤時代も、かつて名古屋大学に針生さんとか丸山さんが来られたように、先生のネットワークで特別講義にいろんな方をお呼びになっていた。
中村:私のネットワークというだけではありません。私もいろいろ言いましたけれども。ひとつは、この『アートペーパー』89号にも私が書いたのですが、その当時、野水信さんという彫刻家が大学にいました。掲載写真《二つの石を貫く円筒》(1978年)をつくった人ですね。これは名古屋市美術館のすぐそばの公園内に設置されています。野水さんという人は二科会の彫刻家ですが、団体展の会員ではあっても、わりに開かれた考え方をする人でした。それで三木多聞さんとか、中原佑介さんとか、堀内正和さんとか、そういう人たちを特別講師としてかなり頻繁に呼んでいたのですね。それに私も協力しました。野水さんのこの考え方の周囲への影響は大きかったですね。実は、自分自身を含む三人の「朱泉会」展の案内状の文章を私に頼んだ直後に、非常勤講師になってくれと私に最初に声をかけてくれたのが野水さんです。専任になってからも親しく話し合いました。野水さんは9月頃に二科展があるので、夏休みに制作していたのですが、私は大学の中にこもって仕事をしていて、夕方になると石彫場に行って、一緒にビールを飲みながら話をするということが何年も続きました。そのずっと後になって、大学の中での「アルコールは禁止」ということになったのですけれど。研究室の中だけでなく、そうやっていろいろなところで出会って話をするということには大きな意味があったような気がします。その一番の典型的な例が堀内正和さんとの会話です。堀内さんは、当時京都でも教えていたのですが、名古屋に来て教えることに魅力を感じていたのにはもう一つ理由があるのです。それは何かといいますと、名古屋の地下鉄「伏見」駅のそばの、かつて桜画廊とかアキライケダとか多くの画廊があった近くに「大甚」という呑み屋があって、そこへ行くのが大好きだったのです。
高橋:今もあります。
中村:古い呑み屋で、2軒あって。馬を引いてきた人が馬をつなぐ棒があったという店ですね。そこで飲むのが堀内さんの大の楽しみだったということです。飲みながら話をすることが広がりをもつというような感じでした。まあ時代が時代だったからかもしれませんが。
加治屋:大学に教えに来られていたということですね。
中村:講義をするのと同時に、制作の指導もしていたと思います。
加治屋:話が少し戻ってしまうのですが、69年の美術出版社の芸術評論で、「獰猛神群・交合神群」という文章をお書きになっています。この文章について少しご説明いただいてもよろしいですか。
中村:これはまさにチベットのタンカについてです。チベットのタンカというのは、ある意味では形式的で、こういう図像を受け継ぐべきだという描き方の手本があるわけです。それはそうですが、私のなかで今でも影響が残って引きずっているのは、「獰猛神群・交合神群」の後の「畏怖性・戦闘性の現象学」という副題が示していることです。つまり「畏怖性」は、世界に対して脅威を感じるという意味で、「戦闘性」は、世界に対してこちらのほうから戦いを挑んでいくという意味です。私の考えでは、人間を世界との関係性そのものとして捉えるならば、「ここに完結した自己がいる」のではなく、世界との関係を見つめてそれに対処する人間の在り方が大切で、人間と世界の〈間〉を〈皮膜〉として表わすのが美術作品だということになります。つまり「塊」としての「主観」か「客観」を表わすのが美術ではなく、関係性そのものとしての〈皮膜〉を視覚化するのが美術だという考え方に立って、向こうからこちらに襲いかかってくるものに対する反応を「畏怖性」として捉えるとするなら、襲いかかるものにこちらから立ち向かう精神的な力は「戦闘性」として捉えられますね。この評論以降、「双方向性」や「両義性」という言葉を重視するようになりました。メルロ=ポンティに関する私の論稿にもそれが出てきますが、この哲学者が言う「見ること」と「見られること」の交差、「双方向性」はもう一つの「両義性」だと考えています。「主観」と「客観」を二項対立的に分けるのではなく、双方の間を閉じてしまうのでもなく、その間で起こる出来事自体をはっきりさせていく。そこでは、外部に対する萎縮だけでも、外部と無関係な安楽だけでもなく、双方向の力関係が中心だという考え方です。そういうタンカに影響され、それをずっと保っているという意味では――訳の分からないタイトルの評論ですけれども――今につながっていると思われます。
粟田:65年に賞を取った後に、雑誌とか新聞に書くのは、その後どういうふうに具体的に展開したんでしょうか。例えば『みづゑ』で書くようになったとか。
中村:65年直後には、それほど頻繁には書いていません。
粟田:その結果、『自立芸術』を自分たちで立ち上げる。
中村:それもありますが、同時に、身近なところで新聞に書き始めます。
粟田:新聞が、書く場所としては一番。
中村:最初はそうですね。65年に佳作になった後、「朝日新聞」の名古屋本社に角田守男という美術記者がいまして、68年だったと思いますが、彼が単発の署名記事を書かせてくれて、それから「火」という一字署名のコラムを書き始めたのですね。私の名前が「英樹」ですから、「英」をそのまま使うと直接的過ぎるので「ひ」だけをとって「火」にしました。その後、角田さんの体調があまり良くなくなったこともあって、私は大学で教えながら、短信欄も含めて「朝日新聞」に頻繁に書くようになったのです。それが初めの頃のことですが、もうちょっと後の話としては、高橋さんがよくご存知ですけれども、『美術手帖』に名古屋の展評欄をつくろうと中原さんと相談して実現し、私が1978年1月号から最初の1年間を担当することになったのです。そうしないと、名古屋の美術を見る人がいても、結局、全国的に広がらず、作家が作家になっていくことが難しいし、美術について書いた言葉が残ることも少ないわけですね。名古屋にギャラリーUという有望な画廊ができて、それが広く知られるためにも展評欄をつくるように働きかけることが必要だということになったわけです。
粟田:逆に言うと、それまでは全国的な展評みたいなものはなかったんですか。
中村:名古屋の全国的な展覧会批評の欄はまったくなかったですね。だから、東京や関西の展評を受け身の姿勢で読むだけでした。
加治屋:先生は78年1年間、『美術手帖』の名古屋の展評を担当なさっていたと思うのですが、そのあとはどうなっているんですか。名古屋のセクションというのはずっと続いて。
中村:続きます。私のあと、今、名古屋造形大学の先生をしている江本菜穂子という女性にも書いてもらいました。これは私が推薦したのですが。彼女はどちらかというと美術史畑の人なので、その時々の現場に対応するという感じと違ったかもしれませんけれど。それから、執筆候補者が途切れたときにもう一度私が担当しました。名古屋造形大学の三頭谷(みづたに)鷹史という、本名ではありませんが、美術評論家が書いたこともあります。いろいろな人が担当しましたが、『美術手帖』の地域別の展評欄は最近なくなってしまいました。
高橋:先生、『REAR』の13号はお持ちでしょうか。すみません、私が持ってくればよかったのですが。
中村:資料を持ってきましたので、話が逆戻りしますが、ここに『REAR』13号があるので、何年に「朝日新聞」に書き始めたか確認できます。もう一冊は、Dギャラリーでの企画展「身辺からの飛翔」の図録です。
加治屋:東野さん、中原さんと一緒になさったのは84年。
中村:そうです。
高橋:私はそれ初めて見ます。
加治屋:「身辺からの飛翔」(「身辺からの飛翔-芸術おもちゃ+図工少女+地球上の光景」)ですか。84年にDギャラリーで行った展覧会。
中村:よかったらご覧ください。
加治屋:『REAR』の13号の「名古屋の批評メディア」という部分で、『自立芸術』が紹介されていますね。「文学、評論、美術制作など同時代の意識を基底に据えながら、ジャンルを超えて対話を成立させることを意図して同人がつくった」と。石井守さんがジャコメッティ論を書いたり、シンポジウムの報告をしたということが書かれています。中村先生の朝日新聞の最初の評論というのは、「非芸術に向かう現代美術」というタイトルで、1969年3月29日。
中村:(「朝日新聞」の等倍コピーを見せて)これです。
加治屋:あー、すごい。
中村:その頃の文章は恥ずかしいのですが(笑)。
加治屋:この朝日新聞に書かれた文章は、アメリカとかヨーロッパの当時の状況について書かれていますね。
中村:そうですね。それがもろに日本に影響しているわけですから。
加治屋:60年代末、この頃は頻繁に東京や関西に行かれていたんでしょうか。
中村:その通りです。ちょうどもの派が出てきた頃で、銀座線の「三越前」駅の近くにその拠点となった田村画廊があって、その辺を菅木志雄さんがスラッとした細身の感じで歩いていたとか、関根伸夫さんを始めとして今では著名な美術家たちがその辺りで斬新な作品を発表していたとか、大体その頃から見ています。
粟田:69年の賞(『美術手帖』の芸術評論募集)は、李禹煥さんと桂川青(菅木志雄の筆名)さんも一緒に受賞されていますね。
中村:そうです。冗談で、李さんとは「同期の桜だ」と言っています(笑)。
加治屋:1970年に「人間と物質」展が愛知県美術館に巡回で来ています。それはご覧になって。
中村:もちろん。愛知でも見ています。
加治屋:東京でも。
中村:愛知の展示の場合は、クリストがやや軽めにやりましたよね。
粟田:見てないんです(笑)。
高橋:生まれてない。
中村:東京のほうはすごくスケールが大きかったけれど、名古屋のほうはそれほどでもなかったと記憶しています。
加治屋:東京はたしか彫刻室です。名古屋は違ったんですか。
中村:東京ほどのスケールはなかったという記憶があります。
粟田:期間が短かったと思うんですけど。
中村:東京会場は、今まで見たことのない大きなスケールだと感じて全体を眺めた記憶があります。そのときに名古屋から出品していたのが庄司達さんですね。
高橋:愛知県美術館は7月15日から26日、10日間。最初の東京都美術館は5月10日から30日。京都市美術館は6月6日から28日なので、3週間ぐらい。特に愛知は短いですね。
中村:「人間と物質」展と言いますよね。中原さんもそれを認めていたわけですが、中原さんは私に「あれは、本当は『人間と物質のあいだ』にしたかったのだ」と言っていましたね。
加治屋:そのあと、単行本で『人間と物質のあいだ』(田畑書店、1972年)という本を出されていますね。まさに「あいだ」という。先生とつながっているわけですね。
粟田:69年以降ですと、東京の展覧会を見に行ったりも。
中村:先ほども話したように、69年あたりから頻繁に見ています。というのは新幹線が開通して比較的行ったり来たりが容易になったので。だけど、新横浜にはこだま号しか止まらなかった。
加治屋:68年、69年は、もう夜間高校は辞められていますか。
中村:夜間高校で教えていたのは、75年の3月までですね。
加治屋:そうでしたか。高校で教えられながらこちらにいらっしゃっていたということですか。
中村:そうです。非常勤で、短大でも教えていましたが。
高橋:例えば東京の展覧会を見に行こうとすると、一泊泊まりで。
中村:そうですね。
高橋:どういうふうにされていたんですか。誰かお知り合いのところに。
中村:そうではなく、どこかのホテルに泊まりました。80年代以降は、新横浜近くに部屋を借りました。その当時、よく新宿のゴールデン街辺りで飲み明かしたり。体力がありましたね。
粟田:演劇などはご覧になったんですか。
中村:唐十郎は結構観ています。寺山修司も渋谷あたりで観ていますね。これは余計な話ですけれど、ゴールデン街の「久絽」というバー、ご存知ですか。今もありますよ。久絽ちゃんという女性の経営者は東京芸大の卒業生です。ゴールデン街では今でも美術展のようなことを、野外に作品を展示したりしていますね。
粟田:じゃあそこによく通われて。
中村:夜中、1時か2時ぐらいまで飲んでいて、店が閉まったら「ちょっと歌いに行こう」と久絽ちゃんに誘われてまた飲みに行った覚えがありますね。
加治屋:その頃は、作家とか、批評家、編集者とかと。
中村:文学関係の人などとも話しました。お向かいにもまた別の店があって、そこは結構いろいろ人がたむろしていました。それで思い出した! 福田美蘭という美術家がいますよね。彼女をいっぺん久絽ちゃんのところに連れて行ったことがあります。
加治屋:いつ頃ですか。
中村:インド・トリエンナーレの参加者に福田美蘭も選んだのですが、その直前か直後ですね。そうしたら親父さんに叱られました。「うちの娘をどうしてくれるんだ」って(笑)。
加治屋:福田繁雄さんに。60年代末以降、東京のほうでも展覧会をご覧になった。もの派が出てきたときにご覧になったということですね。
中村:そうですね。もの派が出てくるのとほとんど同時代に見ていたという感じが、自分の中ではしてますね。
粟田:当時そういう作品というのは、美術業界の中ではメジャーな存在になっていたんですか、中村さんが田村画廊とか回っていた頃に。
中村:動きが活発になってきて、新鮮ではあったけれども、メジャーだとはとても言えないと思います。でも一群の人たちにとっては非常に新鮮だったというか、これから先が予感されるというような思いはありました。
粟田:そういう雰囲気みたいなものがかなり広がっていた?
中村:田村画廊があって、秋山画廊、ときわ画廊などがわりと近いところにあったのです。その辺から何か湧き上がってくるみたいな雰囲気がありましたね。
加治屋:その頃は『美術手帖』とかもよく読まれたりして。
中村:もちろん。その頃よりかなり前の号からずっと続いて本棚に並んでいたのですが、量が多いのでどうしようもなくなって、どこかに寄贈するという案も頭に浮かびました。例の福住治夫さんが編集長をしていた頃は、『美術手帖』の背表紙が白かったのです。きまじめな堅い雑誌で、どうもその売れ行きがよくなかったらしいので、今や貴重になっているみたいです。その時代がもの派とかなり重なっていますね。
加治屋:そのとき関心があってよく読まれていたのはどういう批評家でしょうか。大学にいらっしゃったとき針生さんと出会われたということでしたが。先ほど東野さんとか中原さんの話が出ましたが、とくに読んでいて腑に落ちるというか、影響を受けた批評というのはあったのでしょうか。
中村:中原さんに比較的近かったですね。東野さんのほうは、ポップなアメリカの美術への傾倒が目立ち非常に華やかではあったけれども、内発的な問題意識があるのかどうか分からない、という感じがしないでもなかったですね。
粟田:雑誌でいうと、『美術手帖』のほかに何か定期的に読まれているものはありましたか。
中村:なくなったものも多いですね。
粟田:『三彩』。
加治屋:『デザイン批評』とか。
高橋:『現代美術』。あれはもっと前ですか。
中村:それは結構読みましたね。
加治屋:『芸術倶楽部』。
中村:それから神奈川県民ホールギャラリーの柳生不二雄さんが関係していてわりと長く続いた雑誌。とにかく『美術手帖』以外に、かなり硬派の現代美術の雑誌がいろいろ立ち上げられましたが、長続きしたものは少なかったような気がします。峯村敏明さんの文章もよく読んだのですが、峯村さんは、今美評連の会長だからうかつなことは言えませんが、ある特定の傾向に対する個人的な興味と感覚的な鋭さが中心という感じがしましたね。
粟田:70年代ぐらいに、同人で批評誌みたいなものを作家たちがつくったりすることがあったと思うんですが、そういう同人誌みたいなもので何か印象に残っているものはありますか。あるいは画廊が出している冊子のようなもので。
中村:桜画廊は定期的な冊子は出してなかったですね。ただ桜画廊の印刷物には、私自身何度も書きました。
加治屋:少し話が戻りますが、先ほどの峯村さんとの批評との関連でいいますと、先生としては特定の対象に集中するというよりも、歴史的な深みというか、伝統、古層に関心が向かったということなんですか。
中村:形式的な古い伝統への関心というよりも、一つは、先ほどの東野さんの話に絡めて言えば、対象と向き合う書き手の内発性の重視ですね。もう一つは、根本原理と言ってもいいのですが、要するに美術の根源的な在り方にかかわる要素の探究。そのへんのところを意識しながら文章を書くことが、自分にとってもっとも大切でした。そうすると、時には美術の枠を外れて考古学的な分野に分け入ってみたり、時には哲学的な分野に入り込んでみたりということにもなるのですが、基本的には「これからの表現の方向」ということに関心があったのは間違いありません。そこには、異分野が相互になかなかうまく結びつかない難しさはあると思います。
話が大げさになってしまいますが、20世紀というのは、ある根本的な見方をすれば、少なくとも西洋の歴史のなかでは大きな曲がり角だったことが分かります。それについて学生たちに講義で話したことがありますが、歴史をずっと引いた視点に立って500年単位で見てみると、なぜか今が見えてくるかもしれないよ、と問題を投げかけたのです。20世紀末から500年遡ると、ちょうど《モナ・リザ》が描かれた紀元1500年頃で、ルネサンスから宗教戦争の時代への変わり目です。さらに500年遡ると、ロマネスク建築の石の教会の巨大な内部空間が生まれて広まった頃です。心の内面というけれども、それは実際の内部空間と重なるところがあります。もう一度500年遡ると、西ローマ帝国が滅びた頃です。受験の時に覚えさせられたのだけれど、西ローマ帝国が滅びたのは476年ですね。「蛮奴に死なむ(476)西ローマ」と覚えさせられました(笑)。それから500年遡ると、イエス・キリスト誕生の時代です。さらに500年遡ると、古典ギリシャの最盛期になるわけです。その先紀元前3000年まで一気に遡ると、古代エジプト古王朝の始まりです。それぐらいのスパンで移り変わりを見てみると、ひょっとしたら20世紀というのは歴史の大きな曲がり角かもしれませんね。
1910年代というのは、ある意味で20世紀のビッグバンとでも言える年代でした。キュビスムが盛んになり、一方ではデュシャンの「反芸術」が出てきます。デュシャンの「レディ・メイド」のオブジェは、つまり、つくることに対する懐疑ですよね。そこから20世紀が始まったというのは、まさに既存の西洋近代の自我に対する懐疑とその自己解体のプロセスがこの世紀全体を覆ったことを意味します。その自己解体の行き着いた最先端がコンセプチュアルアートであるし、既存の近代的な自我をもういっぺん研ぎ澄まして、残るものだけ残そうとしたのがミニマルアートでしょう。ミニマルアートは藤枝晃雄先生の専門領域になります。そういうことを考えてみると、20世紀というのは近代的自我の大きな曲がり角だけれども、80年代になってポストモダン的な思潮や、ニューペインティング的な動きが出てきたときに、根本的な解決をしないまま私的な心情の内にこもったり、アニメ的な世界に浸ったりというような傾向が広がる。次の90年代には、デミアン・ハースト(Damien Hirst)の作品のような生体への回帰を思わせる兆候が見られるけれども、それもうまく展開しなかった。つまり、ダダ以降近代的自我に基づく美術を自己解体し、自己言及的に突き詰めていったその先に、更地になった美術を甦らせる21世紀に向けての方策がまだ芽生えていない。20世紀のこの難しい状況が、500年単位ぐらいで見てみると見えてくるのではないか。難しい状況でもそれを知って本気でやる人が出てきたら、16世紀の困難な状況を跳ね返したピーター・ブリューゲルのように残る人は残るでしょうね。
加治屋:そういうふうに美術を見るのは、学生にとっても新鮮というか、面白いんじゃないかと思いました。私も大学では現代美術史を教えているのですが、あまりそういう大きな視点での話はしてないので、参考になりました。
中村:「目と手が育む精神」第三章に書きましたが、私のなかには、遠くから離れて自分を見るマクロな視点と、逆に局所的な自分自身に寄り添うミクロな視点、その両方の間の行き来が大切だという考えがあります。他者のように外から広い視野で自分を見る目と、ほんとうに小さな肉体として生きている自分自身を素直に見る目という、その両方の目を持つことが必要じゃないかと思っています。それを成し遂げたのがピーター・ブリューゲルではないでしょうか。ブリューゲルの絵には、マクロな視点で見た全体的な光景とミクロの視点で見たあちこちが入れ子状になっていて、見る人の目がその間を絶えず行き来する、という特有の性質がありますね。
加治屋:少し戻ってしまうのですが、もともと60年代、民俗学的な関心があって、自分で足を運んでいろんなものを見に行かれたという話がありました。ほかの批評家のことも伺っていたのでお聞きしたいのですけれども、70年代に入ると、石子順造さんが、民俗学的な関心を持って、まさに日本の古い文化についての文章を書かれますけれども、石子さんの評論については何かお感じになったことはありますか。
中村:それほど詳しく読み込んだわけではありませんが、私のやり方とは違うけれども、共通するところがあるなと感じた覚えがあります。残念なことに早く亡くなってしまいましたね。こんなことを言うと叱られそうですが、今、評論畑の仕事といっても、どちらかというと、学芸員的な仕事とか、情報を流す仕事とかが多く、いろいろな分かれ方をしていて、本来の批評が希薄になっているような気がします。だから、逆に批評とは何か、どうあるべきかが問われることになりますね。そういうなかでかつての石子さんの在り方は、批評そのものに目を向けているという面があって意味深いのではないかと思います。中原さんも「創造のための批評」ということを言っていました。藤枝さんは、フォーマリズムとの関係でテキストにこだわるところがあって、別の意味で批評そのものに踏みとどまっています。
高橋:60年代から70年で、もの派を含めて、先生の好みと一致している美術の展開とかが見えてきた気がします。先生は、60年代、例えば「ゼロ次元」であるとか、名古屋の年長者の作家たちの動きも垣間見ながら――以前、先生にお写真をお借りしたことがある――先生は五色園の取材をされたり、名古屋の美術の動きに伴走もされていると思うんですが、一方で、純粋な批評活動ではなく、70年代初頭からいろんなことに巻き込まれもしておられるような気がするんです。
中村:いまの話で「巻き込まれた」というのは何を意味しますか。
高橋:何かいろいろ書いてくれとか。例えば名古屋野外彫刻展とか。意見を求められたり、手伝ってくれとか、一緒にやらないかというのもあったかと思います。まだ学芸員の時代ではなくて、作家たちがワサワサやっている元気な時代でしたし。そういうときにお声がかかることも多々あったのではないかと。
中村:多かったですね。それはそれでいい経験でした。ただ、自分が否定的で納得できないことには参加しなかったつもりです。嫌々ながらつき合うと、その先どんどん続いて手を引けなくなります。これからも嫌々つき合わないほうがよいと思っています。
高橋:審査員とかいうのは80年代ぐらいからですか。
中村:そうです。
加治屋:五色園でゼロ次元が行った「儀式」をご覧になっているということですが。
中村:(2012年2月発行『アートペーパー』88号の「明日を呼ぶ私の記憶」掲載写真を指して)それは、私が撮った写真です。「朝日新聞」に載せるために撮ったのに断られました。
加治屋:これは無理ですよね、いくらなんでも(笑)。
中村:「これはダメです」と断られた写真を、「もう時効でしょ」と言って載せてもらいました。
粟田:中村さんは、当時カメラを持ちながら、写真を撮るようなこともされていたんですか。
中村:そうですね。
加治屋:『アートペーパー』88号に書いている、愛知県美術館の「ゴミ事件」というのは。
中村:それには直接、主体的というか当事者としてかかわったわけではありません。ただ名古屋造形大学の前身の短大彫刻科の卒業生で教え子の宮島孝子という女性が当事者としてかかわっていました。
加治屋:教え子が作家として出品していたということですか。
中村:出品といってもゴミですからね。(笑)
加治屋:裁判になったんですね。
中村:そうです。『美術手帖』に記事が載っているはずです。それと、もう一つの大きな事件は、愛知芸大の機動隊出動ですね。
高橋:針生さんが。
加治屋:そのときは、先生は企画側にいたんですか、聴衆側に。
中村:いやいや、私が教えていた大学ではありませんから。
高橋:この講義は、先生は行かれたんですか、針生さんが学生から呼ばれた「自主講座」。
中村:それには行っていません。
高橋:ゴミ裁判は、宮島さんが出品されて、先生に「ちょっと助けてくれ」じゃないですけど、「裁判やるから」というような何かアクションがあったんですか。
中村:直接はなかったですね。
高橋:先生が取材とか意見を求められたりとかというのは。
中村:意見は求められましたが、証人になれとか、参考人で出廷しろとか、そういうことはなかったですね。
高橋:「人間と物質」展でも庄司(達)さんが新聞紙の作品を展示したりしていました。ゴミであっても、美術の文脈の中に位置づけられるということも論争するんだけど、なかなかうまく展開しなかったということがありました。
加治屋:『アートペーパー』にウォーホルと会われた写真が載っていましたが(「明日を呼ぶ私の記憶 過ぎ去って気がつく6」『アートペーパー 名古屋市美術館ニュース』94号(2013年冬号))、あれはいつ会われたんですか。
中村:1976年の9月ですね。これはどういうことかといいますと、その頃、頻繁に新聞に書いたりいろいろな活動をしたりしていたので、アメリカンセンターが私に「アメリカの美術を視察しないか」と招待してくれたわけです。1976年というのはちょうどアメリカ独立200年祭、バイセンテニアルです。それもあって1ヶ月ぐらい視察して、アメリカの現代美術を中心にした状況を把握してほしいということだったのです。
加治屋:それは名古屋のアメリカンセンター?
中村:そうです。名古屋のアメリカンセンターです。それはアメリカの国務省の管轄です。そこにも書きましたけども、最初ワシントンDCに着きました。着いてすぐに「ワシントンポスト」を買いましたが、それを見てびっくりしたのです。1976年9月10日のことでした。
加治屋:うーん、何だろう。分からないです。
中村:毛沢東の死亡記事が載っていたのです。
一同:あー。
中村:ワシントンでは、スミソニアン博物館などに行きました。フィラデルフィアの美術館では、デュシャンの《大ガラス》を見ました。そこには、デュシャンの遺作がありますね。デュシャンが亡くなってそれほど年数が経っていなかったので、それは撮影禁止でした。ところが招待で休館日に行ったので私一人だけだったのです。それでこっそりのぞき穴から撮影してしまいました。もちろん公表はしませんでしたけども。ニューヨークのウォーホルのスタジオに行ったのは、その後ですね。そこでまたびっくりしたのです。ウォーホルが手がけていた巨大な作品がなんと毛沢東の肖像画でした。それから、ボストンにも行きましたね。
加治屋:それは、毛沢東が亡くなったからつくったわけではないですよね。
中村:いや、偶然の一致です。それで、せっかくだからと言ってウォーホルと一緒の写真を撮ったのですね。リチャード・セラ(Richard Serra)のスタジオにも行きました。セラと一緒に写った写真がその辺にあると思います。
粟田:コーディネートしてくれる方はいらっしゃったんですか。
中村:一応こちらから希望を出して、できる限りコーディネートしてもらって、それでアメリカの国務省を退官した人が付いて回ってくれたのです。
加治屋:たしか針生さんも国務省の招待でアメリカに行ったことがありますね。
中村:そうでしたか。それは知らなかったですね。
加治屋:針生さんの場合は、反戦運動の集会に行って国務省の人に怒られたって(笑)。
中村:僕もちょっと国務省の人に嫌がられたことがありました。なぜかと言うと、途中で知り合ったイタリア人の女性画家に、ニューメキシコに来ないかと言われて、ちょっと予定の行程を外れてニューメキシコの山奥まで行ってしまったからですね。誰かが国務省のお役人だった人に「楽しそうに話をしていていい友達だね」と私のことを言ったら、その人が「フレンドであると同時にエネミーだ」と答えたのが今でも耳に残っていますね(笑)。もちろん、その人は最後まで付いてきてくれたのですが。一人だけ大学者で私などとても会えそうにない人を希望したけれども、やはりその人だけはダメでしたね。
加治屋:聞いてもよろしいですか。
中村:もちろん。ボストンで、ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)に会いたと言ったのですよ。
加治屋:どうしてチョムスキーに会われたいと思ったんですか。
中村:言語の問題そのものに対する関心と同時に、人間の生きていることに言語を結びつけるところへの共感のせいです。生成文法や変形文法にそんなに詳しかったわけではないのですが、せっかくボストンに行くのだから、もしも会うことができるならと高望みをしたのです。
加治屋:美術批評家には会われました? アメリカの美術批評家。
中村:それは残念ながら会えなかったですね。というよりも、後から思ったのですが、どちらかというとアメリカの美術の現況というか、作家の実情に目を向けていたという気がします。話は逸れますが、ボストン美術館の日本コレクションは、展示の裏側を見てみたいと思って、収蔵庫などを見せてもらった覚えがあります。
高橋:9月、10月に行かれている。学校はお休みになって。
中村:そうです。休ませてくれました、その頃は。
高橋:76年の5月にギャラリーUはオープンするわけですけど、先生が中原さんと「素材の語るもの」という展覧会を始めたのは、翌77年からですね。2年間かけてやっていらっしゃいます。
中村:77年に、そのギャラリーUの中心人物との関係もあって、もう一度アメリカに行きました。
加治屋:どなたですか。
中村:国島征二という人です。
高橋:彫刻家ですね。
中村:アメリカの西海岸、ロサンゼルスの中国人がやっていた画廊で彼が展覧会を開いていたので、それを見るのも兼ねて、前年に見残したものをフォローするために、翌年もう一度アメリカに行ったのです。
加治屋:76年に国務省の招待で行かれたのが初めてのアメリカですか。
中村:そうです。バイセンテニアルで、エンパイアステートビルディングの最頂部がアメリカ国旗の色に塗り分けられていたのを、今でもよく覚えていますね。それからもう一つ、翌年の77年には私費だったので、一番安い大韓航空に乗りました。そのため、帰りは、羽田に直接到着しないでソウル経由だったのです。そのついでにソウルで降りて、英語の表記もなければ日本語の表記もない、ハングルだけの世界に入ってしまって途方に暮れました。タクシードライバーに何か言ってもまるっきり分からないし、仕方ないので、伊藤博文を暗殺した安重根の銅像の下でしょぼんと一人で座っていました(笑)。
加治屋:アメリカに行かれたときは、ニューヨークだと篠原有司男さんとか日本人の作家が……。
中村:篠原さんには、77年に行ったときに泊めてもらいました。
加治屋:ああ、そうですか。
中村:アレクサンダー空海さんがまだこんなに小さかった(笑)。
加治屋:息子さんですね。
中村:篠原さんの家は、なんだか部屋の様子がすごくて、物がみんな一室にぐじゃぐじゃと置いてありました。屋上には、オートバイの作品がありました。
加治屋:当時はどこに。マンハッタンじゃなくブルックリンの方ですか。
中村:そうだと思います。それで、ギャラリーUが始まったのはその頃からですよね。
高橋:言い出しっぺに近い仕掛け人は国島さんで、Uというのは梅田勝さんという経営コンサルタント――UのUは梅田のUなんですが――その方がオーナーです。でも企画をするのは評論家。当時、評論家が企画をして運営する走りのようなものだったと思うんです。
中村:そうですね。実はそのことを今年の4月1日に出る予定の『アートペーパー』96号に書きました。名古屋における美術批評に関して2、3回書こうかなと思っています。今、学芸員の企画や画廊の企画が盛んだけれども、独立した、批評的な眼での企画も大切ではないかという考えによってです。そういう意味では、営利目的だとか、一般の客をたくさん呼ぼうとかいうことではない企画ですね。しかも名古屋で行われる展覧会だけれども、名古屋に限らない作家の人選で、ということでした。
加治屋:具体的にどういう作家の展覧会を企画なさったんですか。
中村:「素材の語るもの」の図録も持って来たほうがいいですね。
粟田:はい、お願いします。
高橋:もう1冊、先生いいですか。『REAR』の27号がもしあれば。
中村:ごめんなさい、27号だけないのですよ。
高橋:じゃあ結構です、すみません。後ほどお送りしますね。
中村:それから1978年に、「芸術・人間・宇宙」という論文を、名古屋造形芸術短期大学(現在の名古屋造形大学)の紀要第1号に書きました。その「芸術・人間・宇宙」を、ときわ画廊で見て読んでくれて、東京藝大で特別講義をしてくれと言ったのが榎倉さんなのです。
粟田:ああ、そうなんですか。
中村:藝大で榎倉さんの学生を中心にして特別講義をしたのですね。その最初の講義を聞いてくれた人が、川俣正とか、保科豊巳とか、田中睦治とか、そういった人たちです。小林亮介さんもいましたね。
粟田:そのときのレクチャーは、この書かれた内容をベースに。
中村:そうです、そのままではないですけれど。当時は、川俣さんとか保科さんのような、インスタレーション的な作品が出てきた最初の頃で、そういうことをすると、藝大では、ちゃんと絵を描いている学生がぶっ壊しに来るという時代でしたね。
粟田:中村さんの講義は、仮構、仮の構築といった話とも関連するようなものだったんですか。
中村:そのときの話を正確に覚えていないから分かりませんが、なにしろ研究紀要をベースにして話しましたね。ちょっと話は戻りますが、(「素材の語るもの」の図録を指して)これが中原さんと私が一緒に企画した展覧会です。どうぞ見てください。
粟田:これは面白そうですね。
加治屋:「素材の語るもの」という、これは1977年から79年までの連続の展覧会でしょうか。
中村:そうです。
高橋:名古屋の桜画廊が、前は貸し館をやっていたけれど、74年をもって企画画廊に完全にシフトするんですね。そうすると名古屋造形大とかいろんなところから、70年代に刺激を受けてきた作家たちが、発表する場が名古屋の中でないということになった。高いお金を出して東京の銀座の画廊借りるのも……というなかに、国島征二という彫刻家が、「名古屋でいい画廊をつくろう」と。で、梅田勝さんという人を口説いて、スペースを確保して、そこで自分たち仲間内でやるんではなくて、ちゃんとした批評家に企画性のあるものということで、中村さんが。そのときに中原さんを、というのは、『美術手帖』に名古屋レビュー欄ができることと連動していくわけですか。
中村:それは、逆です。
高橋:こっち(展評)のほうが先なんですね。
中村:そうです。中原さんとのつながりは、中原さんが名古屋造形に教えに来ていて、その機会にというほうが強かったと思いますね。それで企画展をしているうちに、『美術手帖』に名古屋の展評がないのはよくないという話になったのです。
高橋:そうですね、『美術手帖』は78年から、名古屋の展評が始まるということですね。
加治屋:ギャラリーUでの企画は、反応はどうでしたか。名古屋の作家が見に来たり、若い人が見に来たりしたんでしょうか。
中村:美術館に行くような普通の人たちまでとは言えませんが、美術に関心のある、それなりに幅広い名古屋の人たちが見に来たと思いますね。
高橋:場所が良かったですよね。
中村:場所は丸善のすぐ裏で、しかも細い小路の飲み屋街だったので、絶妙でした。
加治屋:何年から何年までなんですか、ギャラリーUというのは。
中村:ギャラリーUは、かなり続きましたが、途中からちょっと性格が変わりましたね。それはそうと、先ほどの仮構について少し補足してもいいですか。「芸術・人間・宇宙」というタイトルですが、人間は自己完結した「主観」で、宇宙は秩序ある「客観」という二項対立によるデカルト風の考え方に対して、私には、人間は〈人と人の間〉だという見方と、宇宙は閉じられているのではなく無限に広がる〈カオスの時空〉だとするとらえ方があります。そしてもう一つ、先ほどの「あいだ」の話ではないですが、「人間」と「宇宙」の「あいだ」には、人間の手によって仮につくられた表現の領域が必然的に介在し、それを仮に「芸術」と呼ぶならば、その三項の相関関係によって人間は成り立っているという考え方があるわけです。「芸術」は、「人間」と「宇宙」の「間」の、〈皮膜〉を見えるかたちにするものです。その三項の相関関係を模式図にしたのがこれですね。つまり、契機としての視点=主体と、無限としての世界=客体があって、それを結びつけるのが〈虚〉としての象徴=記号、要するに仮設の領域です。そのことを藝大でも話をしたと思いますね。模式図は、私が出した3冊目の単行本『表現のあとから自己はつくられる』(美術出版社、1987年)に再録されています。
高橋:さっきのUの補足をします。ギャラリーUとしては、76年の5月から83年末までUの名前で展覧会が開催されています。ちょっと分かりにくいんですけど、梅田さんが手を引いた後、86年ぐらいまでスペース・トゥ・スペース(space to space)という名前で、同じ空間が画廊空間として使われたようです。蛇足ですけど、奈良美智が初個展を84年にこのspace to spaceでやっています。
中村:彼は愛知芸大(愛知県立芸術大学)卒ですからね。
高橋:はい。終盤の運営や画廊の名前がぐちゃぐちゃっとしていまして。77、78年はしっかり企画画廊としてかかわっていらっしゃるけど、みなさんの記憶が最後がよく分かんないんですね。
中村:そうです。
高橋:やっぱり貸し画廊的に使われて。
中村:最後まで画廊で働いていた女性は、何という名前でしたかね。
高橋:浦川さん?…えい子さん…ではなかったでしょうか。
中村:浦川さんというのはASGをやっていた人ですね。
高橋:あ、そうでした。ASG(実験画廊ASG がらん屋)のほうが浦川瑩子(えいこ)さんでした。はい、ギャラリーUのほうは、中川(旧姓)えい子さんがスタッフでしたね。
中村:じゃあその人かな。
高橋:なんかこのへん、名前が混乱してまして(笑)。
中村:私が最初に出したこの『鮮烈なる断片』はお持ちですか。
加治屋:持っています。
高橋:古本屋さんで見つけたんですよね。
中村:ああそうですか。この本にはまさに榎倉さんの作品が出てきますね。それから川俣さんの作品とか、いま話に出てきたASGで展示した人たちがよく登場しますね。ASGは「がらん屋」という呑み屋の一角でした。名古屋の中心からちょっと外れた場所ですが。
加治屋:ああ、画廊なんですね。81年から始まった。
中村:先ほど言ったようにギャラリーUの性格が少し変わって、それを補う意味で、瑩子さんが呑み屋だけではなくてASGのスペースも設けることになったようですね。
高橋:中村さんは『美術手帖』や新聞に、そこら辺の活動について書いていらっしゃるんですか、展評として。
中村:自分が企画した展覧会は書かないのが原則なので、それ以外が多かったですね。
高橋: U以外のところでだと、どんな。
中村:展評のことは、もう一回見直さないと正確には思い出せませんね。
高橋:やっぱり桜画廊が多かったんですか。
中村:桜画廊、ギャラリーはくぜん、8号室、ギャラリーUでは野村さんについて書いたかな。
加治屋:野村仁さん。
中村:ちょっと調べないと分からないけれども、どこの画廊か区別しないで、みな平等に見て書いたつもりです。
高橋:ウエストベス(ギャラリーコヅカ)ができるので、いろいろ書く対象も増えてきて。
中村:重いのに、関係資料を全部持って来ていただいて恐縮です。
加治屋:いえいえ、せっかくなので。先ほどの「素材の語るもの」という展覧会は、場所はどちらでしたっけ。
中村:ギャラリーUです。
加治屋:ギャラリーUですね。その後、ASGの展覧会を。企画にかかわられたことはあるんですか。
中村:企画ではありませんが、例えば川俣さんとか保科さんとか、そういう作家を選んで、「この人はどうでしょう」と推薦したことはあります。榎倉さんとも相談しました。
高橋:トークやシンポジウムみたいなものは多々あったということですね、作家が来たら。
中村:いろいろやりましたね。
加治屋:その後になりますけども、1984年に銀座のギャラリー葉で、先生が展覧会を企画なさった。これまでは名古屋での展覧会だったんですけど、銀座で展覧会をやるというのはどういうきっかけだったんでしょうか。
中村:『美術手帖』や『いけ花龍生』での批評です。横浜市民ギャラリーでの企画展は何年かな。
粟田:「今日の作家」展ですか。
中村:「今日の作家 多極の動態」展です。それはだいぶ後ですね、88年ですから。
加治屋:88年に横浜市民ギャラリーで「多極の動態」を。
中村:これは私が付けたタイトルです。つまり単一中心の固定的なものだけでなく、という意味で、まさに反デカルト的ですが。多中心的で流動的な世界をテーマにしたということですね。出品者は、銀座でギャラリーQをやっている上田雄三さんとか、武蔵美の彫刻の先生になった伊藤誠さんとか、榎倉さん。それから國安孝昌さんとか、亡くなった土谷武さん、藤田昭子さん、最上壽之さん、福田美蘭さんも入っていますね。そんなメンバーでやった展覧会です。また話が飛びますが、横浜と上海は姉妹都市なので、その後、横浜を中心にした作家たちの展覧会《横浜之風》を上海の美術館でしました。
加治屋:それは何年ですか。
中村:90年代になってからだったかな。天野一夫さんがまた品川のO美術館にいた頃ですね。
粟田:作家を選ぶときは中村さんのお考えで。
中村:その頃相当見て歩いていましたからね。ギャラリー葉の企画展でもそうですね、かなり見ていたなかから、この企画に合う人という感じで選んでいたと思います。
加治屋:ここにある記録によれば、《横浜之風》は94年の展覧会ですね。
中村:ずいぶん後ですね。
高橋:この企画は、関東の作家が中心になっていますね。
中村:横浜上海友好都市提携20周年記念展ですからね。
加治屋:80年代初めは東京芸術専門学校、TSAで教えていらっしゃったと、たしかどこかで書かれていたと思うんですけど、これはどういうことでしょうか。
中村:品川区にあった東京芸術専門学校、通称TSA で、その母体は、中延学園高等学校ですね。斎藤義重さんが校長だったのです。そこで飯塚八朗さんや中川猛さんといった作家が教えていました。その人たちと知り合いだったこともあるかもしれないけれど、その前から斎藤さんの横浜の家に取材に行ったりもしていましたね。TSAに教えに行くそもそものなれそめははっきりしないのですが、そんな人のつながりがもとで、講義をするためにかなり頻繁に通っていましたね。
加治屋:この頃は、先生は名古屋が拠点だったんですか、もう横浜にもいらっしゃってたんですか。
中村:先ほどからお話しているように、60年代末ぐらいから行ったり来たりしていましたが、寝泊まりするのに不自由ですよね。
加治屋:そうですよね。
中村:それで最終的にどうしたのか、簡単に説明しましょう。80年代の初めに、私は、ちょうどここにある最初の2冊の本、『鮮烈なる断片 日本の深層と創作現場の接点』(杉山書店、1984年)と『日本美術の基軸 現代の批評的視点から』(杉山書店、1984年)を同時に出版しました。その準備作業に追われていたことに加えて、展覧会を見て歩いたりする必要がさらに高まったこともあって、名古屋と横浜を行ったり来たりする移動が一層頻繁になってきました。それでたまりかねて、JR横浜線で新横浜の隣の菊名という駅のすぐそばに部屋を借りたのです。JR横浜線と東急東横線が交差するのが菊名駅ですね。菊名だったら名古屋と行ったり来たりするのに好都合だろうと思ったのです。借りた部屋は、今でも菊名の駅を見下ろせる錦が丘という町の桜の古木が道端に並んでいる坂の途中でした。絵描きのおばあさんが住んでいる家の裏側の一室を間借りしたのです。そこで寝泊まりしながら、名古屋と行ったり来たりするようになったのが80年代初めのことでした。
加治屋:名古屋でも毎週何日か教えながら、TSAでも教えたり、展覧会を見たりとか。
中村:そうですね。その当時、新横浜にはこだま号しか止まらなかったから、片道2時間半ぐらいかかりました。今は1時間20分ですからだいぶ違いますよね。
高橋:間借りというのは、書斎みたいな感じですか。そこでも原稿をお書きになっていたんですか。
中村:少しは。
加治屋:杉山書店というところから2冊出された。
中村:その話もしないといけませんが、もう80年代の話に入ってもいいのですか。
加治屋:はい、大丈夫です。
中村:先ほどからの話のように展覧会回りでなるべくたくさんの作品を見るようにしていたのですが、画廊のある地域が今ほど広域化していなかったので、銀座から日本橋、三越前あたりまで歩けば、数多く見ることができました。それで『美術手帖』などに書いたりしていて、それに目をつけてくれたのが、『いけばな龍生』という生け花の雑誌の編集をしていた、今でも作家活動していて千葉県に住んでいる蓜島庸二さんです。やがて、その人が、『いけばな龍生』に1年間連載してほしいと言ってくれたのです。それを単行本にしたのが『鮮烈なる断片』です。私に声をかけた最初の切っ掛けについては、はっきりご本人が書いていますが、『美術手帖』のある記事を見てのことだそうです。この話をしておかなければいけないと思うのは、大学の先生の紹介でというようなことは私にはなかったわけです。何が人のつながりのもとになるかというと、誌面を見て声をかけてくれるとか、偶然の出会いがほとんどですね。
先ほど見ていただいた『思想』の論文もそうです。『思想』の最初の論文「外部/他者と対話する自立的な内面――仮設の視覚的表現による自己改革」はどうして書くことになったかというと、互盛央さんという編集長がソシュールの専門家で、私の『生体から飛翔するアート 21世紀の《間知覚的メタ・セルフ》へ』(水声社、2006年)を読まれたようですね。なぜ読むことになったかというと、大室幹雄さんという千葉大にいた先生で、中国の文化が専門の人だけど、私は千葉大の大室さんの教室にも教えに行ったことがありますが、その大室さんが私の本を読んで、みすず書房から出ている冊子の書評に挙げてくれたのです。それを見た『思想』の編集長が寄稿してほしいという手紙をいきなりくれたのです。だから、そういうつながりを積み上げていくことが大切だなと感じています。『鮮烈なる断片』の「PART Ⅰ」は、蓜島さんの薦めで1年間連載したので12の章に分かれていて、短い「PART Ⅱ」は、銀座にあったギャラリー葉での企画展の記録です。それから、『鮮烈なる断片』の編集が終わる頃になって、78年の「芸術・人間・宇宙」第Ⅰ部・第Ⅱ部に続く第Ⅳ部がこのままではもったいないから、同時に出版できないかと考えたのが『日本美術の基軸』の元の論稿です。「この2冊を何とか出版できないかなあ」と思っても、出版社は全然乗ってくれませんでした。そこで、何をしたかというと、神田神保町に行ったのです。神田の小さな出版社を見つけて、まったく知らないところでしたが、「すみません、ごめんください!」と言いながら入っていって、「こういう内容ですが、出版してくれませんか」と頼んで、「若干ではありますけれども、教科書にも使いたいと思いますし」と交渉し、それだったらという話になったのですね。
高橋:じゃあこの杉山書店というのは全くの飛び込みなんですか。
中村:飛び込みです。見ず知らずのところに「ごめんください」ですからね、何だろうと不審に思われたかもしれませんが。この杉山書店、ほとんど個人経営みたいな出版社でしたね。主に教科書などをつくっていたらしいですね。でも、そこだけは生真面目にずっと印税を払ってくれていました。私が大学も辞めたし、つながりが途絶えたけれども、最近、たまたま神保町に出かけたときに、杉山書店はどうなっているかなと思ってその前まで行ってみました。出版社そのものは店じまいして、今はお住まいだけになっているように見えました。
高橋:杉山書店は、東京都千代田区神田神保町1-39。
中村:その通りです。そこに出てきます?
高橋:ありますよ。大正初期創業の杉山書店。
加治屋:(ウェブサイトを見ながら)今も出版案内がありますね。
中村:かなり前のことですが、注文すれば販売はしていました。ああ、経営者は杉山正己という人でしたね。
高橋:一応出版社としては。
中村:残ってるのですね。
高橋:大正初期創業。
中村:八重洲ブックセンターには『日本美術の基軸』がずっと置いてありましたね。それが私の単行本出版の始まりだったのです。
高橋:これは、反響というか、ちゃんとした本になることで、直接は関係ないかもしれないけど、インド・トリエンナーレのコミッショナーだとか、研究者としてのポジションが……。
中村:インド・トリエンナーレのコミッショナーの依頼はなぜ来たのかな。
加治屋:アジア美術のお仕事はインド・トリエンナーレのコミッショナーが最初ですか。
中村:そうですね。
加治屋:それは国際交流基金ですよね。
中村:インド・トリエンナーレは、たぶん、中原さんが私の名前を挙げたと思います。今考えると、自分が行くのが面倒くさかったのではないかという感じがしなくはないけれど(笑)。
加治屋: 86年にインド・トリエンナーレのコミッショナーをなさっています。選ばれた作家は、海老塚耕一さん、遠藤利克さん、平林薫さんの3名でよろしいですか。
中村:はい。遠藤利克さんは、名古屋造形の卒業生で前から作品を見て評価していたし、平林薫さんは、その頃、ちょうど80年代に、東野さんが「若い女性たちが素晴らしい」みたいなことを言い始めていて、私も彼女の取材をしたことがありましたね。
加治屋:「超少女」。
中村:そうです、そうです。それでたまたま平林さんのアトリエが東横線の白楽あたりにあって。
一同:(笑)
中村:たまたま近く同士だったから選んだわけではなくて、私は平林さんの作品評も『美術手帖』に書いていたのです。そうしたことが絡んでその3名の人選になったのです。今でも覚えているのは、平林さんは――名古屋造形で今教えているので、変なこと言うとまずいけれども――なんとインドで強いお酒を飲んで、すごく辛いカレーを食べて、血を吐いたのですね。それで大使館関係の人がびっくり仰天した記憶があります。これは懐かしい思い出です。
加治屋:インドに行かれたんですよね。やはり初めてインドに行かれたんですか。
中村:インドはそのときが初めてですね。インド・トリエンナーレのコミッショナーは2回やっています。バングラディッシュ・ビエンナーレも2回行きました。いっぺんは審査員でしたね。
加治屋:2回目のインド・トリエンナーレ、91年もコミッショナーをなさって。
中村:そうですね。
加治屋:このとき選ばれた作家はどなたですか。
中村:白井美穂さんと福田美蘭さんと北山善夫さん。
加治屋:特に80年代末から90年代初めにかけて、アジア美術に対する関心が日本でも出てきたと思うんです。福岡アジア美術館ができる前、福岡市美術館がアジア美術をやっていました。
中村:福岡市美術館はアジア美術にすごく関心を持っていましたね。
加治屋:国際交流基金も、後にアジアセンターになりますが、アセアン文化センターをつくったりしていました。先生は、インド・トリエンナーレのコミッショナー、バングラディッシュ・ビエンナーレのコミッショナーをなさっていたとき、アジア美術に対してはどのようにお考えになっていましたか。
中村:どう言ったらいいのか。アジアの現代美術というか、今で言う現代美術についてそれほど詳しい知識があったわけではなかったですね。確かにアジアのことに興味は持っていたのですが、それほどその当時アジアの新しい美術の動向については知られていませんでした。アジアの現代美術と実際に関わるようになった切っ掛けの一つは、福岡市美術館の館長だった副島三喜男さんが声をかけてくれて、交流基金にいた……。
加治屋:古市(保子)さん?
中村:古市さんはよく知っていますけど。そうではなくて都現美に行って、亡くなった……。
加治屋:矢口(國夫)さん。
中村:そうです、矢口さんです。矢口さんと私と、宇都宮美術館にいる谷新さんですね。この3人に声をかけて、それからもう一人、福岡市美術館から九大にうつった……。
加治屋:後小路(雅弘)さん。
中村:そう。その四人でアジアの現代美術を調査して企画することになったのです。でもそれ以前に、最初の最初に副島さんが言ったのか、矢口さんが言ったのか、渋谷にアセアン文化センターができたときに、そこで各国の作家を紹介するために単発でもいいからとにかく東南アジアの現代美術展をやろうという話が持ち上がりました。交流基金の常勤ではなかったけれど、柿沼さんという人がアセアン文化センターの担当者としていて、シンガポールでもまだ国立美術館の活動がなかった時代で、事情が全く分からなかったのですが、とにかく現地に行って作家を探すことになりました。それで私はアセアン文化センターの立ち上げ第1号の展覧会企画のために、柿沼さんと二人で調査に行ったのですね。最初に行ったのは、シンガポールでしたが、あちこち歩いて、それこそ巷を歩き回って探すみたいな、そういう感じで現代美術的な作家を発掘して、渋谷で小さな展覧会をやり始めました。それが蓄積して、そのうちに先ほどの四人による展覧会企画ということになったのです。
加治屋:当時、シンガポールとか東南アジアの国で手探りで見つけていったという状況なんですね。
中村:そうですね。そのときのパンフレット、カタログが残っているはずです。全部ではないのですが。この「シンガポール現代美術2人展」(1990年)が最初だったかな。
加治屋:ああ、すごい。ちょっと写真を撮らせてください。
高橋:86年に初めてインドに行かれたときは2週間ぐらいですか。展示まで立ち会われて。
中村:もちろん。展示する場所の取り合いで大変だったという記憶があります。
高橋:インドに行ったときの感慨というか、興奮というのはあったんですか。
中村:仏教美術と直接は関係ないから、なにしろ人の多さとか三輪車の数のすごさとか、そういう雑踏みたいなことのほうが頭に残っていますね。トリエンナーレ自体に関して一番よく覚えているのは、木でつくった黒い桶に蛇がとぐろを巻いている彫り物のある遠藤利克の作品が、インドの乾燥気候のせいで、展示の途中にバーンと割れたことですね。
高橋:私の記憶違いかもしれませんが、帰国展みたいなかたちでICA名古屋で展覧会されたのは、86年。
中村:86年と91年のどちらでしたかね。86年ではなくて、あとの91年かな。そこはちょっと記憶が曖昧ですね。
高橋:遠藤さんだったような気がするんですが。たぶん1回目ですね。ICA名古屋が86年にオープンしているので、たしか初年度にやっているはずです。(注:「現代美術展 アジアとの対話/日本からのメッセージ」1986年9月27日—10月26日)
中村:そうですか。
加治屋:最近はアジアの芸術家の展覧会って美術館でもするようになっていますね。ずいぶん変わったと思うんですけれども、どういうふうにお考えになっていますか。当時、自分が見ていたアジア美術と、今流通しているアジア美術と。
中村:まず第一に、最初はほとんど手探りで探して見いだした人たちの作品が、福岡アジア美術館の収蔵品もそうですが、福岡市美術館の庭にも設置されたり、他でも注目されたりしてすごくメジャーになっています。その当時は全く知られていなかった人たちの作品が、流通するうえでも相当高額になっている。それが大きな変わり方だと思います。でもその一方で、最初の話に戻るみたいですが、欧米美術の影響が世界中に広がっているなかで、アジア美術というか、欧米とは異なるアジアに根ざした表現の根幹は「こうなのだ」というように、自覚されたものとしてはまだ立ち上がっていない。欧米の影響を受け入れながらそれを作り変える傾向が結構見られますよね。だけど根っこのところにはアジア独特の精神的な深層があるわけで、今やまさに、自分たちの根底に横たわる精神的な深層を明らかにしていくべき時期が来ているという気がしないでもないですね。それは『日本美術の基軸』での私の問題意識ともつながります。その本が出版されたとき「中村さん、今は現代美術が盛んなのに、古臭いことをして」と言われたのですが、最近になって「中村さん、今、あれは大事だと思う」と言う人が出てきているのですね。つまり、欧米の影響に終始するだけではなく、日本から何かを主体的に立ち上げる必要があるときに、日本の深層の顕在化が一つの手掛かりになる。それと同じことで、アジアの持っている精神構造を明確にするという課題は残されています。でも、そのような問題意識は、かつてに比べれば相当な広がりをもつようになってきたと思います。これは今でも記憶に残っていることで、はっきり中原さん批判になるけれども、私に「インドに行け」と言ったのは中原さんだったはずなのに、中原さんは私がアジア美術に関わったことについて、「中村は、谷新も含めてお前たちはアジアに対して何も肩入れしてないのに、アジア、アジアというのはけしからん」みたいな、そういう言い方を最後までしていたのですね。でも肩入れするとかしないとかではなくて、見るものを見て、正確にその構造を見てとることは、自分たち、日本の今後を考えるうえでも大切ではないかと思います。日本が抱える欧米の影響の広がりと、日本の根底にある精神の深層構造との交錯は、アジア諸国の場合とも共通するところがあります。そういうことで、自分としてはアジア美術を他人事として扱うのではなくて、自分たちのこれからを考えていくための手掛かりにするという意味で、欧米の美術だけに偏る必要はないという気がします。
加治屋:先ほど出た副島さんだったと思うんですが、福岡市美術館で最初に、1980年にアジア美術展をやって、そのときに批判があったという話をされていました。日本からアジア諸国の美術を紹介するというのは、戦争の記憶というか、大東亜共栄圏ではないですけれども、なにか日本が率先してアジアの美術を解釈するということなので、それに対して批判を受けたと書かれていました。その点について何かお考えはありますか。
中村:国際交流基金がアセアン文化センターを立ち上げた裏に、政治的な意図があったことは間違いありません。かつて侵略した東南アジアとの関係をこれから先どうしていくのか、それを探る意図があったでしょうね。ただ、そうであったとしても、欧米向きの姿勢だけにとどまる必要はなかったと思うのです。
加治屋:基金で展覧会が行なわれ、徐々に、向こうの批評家や研究者との交流ができますよね。例えば、名前が出てこないんですけど、タイの批評家がいました。言葉を使う人たちとの交流については、何かお感じになったことはありますか。
中村:確かにタイの大学の方がいましたね。
高橋:80年代の終わりから90年代にかかってくると、経済的に豊かになってきますよね。
中村:バブル期に。
高橋:そういう動きが大きくなっていく感じというのは、批評活動のなかでもお感じになったことはありますか。
中村:話が飛びますが、一つは、名古屋は現代美術の中心地だと言われたことですね。これはコレクターの問題ですけれど、そういう時代があったと思います。それから、例の森美術館の館長になった南條史生さんがICA名古屋の企画をしていた。ちなみに、86年のインド・トリエンナーレに一緒に行った交流基金のお役人は南條さんでした。
一同:あー。
高橋:それもあってICAでやったんではないですかね。インド・トリエンナーレの帰国展。
中村:具体的にどういう関係があるかは、はっきり覚えていませんね。
高橋:88年に名古屋コンテンポラリーアートフェアが始まるわけですね。
中村:そうですね。
高橋:そういうこととは別に、個人的に海外にリサーチに先生は行かれるようになっていくんですか。
中村:アジアに、ですか。
高橋:アジアに限らず。
中村:リサーチはむしろドクメンタとかそういうほうが多かったですね。
粟田:ドクメンタはいつぐらいから行かれているんですか。
中村:90年代初めぐらいからです。先ほどのアジアの美術批評をしている人というのは……。
加治屋:あ、分かりました。アピナン・ポーサヤーナン(Apinan Poshyananda)。
中村:そうでした。アピナンです。批評家はそれぐらいで、アジアではあまり美術批評が盛んな状況ではなかった。タイの場合はそういう大学の先生による批評があったけれども、ほかの国では、作家の人たちが美術について自ら語り合うという状況で、独立した批評がまだ確立していないと感じました。東南アジアではないけれど、それは当時の中国でも同じでした。そのアピナンさんとどういう意見交換をしたのか、今はっきり覚えていませんが、確かにただの作家的な言説ではなくて話が通じ、その後も少しコンタクトがあったのはアピナンさんぐらいでした。実際にどういうやりとりをしたのか思い出せなくて残念ですが。
高橋:日本の現代美術をアジアに紹介することと、向こうの作家を発掘して日本に持ってくるということを同時にやってらっしゃるわけですね。
中村:アピナンさんが紹介した人の展覧会を日本でやった記憶もありますね。
高橋:批評家としての批評活動と、コミッショナーとして展覧会のキュレーションをすることは、この時期ものすごくかみ合っている時代なんでしょうか。
中村:自分がコミッショナーとして選んだ作家については、当然ですが、評価するに値する対象として新聞や雑誌に書いたから、その作家を外国に紹介のために選んだということですね。でも、私の関心は主に個々の作家に向いていたので、インド・トリエンナーレの報告は書きましたが、トリエンナーレ全体の在り方について見解を述べたわけではありません。
加治屋:アピナンさんは、基金のアセアン文化センターでやった「アジア思潮のポテンシャル」というシンポジウム(1994年)で、アジア思潮、英語ではAsian Spritですが、これはアジアというものを単一化してしまうんじゃないか、と。日本が主導しているのが帝国主義的なんじゃないかとシンポジウムで発言していますね。
中村:ああ、そうでした。
加治屋:日本は基金が盛んに活動をしていて、いろんな作家たちの紹介をしてきました。これはこれで非常に重要な活動だと思います。先生がいま言われたように、西洋だけじゃないアジアの美術の歴史や考え方のをきちんと紹介しているとは思うのですけれども、向こうの人たちはどういうふうに受けとっていたのかなというのがちょっと気になっていたんです。
中村:なるほど。そのことを忘れていて申しわけありません。もういっぺん報告書を読み直さないといけませんね。先ほども言いましたように、交流基金がなぜアジア美術に力を入れるかには、少し引っかかるところがあったのは確かですが、個人的には欧米の影響力に対するアジア、そのうちの日本という意識が強く、「日本の政治的な意図のもとに」というつもりは自分の中にはありませんでした。でも、それにくみするおそれがなくはなかったと思います。
高橋:アジアの活動と同時に、北斎はどのあたりから著作の準備をなさっていたんですか。
中村:『北斎万華鏡―ポリフォニー的主体へ』を出版したのは1990年ですね。遡って言えば、1986年のインド・トリエンナーレとその本には、一つだけ接点があります。それは何かといいますと、『北斎万華鏡』に登場するマリオンという人物は、実は、インド・トリエンナーレにオーストラリア代表として参加した女性作家がモデルなのです。
加治屋:そうなんですか! 架空の人物かと思っていました。
中村:本当は、架空の人物です。彼女は日本に来たことも、北斎の絵を見たこともありません。それなのに、どうして『北斎万華鏡』に登場することになったかというと、日本に対してもアジアに対しても、北斎に対しても外からの目で見ることが大切だというのが自分の考えだからです。先ほどのミクロな視点とマクロな視点ではないけれども、外からのマクロな視点で北斎を見るということになると、まず外国の人の目で見る、しかも男ではなく女の目で見るのが相応しい。そういう目線を入れながら北斎を分析する。だけど一方でミクロな視点で北斎に密着して、北斎が歩いたところを全部ていねいに辿っていく。その両方の条件を満たすために、マリオンともう一人の人物が北斎を追いかけて歩く物語にしたのです。そのモデルはマリオン・ボーゲルト(Marion Borgelt)という作家です。後にオーストラリアの美術状況を見に行ったとき、彼女はシドニーで展覧会をしていました。オーストラリアのシドニー・ビエンナーレに建畠晢さんが関わったこともあって、オーストラリアにも何度か行きました。また話が外れて恐縮ですが、『北斎万華鏡』を出版したあとに、そのマリオンとは全く別のマリオンが現れたのですね。それがドイツ人のマリオン・ゼッテコルン(Marion Settekorn)という、目白に住んでいて、天理大学の先生をしていた人です。「あのモデルはマリオン・ゼッテコルンというドイツ人のことなのか」とか、「あれは美人だからな」とか変なことを言われた記憶があるけれども(笑)。それは北斎と全く関係ないことです。でも、いま説明したような理由でマリオンという名前だけは借りたのですね。
本題に戻りますが、『北斎万華鏡』の事の始まりは、北斎の《群鶏》という絵についての驚きの発見でした。私にはもともと、作品をじっと見ながらその物理的な成り立ち、つまり作品構造を見定めなければ気が済まないという妙な癖があります。でも、北斎については、面白い絵だなと心惹かれていろいろ興味を抱いてはいたものの、80年代のインド・トリエンナーレに行った直後ぐらいまでは、特に詳しく調べていたわけではありません。北斎画にはまってしまった原因ははっきりしています。その原因は、北斎が団扇に7羽の鶏を描いた《群鶏》という東京国立博物館所蔵の絵を見て気づいたことにあります。それを見ていると強烈な印象を受けるのですが、永田生慈さんとか浮世絵の専門家の人たちは、エキセントリックな絵だとか、どぎつい絵だとか、いろいろ書いているけれども、なぜそういう風に感じさせるのかには言及していません。それで、その絵をじっと見ていたら、どうも鶏の目に秘密がありそうだと閃いたのです。どうして7つの目がみんなこちらを見ているように感じるのだろうと、さらにじっと見ているうちにあっと気がついたのは、目の中心と目の中心の間の距離が等しいということです。それでコンパスを持ってきて測ったら、目と目の関係が寸分違わず正三角形になっていたり、二等辺三角形になっていたりしたのですね。いくら北斎が天才でも、この寸分違わぬ長さがフリーハンドで描けるわけはありません。だから、コンパスを用いた形跡は全く見当たらないけれども、コンパスによって目と目の間の強烈な緊張関係を無意識的に感じさせる工夫がそこにあると考えたのです。それが事の始まりです。それでほかの絵を見始めたところ、どう見てもコンパスと定規を使って設計しなければできないような構造が順次明らかになってきました。そのことと北斎の不幸な生い立ちの話などが重なって、私はだんだん北斎画にはまっていった。それが実情ですね。
加治屋:北斎の本は、補助線といいますか、幾何学的な図形が描かれていて、非常に驚かされました。あれは、作品を描く中から立ち上がってきたものなんですね。
中村:そうです。「あれは黄金分割だろう」とか、「天才の作品だから、あとからの解釈として分析してみるとそうなっているのではないか」とよく言われるけれど、それはあり得ません。つまり、前の線を引いて、それによって決定される交点に中心を置いて次の円弧を描かなければできないというような手順がほとんどなので、北斎は順を追って描きながら設計していったと考えざるを得ません。公式を当てはめて何対何になっているというような後からの分析とは違います。でも、あの北斎の本の執筆と編集をしているときは大変だったけれど、ある意味では非常に楽しかったですね。その当時まだパソコンも何もないので、いろいろな資料や手描きのメモなどを机上に並べて見比べるわけですね。絵そのものを分析した結果とか、現地を回って得た情報とか、それから北斎の生涯に関する逸話とか幾つかの構成要素がありますよね。それらが入り乱れているのを12の章にうまく配分して、ストーリーとして成り立たせる編集・構成の作業は、とても楽しかったですね。その出版を担当てくれたのが、『美術手帖』の編集長もしていた篠田孝敏さんという人です。その当時、テレビ放送がハイヴィジョンに変わるときで、『北斎万華鏡』は物語風にもなっているし、テレビの連続番組にしようという話が持ち上がったのですが、途中でプロデューサーが転勤になってうまくいかなかったですね。でも、現代美術のテレビ番組の話はあまり来ないのに、テレビ出演の話で来るのは、いまだに北斎関連が一番多いですね(笑)。
加治屋:やっぱり反響が大きいわけですね。
中村:北斎が一般によく知られているということもあると思います。
加治屋:僕が興味を持ったのは、等距離であるということを指摘する補助線もあれば、もう一つ、あれは『源氏物語』の絵巻かな、視線の移動といいますか、そういう補助線を引かれる場合もありますよね。それが面白いなというふうに思ったのですが。
中村:北斎も、実は視点の移動と関係があります。《神奈川沖浪裏》は、実際に描かれていないけれども、波が富士山に降りかかる動きを見えない円弧で暗示しています。でも、それだけでなくさらに、一方で、波裏を見上げていて、他方で、波が降りかかる舟を上から見下ろしているのですね。こういう描き方は、透視図法的な単一視点によるのではなく、異なる視点から見た部分的な風景同士をうまく組み合わせているわけです。その結果、「見ること」と「見ること」のせめぎ合いが生み出される。また先ほどの「間」の問題に戻りますが、それによって、一つの中心を実体化することなく、何かと何かの「間」に、固定的な実体ではない不変の何かを見いだすことができる。本当の意味での「抽象」というのはそういうことではないでしょうか。「超越」や「抽象」を実体化しない。色即是空みたいな話ですけれども、「ないけれどもある、あるけれどもない」といった次元の問題につながるような気がします。
90年に『北斎万華鏡』の初版が出ました。それから『ハイブリッド・アートの誕生 東西アート融合に向けて』(現代企画室、1996年)、そして『アート・ジャングル 主体から〈時空体〉へ』(水声社、1999年)。『北斎万華鏡』での私の考え方はそれらに受け継がれて、やがて『生体から飛翔するアート』に至ります。
加治屋:『ハイブリッド・アート』が96年でしたね。
中村:『ハイブリッド・アートの誕生』は、ご覧いただいたように、いろいろ書いたものを集めた評論集です。私の出版年代を追っていくと非常に複雑になりますが。これに関して言えば、現代企画室の北川フラムさんが力を入れてくれました。代官山で出版記念会も催されました。
加治屋:現代企画室はこれが最初ですね。
中村:そうです。
加治屋:これは英語の要約が入っていますね。国外の人も意識して英訳をつけたんですか。
中村:これにはフラムさんの意図もあったと思います。この出版記念会は大変な人たちがいっぱい集まってくれたので、私にとってはとてもありがたかったですね。
加治屋:何人ぐらいの方が。
中村:100人ぐらいだったかな。
高橋:ヒルサイドテラスでやったんですか。
中村:そうそう。それこそ愛知県美術館で前に館長をしていた浅野徹さんとか、そのクラスの人たちがいっぱい来てくれたので、よかったと思っています。フラムさんにはそういう意味でも大変お世話になりましたが、実はフラムさんも、私のことを良く思っていてくれたことが一つあるのですよ。それは何かというと、最初の「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」を見て、「朝日新聞」全国版の年末回顧――その当時は何人もの人が各5点ずつ推薦していたのですが――それに越後妻有トリエンナーレを取り上げたのです。それは、フラムさんも非常に喜んでくれたという経緯があります。
加治屋:これを出された後、『視覚の断層 開かれた自己生成のために』(現代企画室、2003年)を。
中村:そうなのですが、それは21世紀に入ってからですね。でも、その前にもう一つ言わなくてはならないことがあります。『生体から飛翔するアート 21世紀の〈間知覚的メタ・セルフ〉へ』(水声社、2006年)が出版されたのは、『視覚の断層』の後ですが、執筆はそれ以前です。青土社の雑誌『現代思想』の当時の編集者で、亡くなった人ですが、その人が私に「とことん書けるだけ書け」と背中を押してくれたのです。最初の頃は他のテーマでも書いていて、その執筆は1994年から95年にかけてです。それ以降、なかなか一冊にまとまらなくて、青土社からも出せなかったけれど、それを水声社が出してくれたのです。
加治屋:内藤(裕治)さんですね。一度お会いしたことがあります。
中村:内藤さんは、青土社から別のところに移りましたよね。
加治屋:『批評空間』に。
中村:『批評空間』に移って、そのうちに重い病気が分かって、亡くなったのですが。とにかく『生体から飛翔するアート』の元の原稿も、他の私の『現代思想』掲載文もまさに内藤さんのお陰です。どれだけ長くなってもいいから突き詰めて書くように勧めてくれました。
加治屋:それは、先生が書かれて、内藤さんもいろんな意見を出されたんですか。
中村:いや、内藤さんは個人的な意見を出すのではなくて、私が書いていることに興味を持って助言してくれたのです。その途中で「皮膚論」を書いているときに、谷川渥(あつし)さんも皮膚論に関心があって確か同時に掲載されたと思います。実は、谷川渥さんとは早い時期から縁がありました。『Art Watching』(現代美術編、近代美術編、美術出版社、1993、94年)の取材で二人が美術館を巡り、共著として出版したのです。
加治屋:あれは実際に美術館をめぐって。
中村:実際に作品の前に立ったとき、私たちはどんな体験をするのかということをメインにした本を出そうという企画だったのです。ただの説明的な作品写真を掲載するのではなく、写真を撮るときも、このあたりからこういう風にこういう目線でというように、私がカメラマンに指示したりして、テレビのディレクターみたいなことをしました。
高橋:話が前後してしまうかもしれませんが、テレビで思い出したんですけど、先生が名古屋の地元のテレビ番組で、美術の水先案内みたいなことをされていたのは何年代ですか。「テレビ美術館」とかでしたか。資料がないんですけど。
中村:逆に、皆さんにお聞きしたいことが一つあります。その映像が今も残っていますが、ベータなのです。どこかでベータをDVDに変換してくれる可能性があったら、今直ぐでなくてもいいので、お教えいただけると助かります。
高橋:90年代ではなくて、80年代の終わりぐらいの番組ですかね。
中村:だいぶ続きましたね。ちょっと見てきますね(席を外して、しばらくしてビデオテープを持って戻る)。日付がはっきりしないけれど、インド・トリエンナーレが出てきますね。
粟田:貴重ですね。
中村:インド・トリエンナーレの帰国展かもしれないですね。
高橋:そうですね。ICA名古屋で撮ってるんでしょうね。こちらは村岡三郎さんですね。
中村:村岡三郎さんも亡くなりましたね。
高橋:「アートギャラリー・ナウ」という番組。CBCですか、東海テレビですか。
中村:名古屋テレビのようですね。ここに、昭和61年(1986年)とありますね。
粟田:これは同じ番組なんですか。
中村:同じ番組です。1986年ですね。山口牧生、田中信太郎、村岡三郎など出てきますね。86年前後にやっていたのだと思います。これがインド・トリエンナーレですね。
高橋:見たいですね。
粟田:これは何分ぐらいの番組ですか。
中村:そんなに長くないと思います。一本20分ぐらいでした。
高橋:マスメディアが現代アートを取りあげていた時代なんですね。
加治屋:「アートギャラリー・ナウ」という番組は名古屋で放映された番組ですか。
中村:そうです。
高橋:名古屋テレビではないかと、いまおっしゃって。
加治屋:たしか峯村さんもこの時期、現代美術を紹介する番組をなさっていましたね。これは、先生が作家を選ばれた?
中村:目星をつけた展覧会に、カメラマンとアナウンサーと私が直接行って撮影するといった具合でした。村岡三郎さんの企画展をしたのは、岐阜の長良川の北の方でハチミツ屋さんが経営していた画廊です。
高橋:カメリアですよね。椿の何かですよね。ギャラリー何とか(岐阜市粟野東の「ギャラリーK&M」、村岡三郎展は1987年に開催)。
中村:そうでしたね。録画テープを放ったらかしているから、訳が分からなくなってしまってダメですね。
高橋:テレビ番組を業者さんに出して変換するのは難しいらしいですね。名古屋テレビ自身に聞くというのもありですかね。
粟田:テレビ局がちゃんと理解していないんですよね、その価値を。NHKをはじめアーカイブスの動きが多少見られ始めていますが。
高橋:そういうもので、地元でも「評論家の中村さん」というのは一般ピープルにも認知されるという時代ですよね。
中村:まあ、どれだけ広がったか、分かりませんけれど。
粟田:(美術)評論家連盟にはいつ入られたんですか。
中村:それも、すぐには思い出せませんね。
粟田:今は2人ぐらい推薦がないと入れないと聞いたんですが。
中村:そうです。でも、今度会長になった峯村さんが、なるべく若い人にも入ってもらいたいからと言って、それとは別枠でこちらから声をかけるようになりましたね。
粟田:そうですか。中村さん自身はどういうきっかけで入られたのか覚えておられますか。
中村:中原さんといろいろやり取りしているうちに、どうだ入らないかという話になったように記憶しています。
粟田:中村さん自身は、評論家連盟でのご活動みたいなものというのは何か。
中村:評論家連盟というのは、この前、椹木野衣さんも言っていたけれど、健康保険がありますよね。健康保険といっても文芸家と一緒の小さな組合です。メリットはそれぐらいで、連盟に入ったからどうこうということはあまりないと思います。最近は学芸員が多くなって、いわゆる物書きだけの人は多くありません。でも、一応インターナショナルなパスがありますよね。ただ残念なことに、それが国内で通用することは余りないのです。
粟田:それはよく聞きます。
中村:一応、私は常任委員ということになっています。
粟田:現在。
中村:そうですが、3ヶ月にいっぺんぐらい東近美に集まって事務的な話をする程度ですね。今年は結成60周年で、秋にシンポジウムを開催する計画です。
粟田:前のシンポジウムが、『美術批評と戦後美術』(2007年)という本にまとまっていますね。ブリュッケが出している。ではあれの続きですか。
中村:その後の状況の変化と美術教育がテーマになりそうですが、詳しいことは、その専門の委員会をつくって、そこで検討することになっています。
加治屋:90年代後半から2000年代にかけて書かれた本というのは、「私」とか「自己」というものに対する記述が増えてくるような気がしていましたが、先生は、それまでのお考えとの変化というのは感じられますか。
中村:最初にも言いましたように、もともといわゆるプライベートな自己にこだわるのではなく、個としての人間の真の成り立ち、つまり近代的自我に代わる外部に開かれた主体構造を再構築することに重点を置いていました。今の文部科学省の方針では付随的な教科になってしまっているいわゆる「美術」と呼ばれるもの、さらに「美術」とは呼ばれないものも含めてですが、すべての視覚的な表現は、開かれた主体構造を構築するために介在する人類の根源的な営みだと考えられます。木村重信さんの研究ではないですが、その営みは旧石器時代の洞窟に遺された手の跡から始まります。そういうわけで私は、80年代美術の傾向や最近の学生さんの作品のように、内向きの自分にこだわるのではなく、それとは違う意味で自分にこだわってきたのです。それからもう一つ、『最深のアート/心の居場所 実録・窮鳥はいかにして自己救済したのか』(彩流社、2005年)に書いたことは、自分の私的な出来事にこだわってそれをさらけ出したように見えるかもしれませんが、自分のことを通してむしろ「美術」の真相を分かりやすく語ろうとしたのです。「美術」あるいは「アート」というのは、金持ちの趣味や投機の対象で高値がつくといったことが重要ではなくて、遡って考えてみれば、人間が生きていくうえで根本的な役割を果たし、人間の生活や文化、つまり生存の根底にあるものだということを、なるべく自分に引きつけた仕方で分かりやすく書こうと思ったのです。辛かった自分の過去に触れたとしても、泣き言を言っているつもりはありません。あえて言えば、やがて消えてしまう自分に起こった悲しい出来事の記憶を忠実に書き残しておいてもいいかなという気持ちはありました。
私の仕事が、いわゆる美術の専門家――専門家とは何かということにもなりますが――と違う点があるとすれば、次の二つです。一つは、作品の構造分析を中心にすること。もう一つは、それを自分たちのこれからに結びつけようとすることです。前の作品の構造分析について言えば、浮世絵の専門家の人たちからはどうも無視されがちですね。批判はされないけれども、無視されるということはありますね(笑)。それと自分自身の生き方に引きつけるということは、一面では単なる私事のように受け取られるおそれがありますが、でも本当はそういうことを目的にしているわけではありません。
今の話にも関係しますが、それともう一つ美大の教育に関して言いたいことがあります。中村政人さんという作家が多くの人に美術教育についてインタヴューしたのをご存知ですか。
粟田:黄色い本(『美術と教育・一九九七』等)ですね。
中村:私もそのインタヴューに応じたのですが、90年代の話に入ったので、そのことも付け加えます。私は、90年代を中心に武蔵美の彫刻学科で特別講師として教えていました。91年から2001年までですから、約10年間ですね。その間に、日本画の学生にも教えました。
加治屋:芸術学ではなくて。
中村:芸術学ではなくて彫刻の実技の演習で教えていたのです。
加治屋:そうですか。
中村:私、実技は何もできないのですよ。それなのに、なぜ実技指導かというと、今の美大のシステムに問題があるからです。というのは、名古屋造形の例だと、午前中に講義の時間があって、午後に実技をする。講義は、講義の先生が美術史や芸術学の話をして、知識として教えて単位を取らせるわけです。それで午後になると、学生はそういう講義とは関係なく、講義はただ単位を取ればいいものとして、手仕事による技術を実技で学ぶ。だから、双方がうまく結びついていないのです。つまり、講義内容をただの知識として受け止めるのではなく、これから作品をつくるために、また生きるために考える手掛かりにするという、講義と実技のクロスがないわけです。そのことが美術教育の大きな難点になっているのではないか。それを何とかするには、一つは、講義の先生が実技の時間に入ればいいわけですよね。自分は何もできないけれども、つくる立場に立ちながら外からの目でつくる作業を眺めたり、制作中の学生と話し合ったりすることが有意義だと思います。例えば正三角形の作品をつくっている学生に「それをひっくり返して逆三角形にしたらどう見える?」と声をかけて他者の目で自分を眺めさせるなど、実際の制作に合わせて指導していけば、今までとは違う教育効果が生まれるのではないでしょうか。
それは展示に関しても言えるわけです。武蔵美に12号館という当時新しくできた建物があって、地下が展示室になっています。私はそこで展示の練習もさせていたのです。それを彫刻学科の学生を対象にしてやっていたら、内田あぐりさんという日本画の先生から「うちでもやってよ」と言われたのです。日本画の学生の作品をザーッと一列に同じ高さで並べるだけでなく、いろいろ高さや間隔を変えたり、キャプションの付け方やライティングを工夫したりすると、見え方がすごく変わるわけです。そうやって展示して、見られる状態にして初めて作品の完成なのだよ、と彫刻でも日本画でも教えたのです。美術館では、最近、大きなインスタレーションの作品展示が多いですよね。それもただのモノではなくて、見せ方や見る人の動線、キャプションの付け方まで含めて、その全体が作品だと考えるほうが正しいのではないでしょうか。その辺りも、ある意味では、単なる知識ではなくて、生身の人間の在り方に関わるということになりますね。そこまで含めて、自己というのか、自分にこだわることが大切になるかと思います。
粟田:中村さんを武蔵美に呼んだのはどなたですか。
中村:最上壽之さんという彫刻家です。
高橋:教えるということは、ある意味、先生の天職なんですか。生業でもあるけれども、教えに行くというのを何十年と続けていらっしゃる。
中村:結局、名古屋造形だけで、40年になりますね。あと武蔵美や多摩美、日大芸術学部にも行きましたし、最近は金沢美術工芸大学ですね。そのほか結構あちこちで教えましたね。そのときによって話し方は違うのですが、人数が多い場合はどうするか、嫌がっている学生に聴かせるにはどうするか、そういうことも課題としてありますよね(笑)。
粟田:非常によく分かります。
中村:それで自分にとって一番勉強になったのは、実は落語を聴くことです。
加治屋:落語の話し方ですか。
中村:私は、上野とか新宿とかの演芸場に時々行きました。今、一番記憶に残っている落語家は、実は古今亭志ん生です。200人ぐらいの学生がいて、ザワザワしているところに入っていく、ガラッと引き戸を開けて入るときの仕草でさえも、志ん生の落語は勉強になるのですよ。
粟田:なるほどー。
中村:う~~ん、ええ~っと、と口ごもって始めるというようなところも。
粟田:いいですね、参考にしたいですね。何か教え子で印象に残っている作家はいますか。たくさんいらっしゃると思いますけど。
中村:沢山いますね。でも直接名前を挙げるのは……。
粟田:そうですよね。
中村:実は、ウエストベス経営者のご夫婦も卒業生です。作家になった人も多くいますが。
高橋:物書きであることが、自分の肉声というか、話術をもってひとに伝えるということと併走して。
中村:そうですね。声を出して話をするのは健康にいいですよ。
粟田:武蔵美の彫刻は、確かに展示のことをすごく考えている作家が多いですね、最近。
中村:そうかもしれませんね。以前、所沢ビエンナーレに参加していて、前回は参加しなかった窪田美樹という女性は、私が武蔵美で教え始めたときに2年生でしたが、それから大学院まで行って助手になるまでずっと一緒でした。所沢ビエンナーレは、その武蔵美の流れの人が結構参加しています。彫刻といえば、最近は建畠朔弥さんが日芸で教えていて、私はその前の土谷武さんのときに教えに行っていました。この前、京橋の東邦画廊で日芸彫刻の卒業生の展覧会をやっていましたね
粟田:そうですか。今、日芸に教えに行っているんですが、それはちょっと見そこなってしまいました。
中村:建畠さんもわりにフレキシブルな教え方をしていて、素直にやりたいようにやらせて、でもアドバイスはするというような教え方をしているので、多様な作家が育ちそうだなという気がしています。
加治屋:だいたい生い立ちから現在の活動まで話をお伺いしたと思います。
粟田:覚えておられたらでいいんですけれども、さっき見ていた資料のなかで、70年代に、田村画廊と真木画廊でしたか、中村さんがご自身で書かれた文章がありますね。
中村:『表現のあとから自己はつくられる』の一番後ろに載っている文章ですね。76年に田村画廊のパンフレットに書いた「観念と物象が落ち合う場所」です。
粟田:そうです、これです。この本に収録されているんですね。
中村:コンセプチュアルアート系の作品は、一定の評価をするけれども、それが作為を制限し自己抑制していくだけになったとしたら、その先どういう展開になるのだろうか、というようなことを書いたのです。それを書いたときに田村画廊にいたのが北澤憲昭さんです。
粟田:「いた」というのは?
中村:そこでバイトをしていたのか、何をしていたのかはっきり分かりませんが、彼を見かけた記憶が確かにあります。
粟田:当時の画廊の小冊子が持っていた影響力みたいなものは、中村さんはどういうふうにご覧になっていましたか。
中村:どれだけ広がっていたか分かりませんが、作家周辺にはかなり読まれていたようです。そういえば田村画廊の山岸信郎さんの著書が最近になって出版されたことはご存知ですよね。
粟田:今、田村画廊の資料は国立新美術館が収蔵しています。
中村:それとは関係ないけれど、ちょっと恥ずかしいのですが、私を含めて3月9日に国立新美術館でこういう催しをすることになっています。
加治屋:山梨(俊夫)さんと青木(保)さん。おー!
粟田:豪華メンバーですね。
加治屋:カフェアオキというのがあるんですね。
粟田:新美に行くと、田村画廊の資料を閲覧することができます。
中村:ああ、そうですか。
高橋:座談? 鼎談?
中村:鼎談です。民博の仮面などを展示する「イメージの力」展に併せて、青木さんが『思想』掲載の私の「目と手が育む精神」を読んで、やりませんかということになったのです。
粟田:今も『思想』に連載中なんですね。
中村:先ほど見ていただいたのが第1章です。第1章から第5章まであって、これはその抜き刷りを集めたものです(第6章を書き加え、『いきのびるアート 目と手がひらく人間の未来』と改題して、2015年に法政大学出版局から刊行予定)。
高橋:90年代、2000年代、絶え間なく書かれていて、ものすごく濃密だと思うのですけど、さっきのアジア美術館など、美術館の委員会のメンバーをなさっていますね。90年代以降、各地域の美術館だとか、街づくり系の野外彫刻展とかいろいろな活動があったと思うんですけれども、先生は美術館とのかかわりというのは、何かエポックになることはありますか。
中村:収集委員会の委員は長年あちこちでしてきました。福岡市美や福岡アジ美でもしていたのですが、もう終わりました。最初にやめたのは愛知県美術館ですね。
高橋:任期がいろいろとあるんですね。
中村:名古屋市美と豊田市美の委員はいまだにしています。あとは「清須市はるひ絵画トリエンナーレ」の審査員ですね。
高橋:絵画の全国公募展なんですけど、結構いい作家が出ています。
中村:そこで受賞すると、次にVOCA展に推薦されてそちらに行ってしまうのです(笑)。
高橋:審査員とか収集委員の活動があったということですね。
中村:そういうことですね。これは実名を出せませんが、ある美術館の館長にという話がほぼ決まりかかっていたということがあります。
加治屋:かかっていたけど?
中村:断りました。
加治屋:それは、館長職はやりたくないんですか。
中村:そういう管理職的な仕事をするよりも文章を書くほうが自分に向いているということと、ちょっと地の利の問題もあって、予算はかなりある美術館でしたが断りました。
高橋:想像するとなんとなく分かりますね。先生は、美術館の状況もかなり見ていらっしゃって。評論家が美術館長になるというのは……。田中幸人さんは新聞記者でしたよね。
中村:そうですね。建畠晢さんとか。
高橋:何人かの評論家の方が館長になるとか美術館の運営にかかわられるのを見ていて、自分は一生教育者であり一生評論家だという思いがおありだったんですね。
中村:そんなに気張ったつもりは全然ありません。高橋さんのほうがよくご存知でしょうが、美術館の内情からすると、お役所仕事的なことが結構多いではないですか。端的に言えば、私はあまり煩雑なことに時間を取られたくなかったというだけのことです。
高橋:やっぱりお書きになりたいと。
中村:そういう気持ちはありますね。やるべき仕事はこれまでの続きで、哲学的とまでは言わなくてもどちらかといえば精神構造に関する理論構築で、それができればと願っています。
高橋:名古屋造形大の正式な退任、退職は何年になるんですか。
中村:東日本大震災のあった年の3月末です。
高橋:11年。その前、特任とか特別客員とかで1年。
中村:最後の1年間は特任教授でした。その理由ははっきりしています。もともと70年定年制だったのが、大学が私のときから年ごとに定年を一年ずつ早めようとしたからです。ただ、すでに雇っている人間を約束違反で辞めさせるわけにはいかないから、給料を下げて特任教授であと1年残しておくという、そういうことだったのです。
高橋:それをもって拠点をすっかり横浜のほうにお移しになったという。
中村:もともとこちらに仕事場があったので、そんなに大きな変化だという感じはないのですけれども、給料がなくなってみると、時間的にはたいしたことなくても旅費はかかりますよね。その程度の問題ですね。
高橋:名古屋にとっては、英樹さんが名古屋を去ってしまうというので、みんな泣いていたんです(笑)。
加治屋:どうも長時間にわたりまして、ありがとうございました。