前衛画家
1936年佐賀生まれ。1957年、福岡を拠点に結成された前衛美術集団「九州派」の創立メンバーとして知られ、前衛画家として活躍した。絵を描き始めた高校時代や岡本太郎が任された二科展第九室への出品、「九州派」結成から全盛期が語られている。本インタヴューは、長期にわたり「九州派」の調査を続けておられる福岡市美術館学芸員・山口洋三氏が2010年度ポーラ美術振興財団の助成金を得て行なった九州派資料集発刊のための再調査の一環として実施された。2015年10月28日より、21名の作家が紹介される「九州派展 Revisiting Group Kyushu-ha 戦後の福岡で産声を上げた、奇跡の前衛集団。その歴史を再訪する」が福岡市美術館で始まり、合わせて調査をまとめた『福岡市美術館叢書6 九州派大全』が刊行された。
山口:子供の頃から絵はやっぱりお好きだったのですか。
オチ:子供の頃から好きでしたが、絵を描いていたわけではなく、汽車とかに乗ったら景色を見るのが好きでした。そして、親父と乗っても、親父と話さないで景色ばっかり見ていました。それが動機になっています。
山口:例えばお父さん、お母さんが絵を描くとかそういうご家庭ではなかったのですね。
オチ:おふくろは日本人形の人形師で、そして親父はその人形のケースを作ったり配達したりしてあとはボランティアみたいなことをしていました。
山口:油絵を描くようになったのはいつぐらいですか。
オチ:油絵を描いたのは17歳です。絵描きになる動機になるのも、龍谷(リュウコク、高校)に、(佐賀県立)佐賀工業(高校)を落第した(受験に失敗した)んですよ。そして龍谷に入ったときに、よし、俺は絵描きになると思ったのです、ほかに道はないと言って。そして美術部に入ったのです。美術部に入って、僕は貧乏でしたから部費で絵の具買って絵を描いていました。そしてキャンバスなんかは、麻芯を買ってきて5分練って、ニカワでアヤヌカを塗って、枠組みも木を切ってアヤヌカ塗って真っ白のキャンバスつくっていました。
山口:画材もキャンバスもご自分で作っていたんですね。
オチ:作っていました。そうしないと家に金は無く、月謝も滞納気味で、僕に金をやる余地なんてないんですよ。
山口:では随分ご苦労されて絵を描かれていたんですね。
オチ:いや、苦労と思いませんでしたよ、みんな貧乏でしたから。そして、みんなひもじい思いをしていましたからね。
山口:県展なんかも出されていましたか。
オチ:佐賀の県展で、一番下の賞は何とか。
山口:入選みたいなのですか。
オチ:一番下の頑張れというような賞をもらっています。
山口:佳作みたいなのですか。それは高校生の頃ですか。
オチ:高校生の時に。高校生の時には、小城高校スケッチ大会で県知事賞もらっています。
山口:それで高校卒業されて。
オチ:多摩美大から、推薦すると高校宛てに手紙が来たのですが、金銭的に無理でした。おふくろが安永良徳の奥さんと知り合いだった関係で、玉屋デパート社長の弟が経営していた、福岡市地行にある小さなヨット工場を紹介してもらい、そこでペンキを塗ったりボートを運んだりするアルバイトを始めました。ここでヨットの乗り方を覚え、この経験から作品にもペンキを使うようになりました。その後、精版印刷(現在の凸版印刷)に就職して、そこに大隈さんという人がいて(後の映像部長)、彼が『VOGUE(ヴォーグ)』や『BAZAAR(バザール)』なんかの雑誌を資料として会社に取り寄せていたので、その雑誌で(ジャクソン・)ポロック(Jackson Pollock)を見るのですが、当時はポロックとは知らずに、これなら俺でも描けるぞと思いました。廃棄されたインクの様子がきれいだったので、そのイメージを作品にしてアンフォルメルやジャンクアートの先駆けみたいなのをやったのですよ。高校生の頃から日展、独立展、二科展を福岡のデパートに見に行って、二科展が一番よかったのでその頃から二科展に出品したいと思い、19歳の時に二科展に出品しました。それが二科の岡本太郎に推薦されて、九室に呼ばれたのです。岡本太郎はその時初めて九室を任されたのですよ。
山口:初めて出した二科展で、いきなりもう九室になったのですね。
オチ:はい、そうです。それで『美術手帖』を見たら、ついてる(載っている)ので「わあっ」と思って。
山口:びっくりされたでしょう。
オチ:初めてとった『美術手帖』に。そしたら友達が、「おまえ知ってとったんだろう」と言うんですよ。
山口:アンフォルメルというか、そういう海外の動向というのは、その印刷会社に勤めているときの。
オチ:『ヴォーグ』でした。
山口:『ヴォーグ』は雑誌ですね。
オチ:ファッション雑誌でしょう。
山口:そうですね。ひょっとしてそれはポロックの絵の前で、女性がポーズとっている写真ですか。(1951年3月号のVOGUE)
オチ:そうです。バックがポロックで。
山口:あれは有名な写真ですよね。そうですか。
オチ:有名かどうかは僕は知らなかったのですが、今でも知らないんですよ。
山口:それで、よし、自分でも描いて出してみよという気になったのですか。
オチ:いや、俺でも描けると思ったのです。
山口:実際描いてみた。
オチ:ペンキとコールタールを使ったのですよ。乾かないでね、1カ月ぐらい乾かずに。それまではみんな乾く絵の具ばっかり使っているものだから。
山口:コールタールを使ったのは、そのとき初めてですか。
オチ:コールタールは初めてです。アスファルトとは違いますよ。コールタールは一回きりです。
山口:コールタールは、石炭から作るのですよね。
オチ:はい。
山口:コールタールというか、油絵の具以外の画材を、もう高校生のときから使われていたのでしょう。
オチ:高校生のときには使っていません。
山口:コールタールを使おうと思ったきっかけはなんですか。
オチ:黒だったら何でもよかったんですよ。油絵の具は高くて当然使えないのです。それはもう印刷屋の現役だから金があったのですが、だけどやっぱりケチなんですね、全部使うわけにはいかないんですよ。だからコールタールに目を付けてやったらもう。でも結局は、二科に通ることになりました。僕は本当はファンシーな絵が好きだったのですよ。ところが、ドロドロで、こんなんで大丈夫かなと、でももうやった以上出せと(二科展に)出したんですよ。(ジョアン・)ミロ(Joan Mirò)が好きだったのですよ、黒いと。だから、あんなのに憧れていてポロックになってしまったんですよ。
山口:(資料を見せながら)こういうやつですよね。
オチ:はい、そうです。それは違います、ペンキだけです、コールタールではありません。もう1点がコールタールです。2点通っていますもんね。
山口:もう1点は《マンボの好きな子ども》でしょう。
オチ:はい。
山口:これ(九州派展図録、1988年福岡市美術館)に載っているのが《花火の好きな子供》とキャプションに書いてあるから、もう一点が《マンボの好きな子供》。
オチ:はい、《マンボの好きな子供》で、《花火の好きな子供》がコールタールです。
山口:そうか、コールタール、最初から使っているという……少し話ずれますが、新天町に「青の家」があったのは御存じですか。
オチ:木下新さんという兄貴と組むやつが行っていたらしくて、僕は、それを……ときに新さんを知ったのです。「青の家」は知りません。
山口:知らなかった、そうですか。
オチ:菊畑君も知っているんじゃないですか。
山口:はい、菊畑さんは行ったことがあると。そしたらそのとき、木下さんはもう既にそこにいて。
オチ:僕は、ちょっと奥手でしたから。
山口:桜井さんと会われるのは1956年に二科の激励会があったとき。
オチ:そうです。キャンプに行った帰りに会ったんですよ。キャンプだから髪をぼうぼうしているから、企画したのはシャレ者の絵描きだろうと思って、ナガハマという洒落ていて―二科は全部洒落ていたんですよ―ナガハマというの……洒落ているのにオチを見て声かけているんです。自己紹介するのに、自分がほんなら「オチです」と言って、桜井(孝身)さんが「おお、おまえがオチか」と言って来たんですよ。そして、その足で「俺のところへ来い」と彼は言ったのですよ。そしたら、「いいよ」と言ったら「電車賃は持っているか」と言うんですよ。「電車賃ぐらい持っていますよ」とぶ然として僕は言ったんですよ。
山口:それで二日市の方ですよね、当時、桜井さんのお家が。
オチ:はい。そして、終電まで青森のエンドウ豆の油みたいな水で飲んで、よく下痢もせんで。(笑)
山口:もうそのときに、グループで活動しようというお話は桜井さんはされていたんですか。
オチ:「何かやろう」と言って、グループとは言いませんでした。そして、すぐに九州派の結成に向かうんですよね。
山口:それが県庁のあの壁を使ったペルソナ展(福岡県庁西側外壁、1956年11月2日−4日)。
オチ:それは、九州派が結成されてからです。
山口:結成される前でしょう。
オチ:前ですか。
山口:前なんですよ。そのとき、オチさんと桜井さんと石橋泰幸さんと黒木耀治さん。
オチ:黒木耀治と石橋。
山口:4人。
オチ:結成していたと思いますよ。
山口:そうですか。いや、もっとたくさん人数が集まるのはその翌年なので。
オチ:ああ、その展はペルソナ展。
山口:ペルソナ展、そうです。
オチ:はい。九州派ではありません。
山口:そうそう。
オチ:はい。
山口:それで、その経緯なのですが、元々街頭で展覧会をやろうというふうに言ったのは、どなただったと覚えておられますか。
オチ:桜井さんと思いますね。
山口:「詩科」という詩人のグループがあったでしょう、「詩科」。
オチ:はい。
山口:桜井さんも入っている。
オチ:はい。板橋(謙吉)さん。
山口:ちなみに、オチさんは詩人の方とはあんまりお付き合いはなかったのですか。
オチ:僕は詩はわからん。とにかく仕事が印刷工というのはマイナーな仕事でした。だから、朝から晩まで仕事なんですよ。だから、絵を描くのが精一杯なんです、もう一日で描くんですよ。
山口:一枚を一日で。
オチ:はい、150号(ベニヤ二枚)を一日でとにかく描くんですよ。昭和30年4月から昭和36年3月まで製版印刷と大正写真製版印刷所に勤めていましたからとにかく忙しかったのですね。
山口:桜井さんが書いたものの中に、「誰が」と言ったのかちょっとわからなかったのですが、誰かみんなアイデア出して、みんな賛成するのは大したことないから、反対に4人のアイデアで一番みんなが反対するやつをやろうというふうなことを言った。
オチ:覚えがありませんね。
山口:そうですか。
オチ:それぐらいのことは、桜井さんなら言っているでしょうね。
山口:ということが書いてありました。
オチ:桜井さんはやっぱり何だかんだいって、行動の連携ですよね。そして、僕なんかはタレントでした、結局。みんな年上の人たちの話を聞いていて意味のわからない事を話しているので不条理に感じていました。
山口:桜井さんが、枠組みをつくって企画して。
オチ:そして賛同すればやる、賛同しなければやらないという、まだそんなに桜井さんも確信があったわけじゃない。だから、「おもしろいけん、やろうやろう。」と言うのが僕ですよ。
山口:県庁の壁を借りるというのを、県庁の方と掛け合ったのは、桜井さんか黒木さんかというのは覚えていらっしゃいますか。
オチ:いや、あれは当人同士じゃなく、誰か板橋さんかなにかが県庁にいたから、それを板橋さんがしているはずですよ、ただ、頼んだのは桜井さんでしょう。
山口:板橋さんが当時は県庁の課長さんだったということまでわかったのですが、やはり板橋さんが中で動いてくれて、壁を借りるということになったのですね。
オチ:うん。
山口:街頭展あと何回かありますが、そのとき全部、板橋さんが仕切ってやっているのですか。
オチ:街頭展は2回ですよ。
山口:この時と、翌年ですよね、プラカード持っているやつですね。(九州派展図録を見ながら)これ、このときでしょう。
オチ:はい。そのドンゴロスは僕がやろうと言ったのです。実際ドンゴロスなんか集めたのは、山内重太郎さん。そして野外展のタイトルも僕が考えました。
山口:このときに、結構たくさんいらっしゃいますよね。(資料を見ながら)これオチさん、桜井さんたちと詩人の方々だと思うのですが、こういう企画をやろうと言った時に、内容に対してはオチさんはあんまりお口出しはなさらなかったのですか、桜井さんの方が割と主導した。
オチ:そんなに内容は深くはなかったのですよ。やろうやろうという、何故やるかというようなことは一切ないんですよ。やるかやらんか、もうイエスかノーでした。そして、もしノーだったら敵でしたもんね。僕個人の中では誰もしないことをしたいと強く思っていましたね。
山口:やらないと言えないという感じですか。
オチ:はい。
山口:この(1回目の)街頭展をやる前に、オチさんは二科展に落ちているんですよね。
オチ:落ちています。新人賞をとろうと思って、マンガ風に描いた《汽車ぽっぽ》を出したんですが見事に2 回目は落ちて、そして二科をやめたんですよ。そして『美術手帖」見ていたら、(読売)アンデパンダン展は賞もないし、落選もない。これはいいねと、桜井さんにどぎゃんやって、このときは初めて僕がリーダーシップとって話したんですよ。桜井さんが「それはよか、やろう。」と言ったんです。
余談ですが、二科に落ちた後、岡本太郎から「今日の美術」(注:「世界・今日の美術展」日本橋髙島屋、1956年11月13-25日)出展しないかと招待状が届きましたね。それでまた《汽車ぽっぽ》新たに描いて銀座にあった京橋画廊まで持って行きました。このときが初めての東京です。瀬木慎一さんは僕の作品をノンフィギュラティーフと批評しました。
山口:アンデパンダンに出そうと言われたのは、オチさんだったのですね。
オチ:はい。それは二科に落ちた副産物ですよ。
山口:二科展、県展もそうですけど、普通の絵描きさんだったら、一回通って一回落ちたら、何回も出して、落ちたり通ったりというのを重ねたりすると思うのですが、オチさんはもう一回出して、一回落ちて、もうやめたとなった。あんまりそこにこだわりはなかったのですね。
オチ:そうですね。そして僕は二科の新人賞がほしかったのですよ。だから2回で勝負したんですよ。もう駄目だから、もう諦めたのです。それと会社の忙しさ、何か吹っ切れるものがほしかったのです。
山口:それでアンデパンダンに目を付けた。
オチ:アンデパンダンは、そのときはしょぼしょぼした展覧会でした。だから、九州派が火つけてるもんですよ。
山口:最初はそんなに過激な展覧会じゃなかったのですよね(注:読売新聞社主催第1回日本アンデパンダン展は1949年)。
オチ:はい。美智子さんなんか描いている展覧会でした。本当の意味で、いい意味でのアンデパンダン(無審査)だったですよ、あれ。前衛的になったのが、ちょっとおかしい話で。
山口:九州派が前衛的になってくるのと一緒ぐらいの頃ですよね。その翌年に「世界・今日の美術展」という、岡本太郎が企画に入って日本に紹介するという。
オチ:はい、展覧会に行って、飾り付けを全部させられました。桜井さん、僕、石橋。そして飯でも食わせるかと思ったら、「ご苦労」で終了で……なんだ、って。そして後でブーブー言うて(笑)。
山口:そのとき、岡本太郎と直に会っていらっしゃるんですよね。
オチ:会っています。
山口:その前に、九室に通ったときは岡本太郎と面識は?
オチ:会っていません。
山口:そのときは会ってないですか。
オチ:はい。仕事に追われて休みが取れなかったのですよ。
山口:そうなんですか。
オチ:こっちに(二科展が)来たときも岡本は(福岡に)来ていませんから。
山口:そうなんですか。
オチ:はい。そして美術館ではなくて岩田屋デパートで(岡本と)会ったんです。
山口:それは何のときですか。
オチ:「世界・今日の美術展」の飾り付けが終わってその後に、多賀谷伊徳さんと岡本太郎と3人で会い、このときが初対面です。絵にすごみがあるのに、こんな小さなやつだったのかと(岡本は)あきれていました。大きな男が描いた絵だと思ったそうです。後に朝日会館に講演を聴きに行きました。銀座画廊で九州派展をしたとき篠原有司男と岡本太郎のアトリエに迎えに行き、画廊で対談しました(註:「九州派展」1961年9月14―19日と考えられる)。
山口:「世界・今日の美術展」を手伝うようになったのは、それは誰からの、オチさん、桜井さんと。
オチ:それは多賀谷伊徳さんです。
山口:多賀谷さんからお声がかりがあった。
オチ:あの人が岡本太郎の一の弟子と自負されていましたから、あの人は前に「おまえたちは言うこと聞かんと、二科展にはよか目にあわんぞ」と(笑)。
山口:脅されているんですか。そのときに展示を手伝ったということでも、作品を間近に見られているんですよね、当時。
オチ:うん、ぜんぜん見ています。
山口:サム・フランシス(Sam Francis)とか。
オチ:はい。真っ白の大作で初めて見て強烈でした。
山口:そのときの印象はどうでしたか。
オチ:(カレル・)アペル(Karel Appel)が九室のとき(「第40回二科展」第九室、1955年9月1日―19日)に同室だったので印象深かったです。
山口:それは、やっぱり以降のオチさんの作品に影響ありますか。
オチ:ありました。時にサム・フランシスと(ジャン・)フォートリエ(Jean Fautrier)です。
山口:アンフォルメルというのは、その前から御存じだったわけでしょう。
オチ:『ヴォーグ』の雑誌で見てそれがあとでポロック特有の作品と知ったのですが、当時アンフォルメルという概念はありませんでした。だから自分の好きなものをやったのが結果としてアンフォルメルになるわけです。
山口:抽象表現主義ですよね。ところで、御存じだったのはポロックだけですか。
オチ:ミロ、(パウル・)クレー(Paul Klee)、阿部展也、河原温、今井俊満、山口長男、岡本太郎ぐらいですね。
山口:同時代の人というのは、あまり多くないですよね。ミロは当時まだ生きていますが、クレーはすでに亡くなっているし。
ところで、オチさんの作品というのは、我流ですよね。
オチ:我流です。先生がいないんですから、龍谷高校在学のときに、日展にしょっちゅう落ちている山口先生が僕の先生で、でも腕は確かだったんですよ、指導力はありましたね。僕が就職をすると言ったら、快く許して。
山口:山口何先生ですか。
オチ:山口勝(まさる)。この先生は良かったですよ。僕と同級で名村という絵描きがいたのですが、それと一緒に夜2時頃か3時頃に自転車で絵を担いて持っていったんです。そしたら、夜飯の後、克明に批評してくれて、ナシとかお菓子を出してくれて、それが楽しみでした。
山口:いい先生ですね。
オチ:いい先生でした。
山口:その先生の影響がやっぱり一番大きいですか、影響としては。絵のというより、受けた指導としては。
オチ:実際、具体的な指導ではなくて、ただ「やれ」と言った。そして、部活の費用を絵の具に代えても何にも言いませんでした。
山口:ちなみに、その当時、美術部って何人ぐらいいらっしゃったのですか。
オチ:美術部は5人でした。その中に(のちに九州派の作品や会場風景を撮影した)写真家の森永純もいました。
山口:少ないですね、全員で5名ですか。
オチ:5名。先輩がいるときには、そういうことできなかったのですよ。だから水彩画ばっかり描いていました。2年生になったら自由になる。実際、青柳という部長が影武者みたいにいて、実際は僕が取引していたんです。ただ自由になっていました。
山口:「九州派」がもうすぐ誕生するのですが、オチさんは、こうやって桜井さんといろいろ活動を始めて、アンデパンダンに出すということで、もう絵の道というか、もうこれで絵描きになるぞという覚悟みたいなのは、そのときおありになったのですか。
オチ:もうそうです。これしかないと思っていました。
山口:印刷会社には勤めてはいるけれども、そのとき。
オチ:それも4年で辞めるんです。
山口:4年しかいらっしゃらなかったのですか。
オチ:はい。それで食うに困るのですよ。だから、ますますアンデパンダンにのめり込んでいくのです。
山口:そうすると、職に就かれたのは何年頃になるのですか。
オチ:先に述べたように、ヨット工場に1年ほどと、製版印刷に昭和30年4月から4年間。大正写真印刷工場に昭和35年4月20日から1年間。京屋マネキンに昭和36年4月から1年半、そして他にも少し働いています。
山口:それで、いよいよ「九州派」を結成というか、若い画家の集まり、桜井さんを中心にいろんな絵描きさんたちも、オチさんを含めて動き出します。
オチ:それは九州派の桜井さんの影響もあるでしょうけど、全体のムーブメントに惹かれて来た人が多いと思います。ただ桜井さんの影響は確かにありますが、やっている結果を見て来た人が多いと思います。
山口:それはやっぱり、まず一番大きな結果としては、街頭であったペルソナ展ですか。
オチ:街頭のあれです。だから1回目のペルソナ展を見て、菊畑君なんかが来たんですよ。
山口:かなり話題になった展覧会だったのですよね。みんなショックだったというのがあるのですか。
オチ:ひんしゅくも買ったようですが、前衛に対して理解がなかったです。
山口:ペルソナ展をやった頃とかのその当時の福岡の絵描きさんたちの雰囲気というのが、僕はちょっと今想像がつかないんですけども。
オチ:ほかの絵描きさんというのは。
山口:九州派とは全然関係ない人たち。
オチ:はい。僕自身が初めて、だから二科の人たちが、米倉徳さんなんかはペルソナ展に遊びに来て、えらいダンディーなんですよ。二科は全部ダンディーで、だからあれになったらよかなあって、憧れを持っていました。
山口:もっと自由にやりたいみたいな感じだったんですか?
オチ:おしゃれに憧れていました。
山口:そうなんですか。
オチ:まだ18、19歳で哲学持つわけにはいかないでしょう。
山口:そうですよね、そんな歳ですよね。
(九州派展図録、福岡市美術館、1988年の掲載写真を見ながら)このときのこの写真は、これはオチさんの作品ですよね。「グループQ18人展」(岩田屋ホール、1957年8月14-18日)と書いてありますけども、これ全部オチさんの作品ですか。
オチ:「すだれ」ですね、僕のです。
山口:これどうなってるんですか、スダレの中に。
オチ:スダレに紙で貼り付けています。ちゃちなもんですよ、写真で見れば大したもんですが、でも今となればすごいですね(笑)。
山口:何でスダレを使ったんだろう?
オチ:よくこんな(写真が)ありましたね。
山口:これは、どなたの写真なんですか。黒田さんに聞けば分かるだろうけれども、オチさんの手元には、もうこのときの写真とか作品というのは全然残ってないのですか。
オチ:まるっきりありません。
山口:スダレを使おうと思い立ったとのはどうして? 何か不思議な感じするんですけれども。
オチ:もう即物的にやっていますね。めずらしいことをやろうと。印刷会社にいたときに、モワレといって印刷物の網点なので見られる現象なのですが、それをスダレで表現したんです。
山口:日常にある物を使うということですよね、それは。
オチ:その頃、スダレいっぱいありましたもんね。
山口:そこから、今度はアスファルトを見つけて。
オチ:レ・タッチHB(注:HBプロセス法、湿板レタッチともいう)といってヒューブナーブラインシュタイン(注:ウィリアム・ヒューブナーとブラインシュタイン)というオフセット(多色写真平版)の創始者がいるんですよ。そんなレタッチの部屋がありました。そしてそこにカメラがあるんです。湿板を作るのに硝酸銀を使うのです。硝酸銀を硝子から落とすために硝酸銀をアスファルトの桶で溶かすのですよ。それがやたらきれいなんです。これはいけるぞ、って思ってそれを買いに行きました。40キロですが、僕の体重は48キロしかありませんでした。でもそれを担いで会社の寮に持って帰ったんです。それがアスファルトの……。
山口:元というか始まり。
オチ:はい。だから、アメリカのシカゴから来たジャスティン・ジェスティ(Justin Jesty)が、石炭闘争と関係あるかと聞くから、「残念ながらそれはない」と言ったんですよ。
山口:彼も熱心に調べているんです。アスファルトの黒が三池の石炭とつながっているんだって、オチさんは一切そういうことは考えていらっしゃらなかったのですね。
オチ:むしろその誤解を僕は恐れているのですよ、もっと純粋培養な美術なのですよ。
山口:コールタールは、そのときも九州派のほかの人たちで使っていましたか。
オチ:使っていません。コールタールは、もう僕独自の、あんなのを使うのはやっぱり無理です。もう後悔しました。
山口:それは乾かないからですか。
オチ:乾かないからです。色はいいのですよ、流動性もあって、火傷もしないですね。だから、ドライヤーなんか使ってそんなことをしていたら大変だし、あれはもう二度としませんね。
山口:それでアスファルトを使い出して、九州派のほか人たちもみんな使い出すのですよね。
オチ:そうです。
山口:それは、桜井さんがみんなに広めたのでしょう。オチさんがみんなに広めた?
オチ:僕じゃない、やっぱり結果見てじゃないですか。そして、桜井さんが一番に取り入れました。そして、その影響で結果を見てのやっぱり結果論ですよ。
山口:できた作品を見て、ということですよね。
オチ:僕を先頭に、桜井さん、ほか一同という形ですね。
山口:そのときに、真似されたとか、みんな真似しているというふうに思わなかったのですか。
オチ:みんな年上でしたから思わないですね。全員自然な感じでやっていましたから。そして自分がきれいと思ったアスファルトがみんなの中に広まっていくのは喜びでした。
山口:みんなもう割と、自然とアスファルトを作品の画材として使うようになったという感じですね。
オチ:あの頃、盗作とか盗用とかいうのは一切ありませんでしたからね。版権なんてあってないようなものです。
山口:誰が先だったかなんてことも、あまり言わずに。でも結果的に、九州派の色というのが黒っぽい絵ばっかりになって。
オチ:そうですね、言われてみたらそうです。
山口:そうそう。だから、アンデパンダンなんかでも、九州派が出していると直ぐわかるのです。それは針生一郎さんが言っていましたが、「九州派は分かる、すぐ、黒だから」。そこら辺だけみんな黒い色ばかり出しているから、それで分かるんだと。桜井さんも同じようなことを言われた。自分たちが九州から来たということを示すには、全員色が黒になる、ちょうどいいんだと。要するに、一種のシンボルですよ。
オチ:それは後から言う話じゃないですか。
山口:後から言っているかもしれませんけど。
オチ:そのときは夢中になってやっているはずですよ。
山口:理屈はもうやっぱり何でも後からですよ、そのときはみんな多分あんまり何も考えずに一生懸命やられているんだと思うのです。
それで、2回目の街頭展がありましたね、さっきのむしろを被ってやっているやつですね。このときに菊畑さんの本の中に、このパレードをした後に岩田屋にみんなでどっと行って。
オチ:はいはい、行きました。
山口:そこでちょうど菊畑さんの個展があっていて、そこでワイワイやったということが書かれているのですけど。
オチ:いや、それはすぐ追い出されてました。
山口:すぐ追い出された。
オチ:警備の人から。菊畑さんところに行くのは行ったのですが、ちょっとの間おって。
山口:直ぐ出ていった。
オチ:うん。
山口:そのとき菊畑さんの個展は本当にあっていたのですか。
オチ:あっていました。
山口:あっていた、わかりました。その日にちが、なかなかわからない。
オチ:いえ、わかりません。菊畑のところにこちらも表敬訪問するつもりだったんです。独りよがりのいいところなんですよ。
山口:そうですか。こういうふうに街頭パレードをやろうやというのは、割と自然な感じだったのですか、そのとき。展覧会はこれですよね、こっちだけど。
オチ:これは誰が言うたわけでもないですね。
山口:むしろを被ると言ったのはオチさんでしょう、今さっき言われてるように。
オチ:被ろうと言うたのは僕ですが、実際に行動したのは山内さんです。
山口:これは、いつ用意されたのですか。この看板、持っているプラカード「アンフォルメル野外展」と書いてある。
オチ:立派な看板ですね、わかりませんね。
山口:これ、よく考えたら、前もって用意しとかないと無理ですよね。その場で用意できないですよね。だから、初めからやっぱりこういうのをやるつもりだったんでしょうか。
オチ:「アンフォルメル野外展」というタイトルは僕が桜井さんに伝えていました。ただ、鈴木召平さんがこういう文字はうまいんですよ。だから、ひょっとすれば召平さんの可能性がありますね。
山口:これを見て連想したのは、東京二科展は前夜祭なんですが。
オチ:はい。
山口:ご覧になったことありますか。
オチ:会費払って表まで行ったんですよ。そして、みんな蒼々たる面々で、僕なんか行っちゃあいかんと思って、会費だけ払って帰ってきました。それは二科展に二点通ったときです。だから、桜井さんがそのとき待っていたらしいんですよ。
山口:東京で。
オチ:いやいや。
山口:福岡でね。
オチ:はい。
山口:その二科の前夜祭のパレードというか、そういう感じもちょっとしたんですけど、何か雰囲気ちょっと似てるかなという気もしたんですが。
オチ:これは時期的に違うんじゃないですかね。
山口:時期的には全然違います。
オチ:はい。これもあんまり大きな声じゃ言えないんですが、桜井さん入ってから……
山口:俣野衛さんがこれでしょう。
オチ:うん。
山口:これもですか、ひょっとしたら、これ。
オチ:可能性ありますね。でも大っぴらに言う話じゃないんです。
山口:ああ。俣野さんという方は、九州派に入るまでは全然絵に関わったことはない方なんですか。
オチ:うん、そうです。
山口:でも、こういう人でも、こんな絵が、これもたしか二科に入っているんですよね。
オチ:だから、ポロック見て俺にも描けるて、岡本太郎が「誰にも描ける」という言葉を遺しとるでしょう。だから、ますます意を強くするんですよ。
山口:桜井さんも絵の教育を受けた人じゃないけれども、オチさんから見て、桜井さんて絵はうまいというか、どうでしたか。
オチ:だんだんうまくなられた人ですね。
山口:最初はそうでもなかったけど、だんだんうまくなった。
オチ:あんまりよくなかったです。足に水虫みたいな絵描いて、おもしろくもおかしくもないというような、最後あたりになったらおもしろく。サンフランシスコに渡った頃あたりは、すごく良くなっている。それはどうなったんでしょうね。
山口:どうですかね、ちょっとわからないですけども。
オチ:(作品をサンフランシスコから)持っては帰っておるですもんね。ただ奥さんとどういう関係になっとるかで、作品がどうなっとるかですよね。
山口:それで、いよいよ九州派として活動していくわけですけれども、オチさんは、割と九州派の中には運動を仕切るというか、どっちかと言うと絵の核心、造形的ないろんな素材、今のアスファルトもそうですけども、アスファルトという新しい素材を見つけたり、みんなとはちょっと違う、いつも新しい絵を描こうとされていた方だった思っています。
オチ:僕は運動にはあんまり興味なかったんです。結果的に、それを運動の行為になるのですが、僕自身はそういう考えはありませんでした。
山口:オチさんは、そこで絵が描ければいいというふうに考えてたんですか。
オチ:新しい絵が描ければ、ある意味で僕は九州派を自負しています。
山口:桜井さんと菊畑さんの間でよく主導権争いがあったと。
オチ:いや、そんなことはありません。桜井さんが全面主導権持っていました。
山口:割とでも議論があっていたんですよね。
オチ:うん。
山口:会合の時に。
オチ:後半ね、分かれる前は。
山口:その起こりというのは、要するにそれは前衛を公募展に出すべきじゃないということだったと思いますが。
オチ:それは僕の理論ですよ。それで菊畑君が、より過激にして寺田健一郎を追い出すということになりますね。
山口:オチさんは、そういうふうに思っていたんですね、前衛たる者は公募展なんか止めるべきだと。
オチ:止めるべきだというのが持論でした。内心不愉快でした。
山口:でも、九州派の最初の頃というのは、結構みんな県展にも出していたし、二科展出してた人も多かったと思いますけど。それは、いずれは止めるべきだというふうに思われていたんですか。
オチ:止めさせるべきだと思っていましたね。
山口:なるほど。今はやっているけど、そのうち全員それは止めようぜというふうに言おうと思っていたのですか。桜井さんはどういうふうにお考えになっていたんでしょう? 桜井さんは、割とその辺はどうでもいいという感じ?
オチ:桜井さんは、上野英信なんかのグループと付き合ってましたからね。
山口:「サークル村」ですね。
オチ:はい。だから、かなり闘争心はあったはずですよ。
山口:だけど、それは恐らく桜井さんという人は、団体に出している人も、二科展なんかに出している人も、そういうところから落ちこぼれた人たちも、全部すくい上げて、大きい一つのうねりをつくろうとしたというふうだったんじゃないかなと僕は思っているんですけども。
オチ:桜井さんはそうですよ。桜井さんは、かなり運動家でした。労働組合の第二組合にいった人は、ものすごく嫌がっていました。そして後半になったら命令する芸術なんか言ってますもんね、九州派後半のときには。
山口:はい、「英雄たちの大集会」もあったりするんですよね。
オチ:うん。
山口:今ちょっとサークル村の話が出たんですけれども、実際にそのグループとしてサークル村のその上野さんとか谷川(雁)さんとかと、桜井さんオチさん、特に桜井さんはおつき合いがあったんですよね。
オチ:うん。でも遊びに行く程度ですよ、桜井さんも。あの頃にどっぷり浸かるわけではない。
山口:全然出てきませんもんね、年表をこうずっと見ても。
オチ:そうでしょう。
山口:人間同士のつき合いはあっても。
オチ:ああ、谷川雁とは親しかったはずですよ。
山口:一度だけ講演会に呼んでいますよね。
オチ:うん。
山口:谷川雁さんと針生一郎さんと九州派の会合に呼んで。
オチ:そういうことありましたか。
山口:1959年に1回だけあって。
オチ:思い出しましたが、谷川雁さんが針生一郎を追及していましたが、桜井さんはかばっていました。
山口:でもこれは、どなたに聞いても、話の中身は覚えてないと言うんですよ。
今さっき言われた、前衛は公募展は止めるというふうになるんですけれども、あとオチさんは、今スダレの作品がそうですけど、生活から離れない場所で絵を描くという、それと前衛であるというのと、割と難しかったと思いますけれども、両方……。
オチ:前衛は、まず(福岡では)通用しませんでしたね。アンデパンダンで新聞に書かれるぐらいが、それで理由にされていたという感じです。そして、それに喜びもありました。そして、生活は絵描きじゃなくて、別のアルバイトで。
山口:分裂というか、生活はちゃんと仕事でやりつつ、でも、こっちで絵を描く、つまり前衛であるというのと、なかなか矛盾したやり方だったので、ご苦労はあったと思いますけども、その九州派の全体の特徴として、そういう大衆、普通の人の生活の部分から前衛を興していくという動きをみんながしていたと思うのですが、特にオチさんの作品はよくやられていたのではないかと。
オチ:働いても働かなくても貧乏でした。だから絵を描いただけ、今となれば得でしたね、作品は残っていませんけれども。山内重太郎さんには中洲に連れて行ってもらいお世話になりました。八百屋の店主がリンゴを磨き野菜をきれいにそろえ切り口を新鮮に見せて立派に商売をしているのを見てプロ意識を感じました。ここで僕は材料が安くても立派な作品はできると思ったのです。
山口:山内重太郎さんが奢っていらっしゃったのですか。
オチ:会社の社長さんでしたから、景気よかったですからね。(僕が)アメリカ行くときに白いネクタイもらったんですよ、結婚式用のを。(注:オチ氏は1966年3~4月ごろに渡米)
山口:そうですか。この頃の作品というのは、本当の全部とってないというか、アンデパンダン展だとか二科展とかもう展覧会終わると、その場で処分していたんですか。
オチ:桜井さんは持っていたんで。でも意外とみんな持ってますよ。
山口:そう、意外とみんな持ってるんですよ。
オチ:僕が持ってないだけで、あれってこんなになって、どこに、僕のあったらなあっていうのがいっぱいあります。本当どうやって保管したんでしょうね。
山口:うちで(美術館で)九州派の作品を飾ろうとしても、ほかの人のはあるけど、いつもオチさんのだけが無いのですよ。
ちょっと飛びますけど、九州派を一度抜けられ、洞窟派を結成する頃のお話。(註:オチオサム、山内重太郎、菊畑茂久馬が、1959年末に、九州派を脱退し、新しく作ったグループ。1960年に一度だけ銀座画廊でグループ展を開いたのみ。オチ、菊畑は後に九州派に復帰。)
オチ:誰が。
山口:オチさんが。
オチ:抜けてないよ。
山口:洞窟派。
オチ:ああ、洞窟派はね、あれも成り行きみたいなもんで、菊畑君にあおられたという感じですね。実際は自分の行動に責任持たんといかんのですが、あんまり責任持てる話じゃありませんでした、今考えたら。そして直ぐに戻っているでしょう。洞窟派にあまり熱気を感じなくなったので僕が最初に戻ることにしたのです。そしたら次に菊畑君、そして重太郎さんが戻りました。(注:山内重太郎は、このとき九州派に復帰していない)
山口:そうです、オチさん直ぐ戻っている。
オチ:みんなが、また直ぐ戻って。
山口:山内重太郎さんだけが戻らずに、菊畑さんも後でまた戻っておられるし。そのときは、今さっき言われた前衛である者は公募展を止めるべきだと。
オチ:その連続して洞窟派があります。何か責任とったというような感じでした。
山口:洞窟派は、山内さんが宣言文を読むんですよね。宣言文を読んで抜けるという、それは覚えていらっしゃいますか。忘年会かどこかの席上で宣言して、洞窟派を結成してやめる。
オチ:何かしましたね。山内重太郎さんが書いています。重太郎さんは、桜井さんにかなり何かあったのでしょうね。
山口:それって批判的だったのですか。
オチ:そこまで強いものはないんでしょうけど、ちょっと違う、えっというぐらいの。
山口:桜井さんという人は、割と誰でも九州派に入れよったとお聞きしたのですが。
オチ:そうです。とにかく大集団にしたかったんでしょうけど、やっぱり限界ある。だから、女の絵を描かないような高校生まで公募展に出しただけで入れてました。そして、丁寧にやっぱり一人の絵描きとして扱うのです。その点立派でした。
山口:誰でもかれでも引っ張り込むというのを見ていて、オチさんはどう思われていたのですか。
オチ:アンデパンダンですよ。
山口:アンデパンダン方式、誰でも出していい。
オチ:うん。
山口:そういえば「九州アンデパンダン」というのを2回やられていますよね。
オチ:西日本新聞社(講堂)で二度やっています。
山口:あれは何で2回で終わったんですか。
オチ:あれは場所がなくなったからと思いますよ。
山口:それが大きいんですか。
オチ:はい。
山口:講堂が使えなくなった。
オチ:ほかに適当な場所がなかったですよね、あんなきたない絵を飾るというのは。
山口:大きいスペースが必要だったのですね、たくさん画家がいるので。
オチ:やっぱり20人ぐらいはいたんじゃないんですか。
山口:アンデパンダン出した人は、九州派以外の人も入っているからもっといたと思います。
オチ:そう思います。
山口:ところで洞窟派の展覧会は、1回だけですよね。
オチ:1回だけやりました。そのときに、僕は《出張大将》というオブジェを30点ぐらい作ったんですよ。そして、そのうち15点をサトウ画廊の新人評論展出したんです(註:「オチ・オサム個展」1960年5月30日-6月7 日。オチを選んだのは中原佑介)。サトウ画廊に持って行くのかと菊畑君が寂しそうに言ったんですよ……。そこで瀧口修造さんが「よう、トレードしよう」と言われたが、僕は「何……」と言って相手しなかったんですよ。当時交換しておけば僕の作品は瀧口修造さんのところに残っていたでしょう。
山口:交換しておけばですね。
オチ:今になって。後悔は本当に後からするもんですね。
山口:オブジェをつくったのは、このときですか、それより前ですか。
オチ:オブジェは前ですね。オブジェを作ったのは日本では僕が最初と思っています。山口勝弘の《ヴィトリーヌ》、平面ですから。
山口:戦後で最初、ということ?
オチ:はい。チョウチンをつくっているんですよ。
山口:これですか。(「九州派展図録」の写真を見ながら)
オチ:よくこんな写真がありましたね。いや、でも、それではありません、それはチョウチンじゃない。それがもう一、二を争うぐらいのオブジェ。
山口:それは、チョウチンにアスファルトを塗ってある作品ですよね。
オチ:アスファルトです。チョウチンに穴を空けた目玉があって、チョウチンで顔と人体を表現しています。「読売アンデパンダン展」に2点出しました。(注:実際には、「第1回九州アンデパンダン展」西日本新聞社講堂、1958年4月20-27日)
山口:このときオチさんがオブジェをつくって、ほかの人たちもだんだん立体というか、絵画だけじゃなくて。
オチ:いや、立体は意外とつくっていませんよ。全部平面で、相当してから菊畑君が丸太を使い、それまでたぶん平面でしたね。
山口:そうですね。これ写真撮ったの、森永さんという方ですか。
オチ:森永純は僕の後輩です。美術部で、一年下。森永が撮っていますか。
山口:この中に森永さんが撮ったもの相当あるんですよ。まだ森永さんにお会いしてないんですけど、これもそうですよ、これ。
オチ:うわあ、懐かしいなあ。ちょいちょい頑張らにゃいかん今から。
山口:オチさんの作品は写真で見るしかないんですよ。これ床に置いたのは、何か場所がなかったので、ここに置いたって。(「第2回九州アンデパンダン展」1959年5月3-10日の会場写真を見ながら)
オチ:いや、それはわざとです。
山口:そうですか。一番最初からこういうふうに床に置こうと思って。
オチ:はい。その頃は龍安寺の石庭が頭にありましたから。
山口:でも、この絵はちっちゃいですよね。
オチ:ちっちゃいです。10号です。
山口:ちょっとまた話飛びますが、(東京)国立近代美術館の「現代美術の実験」展(1961年4月12-30日)に、オチさんと菊畑さんが選ばれたのですが、オチさんはこの時、作品5点出されているのですか。メモによると作品1から5と書いてあるので。
オチ:マネキンのカツラで《作品1~5》で1セットになっています。
山口:これはどういう作品なのですか。
オチ:展覧会が決まって制作を考えていたときに、たまたまマネキンのカツラを処分しているのを見たんです。すぐに、よしこれで行こうと決めて、岩田屋の安物売り場に行ってこれを買ったんですよ。
山口:これは何ですか、ここ。
オチ:みんなピンクのハンドバックです。ものすごいエロチックで。
山口:これ結構気持ち悪いですね。
オチ:いや、本当は、これは置き方が合わんで、こうなって、整然とせんといかんが、菊畑がこんなにやったんですよ。
山口:これ、展示は台の上にぽんと置いてたんですか。
オチ:近代美術館の今泉(篤男)館長が打ち合わせに来てくれて、展示用の台は3×6のベニヤ板に白く紙を貼るように決まったのですが、僕は仕事でどうしても東京に行けなかったのです。そのときは大阪・京都の出張があったのですが、東京へ行かせてくれなかったんですよ。やっぱり会社の都合なんです。
(オチ氏によるインタヴュー後日補足:少し後になるのですが、南画廊から個展の誘いもあったのですがね、当時カメラマンの森永純さんと東京に3年くらい一緒に住んでいたんですが、やっぱり仕事が忙しく制作する場所もなくてお断りすることになったんです。そして九州派の中で自分だけ個展をしていいのかという気持ちもありました。)
山口:やっぱり時間の問題ですよね、制作の時間がなかなかとれないっていうことでしょう。
オチ:強引にとればいいのに、会社に対してものすごく不器用なんです。絵は器用だけど。
山口:わかります。
オチ:つい怯えてしまって。
山口:それで、さっきの国立近代美術館のお話ですが、これにオチさんと菊畑さんが選ばれたことで、九州派のグループの中の雰囲気というのは、ちょっと変わったりしましたか。
オチ:いや、変わりません。
山口:変わりませんか。
オチ:本当、まさに変わらない。見事なものですね、妬くものなんか誰もいませんでした。
山口:この頃は、もう洞窟派結成とかがあったりして、九州派の人数が随分少なくなってきたと思うのですが。
オチ:全然、誰も減っていません。
山口:寺田さんもおやめになっていますよね。
オチ:あれは追放です。
山口:それから、斎藤(秀三郎)さんとか磨墨静量さん。
オチ:あれは、ありましたね。
山口:「グループ西日本」。
オチ:うん。あの後でしょう。そのときに何にもあっていませんよ。
山口:いや、一緒なんですよ、洞窟派が抜けるのと、グループ西日本で抜けるのは時期的に一緒なんです。だから一番過激な人たちと穏健な人たちが、二つともすぽっと抜けている。
オチ:みんな磨墨静量に呼ばれたのですか。
山口:そうそう、磨墨さんがグループ西日本のリーダーだったんですよね。
オチ:そして、何とかちゅうグループつくるんですね。ああそうか、あのときやめたのか。
山口:ちょっとまた飛びますが、1962年頃(昭和37年頃)覚えてらっしゃいますかね。九州派を立て直そうと桜井さんが、大集会のアイデアなんかが出ているのですが、その頃のことで何かご記憶ありますか。
オチ:僕は、アメリカ行こうと思って佐賀に帰っていたから事情はわかりません。
山口:そうですか。
オチ:はい。だから、大集会も佐賀にいて収入がないものだから、中原まで歩いて行ったんですよ。とても博多には届かないと思って、味噌ガメ持って途中から帰るんです。だから、大集会は不参加でしょうね、誰にも言っていませんが。
山口:そうでしょう、オチさんの名前ないですね、大集会に参加されてない。大集会をやるってことは御存じだったのですよね。
オチ:はい。来いといわれてもどうにもならない。前にも桜井さんのいる二日市まで(福岡市内の)赤坂門から歩いて行ったことがあります。赤坂門から大きなテープレコーダーを担いで、現代音楽を自分で作ってテープに録音したんですよ。途中でバイクに乗せてやるという人がいたんですが、断って16キロ歩いたんです。2時間くらいです。意外と足は早いんです。
山口:そうですね。けど16キロもの距離を担いでいらっしゃるから。
オチ:帰りは、桜井さんが金を出して、福岡まで連れて来られた。
山口:もうこのときにオチさんは、じゃあもうアメリカに行こうと思って活動されていたんですか。
オチ:もうアメリカ行こうと、桜井さんと。
山口:桜井さんとも話していた。
オチ:はい。もう早くから。
山口:そんなに早かったのですか。
オチ:はい。言うのは早かったのですよ。実行に移すまでには。
山口:時間掛かったのですか。
オチ:はい。アメリカも、アメリカンドリームの頃ですよね。
山口:結局、アメリカには桜井さんの方が先に行くんでしたっけ。
オチ:行く。そして僕が東京に行って、IMF(註:1964年に結成された国際金属労連日本協議会「IMF-JC」の現在の団体名、全日本金属産業労働組合協議会「JCM」を指すと思われる)の編集なんか手伝っていたんですよ。そしてその後、福岡電信にアルバイトで行って、寮にいたら桜井さんが来て、「アメリカに行くぞ。」と、そして「金持ちはな、使うても使うても金が減らんのが金持ち」と言って、僕に千円もやらんのですよ。新宿に行って、コーヒーだけはおごったが……。
山口:当初から行き先としてはサンフランシスコだったのですか、それともニューヨークだったのですか。
オチ:サンフランシスコです。桜井さんもサンフランシスコで、それを訪ねて僕もサンフランシスコに行きました。行ったら、「ニューヨークに行くけん、おまえついて来るか」と言う、「いや、もう俺はここでよか、ここで食えたら金半分やる」と言って、半分やったのです。
山口:その渡米のための準備というのは、お金はどうされたのですか。
オチ:絵を売って。最初、千円から始めました。千円から初めて2点つくって、3千円になって額縁を買って、1万円で売りましたよ。それでネズミ算です。
山口:それで資金を貯めた。オチさんは、アメリカ行かれて、どれぐらいいらっしゃったのですか。
オチ:4年です。台ふきしました。皿洗いしました。「二人展」もしました。二人展は2回しましたね。桜井さんがいる時に、「アメリカ九州派展」(サンフランシスコにおける「九州派展」)というのを1回やりました。
山口:桜井さんの近所に住まわれたんですか、当時。
オチ:同じところです。そして、僕は転々としましたからね。主にそうでした。
山口:僕は暫く前ですけど、サンフランシスコに2カ月行ってたんですよ。何年前かな、研修で2カ月間。だから、2カ月住みましたよ、サンフランシスコ。
オチ:よかところでしょう。
山口:いいところですね。
オチ:まだよかったんですよ。部屋に鍵かけんでよかったんですよ。ヒッピーが出てきたときはきれいでしたよ。ちょうどヒッピーの前にビートニックするものがあった。そして一斉に出てきたら、本当に野原に花がいっぱい咲いたようになりました。
山口:アメリカに行かれたときは、一番そのヒッピーの運動が激しい頃ですよね。
オチ:ギンズバーグなんかがテレビに出て、マリファナ吸うたりして。それでもテレビ局が車を用意して逃がすようにしているでしょう。
山口:アメリカに行って4年たったら、もう帰って来た頃は、九州派はもう終わってましたよね。
オチ:九州派はありません。
山口:もうアメリカへお発ちになる頃には、もう活動終わったっていう感じだったのでしょう。そうでもなかったですか。
オチ:そうですね。
山口:九州派はここで終わりだぞ、という感じはありましたか、それとも何となく終わったという感じですか。
オチ:やっぱりリーダーの桜井さんをなくしたら、引っ張る人がいなかったんじゃないですか。田部(光子)さんではやっぱり。個人的には立派だけど。
山口:引っ張れないんですね。
オチ:リーダーには……。サブですもんね、会計係で。
山口:渡米の話にちょっと戻るのですが、1962年頃、大集会をやる前後あたりから、アメリカに渡るという話を桜井さんともうされていたと。それはお二人だけでされていたのですか。
オチ:そうです、二人で話しました。大集会前にもう既に。言ったのは早いですよ。その時、桜井さんは実質的にもう計算があったのじゃないんですか。年金なんかのことも。僕は年金なんか考えるそんな余裕は全然なかったですね。
山口:桜井さんは、西日本新聞にお勤めだったからですね。
オチ:相当勤めていましたもんね。桜井さんは、あれでちゃっかりしたところあるんですよ。
山口:実質的には、1960年代の初めぐらいには、九州派はもう解散というか、ちょっと活動はもう終わったような感じでもあったのですか。桜井さんもオチさんもそうですが、九州派はもうこれで終わり、もう九州派は終わりだという感じっていうのをお持ちでしたか。
オチ:やっぱり「英雄たちの大集会」じゃないですか。「英雄たちの大集会」で。
山口:終わったというか、一区切りついた。
アメリカで九州派の活動って、要するに、オチさんと桜井さんが一緒に展覧会やられているのは。
オチ:桜井さんと「アメリカ九州派展」を一度やりました。
山口:要するに、現地の人たちですよね。
オチ:いや、僕と桜井、浦田(宗夫)というのと3人でした。それと僕は海外便で送らせた作品があるんですよ。それを飾って、九州派かなり充実していますね、だから。
山口:この人ですよね、浦田さんって。
オチ:そうです。
山口:浦田さんはアメリカの活動だけに参加されているんですよね。
オチ:そうです。この人と2回、二人展したんですよ。(「NEW ART GROUP SHOW 九州派展」1968年4月5日-5月5日 )
山口:はい。
オチ:ビルハムがオーナーの、アートサウンドディメンションシアターギャラリーというのがあったのですよ。そこで2回しました。それはかなりのものでした。一部持って帰って、福岡県立美術館(註:当時は福岡県文化会館)で展覧会やりました。宮崎準之助さんがチューリップの目の前に、自分の作品を見れと言って飾りました。
山口:結局、浦田さんはサンフランシスコの展覧会にしか参加してないので、実質的に九州派のメンバーではないんですよね。
オチ:でも九州に来て、大分遊んでいかれたのか、結局。(笑)
山口:この人が載っているのがすごく不思議な感じがして、ほかの人はよくわかる。
オチ:それは桜井さんのいいところですよ。
山口:だから、ほかの人たちとあんまり面識もないですよね。桜井さんとオチさんだけでしょうね。
オチ:そうですね。好奇心の強い男で、博打が好きで、しょっちゅう……行っていました。何か目と目が合うんですよ。そして会社をしょっちゅうサボって、「いやあ」って、もう何も理屈も何も言わんで行ってしまうんですよ。そして、すみませんでしたって……
山口:あとは、アメリカから帰ってきてからは、もうあと福岡にお戻りになってからは、オチさんは大体もうほとんど単独でというか。
オチ:個展です。
山口:球体の絵を描く。球体の絵は帰ってきてからですよね、アメリカから戻ってきてから。
オチ:いいえ、球体の原型はサンフランシスコで描いてます。当時の作品は、毎日新聞の田中幸人さんとフクニチ新聞の深野治さんに差し上げてます。
山口:オチさん、九州派に入ってなかったらどうなっていたでしょう。
オチ:デザイナーになっていたでしょうね。
山口:九州派はおもしろかったですか。
オチ:九州派はおもしろかったですね。やっぱり勢いでしたね。
山口:オチさんは、一番九州派のメンバーで親しかった人というのは、桜井さんとか、ほかにどんな方ですか。
オチ:やっぱり菊畑ですよ。別れるまでは菊畑が一番長かった。山登りをしたり酒飲んでみたり。
山口:歳も近かったというのはあるのでしょう。他の皆さん、結構年上ですもんね。
オチ:歳も私より一つ上で、そして、よく(菊畑氏の自宅のある)太平寺に遊びに行って、よく田舎やなあて思うて、それで僕は太平寺に(住むことになった)……。
山口:あと、オチさんが僕に、ちょっと2、3年前だったと思うんですけどもお電話いただいて、オチさんの作品を持っている方がいて、それは誰それさんですと電話が来て、ばあって言われたことがあったのですが、それは覚えていらっしゃいますか。そのとき、ばあってメモはしたんだけど、ちょっと。
オチ:それはもうわかりません。
山口:そうですか。
オチ:そして、あれはもう駄目でした。もう手放すような人ではありません。
山口:それは、これを持っている人でしょう。ここに載っている黄色い、ここ載っている人。
オチ:うん。これも絵の具じゃないんですよ、印刷インクなんです。
山口:そうなんですか、全部ですか。
オチ:はい。だから、ドライヤー入れとらんものだから乾かない、乾かんのですよ。小さいからいいようなものの。
山口:でも、そういう画材で当時は大きな絵を描かれていたんですよね、印刷インクで。
オチ:大きな作品は印刷インクは使っていません。読売アンデパンダン展に出品した作品はアスファルトとペンキです。ベニヤ板2枚をつないで額縁をつけて2セット。印刷インクを使っていました。ペンキ、ラッカー、エナメル、それとアスファルトですね。
山口:この絵って、こういうところってアスファルトなんですか。
オチ:いや、それはインクの濃淡ですね。そしてこの作品はすべてインクです。実はこの作品はもう1点制作していますが、無くしています。
山口:インク、ではアスファルトではないんだな。
ちょっと九州派の話と少しずれるかもしれませんけど、1976、77年頃、九州派が終わって、若い絵描きさんたちが出てきてから、村上勝さんとか高向一成さんとかとのつき合いというのは、ありましたか。
オチ:ありましたよ。
山口:当時、オチさんはまだ四十代の頃だったと思うのですが、そういった若い世代の九州派の下の世代の人たちが、新しい動きを。
オチ:むしろ、小山(正)、仙頭(利通)あたりが……。
山口:小山さん。
オチ:そして村上。村上なんて小山の子分みたいだったんですよ。そして、あれはもう一人誰でしたか。
山口:長谷川清さん。
オチ:長谷川もそうですね。さっき言われた喫茶店を経営していた男。
山口:高向さんですね。
オチ:高向。高向は僕に憧れていました。そして、あれはいっちょん作品つくってなかったんですよ。
山口:今言われた中で、割と深いつき合いだった人っていますか。
オチ:高向でしょうね。自分の店に連れていってみたり、そして展覧会の話をしょっちゅうくれてましたよ。
山口:割と後輩みたいな感じだったのですか、そのとき。先輩、後輩みたいな関係?
オチ:先輩後輩というの、やっぱり同じつきあいだけど、理解されていないという感じです。しかしそばに寄ってきていました。目立ちたがりで、周りの人脈も含め何か吸収しようとしていました。
山口:世代のズレというか、当時、この人たちはまだ多分二十代で、オチさん、九州派の人たちが四十代か五十代ぐらい。
オチ:連中から見たらそう感じたかもしれないけど、僕らは同等に、アンデパンダン方式ですからね。
山口:オチさんは、割とだから受け入れていたというか、温かく見ていたという感じですか。
オチ:でも実際的に受け入れても、向こうが拒否している部分がありましたね。
山口:違うことをやろうとしていたのでしょうか。九州派とは違うことを自分たちがやるっていう。
オチ:そうですね。
山口:ここら辺のことも調べているんですよ。高向さんとか村上さんたちのことまで。(注:2013年1月に「福岡現代美術クロニクル1970-2000」として実現。福岡市美術館・福岡県立美術館の共同企画)
オチ:村上は。
山口:村上さんは、しょっちゅう会うから。
オチ:小山のところに来た後、何やかんや案内状くれるけど、あんまり行っていませんね。
山口:そうですか。山野真悟さんは御存じでしたか。
オチ:山野、あれもつき合いがありませんね。
山口:そうですか。
オチ:飲み屋で一遍話したことはありますが、自分のことで精一杯で、おまえたちは自分でやれよ、俺もやるけんという感じだったですよね。
山口:そうですよね。
またちょっと、いろいろまた僕も今日聞いたお話持って帰って、いろいろやってみて、またわからないことあったら。
オチ:また来ます?
山口:でもいいですし、お電話差し上げます。
オチ:今頃やったらいいです。
山口:はい、わかりました。今日は長々とありがとうございました。
九州派はアスファルトが伝説になっているんですよ、今。
オチ:伝説。
山口:伝説。これに非常に政治的、社会的なメッセージがあると。
オチ:実際はそうじゃないのだけど、どうしてもそうなりますね。
山口:そういう意味付けというか、その当時の九州派が出てきた背景、その労働争議……まで一応そうだと思うんですけどもね。
オチ:三池と、ほとんど。
山口:一緒ですからね。
オチ:うん。
山口:その背景があるので、実際、組合運動されていた方も九州派に大分いらっしゃったし、桜井さんがまずそうだし、田部さんもそうだったし、でもオチさんはそういう運動というか、あんまり関係ないという立場でしたか。
オチ:僕は、だから共産党にも入るべきだったんでしょうけど、共産党は嫌いだったんですよ。だから、あんなに貧乏だったから共産党に入るべきだったんですよ。
山口:でも、あんまり政治的な方向への関心はそれほどなかったのですか。
オチ:ありませんでした。
山口:絵が好きだったのでしょう。
オチ:今でもそうですよ、民主党がワアワア言っている、だから画商が来て、「おまえも出せ」というふうに言うたから、字を書いたら震えて書けないんですよ。今字の練習しているんですよ。だから字の練習をしてうまくいくようになったら原稿用紙書いて、詩を書こうと思っています。
山口:そうですか。だから、やっぱりその当時の時代背景考えると、組合員もいたし、実際に三池の運動に関心を持っていた人もいたしというので、関係づけられることは多いのです。こちらにいるとそうでもないのですが、東京にいる人とか海外の人たちから見ると、そこはものすごく強く関係があるみたいに思われるんですね、僕もそれ時々聞かれるんです。
山口:もうそろそろ失礼します。長々とすみません。
オチ:また何かあったら。
山口:はい。