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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

関根伸夫 オーラル・ヒストリー 第2回

2014年5月3日

埼玉県志木市、関根伸夫アトリエにて

インタヴュアー:梅津元、加治屋健司、鏑木あづさ

書き起こし:鏑木あづさ

公開日:2015年3月29日

インタビュー風景の写真

梅津:それではよろしくお願いいたします。今日は細かい質問もありますので、お手元に質問票を用意しました。大雑把に聞きたいことをまとめておきましたので、逐一でなくても構わないんですけれども、それを見ていただきながらお願いします。
前回、年代的には《位相―大地》(1968年)の制作に関わるところくらいまでで、一旦終了になっています。少し遡るところもありますけれど、もう一度おさらいも含めて《位相―大地》に関わることからお話をうかがえればと思います。今、残されている資料等を見ると、ある段階で関根さんが須磨離宮公園の彫刻展の事務局に対して、こんなプランにしますというものをお出しになったという記録が出てくるんですけれども。

関根:それがね、かなりどこかで間違いじゃないかなと思うんですよ。私はやっぱり、公共の公園に穴を開けちゃうもんで提出してないです(笑)。

梅津:そうですよね(笑)。

関根:大体、それが許可されるっていう保証がないんですよね。絶対「それはやめてくれ」とか言われる制作不能なプランと思ってたので。しかも大地を2m70cmくらい掘り下げちゃうから当然、危険ですよね。したがって、これは事前に明かしたら駄目なプランだと初めから思っていましたね。それで以前話したように、仲間と東京駅の在来線で落ち合って、行く道中に説明したんだけど、これは絶対にシークレットだから明かすなと(笑)。

一同:(笑)

関根:何をやるかを明かさない。軽い調子で事務局へ行って「スコップ貸してください」と言って、それから始めようという気持ち。どこの場所とも、決定しないうちに僕らで場所と位置を決めちゃうと(笑)。

一同:(笑)

関根:だからゲリラ的にやることを、初めから想定してたんですよ。向こうへ行ったら非常に愛想よく普通の感じでやって。ある程度進んじゃうと、もう誰も止められないからね(笑)。それから事務局に知れてもいい、と読んでいました。だからあえて、事前に計画を出さなかった。

梅津:そうすると恐らく事務局にあったものはプランではなくて、例えば事務局が関根さんの過去の作品の資料を用意していたとか、あるいは会場設計にあたって全作家のプランを作らざるを得ないので、何か仮の作家から提出されたものではない形でのメモ的なものを。

関根:それはあるとは思う。

梅津:ご本人から事前にプランを提出されたというご記憶は、特にない。

関根:全然ない。むしろ……

梅津:むしろ出してはマズいと(笑)。わかりました。もうひとつ、今のお話では完全に円筒型のプランが明確になってから、作業を手伝う方にお話をされたと思います。いつの頃かはわからないんですけど、小清水漸さんが当初、お椀型に掘って、お椀型に盛るという話を聞いたと証言として残されている。それは形が固まる過程ということでしょうか。

関根:作業としては、お椀型に掘ってお椀型に積み上げる方が楽なのね。楽に作れるものと作品になるかは根本的に違うからね。円筒にするのは難しいですけど、古来から大地で円筒の遺跡が少ないように、私はそれが新奇に人の感覚を訴求する意識体と考えたんです。だから完全に穴の円筒形とその盛り上げた円筒形が、凸と凹の一対の関係を対比並列できるので「円筒」を選んだわけです。

梅津:なるほど。

関根:例えば立方体っていう話もあるだろうけど、立方体って角が出ちゃうのね。角を触れば皆、崩れるよね。しかも非ユークリット幾何学だから円筒形なんだろうね。厳密に凸と凹の一対が現出するよう考えたの。事前の考え方でもそうだし。しかも、どうして土が固まるかっていう話もね。前回したかな。

梅津:はい。

関根:したと思いますが、東大の工学部に電話したりね。自分の家の庭で、缶カラを使ってやったり(笑)。それから多少セメントを混ぜてやってみたり。一応、自分としてはパーフェクトではないけど、こうすれば固まるし厳密にやれるかを、かなり考えて実験しましたね。

梅津:わかりました。前回もちょっとお聞きしましたが、制作を手伝われたメンバーは吉田克朗さんと小清水漸さんと、女性の櫛下町順子さんと、上原貴子さん。関根さんを含めて5名ということでした。一応、確認も含めてそれぞれの方との関わりというか、最初のおふたりは大学を通しての先輩後輩の関係であったと思いますが、それぞれの方とのお知り合いの経緯は。

関根:その後、櫛下町順子さんは、私と結婚するわけね(笑)。だからガールフレンドであったことと、よく半立体の〈位相〉シリーズを手伝ってもらってたの。それから彼女も多摩美の斎藤教室だったから、作品もいっぱい作ってたんだけど、それで手伝ってもらった関係もあって連れて行った。それから貴子ちゃん。上原貴子。彼女は新宿にある椿近代画廊のスタッフだったんです。だから展覧会によく行ったり、そこで展覧会をやって親しかったことと。その頃かな、もう小清水くんとつき合ってたの。そんな感じ(笑)。青春真っ只中で可笑しくって面白いけど。

梅津:吉田さんは同じ油絵科で、恐らく学年は(関根さんより)吉田さんの方が下ということですよね。

関根:そう、小清水くんの方が吉田くんより下なのかな。私より2級下が吉田克朗。それで小清水はその下だったのかな。小清水くんは斎藤教室じゃなくて、彫刻科なの。

梅津:そうですよね。

関根:彼と出会ったのは、横浜にアトリエがあってね。横浜のアトリエっていうのは富士見町アトリエと言ったかな。いわゆるBゼミを始めたところね。そこに多摩美の1年後輩の大井妙子さんの家が所有していた木工の制作場を、私たちが使っていいことにしてくれたのよ。それで皆スペースを持ってないもんだから、そこに行って作った時代が約3年くらいあるのかな。そこの近くに、小清水くんは実のお姉さんの家に寄宿していて、そして偶然道でばったり出会って、それで飲んで(笑)。私どもとつき合うようになったんですね。

梅津:横浜のアトリエを皆さんで使われていたというのは、すごく重要な気がしますね。やはりお互いに刺激し合うというか。制作を物理的にお手伝いし合うということだけではなくて、学生を終わって作家としてやっていこうという時期に、集中的に皆さんで関わったというのは。

関根:よく使っていたのは、菅木志雄だよね。あと、吉田克朗。小清水くんはそこで作らなかったけど、手伝いはよくしてくれた(笑)。あと本田真吾とかね。その辺は下宿が近いし。あと大石もも子さんって、もう亡くなったけどね。彼女とか、大井妙子さんとか。吉田君の奥さんになった……苗字はなんて言ったっけ。そう、今のり子さんね。その人たちが入れ替わり立ち替わりそこへ来て、作品を作ったりしました。木工所だから、材木はあるしね(笑)。しかも富士見町のあの辺っていうのは、工具だとか材料を売ってる店がかなりあったんです。もの派が使うほとんどの材料は、その辺で調達できたわけ。だからもの派が本当に生まれたのは横浜だよって、私は言うんですよね。それを誰も調べて書いてる人はいないけど。

梅津:吉田克朗さんは学生が終わって就職したけれども、一か月で会社を辞めてアトリエに入りびたりになって(笑)。そこにいれば逆にアルバイトの話もいろいろ入ってくるので、会社は辞めちゃったけども制作しながら、そこでアルバイトの話をつかまえながらやっていたと証言されていますね。

関根:横浜に行くときはね、志木から通うのはだいぶ遠いんで、私は吉田克朗の下宿にしばしば泊めてもらったの。

梅津:前回も少しお聞きしたかもしれないんですけど、特に吉田克朗さん、小清水漸さんは公式の場でも発言を残しています。《位相―大地》の制作に関わったことでご自身も制作がしばらく手につかないくらい、ものすごく影響を受けたということをおふたりとも述べられています。関根さんからご覧になってみて、手伝ってもらった吉田さん、小清水さんの作品に対しての反応や、あるいは彼らがその後アーティストとして活動していく上での《位相―大地》の影響っていうのは、どんな風にご覧になっていますか。

関根:まぁそれは、なんていうのかな。《位相―大地》をやった後、やっぱり皆ある種のショックがあってね。ビッグバンだったからね。ものの存在性みたいなものを強調する美術っていうのが、あるんではないかと議論しましたね。ものの存在感を際だたせる方法論を何か考えるべきだとか。私が一番言葉が多かったかもしれないけど(笑)。でもそれを強調しなくても彼らもその時、同時に感じ取ったわけですよね。ほかに方法があるか、あんまり手段も方式も進展してないから。目指すべき方向性は見えたけど、まだ作品として自立させる方法論が確立してない。そういう潜伏時期が、半年くらいあったような感じですね。彼らもそう証言してる(笑)。

梅津:そうですね。吉田さんは、たぶん半年くらい作品ができなくなったという言葉を残されていて。関根さんと同じく絵画の出身で、少し違う傾向の仕事をされていたんですよね。物に関わる、あるいは物質に働きかけるというヒントをもらったとしても、どう作品化するかっていうところで、かなり葛藤があったと。恐らく小清水さんは彫刻科出身の方なので、また違う感触を持たれたんだろうと思うんですね。やっぱり小清水さんも100日とか半年とか、苦しみという言葉を使っていましたけれどね。「苦しみが続いたけれども、それが良い苦しさだった」というようなことを。

関根:そうね。やっぱり目指す方向は決まっても、いかに作るか試行錯誤する時期だから。彼らはそれが作品ができない時期と重なったわけですよね。ただ私にはね、それを悩んでる時間がなかったのよ(笑)。

梅津:(笑)

関根:なぜかと言うと、すぐ第5回長岡現代美術館賞展に招待されて、それをいち早く考えねばならない時間で、そればっかり考えてましたね。もう、即、作らねば状態でしたから。まぁ《位相―大地》もそうだし、その前の〈位相〉のシリーズもそうなんですけども。位相空間をテーマにするのは決めてましたけど、そして今回はスポンジを使うと前々から決めてたんですよ。可変性があって形態が非常に柔軟で、それでも基本的な構造は変わらないという。位相幾何学にとっては理想的な材料なので、それを使おうという風に思ってました。だいぶ考えてたんですけど、なかなか決まりが悪いんだな。スケッチしたりいろんな手法を試みたけど、どうも決定的な充足感が出てこない。
それで、ここにも書いてあるのだけど(注:『風景の指輪』)、その時期(司馬遼太郎の)『竜馬がゆく』っていう本に夢中になってたんでね(笑)。6巻か7巻くらいある。その本を読んだけれど、ある局面で坂本龍馬と新撰組が京都の町屋の路地で出くわすんだよね。お互い引き返すことも出来ない、その瞬間、うまい具合に仔犬がトコトコ歩いてきて、それを龍馬がすくっと抱きかかえて(注:正しくは、軒下で寝ていた子猫を抱きかかえて)、何にも言わずにスッとその大群を抜けたのよね。彼らにとっても準備万端整えて、いざ切りかかろうっていう瞬間に、そっと無邪気な行動を取られたことで、息を飲まれたっていうのかな。それでもって本質をはぐらかすじゃないけど、他の次元へ変換させるという、行動のヒントを与えられたわけよね。それで……自分が形態を作ろうとするから、スポンジでもうまくいかない。これは重いものを乗っけて、重力の力で歪ませよう……という風に、言ってみれば考え方が大きくなったわけですね(笑)。それで作ったんですよ。
それはかなり冒険した作品だと思う。しかも西武百貨店の特設の展示場だけど、会場に搬入するまで布ですっぽり隠しておいた(笑)。

一同:(笑)

関根:前日の下見会だったかな。審査員とか関係者がわっと集まって来たとき……パッと覆いの布を開けたんだよ。そうしたら真っ白で見事な、まだ作りたてホヤホヤのセクシーな作品が現れた。皆、ワッとため息が漏れたんだけど、東京画廊のおっさん、山本孝さんが大声で「おお、関根くんやったね!」と大声で握手を求めて来た(笑)。それを皆の前で大袈裟に騒いだから、ある程度、「これだったら決まりだな」と思って、公開審査の朝に母親に「今日は100万円もらってくるから……」と言ってました(笑)。「またそんなバカなこと言って」とか言われたけどね。審査は公開審査で長い話があるけれども。めでたく100万円もらいました(笑)。

梅津:その時、審査員が針生一郎さん、中原佑介さん、東野芳明さんと、あとヤン・レーリング(Jean Leering)。

関根:ヤン・レーリングさん。彼はオランダの美術館に勤めていたらしいね。

梅津:はい。当時、非常に活躍していた重要な評論家の方が審査員に入っていて、《位相―大地》の衝撃もあって、短い期間に《位相―スポンジ》で賞を取られる。非常に若い関根さんがやられていることを、当時の批評の世界の人たちが認めるというか。大賞の受賞には恐らく、そういうインパクトもあったと思うんです。
一方で《位相―大地》も含めてなんですけれど、関根さんがおやりになっていることに対して批評界、批評に限らないんですけれども、作家仲間がどういう受け止め方をされていたか。あるいはそれに対して関根さんご自身が本当にやろうとしていることを、美術業界の人たちはある程度きちんと理解できているだろうかとか、そういう作品の受け止められ方というのは、どういう風にご覧になっていましたか。

関根:御三家の批評家も含めて、そこの公開討論でだいぶ討議したけれど。彼らの誰が言ったのかな。柔らかいものと固いものの組み合わせとか。それから、ネガとポジとかね。なんていうのかな、誰でもわかる、つまり印象批評の域を出ないのよね。私は「こんな批評でいいのかな」と思ったわけ(笑)。彼らは位相空間の話もほとんどできないし、しないしね。そういう中で、印象批評のみがあって、何も言ってないって(笑)。そういう風に、私の深部では判断していましたね。だから「トリックス・アンド・ヴィジョン」っていう展覧会もかなり大きいけれど。皆トリッキーだとか安易な言葉を乱発して、かなり私は不満だったな。小清水くんがどっかで書いたね。「その頃、関根さんはイライラしてた」って(笑)。実際、イライラしてたね。

梅津:67、68年くらいに「トリックス・アンド・ヴィジョン」みたいな傾向ですとか、高松次郎さんの圧倒的な存在感もあって、それで《位相―大地》や《位相―スポンジ》が登場する。今から我々が振り返るといろいろと系統立てて考えがちなんですけど、かなり短い期間に相当な推移がある。それに対して受け止める側はどうしても「トリックス・アンド・ヴィジョン」であるとか、視覚のトリックを用いた傾向だとか。まだそれ以前のものの延長でしか受け止められていなかったという状況は、確かにあるかなと思いますね。

関根:だからあの時期、いちばん流動的な批評の前触れだったね。皆何かを感じながら、それをどうやって表現したら、それをどう言えば的確なのかを、かなり考えた時期なんじゃないかな。しかも、構わずよそ見をせず連続で発表していたからね(笑)。だから私にすごく関心は持たれたんだけど、なんて言及するのかわからない。いわゆる一時期は特定できない状態で、評論不能な状態だったよね。

梅津:当時の須磨離宮公園の彫刻展の後に出た雑誌の記事などを読んでみても、やっぱり《位相―大地》に深く切り込んで書いているものは、あまりないわけですよね。彫刻展全体のレポートの中で、ちょっと変わった作品があるとかそういう記述があったり。私もだいぶ後になって読んだんですけど、堀内正和さんが須磨離宮の彫刻展のことを何回かに渡って連載されていて、《位相―大地》のことをかなり詳しく書かれています(注:「彫刻の垣根」『華道』第31巻1号-5号、1969年1月-5月。『坐忘録』美術出版社、1990年に再録。《位相―大地》については連載第1回の「先鋭な姿」で言及されている)。それは割と、評論家とは違う。

関根:それはどういう書き方でしょう。私も読んだような気がするけど。

梅津:(『坐忘録』を見せながら)先ほど関根さんがおっしゃっていたみたいに、円筒形に穴を掘ってあの大きさで作るというのはとても大変なことで、「バカバカしい」みたいな表現も使われています。それをやるのは並大抵のことじゃないっていうような。やっぱり、作り手の側のリアリティで書いているんですね。その大変さを背負い込んでまであれをやるっていうことに、ある種の根拠があるというか。あれが小さかったら説得力がないし、違う形だったらまた説得力がないしという。割と踏み込んで書かれていて、それはやっぱり彫刻家という立場からの発言として、なかなかおもしろいなと思って。須磨離宮公園の出品作の中で、一番問題になる作品として真っ先に《位相―大地》のことを取り上げていて、須磨離宮公園の展覧会の全体をその時点で名前が出ている彫刻家と、新しい世代の考え方が混在している展覧会と位置づけた上で、もっとも問題になるのがこの作品だということを書かれているんですね。

関根:(読みながら)……結構熱っぽく書いてくれてるね。

梅津:そうですね。

関根:《位相―大地》っていうのは、なんていうかな。美術関係だけじゃなくて、非常に幅広い分野で多くの方が注目したね。僕も読んだことがあったけど、土方巽とか安藤忠雄がものすごい評価してるのね。あとは、誰だろう……数学の関係者とか楽焼きの楽吉左衛門とかね。私もそれで、原稿を書いたことがあるから。それとかお華関係の方とかね。私が知り得たのは、そんなもんでしかないけど。とにかく広い範囲で関心を持たれたのは、ちょっと特異な社会現象ですね。

梅津:そうですね。

関根:あんな簡単なことなのに(笑)。

梅津:(笑)

加治屋:先ほど出た《位相―スポンジ》の話を少しうかがいたいんですが。あれはスポンジの上に鉄板がありますけど、技術的にはどういう風な支えになっているんですか。

関根:中に円形の芯棒があるんですよ。誰が考えてもわかると思うけど、重い鉄板を乗せるじゃない。するとスポンジが歪んで、暫くするとひっくり返っちゃうよね(笑)。

一同:(笑)

関根:それをキープするために、結局重力で歪ませてるのは間違いないけれども、支柱があるわけ。だからその範囲にしか歪まないわけですよね。圧力が与えられ、中でそれを固定して倒れないよう、歪んだかたちで残るよう固定してあるんですよ。だから重力で歪ませるのは間違いないと思うけどね。でも正確にそうかって言われると、ちょっとなぁっていう感じ(笑)。むしろ歪む重力を象徴的に見せている構造なんですね。

梅津:作品として成り立たせるための構造は、ある種計画して作られているということではありますよね。だから本当に重さだけでやっていたら、どこまでいくかとか、斜めになって落ちてしまったりする(笑)。ただの現象になってしまうわけなので。仮に支柱があって作品的な構造があったとしても、視覚的にあれをみたときに何か打たれる感じというか。そこで何が起きてるか、ということが一瞬のうちにイメージとして伝わるわけですよね。それはそういう効果としては、十分に成り立っている。

関根:しかもね、外からは心棒は見えないようになってるわけ(笑)。

加治屋:そうですね(笑)。

関根:だから「え、そんな仕掛けがあるの?」みたいに言われますけど。「あったりめぇよ」って言えますね。

一同:(笑)

関根:いや、作品を成立させる舞台裏は必ずありますよ。どんな作品においてもね。それがみえみえだと興醒めだけれども、そういう仕掛けを感じさせない魅力と迫真力があれば。作家は見た感触がバーンと率直に伝わるべく仕組むわけですよね。

梅津:68年の秋に《位相―大地》で、長岡もその年の終わりくらい。批評界、美術業界がどういう風に《位相―大地》を含めて見ていたか、作品をどう受け止めていたかという状況があるわけです。そこで関根さんにとっても、あるいは動向としてのもの派の成立にとっても非常に重要な、李禹煥さんと関根さんとの出会いがありました。これはすでに私たちが確認できる情報からいくと、若干のご記憶のズレというものもあって。

関根:なんでそんなに記憶がズレるのかなと思うんだけど(笑)。

梅津:関根さんご自身は、椿近代画廊で出会ったことを書かれていて、李さんは確かオーラル・ヒストリーでシロタ画廊でという風におっしゃっています。その辺はかなり昔の話なので、とりあえず関根さんのご記憶で李禹煥さんといつ頃どういう風に会われたか。

関根:李さんと出会ったのは、私の記憶では新宿の椿近代画廊の1階だったんですね。入ってすぐの展示場ですね。李さんを全く知らなかったんですが、そこで彼に話しかけられたのね。「関根さんですよね」って言うから、「そうよ」とか言って(笑)。彼はいきなり《位相―大地》の話をしてきてね。今まで話したように、私は印象批評的な評論しか聞いてなかったから、この人は案外いける人だなって直感的に思いましたね(笑)。

一同:(笑)

関根:哲学的な言葉もいっぱい準備されているし、今までの印象批評とは全く違う。現代の哲学をバックグラウンドに持つ人だったな。そのときに「こういう人と共闘しなければ、我々の未来はないな」と冷静沈着に判断したんですよ。彼はその当時、日大の哲学科を卒業して言葉はちょっと舌足らずだけれど、やっぱり議論が非常にうまい。表明することや主張が、私と共感できたことがあるよね。立ち話をずっと続けたけれども、じゃあこれ以降は定期的に会う約束なって。西新宿のトップという喫茶店ですけど、それは李さんがアルバイトをしてるビルの喫茶店なのね(笑)。そこへよく通うことになりました。
私は可能な限り仲間を誘ったんですよ。何故かっていうと、美術大学を出た連中はみな、私も含めて言葉が足りないわけ。しかも当然ながら、語るベき思想的背景が整理されてない。彼らの思想訓練を是非やらねばと思ってね。やっぱり李さんに会わせて議論しようと。吉田克朗、小清水とか、本田真吾くんとかを誘った。菅木志雄くんは、何回かは来たかな。彼に聞いてもらわないと、あんまり記憶にないけど。それとか李さんの友だちの林芳史ですね。それともの派と関係ないけど、作家の郭仁植とかね。郭さんは日常的にそこの喫茶店にお茶を飲みに来る習慣だったから、李さんがいれば近寄って話しかけたし、一応そんな関係で。我々とはちょっと違う背景なんだけど、でも彼もなかなか素敵な人でね。話をすると興味深いというかな。それにも増して、林芳史という男は李さんに匹敵するぐらい知識があるのよ。彼は本当に哲学書を週刊誌のように読むくらいな男でしたね。しかも漫画に対しても詳しいし。その当時は早稲田の英文科だったんですけど、彼もよく参加しましたね。そのうち彼と私は親友になって、多くの問題を相談し合いましたね。
そこで、コーヒー2杯くらいは飲むのかな。3杯は飲まんと思うけどね。それでもって2時間、3時間議論するわけね。しかもよく考えると、68年11月から70年4月頃までですから、約1年6か月間ですね。まぁ李さんの発言がとうぜん多いとは思うけど。いわゆるもの派を理論化していく流れには、かなり寄与した会合だったでしょうね。李さんも哲学と志向性はある方向性を持っていたが、それをどう表現するかは難しい。美術とすり合わないその辺を、こう言うべきじゃないかとか。既成概念の言葉にはないものを持ってこないと、言い切れないから。それを探すのに仕草だとか、構造とか出会いとかね。それから、当時の文章を読むといくつか言葉があるんだけどね。そういう概念に対して、どう思うかとか。そういう内実をしゃべってましたね。
当時の日本の美術界は、今の状況とも近いですが、つねに影響が外来なんですよね。絶大な影響としては昔のパリがあったけど、その後、ニューヨークに流行が移りますね。それをいち早く取得した人が、評論として力を持ったりね。その影響下に、日本の美術界はどうしてもサラされるわけ。基本的には当時の学生運動も含めて、一番の課題は「いかに西欧近代主義を超えるか」ですよ。それは我々アーティストも美術関係も闘争の極みにあるのは、それなんだよね。卑俗な部分としては……日本の、なんていうかな。闘い方の基本とか、安保条約という平和とのすり合わせですね。アメリカが持ってくる軍備を拒絶することが、闘争の主流になっていましたよね。だから大きなテーマとしては、いかに西欧近代主義を超えるか。私ども現代美術も同根だったんです。
だから我々の議論の中でそういう話があって、当時の美術界が外来の美術に凌駕されているとか。身近にいたアーティストとして、ネオ・ダダの連中とも付き合う機会があって。彼らは親切にも美術界にデビューする方式まで教えてくれるんですよ。「あんたら、『Artforum』や『Art International』っていう雑誌を知ってるか?」って言うわけ。まぁ僕らだって見てますよね。そうしたらね「あんたたちが考えるから駄目なんだ」って言うわけ(笑)。余計なことを考えないで、ああいう雑誌を見て、これから何が流行ってるかをいち早く察知して、それのアレンジメントをしろっていうわけ。考えろっていうより、アレンジメントをやれと。「お前たちは、考えるから駄目なんだ」ってアドバイスされたのね(笑)。僕らはゾッとしちゃってね。「いやぁ、こいつらに任せられない」というのが当時の気分で(笑)。だからどう日本から発信できるかを中心に議論していましたね。

梅津:関根さんのご著書を拝見すると、キャッチフレーズとして「流れを変えよう!」とあります。

関根:そうそう。「流れを変えよう!」が合い言葉。

梅津:それが今おっしゃったような、日本の美術が欧米の輸入に頼っているってことに対しての「流れを変えよう!」。オリジナルなものを生み出したい、そういうことですよね。

関根:そうです、思想的にね。いかに西欧近代主義に反論するか、回答を用意しなきゃいけない。これは誰も用意してないよね。その辺で「日本から発信する新しい方法論は、どうしたら可能か」と真剣に考えました。当然、作品の方法論とか作る思想においても、参考になるのは日本の伝統的な美術がありましたよね。だから作庭法だとか、昔の建築様式とか、お茶だとかお華だとかの伝承作法など。なぜか知らんけど私は、「日本の伝統文化に親しむ位置」という、身近な、特異な位置にいたのよね。お華も空手も日本美術もやってたからね。とにかく、お華の伝統的な方式に関する本を読んだり、解説を読んでたりしてたから、一応日本の芸事の理屈は知ってたのね。しかも前回も話したと思うけど、京都・奈良にしょっちゅう行って。日本美術っていうのは、体の中に染み込ませていたからね。やはりそれを超えるには、日本の美術を参照するのがいい武器になることも話をしたし。それからどういう風にやれば、セレモニーとか仕草だとか。……何だろうな。言葉が次々には出てこないけど。そういうことを発言したり確かめ合ったのはありますね。

加治屋:ちょっと戻ってしまうんですけど。先ほどネオ・ダダの方たち、篠原さんが『Artforum』とか『Art International』を見ればいいんだと。そういう海外の雑誌っていうのは、どこで見られていたんでしょうか。たぶん個人では買えない時代だったと思うので、やっぱり大学でご覧になったりしてたんでしょうか。

関根:いや、彼らは大学にはあまり縁がないからね。丸善だとか、紀伊國屋(書店)とか、洋書を扱ってるところがあるじゃない。そこらで手に入ったと思うんですよね。それから、神田の美術書を扱ってるところが多少ありました。まぁ当時、あんまりポピュラーでなかったよね。見ることは非常に難しかったけど、それでも僕らの周りにも、それを持って来る人もいたりするから。全く無縁ではないと思いますけどね。ギュウちゃんとかネオ・ダダの人は、そういう雑誌をよく集めてたと思うんですけどね。だから、がっさり量があるんじゃないですかね。

加治屋:続きをおうかがいする前に。先ほど李さんとは、長岡現代美術館賞展、それは68年の11月にあったんですが、この数週間後に会ったと。

関根:いや《位相―大地》の1週間後に。

加治屋:そうですか。この時期というのは丁度、李さんは10月末日締切で『美術手帖』の芸術評論募集に「事物から存在へ」を投稿されています。このテキストっていうのは、ご覧になったことはありますか。

関根:私はね、それは直後には読んでない。

加治屋:あ、そうですか。

関根:ただトップで話をしてるときには、そのことをしゃべってましたから。わかります。

加治屋:実は「事物から存在へ」の中では『Art International』を参照したり、李さんが海外の文献をご覧になっているのが確認できる文章で。最近、静岡県立美術館の「グループ<幻触>と石子順造」展のカタログに、その時の文章が再録されたんです。そういう雑誌なんかをご覧になっていたのかな、と思いまして。

関根:そうでしょうね。まぁ彼はそういう世界の美術の趨勢みたいなものに、結構明るかったな。彼もいろいろよく見てるからね。まぁともかく、李禹煥に会ったらボキャブラリーが違うんで、私としてはすごく新鮮だった。議論できる相手だったし、美術を理論的に展開できる、そういう能力。それから私たちの新しい傾向を、いかに言語化するかにも腐心していたから、会話をすること自体が非常に刺激的だったですね。たぶん、お判りでしょうけど。オーラル・ヒストリーの中でも李さんが話してるのは、やっぱり飛び抜けて面白いからね(笑)。

加治屋:そうですね、非常に素晴らしいインタヴューになったと思っています。

関根:飛び抜けてるよな。やっぱりあれだけ吟味した自分の言葉でしゃべれるのは、稀な人だわな。

加治屋:そうですね。

関根:それだけ考えていることだよな。今はアレだもんね、もの派について彼が世界の窓口になって一番語ってる(笑)。それでなお、残念ながら誰かいないのかなと思うけど。英文の解説書、英文で読めるもので、もの派を語れるのは李さんしかないんだよね。評論で少しはあるよ。だけどまとまった形で見られるのはないね。だから彼の著書がそういう点で受けてるんだよな。結果的にはうん、すごい広報だと思うね(笑)。

梅津:李さんとお知り合いになって、関根さんが作家の知り合いの方も連れて来て、勉強会というか会合を頻繁に行われていて。先ほど《位相―大地》の制作のところでお話の出た吉田さん、小清水さんの他にも、もの派に関わる作家として、菅木志雄さん、成田克彦さん、本田真吾さん辺りも会合に加わっていたメンバーかなと思います。その方たちとの当時の関係というか、交流関係というのはどんな感じだったんでしょうか。

関根:成田くんは、私が高松次郎のアシスタントを辞めて、それから行き出した。会うとやっぱり、高松さんの話はよくしていましたよね。「あんな癖のある人はいないよな」なんて(笑)。高松次郎さんも議論が大好きだから。若いのを相手に議論するので、彼も参考になったと思うんだけど。でも成田くんは「最近は俺が教えてるんだよ」って生意気なことを言ってましたね(笑)。

一同:(笑)

関根:だからもの派の流れの中で高松次郎を評価してるのは、案外、成田克彦かなって思うけどね。まぁそんなことは書けないけど。言っちゃった(笑)。

一同:(笑)

梅津:私は成田さんが亡くなった後に調べ始めたんですけれども、他の方からも。当時の成田さんは年代的には割と下の若い方だったけども、ものすごく生意気だったそうですね。

関根:そうそうそう。飛び抜けてませてるんだよな。

梅津:そういうところがあって、すごいことを語っていたという風に、周辺にいた方からうかがったことがあります。

関根:私も彼と会ったのはよく新宿で。本当に、強烈なことを言う(笑)。一言で敵をやっつけちゃうようなことをね。

梅津:菅さんとの交流はどうですか。

関根:菅くんは、うーん。すごく会ったわけじゃないけども、さっき話した富士見町アトリエ。彼はあそこによく出没してたから、会えばしゃべるわけだね。菅は基本的には単独行動ですよ。それと、彼は多摩美で文芸部にいて。

梅津:柏原さんの後輩ですね。

関根:柏原さんとの関連もあって、柏原さんとしゃべれば菅くんの話になったりする。ただ、そうだな、菅くんはあんまり人と議論はしない傾向ですね。あんまり議論の好きな奴じゃないな。でもときどき痛烈な批判はしますけどね。

梅津:文章で言えば李さんは別格としても、菅さんはかなり初期の頃に書かれていますよね。

関根:書いてるよね。

梅津:そうすると、集まったときの議論はそれほどでもないんだけど、評論活動や執筆活動はその時期にもう平行してやられていたんですか。

関根:うーん、その確証はないね。ただ、文芸部だったし。そういう文章を書くのはできる奴だよ。それから現在も富岡多恵子と結婚しているように、非常に文学の香りがする方向が好きな感じでしょうかね。だから相当書けるんじゃないでしょうかね。

梅津:あともうひとり。当時重要なメンバーとして本田真吾さんがいらっしゃったと思います。後に鎌倉画廊でもの派の見直しが起きるときのメンバーからはいろんな事情で作家としては、自らはずれてしまったんですけど、本田さんとの交流関係というのはどういうものだったんでしょう。

関根:本田くんは、吉田克朗と同じクラスなのよ。彼も空手部だったしね。その延長で私の方にも関係あったわけ。当時、私は斎藤教室を盛り上げる企画、なんていう言葉が適当なのか、旗振り役をしてまして。いろんな企画を連続的にやり、その時に彼らをアシスタントとして使ったの。だからどこへ行けとか、どこと交渉して来いとか。例えば新宿にピット・インっていうバーがあったんだけど、そこで斎藤教室主催のハプニング大会をやったり(笑)。それも僕たちが企画してね。ハプニングを皆、考えるのよ。それを観に来る人を呼んで、出演するする人がいて。最後はパーティでお酒を飲むわけだけど、そういう会を後輩を使ってやったことがあるの。それは斎藤先生曰く、「展覧会だけじゃ、様にならないんじゃない」って言うもんだからさ(笑)。ハプニングなんてその頃は、耳慣れた言葉だったんだけど。ハイレッド・センターの記事なんかを読んでいたしね。いろんなところでハプニング大会をやったり、僕らも随分やったね(笑)。
これは斎藤教室の女の子たちが企画したんだけど、「都電を借り切ってその中で洗濯物を干すハプニング」。都内を都電で走る。車窓の内外に物干竿を干して、そこにダラダラ水が流れる洗濯物をヒラヒラさせながら、決まった都電のルートで走ったわけですね。

鏑木:ハプニングをなさっていたのは、学生の頃ですか。

関根:学生の頃ですよ。あとは芸大のグループと一緒だったんだけど、僕の後輩に芸大で岩田甲平っていうのがいて、最近亡くなっただけど。彼の企画イベントで全身を包帯をぐるぐる巻きにして、まるでミイラみたいな状態にして、みなで担いでそれを大きな木のところに吊るすハプニングだったんですけど。あの時は20人くらい参加したかな。そうしたらミイラの彼を担いで移動してる最中に、近隣で眺めている人が、僕らの不可解な行動を警察に通報してしまい、刑事に囲まれちゃってね(笑)。連行されちゃって、さんざん油を搾られた経験がありますね。そういうバカなこともありました。

加治屋:李さんがオーラル・ヒストリーで、新宿でガラスを割るパフォーマンスをやったとおっしゃっているんですけど、それはご覧になっていますか。

関根:私はない。

加治屋:そうですか。

関根:新宿で?

加治屋:ビルの建替か何かで不要になったガラスがいっぱい置いてあって、それを割るパフォーマンスをしたと。ただ撮ってた人もいるはずなんだけど、今は記録写真が残ってないとおっしゃっていました。

関根:えーと、そうだね。先日、私も映像を見せられてびっくりしたんだけど。1970年の前半の時期ですけど、ニューヨークのブラックウッドさん(Christian & Michael Blackwood)っていう人がね。

加治屋:ああ、はい。

関根:知ってます?

加治屋:映像作家の。

関根:うん。その人が日本の現代美術を取材するっていうので、1970年頃来たんですよ。その時にいろんなパフォーマンスを取材したの(『JAPAN: The New Art』1970年)。その一連でハプニングがあるかもしれないな。

加治屋:その映像は見たんですけど、あれは李さんが自分の住んでるアパートの前で。

関根:ゴムの作品じゃない?

加治屋:いえ、それもありましたかね。僕が見たのは石でガラスを割るっていうのを、道でなさっていました。あとは関根先生の結婚式の映像っていうのかな(笑)。それで始まる映画なんですよね。

関根:そうなんですよ(笑)。東野さんの企画立案だと思うけど、ブラックウッドさんから私らの結婚式の取材を申し込まれました。私たちも簡単にやろうと思ってたのに、「新しい日本の現代美術」の取材ですから、簡単な式では絵にならないから明治神宮でやったんですよ(笑)。しかも急遽、正式な神式でね。

鏑木:取材が来るから(笑)。

関根:そう来るから(笑)。それで結婚式は、彼らの思うがままにかなり近くにカメラを構えて迫真的に取材されました。あの時ね、彼らはいろいろ他の作家も取材しましたね。小清水くんたちも多摩川でパフォーマンスをやったでしょう。

加治屋:そうですね、ええ。

関根:あと、李さん。その後私も近くの平林寺というお寺ですけど、そこで油土を使って森の中でイベントをやりました。ちらっと李さんも映ってたね。

加治屋:ああ、そうですか。

関根:その時、彼らがわざわざ来てくれたんだなと思って。

一同:(笑)

関根:異様なんだよな。あのフィルムは異様っていうか、出だしは美術と関係ない(笑)。全く結婚式の場面から始まるんですよね。

梅津:学生時代に遡るのかもしれないですが、もの派に関わっていくメンバーも含めてイベントなりハプニング的なことをされていたっていうことは、あまり語られてない話です。

関根:ああ、そうですよね。

梅津:ちょっとおもしろいという気がします。それ以前の60年代的な、ハイレッド・センターなどに代表されるちょっと社会を撹乱するような傾向のものと、いわゆるもの派のやってること、ものと関わる、先ほど言葉として出ていた仕草ですとか。李さんも《位相―大地》について、それをひとつのハプニング的な視点で捉えるような文章を書かれているので、そこに同じパフォーマンス、イベント、ハプニングと言っても質的には全然違うタイプのものが、割と短期間に推移していくような感じがあって。人との交友関係も含めて、その辺はあまり知られていないこととしておもしろいお話だなと思います。

加治屋:多摩美の後輩や先輩との交流をうかがいましたけど、原口典之さんとか、芸大系ですと高山登さんとか榎倉康二さんっていうのは当時、お知り合いだったんでしょうか。

関根:基本的には知り合いだったね。まず原口典之は、結構ませてた男でね(笑)。銀座とかの画廊で頻繁に発表してたんですよ。私たちも行くとお酒を飲んでだいぶ議論する関係だったかな。結構おもしろい作品を作っていたから、それとなく私は注目してました。高山と榎倉は、誰だったかな。もの派のメンバーの周辺に親しい人がいたんだわ。そんな関係で連れてきたり、飲み会に現れたりしてそういう機会も多かったね。
ただ、こんなこと言っちゃっていいのかな。文章では削除した方が(笑)。高山がね、飲むと酒乱になるんだよ。だからある程度飲むと、彼からできるだけ離れないと、あとが大変なの。もう、絡まれて絡まれて(笑)。どうにもならない。だからどっちかというと高山は初めから敬遠されてましたね。榎倉もそういう傾向もあってね。彼らは飲むとすごいんだわ。だから芸大の連中の方がやっぱ酒飲みますね。付き合いが強烈です。

一同:(笑)

関根:芸大の連中はああいう、モッソリした男ばっかりだね(笑)。

一同:(笑)

関根:われわれのグループはほら、女性が入っているから、多少の気遣いがあるじゃない(笑)。穴を掘るんだって女性を連れて行ったり。だからちょっと違ったね。

加治屋:高山さんとか榎倉さんは飲み会でお会いになったということですが、作品をご覧になったりしましたか。

関根:ええ、ありましたね。あの当時は芸祭のときは、作品展示もあったし、結構行き交う関係が強かったからね。お互いの美術大学へ行って一緒に楽しんだり騒いだり。そういう雰囲気が当時はあったよね。彼らが来たり、僕らが行ったり。武蔵美の人が来たり。そういう交流がありました。

梅津:高山さん、榎倉さん、原口さんを含めて、多摩美だけじゃなくて芸大や日芸の主要な作家の方たちのお名前が出ましたが、当時は田村画廊とか皆さんの拠点になっていた場所もあって。関根さんは逆にあっという間にスターになってしまうというか。東京画廊で個展をされたりして、他の作家の皆さんが公募展に出して落選を繰り返したり、あるいは田村画廊のような所を頻繁に使っては発表されたとは、発表の現場が違っていたのかなという風に思うんです。その辺、もちろんご覧にはなっていらっしゃるんですよね。お知り合いの方の展示をずっと目撃して。

関根:もちろん。田村画廊では仲間が皆やるもんで、しょっちゅう行ってました。吉田克朗、本田真吾とかも、いい展覧会を開いたんだよね。菅木志雄は何回もやってるはずですよ。

梅津:過激な、よくこんなことができたな、と感じます(笑)。

関根:そう、そういう自由があったからね。画廊に穴を開けちゃったりね(笑)。

梅津:水を飛ばしたりとか(笑)。

関根:田村が一番、そういう意欲的なものを受け入れてくれたかな。

梅津:山岸(信郎)さんの影響力というか。やっぱり若い作家の中でも存在感みたいなものはありましたか。

関根:すごくあったね。僕らに対して自由というかな、難しい展示をやる作家でも受け入れた人だったね。なんていうか、作品のキャパシティーが広がったと思いますね。山岸さん自身がいろいろ本を読んでいて、考えていて僕らに議論を吹っかけてきたりね。タジタジになるくらいに自分の論理を展開したというかな。今はどうされてるの。あぁ、亡くなったの?

梅津:ええ。著作をまとめられた本(『田村画廊ノート』竹内精美堂、2013年)が出版されたりとか、関係の資料が国立新美術館に少し入ったりしています。私も少し調べてはいるんですけど。

関根:それは良かったな。彼の果たした役割は大きかったと思いますね。当時、傍観的なギャラリーが多い中で彼の意識っていうのはね。一回、小休止しましょうか。

(休憩)

梅津:それでは改めてよろしくお願いします。今、質問票の2枚目の後半辺りにいっています。作家仲間の方についてもお話いただきましたし、林さんのことも先ほどお話が出てきました。石子順造さんのことは前回の幻触の話題のときに多少お話をお聞きしていますし、横浜のアトリエのことや新宿での会合のこともお話をうかがいました。
今から振り返って、当時はまだその言葉がまだはっきりしないにしても、動向としてのもの派というのがある程度現象として見えてきやすいものを、私の方でいくつか挙げてみました。その辺のご記憶や関わりでお聞きしたいのが、70年に関根さんを編集責任代表者として『場・相・時:open』という本が出版されていたり、『美術手帖』のよく引用される座談会(「〈もの〉がひらく新しい世界」『美術手帖』第324号、1970年2月)ですとか、71年には李さんの『出会いを求めて:新しい芸術の始まりに』(田畑書店)が出版される。
70年、71年くらいは作品の動向に対しての批評的な言説を含めて、運動体としてのまとまりみたいなものがある程度見えてきている時期かなと思いますが、その辺りのことに関してお聞きできればと思います。

関根:まず『場・相・時』という小冊子ですけど、これは私がヴェニス・ビエンナーレに行くのを機縁にして、確か李さんたちとしゃべったときに、何か作って持って行ったらというので早速、編集したんですね。確かライターがジョセフ・ラブ(Joseph Love)さんとかですね。それから李さんは書いてたっけ(注:李禹煥は「即の世界」を執筆)。私は書いてないのね、時間もなかったし。当時あった写真をパッと集めて、バッと編集しちゃった感じですね。これを私、ヴェニスに行くときに何百冊か持っていったのね。それで会場で配ったが、あんまり効果はなかったね(笑)。なんか観客は全然食いついてこなかったですね、まだ世間は興味持ってなかったしね。白黒のこんな、ローカルなものだから。これによって何か質問された事実もない気がする。

加治屋:これは『場・相・時』(ば・そう・じ)なんですね。「とき」かなと思ってたんですが。

関根:「ば・そう・じ」だね。

梅津:読みは知りませんでした(笑)。

関根:『美術手帖』の「〈もの〉がひらく新しい世界」。これはその頃、福住治夫さんが編集長だったんですね、その話を持ち込まれて。我々も自分たちが発言する機会もなかったし、チャンスだということで。皆、嫌々ではなくて意欲的にやったはずですよ(笑)。内容については皆さんかなり読まれたから、質問もあるんでしょうけど。その後、李さんと菅くんが編集校正をやったみたいで。私なんかは、発言してそれっきりだった(笑)。

梅津:この『美術手帖』の最初のところに、《位相―大地》の木枠が外されるインパクトのある写真が使われたりして。《位相―大地》を起点に新しい表現の考え方が出てきたという、記事の作りとしてはかなり明確な気がします。

関根:未だにそれが影響してるよね。

梅津:そうですね。

関根:もの派っていうと、あの《位相―大地》から始まるみたいに。誰も決めてないんだけどね(笑)。

一同:(笑)

関根:そういう風な扱われ方が多いですね。多分にこの特集が影響を与えたんだと思います。李さんの『出会いを求めて』は、西新宿のトップでしゃべった集会が、ある程度ベースになった気が私はしてます。そのとき李さんのこなれない文章に対して、理論的なものやヒントをバンバン与えたのは、我々なんですけどね。ただこの本では非常に哲学的な見地を強く出しているし、この中で書かれている関根伸夫なんて、ものすごい行者か哲人になっていますね。

一同:(笑)

関根:なんか、天才か悟った人か。悟者(ごしゃ)っていうか。そういう哲人に思えちゃってね。すげえなぁって(笑)。

一同:(笑)

関根:その当時私はミラノにいたんです。その本が届いて、李さんには返礼を「現実に生きてる関根はどうすればいいんだろうな……」って書きましたね(笑)。あまりにもすごく哲人に書かれているから。なかなか自分の現実と合致しなくて、ひたすらその後を考えましたね。

梅津:今、ミラノの話が出ましたけど、また短期間の間にかなりいろいろなことがあって。69年に東京画廊で《空相―油土》がありますね。作品のタイトルにしても《位相―大地》、《位相―スポンジ》、それ以前の〈位相〉のレリーフから引き継いでいる“位相”に対して、シリーズとして“空相”という言葉が、ある種コンセプトとして打ち出されています。油土があり、柱に石を乗せる〈空相〉のシリーズへとつながっていきますが、《空相―油土》という作品の出来上がり方などをお聞きできますか。

関根:なぜ“位相”を“空相”に変えたのかという質問ですね。私はずっと位相空間を扱ってきたつもりでしたから“位相”で良かったんですが、だんだん油土を扱ったり水や岩石になってきたときに、ちょっとつじつまが悪くなってきました。私としては“相”が開かれている、“相”が無限定であるという意味を込めて《空相》とつけましたが、もちろん般若心経に“空相”とあるのも考慮に入っていました。
また油土は位相空間と非常に相性がいい。関係性がいいっていうか、ものと思考が理想的な素材なんですね。それを大量に使って、ほとんど自分が加工しない状態なら面白いかもと考えたんですけど。それを東京画廊の個展で提示したかったんですが、非常に乱暴で今までの画廊では展示不可能な作品だったから、どう説得するかはすごく考え、悩みました。東京画廊の親父と話し合ったとき「どういう作品にするんだ」って言うから、こういう作品って説明したんだけど全然わかんない。

一同:(笑)

関根:そりゃそうだよね。それでね、「このプランは斎藤義重さんに相談した?」って言うから、「いやぁ、先生は是非ともやるべきだ」と。

一同:(笑)

関根:「すごく面白い」と言ってたと(笑)。それが決め手だった。

一同:(笑)

関根:私はそういう次第を読むのが上手かったのよ(笑)。どうやったら逃げられないで合意してくれるかって、その対策をちゃんと用意してたからね。親父は初めはかなり浮かない顔をしてたけど、「そうか……」ってことになって。当時、斎藤義重は東京画廊の相談役もされていたんで、まぁ斎藤義重の考えが絶対的な判断条件なんですね。だから読んで察知していましたし、説得する戦略に入ってました(笑)。まぁすんなり展覧会はできても、やはりいきなり画廊に四角い梱包された油土を持ち込んでも、どうにもならないからね。友人のアトリエを借りて、2トンの油土を持ちこんで事前に実験をしましたね。配置とか、どういう風に油土を扱うかを。だいぶコネコネ柔軟にしてみたりして。それである程度の結論や感触をつかんでから東京画廊で最終的な配置をやりました。
たまたま、この油土のプランを柏原えつとむさんにしたら、彼は「それはやる必要ないんじゃないか」って言ってましたね。「関根くんがそこまで扱うと、説明的になるのでやらない方がいい」って断言されたけど、もう決めてしまったから(笑)。私は突っ走りました。柏原さんはNOと言ったけど、私は1回やっておくべきだと思ったんだ。わからない人もいるだろうけど。ただ非常に、私の作品がもつ幅がガーッと広がるじゃないですか。ただ油土を持ちこむんだけども。それから類推し発展できる、多くの問題を含むと考えたんですね。あれこそ本当に常に形態を持たない彫刻で、ほとんどあり得ない世界ですね。それを徹底的に提示してみたかった。それで、あえて無の世界というべきイベントを体験できたわけですね。
当時東京画廊は並木通りの2階にあったんです。上階はバーかクラブなんかでね。1階にフランセっていう洋菓子屋があってね。そこの2階の床でドンドン作業をしたから、すごく下は迷惑したらしい、まぁかなり大変な展覧会だったけど。でもものすごく多くの人が観に来てくれたね。まぁ私は、その頃は一番関心を持たれた作家だったから。次に何をやるんのか、という興味で、多くの人がよく観には来ましたね。結構長いこと画廊にたむろしていたというかな(笑)。

加治屋:あれは臭いっていうのは、どうだったんですか。

関根:臭いは確かにあるんですよ。ちょっと油性が強いと特有な臭いがありますね。2トンの油土を手に入れたのは、あの材料は子どもが使う油土であって、小学校で使ったりする油土なんです。それを製造する工場を調査し見つけて、交渉したんです。「量はどのくらい」って聞くから「2トンください」って言ったら、「うぇー」って言われたんだけどね(笑)。「色はどうにかなりますか」って聞いたら「なるよ」って言うから、「ちょっと黒くしてみたい」と言ったら、カーボン、松煙ですよね、パウダー状のものですけど、それを回転機に入れて、4、5時間まわして撹拌して作ったんです。それを四角い形にしないで(笑)。もっと大きいブロックに梱包してもらって。それを持ちこんだって次第ですね。

梅津:それ自体に決まった形がない。しかも可塑性というか、ある形で置かれていても、人が触れば変わってしまう。物質として、見ようによっては彫刻的ではあるけれども、作品の存在の仕方としてはちょっと前例がない見せ方ですね。しかも2トンという物量と相まって実現したのは、インパクトがあった展示だと思っているのですが。

関根:インパクトはあったかもしれないけどね。心地よい形態とは違うね。何とも名状し難い風景でしょうね。

加治屋:搬入のときはブロック状なんですね。

関根:ある程度ね。

加治屋:写真を見ると本当に不定型だったんで、もともと不定形なものだったのかなと思ったんですけど。

関根:いやほら、一回友だちのアトリエでいろんな実験をやったから、そこで形を乱したというか、自然風になったわけね。アトリエでいろいろディスプレイというか、配置とか見え方を研究したんです。やっぱり何かの形を作る意識はまるでないし、抽象的で対象性はない形態だけれども、ひとがその油土に触れて激しくアクションしても、物体は静止してしまうんです。なんて表現したらいいのかな、アクションは必要なんだけど、決め手がない世界ね。まるで無の世界でどこまでやっても認定できない、そういう行為と結果の無意味さが表出した。私なりの考えですけどね。

梅津:それと同じ〈空相〉というタイトル、コンセプトを引き継ぐもので、パリ・ビエンナーレ(1969年)に参加されたときに、《空相―水》になるわけですよね。これはコミッショナーである東野さんが、ちょっと不思議な感じのグループ名ですけど、「ボソット・グループ」というものを作って。参加者は高松次郎さん、田中信太郎さん、関根さんと成田克彦さん。これは東野さんからはどういう依頼というか、声かけでしたか。「こういうメンバーでやります」と言う感じでしたか。

関根:たぶんね、東野さんもコミッショナーを引き受けたんですけど、誰を選ぶべきか困ったと思うんですね。そのとき、僕は東野ゼミに参加していたし、しかも結構注目された作品を発表していたんで、僕なんか選びやすかったと思うんですけど。もの派という言葉がなかったので、東野芳明さんは物質がボソッと置いてある状態を、そのボソットと命名して「グループ・ボソット」だっけな、そういう様な考え方で組み立てて、ふさわしい作家を選定しましたね。
当時、成田克彦は《SUMI》を作ってたんで、その炭を出した。田中信太郎はやっぱり僕らに合わせた考えだったんだね。彼は立方体に土と油と、ちょっとよくわからんけど。実際観てないんでね。そういうボソットを作った。高松は何を作ったかな。そうか高松は《布の弛み》だったっけ。そのときパリには、東野さんと一緒に田中信太郎だけ行ったんですよ。そのことは聞いてました。私も行きたい気持ちはあったけど、ヴェニス・ビエンナーレに選ばれてたから。すごくヴェニスに精力を使ってたので、とても行ける状況ではなかった。
ただ驚いたことには、何の断りもなくパリの会場では水の容器を室内と野外に分けた配置をしてしまいました。まったく、それは作品を理解していない配置計画なんだなぁ。

一同:(笑)

関根:それがちょっとね。やっぱり私は、あれは並列に置くべきものであって、野外と室内じゃ縁が切れちゃうし。まったく具合が悪いなと思ったわけね。

梅津:そうですよね。

関根:だからあんまり、注目される作品にならなかった気がしますね。

加治屋:屋外でも良かったんですか。それとも室内にふたつあればよかったんですか。

関根:うん、どちらにしても近くにね。配置状態が肝心だからね。

梅津:(埼玉の資料を見ながら)これが《空相―水》ですね。パリに行く前に、69年の第9回現代日本美術展に出品されています。水の容積が同じっていうコンセプトだから、離れちゃうと作品のコンセプトが見えにくくなる。本来はやっぱり同一の視野に置かれるべき作品ですね。水もやはり油土と同じように、それ自体に定型がない素材、物質として扱ってみたいという理由から選ばれたんですよね。

関根:まぁ、一方で私は老子が非常に好きだから、すごく読んでましたんでね。老子を読むきっかけは、斎藤義重さんの話にしきりに登場するんです。水は老子のいう理念と非常に適合している。とくに柔軟な水の性格は理想的で、老子が人生訓をいろいろ語ったり、人間の生き方を語るときに、水に多くを代弁させるんだね。水は高いところから低いところに流れ、無形にして無臭であって、形を持たない。容器があれば器に従うし柔軟である、なんてね。そういう話が延々とあるわけですけど。
ちょっと話が違うけど、《空相―水》は学生時代に華道をやってたときに、黒い容器にお華を生けていて、私が手を上げたら水がバサッと落ちて洋服が濡れた。すごく集中してたから、黒い花器ゆえに水の存在をまったく忘れていたんですね。それによって水の無明さという、生活の中に存在する微妙な世界ですね。それは儚い感性だけど、無明さというのに気づかされて。それを表現してみたい欲求で、いろいろ連想した結果がああなったわけね。それで作品としては黒い容器にして、同量の水を円筒形と直方体にふたつに分けた。とくに水が間近にあって、胸元まで近づく高さを設定して円筒を作って、片一方の直方体は上から俯瞰できるようにした。
初め水が満タンに入っているのが、黒い容器で水が見えないので。この前(Requiem for the Sun: The Art of Mono-ha, Blum & Poe, Los Angeles, 2012.2.25 – 4.14)もあったらしいんだけど、携帯電話を置いちゃったとかね、思わず手をついちゃったとか(笑)。だけどもともかく、ニューヨークの展覧会(Requiem for the Sunの巡回展。Gladstone Gallery, New York, 2012.6.22 – 8.3)でもあの作品がすごく評判が良くてね。
あの作品の成立が一種のミニマル・アートなんですね。《位相―大地》もそうですが、特にこの水の作品が。最近、その思考法を私なりに文章にしようと書き始めたけど、まだ当然できていませんけど。あの作品たちこそ形態は単純だけど、華美に作ってない。でも形態を展開して遊んでるわけでないから、ミニマル・アートの理論とかなり合致する見え方。しかしミニマル・アートと決定的に違うのは、そこに満タンで水が張られていることね。《位相―大地》もそうだけど、土が円筒のなかにソリッドに詰まっている。何故かと言うと、私の深層意識としては自然の状態をミニマルに切り取り、その豊穣さまで享受したい感覚があるからね。
アメリカのミニマル・アートと決定的に違うのは、彼らはいわゆる絶対主義のカジミール・マレーヴィチを信奉してる。それがどうも大切なポイントで、形態の単一さと対象性を持たない形式が求められる。カール・アンドレ(Carl Andre)や(ジョン・)マクラッケン(John McCracken)の作品を見ると表象性を持たない、何かの形態を倣って作ってないよと。つまり彼らが強調してるように、それ以外何物でもない存在、唯一絶対で、それっきりない形態であるというね。そのあたりの美術史の重要な概念性が、非常に歴然たる問題として存在する。現代美術にとって純粋抽象は極めて難解な理論ですね。難しい評論のなかで、歴史的に定義されたのがミニマル・アートだと思うんです。そこでの問題は、やはり唯一絶対の形態と主張するけど、表現されるものはいわば単純な枠組みです。唯一絶対と主張してミニマルな形態を作っているんです。
だけど私たちの意識っていうか、もの派の連中は、単純な形態であるが自然をミニマルに切り取った意識ですね。ミニマルにカットして、自然性との繋がりをつねに意識してる。そこがやはり決定的に違うのかなと。さっきの《空相―水》でも、初めは水が入ってる状態が見えないけど、ちょっと近づくと、ひとの動きで空気が流動して、あるいはそこに触れるとか、歩くわずかな振動で波紋が起きるんです。その全く意外な「ああ、水が満たされている」ということを発見するから、人は驚くよね。予見しない世界を観たなと。それで気づかされる、寡黙なひとつの自然の容姿という。その寡黙さを味わいながら、私はその無明さを後生大切にしてる。さっき言及したように、自然をいかに切り取るか。そこに賭けてるミニマル・アートなんだな。そのニュアンスを掘り下げて書いてくれると、「ミニマル・アートともの派」というある論文が可能になっていく(笑)。誰か真剣に書かないかと期待しますね。

加治屋:関根先生の《空相―水》っていう作品は、その後の例えば原口さんの作品で、廃油を湛えた作品がありますね。見た目の印象だと近いものもあるかなという風に思うんですけども、関根先生のお考えというのはありますか。

関根:まぁ、ことさらそれを取りたてて非難することもないと思うんだけど(笑)。やっぱり意識としては、近いものがあると思いますね。彼が水を廃油に変えた意味というのは、何かあるんだろうと思いますけど。そこが彼の重要なコンセプトだと思いますけど。

加治屋:そうですよね。

関根:結構彼はそういう重く得体のしれない物質を選んでいくのが好きですよね。だから全く私のコピーだとは言い切れない(笑)。そこが違うんだろうね。

梅津:少し進みまして、関根さんがヴェネチア・ビエンナーレに参加するのが1970年で、先ほどそれに対してすごく精力を注がれていたというお話でした。1970年というと、中原佑介さんがコミッショナーをされた「人間と物質」展、東京ビエンナーレですけれど、これは関根さんはご覧にはなってないですよね。

関根:たぶん私がヴェニス・ビエンナーレに選ばれて、それの準備中なのを中原さんはご存知でしたよね。だからあえて選んでないんですよ。まぁ選ばれても不可能だったけど。特に会場でやるインスタレーションの形式が多いから。えーと、それは何月だったかな。

梅津:東京は5月ですね。

関根:じゃあもう真っ只中ですね(笑)。

梅津:ヴェニスの(笑)。

関根:(ヴェニスは)6月だったのかな。だから制作している頃ですね。しかも現地制作ですから、イタリアのどっかでね。ヴェニスに1か月くらい前に行って、準備をしてステンレス柱を発注したんですけどね。

梅津:そうするともう、日本にはいらっしゃらなかった可能性が高い。

関根:しかもその時以来、約2年いなかったから。だからその時期はほとんど日本の美術界とは縁がなかったな(笑)。

梅津:1970年がヴェニス・イヤーということがよくわかったんですけども、もうひとつ。1970年は大阪万博の年で、これはテクノロジー・アートなどの関係の美術家がすごく関わったことと、一方でそれに対しての反対の運動がものすごく盛んで、美術界にとっても大きな出来事でした。万博で《位相―大地》が再制作をされた経緯というのをお聞きしたいのですが。

関根:これは三井グループ館のパヴィリオンの外構に広場というか庭があって、東野芳明さんからそこに《位相―大地》を作れと依頼されました。予算が100万円で、もうこれ以上予算がないが、と。それは……困ったときの吉田克朗ですね(笑)。それから本田真吾もいたかな。その仲間を連れて、龍谷大学のボート部の連中を雇って作業したの。私の記憶では、あそこの三井館では《位相―大地》の作品を3バージョン作ったんですけどね。庭はけっこう広いもんで、その彫刻によって庭的な要素を加味して作品を3組作ったわけなの。

梅津:それはほとんど知られていないですよね。

関根:もうね、万博の実態はおもちゃ箱をひっくり返したような状況だった(笑)。何がどうなっているのか、誰も認識できないんじゃないかな。しかも皆、派手な主張を繰り返してる建物の連続でしょう。そこであんな地味なものを作っても(笑)。たぶん、人々の視覚に入らなかったですね。

加治屋:関根先生はそのとき、直接はご覧になってない。

関根:いえいえ、作りに行ったんですから。

加治屋:あれ? ヴェネチア・ビエンナーレに6月にいらっしゃったんですよね。万博っていつからでしたっけ。

関根:70年だけど、前半で制作なんですよ。始まる数か月ぐらい前かな。

鏑木:つまり万博が始まる前に制作を。

関根:作業を終えて、もうそこから離れてますから。

梅津:70年だけど、割と早い時期だったということでしょうかね。

関根:でしょうね。だから、70年の早い時期だったと思う。何月だかはちょっとわからないですけど。万博話もそうですけど、噂的には高松次郎さんがやったり、三木富雄さんがやったり吉村益信さんですね。結構日本の現代美術のスター級の作家がほとんど、何らかの形で万博に関わったんですよ。僕らはそれに、新人だし遅くデビューしたから置いて行かれたわけね(笑)。にわかに注目されたけど、すでに仕事がない。そういう中で、「もうこれ以上予算はないけど、やるか?」って東野さんに言われて、まぁいいアルバイトになるって(笑)。まぁそのときの政治意識が低いって言われるけど、私もまともに深刻に考えてなかったですね。だから……何さんだっけ。万博のことを。

鏑木:椹木(野衣)さん。

関根:彼が書いてる(注:『戦争と万博』美術出版社、2005年)の視点では私は全然なくて(笑)。だから、悪いけど割のいいアルバイトしたような感覚でしたね。

梅津:3組というのは円筒の直径が同じで、深さと高さを変えたということでしょうか。

関根:いやいや、直径も変えました。

梅津:直径も変わってるんですか。

関根:最大いくつかって言われても、ちょっと今は資料がないと分からないけど。3mになるのかな。オリジナルの2.2mもあるんだよな、確か。

鏑木:ではそれより少し大きいのが一番大きいサイズ。最少は。

関根:2mくらいの高さで。あ、1m80cmかな。それは直径3mくらい。

加治屋:調べてみましたが、大阪万博は3月14日に始まったので、その前は確かに日本にいますよね。

関根:ただ70年になってすぐ作ったんじゃないかと思いますね。あと、万博美術館に《空相》が運ばれて(注:万国博美術展)。それが池の中にディスプレイされた写真は見ていますね。それは箱根の彫刻の森美術館が貸した作品ですが。

加治屋:三井館の庭に作った《位相―大地》、それも《位相―大地》という作品名でよろしいんですよね。それは写真は残ってるんでしょうか。

関根:いやぁ、それを梅津さんにも言われて(笑)。あるとばっかり思ってたんだけど。言われて探したんですけど、見つからないんだよ。

加治屋:自分たちで撮ったということは、ないですかね。

関根:いや、誰か仲間が撮ったんだよ(笑)。結構ちゃんと、モノクロだけど6つ切りのサイズの。何組か持ってたんで、それがあると思ったんだけど見つからなくて。

鏑木:それは先生が当時、ご自分の記録用として撮られたものですか。何かの取材にとかではなく。

関根:取材じゃないね。

鏑木:完全にご自分の記録用として。

関根:そう。

鏑木:じゃあ、何かに載った写真とかではなくて。

関根:私が撮ったんじゃないけどね。

鏑木:うーん(笑)。

加治屋:《位相―大地》を再制作でひとつ作るというのは、想像できなくはないんですけれども。3つ作るっていうのは、そこから何か発想の展開があるような気がします。なぜ複数、作られたんでしょうか。

関根:いや、庭が大きすぎて。

一同:(爆笑)

関根:だからそうしたの(笑)。全体として庭を構成してくれと言われた気がしますね。

加治屋:3つは直線状に並べたとか、そういうのは特になく。

関根:バラバラ。

鏑木:バラバラの置き加減というのは、先生の感覚的な配置ですか。

関根:そうですよ。

梅津:そうすると同形同寸のもののくり抜かれた虚の空間と、それと同じ円筒形がある。ある意味で《位相―大地》というのがコンセプトとしてあって、それが多少違う。それこそ位相空間じゃないですけど、例えば比率が変わったり、ヴァリエーションとして展開しうるというのは、厳密な意味での再制作とはちょっと違う展開ですね。

関根:そういう意味での再制作じゃないね。テーマとしては《位相―大地》を使ったランドスケープの造形物ですね(笑)。

鏑木:パリ・ビエンナーレでも東野さんからの依頼で、続けて万博の依頼も東野さんからですね。万博に出された《位相―大地》について、何かおっしゃっていましたか。3つの《位相―大地》をご覧になった感想とか。

関根:聞いてないな(笑)。なんか言ったかもしれないけど、忙しかったので覚えてないね。私もあんまり関心がなかったのかもしれない。

鏑木:じゃあ割と頼まれたからっていう部分が大きいというか。

関根:大きいね。

梅津:万博で再制作をされたのはある程度知られている事実で、吉田克朗さんは「2回目だからうまくいった」というようなことをおっしゃっています。龍谷大学のボート部の学生を使ったのも、情報としては知られているんですけど。実際の写真というのは出てこないですし、果たして3組作られたという話はこれまで知られてないかなと思います。写真はぜひとも発掘を(笑)。

鏑木:何の媒体にも掲載されてないとなると……

梅津:いや、何の媒体に載ってないことはないと思う。何かはあるはずだけど(注:万博の《位相―大地》に関するその後の調査については、以下を参照。G.U. [梅津元]「ふたたび、《位相―大地》をめぐって」『ソカロ:埼玉県立近代美術館ニュース』第70号、2014年8月-9月)。

関根:私自身は万博の三井館の写真は、ほとんど情報として出してない。それを依頼されて出した経緯はないな。だから私から出た情報として、載ったことはないんじゃない。あんなピカピカどんどんの目立つところで、なんも目立たないような実状だね(笑)。

加治屋:先ほどミニマル・アートとの違いについてお話になりましたが、アメリカだとその後にいわゆるランド・アート、自然の素材を使ったロバート・スミッソン(Robert Smithson)などいろんな作家がいますけれども。関根先生が作られたのは少し後かなという気もするんですけれども、ほぼ同時代かな。ランド・アートにはご関心はありましたか。

関根:ちょっとはね、写真でいくつか見た程度でね。まだランド・アートの情報が日本ではあんまり云々されなかったですね。ただクレス・オルデンバーグ(Claes Oldenburg)が公園に立方体の穴を掘って、すぐに揉めて埋め戻したとか。

加治屋:セントラル・パークに穴を掘ったやつですね(注:《The Hole》1967)。

関根:そういうのは聞いてた。そのニュースはあったね。ただランド・アートというのでは、あんまり。カール・アンドレなんかがやったのは何年ですか。石を並べたり。

加治屋:あれは「プライマリー・ストラクチャーズ」展で煉瓦を並べてるので、1966ですね。

関根:スミッソンがやったのは。

加治屋:スミッソンは69年くらいには大地を使った作品は作っています。その前ですと石をギャラリーに持ち込んだ作品なんかがありますけれども。

関根:だから非常に、オーバークロスする。

加治屋:うんうん。

関根:ちょっと判断しにくい世界ですよな。

梅津:オルデンバーグの掘った話でいくと、《位相―大地》の出た須磨離宮公園の現代彫刻展で福岡道雄さんの《Gift from Oldenburg》という作品が、オルデンバーグの掘った土が送られてきたという仮想のコンセプトに基づいていた。あれが《位相―大地》と同じ展覧会に出ているというのは、非常におもしろいエピソードだと思いますね。当然、福岡さんもオルデンバーグのことを知っていて、わかる人にはわかるという、ちょっと捻ったタイトルをつけて土の塊を出品しています。
いよいよ1970年のヴェネチア・ビエンナーレの参加について、現地での制作や反響などの全般的なお話をおうかがいします。

関根:やはり東野芳明さんがコミッショナーで、ヴェニス・ビエンナーレに選んだから出品してくれと。候補者はふたりだけれど、ひとりは荒川修作だと。荒川修作は今、ニューヨークで売り出し中で、いま日本で売り出している関根と対決させるんだと、そういう説明でした(笑)。ただ、何を出せとは指示がなかったんで、それからいろいろ考えましたけど。一か月くらい考えて、すぐ結論が出ましたね。彫刻の森美術館で作った《空相》の作品を数倍のスケールで作ろうと計画したけれど、いろんな人に相談するとすげえ金がかかると(笑)。弱ったな、お金がかかるけどどうしよう。それをまた相談する人がいて、その彼が「お前、後援会を作れ」と、それでお金を集めたらどうだと。後援会の活動はどんな方式でやればいいか、一応簡単なことをアドバイスを受けて始めたわけね。当時の志木市長に会長をお願いして、後輩の岩田甲平に手伝ってもらい始めたんですよ。やはり時代が良かったのでしょうね、それとヴェニスの国際ビエンナーレが、やっぱり日本の美術界でもアピール力があるんでしょうね。比較的、簡単にお金が集まったんですね(笑)。

梅津:すごい(笑)。

関根:当時300万円集めたんだな、大変だよね。その300万をヴェニスまで持って行ったんです(笑)。あらかじめ鹿島出版の人から、ヴェニスに建築家がいるから手伝ってもらえと大村さんを紹介してもらって、何かと世話をしてくれましたね。日本から図面を送って翻訳してもらって、工場に交渉して制作を依頼しました。大村さんのおかげで、比較的に手早くできましたね。石はどこで見つけられるとか、一応、情報をリサーチしてくれた。岩石は北イタリアの方でね。ウーディネ(Udine)の近くで、アルプスの麓に大理石の採石場があって、そこで見つけました。イタリアでは大理石はサイコロみたいな状態で、割って積み上げて売っているわけです。しかし定型のサイコロ状でない原石もあるんですね。いわゆる製品外というかな。その山の中で私が選びたい岩石があって、半日くらいかけてじっくり観照して見つけました。とどのつまり、「空中に浮きたがってる岩石」を探していたんですね(笑)。
《空相》で一番難しいポイントは、どうやって不定形で16トンもある岩石の重心を探すことができるか。その重心が確実じゃなければ危険極まりないし、誰も近づけなくて作業すらできない。よくよく考えた結論としては、実際にクレーン車を呼んで直感的に重心だと思うあたりを吊上げて、柱の断面より小さい柱に乗せてみることで容易に解るんです。その接点に印をして、岩石と柱の接合部だけ実際の柱の断面寸法で掘り込むんです。石の工場でその作業を終えて、ヴェニスへ帰って来たけどね。
当日の5日くらい前にステンレス柱を立てて、日本パヴィリオンの前にセットしておいたの。岩石のセッティングはオープニングの日にやりたいと、私が主張した(笑)。是非そうしたいと駄々をこねたっていうか。この作品で一番印象深い場面はセッティング。日本文化会館の人とか東野さんとか全員が反対なの、「危ない、危ない」って(笑)。「その日は人が混み合うから、そんなことはできないよ」って。でもこの作品の一番のチャーム・ポイントは空中から岩石が柱に乗る瞬間で、それを見せないのは協賛してくれた人々に申し訳が立たないと。後援会で集めたお金は用意してあるから、強気で主張したわけですね(笑)。真剣に言い張ったから、ついに彼らも反論できない。それじゃあもう貴方の責任で勝手にやれと。私は意欲満々に「ぜひ断行する」と言ったんですけどね(笑)。
ヴェニスの運搬が難解なのは、道路はカナールで車が走れず、運河がすべてなんですよ。どうセッティングするかのノウハウを業者に相談して始めたんです。対岸のメストレ(Mestre)という街から、フェリーボートの大きいやつをチャーターして、それに岩石を乗せたトラックとクレーン車を乗せて。外海は風が強く荒波にカモメが飛来していて、これから始まるセッティングに、それらを眺めて興奮を静めました。海を巡航して、現地のビエンナーレ会場であるジャルディーニ、まさに「庭」っていう意味だけど、船着き場へ着けた。入口に鉄の門扉があって、肝心のトラックやクレーン車が入らない。こりゃ困ったなと思ったけど、職人たちはどうにかすると、まずクレーン車を先に出して、まず門扉を吊り上げて簡単にどかせた(笑)。
そして日本パヴィリオンの前に、すでにステンレス柱は立ててあって、そこまでクレー車と岩石を載せたトラックを静々と誘導したんですよ。すると凄い騒音で、何か始まる雰囲気がするからか、テレビカメラマンが僕にくっついて離れない。危ないのでドケドケと叫ぶが、彼らは職業柄か決して離れない。オープニングで着飾った人々がゾロゾロ来てね。またたく間に観客がバーンといっぱい集合しちゃったの。私の指示でまずクレーン車をしかるべき位置にセットして、ワイヤーを絡めて岩石を吊りあげた。そして、高さ約3mの集まる観衆の頭上を一回りゆっくり旋回したね。なにも旋回する必要などなかったんだけど、演出上緊張感を作り出す必要があったから。そのまま岩石を柱の上で静止して、岩石に綱をつけてあって方向と位置を確かめて、一度高く引き上げてからすっと降ろして1、2回ノッキングして、柱にスパッと入ったね。それで概ね作品は出来上がったんだけど、地上から岩石までハシゴを渡して、私がトントンと上がってワイヤーを外して、最後に観衆に手を振って終了のサイン。

一同:(笑)

関根:すると、観衆は「ワー」って大歓声を上げて成功を祝ってくれた。いい気分で降りてセッティングは終了したんです。そういうパフォーマンスを、最初からそこまで考えたわけでないけれど、行きがかり上やってしまったね。その日の晩から「ヴェニス・ビエンナーレ始まる!」っていうテレビ・ニュースが流れたんだけど、初めにそのセッティングのシーンが出るんですよ。だからよく言う話だけど、一晩で俺は有名になったんだよ。その後でポスターのサイン会なんか、人がバンバン集まって興奮状態でしたね。だからあれは、僕にとっては「青年の碑」みたいなもんで(笑)。一番充実した時期にそういう作品ができたってことですよね。岩石に私が乗ってる写真が残っている。

一同:(笑)

梅津:その写真は見たことがあります。

関根:しかも、半身裸で(笑)。その頃は大学時代に空手やってたから、いい体してたのよ(笑)。

梅津:《位相―大地》の制作シーンでも、(半裸の写真が)出てきますよね(笑)。

関根:今じゃ相撲やってたのかって言われそうだけど(笑)。

加治屋:この年のヴェネチア・ビエンナーレで、ほかの国のパヴィリオンで印象に残っているのってありますか。

関根:えーとね、アメリカは誰だったかな。……うーん。申し訳ないけど、ほとんど覚えてない(笑)。いやぁ、記憶の減退っていうのはいっぱいあるね。それと、興味なかったから(笑)。ただね、お客さんが来るでしょ。その中で草間彌生がすれすれヌードの、ものすごい薄い服で。もう実際のボディっていうか、おっぱいとか見れるんだよな(笑)。男の子ふたり、同じようなコスチューム着させて、従えて会場を歩くのよ。それがパフォーマンスなんだな。そういうことをやってました。「変なおばさんがいるなぁ」って(笑)。よく見たら東洋系で、それが草間彌生さん。時々そういう所へ行ってパフォーマンスするんですね。

でもその頃は一番のってたね。ポスターでサイン会をやったって言ったじゃない。その時にギャラリーが展覧会交渉に来たの。それで、ジェノバのラ・ベルテスカ(Galleria La Bertesca)っていうね。それとミラノのモ・デュロー(Gallery Modulo)かな。両方のギャラリーのオーナーである、フランチェスコ・マツナータ(Francesco Masnata)がやって来てね。私に交渉して、「すべての経費は出すから個展をやろう」って言われて。じゃあ、イタリアの画廊でやってから日本へ帰っても遅くはない。それでもう交渉成立してしまった。ただ、私のところにマネージャーは私しかいないんだよ(笑)。英語も少ししかできなかったから、結構大変だったよね。だから不確かな約束だったけどね。まぁでもその後、彼から連絡が来たからできたわけですけどね。

梅津:当然ヴェネチアに行かれたときは、ビエンナーレが終わったら帰られるつもりで。旅行して帰ろうみたいな。その間に展覧会の依頼が入ってきて、結果的に長期滞在をして帰られる。その間にいくつか展覧会をされている、という流れになるわけですよね。

関根:そう、初めはRound-the-Worldの航空券を持っていたから帰るつもりだったけど、帰っても緊急の用事はないから、まぁいいかということで展覧会を受けたわけですね。そして、ラ・ベルテスカの作品を作るためにラパッロという保養地に滞在した。そこの契約作家になってるクラウディオ・コスタ(Claudio Costa)っていう人がいて。その人は作家だけど彼の家に投宿しました。コスタの奥さんのパパがやってるペンショーネが真向いにあってね。そこで食事を家族といただいて、仕事をするっていう具合ですね。近くに鉄工所があって、そこの職人アルド・ブスコに手伝ってもらって作ったの。2か月か3か月はいたと思うな。そこで10数点かの作品を作ったんですよ。鉄工屋の親父のアルドが、仕事の合間に私にイタリア語を覚えさせるの。「これはなんて言う?」なんて(笑)。いくつか覚えるとね、コーヒー屋に行ってエスプレッソを飲む、それが習慣でね。日に2、3回は最低行くのよ。その度に仲間に「おいノブオ、なんか喋れ」とか言われて(笑)。イタリア語で言うと、皆おもしろがって笑い転げるの。すごく楽しかったね。だから当時若かったからかもしれないけど、3か月くらいでイタリア語を覚えたんですよ。早かったんだよね。ほとんどきれいに忘れちゃったけど(笑)。だってね、40年ぐらい前だもの。70年からすると、何年だ?

加治屋:44年ですね。

関根:でしょう。もうダメよ(笑)。

加治屋:話を戻すと、ヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ館はエド・ルーシェイ(Ed Ruscha)っていう作家で、《チョコレート・ルーム》(Chocolate Room)っていう、チョコレートをシルクスクリーンで印刷して部屋中に貼るっていう作品だったんですけどね。

関根:よくわかるもんだね。

加治屋:ちょっと今、調べたんです(笑)。

関根:確かドイツ館がおもしろいのをやってましたよね。じゃなかったかな(注:ドイツ館の出品作家はトーマス・レンク、ハインツ・マック、ゲオルグ・カール・プファーラー、ギュンター・ユッカーの4人)。

梅津:プライベートなことなので、差し支えのない範囲で構わないんですけれど、櫛下町さんとご結婚されて、イタリアに行くときはご一緒に行かれたんですか。

関根:ずっといろんな意味でアシスタントをしてくれてたから、ヴェニスも一緒に来るかと言ったら「いやぁ、それはちょっと問題だわ」なんて言われて(笑)。女性で、やっぱり同じ部屋に泊まらなきゃならないだろうしね。こりゃ結婚するしかないかな、と思って(笑)。いよいよ結婚しちゃったの。

鏑木:じゃあ、行かれるのがきっかけでご結婚を。

関根:そう。しかもさっき話したように、取材が入って(笑)。だから周辺が、またたく間に固まっちゃったの。彼女はイタリア滞在の1年くらいの間に妊娠したんだ。彼女は1年いて日本へ帰ったね。私は展覧会が次々決まっていて帰れないわけね。ただ、子どもが生まれて1か月以内に一度帰ったけどね。
ラ・ベルテスカはね、アルテ・ポーヴェラの作家を結構やった画廊なんですよ。史実を調べるとわかると思うけど。マツナータっていう人は、そういう作家を扱ってたから、比較的私なんかを受け入れる余地があったんだよ。滞在してる間の制作費は、すべて彼ら持ちなのよ。おもしろいのは彼の周りに、5、6人のコレクターがいるのね。どうやって作品を売るかというと、彼は車に私を載せて、ほとんど片言のイタリア語しかできないんだけど、お茶時とか夕食時とか昼食時とか、そういうときに会いに行くわけ。話をさせて、友人関係を作り、1点は予約させちゃうわけね(笑)。そういう進め方がうまいのよね。それで、必ず売っちゃうわけ。向こうの画廊のやり方はすげぇなと思ったね。まず作家をコレクターに近づけて、どうしても買うようにしちゃうわけ。そういうギャラリーの人がいるのよ。あのとき、だからいくつも作ったよね。特に《空相―布と石》(1970年)という作品は、その頃から始めたの。《空相―木の中の木》(1970年)とかね。それから《空相―石を切る》1970年)もだね。

梅津:鎌倉画廊で再制作されたものですね。

関根:あとは《石とネオン》(1970年)とか、いくつかね。そういう作品はイタリアから始めた作品ですね。

梅津:《位相―大地》、《位相―スポンジ》、《空相―油土》、《空相―水》など日本の方が関根さんの展開を見ていて、でもヴェネチアの後にヨーロッパに行かれてしまうので、重要な作品の発表は海外になってしまって、作家としての関根伸夫を追っていくときに、ヴェネチア・ビエンナーレの手前辺りでぷつっと切れてしまうという問題があったのかなと思っています。

関根:あるでしょうね。

梅津:ええ。だから近年、再制作でそういう時期の作品をきちんと発表される機会があるのは、とても重要だと思いますね。

関根:確かにあるね、それは。

梅津:ヴェネチアの後にミラノで長澤英俊さんと再会されたということも、ご本人がお書きになっています。

関根:そうですね。長澤英俊は川越高校の2級先輩なの。そしてなおかつ、多摩美の空手部出身(笑)。だから比較的、縁が深いんですよね。ヴェニスに行ったとき、当然、彼もヴェニスで手伝ってくれたけどね。「ヴェニスが終わったら俺のところへ来い」ということで、ミラノに行きました。ミラノでは、セスト・サン・ジョヴァンニという地区があって、そこで長澤は住んでいたね。そこはアパートメントが12棟くらいあるんですよ。だいたい7、8階くらいのビルで、さまざまな人々が住んでるんですよ。基本的には賃貸ですね。そして、その半地下をアーティストに無償で貸している。1年間に1つか2つくらい作品を進呈すると、便利は良いし、ほぼ無償で借りられる。どっか空いてないかとオーナーに交渉したら、空いてたんですよ。私もオーナーに会って自分の作品を説明して、そうしたらすんなり借りれちゃった(笑)。ミラノに滞在した期間はその半地下のアトリエには住み着いたね。食事はほとんど長澤ファミリーと一緒だったの。寝るときはそこに帰ってね。
多くは制作しなかったけどね。手紙を書いたり、いろいろ交渉もありますよね。その場はけっこう有名作家がいたりして、当時は住んでなかったけど、エリンコ・カステラーニ(Enrico Castellani)やルチアーノ・ファブロ(Luciano Fabro)がいたりした。その部屋もあって拝見しましたね。長澤さんがつき合ってるのが、ルチアーノ・ファブロとアントニオ・トロッタ(Antonio Trotta)っていう作家で、私も混ぜてもらって彼らと遊んだり議論してましたね。アルテ・ポーヴェラのことは知ってたけど、ラ・ベルテスカが拠点のひとつなんですよね。私の個展のときジェルマーノ・チェラント(Germano Celant)が来ていろいろ質問してくれたけど、私の語学力ではほとんど答えられなかったですね。残念でしたが……。

梅津:その当時、いわゆるアルテ・ポーヴェラ系の作家と親交が生まれたり、当然向こうにいらっしゃっていろんな作品をご覧になったりということで、違う場所でやっていてもある種の近さというか。日本を離れてヨーロッパで活動される中で、お感じになったことというのはありましたでしょうか。

関根:彼らの意見を聞いてみると、彼らの中に美術史があるのよね。それを紐解いて自分なりに組み立てるんですね。それとか教会の美術のこととか、教会の建築に近いこととか。そんな身近な美術が彼らの制作の動機であり伝統的な部分を注視しながら、なおかつ現代に通じるエスプリを同時に考えている。非常に地に足がついて発想していますね。だからあんまり浮き足立ってないね。特にイタリアの作家たちは、しっかり大地に着地している感じがするのね。ともすれば日本の美術の連中はみな、外来の美術に依存してる傾向があるから、自分がどこに立っているのか、ちょっと足元がわからないと思うんですよ。彼らはしっかり着いてるね。だからあんまり面白くない作家でも、ちゃんと自分の立場を表明できるんですね(笑)。

一同:(笑)

関根:それはわれわれにとっても非常に重要な問題だと思いますね。それと展覧会と展覧会の間が4、5か月あったんで、その間によく旅行しましたね。この機会にヨーロッパを見ておこうと思って。初めはワイフを伴って、ギリシャに3週間くらい行ったりね。ギャラリーでやったから適度にお金もあったし(笑)。すごくフリーな旅行を随分しましたよね。ただ言えることはね、ヨーロッパのいかなる物を見ても、やっぱり僕の関心とは違うんだね。やっぱ、なんだろう。日本美術をだいぶ見尽くしてたから、どうしてもそれらへの関心の方が強いのね。ヨーロッパの教会の美術を見ても、いろんな美術館に飛び込んで見ても、自分にはちょっとテーマとか問題意識が埒外かなぁていうね。こっちの関心がぴったりいかないわけ。そう思いましたね。だから向こうで見たいろんなものは、私を教えてくれないっていうかな。深く追求したいほどには、興味持てなかったんですよ。半分残念でもあり、半分それでいいのかもという部分もありますけどね。なんていうのかな、私の立脚点がすでに日本美術になっているんだね(笑)。

梅津:逆にそれを確認するような体験でしょうか。

関根:関係をね。ただ、知りたいことはいっぱいあるからね。見れば見るほど、我々は全然ヨーロッパを知らないな、というのがありましたね。初めから成り立ちをことごとく知らないな、と思いましたね。例えばキリスト教っていうのは、なんであんなにまで生活全般に関係するかって。若い人は教会に行かないけど、教会のルールとか祭事とか、生活の隅々までその行事に縛られている。だって例えば人の名前ひとつにしても、誰もがクリスチャンの聖人の名前ですね(笑)。本当にそれは可笑しいくらい。だから「お前らみな聖人なのか」と思ってね(笑)。食事のことからすべてね。だから、ものすごくいっぱい勉強したし知ることが多かったよね。
約2年ヨーロッパにいたけど、私にとってはすごく貴重な経験だった。それとなんといっても、特に宗教に裏打ちされた、メチャクチャ人間としていい人がすごくいる。奉仕の精神とか博愛精神とか。奉仕の精神が徹底的に強い人が身近にいるのに驚きましたね。
次にスイスのベルンのギャラリー・クレブス(Galerie Krebs)で個展があったんです(1971年)。そのときのきっかけは、ヴェニスのときにコレクターのイワン・ルペルティー(Ivan Ruperti)と知り合うんですよ。その人が「貴方の作品が欲しいから、私のところに来てくれ」と。そして「貴方のマネージングを自分がやるからと」。最初は提案された内容が理解ができなくって「はて、なんだろうこの人は」って(笑)。ちょっとヤバいんじゃないかと思っていましたが、それが彼の生き方なんですね。自分が好きなアーティストを見つけると、徹頭徹尾に奉仕するんですよ。彼の家が比較的イタリア圏に近い、ブリッサゴ(Brissago)っていう田舎の村でね。ラゴ・デ・マッジョーレをまわってアルプスがあるんだけど、そのアルプスの一角にある邸宅に住んでいる。そこの家は彼ひとりで住んでるんだけど、現代美術が効果的に飾ってある(笑)。
その人がまた興味深くてね、自分は45歳くらいで仕事をやめちゃうたわけね。それまでなにをやってたかっていうと、1回フランス人の女性と結婚して、すぐ別れたとか言ったね。その間にアメリカでデザインの勉強をして、帰ってからチューリッヒでデザイン会社をやったという。初めはひとりしか雇ってなかったんだけど、15年くらいの間に50人くらいの事務所になったらしい。しかしながら、彼もまた大きな病気をしてしまった。そうなったら一大決心をして、そっくり会社ごとアメリカの資本に売って、そのお金でもって悠々自適の生活に入ったという(笑)。我々では考えられないよねぇ。彼は素晴らしい家で生活していて、朝は菜園で野菜を作っているので、それを採集してストレージへ運んではでっかい冷蔵庫へバンバン詰めてる。午後になると仕事らしいものっていうとね、病院の寄付金を集める奉仕の仕事。それって、仕事って言うか? みたいな感じでしょ(笑)。それと自分が好きになった、アーティストのマネージメントをやってるわけ。私はたまたまその人に気に入られたわけね。その人がギャラリーまで交渉して、しかも版画のエディションまで企画して。ほとんどのお金は彼が出して、献身的そのもので私を助けたんですよ。それで、ベルンのギャラリー・クレブスで個展をやったんだけど。すなわちスイスでは徹底的に彼の好意で生きてたわけですね(笑)。

梅津:では一旦休憩しましょうか。

(休憩)

梅津:それでは再開させていただきます。お話は尽きないところではありますが、時間も限られてきましたので(笑)。ヨーロッパ滞在を終えてお戻りになられてからの大事なこととして、環境美術研究所の設立(1973年)、それから30年に渡って環境美術に関わるお仕事をされたことについてお聞きしたいと思います。

関根:帰って来たのは72年の終わり頃ですけど、すぐ東京画廊で個展(1973年)をやれと言われました、その流れが一番大きかったんです。ともかく……そうですね。東京画廊の個展をどうやろうかな、と考えて。ヨーロッパ時代と近い種類の作品を作りましたね。向こうのギャラリーで作品を作って展示すると、何らかのお金になるんですが、東京画廊でやったときに「えー、こんなひでぇのか」って(笑)。なんのお金にもならないので驚きましたね。

一同:(笑)

関根:それで、これはどうにかしなきゃいけないな、っていう日本での生活を先ず考えました。ヨーロッパにいたときも、私は都市にかなり興味を持っていました。日本とヨーロッパの都市は全く成り立ちが違うんですが、そういう中でいろいろ考えたんです。ルネッサンスの時代なんかは多くのアーティストが教会や、宮殿を作ったりするのに素晴らしい環境づくりの仕事をしてますよね。古い話ですけどルネッサンスの作家はミケランジェロなども、ことごとくコンペティションに参加して、いってみれば環境美術的な仕事をして生業になっていたのが、如実に見えるわけですね。だからローマだとかヴェニスとか、主要な都市の観光資源はみな昔のアーティストの偉業を見学するツアーなんですね。それがゆえに観光客がお客になってお金を落としていく仕組みですね。広場にしても、原案はミケランジェロが構想したとかね。一部の彫刻が残ってるとか。ベルニーニという作家は当時どうしたとか、いわゆる興味を掻き立てるような観光の目玉は、そういったストーリーが組み込まれています。まぁ現代美術はそこまで明快には言えないですけど。でも欲しがるコレクターがいて、そういう関係構造でギャラリーは成り立ってるわけですね。
そういう仕組みをうんと堪能したから、日本に帰って来たときに、自分も美術の仕事で食べなきゃいけないと思いました。根底的に純粋アートでは食えない事情もあったので、これからは環境的な仕事をしたいなと、用もないのに建築家のところへ遊びに行ったりして(笑)。いろいろ接点を探していた中で、磯崎新さんが「今、海洋博っていうのを計画中なんだけど」って。曽根幸一さんっていう建築家がいるんですが、その人が今、沖縄海洋博のチェアマンをやってると。「彼のところでアーティストが欲しがっているから、お前行け」って言われて彼のところへ「よく来てくれた」みたいな感じで、すぐチームに入れてくれたんです。そこで7、8か月だと思うんですけど、プロジェクト・チームに参加したんですよ。その中には、谷口吉生さんって知ってるかな、彼とかね。伊藤隆道とか、結構今、有名な人が参加していたし、さらに乃村工藝社がいたから、いろんな議論をしてましたね。その期間は非常に楽しかったね。それがゆえに、私も海洋博で仕事ができることになって。〈空相〉の変形なんだけど、上に乗ってるのが岩石でなく、コンクリートの造形物になってる。それもスケールが7m×8mくらいの、大きなモニュメント。船クラスターって言うんですが、船のテーマ館が囲んでいる建物の真ん中の広場にモニュメントが、噴水が組み込まれた計画でした。そういう構想が一応、受け入れられて実現することになったんです。ただ途中でオイルショックがあったから、急激に建築資材が上がって、私の計画も実現不可能な時期もありましたが。
そのときに問題なのは「個人の作家ではこの制作は依頼できないから、あんた会社作れ」って(笑)。それで急遽、環境美術研究所を創立して、その仕事をやるべく体制を整えましたよ。ただ予算が大幅に削られたから、会社を作った意味がなかったですが(笑)。しかし既に会社は営業していて数名のスタッフがいましたね。それが途端に立ち行かなくなって、仕方ないから、私はそれ以降ずいぶん営業をやったんですよ。営業って言っても皆、環境美術なんて知らない。だから構想の絵だとか、今まで作ったものを拡大した写真を、画板に入れてね。建築家に会いに行って「私はこういうことをしたいんだ」とかいろいろ説明して。なかなか建築家は皆ハードでね。門が固くて容易でなかったですけど、まずはお友達を増やそうと思ってやってました。2、3か月やったら当たりが出てきて、それからだんだん忙しくなって(笑)。時代の要求とぴたっと接合したかもしれない。だからその頃一手に、環境美術的な仕事の大半は私が実現したわけですね(笑)。それから30年くらいやったかな。一口に言うんだけど、全国で大体400か所くらい環境美術を実現したんですね。

加治屋:おお、すごい。

関根:ねぇ、すごいよね。多いときはスタッフも15人くらいいたの。大分やったんですが。実現したものはいろんなところにありますよね(笑)。

梅津:設立のときに戻るんですけども、環境美術という言葉は当時、恐らくあまりなかったと思うんです。環境という言葉自体は例えば「空間から環境へ」展(1966年)が60年代にあったり、美術の世界で少し使われていたとは思うんですけど。会社の名前のつけ方というのは、どういう経緯だったのでしょうか。

関根:でもね、建築の方はけっこう環境デザインとか、環境設計とか、環境企画とかの名称の会社があった。多くは都市計画や地域計画、あるいはランドスケープなどを計画する会社ですね。

梅津:当時もうそういう使われ方があったわけですね。

関根:うん。ちなみに曽根幸一さんは環境設計研究所。仙田満は環境デザイン研究所っていう会社をやってた。だから、いくつかはあったんですね。それこそ環境美術研究所は安易だけど、ずばりその名称にしちゃった(笑)。

梅津:それ以前からいわゆるモニュメント的な、それ自体が本来の彫刻の機能のひとつですけど、駅とか公共の場にある程度名の通っている彫刻家の作品が設置されるということはあったと思います。そういうものに対して、やはりヨーロッパでの経験から、空間の設計や都市空間の作り方など、そういうところに関わっていくという意識が最初からおありだったんですか。

関根:そうですね。都市に興味を持ったんで、美術に関心があるのは当然ですけど、もう少し都市的な視点に立った美術。そういうを私なりに目指したんだよね。だから、建築事務所によく行ったけど、少しは私の名前も有名なのか、営業に行っても講演会をさせられるんだよ(笑)。

一同:(笑)

関根:スタッフを全員集めてきてね。「今、関根伸夫が来てるから、何か質問してみろ」なんて。いろいろ考えるので結構疲れるねぇ(笑)。質問の内容がものすごく細かくて。

梅津:建築家的な。

関根:うん。それで来られるからね、なかなか迂闊に答えられないような(笑)。本来は漫談風にやるべきですがね。

鏑木:それは制作の実務的な部分に関しての質問ということですか。

関根:そういうのもありますね。「どういうプロセスで作るのか」とか。

加治屋:先ほどの梅津さんの質問と関連するんですが、従来は駅とか公園とか、あるいは市役所などに美術団体に所属している地元の彫刻家が、具象彫刻を作るようなことがありましたよね。そういう人たちの制作の機会を奪ってしまうというか、そういう反発とかはあったんでしょうか。

関根:全くなかったね。

加治屋:あ、なかったですか。

関根:誰も文句つけに来ない(笑)。それと私は態度がでかいからね。

一同:(笑)

関根:そういうところへ行っても比較的、態度だけはでかいのよ(笑)。だから建築家の前でも滔々とやるしね。卑屈にやらないから(笑)。まぁ演説はしないけども、それなりに得たヨーロッパの都市の経験なんかを、ちゃんと論理立ててしゃべるじゃない。そうすると、まぁ感心して納得して聞いてくれる。だからそういう彫刻家がいたとしても、裏取引なしで明快に私はしゃべるから。(笑)。そういう都市計画のルールは自から心がけました。だってその計画趣旨が、新たな社会を作っていくうえで大事なことじゃない。説明責任があるし計画の意味をしっかり伝達し表明する。そうすると変な茶々は入らない(笑)。そういうことですよ。

梅津:環境美術研究所を作られてお仕事が400か所くらいとうかがいましたが、30年に及ぶ活動があります。一方で77年に(デンマークの)ルイジアナ美術館に「セキネ・コーナー」ができたりとか、78年にヨーロッパの巡回個展をされたりしています。環境美術研究所の代表という立場でのお仕事と関根伸夫というアーティストとしての活動というのは、共存というか並立というか、そういう時期が長かったと思います。その辺の感覚というのは、どういうものでしょう。

関根:環境美術をメインにしようとは思っていないんで、やっぱり作家である私が企画するに過ぎない。その関係はできるだけ、崩さず持続させようと思ってましたね。ルイジアナ美術館は最初のヨーロッパの流れで、きっかけはコペンハーゲンのビルクっていうギャラリー(Gallery Birch)で個展をやったんですよ。そのギャラリーで準備のため、ビルクの親父が探してきたアトリエが、ルイジアナのゲストハウスなの。そこに私は放り込まれて2、3か月いたかな。
そのときにヌット・イェンセン(Knud W. Jensen)っていうルイジアナ美術館の館長がいろいろと世話をやいてくれたのよ。彼は私がヴェニスに出品したと知ってるから、気を遣ってくれてね、それなりに扱ってくれました。作品を作ってるじゃない。すると彼は遠慮がちだけども面白がって、よく訪ねて来るわけ。こういう作品なんだと私がコンセプトを説明すると、だんだん真剣になってきちゃって(笑)。「うちの美術館に何か作れ」とかね。まずは「ヴェニスの作品はどうなってるんだ」と聞くから「今は宙ぶらりんだよ」と。いちおう外務省が持ってるんだけど、「外務省はいつでも手放す」と言うと「外務省からもらっちゃえ」となって。その仲立ちを私がして、外務省もあの作品をどうにかしたいから、にべもなくルイジアナ美術館に寄贈することになった。ルイジアナの中心部にある庭のいいコーナーがあって、そこにヴェニスに出した《空相》をセットして。その周りに彫刻をふたつほど作ったの。石の彫刻である《空相―円錐》と、もうひとつは一連の《空相―石を切る》。77年にセキネ・コーナーが完成したら、「この機会にお前、うちの美術館で個展やれ」って言うわけ。それは願ってもない話なんだけど、私も生意気ですね。「ここだけ? ルイジアナ美術館だけ?」みたいな(笑)。

一同:(爆笑)

関根:それで館長がいろいろな美術館に話しかけてくれて、一気に4美術館になっちゃって(笑)。そんな厚かましい人、いないかもしれないな。一応、最初はルイジアナ美術館のセキネ・コーナーの完成祝いの展覧会だけど、それが拡大して「ヨーロッパ4美術館巡回の関根伸夫展」なってしまいました。

梅津:(資料を見ながら)ここにヨーロッパ巡回展の情報がありますね。

関根:これ、何?

梅津:これは鎌倉画廊で、ヨーロッパ巡回個展の出品作品を一部展示したときのパンフレットです(『関根伸夫:’78-’79ヨーロッパ巡回個展《空相―黒》による』、鎌倉画廊、2004年)。そうすると、あくまでもアーティストとしての関根伸夫さんの活動が基本にまずあって、ご自身の手掛けられている環境美術の仕事があり、という関係が基本的なスタンスとしてずっとあるということですね。

関根:はい。ただアーティストとしてはやっぱりね。日本では特殊で環境美術をやっちゃうと、ちょっと薄れるところがあるよね。それが悩みだったんですね。「お前、社長さんだろ」なんて言われて(笑)。「アーティスト? なんて今更言うわけ」とね。その辺になるとね、世間はなぜか頑な因習があるんですね。美術家のもつ純粋主義みたいなしきたりが全面に出てくるね。

加治屋:環境美術研究所で作られたモニュメントとか、空間というのは関根先生の作品ではなくて、研究所の仕事、作品ということになるんでしょうか。

関根:うん、まぁ多くは私が手掛けたよね。私がやった以外のものは、作家名を入れさせたの。だからそれぞれのスタッフの名前が出てる。メインに私がやったものは、環境美術家関根伸夫なんだけど。でもだんだん、環境美術というと私になっちゃって(笑)。ねぇ。美術界はなんか……変ですね。お金儲けをやってることしか、クローズアップされなくなっちゃった。

加治屋:ご自身で特に思い入れのある、印象深いものはありますか。

関根:うん、いくつもありますけどね。ぜひ見てもらいたいのは、多磨霊園のみたま堂(1993年)。あれは1回体験してみてもらいたいですね規模がデカいから(笑)。

鏑木:あそこは誰でも入れるんですか。

関根:うん、そう。

鏑木:今度、行ってみます。

関根:行ってみて。まぁ、夜は駄目よ(笑)。浮遊する霊魂があるからね、開館時間に行ってね。たしか5時で閉まっちゃいますけど。あとは茨城県の奥久慈憩いの森(1979年)。袋田の滝の近くに奥久慈があって、それは山頂にあるんですよ。そこは、1回観ていただくといいと思う。規模が壮大です。あと誰でも見れるのは新宿の都庁。都庁の中心部に《水の神殿》と《空の台座》(1991年)というのがあります。あとは世田谷美術館(《水舞台》、《風景の門》1986年)とかね。壁を流れる《壁泉》という水がバーッと流れる滝がある。あとは大阪シティエアターミナル。そこに飛行マップをモジったアーチが飛び交ってるよね(《フライング・レインボー》1995年)。あれもそうです。あと、韓国ソウルの新羅ホテルの入り口に《虹》という噴水彫刻があります。そうだね……、それはそれで、いっぱいあるからね(笑)。結構ありますので機会があったら観て下さいね。

梅津:質問が少し変わりますけど、長く関根さんの全体を追って事細かにお話をうかがっていると、ちょっと足りないところがあるんです。もの派と呼ばれるひとつの動向について、その後『美術手帖』の特集とか、鎌倉画廊での展覧会(「モノ派」展、1986年)ですとか、そういったことがきっかけになっていろんな評論家が少しずつ発言したこともあって80年代の半ば以降、集中的に事後的な検証がありました。それに対して、例えば再制作の依頼や資料提供、調査に対しての協力などもあって、重要な動向として検証されるようになってきます。言葉については現在、どういう風に捉えていらっしゃいますか。

関根:もの派っていう言葉?

梅津:そうですね。

関根:最初は確かに、私も嫌だったね。もの派と呼ばれるのは、侮蔑的な意味合いも強かったもんですから。ただ、何回も「もの派、もの派」って言われると、愛着が沸いてきて(笑)。今ではそんなに嫌だと思っていませんね。非常に言い当てた表現、表示だとは思いますね。やっぱり、ものの存在性が重要な視点ですからね。他の言葉で置き換えるのができないのと、やっぱりもの派って言えばある美術の領域を括ってると思うんで。今はいいと思いますよ。

梅津:他の作家の方も言われていますが、その当時、ある種侮蔑的なニュアンスを込めて使われていたということは、今もの派という風に括られている作家の皆さん自身は使っていなかったということでしょうか。外で作品を見てる方たちが使い始めたということが、きっかけなんですよね。

関根:そうですよ。我々は最初は皆、使ってなかったのは確かです。

梅津:70年代の前半くらいにはもう、その言われ方はされていた。

関根:いや、それはねぇ。

梅津:もう少し時代が下がってからですかね。

関根:いやぁ、正確に言ってわからないね。いつからもの派になったかね。いろんな論を書いていて、誰が一番信憑性があるかだな。私は完全に言われ出してから使ってた。

梅津:言われる方なわけですよね。その辺は李さんも、当初はやはり侮蔑的な意味合いが込められていたので、ご自身も抵抗があったというのはやっぱり同じ感覚だと思うんです。もの派っていう言葉を使うかどうかは別として、今日うかがった話で李さんと出会われて、自分たちの仲間に引き入れるというか、一緒に活動しようという辺りで、もの派を語るときに李さんの書かれたこととか発言されたことは理論的な柱になっている状況がありますが、その辺は今、関根さんご自身はどういう感触を持たれていますか。

関根:これから問題なのは、あまりにも李さんが……もの派の連中が消えるほどビッグなことだよね。まぁ先ほどお話したように、欧米でもの派の文章として読めるのは、李さんのものしかないんでね。それが故、もの派を評価していくときに、どうしても李禹煥が中心になってしまう。まぁ中心になってもいいけども。その概要が李禹煥の論理として表明されるから、もの派のすべてを言い当てる基準ではないはずなのに、どうしても彼の理論なってしまうことかな。さっき話したように、私なんて日本美術を引用している部分も随分あるんですね。しかし彼の場合は、その伝統を引用するのを極端に否定していますよね。だから彼は禅だ仏教と説明されるのを全否定しますよ。彼は世界の哲学に論理付けたいんでね。私どもが例えば「伝統から援用している部分もありますよ」なんて言うと、彼としてはすごく我慢がならない。ただ、それで説明できるかっていうと、もの派では表記し得ない論理もあると思うんですよ。事実はどうだったかについて、繊細に言及していかないとね。
美術っていうのは、理論だけの問題ではないはずですよね。特異な感性も包含したなかで表現があると思いますよね。だから李さんのひとつの表明、文章ですべてが語られちゃうと、やっぱりわれわれとしては抜けちゃう部分も多いと思ってますね。例えば「もの派はどこが新しいの」、「どこが今までの美術と違うの」って言われたときに、私はいつも「何にも新しくはないよ」と言ってるんですよ。というのは、やはり東洋全体の宗教の問題でもあるんだけど、一種の……アニミズム的な要素が、必ず底辺にあると思っています。ものを見て、それがある神聖というか、神の性格とか、あるいはそれをことさら他のものを切り離してでも、そこに神聖を見たり、非常に感動を覚えるっていうことは、やはりアニミズム的な要素が強くあるからだ、と自分は認識してるんですよね。ただ今までの特に思想や哲学的な解釈の中では、「アニミズムっていうのは未開社会の因習、慣習だ」という位置づけなんですよね。今は文化人類学を含めて大変なリサーチをしてるから、それも追々はもっと見直されると思うんだけど。未だに哲学的思考の中では、そういう風にならないのね。
そういう疑義も考慮にいれて、やっぱ李さんは絶対それは言わない、彼なりのしかるべき武装が強くあるわけ。だけど私は、それも言ってもいいと思うんですね。考え方の中に、そういうことから影響されている、組み立て方をしてる、そういうことって多々あるからね。だから私の作品なんかでも結構、アニミズムが後ろ側にあるケースっていうのが強くある。李さんだって本来はそうだと思うんだけどね。なんで座布団に石が乗ってるの(笑)。自分では言えないだろうけど、極めてアニミズムだよね。もっと深く言えば玉石神だよな。そういうのは、あると思いますよ。玉石神なんてのは、もうアニミズムの極致ですからね。だから、まぁ彼なりの武装があるからね。彼は決して言わないけどね。それを考えて、誤解を生むことは一切出さない主義で論として展開するが彼の方式だから。不満もあるけども、彼のやり方だからね。そういう意味での政治的判断ってやつかな。彼はなかなか非常にできる人だからね。

梅津:一方で事後的な検証という点で言うと、例えば80年代の中盤くらいに千葉成夫さんが本を書かれたり(『現代美術逸脱史:1945~1985』晶文社、1986年)、もの派について論考されたり、あるいは鎌倉画廊での展覧会のときは、峯村さんが年表を作るなど基礎的な調査をされています。今日まで続くようなひとつの定義づけというんですかね。それは峯村さんによる定義なわけですけれども。もの派に続いて、ポストもの派というような歴史的組み立てをされています。そういうものが今、もの派について語るときに度々参照されていますが、評論家の方たちの歴史化や検証作業について、どうお感じになっていますか。

関根:……そうですね。その辺はなかなか難しいね。

梅津:難しいですね。

関根:うん……。うーん、まぁなんていうかな。よく観て欲しいの。良い風にじゃなくて、深く知って欲しいな。かいつまむだけじゃなくて、概念的に押さえるだけでなくて。ものすごくよく、詳しく正確にできるだけ見て欲しいと思ってますよ。事実がどういう風に展開されたのか。まぁ言えることは当事者である作家に直接説明を求めることが必要だと思うけど、そういうことは研究者はなかなかしないね。もっと検証もできていくだろうにね。さっきもの派はミニマリズムと比較対照するとよくわかるって言ったんですが、それも誰か書いてくれるといいなと思ってる。私自身がやればいいんでしょうけど、ちょっと読み切れない文献もいっぱいあって。論を展開するときに、自分の考えだけでは論文にならないんでね。それはどういう背景から、こういうことを言うかとか。その辺を問われると、私もちょっと弱いんだよな。そんなに勉強してないし。だから比較としてはおもしろいんですけど。さっきマレーヴィチのことを言ったけど、あれはほんの一部であって。もっと踏み込んでいかないと、論は書けないよね。直感がすべてで概念的なことを正確に書けないとまずいからね。

梅津:もの派についての事後的な検証、批評でも展覧会でもなんですけど。それが盛んになった時期に、小清水さんなんかも自分が感じている歴史と、語られている歴史、ご自分が感じてきた事実に対して、言葉で語られている歴史というものがズレてきていると、非常に強い違和感を明確に表明されていて。それに関しては「藪の中に入れ」みたいな、事実をちゃんと見て欲しいというような表現のされ方をしています。要するに若い世代が二次的な資料とか、読める本などで何かを語ってしまうということに対して、関根さんが今おっしゃったように事実をきちんと自分の足で見て欲しいということを、ある時期から割と明確におっしゃるようになっているんです。その辺りの感覚は、やはり同じようにお感じですか。

関根:うん、それはかなり共有できるね。私もそれは感じていますし、本当に論として展開して、「よう書いてくれたな」と思う人が少ないと思いますね。峯村さんとか、最初に言ったのが未だに定義に近い形になっていて。それ自身も間違っているのを中心に書かれていると、ちょっとね。小清水くんの発言みたいに思いますね(笑)。もうちょっと丁寧に見てって言いたいね。

梅津:私自身も関わっている部分があるんですけども、批評だけではなくて、1995年に「1970年―物質と知覚:もの派と根源を問う作家たち」という4館巡回(岐阜県立美術館、広島市現代美術館、北九州市立美術館、埼玉県立近代美術館)の展覧会、これは再制作の依頼も含めて行いました。あるいは西宮市大谷記念美術館で「《位相―大地》の考古学」展(1996年)をされたりとか、2005年の国立国際美術館での「もの派―再考」展ですとか。そういった形で再制作等も含めた形で検証される。これにもちろん、海外でのものも加えられると思うんですけど、そういったことについて、どういう感触をお持ちでしょうか。たびたび再制作の依頼があるということも含めて。

関根:そうですね……やはりもの派の最大の欠点は、作品が残ってないことだと思いますね。インスタレーションに近い仕事が多かったのは、終わった後はちゃんとコレクションされないで、保存もされないということが、大いにあり得ましたね。私も雨ざらしで、もう破棄してしまった作品が、いっぱいあるんですよね。だけどかなり時間をかけて作った作品が、そういう形で残ってない。それと大きく言えることは、どこの団体も個人もコレクションしてないというね。それがやっぱり日本現代美術のほとんどであり、もの派の最大の欠点ですね。昨今アメリカを中心にしてコレクションされるっていうことが、いかに大事かっていうね。ひとつの歴史化の一環ではあるんだけど。例えば簡単に言えば、《位相―大地》は戦後美術の代表作のひとつと言われる作品ですが、日本にひとつもない。だけど永久設置でダラス美術館に帰属するラチョフスキー・ハウス(Rachofsky House)にはあるんです。これでいいのか、と日本側としては思いますよね。そこには《空相》も近くにあるとかね。まぁ《空相》は日本にはいくつかあるけどね。
しかしながら《位相―大地》について語る人はいっぱいいたけども、ついぞあれが日本には残らないというね。ちょっとやはり、日本の美術の歴史的検証がお粗末と思ってしまいますね。だから今の姿勢としてはできるだけ、残せるものは残しておいた方がいいかなと。再制作もある程度の数に限定するっていう形を取っていってるわけですから。〈位相〉のシリーズは再制作すると、必ずアメリカのどっかに入る(笑)。ねぇ。日本の美術館では2、3か所くらいしかないんですが、すでに海外にもそれ以上にあるのはね。おかしいけど、しょうがないかもしれないですね。日本の現代美術のヒストリーって、なかなか残せていけない。この「日本美術オーラル・ヒストリー」をやってくれたのが、せめてもで、非常にありがいたいなと思いますね。

梅津:今海外、特に近年のアメリカ中心にもの派、それ以前に具体も含めて今、日本の戦後美術への注目が非常に高まっています。一方で関根さんのお仕事に関して韓国や中国は、割と早くから評価をされて展覧会をされたりということもありますね。

関根:うん、まぁ一部はやってるんだけどね。やはり韓国でも徹底的に検証するわけじゃないからね。ある好意のある人がやってくれたに過ぎない。私の環境美術的な仕事が、韓国には6か所くらいあるのよね。外国人である私に、よくもそんなに作らせてくれたなとは思いますね。そういう意味では韓国ではある程度、定着度があるかもしれないね。それから中国は私も……何年でしたかね。4年くらい前に移り住んでいて。今も上海にアトリエが残ってるんですが。上海彫刻センターみたいなところ、市の建物なんですけどね(上海城市彫塑芸術中心)。そこで個展もやったことがある(「物語」展、2011年)。それに送った25点くらいの彫刻が1点だけ売れたけど、すっかりアトリエに残ってるのよ。あれをどうしようか、現在は困ってるんだけどね。そのうちどこかに引き取ってもらいたいと思ってる。

加治屋:中国に4年前に移り住まれたのは、なぜですか。

関根:パン・ウェイ(Pan Wei、潘微)っていう作家がいるんですよ。その人は上海のアーティストなんだけど、日本に長いこと住んで武蔵野美術大学とも縁があって、今は武蔵美の客員教授をしているんだけど。彼と知り合って「上海は元気だぞ」って言われて、のこのこ出かけていって(笑)。作品展やって何点かバッと売れたんで、日本よりよっぽどいいなと思ってしばらく。しかもある芸術区みたいなのができて、そこにアトリエを用意してくれたのよ。無償なんで、行くことになったの。そんなきっかけですね。
まぁバブルはじけて以降、私も環境美術の仕事ができなくなって、アーティストとして作品を発表しても生活できなくて、いろいろもがいて今に至るわけですが。だから、私がおもしろいかなと思う、あるいは可能性がある場所には全部行ってますよ(笑)。上海も随分がんばったけど、向こうで仕事をするには、中国語ができないので私の言葉が足りないっていうかな。言葉が足りないし、中国人はあまりにも人間性が独特で、考え方がわからないのがありますね。約束なんかしても、約束じゃないんだよ(笑)。とりあえず言ったに過ぎないのね。そういうのをまともに受けちゃたりすると、後がえらく大変なの。だからちょっと難しいなという感じがあるのと、空気が悪いしね。もう行くのをやめようと思ってるんです。そうしてアメリカになっちゃったの(笑)。それもおかしい話ですね。

加治屋:アメリカはいつからいらしたんですか。

関根:2011年。ブラム&ポーのもの派の展覧会が、2012年の2月でしたっけね。その前段階が少しあってね。さっき言ったようにダラスに住んでるラフチョフスキーさん(Howard Rachofsky)っていう人がいて、そこに呼ばれたんですよ。だから、そんな縁ができたこと。吉竹美香さんが日本に来ていた頃にそういう計画をいろいろ聞いてるし、やっぱすごいなと(笑)。アメリカの経済と美術の関係は想像できない以上にすごいなと思って。だからできるだけ近づいた方がいいかなと。今の日本でアーティストが生きるのは、至難な業でほとんど不可能に近いからね。他の仕事をやりながら美術をやるのも嫌だし。私なんか生意気だから、なおさら嫌なんだよね。だから、関心を持ってくれるところに行っちゃった方が早い。

梅津:ロサンゼルスでもの派展が開かれて、関根さんの他にも小清水さんや菅さんなどは、個展もされています。その辺も含めてアメリカの美術関係者っていうのは、どんな風に受け止めている感じでしょうかね。

関根:うーん、それは残念ながら正確には読めないね。話は聞くけどね。ただね、さっきのミニマリズムの話にも近いけど、必ず位置はあるだろうと思うね。それとアメリカにないものを、もの派がどこかで抱えている部分があるね。2012年の2月にブラム&ポーでやったときに、代表のブラムさん(Timothy Blum)が「皆、感動するんだよ」って言うんだよね。「えー」と思ったけど(笑)。彼が言ってたんだけど、美術を観て感動という言葉があるのは、そうあり得るもんじゃないと。もの派の作品にそう感じてくれるのは、それは素晴らしいリアクションだと思うんだよね。私もある女性に《空相―水》を前にして感動した話を聞かされたことがありますよ。
だから確かにミニマリズムであっても、私のミニマリズムとアメリカのミニマリズムは、同じように見えて全然違うんですよね。また言うかもしれないけど、私がミニマルに自然を切り取るのは、自然の豊穣さを感じつつ切り取ることなんだ。考え方が違ったところが、やっぱり受ける部分もあるだろうと思うんですよね。本当はそういうことも、ちゃんと明文化できないといけないんだけど(笑)。なかなか。駄文を書くのは好きだが論文までは書けないね(笑)。どうしてもエッセイになっちゃうんだよね。
ひとつ言いたいことはね。もの派の考え方はやはり、当時、日本に西欧近代主義を超えようというテーマがあったんだけど、私はその多くは実現していると思うんですね。ちょっと書いたんですが、20世紀初めに、ロシアの思想家にG.I.グルチェフっていう人がいてね。その人は「今世紀の芸術は主観主義にすべて犯されている。芸術家が表明する思想や感慨が、彼自身の主観からのみ生み出されているのだ。望むべきは芸術家の主観から脱却した、かつて芸術がそうであったように、もっと世界観に基づく、他者を受け入れる客観芸術が求められているのだ」と、こう言ってるんですよね。
私、これ素晴らしい指摘だと思うんですね。芸術を語るときに、ほとんどの場合は主観主義なんだよね。主観主義が全部ダメってことはないんだけど、それらが究極的に言ってる芸術論の体系というのは、どうしても個人の表明、個人主義。だから全部個人の思うことが、芸術にとっての創造だと置き換わっちゃってるわけね。創造っていうのはなにか、あっちゃこっちゃいくじゃない。主観を表明することになっちゃうわけね。その芸術論が20世紀から今世紀まで続いてるっていうのは、恐ろしいことなんだよね。だから21世紀中にはそうでない、ひとつの客観主義というかな、それに根差したテーマになるだろうと思うんですね。もの派というのは、深いところで現代という時代のテーマ性に乗ってると思いますね。それは大きな思想の流れなんで、それをやっぱり大切にしていきたい。主観主義から、どう脱却するかという問題の回答があると思うのね。例えば《位相―大地》は、私の主観を見事に反映してないよね。私が作ったと言わなくてもいいわけね、自己投影ではないから。その世界の方が、人々はもっとアートとフリーな関係を保てるわけよね。だから芸術を見て、ある病気の作家の病状に同化しなくても済むわけ(笑)。でもほとんどの場合は、病気を持ってる作家と共有することになるね。例えば、女性のアーティストでいるじゃない。今、最も売れてる。

加治屋:草間彌生ですか。

関根:草間彌生(笑)。皆さん彼女の病気につき合わなけりゃならない。まぁそれも素敵だと思えばいいんだけど、でも芸術はそんな浅いものでないよ、もっと深い世界ですよと私は言いたいな(笑)。

加治屋:では長時間、ありがとうございました。

梅津:どうもありがとうございました。

鏑木:ありがとうございました。

関根:はい。ありがとう。