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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

清水晃 オーラル・ヒストリー 第2回

2016年2月21日

埼玉県北葛飾郡 清水晃自宅アトリエにて

インタヴュアー:平野到、宮田有香、鏑木あづさ

書き起こし:日本職能開発振興会

公開日:2018年3月28日

更新日:2021年9月17日

インタビュー風景の写真
清水晃(しみず・あきら 1936年~)
美術家
富山市出身。石川県公立金沢美術工芸大学洋画科卒業後上京。1960年代前半から廃品を用いた作品やコラージュを発表し注目され、68年からは舞踏家・土方巽らの美術をも手掛けた。1970年代以降は幼少期の原体験を深く見つめ、素描や立体作品によって独自の世界観を表出し続けている。
インタヴュアーは2012年に「清水晃 漆黒の彼方」展を企画した平野到氏にお願いした。
1回目のインタヴューでは作家が「突き刺さっている」という原風景となる幼少期の思い出を中心に、1963年読売アンデパンダン展や《色盲検査表》での第7回シェル賞受賞後の初個展までを伺った。塗装業や工場勤務と作品制作の両立、駆け出しの頃の画廊巡りで考えたこと、初個展を開催した村松画廊や内科画廊に集まる同世代の作家、評論家、画廊関係者との交流についても語って頂いた。

宮田:2016年2月21日、清水晃さんへのインタヴュー、2回目です。お願いします。

鏑木:(「美術は語られる—評論家・中原佑介の眼」展、DIC川村記念美術館、2016年に出品された《色盲検査表 No. 33》の図版を見ながら)清水さん、この作品は川村記念美術館から……。

清水:ええ。案内が来ました。中原佑介さんの。

宮田:そうです、そうです。

清水:あそこのコレクションと中原佑介さんのコレクションで展覧会をやるって。それに《色盲検査表》と書いてあったんです。僕、問い合わせようと思ったんですけれど、川村記念美術館は僕の〈色盲〉を持っているはずはないし、中原佑介さんも持っているはずはないんですよね。これ、中原さんが持っていたの?

鏑木:そういうことになりますね。大きさはちょうど、この紙と同じ(A4サイズ)くらいです。

清水:これ? ……本当?! いやぁ……あ、小さいんでしょう? それなら何枚か描いた記憶があるの。それを中原さんが1点、持っていたんですか。

鏑木:はい。きっと、清水さんから中原さんへプレゼントされたのではないかと。

清水:覚えがないのよ。

鏑木:本当ですか。でもこれ、清水さんの作品ですよね。

清水:間違いないです。僕は100号でずっと、まぁ1番はなくして、2番からずっと描いていて、19番あたりまで描いてやめた記憶があるんですよ。

鏑木:平野さんが作られた埼玉近美の「漆黒の彼方」展のカタログにも、19番までと書かれていました。

清水:そうなんです。平野さんにも、そう言ったと思います。

平野:(「漆黒の彼方」展カタログで〈色盲〉を見ながら)これは全部、100号のサイズですね。

清水:そうです。10番は金沢21世紀美術館へ行っているんですよね。3番は、ニューヨークのコレクターがここへ来て買っていったやつ。で、15番と16番の2点が高松市美術館へ行っているはずです。5と6が、東京都現代美術館。

平野:そうですね。

清水:ああ、これが出てきたんですか。いやぁ、ぜんぜん記憶にないもん。でも、間違いないよね。小さい作品ですよね。そうだ。僕これね、やっぱり何点か描いた記憶があります。33ってなっているから、「100号じゃないな」と思ったんです。これ、中原さんが持っていたんですか。

鏑木:はい。この展覧会は、中原さんが持っていた、いろいろな作家から贈られた作品を展示していたんです。

清水:ああ。……ああ、そうですか。今、思い出したんですけれど、中西夏之くんも持っていたような気がする。彼、自分の部屋に飾っていた。小さい、中原氏のこの33番と同じサイズですよね。飾っていたの、記憶にあります。100号の〈色盲〉は「プレゼントしようか?」と言ったら「俺、要らないから」なんて言っていたんですけど。その頃は、(作品を)捨てたりしていた時代でしょう。それで中西くんが僕に「俺がもしこの作品をもらったら、アイデアがある」って言うんですよ。

宮田:いつぐらいのお話ですか。

清水:〈色盲〉だから、63年。

宮田:63年のときですか。

清水:ええ、そうです。そういうことも思い出した。どんなアイデアで……「欲しかったらあげるよ」って言ったら、この作品に……どこだったかな。大きい穴を開けてね。

鏑木:(作品に描かれた斑点を指しながら)こういうところに開けてっていうことですか。

清水:どうだか、彼の考えはちょっと聞かなかったんですけれど、虫を取る籠の網があるじゃないですか。あれを設置して「後ろからも前からも袋が出たり入ったりするのを作りたい」とか言っていた。今、思い出しました。
ああ、これ中原さんが持っていたんだ。〈色盲〉を作ったときに中西と話をしていて、おもしろいことを言っていましたね。作品っていうのは見る側に対して、どんな名画でも受け身じゃないですか。

宮田:はい。

清水:見る側は自由に見るからね。それに対して作品側は一言も反論できない。観客は言えても、作品は言えないから。でもこれは逆に見る側を作品が検査する絵だと。「ああ、中西くんはやっぱりすごいことを言うな」と思った。

鏑木:おもしろい。

清水:うん。僕が考えたのは、もちろんヌードを見たり数字を見たり、まったく両極端な〈地図〉もそうですけれど。そういう狙いはあったんですけれど、ほら、金太郎飴。どこを切っても同じっていうか。で、これはあくまで平面なんですけれど、この裏には膨大な時空が広がっていて、そのひとつのスライスした断面だっていう考えで描いていたことがあったんですよね。そのときに、「これは見る側を逆に見返す作品だから」っていう、中西くん一流の指摘を受けてね。そういうことも思い出しますね、これを見ただけで。

平野:コラージュに使っているのは、作品の大きさを問わず全部、雑誌『プレイボーイ』の切り抜きからということですよね。

清水:そうです。

鏑木:ちょうど63年に「不在の部屋」展もありましたし、前回お話をうかがった際、中原さんにお会いになったのはそのときだとおっしゃっていたので、その頃に何かのいきさつで差し上げたということでしょうか。

清水:そうかもしれないですね。前のインタヴューで話したと思うんですけれど、このシェル賞の審査員は恐らく、中原さんだったと思う。

鏑木:ええ。64年にシェル賞を受けて、もう1回〈色盲〉で、内科画廊で個展をされています。

清水:中原さん、これについてどこかで書いていましたね。今までの重い油絵の独特のやにっぽい、そういう時代を蹴散らすあっけらかんとした展開があると……。

鏑木:「シェル美術展 熱い抽象からの脱出」(読売新聞1963年9月16日)っていうタイトル。

平野:そうですね。読売新聞の記事。

清水:(記事を見ながら)ああ、それだ。思い出しました。ただあっけらかんと明るく、軽く……。

鏑木:うん、うん。だから中原さんも、この作品をおもしろいと感じていたんだと思います。その頃、差し上げたんでしょうかね。そのときの直接のやり取りというのは、あまりご記憶には……。

清水:記憶があんまりないんです。で、中西くんがね。卵? あれを内科画廊の、棚の上へ置いたんですよ。

宮田:梁(はり)の上とかですね。

清水:そうそう。そうしたら中原さんがそれ見て「このアイデアは、お前がやったの?」なんて、えらく叱られたような言葉遣いで。「いや、これは中西くんがやったんでしょう。僕、関係ありません」なんて言ったのを思い出します。中原さんなりに展示の仕方を考えていたのか、ちょっとわからないんですけれど。中西くんもほら、ただそこに置くような、いわゆる陳列みたいな置き方は好きじゃないタイプだから。

鏑木:じゃあ中西さんなりに、ちょっと変わった置き方をされたんですね。

清水:というより、むしろ彼なりの正当性だったと思う。例えば上野の美術館でね、何の展覧会だったか、卵を床に置いた。それは中西くんのアイデアだと思うのね。でもそれは、人が蹴散らすといけないというので、転がらないように鍋敷きみたいなものを下に置いていた。

鏑木:はい、はい。縄でできている。

宮田:民芸調の。

清水:そうです。あれも中西くんの手製だと思う。あれ、何の展覧会だったかな。それに行った後で中西くんに電話して、「あれは蹴飛ばして転がったらだめなの?」って言ったら、「うーん」なんて言っていた。床に置くっていう意識は僕もよくわかるし賛成なんだけど、蹴飛ばしたら壊れるってこともあるからね。でも本当は、蹴飛ばして転がっていくための床っていうイメージもあるじゃない。そういうこともあって、彼に言ったことがあると思うのね。「うん?」なんて言っていましたけれど。僕の勝手な言い方ですけれど、彼は「俺の本音を突かれた」って思ったんじゃないかな。
中西くんは今でもそうらしいけど、作品を長い筆でタッチするように描くじゃない。絵が揺れるでしょう。普通は三脚かなにかでがっちり押さえる。作品によく「触れて」っていう言葉を使うしね。

宮田:そうですね。

清水:だから、展示するとき絵を上からぶら下げたらどう? ニューヨークに行ったときも、彼独特の見せ方をしていたの。画架? でっかい、こうやってキャンバスを上げ下げする大きな画架。あれに作品を乗せているのね。あれ、ニューヨークまで持っていったのかなと思って見てきたんです。彼は飾り方も、ただ陳列するよりはね。高松次郎もそういうところがあるし、赤瀬川くんもそういうところがあったし。だから彼らのパフォーマンスも、理解できることが多かった。
だから中西が〈色盲〉の作品を見て、それをずばっと言った。僕自身が気づかなかったことをね。

宮田:見る側を検査する。

清水:「逆に見る側を見返す作品」っていう。

鏑木:ちなみにこれは33番ですが、その前の番号はあるんでしょうか。

清水:いや、これも今、思い出したんですけど、初めて気がついた。だって忘れているもん(笑)。でも、何枚か描いた記憶はあります。中西くんも部屋に飾っていたのを覚えているもん。居間に。

平野:小品をっていうことですか。

清水:そう、これ。このサイズ。(A4サイズの紙を示しながら)こんなもんでしょう、おそらく。

鏑木:中西さんは、何番をお持ちだったんですか。

清水:覚えてない。

鏑木:大きいのはたぶん、順番に番号が振られていると思うんですよね。描いた順番はわからないですけれど。

清水:いやいや、描いたのは前後していると思う。最初にシェルに出したでしょう。それは、この前言ったようにね。

鏑木:4と9っておっしゃっていた。

清水:ええ。縁起の悪い数字をあえて選んだっていう。それから……。いや、ちょっと記憶にないな。
僕の勝手な憶測ですけれど、内科画廊の「不在の部屋」展のときは中原さんなりの展示の仕方が頭にあったにも関わらず、なんでしょうね。でも中西くんにじゃなくて、何で俺に言うのかなと思ったけど(笑)。

鏑木:誰かに言いたかったのかもしれませんね。

清水:そうだと思うの。でもやっぱり作品の置き方って、大事ですから。そこまで要求してくる内容のある作品ってあるじゃないですか。ただ展示するんじゃなくてね。そういうことも、中西くんから学べたかなと思います。
平野さんにも言ったかな。福岡市立美術館に、〈地図〉が1点あるって。あの頃、〈地図〉はだいたい、他の多くの人にプレゼントしたんですよ。たしか二百何十点くらい作った記憶があるんですけど。

鏑木:すごい量ですね。

清水:ああ、これ(「漆黒の彼方」展カタログp. 95、D1を見ながら)。カメラのレンズかなんかが入っている。これだけちょっとニュアンスが違うんですけれど。これも誰かにあげたの。九州の……。

宮田:風倉(匠)さんとか。

清水:風倉かな。菊畑(茂久馬)じゃないな、風倉だな。

平野:作家にあげたものが、福岡市美に寄贈されているんですね。

清水:そういうことなんです。僕は誰にあげたか忘れてしまっているから、覚えてないの(笑)。風倉だったかなぁと思いますけど……。

平野:九州派の人かな。(2021年9月17日追記:清水作品の寄贈者は九州派の大山右一氏。『福岡市美術館所蔵品目録 近現代美術』福岡市美術館、1992年、p. 141より)

鏑木:当時からそういう風に、お友だちに作品をよく差し上げていらっしゃったんでしょうか。

清水:そうね。だって捨てたり、人にあげたり……。作るときは自分なりにちょっと頭をひねったり、苦労する。体力も使う。でも作ってしまったら、誰が持っていてもいいっていう感覚なの(笑)。「欲しかったら、持っていったら」なんていうタイプなんです。
60年代は川崎時代ですから、町工場の2階でうちの人と住み込みでいたからね。前にも話しましたけども。

平野:〈色盲検査表〉の一連のシリーズは、非常に短い期間しか制作してないですよね。

清水:そうですね、意外とね。

平野:それは、なぜだったんですかね。

清水:だって、他にやりたいことがあったから。あの頃、初めて東京に出てきて、見たい展覧会がめじろ押しで銀座で画廊回りして。ちょうど60年代で、読売アンパンがあったじゃないですか。
要するに種村(季弘)さんもいつかどこかで書いていたと思うんですけど、60年代は「やりたいことが清水に襲いかかった」っていう言い方(注:種村季弘『土方巽の方へ—肉体の60年代』河出書房新社、2001年)。だから変な話、一つのテーマはすぐ飽きるじゃないですか。あとはどういう見せ方をするかっていう。謎がない作品だから。むしろ謎のない作品にしたんですけどね。
それともうひとつ、〈ブラックライト〉もあったし、〈地図〉もこの頃にやっているはずです。やりたいものが周りにあふれて、どーっと来たもんですから。で、これはやっぱり……うん、前にもちょっとしゃべったかな。宮田さんのところで、シェルの賞取ってから多くの個展をしているのね。「新しい展開はないの?」なんて言われてさ。

平野:ああ、なるほどね。

清水:まあ、そういうこともあったりしてね。謎がないから、しょうがないのね。同じ思考で同じ表現方法でできる作品ですから、だいたい20点ぐらい描けば、もう用は達したっていう感じが自分の中にあるし。

鏑木:ある程度描いたら、これはもう描ききったというか。

清水:そうですね。下町工場で2階に住み込みで、下が工場だったのね。汚い家ですよ。そうすると夜そこで描いていて、4か所に天井にくぎを打って針金つけておいて、こうやって縛って。しまいには、こんなになっちゃって(笑)。下に人が通ると、頭がぶつかるくらい。置き場所がないですから。そういうこともあって、こちらへ引っ越しするとき、シェルのやつは雨ざらしにしてダメにした。4と9は。

鏑木:そうだったんですね。

清水:ええ、そうなんです。それは、ギュウチャンなんかも最たるものじゃない? ましてや〈ブラックライト〉なんて、くず屋からくず屋で。川崎にいたとき、近くは鉄くず屋だらけなんですよ。昼休みでも、ちょっと行ってみるくらいの距離でしょう。そうすると、そのまんま作品みたいなものがゴロゴロあるわけ。消防自動車なんか、ギロチンみたいにこうやって輪切りにされていたりね。あれを美術館に置いたら、作品ですよ。あと、ピラミッド。この家よりももっと高いかな。ガラスを粉末にして。要するにいろんなガラスを粉末にして、また原料にするんでしょう。それがね、天気のいい日なんかはきれいなのよ。風が吹くとキラキラ光るの。ピラミッド全体がガラスの破片で。

宮田:揺れて。

清水:うん。それからテレビに出たとき、芥川龍之介の息子さんの芥川也寸志が出ていたんだったかな。それに〈ポスト〉で出たことがあってね。そのときアシスタントの女の方のおじさんかお父さんが名古屋でポストを作っているって言うんですよ。「え、見学に行っていいですか」って紹介状をもらって、名古屋へ行って見た。ポストを鋳物で造るのね。そうすると、必ず失敗が出るんですって。ひびが入ったりする。それがピラミッドみたいに、山になっているの。あれをあのまま美術館に置いたら、ものすごい作品だなと思う。その時代は、そういうものを現実としていっぱい目にしたから、触発されたっていうこともある。それから、閉ざされた北国から東京へ出てきて解放されて、いきなりぶつかってさ。そういうものを目の当たりにすると、もうルンルンみたいな。だから作品で頭を悩ませたことはなかったですね、「何を作ろうか」って。

鏑木:じゃあとにかく、来るもの、来るもの。

清水:そうですね。だからあの頃は、最後にギュウチャンと電車を作ったりした。

平野:今のお話はおもしろいですね。あの時代は産業廃棄物みたいなものが大量に出てきて、その廃材の中に何らかのリアリティを見いだした。時代との関連性がよくわかりますね。

清水:そうですよね。だからストレートにぶつかってくるものがあるっていうか。距離があったものを、自分の力で縮めて何とか手を握るとか、そういうことじゃないのよ。僕の考えも、周りにある風景なんかを自分の胸の中に取り込んで、熟成して作品化するってことじゃない。色盲検査表とか、ベッドとか、実際にこういうものはあるわけでしょう。むしろ現実の中に自分が逆に出掛けていって、そこを変革する。赤瀬川くんのお札もそうだと思うんですけれど、そこに自分の表現としての個性的なものを一切持ち込まない。考えだけで勝負してしまう、みたいなね。60年代はそういうことがずっと続いたので、平野さんの質問は、おそらくそういうことですよね。
(〈色盲検査表〉の)100号は、20点描いたかどうか。で、ここへ来るときに、パブリカっていうトヨタの小さい車の屋根につけて、川崎からここ(現在の目沼のアトリエ)まで運んだんです。

鏑木:大変でしたね。

清水:ええ。結局、だいぶ捨ててきたし……。

鏑木:もったいないけれども、当時はしょうがない?

清水:そうですよね。今だったら、わかっていれば残しておくっていう言い方ができるけど、当時はそういう……。立派なことをやっているっていう考えは、ないですもん(笑)。

鏑木:そのときは、そういうものかもしれないですね。

清水:ええ。今はこれを1枚見せてもらっただけで、こういう話できるから(笑)。

鏑木:そうですね。ところで清水さんは、宮田さんのお父さんにも作品を差し上げていらっしゃる。

宮田:それは、ちょっと後になるんですけれどね。

清水:あなた、お父さんが展覧会に出品したの、知ってる?

宮田:知らないです!

清水:知らないでしょう。新宿のね、「Big Fight」展(注:正しくは「Off Museum」展、椿近代画廊、1964年6月17日-22日)。

宮田:ああ、はい。名前が出ているポスターだけは、見たことがあります。

清水:何を出品したか、知ってる?

宮田:知らないです。

清水:滑り台、子どもの。

宮田:そうですか。へぇ、そうなんだ。

清水:おそらくお父さんがペンキ塗り替えた、鮮やかな色の子どもの滑り台。大きいのじゃなくて。幼稚園なんかにあるでしょう、小さいの。どっかから手に入れて。お父さんが作ったわけじゃないと思うの。ペンキを塗り替えた、鮮やかな色の滑り台だったのを覚えてるよ。

宮田:初耳です。

清水:でしょう。

宮田:名前が出ているのは知っていたんですけども、「ふうん」と思って(笑)。

清水:でも、お父さんの話をすると、またいっぱい……。お父さんと中西くんと菊畑くんと茅ヶ崎の方へドライブして、プールで泳いだのを覚えてるよ。お父さんの車と俺の車、2台で行ったの。あと、中華街? 夜、中西くんとあそこをずっと行って散歩したのも、頭の中に全部残っています。
当時は要するに(作品を)捨てたり、「欲しい」って言われるとあげたり、みたいな時代でした。

鏑木:当時は皆さん、そういう感じだったんですか。

清水:うん。でも、中西くんはちょっと違ったと思う。彼は俺に「作品は大事なしなきゃ」って言っていた。中西くんは、こんな小さいメモまできちんと整理して、しまっているタイプですから。ギュウチャンとか俺は、「持っていったら?」とか言って(笑)。

鏑木:〈色盲〉は、いろいろな番号がある可能性もあるんですね。例えば33の他に、何枚かあるかもしれない。でも貼り込まれているコラージュは、作品ごとに違いますよね。これは雑誌の『プレイボーイ』から切り取っているということでした。

清水:そうです。手法はまったく一緒ですよね。

宮田:コラージュというか、ものを組み合わせるっていうのは、先ほどお話されたように、目の前に物がたくさんあって、視覚的に魅力的なものがいっぱいあって。

清水:僕、基本的にね……基本的にって言ったらおかしいですけど、自分をコラージュ作家だと思っている。極端なもの同士がぶつかり合って、お互いがむしろ殺し合うことが始まったりして、逆にまた何かが生まれてくるみたいな。僕、それはコラージュだと思う。

宮田:紙だけではなく、立体的なオブジェでも。

清水:そうです。だから、二面性っていうのかな。二重性。これも二重性です。《ブラックライト》だって、がらくたの死の世界が極彩色に変わる二重性でしょう。いまだに僕の作品には二重性ありますもん。(家の)向かいのタナカさんが、釣り好きで、よくおもしろい話をしてくれる。“二枚潮”っていう言い方するのね。今の季節かな、アコウダイを釣る。彼はもう行けないらしいんですが、400mくらい深いところへ釣り糸を垂らすんですって。そうすると真ん中辺りに二枚潮っていう潮があって、表面はこう動いていても、下の方は逆にこう動いている潮があるらしいのよ。

宮田:潮の流れで。

清水:ええ。それを“二枚潮”って言うんですって。僕も二枚潮の作家かなって。コラージュでアレンジをする作家が多いじゃない。ただアレンジだけのかっこいいことをする。あれは僕は、ぜんぜん意味がないと思う。コラージュの本質っていうのはやっぱり、自分の中に眠っている異質なものってありますよね。人間って矛盾していてね、ピカソなんか最たるものだと思うんですけれど、そういうものをお互いに消さないで、矛盾したまま抱いていて、そこから、むしろ逆に見えないものを取り出すみたいなこと。だからコラージュっていうと、手法的にはあくまで紙のね。僕は立体もいろいろやっているけど、でも基本的にはコラージュ作家だと思うのね(注:このインタヴューではピカソの話題が何回か登場するが、最近作品集を読んだばかりとのことだった)。
一昨年にニューヨークでやったときも、その画廊さんはコラージュの作家を専門的にやりたいということだったらしいんです。別にそれにこだわる必要はないと思うんですけど。行ったら部屋が三つあって、僕に大きい部屋を与えてくださったのね。(隣の)狭い部屋にぎゅうぎゅう詰めの展示があって、それもコラージュでした。本来はそれを(大きい部屋で)やるつもりだったらしいんですけど、急遽僕のをやることになったらしくて。
コラージュの意味っていうのは、例えば〈目沼〉でも、できたものは皆小さい作品なんですけど、矛盾する対峙する世界が大きく競い合って、その足場から底なしの永遠の謎が正体を現してくる……。

宮田:そうですよね。

清水:もう一つコラージュが面白いのは、新しい自分に出会えること。結局、自分なんですけれど、自分が自分で気づかなかった自分っていう部分があるじゃない。それをね、端的に……。だって、自分で一から作ったものなんてひとつもない。他のものから霊感を頂いて、こう作るだけですから。でも、こうやることの意味? そういう二面性は、僕は未だにあると思います。
僕が子どもの頃、近くの工場で夏休みに、野外テントみたいなもので映画会をやってくれるんですよ。皆、こっち(正面)から見ているでしょう。ぎゅうぎゅう詰めなのね。反対側からも見られるわけよ。俺、そっちに行って見てたもん(笑)。草の上で、こうやって。裏から見たっていいんですもん。だからその裏側にあるものとこちらのものを、ドッキングさせるというか。基本的には僕は、コラージュ作家だと思いますよね。

鏑木:それはおもしろいお話ですね。当時からそういうことに、自覚的でいらっしゃったんですか。

清水:やっぱり本能的ですね。この前(1回目)のインタヴューを改めて読むと、鰤の口から鰯を抜き取ったとかさ。闇の中から、命を抜き取るわけでしょう。それから雪道にこぼれている米を拾うっていうのは、光の中にある米を、今度は手袋の闇の中へ入れるわけでしょう。「闇から光」とか、「光から闇」みたいなところの二重性があるじゃないですか。命の過程が行ったり来たりする。そういう経験をしていることもあるかなと思うんです。

平野:確かに清水さんの作品全般の、極端なものを組み合わせるというのは、いわゆるコラージュ作品だけじゃなくて、オブジェ的な作品にも通じる。垂直性に水平性を組み合わせる方法とか。

清水:そうですね。ありますよね。

平野:富山のお話されるときも、海と山が迫っている風土の話をお聞きしましたが、そういう部分とつながってくるものがあるんですね。

清水:そうそう。平野さんが書いてくださったよね、滝の話とか。土方さんと話していて共鳴したのは、育った風土が似ているから。前回、新聞配達の話をしましたけど、そういうときに体に取り巻いている抵抗みたいなもの、身動きできないもの。「おまえを動かさないぞ」みたいなものに圧迫されている風土っていうか。そういう話も土方さんとしていてね。だから僕は、《砂利の衣装》を作れたんだと思う。だって、「踊らせないぞ」っていう考えがあったもん、僕。「踊れるなら踊ってみたら」って(笑)。

鏑木:石をつけてね。

清水:ええ。結局、高井さんは自分がこっち行きたくても、(石の重みで)あっちへよろめくときがあるわけね。その方がむしろおもしろい。そういう話も、土方さんとしたと思います。圧迫されて、自分の意思どおりに体が動かない。そういう経験をしているから、逆に反動として瞬間的に動く。だから「稲妻に食らいつく」とか、生まれてくると思うのね。実際、鰤起こしで落ちた話をしましたけれど、永遠に身動きできない、閉ざされた動きのないところで、もし動くとすれば、稲妻に食らいつく。だから、すごく圧迫された解放っていうか、その両極端。それも僕は高井さんの踊りに、同時に出しているのね。ポスターで《稲妻捕り》、衣装で《砂利の衣装》。そういう両極端をいっぺんに持ってくるのは、やっぱり僕なりのコラージュだと思う。一方だけでも成り立つけど、両方があるとせめぎ合いがあるじゃないですか。こっちがこっちを殺すところもあるし、こちらがこっちを生むときもあるし、また何か新しい……。じゃあなぜ“鰤起こし”っていう稲妻が落ちたら鰤が揚がるのかって聞かれたら、僕は分からないです(笑)。でもそれは事実なのね。鰤起こしっていう言葉は、未だに富山の漁師が使っています。
闇と光だって同じことだと思うのね。閉ざされた風土の中で光るものの話だと思うんですけれど、ホタルイカの身投げってあるのね。春に産卵で浅瀬に上がってくるんですよ。そうしたら波に打ち上げられて、戻れない。海岸がずーっと、ホタルのゴミみたいに光るんですよ。そういう、暗い中で光るもの。まぁ太刀魚なんてどこでも取れますけど、あの風土の中で見る太刀魚。「鰤の腹も光って見えた」っていう言い方をしたと思うんですけれど、太刀魚をひっさげて強盗に入ったっていう話があるんです。まさしく太刀に見える。そういう異様な光り方って、富山の風土によるものですから。山が光るっていう話もしたと思いますけれど、そういう闇と光とか。それを僕は〈漆黒〉で、その闇の部分をずいぶんやったと思うんです。
作品自体にも闇と光とか、そういう両極端がありますけど、僕の長い作家生活の中でも、あるときからずっとトンネルの中に入って一所懸命やってみるとかね、トンネル抜けたら光にさらされてみるとか。
昔の俳人で橋本多佳子さんって、大好きな俳人がいるんです。高浜虚子かなんかの流れの中で。彼女の俳句に「ひとところ闇をくぐりて踊の輪」ってあるんですよ(注:正しくは「ひとところくらきをくぐる踊の輪」)。盆踊りかなんかがあるわけでしょう。みんな提灯の明るい中で踊っているんだけど、どこかひとところ木の陰へ隠れて、こっちへ出てくるとかね。そういう句があるんです。ひとつのリングでありながら、どこか一カ所トンネルみたいなところがある。

宮田:俳句とか、言葉からインスピレーションを得ることも多かったんですか。

清水:そういうことはあんまりないんですけれど、うちの人が俳句やっていたせいもあって。高浜虚子さんっていう文化勲章受けた人、あの人の偉いところというのは、お弟子さんに女流作家をいっぱい生んでいるのね。正直に言うと、女流作家の杉田久女とか、そういう人の俳句の方が好き。なぜか女流の方がすごいね。何でだろうと思うんですけど、女は謎だからさ(笑)。男には太刀打ちできない。
橋本多佳子も、いい句がありますね。「髪乾かず遠くに蛇の衣懸る」って、要するに髪を洗って濡れているんでしょうね。すると、遠くに蛇の衣が懸かっているっていう句があるのね。おそらく垣根かどこかに、蛇の抜け殻があったんでしょう。それは、男には詠めない。山口誓子にも代表作に「海に出て木枯帰るところなし」っていう句があって、それは特攻隊のことを詠っていると思うのね。それもすごいと思うんですけれど、粘り着くような謎がない。ある意味、説明的。だから、女の人の俳句というのはすごいなと思う。

宮田:俳句を読むというか、知ったのは、いつぐらいなんですか。

清水:中学校の時から好きだったの。学校に「たらたらと日は真っ赤ぞ大根引」って、蕪村の句とかを教えてくれた先生がいたんですよ。えらく興味を持った。「菜の花や月は東に日は西に」とか、あ、すごいなと。その頃から俳句には興味があったの。うちの人が俳句に入ったのは、ここへ来てからの話です。僕はその頃から俳句を読むのが好きだったのね。影響を受けてないって言ったらおかしいけれど、好きっていうことは何かあるのかな。特にその中で、女の俳句の人がすごい。男には詠めないね。女の人って、謎の中に身を置いても平気だね。男ってすぐに「ここ、どこ? 俺、誰だ」って始まるじゃないですか。そうじゃないと落ち着かない。女の人は、平気で謎の中にいるもんね。あれはやっぱり、すごいなと思う。
だからよく、女流作家を集めた展覧会とかあるけど、そうじゃない。女の人には、そういう謎の部分があるのよ(笑)。その謎に迫る展覧会っていうのを、誰かがやってもいいなって思うときはありますよね。誰も掘り起こしていないもん。俳句だけだね、すごいのは。それを高浜虚子さんがやったから。星野立子さんかな。「寒ざむや六角形の赤鉛筆」っていう句があるのね。そういうのも頭にも残っている。あれは男には詠めないね。そういうものをじっと見ている、女の人のまなざしのすごさ。橋本多佳子の、「いなびかり北よりすれば北を見る」っていう句もすごいしね。ものすごい寂寥を感じるけれど、そこに女の人の情念を含めた強さも感じるよね。
そういう女の人に対する独特の僕の反応のしかたがあるとすれば、「清水さんの作品は色っぽいね」って言われるのは、そこから来ているのかもしれない(笑)。よく分からないです、それは。

宮田:それでは、60年代の話に戻して。前回もいくつか伺った《リクリエーション》という作品ですけれども、私は内科画廊で展示された(「不在の部屋」展の)ベッドの作品の写真はよく見ていたんです。でも平野さんが作ったカタログで改めて写真を見ていたら、アンパンに出たときは台座というか、台の上にベッドが乗っていて。ここに時刻表とか、この地図とか。

清水:卓球台とかね。

宮田:はい。このセットで出ていたんですね。

清水:自分としてはね。

宮田:台座とは言わず、作品の一部だとは思うんですけど。なぜ時刻表とか、地図は〈地図〉のイメージがあったのかなと思ったんですけど。

清水:あの頃はジャスパー(・ジョーンズ)とか(ロバート・)ラウシェンバーグとかがボンボン入ってきた時代で、僕もものすごくストレートに影響を受けた。だからそういう作品には違いないんですよね。〈色盲〉もそうです。アメリカ的な。
で、何ていうかな……他の皆の作品がパワフルでエネルギッシュで、体力勝負ではとてもじゃないけど太刀打ちできない。そういう作品を作る場もなかったしね。「じゃあ」ってことでストレートに、現代に打って出るものの素材を選ぶ。特別な、何か、手つきが個性的とかいうことじゃなくて、自分の姿勢、やり方、アプローチのしかたが最も効果的な素材は何かと考えて選んだことは間違いない。地図もそうだし、どこかの駅の時刻表ですよね。卓球台とかね。それで選んだと思うんです。

宮田:見た感じ時間的な情報と、廃物というか不思議なオブジェが乗っていて、いろんなことを考えさせられるのかなと。写真からだけの印象ですが。

清水:そうですよね。

宮田:じゃあ、組み合わせを常に考えて。

清水:そうです。これ(下の時刻表や地図)は展覧会が終わったら、みんなどこかへ行っちゃった。置き場所がないですから。残ったのはベッドだけなんですよね。だから内科画廊で中原さんが企画した「不在の部屋」も、ベッドだけでした。

宮田:はい。それはもうなくなっていたっていうのと、内科画廊は狭いから、無理だったのかなとも思ったんですけど(笑)。

清水:それもあるんですよ(笑)。ただ電車の幅(くらいの時刻表の台)が、ちょうどセットで入ったのね。で、阪神大震災があったでしょう。

宮田:はい。

清水:そのあとで兵庫県立美術館が再建して、こけら落としの展覧会に出品依頼を受けたのね(注:「松方・大原・山村コレクションなどでたどる美術館の夢」2002年)。向こうがおっしゃるには、時刻表を再現して欲しいってことだったの。そのときに再制作した時刻表はあります。サイズは一緒です。

平野:読売アンデパンダン展では三つの大きなパーツがあって、これ自体がそれぞれ、その前にあった第2回の村松画廊での個展(1962年6月25日-30日)の要素を、さらにここで作品ごとコラージュしていくような感じですよね。

清水:そうなんですよね。

平野:だからこれは地図を描いて、地図の上に剥製がある。こちらは、やはり雑誌の切り抜きか何かを……。

清水:それも入っています。

平野:そうですよね。

清水:はい。だから、普通のコラージュの世界があるしね。ドリッピングはしましたけど。

宮田:この上に、ゴルフバッグが乗っているんですね(笑)。

平野:そうですね。だから、この第2回の村松画廊での要素を再統合するような感じ。

清水:そうだったんですね。

鏑木:パワーアップじゃないですけれども。

平野:再統合ですよね。

清水:ええ。本当はベッドだけでもよかったと思うんですけど。

宮田:でもアンパンの中で、スケールを求められるというか。

平野:これを展示しているときに、中西さんから声をかけられたんですよね。

清水:そうそう(笑)。後で見たら彼は健康体の男だったのに、初対面のときはなんか青白いっていう印象があった。それだけ彼はいつもクールな印象の男だったし、僕とはまったく対照的。だから、そういう感じを受けたのかもしれません(笑)。

宮田:〈ガイドブック〉は、〈ガイドブック〉っていうタイトルにしたのはなぜだったんですか。地図だからっていうのもありますけど。

清水:「マップ何とか」っていろいろあるじゃないですか。そういうのにしてもよかったんですけど、一番わかりやすいのが(笑)。

宮田:でも、「ガイドブック」っていう説明的なものも……。

清水:そう。「マップ」っていうと、地図。「ガイド」っていうと、それを離れてどこかへ旅立つみたいなイメージもあるじゃないですか。だからつけたと思うのね。だから、「地図」っていう言い方はしますけど、タイトルを「地図」じゃなくて「ガイド」にしたのは、そういうことかな。
初めはね、こういう単純な地図とヌードがドッキングしているだけ。演歌的に、すごく通俗に言えば、女の港ですよ。後からいろいろ手加えたこともあるんですよね。おそらく篠原くんがそれを見て、何か言ったんですよ。「君の内面的な、描かずにおけない記号なんだろうな」って言い方したのを覚えてるのね。地図とヌードだけでもよかったんですけど。そういう作品もあるんです、実は。どうしても何か、コンパスを使ったり。

宮田:そうですね。その線が入ることで、すごく動きが。

清水:そうなんです。昔の地図はね、海の部分にも等高線みたいな飾りの線が入っている。それがすごくきれいだったし、自分なりにそういうものを描きたい欲望があった。で、これ自身は、僕はまだ全部の作品がそうですけど、「何かを描き加えて失敗してもいい」みたいな。要するに、作品っていう意識がなかったから。どんどん描き加えて、まだ見たら、また描き加えるかもしれない。未だにいつも、現在進行形みたいな作品。「けりをつけました」っていう作品もありますけど、未だにけりがつかない作品もあるのね。

宮田:なるほど。

清水:そういうのは、一生かかった仕事になるかもしれないし。

宮田:このあと〈ブラックライト〉を経て〈色盲〉が来て、〈ポスト〉が来ますね。

清水:それもさっきも言った赤瀬川くんのお札みたいに、現代っていう化け物に直接ストレートに取っ組み合えるような相手。やっぱりポストっていうことで。だから地図も、ポストも、ブラックライトも、色盲も、みんな現実にあるものばっかりですからね。

宮田:でも私は、4番(「漆黒の彼方」展カタログp. 100、G4)のこの内側を見せている、このぺろっとした感じがすごくおもしろいなと思いました(笑)。

清水:まだ未発表のポストがあるのよ、向こうの離れに。さっきも中西くんが作品に袋をつけるアイデアの話をしましたけど、これもS字型でね。こちらから見ると表。こちらが裏側になる。それがまた逆転して続いている、みたいな。そういう作品がまだ2、3点、向こうに未発表のものがあるんです。整理したら出てきたの。

宮田:一番格闘しているというか、食べてみたり、かぶってみたり、すごくいろんなことを試みたんだなって(笑)。

清水:そうですね。『週刊文春』の写真があるけど(「『ポスト』と私 一枚の写真に魅せられた男」『週刊文春』1965年10月18日)、銀座も歩きましたもんね。ポストを担いで。

平野:ちょうど美術館とか画廊ではなくて、外に出ていくことを一番盛んにやられた頃ですよね。

清水:そうです。アウトドア派って言うの? よくわからないですけど(笑)。

平野:オフ・ミュージアムじゃないですか(笑)。

清水:オフ・ミュージアムか(笑)。

鏑木:アンパンが終わった頃は、同年代の作家の皆さんがそういうことを意識していましたよね。清水さんもギュウチャンたちと一緒に、椿近代画廊で「Off Museum」展をされています。そういう活動について、清水さんご自身はどのように考えてらっしゃいましたか。

清水:そうね。要するにいわゆる作品作りじゃなくて、何て言ったらいいんでしょう。特に僕なんかは田舎から出てきたから、余計そういうショックは大きかったと思う。「作品を作る」っていう意識じゃなくて、もっとそれ以前かそれ以後か、それを取り巻く時代性、空間か時間か。そういうところからアプローチしたいっていう考えみたいなものに、僕はぶつかったから。で、この前ちらっと平野さんがおっしゃっていた「時間派」っているでしょう。あの人たちは、僕はもうちょっとピックアップされてもいいと思う。いい作品が多いんですよ。サトウ画廊で見た作品なんか、素晴らしいの。ちょっと地味な展覧会でしたけど(「時間派展」サトウ画廊、1962年5月)。おそらく彼らも外で何かやって、ニュースになったこともあるし。要するにアトリエでベレー帽をかぶってパレットを持って、それもいいんですよ。でもさっきも言ったようにもっとストレートに、自分から出かけていって描くとどうしてもオフ・ミュージアムってなるので、それが自然だったと思いますよね。流行っていたからやるっていうことじゃなくて。

宮田:うん、うん。

清水:でも僕はやっぱり古風なところがあってね。今は作品を作りたいと思う。なぜかな。わからないんですけど、今はテーマパークみたいなものが多いじゃないですか。それはそれでいいんですけど、すごくクラッシックな考えで、作品を作りたいと思う。

宮田:テーマパークを経ての(笑)。この「メリーさん」展(「メリーさん、メリーさん」内科画廊、1965年6月28日-7月10日)も、とっても、そういう空間自体を作るっていう意味で。

清水:そうですね。懐かしいですよ。

宮田:(写真を見ながら)これ、天井は地図なんですかね。

清水:天井に馬の絵が描いてあるの。

宮田:そうなんですね。

清水:僕が描いたの。馬を1頭、描いた。サラブレッドです。

宮田:ああ、こう見ると馬ですね。何でサラブレッドだったんですか。

清水:僕は本当は白いだけの電車だけで、僕の展覧会を個人でやるつもりだったの。

宮田:そうだったんですか。

清水:そうだったの。そのときは、天井の話も何もないんですよ。ただサイズが一緒のもの、しかもペンキを白く塗っただけのもので十分だったの。で、いつもここ(内科画廊)へ行くと、友だち皆がたむろしていたから、ギュウチャンに「俺、ここで本物の電車の展覧会やるんだ」って言ったら、「じゃあ俺、お客さん作る」って言うの(笑)。ギュウチャンがここへお客さん作るなら、それに太刀打ちするために電車を自由にやろうと思って、天井に馬の絵を描いた。おそらく爪先まで描いてあるはずです。

宮田:そうですね。ここに爪先が見えます。

清水:そしたら小島信明くんが、また自分の作品を持ち込んできたのね。

宮田:そうですね(笑)。小島さんはご自分の作品を。

清水:ええ。いわゆる作品っぽくなってしまったんですけど、僕のもともとの考えは白一色の、電車とまったくサイズの同じ空間を再現して、正直なところを言うとそれで事足りたの。でもあの頃は皆、ギュウチャンに誘いを受けて、「じゃあ、参加する」って言っていた記憶があるんですよ。入り乱れていたから(笑)。だから何も自分の考えだけじゃなくてね、「参加するなら、して」なんて言って、できた展覧会がこれだった。

宮田:その電車っていう発想は、なぜ来たんですか。

清水:それもほら、〈ポスト〉と一緒の発想さ。

鏑木:確かに白い電車だけだと、ポストにつながる感じがありますね。

宮田:中に人とか、何か情報が入って。

鏑木:そうそう。それがもっと大きくなっているような。

清水:そう。だから来たお客さんは絵を見ないで、電車のお客さんみたいに座って帰るだけとか(笑)。内科画廊は、新橋の駅でしょう。

宮田:そうですね。

清水:電車の音が聞こえるのよ。ガッタン、ガッタン、しょっちゅう(笑)。

宮田:西口の目の前で。

清水:それがね、すごく響きがあってよかったの。

宮田:じゃあ中にいながら、つかまりながら一緒に揺れている、みたいな(笑)。

鏑木:なんか不思議な(笑)。

清水:だって、電車の音はリアルだもん(笑)。

鏑木:じゃあ、いろいろないきさつがあって、こういう3人展になったんですね。

清水:そういうことなんです。初めは、僕だけの展覧会の予定で。

宮田:この「メリーさんメリーさん」っていうのは……。

清水:ギュウチャンがつけたの。「あんた、自由につけたら」って言ったら、その場でギュウチャンが「『メリーさんメリーさん』でいいんじゃない?」って言ったかな。俺自身は、よくわからん(笑)。

宮田:内包しつつ。

清水:60年代は、これで終わっていると思うんですよね……ああ、このほかの作品もありますね、そういえば。

鏑木:話が前後してしまって申し訳ないんですけれど、オフ・ミュージアムに戻ると、あれはやっぱり63年にアンパンが終わって、発表する場所が……。

清水:そうだったと思います。新宿でやったやつね。

鏑木:ええ。当時「アンデパンダン’64」とか、いくつかありましたよね。

清水:そうそう、そういうことなの。63年で終わったから。その余勢を駆ってどこかでやらないとさ、始末に負えないみたいなところがあったじゃない。急ブレーキかけて、チョンじゃさ(笑)。

鏑木:はい。アンパンが63年に15回で終わっちゃったこととか、周りの作家友だちが自分たちでそういう場所を作って発表しようっていう流れがあったことに関して当時、清水さんが考えていらっしゃることってありましたか。

清水:いや、僕自身もそこら辺、どう言ったらいいんでしょう……だから赤瀬川くんだってそうだと思うのよ。もし(千円札が)問題にならなかったら、あれで終わっていたと思うんです。でも図らずも時代が牙をむいてきたんですから、それに対してやっぱりこちらも黙っているわけにいかないところがあるじゃないですか。本当は作品、行為で、作家側としては終わっているんですよね。でも相手がそうじゃなかった場合、やっぱりね。この前、赤瀬川くんが亡くなったときに、展覧会でちょうどやっていたのね(「赤瀬川原平の芸術言論 1960年代から現在まで」千葉市美術館ほか巡回、2014年)。裁判の会場の作品が出てきたんですよ。

宮田:そうですね。

清水:僕もそれに〈地図〉を出しているんですよ。このくらい(B2サイズくらいの四角を空中で描いて)拡大したやつ。それがね、裁判官かなんかの後ろに、ずらっと並べられて。

宮田:ああ、並んでいるやつ。

清水:そうなんです。僕、初めてそれで、「ああ、裁判の会場に俺の絵を出したんだ」と思った(笑)。それも青写真展ですか。テレビで見て気づいて。

宮田:確かに後ろに並んでいますよね。

清水:あれなんですよ。この前、出てきたの。もう汚くなっていたから破いちゃったけど、このぐらい大きいやつなんです。

宮田:破いちゃったんですか。

清水:捨てました(笑)。ここは雨漏りがすごくて。やっと塗ってもらったけど、そこにござが丸めてあるの、後で見てください。みんな腐っていて、雨が作品にかかっていてね。

鏑木:そうなんですか。作品の保管は大変ですよね。

清水:その地図のこれも、なんか小汚いもので(笑)。でもこの前のテレビ見ていて、「ああ、出したんだ」と思ってね。なぜあの〈地図〉があそこにあるかっていうと、僕が提出したっていうよりも、赤瀬川くんたちの闘っている組織みたいなところから、「出してくれ」って言われたんだと思います。

鏑木:千円札事件懇談会。

清水:そうそう。そっちからの依頼で出したんだと思います。そういう依頼が来るっていうことは、やっぱりね。

平野:ヨシダ・ヨシエさんとかがやっていた。

清水:そうです、そうです。だから特別……。こちらで終わっていても、相手が終わらなきゃ、やっぱりね。逆もありますしね。向こうで終わっていても、こちらは終わってないとかさ(笑)。でもそのズレが、結構おもしろいんですね。
だからそこら辺の話へいくと、今度は時代の方から「提出してくれ」みたいなことが起きるわけでしょう。俺は一方的に〈地図〉をやったり、〈ポスト〉をやったり、〈ブラックライト〉や〈色盲〉やったりしていたんですけど、今度は向こうからそういうふうに言ってくるっていうことがあるじゃないですか。それは決着がついてないからだよね。それならそれで、またいいんじゃないかなと思ってね。今はそういう形で赤瀬川くんの裁判に参加できたのは、よかったなと思います。

宮田:実際、裁判にも行かれたんですか。

清水:行ってないんですよ、僕。

鏑木:ところで「現代の空間’68 光と環境」(神戸そごう、1968年)という中原さんがオーガナイザーをされた展覧会に、清水さんは《ブラックライト》を出品されていますね。

清水:あれはね、《ブラックライト》じゃないんです。

鏑木:違うんですか。あ、《殺菌灯》ですか。

清水:《殺菌灯》です。

鏑木:そうか、殺菌灯とブラックライトって違うんですね。

清水:違うの。でね、今はどうなんでしょう。

鏑木:(手持ちのコピーを見ながら)これは当時の清水さんのメモですか。

清水:あら、何でこんなの持ってるの?

鏑木:これは埼玉の展覧会のときに、平野さんが清水さんからお借りしたファイルです。

清水:そうですか。

平野:殺菌灯は、床屋さんなんかで使う。

清水:鋏を殺菌する箱があるんですよ。殺菌灯って、使った鋏をその中に入れて青白い光を当てるの。あれで発光する塗料があるのね。ブラックライトは、また違うんです。
これ、神戸? こちらから照明を持っていったんですよ。そしたら関西とこちらと、なんか違うのね。

鏑木:電圧の問題ですか。

宮田:そうですね。50と60(Hz)と。

清水:そう。今も違うのかな。そうしたら使いものにならなかったからね、すぐ大阪まで。これ、誰が企画した展覧会でしたかね。新聞社か。

鏑木:そうですね。神戸新聞社。

清水:ですよね。その人たちに頼んで、大阪まで買いに行ってもらったのを思い出しました。殺菌灯を持っていったら、点かないんですもん。そういうことを知らないもんだからさ。これは、床が全部緑色に光るんです。殺菌灯がつくと、足跡だけがパッと出てくるの。この発想は僕がこの家の屋根かどこかを塗っていて、周りを全部塗ってしまって下りられなくなったことがあったの(笑)。

鏑木:えー(笑)。

清水:バカですよ。そういうことを気がつかない。そういうことも頭にあって、足が浮かび出る、ただそれだけの作品。空間はやたらに広くてね。で、殺菌灯って、体に悪いんですって。しかも目に。

宮田:ブラックライトもね、紫外線が。

清水:そうです。殺菌灯は特に。だからここを全部ガラス張りにしてもらいました。

宮田:ああ、中に入れない。

清水:はい。

鏑木:じゃあ結構大きい、何畳かの空間?

清水:大きかったです。そこに足跡が出るだけの。

鏑木:この展覧会は作品そのものが光るような、ピカピカした作品が多かったんじゃないかと思うんです。その中では、少し変わった作品だったんじゃないですか。

清水:そうですよね。これも残しておけないわけでしょう。終わったら、また(処分した)。

鏑木:これは持って帰れないですもんね。

宮田:だって、神戸そごうですもんね。

平野:これは確か記録写真が、残っていなかったんじゃないかと思います。

清水:そうですよね。

平野:清水さんから頂いた資料の中には、写真はなくて。

清水:ないと思いますね(注:インタヴュー後に『空間の論理』ブロンズ社、1969年に掲載があることを確認した)。東松照明さんっていう、カメラマンがいるでしょう。あの人は、逆に暗室を作ったんですよね。それだけは印象にある。だから皆はピカピカ光るのを出しているのに、彼の部屋はただ真っ暗なだけ。

鏑木:東松さんは、逆のことをされたんですね(笑)。

宮田:実際、行かれたんですか。

清水:行きました。これも現場でやらなきゃいけないから。

平野:これが似たバージョンですよね。竹川画廊でやった殺菌灯(「ドリームランド展」1964年[会期不詳])。

清水:そうですね。

鏑木:ああ、これを大きくした感じなんですね。

清水:はい。これはね、すみれみたいな小さい花が、赤、青、黄かな。3色で、ただくるくる回っているだけの作品。

平野:これがそうですよね(「漆黒の彼方」展カタログp. 97、E1)。

清水:殺菌灯ですね。

平野:こういったバージョンですよね。

清水:だからいっぱいやったんですけど、東松さんのだけは、えらく印象に残った。話は飛びますけれど、長野に善光寺ってあるでしょう。あそこに「胎内くぐり」ってあるのね。行かれたことはありますか。

宮田:ないです。

清水:下へ入っていって、こちらへ出てくる。ただ暗いから、手探りで行くしかない。そこは要するに、仏様の胎内。こうやって行くしかないのね。そうすると、どこかに鍵があるらしいのよ。僕は見つけましたけど、手触りで鍵がガチャンと手に触れる。それをやった人が幸せになれるとか言われていて(笑)。真っ暗で、一寸先は闇でしょう。そういうことも、ちょっと頭にあったんです。東松さんの部屋もね、僕は壁のところをこうやって行って。何にもなかったけど(笑)。

鏑木:暗室の中に入れるっていう作品なんですね。

清水:そう。ただの暗室だけでしたね。

鏑木:じゃあひとりひとり、結構大きくお部屋をもらえたんですか。

清水:そうです。かなり広い空間の展覧会だったと思います。

鏑木:この大きさで皆がピカピカやっていたら、きっとやかましいですね。

宮田:時間派の人も出ていますね。関西の作家もそうですけど。ほかに印象的な作家さんはいましたか。

清水:東松さんだけは、えらい鮮烈に覚えている。逆手に取っているわけでしょう。光の展覧会なのに、光を殺しているんですから。

鏑木:おもしろいですね。「光と環境」ですもんね。

清水:そうです。いろいろあったと思うけど、どうも昔のことで、あとは印象に残ってないですね。

宮田:当時「不在の部屋」展もそうですけれど、他の作家さんたちも、自分がいない空間だったり、「不在」っていうキーワードに意識的だったのかなと。

清水:そうだったと思うね。高松次郎だって、不在の作家じゃない?

宮田:そういうのってやっぱり皆さん、共通して何か感じていたんですか。

清水:皆で寄り集まって「こういうテーマで、こう」とか話した記憶はないですけれど、やっぱり時代に対するアプローチが、偶然どこか通じるところがあったとしか言いようがないんじゃないかな。そういう時代だったっていうか。一度「ご破算では」にしておかないと、次が始まらない、みたいな、そういう時代だったと思うし、そういう意味で、相手を「不在」っていう言い方で表現したと思う。うーん、そうだったとしか言いようがないですけどね。

平野:ちょうど63年から67年頃までは、60年代の作家の中で清水さんがスター的な存在というか、出ている記事や批評の数を見てみると、ものすごい件数ですよね。

鏑木:そうですよね。個人の作家としての扱いが違う。

清水:それも俺、ぜんぜん覚えない。

平野:だから相当いろんな展覧会から招聘を受けて、忙しかった時期ですよね。

清水:そうですね。忙しかったからね。

鏑木:「光と環境」も中原さんなんですよ。

清水:そうです。主催は神戸新聞でしたけど、中原さんの企画だったと思います。中原さんがちらっと言ったのは、中原さんとしては僕に《ブラックライト》をやって欲しかったらしい。

鏑木:ああ、そうだったんですか。

清水:あのごちゃごちゃの作品を。だからこれを見て「何であれを出さなかったの?」って言っていましたもん(笑)。

鏑木:そうですか。でも、これもおもしろい作品ですけどね。

清水:だって、足跡が出るだけですもん。広い空間に、ぽこって(笑)。

鏑木:意表を突かれる気がしますね。じゃあ中原さんはもともと、《ブラックライト》を期待して出品依頼したんですかね。

清水:だったと思うの。〈色盲〉のときもそうでしたけど、同じことをやっていると、また言われるじゃない。この頃は皆、逆に変貌するっていうことに意味がありましたから。だから僕自身も意識的に同じことをこっちでやって、また向こうでやるっていうより、ちょっとだけ違ったことやりたかったって気持ちもあったんですよね。それでこれをやったと思うんです。

鏑木:そうだったんですね。中原さんがこういうテーマで展覧会やるのは、たぶん……。

清水:珍しいかな。

鏑木:はい、今から見ると。

清水:そう。しないでもないね。だからこれも推測ですけれど、中原さんが企画して向こうの新聞社へ持っていったんじゃなくて、新聞社の依頼を受けて中原さんが仲立ちしたんじゃないかなと思うんですよね。

宮田:神戸新聞創刊70周年記念ですよね。

清水:だから、鏑木さんおっしゃったように、中原さんの世界としては、ちょっと突飛かもしれない。どっちかっていうと、哲学的な話の人ですから。いや、推測ですけど、そうじゃないかなと思いますよ。

鏑木:でも、たぶんそうですね。中原さん、神戸が地元ですしね。

清水:そうなんですか。きっとそういうこともあって中原さんが、相談受けたんじゃないですか。

宮田:「国際的な美術作家27人を招待」って書いてあります。

平野:この頃すごく、いろんなところから引っ張りだこだった。

宮田:この頃、万博の話とかも出ている時期なので、そういういろんな意識が関西で強まっていたとも言える。

平野:でも一方でこのぐらいの時期から、どこかでこれまでの自分の制作をいったん切断しなくちゃいけないというような意識が芽生え始めたんではないですか。

清水:そうですよね。……でも、どうなんだろう。60年代でそれだけのことをやって、「もういいか」っていう気持ちもちょっと出てきたのね、不思議と。だからこの前も話した、自分の身の上話みたいなことは、中西くんとかあの辺の人たちにも話したことはないの。今、そういうことを僕自身が滔々としゃべるっていうのは、やっぱり必然的に自分が体験してきた風土、時代背景みたいなことで、自分では一応は死んだつもりでも、死んでいないのね。「刺さった」って言い方をこの前、散々したと思うんですけど。
だから今でも本当の気持ちを言うと、あの頃の作品を作りたいっていう気持ちに通じるかもしれないんですけれど、僕にとって少年時代は、時間的には過去で間違いないのね。でも空間的な言い方すると、「未来に待っている過去」かもしれないの。そういうことが、70年代に入ったら自然に出てきた。まあ、土方さんと出会ったこともあるけどね。
「未来に待っている過去」っていう言い方をしましたけれど、ひとつの大きな絵。平野さんには、また別の言い方をしたかな。「現在生きているのは、過去のことを実現する。死んでから未来のことも実現するひとつの連結の場である」みたいな言い方をしたと思うんですけれど、そういう漠然とした考えがあったんですよね。だから大きな円を描き切れたかどうかはわからないですけれど、「だいぶそういう感じにはなったな」という感じは、どこか実感としてあるのね。それはちょっと抽象的で、うまく言えないんですけれど。

鏑木:今回、埼玉へご寄贈頂けることになった〈焔〉のシリーズも、この当時のものですね。

清水 そうですよね。これも捨てちゃったんですよね。

宮田:けっこう大きいですね。

清水:これは100号より大きかったと思います。これはスポーツをやっているんですよね。アイスホッケーか、スキーヤーか。テニスをやっている人もいるんですよ、焼きついたままでね。スポーツをしている人が燃えながらやっててさ、キャンバスにちょっとぶつかってあっち行っちゃった(笑)。その痕跡が残っている。高松くんの〈影〉じゃないけど。

鏑木:ええ、ええ。先ほども「不在」という言葉が出ましたね。

平野:このシリーズからトレーシングペーパーを使うようになって、さっきのお話とつながってくる。向こう側とこっち側の世界の境界みたいなものを、トレーシングペーパーの素材で表現していく。その出発点に当たるお仕事ですよね。

清水:そうかもしれない。焦げて、穴が開いているところがありますもんね。それは中西くんのさっきの話と、一緒かもしれない。

鏑木:どっち側でも行けるっていう。

清水:そうです、そうです。

平野:痕跡であると同時に出現でもある、その境界の中で表現が成り立っている。同時にこの作品は「燃やす」っていう、ある意味で60年代の反芸術的なニュアンスもあるけれども、その次の時代への自分へのもうひとつの模索にもつながっている作品のように思います。

清水:そうでしょうね、きっとね。

平野:これともうひとつ、同じ時期に作っているコラージュの『目沼』が、大きな転換点になっているのかなという気がします。

清水:そうですね。それも、あんまり時間は経ってないんですよね。

平野:ええ。

鏑木:同時期に〈焔〉と『目沼』と、すごく違う作品が出ているっていうのが不思議ですね。

清水:不思議ですよね。

宮田:川崎からこちらに引っ越されてきた時期なんですね。

清水:それもありますね。ここへ来てすぐに作ったのは『目沼』です。あの本を赤瀬川原平、野中ユリ、谷川晃一が各1冊ずつ、4人で作った。僕は文才は更々ないし、ボキャブラリーも貧しいんで、本のタイトルをいろいろつけてさ。皆で集まって相談するじゃない。皆がいいタイトルをつけているのに、俺は決まらなくてさ。頭をひねって持っていくと、赤瀬川くんに「これは日本酒の名前とよく似てる」とか言われて(笑)。

鏑木:それは何というタイトルですか。

清水:いや、覚えてない。でもえらく凝っているんですよ。切羽詰まって、(アトリエのある)ここは目沼(という地名)だからさ。「『目沼』でどう?」って言ったら、皆に「その方がいいよ」って言われて、それで『目沼』にした記憶があります。だから作風も、がらっと変わっちゃったんですよね。

平野:『目沼』が持っている雰囲気って、さっきおっしゃっていた「未来に待っている過去」に通じますが、60年代ってわりと未来志向が強い時代だけど、それとは違って時代を退行してくような感覚もある。ただ、単なる過去じゃなくて、まさに「未来に待っている過去」っていう雰囲気が、すごくこの作品から感じられるなと思います。

清水:そうですね。正直言って『目沼』は、その後のコラージュよりもいいかな、と思わないでもないです。だって圧縮されて積もっているものが、一気に出ていますから。「ご要望にお応えします」みたいな作品っていうのはあまりやりたくないし、それでコラージュを辞めたこともあるんです。まぁ余韻で作りましたけどね。でもそのコラージュは、ニューヨークでえらく評判がよかったんですよ。

宮田:すごく動きがありますよね。止まっているのに、映像的に動いているように見えるというか。

清水:その後で作った〈漆黒から〉の黒の立体は、特にそういうこと言われました。「動くんですか」って。だから僕はね、「動きません」なんていう言い方はしないの。「動きますよ」って言っちゃうの。「でも、一番のビューポイントで固定してあります」っていう言い方をする(笑)。
ほら平野さん、展覧会したとき、「稲妻捕り」を展示したでしょう。僕がその前にいたら、お客さんがつかつかっと来てね、「このショット、よく写真に撮れましたね」って言うのよ(笑)。「延々と待っていたんですか」なんて言われてさ。「いや、これは僕が作ったコラージュです」って言って、やっと納得してもらえましたけど、でもそういうふうに思ってもらえるっていうのは、いいことなんですよ。

鏑木:そう思う人もいるんですね。

清水:ええ。現実とそうでない世界の違いみたいな……僕が子どもの頃はほら、雪が多いでしょう。高圧線に雪が積もると、重みでそれが切れるんですよ。僕が一度見たのは、梅がいっぱい咲いているところへ高圧線が切れて垂れ下がっていて、そこで放電しているのよ。

宮田:怖い。

清水:あの光景。あれは現実なんですよ。でもね、現実にない世界。

宮田:バチバチいって。

清水:そう、放電しているのよ。雪の中へ垂れ下がって、それも梅林の中でだよ。あの美しさったら、なかったね。だから現実とそうでない世界が目の前にあるっていう、またひとつの現実っていうか。そういうものを作りたいな、と思うときもありますよね。
いつかテレビに、北千住の千住大橋のたもとに住んでいるおじいちゃんが出ていたの。その人の話は、よく女の人の足袋についている“こはぜ”ってあるでしょう。関東大震災の翌朝、女の人がたくさん焼け死んで、でもこはぜは焼け切れなくて、風でこうやって蚊柱みたいに集まって舞っていたんですって。そういう光景が、しかも橋のたもとでっていうのは、すごく象徴的な気がするんです。現実にありながら現実にない。現実にないんだけど、現実にあるみたいな。僕はそれを別の言い方で、「描いたぼた餅を食わせたい」という言い方をしたと思うんですけど、そういうものを作りたいなと思います。それも二重性ですよね、やっぱり。向こう側とこちら側の、瀬戸際に出る光景。

宮田:このときは習作も……習作とは言えないと思うんですけど、すごくたくさん作られているんですね。

清水:はい。平野さんもテキストに書いてくださったけど、鉛筆デッサンも描いている。平野さんに全部お渡しして、また戻してもらったと思うんですけど、あのとき〈華鋏〉は100枚ぐらい渡したんですよね。

平野:ああ、〈華鋏〉ですね。そうそう。

清水:これも踊りのために描いたんです。この方はコンテで描いているんですけど、これもまた100枚くらいある。この方のタイトルは《夢〆め》です。また整理に入るつもりで。

平野:膨大な枚数です。これはコラージュではないけど、類似したイメージを描いていますよね。コラージュとドローイングでと。

宮田:ここで制作することによって、記憶と未来と、すごく自分の中にあるものが出てきた。それを表象的に確認されていたんですね。

清水:そうですね。だから60年代の闘う意識じゃなくて、自ずと出てくる。

宮田:そういうことを、すごく確認されていた時期なんですね。

清水:自己再確認っていうかね。

宮田:目沼に住まわれてからも、東京には頻繁に行っていたんですか。

清水:いや、友だちにいつも「出てこない」って叱られていた。

宮田:じゃあ、少し東京からの距離感で、自分の中で……。

清水:まあ、特別な意識はないですけどね。

宮田:少し自分の中にとどまる時間が増えたっていうのもあったんですかね。

清水:そうですね。

平野:この前お聞きしたんですけれど、『目沼』などのモチーフは、ご自身が実際に見たものや体験したものが出発点になっているんですよね。ただ、それだけだと作品にならないと思うんです。それを作品化する上で、ご自身でどういうことを考えられたんでしょうか。

清水:例えば作品を作っていて、作品がまたこちらに投げ返してくれるものを、こちらでまた拾うみたいなことってあるじゃないですか。半分は自分で、半分は自分じゃないみたいな自分がいるわけでしょう。でも、そこからひとつの世界が浮上してくる。それもコラージュだと思うんです。
だからさっきも言ったように、写真がいっぱい散らばっているわけでしょう。いくら頭をひねっても、作品ができない日もあるのね。ところが次の朝行ったら写真がごちゃごちゃになって、勝手に作品ができていることがある。それもコラージュだと思うの。自分に出会ったというか、自分がそういう作業をしなかったら、そこにそういう世界が生まれるはずはないですもんね。何か計り知れない力が働いて、そういう出来事が起こっているんじゃないかと思わざるを得ないようなことが結構あった。
「雙六行」を作っているときも、何で大砲の弾なのか。例えば、おばあちゃんと行く屋台のお祭りに、いつも大きい高射砲みたいな大砲を飾ってあったんだよ。戦時中でしたから。それをこちらから覗くと、向こうにお空が丸く、お月さんみたいに見えるのね。しかもよく見ていると、螺旋になっているんですね。中が削ってあるんです。
子ども心に「何で螺旋なのかな」なんて思ったこともある。さっきのこはぜの螺旋の蚊柱みたいな回転とかさ。吉野(辰海)くんの螺旋の犬もいますけれど、そういうことが頭にあって、大砲の弾を「いつか使いたいな」なんて……。
だからちょっと強引な言い方すると、この素材は全部自分の分身? いつか使いたいなと思うところが、やっぱり漠然とあった。これも話したと思うんですけど、富山駅からすぐのところに神通川ってあるんです。でっかい川です。その辺で父親が床屋やっていて、いつも父親は駅員さんたちの頭を刈っていたこともあって、駅員風呂へすぐ行けたんですよ。そこへトコトコ歩いて行くと、機関車の操車場の横に風呂があって、そこはいつも蒸気が出ているのよ。そういう光景と重なったり。この海のやつ(「盲櫓」)だって、例えば釣りに行くでしょう。海が広がっていて、波が全部こちらへ向かってくるじゃないですか。富山湾全部が自分に向かってくるみたいな、そういう場所ってあるのね。四方(よかた)っていうところですけれど。突堤にいると、向かってくるのが自分にとって、波じゃなくなっちゃうのね。得体の知れない生き物に見えてくるときがある。要するに押し寄せてくるの。そのときはカエルなんて思いもしませんけど、でもカエルの写真があると「あ、これだ」って、パーンってできるってことがあるでしょう。
そういう予感みたいなもの、自分の分身みたいなもの。自分が子どもの頃に見た光景。独特のそういう世界。それは作品でも何でもない、単なる光景なんですけれど、それがこっちとこっちでスパークすると、えらいことが起きる。あるときはユーモアもあるし、あるときは恐ろしい世界もある。それは、コラージュでなきゃできない世界だし、こういう発想は絵を描いていただけじゃ、生まれないですもん。やっぱり素材があって生まれますから。そういう意味で、60年代を引きずっているかもしれないですね。素材がなかったら、できないですから。

鏑木:なるほど。

清水:(「鶏脈」を見ながら)鶏は、子どもの頃に飼っていたんです。秋になると、いつも放しちゃうの。そうするとほら、落ち穂? 夕方に(お腹を)触ると、野球のボール入っているみたいにぽんぽんしてね、皆さん帰ってらっしゃるんですよ、ちゃんと。かわいがっていたんですよ。で、ある日学校から帰ってきたら、かわいがっていた鶏が1匹いないのよ。タロウとかジロウとか、1匹1匹名前をつけていて、呼ぶとすっ飛んで来るの。そのくらい可愛がっていた鶏だったのに、1匹いないのよ。お袋に「どうしたの?」って言ったら、「あれは肉屋へ持っていった」って。「お前が今夜食べた、あれがそうだ」って言われて。そういう時代。かわいい鶏だったんですよ。という風に、すべからくまったく話にならないような独特の思いがあって、そういう世界で作っているんですよね。うちの鶏、雄はこの人なんですけどね。鶏って普通は夜が明けるとき、朝鳴くじゃない。夜に入った途端に鳴きだすんだよ、この人(笑)。「時間を守れよ」って言いたくなる。

宮田:夜を告げる鶏。

清水:何で夜に入った途端に「コケッコー、コケッコー」ってうるさく鳴くのかなと思ってた。普通、朝鳴くじゃないですか。そういう思い出もあるから、使ったりね。

宮田:『目沼』の本にするときには、これだけを厳選されたんですか。

清水:いや、12点作るのが精いっぱいだったと思う。初めてのことだから。あとは、その余勢で楽しみながら作ったコラージュが続きましたけれど、この12点に限っては作るのが大変だった記憶があります。だから未だに「ああ、ここはこうすればよかったな」ということはあります。
大門出版さんとやったんですけど、未だに「オールカラーにすればよかった」と僕は悔いている。お金がかかりすぎるから、モノクロにしたやつがあるんですよ。どうせだったら、全部カラーにすればよかったなって。

平野:『目沼』のあたりから、60年代的な表現から離れ、もう1回自分の原点、原風景みたいなものを探し始めていますよね。そういう転換は同世代の60年代の反芸術を体験している他の作家にも、同じような傾向として認められるのではないでしょうか。

清水:なかったと思う。あの頃は具体の人たちもあったわけでしょう、アンフォルメルとか。僕は、あまりそういうものに……。ピカソも「俺はシュルレアリストでもないし、抽象作家でもない。俺はリアリストだ」って言い方してますよね。批判ということではなくて、それと似ているかもしれません。僕はこういうことをいきなりやったせいもあって、あまりそちらの方には目が向かなかったかな。断言はできないですが。「俺しかいない」とかっていう言い方はできませんけども。

平野:例えば、吉野さんも読売アンデパンダンに出品し、ネオ・ダダに参加した後、やっぱり70年代に入ってからは、もう1回自分を模索していく傾向があります。

清水:だってそうせざるを得ないでしょう、きっと。

平野:そういうのが、世代的に何か同じような傾向があったのでは……。

清水:でも、そういうことに関係なく。

平野:共有している部分があるのかなという。

清水:無論、時代と共に去っていくことに身を置かぬ作家も多くはいました。でも高松くんなんかも、あの頃の作品はずっと〈影〉が続いているしね。自分の姿勢を、特別に急カーブ切ったわけじゃないと思うし。

平野:そういうことに関して他の作家と何か話をした記憶はあまりないということなんですね。そこをちょっと聞きたかったんですよ。

清水:はい。僕の場合は臭覚など感覚で身を動かしていく—それはすごく個の立場で動いてゆく—。内容的にもマイナーな世界と対峙していましたから—。それも自分のひとつの戦い方だった。ピカソもほら、新古典主義ってあるじゃないですか。あれだけやりたいことをやって、またああいうものに戻るっていうのは、こじつけかもしれないですけれど、自分の足場を見直す気持ちがあったのかなとも思うしね。ピカソの本を見ていると「変貌に変貌を遂げた作家」っていう言い方をするけど、正直、僕はそんなものはあんまり感じないね。ピカソなんて、そんなに変貌してないと思います。
「芸術は探求じゃなくて、変貌するんだ」なんて言い方もしていますけれど、僕も変貌したい気持ちはさらさらない。60年代も清水だし、70年代も清水だし、〈漆黒〉も清水だし。そういういう意味で、これに通じると思うんですよね。

宮田:大きな作品。

清水:ええ。

宮田:この時期にほかの作家さんたちの作品を見ながら、60年代の実験的な中で模索した、その時代も模索の時代だったと思うんですけど、そこから自分に返る方と、自分のテーマというか、一つ仕事を見つけていった方たちとを見ながら……。

清水:赤瀬川くんだって、小説の世界へ入っちゃうしね。まったく違ったジャンルに身を置く。そういう方法もひとつの生き方だと思うし、デュシャンみたいに「辞めた」って言って後はチェスばかりする、そういう人生も見事だと思う。高松くんがひとつの時代を切り開いたという言い方ももちろんそう。僕はね、前にも言ったと思うんですけれど、一度あそこでみんな死んだって感じも……。ご破算っていうのは、そういうことでしょう。
ご破算になったところで、はたと目の前にある荒野か原野か、未知の世界へ刃向かうのに、今まで自分がやってきたことだけじゃ太刀打ちできない世界が待っているわけでしょう。それはいつの時代でもそうだし、刻々とそういう時代が迫ってくる。そこにどういう姿勢で自分が身を置けばいいか、という作家さんは、僕の知る範囲ではあまりいないと思います。
変貌するっていうのはどういうことかというと、ピカソに「作家は何ができるかじゃなくて、自分は何者かの方が大事だ」っていう言葉があるじゃないですか。ピカソはそれは、自分自身に言い聞かせているんだと思う。そういうところまで自分の身を広げるっていうか落とすっていうか、上げるというか。動かないと、次のものとスパークできないじゃないですか。
だから僕の場合、密閉された部屋はやっぱりだめだね。どこか障子が破れていて寒い風が入ってくるとか、暑い風が入ってくるとか、そういうところに身を置きたいと思う。そうでないと、そこで朽ちていくじゃないですか。土方さんがよく「滅びの美学」っていう言い方をしましたけど、そういうこととはまた違うと思うのね。やっぱり身を動かすというのは、AからBへ持っていくには、必然ももちろん大事です。でも自分が培ってきたものを梃子にして、そこへ身をまた動かしていくみたいなエネルギーを今まで自分が持ってこなかった人は、動けないと思う。だから今やっていることが皆と似ていることだとしても、そういうことを分かって仕事をしている人とそうでない人っていうのは、やっぱり違いが出てくると思う。
でもこれも一概に言えないのね。僕はセザンヌも好きだけど、スーチンも好きっていつも言うんですけれど、スーチンなんて歴史的な流れに関係ない人ですよ。セザンヌはもちろん、時代の流れをちゃんとつないだ作家だから。スーチンの作品なんて、昔からあるひとつのパターンだし、スーチンはまったくスーチンの世界で終わっているし、ある意味自己完結型。でもあの絵の凄まじさにはやっぱり納得しちゃうし、だからこそ残っているんだと思うよね。そうでなかったら、消えていくと思います。そういう意味であの人はきっと、スーチンなりの時代との闘い方をしたんじゃないですか。「ニューヨークへ逃げておいで」って言われたのにナチスに追われて、「ニューヨークへ行ったら、俺の描きたい木がないから」って断ったっていう(笑)。わかるのね、そういう気持ちがすごく。そこに彼の自主性がある。まぁその前に病気で死んじゃったからね、幸か不幸か。それはやっぱり身を晒している人だと思うし、その晒されている身の痛みみたいなもの。その痛みを喜びに変える、変わる瞬間ってあると思う。そういうことをよく知っていたっていうか、そうせざるを得なかったっていう面もあると思います。
やっぱりそういうところに身を晒す人でないと、次の展開は絶対生まれてこないと思うんです。だから「死ぬことを恐れちゃだめ」みたいなところがあるじゃないですか。そういう気持ちは、土方さんにもあったような気がするね。あの立ち姿の美しさに、そういうものを感じたしね。踊らなくたって、立っているだけでもわかるんですもん。
見る側にも、そういうものに反応できるテレパシーがある。例えば、茶碗がありますよね。お茶が入っているでしょう。これをパーンと割れば、お茶がこぼれますよね。ある意味で言えば、茶碗はお茶をこぼさないように頑張っているわけよ。お茶は「出たい、出たい」って言っているわけ。そういうせめぎ合いに、こういう形があるわけでしょう。こういう厳しさみたいなものはね、立っているだけで土方さんに感じられたもん。だから僕はいつも「土方さん」っていうんです。
セザンヌもスーチンも両極端ですけど、世界がちゃんとあるのね。リンゴでも何回でも肉薄して、線をあっちしたりこっちしたりしているじゃないですか。あれ、セザンヌにとっては全部正解の線ですよ。そういう形の決め方、互いにせめぎあったところ、ギリギリのところでこの線が引けるみたいな。作家というのは生き方もそうで、そういうことがないと続かないと思う。身を晒すことにひとつの自分の姿勢を置かないとね。

鏑木:『目沼』から少し後に、〈狩人の発電所〉のシリーズになっていきますね。

清水:その頃の気持ちは、今と似ているところがある。「絵を描きたい」っていう気持ちがあったの。パフォーマンスとか、出かけていって開拓することじゃなくて。まぁコラージュは、その間にあると思うんですけれど。

鏑木:ええ。絵を描くということに、気持ちを集中されていた。

清水:だから結局、コラージュで故郷の原風景へ戻ったって気持ちがあった。平野さんがカタログに、「滝の絵に一つの誕生の世界がある」って書いてくれたんですよ。僕は平野さんにしゃべった覚えはないのに、僕がしゃべったように書いてくれているの(笑)。

平野:そうでしたっけ(笑)。

清水:わかってるよ、平野さんは全部。全部わかっている。(《狩人の発電所》1973年を指しながら)まぁまったく個人的なことだけど、これは女性のあそこですよね。これは男性ですよね。物の置き方でね。なぜ球体にしたか、平野さんから質問を受けたと思うんですけれど、これはやっぱり分身でね。これは別のところでもしゃべっていることですけど、富山って扇状地で富山平野って案外、カルデラと比べると狭い空間なんです。こちらにも荒川がありますけど、富山の川は大きいのに石だらけ。山から転がってくる石。だから丸い石が多いですよね。そういうこともあったりして。平野さん、この前の男と女の石のこれ、あったでしょう。あれも神通川だね(笑)。

平野:ああ、「スサノヲの到来―いのち、ひかり、いのり」展(足利市立美術館ほか巡回、2014-2015年)に出していた作品(注:《神通川 陰陽(めを)》[制作年記載なし]『スサノヲの到来―いのち、ひかり、いのり』p. 191、cat. no. 7-37)ですね。

清水:あれ、江尻さんが強引に持っていっちゃった(笑)。富山っていうのは黒部川、常願寺川、神通川、庄川って言ってあんなに小さい平野に、荒川に匹敵するくらいの大きい川が流れているんですよね。で、しょっちゅう水がつく。それでオランダの技師かなんかを呼んで見てもらったら、「富山には川がない」っていう言い方をされたんですって。あるのに。で、「どういうことですか」って聞いたら、「これはみんな川じゃなくて、滝だ」っていう言い方をした。北アルプスから直に富山平野に流れ落ちるから、流れが速いの。だから石ころが多いんですよね。山から石が運ばれてくる。それでだいたい海に近くなると、丸くなっちゃう。
だからそういう意識もあるし、さっきも言った神通川に架かっている長い橋ですよ。荒川を思い出してごらんなさい。今でこそ鉄橋が架かっているけど、昔の橋なんておぼつかない、おっかないよ(笑)。少年の頃、川向こうにいる友だちに、僕が持っている野球のボールをプレゼントする約束をしていたんです。半ズボンで、夏休みに行ったのを記憶していますよ。えっさ、えっさって渡っていたら、天気の悪い日で嵐になっちゃってね。でも、友だちが待っていると思って橋を渡っているときに、向こうでものすごい稲妻が落ちたの。それで持っている球を落としちゃったのよ、川へ。そしたら、急流でしょう。桃太郎じゃないですけど、どんどこどんどこ流れていく。友だちに詫びた記憶がありますけれどね。そのときに球体がなんだか、自分の分身みたいな……。

平野:それで野球のボールが出てくるんですね。

清水:そうなんです。

鏑木:流れていっちゃったボール。

清水:ええ。そういうことも一応、絵にしておきたいって気持ちもあったかな。それで、なぜこの山間かっていうと、ここに発電所があったんですよ。ここへ行く手前は発電所だらけ。水力発電。昔のことですから。
冬、雪が深いから、父親とそこに頭を刈りに行った記憶があって、髪の毛を花咲かじいさんみたいなつもりになって、ぱっと(撒いた)。雪の山間に髪が散っていく美しさは、子ども心に「ああ」なんて思って見ていた記憶もある。そういうこともあって、まったく個人的な……でも、次に何か待っている予感があってね。平野さんはいみじくも、これが次の〈漆黒〉の元になっているという言い方で書いてくださったんですけれど、そのとおりなんです。これもたくさんは描けなかったと思いますけど。

鏑木:ちょうどこの《狩人の発電所》の制作をされていた時期に、絵画教室のお仕事を始められた。

清水:こっちに来てからだね。町工場で働いていて、〈色盲〉の賞金でこっちへ来たことはあったんですけど、うちの人が働いてくれてね。「パパ、田舎へ行きましょう」なんて言われて、「はい、はい」ってついてきたらここだったんです(笑)。さっきも言ったように、その頃からこの仕事でもう60年代は終わったっていう気持ちもあるしね。でも、どうしてもここで食べなきゃなんないでしょう、やっぱり。それを考えてここへ来たわけじゃないんですよ。「何とかなるでしょ」なんて言われてさ(笑)。

鏑木:奥様は、テキパキした方なんですね(笑)。

清水:もう、行動派。まず行動する(笑)。で、僕の友だちがニューヨークへ行くから「その間に勤めている絵画教室を、ちょっとだけ見てくれないか」って話があったの。堀内くんっていう友だちだったんですけれど。

鏑木:堀内くん?

清水:はい。何て名前だったかな……調べれば分かりますけれど。「どのくらいで帰ってくるの?」って聞いたら「2か月ぐらいで帰ってくるから、その間ちょっと見てて」っていうことだったの。で、それきり彼が帰ってこなかった。それで僕はずっと続けていたわけ。彼とは連絡もできないし、それがきっかけで絵画教室をやった。

鏑木:そうですか。じゃあその堀内さんも、作家さん?

清水:そうです。絵描きさんです。中西くんなんかがよく知っているんじゃないかな。芸大出た人だったような気もしますけど。堀内袈裟雄だったかな。

鏑木:あ、堀内袈裟雄さんなんですか。

清水:袈裟雄だよ。そうです、うん。それっきり彼、ニューヨークから帰ってこなくて、今はどうなっているかさっぱりわからない。帰ってきたっていう話は、随分後から聞いたことはあるんですけれど。

鏑木:じゃあ堀内さんがされていた教室を、ご夫婦で。

清水:引き継いだわけ。だから僕はその頃、まだ川崎で勤めながら。彼が帰ってくるまでっていうことだったから、「1日休ませて」って言って、教えに行った記憶がありますもん。それっきり帰って来ないから、しょうがないっていうことで、ここへ来てからも続けて。それじゃ食べていけないっていうので、杉戸の東武動物公園の駅の近くでうちの人も絵画教室をやっていたんです。

鏑木:でも工場のお仕事と違って、制作に近いお仕事ではありますよね。

清水:そうね。だから、あまり抵抗はなかったですね。なぜか父兄に、えらく人気があってね。でね、また女の人に人気があって(笑)。東京の中野の幼稚園で「先生、いい子がいるんですけど、お見合いしませんか」なんて何回も言われたもん(笑)。「いや僕、女房がいますから」って言って。それで、あそこを辞めるとこっち来て、こちらへ辞めるときに、お母さん連中が送別会を開いてくれたの。しかも、花束をくれて。

鏑木:すごく人気のある先生だったんですね(笑)。

清水:何でかね、平野さん(笑)。解明してください。

宮田:絵画教室では、どんなことから。年齢に合わせて違う?

清水:いや、だって幼稚園ですもん。白金と中野と2か所あったのね。白金の子は大手出版社の社長さんのお嬢さんとか、社長が孫を連れてくるっていう、そういうところなの。中野は庶民的なところでしょう。夏なんか子どもがね、溶けそうなあめ玉をくれるわけ。白金は、全然。ああいうところで、そういう人ばっかりだったからね。

宮田:だいたい何人ぐらいを見ていたんですか。

清水:白金は少なかったけど、中野は幼稚園3学年。100人ぐらい。

宮田:すごいですね。じゃあ、教えてあげるっていう……。

清水:もんじゃない。ただ子ども相手、わいわいやってるだけ(笑)。ここへ来てしばらくは車で通っていましたけど、遠いですし、行くだけでも辛くなってね。「じゃあ、生活どうする?」で、また始まったけどさ。絵が売れるわけじゃないしね。

鏑木:この絵画教室は、どれくらいされていたんでしょうか。

清水:両方同じときに始めて同じときに終わっているから、十何年か続いてます。だってこっちへ来てから、それだけで食べていたんですもん。

宮田:こちらに来たとき、絵画教室のお子さんたちは小学生もいたんですか。

清水:うん。ここはうちの人がやっていて、近所の子が2、3人来ていたんです。駅の方の教室は、20人ぐらいいたかな。ちょうど線路際です。うちの人は、そういうことが好きだったからさ。僕は本当はそういうタイプじゃないんですけど、なぜかお母さんたちに人気だったんですよ(笑)。
正直なところ、「今日は何を描かせようかな」っていうテーマ? 普通、カリキュラムは前もって決めるけど、そんなことはいっさいやらなかったですね。幼稚園は特にそう。白金は大きい子も小さい子もいたから、全部違うし。幼稚園はひとつのテーマでいけるんですけど、でも、カリキュラムは作らない。間際まで、「今日は何を描かせようか」って考えていたこともありましたもん。そのときの不思議な呼吸ってあるのね。前もって「これはいいカリキュラムだ」と思っても、「なんか今日、これやりたくないな」って日があるじゃないですか、不思議と。だから、そのときに出たとこ勝負で。

宮田:絵画教室をやりながら、そこまで表れるのか分からないですけど、時代が美術に対して求めるようなものっていうのを、教育の動きもその時期っていろいろあったとは思うんですけど、何か感じられることってありましたか。

清水:僕はね、そういうことは一切考えなかった。さっきも言ったように、カリキュラムを作って、「こういうプランで子どもたちに教えて」ということじゃなく、出たとこ勝負ですよね。どうしても、今日は何を描かせたらいいかわからない、っていうときがあるのよ、間際まで。「今日は好きな絵を描きましょう」とか、やった(笑)。そしたら子どもが喜ぶのよ、「わぁ」とか言って。

鏑木:たまにそういうときがあると、「わーい!」ってなりますね(笑)。

清水:そうなんですよ。「今日は、好きなもの、描きたいもの描け」とか言って。そういうこともあったしね。教えるっていったって、何を教えたらいいか分からないしさ。子どもは、ピカソは「一生をかけて子どもみたいに描きたい」なんて言っていたじゃないですか。スペインにいた頃、「俺は子どもらしい絵を描いたためしがない」とか。その頃の絵を見たら、もうでき上がっている絵ばっかり。まぁあんな天才は別としても、子どもたちはほっといてもいい絵を描くしさ。ただ一緒に、わいわいやってればいいかなっていうだけでね。

鏑木:大学のときは、教職を取られていたんですか。

清水:ありましたよ。いや、欲しくてやったわけじゃないけど、ついてくるじゃないですか。だからどこかの中学校か行って、やったこともあります。

宮田:教育実習ですか。

清水:そうです、教育実習。1回か2回やったことある。で、先生に叱られたもん。教育実習で、先生が横で見ているわけよ。「お前、『これをどう思いますか』って聞いたって、生徒は誰も答えないよ。もっと具体的に質問しろ」って言われたことを覚えている。前にも話したと思いますけど、金沢の友だちは、ほとんど学校の先生になりました。教員ですよね。こっちへ出てきたのは僕くらいですから。

鏑木:そうそう、金沢美大出身の方のことを、いくつかお聞きしたいんです。

清水:それなんですけどね、今、高岡に城宝清司くんっていう友だち。高岡市美術館かなんかの館長さんか何かをやっているんですよ。間違っていたらごめんなさい。今でもたまに年賀状をくれます。最近来なくなったかな。あと福島くんっていう友だちで、彼はどこかの校長先生やっている(注:城宝氏は2011年まで高岡市美術館隣接の富山県立高岡工芸高等学校付属青井記念美術館館長)。

鏑木:実は今日、金沢21世紀美術館の学芸員から、聞いてきて欲しいと頼まれていることがあるんです。福島忠さんという作家さんが清水さんのお話をよくされているそうで、清水さんからお話を聞いてきて欲しいと。

清水:福島がそう言ったの?

宮田:美術館の方が福島さんにお話を伺うと、清水さんのエピソードがたくさん出ると。

清水:親友でしたから。

宮田:そうだったんですね。

清水:彼ね、スポーツマンだったんですよ。で、年に1回マラソン大会があるのね。金沢って坂が多いんですよね。そこを駆け上がったり、下りたりするのがしんどいんですけど、もう1人友だちで、マツモトだったかな。彼もマラソンに出るって言うから、「じゃあ、俺、励ましてあげるわ」とか言って、初めだけ一緒に走っていたのよ。そしたら、やっこさんが伸びちゃって、俺が最後まで走ったりさ(笑)。もうめちゃくちゃでしたけどね。福島くんは元気なの?

宮田:お元気なんだと思います。

清水:ああ、そう。じゃあ、福島くんと21世紀美術館は、知り合いなんだ。

鏑木:そうですね。地元の作家さんだからだと思います。

清水:彼も校長先生をしていたっていう話を聞いたから。1回、軽井沢で会ったことがありました。それきりですけどね。

鏑木:福島さんも60年代は、前衛的なお仕事をされていたんですか。

清水:覚えているのは、木彫? 彼は胎児を彫っていたの。あれ、続ければよかったと思うんですけどね。

鏑木:平野さん、ご存知ですか。

平野:いや、知らないです。

清水:大きい胎児像。(両腕を広げて楕円形を描いて)このくらいの。

鏑木:大きいですね。

清水:普通、胎児っていったら、(通常の胎児の大きさを両手で示して)こんなもんでしょう。(大人くらいの大きさを示して)こんな大きい胎児を彫っていた。そういう人だったの。それはそれなりに、すごくおもしろかったんですよ。福島くんが、そんなことを言ってたんだって?

鏑木:はい。その胎児の木彫を、バスの中に持ち込むパフォーマンスをしたり、というような制作活動をされていたそうです。清水さんはこの頃はもう、東京に出られていたと思うんですが。

清水:出ていました。だってその作品を、彼は中西くんに見せていたもん。そういう光景が頭にある。

鏑木:じゃあ福島さんも、東京にいらしていたんですね。

清水:東京へ出てきて作家活動をするんじゃなくて、向こうにいて胎児を持って来た。抱っこして来たのかな。それを中西くんの大井の家で見せていた光景は、頭にあります。

宮田:そうですか。じゃあ、福島さんが来られて。

清水:そうです。だから僕、福島くんを中西くんに紹介したのを覚えている。そのときに彼が、胎児を持って来ていた。

宮田:いろんなサイズの胎児がいる。

清水:中西くんに意見を聞こうと思ったのか知らないですけれど、持って来ていました。

鏑木:へぇ。いつ頃まで交流されていたんでしょうね。

清水:覚えているのは2000年。足利市立美術館で初めて展覧会をやったんですけど、そのときに金沢の連中が皆、来てくれたんです。そのときに福島くんも来たんだよ。さっき言った城宝くんもね。で、展覧会が終わって、すぐ後で福島くんと1回、軽井沢で会ったかな。それきりですね。会ってないの。

鏑木:じゃあ、何となく連絡は取り合っていらっしゃったんですね。

清水:その頃はね。だから、今度埼玉で展覧会をしたのも彼らは知っているんですけど、結局来てくれなかった。足利のときは全部来てくれた。友人だって5、6人来てくれましたよ。

鏑木:やっぱり清水さんは、東京に皆より一足先に出られたから。きっと清水さんの展覧会をやるって聞いて、「地元の皆で行こう」っていう感じでいらっしゃったんですね。

清水:そういうこと。皆、向こうで教員ですから。2000年ですね、あれは。

鏑木:今回このことがあって、福島さんのお名前を初めて聞いたんです。

清水:ああ、そうでしたか。じゃあ彼、元気なんだ。僕らが卒業したのは、33年かな。で、彼らが「三三会」っていう会を作ったの。

宮田:出た。さっきの33。

鏑木:そうですね。

宮田:中原さんが持っていたのは33号だなっていうだけの、すいません(笑)。

清水:ああ、そうか。33年だったから。で、1回だけ彼らと金沢の香林坊で、展覧会をしたのは覚えていますね。それはやっぱり2000年前後だったと思いますけれど、それがきっかけで再会して、それまで会ってないしね。だから展覧会に来てくれて「やぁ」とか言っていたのを覚えています。で、彼らは一晩泊まっていくので、僕も一緒にそこに泊まった。他の友だちは、それっきり会ってないです。福島とはその後、1回だけ会って。
で、「三三会報」を福島が中心になって出していた。僕は1回、展覧会をしたでしょう。えらい不満だったのね。僕が出したのはこの一連のコラージュだったと思います。彼らはやっぱり、旧態依然とした作品を出している。これじゃあやる意味がないから。やっぱり何かアプローチする姿勢があって、初めて展覧会の意味があるんだから、ただ仲間同士がばらばらの作品を並べたって意味がないって、僕は意見を言ったのね。それがきっかけで壊れちゃったの、三三会って。僕、えらい批判を受けたもん。そういう意見を言ったら批判される。だからもう、それで終わりだったと思いますけれどね。
福島くんともうひとり、タテヤくんっていう友だちがいたかな。彼らふたりだけは、僕の意見に賛成してくれたんですよね。あとの友だちは友だちと言いながら、「清水の言うことは納得できない」とか。それっきりでした。

鏑木:でもきっと福島さんは、今でも清水さんのことをすごく気にされていて、それで今回のお話だったと思うんです。お聞きしたお話は金沢の学芸員に伝えておくので、また何か引き合わせがあるかもしれません。

清水:そうですね。福島とは一番仲がよかったと思います。同じクラスだったし。まあ、みんな同じクラスだったんですけど。

宮田:皆さん金沢におられて、60年代の清水さんの活躍を、例えば雑誌とかで知って。そういう意味では、向こうから見続けていた人たちっていう存在があったんですね。

清水:そうだと思います。でなかったら、展覧会に来てくれませんもんね。

宮田:そういう意味では、清水さんが直接会えなくても、知らないところで影響を与えていたということですね。

鏑木:あと、八田豊さんは清水さんの先輩に当たられると思うんですけれども。

清水:金沢で?

鏑木:ええ。金沢美大の先輩に当たられる方で……。

清水:いや、知らないです。僕の後輩? 先輩?

鏑木:先輩ですね。30年生まれなので。

平野:ああ、さっきの「現代の空間’68」展にも出品されていますね。

鏑木:そうなんです。

清水:30年生まれっていったら、僕より六つぐらい年上ですよね。っていうことは、僕が入学した頃は、もうこの人は卒業してますね。

鏑木:はい。でも東京でお仕事とか、ご縁とかは特になかったですか。

清水:ぜんぜん。今、名前も初めて聞きました。

鏑木:そうですか。

清水:僕ね、前にも言ったように、友だちっていうのは本当にもう……。特に皆さん亡くなっていっちゃったし、アンデパンダンのときに知り合った本当の少数の人たち。具体の人たちもぜんぜん会ったこともないし、他の人にも会ったことないし、評論家の方たちともつきあいはぜんぜんなかった。そういう点は、まったくだめですね。

鏑木:そうですか。たまたま同じ学校の先輩だけれども、特に縦のつながりっていうのはないんですね。

清水:ないですね。名前初めて知ったくらいですから(笑)。すいません。

鏑木:いえいえ。もうひとつ、この年代のことでお聞きしたいことがあるんです。埼玉のカタログの年譜に1970年、三島由紀夫の『サンデー毎日』の記事、「突拍子もない教養を開拓してほしい—劇画における若者論」(1970年2月1日)に挿絵を描かれたとあります。

清水:はい。4回描いたのを覚えています。週に1回だったと思うので、1か月。

鏑木:(コピーを見ながら)これのことでしょうか。

清水:どうしてこういうものが出てくるの?(笑)

鏑木:このコピーは、平野さんのファイルからお借りしたたんです(笑)。

平野:だから、本当はファイリングされているはずなのね。

鏑木:はい。あと、これは偶然見つけたんですけれど、『中央公論』(1974年12月)でもこういった挿絵のお仕事をされています。私、清水さんの挿絵のお仕事のことは、全然知らなかったんです。この頃は赤瀬川さんや谷川(晃一)さん、中西さんなども『中央公論』に挿絵を描かれていたので、お友だちから「清水さんもやって」って依頼があったのかな、と思ったんです。

清水:えー。僕ですね、これはやっぱり。

鏑木:それで、〈狩人〉のモチーフになっていた、野球のボールが挿絵の中に出てきたり。

清水:ありましたね、球みたいのが。あの頃のカットですね、きっと。

鏑木:これは74年です。だから、まさしく。

清水:じゃあその頃ですね、きっと。

鏑木:そうそう。丸が中心のカットで。

宮田:名前も書いてある。

清水:えー。本当だ。全然覚えてない(笑)。これは微かに覚えていますけど。

鏑木:本当ですか。『サンデー毎日』の挿絵というのはこれですか。

清水:そうだと思います。確か三島由紀夫さんとは直に話したことないんですけど、土方さんのところでお目にかかっているでしょう。

鏑木:そうですね。確かに。

清水:「燔犧大踏鑑」ってありますけど、台東区ですから。

鏑木:はい。それじゃあ、三島さんの挿絵やるきっかけっていうのは、土方さんですか。

清水:いや、違うの。これはね、この新聞社の方。

鏑木:毎日新聞の方。

清水:そうだったと思いますけど、誰だったか。これも覚えない。

鏑木:では友だちの紹介とかは、あまり関係なく。

清水:ないです。どういうきっかけで描くようになったか……ただ、三島さんがね、「これ、気に入った」って言っていたよ、なんて聞きました。『目沼』のときにも、誰に文章を書いてもらおうかっていう話になって、このこともあったから「三島さんもいいんじゃない?」って皆さん言ってくださっていたんですよ。そしたら、あの大事件が起きちゃったもんですから。だから土方さんにということに、話が進みました。

鏑木:ええ。でも、そういう可能性もあった?

清水:あったんです。三島さんに頼みに行こうかなんて言っていた。

鏑木:へぇ。これは花札の、ね。

清水:そうです。8月ですよね。

鏑木:ね。びっくりして。こっちの絵は「清水さんだな」ってわかるんですけど。

清水:これはわからないね。

平野:そうですね。わからないかもしれない。

鏑木:清水さんのイラストってわからない。それがまたちょっとおもしろい。

清水:正月、孫が遊びに来るでしょう。いまだに花札が始まるんです。前にも言ったけど、おじさんがヤクザで、賭博を開いていてお巡りさんに踏み込まれて捕まったのを、全部目撃しているから。だからどこかに、花札のイメージがある。

鏑木:そうなんですね。

清水:「おいちょかぶ」っていう言い方して、勝負が早いのね。賭け銭をやっているから。桜も花札に出てきますしね。しかしよくこういうの(昔の作品のこと)が出てきますね、今日は。

鏑木:そうですね。こういう挿絵のお仕事というのは当時、他にもされていたんですか。

清水:谷川くんに頼まれてどこかに描いたぐらいしか記憶ないですけど、どこだったかな。

鏑木:やっぱりこういう雑誌ですか。

清水:そうだと思います。あとね……、〈漆黒から〉のデッサンを読書新聞に出したかな。

宮田:日本読書新聞ですか。

清水:日本読書新聞だと思います。書いてありましたか、そこに……確か金坂健二さんの文章だったと思います。それに描いた挿絵だったかな。

宮田:84年の12月(注:日本読書新聞は1984年末で休刊)。

清水:なんかうろ覚えでね。でも、あんまり挿絵を描いた記憶はないです。どんな弾みでなったのか、ちょっとわからないですけど。

鏑木:当時周りの方は結構、こういう挿絵のお仕事をされていたと思うんです。清水さんにも知られざるこういうお仕事が、ひょっとしたらたくさんおありかもと思いまして。

清水:いやいや、ないの。むしろない方です、まるっきり。だってこんなの、ぜんぜん覚えてないもん(笑)。自分の作品には間違いないと思いますけれど。今日は、懐かしいものに出会えますね。

鏑木:さっきのお話だと絵画教室も忙しそうでしたし、こういう仕事はあまりなかった?

清水:そうです。正直、ここから出るのが—制作がその日途切れるのが辛かったですもん。

鏑木:そうだったんですね。でも、絵画教室のお仕事が生活の中心だった。

清水:そうです。それしかなかったですからね。

鏑木:そういう感じで、制作もまた少しペースが変わってきたり。

清水:歳行くと、どうしても体力が衰えることもあるし。今なんか特にそうですけど、そういうこともあって「絵にしようかな」というところも、なきにしもあらずですね。立体は体力的にちょっと、ということもあります。それからもうひとつ、置き場所がないとかね(笑)。だから「持ってけー」って(笑)。

平野:70年代は確かに、外で発表する機会は少ない。かなり限定的ですよね。ちょっと次の話に移りますけど、ただ一方で70年代半ばから、〈漆黒〉のドローイングに連なる膨大な作業を始められていますよね。

清水:そうですね。だから根っこはさ、黒のオブジェと、初期の『目沼』のコラージュと一緒なんですよね。どちらかというと北国の……富山平野のことをもう1回言いますけど、あそこは「北の円舞場」って言われているんですよね。実際、地形的には北アルプスに囲まれていて、富山湾で。円じゃないんですけど、富山には、「川が滝だ」っていう言い方とかさ。北の円舞場とかね、そういう言い方をされるでしょう。そういうところまで下がっていくと、丸い石ころにもつながるし、黒のオブジェもつながる。根っこは、黒いオブジェって作るときは、今まで経験すると、「うーん」なんて言ってひねり出すなんてほとんどないですね。60年代は出会いだし。

平野:その70年代半ばに始めた〈漆黒〉のドローイングは、まだ2階に資料や作品が山ほどあると思いますけれど、こういうものを始める最初のアイデアのきっかけって、何だったんですかね。

清水:うーん。

平野:これも原理的にはトレーシングペーパーで、フロッタージュですね。

清水:そう。手法は一緒ですよね。

平野:型紙を作ってフロッタージュしていく。ある意味でそのプロセスが、直接描くんじゃなくて、1回型紙を作って、それをフロッタージュするという、非常に間接的な手法で表現していますよね。そういうものを最初に思いついたきっかけは、何だったんでしょうか。

清水:だからさっきも言ったように、僕の絵は発想はいつもマイナーなんです。子どもの頃の映画は、工場のグラウンドに大きいスクリーンを張って、皆で押し合いへし合い。娯楽といったら、そんなものしかないんですよ。なぜ工場がそういうことをやったかというと、ポンプで水を上げるんですよね。そしたら、村の水が上がらなくなっちゃうの。その罪滅ぼしで、映画をやるんです。そのスクリーンの裏側からだと、左右逆転ですけど、上下は逆転しませんから、話はちゃんと分かるじゃない。もっともトーキーの映画で、おもしろい映画がいっぱいありましたけどね。あの頃は兵隊さんの話ばっかりですよ。塀があってね、はしごの上を1本引っこ抜いて、こう出るでしょう。それを塀からのぞくと、敵は兵隊さんがいっぱい鉄砲持って担いでいるように見えるとかさ、そういう映画なのよ(笑)。そういうのを裏から見ているっていうこともあるし、どじょうすくいの話もあるし。
例えば風景画を描くとするでしょう。まず空があって、山があって、野原があって。そうすると、雲を描くときは雲の身になっちゃうのね。空の青を塗ると、意識が空の青になってしまう。また、山を描くときも山になってしまう。そうするとね、もう、はちゃめちゃになっちゃうの。主従の関係にバランスがないから。よく言うじゃない。ポイントをひとつかっちり描いたあと、周りは少し落とせとか。そういう気持ちがないもんですから、どこもかしこも全力投球しちゃう変な癖がある。そういう癖があるもんですから、収拾つかなくなるのは自分のせいなのね。風景に罪はないんですよ。その収拾つかないものをひとつずつやっつけていくには、やっぱり「あなた、ちょっとこちら控えていなさい」とかって言えないと。で、さっき言ったように、絵で一生かけて大事なものを全部っていう気持ちがあって、そのひとつとして黒の〈漆黒〉のコラージュなんて出てきているんですけど、やっぱりこの裏側? 平野さんが言ってくださった、闇をフロッタージュすると……。僕、自分では特別意識していないこと、大切なポイントを周りの方から指摘されることがある。前にも言ったけれど、中西くんから「〈色盲〉の作品は観る側と観られる側が逆転している」とか……。

平野:なるほど、なるほど。

清水:うん。だから直にこれを描けば、それで済むことなんですよね。型紙を作る必要はなくて。

平野:今のお話がおもしろいのは映像的な感覚があって、映画のお話とすごく結びつくなと。

清水:今の映画は見たことないんですけど、始まるときは半透明の幕があるんですか? スクリーンの前で。今でもそうですか? 終わったら、再び半透明の幕がスクリーン閉じて終わるとか。今、そういうことをしませんか。

平野:半透明の幕?

清水:ええ。昔はね、スクリーンの前に、半透明の幕がスクリーンの前にあるんですよ。映画始まる前に、それがこう開いていくの。

宮田:カーテンとは違う?

清水:それから幕を通してスクリーンに映像が映るんですよ。

平野:今は普通のカーテンかも。

清水:カーテンみたいな分厚いものじゃなくて、もっと透明な。今でもそうですかね。歌舞伎なんかだったら、どん帳みたいな重たいのをドサッとやりますけど、昔、映画はそうだったんですよ。

宮田:そうなんですね。移動式だから、軽いものがよかったのかな。

清水:そうするとね、映像を映すときに、カーテンがひらひらといくの。すると、その映像が揺れているわけ。終わるときもね、「終わり」って出る。そうすると、映像が揺れながら終わるの。その始まりと終わりの揺れが、子どものときにえらく頭にあってね。
だから本体は映るんですけど、その前にもうひとつ幕がある。まぶたみたいなものだと思います。平野さんのおっしゃった質問には、答えられなかったかもしれませんけど。

平野:いやいや。トレーシングペーパーの仕事も、大量にされていますよね。ご自宅の2階に見切れないほどたくさんあって(笑)。膨大な仕事だってことがわかる。これは70年代半ばにこの仕事をし始めたときに、自分の中で持続できるっていう手応えがあったんですか。

清水:うん。あくまで予感ですよね、いつも。でも予感があるっていうことは、大事なことだと思うんです。自分のテレパシーが、何かをキャッチしてる。相手の正体は分からないですけど。そういうのはだいたい作品に、時間がかかっても出てきますもんね。
前にも言ったかな? 子どもの頃、祖母のために小魚を捕りに行った。そして川の闇にザルの中に足で魚を追い込む。やがてザルから水が落ち、次第に闇の獲物が水面を揺らす。僕は今もその水面こそ、タブローとしての平面であると考えています。それはまた、見えないものの正体を手づかみする、そしてその予感を現実化する唯一の場と考えています。

宮田:予感。

平野:モチーフも鋏とか舞錐とか、同じようなモチーフを何度も繰り返し使っていくというのがひとつの特徴になっていますよね。

清水:そうですね。モチーフは昔と変わらないかもしれないですよね。「自分から出たい」、「自分が1回死んでから、また生まれる」とか言いますけど、見事にやっているわけではないんですよね。どこかが尾を引いて、次の展開になだれ込んでいくっていうか。

平野:(《漆黒から》素描を見ながら)これは、あれじゃないですか。宮田さん、この作品(「漆黒の彼方」展カタログp. 112、N10)とも深く関係してる図をちょっと見せて。

宮田:ああ、そうなんです。84年に父が北海道で(精神)病院を始めたときに、その開館記念展の依頼で、清水さんにこの……。

清水:つるい(養生邑病院)でしょう。

宮田:はい。作品を贈ってもらっているんです。(図版を見せる)

清水:これ、俺の作品ですよね。

宮田:はい。

清水:でも「はい」って、お父さんに……? これは、鶴居にあったんですか。

宮田:はい。国立国際美術館に寄贈したので、今は美術館のコレクションになっています(《舳先の目覚め》1979-80年。http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=191008)。

清水:今日は本当に珍しいものがたくさん出てくるね。懐かしい。

平野:これは制作年代はいつでしたっけ。

宮田:70……。

平野:7、8年ぐらいでしたっけ。

宮田:79年から80年ですね。

清水:テーマはここら辺と一緒ですよね。

平野:そうです。じゃあ、まさにこの時代ですね。

宮田:後ろに清水さんの字で“79から80”って書いてあって、“清水晃”って書いてあるんです。

清水:そうですか。大きさは、どんなもんなんですか。

宮田:これぐらいですね(24.5×33.2 cm)。小さいです。たぶん、北海道まで送らなきゃいけなかったっていうのはあると思うんですけど。

清水:そう。僕は行けなかったんですよね。お父さんに散々世話になってたのにさ。

宮田:いえいえ、そんな。

清水:いや、本当にそうなのよ。だって、内科画廊で何回展覧会してるの、俺。

宮田:6回ですかね。

清水:ギュウチャンは、もっとやっていたみたいですけど。

宮田:改めて今回インタヴューするに当たって、漆黒のイメージから、表面を白く塗っているのが……。

清水:じゃあこれはきっと、黒い紙を使っているね。違うかな。

平野:そうだ。このタイプですね、そうすると。足利に入っているこのタイプですね(「漆黒の彼方」展カタログp. 63、cat. no. 42《漆黒から—火の粉と水滴》1979年、足利市立美術館寄託作品(浅川コレクション)のこと)。

清水:ああ、これですね。この一連の流れですね。

鏑木:周りを白く塗って、少し残すっていう。

清水:塗ったんですね。そういうことなんですね。これは直に白で描いているだけですけれど、黒のラシャ紙です。これもそうだと思います、きっと。同じ頃の作品じゃないかな。

平野:こっちは79年。

鏑木:じゃあ、まったく同じ時期。

宮田:組みなんだ。

清水:これ有香ちゃん、ずっとあなたが持っていたの?

宮田:はい。家にあって、数年前に内科画廊関係の父の作品を国際美に。

清水:ああ、なんかおっしゃっていましたね。そうですか。

鏑木:これは黒の上に、さらに黒を塗っていらっしゃるんですね。

清水:コンテを塗ってあります。黒の上にもう1回コンテ。ラシャ紙だと、なんだか儚すぎてね、紙が。トレーシングペーパーだったら儚くてもいいんですけど、ラシャ紙の直の紙質が気に入らなくて、ざっと大ざっぱにコンテを塗ったような気がします。

宮田:なるほど。そういう意味では、これもそういう、塗るっていう。

清水:同じ気持ちで白を塗っているんだね、きっと。紙質が気に食わなかったんだと思います。

鏑木:そうですか。でもこの作品のように周りに白を塗ってあるのは、ちょっと他にないパターンで、これを拝見したときに皆で「あっ」ってなったんです。

清水:そうですね。

平野:このあたりの仕事になると、ラッカーをかけたりするものもありましたよね。

清水:そうです。銀を塗ってね。(カタログを見ながら)ああ、それですよね。

鏑木:これですよね。

平野:地の部分にも表情を作っていくような作品が、いくつかある。

宮田:確かにこれも、ちょっと作品の……。

清水:似たような感じですよね。

宮田:ちょっと銀色っぽかったりも見えるんですよ。

清水:油絵具かなんかでやっているんじゃないかな。ちょっとわからない。

宮田:そうですね。けっこう厚めに塗っている。

清水:じゃあ、油絵の具ですね、きっと。

宮田:今、白に見えているのは、銀。

平野:銀粉を使っている作品がありますね。

清水:それなんか、銀ですよね。

鏑木:うん、うん。周りは確かに銀ですね。でも、それはまたおもしろい。

平野:膨大にあるんですよ(笑)。ここに載せきれないぐらい作品があって、かなり限定して載せただけなんでね。

清水:2000年から、もう十何年たつ? ほとんど未発表でしょう。

平野:いくつか、くっついちゃっている作品がありました。

清水:あります。だから、こうやるとビリビリビリってなるのがあります。

平野:この展覧会をやるときに、美術館でまとめてこの辺りをお預かりしました。途中で作業をやめているようなものもあれば、くっついているようなものもあったりしましたけどね。

清水:ゴッホが、そうだったんですってね。毎日大量に作品描くじゃない、あの人。しかも、ベッタベタに塗る。しかもそれを、無造作に置いているんですって。そうしたら、絵の具と絵の具がくっついちゃってね、潰し合いっこしているのがあるんですって。この間、本で初めて読みました。

平野:でも〈漆黒〉のシリーズは、初めはこういうドローイングから始まって、その後82年ぐらいからこういうオブジェに移っていく。

清水:そうですね。

平野:そのドローイングからオブジェに、二次元から三次元に移行していくときに、何かご自身で変化があったんでしょうか。

清水:ドローイングの場合はフロッタージュみたいにして、僕なりの考えで裏表、お互いがお互いちょっと透けて見られるようなもの。しかもあれは、なるべく儚い紙。分厚い紙じゃなくて、薄氷(うすごおり)みたいなものを描きたいというイメージがあってやっていたんです。でも、やっぱり儚いんだよね。何か手触りが欲しくなったと思うんですよね。

平野:なるほど。それで実際の物を使って組み合わせていくんですね。

清水:何ていうか、どっちみちトレーシングペーパーの平面でしょう。立体というのは、あらゆる角度から見られるじゃないですか。ある意味じゃ、周りぐるっと回って見るとかね。だから、ドローイングでできなかったことを立体でやって、立体でできなかったことをドローイングでやったというような、同時進行をやった記憶がありますね。

平野:私も印象として、〈漆黒〉のシリーズのドローイングの仕事には、今おっしゃったようにイメージが消えていくような、儚い部分というのを感じています。あとは、さっきお話があった映像的な部分。オブジェに関して言うと、物自体に力がある。むしろオブジェが、特殊な呪力みたいなものを持ってこっちを攻撃してくるみたいな(笑)。
だから、ある意味で消えていく作品とこっちに向かってくる作品。その辺りはご本人の中では、むしろ対になるような感じで考えていたということなんですか。

清水:だから、お互いにちょっと不満なところを補う。不満って言ったらおかしいかな。できないこと、「もっとこうしたい」っていうことが、こちらはできない、こちらはできるとかあるでしょう。そういうやり取りだったと思うんです。はっきり言って、ドローイングで済めば一番よかったのよ(笑)。場所を食わないもん。だってドローイングだったら、100枚描いたってこんなもんじゃないですか。

平野:だけど、オブジェも大量に作られていますよね。

清水:2階で眠っていますよ。よく言われたんです、「置き場所に困るでしょ」とかって。やむにやまれずに作ったっていう気持ちがありますもんね、やっぱり。

平野:それとこの時期はずっと画廊春秋で発表をされていると思いますが、浅川(邦夫)さんとはどういった出会いだったんですか。

清水:浅川さんは、やっぱり中西くん。中西くんは当時の南画廊で、東野(芳明)さんの企画で展覧会をやったんです。

鏑木:「ヤング・セブン」(1964年)ですね。

清水:「ヤング・セブン」。中西くんのあの作品もすごかったけどね。浅川さんは、その南画廊の番頭さんだったんだよ。で、中西くんの紹介で知り合ったっていうか。浅川さんは今でもそうですけれど、田園調布かどこかに住んでいるんですよね。川崎から近いから、よく遊びに行っていたんです。それでよく、作品を預かってくれたりしたのね。俺が「捨てる」って言ったら預かってくれた。〈色盲〉もそうだったんですよ。浅川さんが預かってくれなかったら、もうなかったです。屋根裏へ上げてくれていたから。

平野:じゃあ、〈色盲〉の時代ぐらいから、もうおつきあいがあった。

清水:そうです。浅川さんのところも、やっぱり溜まり場でね。菊畑は近くで作品を作っていたりした。

鏑木:菊畑さんは確か、浅川さんのところに居候していたんですよね。

清水:ええ。浅川さんの世話になっている人が多いんだね。

鏑木:〈色盲〉の頃っていうのは、清水さんがこちらに来てすぐですよね。数年しか経ってない。

清水:そうですね。浅川さんが預かってくれなかったらね。浅川さんのところで篠原とかも皆。三木さんとかね。皆で集まってときどき、寿司会をやるんですよ。手巻き寿司を作って食べようと。で、僕は町工場へ勤めていたから、手を洗って行っても汚いのね。「清水が握った寿司は、誰も食わない」とか言われてさ(笑)。そういう思い出がありますね。

宮田:浅川さんがサポートしてくれたのが大きかった。

清水:そうです。南画廊の番頭さんだったから。浅川さんは、後で独立されたからね。志水(楠男)さんが亡くなられたせいもあって、浅川さんのところでの発表が続いて。浅川さんは「年に2回やれ」って言うんだもん。

鏑木:けっこうハードですね。

清水:浅川さんのところでやったのは、ほとんど黒のオブジェです。年に2回、あの空間を充実させるのは大変だよ。でも頑張って作ったから、作品の数が多いの。『目沼』も、発表は浅川さんのところでやっています。4人のね(「画集『絵次元』出版記念展」、画廊春秋、1971年3月)。

鏑木:発表されるときには浅川さんからの指示はなく、清水さんの好きなように。

清水:そうです、そうです。

平野:浅川さんの画廊では、ずっと〈漆黒〉のシリーズを発表されていたと思うんです。それは浅川さんご自身も、このシリーズの展開をすごく楽しみにされていたということなんですか。

清水:あのね、初期の立体?

平野:ええ。

清水:初めて浅川さんのところへ持っていったときに、浅川さんが「いいね」って言ってくれたのを覚えている。あと、谷川くんが来て褒めてくれたのも覚えているし、それからね、中西くんの奧さんのヤスコちゃんいるでしょう。ヤスコちゃんが来て「いいね」って言ってくれたのも、断片的に覚えている。

平野:初期のこの辺ですかね。一番初めのやつ。

清水:そう。これは、本当に初期です。

平野:まだあまり巨大なものはないですよね。

清水:ないの。せいぜいこんなもんなんですよ。これに関しては、周りの反応が割と良かった。それまで60年の作品は、仲間から評判が悪かったっていう言い方したでしょう。ところが『目沼』以後は、逆にまた批判を受けるのよ。「これはマイナーな世界にすぎない」とかさ。そこら辺は裏腹ですよね。これに関しては、割と手応えがあったと思う。ただこの頃(80年代後半)、もう土方さんは亡くなっていてね。土方さんに一番見せたかった作品ではあります。

平野:ああ、なるほどね。

清水:ほら、暗黒舞踏っていう言い方するでしょう。

鏑木:土方さんが亡くなられたのは、ちょうどこの頃ですね。

清水:そうです。

平野:〈漆黒〉のシリーズはしばらくすると縦長になってきて、垂直性が強調されてきた。

清水:だんだんね。

平野:スケール的にも、ほとんど人間の身体。

清水:そうです。だいたい、自分の等身大ぐらいだしね。

平野:それこそ土方さんの踊りじゃないけれども、人体との関連性みたいなものを意識されたところはあるんですか。

清水:ほとんど自然に、そうなってきたんですけどね。あえて「こういうふうにしよう」なんて思わないのに、なぜ縦長になっていくのかなと思う。

平野:80年代、90年代ぐらいは、縦型が圧倒的に多くなってきますよね。

清水:そうですよね。今はなぜか横型ばっかりですけれど。

平野:その違いもお聞きしたいところなんですけれど、前のインタヴューでその話も一緒にして。

清水:そう。されました。

平野:やっぱり縦型のものは、何か羽をもぎって、むしっていくと骨だけになって、こう縦になる。それに羽を付けてやって、横になるっていう。

清水:羽ばたいているのよね。

平野:確かに物作りにしても、縦はつなげようと思っても限界があるかもしれないけど、横は広げようと思えばいくらでも広げることができる。切りそぐか、広げていくかの違いなのかな、という気がします。

清水:横は無限に、そうです。いまだに横長じゃないと気が済まないもの。

宮田:谷川さんがこのときいろいろ書かれているものがちょこちょこ見られますけど、谷川さんとは交流っていうのは。

清水:彼もよく書いてくれたと思います。

平野:親しいですよね(笑)。

清水:谷川はよく書いてくれたね、俺のことを。天草のことも書いてくれたと思うし、『朝日ジャーナル』だったかな。あと彼の本ね。

宮田:『毒曜日のギャラリー』(リブロポート、1985年)ですね。ちょうど谷川さんも文章を書かれている時期と……。

清水:この間も電話したら、未だに文章を書いているって。頼まれるって言っていた。

宮田:割とお電話でも、今でも。

清水:うん。谷川は、今年の秋に神奈川県立近代美術館・葉山で展覧会やるのよね。決まったって言っていました(「陽光礼讃 谷川晃一・宮迫千鶴展」、2016年のこと)。

宮田:それは楽しみ。

清水:奧さんのと両方でやるんだって。

平野:宮迫さんと。

平野:谷川さんとは、読売アンデパンダンで出会ったっていうことですよね。

清水:そういうことです。谷川くんは内科画廊で個展をやって(1964年2月3日-8日)、それで賞を取っているんだよ(1965年9月に第9回シェル美術賞展で佳作受賞)。谷川くん、中西くん。赤瀬川くんも川崎に遊びに来たし、中西さんとはしょっちゅう行き来していた。

平野:〈漆黒〉のシリーズをやめる、そこから退く決意っていうのは、どうだったんですか。

清水:出会いは嬉しいけど、別れは辛いね(笑)。いや、変な言い方ですけれど。こういう気持ちに似ているかな。とかげのしっぽ切りってあるじゃないですか。それを切って、また自分が生きていくみたいな。そういう切り方で終わらないと、共倒れになっちゃう。じゃあいつそのしっぽを切るかという時はね、自分で考えなくても、自ずと来るようなところがありますね、不思議と。60年代も「これで終わったな」って感じがあったし、コラージュもこれで終わった。〈漆黒〉もそうだったし。じゃあ、次の展開を待っていてしっぽを切るのかって言われると、そんな見事なことじゃないですけれど。一応切らないことには次の展開ができないから。図らずも「漆黒の彼方」という言い方をするから、彼方にしないと悪いじゃない(笑)。それはね平野さん、江尻さんから言われてるの。

平野:(埼玉の展覧会の)サブタイトル(笑)。

清水:江尻さんに「黒いオブジェをこれ以上どうすりゃいいの。教えてよ」って言ったことあるもん。でもそういう終わり方って、必ず来ますから。

鏑木:では意識的に、「この辺でやめようかな」っていうお気持ちを持たれたんですね。

清水:だから意識的っていうか、自ずとというか。時代がそうしてくるときもあるし、自分の気持ちの中でもね。本当のことを言うと平野さん、あの最後の大きいの。これを3部作にしたかったんだ。このくらいのクラス、3つ並べたかったの。

平野:読売アンデパンダンのときに出したときのように。

清水:あの3部作。

平野:なるほど。

清水:3つ並べたかったの。どこかで常設してくれればね。持っていって、組み立てて置きたいんです。

宮田:これも今、まだ上にあるんですか。

平野:そうです。

宮田:……ちょっと休憩しましょうか。

(休憩中)

清水:懐かしいものにいっぱい出会えるな、今日は。

平野:宮田さんのお父さんのところにあった作品を、他の作家の作品も含めて、ちゃんとしかるべきところに入った方がいいと。それで宮田さんが、国立国際美術館に寄贈されたそうですね。

清水:うん、聞きました。これがそうなんですって。
(川村記念美術館の展覧会チラシを見ながら)この数字のところはね、これ、油絵じゃないですね。エナメルで描いた気がします。油でこうやって小さい点は描けないんですよね、難しくて。筆でちょんとやったの、覚えありますもん。

平野:じゃあ大きい部分は油彩で、小さな部分はエナメルという。

清水:そうだと思います。でもこれ、俺の作品だよね。ぜんぜん覚えていないですけれど。中原さんが持ってたんだ。やっと納得できた、これが何であるか。この前、川村(記念)美術館がテレビでやっていたんですよ。立派な公園みたいなところにある、立派な美術館なんですよね。

平野:そうですね。大日本インキのコレクションで、それこそ古いものだとレンブラントを持っていたり。

清水:そうですか。何でそれをテレビでやったかというと、庭にね、アメリカの彫刻家みたいな。

平野:(フランク・)ステラですかね。

清水:そう。その作品を紹介していました。「日曜美術館」だったかな。本人が来て、「ここに俺の作品を置きなさい」なんて言ったら、すぐ成立して作ったんだ。向こうで作ってばらして持ってきて、ここで組み立てたんでしょう、あれ。そのときに美術館の全景が出て、「ああ、こんな立派な美術館なんだな」と思って。

平野:大きい美術館ですよ。日本の中でも、コレクションは素晴らしい。

清水:そうなんですか。

平野:ええ。そこで今、展覧会をされている方が、光田(由里)さんです。元々(渋谷区立)松濤美術館にいらっしゃった方です。

清水:ああ、そうなんですか。

平野:ええ。今は川村記念美術館に移られて、前からいろいろ調べていた中原さんの関係の展覧会を開いています。

清水:そうだったんですか。浅川さんが「最近の作品の写真を送って欲しい」と言われたもんだから……。狙いがぜんぜん分からないのに、勝手にしゃべって申し訳ない。

宮田:そこが大事なところなので。

鏑木:作品のことがお聞きできてよかったです。

清水:そうですか。

鏑木:謎のここをね、白く塗られた作品とか。

宮田:ちゃんと国際(美)に報告しなくちゃ。

清水:いつ作ったかぜんぜん覚えないんですけど、俺の作品には間違いないので。そういうことが今日はやたらに多いな。

鏑木:これまでにたくさん作られているから、きっと今の作品のことで頭がいっぱいですよね。

清水:ある時は突っ走ることに当てて。勢いがないとなかなか進まないじゃないですか。で、牛が反芻っていうの? 食べたものを1回口に戻して噛む。あれと一緒かな。

平野:例えばドローイングとか大量にやった後にそれを見直して、「これは合格、不合格」とか、見極めの作業ってするんですか。

清水:黒のオブジェと黒のドローイングは、不思議と自分で大体安心して見られるの。他の作品に関しては、半分はいいと思えばいいですけど、あとは気に食わない。そういうのに今、手を入れる作業が続いている。そうするとね、昔の作品を確認しながら自己確認ができるところもあるし、当時わからなかったことが、今見ると「ああ、こうすればいい」って、わかるときもあるじゃないですか。そういう面白さもあるので、いつまでもやりたいとは思わないですけど、いずれやらなきゃならないことですからね。完結するのに時間を必要とする作品もあるんですね。

宮田:やらなきゃいけないことなんですね。

清水:うん。

平野:ドローイングでサインを入れたものは、そこで一応完結ということですか。

清水:一応はそうしているんですけどね。タイトルも変えてみたりする。当時のボキャブラリー不足で(笑)。

宮田:それは改題という感じで、元を残しつつ。

清水:そうですね。一応、書いておくのね。でも、後で「これは抵抗ある」とか思ったら。当時はわからないからね。

宮田:そうですね。

清水:時間が経つと不思議とね。作っているときはその作品に取りかかっている苦労っていうか、頭がいっぱいになっちゃうから、判断が鈍るじゃないですか。10年ぐらい経ってから見ると、他人の目で見られる。冷静に見られるからね。「もう捨てちゃおうかな」と思うのもありますけど。

宮田:だめ。だめです。

清水:捨てられないの、やっぱり。手加えると、良くなったりするときもあるしね。ピカソが言うには「俺の作品は、実験、冒険、失敗の集積にしかすぎない」って。池田満寿夫さんが書いている文を読むと、ピカソは普通の目で見たら失敗して、こうやるじゃないですか。それも生かして次の絵にしてしまうような、変幻自在なところがあるでしょう。だからどこかでのめり込んでいても、どこかですぱっとそこから飛び出るエネルギーを持っている人というか。のめり込んだら、作家ものめり込んだままになっちゃうときがあるからね。
見てくれた人には自分の掘った穴に落ちて欲しいけど、作家自身は自分の掘った穴に落ちちゃだめだと思っている。だから作っているときは、それが良いか悪いか、判断ができないときがほとんどだね。それで今、作品の修復というか確認の仕事をしていると、苦労した作品はどうしても憶病になっちゃうところがある。「壊したくない」とかさ。そういうことをピカソはズバズバやっているから、すごいと思う。時間が経つと他人の作品だと思って、ズバズバ手を入れられるのね。めちゃくちゃなやり方ができるの。だから時間が必要ですね、やっぱり。ただ〈黒のオブジェ〉とあれ(黒のドローイング)に関しては、安心してる。今、どれを出しても「まあ、いいか」と。

平野:なるほど。

清水:「まあ、いいか」って言ったらおかしいですけれど、ちょっと行き着いたところで仕事をしているかなという気持ちがあるんです。あと、紆余曲折の仕事をやっていると、作品に限って判断できないときがあるじゃないですか。
でも一方で、例えばセザンヌがすごいのは、描けば描き込むほど作品が逆に未完成になってゆく—。僕もまた、そうした自分の作品に自分が行方不明になったような作品がいいな、と思うこともある。

(再開)

鏑木:それではインタヴューを再開させていただきます。ところで舞台美術のお仕事をされていたときは、どのように依頼を受けていらしたんでしょうか。

清水:初めはお手伝い。土方さんのアスベスト館へ中西くんに連れてってもらったとき。それこそ本当のお手伝いよ。リヤカーにペンキ塗ったりさ。で、終わったら宴会が始まるからね。俺はあんまり飲めないからいつも端にいたけど。で、そうこうしているうちに、高井さん自身から依頼を受けたかな。高井さん、亡くなっちゃったんだよね。また話が横へ行きますけど、高井さんは《砂利の衣装》が当たり役だったんです(「漆黒の彼方」展カタログp. 54、cat. no. 35)。この1月に、中西くんのお手伝いをしている人たちが、ここへ遊びに来たんですよ。高井さんのお世話もしたっていう話で、あれは高井さんがシドニーのオペラハウスで2回踊って、ヨーロッパでも踊って、カナダでも踊ったと。それはうっすらとは聞いていたんですけど、「それがすごく評判よかったんだよ」って。高井さんは俺に「私が死ぬときは、《砂利の衣装》を棺おけに入れてください」って言っていた。

鏑木:すごい。

清水:高井さんから「まんだら屋敷」かな、依頼を受けたときね。別に、特別にこのようなものを作る……。それまでリヤカーにペンキを塗るとか、いろいろやっていたんですけど、これに関しては彼女からの注文は一切なかったです。ただ、土方さんの仕事をずっとお手伝いしていたもんですから。しかも、自分がコラージュを始めるきっかけになったんですからね。「じゃあ」ってことで、僕は勝手に。それまで土方さんといろいろ話したこともあってね。でもこれは推測ですけど、土方さんが高井さんに「清水に頼め」って言ったんだと思う。……としか考えられないです。だから後から、これも余談ですけど、大駱駝艦の麿赤兒ってご存じ?

鏑木:はい。

清水:彼から聞いたんですけど、「『清水と組め』って言われた」って。

鏑木:そういうことがあったんですね。こういうときは具体的に「こういうイメージで」とか、「『まんだら屋敷』っていうのはこういうもので」みたいなことは、あちらから言われるんですか。

清水:いや、僕なりの勝手なイメージだね。土方さんが「お前の作ったもので、俺らが踊るんだ」っていう言い方をしたから。それだけ信頼って言うか、清水にやらせておけば何かが返ってくるという手応えを感じてくれていたという話もしていたから。だから高井さんから話が来たんですけど、土方さんが……。このときはもう、大野(一雄)先生とか土方さんとか、一緒に踊っていますから。

鏑木:では細かい話はせずに。

清水:一切なかったです。僕のやりたい放題やってくださいと。

鏑木:あちらが清水さんに、すべて委ねられていたんですね。清水さんが作られたものをご覧になって、土方さんは何かおっしゃっていましたか。

清水:土方さんは、このポスター(注:ポスター《高井富子舞踏公演 加藤郁乎詩集―形而上学―より「まんだら屋敷」》「漆黒の彼方」展カタログp. 54、cat. no. 34)のことを絶賛したね。2、3年前、ラジオ聴きながら制作をしていたんですよ。そうしたらラジオから流れてくる小説の中に「稲妻捕り」っていう言葉が出てきて、びっくりしました。

鏑木:へぇ。でも、この言葉は……。

清水:僕がこの作品を作った10年後に、瀧口修造さんと南画廊で、加納(光於)さんが「稲妻捕り」っていうタイトルの展覧会をやっているんですよね(「加納光於展《稲妻捕り》」、南画廊、1977年)。僕自身はほら、(作品に対して)「欲しいなら持っていけ」というタイプだから。僕の造語なんですけれども、誰が使ってもいいという頭があって。それはそれでいいと思っているんです。

鏑木:でも一番初めにこの言葉を作品に使われたのは、清水さんなんですよね。

平野:これですね(作品集《目沼》所収。「漆黒の彼方」展カタログp. 50、cat. no. 25-12)。

清水:そうです。これも、富山の鰤起こしから来ていますから。

鏑木:そうですよね。いろんな形で発表している。

清水:だって、まったく身動きできない。足かせ手かせ? 雪国の人たち、そういう環境の中で必死に生きている人は、動きといったらこういうことしかないと思うの。命が思わず稲妻にスパークする……。だから土方さんはこのポスターをすごく気に入ったし、「《砂利の衣装》で俺が踊りたい」って言ったんですもん。でも、それは高井さんのために作ったんだからということで。

宮田:じゃあ土方さんも、ちょっと嫉妬したのかもしれないですね(笑)。

清水:そうかもしれない(笑)。元藤さんも、これで踊りたいって言いだしたんだよ。それで僕は、あの布のテーマを出したんです。前にも話したと思いますが、あれは元藤さんの当たり役になったんですよね。一番きれいだったのは富山の猿倉のスキー場のスロープに、ずっと滑走路みたいに灯が灯っていて、そこに布をずっと持ってきて。空間が広いですからね、あれはきれいでした(元藤燁子舞踏公演「舞踏布橋 in 猿蔵―布を切り裂き、女を浄土へ誘う―」2003年、富山県大沢野町。清水自身も出演)。
今年は土方さんの30回忌なんですよね。何かイベントがあるのか、ないのかわかりませんが、要するに資料を展示して、お弟子さんが踊るだけじゃなくてさ。やっぱり受け継いだもの、発展させたものを提出するべきじゃないかって、1月に来た人たちには話したんですけどね。だから《砂利の衣装》とか、布を切断しての花道を登場するとかさ、新しい関わり方の展開がないと。
三鷹市美術ギャラリーのときも、元藤さんが来て踊ってくださったんです。狭いんですよ、ロビーが。ちょうどその頃はたけのこの季節で、僕が提案したのは1mぐらいの細長い竹です。それを用意させて、お弟子さんが7、8人来たかな。元藤さんはもちろん真ん中で踊るんですけど、皆は元藤さんを取り囲むようにたけのこの皮をむき続けているの。それもきれいでしたけど、そういう新しい展開ね。これは批判じゃないですけど、受け継いだものの展開みたいなものをやっていかないと。
このとき高井さんにはもちろん、土砂降りの雨の音も出したんですけど、舞台は暗いじゃないですか。暗い緑色のランプが点滅するものがありますよね。それを着物の中へ入れて心臓の上に乗せると、心臓が青白く点滅するの。そういう踊りとかね。

鏑木:清水さんが実際に稽古に立ち会って、踊りと合わせたりするんですか。

清水:だっていつもリハーサルに行っていたもん。この前も話したと思うけど、土方さんは「滝とは何か」って突然来るからね。「天国が動いて滝になると思います」なんて言うと、えらい興味を持ってくれて。いわゆる普通の言葉じゃ……そういう言い方ね。あとで稽古を見ていて、「おい、お前ら。天国が動いているんだぞ!」って。「カラスが鳴いているよ!」とか、そういう言葉をいつも発しながらのリハーサルを見てきています。
(三鷹市美術ギャラリーでの個展カタログを見ながら)ああ、これも高井さんが踊ったんですけど、きれいでした。やっぱり暗い中でね、よく昔の浪人かなんか、刀を背負って旅するじゃないですか。そういう風に背負って高井さんが出てきて、その筒みたいなのは世界地図なんです。ばーっと世界地図を広げて、そこから引っこ抜いたのは蛇の目傘。それを開くと、ザラッと鋏が落ちる。それが薄暗い中だから、みんな光って見えるの。
この前ニューヨークに行ったとき、ギュウチャンに会ってね(笑)。久しぶりに会ったのよ、ギュウチャンと。懐かしかったですけど。ギュウチャンの奧さんも来てくださってね。

宮田:乃り子さんですね。

清水:そうです。うちの人とそっくりなのよ、雰囲気が。髪の毛も白くて。富山出身だっていうのは聞いていたんですけど。

宮田:高岡。

清水:よく聞いたら、うちの人の近くだった(笑)。

宮田:そうなんですか。

清水:初めて知りました。ギュウチャンと久しぶりに出会ってね、いきなり「清水の代表作は、《砂利の衣装》だね」と言うの。彼もバッ、バッと言ってくるから。(埼玉の展覧会に出品した)これは、再現なんですよ。高井さんに作ったのはもうぼろぼろでね。こうやったら(持ったら)もう破けるくらい、いつも踊っていたらしくて。美術館で「貸してくれ」って高井さんに頼むと、彼女は断ったらしいの。「もうぼろぼろですから、私の大事なもの」。じゃあということで、今度、娘の形で再現したんです。だから、女の一生ですよね。
当時の接着剤は品質が悪いんで、一晩中、じっと置いてくださいって言われたの。バケツに3杯の石をつけて、次の朝、俺の力でも重くて持ち上がらないんだもん。それを持っていったら高井さん、「私、こんな重いもの踊れません」とかって言っていた。でも、踊っていました。重くてよろめきながら。立ち上がるのも大変ですもん。別に僕、相談を受けたわけじゃないんですよ。勝手に作って持ってった。重さを計ったら130kgありました。

鏑木:じゃあ、最初は全面的に清水さんのインスピレーションからですね。

清水:そうです。「これはいけるな」って、お互いに思ったと思うのね。あ、うんの呼吸で。

宮田:平面から立体の〈漆黒〉のシリーズに行くときの、絵を描くのと立体と、少し体の動きって違うと思うんですけど。

清水:ぜんぜん違います。

宮田:そういうのを、舞踏との関わりに直接結びつけるつもりはないんですけど、何かその……。

清水:60年代が終わって、土方さんと出会っておつきあいが始まってからの作品であることには間違いないの。だから、影響っていう言い方はおかしいかな……何か大事なものをこちらが頂いた。あるいは進化って言うとおかしいですけれど、「ああ、こういうこともやっていいんだ」みたいな冒険心もそのときに生まれたかな。冒険と言うと未知なものに対する挑戦ですけど、「ああ、こういうことやってもいいんだな。よし」みたいな気持ちでやったことは間違いないですね。
だから土方さんと出会ってなかったら、立体のこれは生まれてないかもしれないですよね。不思議とそういう出会いが続いているから、ありがたいと思います。でも、こちらから土方さんに投げたものっていうのも、結構ありますから。それがこの前に話した、僕の苦労話みたいなもんですけれど、あれが作品を作るひとつの核になっていることは間違いない。

鏑木:お互い、響くものがあったから。

清水:あったんです。「おい、冬の山は光って近づくんだぞ」とか、女優さんに言っているわけ。それは僕が彼に言った言葉だし、実感ですからね。だから、そういうキャッチボールができた人かな。僕にとっては、長い人生で出会った方の中で、やっぱり大事な人。文章も書いてくださったでしょう。で、彼は『美貌の青空』っていうタイトルで、全集を出したでしょう。あれは『目沼』の中にある鋏と蟹の作品(土方のテキスト「稲妻捕りの画家」のこと)の中にある言葉なんですよ。蟹と鋏の「軋線」について彼が書いた文章に「美貌の青空」っていう言葉があって。土方さんが亡くなって、種村さんたちが集まって、鶴岡善久さんも集まって彼の全集を出すのに、河出書房(新社)かな。総タイトルを決めるのに、「『美貌の青空』にしようっていう案が出ているんですけど、どうですか」って、種村さんから電話が入ったもん。みんな集まって会議中だって。「『美貌の青空』でいいんじゃない?」ということで決まった。(注:『美貌の青空』は筑摩書房、1987年刊の遺文集。『土方巽全集』は河出書房新社、1998年刊)

鏑木:そうだったんですか。

清水:そうです。この作品です。これ、投影してくれたね、僕が美術館でトークのときに。

平野:ああ。

清水:本人はわからないのに、なんか映っているなと思って見てました。平野さんにも苦労かけてるんだよ、俺。

平野:いやいや、とんでもないです。

清水:ほんとにわがまま者でさ。富山にも呼びつけたりして。平野さん、いつか恩返しします、本当に。

平野:いえいえ。確かにこういうのを見ていると、土方さんの舞踏との関係は興味深い。残念ながら私は生で土方さんを見る世代じゃなかったんで、映像でしか見てないですけど。

清水:ビデオを撮るのは嫌がったしね、彼。

平野:映像でしか知らないです。写真と。

清水:写真はいっぱいありますけどね。言葉の天才でもあったからね。「美貌の青空」って、なかなか出てこないですよ。なまめかしい言葉だよね。透き通っているけど、なまめかしい。

宮田:このあとの90年代に入っての〈華鋏〉シリーズは私、あとから見ていると、舞踏とイメージが重なります。

清水:これは何で描いたかっていうと、平野さんには言ったかな。土方さんがいつも、「俺の中には姉が住んでいて、姉が俺を踊らせている」ってしょっちゅう言っていたの。だから何かの機会があるとき。いわゆる資料とかさ、お弟子さんが来て踊るだけじゃない、何か新しいもの。僕はこれ、結局土方さんに1点も見せてないの。

宮田:ああ、そうなんですね。

清水:うん。始まっていた仕事ですけど。なぜかというと、これは僕がそのお姉さんのために描いたデッサンなの。まあ、コラージュの世界と一緒ですけどね。コラージュは貼り絵で、こちらは描くだけの違いですけど。コラージュだって、やっていながら「こういう作品を作りたい」と思っても、写真がない場合には描くしかないじゃない。そういうこともあるしね。

鏑木:では、コラージュと同一線上にある作品なんですね。

清水:線上ですね。一緒にやっていたような記憶もあるし。その中から平野さんは、3点選んで展示してくださったんですけど。ね、平野さん。

平野:そうです。

清水:これ、平野さんが選んでくれたの。こういうのが100点ぐらいあるのよ。それから、まだ誰にも見せてないコンテの作品も100点ほどあります。

平野:テーマになっているのは、さっき言った女性性みたいなものですか。

清水:そう。女ばっかりだもんね。

平野:同時に、何て言うんでしょうね。ちょっと不気味というか、言葉は悪いかもしれないけど、ちょっとサディスティックな部分があって。解釈のしようによっては、精神分析的な部分もある。

清水:ある、ある。

平野:その辺って、ご自身の中ではどういうふうにお考えですか。

清水:うーん、どうだろう。描いていながら、何かに爪立ててほじくっている実感みたいなものがあるじゃないですか。発想のときはだいたいここら辺で終わっているものが、描いていると、もう一つ向こうまで行けるみたいな。
そうすると、そこにまた行けるときがあるじゃないですか。そういう楽しみがあって、また描く。そこにはやっぱり不気味なもの、あるいは面白いものというか、そういうものに突き当たる場合があるのね。発想のときは、そんな深くまではなかなか。でも描いていながら次の発想を生む場合もあるし、どこかへ連れて行ってもらえるんじゃないかなと思って描き続けることもある。描きながら、自分の作品じゃないみたいな、道しるべが迎えに来てくれて描いているっていうことはあります。

平野:この〈華鋏〉のシリーズの全部かどうかは分からないですけど、結構これも具体的な体験、自分が見た場面をベースにして、そこから制作されているということですよね。

清水:ほとんどそうです。タイトルも具体的なのものがありますけど、一番の問題作は(スケッチブックにある)腹切りの絵なの。これも一種の滅びの美学と同時に、軍国主義の日本を批判した作品です。

宮田:うわぁ。

清水:これ、いつかまとめて出したいと思うんです。(長女の)真理子が「私、文章を書きたい」とか(笑)。これについての真理子の文章は、体当たりで突っ込んでいって、死ぬときの、昔の特攻隊の話なんです。日本の象徴。日本ではお母さんとか娘たちが、銃後の守りとかって軍の工場で働くじゃないですか。そういう象徴で描いたんですけれど、こういう恐ろしいのもあるし、(スケッチブックをめくりながら)……これは元藤さんが実現したの。墓場に、卒塔婆ってあるでしょう。それを竹馬にしたんですよ。これ、ご丁寧に土方さんの戒名が書いてある。

宮田:うわぁ。それはすごい。

清水:そういう、恐ろしいっていうか、面白いっていう。それから、これは《屋根たたき》っていうタイトルですけど、竹馬が鋏なのね。こういうろくろ首もあります。(前回のインタヴューで)美術館のプールみたいな作品を僕、批判したでしょう。なぜかっていうと、また子どもの頃の話になりますけど、おばあちゃんとテキ屋でこんにゃくを売っていたって言ったでしょう。テントを張るじゃないですか。間借りしていた家は、雨漏りがすごいの。そのテントを利用して、蚊帳みたいに(両腕を広げて引っぱる素振りをして)こうやって天井に張るんです。そうするとだんだん水が溜まってきて、下がってくるの。そのくらい雨漏りがひどかった。僕はそこにどじょうなんかを入れるわけよ。そうすると水族館が今で言う天窓、天にこう、あるでしょう。その頃すでに、あれのはしりをやっているの。頭の上で魚が泳いでいるんですもん。そういう経験をしていると、あのプールのなんか面白くもおかしくもない(笑)。だって次の朝、その川魚は祖母の食事になるんだよ。

宮田:そういう体験が。

清水:そうなんですよ。自分の家で同じことをやっているんです。あるときはバケツを置いて、こうやってテントの水をザーッと出して、入った魚をまた入れたりして。そういう生活をしていましたから。今なんかトンネルみたいにして魚が上で泳いでいて、大騒ぎしているじゃない。ああいうことは、もう経験しているのよ。そういう経験もあるし、これを今考えてみるとね、馬が、これは黄泉(よみ)。黄色い。東北の地図を背負っているのね。で、水が流れていて、ハスの花が流れているでしょう。3月11日に重なるんだよね。
そういう予知能力みたいなものが、自分の中のどっかにちょっとある。この一連の作品は人様に見せるつもりで描いたのではなくてすごくマイナーなんですけど、大事な僕の記録なんです。

宮田:そうか。自分を知りながらも、記録しているんですね。

清水:だから平野さんが言ったようにおっかないのもあるし、ちょっと笑っちゃうのもある。

平野:そうですね。そういうのもありますね。

宮田:90年代の後半ぐらいから、60年代を再評価するような展覧会が全国、海外でも企画が上がってくるようになりましたけど、そういうときに出品依頼とかがあったりして、当時を見ていない学芸員の方たちも含めて、オファーがあったときにどうでしたか。

清水:僕は自分から打って出るというか、「こういう作品もありますよ、どうですか」っていうのは1回もしたことない。苦手だし、説得できないし。だからさっきも言ったように、そういう展覧会? 例えば女流作家展とか、ただ集めてやる展覧会もいいですけど、女の持っている独特のもの。女の中には魔性もあるしね。良い意味のよ。なにも男をたぶらかすとか、そういう低次元なことじゃなくて、命の根源みたいなものを女って持っている。そういうものを掘り下げた展覧会の女流作家展を見たいと思う。ニューヨークもそうですよね。具体が大流行みたいで、いくらの金を儲けたとかいろいろ聞きますけれど。そういうこともいいんですけど、そうじゃなくて。さっきも言ったように「未来にある過去」とかね。僕の独特な言い方だと思うんですけど。
そういうひとつの縁みたいなもの、輪廻みたいなものの勢いのある展開みたいな展覧会だったら、いいと思います。でもただ「過去にこういうものがありました」とか、「今はこういうものが評価されていますよ」っていうだけじゃ、打つ意味はちょっと薄いかな。もしそういう話があればね。だから30周年(回忌)の土方さんの話もそうですけど、何かひとつプラスアルファをしていかないと、過去は過去で「拾うものがあったら拾ってみたら」みたいな展覧会では……。「どうだ!」みたいなものをやっぱりぶつけていかないと。どうでしょう。でも、もし「じゃあ、清水ならどうするの」って言われたら、具体的にちょっと時間が欲しいですけれどね。
だから《砂利の衣装》とか、白い反物を切断しながら登場していくっていう、(川崎市)岡本太郎美術館のイベント(注:「肉体のシュルレアリスム 舞踏家土方巽抄」展、2003年での元藤燁子追悼公演・舞踏セレモニー「天地☆光と闇」のことと思われる)がきれいだったって話、聞きました? 美術館へ行くのに坂があるでしょう。下からずーっと、お客さんが自然に白い布を持ってくれたって。元藤さんの遺品をリヤカーに乗せて、お弟子さんが切断しながら上ったっていう話を聞きましたけど、そういう新しいものをね。それはわかりませんけど、踊りの先にあるものをこちらでやっぱり予感するものがありますから。人間の命ってひとつの限界はありますけれど、そういう予感みたいなものを投げつけて展開をしていかないと、面白くないっていうか。立派なもの、いいものはいっぱいありますけれど、それをただ展示するだけじゃ弱いと思う。

宮田:私たち世代が、改めて60年代を知りたいっていうことでもあるとは思うんですけど。

平野: 展覧会の時に、60年代のものにしても、50年代にしても、現代にとって意味があるものを選んで展示して、それを現在との関わりで、あるいは未来との関わりで展示していくことが重要なんですかね。

清水:そうですね。

平野:でもそれはなかなか、美術館人として難しいところです(笑)。

清水:わかります、本当に。俺が平野さんの立場だったら「じゃあ、どうするか」って頭を悩ませそうだもん。

鏑木:1983年に東京都美術館で開催した「現代美術の動向II 1960年代—多様化への出発」という展覧会は、清水さんの60年代初期のお仕事を80年代に改めて紹介した、最初の展覧会ではないかと思います。

清水:ああ、思い出した。そのときにきっと、〈ベッド〉を出しているんだ。

鏑木:そうですね。〈色盲〉も出されていて、そのときに出品したものが今、東京都現代美術館の収蔵品になっています。

清水:そうか。

鏑木:そのとき、赤瀬川さんとか中西さんとか、清水さんのお友だちのいろんな方が……。

清水:出しています。

鏑木:確か赤瀬川さんはそのとき、懐かしい作品に再び出会える喜びの反面、「何か物足りない」というようなことをおっしゃっていたんです。当時の熱気がそのままよみがえったわけじゃない、というか。

清水:そうね。再制作した作品もあるからかもしれない。

鏑木:そうですね。菊畑さんも、再制作をされていますね。

清水:僕なんか、最たるものだもん。こっちへ持ってきたのは、鳥の剥製だけですもん。

平野:ベッドの部分は、そうですね。

清水:ええ。ベッドから台から、みんな向こうで捨てちゃって来たから。ただ、どうしても出品依頼が断れなくて、「再制作でもいいですか」ということで。布団はだいたい似たものができたんです。でもベッドがね、やっぱり気に入ったのがなくて。1回、オックスフォード美術館から出品依頼があって。

鏑木:はい、87年ぐらいでしたっけ(注:Reconstructions: Avant-Garde Art in Japan 1945-1965, Museum of Modern Art Oxford, et. al. 1985-1986)。

清水:《リクリエーション》の依頼があって、ベッドのニュアンスを指示したんですよ。ところがシンデレラ姫みたいな花柄の、(装飾が沢山ある手振りで)こういうベッドだったの(笑)。

鏑木:そうですか。それは違う(笑)。

清水:何でこんなことをしたんだと思う。いや、そうだったんですよ。わかってくれてないなと思って。アイデアは一緒なんですよ。

鏑木:でも、そういう問題じゃないですよね。

清水:当時の写真を見せたのに、「これはあかんな」と思ったんです(笑)。でも今使っているベッドは、浅川さんからなんですよ。「近所に汚いベッドが捨ててあるよ」って言うから、「え! じゃあ、見せて」と言って拾ってきたの。だから今のベッドは気に入っているから、いいの。ちょっと違いますけど、僕にとってはいいベッドなんです。

鏑木:そうですか。80年代にあった60年代を見直す流れの中で、再制作の依頼が何度かされているんですね。

清水:そうみたいですね。だって今、ニューヨークの画廊がいっぱいあるでしょう。僕が行ったときに、日本の作家のリストがあったんです。日本の作家がずらっと出ているのを、僕は目撃したの。中西くんもそう。俺もそうです。「ああ、これから狙っている作家なんだな」と思った。日本の作家なんですよ、これからは。どうもそういう感じがする。チェルシーといったら画廊がいっぱい集まっているニューヨークの一画なんですけど、ざっと見たけどはっきり言って……僕の言葉ではうまく言えないけれど、失速している。勢いはあるんだけど中身が、方向がないというか。そういう印象をすごく受けたので、これからはこっち(日本)へ来るんじゃないかなと思います。それはあくまでも僕の個人的な考え方ですけど。

平野:この間ニューヨークで個展をされたときに、清水さんの仕事をアメリカの画商が見て、日本人が見る清水さんへの見方と、アメリカの……。

清水:違いか。

平野:うん。アメリカの批評家なり、画商が見る見方の違いは。

清水:紹介したと思うんですけど、ゴメスさん(Edward M. Gomezジャーナリスト、美術批評家)が俺の作品に興味を持ってくれて、急遽展覧会をやったんです(注:第1回インタヴューにあるAkira Shimizu: Scattering Scare, Pouvel Zoubouk Garelly, 2014のこと。なお本展についてのゴメス氏によるテキストは以下を参照。Edward M. Gomez“Fishing Expeditions.”Art and Antiques, 2014 Summer.
http://pavelzoubok.com/wp-content/uploads/2015/09/Shimizu-ArtAndAntiques-2014-Logo-sm1.pdf)。〈地図〉の作品にものすごく興味を持って、「これでやりたい」ということで実現したんです。でも例えば、日本のミュージシャンが向こう行ってやってもあまり成功しないのは、向こうにそういうのはごまんとあるからなのね。やっぱり、日本独自のものを求めているみたいね。
だから今の画廊の方も、さっきみたいにコラージュだっていうことで飛びついてくれたと思うんですけど、内容的にはどう判断したかわからないです。ゴメスさんに関しては、彼が興味を示すのは、やっぱり東洋的な世界ですよね。そういうことをすごく実感しました。だから、なにも「フジヤマ」「ゲイシャ」がいいっていうことではなくて、東洋独特の思考の深さから出ている仕事。でも、それは時間がかかると思うのね。表の上だけで、ビジネスだけで動いている世界じゃないですから。理解されるには、すごく時間がかかるなというのも実感しました。ただ興味を持つのは、やっぱり日本独特のものじゃないでしょうか、きっと。アメリカナイズされたものは、見向きもしないですね。

平野:一方で、過剰に日本的なものみたいなところに海外の画商なり、批評家が反応しすぎると、ステレオタイプ的になってしまう。

清水:そうね。

平野:本当はわれわれの中では地続きにある部分を、逆輸入的な視点から、かえってねじ曲げられて見られてしまう。

清水:ありますね。それも感じますね。

平野:その辺のバランスって、すごく難しいところじゃないかなと。

清水:だから、ピックアップする根本は、ビジネスがまずひとつあるでしょう。だから、ややこしい話なんかどうでもいいんで、要するに金になるか、ならないかで動くところも、向こうもドライですから、あるんじゃないでしょうか。たぶんね。でもゴメスさんみたいな人もいて、僕の作品に興味を持ってくれている世界観、あるいは文章を読むと、「ああ、だいぶ分かってくれているんだな」と思う文章もあるし、こういう人もアメリカにいるんだな、と思う。で、この前、画廊に来たときに小さいスケッチブックを見て、「これ、いいな」って言うからあげたんですよ。テキサスの友だちとか、みんなに見せて回るとか言って(笑)。
そういう気に入ったものに対しては、まったく損得抜きにして動いてくれる方なんです。そういう人も、いることはいるんですよね。だから、これから先はわからないですけど、6月にまた判断が来るんです。作品を預けてありますから。恐らく理解されるには、もう10年ぐらいかかるんじゃないかと思います。こっちの仕事はややこしいからさ(笑)。
個展のときも、結構質問が来ますね。で、こちらの言葉でややこしいことを言うと、ぜんぜん通じないですね。「これは私の汽車。これは私の船」と言ったら、「おお」ってすぐ反応する(笑)。そういう単純な言い方。

鏑木:難しいですね。

清水:そういう感じがありますから。理想的なことを言うと、もちろんビジネスも大事ですけど、先にこうして動いてくれること。時間がかかるかな、と思いますね。それもちょっと実感しました。でも恐らく、これからこっちへ触手を伸ばしてくるなっていう感じはありますね。知っている作家が、ずらっと並んでいるんですもん。

宮田:三鷹と足利での初めての回顧展で総見直しっていうのをされたと思うんですけど、そのときに、何か考えたことってありますか。

清水:三鷹でやったときとか、足利のとき? どういう質問なの?

宮田:初めての回顧展というときに、今までの全部の仕事をもう一度人に見せるっていう機会だったと思うんですね。そのときにすごく意識したことってありますか。

清水:ある、ある(笑)。埼玉県立近代美術館のときもそうでしたけど、三鷹もそう。「自分のやったことは、たったこれだけ?」っていう感じが、まず来たね。

鏑木:えー。

清水:本当。たったこれだけのことしかやってなかったなって。一番初めに来ましたね、ドーンと。

鏑木:でも、随分たくさんの作品の中から選ばれたんじゃないですか。

清水:それはね、平野さんもそうでしたけど、美術館の方が選んでくれたからよかったの。平野さんはこの前、宮崎まで行ったとおっしゃったけど、僕の場合はほとんど家にあったから助かったって、江尻さんと、誰かに言われました。そうじゃなくて散らばっていると、みんなひとつひとつ行かなきゃなんないでしょう。大変な作業ですよね。それをお返しに行ったりね。苦労がわかりますよ。僕の場合もたまにはそういうのもあるかもしれませんけど、「清水はほとんどの作品が自分の家にあるから、助かった」なんて言われたの覚えていますよ(笑)。選んだのは、やっぱり美術館の人。選んでもらいました。
だから平野さん、自分では忘れてて、何があるかわからないの。入ったことないの、作品を保管している自分の家の2階の奥には。

平野:いつか入りましょう、ぜひ。最初の感想のときに、「たったこれだけのことしかやってこなかった」って、ちょっとそこを具体的にお聞きしたいですね。どういうことなのか。

清水:そんなことは思いもしなかったですけど、要するにピックアップすると流れが出てくるわけでしょう。そういうことは自分でもわかっているわけよね。ここへ出したかったのに、「こういう作品もあったのにな」とかそういうことじゃなくて。流れはちゃんと出てるんです。その流れの短さ。

平野:うーん。

清水:だって絵を描き出して、東京へ出てきて、40年かそこらが経っているわけでしょう。その間にやった仕事って、たったこれだけのこと。内容的に言っているのよ。数じゃなくて。

平野:なるほど。

清水:「もっと先へ行きたいのにな」という気持ちが、どこかにあったのかな。それはもう、まず実感で。たったこれだけのことしかやってないのかなって。出ているんですけれどね、全部。ピカソの画集をいっぱいもらったんで、今そこに置いてあるんです。青の時代から現代までの作品があるけれど、ピカソにしても僕はそういうものを感じる。変貌した作家であればあるほど、そういうことを感じるね、きっと。
だからどこかへ行くのにまず測量して、自分の力で線路を引いて、自分の力で汽車を作って、自分の力でお客さん乗せて目的地へ行く。今はだいたい文化の流れって、途中乗車で乗って、人の作ったものに乗って、「ああ、きれい」で終わるじゃないですか。でも、初めからそこまでやろうと思っている気持ちが、どこかにあるのね。だから次の新しいテーマにぶつかるときにいつも感じるのは、さびついた大きい機関車を動かすにはどうしたらいいかということ。動かない、さびついていて、みたいな重い実感。
そういうこともあるかもしれないですけど、そういう気持ちがあるのに、「これだけしかやってないの?」っていう感じがある。だから生意気にこんなことを言いましたけど、ここら辺で終わっているかもしれないし。本当にひとつの実感として、それはなぜかすごく感じた。「たったこれっぽっち」と思った。

平野:そういう意味では、まだまだ制作意欲というか、制作願望が。

清水:うーん。あるのかもしれませんけどね。じゃあ先は、見通しが明るいわけでもさらさらないですけど(笑)。

平野:草間彌生がやっぱりいつも、こんなに作品作っても時間が足りなくて、まだまだ作りたいっていう。ああいうアーティストの魂っていうか、そういうものなのかもしれないですけどね。

清水:そうですね。偉大な世界を動かした人物の中に、日本じゃ北斎だけが入っているんですってね。あとは誰もいないんですって。あの北斎が、「100まで生きられたら、もうちょっとましな仕事ができたんだが」っていう言葉を残したって(笑)。そういうことと、ちょっと似ているかと思うんです。僕の場合はとにかく気持ちばかりが先走って、「どこかへ行きたいな」と思っているんだけど、身が動かないっていうジレンマがそういう言葉を吐かせているんじゃないかと思います。じゃあ絵の具も使い放題使えて、アトリエも広くて時間もいっぱいあって、「さあ」なんて言われたって、できるもんじゃないしね。それはわかっているんですけど、本当に「これっぽっちしかやってないのかな」と思った。
だって平野さんの展覧会もそうじゃない。〈色盲〉とかあそこら辺で始まってさ、〈ブラックライト〉があって、コラージュがあって、立体があって、それでチョンじゃないですか。あとは何をやったのかと思いますよ、やっぱり。

平野:足利と三鷹でやったときには、それなりの物量をかなりぎっしり詰め込んでやるタイプの展覧会で、逆にわれわれの埼玉近美でやったときは、作品は自分なりにかなり厳選して、江尻さんたちのアプローチとは意識的に変えたつもりではあったんですけどね。

清水:ただ僕が言いたいのは、未知の世界、その予感、その時空へ自分を動かしたい……。動いて行きたいという欲望が先走っていて、そうした時点で自分が歩いてきた道の短さが反動として……。でも本当に、平野さんの視点が一本の線としての素晴らしい展示でした。

平野:いえいえ(笑)。

清水:本当にそうなのよ。頭が上がらないの。

鏑木:やっぱり埼玉のときは三鷹の個展から少し時間も経っていましたし、違うアプローチで見たいですよね。

清水:そうです。それもあるしね。形を変えて、何十年後でもいいからさ。「彼方」の展覧会やってください。あなたがつけたんですから(笑)。彼方が出てないじゃん、あの展覧会。「彼方へ行ってください」って言って、俺に言っているだけだよ。

鏑木:埼玉の展覧会について、周りの方たちは何かおっしゃっていましたか。

清水:僕の友だちは「えー」って驚くことが多くてね、後で聞くんです。「見てきたよ」とかって、結構知った人が見ました。自分で言うのもなんですけど、皆さんの評判はすごく良かったです。「見てきて良かった」って。

平野:中西さんも見にいらっしゃいましたからね。メモをお渡しした……。

清水:ああ、もらった、もらった。

平野:ええ。中西さんもわざわざ、おひとりでいらしていて。展覧会を見終わった後に、吉野さんとも面識があるんで、おふたりに「拝見いたしました。これをお渡しください」って、展覧会会場でお手紙を(笑)。

清水:ああ、頂きました(笑)。すいません。

鏑木:そうですか。やっぱり自分の友だちの展覧会というのは、ひとりでゆっくり見たいっていう気持ちなのかな。

清水:そうなんですよ。彼は口では言わないけど、「これ、君の作品ですか」の出会いからさ、やっぱり何か響くものがお互いにあったから(笑)。僕も中西の作品は、当時好きだったしね。影響もされたし。

鏑木:でも、すごく厳しい目を持っておられる方だった。

清水:そうですよ。だから、土方さんと中西くんが、一番僕を鼓舞した人。中西は、いちいち「協力してくれ」とかそういうことは一切なかったし、僕もしてもらったことはないんですけど、言わず語らずでね。……僕も4月で80歳になりますから。

鏑木:おめでとうございます。

清水:何がめでたいのよ(笑)。ありがとうございます。

鏑木:先日お電話したときも、「最近、昼間は昔の作品に手を入れるのが忙しくって」とおっしゃっていて、これまでの作品の整理もされているとうかがいました。

清水:そうです。1回やらなきゃなんない。そうしないと自分の気持ちがすっきりしないのと、何をやったかわかんないのが入っているのと。あと一番には、ごちゃごちゃになっていると、いずれ娘が困ると思って。だから後で離れを見せますけど、ひとつのシリーズはまとめて。押し入れも見せましたけど(襖を開けると、シリーズ名が書かれた紙が貼ってある)ああいう風に、ここにはどういう作品があるかということをきちんとしておかないと、すっきりしないんでね。いずれはやらなきゃならなかったし。

鏑木:改めて見てみて、いかがですか。

清水:今、手を入れているのは要するに、2000年? 十何年来の仕事ですよね。僕自身の気持ちでは〈漆黒から〉のオブジェの頃で、僕自身の区切りはついているの。僕のできる仕事だっていうことで。で、2000年から今まで、今日までの仕事があるじゃないですか、ごちゃごちゃ。それはね、自分でもまだはっきり確証が取れない。要するに、スケッチブックもいっぱい描いたりするんですけど、大きな幹がドカンとあるじゃないですか。枝があるじゃないですか。その、あえて枝をやってみる。さっきの山手線の話じゃないけど、駅からまた支線が出ているように、そういうところまで手を伸ばしていかないと、花が咲かないじゃないですか。
という意味で、ある意味ではすごく不安な、自分で決着をつけない仕事を自分で今、取りかかっているみたいな。今、ここで再確認していると、やっぱり、「あっ」と思うことも出てくる。やっぱり必然的に来ているんだなと。いい悪いは別にしてですよ。評判がいいとか悪いとかじゃなくて、自分自身の描き方としてね、こういう仕事が待っていたのに今、取りかかっているんだなって確認できての仕事だから、楽しくやっています。それは、いい悪いは別です。

鏑木:じゃあ、ここに来て、少しこう……。

清水:どこか作品にね、今は陰りがあると許せない。とにかく明るくするということじゃなくて、光で満たしたいっていう感じが、どこかにあってね。陰りのない作品を作りたいっていう感じがあって。
だから、平野さんがいみじくも言ってくれたと思うんですけど、彼方をやっています。彼方か、以前か知らないですけれど(笑)。これはやっぱり未来に待っている過去の仕事かな。今は実感で、ちょっとそういうことを確認できる。それがまた大量にあるからね。でもまあ、焦らないで。

平野:制作の方法として、大量に毎日スケッチブックに描いたり、ドローイングの作業を相当されていますよね。それを連続的にやる中で、何か大きなシリーズに向かうためのインスピレーションみたいなものを、どこかでキャッチできるんじゃないかっていうことを思われているんですか。

清水:うん。だから、やっぱり「得体の知れないもの」(注:「漆黒の彼方」展カタログ所収、平野のテキスト「得体の知れないもの―インタビューを終えて」pp. 90-91)とおっしゃったけど、明るくても得体の知れないものってありますもんね。得体の知れないものってだいたい、暗いとか正体が分からんとかって、あるじゃない。最近は、明るいなりの“得体の知れないもの”っていうのもあるなって。それとお互いに顔を見合わせることができたかな。そういう実感がどこかにあるんで、また評判が悪いかもしれないですけど、自分としては「これはやっぱり、待っていた仕事だな」という感じがします。
そういう意味では、必然的にそういう仕事をしているのね。ただ部屋が汚れているから掃除するっていうことじゃなくてさ(笑)。気持ちがそういうふうに動いてきたっていうこと。中には「ああ」と思ってすぐ片付けるのもあるし、「だめだな、これは」と思ったら、そこへ立てかけてみる。見て、あのドームの中でごちゃごちゃやっている。思いもかけず手こずったりするし、手こずったら手こずったなりに、突破口って必ずあるなと思うようになった。要するに自分は、何かが足りないから「嫌だ」と思っているんで、そこを何とか打開しないと。なんか古くさい話をしてるね。

鏑木:いえいえ、そんなことないです。

宮田:すごく、それこそ光を与えられるような話です。

平野:次に制作されたいと思っているのは、ペインティングというよりは、むしろレリーフ的なものなんですか。

清水:今はね。今までの作品は、全部ほとんどそうですよね。

平野:いや、これから先。

清水:これからは案外……、どう言ったらいいんでしょう。クレーが最晩年に病院を生活していて描いた、天使のデッサン。まったく単純な、鉛筆の。あれを見ていると、素敵なんでね。ああいうものを描きたいなと思う。そう思ったら最近、また不思議と紙が大量に入ってくるの(笑)。
馬蹄がいっぱい入ったって言ったでしょう。馬蹄も十何点か作ったんです。まだ馬蹄は残っているんですけど、「ああ、これで馬蹄が終わったな」と思ったら、また紙がいっぱい(笑)。昨日か一昨日も、紙がドサッと送られてきたの。だから、また水彩みたいなのをやろうかなと思っていますけど、体力がないこともある。でも小さい作品って、またエネルギー要りますもんね。

平野:はい。細かい作業がありますからね。

清水:結晶体みたいな。それに持っていくには、またとんでもない時間がかかる。でも、まあ……そういう仕事を。平面になると思いますけど。

平野:それも絵画的なサイズというよりは、むしろドローイング的なものということですよね。

清水:そうですね、たぶん。水彩とかね。

平野:元々ご本人の、何て言うんでしょうね、出発点として、ペインティングというよりは、どっちかっていうとドローイングがあるのでは。

清水:これも言葉使いが適切かどうかはわからないですけど、ジャスパー・ジョーンズ。
彼独特の、硝煙の匂いが立ち込めているような、的とか一連の作品あるじゃないですか。それが終わったときに、誰かが彼に「絵が描けなくなったら、どうしますか」って質問をしたんですって。そしたら、やっぱりすごいね。ジャスパー・ジョーンズは「絵の具を塗ります」って(笑)。その作品にはお目にかかっていないですけど、そういう言い方をする言葉の裏側には、はっと思うものが潜んでいますもんね。果たして質問に答えているかわかりませんけど、絵の具塗ります(笑)。でも、まずは線の絵が描きたい。クレーみたいなね。
でもね。これもあまのじゃくからだと思うんですけど、例えば、こういうふうな単純な絵を描く人。モンドリアン? どんな作家でも、行き着くとこまで行き着いている作品には間違いないのね。でも、もう先がないというところには、自分を追い込みたくないという感じがある。いつもどろどろ、なまめかしく動いていて固まらない。「ここへ行けば、典型的な自分の世界が出るんです」ってわかっていても、そういう終わり方をしたくないというあまのじゃくな世界があって、まだまだ先へ行きたいという気持ちがある。
だからクレーの天使の絵もね、好きなんだけど、そういうものはやっぱり感じるのね。行き着いて、これ以上どうしようもない、彼の本当の終着駅の作品だって。終着駅って言ったらおかしいですけど、行き着いたところまで行った作品。一つのスタイル。僕は、そういうことをしたくないのよね。もっと変貌したいし、あまのじゃくかもしれませんけど、決めつけたくない。さっきみたいに、障子からいつも風が吹き込んでいて、頬をなでられているような状態に自分がいた方が楽しいっていうか。さっきも言った「これっぽっち」っていう言い方の裏側には、もっと風に当たりたいという気持ちもあるからだと思います。典型的なものに出してしまったら、これっぽっちじゃないですか、やっぱり。本当の意味の。
でも、これっぽっちの裏側には、「また何かしたい」という気持ちが潜んでいるんで、僕はその行き着いた典型的な、終局のとは言いながらね、例えば「絶筆」っていう言葉があるでしょう。最後の作品。それはなにも、その作家が最後に描いた作品、死ぬ間際に描いた作品ということでもあるんだけど、そうじゃなくて、その作家が行き着いた世界をもし最後の作品と言うんだったら、僕は、「稲妻捕り」で終わっているの。正直なことを言うと、あれ以上どうしようもないの。じゃあ、後に何が残っているか、仕事が残されているかっていうと、そこへ行くまでの過程をもう1回なぞる? それも嫌なのね。また、今日まで「稲妻捕り」のフレーズのいろんな人たちの作品を散見するけど、無論、自分にとっては論外です。
あの黒のオブジェが出たときに、「あ、一つ突破口ができたな」という実感があった。だから必ず、何か突破口があるなっていう気持ちがあるんで、自分をひとつのスタイルで決めつけて終わりたくない。だから、クレーの天使の絵もきれいで、とても美しい。文句なしに美しい。でもそういう行き着いた世界に、まだ自分は行きたくない。80歳になりながら。もっと動きたいなという気持ちがある。そういう実感がいつもあるんで、そういうところから「これっぽっち」という気持ちも出てくるんだろうと思うし、ちょっとうまく言えないですけどね。動きたいと思うから、これっぽっちと思うんじゃないかと思ったり。じゃあ、何があるかっていったら、さっぱり分からないですけど。でも《稲妻捕り》は僕の絶筆であり、新しい出発のポイントでもあるのです。漁師たちはあの稲妻を「鰤起こし」と呼びましたが、僕は何を起こすことができるかな。これから……。

鏑木:また新しい展開がありそうだな、っていうことをお聞きできて良かったです。

平野:すごい制作意欲をまだまだお持ちだということが、素晴らしいです。

宮田:本当によかったです。すごくいろんなものを与えてもらいました。

清水:ありがとうございます。言葉足らずでごめんなさい。慣れてないから。

宮田:すごく重要なお話を、たくさんいただきました。ありがとうございました。