美術家(絵画、立体、パフォーマンス)
1960年に結成されたネオダダ(ネオダダイズム・オルガナイザーズ)の中心的メンバー。1960年代に制作したイミテーション・アートやボクシング・ペインティング、渡米後のオートバイ彫刻のシリーズなどで知られる。第1回目は生い立ちから東京藝術大学時代の思い出、読売アンデパンダン展への出品やネオダダについて語った。第2回目は1960年代に来日した欧米のアーティスト達との交流、イミテーション・アートの制作経緯、渡米のきっかけとなった花魁シリーズや画廊とのつきあいについて語った。第3回目は1969年の渡米以降の制作活動や乃り子夫人との出会い、ボクシング・ペインティングの復活などについて詳しく語っている。
池上:ではオーラル・ヒストリーということで、お生まれから聞いていきたいんですが。
篠原:生まれはね、東京の麹町にあるんですよ。麹町っていうと、今の千代田区。それで、小学校は番町小学校。番町小学校っていうのは、永田町とか雙葉女学校(現・雙葉高等学校)とかのそばで、市ヶ谷と四谷の間の、素晴らしいところにあるんだよね。その時で創立70年だから、今はそれから70年経ってるから、140年ぐらいの歴史があって、まあ、エリート小学校ね。そこの地区は、東京の山の手。山の手地区っていってね、木村梢っていう作家が『東京山の手昔がたり』(1996年)っていう本を出したくらいに、素晴らしいところなんです。ベルギー大使館とか、泉鏡花とか有島生馬とか、三味線の杵屋栄三とかね。それから今の日本テレビのところに、蜂ブドー酒(現・ハチブドー酒)の社長の近藤利兵衛のお屋敷があって。それは戦前よ。僕が生まれたのは昭和7年だから、小学校の3年ぐらいまでだね。で、双葉山とか羽黒山っていう相撲取りが、近藤利兵衛のうちにお呼ばれでくるわけ。着物来てうちの前を通るわけね。それでみんな「おー、相撲だ、相撲だ」っていってね。
で、その中に小さな長屋みたいなところがあるわけ、文化長屋って僕は呼んでるんだけど。裏はベルギー大使館で、こっちが近藤利兵衛とか牧野伸顕(注:外務大臣、大久保利通の次男)っていう政治家とか。それから声楽家の原信子ね。「はー」なんて、歌が時々聞こえてきてね。すごいのよ。それで杵屋栄三の、あの歌舞伎の三味線だからね。そこでまた「はー」って九官鳥が鳴くわけね。僕たちそこらへんの悪ガキがこう、塀から覗くのよ。すると九官鳥がいるわけよ。九官鳥なんて見たことないの。その九官がが「おたーけさーん」って呼ぶの。おたけさんって、女中の名前呼ぶんだよね(笑)。すごい悪い九官鳥なんだけど。なんていうのかな、そういう雰囲気でね。
それで経師屋(表具師)さんっていうのがあってね。僕のお袋が日本画家で、女子美(女子美術専門学校、現・女子美術大学)の日本画卒業だから、片岡球子とかあの辺の連中と一緒なんだ。小林古徑が先生だからね。それで日本画を少し描いてたんだけど、経師屋さんのところに横山大観が来るわけ。「経師をしてください」ってね。すると経師屋の清水さんっていう旦那が走ってきて「篠原さーん、奥さーん、大観が来ましたよー」っていうんで、大観を見に行くわけよ、経師の前に。そんで座って、「これが大観でございます」って。そういう文化長屋。で、俺んちは赤貧洗うが如しでさ、平凡社の美術全集全二十何巻がだーんとあるだけで、あとは本なんか、親父の詩集があるだけですね。ちゃちゃっと。そういう感じだったよ。優雅でしょ。
池上:では、そのハイソな雰囲気の地域の中で、文化長屋っていうちょっと庶民的な一角があったっていう。
篠原:そうそう、庶民的な。長屋だからもう筒抜けだし、小学校の友達なんかおしっこ垂れた布団が朝干してあんだよね、バーンって(笑)。そういうの全部丸見えだよ。地図がガーってあってね。
富井:お父さんは詩人?
篠原:詩人。九州でね、柳川の近くで甘木(福岡県)っていうとこの出身なんだけど。北原白秋にかぶれてるんだよね。白秋とか(若山)牧水とか、よくわかんないけど大正モダニズムかな。それで結構詩人の仲間がいて、賞なんか取ってたのよ。それで東京に出てくるわけ。白秋の『思ひ出』(1911年)と『邪宗門』(1909年)を持ってね。野心に燃えてる青年詩人よ。お袋は日本画家で女子美だからさ、それで恋愛したわけよ。お袋のほうはね、大金持ちなんだよ。親父が弁護士だから。弁護士ってその頃すごい勢いで、例えば李香蘭なんか呼んで、自分ちでパーティーやるぐらいの家なの。それぐらいの勢いなの。それの長女だから。
池上:お母様は東京ご出身なんですか。
篠原:いや、九州の福岡。全部出てきたの。それでがんばってたんだよね。親父は貧乏詩人で、結婚反対されてたらしいんだけど、とにかくくっついちゃったわけよ。「金がない」とか大騒ぎしてね。僕は長男だから、そういう九州男児の血筋の濃いとこを持ってるみたいね。弟はやっぱりだめだよね。次男、三男になるとね。
池上:篠原さんは弟さんがお一人ですか。
篠原:うん、いるけど、ムサビ(武蔵野美術学校、現・武蔵野美術大学)のデザイン科入ったんだけどね、色々遊んで歩いているうちに、人生損しちゃったとかって言って。
池上:それでその番長小学校を出られて、麻布中学校にお入りになるんですか。
篠原:番町の後、すぐ麻布になんか入れないわけよ。日大に日本大学第二工業学校、日大二工ってのがあって、まずそこに入ったわけ。親父が「エンジニアになれ」って。それで入ったら、疎開になって、終戦になって。そいで帰ってきたときに(親戚の)伊藤環のコネクションで麻布の教頭を知ってるから、入っちゃったんだよ、無試験で。終戦の頃、無試験で入ったのは僕の世代とその次の世代まで。それから急に試験が始まったから、生徒の顔つきが全然違っちゃったよね、試験で入ってきた奴と無試験の奴とね(笑)。試験組はもう、かっこいい奴ばっかりだよね。でも無試験のやつで入った奴のほうの中にも変なやつがたくさんいたのよ。例えばね、和田勉って、NHKの演出家。あれも僕のクラスだよ。だから結構色んな奴がいたんだよ。橋本龍太郎っていう首相がいたでしょ、昔。あれは試験で入ってきたような奴でね。
富井:じゃあ、後輩ですね。
篠原:後輩。俺の後輩、かっこよく(笑)。ポマード頭にくっつけて、べたってやってるやつね。で、剣道やってね。
池上:その麻布中学校時代に、荻太郎さんという新制作派の先生に師事されたということなんですけども。
篠原:そう、新制作派協会の会員だったね。若手会員のナンバー・ワンで。
池上:師事されたきっかけは何だったのでしょうか。
篠原:それはね、僕のお袋の一番下の妹で、伊藤郁子っていうのがいたんだよね。4番目か5番目の一番末っ子で、ピアノなんかやってね。大正時代のモダン・ボーイ、モダン・ガールの、モダン・ガールのほうだったね。モガ・モボっていうの?
池上:モガ・モボっていいますね。
篠原:うん、モガのほうだね。そいである日、青年新制作派の画家だった荻太郎が、(伊藤郁子の)首が長いからってね、モデルをしてくれって頼みに来たんだって。それで荻太郎が顔を描かせてもらったんだよね。それで、麻布でどこを受けるかってなったときに、もう藝大しかないって。美校しかないじゃないって。お金もないんだし。で、伊藤郁子が「私知ってるから」って、荻太郎のとこに手を引っ張って連れて行かれたわけよ。練馬ってわりに絵描きがいっぱいいたんだよ、その頃。そのうちの一つの汚ないアトリエで。僕はもう初めてだから、帽子かぶって金ボタンして。僕は内弟子としては一番弟子だったの。それで(東京)藝大受験して。
池上:初めてのお弟子さんだったんですね。
篠原:うん。荻先生というのは子供がないし、すごく良い人なんだけど、弟子なんかとったことないんだよ。そいで僕が筆払いから始めてね。隣のアトリエ長屋の下のところで、石膏デッサンを習ってたの。カラカラ帝とかね。
富井:それまでは家でお絵かきとか学校でお絵かきっていう程度だったんですか。
篠原:そう、麻布の時に、絵なんかバカバカ描いてたら、山田慎吾っていう日本画の先生がいて、それが目を付けて。
富井:学校の先生?
篠原:うん、麻布中学の。それで絵なんか見せて、すごく親しくて。
富井:じゃあ、油絵描いてたんですか、その時。
篠原:油絵の具なんか買えないから、水彩かデッサン。麻布で山田慎吾に習ったのは、僕のほかに2、3人いたんだけどね。みんな一緒に藝大入ったよ、日本画のほうで。今生き残ってるのは、楠本正明っていう、抽象画描いてる、府中の美術館に入ってるやつ。ガーって威張ってるよ、面白いやつ。それと桑山忠明ね。それと僕ぐらいかな。みんな麻布だよ、多分。
富井:あー、そうですか。
篠原:ちょっと待って。桑山は麻布じゃないや。楠本は麻布だな、多分。
池上:じゃあ、ずっと自然に絵を描いていらして、それで画家になろうと決めたっていうのではないんですか。
篠原:それはね、小さい時から昆虫とかそういうのが好きで。というのは、番町小学校の頃遊ぶものがないから、夏なんか探検をするわけよ。特に昆虫がその頃は一杯いたでしょ。悪ガキだから釣竿とかモチ竿とか持って、そこら中を荒らしまわるんだよ。人んちの庭に入っていって、そーっと何か取ったり。みんな素晴らしい大金持ちだから、見る物が全部エキゾチックなわけよ。ステンドグラスがあったり、かわいい女中さんがいたり。それで、なんかくれる人もいるんだよね。大金持ちの息子が、遊び友達がないから遊んでくださいっていうんだよ。で、近所の悪ガキが5人ぐらいで入れてもらうわけ。おもちゃの山なんだよ。「うわー、すげーや」って。チャーハンなんかごちそうになってね、「はー、こんなうめーもんが世の中にあるのか」って。もう僕は根っからの地下侍だね。殿上人と違って、そういうのが身についてんだね。それで蛙とかミミズとかが出てくるでしょ。だから今でも僕の絵には蛙が出てくるし、ミミズが出てくるし。変な話だけど肥溜めなんかもあるわけよ。肥溜めっていうのはうんこだけど、それが道に置いてあるわけ、汲んだやつがね。それで汚穢(おわい)屋っていうのが来るんだよね。それが見世物になんのよ。俺たちバーって囲んで見てんだよね。そうすっと人んちのトイレから、柄杓でジャーって入れて、お杯ってうんこをジャーっと注ぐわけ。一杯になったら二つを担いでね、天秤で、道に置いていくわけよ。それが僕たちの見世物っていうか。あとは紙芝居しかないからね。「うわー」って出て行って、「くせーくせー」とかね、大騒ぎして(笑)。そういう時代だね。あとはトンボとか蝉とかね。
池上:そういう虫を捕まえて描いたりされてたんですか。
篠原:いや、描くんじゃないんだよ。虫その頃は小学校だからさ。ミミズなんか集めて、路地に茣蓙敷いて、みっちゃんとかいろんな女の子がおままごとしてるわけ。俺は「こうちゃん」っていうんだけど。それで「ご飯ができましたよー。みんないらっしゃい」って言ったら、「はい」、「今日はね、ミミズご飯よ」なんて、ミミズ細切れにして(笑)、小さな入れ物に入れて、食べる真似するっていうね。だから絵を描くようになったのは麻布に入って、生物班っていうのがあんだよね。色んな運動部があったんだけど、生物班に入ったら、生物班って色々やるでしょ、蛙の解剖とか。それを写生してたのよ。色んな虫なんかも飼うのが好きだから、カマキリの子供とか、そういうのを箱に入れて、カマキリがだんだん大きくなってきて、蟻なんかあげて食べたりね。だからそれを写生してたら、お袋やなんかが見て「あんた絵が上手い」ってことになってね。
富井:やっぱりお母さんは自分が画家だから、描いたものを見て、上手いっていう形で判断なさったんですね。
篠原:そうそう。植物の写生なんかは、春になると大急ぎで土手行って花採ってきてね、ツツツーなんて描いて。植物図鑑の真似なんかしてたんだよね。そしたらみんな「上手い、上手い」って言うんだよ。終戦後だから世帯がたくさんで、親戚なんかも一緒に住んでるから、みんなが「上手い」っていうのに乗せられちゃってね、それで「そんならもう藝大だ」ってことになって。
富井:なるほど、そういうことですか。それで藝大に入るために、荻さんという方に師事したわけですか。
篠原:そうそう。藝大だったら石膏デッサンの受験があるから。
池上:じゃあ、デッサンを学びに、という感じで。
篠原:そう。本格的な石膏デッサンは荻先生のとこに行って、一から手ほどきしてもらって。「こういう風に描くんだぞ」とか、「こうやればいい」とかね。そこにお弟子さんで、中根寛っていってね、この人は藝大の教授まで行くんじゃないかな。写実画の大物よ、中根寛さん。その人が荻先生のアトリエの管理人になってるんだよね。荻先生は音羽のほうの自分の家があるから、夜は奥さんとこに帰るでしょ。アトリエには通ってるからね。中根寛さんっていうのはね、零戦に乗ってたんだよね、操縦士で。ビシッときめて日本刀持って、首に絹のマフラー巻いてね。
富井:本物ですね(笑)。
篠原:モノホンなのよ(笑)。その人が、うまい具合に飛行機がなくて、生きて帰ってきたわけよ。荻先生っていうのは名古屋の岡崎出身で、中根さんも岡崎だから、岡崎を集めちゃうんだね。僕は東京なんだけど、僕と2、3人、今井俊満ともう1人ぐらい東京で、あとは全部名古屋出身の奴ばっか。だから弟子が増えるんだけどね。それで荻先生のところは僕と中根寛がうろうろしてたの。
池上:お母様から何か影響を受けたり、絵について教えてもらったりということは。
篠原:日本の美術全集っていうのがあって、それを僕が見てると、やっぱり後期印象派のゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンをね、それが一番素晴らしいって言うわけ。俺も見ててやっぱしすごいんだよね。後期印象派ってなんか貧乏臭くて、絵の具がのたうってるでしょ。だからなんかぴったりくるんだよね、終戦後の腹の減ってる物資のない時代に。それで劇的じゃない。特に『ゴッホの手紙』(創芸社、1951—-52年)っていう、式場隆三郎の訳した黄色くてでかい本があんのよ。今はもう本当に希少な本だよ。手紙と挿絵が全部入ってんの。それを親戚から借りてきて読んで。どこが感激したかというと、ゴッホがやっぱり絵の具が足りないからね、テオに送ってくれとか、絵の具箱がぶっ壊れたとか、それから絵が風で飛ぶから、地面に叩き付けてグってやったとかね。それがすごくなんか、終戦後の僕の貧乏生活とぴったりくるんだよね。「ノー・マネー、ノー・マネー」って、あれは弟を脅迫してるような感じだね、最後まで見ると。「こういうのを描くぞ」、「テオや、今度は空が青で、ひまわりがすごい。だから金をくれ」でしょ(笑)。発想がなんかすごいなと思ってね。ゴッホの手紙で、ストレートにアートを生きていく美しさというのは自分の中に染み込んだね。絵もゴッホみたいに、純粋に一本やっていけば、なんとかいけるという。
富井:お母さんはどんな絵を描いておられたんですか。
篠原:花とかさ。残ってないんだよ、あんまり。学校時代のもね。
池上:日本画家だけれども後期印象派の油絵がお母さんもお好きだったんですね。
篠原:そう。だからミケランジェロのデッサンとか、そういう目は鍛えてあったんだね。
池上:全集とかゴッホの手紙が、読もうと思えば身近にあったっていう環境がすごくいいですよね。
篠原:ゴッホの手紙は親戚から借りてきた。親戚もそういう、ちょっとアートっぽい奴が多かったんだね。そういうのはラッキーだね。
池上:それで1952年に二十歳で東京藝大の油画に入学されるということなんですが。
篠原:ええ。一浪したんだけど。
池上:指導教官だった林武先生とは。
篠原:林さんは3年、4年を教えてたから、1年、2年は山口薫とか伊藤廉とかと一緒にやって。山口薫ってすごい面白い人でね。酒臭いんだよね、昼真から飲んでるから(笑)。
富井:そうですか。学校で。
篠原:うん、教官室で飲んでるんでしょ。だから絵を見に来るんだけど、ぷーんってくるから、「あー、来たなー」って感じでね。
池上:お酒の臭いで(笑)。
篠原:バット振りながらね。
富井:じゃあ、1年、2年の時から学校の中で絵を描いてたんですか。
篠原:うん。石膏デッサンがまた始まるから、1年で。嫌だなーと思ってね。こっちは燃えてるのに石膏デッサンじゃ飽き飽きよね。それで段々やる気が無くなって、モデルが出てきて「おー、すげーなー、モデルだ。女の裸初めて見た」なんて言ってたんだけど、突っ立ってるだけでちっともかわいくないんだよ、あれ。真ん中にパーンて、大木みたいで、描いたって全然面白くないわけ。ファイト湧かないわけ(笑)。で、「もう面白くねーなー」って。僕はしょうがないから、石膏を描いてた。藝大に石膏室っていうのがあるんだよ。ミケランジェロの彫刻とか、石膏の型取りが同じ大きさであって。ロダンの《バルザック》(1897年)とか、ギリシャの槍投げとか、そういうのがババーンとね。そういうを描いてたの。描くのはスケッチブックで、丸いボールペンでつーっと型取ったりしてね。その時は青春の悩みでぐしゃぐしゃになってるから、石膏デッサンじゃなくて線でバーっと描いてみたり、目玉描いたり。そいで後ろから友達来て、「お前何やってんの」って、みんなすごい白けてたけどね(笑)。
富井:じゃあ、全然理解されなかった。
篠原:理解とかそういうんじゃなくて、気違い扱いよ。でも月光荘のスケッチブックっていうのが売り出されてね、めちゃ安なのよ、薄くて。100枚ぐらいあってね。もう貧乏絵描きがバーッとそれにたかってね。随分それで描いてるよ。
池上:それは残っていたりしますか。
篠原:ううん、それは残ってないんだけど、後半に3冊だけ残ったの。それで藝大で「面白くねー」って家に帰ってなんか色々やって。その時に、僕の親戚で、従姉妹の女の子が早稲田の文科に入ってきたんだよ、福井から出てきて。それが勉強しすぎて肺病になったんだね。それで福井県に帰るっていう時、僕に本あげるって言うから、みかん箱一杯もらってきたの。その中にジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』(1938年)があったの。でもこんな変ちくりんな難しいの、読むのも読めねーし。その前に色んなの読んでたんだけど。
富井:日本語訳ですよね。
篠原:白井浩司の日本語訳だよ。その『嘔吐』が人文書院のサルトル全集にあって、それをふーふーいってなんとか読んで、「すげーなー」と思って。よくわかんなかったんだけど。そこに「三日月パン」っていうの出てくるんだよ、『嘔吐』の中に。ロカンタンっていう男が「今日の夜は三日月パンだな」って言うわけ。その三日月パンっていうのを僕は、ハムかソーセージが一杯入ったすげー美味しいものに違いないって思って、涎垂らしてそこを読むわけ。でも10年前にパリ行ったら、三日月パンってクロワッサンのことなんだよね。なんだって感じで(笑)。そこになんか翻訳のズレっていうのを感じてね。だからもう、翻訳っていうのは滅茶苦茶な解釈をしないと、本当のことなんて絶対伝わらないなと思って。それを僕は「曲解」、曲げて解釈するっていう風に後で説明をつけるんだけど。
池上:でも、そこにイマジネーションの入り込む余地があるわけですよね。誤読かもしれないけど、何かそこから新しいものを創造していくような可能性もある。
篠原:うん、そうそう。人の書いた文学が正確に伝わるわけはないんだから、必ず誤解がある。サルトルの色んなものをダーっと読んでるうちに、それが分かった。それで藝大って、みんな田舎から来てるのよ。「おら村中で一番絵が上手かった」なんて奴が一杯いるの。先輩なんかみんなそうだもんね。「石に魂を込める」ってバーンってやって、「あ、これは固いからやめとくか」なんて。本当なんだよ、ろくな奴いないんだよね(笑)。動物園に写生に行くって言って、みんなどんどん塀を乗り越えて行くんだから。借りてきたバリカンで猿の頭刈っちゃったりね(笑)。そういう仲間と一緒だから、僕はサルトル読み出して、そういうぐちゃぐちゃした芸術論を一刀両断にしたいっていう気持ちがあったんだね。自分も訳わかんなくなっちゃうからさ。先生はまた訳わかんないギリシャの美しさを押し付けてくるし。ギリシャなんか行ったこともないのに、人体っていうのは美しいに決まってるって、コピーの石膏像でヴィーナスの首を見て言ってるだけでしょ。それが永遠の美だって。もう、描く気なんか全然ないわけよ。その先生が助教授なんだけど、助教授連中の絵を見ると、もう噴き出すぐらいつまんないわけよ。こんな奴に教えてもらってたまるかっていうのがやっぱりあるからね。それでサルトルの『シチュアシオン』(全10巻、1947--65年)の中にも色んなエピソードが入ってて、「文学とは何か」っていう本なんだけど、頂けるフレーズっていうか、センテンスがたくさんあるわけよ。ジャコメッティ論もあるし、ピカソ論もあるしね。特にピカソの《ゲルニカ》(1937年)について、こう言ったんだよね。「ピカソは《ゲルニカ》をスペインの内乱に対する反抗で描いたんじゃない」、「あれはキュビスムの最終楽章である」って。「最終楽章」は僕がつけたんだけど、キュビスムの帰結、完結っていうことね。完結編がピカソの《ゲルニカ》だぞって、サルトル流に言うんだよ。それ見ろ、センチメンタリズムはあの中にはないぞって。という風に僕は解釈して、絵からセンチメンタリズムを叩き出すっていう方向に向いていったんだね。あとでネオダダのパーティーの時に中原(佑介)さんに会って、もうそれは1960年の話なんだけど、中原さんに「評論の基盤は何ですか」って言ったらね、「感傷性を排す」って言ったんだよね。感傷を、要するにセンチメンタリズムを排すって言うんだよね。
池上:篠原さんもそれに共感された部分があったんでしょうか。
篠原:うん、僕はその時ネオダダで一発暴れてたから、「今頃古いこと言ってんなあ」というぐらいに思ったんだけど(笑)。
富井:でも、もともとは。
篠原:うん、そう。やっぱりそういう方向に来てたんだね。もともと《ゲルニカ》はピカソの造形的な興味で創ったんで、スペインの内乱への同情じゃないっていうのね。それをサルトルがパッと言ってたりして。
富井:じゃあ、大学の1年、2年というのはそうやって自分で本を読んだり、スケッチしたり、退屈な石膏デッサンをしたりいうことで大体2年過ぎてるわけですか。
篠原:うん、石膏デッサンは最初の第一期だから、4月で終わっちゃう。
富井:短いですね。
篠原:うん、短いの。その後は人体デッサンになるからね。油絵は2年からだし。
池上:で、3年になって、林武につかれたんですか。
篠原:そうそう。でも3年の時に、もう一回落第しろっていうわけよね。
池上:2年生をもう一回やれってことですか。
篠原:要するに、3年の終わりに、4年になれないから、3年じゃなくて2年に落ちろって。4年プラス研究科2年で、全体で6年間あるから。「4年じゃなくて、お前2年を落第しなきゃ。月謝は未納、単位不十分、出席ゼロだから」って。それでやり直せっていうので、「ありがとうございました」ってまた2年からやったんだよ。2年のクラスに落っこったわけよ。そこにあの工藤哲巳とか、高松(次郎)、中西(夏之)がいたわけよ。
池上:じゃあ、落第されたから彼らと同じ教室になったわけですね。
篠原:そう、一緒になったの。で、僕はアロハ着て入っていったんだよ、その時。それでみんな、なんか描いてるわけよ、高松とかもね。
富井:割と真面目に。
篠原:真面目に(笑)。高松なんて学ラン着てんだもん、まだ。金ボタンの学ラン。
富井:真面目ですね。
篠原:ビッとしてね。そいで人体を描いてるんだけどね、「アロハが眩しいからどいてくれ、篠原君」っていうの(笑)。俺は落第してるからさ、要するにOBみたいな(笑)。
池上:じゃあ当時、高松さんや中西さんとは特に親しくされてなかったんですね。
篠原:全然。口もきいたことないね。
池上:そうですか。工藤哲巳さんなんかも。
篠原:工藤が本格的にやりだしたのは、4年ぐらいになってからだね。自分のもやもやがあったんだろうと思うけど、読売新聞のアンデパンダン展に彼が出したの何年かなあ。1960年かな。
富井:いや、もうちょっと前です。1958年。
篠原:あ、1958年から出してんだ。僕も1958年ぐらいから出してたからね。
池上:でも特に大学や教室の中で親しくされたり、議論されたりということはなかった。
篠原:うん、それはないね。僕も色々あったからね。うちは狭いから絵は描けないし、学校ではやっぱり僕の事が問題になってたんだね。「篠原どうしようか」って。それで、彼野末(かのすえ)っていう助手が僕を呼びに来て「何月何日に篠原君来てくれ。林武先生が絵を見てやるから」って。「学校卒業させてやるから、卒業制作もへったくれもないから、とにかく絵を持って来い」っていうんだよ。それで、こういうでかいスケッチブックを持って行ったわけ。当時マンボっていう音楽があったわけよ「マンボ、マンボ」っていう。それが日本でものすごい流行したんだよね。それに合わせて鉛筆で「パーパー、マンボー」ってバンバンやってたのよ、景気良く。それがまたすごい興奮するんだよね。俺もそういう格好いいの聞くと、「うわー、しびれる」って。それはラジオで、水曜日の8時って時間が決まってるから、大急ぎで駆けて帰ってきてね。うちにはラジオがないから、親戚の伊藤の中野の家に飛び込んで。そこはおばあちゃんがいて寝泊りも自由だから、バっとラジオをつけて、「チャンチャカチャンチャーン」ってスケッチブックにやってたの。それを持って行ったのね。そしたら林武先生がこうやって見て、最初は冗談だと思って、「うーん」ってめくって、次のページもマンボで、鉛筆の殴り描きばっかりだから、3枚目でバーンとやって、俺の顔じーっと見て、有名な言葉を言ったのよ。「君の絵には嘘がない」って。そのあとがすごいんだ。「でも学校は辞めなさい」って言ったんだよね(笑)。みんなシーンとしてたね。「あ、そうですか」って感じだよね、俺も。
富井:じゃあ、助手の人とかが横にいるわけですか。
篠原:いる、全部。だって助教授から全部だもん。
池上:何か審査みたいな感じだったんですね。
篠原:そう、審査だったんだよ。全員の許可を取って俺をおっぽり出そうと思ってたのよ。
池上:卒業させようっていうつもりだったんですね。
篠原:そうそう、月謝も払わない、もうしょうがないからね、全部水に流して。でもところてんじゃないんだから、なかなか出て行かなかった(笑)。
富井:出て頂きましょう、みたいな。
篠原:そう、向こうはそういうことを考えてた。ところが、僕はマンボだから、もう「退学ー」って感じよね(笑)。「学校は辞めなさい」って。
富井:そうですか。じゃあ、教授会みたいなところに呼ばれたわけですね。
篠原:うん、ちゃんとした正式な教官室に。
池上:それで「はい、わかりました」ということで辞められたんですか。
篠原:うん、そう。その頃は学校もほとんど行ってなかったしね。
池上:特に未練もなく、「大学もういいや」ということですか。
篠原:そういうことだね。外の社会現象とか、戦後の色んな国際的な新しい絵の臭いがさ、日本に少しずつでも入ってくるじゃない。向こうに行った人たちが帰ってきたり。そういうものにくんくんしてて、藝大なんか腐ってるって思ってたからね(笑)。
富井:じゃあ、藝大で何か良かったことってありました?
篠原:うーんと、結局石膏デッサンかな。ミケランジェロとかロダンの彫刻室で、月光荘のスケッチブックに描いた、自分なりの線描きのデッサン。ボールペンで線で描いたんだからね。それまで石膏って、影と光でやってたでしょ。それを線だけで決めたっていうね。自分じゃ何やってるかわかんなかったんだけど。それとやっぱり最後の林武先生の「嘘がない」だね。その二つだね。
池上:では次の質問ですが、若い頃に岡本太郎さんの作品や著作に強い感銘を受けたということなんですが、彼の作品や著作を最初に知ったきっかけっていうのは何かありますか。
篠原:何だったかなあ。太郎には「夜の会」っていう、色んな人を集めた芸術活動があるんだけど、僕は一切それは関係ないのよ。情報もなかったし。池田龍雄君なんかもう主役ぐらいな感じで集まってたらしいけど。東中野に「モナミ」っていうフランス料理屋があって、そこに集まってたっていうんだよ。僕は東中野からいつも学校に通ってるから、「モナミ」ってなんだろうなあ。これ、モナミさんのうちか、とか思ってたの(笑)。あとで聞いたら、そこはフランス料理屋で太郎の「夜の会」のミーティング場所だったんだよ。
富井:じゃあ、近くにいたけれど知らなかった。
篠原:全然。東中野と中野の間が伊藤のうちだから、そこからいつも国鉄で学校に通ってたんだよね。「モナミ」っていうんだよ。
富井:なるほど。
篠原:だから「あー、ここか」っていうんでね。でもよかったよね、すれ違ってて。「夜の会」なんか入ってたら絶対だめだったね。なんか知らないけどウジウジして、花田清輝とかみんなで集まってさ。針生一郎さんもそこでワーワーやってたし。僕はもう完全に切れてんのよ、逆に。
池上:そうですか。記録に拠ると、1950年に二科展で岡本太郎の《森の掟》(1950)っていう絵をご覧になって。
篠原:うん、見たよ。あれはもっと後だと思うよ。ちょっと待って、藝大に入って1年の時に、岡本太郎が講演に来たんだ。僕が、1952年に入ってるから、52年か53年だね。井上長三郎と内田巌、あと岡本太郎の3人が、僕たち藝大の生徒に講演をするっていうんで、もちろんみんな大きな会場に参加してね。そしたら岡本太郎が遅れて来て、井上長三郎がこう言ったんだよね。「前衛は遅れている」って(笑)。で、みんな噴き出したんだ。俺は何が何だかわかんなかったんだけど、数年経ってから、「あー、面白いこと言ったんだな」って。
池上:面白いですね(笑)。
篠原:そしたら太郎が現れたんだけど、それが濃いグリーンの背広でね。それにちょっとグリーンのかかったシャツを中からピッとこう出して、もう格好いいのよ、とにかく。
富井:格好よかったんですか。
篠原:ものすごいの。ファッションモデルが来たぐらいに、ピシーっと決めて。井上長三郎とか、内田巌さんは、ほら、貧乏を売り物にしてるから、ぐちゃー、でしょ。全然違うんだよ。「おー、すげーなー」と思ってね。僕なんかそれに感動したんだけど、周りは顰蹙を買ってるやつが一杯いた。「なんだこいつは」とかね。
池上:ちゃらちゃらしてるっていう見方もされてたということですか。
篠原:そうそう。バイトでみんな生活してたからね。「ニコヨン」だから、1日240円。それを「ニコヨン」っていうのよ、労働者の一番ひどいの。庭の掃除とか、道路の掃除とか、そういうの。僕たちのバイトはその次ぐらいだったの。1日250円とか270円。そういうのを探してる時代でしょ。だから太郎の格好見ると殿上人みたいなもんだよ。平安時代の貴族だよね。
池上:それにちょっと憧れるようなところが。
篠原:いや、もうびっくりするだけで。
富井:なにか話を覚えてますか?
篠原:うん、太郎が何か言ってて、僕の横に張替真弘って、今は新制作派の会員になってる奴がいて。そいつもやっぱりあれなのよ、詰襟学ラン。
池上:真面目なタイプですね。
篠原:うん、金ボタンのぼろぼろのやつ着ててね。そいつが裸足見せてぐぐーって太郎に迫って行ったの。彼はその時僕の親友で、ゴッホについて二人で語り合ってたのよ。学校でゴッホについて語り合うなんて、他に誰もいないからね。ゴッホなんて真似したら学校クビになっちゃうぐらいに思ってる奴ばっかだから。で、気が合ったんだけど、そいつがすごい興奮状態になりやすいんだよね。急に立ち上がって、ズズーってきて、「あー、やだな」って思ったんだよ。「なんかやるな」って(笑)。俺は横にいたから。そしたら、ズズーって迫って行くわけよ。太郎も気がついて「やだな、こいつ」って(笑)。「来たか」って感じだよね、向こうは(笑)。
池上:それで、どうなったんですか。
篠原:そしたらそいつが、「げげげ芸術は生きることです」って言ったんだ。
池上:はい。
篠原:「芸術は生きることだ」って。そしたら太郎が「そんな事は当たり前じゃないか」って言ったんだ(笑)。そしたら、その次の質問が「げげげ芸術じゃ食えません」って言ったのよ。そしたら太郎が何て言ったと思う? 「カレーライスの一杯ぐらい食わしてやるから俺んち来い」って言ったんだよ(笑)。そこで俺はもう、参ったね。これはただ者じゃないと思った。サルトルもへったくれもねーなーと思った(笑)。すごいよ、やっぱり。ほら、「夜の会」で鍛えてるから、「芸術は生きることだ」とか「食えねー」とか、そんなことばっかりやってるわけでしょ。太郎はもう、快刀乱麻だから、ぽーんよね。だけど俺たちにとってはすごいショックだし、そいつはびっくり仰天して(笑)。振り上げた拳骨をどこに降ろしていいかわかんないようになっちゃってね。
池上:あと、岡本太郎の芸術の三原則、「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」っていうのを読んで、篠原さんがは時代を創造するために「いやったらしい」芸術を作ろうと誓われたっていうことなんですけれども。
篠原:それは何年だかわかんないんだけど、戦後の日本っていうのは、軍隊がなくなっちゃったから、文化人たちがすごくエネルギッシュに活動してたんだよね。「何かやろう」ってね。それで新聞社が文化事業をものすごくやってたんだよね。初期の文化事業だから、もちろん講演だよね。読売ホールに聴衆を集めてなんか語ろうって。ところが集まった連中は大物ばっかりなのよ。例えば勅使河原蒼風でしょ。写真は土門拳。それから剣持勇。
富井:デザインですね。
篠原:立体デザイン。あの「鶴」っていう公衆電話の設計した奴。上が赤くてさ、「丹頂」っていうね。公衆電話って木で出来てて、汚かったでしょ。それをやめちゃって鉄のにしたりね。俺はそれをバイトで塗ったことあるんだ。それから岡本太郎でしょ。それから、建築は丹下健三だもん。
池上:もう立派ですね。
篠原:もうずらーっと並んでるわけ。それを聞きに行ったわけね。それでね、土門拳っていうのがいたの、写真家でね。みんながワーワーやってるのに、土門拳は質問もなくてさ、話も下手なんだよね。だから俺がね、土門拳が可哀相だからなんか質問しようと思ったのよ(笑)。なんかそういう頃から人に気を使うようになってんだね。
富井:素晴らしい(笑)。
篠原:「何かねーかなー」と思って、手を挙げて。その時俺も冴えてたからさ、土門さんに「今はルポルタージュ写真の方が、普通のこういう写真より強いんじゃないか」って言ったのよ。ニュース性のほうが写真より強いんじゃないかって、そういう質問したの。答えは大体わかってんだから、分かりやすい質問してやったのよ。そしたらすかさずあいつが得意になって、「一つの石を写真に撮っても原爆の苦しさを証明できる」って、そういう格好いいこと言ってんだよね。その時に太郎は、《森の掟》かな、今度二科展に出す大きな絵があるから「それを見ろ」って言うんだよ。その時わかったね。「あー、そうか。絵が良ければ、百千の議論よりか絵を見せたほうが画家っていうのは一番強いな」って思ったんだ。文学だったら本か詩を書くかもしれないけどね。ワーワー言うんじゃなくて、絵見せちゃうのが早いなって。太郎は「今度の二科展に大作を出すからそれを見に来い、文句あるならそれを見ろ」って、そんな感じなんだよね(笑)。
池上:実際に《森の掟》をご覧になって、「なるほど」っていう感じでしたか?
篠原:うん、チャックがこういう風になっててね。色んなエピソードがあって、良いとも悪いとも思わなかったよ。やっぱり、後期印象派のゴッホとゴーガンとセザンヌに夢中になってたからね。特にセザンヌなんか理論的じゃなくて、ただ、絵の具厚く塗ってあるだけでさ。それで感動してたからね。ていうのは絵の具がなかったからさ。「すげー塗ってあるなー」って感じで(笑)。あれは写真の撮り様なんだよね。絵を撮る時に横からライト当てるから、でこぼこがはっきり見えるのよ。そうすると、その当時の印刷技術だと、マチエールっていうの、絵の具の厚みが極端に強調されんのよ。それのほうが売れるのよ。
池上:厚塗りに見えると。
篠原:そう、厚塗りに見えて、なんか感動的なんだよね。大失敗したのはね、ゴッホの青い服を着た最後の自画像ってあるわけ。目がすごいやつ。それがもりもりに塗ってあると思って、ずっと経ってからオルセー美術館に行ってそれを見たのよ。そしたらわかったんだけど、絵の具が全然足りないのよね。塗ってないんだよ。キャンヴァスの周りに白いのが出てんの。どこに絵の具を集中するかっていうと、目のここだけ。ここに絵の具をかすって、ビシーっと決めて、後は得意のデッサンの描法で。残った絵の具が青しかなかったんだね。白と青だけで、あとはちゃっと塗ってある。それでわかった。「あー、やっぱり絵の具が足んなくて、すごいとこにやってるなー」って(笑)。パレット持つとわかるんだけど、こういう風にナイフでかすってやるでしょ。で、最後の一かすりになって取ってさ、ピッときめるわけよ。それをどこに塗るかなんだよ。あいつは目のとこにだけ集中してんだよ、目が一番好きだから。
そういうもので僕は燃えてたからさ、太郎の《森の掟》なんて、ぺらぺらで、もう全然よ。「なに、これ」って感じ。だけど、ワーワー騒ぐからこっちも一緒になってワーワー騒いで、「傑作だ、すげー」ってね。「チャック会社が買いに来たけど断った」って、「あれ何で売らなかったんだろう。もったいないなー、お金入るのに」とかさ(笑)。あの蛇のチャックね。初期のYKKかなんかが買いに来たんじゃないかな。でも僕は、太郎さんが死んじゃって太郎美術館の館長が村田慶之輔になった時、講演に行ったことあるんだけど、見ててわかった。太郎の絵っていうのは、感動を売り物にしてるから、感動しなきゃいけないのね。それを逆に取っちゃうのよ。「感動しろ!」って言ってるんで「はい、感動しました」って、それで終わりだよね。絵の良し悪しじゃないんだよ。絵というものは見たら感動しなきゃいけないっていう。だから《モナリザ》(1503--10年頃)とか、じっと見てても感動するいい絵ってあるじゃない。ミケランジェロなんか見ててもわかるし、ルーベンスなんか見てもすごいね。祭壇画のキリストが降りてくるところなんか上手くて、上手くて。「はー、何度見てもほんとすげー」って。太郎の絵はもう全然、ナッシングなの。そうじゃなくて、「人生は感動だ!」って言って、「わかりました」、それで終わりよ。
富井:じゃあ、コンセプトとしての感動ですね。
池上:先にあるわけですね、感動が(笑)。
篠原:そう。「感動」っていう字が書いてあってね、「感動しろ」、「はい、わかりました」って(笑)。
富井:じゃあ、「感動」って書いておけばよかったんですよね、キャンヴァスにね(笑)。
篠原:そうだよ。「感動1」、「感動2」とかね。そういう風に見んの。そうすると太郎はわかるよ。あんなカスカスで馬鹿馬鹿しい絵ないもん。
池上:それで同じ時期に読売アンデパンダン展に出品を始められるんですけど、最初に読売アンパンに出されたのは、1955年辺りですか。
篠原:その頃だね。
池上:《ライオン狩り》(1955年頃)という作品と、《作品》(1955年頃)というタイトルの作品。
篠原:そうそう、よく調べてあるね。《ライオン狩り》は近所でベニヤで2枚買ってきて、ぱぱっとつけて、絵の具こすりつけて。何で《ライオン狩り》になったか知らないんだけど、ルーベンスにも《ライオン狩り》ってあるじゃない、すごい大傑作で。俺のは、ライオンの三段重ねなの。三段餅。
池上:3匹いるんですか。
篠原:正月のお餅があるでしょ、大きいのに小ちゃいの。そういう風に、ライオンの大きい親の上に子供が乗って。結局、親亀の背中に子供が乗ってる、あれなんだよね。
富井:でもライオンだったわけですね。
篠原:うん、茶色が安いから茶色を塗って。顔がこういう風に無茶苦茶になって、それが三段になってんの。もう一つのほうは紙を買って来てね、それを板の上に置いてケント紙で繋げて。その頃、サクラが売り出した、何て言ったっけ、あれ。クレパスじゃなくて。
富井:クレパスじゃなくて、もうちょっと蝋みたいな、ワックス・タッチの?
篠原:そうそう。ワックス・タッチのあれを、サクラが売り出したのよ。
富井:クレヨンですね、日本でいう。
篠原:柔らかい、新型のクレヨン。それがねちねちしてて、ぐーっとこすりつけるとなんか油絵の具みたいになってくんのよ。それを安いから大量に買って来て、それでぐちゃぐちゃに描いたの、全部。ベニヤ板2枚くらいの紙なんだけど、それに枠つけて。その2点ね。もちろん、(展覧会が終わっても)取りに行かないから。
池上:全然残ってないわけですね。
篠原:残ってない。読売新聞がどっか倉庫にぶっ込んで、最後は燃やしちゃうんだけどね。
富井:じゃあ、ギューちゃんも取りにいかなかった口なんですね。
篠原:取りに行けないもん、だって。運送屋が片道切符だもん、全部。
池上:片道切符ですか(笑)。
篠原:うん。往復は買えないもんね、さすがに。
富井:なるほど。持って行く時は一応運送屋さんを呼ぶわけですね。
篠原:うん。だって、呼ばなきゃ持てないもん。大きいしね、やっぱり。運送屋さんもその頃、美術運送で「美梱」っていうすごいのがあったんだけど、それは日展とか二科の会員のためだけにあって、僕たちは町のリヤカー。親父がリヤカー引いてるような、そういうのに頼みに行くのよ。「頼むよ、上野まで」って。「えー、中野から上野?」なんて、そういう時代だからさ。だから、出品するものに全ての情熱があって、引き取ってどうこうってのは全くないのよ、その頃の僕らのグループは。だってまず、置くとこがないでしょ。で、誰も買わないでしょ。それにみんな全部のアルバイトの金をそれにつぎ込んでるから。その後はアンデパンダン展が開場してる3週間、そのエキサイトメントだけよ。みんなで友達と会ってね、「よう!」とかね。食堂なんか行ったって食うものがない。金がないからみんな座ってるだけだもんね。それで、誰か来るの待ってる(笑)。美術館の食堂でね。でもやっぱり楽しいっていうか。日本的だねー、今から考えると。
池上:当時、篠原さんが最初に結成された「アルシミスト」っていうグループをされてますよね。これはどういうお考えで。
篠原:「アルシミスト」の話もあったんだ。あれはまだ藝大にいた頃かな、食堂にいたのよ。そしたらね、僕はGIカットっていう、丸坊主みたいな頭をしてたの。そしたら向こうからGIカットの奴が来たわけ。藝大に二人しかGIカットの奴はいないからすぐ友達になって、そいつがもう一人先輩がいるっていうんで。その先輩っていうのは上野の池之端の七間町に家があんのよ。その時は関谷さんっていう名前で、後で黒木不具人って直すんだけど、日本画の先輩なのよ、3年ぐらい。それで、関谷さんのほんとの青春っていうのは、もう終わっちゃってたんだよ。藝大のラグビー部で「よかちん」が上手くて、子分がいっぱいで女の子にモテてね、もうすごいんだよ。シャンソン歌手の寄立薫(よりたてかおる)っていう人がいて、「よだつ」っていうその女性を恋人にして、肩で風切ってたのよ。それが終わっちゃったんだよね。ピークが過ぎたんだよ(笑)。その時に俺が会いに行ったんだけど、その時は澁澤龍彦の妹さんが恋人なのよ。『スタイル』とかいう婦人雑誌に勤めてたその人と同棲してて。そこに行って「関谷さん、一人連れて来ました」ってね。「篠原牛男って、ギューちゃんっていうんです」、「はい、よろしく」って言ったら、その家に畳がないんだよ、全部売っちゃってるから(笑)。畳がないうちに入ると、ぐにょぐにょしててすごい歩きにくいよ。そこで焼酎を教わって、正式な「よかちん」も教わって。そこに土方巽も来てて、友達になって。
上野にそういうグループがあって、酒の洗礼を受けて、藝大のある一面を見て、「あー、絵だけじゃねーんだな、こんなすげーのがいたんだな」ってい。三木富雄なんかもそこに連れてったんだよ。その頃はいつも飲んじゃ騒いでて。僕は藝大をクビになる前に村松画廊を借りて発表会やったのよ、藝大の同級生集めて。僕が音頭取って、みんな集めてね。それをやったことあるから、わりに組織力があったんだよね。画廊を探すのも上手いし。江戸っ子だから銀座の画廊行って「貸してよ」って。「安くまけろ」とか、そういうのが上手いんだよね。その頃、大森に画廊があったの。大森画廊っていうのを女性の人がやってて、「3人でいつも飲んでてもしょうがないから、そこ借りてなんかやろう」って。僕と、関谷さんはその時初めて黒木不具人っていう名前にして、もう一人は小原庄助っていうの小原久雄に直して、その3人でそこで発表しようって。それでグループの名前を、僕が錬金術師、「アルシミスト」ってつけたわけ。で、ワーってやったんだけど。
池上:じゃあ、発表としてはその3人でグループ展をやりましたっていう、それぐらいで。
篠原:そう、そのグループ展が一番初めてだね。
池上:そんなに続かなかったわけですね。
篠原:うん、もうバラバラ。黒木さんは死んじゃったからね。飲んで、倒れて。
池上:じゃあ、その3人展をやるためにグループ名をつけたみたいな感じだったんですか。
篠原:うん、そうだよ。その3人展やったあと、今度は工藤哲巳が藝大の4年の頃、グループ「土(つち)」っていうのを作ったのよ。工藤もほら、僕が落っこった時の2年にいた。工藤と堀内袈裟夫と、吉野順夫。それと野間仁根(ひとね)の息子の野間伝治ってのがいたの。野間仁根っていうのは一陽会のボスだから、上野の大物だよ。その息子に野間伝治っていうのがいたの。そのグループに僕が、招待作家で入ったのよ。
富井:招待作家だったんですか。
篠原:そう、僕は招待作家なんだって。それで「土」なんか土臭せーからやめろって言って、「鋭(えい)」にしたの。僕がバーって探して、美松画廊がいいんじゃないかって。田村町と新橋の間にある美松っていう本屋の二階が画廊になってんのよ。そこを借りて、そこでやろうって。僕が煽ったからみんな興奮して。その時丁度中日新聞の「中日スポーツ」っていうのがあったんだよ。ぼくの叔父さんがその中日新聞に勤めてるから、言ったら、スポーツ記者が取材するって来たのね。余計盛り上がっちゃってね。オープニングに来て、そいで番町小学校のころの友達が太鼓叩いてくれたから、太鼓でドドンドンってやってね。工藤が一番張り切ってたね、そん時。その頃から工藤、喫茶店でパフォーマンスみたいのしてたし、実際に絵を描いたりなんかしてたのよ。
富井:なんかアクションしてたみたいですね、その頃ね。写真も残ってるみたいですね。
篠原:ある? どこの喫茶店か知らないけど、池袋かあの辺だろうね。
富井:その後喫茶店でもう一回、岡山か広島で展覧会なさって、その時もかなり大きい形で、パフォーマンスというか、ペインティング・アクションをやってらっしゃいますけど。じゃ、画廊を探してきたのはギューちゃんなんですか。
篠原:うーんと、その時は多分、工藤たちだね。彼らはわりに組織だってお金集めたりしてきちっとしてる人たちだから。ちゃんと画廊借りたんじゃない、正式に。
富井:そうですか。
篠原:工藤の場合は全然金がないからさ、ちり紙とかメリケン粉の糊とか墨なんだよね。そういうんでギャッとくっつけたりビャッとやったりして作るんだよね。美松画廊の時も、ベニヤ板にチリ紙とかそういうのがくっついて、パフォーマンスでも汚ねえ布(きれ)をひいて。布ってさ、腹巻にする布だね。
富井:さらしですか。
篠原:さらしをひいてね。それでも高くて、「おー、工藤、金かかってんなー」って(笑)。そこに「やー!」っと、卵とトマトを叩き付けてやるわけ(笑)。それは格好よかったよ。その時はやっぱり工藤が主役だったね。
富井:それってギューちゃんがボクシング・ペインティングとか始める前なんですか。
篠原:全然前だよ。工藤は空手やってるから、空手の気合でもって「やー!」ってやるわけよ。空手って、集中力でしょ。だから工藤はよく「筆は剣」って書いてたもんね。
富井:なるほど。
篠原:そういう風に「やー!」って。
池上:アクションといえば、その少し後になるんですけど、ジョルジュ・マチウ(Georges Mathieu)なんかも来て、公開制作をして。
篠原:うん、そうだね。少し後っていっても、もう何月後とか、そういう感じで。集中的にそういう事件が起きてたからね。草月流がやるしね。
池上:でもその前から、工藤さんなんかは自分なりのアクション・ペインティングのようなものをやってらっしゃって。
篠原:そうそう。だから多分、喫茶店から金貰うんだよ。バイトを半分兼ねてるわけよ。
池上:人寄せ的な。
篠原:そういうアート喫茶みたいなのやってたんだね。でも薄暗くて汚ないとこで、3人ぐらいがコーヒー飲んでるって感じだよ。
池上:タピエ(Michel Tapie´)とマチウが来日した時に、タピエに作品を見てもらったっていうようなこともあったそうなんですが。
篠原:それはね、荻太郎の話に戻すけど、僕が一番弟子で入った後に、今井俊満が入ってきたの。武蔵高校を卒業して藝大受けるってんでね。ガラガラ声の、背広着た変な奴よ。で、絵は下手なんだよなー、あいつ。全然描けない(笑)。それで今井俊満と二人で石膏デッサンしてたんだけど、あいつは落っこちて。がんばってやってんだけど、だめで。
池上:藝大には入れなかったんですね。
篠原:藝大全然だめなの。今度落ちたらパリに行くって言って、ほんとに行っちゃったの、親父の金かなんかで。それがパリで功成り一発当てて。当ててって言ったらおかしいけど。
富井:認められて。
篠原:うん、サム・フランシス(Sam Francis)とタピエを連れて、読売新聞かなんかのスポンサーで来たのよ。ほいで僕は今井さんのお母さんを知ってるから、すぐに電話かけて聞きに行ったの。で、お母さんが「じゃあ山王ホテルに行ってらっしゃい」って。それで、俺のその時の格好見て、「あなたその格好で行くの」って言うんだよね(笑)。今井さんのお母さんはすごい上品な人なんだよね。そん時はとにかく格好つけなきゃいけないから、黄色いシャツに赤いハンカチをガーッと巻いて、石原裕次郎だよね。下はマンボ・ズボンで行ったのよ。
池上:作品を持って行かれたんですか。
篠原:その時は写真だけ。その後今井君が「タピエ連れてくからお前ら作品集めとけよ」って言うんで、僕は迎えに行ったんだよね。田名網敬一と、沢田重隆と、あと野間伝治と。野間伝冶のお父さんの野間仁根のうちが上野の桜木町にあるんだよ、すごいでかいのが。野間の娘も僕たちの友達で。だからそこの二階を借りて、そこに作品を集めて。沢田重隆って人はイラストレーションとデザイナーでね、三洋電気のトップ・デザイナーで、その頃から大金持ちだったの。その人が全部作戦練って、「ギューちゃん、じゃあ、もう呼んでこいよ」って。「よし、俺が呼んできてやるか」って。それで田名網敬一と沢田重隆が作品を並べて、僕は山王ホテルに迎えに行って。当然タクシーで。サムは来なかったけど、今井とタピエは一緒に来て、そこで見た。で、結局タピエはやっぱり画商なんだね。沢田重隆さんのおとなしい絵を、これがいいってね。今井は田名網敬一の。田名網敬一は全然金がないから、アスファルトにちょんちょんってくっつけて、それに蛍光塗料塗った真っ黒な絵ね。「あ、これが俺は一番好きだ」って。それはそれで終わっちゃったんだけどね。
池上:タピエは篠原さんの作品に対しては何か言ってくれましたか。
篠原:ううん、何も。写真を見せた時にバーッと見て「ボン(Bon)、ボン」って言ってるだけ。
富井:「ボン」っていったら一応、「Good」ですね。
篠原:「Good」って言ってね。その次の年にタピエがまた来てアンデパンダン展を見て、それでああいう事件になるんだよね。工藤なんかをピックアップしてね。
池上:マチウの公開制作をご覧になったっていうのも、白木屋で、同じ時期ですね。
富井:それは、どうやって知ったんですか。みんなに聞いて?
篠原:うん、読売新聞やなんかに出るから。そうすっとすぐに目をつけて、「おー、これは面白いぞ、行こうぜ」ってね。
富井:じゃあ随分新聞に出ているわけですね、そういうことが。
篠原:うん。読売だと思うな。読売新聞に昔、事業部で海藤日出男っていうのがいたのよ。その人がすごく文化的に読売新聞を強くしたから、情報がざーっと流れて。読売は文化欄がすごい強かったんだよね。
池上:マチウの公開制作について、どんな印象を受けられましたか。
篠原:最初はもうワーって集まってるから、街路樹に登って見たんだよね、見えないから。で、今井さんが絵の具溶きをやってんだよ、下で。
池上:アシスタントをやってらっしゃるわけですよね。
篠原:そう。それも背広着て格好つけてんだよね。パリの奴ってどうして背広着て絵描くんだろうね(笑)。で、革靴履いて、絵の具混ぜてんのよ、こうやって。そいでマチウはもうプロだから、変な浴衣に赤の襷をガっとしめて、鉢巻してんの。
池上:そんなに派手な色だったんですか。
篠原:うん。浴衣だから青だよね。それに襷が赤よ。もう宮本武蔵の討ち入りか、荒木又右衛門の仇討ちみたいなやつよ。そいで鉢巻もしてんの。それは全部、今井なんかがやらせてんのよ。
池上:そうなんですか。
篠原:「こうやったらいいぞ」とか言って。後でわかったんだけど、あいつら本当に日本を馬鹿にしてんだよね。
池上:今井さんが。
篠原:うん、今井とか。それでスポンサーが草月だから。ああいう場合はほとんど草月が絵を買ったりなんかして、もう毎晩美味しいもん食わしてやってるからね。だから、のぼせてんだよ、あれは。
池上:じゃあ、浴衣とかを着るっていうアイデアは。
篠原:もう全部今井だね。だって今井さんがパリでタピエにピックアップされてでかい展覧会やった時は、日本の着物着た女性がズラーって並んだっていうんだよ。日本レストランのウェイトレスを全部集めたんだよ(笑)。パリにあるんだよ、日本レストラン。それを集めてやってるわけよね。アンドレ・マルロー(Andre´ Malraux)が来たとかね。それを当時聞くと「あー、すごいなー」ってね。それで今井さんは結局、レジオン・ドヌール勲章を貰うんだよね。僕はそういうのはすぐわかるんだけど、アドヴァータイジングがすごく上手い世界なんだよね。その頃の日本は、もうほんと初心(うぶ)だから、そういうのは不潔だと思ってたでしょ。描く時は汚ねえ格好して腹減ったような感じで、ピッピッて描かなきゃ売れないよって。それが全然違うからさ。で、「やるな」って思ったんだけど、マチウの絵の描き方がね。あいつ歯が強いんだね、絵の具のチューブを口からピンって切って、ぐにゃぐにゃってやるわけよ。そこまではいいんだけど、筆がもう、あっち行ったりこっち行ったり、全体を全面的に仕上げていくわけ。コンストラクションっていうのか、何か知らないけど、要するにね、右のほうに赤をやったら、左のほうはそれに対応して青とか。こっちは線が長くなったら、あっちのほうはちょっとブレーキかけるとか。ものすごく古い絵作りなんだよ。
池上:構図がしっかりあるわけですよね。
篠原:そうそう、構図とかバランスとか、保守的なのよ。あと僕がびっくりしたのは、カメラマンが並んでバシバシーってやるシャッターの音ね。「すごいなー」って。「もったいねーな、フィルムが」って思ってんだけどさ(笑)。カメラなんか全然ない時代に、パチパチってやられるでしょ。そこになんか、新しいスター、アーティストの新しい姿を見たね。
池上:作品そのものよりも、それに人がそれだけたくさん集まってくるとか、そういう場の雰囲気みたいなものの方に惹かれたっていう。
篠原:そうそう。時代とかそういう、その全部のアトモスフィアね。それがすごいぴったりきたね。それで僕たちは帰りの電車賃もないんだからね。「何か借りに行かなきゃいけねーな」って小原と二人で友達探して、「すいませーん」とか、そんな感じよ。「また来たの」とかさ(笑)。
池上:それでしばらくすると、篠原さん自身もボクシング・ペインティングを始められるわけですけども、それは別にマチウから直接触発されてというわけではなく……
篠原:うん、アクション・ペインティングとしては、マチウもあるし、具体もその頃どんどんやってたからね。具体見てると、わりにすっとわかるじゃない、「すごいな」ってね。それに世界でも、例えば、ニキ・ド・サンファル(Niki de Saint Phalle)を写真で見たんだけど、白のスーツ着てライフル持ってね。
池上:射撃絵画っていう。
篠原:絵の具の瓶をバンバンって撃つとか。格好いいなと思った。みんな格好ばっかりだね。そういうのを見てるから、もうほとんどアクション・ペインティングは「またこれか」っていう感じでね。だってほとんど同じだもんね。だからボクシング・ペインティングは、もう全然やる気もなにもない時に、ボクシングのグローブの方が全然速いんじゃないかとか、そういう風に思ってただけなの。それを実際にやったのが大江健三郎の「同世代ルポ」で、『毎日グラフ』と一緒にうちに取材に来た時に初めてやったのよ。それ以前に僕の中でボクシング・ペンティングの状況が温まってたんだね。
池上:じゃあ、取材に来られたから、見せるためにやったっていう。
篠原:そう。いつも考えてたから、「じゃあ、やってみようかな」って思ってね。丁度電電公社のコンクリートの塀があるし。取材班に500円貰って300円のケント紙買って、200円で墨汁買って、それでシャツに手を巻き付けて、やってみたわけよ。右から左にバシャバシャって。大江はびっくり仰天して。でも塀に上って見えるような、いい写真になったんだけど。後で記事を読んだら大江はなんて言ったかっていうと、「この篠原君には伝統も何もない、滅茶苦茶な人だ」って書いてある(笑)。「周りが派手で、彼の内容は見えにくい」って。なかなか彼の本質がわかんないとか、そういうこと言ったんじゃない。でもそれが40年ぐらい経って、『婦人公論』かなんかに舟越桂と大江健三郎の対談が載ってたの。それで舟越が、「僕が藝大の頃《オートバイ彫刻》を見て、みんなで感動したことを覚えてる」って。そしたら大江がすかさず「あ、その人は僕知ってる」って言うんだよね。もう伝統も何もない滅茶苦茶な人だと思ったんだって(笑)。でも今になって、ニューヨークかどこかのコレクターの家で彼のオートバイ彫刻を見た。それで「彼は外国の生活に負けない、したたかな人だ」って書いてある。少しは40年前に言ってくれればさ。そういうもんだね。
池上:当時は大江健三郎自身にもよく見えなかったっていうことですよね。
篠原:そうだね。その「同世代ルポ」っていうのは、僕たちはビート族、要するに昼間寝て夜六本木あたりで遊んでる奴らの一人だという風な取材なのよ。その前は農村の青年の取材とか、漁村の若者の取材とか、そういうのやってきてるわけよ、「同世代ルポ」だから。それで「僕たちは辛いけどがんばってます」とか「大根掘りも面白い」とか、そういう流れで来て俺を見たらもう、「この人は伝統も何もない滅茶苦茶な人」になるわけよ(笑)。
池上:都会の若者文化として紹介されてるわけですよね。
篠原:そうね、うん。「野獣会」とか変なのがあったからね。
池上:ボクシング・ペインティングと同時期だと思うんですけども、その頃に割竹をたくさん使ったオブジェを多く作られているんですが。
篠原:あれは読売アンデパンダン展に工藤哲巳とか九州派とか、そういうグループがいて、大きな作品で勝負するようになってきたわけよ。小さいのじゃもう目立たないぞってことになって。それでみんな、派手で大きく見える素材を探したんだよね。僕は近所の竹籠を作る人、竹屋さんがいて。それで余った孟宗竹(もうそうだけ)を焚き付けにするんだけどね。昔は焚き付けでご飯炊いてた人が一杯いるからね。それを一束10円とかで買ってくるわけ。だからものすごい量があるわけ。その竹の皮をとった内側を、こう巻き付けて、針金でビューって造形したわけね。だから題名も《熱狂の造形、これが芸術だ》(1958年)なんてつけたんだよ。それかついでドーンってやってね。
池上:それを読売アンパンなんかに出された。
篠原:そう。1958年の読売アンデパンダンだね、多分。それを見てタピエが工藤なんかとまとめて「素晴らしい、輝かしい将来が日本の若者たちにあるじゃないか」って言ってね。「ある画廊がこれだけのメンバーを揃えたら、矢のような出発が約束される」って言うんだよね。それは芳賀徹が訳したんだけど。「矢のような出発」ってんだからね、もう。タピエもやっぱり売り込みっていうか、自分の画廊や思想を世界に押し出すっていうので、形容詞が激しいんだよね。そういうのにすごい感動したね。例えば今井俊満の作品に対して、「神秘に輝く完全絵画」って書いてあるわけよ。そんなものが世の中にあったかなって、古今東西(笑)。ゴッホなんかのたうって死んでんのに、今井のはぐちょぐちょした真っ黒な絵を「神秘に輝く完全絵画」って言うんだから。そういうタピエなんかのやり方にはすごく刺激受けたね。
池上:竹を使ったオブジェ作品を、タピエは「これをブロンズで鋳造しておけ」っていうようなことを言ったんですか。
篠原:うん、そうだね。その時は、瀬木慎一さんと一緒にタピエが見に来てたから、瀬木さんが通訳してくれてね。「これどう思う」って。
富井:アンパンの時ですか。
篠原:うん、読売アンデパンダンの時ね。その時にやっぱり世界は全然違うなってわかったね。こっちはブロンズの欠片も買えないんだから。全部ブロンズでしてたら、すごいことになるよ。やっぱりスケールでかいよね、世界って。タピエはもちろん半面は画商だから、画商としてこれを商品にしたら売れるっていうイメージがあるんだよね。
池上:やっぱりブロンズで鋳造しないと、商品になりにくいっていう判断ですよね。
篠原:そういうことだね。要するにこれは彫刻の原型で、粘土みたいなもんだよね。ブロンズで型を取る粘土と同じに見てるんだね。
池上:もしブロンズで鋳造できたら、してたと思いますか、篠原さん。
篠原:自分にお金があって?
池上:はい。
篠原:そういうアイデアって、日本のそういう状況じゃ浮かばない。これをブロンズにして、なんて。なんでかというと、ディーラーがいないからね。東京画廊と南画廊しかないし。
富井:そうですよね。だって「矢のような出発」とか言っても、矢のような出発してくれる画廊がないわけですよね。東京画廊とか南画廊はもうちょっと、エスタブリッシュした現代美術、斎藤義重さんとかやってるわけだから、まだまだ篠原さんまで回ってこない、みたいなところありますよね(笑)。
篠原:うん、全然。
池上:じゃあ、「ブロンズで鋳ろ」って言われても、って感じですか。
篠原:うん。まあ、東京画廊の山本(孝)さんでも、南画廊の志水(楠男)さんでも、根は鳥海青児とか、そういう古いものの画商さんだから。
富井:もともとは。
篠原:うん。それから骨董屋さんもやってたんだからね。揉み手でこう、骨董を売ったりする、ほんと根っからの画商よね。だから新しいものを作るとか、そういう運動に参加してとか、そういうのは全然ないの。お金にすることしか考えてないし。もう、ロマンチックよ、画商が。画家よりか。夢見る夢画商。
池上:そうですか。
篠原:お金には汚いけど、なんかバーンと夢見てんだよね。ちぐはぐだよね。南画廊の志水さんなんて、本当にロマンチストだよ。彼は頭はあんまりよくないんだよね。でもでーんと構えて、なんか格好いいんだよね、画商として。
池上:体格が立派ですよね。
篠原:そう、でんとしてね。そいで瀧口(修造)さんとか、とりわけ仲が良かった大岡(信)さんと、ジャコメッティとかフォートリエを南画廊でやった。その頃が一番よかったよね。画廊を大きくしてから変になっちゃったけどね。出光にサム・フランシスを売って大金が入った時に、彼の場合は中古の外車乗って作家のところに来たもんね。失礼だよね、画商が儲かったからって、事務員に運転させて貧乏絵描きのとこに来てさ、ブッブーって鳴らして「おー、みっくん、やっとるか」なんて、馬鹿野郎ってんだ(笑)。ああいうとこは、やっぱりずれてると思うなあ。そんな車買うんだったら、一点でも三木(富雄)の耳の作品を買えばいいのにさ。そういうところはインテリジェンスがないね、画商に。
池上:そうでしたか。ちょっと制作以外の質問になるんですけども、1958年になるんでしょうか、最初のご結婚をされてると思うんですが。
篠原:ううん、結婚はしてないんだけど、婚約して、同棲してたことがあんの。造り酒屋の娘さんと荻太郎のパーティーで恋愛して「さあ、結婚だ」ってとこまでいったんだけど、やっぱりその頃生活が無茶苦茶だからね。家財道具も布団も何もないからね。質屋にいれて展覧会の搬入礼にしたりしてるから。やっぱりついてこられないって。それで、やめた。
富井:じゃ、結婚はしなかった。
篠原:うん。その時も、結婚式をどこでやろうかって。徳川夢声っていうのがいてね、変わり者を集めて結婚式っていうのがあったんだよ。テレビ結婚式っていうのかな。それで僕はモヒカンだから、丁度いいんじゃないかって。
池上:目立つから。
篠原:そう、モヒカンだから。そしたら、向こうのうちが「とんでもない」って。
富井:普通そうでしょうね(笑)。
篠原:そいで剃って、頭の毛が生えるまで結婚式は待ちましょうってことになって(笑)。
池上:そのうちに結婚自体が流れたっていうことですか。
篠原:そうそう、流れちゃったっていうことだね。なんか変な話だけどね(笑)。モヒカン刈りも祟るね、あちこちで(笑)。
富井:そりゃ祟るでしょうね。モヒカン刈りにしたのは58年ですよね。
篠原:うん、その頃だね。
池上:きっかけは何かあったんですか。
篠原:ううん、何も。もう暇で、材料もないし、絵を描くアトリエもない。そういう時に、「アルシミスト」の小原くんは、お父さんが東中野で蕎麦屋やってんのよ。で、蕎麦屋の二階でバッチリ頭剃って一本線にしてみたわけよね。そしたらあんまり格好いいんで、それでちょっと売り込もうっていうことになって、友達なんかに見せたんだけど。特に田名網くんなんか呼び出して喫茶店で見せたら、「おー、すげー」って言うんで。それで、やっぱり僕はそういう時に、それをアートにしなきゃって。転んでもたたで起きないっていうか、絵の具も何にもないんだから、アート表現が出来ないわけ。それで結局これが偶然アート表現になったっていう。「えーい、やっちまえ」って。「それじゃあ、これがアートだ」って、シャツにバーって絵の具をつけて、お袋の日本画の絵の具を少しもらってズボンもマンボ・ズボンにして、新聞社とかを回ったんだよね。取材してくれってね。朝日や毎日なんか、全部断られちゃったけど。『週刊新潮』も行ったけど、「そんなんで売り込んだってだめよ」って言われてさ。それで、親戚がいる『週刊サンケイ』の編集部にお金借りに行ったのよ、お腹空いて、金がないから。そしたら僕の親戚が編集部のデスクを呼んできて、「ちょっと待って」って。で、デスクが来て、頭を見て「うわー、すごい」って。「どこで刈ったんですか?」って。そこで僕が、蕎麦屋の二階で5円の剃刀じゃなくて、銀座の社長クラスが行く「米倉(よねくら)」っていう床屋があんのよ、だから「米倉」って言ってね(笑)。「え!? 米倉で!?」って(笑)。
富井:嘘ついたんだ(笑)。
篠原:それが当たってすぐに取材(笑)。面白いでしょ。
富井:まあ、それぐらいはったりがないと。
篠原:それがパッと出るとこがすごいよね。やっぱ江戸っ子なんだね。気風がいいんだね。
池上:その「米倉」っていうのを知ってるっていうこともね。
篠原:そうそう。それはね、僕の叔父さん。叔父さんなんだけど、同い年の叔父さんなんだ。伊藤家の一番下の子供でね。要するに伊藤のおばあちゃんっていうのが、子供を生んで、長女の子供が僕で、そのおばあちゃんの一番末っ子が、伊藤巌って、僕と同い年なのよ。
池上:歳の離れたご兄弟だったんですね。
篠原:それが中日新聞に入ってて、インテリジェンスがあって、色んなことを教えてくれんのよ。「床屋は米倉よねー」なんて、てめーは行けないくせにさ(笑)。「コーヒーはブルーマウンテン」とかやってる、そういう人なの。飲んだこともないのにレミー・マルタンとか言ってるわけよ、本読んで。それが随分色んなことを教えてくれるるから、それが出ちゃうんだね、「米倉」ってね。
富井:さすが江戸っ子ですね。
篠原:江戸っ子は気風がいいんだね(笑)。そしたら向こうからパーッと(笑)。
池上:食いついてきたと。
篠原:そうそう。で、カメラが足んねえから、スポーツ記者とスポーツカメラマンが来て。取材もスポーツ記者だから絵の話なんて全然わかんねーんだよ(笑)。「ねーねー、篠原さん。どこ撮りゃいいの?」とか、そういう感じ(笑)。
富井:その時は画廊かどこかへ行ったんですか。
篠原:その時は読売のアンデパンダン展やってる最中だから、まずあそこ連れてって、それから床屋のシーンで。その時は米倉じゃなくて、中野のうちの近所の床屋ね。
富井:じゃあ、その時、また剃ってもらったんですか。
篠原:そうそう。剃刀あててるシーンとか、そういうのやって。それから、家庭教師で子供教えてたから。
池上:絵を教えるバイトをされてたんですか。
篠原:うん、バイト。3軒くらいね。大学の傍の、上野のお茶屋とかお蕎麦屋とか、そういうところの子供。トントンって上がっていって「あ、先生来たよー」って、「さー、何描くの?」、「バナナとりんごー」、「オーケー」。俺がサーっと描いてやるから、「あー、上手くなったなー、ほんとにお前が描いたのか?」なんてやってるわけよ(笑)。
富井:ちゃんと先生してたんですね(笑)。
篠原:それで「すいません、月謝前借り」(笑)。「また? いいんですか? うちはいいけど、そんなに前借りしちゃっていいんですか」なんて。だから3ヶ月は前借りしてたね、大体。そういうのをパッパッて取材したわけ、2ページ半ぐらいの記事で。そういうのでちょっと有名になって、「ラジオスケッチ」っていう番組で、柳屋小さんをうちに連れてきて、ロカビリー画家をやったわけよ。局にまだテープ残ってるけどね。
池上:今ちょっと読売アンデパンダン展の話が出たので、ついでにお聞きしたいんですけども、1957年から63年まで、毎年出品されてたんですよね。
篠原:1960年にネオダダを作る時に、読売アンデパンダン展が3月だから、僕と吉村(益信)がその前に計画して、そこでメンバーを集めようってことで。それでアンデパンダン展に出して、吉村とムサビ(武蔵野美術大学)の赤瀬川(原平)とか荒川(修作)がいるから、作品見ながらこういうの作ろうって。で、吉村の家に集まってスタートしたのよ、3月ぐらいに。10月頃にはパンクしちゃうんだけど。
池上:アンデパンダン展の後に結成したっていうことなんですね。
篠原:そう。
富井:じゃあ、基本的にアンデパンダンの時にリクルートしたわけですね。作品見て、作品で決めたんだ。
篠原:うん。
富井:なるほど。
池上:それは吉村益信が会場を見て、「これ、これ」っていう感じで目をつけたんですか。
篠原:そうじゃなくて、吉村は九州の吉村製薬の息子だから、お金はいくらでもあんのよ。家もあったしね。それが個展なんかやってるわけよ。僕も銀座うろついてたから、なんか気が合ったんだね。「おー、吉村君か」、「どう、ギューちゃん」なんて。僕は全然彼の絵は認めないんだけど、友達として気が合うんだよね。アンデパンダン展の取材の時にも吉村君がいたから、僕の作品の前で「吉村君、こっちこいよ」とか言って、すごい友達になったのよ。それで吉村が家に来いって言うんで、百人町の彼の家行ったら、ものすごい家なのよ、バーンとした。それを建てたのは磯崎新だからね。磯崎新と彼は大分の高校の同級生だから。それで僕がパッと閃いて、「よし、これを使って何かやれるんじゃないか」って。それで「グループしよう」って言ったの。前に野間とか工藤たちの色んなグループ作りに頭突っ込んで、僕はよく知ってるから。吉村も乗ってきて、話が盛り上がったのが2月頃なんだよね。で、3月に読売アンデパンダン展があるから、そん時にメンバー集めようって、そう計画したの。
池上:なるほど。
篠原:僕と吉村で、ちゃんと下地が出来てんのよ。それでみんな、アンデパンダン展にワーって出して、荒川なんかもちょっと格好いいの出してね。それで一気にサーっと、スムーズに集まっちゃって。
富井:なるほど。そういう感じで。
篠原:うん。やっぱり吉村はムサビだから、ムサビ系だよね、半分は。藝大はもちろん、そういうのやるのはゼロだから、僕は近所の友達ね。豊島壮六君ってのがいたから、そのぐらいかな。そういうんで、どんどん盛り上がっちゃって。
池上:最初の展覧会が「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー展」っていう。
篠原:そうだね。吉村が作ったんだね。
池上:その名前の由来っていうのは、どういうところから。
篠原:吉村が勝手につけたんだ、「オルガナイザー」って。僕は「オルガナイザー」の意味も英語的にはよくわかんなかったけど、「組織者」とか、そういう意味になるんでしょ。
池上:はい。
篠原:「ネオダダ」は、吉村のとこでグループの名前を決めようって、集まった。だけど面倒臭いから、「ダダ」に「ネオ」つけて「ネオダダ」にしたらマスコミが動くから、すぐにわかるだろう。だからそれにしようって、僕が強引に決めたの。みんな嫌がったんだけど。
池上:篠原さんの発案だったんですか。
篠原:うん、僕はもう売り込みだってはっきりしてるから。グループ「土」だ、グループ「鋭」なんて変なのつけたって、誰も来ないよね。「ネオダダ」だったらすぐわかるから。「ダダの新しい、ネオだ」ってね。それで「オルガナイザー」は吉村がくっつけたのよ。そしたら瀧口さんが後で「それ取れ」っていうんで、二回目から「ネオダダ」になったね。
池上:じゃ、グループ名としてはやっぱり「ネオダダ」なわけですね。
篠原:うん。最初は「オルガナイザー」で、それから後は「ネオダダ」。
池上:アメリカで「ネオダダ」って呼ばれてた、あれは全然知らずに、「ダダ」に「ネオ」をくっつけたっていう。
篠原:全然知らなかった。ヌーヴェルヴァーグの頃だから、何でも「New」をつければいいんでね。
池上:ネオダダ展に篠原さんが出品された作品について教えていただきたいんですけど。
篠原:それはね、第一回が銀座画廊か。そん時は覚えてるよ。
富井:風船ですね。
篠原:そうそう、風船。友達の豊島壮六が両国の横山町の小さな鉄工所の息子で、僕はそこでアルバイトしててね。両国っていうのは浅草橋が近いから、いつもそこ歩いてたの。浅草橋は問屋街でしょ。目移りするし、嬉しいんだよね、昼飯のあとにそこ散歩すんのが。そこで風船が安いのよ。500円くらい買えばもう、一杯くるわけ。それを買って。
富井:500円も買ったんですか。
篠原:いや、もっと少なかったと思う。それをメンバーのみんなに膨らましてもらって、針金で結わえて、《無限大四次元》(1960年)とかいってやったわけ。
富井:針金ですか。
篠原:うん、針金。針金の細いのは竹を巻くのにいつも使ってるからさ。
池上:で、会場全体に風船を。
篠原:会場が3つぐらいに分かれてんのよ。それを全部借りちゃったから、その一つに風船をバーって床からやって。入り口のほうは荒川君やなんかを持ってきて、水が垂れたりして大騒ぎになってたけどね。
池上:第二回に出されている作品のタイトルがちょっと確認は出来なかったんですが、なんか木の根っこに……
篠原:木の根っこのやつね。第二回はどこでやってた?
富井:二回目は吉村さんのお家じゃないですか。で、第三回目が日比谷画廊。
篠原:じゃあ、二回目は吉村のとこだ。連続パンチよね、「次、早くやろーぜ」って。
富井:早くやんなきゃいけないんですか。
篠原:「次、次」ってしないと燃えないから。それに、第一回が終わって次に目的がないと、暇で仕様がないでしょ。
池上:「じゃあ次、二回目だ」っていうことで。
篠原:そう。でも、もう場所がないわけ。銀座の画廊は締め出しだから、最初のやつで(笑)。「あれ酷いよ」ってんで。で、吉村の家でやろうって。
富井:それが二回目で、三回目もすぐ。
篠原:三回目の日比谷画廊はね、僕が知ってたから。昔ね、一人で借りたことあんのよ。日比谷公園で「白色セメント彫刻展」ってのをやってて、ペリカンとか作ってんだよね。そこに画廊があって、東京都がやってるから一日500円かな。いや、もっと安かったな。それを借りて、自分で一回展覧会やったことあんの。竹でぐしゃぐしゃってやって、すごいトラブルになったんだけど。それで日比谷公園の画廊に行こうって。僕は顔がばれてるから、背広着て3人ぐらいでね。赤瀬川も行ったんじゃないかな。「あー、わたくしは」なんて(笑)。で、「こういう展覧会をさせてください」、「はい」ってオーケーした途端にすごいのやって、ドタバタになったんだよね、公園も。1週間でもう、「出て行け」ってなったんだけどね。ほんとは今だったらお巡りさん呼ばれるんだけど。
池上:そこまでハチャメチャなことをされてたわけですよね。
篠原:うん、やってたんだろうね。池に飛び込んだり、墨だらけになったり。写真があるけど。
富井:じゃあ、わりとテンポよく、暇だからとにかく展覧会、という形で、3回目まではいって。
池上:ネオダダ展っていうのはこの3回だけなんですよね。
篠原:うん、グループでちゃんとやったのはそうだね。
池上:グループとしての活動は、1年に満たないわけですが、長続きしなかった理由っていうのは、何かあったんでしょうか。
篠原:そうだなあ、もう、時代だね。やっぱり東京って刺激が多いし、みんなの気持ちが揃わないんだよね。グループを作って何かをやろうっていう。それにネオダダを日本の評論家、例えば東野(芳明)、中原(佑介)、針生(一郎)、それから石子(順造)とか瀬木(慎一)とか、誰もちゃんと書かないし。最初に取材に来たのが週刊誌で、『週刊漫画』っていうのが全面取材したんだけど、そういう形なんだよね。それから、『100万人の夜』なんてのも取材に来てね。それはエロ雑誌なんだけど、「ネオダダの夜の座談会」って、僕だけ本名で吉村やなんかは全部仮の名前で、座談会やったんだよ。それを黒田雷児(注:インタヴュー時、福岡アジア美術館学芸課長)が見つけてきて。
池上:それは何をお話しになったんですか。
篠原:エロ話をしようってわけよ、バーで。バーの早い時間に。6時から開くんで、5時からママの指定のとこ行って、それでお金払ってくれて。そういうのやったり、それからもう一つはTBSの取材で、鎌倉の材木座(海岸)のビーチにみんなで行って何かやろうって。そういう時代があったんだね。ビート族じゃないけど、若者が集まって、反抗的に何かをやるっていう。ゼロ次元の加藤(好弘)たちもそうだしさ。その時に、例の4チャンネルの「ある若者たちの記録」(注:長野千秋監督、1964年)っていうドキュメンタリー・シリーズも作ったし、結構盛り上がってたんだよね。だけどそういうものに対して日本の美術界が全然評価しないんだよね。そういうのはちょっと不思議だったね。
池上:もしちゃんと反応があれば、グループとしてももうちょっと続いていったかもしれないですか。
篠原:そうだね。だけど、発表の機会がなかったからね。南(画廊)と東京(画廊)しか売れ口がないし。南画廊と東京画廊はヨーロッパやなんかの作家もやるから、そういう作家でもう一杯だからね。そうすると僕たちなんか歯が立たないし、どういう風にやっていかわかんない。そういうコマーシャル的な方向を指し示した人は誰もいないね。それで外国に行くっていうことになるんじゃないのかな。
池上:最初に行かれたのが荒川さんでしたね。
篠原:そうだね。草月がスポンサーとしてそういう日本のハイ・ソサエティを支えてたんだけど、まあ、荒川君ぐらいだよね、草月のパーティーに呼ばれるのは。僕らはもう全然お呼びがないから。荒川君はスマートだから、そういう雰囲気を知ってるし。だから外国のほうがいいんじゃないかって、アメリカに行っちゃったんだよね。自分のお金で行ったんじゃないかなあ。だから、ニューヨークでも荒川君はバイトしてたんだよね。その後吉村君は家を売り飛ばしちゃって、他の家買って、そいで女房と一緒にバーンって行った。吉村君はボス猿だから、田辺三太郎君とか升沢金平君とかもついて行くような形で行って。で、ニューヨークでアルバイトやったりしながら、みんな向こうの学校行ったんだね。だから、日本では食えないっていうのと、希望がないっていうことなんだね。でも、よくアメリカに来たよね。ビザだって学生ビザだもんね、その頃は。ブルックリンの美術学校にみんな入って、学生ビザで働いて、家賃払ってロフトに住んで、絵を描いてたんだよね。1970年になると、日本人がグリーンカードをバーって取れるようになったから。だから、僕は1969年に来て70年に取れたのはラッキーなのよ。
富井:そうですか。
池上:逆に良いタイミングで来られたっていうことですよね。
篠原:ものすごい良いタイミングなの。
池上:吉村さんなんかは帰らないといけなかったわけだから。
篠原:そうそう。もう働いてるからね。イミグレ(移民局)にふん捕まったりして。荒川君はドワンていう画廊(Virginia Dwan Gallery)がついてたから、そこのほうから取れたけど。川島君とかは全部取れなくてね。で、みんな住んじゃいけないビルに隠れて住んでたの。炬燵を作ってその中をベッドにしたりね。クローゼットの上に寝るとか、そういうの常識だったんだね。分かんないようにしてね。そういう時期がみんな10年ぐらいあったんじゃないの。それで1970年に、みんなそうやって取れたんだよね。
富井:なるほど。
篠原:しかも弁護士が「払うのなんか絵でもいいよ」っていう弁護士が現れて。で、僕はちろん絵で払うし、みんなもほとんど絵じゃないの。
池上:結果的にちょっと遅れて来られてよかったわけですね、篠原さんは。では、今日はだいぶ時間も過ぎてきたので、ネオダダのあたりで一度終えたいと思います。ありがとうございました。