EN | JP

Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

白川昌生 オーラル・ヒストリー 第2回

2010年9月8日

於白川昌生アトリエ

インタヴュアー:福住廉、鷲田めるろ

書き起こし:齋藤雅宏

公開日:2012年10月28日

インタビュー風景の写真

鷲田:デュッセルドルフ時代のことで、もう少しお聞きしたいことがあります。(ハラルド・)ゼーマンに、ドイツ時代にお会いになった時は。

白川:ちらっと会っただけですけどね。

鷲田:話をしたりとか、そういう感じではなかったのですか。

白川:そういう感じではないですね。そんなにたくさんという感じではなくて。ちらっとっていうか、一回目は、僕がパフォーマンスを、デュッセルドルフの仲間と一緒に、チューリッヒのクンストハウスかな、あそこでやった時に。ちらっと挨拶をして。その時は他の作家もいたんだけども、それが初めで。その後は、「日本のダダ」の展覧会の時が最後だけども。その前に、デュッセルドルフでゼーマンの企画した大きな展覧会がクンストハレであったんですよ。この前の僕の本(注:『美術館・動物園・精神科施設』、水声社、2010年、p.119)の中にも書いてた、ゲザムドクンスト(Gesamtkunst)、「総合芸術(作品)の方ヘ」とかっていうタイトルの大きな展覧会があって。そのオープニングの時にちょこっと話をしたくらいで。あまりこう(親しい握手のジェスチャーをしながら)、っていう感じではないですよね。ちょっと挨拶して、そうかって言って。あとは、「日本のダダ」の時は、非常に興味を持ったと書かれたハガキをもらったりしたりして。

鷲田:当時からゼーマンのやっていたことに関心は持ってらっしゃった。

白川:持ってましたね。それにデュッセルドルフの作家の人にとっては、例えば、ゼーマンと仲の良かったヨーゼフ・ボイスも学校にはいなかったけども、活動はしてたし。デュッセルドルフのクンストハレが、当時のドイツ美術界の方向性としては、ゼーマンの展覧会やったりとか、共有しているタイプのユルゲン・ハルテン(Jürgen Harten)という名の館長がやっていたところだったから。作家の人たち、僕らの若い世代の時の人たちは、ゼーマンのことはみんな知ってたから、ボイス自体もディスカッションとかでゼーマンの話も出てくるしね、といろいろ一緒にやってるし。それから僕がちょっとお世話になってたシュメーラ画廊のオーナーもゼーマンとは関係があったんで、ゼーマンのことはみんなよく知ってましたね。

鷲田:白川さんは最近アートプロジェクト的なことを地域でされていて、それを私は非常に面白いと思っているんですけども、ドイツにいらっしゃる時に、今のそういった関心に繋がるような出会いがあったのでしょうか。

白川:あったと思いますよ。

鷲田:例えば、ゼーマンやボイスは、フォーマリスティックな作家と比べれば、そういうのに近いと思います。彼らからの影響はあったのでしょうか。

白川:影響っていうかね、例えば、ちょうど僕が行った時は、アカデミーの学生、僕が下宿してたヴッパタールなんかにいた若い人たちがいるんだけども。彼らはオルタナティブスペースをやろうとか、自分たちで出版物を出そうとか、出版物を出すだけじゃなくて、それをアムステルダムに持って行って、売ったりしてた。当時はドイツもそうだけども、オランダではそういう若い人のオルタナティブな活動が非常に盛んになっていた時だったんですよ。ギャラリー デ・アペルなんかもはじまった時で。既存の画廊や美術館に頼らないで、自分たちでいろいろやってみようみたいな、ネットワークづくりみたいなことが、若い人たちのなかではあった。それとその当時の人たちの中では、絵画とか彫刻という枠組みに入っていくんじゃなくて、パフォーマンスをやったりとか、僕らなんかも、ドイツ人の仲間と一緒にライブをやってコンサートツアーをやったりとか。そういうことは、僕の周りにいた仲間は、普通だったんですよね。美術関係だけではなくて、音楽関係の友たちとか、ビデオや映像関係の友達とか、多かったですよ、僕の周りにはね。いろんなジャンルの人たちとやっていくのに全然違和感がなかったし。ボイスはああいう活動をしてたんだけども、デュッセルドルフのアカデミーで僕はギュンター・ユッカーについてたんです。ギュンター・ユッカーは、東ドイツから、アーティストとしてはおそらく早い時期に亡命した作家だと思うんですよ。(ジグマール・)ポルケとか(ゲルハルト・)リヒターよりも早く。1950年代に彼は東ドイツを出てきちゃったから。彼は政治的な発言や活動は自分の作品ではやっていなかったので、ボイスの言動に関してはすごく批判的だったんですよ。僕に、お前はボイスのクラスに行きたかったんだろう、みたいな嫌味を何度も言うんだよね(笑)。だからといって彼は、そういうことがだめかっていうとそうじゃなくって、当時アカデミーの中では(クラウス・)リンケもいたし、ゲルハルト・リヒターもいたし、ボイスに繋がっているような作家もいたりしたので。それから、終わりの方はトニー・クラッグも来てたり。

鷲田:彼は今もヴッパタールに住んでますよね。

白川:そうです。ずっとそうです。アトリエが向こうにあるからね。そういう人たちが来ていろいろ動いてて、若い世代の人たちが動いてたから、ユッカーはもうワン世代上で。はっきり言えば終わっちゃった世代のように見られてたんですよ(笑)。だから、僕のクラスはね、人気がなかったんだよね。学生は集まんなかったし。でも、その中でユッカーは、例えば僕らを連れて、クラスの展覧会をオーガナイズしてくれたんだけど。例えば、チューリッヒの郊外にある、リッテンハイト(Littenheid)という、村と病院がひとつになった生活共同体的な精神病院に学生を連れて行って、そこで十日間くらい合宿して。そこの入院患者の人とか病院の先生とかと、いろいろディスカッションしながら、それを元に展覧会をやってみようとか。それから、デュッセルドルフの北の方にあるルール地方のゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)の町なんだけど、ツォルフェライン炭坑産業跡が、今はすでに世界遺産にもなっている、ルール地方の炭坑の跡で。今では、よく日本人も見学に行っていると思うんですよね、NPOの関係の人とかなんか。先行した場所なんで。すごい大きな昔の石炭坑の跡や、周辺の初期バウハウス的な赤レンガの事務所群など、非常に印象深い場所でした。その炭坑町へ行って、炭坑の跡地、工場、町の中をずっと歩いて見てまわったりして。町の人と話をしたりもして、そのあとゲルゼンキルヒェンのクンストハレでユッカーのクラスの展覧会をやったりとか。それから、当時はユッカーのクラスではないんだけども、ヴッパタールで、町おこしみたいな感じで。あそこモノレールがありますよね。モノレールのラインに沿って、デュッセルドルフのアカデミーに依頼して、いろんなクラスがそれぞれ受け持って、展示をやるというようなこともあったんです。それから、あの時代、デュッセルドルフのアカデミーはインターナショナルな動きも始めてたので、パリ以外のフランスのボルドーの美術学校と連携して、交換しながら、ボルドーの町に出て行って、若い人が何かやったりとか。それからP.S.1のスペースもその時代にデュッセルドルフのアカデミーは作って。ドイツだけじゃなくて、自分たちの学生が外に行ってやれるように、いろいろ活動ができるように。

鷲田:デュッセルドルフのアカデミーの学生がニューヨークのP.S.1に行って。

白川:そうそう。P.S.1の中に、デュッセルドルフのアカデミーの部屋を確保するわけですよ。パリにもボザールみたいなところにも1つレジデンスを確保して。そこに年に1回、奨学金とった学生を半年とか1年とか送り出すわけですよ。今日本でも、どこの美術系大学でもやっているけども、そういうのをその時代からぽつぽつ始めてて。だから、アートをやってるっていうことが、美術館とか画廊とかに行くだけではなくて、病院、駅や町の中に行ったり、インターナショナルなところで考えたりということが、デュッセルドルフでは当たり前だったんですよね。だから、近くの古い駅をアカデミーが借りて展覧会をやるということもあったし。おそらくそういうことも、僕には、影響してるだろうと思いますね。割と早い時期に向こうでは、当たり前に行われていたっていうのがあるから。

鷲田:先ほどおっしゃっていた、ライブのコンサートツアーは、どんなことをされてたんですか。

白川:あの時代はね、パンクの後くらいだったと思うんですが、パンクの格好もしてましたね(笑)。

鷲田、福住:ええー(笑)。

白川:ドイツでは、パンクの後からね、ボブ・マーリーなんか出てくる初めの頃、レゲェなんてあとだったな。パリの時は、パティ・スミスでしたが、ヴッパタールで僕の周りにいた連中は、フランク・ザッパのファンが多くて、フランク・ザッパみたいな、ロックオペラをやろうと。舞台の上でちょっとした、喜劇、演劇みたいなことをやったりとか。演奏もやったりとか。いろいろなことを。映像もやるんだけども、割とお遊びみたいなこととかね。そういうのを仲間と組んで、ヴッパタールからゾーリンゲンとか、フランクフルトとかね。みんなで回りましたね(笑)。僕は後はデュッセルドルフにいたけども、デュッセルドルフの仲間の人たちはまた別で、そこはね、そのアメリカ人のマイク・ヘンツが中心だったんだけど、「パラノイド」とか「-Δt(ミニュース・デルタ・テ)」というグループを作って、フリージャズとか、一種の実験音楽みたいなやつとか、それからウィーンの方から、ライブハウスから流れてきたやつがいて、ライブハウスであの時代はDJをやってたのが流行ってて、そういうやつと一緒に今度はライブをやったりしましたね。仲間の中に(カールハインツ・)シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen)の息子もいたね。僕はケルンの作家の人たちとも割と近かったんですよ、マイクの関係で。ポルケのところまで遊びにいったりとか。ユルゲン・クラウケとかね。あのオカマの格好してるやつ。あの女装したりとかする作家ですが、ベルリンではサロメというクラブ出身のような作家もいましたね。そういうやつとか。デュッセルドルフの中ではどっちかって言うとボイス寄りなんだけども、ちょっとパンク的な感じの連中。黒の革、革ピッタリ着てちょっと挑発的な、写真作ってる。今ベルリンの先生やってるのかな。カタリーナ・ジーフェアディング(Katharina Sieverding)という女の作家がデュッセルドルフにはいて、ケルンにはウルリッヒ・ローゼンバッハ(Urlich Rosenbach)という女性作家がいるけど、そういう連中とか。そんな感じでしたね。アカデミーの授業には全然出てなかったから。

鷲田:今のお話を聞くと、音楽のツアーのようですが。その中で何を演奏されたんですか。

白川:僕はね、ドラムとかやりましたね(笑)。

鷲田:ミュージシャンとして参加されてたということですか。

白川:ミュージックというか、パフォーマンスというか・・・。ドラムやったりしましたね。歌を歌ったり。仲間の半分は美術系だったんです。アカデミーの学生。あと半分が、例えばヴッパタールの場合だと、地元にいる、小説を書いてるんだけども音楽をやってみたいとか、そういうやつが多かったです。ヴッパタールは、ドイツにおけるフルクサス運動のはしりの場所として有名だった。僕も初めてヴッパタールに住んでから分かったんだけども、フリージャズの演奏家が何人か住んでるんですよね。ペーター・ブロッツマン(Peter Brotzmann)とか、近藤(等則)くんたちが呼んでるドイツで割と有名な、サックスホン吹いたりするやつが、ヴッパタールにはいて、他にも演奏するやつがいて、毎年ジャズのちっちゃなコンサートを自分たちでやってた場所なんです。そういうのもいたりしたんで、フィーリングはそういう音楽系の連中とは近かったし。それで、街中には、ピナ・バウシュもいたりして。オルタナティブな感じはどこにでもありました。

鷲田:ユッカーのクラスでは、造形的な、平面作品とか立体作品を作っておられたんですか。

白川:そうですね。僕は現代アートの知識が、ほとんどその頃無かったから。

鷲田:クラスの中で美術作品を作りながら、周りの友達と一緒に領域横断的な活動をやるという。それが自分の中で共存しているような感じなんですか。

白川:そういう感じですよね。

鷲田:シュメーラ画廊に評価されたというのは造形的な作品。

白川:そうですね。ユッカーの紹介で他の画廊を紹介されて、シュメーラ画廊のところにいた秘書の人がシュメーラ画廊から自立して画廊を開いたんで、そこで、展覧会やらないか、っていって呼ばれたりして、個展をやったりしてたんですよ。

鷲田:なんという画廊ですか。

白川:最初にユッカーに紹介されたのは、アート・イン・プログレスっていう画廊で、ミュンヘンかどこかに本店がある画廊ですね。荒川修作をたくさん、ドイツで売り買いしてた画廊だと思うんですよ。シュメーラに次いで。ドイツの工業ブルジョアのコレクターが始めた画廊かな。その次に、ギャラリー・マイヤー=ハーン(Galerie Mayer-Hahn)。キキ・マイヤー=ハーン(Kiki Mayer-Hahn)という女性がやってる、シュメーラの画廊にいた秘書の人が独立して始めた画廊で、今デュッセルドルフにもマイヤー=ハーンはあると思う。結構大きな画廊になってると思いますよ。

鷲田:友達が、ジャンルを超えたり、町と繋がったりする活動をしていたのは、デュッセルドルフだとボイスの影響が大きかったのでしょうか。それともゼーマンとかも同じように。

白川:ボイスはある意味シンボリックな感じで存在しているわけで。例えばケルンの方に行くと、ポルケとかユルゲン・クラウケとかいるわけですよ。彼らもボイスには共感していたし、それからイミ・クネーベルとかね。ケルンはケルンで仲間がいて、ケルンにはアートハウスって言って、いくつもの画廊が集まっている建物があったりしたもんだから。それから変な画廊もあったな。ちょっとカルト的な感じの作品を扱うようなタイプの。ギャラリー・オッペンハイムっていう、ちょっとドラッグにかかってるようなおばさんがやってる画廊があったけど。メジャー指向のデュッセルドルフとは違うわけですよね。僕は自分の周りにいる連中と付き合ってて、アカデミーの中の日本人の関係とか、ユッカーの方に寄っていってどうとかっていうのは全然なかったですね。ヴッパタールにはヨーゼフ・ボイスのクラスにいた学生もいるんですよ。ボイスがアカデミーを出て行く時の写真があるんだけど、あの時にボイスの後ろにいるのが彼で、ヴッパタールでオルタナティブスペースと、ヴッパタールにはシュタイナー学校もあるんで、そういうところと連携して。シュタイナーの勉強をみんなでしようというグループもあったりしたんですよ。僕の周りの知り合いの若い連中は、ヴッパタールでぽつぽつそういうのをやってた。ドイツでも大きなアートコレクターだったフォン・デ・ハイムっていう、ヴッパタールの美術館を作った人。ヴッパタール出身の確か、工業ブルジョアで、ヴッパタールの銀行家でもあったと思うんですが、彼が、ヴッパタールの町のはずれの高い丘に別荘っていうか屋敷があったのを、市に渡しちゃったんですよ。それを若い人が借りて住んで。下はアトリエにして上を作家の人たちが住める住宅にして、みんなが住んで使ってて。そこに僕らの仲間も何人か住んでたんで。今でも住んでると思いますけどね。よく遊びに。ボイスや(ナム・ジュン・)パイクが最初にドイツでフルクサスのパフォーマンスやったのもヴッパタールですよね。ヴォルフ・フォステルが列車を停めた、あの(笑)。パフォーマンスやって。そういうのもあって、ヴッパタールにはアートコレクターが結構いたんですよね。そういう雰囲気が、小さな町だけどもあって。

鷲田:直接フォン・デ・ハイムさんとお会いされたことは。

白川:いや。フォン・デ・ハイムさんの家系の人たちはもう死んでいないと思いますよ。

鷲田:直接ボイスとお会いになったことはありますか。

白川:あります。

鷲田:いろいろ話しましたか。

白川:インタビューをして3時間ほど話しました。僕がデュッセルドルフに住む前にパリに住んでて、パリの時に知り合ってた日本人の友達が日本に戻って江古田で画廊を始めたわけですよ。ギャラリー・メールドっていうのを一緒に。僕がヨーロッパから資料を送って、それを向こうで展示したりとか、いろいろプログラムを一緒に組み立てたりして。ヴッパタールにいる友達が、イヴ・クラインの小ちゃなブルーのオブジェを東京の江古田で展示してもらったりとか。僕はその時、友達もいたから、時々パリにも遊びに夜行列車で行ってて。(クリスチャン・)ボルタンスキー(Christian Boltanski)にも会いに行って、ボルタンスキーが、昔、薄い小冊子を出しているんだけれども、自分の記憶を再構成するっていうパフォーマンスの記録の写真を。初めの頃の、ビエンナーレ出た時の作品だと思うんですけど、それを日本で展示したい、翻訳して展示したいがどうだ、とか言って、彼に許可もらって、日本語に翻訳して(注:クリスチャン・ボルタンスキー《しぐさについての再構成 1948-54》、1970年。12ページのアーティスト・ブック。)。それをギャラリー・メールドで、展示したりして。そういうことやってるうちに、どうせデュッセルドルフにいるんだから、ボイスにもインタビュー行こうか、みたいな感じで、ボイスに手紙を出して。そしたらボイスから返事が来て、会いますよ、っていうんで。僕らがやってるギャラリー・メールドの写真をつけて、送ったんです。彼から返事が来て、「クンスト・イスト・シャイセ。ダス・イスト・クラー(Kunst ist Scheisse. Das ist klar.)」みたいな感じで、「それに賛成」みたいな感じで、いつでも来いよ、みたいな。電話をして連絡して。ボイスは非常によく喋る人で、難しいっていうのは分かってたから。当然僕の英語とかドイツ語では駄目なんで。デュッセルドルフで僕が親しくしてた日本人の言語学やってる人で、ケルンの大学でドイツ人に日本語を教えてる人がいたんですよ。すごくよくドイツ語ができる人でね。その人にお願いして。その人と一緒に、ボイスに会いに行ってインタビューしたんですよね。その時は3時間位話をしましたね。初めてボイスの所に行って、場所は分かってたんだけどすごい高級住宅街、シックなところです。ユッカーもそこに住んでるんで。ドイツ人の成功している作家はみんなすごくいい場所に住んでいるですよ。リンケは小学校買い取って住んでるし。日本の作家と比べると本当に雲泥の差だな。入って、裏庭の中にあるアトリエに入って行って、入った瞬間びっくりしましたよ。ガッて扉開けて一歩入った瞬間に、見たら床が全部ね、牛の革張り。え、何これ、革張りの床じゃん、みたいな(笑)。本革初めてだったな。

鷲田:そのときのインタビューは冊子や本にされたんですか。

白川:しました。冊子にしました。ジャズ評論家の間章さんがやっていた『モルグ』という雑誌に何回かボイスの特集を組んで出しましたね。間さんとは東京、パリでよく会っていた。アトリエの写真も撮ったりしたんです。奥さんも一緒にいて。ちょっと話をしたりして。その時に彼が説明したのがあのドローイングなんですよ(注:白川のアトリエにボイスのドローイングが掛けられている)。人間の能力がキャピタル、資本なんだ、っていう話で将来はお金じゃなくて、人間のクリエイティブっていうか創造力を元にしたデモクラティックバンクができる、みたいな話をね、延々とあの時にしてたんですよ。その時は僕は正直言って、意味は分かんなかったですよね。ボイスは、誰でもアーティストだ、って言うんだけど。僕はまだそんなに理解してなかったし、誰でもアーティストだって言っても。僕の身の回りには、アーティストの人もいたりアーティストになれなかった人もいるから。いくらクリエイティブなものがあれば作家だって言っても、それで食えている人と食えてない人がいたりするし。アカデミーに来てる学生はほとんど野心もって来てるから。なかなか、「すべての人が芸術家だ」ということをどう理解したらいいのかというのは。今は僕少し違うけれども、あの時は、ボイスに、どうしてアーティストとアーティストでないのを区別出来るんですか、とか。創造力を預けるデモクラティックバンク、誰の創造力は10で誰の創造力が5とかね、そんな風に分けるのは誰がするんですかっていうね。お金がなかったら銀行はお金の管理ができないじゃないですか。その辺がどうしても、誰が、みたいなのがよく分かんなくって。ボイスは、そういう風な世の中になれば考え方が違ってくるんだ、って言うけど、よくわかんないなあ、みたいな。僕はそこはわかんないなあ、みたいな。ぐるぐる。そんな感じでしたよね。でも、非常に好意的だったし、その時に日本に行く気ありますか、って聞いたら、全然日本なんか行く気ない、って。なんで資本主義の国に行かなきゃいけない、って(笑)。そうですか、じゃあわかりました、みたいな。そんで何年かしたら西武に呼ばれて行ったから、「んん?」、みたいな(笑)。

福住:それは何年くらいですか。

白川:1979年だったと思いますよ。ちょうどその時ね、ボイスはアカデミーを飛び出してて、裁判があったりして。その年に確か、ウィーンのアカデミーに呼ばれてたんですよ。それが騒がれてて、行くか行かないか、みたいなね。とうとう彼は行かなかったんだけど。なんかそういうのが巷でも。

鷲田:アカデミーでボイスが教えてたとはいえ、アカデミーの学生が、気軽に話したり、一緒にお酒を飲みに行ったりという近さではなかったんでしょうか。

白川:アカデミーのプロフェッサーは誰でも気さくにつき合ってましたよ。ボイスも、リヒターも。ボイスはその時、学校にはね、一応立ち入り禁止なんですよ。彼のクラスはなくなってて、その代わりに、フライエ・ユニバーシティ、自由大学があって、そこで、ボイス親衛隊のミカエルなんとかっていう若いお兄ちゃんが、代わりに窓口にいたっていう感じなんですよ。ボイス自身は、学校には入れないし、来れなかったんですよ。でも一度、ジョージ・マチューナスが死んだんで、そのパフォーマンスをパイクとボイスが、アカデミーでやったんですよ。あの時はベルリンの画廊主のルネ・ブロックがアカデミーに、パフォーマンスを提供するっていう感じで、ボイスが初めて、何年か法律的には立ち入り禁止だったのを、その時に来れる形になって。それは僕は見ましたよ。

鷲田:それはインタビューに行くよりも前の話ですか。

白川:前の話ですね。かなりアカデミーの中は熱狂的だったですよね。久々にボイスがアカデミーに戻ってくる、とか言って。パイクとマチューナスのためのパフォーマンスやりましたね。

鷲田:ギャラリー・メールドと白川さんの関係はどういう関係だったんですか。

白川:パリの美術学校にいた時に、同じクラスにいた小西保孝君っていうのが作家で、なかなかの面白いやつで。彼はどっちかっていうと、写真とパフォーマンスをやってた。絵なんかあんまり描かなかった。日本人としては、あんまり見かけないタイプで。彼はパリにいても友達は売春婦とか(笑)。そういうのが友達で、ほとんどその売春婦の裸の写真撮ったりとか、そういうところ寝て歩いたりとかしてたんで。彼と気が合って、一緒にパフォーマンスをパリでやったりもしてたんで。彼は日本に帰って、江古田で日大のすぐ近くなんですよ。そこに部屋を借りて、そこのスペースを画廊にして(注:ギャラリー・メールドに関しては、以下の文献を参照。真武真喜子「メールドの頃」、『フィールド・キャラバン計画へ:白川昌生2000-2007』、水声社、2007年所収、pp. 71-89)。

鷲田:自分の住んでいるところを画廊としても開放しているんですか。

白川:そこで展覧会をやって。それで、企画を彼と一緒に、連絡取りながら、立てて。

鷲田:そのころ白川さんはデュッセルドルフにいて、小西さんは東京にいらっしゃって、連絡し合って、どういうことしようというのを考えて。

白川:彼はアルバイトしながらやってたんで。なかなか経済的に大変だったりしたんで、ときどきは展覧会もやれなくなるっていうか。貸しスペースでお金とることはあんまりやってなかったと思いますね。ほとんど自分の気に入ったやつやらして、後は自分でやってたと思うから。そういうので、何かないか、っていうから、僕がアイディア出して。その時は『美術手帖』に展覧会の行事の告知を出してたんですよ。何週目にはこれやります、みたいな。だからたとえ画廊がやってなくても『美術手帖』には出てたんですよ、案内が。それが面白いんじゃないか、みたいな感じで。やってないんだけど、『美術手帖』の活字の上、みんなが読んでイマジネーションの中では画廊の展覧会が開けるっていうのは面白いんじゃないか、それをやろうって、そんで書いて(笑)。

鷲田:実際に行ったらやってないんだけども、やってますっていう告知だけ『美術手帖』に載せるっていう。

白川:そうそう。『美術手帖』も別にそういうのチェックもしないから。いいよ、どんどんやっちゃえばいいよ、みたいな感じで。こんなのやってますって。

鷲田:どうせ人もそんなに来ないし(笑)。

白川:そういうのもやってたんです。彼はそういう感じで、OKやるやる、って。僕もこういうのいろいろ書いてやってて。展覧会の内容は、例えば終戦記念日が近づいてきたら、敗戦忘れた、このままでいいのか、みたいなやつとか。関東大震災の日が近づいてくると、震災を忘れちゃだめだ、みたいなやつとか。イヴ・クラインやったりとか、ボルタンスキーやったりとかボイスもやったりとか、パリの青年ビエンナーレの時の資料を出したりとか。いろいろ、ヴッパタールの友達の作品とかね。彼は彼でいろいろやってて、マルセル・デュシャンの便器をまねして、マリリン・モンローの便器とかいうのを展示して、どっかから便器借りてきて。寺山修司かなんか見に来たってって。それで「イレブンPM」から電話があって、あの時代はまだあったんですよね、確か。そういうところから電話があって、作品を取材したいとかいって、そしたら「白川くん、作品取材したいって言ってきたんだよ」って。「バカヤロー、来るんじゃねえって断ったよ」って。ははは(笑)。そういうやつで。

鷲田:小西さんと白川さんの二人だけでされてたんですか。

白川:あとは仲間とかね。うちの家内とか日本に帰ってたから。その他の人がいろいろ手伝って。今、知られてる作家って言うと、そうだなあ、折元立身、剣持和夫。折元がまだニューヨークにいてね、無名だった時にギャラリー・メールドで展覧会やりましたよ、2回くらいやったかな。剣持は良く遊びに来てた。

鷲田:いつ頃までやってたんですか。

白川:資料がどこかに……、探せばでてくると思ったんだけど(注:3回目のインタビューにて拝見)。小西君が経済的に困窮しちゃったから続けられなくなっちゃったんですよ。(『フィールド・キャラバン計画へ』を取りだして)こういう感じの雰囲気のね、画廊だったんですよ。だから、近所の人からね、おかしい人が住んでるみたいな、近づかない方がいいみたいな。

福住:「メールド」ってどういう意味なんですか。

白川:メールド。糞。フランス語の糞(笑)。大便画廊って。

福住:1979年って書いてありますね。

白川:そう、1979年。

鷲田:ボイスの展示をやったのは最後の方なんですね。

白川:そうですね。自分たちでこういう出版物みたいなものも、手書きなんだけど作って。コピーでやってたんですよ。メールドだけの冊子がどこか探せばあると思います。そういうあり得ない空想展覧会。お金のかからない空想展覧会。

福住:小西さんっていう方は今どうされてるんですか。

白川:吉祥寺辺りでたまに見かけるっていう人もいるなあ。若い人にカリスマみたいな感じであの当時人気がちょっと出たんだよね。すごい変な格好をして、うろうろしてて。変な、アラーキーとか関わってた雑誌に大きく取り上げられて、彼出たりしたんだよ。そういうところで一時期人気が出て、変な写真一杯撮ってたよ。女子高生のスカートの下測ったりとか。そういうので出て。風貌もね、異様な風貌してたから。そういうのがあって、結構ファンもいたよ。それから、高橋巌さんとか結構親しくしてたな。

鷲田:高橋巌さんって(ルドルフ・)シュタイナーの本を書かれた。

白川:そうです。シュタイナー研究者の高橋さんにも日本に戻ってきた時には会ったりしましたね。あの頃は鎌倉でミカエルの会というのを高橋さんはやってました。僕はパリにも行ったり来たりしてたから、パリの方では、ブフ・ドュ・ノールって言って北駅の近くに劇場があって、そこにロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの劇場があるんですよね。誰だったかな、イギリス人の演出家、すごく有名な。映画も作ったり。マルキ・ド・サドとかで映画作ってる。ちょっとど忘れしちゃったな(注:ピーター・ブルック)。そこに音楽担当として土取(利行)君っていうのが入ってたんですよ。近藤(等則)君と一緒にジャズやってた子が。今もう日本に戻ってきてやってる土取君がそこにいて。彼のところに遊びに行って。彼の関係で、田中泯とかね、ああいう人たちも来てたりしてたんで、小幡(和枝)さんとか。田中泯がパリに来た時の公演した時の通訳を僕が初めちょっとやってたんだけど。その後僕はデュッセルドルフ行っちゃったから。僕の後は宇野君にお願いしたんですよ。宇野邦一。あの時パリにいてよく知ってたから。彼のところにごろ寝して、あの部屋で寝てて、こっち側ではみんな勉強会やってて、(ジル・)ドゥルーズの『ミル・プラトー』かなんか読んでたんだと思うよね(笑)。

福住:リアルタイムですね。

白川:そうそう。宇野君がパリ大行ってたり、京都大学から来て。僕の中では、ドイツに行って、いろいろとやっていく中で、自分の考え、経験から、日本の現代美術について、言葉にしたようなものを書いた方がいいのかなみたいな気持ちが起こったりしたんですよ。それは、ドイツ人とかフランス人とかと付き合っていく中で、日本の現代美術ってこんなんだよ、って言う時の元のツールになるようなものがなかったんで、それを作っておく方がいいななんていう気持ちがあって。それで『日本現代美術序説』をデュッセルドルフの時に書き始めたんですよ。ちょうどデュッセルドルフでアカデミーから、ユッカーのクラスだったんだけど僕は奨学金をもらったんで、100万円くらいもらったのかな。それと航空券もらって。航空券は日本一度に帰ってみようかって、それでその100万円のうちで。

鷲田:その奨学金は前におっしゃっていた銀行家からの奨学金ではないんですよね。

白川:そうじゃなくてね。デュッセルドルフの美術学校は毎年4人くらいの学生を選んで、特別奨学金を出してたんですよ。

鷲田:アカデミーからの。

白川:そう、アカデミーからのサプライズみたいな。でも実は、それは日本の企業が出してるんですよ。日本の企業から補助を集めて、それをプールしておいて、それをデュッセルドルフのアカデミーの学生4人に100万円渡して、何にでも使ってよろしいみたいな。僕も100万円もらって。そのお金で自費出版しようとかいって、手書きで書いた『日本現代美術序説』を近くのアカデミーのそばにある、IBMかな、コピーの会社に行って、そこで20部くらいコピーしてもらって、製本して。ちょうどその時、日本に帰ることにしてたから、持って、日本帰って、『美術手帖』とかあっちこっちいろんなところに。日本語で書いてるから、送って。そしたら『美術手帖』に批評が出て、ぼろくそ(笑)。ぼろくその批評が出て。まあしょうがないかっていうふうな感じで。パリで宇野君にも渡して。それで宇野君と話してて、白川くんどうしようか、って。でも書いたんだからあれだよね、とか言って、年表も作ったんですよ、一緒にね。それをフランス語に宇野君がしてくれて、日本の大正前くらいから1960年代くらいまでのすごく大まかな流れみたいなやつを、僕は日本語で書いて、それをフランス語に宇野君がしてくれて。宇野君がプラス自分でも書きたいって言って。それで、日本の前衛は誰が殺したか、みたいな論文を書いて。フランス語にして。彼が『カナル』っていうフランスの美術雑誌に持ち込んで、フランスの雑誌に、こういう大きなアート系の雑誌に出してもらって(注:canal, no. 35/36, janvier / fébrier 1980)。そういうの宇野君と一緒にやったんですよ。

鷲田:それは内容を全ページ掲載してもらったということですか。

白川:そうそう。そういうのやってて、一応フランス語になって、6ページくらいかな。それをドイツの市立美術館のキュレーターが見て、ヨシオ、こんなのやってるんだったらドイツでもうちょっときっちりやれないか、って話で、じゃあ資料集めるお金を出してくれれば、日本帰って集めます、みたいな感じで。で、プランが始まったんだけども、でも、日本語で最初『現代美術序説』書いて、日本に送った時に全然無視されて、酷評だったわけですよ。デュッセルドルフにも日本に関係持っている連中が何人もいるから日本から来た国費の人とか人たちが『美術手帖』ちゃんと読んでるから(笑)。『手帖』の批判は正しいよね、みたいな感じの。くそー、みたいに思ってたら、ある時にハガキが来て、『日本現代美術序説』を1冊欲しいという人が来たんだ。その人が初めで最後だったですよ。注文がきたのは。物好きなやつがいるなあっていう感じでね。それが、阿部先生だったんですよ。

鷲田:阿部良雄。

白川:しばらくして、2、3ヶ月かしてから突然僕のデュッセルドルフの家にコレージュ・ド・フランスかなんかから招待状が来て、阿部良雄が日本のモダニズムについて講義をするからそれに来てくれとかっていって、招待状が来たんで。宇野君に連絡して、俺コレージュ・ド・フランス行ったことないし、初めてだから行ってみようかなみたいな。宇野君と一緒に阿部先生のコレージュ・ド・フランスでの講義を聞きに行ったんですよ。

鷲田:その時、初めてお会いになったんですか。

白川:その時、初めて会った。その講義の中で、阿部先生が、『日本現代美術序説』から文章を引用して、使ってて。そこから阿部先生とつながりができて、その後阿部先生が日本に戻ってからかな。パリでのコレージュ・ド・フランスでの講義を元にしたやつを、『朝日ジャーナル』に連載で、日本のモダニズムかなんかの連載で書き始めたんですよ。その中で『日本現代美術序説』を引用して、こういう研究してる人がいるっていう。阿部先生が、「『美術手帖』で白川くんの文章が、ああいう風にけなされてたから、けなされてるのは僕は良いことだと思いますよ」とかって、阿部先生が言って。「みんながああいう風にして認めないっていうのは良いことですよ」って。「だから僕は読んでみようっていう気になりました」って。

福住:それは誰なんですか、書いたの。

白川:和光(大学)にいる、三上さん。俺、永澤峻から聞いたんだよ、それ。同じ早稲田でしょ、確か、あの人たち。永澤さんってストラスブールにいたじゃない。だから人間関係がずっと変なところで繋がっちゃうんだよね。

鷲田:三上豊さんですね。

白川:あの時確か三上さんは編集だったと思いますよ、BTの。それから阿部先生にいろいろ世話になって。ともかくはドイツの方からもフランスの『カナル』見て、ドイツでもそれをきっちりやろうぜっていう話になって。「日本のダダ」っていう展覧会。現物はないからドキュメンタリー、写真の展覧会でやりましょうっていうことで。ちょうど日本週間っていうのがあるからそれにひっかけてやれば予算がとれるだろうっていうことで、1983年まで目標で始めたんですよ。僕が2回くらいかな、日本に戻ってきて。資料集め。それがなかなか大変だったですよね。資料集めが。一応デュッセルドルフの美術館の1983年にこういうのをやりますっていう、お墨付きみたいな紙は持って日本に来たんだけども、僕を知ってる人は誰もいないから、誰あなた、みたいな感じで。全然歯車が合わない。最終的に阿部先生がそれじゃあだめだから、委員会を作らなきゃだめだと思いますよ、とかって言われて、じゃあ展覧会のための委員会っていうのをつくらなきゃって。阿部先生が一応、声かけてくれて、針生(一郎)さんに声かけてくれて。もう一人、やっぱりストラスブールの時の繋がりなんだけども、ストラスブールの時に学生運動やってた連中があの当時は流れてきてて、親しくしてたのがいて、彼なんかの関係で僕は、初めてストラスブールで吉本隆明全集なんか読んだんですよ。で、吉本隆明のことが頭にあって。僕はパリに行った時に、吉本隆明に手紙を書いたことがあったんですよ、したら返事が来たりして。吉本さんとは何回か手紙のやりとりをしたことがあって。「日本現代美術序説」ができた時も吉本さんに送ったんですよ。吉本さんに今度日本にこういうので帰りますから、一度お会い出来ますか、って言ったら、いいよ、って言うんで、吉本さんに会いに行って。委員会を作んないといけないということなんですけどって、ああそうかい、って、美術関係で知ってる人がいたら紹介すればいいんだな、って言ってくれて。中原佑介。彼が知ってて。名古屋の予備校で、河合塾の関係で知ってるとかって言って、中原さん紹介してくれて。吉本さんの家に行って、しばらくその話して。それから具体美術の方は、乾(由明)さんかな。それも阿部先生とか針生さんの関係の方から、紹介してもらって、乾さんに会って。あの人まだ京都大学の先生だったかな。神戸の自宅の「はり半」まで行って。まだ屋敷っていうか料亭があった時で。はり半の料理食べさしてもらいましたね(笑)。具体の資料を集めるための紹介をしていただいて、ぼつぼつと針生さんとか中原さんとかを通じて、中西(夏之)さんだとかいろいろ具体的に作家の人たちに今度は会っていって、話をして、写真資料を集めるというか、やっていたんですよ。

鷲田:その展覧会のキュレーターと考えていいんですか。

白川:キュレーターっていうか、まあそんな感じですよね。本があって、それをビジュアル的に見える形にしてみよう、っていうことで。『日本現代美術序説』の本自体は、大正時代のマヴォのグループと具体グループを比較するような感じと、今の問題を絡めて。1960年までの流れを書いた文章なんで、日本の美術の中でどうして、造形の問題と、政治の問題と、なぜ、そうはっきり分かれてしまうのかということ。ヨーロッパの美術を見ていると、まだ造形と政治、社会の問題の間に行き来があるんだけども、日本の場合なんでこんなに、はっきり分かれてしまって、お互いの中でやりとりがないんだろうかっていうことで。その典型的な例として、マヴォは政治的な問題を意識して考えて、共産党の問題とか。ところが具体美術協会の方はそういう政治的なものはなくて、もっと造形的な実験にどんどん進んで行く。1960年代になると、またマヴォみたいなものが戻ってくる。そういう回帰現象が起こったりする。1970年代になって、もの派になってくると、細かいところだけども、例えば具体美術の中で特に野外展やったりしたインスタレーションのものは、もの派がやったようなものとか、コンセプチュアルな作品、日本のその後のものに似たようなものがあったりするけれど。その関連性が評価されない理由とか。『日本現代美術序説』の書く出発点になったきっかけは、外国の人に伝えたいなと思ってもなかなか僕自身が知識がないのと、ちゃんとまとまった文献がないのが一つなんですよね。それで、いろいろ資料調べてたら、1970年代に彦坂(尚嘉)とか、あの辺が作った日本の現代アートの年表があるんですよね(注:彦坂尚嘉、刀根康尚編「年表:現代美術の50年」、『美術手帖』1972年4月号、5月号)。あれがなかなかよかったんだけども、あの中に、彦坂が総括で書いてたのが、美共闘の時代だったんだけども、君たちがやってきたアートは敗北の歴史だ、なんて言って。僕たちは資本主義の中で全部負けたって言う。でも、マヴォなんか大正時代の活動に対しても、具体美術協会に対しても、あんまり高い評価を与えてないわけですよ、彼らは。僕はそういう気持ちは分かるんだけども、今の時代もう少しグローバルに考えると、もっとマヴォの問題を造形的に考えてもいいし、政治的にもきちんと考えてもいいんじゃないかとか。具体美術協会の問題をいろいろきちんと分析して、やっていく必要があるんじゃないかとか。そうしないと、日本の美術の、前衛的な流れが全然見えてこないってことなんですよね。そこが一つのポイントでもあったんです。僕の「現代美術序説」の中では、彦坂が言ってた、我々の敗北の歴史、ていうものの総括が本当にそれで良いのか、っていう。それが出発だったんで。その点では、ストラスブールの時に読んでた、吉本(隆明)さんの『言語にとって美とはなにか』とか、『共同幻想論』とかね、ああいうのがやっぱりベースで。敗北だけじゃなくもう一度組み替えて作り上げて行くようなことを、始めないとだめなんじゃないかとか。誰も書かないんだったら、僕が書きましょうみたいな(笑)。こう、書いたのがそれなんですよね。それをビジュアル的なものにともかくする、っていう。

鷲田:展示はどのくらいの広さを使ってされたんですか。

白川:そんなに広くないですよね。市立美術館自体がそんなに大きな空間じゃないから。

鷲田:今、「K20」になっているところですよね。

白川:奥の方、州立美術館(注:「K20」)じゃなくて、市の美術館(注:Stadtmuseum Landeshauptstadt Düsseldorf)。1940年代のナチスの時代に建築された、あのスタイルの建物で、通常は、見本市会場かなんかに使ってたんですよね、前は。今は使ってないと思いますけど(注:1991年に移転)。町の中で公園のはずれの方にある、背の低い2階建ての赤煉瓦の建物なんですよ。正直言ってね、デュッセルドルフの政治的な力関係の中では、市立美術館っていうのは全然力が無いんですよ。ユルゲン・ハルテン(Jürgen Harten)のやっているクンストハレが一番発言力と影響力、SPD(注:Sozialdemokratische Partei Deutschlands、ドイツ社会民主党)と結びついている政治力があって、その次が、州立美術館ですよね。(ヴェルナー・)シュマーレンバッハが前に館長やってて、パウル・クレーなんかのコレクション持ってたりとか、今だとヨーゼフ・ボイスのコレクション入ってるけど。市立美術館はそういう意味では、コレクションが少ないし、あるけれどちょこっとね。基本、政治力が弱い。あそこの館長がFDP(注:Freie Demokratische Partei、自由民主党)なんで、お金を集められないんですよね。今は違うと思いますけどね。僕らの時には非常に、すごい弱い立場。政治的にも経済的にも、弱い立場の美術館だったんですよね。それもあっておそらく僕なんかに、好きにやらせてくれたんだと思いますよ。

鷲田:『カナル』のフランス語版を市立美術館の方がご覧になったんですか。

白川:はい。僕が持って行って、見せて。

鷲田:じゃあ、やってみろっていう風になったんですか。

白川:はい。

鷲田:展示は、写真をパネルにして展示したような感じだったんですか。

白川:そうそう。初めからそういうので、現物は無いんで。インスタレーションとかパフォーマンスとか、そういうアクションみたいのが多いから、もう、現物ありません、みたいな。全部写真を持ってきて、写真で展示。だいたいこのくらい(A2くらい)の写真で白黒。それを、カタログの方には300枚くらい写真が入っているんだけども、展示用には150枚くらい用意したと思うんですよ。全部東京で手焼きで焼いて作ったんですよ(笑)。あとは具体と土方巽の映像です。これをビデオモニターで見せました。その時にいろいろ資料の選り分けなんかする手伝いを、阿部先生のお弟子さんだった松浦君に、寿夫君に。先生が紹介してくれた。

鷲田:期間はどのくらいだったんですか。

白川:展覧会は2、3ヶ月あったと思いますよ(注:5月18日より6月26日まで)。結構長かったと思うなあ。(カタログを取り出して)これがドイツ語版の。こういう風に地図も作って。基本的にこれは前に『美術手帖』に出た時のダイアグラムみたいなやつだったりして。あと年表も作ったんですよ、展示した時には。これは資料として作ったんで、僕の論文がどうとかっていうのはあんまり。中にあるけれども。阿部先生にももちろん書いてもらったけども。これに関係してた人たちの声をなるべくたくさん残そうとしたんで。具体の作家の人とか、1960年代の関係者の人にみんななるべく書いてもらって。大正時代の方は宣言文とかを中に入れて。なるべく資料として使えるように、一応はしたつもりなんですよ。これ、日本語からドイツ語にしたんじゃなくて、日本語から英語にして英語からドイツ語にしたんですよ、だから英語版があって。初めは、日本語、英語、ドイツ語、3ケ国語のカタログでいこうかなみたいな。でも、予算がなくてドイツ語だけになった。

鷲田:これの英語版っていうのは存在しないんですよね。

白川:存在しないです。テキストはありますけどね。

鷲田:ちょっと見せていただいていいですか。

白川:はい。まあ、日本語のやつもありますけどね。

福住:日本で白川さんが調査した時には、大学の研究所なり美術館の学芸員なりは、日本のダダはまるでフォローされてなかったっていうことなんですか。

白川:いや、まるでじゃなくってね、過去にはね、国立近代美術館の人とか何人かすでに研究してる人はいるんですよ。ただ、僕みたいに節度無く、大正時代の前衛、具体美術協会、1960年代、とかって3つ並べて比較して見れます、っていうふうにはしてないんだよね。みんな大正時代から戦争前まで、とかっていう話とかはしてるんだけど。僕は自分のヨーロッパでの経験から、絵画、彫刻っていうのはどうやってもヨーロッパの美意識というか概念に絡めとられてる部分がかなり強いから。なかなか自由にそこでは日本人が自分の何かを100%発露できないけど、こういうパフォーマンスとかドタバタになると、分け分かんないことが出てきて、その訳の分かんない気持ちとか、仕草とか、繰り返される活動、思考とか、そういうものが何なのかなというのを、本当は将来もうちょっと考えて欲しいなっていうのがあって、出したんですよ。

鷲田:この中には、白川さんはマヴォなど一部分に関して書かれていますけど、『日本現代美術序説』自体は、入っていないんですか。

白川:入っていないです。『日本現代美術序説』は完全に手書きで書いた本だから。

鷲田:『日本現代美術序説』は今はコピーとかで残ってたりはしませんか。

白川:ありますよ。手元にあります(注:3回目のインタビューにて拝見)。白黒コピー。針生さんが僕に言ったわけですよ。「白川くんね、日本のアヴァンギャルドとかっていうんだけど……」って。針生さんにすれば日本のシュールレアリスムの人たちとか、いろんなもうちょっと細かい、プロレタリアアートとか、そういうのが入ってない、みたいな。いろんな人から批判があったんですよ。特に日本の美術の専門家の人から。この展覧会じゃないけど、これはアマチュアのやり方で、プロフェッショナルじゃないし、学術的じゃないよとかって言ってね。『日本現代美術序説』もそうだったけども、これもぼろくそだった(笑)。みんなからぼろくそ。でも、ぼろくそだったんだけど、外国語になってまとまったのはこれしかなかったから、デュッセルドルフの美術館でやった時にいろんな人が見に来て。ゼーマンも見に来たし、マルタンも見に来たし、それからオックスフォードの、その後、森美術館の館長になったデヴィット(・エリオット)も見に来たしさ。みんな見に来て。この「日本のダダ」は、ドイツの雑誌『シュテルン』にも写真入りで取り上げられて出ましたね。

鷲田:すいません。マルタンっていうのは。

白川:前、ポンピドゥ・センターの館長だったジャン=ユベール・マルタン。後、他の美術関係者も見に来て。その後、ポンピドゥーの方は日本のアヴァンギャルド(「前衛芸術の日本 1910-1970」、Japon des avant-gardes )っていう大きな展覧会。あのときカトリーヌなんとかっていうのいましたよね。学芸員で。

鷲田:カトリーヌ・ダヴィット。

白川:そうそう。彼女もカタログが欲しいとか言って連絡が来たので、パリに行った時に会って直接手渡ししました。でも彼女の態度は横柄で、嫌いでしたね。

鷲田:日本語版もあるんですよね。

白川:あります。日本語版、(本棚から取り出して)これが最初のやつですね。

鷲田:内容は全く同じですか。

白川:そうですね。写真も同じですね。ただ、年表は入っていないと思います。テキストはそのまんま入れてありますけど。

鷲田:これは書籍として展覧会とは別に、出されてるっていうことですよね。1988年に。

白川:風の薔薇が、今、水声社だけども、出してくれて。その辺は松浦君がいろいろ、奔走してくれて。風の薔薇に話しかけてくれたみたいですよ。鹿島の出版の補助金にも出したんですけど、落ちたんですよね。その時、高階(秀爾)さんが審査員だった(笑)。

鷲田:これが出る前に、日本語版を出そうと申請されたんですか。

白川:そうそう。これは風の薔薇が出して。結局補助金がとれなくて、それでこういう高い値段になったんですよ。

鷲田:1988年に補助金をもらって、もう少し安い値段で出そうとしたんですね。

白川:そう。みんなに売れるようにしようっていうんで。

鷲田:展覧会は1983年ですね。

白川:そう。その年に日本に帰るみたいな感じになって。

鷲田:日本に帰られてからの話を伺ってもいいでしょうか。

福住:ちょっといいですか。さっき一番面白いと思ったのは、パンクの話で、白川さんとパンクってびっくりして面白かったんですけど。パンクのムーブメントとボイスのムーブメントの間に白川さんは立っていたということなんですか。それともボイスのムーブメントの中にパンクが入っていたということなんですか。

白川:ボイスの中にっていうか。割と若い人たちの動きに同調するというか、否定しないで関わってたのもあるし。当時デュッセルドルフの若い人たちの中には、保守的な人もいれば、そうじゃないカリカリしている若い連中もいたりしたんですよ。そういう連中はほとんどパンク系だったんですよね。僕がデュッセルドルフのアカデミーに行った時は、今だと想像出来ない状態ですよ、街中が。デュッセルドルフのアカデミーは飲屋街の隣にあるんですよ。飲屋街がたくさんあって、その中にクンストハレとか、画廊もあったりするんだけども。本当に新宿のああいうような通りですよ。僕なんか朝行くじゃないですか、路上に薬でラリッって寝てるのがたくさんいるんですよ。そういう時代、そういう状況の中だったから。革ジャンパーを着たおにいちゃんとかおねえちゃんが一杯いて。パリにいた時もね、パンクなんかやっている連中が結構いたし、僕の周りにはそういうのが多かったんですよね、付き合っている連中の中に。ファッションのやつもいたし。おとなしい人たちはそういう世界と関係ないんだけども、僕がいた方の世界はそういうやつばっかが多かったんだよね。その中に美術やっているやつも何人かいて、例えば、ボイスのクラスだったやつで、(ヨルグ・)インメンドルフとかってやつがいて、政治的なメッセージのある絵、へたくそな絵。ベルリンの壁ぶっ壊せ、みたいな絵とか。そういうの描いてたりとか。それからさっき言ってた、女の人でフェミニズム系の作品作っているカタリーナ・ジーフェアディンク(Katharina Sieverding)とか。社会に対して批判的なタイプの人たちがいたんだよね。ポルケは中心の一人だった。ボイスはこっち側にいたけど。ポルケの周りにはそういう人が多かった。ケルンに多かったですよ。今あんまり話聞かないけど、ミヒャエル・ブーテ(Michael Buthe)とかね。ドクメンタにも出たけど。中近東系の人たちの生活、いろんなファッションみたいなやつを作品にとりこんだサイケでエキゾチックな感じの作品。ドラッグ系だけど作ってるやつとかいるけど。そんな感じで。僕なんか毎晩ライブに行ってたけど(笑)。

福住:広い意味でのアナーキズムの連帯というか。

白川:そう、アナーキズムの連帯ですね。知ってるやつなんかでも、クラフトワーク的な音楽やってるやつも多いけど、コンピューターを使いながらピアノやってたりして、演奏、作曲もしてたりするんだけども。そういうやつでドラッグに入っていって、中毒になってて。僕らの仲間だったんだけども、僕も知ってたけど、そういうやつをなんとかしてやらなくちゃっていうんで。彼女がいて、看護婦さんやってた彼女は面倒見てて、そういうやつのところに行って、お前大丈夫か、って言ったり。そういう変なやつが一杯集まって、デュッセルドルフだけじゃなくって、チューリッヒとかパリ、ベルリン、ウィーン、アムステルダムとか、そういうとことにみんな仲間が行って来たり動いてたりしてたんで。ファッションの関係者も一人いたんですよ。パリのファッション関係の世界で、出入りしてるティトゥス(Titus)という名前のやつで。デザイナーに、デザインソースっていうかファッションの元になるようなものを、ヨーロッパのあっちこっち東欧とかいろんなところに、いろいろ回っていると古い昔の軍服とか昔の古いファッションの服とかあるんだよね。そういうのを専門に探して来て、それをパリに持ち帰って、パリの若いデザイナーとか有名なデザイナーに売りつけるやつ。それを生業にしてるやつとかいたんだよね。アンディー・ウォーホルがちょうどパリに来たりしてファッションデザイナーのモデルの、ベルギー出身のパンク系の女の子。その女の子と一緒に撮ってる写真とかさ。そういう女の子を、ファッション系の女の子たちとかそういう風な仲間のところに、フランスのどっちかって言うと、金のないやつとすごく金のある外交官とか、上のエリート層の息子連中、放蕩息子みたいな、連中が一緒になって、遊んでるわけだけど。そういうところ出入りしたりとか。そういうのとかみんなパンク入ってるんだよね。

鷲田:パンクというとロンドンのイメージがありますけど。パリとかチューリッヒが中心なんですか。

白川:パンクはまずロンドンのイメージがありますね。でも、ロンドンだけではなくて、パリ、デュッセルドルフ、ケルン、ベルリン、いろいろなところにもいて、みんな同じような、スタイルしてたりしてて、みんなアナーキーな感じで。一種あの時代の動きの一つですよね。絵画とか彫刻とかもういいよみたいな感じとか、もっとアナーキーに何かやらなくちゃみたいな。そういう流れの連中で、パフォーマンスから共同体とか、動きになっていったやつが。僕なんか知っているやつは、自分たちでトレーラー、大きな車トラクター、買い取ってその中に放送設備を全部備え付けて、放送ジャックやったりとかでドイツ中回っていたりとか。どんどんそういうやつらが、いろんな国籍の奴らが入ってくる。中近東から、ロシアのまだベルリンの壁がなくなる前だった。ロシアのやつとかいろんなやつが来てアナーキー状態みたいになってて、そういうやつが、西の文化と東の文化が一緒になってならなくちゃいけないんじゃないの!、とか言って。そうだ、みたいなこと言って。ちょうど僕なんか日本戻ってくる前だったかな。もっと過激な状態のグループを彼らが作ってて。イギリスにある、ストーンヘンジってあるじゃないですか。あの辺に大きな石があるじゃないですか。あの中の一つの石を、でかいトラックに積んで、この石をチベットに持って行こう(笑)。そういうプロジェクト立てて。そいでみんながそういう連中が参加して、ずうっとその石を運んで行って、ローマでパプがその石に聖水かけている写真とか出てますけど。ずうっと中近東通って、チベットの方まで持って行って。途中お金なんか、補助金とかとってなかったと思うから、マイクたちの話を後から聞いたんだけども、他所の車のガソリン盗んだりとかね。ずっと泥棒生活しながら(笑)。そういうやつが僕の周りにいたから、デュッセルドルフにいる日本人の作家の人、竹岡(雄二)くんとかさ、西川(勝人)くんとかさ、植松(奎二)君とかさ、正統派の作家とはほとんど関係なかったんですよね、付き合いが。

鷲田:日本に帰ってこられて、すぐに前橋に来られたんですか。

白川:いや、前橋じゃなくて最初は、龍神村に行ったんですよ。和歌山県にありますよね。高野山の真裏。僕が1983年に「日本のダダ」の展覧会やって、その時に具体美術協会の人はね、割と興味を示してくれて。できたら展覧会もやりたい、という話になって。美術館ではやれないんだけども、アートハウスというか、今で言う3331 Arts Chiyoda みたいなタイプのがあったから、リンケのクラスを出た若い作家が住んでる。そこの連中とも僕は親しかったんで。

鷲田:それはどこにあったんですか。

白川:デュッセルドルフ。作家が自分たちで運営している、そこでだったら展覧会ができるよってことで。それで具体の人たちに、嶋本昭三とかね。村上三郎とかあの辺のだけども。彼らが展覧会もやりたいって言うんで、ものを送ってきて、そこで展覧会をやったんですよ(注:「具体の五人」展、ヒルデブラント・スタジオ、1983年)。その時に僕が日本に帰るかもしれない、っていう話をしていて。関西の龍神村で芸術村構想があって、そこで村長さんを探しているから白川さん村長にならないですか、って言われて、田舎だったらうちのやつにもいいだろうし、いいかな、みたいな感じで、行ってみます、って。そこ行ったんですけども、行ったら全然話と違ってて、大変だ、みたいな(笑)。生活の手段が無いし、何も無いなみたいな。

鷲田:最初に龍神村を紹介してくれたのは具体の関係の人だったんですか。

白川:そうです。具体の嶋本氏です。

鷲田:具体の人たちはその芸術村構想に関わっていたんですか。

白川:少しだけ関わっていたようです。あとから分かったことだけど、関西の方だと、嶋本昭三とかあの辺の人たちは、結構社会的にも知られてるわけじゃないですか。自治体の方でもいろんなところで。大学の先生もしてたみたいだし、嶋本さんなんかは。しかし、具体の中でもいろんな人たちがいて、僕が現地へ行ったら、ある具体の人が来て、白川さん、これやめた方がいいですよ、とか言って、嶋本さんたちいない時に。全然話が煮詰まってないことなんだから、って内情を詳しく話してくれたわけです。それで、京都造形大かな、あそこに渡辺なんとかっていう建築家の人がいますよね。もう定年退職したと思うけども。縄文のなんとかっていういろいろ本書いたりした建築家がいるんだけども(注:渡辺豊和。1981-90年京都芸術短期大学教授、1991-2007年京都造形芸術大学教授。1987年龍神村民体育館設計。1986年『縄文夢通信』)。彼が芸術家村構想に関わってたみたいで。彼も来て、白川さんこれはお勧めできないからやめて他の方向を探した方がいい、とかって言うんで。僕も村の人とも話をしたんだけども、村の人は現代美術なんてもちろん興味ないから、どっちかって言うと工芸ですよね。工芸村。そういうのをやってほしいわけだね。椅子作ったり。杉の特産地じゃないですか、龍神村っていうのは。僕はそういうのできないし。それに僕は日本の大学出てないし、教職免許持ってないから、小学校の先生もやれない。小学校の先生のクチでも、とか言ってたんだけどそれも教職免許が無いから。それで急遽、ここじゃやれないっていうんで、すぐに決心して、別なところ探さなきゃって、いろんな人に手紙出したり電話して。前デュッセルドルフの時に知り合ってた人で、弟さんが群馬県の山の中の、学校で先生やっているっていう人に連絡がとれて。その人が、群馬県の山の奥の学校の美術の先生だったらクチがあるよ、とかって言ってくれて。急遽、ここ(龍神村)畳んで山ん中の方に行ったんですよ。

鷲田:龍神村にいらっしゃったのはどのくらいの期間だったんですか。

白川:1ヶ月くらいかな。

鷲田:そんなに短かったんですね。1983年に帰ってこられてその年の内に、というくらい。

白川:そうです。あっという間でした。

鷲田:行ってみて全然現実性が無かったという感じだったんですか。

白川:そう、現実性が無いし、初めの話では、生活していく手段は向こうでなんとかしますよ、とか言ってたんだけども。実際は、なんとかなりますよ、とか言われても、本当はなんとかならないんだよね(笑)。

福住:これって、アーティスト・ユニオンとか関わっているんですか。

白川:そうだよ。だからそれ以後だけども、嶋本さんとはすごく仲が悪くなったんですよ。いろいろ問題があって。だから、村上三郎とか他の具体の人とは問題ないんだけど、嶋本さんはちょっといろんな意味で、人格的な意味で問題だなあ、みたいな(笑)。

福住:アーティスト・ユニオンの事務局が嶋本昭三さんのところにあった時ですか。

白川:アーティスト・ユニオンの本部、嶋本さんのところ行きましたよ。甲子園のすぐ裏のところにある。そして、村上さんのところで泊まりました(注:嶋本昭三は、1976年よりアーティスト・ユニオン事務局長)。

鷲田:その後、龍神村の話は継続して、うまくいったんですか。

白川:どうなったのかな。分かんないですね。すごい過疎の村なので、具体的には村がお金を出せるかどうかが問題でしょ。そこに住む作家の人の生活。その辺がね。あるいは僕が関西のどこか学校か大学で先生やる、講師でもいいけどそういうクチがあればあれだろうけど、無ければ全然食べていけないから。おそらくこれはその後も流れたと思いますよ。木工やるとか、陶芸をやる工芸系の人が住めばなんとか続いたと思いますけどね。でも、同じようなことが群馬県の六合(くに)村でも(笑)。

鷲田:今おっしゃった群馬の山の中の学校っていうのが、井上(房一郎)さんのリゾート地ですか(注:暮坂芸術区)。

白川:そのすぐそばにあるんですよ。学校っていうか開善学校(注:白根開善学校)っていうのが。長島茂雄の息子(一茂)がいたっていう学校ですよ。日本の関東地域というか全国の暴走族の親分みたいな、若い子がいっぱいいて、おねえちゃんもいっぱいいて。

鷲田:そこは美術の学校ではないんですか。

白川:普通の、中等部高等部の学校なんですよ。

福住:そこは教員の免許はいらなかったんですか。

白川:うん。初めはね、いらないって言ってたの。給料も安かったしね。給料13万円しかくれなかったし。高卒の給料しかくれなかった。そのうち、2年くらいしたら群馬県の県の教育委員会から、教職免許をとりなさいっていう指導がきて、ムサビの通信行きましたよ、2年間。これはそんなにハードじゃなかったけどね。初めはハードだった。初めムサビの通信行った時、全部自費でやれ、っていうことだから自費で。勉強したら自分のものになるんだから、って言うんで。学校からもいろいろ言われたわけですよ。ドイツから戻って来て、どこの馬の骨か分かんないのをここの学校で拾ってやったんだからありがたく思えよ、みたいなことを何度も言われて(笑)。はいはい、って。うちの女房も、病気だったので、不安になってくるとよく学校に電話かけてきたりするわけ、うちのが。おかしくなったりして。で、授業が中断されたりとかいろいろあったりしたもんだから、もうこっちは何も言えなくて、すいませんすいません、って(笑)。ムサビに教職免許を取りに2年間行ったんですけど。まあ、ラッキーでしたよ。行って授業始まったら、担当の先生って何人かいるんだけども、油絵科の先生が来て、そしたら知ってる人がいたんだよね。デュッセルドルフの時にムサビから国費留学で3年間来てた人がいてね。え、白川くん何してんの、みたいな感じで、いやあこういう感じで教職免許取りにきました、って感じで。じゃあ、いいよ、他の先生にも言っておくから大丈夫大丈夫、とかって言って(笑)。彼今ムサビの学長になってるんだよ、甲田(洋ニ)さん。あの時甲田さんと会えて、すごいラッキーだった。

鷲田:その場所はここ(前橋市)からはなれた場所なんですよね。

白川:群馬の奥の草津温泉の少し手前なんだけども、標高1200メートルの山の中ですよ。完全にエネルギーショックのあと放棄された無人の別荘地。井上工業の暮坂芸術区もそうなんだけども。別荘地で人がほとんど住んでいない。下に昔からの小さい集落があるところですよ。

鷲田:この学校で教えていた時は、近くに住んでいたのですか。

白川:学校は山のてっぺんの方にあって、僕が住んでいた村営住宅が200メートルくらい下にあったんで、その間は車で行ったりとかで。初めは、学校の中に併設されているプレハブの食堂に住んでいたんです。食堂の横に。まあいろいろありましたけども。今から考えれば、すごくいいところですよ。1年の半分は冬だけども、秋が近くなって外に出ると、白樺がずっとなっているんだけも、鹿がよく出るんですよね。カモシカが。カモシカも野生のカモシカなんで。2メートルくらいまで近づいても逃げないんですよ。でかいんですよ、結構ね、高さ。大きいですよね、カモシカ。そういうのをね、家に帰る時によく見かけましたよ。いるから、近づいていって、2メートルくらいのところでじっと見てると、向こうも逃げないし。こっちも座ってこうして、カモシカ見てて。すごくきれいだしね。そういうの見てる時にね、ふと思ったりしたのは、ドイツのシュトラーセンバーン(路面電車)ってあるじゃないですか、電車が。電車にベネティクトとかっていって鹿のマークのお酒の宣伝があるでしょ。あれを思い出してね。ああ、そうかあ、みたいなね。あれ確か中世の時代、ヨーロッパでドイツの王様みたいなのが森の中に入った時に鹿に出会って、キリスト教的な啓示を受けるみたいな。そこから、お酒というか薬草というか、ああいうのができてきたんだけども。白樺の中で生きたカモシカ、角の生えたやつ見ていると、ドイツ人こんな感じだったのかなあ、みたいな。そういう生きているものと対峙して、人間の考えとか、合理性とか、そういうものとは無関係の、存在みたいな。そうなんだろうな、みたいな。そういうことを再確認したりしたから、なかなか良い体験だったと思いますよ。カモシカに何度も出会ったりしたのはね。

鷲田:その時は学校で教えながら、自分の作品も作ってらっしゃったんですか。

白川:作ってました。

鷲田:それは立体も含めてですか。

白川:そうですね。平面、立体。

鷲田:その頃教えてられた内容は、デッサンだったりとかですか。

白川:デッサンとか教えて、後は普通中学とかでやる美術の授業ですよね。陶芸の機械もあったから、陶芸をやったりとか。木工の機械もあったので木工を作らせたりとか。手作業がほとんどですよね。そういうおにいちゃん、おねえちゃんだから、口で言っててもだめなんで。ちょうど僕が行った時に、僕が入ったので前の先生が辞めるからっていうんで、1週間位その先生と一緒だったことがあるんですけどね。まだ僕より若い人だったけど、彼なんか学生の態度に頭きちゃって、授業中に、うるせえばかやろう、とか言ってゴミ箱かなんか生徒にバーンと投げつけて。生徒の方があれじゃないですか。すごいアフロのおにいちゃんみたいな感じとかおねえちゃんとか。

鷲田:割と小規模のクラスだったんですか。

白川:そうですね。クラスは大体、20、30人くらい。でも日本中から来てましたよ。政治家の息子とかも結構多かったですよね。大学の先生の息子とかもね。ちょっとどっかでこう、何かなっちゃった。

福住:全寮制ってことですか。

白川:全寮制。だからねえ、よく言われてたのは、ここの学校は開善学校じゃなくて、改悪学校だよね、とかって言って(笑)。みんなさ、寮の中ではお酒飲んだりとかやってたみたいだし。女子寮とかも男の子出入りしててさ。大変だった。そういうのもあった。授業になって、あいつ授業来ないじゃないか、とかって、白川先生が呼びに行って、女子寮に行って、おーいいないのか、とかって、入って行くぞ、とかって行ったら、中から裸の女の子と裸の男の子がバーッって出て来たりして(笑)。そういう学校でしたよね。お金はみんな持ってるんだけどね。ブランド物みんな着てるんだよね。着てるものはすごい。国会議員の二階堂議員の第一秘書の息子とかね。

福住:1980年代初めですよね。

白川:そうそう。自民党の人とかね。その学校は群馬県で一番ダントツに補助金が高い学校なんですよ。

鷲田:私立の学校で補助金をもらっているということですか。

白川:そうそう。

鷲田:そこはどのくらいの期間教えていらしたんですか。

白川:6年間いましたね。

鷲田:つまり、1989年頃まで。

白川:そうですね。

鷲田:そこで教えた経験が、その後のご自身の活動に関係する部分はありますか。

白川:まあ、教えていたというのはどうなのかな。他の人は分かんないけど、僕にとっては、おにいちゃんおねえちゃんたちは違和感が無くて。ドイツにいた時はもっと過激な連中が一杯いたから。全然、パンクとかって言ってるんだけども彼らは、お前らパンクじゃないよこんなの、みたいな。逆に僕なんか、セックスピストルズなんかのレコード持ってたりとかして、これがそうだよ、とかって言ったら、本物のやつだ、とかいって(笑)。得たものがあるとしたら、その学校の中に、そういうおにいちゃんおねえちゃんもいたんだけども、障害の子供たちもいたんですよ。障害の子供たちも僕は美術の授業で一応見てて、そっちの方がいろいろ勉強になりましたね。具体的にどういうことかって言うと、木造なんですよ学校の建物は。地元の杉材を使って、やってるんで。地元にお金を還元しなきゃいけないから。地元にも大工さんがいるんで、村に。頼んで建てる、なるべく村の材料を使って建物を建てる、みたいな。そういうふうにしてて。いろんな障害の子供たちがいて、ある時、冬はすごく寒いんだけどダルマストーブなんですよね。一応、美術部っていうクラブをつくってて、それは障害の子供たちが入ってて、他の子は入らないんですよ。興味ないから。障害の子たちが入ってて、それを僕が時々放課後面倒みるみたいな。美術クラブに一度、みんな寒いから(ストーブ)用意しとけよ、とかって言って、はーい、とかって言って、行ったら、床が板張りなんだけどダルマストーブあるじゃないですか。燃えてんだよね(笑)。

鷲田:床が。

白川:そう、床が燃えてるわけ。ダルマストーブの中の薪が出てる。子供が見てるんですよ。お前火事じゃねえかこれ、って。まあ、消したんですよ。そしたら、次もなるんだよね。どうしてこうなるんだ、って聞いたら、その子は火に興味があって、火つけてんだよね。初めてね、ああそうか、燃える、っていうのに興味があるんだこいつは、って。初めて納得、みたいな感じで。でも、初めそれ分かんなかったから、誰がこんなことしたんだって、ばかやろうとかっていってボコボコ殴っちゃったりしたんだよね。学生は、すいません、とか言ってたけど。2回目とか、同じことになるから、その辺位からね、これは良い悪いの問題じゃないな、みたいな感じで。ともかくはこっち側の管理もちゃんとしないとだめだってことで。よく本人とも話して、本人の様子を見て、その仲間にね、あいつが火を使うようになったらすぐ連絡してくれよ、とかなんとかって、そういう風にしてコントロールするようにしてやったりとか。あと自閉症の子もいて、多動症っていうか手がこうなったり(震えたり)、あっち行ったりこっち行ったりしてる子がいるんですよ。その子がね、よくあるじゃないですか。自閉症の子で、例えば、2010年の5月10日は何曜日、とかって言ったら、水曜日、とかっていう、そういう能力があって。誰々先生の誕生日は何年何月何日何曜日って全部知ってて。そういう特殊能力がある子がいたりとか、そういう子たちとの付き合いの方が、結構いろいろ刺激的だったですよね。今でもね、その時に子供たちを扱ってた先生がいるんだけども、筑波大出て。その先生は、僕がやめちゃった後だけども、校長とあんまりうまくいかなかった、僕もそれを知ってたんだけども。結局子供たちは卒業していくわけじゃないですか。そしてまた新しい子がくるんだけども、彼はどうもそれに納得出来なかったんだよね。それで彼は、彼が扱っていた子供たちが卒業する時に一緒に学校を辞めて、そのいた子供たちで親に話をして、彼が一緒に引き取って筑波に共同体みたいの作っちゃったんですよ。今でもそこの共同体はお米を作ったり、野菜も作ったりしてて。その当時僕も知ってる火をつけたやつが35、36になってるのかな。だから僕なんか行くと、白川先生、とか言うわけですよ。お前もう火つけてないだろうな、とかって言って、やめてくださいぃ、とか言って(笑)。まあ、そういう風に一生面倒みようっていうんで、彼なんかそっちでそういうふうにやってて。だからそういう子たちのコミュニケーションの仕方とか、考え方とか保護者の考え方とかね。いろいろ聞いてたりとかして。非常に勉強になった。それで一つ事件があったんですよ。それは年に1回、夏休み前くらいに、学校で、グラウンドがあるんで、テントを張って、2日間くらいテントで過す行事があるんですよ。それをやってた時に、みんなで自炊をするんですよね。雨が降っても何が降ってもテントがあるから。障害の子供たちも3つくらいキャンプもってんだよ。その中の1つ、僕も親しかった、関西から来てる子なんだけども。その子はね、自炊から戻ってくる時に、みんながわあってなってて、雨もわあって降りはじめて、夕立が降り始めて。群馬の山奥は雷がすごく鳴ってすごいんですよね。どしゃぶりになって下がもうずるずるになっちゃって。みんなテントに帰んなきゃいけないぞ、とか言って、みんなわあっていって、帰っていったら、その一人の知恵おくれの子がね、足下が悪かったんでね滑っちゃったんだよね。そしたらね、滑った時にね、僕らみんな見てたんだけど、滑った瞬間ね包丁もってたんですよ。いっちゃったんですよ、首に。血がぱあって吹き出ちゃって。山ん中だからね救急車なんてね。連絡はしたけども間に合わないですよ。みんなが見てるしかないんだけども初めて人が死ぬというのを見ました。目の前でね。だんだん意識がなくなっていくんだよね。他では体験出来ないことがそこで。いやいやいや。そういう特別な場所でしたよね。

鷲田:そこを辞められるきっかけは何だったんですか。

白川:辞めるきっかけは、まあ、いくつかあるんですよ。一つは給料が全然上がんない。僕は13万円もらっていたけども、1年間に千円しか上がんないんですよ。6年間いて6千円しか。だから、食っていけねえなあ、みたいな感じで。やっぱり給料格差みたいなのがあるし。ほら、僕の場合は家内が病気持ってていろんなことがあるから、トラブルもあったりもしたし、それが一つですよね。あとは、医者の方からもっと暖かいところに引っ越ししないと心臓に悪いよとか言われて、それが一つ。もう一つは、6年間そこの山にいる間に、阿部先生なんかがいろいろ助けてくれたんで、東京で、モリス画廊なんかで展覧会ができるようになって、東京の方で作品を発表するようになったから、多少知られるようになったりして。それで群馬でも作品作ってるやつがいるんだ、みたいなことで。前橋の町の中の人たちが興味持ってくれて、山の方まで作品見に来て。それで、個展をやらないかって言うんで、煥乎堂で個展をやって(注:1989年、個展「海景」、煥乎堂ギャラリー)。町中で働ける場所を探してみようっていうんで、前橋の町の中にデザイン専門学校(注:北関東造形美術専門学校)を紹介してくれて、そっちに移るようになったんですよ。

鷲田:それが1980年代の終わりですか(注:1989年)。

白川:はい。

鷲田:それで、前橋に来られて、その時からこちら(注:2010年現在の自宅兼アトリエ)にお住まいなんですか。

白川:そうです。初めは学校にも寮があったんで、寮にもお世話になっていたんですよね。アパート探したりいろんなことやったんだけど、いろいろ問題があるから一軒家じゃないと無理だとなったんで。それで、どっか土地を見つけて住んだ方が良いだろうって、あちこち探して。その頃この辺はみんな畑だったんで。それでここにしたんですよ。銀行ローン組んで。

鷲田:ここで作品を作り続けて。

白川:いや、学校で、空いている教室があったんで。

鷲田:その後3年くらいして「場所・群馬」を立ち上げられたということですね(注:1994年、「場所・群馬」委員会発足、白川は代表となる)。その間の3年間はどんな感じだったんですか。

白川:デザイン専門学校の先生は、美術にすごく興味がある人で、小さなコレクションも持っていたんですよ。マルセル・デュシャンの《グリーンボックス》も持ってたと思いますよね。結構アートコレクションしてて、デザイナーなんだけども、地元でモダンアートの活動と1960年代のグループ「NOMO」の仲間の人たちと関係してた作家、デザイナーだったんですよ。

鷲田:その方はデザイナーなんですか。

白川:デザイナーです。校長先生がね、デザイナーで。

鷲田:その方がこの専門学校を始められたんですか。

白川:そうです。今から15年くらい前からかな、始めて。で、学校を少しずつ大きくしていって。その頃ちょうど日本で、専門学校の中に高等学校と同じような教育ができる制度を文部省が認めたんですよね。専修学校みたいな。そのデザイン学校は専門学校なんだけども、横に高等学校と同じようなカリキュラムのクラスを作って。それで普通高校に行けないような子供っているじゃないですか。それで美術がちょっと好きみたいな。そういう子を集めて、高等科のクラスを作ったり。僕はあそこの高等科のクラスと専門学校のクラスで基礎造形みたいなやつを教えてたんですね。でもこれは僕が辞める頃かな、1990年に学校やめるんだけども、その頃までにはこの専修学校もなくなっちゃうんですよ。だんだん人数が少なくなってきちゃって。

鷲田:1990年に辞められたんですか。

白川:1999年くらいかな。

鷲田:10年くらいは働かれたんですね。

白川:そうそう、10年くらい。

福住:小倉正史さんと出会ったのはこのデザイン専門学校ですか。

白川:それは阿部先生の紹介なんですよ。阿部先生が小倉さんを僕に紹介してくれて、こういう作家の人がいるから何かあれば面倒見てあげてください、って言って紹介してくれたんですよ。その後、「場所・群馬」の活動を始めるんだけども、その前にヴェネツィア・ビエンナーレとかを見に行ったと思うんだよね。その時に小倉さんも行ったんだよ。そういうののお金を学校が出したんですよ。

鷲田:そのデザイン学校が。

白川:まだ学生もたくさんいた時で、アート活動については学校が別枠でお金出していました。そうそう、ここの学校は2年後に移転したんですよ。町の中にあったのを、学校ばっかりが集まる開発地区があって、市の方が都市計画で誘致したんだよね。他の学校もあるんですけども、その中に大きなコンクリートの学校を作ったんだよね。そこに併設して、校長の夢だった美術館っていうか、展示室を併設して作ったんですよ。大きな空間を。デザイン学校としてはデザインをやっているんだけども、美術にも興味があるわけだよね。展示場を作って、学生の卒業展もあるんだけども、そこの空間をいろいろ使っていきたいということがあって、それで僕なんかが地元の若い子たちに声をかけたりして、展覧会を企画していこうか、みたいなのが、「場所・群馬」を始めるきっかけになったんだよね。

鷲田:2年後に移転したというのは、白川さんが働き始めてから2年後ということですか。

白川:そう。ただし複雑でね、ここの学校は校長先生が男の人なんだよね、デザイナーなんだけども。理事長が奥さんなわけ。ペアで学校を運営してたんですよ。二人とも地元の先端的アート活動にかつては関係してたんだよね。地元の群馬のアート関係に。群馬の中にはいろんな関係があって、結局その動きの中から彼らは、外れちゃったっていうか離脱したわけ。そういうわけで、地元のアートの関係の人たちとギクシャクした関係があったんだよね、非常に。旦那さんは温厚な人なんだけど、理事長はめちゃくちゃワンマンなんだよ。お金の計算がすごくシリアスで良く出来るんだけど、性格が激しくて、ものすごく大変なんだよ。だから、僕なんかが地元の若い作家集めて展覧会やりたいですね、なんて言ったら、それにはぜひ援助する、とかって言うわけ。援助してくれるんだけど、私にも一言二言言わせろ、っていう感じなわけ。もう大変だったんだよ。全然うまく行かないわけ。僕には直接文句は言わないんだけども、他から若い作家が来た時に、その女の理事長さんは攻撃的なわけ。なんであんたはそんな作品作るの、とか言って吟味していって、ああいう作品を作る人はだめね、とかみんなのいるところで言うわけですよ。そういう人だったからね、市との関係も難しくてね。そういう中で、小倉さんが来たけれど、いろいろ問題があって。ほら、小倉さんは奥さんがフランスに住んでたから。生活の問題も出て来て。小倉さんもデザイン学校で常勤で働くってことになったんだよね。小倉さんと現代美術研究所みたいなものを作ろうっていうことになって。一応作ることになって、それは夜学になっちゃったんだよ。僕は昼も夜も働かなくちゃいけなくなって(笑)。給料は上がんないんだよ、もちろんね。

鷲田:現代美術研究所っていうのは、デザイン学校の中にですか。

白川:中に作った。そこのディレクターが小倉さんで、一応は小倉さんが企画を立ててみたいな。でも小倉さんは時々いなくなるので、僕が毎日学生と付き合ってきたわけです。

鷲田:小倉さんを呼んだのは白川さんというわけではないんですか。

白川:阿部先生の紹介のあと、僕が声をかけて、まあ、小倉さんの方からも話があって、生活の問題もあるから。それに見合う給料も出してあげてというような。まだ、バブルがはじける前だったから学校に余裕があったんだよね。

鷲田:小倉さんが来られたのは新しい場所に移転した後ですよね。

白川:そう、後です。それで、空間もあるし、僕が古い臨江閣という場所を使って展覧会をすでに始めていて、それで小倉さんなんかとも一緒に学校の美術館と外部の空間を使い、やり始めて。小倉さんのつてで、初めてサルキス、カトリーヌ・ボーグラン、フィリップ・ラルーなどフランスにいる現代作家とか呼んで展覧会するようになったんだよね。

鷲田:臨江閣とは。

白川:県庁のすぐそば、利根川のそばにあるんですよ。明治にできた建物なんですよね。もともと、ここは絹の産業でできてて。絹の織物の組合が、天皇が前橋に来るって言うんで、そのために作った迎賓館みたいな建物なんですよ。それがそのまま残っていて、その後は公民館のように使われていたんだけども、しばらくして1970年代くらいからは全国に公民館もできたし、いろんなものができたんで、利用価値がなくなっちゃった。古い建物だけど人があんまり使わなくなっちゃった。それをもう一度展覧会場として使えるんじゃないかということで、ぜひやってみましょうって提案をして。

鷲田:白川さんの方から展覧会場として使いたいという提案をされたんですか。

白川:はい。

鷲田:これは前橋市が管理してたんですか。

白川:そうです。市の教育委員会が管理してて。

鷲田:使ってないからどうぞというような感じですか。

白川:まあ、その辺は結局理事長と校長。デザイナーである校長が前橋市の仕事をたくさんしてたんですよ。ポスターを作ったりとか、市のイベントの。だから、市の関係者をよく知ってたので、それで教育委員会の方に話が回って。使えることになったんですよね。でもそう簡単なことではなかったです。

鷲田:デザイン専門学校として、その場所を使って、ということだったんですか。

白川:そうそう、名目上はね。(実質的には)「場所・群馬」で使うっていうことで。展覧会をやり始めて、地元にいる作家とか足利にいる作家に声をかけながら、小倉さんも入ってきたんで、外国の作家もやったりとか。1998年くらいまでやったと思うんですよ。1999年頃いろいろトラブルがあって、小倉さん逃げていなくなっちゃったから、僕なんか大変だったんだけど。

鷲田:トラブルと言うのは。

白川:学生が減ってきて、学校経営がうまくいかなくなってきて、倒産状態になったということなんですよ。

鷲田:「場所・群馬」というのはデザイン学校とは独立したグループで。

白川:そう。それでやってたんです。

鷲田:「場所・群馬」が主体となってデザイン学校の展示スペースを使って展覧会をやったリっていうことはありましたか。

白川:あります。

鷲田:先ほどの臨江閣を使ったりとか。

白川:はい。ありますね。また学校の美術館も使いました。

鷲田:その時はデザイン学校からお金が出ているんですか。

白川:そう。出ている。お金は全部デザイン学校から出てたんです。お金も出てて口も、人選とか作品について、いろいろ横から出てて大変な時もあったんですよ、いつも大変だったけど(笑)。デザイン学校から出るというか、理事長が出すわけで、そうなると口をはさんできます。このあたりの独立性を守るのが大変でした。

鷲田:でも、デザイン学校とは独立した企画をする時もあったんですか。

白川:あったんです。それに、理事長さんとか校長さんの夢としては、デザイン学校もあるけども、美術学校を作りたいっていう夢があったんですよね。美術館もそうだけど。前橋に美術学校を作りたいっていう。それで僕なんかに、小倉さんも一緒だけど、パリの美術学校と提携をして、交換出来るようなアートスクールにしたいとか、そういう話とか。だからそれこそサルキスに頼んだりしてやったりとか。いろいろやって、でもデザイン学校の学生が交換留学で行くというわけにはいかないから、さっき言った研究所は特別クラスを作って、全国に募集して、群馬の中で現代美術やる私立の小さいところがあるから、(来たい人は)いますか、みたいな募集をして。それもほとんど学生があつまんなくて、結局うちの学校の卒業生で美術に興味がある学生が何人かいたんで、その子たちと。あとはたまたま岩手から来た子とか、そういうのが入ってやっていったんですよね。ある種、非常に偏った感じで、学生が集まんないとか、僕自身がメジャーな作家じゃないから出しても人が来るわけじゃないし。小倉さんがいたおかげでいろんな人が来たことは来たんですよ、見に。中村政人も若い時に来たかな。それから島袋(道浩)くんもよく来ましたね。

鷲田:「場所・群馬」のグループは全員で10人くらいだったんですか。

白川:はじめはもっと多かったと思いますよ、いろいろいて。

鷲田:20人とか。

白川:うん。そのくらいいた。グループっていうよりも、そこに賛同して一緒に展覧会やりましょうっていって始めたので。

鷲田:じゃあ、みんな作家っていうことですね。

白川:そうですね。いろんな作家が群馬県周辺にいて、予備校が高崎にあるんで、その予備校の先生で芸大出身の日本画やってるやつがいて、岡崎のところにいた、若い子。なんとかっていったな。ちょっとコンセプチャルアートみたいなのやってる、「国民投票」という名のグループにいた子がいて。そういうのも岡崎君が安中とかにアトリエ作ったんで、それの管理みたいな感じでこっちに来てたやつに声をかけて。その最初の「場所・群馬」の時に出てもらったりして。それが岡崎に知られてすぐに彼はクビになって、勝手なことするんじゃねえ、とか岡崎君に怒られたりとかして(笑)。

鷲田:岡崎乾二郎ですか。

白川:そうそう(笑)。

福住:クビってどういうことですか。

白川:岡崎は東京にいるじゃない。誰かがそこにいなきゃいけないじゃない。自分が良い時に来て作品展示するんだけど、そういういろいろ下働きみたいなことをさせてたんじゃない。そういうので、勝手な展覧会を自分で勝手にするな、っていうんで。なんか展覧会出たんだと思ったよ。その時は、いろんな人がいたんだけど、理事長がさ、あいつがだめだ、こいつがだめだ、みたいなことで、どんどん、どんどん人がいなくなっちゃってさ。

鷲田:この「場所・群馬」という活動は学校がなくなった後も、ずっと今まで続いているんですよね。

白川:そう。僕が勝手に続けてるので。グループっていうよりも展覧会をやる時に、こういう展覧会をやるけどもって、集まって、終わればまた解散しちゃうわけだから。

鷲田:ほとんどは白川さんよりももっと若い世代の作家たちですか。

白川:そうなんですよね。僕と同じ世代とか、上の人とか僕は知らないから。僕アート系の人間関係も無いんで、日本で。周りにいる人って、みんな若い人しかいないんだよね。

鷲田:前橋の同世代くらいの作家とかは。

白川:同世代の作家っていないんですよ。みんな若くなっちゃうんだよね。結局、僕が知り合う群馬の若い作家の人って、僕が高崎にあった美術系専門の予備校の先生を知ってたから、予備校の先生っていうのは僕より年代が低いんですよ。そういう人たちが教えてた子たちが東京の大学行ってたりして、活動してたりして、声をかけたりするから、必然的に全員世代が若くなっちゃうんですよね。僕と同じ世代の人っていうのは、僕は知らないんですよ。

鷲田:予備校というのは、このデザイン学校より後の話ですか。

白川:いや、デザイン学校の時も、僕が活動している時に、展覧会見に来る人がいるじゃないですか。その中に若い人で、聞いたら高崎、前橋の予備校の先生やってたりとか。

鷲田:「場所・群馬」の活動は、地域のプロジェクトという意識は特に無いと考えていいのですか。

白川:地域のプロジェクトっていうよりも、最初は臨江閣っていう歴史的な場所を、既に放棄されたような場所を、展示会場として意図的に使うことと、そこの歴史性とか空間性をもう一度考え直すみたいなことを一つのテーマにはしていたから。それを分かって参加してくださいっていうのが臨江閣の形だったんですよ。それが今度は学校のスペースのような無機の空間になっちゃうと、それぞれの人が考えている問題をここで出してもらうみたいな。足利の作家とかだと、足利で作品作っているんだけど、藤井龍徳君なんかは東京造形大だったかな、ちいさなキューピットみたいのをたくさん持ってきて、それを山みたいに積み上げたりとか。それぞれ、それぞれなりに考えて。近代の問題とかも考えたいなということをみんなに少し話してたりしてたので、彼らなりに近代の問題を考えたものを、そこに出してくるみたいな。ただし、僕は強制はしなかったんですよ。絶対それを100パーセント作品にしなければ参加させないとかね。2回目位の時に学校でトークというか、「場所・群馬」の活動に興味がある人に集まってもらって、やった時に意見が割れたんですよ。1993-4年位の時かな。近代の問題とか場所の問題に興味がある人もいるけど、全然そういうのには興味が無い、そういうものはどうでもいいとか、そういうのはネオポップ、日本ポップアートみたいな感じだから興味がないとか、ミニマルアートみたいなものに興味がある人もいたし、フォーマリズムアートに興味がある人もいたから。必ずしもなぜこういうのを考えなければいけないのか、いろいろ意見があって。僕自身も口でいろいろ言っていてもしょうがないんで、自分で自分の作品を作って自分の考え方を出さなきゃいけない、その方が良いだろうと思ったりもしたから、それであの時《日本人ですか》っていうシリーズの作品を別枠で作って、やったんですよ。それをはじめ学校の美術館の方で展示していて、それを小倉さんの紹介だったと思うんだけども、小池(一子)さん、佐賀町(エキジビット・スペース)の方で展覧会をするようになって(注:1994年、個展「SHIRAKAWA’94(日本美術試作-日本人ですか1)、佐賀町エキジビット・スペース」。あれは、はっきり言っちゃえば小池さんが僕の作品に興味があったというよりも、小池さんは佐賀町を運営するのにお金がかなり厳しかったんですよね、既に。それをうちの理事長が、年間いくら援助するから白川の展覧会やらせろ、みたいなそんな話をしたんだと思うんですよ。それで僕は佐賀町で展覧会できたんだと思いますね(注:白川は1992年にも佐賀町エキジビット・スペースで個展「円環-世界」を開催している)。

鷲田:つまり、臨江閣のような、ホワイトキューブじゃない、場所性に興味を持っているアーティストが集まってきていると同時に、そういうのに関心がないアーティストも一緒に展覧会をやっていたということですね。

白川:そうです。無理矢理そういう作品を作って出していたやつもいたと思うんですよ。理事長もいたから何にも関係がない作品だと、何で出すんだ、とか言ってぎゃあっとなっちゃうから。僕は何かね理論とかやり方だけ突き詰めて、こんなんじゃ駄目だから出すな、とかね、あんまり言いたくない方なんで。でも、理事長は我慢出来ないんだよね、自分がお金出してるから。自分が全部仕切りたいわけですよ。

福住:理事長としてはその歴史性とか空間性を扱った作品を展示したいということですか。

白川:展示したいって言うかね、展示するということが、群馬の美術界、美術関係者にとって今までやったことがない試みだから。かつて彼らは群馬の中で一緒に活動やってたわけですよ。いろいろ人間関係だなんだでトラブルがあって、結局分かれちゃったわけだ。それに対して、僕なんか関わって展覧会やっていることで、かつての人たちに見返してやりたいわけなんですよ、彼女は。近代問題がということよりも、見返してやりたいというのが先でしたね。

福住:リベンジですね。

白川:そう、リベンジしたいわけ。だから彼女はそこにぐあっとなってくるから。

鷲田:そういう思いもあって学校をやっているんですよね。

白川:そうそうそう。絶対美術学校作りたいとかね。地元の連中に対して、お前たちができなかった美術館を私たちは作ったんだ、みたいなのを周りにアピールしているわけだよね。だから、気持ちは分かるんだけど。なかなか大変なんですよ。小倉さんも、その中で展覧会企画したり、東京や海外の展示を見に行ったりして不在の時もあって、いろんなことやってんだけども、なかなか大変なんです。交換留学も小倉さんのつてで、パリの美術学校とかニームの美術学校とかともやったりして。美術館の現代美術研究所にいた学生をそこに出したりして。みんなフランス語できないから、結局僕が一緒に付いてくような形で。

鷲田:デザイン学校で教えていたことがきっかけにはなっているけれども、前橋の作家と一緒に展覧会を作り上げていくことへの関心や、理事長たちが持っていた、美術学校を作りたいという思いに対する共感はあったんですよね。

白川:まあ、多少ありますよね。デュッセルドルフやパリでは作家が動ける場所があったし、主体的にいろいろやれる場所があったりしたし、美術だけじゃなくて音楽とか演劇とか映像とかいろいろなジャンルの人との関わりがあったけれども、日本に帰ってくると全くそういうものがほとんどゼロ、みたいな感じに僕の場合なっちゃったから。

鷲田:その頃も、人と一緒に作っていくものとは別に、自分一人で作る作品の制作も続けられていたということですよね。

白川:山にいた時はまだそういうのがあったと思うんですよ。自分が作品を作っていく中で、作品のフォーマルな形の由来とか意味とかを、だんだんと考えるようになった時に、歴史の問題とかを考えざるを得ない。そうすると、アイデンティティの問題を作品にしなきゃいけない。そういうこともあって、僕の場合ずっと両輪というか、造形的な作品も作りながら、だんだんと歴史的な社会的な問題の作品を同時に作っていくみたいな。両輪でやってたんですよ。

鷲田:歴史的、社会的な問題を扱う作品がでてきたのは、前橋に来られてからですか。

白川:そうですね。そうだと思いますね。ただデュッセルドルフでつくっていたドローイングの中には、そういう傾向のものはあります。ただ、前面に押し出して、一つのまとまった作品にし始めたのは前橋からですね。

鷲田:山にいらっしゃったころは、まだそういう作品はなかったんですね。

白川:そろそろ分裂しないで一つにすれば、ってよく人に言われてたりしたんだけど、なかなかそれがそういう風にならなくて、すっきりいかない部分もあったりして。ずっと両面でやって。そういう風なことをやっていく中で、小倉さんの紹介で、池田(修)君かな。今、BankART行ってるけど、まだアートフロントギャラリーの仕事やってた時に、作品を見にきて、それからアートフロントとの関係ができたんですよね。

鷲田:それも1993年くらいの頃ですか。

白川:そうそう(注:1995年、ヒルサイドギャラリーにて個展「勝景」開催。同年、現代企画室より作品集『SHIRAKAWA-白川昌生作品集』出版。以下、「作品集」と表記)。その前の段階で、山にいる時に東京でときどき展覧会をやるようになって、他の人と知り合うようになって、松浦(寿夫)君の関係もあったし、その中で群馬の渋川で自宅を画廊スペースにして活動してる福田篤夫君がいて、彼からも話がきて。それで、一緒に北海道の作家と展覧会をやったりするようなことが起こって。その流れの中で、九州の福岡の山野(真悟)君とか、あの頃まだ作家だったんだよね、山野君とか宮本初音ちゃんとか。そういうのと一緒に「アーティスト・ネットワーク」っていうのが確かあったと思うんですよ。佐賀町で確か展覧会やったんじゃないかなと思う(注:1987年、「アーティスト・ネットワーク’87」展、佐賀町エキジビット・スペース)。アーティストが主体的にお互い連携プレーをとってやっていこうよ、っていう動きがあって、僕も北海道に行ったりとか、いろんなことやってたんだけども。もう一人の方がもっと積極的で、僕は北海道の人とか山野くんとかとやってて面白かったんだけども。どっちかっていうとフォーマリストの方が多かったんだよね。

鷲田:それはまだ、山にいらっしゃる頃ですよね。

白川:いる時。それで作品を見たりしてると、確かに(僕は)フォーマリスティックな作品を作ってはいるんだけども、彼らと考え方が違うんじゃないかな、って。同じフォーマルなものでも。そういう意味で、さっき言った形の意味とか歴史とか、そういうことも付加させて考えるというか。ネットワークを作るのはいいなと思うんだけど、どこ行っても同じような感じの抽象的な作品があることには疑問を感じたりはしたんですよ。北海道に行っても、東京に行っても、みんな作る作品が似ていて、みんな普遍的な話が多くて。僕が経験してきたヨーロッパの感じと違って。確かに向こうにもそういうものはあるけれども、ニースも、デュッセルドルフも、ベルリンも、ミュンヘンも、知っている作家はいるけどみんなそれぞれに違ってるし。同じ抽象的なことやっていたって、普遍的なことをみんなストレートに話せるような状況というのはおかしいなという。もっと地域の生活とか、問題とか、歴史とかが、抽象性の中にきちんと収まっているような感じの作品がないのかな、みたいなことはすごく感じたんですよ。逆にその「アーティスト・ネットワーク」に参加してて。

鷲田:この「アーティスト・ネットワーク」というのは、誰が中心になってたんですか。

白川:山野君とかいろんな作家の人たち、大阪の人とか、北海道の人とか。そういう若い人が集まってやりはじめたんだと思いますけどね。池田君は会わなかったけど、僕はこの「アーティスト・ネットワーク」に関わって、東京行った時に、初めていろんな人たちと会ったりしたから。村田(真)君とかね。まだあの時『ぴあ』にいたけども。そういうところからだんだん岡崎とか、Bゼミの関係者とかね。Bゼミは前に原口(典之)君も知ってたけれども。若い人が関わっている美術の世界の構造はこういう風になっているのかな、みたいな、だんだん(分かってきて)。僕なんか、美術学校、大学を日本できっちりやってこなかったせいだと思うんですけども。ストラスブールとか、パリとか、デュッセルドルフでやってた時に、造形的な作品も作っていたけども、社会的な、労働をしている人の作品、コンセプチャルな作品とか、あるいは原爆の問題とか、天文学の問題とかとも……。(本棚から作品集『SHIRAKAWA』を取り出して)自分としてはドローイングのノートをたくさん作ったんですよ。最初の作品なんです、僕の。その中に丸の作品もあるんだけども、こういうドローイングの作品を作って。造形的なものもあれば、社会的なものもあるし、水爆実験のやつがあったりとか、運動の問題で物理学みたいなやつがあったりとか。確かに、作る時に、たまたまフォーマルな作品になってたりするけど、興味自体は前からそういうところもあるんで。

鷲田:これは何年頃の作品ですか。

白川:これは早い時期ですよ。1970年代。これが一番初めに作ったんじゃないかな。すごくたくさんあるんだけどものね。100冊くらいある。これはデュッセルドルフの時に作ってたから。丸のやつも作って、これはヴッパタールにいた時に展示したんですよ。これこの前DVDにしたんだけども。確かにこういう作品を作ってはいたんだけども。そればっかりではないんだけど、説明するのが難しいんですよね。たまたまそうなってただけで、みたいな感じで。

鷲田:平行してある、ということですね。

白川:そう。

福住:円環のモチーフは昔からですか。ドイツ時代からですか。

白川:円環のモチーフは、はじめはヴッパタールにいた時に考えたんですよね。始まりと終わりという二項対立と、たまたま形にすると丸になっちゃうんだけど。あと、自然のこういう丸の形と、人間の概念の関係とかね。人間がイマジネーションを頭の中に思いつく時に、言葉もあるけど、自然の姿とか、自然の風景とか、そういうものから得てるものとか、人間が抽象化して考えたものが、風景に投影されたり、物に投影されたりとか。そういうやりとりに僕は興味があるんで。僕が造形的な作品を作るのはどうしてかって言われたら、それが一番簡単。いろいろ考えていくと違う方法でも作れるけど。たまたま、ベニヤ板とかさ、自分で思うように曲げられない素材だからさ。構成的な組み合わせしか、物としてはできなかったんで。でも、使い捨てられたコンクリートの痕とかで、時間的な何か、人間がやってきたものとか、歴史みたいなものをプラスはしているわけだけども。人によっては、単なる構成として見る人もいたと思うんですけどね。
(作品集を指差して)《アクション》(1980年)とかいって。石膏流したりとかして、ライブハウスめちゃくちゃになっちゃった(笑)(注:ラーティンガ・ホフ、デュッセルドルフ。作品集p. 52)。次の日に、シュメーラ画廊のオーナーに道で会うと、「すばらしく美しい夜だった」とほめてくれましたね。

福住:これ白川さんのですか。

白川:そう。(ページをめくって、作品集をみながら、)これは、(チューリッヒ・)クンストハレかな。ゼーマンに会った時(注:《書物の解体》、1979年、チューリッヒ・クンストハレ。作品集p. 51)。これは、日本に一度戻って来た時だ。比企文化社ってとこでやった時だ(注:《コンサート・フリーミュージック》、1978年、比企文化社、東松山。作品集p. 50)。これは、近藤等則くんと一緒にやったんだよね。近藤君、トランペット吹いたりして、僕はパフォーマンスやったりして。これは、ベルリンのアカデミーの掃除をやった時ですね(注:《アカデミーの清掃》、1978年、ベルリン国立美術大学。作品集p. 49)。ベルリンのアカデミーのこの教室は、彫刻家の田尻新吉とかいう人がプロフェッサーだったんだよね。なかなか面白い人。シカゴ生まれの2世の人なんですよ。日本でも知られていて、日本に帰化して作家活動しようとしてたんだけども、彼は日本に受け入れられないというのが分かったから、日本に住むのをやめて今はベルギーに住んでますね。その話も聞いた。いろいろ、田尻さんに。「日本だと私のような人は難しいんですよね。日本だとなんて言いましたかね、あいの子、とかって言いましたね」って(笑)。ジャコメッティとかにも評価されて、パリでデビューした人だよね。これは、僕の、フォン・デ・ハイムミュージアムでのやつですね(注:《フォン・デ・ハイム美術館の窓清掃》、1979年、フォン・デ・ハイム美術館、ヴッパタール。作品集p. 45)。

福住:スイスのモンテ・ヴェリタ(真理の山)っていう、1920年代初頭、総合芸術の夢みたいなもので集まっていたのを、ゼーマンが取り上げたという話を、白川さんはどこかでされていましたけれども、モンテ・ヴェリタは、白川さんがドイツ時代に、パンクとかの人たちが集まってめちゃくちゃやってたイメージに近いですか。

白川:僕はデュッセルドルフのクンストハレでやった展覧会を見たんだけれども、あれは壮大すぎるんだよね。ガウディのサクラダファミリアのモデルが展示されていて、ロシア構成主義のやつとかいろいろあってさ。もう、ヨーロッパのクリエイティブの歴史みたいなものがあってさ、壮大というか。確かに、考え方によっては、モンテ・ヴェリタに集まってたアナーキストの人たちと類似性はあったりすると思うんですよね。でも、簡単には、僕なんかは一概には言えないですよ。ただ、パンクの時は、パリでもそうだったし、デュッセルドルフでもそうだったけど、若い世代の人がみんな生き生きしてて。絵画とか、彫刻とか、映像とか、音楽とか、そういう枠組みじゃなくて、もっと全部でクリエイティブでいこう、みたいな、そういうイメージ。それによって社会が変わるかもしれない、そういうユートピアをつくり出せるという夢があったんだよね。そういう意味では、アナーキーなところから考えているユートピア思考みたいなものは、共有していたのかもしれないと思うんですよ。僕がデュッセルドルフにいた時に過激に活動していた連中は、今はベルリンに住んだり、ポーランドの近い方に土地を買ったりして、共同体作って時々フェスティバルやっていると聞いたことがあるんだよね。ロシアの作家とか、東欧の作家とか、中近東の作家とか呼んで、いろいろやっているんだという風なこと。前に一冊本が送られてきたんだよ。そういう活動は日本だとないなあ、みたいな。そういう風に突っ走ってはいけないなあ、みたいなのを、僕は日本で感じたりするんですよね。作品で食えるか食えないかって言うよりも、作品作ってやっていくことがある種のユートピアを妄想するような、そういうエネルギーはあるのか、みたいなね。日本だとそういうのじゃなくて、市場をつくるとかさ、村上隆みたいに。だからなんか違うんだよね。制度はきちっとつくる、無ければ欧米の制度に依存する、みたいなさ。あるいは欧米の展覧会に依存する、みたいな。自分たちでつくって、欧米の概念にも当てはまらないような、ぐちゃぐちゃしたものを作っていくのがないんだよね。最近そういうのをすごく感じるんだよね。

福住:欧米にない日本のぐちゃぐちゃしたものというのは、白川さんが出した「日本のダダ」みたいなもの。

白川:かもしれないし、でもヨーロッパから見れば、そういうものは非常にナイーブに見えたりとか、遅れてるとかね。そういう風に見えるかもしれないと思う。でも、遅れているように、ナイーブに見えたとしても、それにくじけないで、やることが必要かなと。僕は最近すごくそう思う。今の日本のアジアにおける状況を考えると。今、日本の作家はいろいろぐじゃぐじゃにやらないと、自分たちの何か、アジアに対しても、世界に対しても、投げかけられる何かは作れないんじゃないかと思うよ。そうじゃなかったら、才能があるやつは日本を捨てて出稼ぎに行けばいい、みたいな話になっちゃうもん。才能がある人はみんな外に行って国際展出てさ、外の画廊と契約してさ、向こうで生きていけばいいんじゃない、みたいな。そればっかりじゃ面白くないからさ。モンテ・ヴェリタじゃないけども、マイナーだけどここにぐじゃぐじゃしたのがいるよ、みたいなのがあってもいいかな(笑)。そういう美術評論もあってもいいなとか。それを僕は感じるんだけど、なかなか、フィットするのが難しいですね。ゼーマンみたいな人が日本から出てくれば(笑)。でも、その前にそういう発想が必要かなと思うよね。アートだけじゃなくて、ゼーマンがやったみたいに、アナーキズムみたいなところからとか、人類学みたいなやつとか、天理教とかさ、いろいろ引っ張ってきて、そういうのみんなぶちこんで(笑)。と、思ったりする。針生(一郎)さんはね、昔、僕が戻ってきた時にそのモンテ・ヴェリタのカタログ持ってて、僕も持ってて、「白川くんこれ翻訳しないか」、とか言われて、僕はちょっとそこまでドイツ語できないし。ものすごく厚いし字が細かくて、おそらく日本語にするとこのくらいの本になっちゃうと思うんだよ。きちんと訳すと。あれは日本で翻訳される方がいいなと思うけど。ちょっと時間がかかるんじゃないかなと思う。ああいうのドイツ語ができる人がやってくれるといいなあと思うけど。なんかお金にはなんないだろうしな。