辻:本日もよろしくお願いいたします。
小見山:用意していた質問は前回でほとんどお聞きすることができたので、今日はぼくたちの興味のあることにかなり突っ込んで、質問というか、わたしたちが考えていることなどをお話しさせていただいて、ショージさんがそれに対してどう思うかということをお聞きできたらいいなと思っています。
サダオ:はい、わかりました。
小見山:これはあまり時系列が関係ないから、コンラッド・ワックスマン(Konrad Wachsmann)というstructural engineer、構造家がいるじゃないですか。日本だとバックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)とコンラッド・ワックスマンみたいに、幾何学的なことを考えて軽量の建築構造をつくったエンジニアとして(並んで名前が)出てくるんですけれども、ワックスマンの著作を読んでいると特にフラーに対して多く言及していることはなくて、でも同時代を生きた人だと思うんです。フラーと一緒に仕事されていたショージさんから、ワックスマンってどういうふうにみえていたのかなと。
サダオ:あんまり関係なかったですね。ワックスマンのやってるprefab(プレ・ファブリケーション)ね、(ワックスマンは)prefabのことを知ってはいますけれども、Bucky(バックミンスター・フラー)はそれとはまた違う考え方っていうかね。ワックスマンもいろんな細かいdetailの、joint(建築物に用いられる部材の接合)のいろんなものやった(取り組んだ)けど、Buckyはもっと、いつでも球ね、sphereね、Geodesic(注:フラーがドームを設計する際に用いた幾何学)で、そっちのほうだったからあんまりつながりがなかったですね。でもだいたい、建築に対して考えてるのは、やっぱりもっとtechnocrat(技術官僚)のようなね、そういうようなところは似てましたね。aestheticのほう(感性的な側面)じゃなくて。そうね。
小見山:じゃ、どちらかというと、フラーは全体のほうを考えてて。
サダオ:全体のほうというより、domeがあるけれども、彼はもっと哲学のほうがやっぱり、いろんな面で(重要だった)。それのひとつのphase(面)はGeodesicだったからね。でも、それでなくて、もっと広く彼は考えて、environment(環境)とか、Sustainability(持続可能性)とか、いろんなそういうことも考えてたんですね。だから、調べてるのは、Geodesic Dome(測地線ドーム)だけれどもね、それはひとつの、just one aspect(ひとつの側面に過ぎない)ね、Buckyの考えの中で。
小見山:同時代に……
サダオ:ワックスマンはもっと大きい、そういうphilosophyとか、そういうものがあったんでしょうか。あんまりそういうことは聞いてないですね。ただprefabの、それといろんな、何ていうかな、細かいjointの、よく、たくさん彼は研究してましたね。
小見山:『The Turning Point of Building: Structure and Design』という1961年のワックスマンの著作を見ると、基本的には彼が構想した「ユニバーサル・ジョイント」に至るまでの歴史を彼自身が書いていて、「ユニバーサル・ジョイント」がだからこそ必要なんだ、っていうことに収斂していくお話だったので、確かにジョイントに最終的には(ワックスマンのアイデアは収斂していくのかもしれません)。
サダオ:そう。ワックスマンはグロピウス(Walter Gropius)と一緒にやった(仕事した)んじゃない。
小見山:そうですね、プレファブの住宅を一緒にやったので、その話につながっていく彼の考えでしたね。確かに。なるほど。そう考えると、そういうところがもしかしたら理由なのかもしれないですけど、Fullerに影響を受けた後の世代の建築家、たとえばイギリスの「ハイテック」。この間、僕がレクチャーをさせていただいたノーマン・フォスター(Norman Foster)とか、「自分はバックミンスター・フラーのフォロワー、後継者なんだ」と言う人たちは、後の世代にいっぱいいらっしゃるじゃないですか(注:小見山陽介「ギャラリー・トーク:フォスター建築にみるバックミンスター・フラーの影響」、森美術館、2016年2月4日)。ワックスマンの(後継者)って言う方はあまりいないかもしれないですけど、そういう意味でもフラーはジオデシック・ドームだけじゃなくて、その背後にあったいろいろなものがみえてたからこそ、(他の)建築家たちは自分は(フラーの思想や実践を)受け継いでるんだということを主張するんだと思うんですけど、そのへんのことを聞きたくてですね。
サダオ:そうね、Buckyはもっと広く考えて、もっと世界的、universe。Whitneyのexhibition、filmだったけれどもBuckyはHe begins with universe(注:「Buckminster Fuller: Starting with the Universe」展、ホイットニー美術館、2008年6月26日〜9月21日)。universeからはじめるんだね、彼の考えは。だからできるだけcomprehensive(包括的)ね。ぜんぶ考えて、だんだんだんだんと細かいところにdetail(詳細について検討する)するけれども、彼はそういうphilosophy(哲学)があったんですね。そしてできるだけ人間の生活をよくするためにどうしたらいいかということを《World Game》という、あれもやったしね(注:《World Game》(1965年)はコンピュータを用いたシミュレーションと資源の世界的な分布を表したダイマクション・マップによるインタラクティブなゲーム。モントリオール万博アメリカ館で展示するために1965年に構想されたが却下された)。だから地図も僕、一緒につくって、《World Game》になったけれどね。だから彼はいろいろと言われたけれど、Renaissance Man(万能な人)と言われたですね。いろんなことができて、いろんなこと考えてね。彼はHarvard(ハーバード大学)に行って、Harvardでdrop out(中退)だったけれどね。ビル・ゲイツ(Bill Gates)のように、(マーク・)ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)と同じようにdrop outだったのね。でも彼はやっぱりなんていうかね、intuitive knowledge(直感的な知識)ね、なんか自分の頭の中に考えて、自然にもう、いろんなものをわかってるんだね。僕(にとってそれは)amazing(驚き)だったね。そしてmemoryのrecall(思い出す)ね。recallがすごく上手だった。上手というか、photographic memory(視覚でとらえたものを画像として脳に記憶できる能力)じゃないけれども、とにかく。
小見山:おぼえていた。
サダオ:彼のlecture(講演)なんかもね、もうno notes(手元に原稿を用意しない)ですね。ただ何のlectureするかっていったら、それが2、3日前から考えていることをね。彼は、lectureはthinking of live。そうね。
小見山:考えてることをそのまま。
サダオ:話しながら、考えたことを話すと。だからpreparation(準備)は、もう自分のそこまでの生活がpreparationなのね。だから自然に思ってた、考えてたことをlectureするのね。
小見山:フラーはそういったことを考えるときに、自分の中でずっと考えて、それをレクチャーのときに口に出す感じ? それともふだんの生活の中で、ショージさんとの会話でも、会話をしながら(考えを)組み立てるということは(ありましたか)?
サダオ:いやそれは自分で、いろんなinformationが入って、やっぱり自分で考えて、自分から出てきたね、そういうね、いろんなおもしろい考えが。そして彼はやっぱり、ことばも上手だった。ことばというか、neologism(造語)というかね。新しいことばをつくるのがね、ほんとに上手だった。そして詩も書くのもね、彼は上手だった。非常にcreativeなmindだったのね、彼は。
小見山:フラーのことを指してエンジニアにして詩人、「an engineer and a poet」みたいなことを言う方がいらっしゃいますけど。
サダオ:そういうところがありましたね。だから彼はよくtechnocratと言われてるけれども、technocrat plus humanitarianの(技術官僚的でありかつ人道主義者的)、そういったところも彼のpersonalityと考えにもあったね。technocratだけじゃなくてね。もっとhumanity(人間性)のことを考えて、人間の将来はこれからどうなるかということはね。彼は「He believed that humankind and mankind will be a success」でね、成功するって彼は考えてたね。だからそういう意味だったら、もしかしたらoptimist(楽観主義者)だったかもしれないけどね、自分はrealist(現実主義者)だというようなね。「I am not an optimist. I am a realist.」ってね。
辻:この1970年代初頭、フラーとショージさんが、AIA(アメリカ建築家協会)からゴールドメダルをいただくのが1970年。
サダオ:ああ、ああ、そう。それ、もらったね。
辻:いまのようなフラーの性格と関連して、同じ時期のアメリカや世界の建築家、それはもっと年が上の建築家でもいいですし、そのころだともっと下の世代の建築家も登場してきていると思うんですが、フラー自身が直接なにか話したり、わざとしなかったり、そういうライバルのような建築家っていうのはいたのでしょうか。
サダオ:まあ同じような考え方で、フランスのロベール・ル・リコレ(Robert Le Ricolais)ね。彼は同じようなものだ。あまり僕もル・リコレのことは知らないけれども、ちょっと調べましたけれどね。そのときのBuckyの、まあやっぱり建築家の中だったらイオ・ミン・ペイ(Ieoh Ming Pei)とか丹下(健三)さんとかね、そういう人たちがいて。Buckyはaestheticsのほう(感性的な側面)から建築にapproachしてないからね。普通の建築家は、もうaestheticsのほうからだからね。Buckyからいつも聞いてたのは「Do you know how much your building weighs?」(あなたが設計する建築物の重量はどのくらい?)ってね。ということは、やはり材料をefficient(効率的に)に使って、これから世界は非常にそういうような考え方が重要な考え方になるから、そういうような「Efficient use of material」ね。だんだんと人口がふえて、もっとなんていうかね、creativeでもっともっとmaking, doing more with less(資源を野放図に使用せず自然環境に過度な負荷がかからないようにものをつくること)ね、そういうような考えね。だからそういうようなthinking(考え)から、そしてtetrahedron(四面体)ね。それが有名になってくるけど、sort of the basic building block of the universe(「宇宙」をつくる基本となる単位)だと言うのね、彼が。tetrahedron。それでいろんなgeometry(幾何学)が出てきてね。それからいろんなgeometricの、みんな球というかsystemの考え方から出て。だからそういうgeometryな考えもあったし、そしてenvironmentとかsustainabilityとか、だからそういうところがノーマン(Norman Foster)(と関連する)。ノーマンはいますごくそれを進めてますね。いろんなenergy efficientのbuildingとか、spaceなんかも。それとかウィリアム・マクダナー(William McDonough)。マクダナーもBuckyのことを尊敬してやってますね。他にそういうようなあれで誰がいたかね、今は。
小見山:ノーマン・フォスターはいろいろBuckyを研究していて。(フォスターは)「自分はそういうものを引き継いでいるんだ」と話していて。それと関連してさっきの重さの話。「How much does your building weigh?」(あなたが設計する建築物の重量はどのくらい?)っていうのは、彼の伝記的な映画のタイトルにもなっているぐらいエピソードとして注目されるんですけど、でもいまのお話だと、その質問は必ずしもフォスターにだけ投げかけたわけじゃなくて、いろいろな建築家にそういったことが(あった)。
サダオ:いろいろな方に言った。Buckyはもうあちこち、世界中の大学でlectureしてますね。彼のスピーチは、なんて言ったらいいね。彼のlectureはほんとに3時間、4時間、5時間と続いていくけれどもね、いろんなおもしろい考え方で、若い人に非常に興味があって「He believe in youth」ね、若い人にこれから将来のことを、こうね。そこに彼のfaith(信頼)があって。その時代のcultureの、新しい考えのmovement(動向)なんかにもみんな、なんかBuckyと関係して、Buckyのサポートがほしかったらしいですね。彼はguru(教祖)になるような可能性もあったけれども、彼は「guruになりたくない」って言ってたのね。でもそれだけ若い人が、みんなBuckyのlectureを聞いて、非常にinspire(触発)されてね。もうevery year(毎年)、ぐるぐる、ぐるぐる大学を回って、lectureとprojectね。最後になったらあんまりprojectはやらなくてlectureだけだったけれども、50年、60年代、70年のはじめごろまでは、大学に行って学生とprojectやったんだね。だから僕はCornell(コーネル大学)でMini Earth(ミニ・アース)という、あれをつくりましたね(注:ここでは《Geoscope》(1952年)を指す)。だからそういうものをつくったり、domeをいろんな材料を使って、いろんな大きさといろんなかたちの、そういうprojectを学校でやってましたね、Buckyは。アフリカでもやったし、そういうprojectをね。
辻:同じ1970年頃のことでいうと、アメリカではstudent powerと言われる学生の運動だけに限らず公民権運動などがありますが、フラーやショージさんにとって、その時期の後に大学や若い学生とのつき合い方、あるいは授業の方法に変化はあったんでしょうか。
サダオ:ああ、それはあんまりBuckyは、そんなに影響してないと思いますね。そういうstudent movement。特にCaliforniaのね。UC Berkeley(カリフォルニア大学バークレー校)のほうでね、そういうこともあったけども、だからといってBuckyの考えとか、そのときやってるプロジェクトとかも、あんまり影響してなかったね。うん。
辻:ショージさんも、大学での講演や学生と接する機会っていうのは多かったんですか、1970年代。
サダオ:いや、僕、卒業してから、学生とあんまりなかったね。
辻:たとえばデザイン・スタジオ(注:大学等の高等教育における建築物の設計や製図に関する演習で、担当する教員ごとに異なる主題を掲げるスタジオを学生が選択し履修する)をやったり。
サダオ:いや、やらなかったね。(自分は)卒業してから(すぐ)、Buckyの事務所に入ったからね。North CarolinaのRaleighの事務所とCambridgeのofficeと。それからFulbrightで(フルブライト・プログラムの奨学金を利用して)日本に来たんですね。それでFulbrightから戻って、エディソン・プライス(Edison Price)という照明の事務所に入って、それからBuckyと一緒に会社をつくった。
小見山:では、フラーが講演で世界をまわってる(移動している)ときに、ショージさんは事務所に残ってプロジェクトをやると。
サダオ:そのときは(事務所に)残ってたり、projectを一緒にやったこともあるね。Buckyが(世界中を)ぐるぐる回って、一緒に行かなかったけれども、後から(後年には)ときどき行きましたね。Buckyの事務所で、North CarolinaとCambridgeとやりながら。Buckyと最初に会ったときが、あのころ52年だったかね、Coloradoまで行ってね。そして剣持(勇)さんにも会った、そういうね。そのときにはもう、ずっとBuckyと一緒で。それから今度は正力(松太郎)さんの招待で日本に来た。そのときも一緒にずっと、BuckyとBuckyの奥さん、アン(Anne Hewlett)と一緒にね、やったけども。それからは、あんまりあちこち一緒に行かなかったですね。やっぱり事務所にいて事務所の仕事。Buckyはそのときはもういろんな、自分の考え、自分のいろんな、《World Game》とかね。そっちのほうにもっと考えとenergy(情熱)が行きましたね、建築(建築物の設計や施工)より。projectもあんまり入らなかったね、だから。こういうような建物とか、これをつくるというのはね、ほとんどなかったです、もう。だから僕もびっくりしたのは、Buckyと仕事したらどんどん(新しい)仕事が入ってくると思ったのね。全然、もうほんとにbusiness(事業)として、あんまり成功しなかったですね。いろんなstudy(検討)をやったけれどもね。それはみんなstudyでね、実際にものを建てる(建築物を設計し施工する)とか、そういうことはchanceが少なかった。それはもっと、イサム(Isamu Noguchi)さんと一緒になって、イサムさんはもうどんどん、いろんなところから話があってね。もう「He was turning away work」(仕事が多すぎて断るほどの状態)ね。イサムさんはやっぱり、プロジェクトのあれがおもしろかったら、fee(報酬)が高くても安くても、おもしろかったらそれをやるのね。おもしろくなかったら、もう断るのね。はっきりそうしてました、イサムさんは。だからほんとに、BuckyもよくNew Yorkに来たからそのときに、できるだけBuckyとイサムが会うようにやってね。もうずっと、1929年から友達だったんだからね(注:Isamu Noguchi, ”Buckminster Fulller: A Reminiscence of Four Decades,” Architectural Forum, January-February 1972, p. 59.『イサム・ノグチ エッセイ』(北代美和子訳、みすず書房、2018年、146-150頁)に所収)。もうvery very long friendship(とても長いつきあい)なの、Buckyとね。やっぱり考えが合ったのね、イサムさんとBuckyの。
小見山:ショージさんの何かのインタヴューを見たときに、フラーとノグチの関係を近くで見ていて、主にフラーがノグチに影響を与えて、(逆に)イサムさんからフラーが影響を受けたっていうことはあんまりなかった、という関係だったというお話なんですけど。
サダオ:あんまりなかった。そうね、そうね。
小見山:それでも、いくつか(フラーとノグチが)共同設計としてやっているプロジェクトがあるじゃないですか。ちょっと時代が進んじゃいますけど、マイアミのチャレンジャー・メモリアルをイサムさんと共同でショージさんがされて、そのときにインタヴューで、ショージさんが「これはフラーのジオメトリー、幾何学研究と、ノグチさんのそれのトランスレーションというか、解釈が結実したものだ」と。
サダオ:それはTetrahelix(注:テトラへリックス。二重らせん構造を指すバックミンスター・フラーの呼称)ね。Tetrahelixは、イサムさんプラスBuckyで、BuckyのTetrahedron(4面体)を重ねて。やっぱりイサムさんもBuckyのいろんな、僕と一緒にやってるもの見てもう、すぐにそのアイデアを自分のあれに使うのが上手だったからね。そのTetrahelixというのは、Tetrahedronを重ねていくと、だいたい10回入れたら、またもとに戻るというような考えがあったんですね。よく見てるとそうらしいのね。でも、ポール・ワイドリンガー(Paul Weidlinger)ね。彼も友達でね。やっぱりいろんなprojectやったけど、彼が計算してね。「Never repeat itself」で、もとのここに戻らないって。なぜそれが戻らないかなと、彼も考えてね。それはこの中にπが入ってるから。πはトランセンデントなんとかっていう、数学に名前があるのね(注:超越数(トランセンデンタル・ナンバー)。繰り返しのない無限小数などの特徴がある)。あれが入っているから、またもとに戻らないんじゃないか。
小見山:ほんのわずかにずれて。
サダオ:そうね。だからあれはほんとにおもしろいかたちで、マイアミのChallenger Memorialになってますけれどもね。またそれを見て、磯崎(新)さんが水戸で(水戸芸術館のタワーを設計した)。あれはおもしろいかたちでした。
小見山:そうするとイサムさんは、そういった幾何学的な形態を見たときに、それが厳密には戻らないとかって、そういう厳密さというよりも、もうちょっとなにかひいた視点でものを観察されていて、取り入れたっていうかんじですか。
サダオ:イサムさんは、かたちとしてやっぱりおもしろいからなんでしょうね。数学のそういうところはあんまり考えてなかったと思うね、それは。でもいろんなものを見てね、すぐ自分のものになる(取り入れる)んだね、イサムさんのね。あれはイサムさんのものです。
小見山:そのときにはもうフラーはいなかったわけですね。
サダオ:そのときはだから、あんまり関係しなかったね。あれは僕とイサムさんとやって、新日鉄ね。あの構造は新日鉄のjointとtool。日鉄のハラダさんっていう人と協力して、注文して、ええ。なんか特別な値段があったのか、知らないけども、新日鉄と関係してつくったものです。
辻:そのころこのプロジェクトに限らず、日本の企業との関係も、お仕事では。
サダオ:あんまりなかったですね。また別の話でレス・ロバートソン(Leslie Earl Robertson)ね。レス・ロバートソンが僕と同じビルに住んでたから、仲良くなってね。I・M・ペイのengineerがね、みんなI・Mの仕事はレスがやったね。だからそのときに、レスはあんまりBuckyのこと、興味ないらしいね。いまもうリタイアしてますけれどもね、彼は。彼の奥さんがいまやってるけどね、ソーティーン(Sawteen See)が。それから、それともう1人は、ワイドリンガーの事務所のマティス・レヴィ(Matthys Levy)っていうengineer。マティスは《Georgia Dome》(1992年)を設計したね。Georgia DomeはAspension Domeという、僕とBuckyが正力さんの屋根つきドームをつくるときにBuckyが出したのはAspension Domeってtension(張力)を使ってるdomeだったのね(注:Aspensionはascendingとsuspensionをあわせたフラーの造語。またアスペンション・ドームは隣りあうリングの張力で支えられた同心円状の構造体からなるドームを指す)。でも、それは実際にできなかったのね。後から僕はマティスと話したけれどもね、マティスはそのころは計算ができなかったって。computer(電子計算機)ができてから、いろんなcomplicatedの(複雑な)計算ができるので、Georgia Domeがテンセグリティーのあれを使ってAspension Domeができたと言うのね。
小見山:(『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』171頁の《Georgia Dome》と、172頁の《Dome for Yomiuri Giants》(1961年)を指しながら)これですね。
サダオ:そうね。でも《Georgia Dome》、もっともっと簡単ね。もっと簡単なAspensionだったけれども。そう、これです。
小見山:ちょっと時代があっちこっちいっちゃうんですけど、Buckyと同時代に交流があった人たちで、もちろんイサム・ノグチも出てくるんですけど、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)とも交流があった、という言及があったんですよ。
サダオ:そう、Buckyはフランク・ロイド・ライト、(『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』の110頁を指しながら)ここにも出てますね、写真が。
小見山:それはフラーと、どういう部分が共鳴して?
サダオ:フランク・ロイド・ライトは、やっぱりBuckyの考え、lecture。やっぱりdomeとかそういうもんじゃなくて、Buckyがイサム、Buckyとフランク・ロイド・ライトの、それはまあ、ずっと昔の話でしょうね。そしてnineteen forties(1940年代)ですかね。とにかく、いろいろBuckyの話してることを聞いてね。ライトも言ってることが、やっぱりなんていうのかね。彼もBuckyの考え方を尊敬してたんだね。手紙を書いてるけども、そこに「Bucky, you are the smartest man in…」なんとかいって書いてますけれどもね(注:フランク・ロイド・ライトはフラーが著した『Nine Chains to the Moon(月への九つの鎖)』(リピンコット、1938年)に対して、『サタデー・レビュー・オブ・リタレチャー』(1938年9月17日)で「You are the most sensible man in NY, truly sensitive.」と評している)。でも仕事はしなかったですね。
(来客のためショージが離席し中断)
辻:同時期の、たとえば歴史家や評論家の人たちと関係はあったんですか。
サダオ:ええ、ありました。そのときはみんな、criticはみんなBuckyを知ってました。
(来客のためショージが再び席を外し中断)
サダオ:それはね。評論家とかいろんな、そういうcriticとかね。そういうところ、いろんな建築の考えていた人はね、みんなBuckyのことは知ってました。そういうグループの中に入って、いろいろ。だからここに書いてあるRomany Marie’s(cafe)っていう、みんなが後から飲みに行ったりね。食べに行ったりのところで、みんな、New YorkのVillage(グリニッジ・ヴィレッジ)ね。Villageといったところは、昔はintellectual(知識人)とかartistがみんなそこに行ったのね。Buckyはそこによく行ってたし、やっぱりBuckyはそのころからlectureするのが上手だったのね。だからそのときに、自分のDymaxion Houseね、それをそこで、Romany Marie’sでそのことをみんなに説明して、みんなからcriticismを受けて、新しく考えて。イサムさんも、そこでBuckyがDymaxion Houseの話をしてね、すごく印象に残って。それからBuckyとfriendshipが始まって、そして、Buckyの頭がおもしろいから、Buckyのsculpture(彫刻)をやりたいって言ってね、それで、そのsculptureを、7回ぐらい会ってね、話が合って、それから友達だから。
辻:特に親しかった歴史家や批評家っているんでしょうか。たとえば、レイナー・バンハム(Peter Reyner Banham)とか(注:藤田治彦は「バンハム」ではなく「バナム」を適切な表記として指摘する。サダオ氏の発音も「バナム」に近いが、ここでは慣例として「バンハム」と表記する。藤田治彦「歴史の中の現在」嶋田厚編『現代デザインを学ぶ人のために』世界思想社、1996年、174-191頁)。
サダオ:そう、ピーター・バンハムがよく一緒の、ジョン・マクヘール(John McHale)とピーター・バンハムとか、そういうartistとLondonで会って、いろんな、そういうグループがあったのね。エドゥアルド・パオロッツィ(Eduardo Paolozzi)とか。
小見山:インディペンデント・グループ(注:ロンドンのインスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アーツ(ICA)で1952年に発足したグループ。バンハムやその後任のローレンス・アロウェイ(Lawrence Alloway)らがポップ・アートに関する議論と実践を牽引した)。
サダオ:ほか、なんだったかね。とにかくそのグループがあったのね。それでローランド・ペンローズ(Roland Penrose)という、彼はロンドンのICAのdirectorだったかね。そういう人たちもやっぱりBuckyの考え方を「これはおもしろい」と言ってね、ピーター・バンハムもBuckyのファンでしたね。彼の書いてる本の中にも出てくる。それからノーマン・フォスターもやっぱりピーター・バンハムからいろんな、彼の本に何かintroductionを書いてるね、ピーター・バンハムが。彼はSUNY Buffalo(State University of New York, Buffalo)で教えてた。ちょうどそのころ、僕も教えてました。
辻:ああ、そうですか。
サダオ:SUNYバッファローで。僕、2年間ぐらい、そう、ちょっとすいません。
辻:さっきと(話の内容が違う)、いま思い出された(笑)。
サダオ:そう、そう(笑)。
サダオ:そのときに、ヘラルド・コーエン(Harold L. Cohen)ていう、dean(学部長)がおもしろい人でね。ヘルも。
小見山:それは何年ごろですか。
サダオ:70何年だったかね、あれは。SUNYバッファロー。The State University of New Yorkね。そのときにジョージ・アンセルヴィシャス(George Anselevicious)という人がdeanだったね。Harvardから、そっちの方に行って。そしてほんとに、ピーター・バンハムは、残念ながらがんで亡くなったけれどもね。ちょうどニューヨークの、NYU(ニューヨーク大学)のなんとかに招待されて、ニューヨークに来てから亡くなった。ほんとに残念だった、それは。
辻:当時、ニューヨークには、ピーター・アイゼンマン(Peter Eisenman)とか、後にニューヨーク・ファイブ(New York Five)と言われることになる人たちが(いましたね)。
サダオ:リチャード・マイヤー(Richard Meier)ね。ジョン・ヘイダック(John Hejduk)。
辻:ああ、そうです、そうです。IAUSという研究所。そこで日本人の建築家もレクチャーをしたりするんですけど、そういうところと関係はあったんですか。さっき言った建築家たちとは関係ありませんか?
サダオ:あんまりなかったね、そのとき。それはもっとフィリップ・ジョンソン(Philip Johnson)がむこうの親分だったというかね。そのときに、やっぱり建築家とかartistとか、そういうところ、New Yorkにclubがあるのね。Century Clubと言うのね。フィリップ・ジョンソンはそこに入って、いろんな他のみんな、僕もそこの、Century Clubのmemberだけれどもね。そこの中で、そういうような何かグループがあったらしいのね。
辻:1950年代の後半にBuckyがMoMAで展覧会をやっていたときの(フラーと)ジョンソンとの関係、あるいはアーサー・ドレクスラー(Arthur Drexler)と(の関係は)。
サダオ:ジョンソンとは、あんまり関係なかった、そのころはね。
辻:ドレクスラーとのつながりのほうが強いですか。
サダオ:そう。わりとドレクスラーは、よく、そうね、うん。
辻:当時、ドレクスラーはボザールの展覧会などをMoMAで企画していました(注:「The Architecture of the École des Beaux-Arts」展、ニューヨーク近代美術館、1975年10月29日〜1976年1月4日)。
サダオ:やってましたか。ちょっと、あまりおぼえてないんですけどもね。
辻:1975年前後です。
サダオ:そうね。彼もイサムさんのこと、尊敬して、イサムさんの展覧会とか、そういうこともアーサー・ドレクスラーは考え方をよく理解してsupportをしていましたね。
小見山:先ほどのバンハムたち、イギリスにいた(インディペンデント・)グループが、Buckyをイギリスに呼んで、イギリスでいくつかプロジェクトをやる。
サダオ:ジョン・マクヘールがBuckyに簡単な手紙を書いたのね。「バウハウスの考えは影響しましたか」って。それに対してBuckyは35, 6ページの返事を書いてね。それが有名な、そういうcorrespondence(手紙のやり取り)で、それでジョン・マクヘールはびっくりしてね(注:バウハウスの影響について尋ねるジョン・マクヘールに対し、フラーはそれを否定し、技術に対するバウハウスの見解との違いを示した。John McHale, The Future of Future, New York: G. Braziller, 1969[ジョン・マックヘール『未来の未来』大鐘逹二ほか訳、読売新聞社、1970年])。それでそれを皆、イギリスのロンドンの周りのintellectual(知識人)のそういうところに、こういう人がいるということでね、Buckyのことがわかってきて(知れ渡って)、それからもう何回も、何回もイギリスへ呼ばれてRIBA(イギリス王立建築家協会)とか、いろんなところでlectureなんかもやってましたね。それとかCambridgeとかOxfordに行って。それでベケットのtheatre(《Samuel Beckett Theatre》1971年)の話が出てきたのね、その関係で。
小見山:イギリスでもらった依頼は、ベケット劇場が最初だったんですか、プロジェクトとしては。サミュエル・ベケット劇場の設計の依頼が、Buckyがイギリスでやった最初の設計(の機会)ですか。
サダオ:そう。最初の、そういうあれですね、イギリスでは。そう、それはね。うん。そしてそのときはね、話したかどうかわからないけど、そのころは「バックミンスター・フラー UK」ね。っていう会社をつくろうかなという話もあったんです。それはノーマンと一緒にね。でもそれは話だけになって、弁護士も使って、あるところまで調べたけれども、できなかった。
小見山:それくらい、そのプロジェクトは実現の可能性があったし、フラーとフォスターはそれぐらい信頼関係があったということですね。
サダオ:そうそう。そして僕とノーマンの関係は、そのころは、最初の奥さんのウェンディが、子供をadopt、何ていうの日本語で。adoptしたかったのね。
小見山:養子(縁組)。
サダオ:アメリカの子供なんでね。そしてノーマンとウェンディは、character witness。何ていうの、日本語ね。character witnessが欲しかったのね。で、僕に聞いたの「Would you be our character witness?」(性格証人として同行してもらえませんか?)って言って。
小見山:後見人(注:正確には性格証人。自らが住む地域で他の人の評判について宣誓する証人のこと)。
サダオ:僕がサポートの手紙を書いて、なったんです。それで子供がadoptされた。うん。だからそういうような関係があったんです、ノーマンと昔。
小見山:そもそもフラーと、Buckyとノーマンをめぐり合わせたのは、2人の共通の知人だって聞いたんですけど。
サダオ:あれは、そうね、あれは……どういう関係でBuckyとノーマンが。はっきりおぼえてない。どういう関係で一緒になったのか。
小見山:他にも候補者っていらっしゃったんですか。他にも、イギリスでパートナーになり得た、別の候補の人っていたんですか。
サダオ:まあ、ないけど、やっぱり。ノーマンとそれからもう1人。名前が、ちょっと。もう一人の有名な。
辻:建築家ですか。
サダオ:ニューヨークでも仕事してますけれどもね。
小見山:リチャード・ロジャース(Richard Rogers)ですか。
サダオ:ああ、ニック・グリムショウ(Nicholas Grimshaw)。その時代はね。ロンドンでニック・グリムショウにも会ったしね。彼の妹がニューヨークに来て、僕も彼の妹とデートしてた(笑)。そういうこともあったな。そうねグリムショウ、いま、わりあい有名になってますから。何とかガーデンをつくってね。
小見山:はい。《Eden Project》(2001年)。(注:ニコラス・グリムショウが設計した大小の泡のようなドームの群)。そうですね、あれもドームですね。
サダオ:あれもdomeね、そう。だから、ニック・グリムショウも、そのころBuckyのこともやっぱり勉強して「会いたい」って言って、会ったかね。そう。だからそうね、ノーマンとニック・グリムショウと、そのくらいだったね、Buckyが建築家として、うん。そして仲よくなったのは、また話が変わるけれどもチャールズ・コレア(Charles Correa)ね。チャールズとはほんとに。仕事の、建築にはあんまり影響しなかったけども、考え方とか、チャールズも本当にBuckyのことを尊敬して好きでね。
辻:ああ、そうですか。それははじめて知りました。
サダオ:亡くなりましたけれどもね、残念ながら。チャールズもずっといろいろ、インドに行って会ったりね、してました。
小見山:ノーマンとBuckyが一緒にやったプロジェクトが4つあると言われていて、そのうちの最初がベケット・シアターなんですけど、その中の逸話として、こういう石けんをBuckyが削って「こういうかたちはどうだ」って言ったっていうエピソードがあるんですけど、それってミーティングのときに、それを突然持ち出してってことなんですか。もともとそういう考えがBuckyにあって、模型のかわりにそれ(石けん)を使ったと。
サダオ:そうね、やっぱり、あれはOxfordだったかね。やはりあそこ、なんていうか。地上だったらね、できないから。undergroundだったらそういうかたちが、もう。Ando(安藤忠雄)さんも、大阪で何かそういう、やってないの。だから、そういうかたちが出てくるのね。うん。
小見山:それをはじめとして、その次にやったものって……
サダオ:それが最初のプロジェクトで。
小見山:その次がこのクリマトロフィスって呼ばれてる、オフィスの計画だというふうに言われてるんですけど(注:《Climatroffice》1971年。ノーマン・フォスターとバックミンスター・フラーとの共同設計による理想的なオフィス)。
サダオ:ああ、それは僕、知らないね。
小見山:これはノーマンがやった、ウィリス・フェーバー・アンド・デュマス社のヘッドクオーターズ。
サダオ:ああ、そう、そう。Headquartersをやるね。
小見山:これを設計してるときにノーマンがBuckyに相談をしてるんですよね。
サダオ:ええ。
小見山:これって、歴史的な保存地区に新しくオフィスを建てる計画で、Buckyに、古い建物と新しい建物をどのように取り扱ったらいいかっていうことをノーマンが聞いたときに、Buckyが「それを全部覆うようなドームをつくればいいんじゃないか」って言うんですけど、それは当時の技術力ではできなくて。
サダオ:できなくて、そうね。
小見山:ノーマンは二次元的には曲面だけど、三次元的には平面がただ立ち上がった(立体化した)ものをつくるんですよ。ただそのときに本当はこういうことをやりたかったっていうことを、クリマトロフィスっていう、別のプロジェクトとして並行してやったんですよね。それをBuckyとノーマンが一緒にやったと言われていて。ドームの中に、いわばモントリオール(モントリオール万博のアメリカ館)のときと似たようなかたちのものをつくってるんです。これももちろん実現はしないんですけど、こういうものってショージさんも設計に(関わられていますか)。
サダオ:これは、僕、全然知らない。
小見山:そうなんですか。じゃ、これはBuckyとノーマンが独自で。
サダオ:だけだと思いますね。
小見山:その次にやったと言われているのが、これですね(《Energy Expo’ 82 International Pavilion》1979年)。
サダオ:そう。それは。
小見山:これはショージさんも参加されてます。
サダオ:それは関係しました。テネシーのEnergy Fairね。うん、はい。
小見山:これもほんとかどうかわからないですけど、あんまり情報がないんです。ある方の解説によると、これの前に、モントリオールのときってなんというか、外装のエンベロープ(建築物の表層を構成する部材)が開閉して。
サダオ:「開閉」ってわからない。
辻:開いたり、閉じたり。
サダオ:うん、そう、それ。
小見山:それで「空気を動かす」っていうこと(自然換気を促進し室内に気流を生み出す)をやったじゃないですか。それをここでもやろうとしていたという。モントリオールはシングル・スキン(一重壁)のドームですよね。
サダオ:そう、シングル・スキンね。
小見山:このexpo(国際エネルギー博覧会)ではダブル・スキン(二重壁)でやってたっていう方がいて。
サダオ:いやあ、そのときにはただ、どれだけの大きさの、どういうものができるかっていって、あんまり詳しい(建築)構造のことについて、話がそこまでは行ってなかったと思うけれどもね。
小見山:本当かどうかわからないですけど、説明によるとこのとき(クリマトロフィス)はまだシングル・スキンで、最後にBuckyとノーマンがやった住宅、これはダブル・スキンなんです。
サダオ:そう。Autonomous Dwellingね(注:ノーマン・フォスターとバックミンスター・フラーが共同設計した、住宅を建築環境工学的に制御しようとするプロジェクト)。
小見山:2つのドームが重なって、それぞれが独自に回転するっていう。もともとBuckyのドームってシングルの薄いドームなので、それがだんだんダブル(二重)になっていくっていうのが当時、ノーマン・フォスターがセインズベリー・センター・フォー・ビジュアルアーツでこういう二重の(ドームの)構造っていうのをやっていて、この間のところをmachine(建築設備)のスペースにして環境(温湿度や熱、風、光など)を(工学的に)調整するっていう。それまではBuckyのは薄いドームなんだけど、形状が、空気の流れとかを促進するっていうのから。
サダオ:そう、そう、こういうふうにやって、そうね。
小見山:もうちょっと、マシーンを使ったものに、ノーマンがやっていたっていう、そのへんの2人の変化みたいなものが、こういうプロジェクトの変化に表れているんじゃないかっていう。
サダオ:これはpossible(ありうる話だ)ね。はい。
小見山:一方でノーマンは、この当時はたしかに、そういうマシーンを使った厚い二重のenvelope(外皮、ここでは建築物の室内と室外とを隔てる外壁を指す)にいく(試みるようになる)んですけど、最近はそこからまたもうちょっと回帰して、最近のノーマンがつくってるものって、こういうなめらかなかたちで。それが風の動きとか、光の動きっていうものをそのまま反映したようなかたちをつくってるのは、ノーマンが言うには30年前、1970年代には技術的にやりたくてもできなかったんだけど、コンピュータの解析とか建築に関する技術の進歩でそういうことができるようになったから、いまこそ(それを実現することができる)。
サダオ:そうね。最初Buckyも。ちょっと待ってね。(『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』のページを捲りながら)出てなかったかね。(同45頁の図版を見ながら)これもやったね。
小見山:はい、そうですよね。4Dタワー(《4D 12-Deck Tower》1928年)。
サダオ:towerね。このかたちでtowerで。風がこう、かたちに(風の計算とそのシミュレーションが建築物のかたちに反映されている)。これ、なぜこういうかたちか。やっぱり風を計算に入れてね、やったのね。
小見山:なので、たぶんノーマンはそういう意味で「フラーを受け継いでる」って言ってるんだろうなと思って。一緒に仕事をしたっていうだけじゃなくて、自分が一緒にやったものよりも前にBuckyが考えてたことを引き継いで、いまやってるっていうことなのかなと思うんですけど。これは私見ですけどBuckyが実際にやったこと、その奥にある思想っていうよりも、もうちょっと建築(の実際)的な部分に関して言うと、ノーマンのこういう仕事も含めてですけど、幾何学的なもので基本的には完結しているというか、なんていうのかな。これ1つで成立しているこういうシステムを考えているわけですけど、その後、ノーマンがやっていくのがこういう仕事、renovation(建築物の改修)。古い建築物に対して、こういう環境の技術(建築環境工学と関連する技術)を取り入れて改修していく。その象徴的なのがこれなんですけど、これはブリティッシュ・ミュージアムのルーフ(大英博物館の屋根)。この三角形のかたちが全部違うらしいんですよ、これはなにか中庭に、もともと円形の建築物が建っているんですけど、それがちょっと中心からずれて建ってるらしくて。そこからジオメトリー(の計算)をはじめていくとゆがんじゃうらしいんですよ、屋根が。たぶん合理的にやろうと思ったら、そのちょっとしたずれを無視して、屋根を全部、シンプルなかたちになるようにつくる方法もあり得たと思うんですけど、フォスターはこのときは少なくとも、もともとのちょっとしたずれっていうのをあえて直さずに、ジオメトリーをそれに合わせて(かたちづくることを選んだ)。
サダオ:コンピュータが出てきたから、そういうことができるけどね。
小見山:そう、そうなんです。なにかそういう、全部が自分の計算どおりじゃなくて、ちょっとそれを乱すような要素を設計の中に入れることができるというのが。
サダオ:入ってきます。
小見山:はい。いま、できることとして彼がやっていて、そのへんが、技術的な問題なのかもしれないけど、Buckyのドームをいまつくってるっていうことだけじゃなくて、ノーマンなりの現在性っていうのはそういうところにあるんじゃないかなと思っていて。そういう意味でエナジー・エキスポはおもしろいと思っていて、これだけが唯一、コンテクスト(建築物のかたちを左右する社会との関係)があるんですよね。これ(サミュエル・ベケット劇場)(1971年)は地下に埋めるから、関係ないじゃないですか。で、これ(クリマトロフィス)(1971年)も別に(建築物のかたちを規定する)敷地がないんですよ。これ(オートノマス住宅)(1981年)はBuckyとNormanがそれぞれ一棟ずつ建てる想定なので違うコンテクストで建てるんです。だけど、これ(国際エネルギー博覧会のパビリオン)(1979年)だけが、既存の街並みっていうのがあってそこにこう屋根をかけるみたいな。いわばマンハッタンのドーム(《Dome over Manhattan》1960年)に近いんですけど、もうちょっと規模が小さいぶん(実現にむけた提案のように思えます)。
サダオ:そう、もうちょっと小さい、それはね。
小見山:はい。これはエキスポが終わった後もこの建築構造を残して、この中がコミュニティーのために使われる施設になるっていう計画だったと聞いていて。なのでこのへん(サミュエル・ベケット劇場)はたぶんBuckyが主導で、デザインしていたんじゃないかなって気がするんですけど、このへん(国際エネルギー博覧会のパビリオン)からもしかしたらほんとの意味で、2人が共同してたんじゃないのかなっていうのが、僕の私見ですけど。
サダオ:そう。(国際エネルギー博覧会のパビリオンのスケッチを見ながら)このスケッチは僕、やりました。
辻:ああ、そうですか。
サダオ:図面が事務所にあります。
小見山:僕も見たいです。これほんとにすごくおもしろいプロジェクトなんですけど、ぜんぜん情報がなくて、ノーマンの作品集の中でも半ページぐらいしかなくて。
辻:これはExpoが終わったら壊し…… これは実現は?
小見山:これは実現してないんですよ。
サダオ:そう、実現してなかった、まだ。
小見山:たぶんこのスケッチ以上のデザインをしていない(実現に向けて設計を進めていない)。
サダオ:そう、そう。あまり、それ以上ないの。
小見山:でもたぶん2人、Buckyとノーマン、そしてショージさんの3者の間では、きっといろいろ話し合いはあったんだろうなと(思って)。アウトプットはすごく少ないと思うんですけど。この頃ってBuckyがイギリスに行ったりノーマンがアメリカに来たり、そういうやり取りを続けてたんですか。
サダオ:そうでしたね。
辻:このプロジェクトにおけるエネルギーというのは何を想定してるんですか。(火力や水力、原子力、風力など)何によるエネルギーですか。
サダオ:いや、そこまであんまり。あんまりそういうような、僕は。
辻:そういう答え方ではない、(それに関する)議論はないんですね。
小見山:あとは、先ほど名前が出たウイリアム・マクダナーとか、そういう後の世代の人たちの中でも、特にフォスターは実際に、本当に(フラーと)一緒に仕事をしていたっていうところがやっぱり他の人と違うのかなと思って。彼が「自分がフラーからこういうところを学んで」っていうところを何度も何度も言及してるのは、やっぱりそうだと思うし。実際に彼が最近やってる仕事ももう、ノーマンって個々の建物の設計ももちろんしてますけど、それはどちらかというと彼のパートナーたちがきっとやっていて、ノーマン自身はMasdarのマスタープランニングとか、ロンドンのThames Gatewayっていう新しい空港とか、それをハブにした物流のネットワークとか、話(プロジェクトの規模)が大きくなってるんですよね。
サダオ:うん、そうですね。
小見山:もうちょっと、単体の建築物じゃなくてその背後にある、広い意味のサスティナビリティーっていうところに彼が向かっているのも、そういう意味でBuckyに近づいてるというか。そういうレベルのことを今度はやろうとしてるのかなって気がして。Buckyイコール、ジオデシック・ドームって思ってる人たちとは違うレベルで。
辻:(フラーのことを自分なりに)解釈している。これはプロジェクトとして、どのように発表されたんですか、ショージさんが書いたこの(国際エネルギー博覧会のパビリオンは)。
サダオ:いやあ、それはただ仲間だけで見て、別にあんまり、なんていうかね。あんまりデザインが、ほんとに簡単な1枚だけですね。だからあんまり、なんていうんですかね。宣伝も何も、あんまりなかったね。
小見山:こういうスケッチは残ってるんです。このときはBuckminster Fuller Associatesなんだけど、このスケッチもどういう段階で出てきたスケッチか、僕もわからないんですけど「Future use for large enclosure」って書いてあって、このエンクロージャーは今後こういうふうに再利用されていく、っていう計画なんですよね。
サダオ:そうね、うん。そのときにはあのビルが……。建築家で、ピーター・クック(Peter Cook)っていう、アーキグラムがね、そのときの何かで、おもしろいビルを設計、何だったかね。もういまおぼえてないけれども、それにもちょっと関係したけれどもね。関係したというか、その考えがノーマンと、覚えてないけれどもね。何かそういう。
小見山:これが既存の町で、そこにこういうドームを建てるっていう計画だったみたいで、内観はこういう感じなんですけど(注:ノーマン・フォスターの作品集に掲載されている断面図から、巨大なドームを町に埋め込むように計画していることがわかる)。このへんはたぶん当時、ノーマンのところ(会社)でパースペクティブ(透視図)を書いているのかなっていう気はするけど、モンタージュのやり方が。このぐらいがノーマンの作品集の中に出ている(掲載されている)図版のすべてなんですよね。これはBucky、ノーマン、ショージさんの3人で設計されたんですよね。あとは何か、アメリカのエンジニアリングの会社が入ったりとか、そういうかんじなんですか。
サダオ:engineerが入る(参加する)ところまで行かなかった(実現のために設計が進まなかった)。So that’s concept(コンセプトの段階まで)。
小見山:そうですよね。だからこれぐらいの画しか描かれてないっていうことなんですかね。もし実現していれば、ほんとうにすごいものだったと思うんですけどね(笑)。
辻:このexpoは1982年ですね。
サダオ:ああ、そうなんですか。僕、もうおぼえてない。
小見山:予定されていたのは1982年ですね。設計したのはもうちょっと前ですね。
辻:この時期のショージさんのお仕事で、他に印象的というか、振り返っておぼえていることはありますか。
サダオ:このときが82年だったら、ちょうどイサムさんと仕事がLos Angelsにありましたね。《California Scenario》(1982年)っていう、ヘンリー・セゲルストロム(Henry Segerstrom)のprojectとか、Los AngelsのJACCC(《Japanese-American Cultural and Community Center Plaza》1983年)っていう広場とか、そういうような仕事がありましたね、そのころは(注:ショージ・サダオ「まえがき」アナ・マリア・トーレス『イサム・ノグチ空間の研究』相馬正弘監訳、マルモ出版、2000年、8-9頁)。
辻:話が戻ってしまうかもしれないですが、イサムさんとはじめてお会いしてから、このころはもうかなり時間が経っているころですよね。
サダオ:56年。
辻:ですよね。1980年代の、いまのカリフォルニアのお話は(イサムに出会ってから)もう30年ぐらい(経っている)。イサム・ノグチもgreat master(巨匠)として、もう世界的に有名だったと思うんです。広場のお仕事やあるいはプレイグラウンドのお仕事、すごく大きな規模の計画にイサムさんが、(壁画や庭園などは)以前からですけれども、この時期にも関わられていると思います。一般的な彫刻の規模とプレイグラウンドの規模って、ぜんぜん大きさが違いますよね。
サダオ:違うね。
辻:すごく基本的なことなんですが、ショージさんの立場から、イサムさんのこの1980年代の大きな規模のプレイグラウンドや広場のお仕事は、どういうふうにみていたんですか。
サダオ:いや、そのときは、このproject(《Philip A. Hart Plaza》1979年)は、ほんとはunexpectedだった(予期していなかった)のね。ちょうどデトロイト市が、Dodgeっていう車の会社ね、その人がお金を残して、これで噴水をつくってくださいという、それのコンペ(設計競技)があって。最後になったら、噴水を設計する人を選ばなかったら、そのお金がまた市に戻るというので、あわててそういう委員会がね、どうしようかって言って、そのときに誰かがやっぱり、イサム・ノグチという人がExpo 70(大阪万博)で噴水(の設計を)したから「イサムさんにこの仕事のことを聞いたらどうか」って言って、急にそういうあれ(依頼)が入ってね。僕もボストンにいたけれどもね、これが1週間ぐらいだったかね、しかないからね。Bostonから来て一生懸命、1週間でこのdesign(設計)をやったんですね。それで仕事が入ったの。そのときには噴水だったのね。噴水だけだったけれどもこの大きい広場は、Detroitの大きい建築事務所、Smith, Hynchman & Gryllsっていう会社が広場の設計の仕事があったんだけれども、その建築の会社の社長がイサムさんのこういうdesignを見て「じゃあ広場全部を設計してください」って頼んだの、急に。だから偶然にそういう大きい仕事が入ってきたの。イサムさんはやっぱり広い、こういうものもやりたかったんでしょうね。
辻:あ、以前から。
サダオ:うん、そう、大きいプロジェクトを。だからやりましょうって言ってね。そして、それをするために会社をつくってね。何も会社がなかったから。「どういう名前」って言ったらNoguchi Fountain and Plazaっていう、変な名前をつけて。
小見山:(笑)。まさに名前のとおり。
辻:そのままですね(笑)。
サダオ:それをやったんです。うん。それから大きい、そういう広場(に関する仕事の依頼)が入ってきたというかね。まあLos Angels(《Japanese-American Cultural and Community Center Plaza》)はもっと小さいけれどもね。まあ《California Scenario》はわりあいに大きいけど、それからMiami(《Bayfront Park》1996年)も入ってきたらね。まず噴水のコンペで選ばれて、そして、その噴水が入ってる広場の大きいところの仕事が一緒に、噴水するんだったら周りも設計してくださいという。
辻:それは、ラフなスケッチからスタートするんですか、イサム・ノグチさんは、噴水の。
サダオ:そう、噴水はやっぱり……
辻:あるいはマケットとか。
サダオ:マケットもつくりました、はい。あれは大きいのをつくりました。だから最初のデザインはもっとね、こう、何て言ったらいいかね。ここ(『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』)には書いてないけれもどね。とにかくこれが、イサムさんのsecond design(第2案)ですね。最初のdesignはもっと足があって、もっと細長くて、こっちの方がずっとelegantなあれでした。図面を描いたり、rendering(三次元化)ね、perspective(透視図)なんか書いて出したのを、やっぱりそれがよくないと思ってね。イサムさんの方から「じゃあ、こういうshape(かたち)にします」って、自分で急に変えるのね。ほんとに「ああ、これはすばらしい」と僕も思ってね。そっちの方にpushしたのね。うん。
辻:レンダリングはショージさんが。
サダオ:いや僕は、renderingはもう1人、renderingの専門の人を雇って、やってもらったんです。
辻:噴水のstructure(構造)はどういうふうに(決めたんですか)。shapeはイサム・ノグチさんは描けるけれども、大きいと(事情が異なりますよね)。
サダオ:そう、structureは、あれは誰だったかね、engineerは。そう、ワイドリンガーだ。
辻:ああ、そうですか。
サダオ:ええ。ワイドリンガーの事務所だった。ワイドリンガーの、BostonのCambridgeの事務所がやったのね。僕はengineerじゃないから、そんなことできないです。
辻:でもエンジニアからしたらこんなかたち、小さな彫刻の大きさならできるかもしれないけれども。
サダオ:そう、そうね。
辻:噴水の大きさだとできないよ、っていう話もありそうですね。ちなみにワイドリンガーの本は、日本では1960年代に訳されています、1950年代にも紹介はされているんですけれども(注:パウル・ワイドリンガー編『アルミニウム建築』内田祥哉、原広司訳、彰国社、1961年)。
サダオ:うん、そうだな。もうイサムさんは昔からポール・ワイドリンガーね、ポールをよく知っててね。何の関係か知らないけれども、何かengineeringの問題だったら、イサムさんはポール・ワイドリンガーに言ってね。ワイドリンガーはやっぱり芸術家のそういうようなものを手伝うのは好きだったのね。だから喜んでイサムさんのいろんな、そういう問題にね、やってくれて(注:ポール・ワイドリンガーやイサム・ノグチは、アントニン・アンド・ノエミ・レーモンドが設計した《リーダーズ・ダイジェスト東京支社》(1951年)でも共同した)。
辻:まったく関係ないかもしれないですけれどもこういう、いわゆるPublic Artのようなprojectのときに1%……
サダオ:One Percent Art、ありますね。
辻:はい。それはこういうイサムさんとのプロジェクトでは関係していることなんでしょうか。
サダオ:いや、これはやっぱり違う。別のお金(予算)がちゃんとあってね。それからPublic Artも、Art in Public Placesというあれもあったのね。だから「黒い太陽」(《Black Sun》1969年)、Seattleはね、あれはArt in Public Placesだね。それからMiamiの方は、Miamiの《Bayfront Park》は違うと思うね。One Percent Artっていうのはあんまり、イサムさんの仕事の中に少ないと思うね、ありましたけれどもね。
辻:全体のプロジェクトの(資金の)1%を美術に使う法律が。
サダオ:使う法律がね。でもそれは、イサムさんなんかは「あれはよくない」って言ってね。うん、いろんな変なものができるからね。
辻:(笑)。なるほど。変なものができる。ああ、そうですか。(イサム・ノグチの)その発言はすごくおもしろいですね。彫刻家にとっては自分たちの活動を続けていくために大きな仕事になるじゃないですか、パブリック・アートは。なのでよい面も、悪い面もあるかなと思っていたんですけど。
サダオ:そう。そういえばね、イサムさんのClevelandの、なんていうかね、entranceだったかね(《Portal》1976年)。大きい彫刻が、イサムさんがつくったのがOne Percent Artだったかもしれないね、あれは。
辻:ちょっと調べてみます。そういったイサム・ノグチさんとの関係が、ロングアイランドにあるノグチ・ミュージアムのコミッティーとしてショージさんも関わられていくことにつながっていくわけですよね、理事として。
サダオ:そう。僕はあのビルを買って。最初にイサムは《AKARI》をつくりましたね。それのroyaltyを使ってartistを日本からアメリカに呼んだり、アメリカ人を日本に呼んだりね。そのお金をそういうふうに使いたいと言ってAKARI Foundationをつくって。でもそれほど《AKARI》が売れなくて、お金が入ってなかったから。そのまんまずっとあったね。それから、1980年ぐらいだったかね。75年にあのビルを買って、あそこを一生懸命直して(改修して)、それから自分のお金を、それを使うのにAKARI FoundationっていうのをIsamu Noguchi Foundationっていう名前にかえたのね。そして自分のartのshowのお金をIsamu Noguchi Foundationに寄付するようになったんだ。それではじまったのがIsamu Noguchi Foundationね。そしてそれから85年に、そこを美術館に設立したんですね。
辻:はじめは、アーティストが交流するためのプログラムだったんですね。
サダオ:交流の考えでAKARI Foundation。それがIsamu Noguchi Foundationになったの。そしてなぜまたそうなったかっていって、イサムさんの彫刻があそこの、大きい、いまのNoguchi Foundationのビルだったけども、そこで自分の彫刻を見せるために、あそこを買ったんですね。そしてその考えは、美術館に自分の彫刻を、なんていうのかね、artistが美術館にもの(作品等)を寄付したりすると、展覧会があった後は倉庫(収蔵庫)に入れられて、もう見られないでしょ。だからイサムさんのロングアイランドのあそこがね、This is my basementでね。そこで来たら誰でもみんな(作品等を)見れるようにね。つくったひとつの考えね。そうだったけれども、ある作品はミュージアムに寄付したかったんですね。でもmuseumも「そういうたくさん彫刻をもらっても、maintenance(修復や保全)のお金もないとだめだ」と言われてね。それでよして(やめて)、自分の美術館をつくったんですね。その前はMoMAとかグッゲンハイムとか、ホイットニーとか、話があったんですね。でもみんな、やっぱりmaintenanceのための基金が、baseのあれがないとだめだって言われて、それだけお金がなかったんです。
辻:作品を、どのようにコレクションするのかということ。
サダオ:そう。
辻:そういうときのアドバイスも、ショージさんは関わられていたんですか。
サダオ:いや、それは(イサムが)自分で考えてやって。それともう一人、ちょうどその頃には、女性の友達でプリシラ・モーガン(Priscilla Morgan)っていう人が、わりあいに頭がよくて、art worldのこともよく知っててね。いろんな、もう、そのときの有名なartist、ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning)とかね、他にデイビッド・スミス(David Smith)とかね、プリシラがそういうartの世界をよく知ってたのね。イサムさんも好きになって、イサムさんのいろんなことをアドバイスして、どうしたらいいかということを相談しながら、イサム・ノグチ財団ができて、美術館になったりそういうことをね。イサムさんはその人にいろんなことを相談してました。
辻:それは1980年代ぐらい(のことでしょうか)。
サダオ:最初に会ったのは…… ああ、そう。MoMAのexhibition(展覧会)が59年だったかね(注:ニューヨーク近代美術館で開催されショージ・サダオも参加した「Three Structures by Buckminster Fuller」展(アビー・オールドリッチ・ロックフェラー彫刻庭園、1959年9月22日〜1960年3月1日)と、「Buckminster Fuller」展(1959年10月27日〜11月22日)を指す)。そのちょっと前に、プリシラとイサムが会ったのね。
辻:北海道の札幌にあるプレイグラウンドは何年ぐらいのお話でしたっけ。
サダオ:札幌は88年か。
辻:あれ(モエレ沼公園のガラスのピラミッドの設計)はアーキテクトファイブ。
サダオ:アーキテクトファイブ、そう、川村(純一)さんと。
辻:そうですね、はい。あのプロジェクトは、ショージさんは(どのように関わっていますか)。
サダオ:そう。僕がExecutive architectだった。モエレ沼。そう、イサムさんが亡くなってから、札幌市がやっぱりそのプロジェクトをcontinue、僕が続けて設計、そういうのを「やってください」って頼まれて、契約上入って、Executive architectになってやったんです。
辻:ショージさんとアーキテクトファイブの方々が。
サダオ:そう、そして僕のassociateとして、川村さんのアーキテクトファイブを。
辻:ああ、そうですか。そういうご関係だったんですね。ではプランニングは1980年代に。
サダオ:計画、全部のマスタープランはイサムさんが88年、亡くなる前にちゃんとつくってあるね。でもあれは(敷地が)One to thee thousandsで(注:イサム・ノグチが生前に残したマスタープランは縮尺が1:3000の大まかなものだった)。
辻:ものすごく広いですよね。
サダオ:それからどうするかってことをdetail、みんなね、僕とアーキテクトファイブと一緒にね、やったんです。
辻:これまでうかがってきたお話の中では、たとえば1960年代や70年代の初頭に、読売(新聞社)の正力松太郎さんとの関係でショージさんが日本に来るというお話はありましたが、1970年代や80年代にも日本にはいらしてたんですか。
サダオ:そう、日本に。うん。毎年1回ぐらい。何かの関係で来てました。仕事があったり何かプライベートなことがあったりね、うん。
辻:そういうときに、よく交流されてる日本人の方や、アーキテクトの方、アーティストの方はいらっしゃったんですか。帰ってくると必ずお会いしたりとか、お話ししたり。
サダオ:うん、こちらで会ってたのは、やっぱりイサムさんの弟のミチオ(道夫)さんね。それとか、建築家の佐々木孝っていう、早稲田の後輩だったけどね。それとか竹山実ね。
辻:はい。先日(第1回目の聞き取り)のお話でも。
サダオ:うん。それとか、他に誰に会ってたかね。
辻:ちょうど竹山さんが、新宿にグラフィカルな(建築物である)一番館と二番館を、設計されている時期ですよね。
サダオ:うん。あとは内間さんね、内間安瑆(Ansei Uchima)、アーティスト。ニューヨークに移ってコロンビア(大学)で教えてました。それとか誰だったかね、よく会ってたのは、ああ、広井力。彫刻家。イサムさんのアシスタント。イサムさんをよく手伝ってた人(注:広井力「イサム・ノグチの1950年代、日本」『美術手帖』53巻809号、2001年8月、66-69頁)。
辻:イサム・ノグチさんと関係がある方と、日本でもよくお会いすることが多かったんですね。
サダオ:そう、多かったです。
辻:ショージさんが関わってきたプロジェクトや、建築物の設計についてうかがってきて、お聞きできていないこともまだたくさんあると思うんですけど、今日伺ったお話だけでもおよそ1970年代ぐらいから現在まで、40年や50年ぐらいの期間なんですけれど、その間に東京ももちろん、ニューヨークもボストンも、アメリカの都市も、ずいぶん景色が変わっていると思うんです。
サダオ:そうです。
辻:いまは東京にいらっしゃって、これからニューヨークに戻られるということで、最近の東京やニューヨークに、どういう印象を持っておられますか。
サダオ:日本はほんとに、日本語では何ていうのかね、very civilizedね。very orderly(秩序化されている)、very cleanね。very safe、安心してね、食べ物もおいしいものがたくさん、レストランとかあるしね、非常に生活がしやすいところだと思いますね。ただ僕の問題は日本語、言葉ができないという。そして日本の文化に僕、入れないんですね。やはりいろんな名前とか場所が出てもね。I have no association(所在無い)ね。そしてテレビなんか見ても、なに言ってるかわからないしね。
辻:おもしろくない、うん。
サダオ:新聞読めない。雑誌なんかも読めないね。だからそういうところがやっぱり、I enjoy coming to Nihonね(あくまでも客として日本に訪れている感覚)。そして、僕のwifeは日本人でね。僕の場合はあと、頭がやっぱりwestern(西洋的)だからね。New Yorkに帰るというよりはね。New York行ったらI feel at homeね。みんな人に会ってもね、なに言ってるか、いろんなことでもすぐわかるしね。こっちだったらわからないしね。New Yorkはほんとに僕は、最初に75年だったね、New Yorkへ行ったのが、Bostonから移って。New Yorkもいろんなup and downがあったけれどもね、今はわりあいにsafe(安全)なとこですね。危ないところはまだ残ってますけれどもね、それはもうみんなわかってるしね、どこへ行っちゃ危ないっていうのがね。でも大体はもうsafeになってるね。最初にNew Yorkに行ったころは、もうほんとにmugging(強盗)っていうね。あれがあって、そして車でもガラスが割れていろんなものを盗まれたりね。そういうことはもうあんまりないね、New Yorkには。車は安心して、道に置いても大丈夫だし。ただNew Yorkはいま、普通の人がManhattanに住むのが難しいね。家賃が上がって、だからみんな若いartist、Brooklynに移ったりね。Queensとか。
辻:はい。私もそのあたりに、住んでいたので。
サダオ:ああ、そうでしたね。だからまあ今は、でもNew Yorkは若い人の町ね。日本は高齢者にもやっぱりいいですね。高齢者になったらニューヨークより。ほんとに日本はもっと安心して住めるけどもね。僕の場合は日本語が僕の文化じゃないから、いいところがあるけれどもやっぱりときどき、New Yorkに戻らないと。うん。でもNew Yorkはやっぱりみんなもう、若い人のvery activeで、very excitingね。そういうところが東京はちょっと、僕にはないのね。日本人にはあるかもしらないけど。
辻:(そういうことが)あまり伝わってこないというか、うん。Fulbright(フルブライト・プログラムの奨学金を利用して)で日本にいらしていたじゃないですか。先日伺ったお話で私も質問したことをおぼえているんですが、東京や、あるいは日本にかかわる…… ご旅行で日本にはいらっしゃる機会はあるというお話ですけども、自分の、なんていうんでしょうルーツというか、あるいは「日本的なもの」はすこし自分とは違うものという。でもたとえばニューヨークやボストンにいてもショージさんは、アジアの人というか、日系だっていうような(感覚はない)。
サダオ:あんまりそういう感じは、Los Angelsに住んでるころは日系二世で、白人とはぜんぜん違ってるという感じがありましたけれどね。New Yorkに行って、East(東海岸)の方に行ったら東洋人が少ないからわからないけどね。もう自分は自分で、別に東洋人で、日本人で二世というふうに考えない。いまからもうindividual(個人)でね。というような自由な感じで住んでます、New Yorkに。
辻:だからそういうことを自分で意識するも必要ない、自分のルーツとか、あるいはなんでしょう、ナショナリティみたいなものは、あまり強く意識する必要……
サダオ:あんまり強く、でも、やっぱり日本人、日系人っていうかな。やっぱりそれは、それだっていうことはわかってます。だから日本のものへ興味があって、newsなんかでも、やっぱりそれを見てるしね。それはやっぱり、なんていうかね。英語で「Blood is thicker than water」(親子や兄弟姉妹など血縁のある間柄は、他よりも絆が強い)っていうね。そういうことはあります。だから僕はできるだけやっぱりアメリカでは、もうほんとにintegrateしてね、アメリカ人になってますけれども、ほんとにそうなってるのは三世、四世ね。だから僕の甥とか姪とか結婚してますけれどもね、結婚してる相手は皆、日系人じゃないの。ひとりも日系人と結婚してる人はいない。みんな他のね、もうドイツ人とか、Cambodian(カンボジアの人)とか、ベトナムの人とか。前に言ったけど、ハワイのようになってきてるね。特にCaliforniaはね、mixed up(混ざり合っている)。
辻:さっきイサム・ノグチさんのFoundationの話で、アーティストの交流プログラムのお話をしていただいたんですけど、ニューヨークで過ごしている1975年以降のお話で、そういうときに、たとえばJapan Societyだとか、あるいはAsian Cultural Councilだとか。
サダオ:そう。そのころがJDR 3rd Fund(ロックフェラー3世(John Davison Rockefeller 3rd)による文化交流のための基金)だったね。
辻:はい。そういうことにショージさんは関わられていたりとか、お手伝いをされたりとか、お仕事されたことはありますか。
サダオ:僕はJapan Societyのメンバーだったね。それとかJDR 3rd Fundは、そのころポーター・マックレイ(Porter McCray)っていう人もよく知ってたし。だから協力してました。仕事もやったしね。だから日本との相互関係はやっぱり大事にしてましたね。
辻:ポーター・マックレイって、MoMA(ニューヨーク近代美術館)の国際部で文化交流に関するプログラムをやっていた人ですよね。
サダオ:やってた、そう。
辻:そうか、そうか。
サダオ:私とポーター・マックレイ、それから僕のwifeもそのころ、ポーター・マックレイとビル・リーバーマン(William Lieberman)ね。ビル・リーバーマンがこっちに来て、日本の若いアーティストの展覧会のために、手伝ってたんですよ。なにかMoMAでやったでしょ、Japanese Artistsの。あれは1950何年だったか。
辻:ああ、(MoMAは1950年代に日本と関連する展示を)何回かやってるので。
サダオ:そう。そのポーター・マックレイとリーバーマンと、あっちこっち日本を回って。interpreter(通訳者)として手伝って(注:ウィリアム・リーバーマンは「The New Japanese Painting and Sculpture」展(MoMA、1966年10月19日〜1967年1月2日)の準備のために来日した)。
辻:奥様とはどういうふうに(お知り合いになったのですか)、お話しいただけることだけで構わないです。
サダオ:はじめはお見合い(笑)。Fulbright(フルブライト・プログラム)の人が、フルブライトの日本のheadは西村(巌)さんっていう方ね(注:西村巌は日米教育委員会でフルブライト・プログラムの選抜等を行った。西村巌「フルブライト法に基く人物交流計画」『学術月報』7巻5号、1954年8月、283-284頁。以下も参照。「ハリー・レイ オーラル・ヒストリー・シリーズ 西村巌」『戦後教育史研究』20号、2012年6月、101-125頁)。そのすぐ下に真木雪子さんって女性の方ですね。真木さんの荻窪のビルの中の、家の中のスペースを僕、借りてたの。Fulbrightの間ね。そしてたまたま真木さんが、恒子の親のなにかの関係で真木さんを知ってたから。僕と恒子がUC Berkeley(カリフォルニア大学バークレー校)から東京に帰ってるから、会ったらどうでしょうかっていうような話で、会ったの。
辻:ではずいぶん前にお知り合いになった。さっきポーター・マックレイの話をされたときにもふれられたんですが、恒子さんもアートにかかわるお仕事だったんですか。
サダオ:そう。(ホテル・オークラの)フラネル・ギャラリー(Franell Gallery)っていうね、print(版画)の画廊をやってて、そこのpartnerにならないかと言われたんだけれども、ならなかった。
辻:ああ、なるほど。
サダオ:そのフランシス・ブレークモア(Frances Blakemore)ね。ブレークモアさんをよく知っててね。フランシスとトム・ブレークモア(Thomas Blakemore)。トム・ブレークモアって、Blakemore & Mitsuki(ブレークモア法律事務所)っていう、有名な弁護士の会社がありますけれどもね(注:占領期にトーマス・ブレークモアは法制の改革に携わり、フランシス・ブレークモアは民間情報局(CIE)で展示係長を務めた。以下を参照。Michiyo Morioka(森岡三千代), An American Artist in Tokyo: Frances Blakemore, Blakemore Foundation, 2007.)。
辻:では、そのころからパートナーとしてずっとご一緒ですか、恒子さんとは。
サダオ:僕ですか。いや、そのころ知ってたけども、結婚はずっと後でした。でも、そのころからつき合って。
辻:はい。それはたとえばお仕事したりだとか、なんでしょう、拠点にされている町がボストンからニューヨークへ移られたりする…… そういうときもご一緒に住んでおられたんですか。それとも別々で。
サダオ:そう、Bostonの時代は一緒に住んでました。
辻:ああ、そうですか。ときどき違うところにも住むけれども。一緒に住まない期間とか、お仕事の関係であったりとかは。
サダオ:結婚する前は。でも結婚したらもうずっと一緒です。BostonとNew York。
(休憩)
小見山:今日もいろいろ、いっぱいご質問させていただいて。ちょっと戻っちゃうんですけど、途中で思い出されていたように2年間、SUNYで教えたご経験がある。
サダオ:そう。
小見山:どういった内容か教えて(もらえませんか)。
サダオ:SUNYではdesignね。(小見山のカップに紅茶を注ぎ足そうとして)はい、ここに置いて。
小見山:ああ、ありがとうございます。
サダオ:SUNYでは、やっぱりdesign classをやってました。
小見山:じゃ、課題を出して、デザイン・スタジオ。
サダオ:そう、そう、デザイン・スタジオ。
小見山:どんな課題を出されてた(のですか)。
サダオ:そのときにやっぱり、普通の建築のprogramやりました。特別のあれじゃなかったです。Buckyのようなものじゃなかった(笑)。
小見山:(笑)。それはショージさんがおひとりで指導されていたんですか。
サダオ:そう、僕ひとりで。(辻のカップに紅茶を注ぎ足そうとして)はいはい、どうぞ。
辻:ありがとうございます。頂戴します。
小見山:それもやっぱりvisiting(客員)というかarchitectを。
サダオ:うん。visitingだから、BostonからBuffaloまで毎週、飛行機で行ってました。
辻:大変。
小見山:教えるテーマとか課題も、ショージさんが考えられたんですか。
サダオ:考えて、それやった、ええ。
小見山:(課題とする)敷地とかは、そのときに実際にやっていたプロジェクトの敷地に近いところとか、実際のお仕事と関係したことだったんですか。それともまったく関係なく、学生のもの。
サダオ:関係ないものでしたね。うん。あんまり僕はteaching(教えること)があわなかった。
辻:ああ、そうですか。
小見山:いま進行中で、ショージさんがやっているお仕事とかってあるんですか。
サダオ:いま仕事はないですね。僕のアーカイヴをきちんとする、それだけですね。イサムさんと一緒にやった仕事はノグチ財団に寄付して、Buckyとやったのはスタンフォード大学に。それを整理するのがこれからですよ。
小見山:以前書かれた、このフラーとノグチの本の続編というか、なにかまた別の本を書く計画もあるというお話があったような。
サダオ:ない、ない、もう。
小見山:ここでまだ語られていないこととかっていうのは。
サダオ:まあ、あるんでしょうね、考えたら。
小見山:そうやって整理された資料を今後、研究者がアクセスできるようになるから、そういった人たちが補完していくことができるんですか。
サダオ:いま日本のアーティストとか建築家の、(他の)オーラル・ヒストリーやアーカイヴはあるんですか。
辻:美術に関するオーラル・ヒストリーのアーカイヴは私たちがやっているこれで、今回の聞き取りの内容もあとで(後年に)リサーチのために利用できるように進めているんですけど、アート・アーカイヴや、あるいは(建築の)図面や模型のアーカイヴは日本国内でもまだ準備しているような段階で、海外から研究者が日本に来てリサーチをするためには、まだ整っているとは言えないですね。
サダオ:いま慶應(義塾大学)のアート・センターにイサムさんの何か、アーカイヴをつくって、それと牟礼にイサム・ノグチ美術館があるから。
小見山:そうですね。
辻:ただアメリカで私もリサーチをしていたんですが、そこでお会いするlibrarian(司書)やarchivistのような方がすごく少ないので、もちろんcuratorも少ないです。
サダオ:少ないね、うん。もうこれでおしまいでよろしいですか。それともまだ。
辻:一度、区切りとして、今回は2回分としてまとめて。
サダオ:ああ、そう。はい、わかりました。
辻:2000年代に「ふたりのイサム」っていう展覧会がノグチ・ミュージアムであったと思うんですけど、本があって、そこに松本哲夫さんが(注:「Design: Isamu Noguchi and Isamu Kenmochi」展、ノグチ・ミュージアム、2007年9月20日〜2008年3月25日)。
サダオ:そう、松本さんがね。
辻:はい、書いているんですけど、この(展示と)本はフラーとノグチですよね(注:「Best of Friends: R. Buckminster Fuller and Isamu Noguchi」展、ノグチ・ミュージアム、2006年5月19日〜10月15日)。
サダオ:そう、そう。
辻:だから、なんでしょうね、コレクティブというか、コラボレーティブ。
サダオ:そうね。
辻:プロセスが重なり合っているのがすごくおもしろいです。私は松本哲夫さんにも、同じ日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのために聞き取りをしてるんです。
サダオ:ああ、そうですか。松本さんね、もう昔から知ってます。Kenmochi Design Associates(剣持デザイン研究所)のね、KDAって残ってますね。
辻:はい。たぶん、剣持さんのところも、アーカイヴが問題になると思うんですよね。
サダオ:剣持さんが自殺する2、3カ月前に寿司食べてましたけどね。そのときには何にも、普通のようなあれでしたけれどね。
辻:ちょうど新宿に京王プラザって大きな建築物が、高層ビルができて、剣持デザイン事務所がインテリアのことをやって。それからすぐに、剣持さんはお亡くなりになってしまうので。
サダオ:へえ。(剣持勇の)息子の晋介さんに、よく会ってます。今回(の帰国で)は会ってないけれども、New Yorkでよく会ってました。彼もノグチ美術館の近くに住んでてね。だから、イサムさんがあのビルを買ってリノベーションするときに、晋介さんと僕とね、一緒に、もういろんな労働をしましたね。木の床を削ったり、壁を壊したり、新しい壁をつくってpaintしたり、いろんな仕事。renovation(改修)は、イサムさんと僕と剣持(晋介)さんとやったんだから。
辻:(小見山に)お聞きできなかったことは。
小見山:いや、もう。うん、十分に聞けました。
辻:わかりました。ではこれで終わらせていただきます。ありがとうございました。
小見山:ありがとうございました。
サダオ:いや、こちらこそ、ありがとう。