編集者
兵庫県西宮市生まれ。名古屋大学卒業後の1960年、美術出版社に入社。61年に創刊された「美術選書」シリーズをはじめとする書籍の編集を手がけたのち、『みづゑ』、『美術手帖』、『美術手帖』増刊号、『別冊美術手帖』および創刊時の『デザインの現場』各誌の編集長を歴任した。
聞き手に元美術出版社の編集者・三上豊氏をお迎えし、第1回は画家・美術教師の父のことや生い立ち、大学時代の美学講座や美術サークルでの活動、美術出版社入社の経緯や大下正男社長の薫陶を受けた書籍部時代、『みづゑ』編集部時代についてお聞きした。
なお、本インタビューは田中氏自身による編集が施されているが、インタビュー内容と大きな異なりはなく、時代状況が田中氏の視点から語られている。
三上:それではまずお誕生日を教えてください。
田中:誕生日は1936年(昭和11年)です。峯村敏明さんとか高松次郎さんなど、美術関係者が多いですね。11月17日で、兵庫県の西宮生まれ。親父(田中爲信、1907-72年)は東京芸大(当時の東京美術学校)の図画師範科を卒業して、最初の赴任地が兵庫県の龍野女学校で、絵の教師だったんです。その後、大阪の旧制市岡中学(現在の市岡高校)に転勤しました。その時の教え子にはその後各界で活躍した人が多くいまして、当時住んでいた西宮の夙川の長屋に遊びに来ていましたね。夙川の長屋は阪神国道と夙川が交差する土手の下にあり、その川の土手を登って幼稚園や夙川国民学校(小学校)に通っていました。
小学校入学は昭和18年(1943年)だったと思いますが、太平洋戦争が激しくなり、阪神間は工業地帯でしたから米軍の空襲も始まり危ないというので、翌年(昭和19年)の2年生になった4月から、親父の故郷、三重県の当時は鈴鹿郡野登村(ののぼりむら・戦後亀山市に編入)のド田舎の鈴鹿山脈のふもと、国鉄関西線の亀山駅から2里ほど山奥に入った親父の生家に疎開しました。本当に山奥の田舎でしたが、実家はもともと小地主で、田畑や山林を多少持っていて、田んぼは小作人につくってもらっていましたね。そこには1938年まで曽祖父の田中爲松(1853-1938年)が住んでいて、自作農の百姓をしていました。祖父の爲治(1875-1937年)は伊勢の神宮皇學館を出て旧制中学で国漢の教師をし、1937年に亡くなったときは旧制の神戸(かんべ)中学(現・鈴鹿高校)の校長でした。祖母が親父の3兄弟と末娘を生んで間もない1916年に亡くなっていて、男やもめで、神戸中学の近くに親父3兄弟やその従兄弟たち5人と一緒に住み、それぞれみな神戸中学に通っていたそうです。わが家系は曽祖父の前の代から男の子はみな名前に「爲」を付けていました。「爲造」「爲松」「爲治」「爲信」「爲芳」と5代続きましたが、私の次の代で辞めました。1938年以来実家は空き家になっていて、父の再従姉妹にあたる隣村に嫁いでいたおばさんが時々管理してくれていました。空き家同然だったのでそこに疎開しました。やたら広い家屋敷で築200年にもなる田舎家でした。
当時はそんな山奥の小学校にもクラスに同じような疎開児童が3、4人いて、東京にいた私の同学年の従兄弟も我が家の離れに住んでいました。彼は終戦後すぐに東京に戻りましたが。
三上:その辺のことを自分史に書いていたんでしょう?
田中:最初のところだけね。西宮に生まれたころや、両親のこと、それぞれの家系のこと、田舎生活のことなど、中学に入ったところまで書いていたんですけど、いろいろなことに紛れてそのままになっちゃいました(笑)
中学校を出て公立の亀山高校(前身は鈴鹿高等女学校)に入り、そのあと名古屋大学の経済学部を受験し、失敗。浪人することになり、名古屋に出ました。
三上:名古屋で浪人生活をしたんですか。
田中:そうです。予備校(名古屋駅前にあった河合塾)に最初は亀山から通ったんですが、山奥から自転車で亀山駅まで出て、関西線で名古屋まで全部で片道2時間近くかかって、とても勉強どころではなく、名古屋に下宿することにしました。下宿は瑞穂区にあった旧制第八高等学校(後の名古屋大学教養学部の構成母体)のすぐ近くで、名古屋大学に入ってから卒業するまでその下宿にいました、最初3畳の狭い部屋から最後は8畳の広い部屋へ。中で3回部屋を替わって5年間も(笑)
三上:名古屋大学には、美学美術史学科ということで入ったんですか。
田中:いや、経済学部を2度受験したんですが合格点には届かなくて、第2希望にして願書を出していた文学部に入れることになったんです。親父が絵描きで美術教師でもあったし、美術にはなじんでいたんですが、当時の絵描きは肺病になる人が多かった。親父も同様で、不摂生な生活をしていてひどい肺病やみでした。京都大学病院で肺の整形手術を受けたり、亀山に疎開してから旧制の伊賀の上野中学、富田中学や、戦後は亀山中学や浄土真宗の高田本山が経営している私立高田高校で教えていたけれども、教師稼業も休職の繰り返し。そんな姿を見ていて、自分は絵描きや教師にはなりたくないなと思い、経済人か弁護士になりたいと思っていました。母(よし子、1914-2007年)方の遠縁にあたる人に、極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人を務めた清瀬一郎がいたこともあって。芸大にいた工藤哲巳氏(1935-90年)とは西宮時代に親父同士が知り合いで、よく行き来して知っていました。工藤氏の父親(工藤正義、1906-45年)は新制作協会の設立に参加していた有望な画家だったんですけれど、若くして肺病で亡くなったんです。工藤氏に会ったとき、「親父たちの世代は肺病で、我々の時代は肝臓病に気をつけなきゃね」と言って笑っていましたが、彼は大酒のみで結局癌で亡くなりましたね。私の酒は付き合い程度で、あまり飲めませんから、「俺は大丈夫だ」なんて言ったことがありました(笑)
三上:文学部の1学年の定員は、そのころは少なかったですよね。
田中:文学部は100人ぐらいだったと思う。
三上:そんなにいましたか。
田中:いましたよ。文学科、史学科、哲学科とありましたからね。
名古屋大学のほかにも横浜市立大の商学部や早稲田の法学部も受験して、早稲田はだめで横浜市大には合格したんですが、結局田舎に近い名古屋大学に行くことにしたんです。入ってから法学部に知り合いの教授がいて、私の入学点数は法学部にも入れる点数だったと聞き、国立大は3年生になる時に専攻科に移るので、法学部の転入試験を受けてみたらと言われてそのつもりで準備をし始めたんです。けれど、文学部哲学科に美学美術史講座があるのを知って、今更受験勉強は嫌だなと思い、結局あんなに嫌だった美術関係に行くことにしちゃったんです。ただ美学美術史は正式の講座ではなく、西洋哲学科の借り講座でした。いずれは正式講座になるんだということでしたが、我々が卒業して十何年か後で正式講座になったようですね。
鏑木:借り講座? “借り”なんですか?
田中:講座として借りていたわけです。美学美術史には、我々の学年では南山大学の仏文科を出て学士入学してきた前田耕作氏(1933-2022年)がいました。彼は南山大時代に学生結婚をしていて、名大に来た時には子持ちでした。卒論はサルトルの美学だったと思います。卒業後はアフガニスタンのバーミヤン遺跡調査に参加して、アジア文化の研究者として活躍しましたね。彼を含め5人、その上の学年も4、5人、大体毎年3、4人いました。
専任講師として東大の美学美術史出身で美学・仏教美術のゼミを持っていた柏瀬清一郎氏、専任助手として音楽美学の高村氏がいた。あとはすべて集中講義で、学生の希望なども入れて毎年5、6人が講師として来ていました。中でも毎年定期的に2回、美学のゼミを持っていた美術評論家の針生一郎氏(1925-2010年)が来ていました。
三上:ほかの講師陣はどんな方がいたんですか。
田中:日本美術史は専任の柏瀬氏がやっていたので、西洋美術史の古代エジプト、ギリシャ美術は東京芸大の新規矩夫氏(1907-77年)、西洋中世、近代美術は吉川逸治氏(1908-2002年)、それから京都大学の考古学の水野清一氏(1905-71年)や芸能史の林家辰三郎氏(1914-98年)、また映画美学として佐々木基一氏(1914-93年)など、錚錚たる講師陣をお呼びして、その都度1週間ぶっ続けで朝から夕方まで集中講義を受けました。
鏑木:集中講義ならではですね。
三上:集中講義ではどんなことを聞いたんですか。
田中:年に2回、前期と後期に来ていた針生さんは美学の歴史で、ドイツの哲学者ヘーゲルの美学とかロシアのマルクス主義美学。特に針生さんの講義を聴いていたら難しくて、まるで牛の念仏を聞いているようで、ついつい眠くなったりしていましたね。集中講義が終わると「ヘーゲルと現代芸術」という何を書けばいいのかよくわからないテーマでレポートを提出するように、と言って帰っちゃうわけです。ほとんどの集中講義はレポートの提出でした。常勤の専任講師のゼミは毎週2、3時間あって、講義が終わったらそのころ凝っていたトランプのカードゲームに徹夜で付き合わされたり、ストリップ劇場通いにも凝っていて、柏瀬氏たちとみんなでよく行きました。また原書購読ではヘーゲルの美学をドイツ語で読まされましたね。大部な原書で一部日本語の翻訳も出ていましたが、ドイツ語が難しくて四苦八苦。結局2年で100頁も読めなかったと思いますよ(笑)
三上:すごいね(笑)
田中:集中講義が中心だったから美学の教室に行くのは普段は週に3、4日。大学に入って教養学部の終わりころに絵が好きな仲間と一緒に美術部をつくり、写生会をしたり、ヌード・デッサンやクロッキーを描く集まりをしました。教養学部の近くの桜山にあった経済学部(旧名古屋高等商業専門学校)の広い教室を借りて、モデル斡旋所に頼んでモデルを呼んでやっていました。また名古屋の中心部の栄町にあった画材を扱っていた、桜画廊だったと記憶していますが、そこの2階にあったデッサン教室に出入りしてクロッキーやヌード・デッサンを描いていましたね。美術教師やプロの芸術家のための科がある学芸大や教育大、造形大などは外して、それ以外の名古屋工大、名古屋市立大や南山大学、金城学院短大や名古屋女子大など一般大学や短大の美術部に呼びかけて、〈愛知学生美術サークル〉という会を結成していました。愛知県文化会館美術館(現・愛知県美術館)の美術団体展や企画展をやる広い展示室を借りて、年に1回美術サークル連合展を開催していました。当時はまだ愛知芸大はなかったですね。
〈愛知学生美術サークル〉では名古屋工大の建築科にいた黒川雅之(1937-)と知り合ったりしましたね。建築家・黒川紀章氏の弟です。
三上:ああ、そうですか。黒川雅之さんは田中信太郎さんのアトリエの設計をやっているんですよ。それで一昨年、手紙のやり取りをしました。
田中:黒川の再婚した多分2人目の奥さんはオシドリ政治家・加藤勘十、シヅエの娘の加藤タキさんでね。私が後に美術出版社で浮世絵の艶本を編集・出版したときにタキさんに推薦文を書いてもらったことがありました。
鏑木:田中さんがつくったクラブは大学の中だけではなくて、割と大きなものだったんですね。
田中:名古屋大の美術クラブだけで画廊を借りて展覧会をやっても大したことはできない。それで愛知県というか、名古屋にある大学の美術クラブに呼びかけたら、名古屋工大の黒川や南山大や名古屋市大の中心メンバーたちが集まって、〈愛知学生美術サークル〉という連合会にしようということになったんです。名古屋の中心部・栄のテレビ塔の下に愛知県文化会館美術館ができたころでもあって、全国的な主要美術団体の名古屋展がそこで開かれるようになっていました。そこでサークル展もしようということになったわけです。我がサークルはアマチュア絵描きの集まりでしたが、毎年1回1週間借り切って開催することにしたんです。言い出しっぺで、会長をやらされちゃいましたね。
それにしても、美術館の広い展示スペースを1週間借りて展覧会をするにはかなりの費用が掛かる。さあ、どうする?ということになった。メンバーから出品料を取ってやるような集まりではないし、当時サークル活動の資金集めにダンスパーティーを主催してパーティー券を売りさばくことで捻出することが流行っていた。その手で行こうということになり、鶴舞公園にあった公会堂のパーティー会場を一晩借りて、メンバーにノルマを課してパーティー券を売らせたわけです。パーティー券を売るには国税庁に届けて、パーティー券に承認印を押してもらい、税を納めないと売れない。それで私が名古屋の国税庁にハンコを押してもらいに行ったんですが、実際に売りさばく券の半分にだけ押してもらい、残りは闇で無印のまま売りさばくのが常識だった。結局そのパーティー券の売り上げで、パーティー会場の費用も展覧会の会場費もみな賄えていました。おつりが来たくらいで、取り仕切りをしていた数人のメンバーの打ち上げ会もやっていましたね。
細谷:文化活動が盛んですごいですね。
三上:そのころダンスというのは社交ダンスですよね。どこで覚えたんですか。
田中:そう、社交ダンスです。ダンスパーティーがあればどこでも行っていたやつもいた。私はダンス教室にちょっと通いましたよ(笑)。だけど照れ屋だから全然ダメ。諦めましたね(笑)
三上:そうですか(笑)
田中:よくあんなことができていたなと思いますけどね。まあ楽しんではいましたね(笑)
三上:前田耕作さんがアフガンに最初に行くときは船だったわけですよ。退屈だからそこでやっぱりダンスをやったと。前田さんにダンスができるんですか、と聞いたことがありました。名古屋大学というか、学生はよくやってたんですね。
田中:何かやるために、しょっちゅうダンスパーティーを主催して資金集めはしてましたね。
三上:昔の若者向きの日活映画を見ると、そういうのが出てきますね。
細谷:確かにダンスパーティーのシーンがよく出てきますよね。
田中:でも、美術サークルの活動ばかりじゃないです。奨学金をもらっていたけど、学費稼ぎにアルバイトをしてましたね。下宿していたから夕食付の家庭教師を週に2件とか、変わったバイトはタクシーGメン。友人2人と組んで、夜中にタクシー運転手の不正を調査する仕事。当時のタクシーは客が乗車したら料金メーターを倒すんですが、倒さないで走って、それ相当の料金をもらうのがいたんですよ。メーターに出てないから会社で清算する必要がないわけ。当時はまだ赤線などの色街があって、そこへ行き来する客が多かったのでその客を装って不正をチェックしていた。タクシー協会のバイト料は夜中だから割がよかったですね(笑)
三上:ところで絵は公募展には出さなかったわけですね。
田中:出す気もなかったし、公募展向きの絵じゃないから。二科展に出して入選したと喜んでいるのもいましたがね。
鏑木:田中さんはどんな作品をつくっていたんですか。
田中:何とも言えないね。実存主義が騒がれだしたころでもあり、不条理だとかニヒリズムだとか言いながら、暗い人物画を描いていましたね。ベルナール・ビュフェが人気で、あの強い線の表現は好きでしたね、少しまねたような絵を描いたり……。それから暗い絵ですが麻生三郎さんの絵が好きで、人物を壁に塗り込めたような絵もまねていました。
三上:そういうものはなにで見ていたんですか。
田中:団体展とか特別展とかを見に行ったり、親父が絵描きだったから家に『みづゑ』とか『美術手帖』、『アトリエ』といった雑誌があり、よく見ていましたよ。ビュフェなどは当時人気で、美術出版社の雑誌などでよく特集を組んでいましたね。
三上:ブームになっていましたね。
田中:〈愛知学生美術サークル〉で中心的に動いていた黒川や、南山大の2人、名古屋市大で二科に出していた我が下宿屋の次男坊、それに私を含めた5人で〈荼毘〉というグループを結成して「既成の芸術をぶち壊し、荼毘に伏せ!」などと威勢のいいことを言って、パンフレットにそれぞれの主張を書いて、名古屋の丸善画廊で年に1、2回グループ展もしましたね。
細谷:「宣言」をしたんですね。
田中:そうです。
鏑木:創作活動も活発になさっていたんですね。
田中:粋がってね(笑)。でも私の作品などは言うほどには大したものではなかった。そのころの作品は自分では持ってなくて、名古屋にいる友達2、3人が私の絵をいまでも持っているとか言ってたけれど……。見たこともない(笑)。見るに堪えないものでしょう。
三上:それではいよいよ就職の話をお願いします。
田中:就職試験というものを最初に受けたのは朝日新聞社。美学出身だから美術記者にでもと思った。それでまず、朝日新聞社の入社試験があるというので応募したんです。名古屋は関西地区に入っていたらしく、大阪で試験を受けろという。前田耕作氏も受けるというので、2人で私の母方の叔父で関西学院の中等部の部長をやっていた矢内正一氏(1900-84年)が西宮の甲東園に住んでいたのでそこに泊めてもらって受けた。矢内氏は、名物教師的存在だった人で、関西の教育関係者にはよく知られていました。でも結果は2人とも不合格。そして、受験が終わって名古屋に帰ろうと思ったときに大変な目にあったんです。名古屋が大被害を受けた伊勢湾台風とちょうどぶつかっちゃって、列車が止まって動かない。帰ろうにも帰れなくて、やっと帰れたのが2、3日してからだったと思う。やっと名古屋に帰り着いたら、名古屋はめちゃくちゃになっていた。幸い私や前田氏の家は無事だったんですが、桑名から来ていた美学の同級生の家がひどいことになっていた。それで、そこへ片付けの手伝いに行きました。それから名古屋の港に近いところがひどいことになっていて、そこにも救援や手伝いに行ったりしましたよ。
就職の話に戻ると、本当は映画関係に行きたかった。映画は総合芸術だからやってみたかったんですよ。ちょうどそのころだったと思うんですが、話題になっていた映画『キューポラのある街』(1962年)を名古屋大の仏文出の浦山桐郎(1930-85年)が監督していたり、美学の先輩にも京都の東映だったと思いますが、助監督をしているのがいたせいかもしれないですね。
三上:そのころ映画は映画館でボンボン見てたんですか。
田中:見ていたといえば見ていたけど、入りびたってというほどではなかったですね。
ただ映画関係は斜陽産業になりかけていた時で、映画会社に入ってもせいぜい万年助監督になれたらいいところだよ、と先輩に言われましたね。それじゃ当時各地にテレビ局ができたので、そこで映像関係のディレクターもいいのかなと思いました。実際に活躍している先輩も2、3人いましたしね。しかし私が卒業した年は名古屋の中部日本放送(CBC)も、できたばかりの東海テレビも採らないということでしたね。
鏑木:不景気だったんですか。
田中:不景気というか、前年にかなりたくさん採っていたので採らなかったんですね。
では出版社を受けようかなと思い、知り合いもいたので小学館を受けられるか確かめたら、地方大学からは採らないと言われましたね。就職先がなかなかなくて、石油コンロの会社で東南アジアに輸出をしていた豊臣工業(現・株式会社トヨトミ)という会社から、よりによって文学部に求人がきていたんです。海外販売・宣伝要員とかで、美学で就職浪人をしていた先輩と東南アジアに行けるのはいいねとか言いながら、冷やかし半分で受けたら入っちゃった(笑)。結局誰も行かなかったようですが、さてどうしたものかと。そんな時に、私の母の兄が美学に集中講義で来たことがある新規矩男さん(1907-77年)を知っていて、たまたま私の話が出て、就職に困っているなら美術出版社に紹介してあげますよということになって、それで美術出版社を受けることができたんです。以前に先輩で受けたのもいたけれど、だめだったんですね。
三上:美術出版社には筆記試験はあったんですか。
田中:もちろんありましたよ。
三上:どんな問題か覚えていますか。美術史の問題?
田中:美術史の用語と作家の関係についてとか、自分が入社したら何をやりたいかといったテーマでの小論文も書かされましたね。
三上:やっぱり一応美術のことを知っているか、ということですよね。
田中:そうですね。美術出版社の試験を受けた時もいろいろありましたね。新卒、経験者を含めて2、30人が受けたようですが、私は誰とも一緒に受けてないんですよ。というのは受験が前年の年末だったか、年が明けてからだったか忘れましたが、当時は国鉄がしょっちゅうストをしていて、筆記試験のときも面接のときもストで、「ストで列車が動いていないので行けません」と連絡したら、「来れるときに来てください」ということで、2回とも2、3日遅れで別の日に受けました。それが目立ったんでしょうね。最後まで残って、新人2人と経験者2人が合格しました。
三上:田中さんと同期入社となった雲野良平さん(くもの・りょうへい、1960年入社。グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界—マニエリスム美術』[1966年]や澁澤龍彥の著作を手がけ、『みづゑ』編集長を経て編集部長を務めた)も残っていたんですね。
田中:新人は雲野と私で、経験者としては『それいゆ』の編集者だった愛甲健児さん(あいこう・けんじ、1931生。60年入社)と、詩人で自分の詩集を出していて詩の雑誌の編集もしていた堀川正美さん(ほりかわ・まさみ、1931生。61年に『現代詩』編集委員となり、64年には『太平洋 詩集 1950-1962』思潮社を発表)でした。
三上:面接には大下正男社長(1900-66年。水彩画家で『みづゑ』を創刊した創業者の大下藤次郎[1870-1911年]と春子夫妻の一人息子。早大建築科在学中より、藤次郎早逝後に雑誌を引き継いだ母を助けて仕事を手伝う。25年に卒業し、建築事務所に就職した後も編集を続けていた[建築事務所は36年に解散]。戦時中は雑誌統制を受けて『新美術』と改題、43年の雑誌統合で『美術』となるとともに日本美術出版社の社長に就任。戦後46年に『みづゑ』として復刊し、48年には新生した株式会社美術出版社初代社長となった)は出ていたんですか。
田中:出ていたでしょうね。私は後日、別に受けたから面接されましたよ。面接の時だったか筆記試験の問題だったか忘れましたが、材料を与えられて雑誌の表紙のデザインをしろという問題もありましたね。
三上:それらは何月ぐらいにあったんですか。
田中:先ほどもちょっと触れましたが、卒業の年(1960年)の最後ギリギリですよ。それで新(規矩男)先生に「おかげさまで美術出版社に決まりました」と言ったら、「美術出版社は給料が安いから、給料のいい平凡社を紹介するから受けてみませんか」と言われたんです。でももう試験を受けるのは勘弁してほしいなと思い、お断りしちゃいました。
美術出版社に入ってすぐに、東京芸大や共立女子大で教えていた友部直さん(1924-98年。新規矩男の弟子筋で、美術出版社からエルンスト・H・ゴンブリッチ『美術の歩み』上巻・1972年、下巻・1974年を翻訳出版)にどういういきさつだったか偶然会ったら、「君、新先生のところにご挨拶に行ったか」と言われて、慌てて菓子折りを持って武蔵境の公団住宅の新さんの家に行きましたよ(笑)
三上:私が宮川寅雄さんのところに行ったのと同じですね(笑)
田中:それで4月1日から出社ということになったんですが、何しろ東京生活は初めてで、弟が桑沢デザイン研究所に行っていて武蔵小山に下宿していたけれど一緒に住めるようなところじゃなし、会社に住むところを探してくださいと言ったら、最初探してくれたのが赤羽の荒川土手沿いの志茂町の4畳半の下宿でした。
三上:赤羽時代ですね。
鏑木:美術出版社に入社したのが1960年4月で、田中さんはおいくつになりますか。
田中:1年浪人しているから、23歳かな。
三上:ここに1957年4月の美術出版社の図書目録がありますが、そこに美術出版社の建物の写真が出ていますね。
鏑木:これはどこだったんですか。
田中:(目録の写真を見ながら)ああ、それは目白台から四谷に移って最初の美術出版社の3階建ての木造社屋です。私が入社試験を受けたころは新社屋を建設中だったと思います。入社試験を受け、入社したときは裏にあった仮の建物だったと思います。新社屋は翌年の1月落成で、地上4階、地下1階の鉄筋コンクリートのビルでした。
三上:外濠公園の総合グラウンドがJR中央線の線路沿いにあるでしょう。野球場のバックネット裏の向かい側。
田中:市ヶ谷の自衛隊に降りていく三差路になった坂道の角。
三上:東京マラソンの心臓破りの坂の途中。
田中:マラソンで飯田橋を過ぎて市ヶ谷からダラダラ坂が四谷までずっと続いている、あの坂道に建っていた。余談ですが1970年に三島由紀夫と〈楯の会〉のメンバーが自衛隊に乱入して自決したときに、美術出版社は組合闘争でロックアウトしてストをしていたんです。道路沿いのガラス窓に、抗議のステッカーをベタベタと派手に貼っていた。そこにパトカーがサイレンを鳴らして次々に来たので、まさか我々のストに?と言っていたら、自衛隊の方に降りて行ったんですね(笑)
三上:ここの土地は大下家のものだったんですか。
田中:そうでしょう。出版社はほとんどが個人商店でしたから。
三上:麹町の番町に社長の自宅がありましたよね。
田中:のちに、世田谷美術館を設計建築した内井昭蔵さんの設計で、3階建てのコンクリート建てのビルになりました。
三上:話を戻しますが、『みづゑ』の編集部ということで入社されたんですか。
田中:そうなんです。入社試験の時も雑誌の編集部に入れるということだったんです。当時、美術出版社が出していた雑誌は『みづゑ』、『美術手帖』、『デザイン』(1959年に『リビングデザイン』より改題)、『国際建築』(編集:国際建築協会)、『美学』(美学会学会誌)、『MUSEUM』(東京国立博物館研究誌)で、『美術批評』(1953-57年)は廃刊になっていました。雲野氏は書籍編集部ということでしたね。ところが入社したときに『美術手帖』の編集部にいた宮澤壯佳さん(みやざわ・たけよし、1933-2019年。56年入社。『美術手帖』、『みづゑ』編集長を務める。以後、多くのムック本を手がけて編集部長、顧問を経て、96年から2005年まで池田満寿夫美術館館長。著書に『池田満寿夫 流転の調書』玲風書房、2003年がある)が『みづゑ』の編集部に回ったので、とりあえずしばらくは書籍を担当してくださいということになったんです。
三上:それで書籍で最初は何を担当したんですか。
田中:最初は、当時『ホームギャラリー』という先輩の益田祐作さんが中心になって出版していたシリーズがあって、その別冊として「日本の仏像」(1960年)をつくれということになった。日本の代表的な仏像12点、例えば興福寺の阿修羅像とか広隆寺の半跏思惟像、東大寺の月光菩薩像とかを選んで、それらを撮影していたカメラマン、土門拳、藤本四八、坂本万七、入江泰吉らの写真や、奈良の飛鳥園などの写真を集めて、さらにそれぞれの簡単な作品解説を自分で書いていましたね。
三上:新卒で入ってすぐにですか。
田中:よくわからないけど、私の卒論は浮世絵の発生・初期についてだったので、一応日本美術史もやっていましたし、専任講師の柏瀬氏の専門分野だったので、皆で奈良・京都の寺社・仏像や平泉の中尊寺なども研修旅行で行っていましたから。
細谷:ああ、そうなんですね。
鏑木:『ホームギャラリー』というのは1枚ずつ入っているタイプのものですか。
田中:そうなんです。12枚が1セットになっていて、セルロイドの額のようなケースに入れて壁に飾れるようになっていましたね。飽きたら別の写真に差し替えられる。
鏑木:飾れるようにつくっている。
田中:そうです。実際の展覧会などでは、作家の高価な実物作品を買って飾れない人たちがほとんどですよね。ちょっと殺風景な壁に、世界の名画や仏像写真を飾って楽しみたい人のためですよ。
細谷:本当に入社すぐですね。ほかには……
田中:当時の編集部長だった三浦淳さんが、柳亮さんの『桂』(1961年)という超豪華本をつくっていたんですね。写真撮影は藤本四八さんで、すべて特撮。大変な本づくりでした。三浦さんは実作業があまり得意じゃなかったみたいで、当時制作部を担当していた有吉成一さん(ありよし・せいいち。戦後すぐに東大を出て、岩波書店校閲部のアルバイトを経て1950年ごろに入社)とほとんど2人で実作業をしていました。とにかくまだ新人ですからどうなっているのか、有吉さんに頼りっきりでまったく手探り状態。右往左往していました。著者の柳亮氏は黄金分割の第一人者で、桂離宮の美をすべて黄金分割に当てはめて解説していましたね。本づくりは超豪華で特別注文の桐箱、絹貼りの表紙の布は特別に二色の染め分けで、タイトルの“桂”という文字、これも特別に木版画家に彫らせて、豪華本づくりのエキスパートと言われていた製本屋・神田の大完堂に造本を頼んでいました。当時の画集とか写真集のカラー印刷は原色版印刷で、色刷り図版だけまとめて印刷し1点ずつ切り離し文字を刷った本文紙に人手を使って貼り込むという、大変に手のかかる工程を経て造本していたんです。新米の私は使い走りでそれぞれのところに行かされ、本づくりの大変さを勉強させられましたね。玉電の桜新町の柳さんのところにも原稿の打合わせ、催促、受け取り、校正と頻繁に通い、黄金分割も徹底的に叩き込まれましたね(笑)
三上:この“桂”という木版の文字は誰が彫ったんですか。
田中:誰だったか覚えていませんが、お持ちいただいた凡例のコピーを見ると扉の木版文字は「古韓本順治版木版の写」となっているので、誰かに復刻してもらったんだと思います。
三上:全体のコーディネーションというか、ディレクションは誰がやったんですか。社長の正男さん?
田中:そうですね。社長が全面的にかかわっていた。とにかく本づくりという点では、すごい人だった。
三上:どういうところで?
田中:すべて。当時は写真家・土門拳の代表的写真集『古寺巡礼』(限定版、全5巻)、『障壁画全集』(京都・奈良ほか名刹ごとに1巻の全10巻、編集担当者・森清凉子)、『若冲』(編集担当者・森清凉子)のほか、『岡鹿之助画集』(特装限定版)など大画家たちの豪華作品集を、社長中心によく出していました。『古寺巡礼』は上甲ミドリさん(じょうこう・みどり、1925生。50年入社。『美術批評』、『美術手帖』編集部ののち、土門拳、菅井汲、駒井哲郎、山下菊二らの作品集を手がけ、編集部長を務めた)が担当した。
社長のそういった本に対する考え方、本への愛着、本づくりへのこだわり、作業に対しても丁寧で、徹底していたところを敬服していました。だから自社刊行の新刊ができたとき、雑誌でも単行本でもすべてその日のうちにすぐに目を通して、気に入らない本づくりをしたり、誤植がたくさんあろうものなら、編集者が社長室に呼びつけられて叱られましたね。話す声に少しコンプレックスがあったのか寡黙な方でしたが、指摘は的確で、すごい人だなと思いましたよ。とにかくこの人のもとで仕事をしたいと思い、社長が変わってからも美術出版社で46年も務めました。
三上:途中から息子に代替わりしちゃったけれどもね(後述)。書籍時代にはほかにどんな本にかかわっていたんですか。
田中:『桂』や『ホームギャラリー 日本の仏像』の後も、多くの本を編集しましたね。『美術手帖』の増刊号で技法書(「絵画材料の選びかた・使いかた」189号、1961年5月増刊)をつくりました。森清凉子さん(もりきよ・りょうこ、1933年生。56年2月1日入社、3月1日に早稲田大学を卒業。主に日本美術系の書籍を編集。水尾比呂志『東洋の美学』1963年、辻惟雄『奇想の系譜 又兵衛-国芳』1970年などを担当)と組んだ仕事です。表紙を大辻清司さんに撮ってもらった。画材や使い方の写真は自社カメラマン・酒井啓之さん。酒井さんは美術出版社に来る前に大辻さんのアシスタントをしていました。迎賓館の前で写生している場面では私がモデルになったり、本づくりにかかわることはほとんど何でもやりましたね。私が入社したときには『日本美術全史』(今泉篤男ほか編、上巻・1959年、下巻・1960年)という日本美術史の決定版(のちに時代別分冊で愛蔵版と普及版が刊行された)の大部な本を編集していて、日本美術のオーソリティーの森清さんと組んでつくった本が多かったですね。森清さんが『古美術ガイド 京都』(1964年)、私が『古美術ガイド 奈良』(1965年)で、いずれもイラストレーターの真鍋博さんに大きな絵地図を描いてもらった。絵地図はA全判の大きさで、折りたたんでB6判の本に差し込むかたちです。そのために真鍋さんと2人で奈良の旅館に2泊ほどして、各寺社を案内しながら取材して回りました。その前に入社してすぐに副読本的な入門書として、森清さんが担当して武者小路穣さんの『日本美術史』(1961年)、私が担当して嘉門安雄さん監修の『西洋美術史』(1961年)をつくりましたね。西洋美術館が開館(1959年)して間もないころで、学芸課長だった嘉門安雄さんが監修して学芸員のメンバー総出で執筆してもらいました。嘉門さんが原始、穴澤一夫さんが古代、中山公男さんが中世と20世紀、高階秀爾さんがルネサンス、芸大の坂本満さんが17、8世紀、東大の池上忠治さんが19世紀と、みんな若くて新進気鋭のメンバー。ほかにも佐々木英也さんや黒江光彦さんら、西洋美術館の学芸員の方と仕事することが多かった。
三上:西洋美術館の立ち上がり早々にそういう人達と付き合ったということですね。
田中:そうです。ル・コルビュジエ設計の新しい美術館の学芸員室に入り浸っていました。この「美術史」の後、『美術手帖』で1959年に一部を連載していたルネ・ユイグ『見えるものとの対話』(中山公男・高階秀爾訳、全3巻、1962-63年)を担当したから。原書は大部な本で、雑誌で翻訳していた分量はたいしてなかった。パリ留学帰りのフランス語に堪能な高階さんと、文学的表現力とフランス語が得意な中山さんの2人の翻訳を全面的に信頼し、翻訳がなかなか進まないときは催促したり、ちょっと訳文に引っかかるところがある時はフランス語があまりわからない私が辞書を引き引き原書と付き合わせたりして確認した。2年余りの付き合いでしたね。当時は装丁や本文レイアウト、造本などのプランも編集者自身がやっていて、表紙のタイトル文字なども読売明朝の清刷りを頼み、一文字ずつ切り貼りして字間を詰めてカッコイイ版下をつくったりしました。割と得意だったので、他の人から頼まれたりもしてた。今のように外部のエディトリアル・デザイナーに頼むことはなかった。
三上:それからこの『古代中国の美』(杉村勇造編、全3巻、1962-63年)のシリーズですか。
田中:中国美術の専門家の杉村勇造さんは、中国科学院考古研究所編『新中国の考古収穫』(杉村勇造訳、1963年)という翻訳本がありました。その翻訳本と同時並行的に日本のコレクターが持っている中国の美術作品・骨董品の写真集を「古代中国の美」シリーズとして出してほしいといわれてつくったんだと思いますね。「仏像」(1962年、撮影・藤本四八)、「土偶」(1962年、撮影・坂本万七、藤本四八)、「銅器・玉器」(1963年、撮影・藤本四八)の3冊。杉村さんは雑司が谷の霊園墓地の傍に住んでいて、そこに2、3年通いました。日本のコレクターのところにも連絡して、カメラマンと一緒に撮影に行きましたね。このシリーズ本の推薦文を、骨董品のコレクターでもあり、古美術にも造詣の深い大作家・川端康成氏と東洋学者で考古学者の三上次男氏の2人に頼んであるから、原稿が出来たら取りに行ってくださいと言われて、鎌倉の川端さんの自宅まで行きました。川端さんの家の瀟洒な座敷に通されて待っていると、私の前に座った川端さんは小柄でやせていましたが眼光が鋭く、こちらの内面まで見通されているように感じました。とにかく丁重に押し戴いて帰りましたね。何を話したか全く覚えていない。
三上:川端さんに直接電話か何かしたんですか。
田中:いや、直接には電話しなかったと思う。杉村さんから頼んであって、「川端さんの推薦文ができているから取りに行ってください」と言われ、いただきに行く時間の連絡はしたと思います。
三上:なるほどね。
田中:新米の編集者が直接自分でできるわけないよ。三上(次男)さんの原稿もできているからもらってきてくださいと言われて、多分東大の研究室かなんかに行ったと思いますよ。
三上:こういった本を編集担当するときは社長から直接言われていたんですか。
田中:どうだったかな。多分編集部長の三浦さんから言われたと思うね。
三上:こういう写真集のようなヴィジュアルな本も、本文組とか図版レイアウトは自分でやってたの?
田中:それは全部自分でやっていました。当時は『みづゑ』などの雑誌でも、全部編集者がやっていた。1970年ごろからは、表紙周りや口絵頁は白岩登三靖さんに頼んでいたね。得意不得意はありましたけどね。『美術手帖』もそのころから杉浦康平事務所の中垣信夫氏に頼んでいましたね。
鏑木:田中さんは日本の古美術から西洋美術、中国美術と、入社当時からオールマイティーに編集されていますね。
田中:オールマイティーというか、美術の世界のことは何でも自分の方に引きよせて、「何でもやれるよ」というか、無節操にみられていたんじゃないかな(笑)
「中国」の後に、世界各国で翻訳出版されていた代表的な大部な美術の歴史書、H.W.ジャンソン『美術の歴史—絵画・彫刻・建築』の日本語版(1964年)、東北大学の村田潔さんが翻訳監修して、東北大学の美術史のメンバー総出で翻訳した本の編集を、同期入社の雲野良平氏と組んでやりましたね。これは大変な作業でした。また、1966年にはジョージ・ケペッシュの化学写真をデザインの素材にした『造形と科学の新しい風景』の翻訳本を、早稲田の西洋美術の教授・佐波甫(本名・大沢武雄)さんが監修して、佐波さんの弟子筋の高見堅志郎氏が翻訳しました。これも翻訳に相当てこずりましたね。
三上:翻訳ものの版権は、中国のものもちゃんととっていたんですか。
田中:洋書や海外の出版物の版権交渉を一手に引き受けている代理店がありましたからね。当時は毎年ドイツのフランクフルトで大きな国際書籍見本市があって、参加していましたしね。そこで欧米数社と提携出版、輸出・輸入を契約していた。例えば写真集『日本の寺』、『古寺巡礼』や『いけばな』など、各国語に翻訳して毎年のように海外の出版社から海外版を提携出版していました。
三上:「美術選書」というシリーズがありましたが、あのシリーズも提携出版なんですか。マークはドイツの出版社の真似だとおっしゃっていましたよね。
田中:そうです。ドイツの出版社のデュモン社(DuMont)で出ていたものを例のフランクフルトの国際書籍見本市で見つけたのか、デュモン社から持ち込まれたものかわかりませんが、日本で似たマークを付けたシリーズとして出し始めたんです。
三上:その立ち上げにも咬んでいるわけですよね。
田中:立ち上げは、森清さんと一緒に組んでやりました。
鏑木:最初からかかわったんですか。
田中:多分、最初に森清さんが以前出ていた東野芳明氏の『グロッタの画家』(1957年初版)をこのシリーズで再刊し、同時に私がやはり既刊の柳亮氏の『フランス美術』(初版時の書名は『近代絵画史—ドラクロアよりピカソまで』、1949年)を1961年に出したんだと思いますね。その後、森清さんは水尾比呂志さん(『デザイナー誕生』1962年ほか)や辻惟雄さん(『奇想の系譜』1970年ほか)といった評判になった本を含めて、かなりかかわっていましたね。私はその後は、1962年にパリ帰りの画家・岡見富雄さんの『パリ美術散歩』と、65年に宮川淳さんが翻訳したミシェル・ラゴンの『われわれは明日どこに住むか』の2冊だけだったと思います。同期入社で書籍編集部の雲野氏が澁澤龍彥『夢の宇宙誌』(1964年)、宮川淳『鏡・空間・イマージュ』(1967年)などを出していた。私はその後、雑誌に移りましたからね。
鏑木:三上さんはこのシリーズを最初の方から見ていたんですか。
三上:学生のときには書店に並んでいるのが普通でしたよ。これが美術出版社の看板シリーズだったんでしょう。
田中:そうですね、出し始めた時に評判が良かったと思います。ドイツで出ていたシリーズの表紙のつくりがすっきりしていて、上3分の1の白い帯状部分にマークとタイトルが入っていて、下3分の2にモノクロで図版を入れていた。マークだけがカラーで、全体にモノトーンなのが新鮮だったんですね。装丁はそっくりそのままです。
細谷:マークはドイツのものをそのまま使ったわけじゃないですよね。
田中:向こうのものはデュモン社の“d”のマークですが、こちらは美術選書の“bs”です。
三上:シンボルマークのデザインは誰がしたんですか。
田中:誰かは知りません。ジャンル別に色を決めて区分して使っていました。たとえば東洋・日本美術は濃紺、随筆・紀行・伝記は緑といったように。
三上:宮川さんがラゴンの翻訳をしたということは、そのころ宮川さんともう頻繁に仕事をやっていたんですか。
田中:ラゴンの本は多分ドイツのシリーズに入って出版されていたものの翻訳だと思います。それで私が担当しろということになって、これをきっかけにその後、雑誌に移ってからも含めて、宮川さんとたびたび仕事をしたんだと思います。
鏑木:ちょっと休憩しましょうか。
(休憩)
三上:(美術出版社の1997年の図書目録を見ながら)図書目録でこの年だけ絶版目録を入れていますね。誰がつくったんですか。
田中:広報部がつくったんでしょうね。資料室もあったし、制作部でも出版総リストは持っていた。
鏑木:こういうもののことを、出版社の方たちは“絶版目録”とおっしゃるんですか。
田中:図書目録のなかに、絶版目録がある。
細谷:図書目録のなかに、絶版目録のページをつくる、ということですよね。
田中:図書目録の前の方(のリスト)は、このときに実際に販売しているものなんだよね。
三上:営業が使うんです。
田中:それで問い合わせがあると、(絶版のものに対しては)「絶版です」と言わなければいけない。絶版になっているかどうか、ということを見るために、絶版目録として1945年以後のものをやり出した。
この目録の凡例を見ると、この目録を出した1997年4月1日から消費税が5%に改定されたと書いてあるから、それがきっかけでしょうね。ただこの年だけですね、絶版目録が付いているのは。もっと前の1988年の図書目録は、その年が何かの記念の年だったのかどうか全く覚えていませんが、巻頭に社長の「美術出版社の生い立ち」という文章を入れて、単なる目録でなく、カラー写真で各ジャンルごとに書影を入れた立派なものをつくっています。図書目録は、営業ツールなんですよね。
話は戻りますが、戦後の新生美術出版社の技法書のバイブルとして刊行されていた名著、岡鹿之助『油絵のマティエール』(1954年)に代わる新しい技法書が出せないかと、当時の書籍の先輩編集者の益田祐作さんと私の2人が大下正男の社長室に呼びつけられたことがあったんです。多分1965年ごろだったかな。それで益田さんと2人でいろいろ練って考えたんですが、結局、「岡さんの本をしのぐ技法書はできません」と断ってやらなかった(笑)。
しかし技法書のような基本的な美術の啓蒙書は、美術出版社に欠かせないものだという考えはあって、その後で道具と材料にこだわった企画や本をかなり出しましたね(後述)。
鏑木:それはかつて絵を描いていた田中さんならではのお話ですね。
田中:かも知れませんね。美学・美術史だけやっていたらあまり技法書なんて考えなかったかもしれないね。親父も絵描きで美術教師だったし、『みづゑ』とか『アトリエ』もずっと見ていたしね。
三上:さっき名前の出た岡さんは美術出版社の顧問だったんですよね。
田中:そうです。大下正男社長は岡さんと今泉篤男さん(当時の国立近代美術館館長)を顧問というかブレーンとして、いろいろ相談をしていた。美術評論家でパウル・クレーのコレクターでもあった和田定夫さんは、ドイツで銀行の海外駐在員をしていて、海外版の仕事の相談をしばらくしていたらしい。そのころよく3人を社内で見かけましたよ。
三上:話は替わるけど、田中さんは映画の本も多く出していますよね。「美術選書」のアド・キルー『映画とシュルレアリスム』(上・下巻、飯島耕一訳、1968年)とか、マリー・シートン『エイゼンシュタイン』(上巻[1898-1932]、下巻[1933-48]、佐々木基一、小林牧訳、1966-68年)とか。
田中:アド・キルーは新人の岩崎清と一緒につくった。だから編集作業は岩崎がやりました。岩崎は早稲田の独文出身で、ユニークな人物でしたね。「美術選書」の土方定一『ブリューゲル』(1963年)も担当して、鎌倉近美によく行っていた。美術出版社をやめてからはメキシコに行って鍼灸師になったり、日本に帰ってきてからは青山にあったこどもの城に勤めていました。
三上:『エイゼンシュタイン』は、名古屋大学時代に佐々木基一さんと関係があったからですか。
田中:いや、そうじゃないですね。小林牧さんから話が来て、佐々木さんに監修してもらうので出してもらえないかと。この翻訳本は大変でしたよ。小林さんの訳が硬くて、一緒に何度も佐々木さんの家に伺いましたよ。佐々木さんの新しい家が井の頭線の富士見ヶ丘にできたばっかりの時だったかな。
三上:本になるまでに結構な時間がかかりましたよね。
田中:上下出すのに3年かかっていますね。そのころに同時に『現代映画事典』を出している。
細谷:『現代映画事典』は1967年ですね。
田中:佐々木さんのところに『エイゼンシュテイン』で通っていた時に、映画の事項を並べた辞典は出ているけど、総合芸術として多角的に映画を考える、読む事典はないのでつくりたいと相談したんだと思います。
鏑木:佐々木さんと田中さんの間で、そういう企画が出てきたんですか。
田中:そうだったと思いますね。それで日大の芸術学部映画学科の岡田晋さんを引き込んで、彼を中心に、佐々木基一、佐藤忠男、羽仁進の4人が編集委員となり、私も参加して企画内容を検討し、項目づくり、執筆者選定などを打ち合わせる会議を何度もやって決めました。執筆者はほかに岩崎昶、野田真吉、林光、松本俊夫さんらにお願いしています。よく売れて重版したし、最初はペーパーバックだったものを上製本に代えて、改訂版として出していたと思います。『現代デザイン事典』(1969年)もつくったらどうかと、GKデザインの榮久庵憲司さんを中心にGKのメンバーたちが執筆して、後輩の武井邦彦氏が編集担当して出しましたね。
三上:私も『現代映画事典』は買いました。そのころはあれしかなかったんだ。
田中:どうして映画の本かというと、前にも言ったように学生時代から総合芸術として映画に関心があって、イタリア・ネオリアリズム(ロッセリーニ、デ・シーカ、ヴィスコンティやアントニオーニ)、ポーランド派(アンジェイ・ワイダやカヴァレロヴィチ)と言われていた映画はほとんど見ていたし、スウェーデンのベルイマンや、ちょうどそのころヌーベルバーグといわれる監督たち(ゴダール、トリュフォー、ロジェ・ヴァディムやアラン・レネ)が次々と話題作をつくって、公開されたのを全部見ていたんですね。日本映画も黒澤明、溝口健二、小津安二郎をはじめ、日本のヌーベルバーグと騒がれた増村保造、今村昌平、大島渚らの作品は片っ端から見ていた。1962年に新宿の伊勢丹の横に日本アート・シアター・ギルド(ATG)の映画館(アートシアター新宿文化)ができて、そこで公開された映画もすべて見て、パンフレットも全部買っていました。さらに赤坂にいけばなの草月会館が草月ホールを持っていて、そこで「実験映画祭」とか「短編映画祭」とかをやっていて、取材という名目でしょっちゅう事務所に顔を出していましたね。その時、事務局にいた奈良義巳さん(のちにフィルアート社を設立)や波多野哲朗さん(のちに東京造形大学教授)と知り合い、催し物の企画づくりにも参加していた。
細谷:田中さんはプログラムというか、企画にも参加していたんですね(笑)
田中:そうですね。前衛映画とか実験映画の時はね。
細谷:どちらかというとアート系ですね。
田中:そうですね。草月でヤクザ映画祭(「ヤクザ映画 戦後日本映画のひとつの流れ」1968年2月10-20日)をやろうといったけど、私は大衆映画やヤクザ映画はほとんど見てなかった。あれは波多野さんの企画ね。彼はよく見ていたみたいだね。
細谷:ポーランド映画もよく見ていたんですね。
田中:ワイダの『地下水道』(1956年)とか『灰とダイヤモンド』(1958年)は何回も見ましたね。それで余談だけれども、入社して早々かな。経験者として一緒に入社した堀川さんとポーランド映画が好きだと話していたら、たしか『現代詩手帖』だと思ったけど詩人の堀川さんが編集もしていて、ポーランド映画について原稿を書きなさいよと言われ、生涯にたった1本の原稿を書きました。ペンネームでね。先にも後にも公の雑誌などに原稿はこれ以外書かなかった、というか書けなかった。生涯一編集者ですよ。
鏑木:それは何年ごろですか。
田中:会社に入ってすぐだったと思うけど、忘れましたね。その雑誌もどこかにあったと思うけど、わからない。何しろ東京に来てから11回も引っ越しましたから。
細谷:日本の実験映画にも関心はあったんですか。松本俊夫さんとか。
田中:ええ、当然。雑誌に移る前のこのころには、映画の本だけでなくハンス・リヒター『ダダ—芸術と反芸術』(針生一郎訳、1966年)も手がけています。針生さんの原稿をもらうのは大変でしたね。京王線・代田橋の大原交差点近くの針生さんのお宅にはよく通いました。彼は喫茶店の薄暗いところで原稿を書くのがスタイルで、約束した喫茶店に行ったらいない。何しろ喫茶店のはしごをするんですね(笑)。次に行きそうな決まった店に当たりを付けて追っかけをしていた。またこのころは雲野氏がグスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界—マニエリスム美術』(種村季弘、矢川澄子訳、1966年)とか、澁澤龍彥『幻想の画廊から』(1967年)、三島由紀夫・池田弘太郎翻訳のガブリエレ・ダンヌンツィオ『聖セバスチャンの殉教』(1966年)といった話題になった本を出していた。
細谷:話は変わりますが、1966年の羽田沖の飛行機事故のことについてお聞きしたいのですが。
田中:1967年に『追想 大下正男』という追悼の本が出ているので、それを見て記憶を呼び起こしながら事実を紹介しておきたいと思います。広告代理店の招待で多くの出版社の社長たちが北海道の雪まつりに参加し、北海道から帰着直前の全日空機ボーイング727型機が羽田沖に墜落するという大惨事に巻き込まれたのは1966年の2月4日の19時でした。大下正男社長をはじめ全員死去。遺体は8日にようやく発見され、それまで社員は交代で羽田に行っていたと記憶しています。大ショックな出来事でした。
この追悼本によると、1966年は美術出版社60周年で社長の亡くなる前、1月17日にマツヤ・サロンで祝賀会をやり、虎ノ門ホールで、映画は『アラビアのロレンス』だったと記憶していますが、読者招待の特別試写会を盛大に行なったことを思い出しました。
細谷:札幌の雪まつりには美術出版社の社員がほかにも行っていたんですか。
田中:社長だけです。各社一人だったようです。
三上:第一報はどこで聞かれたんですか。
田中:19時だから、自宅だったと思います。それでみな慌てて会社に行ったと思います。
三上:そこからですね、美術出版社が社長交代でおかしくなりだしたのは。
田中:そうですね。社長の急死で息子の大下敦氏が社長になった。彼は慶應義塾大学の経済学部を卒業後、凸版印刷に見習いに行き、1958年に美術出版社に入社してすぐ、6月に渡米、ニューヨーク大学で暫く学んだあとに著名な美術書出版業のエイブラムス社(Abrams Books)の編集部で1年半ほど修業。私が入社した1960年の5月に帰国し、美術出版社で最初は営業部を見ていたと思います。
三上:エイブラムス社には社長に言われて行ったわけですか。
田中:そうでしょう。次男の大下敏氏(美術出版デザインセンター[現・美術出版エデュケーショナル]社長を務めた)もやはり1963年にエイブラムス社に行かされていたようですね。
三上:社長が変わってどうなったんですか。労働組合はそのころから……。
田中:大下敦氏(1932-2011年)が新社長になってやった仕事は、帰国後の1961年からエイブラムスや、デュモン、イギリスのテームズ&ハドソン社(Thames & Hudson)と提携して出しはじめていた『世界の巨匠』シリーズ(全56巻・別巻4巻)に続いて、提携出版の画集シリーズ『現代美術の巨匠』、『モダン・マスターズ・シリーズ』、『アートガイド・シリーズ』といったシリーズを次々に刊行したことでしょう。しかし美術全般や出版には積極的な興味を持っているようには感じられず、とにかく売り上げなどの錢勘定にだけは関心が強かった。前社長の正男さんと比べたらあまりにも頼りない。自社で出版したものに対しても愛着があまりないように見えた。また最初にも言ったように社員の給料は出版界でも最下位に近いほど低かった。雑誌も出していたから社員の仕事はきつく、いろいろと不満が渦巻いていたんですね。正男さんが社長だったらあり得なかったでしょうが、不満分子が2、3人集まって極秘で労働組合をつくろうということになったんです。
三上:社長が交代してすぐですか。
田中:すぐですね。製作部にいた有吉成一さんが、例の樺美智子さんが圧死した60年安保闘争の国会議事堂前の集会で一緒だった平凡社の組合の知り合いに、組合の組織の仕方の相談をしたんです。
細谷:組合づくりのきっかけというか、要因というのは。
田中:もちろん何しろ給料が安かったから賃金闘争が中心で、待遇改善や、経営に関する今後のことなどですね。初代委員長は有吉さん、すぐ翌年からかとにかく二代目が私、そのあと雲野氏が委員長になった。年末闘争などは相当激しい団体交渉をやったり、ストなんかも頻発していましたね。例の三島事件の時のように。70年代後半には都立新宿高校出身の元気でエネルギーがある入澤美時氏という、もっと若手の勇ましいのが委員長になり大暴れをしていましたね。
三上:でもそのころ、印税とか原稿料は払っていたんでしょう。
田中:他と比べると安い原稿料だったし、印税も計上されていたけど支払いが滞りがちで、原稿依頼に行っても肩身が狭かったね。専門出版社はどこでも似たり寄ったりでしたね。
三上:社長が変わったあとに人事異動があって、田中さんは『みづゑ』の編集部になったんですか。
田中:早稲田の美術史から新卒で木村要一(きむら・よういち、1944-2019年。『みづゑ』、『美術手帖』編集長を経て、93年から2007年まで成安造形大学教授を務めた)が入社したのをきっかけに、人事異動があった。その前年には宮澤壯佳氏が編集長だった『美術手帖』編集部にやはり早稲田から椎名節(しいな・みさお。『美術手帖』編集部を経て『みづゑ』編集長、編集主幹を務める。退社後は『村松画廊 1942-2009』、『美術批評集成 1955-1964』藝華書院、2021年、三田晴夫『同時代美術の見方—毎日新聞展評 1987-2016』藝華書院、2022年などの編集を手がける)が入っていた。『みづゑ』の編集部は生尾慶太郎氏(いくお・けいたろう、旧姓・永井、1929-2019年。慶大美術史出身で54年入社。58年『みづゑ』編集部に配属、のち編集長。71年、東京セントラル美術館企画部長となる。著書に『美術を鳥瞰するとき 1989-1999』里文出版、2000年がある)が編集長で、森口陽氏(もりぐち・あきら、1936生。多摩美大出身で60年入社。『みづゑ』、『美術手帖』編集部に務める。72年、季刊美術雑誌『gq』を主宰、94年より東京造形大学教授を務めた)と2人でやっていたが、森口氏が『美術手帖』に異動して私が書籍から入って、『みづゑ』の編集部が3人体制になったんです。木村の教育係みたいなものかな。生尾さんは編集の実作業はあまり得意じゃなかったからね。なにしろ、毎朝出社したらまず主要新聞3紙と日経、産経の2紙をカバンから取り出して、美術に関する記事を読みながら切り抜いて、スクラップブックに液体ノリでベタベタ貼るのが日課でした。編集会議や打ち合わせなどがない場合は、午前中一杯はほぼそれが彼の仕事。午後は美術館や画廊や筆者のところに一緒に出かけない場合は一人で出かけていましたから、編集の実作業は残った2人でこなしていた。スクラップブックは膨大な数でしたが、貴重な資料ではあったんですね。
三上:そうですか、3人体制でね。
田中:そう。1968年の4月からその3人が大(生尾)・中(木村)・小(田中)の珍コンビの取り合わせで、何しろ毎週月曜日に画廊の展示が変わるので、新橋から日本橋まで渡り歩くのが日課になっていた。雑誌ですから、画廊の取材は絶対でした。
三上:それが画廊まわりの始まりですか。
田中:そうです。特に『みづゑ』の編集部は三羽ガラスって言われて、3人でいつも一緒に動いていましたね。四谷に会社があって、昼飯にもほとんど一緒に行き、食後に「ロン」という喫茶店でコーヒーを飲んで駄弁っていた。時には社内カメラマンの酒井啓之さんや雑誌『デザイン』の編集部にいた村上幸子さんも加わってね。『美術手帖』は5、6人のメンバーだったからそれぞれでしたね。
三上:そのころ『みづゑ』では「画廊から」とか、1969年からは「アート・クロニクル」で三木多聞さんや岡田隆彦さんといった数名の美術批評家が個展・グループ展の選定をして作品図版を掲載する、従来の展評とは一線を画した取り上げ方をしていましたね(詩人・評論家の岡田隆彦は慶大仏文卒業後、やはり詩人で早大独文出身の長田弘と同時に1962年美術出版社に入社。岡田は当初『美術手帖』編集部に配属、長田は書籍編集部で入社早々に杉浦康平が装丁デザインした『中井正一全集』全4巻、1964-81年の編集を担当した)。
『美術手帖』は当時、展覧会のスケジュールは紹介していたと思いますが、ああいう展評はやっていなかったですね。
田中:そうですね。『みづゑ』は画廊だけでなく美術館も、企画展だけでなく上野の都美術館の美術団体展も取材紹介していました。美術団体が創設されたときは、二科とか自由美術、行動、日展、院展などそれぞれに主張がありましたからね。それがいつごろからか、どの団体もあまり差がなくなってしまって、取材しなくなりました。鎌倉の近代美術館もいい企画展が多かったので、よく取材に行きました。大下正男社長も画廊や美術団体とは自身が『みづゑ』をやっていたこともあって懇意にしていたので、特に日動画廊にはよく行っていました。
三上:画廊を回っていて、田中さんが親しくしていた画廊はどこですか。
田中:特別にはないですよ。当時の画廊回りは新橋の第七画廊からスタートして、それから東京画廊、シロタ画廊、村松画廊、彩壺堂画廊、彩鳳堂画廊、ギャルリー・ムカイ、青木画廊、京橋の南天子画廊、南画廊、日本橋の日本画廊、真木・田村画廊、秋山画廊など、きりがないね。
三上:当時の『みづゑ』の特集や海外作家の紹介ラインナップを見ますと、生尾さんの傾向が強いかと思いますけれども。
田中:我々2人に比べれば画廊回りはずっと長いわけですから、最初はついて歩いていた。
画廊といえばちょっと話は変わるけど、私は『みづゑ』に移った1968年5月から企画内容にかかわったんですが、その直前の759号(1968年4月)で藤田嗣治の追悼特集を出している。この追悼号の出版を藤田夫人・君代さんは、許可した覚えがないと抗議してきた。理由は美術出版社の雑誌かなにかで以前に針生一郎氏が藤田嗣治の女性関係を書いていたという。それがひどかったので美術出版社だけではなく、日本の雑誌なんかでの追悼号の出版は断るという理不尽な話だった。熊谷守一の作品を一手に扱っていたギャルリー・ムカイのオーナー・向井加寿枝さんが藤田夫人と親しい関係にあることを知って、美術出版社との間を取り持ってほしいとお願いし、ちょうど日本に帰国していた藤田夫人と向井さんのとりなしで私がお会いし、無事解決したというようなこともありましたね。藤田嗣治に関しては藤田自身も君代夫人も、戦中・戦後にいろいろあって日本画壇には強い不信感があった。だから遺作展の開催やそのカタログづくりも大いにもめたと聞いていました。
だから画廊とはいろんな意味で重要なかかわりが多かった。作家紹介の頁も必ず毎号やっていましたから、取材とかね。
三上:生尾さんの傾向か、シュルレアリスムとか幻想絵画とか世紀末象徴主義作家が多いですね。
田中:『みづゑ』が特集主義というか、巻頭特集を始めたのは754号、1967年の11月からで別に生尾さんだけではなく、我々2人も面白がっていました。特に銀座の青木画廊がウィーン派といわれたウィーン幻想派の作家の個展を次々としましたからね。『みづゑ』の編集部に移って最初にかかわった760号(1968年5月)の特集が「ウィーンの伝統と幻想」で、日本でいち早くグスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、フンデルト・ワッサーを紹介して話題になりましたね。特集の巻頭原稿はウィーンで彫刻をつくったり、演劇の役者までやっていた飯田善國さんで、その後も彼とはいろいろかかわりました。
三上:青木画廊ですか。エルンスト・フックスとかエーリッヒ・ブラウアーとか。
鏑木:当時そういうものがすごく流行っていたんですね。
田中:評判になって流行らせたということですね。ほかの雑誌ではあまり取り上げてなかった。『藝術新潮』や『芸術生活』をはじめ、日本画中心の『三彩』や技法中心の『アトリエ』はもちろんのことね。『みづゑ』は権威的な雑誌で、ステータス・マガジンと見られていた。
鏑木:そうなんですか。
田中:金持ちの医者には絵が好きだったり、自分でも描いていた人が多かった。また開業医の待合室に『みづゑ』を置いていたり、一流会社の応接室に置かれていたりね。
細谷:そういうことを念頭に置きながら編集していたんですか。
田中:それだけではないけれども、とにかく質のいいものをきれいな原色版で見せるとか、見せ方にはこだわりましたね。特集のテーマもいろいろあって、「幕末版画に見る情念の造形—歌川国芳とその周辺」(764号、1968年9月)とか「デュシャンと現代芸術」(767号、1968年12月)、「アール・ヌーヴォーとアルフォンス・ミュシャ」(768号、1969年1月)、「エゴン・シーレ:ふるえる魂の独白」(776号、1969年9月)、「瞑想の宇宙図・チベット」(777号、1969年10月)と評判になった特集号は多角的なテーマを取り上げた。またマチス、ゴヤ、エル・グレコ、ルドン、ムンク、イヴ・タンギー、グスタフ・クリムトとか、内外の多くの大家の美術館での企画展を取材して特集を組みましたね。
三上:国内の美術館の企画展なども特集にしていますよね。
田中:めぼしいものはね。特に生尾さんは鎌倉の近代美術館の土方定一館長とはかなりかかわっていましたね。戦後すぐの1951年に日本で最初の公立近代美術館として開館以来、65年にカリスマ性のあった土方さんが館長になって当時の学芸員たち、佐々木静一、青木茂、朝日晃、匠秀夫、弦田平八郎、酒井忠康ほか多士済々を含めて付き合いが多かった。私が『みづゑ』の編集に移る前に、土方さんの16回に及ぶ「ドイツ・ルネサンスの画家たち」という長期連載(751号、1967年8月が最終回。同年に単行本として刊行)を掲載していたりね。特集「現代彫刻の可能性」(779号、1969年12月)などは、彫刻批評も専門にしていた土方さんや彫刻家・飯田善國さんが中心になって日本鉄鋼連盟と共催で「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」を日本で開催したので、それを取り上げました。土方さんは宇部や須磨、箱根彫刻の森などの野外彫刻展のボス的存在だった。世界で活躍していた内外の彫刻家13人が参加したもので、制作現場を取材したり、作家の発言を紹介した画期的な特集ですが、これなどは生尾さんと土方、飯田両氏の強い関係があったからできたものだと思います。もうひとつ変わりどころの特集の一つ「絵金:幕末土佐地狂言怨念図譜」(789号、1970年10月)なども、土佐の土着の画家・浜口富治さんとの密な関係で、現地に編集部3人とカメラマンの酒井啓之さんの計4人で取材に行って、撮影したりしましたね。日本の展覧会取材ではない海外の画家たちのカラー図版は、海外の所蔵美術館やコレクターからカラーフィルムを取り寄せていました。
三上:『みづゑ』の海外の作家たちの特集で、図版のもとになっているカラーポジは海外の美術館や画廊から取り寄せていたわけですね。
田中:そうですね。海外からカラーを取り寄せるには相当手間がかかりましたね。特集ではないけど、澁澤龍彥さんが「人工楽園の渉猟者たち」というタイトルで連載して、1968年11月の766号でハンス・ベルメールを取り上げているんですが。そのための図版資料をパリの画廊から送ってもらったら、猥褻書画だから通関できないと税関の検閲に引っかかってしまった。連載に穴が開いたら大変だと、私が羽田の税関まで説明に行って、やっと通関してもらったということもありましたね。ほかにも時々税関に行ったことがあります。エロチックな写真やカタログでね。
三上:その頃、『別冊みづゑ』は誰がやっていたんですか。
田中:『別冊みづゑ』は河野(葉子)さんとか、いろいろな人がいたね。『別冊みづゑ』は画家特集ですね。ああいうのは益田さんとか河野さんとか、書籍にいた人がやっていました。
三上:図版の色校正などはどうしていたんですか。またいろんな版式がありましたよね。カラーは原色版とかオフセット版。単色はグラビア版とか。
田中:『みづゑ』の色刷り口絵は原色版で、五反田にある光村原色版印刷所。オフセットはそのころはあまり質が良くなくてまだほとんど使ってなかった。今は原色版で別刷りすることはほとんどないですね。今は図版も文字も一緒の組版で擦れるオフセット刷り。製版・印刷の機器がよくなったのでね。当時は単色の口絵はグラビア印刷の別刷りで、印刷工場は品川だったと思うけど、グラビア精光社でした。本文の文字・写真版は市ヶ谷の大日本印刷。『美術手帖』は板橋の凸版印刷でしたね。
三上:校正はどこでしていたんですか。
田中:原色版は光村、グラビア版はグラビア精光社、本文活版は大日本印刷とそれぞれの印刷会社に出張校正していました。
三上:話は変わるんですが、生尾さんが抜けて、田中さんが『みづゑ』の編集長になるのは1971年の5月号からですよね。71年の初めに2、3か月空白があって、編集人に川合昭三さん(かわい・しょうぞう、1928生。技法書の書籍を手がけ、68年退社後は『季刊版画』を発行。著書に『十人の版画家』河出書房新社、76年などがある)がなっていますね。
田中:よく覚えてないけど、1971年10月に銀座の松屋の並びの銀座貿易ビルの5階に東京セントラル美術館ができた時、そこに土方さんの紹介で企画担当者として生尾さんが行ったのです。退社したのは1970年の終わりか71年の初めですね。川合さんは美術出版デザインセンターの役員で、学校教材のカラースライドづくりや版画友の会に関係して『季刊版画』を出したりしていて、デザインセンター時代にも海外取材の経験もあったので、生尾さんが辞めた後に本社の編集部長として来たんでしょう。実質的には私が編集長になるまで編集会議には出ていたけれど、編集作業はしてなかったと思います。本社補強のためか、デザインセンターの役員をしていた谷本和彦さんが本社の書籍編集部長として来たり、営業製作部長として海津庄之助さんが来たのもこのころを前後してだと思いますね。
三上:生尾さんが抜けて田中さんが編集長になって、新しく原田光さん(はらだ・ひかる、1946生。早大仏文科を卒業後、72年入社。『みづゑ』編集部を経て、80年に神奈川県立近代美術館学芸員、のち岩手県立美術館館長。共編著に『水彩の福音使者 大下藤次郎』美術出版社、2006年、著書に『鳥海青児絵を耕す』せりか書房、2015年がある)が入ったんですよね。原田さんは最初から『みづゑ』の編集部だったんですか。
田中:そうです。たぶん生尾さんが抜けて木村氏と2人になったとき、社員を募集して4月に入社だったのかな。だから体制ができるまでの2、3か月間、川合さんが企画会議なんかにも出ていたのかもしれない。5月号から編集長になっているということは、4月に原田が新入社員として『みづゑ』の編集部に入り、新体制で動き出したときでしょう。
『美術手帖』に篠田孝敏氏(しのだ・たかとし、1947-2014年。72年入社。『美術手帖』、『デザインの現場』編集部、『美術手帖』編集長。95年よりフリーの編集者となり『Inter Communication』の編集に携わった)が入ったのも原田と同じときだったと思いますね。出村弘一氏(でむら・こういち、1970年入社。『デザイン』、『美術手帖』、『デザインの現場』編集部を経て、退職後の90年より季刊『Fukuoka Style』などの編集に携わる)はそのちょっと前に入った。
三上:原田さんが美術出版社に入ったときから、お父さんが銀座にあった現代画廊の洲之内徹さんだということは知っていたんですか。
田中:我々が知ったのは、だいぶ後になってからだったと記憶しています。原田の出身地は愛知県の豊橋の山奥の奥三河で母子家庭で、東京に出てきてから母親は看護婦さんをして、女手一つで育てられたとのことだった。だから彼はいろんなアルバイトをして苦学して大学を出たという。彼が入社して2、3年して洲之内さんの話を噂として聞いたのだと思います。本人には確かめていませんし、直接聞いてはいない。
三上:原田さんが入ってすぐですよね、『みづゑ』の800号(1971年9月)は。「800号記念特集 綺想異風派の復権 “若冲と蕭白”」という大特集だけで記事がつくられていますね。あとは総目次。あれはどういうところからつくろうということになったんですか。
田中:当時のことはあまりはっきり覚えてないですが、800号の目次のコピーを見て少し思い出したのは、創刊から800号になるという記念すべき号だから、通常号とは違っていつもの記事は入れずに特集1本に絞ることにしたようですね。内容も記念にふさわしいものということに。前年に刊行された辻惟雄『奇想の系譜』で、これまであまり紹介されていなかった伊藤若冲や曽我蕭白の素晴らしい作品が取り上げられて評判になっていた。特に宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の、緻密で超絶な技法を駆使して極彩色で描かれた若冲の《動植綵絵》と、対照的に大胆で力強い筆致の彩色画や水墨画の奇怪でグロテスクな蕭白の作品を、大判の『みづゑ』の精巧な図版で大々的に見せようということになったのだと思います。
特集以外には、800号記念芸術評論の募集告知。芸術評論募集は1953年、『美術批評』の創刊号で第1回を募集して以来7回目になります。それと『みづゑ』創刊号の大下藤次郎の「発行の辞」再録、これまでの『みづゑ』の歩みを「小史」というかたちで創刊の年から1年ごとのレジュメで紹介、さらに戦後の1946年の493号から800号までを本文総目次で示した。誰にお願いしたのか記憶がありませんが、外注したと思います。
三上:600号でも700号でもやっていないですね。
田中:そうですね。編集会議で過去を振り返っておこうということになったのかな、記憶にない。しかし毎年12月号にはその年の総目次を入れていたので、総目次の発想はわからなくもないですね。
三上:900号では「創刊900号記念・みづゑ総目次」という別冊になっていますね。
田中:この冊子は800号の時のものよりさらに詳しく、創刊号から900号までの文章目次と図版目次を採録していますね。採録者も明記されている。図版目次採録者は美術出版社の校閲部の矢口進也さんになっていますね。900号は1980年3月だから誰が編集長だったのかな、思い出せない。この年には四谷のビルを売却して、神田神保町の稲岡ビルに移った年で、たぶん四谷での最後に近い仕事だったのかな。
鏑木:三上さんは当時、この『みづゑ』800号を買われたとおっしゃっていましたね。
三上:今でも本屋で買ったのを覚えていますよ。
鏑木:やはり画期的な号だったんでしょうか。
三上:ええ、確か950円でしたね。
田中:その翌年(1972年)にヨーロッパへ取材を兼ねて出張しましたね。
三上:会社からお金は出たんですか。
田中:6月から8月まで45日間ほどヨーロッパのあちこちに行ったんですが、会社は1か月分は海外取材の出張扱いとして費用を出し、あとは自費、ただし2週間は公休扱いだったと思います。大下正男社長はフランクフルトの国際書籍見本市に参加しだして、書籍の編集長クラスの社員を毎回交代で帯同するようになり、雑誌の編集長も順にブックフェアも兼ねて海外出張をさせていましたね。私の前の年だったかもう少し前だったか忘れましたが、『美術手帖』の宮沢編集長からはそれぞれの希望の国に行くようになった。当時はヒッピーの時代でもあって、彼はポップ・アートやハプニング、アンダーグラウンドな演劇や音楽の流行の中心地になっていたニューヨークを取材したいということで、帰国後はマルセル・デュシャン、ジャスパー・ジョーンズ、アンディ・ウォーホルやジョン・ケージなど、もっと最新のアートやニュー・ミュージックといったアメリカかぶれの記事が多くなりましたね。
三上:それで田中さんはヨーロッパに行ったんですね。
田中:1972年の夏、6月末にはイタリアのヴェネチア・ビエンナーレが始まり、それに続いてたぶん7月だったと思いますが、ドイツのカッセルで第5回ドクメンタ展が始まるというし、他にも作家紹介の連載で在外作家の取材もしたいということで行かせてもらった。『みづゑ』の表4の広告にパンアメリカン航空(パンナム)が、いつからだったか出航を続けていて、海外出張にはバーターの航空券が溜まっていたんです。飛行機代は往復ともそれを利用してパンナムで行ったので、当時ヨーロッパへは往復とも南回りでした。
南回りなので、香港、ニューデリー、イスラエルのテルアビブなどを経由して12時間ほどかかって、やっとローマに着いたように思います。しかも不運なことに、私がヨーロッパへ行く直前の5月30日に、テルアビブの空港でアラブ赤軍による銃乱射事件というテロ騒動があった。トランジットで寄っただけだったんですが、とばっちりで空港の警備が厳しく、手荷物検査をされました。たまたま隣の席に乗り合わせていた日本人のカメラマンなどは、カメラの機材を全部出して調べられていましたね。
細谷:そうですね、72年ですね。
田中:初めての海外旅行でくたくたになってやっとローマに着いたら、空港に出迎えてくれることになっていたはずのローマ在住の画家・高橋秀さんが来ていなかった(笑)。高橋さんは、日本での個展のために一時帰国していたので、807号(1972年4月)の「ディアローグ」という連載対談で針生さんと対談してもらっていました。それで、その後ローマに帰っていた。イタリア語はおろか英語もまともにしゃべれないし、電話をかけようにもどうすればいいのかわからない。片言の英語で電話をかけるためのコインというのかチップを買わなきゃいけないということはわかり高橋さんに電話を掛けたら、奥さんが「迎えに行きましたよ」という。それでやっと高橋さんが車で空港に来てくれて、落ち合うことができたんです。最初から珍道中の始まりでした(笑)。ローマには2、3日滞在して美術館や遺跡を見て歩いたんですが、残念ながらヴァチカン市国全体が休日で、システィーナ礼拝堂のミケランジェロもサン・ピエトロ大聖堂も見られなかった。ただ古代ローマの遺産であるコロッセオやその近くのフォロ・ロマーノの大遺跡群は堪能しました。その後はミラノへ行きました。ミラノ在住の彫刻家・豊福智徳さんに針生さんの連載「ディアローグ」(813号、1972年11月。この号の特集は第5回ドクメンタの取材報告)に登場いただくためで、針生さんのほかに日本で豊福さんの作品を扱っていた東京画廊の人、今泉雄四郎さんだったと思いますが、彼も一緒に来ました。ヴェネチアにも皆で行きましたね。豊福さんの取材を終えて私はミラノでも2日ばかりミラノ大聖堂とか美術館を取材して、ヴェネチアにはまた列車で行きました。
鏑木:この時のヴェネチアは東野芳明さんがコミッショナーで、出品作家は宇佐美圭司さんと田中信太郎さんでしたね。
田中:そうです。だから2人の作家も来ていて、彼らを扱っていた東京画廊のほかに南画廊の志水楠男さんも来ていたと記憶しています。ほかにも日本から大勢来ていて、皆でサンマルコ広場の野外レストランで食事をしていたら、我々の席の近くのテーブルで、あのイタリアの巨匠、ジョルジョ・デ・キリコが大勢の取り巻き連中とワインを傾けながら食事をしているのに出くわしましたよ。
私はヴェネチアのオープニングに参加して、各国のパヴィリオンを取材した後、また一人で列車に乗ってフィレンツェに行きました。駅前の案内所で斡旋されたホテルが安かったのはいいけれどひどいところで、隣の部屋の声や音がまる聞こえでしたね。しかし2日ほどそこで我慢して、ドゥオーモをはじめヴェッキオ宮、ウフィツィ美術館、ヴェッキオ橋、ヘンリー・ムーアの大彫刻展をやっていたミケランジェロ広場まで、とにかく歩き回りました。そんなに広い街ではないですからね。
それで「ディアローグ」の針生対談を予定していた工藤哲巳さんを取材するために、パリに飛行機で行ったかな。しかし約束していた日に針生さんは現れない。ヴェネツィアでちゃんと念押しして別行動をとっていたんですが、3、4日待たされたんじゃないかな。仕方ないのでパリの後ベルギーとオランダに行く予定だったのをキャンセルして待っていたんです。幸いパリで大日精化のカラープランニングセンターの小川栄二さんとばったり会ったのですが、彼はヴィクトル・ヴァザルリのところにカレンダー用の作品かなにかの依頼に来ていたようでした。針生さんに待ちぼうけを食わされたと言ったら、彼は早稲田の仏文科出身でフランス語はよくできたので、シャルトルやヴェルサイユ宮殿などに行くのに付き合ってくれて大助かりでした。小川さんは、たまたま美術出版社の川合(昭三)さんと同期だったんですが、川合さんは税務署員から仏文に転じたので年齢は7歳くらい上だった。工藤さんとの対談も無事に済ませて、結局パリには10日近くもいたんじゃないかと思います。おかげでパリの美術館はゆっくり見ましたね。ルーブル美術館は一日じゃ見られないので2日通いました。ギュスターヴ・モローの美術館などのほかにもね。またパリでは横浜出身でパリ在住の画家・岩田栄吉さんに会い、〈レアリテ〉のグループのメンバーの集まりにも行きましたね。岩田さんは、西武百貨店の仕事をパリで手伝っていて、〈パントル・ド・ラ・レアリテ〉というトロンプ・ルイユの画家グループに参加していた。そのグループ展がうろ覚えですが池袋の西武美術館であって、『みづゑ』(807号、1972年4月)で特集していたんです。
そのあと飛行機でドイツのフランクフルトに入って2、3日美術館などを取材し、ケルンやニュルンベルグも見て、カッセルのドクメンタのオープニングに行ったんです。そこで日本から来ていたヴェネツィアで一緒だった美術関係者たちにも会い、針生さんとも一緒になって11月号の特集の取材をしてもらいました。
三上:田中さんは、ヴェネツィアやカッセルで写真は撮らなかったんですか。
田中:撮りましたよ。例にもれず典型的な日本の旅行者として、肩にいつもカメラを提げて、手当たり次第スナップ写真を撮りまくっていましたね。だから『みづゑ』(813号、72年11月)の特集「reportage“documenta 5”」で「現代芸術の問題点 第5回ドクメンタ展を取材して」を針生さんに書いてもらっていますが、あの特集の写真はほとんど私が撮ったものを使いましたね。撮影したフィルムもかなり多かったけど整理能力がないから、どこかにあるはずだけど分からない(笑)。ヴェネツィアの写真もトピックスのような頁で挿図として使っているはずですよ。カラーの作品写真はカメラマンの撮ったものを使わせてもらっていますがね。
鏑木:ところでこの年のドクメンタはそれまでの出品作家の選考方法を見直し、ハラルド・ゼーマンをキュレーターに迎えて話題になりました。『みづゑ』の特集や『美術手帖』の記事を見ると、びっくりするような作品図版が掲載されていますよね。田中さんは当時どのようにご覧になったんですか。
田中:やっぱりすごく画期的で、新鮮でしたね。当時の最先端の傾向の作家たちに出品依頼したようですね。このドクメンタはスーパーリアリズムが騒がれだしたころで、写真を拡大したような大画面の人物の顔とか、野菜、果物などの拡大された静物といった絵が多く出ていた。一方、対極的なコンセプチュアル・アートはドイツのヨーゼフ・ボイスのインスタレーションに人だかりができていたり、観念的な抽象画家ゲルハルト・リヒターの作品が評判になっていて『みづゑ』の口絵図版としても紹介した。
三上:『美術手帖』の各号に掲載された写真などの資料は、毎号ファイルされて目白の倉庫にそれぞれ袋に入れて保存されていましたよね。自他を問わず出版物や写真の紙焼き、カメラマンの酒井さんが撮ったフィルムなどの資料を保管していた。けれど、『みづゑ』のものは見かけなかったですね。
田中:そんなことはないと思うけど、『みづゑ』の場合は外のカメラマンの撮ったものが多かったんじゃないかな。だから目立つような量じゃなかったと思いますよ。
三上:そうかもしれませんね。雑誌の性格が違うから。
田中:自分の撮った写真は会社の資料として保管してないから、だから今やどこにあるのか……。ところで旅行の続きだけど、カッセルのドクメンタ取材後はミュンヘンにも2、3日滞在してアルテ・ピナコテークやニンフェンブルク宮殿を見て、そのあとロンドンに飛びましたね。ロンドンでは大英博物館をはじめ、ナショナル・ギャラリーやテート・ギャラリーなどを取材して、ウイリアム・ブレイクの水彩画の部屋やターナーの作品群に圧倒されたことを覚えています。また大英博物館では世界中を植民地化して支配していたと思われるような古代以来の作品が集められていて、大英帝国の偉大さ? を感じたりしました。
佐々木基一さんがたまたまウィーンに長期滞在していたので、ウィーンに飛び滞在先に伺ったり、3日ほど滞在して美術史美術館などを取材しました。美術史美術館ではウィーン派などといわれたクリムトやシーレの作品を多く見ましたが、ルーカス・クラナッハの多くの作品に圧倒されて、帰国後に『みづゑ』(814号、1972年12月)で特集を組みましたね。
ウィーンからフランクフルトに戻り南回りで帰ってきました。ヨーロッパ各地で取材して実見した数々の作家や作品を、その後、特集に組んで紹介しました。美術館の図録や画集、大きな展覧会でのカタログ、雑誌などは大荷物になって持って動けないので、都市を移動するごとに現地の郵便局まで持っていって、まとめて日本に送っていました。
画集やカタログ、雑誌などで見て知っていることと、その作品のある現地の美術館や教会で実物を見るのでは大違い。例えば、ルーブルでルーベンスの絵を見た時、思っていたよりもはるかに大画面であることに驚いたり、フィレンツェのヘンリー・ムーア展で見た彫刻作品のヴォリューム感などが、実物を見ないでは語れない典型的なものだなと思いました。前衛的な作品なんかもまさにそうですね。ティンゲリーの作品などもね。またパリのノートルダムやシャルトルの大聖堂のステンドグラス、それとドイツ各地の美術館で特に感じたのは、どこの美術館に入っても、まずやたらに目に入ってきたのが部屋いっぱいに飾られた金ピカの中世の宗教画とか彫刻。キリスト教の国だなと思いましたね。
三上:さっきロンドンの話の中で出てきたブレイクもそうですね。
田中:ブレイクの水彩画に感動して、合併号の816号(1973年の2・3月)で大特集を組みましたね。どうしてこの号が合併号になったのか思いだせませんが……。ほかにもヨーロッパをさまよって各地で得た材料をもとに、かなり特集で紹介しました。「ギュスターヴ・モロー」「アーノルド・ベックリン」「J.H.フュッスリ」「エミール・ノルデ」などですね。
鏑木:特集は田中さん以外の編集部員からも提案があるんですか。
田中:もちろん。それぞれが取り上げたいと思ったテーマや材料を出し合って、編集会議で決めていましたね。
鏑木:現代美術の特集も、時々されていますよね。
田中:新聞社が主催する現代展とか国際展を取材したり、版画のビエンナーレ展とか野外彫刻展とかね。それと私が編集長になって、72年から毎年新年号で評論家を編者に立てて、編者と相談して各ジャンルで活躍する日本の若手作家に抱負を「発言」してもらうという特集を組みましたね。72年、804号の編者は針生さんで「発言’72:創造の原点」、73年の815号は乾由明さんで「発言’73:現代版画」、74年の826号は佐々木靜一さんで「発言’74:日本画」という具合にね。それと『みづゑ』の編集長最後の年かな、毎号巻頭に版画家にお願いして、版画作品の現物を差し込みで紹介し、それぞれ100枚刷ってもらって、読者サービスということで希望者に1枚1万円だったか、正確な価格は覚えていませんが、販売しました。協力していただいた版画家は、1月号から順に、吉原英雄、原健、吉田穂高、野田哲也、木村光佑、日下賢二、中林忠良、日和崎尊夫、多賀新、木村利三郎の10人の方々でした。皆様の協力を得て、いろんなことを試みていましたね。
鏑木:田中さんの編集長時代は、針生さんの記事が多い印象があります。
田中:そうでもないでしょうけど、当時は針生一郎、東野芳明、中原佑介の3人のことを美術評論家御三家と呼んでいて、東野さん、中原さんは比較的『美術手帖』で頼むことが多かったのかもしれませんね。
鏑木:ところで針生さんがミラノやパリで作家と対談したり、ドクメンタの取材記事を書いていますが、その時の渡航費などは美術出版社が支払っていたんですか。
田中:いや特別には払ってなかったんじゃないかな。覚えていませんが、たぶん原稿料として相応に払っていたと思いますよ。
鏑木:針生さんに取材を依頼したわけではないんですか。
田中:御三家は海外の大きな催しには必ずと言っていいほど行っていましたから、行くならということでミラノとパリで作家インタヴューの連載記事もお願いしたんですね。また810号(1972年7月)の「ワールド・トピックス」欄で針生さんに「ヴェニス・ビエンナーレ・レポート」を書いてもらっています。ドクメンタも行くなら書いてくださいと事前にお願いしていたと思います。
三上:ところで、田中さんがヨーロッパに行っているときに、『美術手帖』では合併号が出ましたね。
田中:ああ合併号ね。合併号にした理由は忘れましたが、『みづゑ』でもよくやっていますよ。それなりに理由があって出せなかったことがあったんじゃないかな。
三上:田中さんに聞いたことがあったと思いますが、『美術手帖』の編集長が福住治夫さん(ふくずみ・はるお、1939-2024年。1966年入社。『美術手帖』編集部、1971年からは編集長を経て、書籍では『建築の解体』、『マルセル・デュシャン』、『現代芸術入門』、『現代美術の展開』などを手がけた。『月刊あいだ』編集人)の時代はカラー図版が少なくなって文字ばかりが目につき、また美術そのものがコンセプチュアル・アートやミニマル・アートのモノクロ作品を取り上げられることが多く、黒っぽい雑誌になったと言っていましたよね。
田中:そう、色気がなくなっちゃった(笑)
三上:その典型的な例が、年表を2号続けたときです(「年表:現代美術の50年」『美術手帖』354-355号、1972年4-5月号)。あの年表の評価は、業界でもかなり高かったですね。
田中:2冊に分けて出すほど詳しかったし、通巻号というよりも増刊号の仕事みたいでしたね。画期的で役に立ち、ありがたかったですよ。編集した人は大変だったでしょう。『美術手帖』編集部の篠田孝敏と美術家の刀根康尚さん、彦坂尚嘉さん、評論家の赤塚行雄さんが組んでやりましたね。
三上:もう一つ、私が美術出版社に入ったときに田中さんに、筆者や作家に対して「先生」と、先生呼ばわりしなくていいと言われたんですね。
田中:作家も評論家や筆者も対等な立場でしょう。編集者がへりくだって下手に出る必要はない。ただ先に生まれたかどうかだけのことだと。依頼人が下じゃないですよね。頼んだ原稿が依頼した方向と違えば、注文をつけて直してもらう関係ですね。
鏑木:それは三上さんが、田中さんからの教えとして聞いたお話だったんですか。
三上:そうでしたね。
鏑木:美術出版社全体がそういう考えだったんですか。
田中:いや、そう大げさなことじゃない。私の主義というか、先生呼ばわりされることはないだろうけど、呼ぶのも呼ばれるのも気持ちがいいものじゃないというだけのことかな。だから生意気な奴と思われているのかもしれませんね。
三上:『みづゑ』時代は終わり、次回は『美術手帖』から『デザインの現場』とその後ですね。
(了)