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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

平出利恵子、辰野剛、平出七菜、平出加菜子 オーラル・ヒストリー(後半)

2017年11月11日

東京・杉並、辰野登恵子アトリエにて

インタヴュアー:大浦周、鏑木あづさ

書き起こし:船木菜穂子

公開日:2019年3月23日

インタビュー風景の写真

(インタヴュー再開)

鏑木:それでは、インタヴューを再開させていただきます。大学に入った頃のことを教えて頂きたいんですけれども、最初は利恵子さんがすでに上京されていたお住まい、叔母さまのお家とはまた別の……。

利恵子:一緒に住めるように下宿を探しました。

鏑木:大学に入られた頃に、一緒に暮らしていらしたんでしょうか。

利恵子:ええ、そうですね。最初は下井草の下宿に約2年間いたんですね。2間にキッチンがあるような感じ。

鏑木:おふたりで。

利恵子:はい、そうです。

鏑木:大学に入られた頃の辰野さんは、どんな感じでいらしたんですか。

利恵子:うーん、そうですね……。楽しそうでした。身内を褒めて変ですが、カッコよかったわ。ミニスカート、ジーパン姿も。音楽と違って、音楽は家に帰ってきて練習なんですけれどもね。絵って家で練習しないので、もうずっと大学ですよね。あの子が帰ってくるのが遅い時間って言っても、夕食には帰ってきますけどね。私がほとんど作って待っていたりとか。

一同:(笑)。

鏑木:そうですね、学校での様子はあまりわからないかもしれないですが、それ以外の時間というのは、どんな風に過ごしていらっしゃったんですか。

利恵子:デパートの洋服を見に行ったり、家でもこうキャンバスを立てて、描いていましたね。何を描いていたのかな。私の友だちが来たときなど、「今日は何を描いてるの?」とか言って(笑)。

鏑木:東京に来てからは展覧会に行かれていると思うんですけれども、どういったものを見ていたかご存知ですか。

利恵子:そうですね。上野の美術館にはよく行っていたと思います。

鏑木:何を見たとか、そういうお話はされましたか。

利恵子:何を見たか……。

鏑木:あんまり。

利恵子:ええ。

大浦:下井草でご一緒に暮らしていたのは、登恵子さんが1年生、2年生……。

利恵子:約2年間くらいです。

大浦:その後が中野なんですね。

利恵子:はい。2年の途中かな?

七菜:その辺りじゃない? 目安として、私が産まれた頃どこにいたか。

剛:僕が高1の終わりくらいから、3人で中野で暮らしていた(登恵子が大学3年の終わり頃、1970年末~1971年初め)。で、この人(利恵子)が結婚して、旦那さんと千駄ヶ谷の方へ移った。で、七菜ちゃんが産まれたんですよ。その後、トコちゃんと私で3年くらい中野で暮らしていた。(剛は)浪人していたから、4年くらいいたかな。そのときにコスモス・ファクトリーの3人で、ごちゃごちゃやっていた(笑)。そういう感じ(注:コスモス・ファクトリーは大学3年の1970年頃、辰野と同級生の柴田敏雄、鎌谷伸一の3人で結成。1971年と1973年に村松画廊で展覧会を行った。柴田はその後写真家として活動し、辰野との二人展に「柴田敏雄 辰野登恵子 ふたつのメディア」(鎌倉画廊、1996年)、「与えられた形象 辰野登恵子/柴田敏雄」(国立新美術館、2012年)がある。鎌谷は版画家として活動、女子美術大学で教鞭を執った。2009年逝去)。
最初はこういう、普通の絵を描いていた。私が好きだったのは《青年のふくろう》(1970)とか、この辺り。

利恵子:私たちにもわかりやすい絵。

剛:そう、わかりやすい。それがコスモス・ファクトリーができたら、がらっと画風が変わった。ビーンズの絵とか、そっちの方に傾斜していった。それがすごく不思議というか。

鏑木:コスモス・ファクトリーができるちょっと前に、音楽学部のお友だちとアメリカ旅行に行かれていますよね。

剛:前だったかな、あれは。70年だから、前か。それで仕入れてきたんだよね。

鏑木:70年の夏に2、3ヶ月。

剛:そう、夏でしたね。

利恵子:そうですね、芸大のときの。

剛:なにちゃん?

利恵子:まりちゃん、大久保まりちゃん。そうだ。

加菜子:アメリカのどこに行ったの?

剛:アメリカは、ニューヨークにも行ったし、あちこち行ったんじゃない?

利恵子:大学の寮に入りましたからね、途中から。

剛:なんだっけ、おじさん。辰野……。

利恵子:辰野じゃなくって。

剛:銀行の……写真があったんだよね、どっかに。

鏑木:あちらにご親戚がいらしたんですか。

剛:そこにしばらく厄介になっていたんだよね。

七菜:知らなかった、親戚。

剛:1ドル360円のときですからね。

七菜:うわー。

剛:だから相当かかったと思うんですよ。やっぱり母親がバックアップした。親父は「危ないぞ」って言っていたんだけど、なんとか説得してっていう感じでした。そうしたら、結構太って帰ってきた。

利恵子:アメリカの寮にいましたからね、ピザとかいろいろ食べたみたい。「アイスクリームがおいしい」とかね。

加菜子:帰ってきたとき、羽田でわからなかったんでしょ。

利恵子:そう、わからなかった。昔は羽田だったからね、羽田に迎えに行って、目の前に現れてもわからなかった。「登恵子?」って感じ。(手を広げて)こんなになっていて(笑)。なんにもストレスがなくて、ただ学ぶだけだから。

剛:ウォーホルの(作品のモチーフになっている)キャンベルのスープっていうのが売っていて、それをどっかで買ってきたと思う。「これなのよ」とか言って持ってきたり(笑)。

加菜子:感激したんだね。

剛:本当に嬉々として、「アメリカはすごい」って帰ってきた。音楽のレコードも、ハードロックのものを僕宛に何枚も買ってきた。

鏑木:二木先生も、辰野さんからマルセル・デュシャンの作品集をお土産にもらったとおっしゃっていました。やはりその旅行が、後の制作にもすごく関係しているんですね。すごく新鮮に感じて。

剛:この後から作品が変わっているんでしょうね、きっと。

鏑木:その後はコスモス・ファクトリーが、中野のお家にわらわらといらっしゃっていた感じ(笑)。

剛:しょっちゅうね。さっきちょっと話したけど、アメリカン・ニューシネマは柴田さんがすごく好きで、『激突』(1971年)とか、ボニー&クライドの『俺たちに明日はない』(1967年)とか。ああいう、ちょっとバイオレンスの映画とか、あまりハッピーエンドじゃないものがすごく新鮮だったんです。彼らはそれが、すごく好きだった。社会的な、学生運動にも多少影響は受けているかもしれませんが、そっちからはやや外れているというか。どっちかというと、むしろ明るいアメリカの文化っていうものに傾倒していたんじゃないかな。(写真を見ながら)いっぱい写真があるんですけれど、シルクスクリーンですよね、これ。何枚も刷ったりして。これは中野で、たぶん。

大浦:中野のお宅で刷っていたんですね。

剛:たぶん、そうだと思うんです、芸大ではなくて。けっこう大きな刷り台があった記憶がある。はっきり覚えていなくて、申し訳ないんだけど(刷り台を手作りしたエピソードは、辰野登恵子・柴田敏雄 談「偶然と必然、選択と創作」『与えられた形象』国立新美術館、2012年で言及されている)。

鏑木:コスモス・ファクトリーは、展覧会をやる前から中野のお家にいらっしゃっていたんですか。

剛:(第1回の)コスモス・ファクトリーの展覧会は、村松画廊(1971年12月20日-26日)ですよね。ジェリービーンズ。あのとき出していたのは、中野で作っていたと思うんです。

大浦:ジェリービーンズの制作中は、お宅にゴロゴロしてたりしたんですか、

剛:前はあったんだよね。

利恵子:しばらくありましたね。岡谷の駐車場にゴロゴロ置いてありました。

剛:二木先生が持ってない? 1個くらい。

鏑木:すみません、聞きそびれてしまったので、少し戻らせてください。辰野さんは学生運動が盛んだった頃を振り返って、クラスにそういった人たちがいたけれども、自分は距離を置いていたし、あまり良く思っていなかったという趣旨のことをおっしゃっています。当時、学生運動全般について何かお話されていましたか。

剛:はい。結構そういう話はありましたね。美共闘っていう人たちがいて、これまでの伝統芸術を破壊することによって、新しいものを作らなきゃいけない。そういう、かなりラディカルな事。だから古い体質を破壊したい。そこに対しては、姉も共鳴していたところもあると思います(注:美共闘は美術家共闘会議の略称。1969年、大学闘争中にあった多摩美術大学のバリケードより発足した。議長は堀浩哉、メンバーは彦坂尚嘉、刀根康尚、山中信夫など。結成当初は美術館や公募団体展など、美術権力機構の解体・粉砕をスローガンに掲げるも、後に制度としての美術を問い直す表現活動へと発展していった)。でも、良いものもあると。非常に伝統的なものでも、すごく良いものもあるから、そういうものを見ないといけないっていう意識が強いですね。掛け軸にしても、そういうものを見て育ってきているので、良いものは良いんだと。
また、権威主義的なものや団体は嫌いだと言っていました。私はよくわからないけれども、伝統的な芸術だけじゃなくて、もうちょっと変えていきたいっていうのはどこかで思っていた。

鏑木:そういったお考えは、コスモス・ファクトリーの活動にも関わってくるんでしょうか。

剛:そうですね。当時の時代の影響を受けた地下演劇とか、ヌーヴェルヴァーグの映画とかには、関心が向かなかった。アンドレ・ブルトンの本が読まないままに置いてあって、もらった覚えがある。コスモス・ファクトリーは3人の個性が調和して、時代背景とは別の方向に妙な明るさがあった。

鏑木:そことはちょっと距離を置くというか。

剛:ハイレッド・センターとか、あの頃ちょうど。

鏑木:そうですね、正に高校生のとき。63年結成。

剛:高校生かな。関根(伸夫)さんの巨大円柱の写真(《位相-大地》1968)とか見せてくれて。「これ、いいな」とかそういうのはあったので、「これは新しい芸術だね」なんて言って、話したことは覚えています。
赤瀬川原平なんかもね。ああいうトマソンとか、何気ないもの(注:赤瀬川らによる「トマソン」の命名は1982年)。バナールなものを、ちゃんと意識化するという作業。ある意味では少し共通しているところがある。社会的な変革とか、そういう枠のことを彼女は望んでいなかった。芸術としての改革はすごく歓迎なんだけれど、っていう意識だと思いますね。

鏑木:中野時代はコスモス・ファクトリーのおふたりがよく遊びにいらしていて、ご家族ともよくお話されていたんですね。

剛:難しい話をするっていうよりは、遊びとか、海に行ったりとか。彼らはサーフィンをやったりするんで、一緒に見に行ったり。

利恵子:私は結婚しちゃっていたので、そのときのことはね。とにかく3人仲が良くて、私の千駄ヶ谷の家にも来たりしていました。それで七菜の産まれたときの写真を、柴田くんがいっぱい撮ってくれました。

大浦:そちらのお宅にも行かれていたんですね。

利恵子:おもしろいですね。3人でいつも来ていて。

鏑木:芸大で自分たちで(シルクスクリーンの)刷り台を作って、アトリエの片隅を陣取っていたというお話はよく拝見するんですが、中野のお家にも刷り台があったんですね。

剛:家でも刷っていましたもんね。

鏑木:それは芸大を卒業する前……。

大浦:村松(画廊)の、コスモス・ファクトリーならそうですよね。

鏑木:に、なりますよね。

剛:そこは大事なところですか(笑)。

鏑木:もしご記憶だったら、お聞きできたらと思っていたんです(笑)。

剛:暗室は作っていましたよね。そこで製版しますよね、まず。そこまでは、たぶんやっていた。その先はちょっとわからないんだけど。でも鎌谷さんが刷りの……。(鏑木の手元にあるコピーを見て)あ、それ懐かしい。

鏑木:行かれましたか。

剛:行きました、行きました。

鏑木:これが最初の展覧会(1971年)のチラシ(のコピー)ですね。

剛:これ、今見てもカッコいいよね。ポップ・アートの時代の、ちょっとコピーっぽいもの。こういうものもそうだけど、かなり影響があるんでしょうね。まぁ、オリジナリティっていう感覚がないのかもしれないけど。

鏑木:(資料を見ながら)そしてこれが、ジェリービーンズの展示風景ですね。展覧会に行かれたときのことって、覚えていますか。

剛:あ、これだ。これは覚えていますね。ねぇ、これは村松。なんだかなぁとか思って(笑)。(岡谷の自宅から)ジェリービーンズの写真とか、その下絵が出てきた。なんだっけ、材質……。

鏑木:FRP?(実際にFRPがどうかは不明)

剛:どこでそれを手に入れたのか。今考えると、そういうのはどうしていたのかなって。

大浦:サイズも大きいですしね。

剛:そう、すごく大きい。(コレクターの)辻(和彦)さんのところにあるぼこぼこ(した作品)も、あれはだいぶ後だけど。

利恵子:蜜蝋の。

剛:蜜蝋か、あれは。

大浦:あれは「アブソリュート・ビギナーズ」(ギャラリー16、1993年4月13日-30日)の作品なので、建畠(晢)さんがキュレーションした展覧会のオブジェですよね。自分のメインでやっているマテリアルとは違う。

剛:懐かしい、それ。残ってたんだ。ハサミ(がモチーフになっているチラシ)。3人。これね、一所懸命やっていたよ。

七菜:どこで見つけましたか。

鏑木:これは東京文化財研究所っていうところで、村松画廊の資料をまとめて持っているんです。

七菜:コスモス・ファクトリー全体じゃなくて、柴田さんの話はよく聞いていたんです。というのは私が音楽高校に入ったときに、(登恵子が)「七菜ちゃんも学生時代に、私にとっての柴田さんみたいな友だちができるといいね。一緒に切磋琢磨できるし、すごくいいんだよ。先生に教えてもらうだけじゃなくて、お互い学んで影響し合ってというのが、どんなに大切かって思うから、そういう人がいるといいね」って言っていたんです。でも難しいですよね。「お互い影響し合い、一緒に勉強できてよかったと思える友人」って。それは高校、大学の頃によく言われていました。

鏑木:「与えられた形象」のカタログでも、おふたりでたくさんお話されていますよね。

大浦:もし、中野のお宅に刷り台があったのであれば。

剛:そこが鍵ですね(笑)

利恵子:あったと思いますよ、大きいから。

剛:あったね。

利恵子:それをどのくらい使っていたかどうかはね……。

剛:暑い中でね。クーラーがない時代で、「夏はこれくらい暑くなきゃ」とか言ってね。

一同:(笑)。

剛:ああいう肉体労働みたいなの好きなんだよね、あの人(笑)

七菜:たぶん人間、没頭できるのって限られた時間なんだけど、その時間が長いんじゃないかな。持って産まれた集中力の長さ。

鏑木:そんな感じがしますよね。ところで次の質問なんですが、アルバイトはされていましたか。

剛:中野でお絵描き教室をやっていたって言っていたよね。

利恵子:中野で?

剛:頼まれてやったって。

利恵子:でもそんなに大々的にはやっていない。

剛:やってなかったっけ。やってるって俺、聞いたんだよな。

利恵子:本当?

大浦:じゃあそれほど……。もしやっていたとしても、少しって感じなんですね。

利恵子:ええ、それほどやっていないと思います。ご近所の子どもね。

鏑木:あと助手のお仕事を1年間だけされたけれど、あまり合わなくて辞められたという。

剛:駒井先生のところですよね。

利恵子:そのことはよくわかりませんが、駒井哲郎さんのことはすごく尊敬しておりました。

剛:なんで辞めたんだっけな。

大浦:おそらく、何年かの任期があって助手になられると思うんですけれども、1年でお辞めになっています(注:駒井は1974年3月に舌癌が見つかり手術。翌年春に肺への転移のため放射線治療。大学へはほとんど来られなかったのではないか。『果実の受胎 駒井哲郎と現代版画家群像』埼玉県立近代美術館、1994年に駒井門下生として出品した辰野は、カタログに以下のコメントを寄せている。「駒井先生と私の出会いは、ほんの一瞬のことのように想えます。御病気だったりしたせいで、実際、短い期間しか学べなかったのですが、でも先生と交わした会話の大半は、現在でもキラキラと輝いています」)。

剛:何年ですか、それ。

鏑木:75年ですね。

剛:76年に結婚ですよね。

大浦:ご結婚と同時に関西に行かれたんですよね。

剛:大阪の読売新聞本社に、彼がいたので。

鏑木:ちなみに中さん(中徹、なか・とおる。登恵子の夫)とは、どういったきっかけで出逢われたんですか。

利恵子:最初は……。

剛:芸大でロックアウトのときに、「新聞記者みたいな顔をした人がいる」って話を聞いています(笑)。

一同:(笑)。

剛:取材っぽい感じだったんだね、もうすでにそのときから。美共闘が破壊するってやってきたときに出たんだよね、彼が。

鏑木:芸大の方ではないんですよね。

剛:早稲田の普通の学生です。なんか、そのときにいたんですね。

鏑木:そうなんですね(笑)。ご結婚は……。

剛:76年。僕が大学を浪人してたんで(笑)。

鏑木:では助手のお仕事を辞めた後は、お勤めなどは特にせず、すぐに結婚なさったんですね。

剛:仕事はしてなかったですね。最初に行ったのは……。

利恵子:豊中だね。(七菜に)行ったけど覚えてないでしょう。

七菜:覚えてる、豊中。あの、マンションみたいなところ。

利恵子:アパートのような、マンションのような。

七菜:1回だけ行ったの、覚えてる。

鏑木:その頃から、発表も関西になりますね。関西での生活については何かお話されていましたか。

剛:中さんが社会部の記者で、大阪の猟奇的な事件があったのをご存知ですか。当時、三菱銀行にライフルを持って立てこもった奴がいて、その最初のスクープを彼が取ったんです(三菱銀行人質事件、1979年)。あとは、大阪府警の汚職事件とかのスクープ。スクープじゃなかったかもしれないけど、関わっていた。いわゆる社会派、どっちかというと人のため、みたいな。読売新聞の中でも黒田……。

大浦:黒田軍団(注:黒田清は読売新聞大阪本社の記者。1976年から1984年まで社会部部長。中は在京メディアから「黒田軍団」と名づけられ注目された、黒田が率いる社会部チームの一員として活躍した)。

剛:ご存知ですね。まぁ内部ではそういう形で、渡邉(恒雄)さんでしたっけ。彼と確執があって、追われる形で辞めちゃうっていう。84年に退社している。姉が名古屋にいる時には、吉祥寺のマンションにひとりでいた。で、それは先になりますけど、『新潮45』っていう雑誌の編集者になったんですね。その後、『GQ』という雑誌の編集長を、一時やっていた。

大浦:記者時代はもう、バリバリ。

剛:バリバリで、疲労感はかなり強かったと思います。夜、ふたりとも起きていて(笑)。ふたりとも完全に昼夜逆転してる。体に良くないですよね。

七菜:新潮社のときもそうだったよね。

剛:新潮社も大変だったね。

七菜:私が頻繁に(登恵子の家に)来ていたから、その頃のことはよく覚えている。朝、仕事が終わって帰って来るという、忙しい記者生活をしていたことを。

剛:ああいう仕事って、縮めますよね。彼も50歳で亡くなったから。解離性大動脈瘤っていう。家で倒れて。

鏑木:そうだったんですね。先ほど大阪の頃の写真を拝見しましたが、アトリエが広くとられていて、環境がいいですよね。

剛:その頃はミニマルっぽい作品ですよね、どっちかというと。そこから急に80年の前か、その頃からペインティングを始めた。名古屋のギャラリーたかぎに見に行った。

大浦:78年頃をちょうど境にして。

剛:中さんは、文学青年なんですよ。彼はバタイユとか、現象学とかに造詣が深い人。私とも話が合って、私が研修医の84年には滋賀県にいたんですが、憑依現象とかそういうことにも関心があって、よく飲みながら話し合ったりしていた。

大浦:シュルレアリスムとかも?

剛:シュルレアリスムもそうですね。姉とはちょっと、違うタイプ。姉が好きだった言葉に、「ソフィスティケートされた」っていうのがあるんです。ずっとああいう、静的というかミニマルなものを求めていたんだけれども、彼と出逢ってからはもともと内在していた情念みたいなものが、活性されたんじゃないかな。ちょっと違うかもしれないけれど。

大浦:そうですよね。私もよく似た印象を持っていて、すごく整理された理知的な物から、ご結婚をされてプライペートな環境が変わると同時にすごくその……。

剛:すごくその、人間というのは影響を受けるんだな、と思ったんですよ。

鏑木:そうだったんですね。ちょっと前に戻ってしまうんですけれども、これが最初の辰野さんの村松の個展のDMです(「辰野登恵子個展」村松画廊、1973年12月24日-28日)。

剛:これは73年のですか。

鏑木:はい、初個展です。そのときは中野のご住所です。(コピーを見ながら)これが2回目で村松、これが3回目の村松(「辰野登恵子シルクスクリーン作品展」1974年6月10日-16日、「辰野登恵子個展」1975年10月13日-19日)なんです。この頃までは、東京で制作されていたと思います。

七菜:これはまだ、私が2歳になってないとき。

利恵子:ねぇ。だからこの頃って私、本当に画廊に行けなかった。

鏑木:そうですか。お家のことがお忙しかった時期ですもんね。

利恵子:そうですね、子育てで。

鏑木:剛さんは行かれましたか。

剛:個展は行ったと思いますよ。

七菜:だってこの頃は星之介(七菜の弟)が産まれる前よ。

利恵子:2番目の子。

剛:すごく変わったわけではないのかもしれないですけどね、徐々にこう。

利恵子:大阪にいるときに、あれはギャラリー白ですか。それとか、名古屋の。

鏑木:ギャラリーたかぎですね。

利恵子:そうそう、その展覧会を辻さんがご覧になったそうです。「すごい絵だな」って、びっくりしたんですって。「え、これ女性(の作品)なの」って。それからずっとファンだとおっしゃっています。その時代の作品(《WORK 78-P-11》(1978)は「辰野登恵子の軌跡 イメージの知覚化」展、BBプラザ美術館、2016年に出品)。

大浦:コレクターの辻さん。

鏑木:辻さんは、かなり初期から関西の発表をご覧になっているんですね。

利恵子:そのようですね。「びっくりしました」とおっしゃっていました。

鏑木:(関西で)最初にギャラリー16でやったのが、78年。

剛:研修医になって滋賀県にいて、仕事仲間とみんなでお邪魔したことがあって。そのとき84年くらいの、こういう四角い……。

大浦:はい、(《Work 84-P-7》などに出てくる)菱形のパターン。

剛:菱形の作品、あれを制作中だったんですよ。そのときに「私はマンホールの蓋とか、バナールなものを意識するんだ」と言っていました。時間性を感じるような、記憶の痕跡みたいなものが出てくるじゃないですか。僕の感想だけれどもね。(ファイルを指して)こういう作品。こんなようなやつですよね。これは88年か。この辺りとか。こういうのは飾っていた。制作途中だったみたいだけど、覚えています。暗い影のようなものが消されたようになっていて、平面なんだけど、時間を感じるっていうかな。こんな才能があったのかなと思った。グラフィックのやつは僕としてはあんまりおもしろくなかったので(笑)。こんなものが作れる人だったんだな、とびっくりした。それで覚えているんですよ。

大浦:菱形の作品になって、ちょっとモチーフが人間臭くなるというか、人格を感じるというか。菱形なのに人がそこにいるような、そういう印象。

剛:ラッパみたいなものが見えたりね。

大浦:ありますね。

剛:(アラベスク調の形態を描いた《Work 81-P-23》などについて)唐草模様の風呂敷が泥棒のステレオタイプになっていたことに、姉は「唐草模様に、なんてこと言うのかしら」って言ってました(笑)。

一同:(笑)。

剛:その前までのミニマル的な作品。意味はあるんだろうけど、こっち半分を自分で描いて、こっち半分がシルクスクリーンみたいな作品があるじゃないですか。シルクスクリーンだけだと物足りなさを感じていたのかな。

七菜:その頃は昔から好きだった、絶え間なく連なるっていう、彼女のすごく興味を持っていたもの、気持ち、感性が作品に出た時期なのかしらね。
子どもの頃からおばあちゃんと洋裁屋さんに行くと、ボタンの陳列されている棚から目が離せなかったり……それから、地下鉄の駅のタイルの並びを見るのが好き、とか話していたのを、鮮明に覚えています。あと学生の頃から、数学のときに使う方眼紙に魅力を感じていたと言っていたよね。

剛:前からね。

七菜:トコちゃんはそういうものに、すごく魅力を感じる。横線のノートとか、ただそれだけで。

剛:柴田さんと似ているのはね、建造物を撮っている作品。似ているよね。

七菜:そうそうそう。晩年も、「柴田さんと自分は、目をつける先が似ている」って言っていました。

剛:中さんにしても、柴田さんにしても、そういう形でいろいろな影響を受けているという感じがしますね。

七菜:これを通して、どんどん変化してこうなった。これがなかったら今がなかったんじゃないかと思っています。

鏑木:そうですね。だんだん作品が変化していく時期、80年に西武美術館の「Art Today」という展覧会に出品されています。

剛:それは行かなかったかなぁ。

七菜:あ、一緒に行きました。私、覚えているんです。日曜日に行って混んでいた。池袋ですよね。

剛:「絵画の問題展」とは違うの?

大浦:それです(「Art Today’80 絵画の問題展 ロマンティックなものをこえて」西武美術館、1980年11月15日-12月17日)。

七菜:すごく混んでいたのを覚えています。

剛:途中からちょっと行かなくなって(笑)。

鏑木:そうですか。きっと、お忙しかった時期ですよね。

七菜:ママ、この展覧会は一緒に行ったよね。

利恵子:このときぐらいから行けるようになったのかな、私も。この前がね、行けなかったね。

剛:これ、80年?

鏑木:そうですね。この展覧会の監修者である批評家の藤枝晃雄さんと、かなりお話をされたのかな、と思ったんです。

利恵子:根岸(芳郎)さんと一緒だった。

大浦:(出品者は)根岸さんと辰野さんと、依田寿久さんですね。

鏑木:辰野さんはこのとき、カタログに書かれたステイトメントで、制作に対する意識について、かなり強い調子で書かれています。もしこのときのことで何かお話されていたことがあれば、お聞きできますか。

剛:80年ですよね。その辺りから、ちょっと変わってきたの?

七菜:私が最初にアートの話をしたのが小学校5年生で、私がお願いして、一緒にミレーの展覧会を見に行ったんです(「ボストン美術館蔵 ミレー展」日本橋高島屋、1984年)。ミレーの作品はどれを見ても、作品にタイトルがあるんですね。でもトコちゃんの作品は〈untitled〉。「アンタイトルって、どういう意味なの?」と聞いたら、「テーマがないのよ」って。「でも、どうして」って聞いたら、「見ている人が思ったことが、その人のテーマだから」。トコちゃんは「見る人たち全てに自由を与えて、そこからどう思ったかが大事だから、アンタイトルってつけている」って、私が小学校のときに聞きました。

剛:そう。先入観が入っちゃいけないっていうのがあるよね。

七菜:それが最初の、印象に残った言葉です。アンタイトルって。

鏑木:それは知りませんでした。タイトルの理由を今日、教えていただきたいと思っていたんです。

七菜:「あえて言いたくない」って言っていたかと思います。その話は何回かしていて、小学校5年生のミレーの後も何回か聞いた。同じ答えだったから、そうだと思います。
それからもっと後、私が大学時代だったと思うんですけれども、家族団らんしていた時に、その話が出たんです。2つのこういうのがある作品について(《Jan-18-2001》のこと)。母がそのとき飼っていた、レトリバーの頭みたいだと言って、皆大笑いして。するとトコちゃんは、「それでもいいのよ、それでもいいの。リコちゃんがそう言うから、私の中でその作品がノエルの頭になっちゃった」って、おもしろく話しているんです。

利恵子:「ノエルを描いたのよ」って。「どれがノエルだろう」って言ってたよね。

一同:(笑)。

七菜:すごく神秘的というか、哲学的というか。でもあるときからタイトルがつき始めて、それはどうしてなのかは聞いてないです。それって、すごく大きな変化だったと思うんですけど。

鏑木:気になりますね。

七菜:気になるんですけど、それは聞いてない。

利恵子:みんな聞きますね、「アンタイトルってどうして」って。ヴィオリニストの、江藤俊哉さんも聞いていた。

剛:先入観が入っちゃうとさ、つまんない。

七菜:そうみたい。

剛:《Half Moon》くらいだと、あれはあれでね(笑)。タイトルとしてさ。

鏑木:この頃から、油彩に変わりますね(正確には「絵画の問題」展の少し前、1978年頃。本展の出品作はすべて油彩だった)。

剛:そうですね、アクリルが最初だったんでしょう。

大浦:アクリルから、そうですね。

鏑木:アクリルから古典的な技法を使った油彩に変化して、辰野さんにはきっと「これからは絵画でいくんだ」という強い気持ちがあったと思います。制作の過程をご覧になる機会があったと思いますが、その頃のお話をお聞きできますか。

剛:大阪に移って2年、84年か5年くらいのとき。皆で押しかけて、ごちそうになった。ご飯もサクッと作るんですよね。うまいんです。

七菜:お料理が上手。

利恵子:上手だもんね。

剛:旦那はそのときは、帰ってこなかったんだ。

七菜:旦那さんもいつも褒めていた。「トコちゃんの料理は、いつもうまいんだ」って。

剛:それで、「一番の批評家は誰ですか」って聞かれたら、「夫です」って答えたという。

七菜:でも本当に、私にもそれは言っていました。誰よりも厳しいと。

剛:どういうコメントをしていたかは聞いていないけど、聞きたかった。そういうことは言わないのかな。

七菜:コメント自体はあんまり覚えてないんだけど、例えば私が弾くと、「七菜ちゃん、今のは70点」「えー70点か」「いいじゃない、私はいつも30点か40点よ」って(笑)。

一同:(笑)。

剛:言われるの?

七菜:うん。徹さんが私に「70点」って言うと、叔母が「えー! 70点って私、もらったことない。いつも30点」とかって。

大浦:厳しいですね。

七菜:演奏や作品に対しては、鋭い目を持っていました。よく私に「土臭いのが必要だ」って。「人間、土臭いのが出てこなきゃ音楽じゃない」と言っていた。

剛:ああ、じゃあそれかな。

七菜:「土臭くなきゃだめだ。何回か大失恋をしてごらん。そしたら土臭さがわかる」って、高校生くらいのときから言われていました。そういう、人間の本来持った感情的なものを出そう出そうっていう。

剛:やっぱり、それは影響あると思うね。今の話は初めて聞いたけど。

大浦:ありそうですね。

七菜:それが、私が高校の頃によく言われていた言葉。

大浦:二木先生が東近美の個展(「辰野登恵子 1986-1995」東京国立近代美術館、1995年9月15日-10月22日)のオープニングのとき、辰野さんに同じ質問をされたそうなんです。「あなたにとって、最も重要な批評家は誰ですか」。二木先生は藤枝さんとか早見(堯)さんとか、長く関わっている批評家の名前を想定して出したそうなんですが、そこで辰野さんは一言、「中です」っておっしゃった。「それは僕の中ですごく驚いたし、印象に残っている」という話を先日、聞かせていただきました。

剛:そうなんですね。

大浦:本当に、繰り返しおっしゃっていたんですね。

七菜:亡くなってしまう1年くらい前、(アトリエの)上で話していたときに「すごく寂しくなるときがある。私にとっての人生の道しるべを、ふたりなくしているようなものだから」って。そのふたりっていうのは、ひとりは中さんで、もうひとりはおばあちゃん、トコちゃんのお母さん。おばあちゃんは亡くなってはないですけど、年をとっていて話せない(2018年2月に他界)。

剛:95歳。

七菜:だから会話ができない。なくしたときに、どんなに大切だったかがわかる。すごく寂しい。私はその“道しるべ”っていう言葉がすごく印象的で、ずしんと来ましたね。

剛:中さんは、音楽もすごいんですよね。耳がすごく良い。

七菜:すごく。感性がすごく研ぎ澄まされているというか。そして熱心。私がなにか弾くっていうと5、6枚その曲のアーティストのCDを買ってくるんです。「これを聞くといい。勉強しなさい」と、それを玄関で渡して帰る。叔母もそうなんですけれど、中さんもすごく熱心な方ですね。

剛:カルロス・クライバーの演奏会(指揮者。Carlos Kleiber, 1930-2004)。

利恵子:あ、コンサートに行ったって。

剛:コンサートに手袋して行って、握手してもらった(笑)。

七菜:コンサート後に握手してもらうために購入した、白手袋。ふたりとも、すごく音楽好き。すごく楽しい夫婦で、私が練習した後、夜中ドライブに連れて行ってくれるんです。曲目がブルックナーだったりマーラーだったり、たまにシュトラウスがきたり。それを大音量で聴くんです(笑)。まぁ、とにかく楽しい。緩急がある生活というか、本当に根詰めてやるときと、楽しくするときっていうのがあるんじゃないでしょうか。

鏑木:ところで先ほど、95年の東近美の個展のお話が出ましたが、この展覧会は当時、東近美で40代女性の初めての個展ということで話題になったようですね。そのときのことについて、辰野さんは何かおっしゃっていましたか。辰野さんにとって、どういう展覧会だったか……。

剛:母親も父親も来たし、柴田さんも鎌谷さんもいたんですよね。で、私っていう(笑)。いっぱいしゃべっていたなぁと思う。堂々としゃべっているから、びっくりする。

鏑木:展覧会そのものについての話っていうのは、あんまり……。

剛:家族ですからね。

利恵子:でも、すごく誇りだったでしょうね。こんな美術館でできるっていう。

七菜:と同時に、謙虚だったりして。2012年の国立新美術館の展覧会の寸前は「すごい、こんなアーティストなのに、こういう気持ちにもなるんだな」と思う言葉を聞いて。謙虚だなというか、人間なんだな、って。

剛:ちょうどのっているときですよね、95年。

大浦:そうですね。

鏑木:その少し前は、海外でも発表が続いていました。ファビアン・カールソン(「辰野登恵子 ペインティング 1984-87」ファビアン・カールソン・ギャラリー、ロンドン、1987年9月23日-10月7日ほか)とか、ユーロパリアとか(「ユーロパリア89 ジャパン 現代美術展」ゲント市立現代美術館、1989年10月29日-1990年1月7日)。そういった展覧会についても、何かお聞きになってらっしゃいますか。当時のお考えですとか。

剛:私は行ってない。中さんが行ったよね。

利恵子:中さんが行ったと思いますけどね。

七菜:ニューヨーク?

利恵子:いや、フィンランドかな。

鏑木:はい、北欧でもグループ展に参加されています(「ジャパン・アート・トゥデイ あいまいなパースペクティブ、ヴィジョンの変容」ストックホルム文化センター、1990年11月24日-1991年1月27日ほか巡回)。

利恵子:ものすごい寒さで、サウナに入ったそうです(笑)。

剛:雑談ばっかりで、絵のことは(笑)。

大浦:海外までご覧に行かれたことはありますか。

剛:ないです。

利恵子:まだ気軽に行く感じじゃなかった。

剛:もう少し後になってからね。

鏑木:辰野さんは仕事でも旅行でも海外によく行っておられて、現地で作品を見ることを大切にされていたと思います。何かお話をされていましたか。

利恵子:ゴッホの美術館に行った話は聞いているけどね。

七菜:それは私も一緒に行った。

加菜子:最近でしょう。

七菜:うん、アムステルダムのゴッホ美術館は2004年の秋。

鏑木:辰野さんのお話によく、海外で作品を見たときのことがあるんです。70年代の後半にも、アメリカに行かれていますね。

加菜子:フィラデルフィアの美術館に行ったって聞きました。詳細はわかりませんけれど、ボストンとフィラデルフィアの美術館を回って、すごく感銘を受けたというのは聞いたことがある。

利恵子:それは中さんと。

加菜子:一緒に行ったんだっけ。

利恵子:たぶんそうだと思いますね。1980年の1月末には、クリフォード・スティルの回顧展を見るために、メトロポリタン美術館に行っています(抽象表現主義を代表する画家ながら、1950年代には商業画廊との関係を断つなどの理由で展観の機会が限られていたスティル初の回顧展。1942年から1978年までの79作品が一堂に会した大規模展となった)。その後、オルブライト・ノックスや、スティル・コレクションを見ています(オルブライト・ノックスには作家寄贈31点、美術館購入2点の計33点からなるスティル・コレクションがある)。私の子どもにお土産に、当時人気だったキャベツ人形を買ってきてくれました。今でもあります。

剛:古典的なものも見ていたの?

鏑木:そうですね。セザンヌを見たときのお話もあります(辰野登恵子 談「絵画でしか表現することのできない力をセザンヌは教えてくれる。」『美術手帖』第777号、1999年10月など)。

七菜:あ、セザンヌ展には行ったんじゃなかったかな。ニューヨークで。

鏑木:セザンヌ展とか、マティスの回顧展とか。

大浦:90年代は、MoMAのマティスの回顧展(Henri Matisse: A Retrospective, 1992)。

七菜:うんうん、MoMAの話は覚えてる。あそこの美術館の配置がいいって。

剛:MoMAはいいって言っていたね。

鏑木:ご家族とはそういったことは、あまりお話をされないものなんですね。

七菜:そうかもしれませんね。2004年、ローマで一緒にシスティーナ礼拝堂を見に行きました。あそこは混んでいて止まって見られないから、目に焼き付くように見て感激していましたね。ヴェネツィアにいたとき、近郊のパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂へ行きました。ジョットの《最後の審判》を絶対に見たいということで、予約をして行きました。フィレンツェではウフィツィ美術館やアカデミア美術館に。
一番印象に残っているのは、後で質問にも出ると思うんですけどIDEM(パリのリトグラフ工房。後述)に行ったとき。モネを見にオランジュリー(美術館)に行きました。それが2011年かな。作品自体もそうなんですけど、モネが制作した頃ってランプもなくて、デイライトだけで制作されたっていうことに改めて感銘を受けていた感じ。「やっぱり、陽の明るさで描くっていいな」って言っていました。あとオランジュリーって、モネのために作られた美術館ですよね。その空間がいいなって。邪魔されない間隔、それがうらやましいって。
あと2011年、ブリュッセルのリュック・タイマンス展(パレ・デ・ボザール、ブリュッセルで開催された回顧展。2009年、ウェクスナー芸術センターとサンフランシスコ近代美術館で開催した米国巡回展が凱旋)。リュック・タイマンスの名前は、2002年に私がベルギーに行くのを機に教えてもらって、それからよく「リュック・タイマンスがあったら見て」って。彼の話もときどきしましたね。

鏑木:ちょうど、日本でタイマンスの人気が出てきた頃ですね。

七菜:そうですね。最近の作家で、「この人!」と思う人は彼だって。リュック・タイマンスのどこが「この人!」って思うかっていうと、「同じところを見ている」と。だけど2011年の展覧会では、「あんまり変わってないわね、前回と」と辛口コメントもあったり。

鏑木:厳しい(笑)。

七菜:「タイマンスの作品のよさが出るわね。こういうところで展示されると」とも言っていましたけど。その美術館(パレ・デ・ボザールのこと)も天井が高く、白い壁が一面に。一点一点の作品の個性がすごく伝わってきやすくて、それを羨ましいって。だから、「トコちゃん、絶対ここでやろう」って言ったりして。本当にやらせてあげたいなぁって、それも私の夢なんです。

加菜子:今、夢の話で思い出したんですけれど、2008年に一緒にニューヨークに行ったときに、グッゲンハイム美術館に行ったんです。そのときはルイーズ・ブルジョアを見ました。トコちゃんは本当に彼女を尊敬していて。

鏑木:そうですか。意外ですね。

加菜子:女性として、すごく尊敬する部分があったみたいです。もちろん画集も買って、トートバックとかポストカードも一緒に買ったんです。「私の夢は、やっぱりグッゲンハイム美術館でやること」って言っていました。ニューヨークに来たのはプライベートで、ジョージ・マイケルのラストコンサートを見に行くっていう名目で。

一同:(笑)。

加菜子:私はついて行っただけなんですけど、そのときにグッゲンハイムに行って、「新しい夢ができたわ、加菜ちゃん。私はグッゲンハイムでやるから。オープニングパーティにはジョージに一曲歌ってもらうから」。今、思い出しました。

一同:(笑)。

七菜:おもしろい。妹にはよくおもしろい話をよくしていて、私は固い話ばかりしていた。

加菜子:でもたぶん、本気でそう思っていたっぽいですけどね。2008年、突然ニューヨークに連れて行ってくれて、MoMAやメトロポリタン、トコちゃんが世界で一番好きだと言っていたグッゲンハイムなどの大きい美術館はもちろん、チェルシー地区の小さいギャラリーもいくつか周って、いろいろなアーティストやギャラリーを紹介してくれました。夜はクラブに一緒に行って、70年代ディスコブームで人気だったStudio54(ニューヨークの伝説的ディスコ)でDJをしていたニッキー・シアーノさん(Nicky Siano)のDJで、トコちゃんもガンガン踊っていたのに本当に驚いたし、楽しい思い出です。トコちゃんの尊敬しているアンディ・ウォーホルも彼のDJが大好きだったから、きっと嬉しかったんでしょうね。そのような影響もあってニューヨークが大好きになって、今でも毎年訪れています。
亡くなる前の年、ローレンス・ミラー・ギャラリー(Laurence Miller Gallery)でのショーが決まっていて、一緒に行く約束をしていたのに、彼女の体調が思わしくなくて叶わなかったことが、今でも残念です。その後、2015年にニューヨークを訪れた時、ローレンスさんにお会いして、個展を開催して頂いたことに直接お礼を言いに行きました(Given: Toshio Shibata & Toeko Tatsuno, 2013)。展覧会がどれだけ素晴らしかったのか、写真と共に詳しく説明して頂き、時を経て彼らのショーの様子がわかって、本当に嬉しかったです。ローレンスさんはお話していて、人間的にも素晴らしい方だと感じました。
いつかまた、トコちゃんのショーをニューヨークでできたらと夢見ています。本当に彼女の大好きな街でしたので。

大浦:さっき、モネのデイライトのお話を少しされていましたけど、2000年の画家の丸山直文さんとの対談の中で、「私は最近アトリエの人口の光の中で色を見ていると、色彩音痴になってしまう」。ここでの話だと思うんですけど、「割と小さな作品は、出来上がったら良さそうな物は外の自然光の下で見てみて出来上がりを確認する」という話が、ちょうど最初の部分で出たんですよ(辰野登恵子・丸山直文 談「いまの絵について語ろう」『Saison art program journal』第4号、2000年9月)。

七菜:(対談のコピーを見ながら)これは何年? 2000年……何年だったかな。トコちゃん、「ゴッホもモネたちもそう。彼らは今のような電気は使ってなかったでしょ。そしてこんな色が生み出されている」と言っていた。まるで自分に言い聞かせているかのように、私に話して。「やっぱり電気に頼っちゃダメなのよね。私は夜通し描いていたことも多かったけど、それって良くなかったのかも」と言うトコちゃんに、「そんなことないよ」と言いましたけど……。

利恵子:でもまぁ、健康のこともね、自分でも考えていたと思う。

七菜:それも半分あるんですけど。

鏑木:夜更かししないで、昼間に描くように。

利恵子:本当はいけないんだわって。

七菜:でも、没頭の仕方がすごいんです。画家って、作曲家と似ているなと思います。作曲家の友人が何人かいるんですけれど、彼らもアイデアがあったら寝るのを忘れて書いて朝になる。彼女もそう。まだ覚えています。おばあちゃんが、トコちゃんが夜通し描き続けるのを、心配していたことを。朝8時半に、うちに電話がかかってくるんです。「登恵子が今から寝るって言うんだけど、私、心配で」って私に(笑)。「こんなに絵を描いていて、大丈夫かな」って。本当に根詰めてやっていた。それが生き甲斐だったと思うし、だからこういう作品が残っているから。本人も「後悔した」みたいなことは言わないんですけれど、「これからはもっとデイライトを大切に使う」って、最後の15年ほどかな。それを言っていましたね。

大浦:確かに作品を通しで拝見していると、2000年代に入ってから彩度がすごく上がりますよね。

利恵子:明るい感じ。

大浦:すごく明るい感じがしますよね。それは見ていても感じることなんですけれども、やっぱり気持ちの変化があったんだなぁと、お話をうかがっていて思いました。制作されている途中で、特に90年代や80年代は、制作途中と完成作の色味が全く違う作品がたくさんあるという話が出てくるんです。そういう作品をご覧になったことはありますか。

利恵子:80年代は大阪ですので、90年代。

大浦:このあいだは何色だったのに……。

七菜:ああ、それは私たちがよく経験してると思うんですけれど、泊まりに行って夜寝て、朝起きると全然違う絵に変わっている。

大浦:やっぱりあったんですね。本当に一晩で。

七菜:一晩で大変身した作品、いっぱいですよ。たぶん10層くらいにはなっているのでは。トコちゃん自身も言っていましたね、「こんなに絵具で分厚くなる絵ってあまり他ないわよ、きっと。大変身して良いときもあるし、でもね、翌日変えた絵を見て、あーあって思うことも少なくないのよ。中さんにも『あれ、ダメになっちゃったね』とか言われることもあるし」と話していました。

大浦:厳しいですね。

七菜:すごく厳しかったです。でも、本当に彼女のことを大切にしていた。心暖かい、素敵な旦那さんでしたよ。

大浦:以前の90年代の作品は、重なっていることが一目でわかるというか、圧倒的な重なりの迫力が出ているのをすごく感じていたんですけれど、特に近作のほうは、もう少し軽やかだなという印象を持っていて。ここまで色の重なりって。

七菜:(朝起きたら違う絵に変身している)そういう経験をしたのは私がヨーロッパに行く前で、1996年より前になります。その後もきっとそういう“変身”をすることはあったのでしょうけど。それがどのくらいかは、分からないです。……もしかしたら加菜ちゃんの方が知っているかもしれない。

加菜子:うーん。

七菜:1日で変わるっていう経験は、あまりない?

利恵子:妹が亡くなる4ヶ月前にね、比較的元気なときは必死になって描いていましたね。「はー、すごい」って思って見ていて、次の日に来ると全然変わっているんです。鳥居のような絵があってほぼ完成していたのに、すっかり変わっていた。

剛:鳥居?

利恵子:そうなんです。いくつもあるんですよ、山の中に鳥居ができたみたいな感じ。

加菜子:それはママしか見てない絵だろうね。翌朝、全く違ったんでしょう?

利恵子:それがピンクのこういう、ぼんぼりみたいな絵になっている。今、ここ(アトリエ)にあるんですけれども(タイトル不詳、未完。『辰野登恵子アトリエ』pp. 6-7の正面にある大きな作品)。

大浦:まるっきり違いますね。

利恵子:まるっきり違います。こんなに体調が悪いのに、どうやって消して描いたんだろうって。

七菜:消すっていうか、その上に新しいアイデアを描く。消すっていうのはしないで、その上にどんどん。

剛:重ねる。10層くらい。

七菜:そうね。でも一気に10層とかじゃなくて、比較的細めの筆で描いていくみたいな。ある時、筆の話をしたことがあるんです。ちょっと話が違うかもしれないのですが……彼女の使うキャンバスが、すごく大きいものが多いですよね。「それに合わせて、筆も太くしないの?」って聞いたら、「それは絶対しない」って。「この普通の細いサイズで細かく綿密に描くのが、私のスタイルだから」。

大浦:(背後の筆立てを指して)今、後ろに……刺さっている。

七菜:決して太いのはない。1本だけあるけど。

大浦:1本だけ、刷毛がありますね。

利恵子:下地用。

大浦:地塗りでしょうね。

加菜子:下地を塗るお手伝いはよくしました。

七菜:加菜ちゃんは幼稚園の頃遊びに行ったとき、その大きなキャンバスにトトロの絵を描いたんだよね。

加菜子:すごい昔ね。X線を通せば、私のトトロが浮かび上がると思います(笑)。

一同:(笑)。

鏑木:共作ですね。

大浦:そうですね。

七菜:写真も撮ってあるよね。

加菜子:撮ってある。

七菜:そういうこともやらせちゃう、やらせてもらえちゃう。まぁ、何層にもなっているので、完成時には絶対見えないんですけどね。でも結構長い間、うっすらとトトロは見えていたよね。

一同:(笑)。

七菜:色を乗せていっても、なかなか消えない。

加菜子:消すのが大変。

七菜:ちょっと話がずれてしまいましたね。

鏑木:いえいえ。2000年代には多摩美(術大学)の先生を始められたり、制作以外にも変わってくることがあると思います。先生のお仕事について、何かおっしゃっていましたか。

利恵子:そうですね、学生にも熱の入った授業をしていたように思います。芸大の大学院に入れていましたよね。「今年は何人入ったのよ」とか、慶應の病院でも喜んでいました。

大浦:多摩美の学部で教えた子が、芸大の大学院に。

利恵子:はい。

七菜:学生の話をしてくれて、「その子、良かったのよ」とか「この子は何とか賞を獲ったのよ。私、良いと思ってたの」とか。

加菜子:気にすると、とことん教えたりしてた。

七菜:学生に対しても、私たちに対してと同じようなつきあい方をしていたみたい。厳しいと思われていたかもしれない。

利恵子:厳しかったみたいですね。「美術を辞めたら?」ってくらい言ったみたいです。

七菜:本当に? それは聞いたことない。

利恵子:日野(之彦)さんっていう画家がいらっしゃるわよね。あの方が、そう言っていましたよ。「そこまで言うか」って。

剛:お見舞いのときも、いろいろやってくださっていた。

利恵子:そうなんです。病院にも何回かお見舞いに来てくださいました。

鏑木:今日、来られなかった金沢21世紀美術館の学芸員(野中祐美子)からも、「すごく人気のある先生で、アトリエにもよく学生を招いてお話をしていた」と聞きました。

七菜:それも聞きましたね。あと学生さんと、学校の研修旅行みたいなのにも行っていた。旅先からすごく楽しそうな、生き生きしたメールを送ってくれた。そういうの、結構好きだったのかもね。それからIDEMに行くタイミングもすごく考えていて、「この時期に行ったら卒業式に出られないし、この時期に行ったら授業ができなくなっちゃうし……」とか。自分優先じゃなくて、学生さんのこともとても考えて時期を選んでいた。だから、すごく責任感の強い先生だったんではないかと思いますね(注:IDEMはパリ、モンパルナスにあるリトグラフ工房。マティスやピカソなどの制作を手がけた老舗、ムルロー工房を前身に持つ。1990年代より、現代作家たちとの協働を積極的に行っている)。

鏑木:IDEMのお話が出ましたが、資生堂ギャラリーのカタログによると、東日本大震災のときはパリで制作されていたそうですね(『辰野登恵子展 抽象—明日への問いかけ』資生堂企業文化部、2011年)。当時どんなお話をされましたか。

七菜:「私は絵を描くことで、震災に遭われた方たちの分までがんばるわ」って。実は私は、震災の起こった日にパリに行ったんです。私は何もニュースを知らないでアトリエに行って、「トコちゃん、おはよう」って言ったら、「七菜ちゃん、聞いた? 日本で大変なことが起こったのよ」って。「私、こんなことをしていていいのかしら」って言うから、「今、たぶん帰れるような状況じゃないし、トコちゃんはここで仕事をしていた方がいいよ」って。

鏑木:七菜さんからのアドバイスがあったんですね。

七菜:いや、私の勝手なアドバイスというか。でもなんだろう、彼女は日本自体のことをすごく心配していて、こんなに日本のことも大事に思っているんだ、と感銘を受けた。「こんなに呑気にやっていていいのかな」「ここで制作することが、今トコちゃんにとって一番大事なんじゃないかな。帰ったところで今何ができると思う?」みたいな感じで話して。結果、一週間くらいパリ滞在を延長したんだよね(帰国は3月26日で、約1ヶ月のパリ滞在だった。森本美穂「辰野登恵子の挑戦」『辰野登恵子展 抽象—明日への問いかけ』より)。

利恵子:まだ日本に来なかったしね、エールフランスが。放射線を気にして。

七菜:で、そこで刷った作品を1点、福島のために寄付したんです。

大浦:チャリティにされたと。

七菜:はい、確かそうです。パリでエルメスなどが主催した、チャリティオークション。私がベルギーで、東日本大震災のチャリティコンサートに参加したんです。そうしたら「七菜ちゃんがやるくらいだったら、私もやんなきゃ」って。で、その時に制作していた版画を1点出したの。だけどあの時は、一週間延ばしたら卒業式に出られないと、最後まで気にしていましたよ……。今の質問は、震災から始まったんでしたっけ。

鏑木:はい、IDEMのお話からです。当時は、常にそばにいらしたんですね。

七菜:トコちゃんが来ているとき、パリに数泊だけしました。

利恵子:IDEMは、見れてよかったわよね。

七菜:うん。2年間続けて制作に来ていて、2年とも一緒にいることが少しできたのですが、その時彼女の目がすごくキラキラ輝いていて、「こんなに制作に没頭できるのは、学生以来のこと」って言っていました。
1年目は1か月、2年目は2週間くらいだったのですが、その期間、版画だけに没頭できるその時間がすごく充実して、幸せそうでした。自分にある時間はすべて版画にささげたい、というのが行動にも表れていて、観光はほとんどしないんです。私が2、3日会いに行ったときくらいしか、街を見たり美術館に行ったりしなかったのではないかしら。
土日はIDEMが閉まるんですね、本当は。刷師さんは、月曜から金曜まで来ていて、毎日仕事は5時にあがり。これはヨーロッパだと、ごく普通のことなんですけどね。それがセンセーショナルだったみたいで、本人はかなり驚いていました。日本ではもっと長く仕事するって。「子どもが体調を壊して、4時に帰っちゃった」とか、びっくりしていました。と同時に、「子育てにお父さんも熱心なのね」と感心もしていたり。でも刷師さんとは気も合ったそうですし、腕も良くて気に入っていました。ただヨーロッパと日本の生活環境の違いに、びっくりしていましたね。トコちゃんの制作したい意欲にかられて、IDEMで働かれている大津明子さんが、特別に土曜日にアトリエを開けてくださって、制作をしていました。その時は、刷師さんはいないんですけどね。月曜日に来たらすぐに刷れるように、準備をしたり。
そして家に帰って何をするかというと、スケッチをし始めるんです! 部屋の床に、スケッチした紙がいっぱい並べられている。ベッドの横にも紙、紙、紙っていう感じ。その姿や行動を見て、感銘を受けました。そして影響を受け続けています。自分も頑張ろうって。

鏑木:そういった中での、「与えられた形象」という大きな展覧会だったわけですね。

七菜:そうですね。あと滞在中のことを言い足すと、2011年にはモンドリアンとデ・ステイルの展覧会を見に行ったかな(「モンドリアン/デ・ステイル」ポンピドゥー・センター。このとき、出品作のひとつだったモンドリアンのドローイング《横たわる裸婦》(1912)のポストカードを買い求めた。帰国後、そのポストカードを見せられたエピソードが以下にある。三輪健仁「辰野登恵子の抽象を読む、具体的に」『辰野登恵子展 抽象—明日への問いかけ』)。
でも2012年は、行かなかったですね。2012年はもっと制作に没頭していた。買い物にも行かない。「(お店が)6時で終っちゃうから、七菜ちゃん買ってきて」って。だから私がお買い物係をしたり(笑)。日曜日はお休みだから家で描いて、観光はほとんどしてない。
もの凄く楽しんでいたというと、簡単に聞こえちゃうんですけど……彼女にとって、絵を描くことが本当に生き甲斐なんだな、と感じて心が熱くなりました。

大浦:IDEMでの制作はこちらで主題を用意して行くものと、その場で制作するものと。

七菜:両方だと思います。年末かお正月頃に「今、パリで制作するためのアイデアをデッサンしています」とか、メールが来た。だから(渡欧前の)2ヶ月くらいは、そういう準備に入っていたんだと思う。

鏑木:その頃は展覧会の準備もあったし、きっとお忙しかったでしょうね。

大浦:そうですね、2011、12年。

七菜:忙しかったでしょうね。

鏑木:すみません。少し遡って、先ほど聞きそびれてしまった信濃毎日新聞の挿絵の話をお聞きします(辰野が挿絵を担当した辻井喬「漂流の時代に 辻井喬思索日記」は信濃毎日新聞に2006年、1年間に渡り連載された)。これは「与えられた形象」展(2012年)には出品されていないんですよね。

大浦:出てないんです。2005年なので、ほとんどここ(アトリエ)で描かれていたんでしょうか。

七菜:岡谷じゃない?

利恵子:岡谷でよく描いていましたね。ここを建てるときで、近くにアパートを借りていたから、ここでもちょっと描いたり。でもほとんど岡谷だと思います。

大浦:それで先ほどお話にもあった、岡谷の風景とか月とか。

七菜:何点かは、トコちゃんもその作品について話してくれて。だから覚えています。

利恵子:親の介護を兼ねてね。制作しながら、親を良く見ていました。

大浦:結構まとめて、集中的に描いていたんですか。

利恵子:そうですね。

七菜:たぶん、普段からそういったスケッチとかはしていたと思います。

大浦:紙にテンペラとか、普段使われないような技法のものもいくつかあって、それがすごくおもしろいなと思いました。

利恵子:たぶんテンペラっていうのは、多摩美で生徒さんと一緒に描いていた。教えながらというか。

大浦:ええ、ええ。

鏑木:そうなんですね。大型作品では中々見られないタイプの作品がいろいろとあって、おもしろいですよね。今度の展覧会でまとめて見られそうなので、楽しみにしています。

大浦:見覚えのあるモチーフと、見たままに近いような日常に近いモチーフの捉え方が交互に出てきたり、混在していてすごくおもしろいと思うんですよね。辰野さんの形を見る人が自分に引き寄せて捉えられるという、すごくいい作品群だと思いますので、展覧会ではまとめて、全体像として展示したいなと思っているんです。

利恵子:ああ、そうですか。それは嬉しいですね。

大浦:そうか、ほとんど岡谷なんですね。それで腑に落ちたような気がします。

利恵子:父も楽しみにしていたみたいですね。毎週土曜日、信濃毎日新聞にこれが出ますよね。

大浦:丸1年ですね。52週。

利恵子:松本ではそのうちの何点か、全部じゃないですよね。

鏑木:大浦さんは、松本でご覧になったんですよね(挿絵の一部は「堤清二 セゾン文化、という革命をおこした男。」展、松本市美術館、2017年で展観された)。

大浦:見ました。

七菜:楽しいですよね。

利恵子:全部やっていただけるとね。

大浦:そうですね。(ファイルを見ながら)この辺が先ほどお話に出た、笠間の。

七菜:どの作品かはわからないんですけど、ふたつの欠けたお皿とか。……あ、そうだ。もうひとつ思い出したんですけれども、構図のことで、ふたつの関わり合いというのを口にしていましたね。

大浦:うんうん。

七菜:例えば蓼科に行ったときも、「七菜ちゃん、あそこの2本の木を見て。あの2本の木が私にとって、すごく特別な関係に見えたの。そしてそれがあの作品のもとになったのよ」と教えてくれた。笠間でのお皿もそう。ただそこにあっただけの割れたお皿が、彼女の目を通すと特別なものに。

利恵子:そこにあるんです、ふたつに割れたお皿が。真っ二つに割れてね、「すごく不思議でしょう」って。対照的に割れているのよ。確かね、あったはず(皿を探しに席を立つ)。

一同:(笑)。

七菜:ふたつの関係性というテーマだと、もうひとつエピソードがあったわ。その時、私が住んでいたアントワープのアパートから見えた、前の家の煙突の話。窓の向こうに見えるその煙突ふたつを見て、「わー、あの煙突!!」とトコちゃんが興奮して。「こんなのってあるの?!まるで私の絵みたいだわ。倒れそうで絶対倒れない、ふたつの関係性。あの煙突の写真撮って!」って(利恵子が割れた皿を持ってくる)。

加菜子:それ?

鏑木:確かにぱっくり。

利恵子:大事にしていたお皿かどうかも、わからないんですけれども。

大浦:でも丸形だし。

剛:とってあるんだ。

利恵子:そうなの。だからきっと登恵子がね、とっていたの。「ふたつに割れたのよ、このお皿」って。この割れ方がよっぽど好きなんだな、と思っていたら、描いていたのね。

剛:裏返しにしてたの。

利恵子:裏を描いた。

七菜:きれいなお皿。でも裏を描いたかもしれないし。

鏑木:裏のシルエットかもしれないですね。

利恵子:すごく不思議がって、「きれいに割れたのよ」って。普通(皿が割れたら)「あーあ」と思うのに、割れ方を見て。こういうのも作品になる。こんな風にとってあるんだから、きっと。

大浦:(皿の入っていた)このジップロックは、辰野さんが。

利恵子:そうなんです。これに入っていたのを、入っていたまま(笑)。

七菜:大切にとっておきたい。

利恵子:今、初めて開けたんだけど、中々ね。

大浦:うんうん。そうですよね、節が3つと4つがあるとか。

七菜:全部じゃなくその一部とか、そういうトコちゃんの視点って特別だなって。

鏑木:なんか、目のつけどころが……。

七菜:そこからしてもう違う。

鏑木:「与えられた形象」展(国立新美術館、2012年8月8日-10月22日)は皆さんご覧になったと思いますが、いかがでしたか。

利恵子:何回か行きました。トークのときも、行きましたね。柴田さんと一緒にお互いこう、楽しそうに話していました。

加菜子:オープニングのときに、学生時代の思い出話をしていたのがすごく印象深かったですね。お互い本当にね、もう……。

利恵子:ふたりだけで、すごく楽しそうに話していましたね。聞いている人はなんか、テレビを見ているみたいというか(笑)。

加菜子:ふたりらしいオープニングでした。

利恵子:あのときもちょっとね、具合があんまり良くなかったんですよね。

大浦:そうですよね。少しその、お加減が。

利恵子:抗がん剤の合間合間に。「私って、ちょうどいいときにやれるのよ」って。1週間に4~5日、慶應で治療して、それで一週間後だったら少し元気なので、ちょうどうまい具合に日にちが合ったんです。だから、かなり無理を押していろんなことをやっていましたね。

大浦:2回目のパリ滞在、IDEMのときはそうでもなかったんですか。

剛:足が……。

利恵子:よくなかったですよね。

大浦:ちょっとむくんで。

剛:(膝を)手術していたんでしょう。

七菜:帰ってすぐかな。IDEMの後すぐ。

利恵子:もう、次の日くらいには入院になったかもしれない。

剛:エコノミー症候群にならないか、心配していたんですよ。

利恵子:元気なときでも、展覧会ではかなりがんばるもんだから、1回展覧会をやると5~6キロは痩せていましたね。

鏑木:そうなんですか。大変だったんですね。

七菜:制作に没頭すると食事をするのも忘れて、寝るのも惜しんでいたのか、痩せていましたね。ジーンズがゆるゆるなのを見たことがある。羨ましかった(笑)。

利恵子:母なんかよくね、「鶴の恩返しに見えてきたわ」って。

大浦:身を削って、作品に……。

利恵子:そう。「夜中もあんなことをやっててね」って。

大浦:夜中ですしね(笑)。

利恵子:「私がトイレに起きるとね」って。で、「アトリエに入ると怒られるから、こうやって見ていると、登恵子は本当に鶴の恩返しみたいな感じよ」って。「身を削って制作しているのよ。あんなことしていて、いいのかねぇ」。母は本当に心配していました。

鏑木:そうだったんですね。辰野さんは、お亡くなりになった後も展覧会が各所で開催されています。埼玉でも準備していますし、近々gallery ART UNLIMITEDでも予定がありますね(「辰野登恵子 ポートフォリオ特集」2017年)。今もたくさんの方が辰野さんの作品をご覧になりたいと思っていることについて、ご家族の皆さんはどう感じていらっしゃいますか。

利恵子:美術館や画廊で「辰野登恵子展」というのは嬉しいです。

鏑木:たくさんの方に、長く見てもらえるといいですよね。

七菜:それは一番の願いですね。辰野登恵子という人物が見えなくても、作品はずっと生き続けていく訳ですから。叔母が他界してから、すぐに展覧会があるというのは、とても喜ばしいことだと思っています。それが途絶えないようにつないで、100年後もそのあともずっとね。叔母の作品のことが好きで、展覧会に来たいという人がどんどん増えていってくれればもっと嬉しい。

剛:散逸しないようにね。いろいろな形で守れるように、どこに何があるか、そういうのをきちっと追跡していくことが大事。

鏑木:そうですね。展覧会はこれまでもいろいろな形でされていて、その時々で同時代的に関わってきた方々、さっきお話した藤枝さんや、東近美の個展のときなら本江(邦夫)さんだったり。

大浦:同郷の谷さんもそうですね。

鏑木:そうですよね。埼玉近美の建畠館長も、特に大阪時代は並走して見てきたような感じがありますね。そういう人たちからすれば、私たちは年代が少し離れていますが、今日のようにお話をお聞きすることで、また違った形で辰野さんの作品について考えていくことができたらと思っています。

大浦:本当にありがたく思っています。本来なら生前の辰野さんと親しくおつきあいしていたわけでもないですし、そもそもきちんと言葉を交わした事すらない立場でしたので、そういった者にもオープンに重要な貴重なお話を聞かせていただきました。

鏑木:お時間をいただき、貴重なお話をお聞かせくださりありがとうございました。

利恵子:ありがとうございます。

(インタヴュー後、岡谷から持参されたスケッチブックを皆で見ながら)

鏑木:(表紙を開いて)わ、いきなり。これ、なんだろう。

加菜子:卵みたい。

剛:80年?

大浦:70年くらいですよね。70年代っぽい。

鏑木:色がきれいですね。鮮やか。

利恵子:そう、ちゃんと残っていて。

七菜:昨日の今日みたいな感じ。

大浦:(別のページを見ながら)グリッドと……こういうのはもう、大学院生くらい。

剛:そうなんですね。

大浦:はい。

剛:大学院に行ってると、72~73年。

大浦:72~74年ですかね。(別のページを見ながら)これはさっきの、卵型に切り取った。

剛:あぁ、そういうやつか。

大浦:山肌を切って、地層が出てきたみたいな印象ですね。

剛:本棚みたいなものがおもしろいなという話はやっぱり。普通のイリュージョンじゃないんだ、って言っていたね。

大浦:はい。

剛:割と現実味のあるイリュージョンとして意識して描くと、現実の本棚みたいでつまらないことになっちゃうけど、ちょっとずれてイリュージョニスティックになっているじゃない? そこが肝だって。なかなかおもしろいなと思った。

大浦:本当にそうですよね。(別ページを指して)例えばその、はしごとか。

剛:立体に見えるんだけど、立体じゃないみたいなね。これ、すごく好きなんだけど。(《Aug-2-2003》のような)はしごの作品。

七菜:そうそう、なんかちゃんとしてない。

剛:ちゃんとしてないような、崩れそうな。

七菜:笠間に行く途中も、コンテナが積み重なった所があって「七菜ちゃん、そこちょっと写真撮って」って言われました。「え、何を撮るの? 景色は別に……」と思ったら、「あの空き地のコンテナを撮って」って。無造作に、ただ積み重なったコンテナがいくつもある図です。そういう視点って、柴田さんと似ているなって思いました。

剛:ダムのね、ああいう。

鏑木:(別のページを見ながら)おもしろい、それ。(瓶のような形がふたつ並べて描かれた、瓶と瓶の)間を塗っている。こっちなんだ。

七菜:色がきれい。

大浦:薬瓶っていうか、牛乳瓶っていうか。本当ですよね、ここから塗るっていう。

七菜:あぁ、そうそうそう。これって何十年前のですよね。

大浦:隙間っていうか、見ているところが同じで。

七菜:子どものときに石の話か何かで、好きな色の話になったんです。私の誕生石がトルコ石で、嫌だって話をして。そうしたら叔母が、「トルコ石こそ一番いい石じゃない。あんなに不透明なものってないわよ。すごく好き」って言っていましたね。私は妹や叔母の誕生石の方が、ずっと羨ましくって。
(別のページを見ながら)おしゃれですね。おばあちゃん。私にとっておばあちゃんだから、叔母にとってはお母さん。トコちゃんが子どものときに、洋裁屋さんでボタンを見るのが、すごく好きだったみたいです。

剛:トコちゃんが?

利恵子:うん。あと小さいときね、毛糸屋さんによく行った。昔は母がみんな手編みだったから。毛糸屋さんに行って、見るのが楽しかった。

七菜:これ、おもしろいですねぇ。

鏑木:(別ページを見ながら)あ! 出てきた。

加菜子:ジェリービーンズだ。

大浦:これって70年くらいですね。(別のページを見ながら)やろうとしていたことが、すごくよくわかりますね。

剛:ああ、そう。

鏑木:(別のページを見ながら)かなり立体感が出ている。ジェリービーンズが集まっているイメージは、最初からあったんですね。

大浦:単体としてじゃないですね、完全に。

鏑木:そのイメージが、ずっとあるんですね。

剛:(別のページを見ながら)入口みたいだね。

大浦:なんでしょうね、正方形の部屋。村松画廊かもしれないですね。

剛:どこに置くかとか。

鏑木:これ、具体的な展示プランですね。最初の展示のときに、いろいろ練ったのかもしれないですね。

大浦:(別のページを見ながら)これで決定しましたね、モチーフが。

鏑木:(ジェリービーンズが)単体で出てきた。

利恵子:あ、こういう作品あるよね。こういう楕円形の、黄色と。

剛:少し均一じゃないんだね。

大浦:(別のページを見ながら)このメモは、シルクスクリーンを教えてくれた江口孔版か岡部徳三さんのお話ですね。

七菜:そこでは叔母が「もっと」と言えば、やってくれる感じ。

大浦:これは(シルクスクリーンの)作業手順ですね。

七菜:……なんて書いてあるんでしょうね(メモが読みづらい)。

利恵子:うーん、「焼き付け」……。

大浦:焼き付け……。(メモを読みながら)その後は、なんでしょうね……。「難しさを感じて……」。

七菜:これ、いつ書いたんだろうね。

大浦:71、2年くらい。(別のページを見ながら)あぁ、これですね。

剛:判子。

加菜子:わぁ、いっぱい。

剛:この朱色に関心があった。事務的な赤がいいって、自分でも言っている。

大浦:早見さんとの対談で、色鉛筆の赤と事務用品の赤は赤だけれども、赤という印象はない色だってことを言っている。すごくニュートラルな赤というか、特別な、例えば血の色という様な意味合いのない赤。で、それを使っているっていう話を、70年代の終わりくらいにしていましたね。おもしろい(辰野登恵子・早見堯 談「平面の構成について」『みづゑ』第880号、1978年7月)。

剛:おもしろいね。

大浦:(別のページを見ながら)これが正に、モチーフになっている。たくさんありますもんね、アメリカ大統領(《作品II》1972年にあるモチーフ)。

剛:(別のページを見ながら)これをビエンナーレに出したんでしたっけ。違います?

大浦:あ、東京国際版画ビエンナーレ(「第11回東京国際版画ビエンナーレ展」東京国立近代美術館、1979年6月29日-8月5日ほか巡回)。

剛:版画ビエンナーレか。あのときちょうど、中野で。

鏑木:ああ、そうですか。じゃあその頃ですね。(別のページを見ながら)これは“トエコ”かなぁ。登恵子さん、この頃は名前をよく“TOECO”って書かれていますよね。

利恵子:ああ! そうですか。

鏑木:コスモス・ファクトリーのチラシとか。

剛:へー。(“ko”との)間違いじゃないんだ。

七菜:(漢字で書く)“辰野登恵子”とは違うね。

鏑木:(その後もしばらくスケッチブックを見た後で)貴重な資料を、ありがとうございました。

剛:最初からコンセプチュアル・アートとか、単なるコピーみたいなものじゃなくて、かなりオリジナリティがあって。

大浦:そうですね。辰野さんはミニマルとか、ミニマリズムのグリッドコンセプチュアルなものなどを知ったのは後だとおっしゃっていて、それはたぶん間違ってないと思う。それはポーズではなくて、おそらく矩形とか方眼紙のパターンっていうのは元々あった。ポップのときに、本当にグリッドがそのイメージに重なってきたっていうのは、正にそうだと思うんです。ああいう使い方は、ミニマリズムのアーティストは絶対しないので。本当に、ご自分の関心の中にたまたまミニマルの手法が入ってきて、逆にその事で自分は表現法としてどう打ち出していくかっていうのは、葛藤と試行錯誤があったんだと思います。

剛:「やられてたかぁ」みたいな感じ?

大浦:そうですね。「あ、もうあったんだ」という状態から、自分が何を武器にしてアーティストとして立って行くかというところは、苦しかったんじゃないかなと思います。正に最初は、ミニマリズムを受容した日本の若い世代のアーティスト、というような評価のされ方で出てくるので。

剛:そうですよね。

大浦:それはたぶん、ご自分が狙っていたこととか、自分のバックグラウンドとは少しちがった評価のされ方で、早い段階でそれから脱却しようとしていくんだと思うんです。80年前後に、藤枝さんや早見さんが言葉で後押ししたり、導いたりしていくのは、正にあの時期、油絵に展開する時期じゃないかと思っていて、何もそういう言説的な分析をしなくても、作品をぱーっと並べていくだけで、このとき辰野さんに何が起こっていたのかっていうのは、かなりわかるんですよね。それを見せたいな、というのが展覧会の1つの前半の大きな狙いで、説明してこう考えていました、こう考えていましたっていう必要がないくらい、展開として理屈が通っている。筋が通っているので、それがビジュアルな展覧会になったら、非常におもしろいと思います。だから、できるだけあの時代の版画とドローイングと油彩を、数多く出していくと説得力がある。意図的に見ていてはわからない部分だと思うんですけど、作品群として捉えたときにかなりおもしろい。

七菜:楽しみですね。がんばってください。

剛:大変でしょうけどね。

大浦:いえいえ(笑)。

鏑木:そういえば三上(豊)さんが、アトリエを撮影して本を出されるそうですね(『辰野登恵子アトリエ』三上豊編著、桜井ただひさ撮影、せりか書房、2018年2月)。

剛:この前、お見えになったんです。

利恵子:それで何点か作品も載せるというので、ポジも見たいとおっしゃって見えたんです。1ヶ月くらい前かな。

鏑木:そちらも楽しみですね。今日は本当にありがとうございました。