美術家、音楽家
千葉大学で国文学を専攻し、日本のシュルレアリスム文学についての論文で、1957年に卒業。千葉大学で知り合った水野修考が東京藝術大学の楽理科に転入したことをきっかけに、1958年頃、彼の同級生(小杉武久、塩見允枝子、武田明倫)と、前衛音楽の集団、グループ・音楽を結成し、邦千谷舞踏研究所などでダンサーらとの即興演奏を重ねる。一柳慧とオノ・ヨーコを通して、ニューヨークのジョージ・マチューナスに楽譜などを送り、前衛芸術運動のフルクサスに参加する。また、同時期、ハイレッド・センターの活動にも参加、赤瀬川原平の千円札事件では、支援活動のコーディネーターを務める。1960年代を通じて、『音楽藝術』や『現代美術』に評論を書き、1970年には田畑書店より、美術評論集『現代芸術の位相』を出版。1972年には『美術手帖』の「年表:現代美術の50年」を編集。同年に渡米し、ニューヨークでフルクサスの活動に参加する一方、個人の作曲活動を続け、今に至る。2日間に渡るインタビューでは、生い立ちや教育背景などを詳細に伺った後、1960年代前半の前衛芸術活動に重点を置いてお話を伺った。
由本:1935年東京生まれですが、ご両親は何をされていましたか?
刀根:家はね、浅草聖天町って問屋街なんですけどね。そのもうちょっと松屋デパートよりが花川戸で、そこは下駄など履物屋の、問屋街です。その少しさきの聖天町は、待乳山聖天(まっちやましょうでん)という、歓喜天を祭ったお寺があるんですよ。歓喜天っていうのはヒンズーが元で男の仏様と女の仏様が性交しているのが本尊です。だから、花柳界の信仰が厚くって、二股の大根を供えるんですよね。それは女体のようなもんでしょ。聖天町は、靴関係の店が多い場所です。家は祖父が、たばこが専売になる前のたばこの包装のパッケージを作ってた。その印刷をやってた。だから、言ってみれば、町のグラフィックデザイナーみたいだったの。その祖父が町の発明家みたいなとこがあって、靴のグロメットっていう部品を改良した。ちなみにエミリー・ハーヴェイ(Emily Harvey) は昔グロメット・ギャラリーっていった。
富井:この丸いやつですね。
刀根:そうそう。そのグロメットの新案をとったんですね。それはどういうのだったかというと、今までは真鍮にペイントを塗って革の色と合わせてたわけ。真鍮の裏側の部分は表側からハンマーで叩いて留めるわけです。っていうのも、真鍮の裏側は紐を通すと切れやすくなるっていうんで、そこのグロメットの輪っかの部分を全部、靴の革と同じ色に着色したセルロイドで丸い部分を作り、それに真鍮で足をつけるっていう新案特許をとってね。それがアメリカに輸出がすごく多くって。
富井:それは戦前のことですか?
刀根:大正時代ですね。それでアメリカに随分輸出したんですよ。そしたらちょうど、横浜にアメリカ出荷用の倉庫に四杯分ぐらいあったのが、大正大震災で燃えちゃって。
富井:セルロイドって燃えますね。
刀根:それでつぶれて。でもその関係で靴の付属品、靴紐だとか、靴墨とかね、そういうものの卸屋を始めたんです。それが、親父が二代目ですね。
富井:じゃあ、ご家業をお継ぎになったということで。
刀根:そうですね。割とまあモダンなところがあって、スキーのなんか始めたのは、旧制の高校の頃で。
由本:お父様がですか。
刀根:ええ。
由本:会社の名前は?
刀根:五三屋商事。スリーファイブブランドだっていうんで、革を染めるインクもおじいさんが作ってね。
由本:それでは、ご家族の中に特に美術家だとか音楽家、文学者はいらっしゃらなかったんですか。
刀根:いなかったね。でもね、うちの祖母の叔父がすし屋やってて、その息子がうちの親父と同じような年齢で、彼が文学青年だった。自分はすし屋なんかやる気がなくて、東京都の燃料組合の書記をしてたんですよ。その影響じゃないかな。その叔父さんがよく本を買ってくれて。
富井:どんな本ですか?
刀根:子供用の平家物語とかね。あと思い出したのはね、少年文学全集っていうのがあって、今でも覚えてるのは、芹沢光治良っていう作家がいたんですよ。その人は日本よりも外国の方が有名な人で、パリに長く住んでた。芹沢って名字がフランス人発音しづらいんで、下宿してた家の子供が何て呼ぶのってきいたら、cerise (チェリーのことですね)、そう呼べばいいって、cerise って呼ばれてたっていう箇所をまだ覚えてる。小学校入る前の話だけど。
富井:前ですか。それじゃかなり早くから活字を読んでおられたんですね。
刀根:そう。あとね、同じ頃親父が持ってたコナン・ドイルの探偵小説集とか読みましたけどね。
由本:自分で書いてみようと思われたりしなかったんですか。
刀根:その頃はまだ思ってなかったけど、まあ、高校ぐらいには小説家になってみようと思ったこともあって。なんかある時本読んでたらね、小説なんか低級で、詩人で芸術の批評なんか書くっていう、その方が格が高いって書いているのを読んだような気がするのね(笑)。
由本:それはもう大学生じゃないんですか。
刀根:いや、それは高校生ぐらいの時。
富井:それは瀧口さんみたいな人のことですか。
刀根:いや、彼のことはまだ全然知らなかった。それは小説の中のことで、そういうの読んだ覚えがあって。
由本:小説の中に一節としてそういうのがあったんですか。
富井:ボードレールなんか?
刀根:そういうものだったのかもわかんないね。フランスの批評家っていうのは大体詩人でしょ? 僕が書き始めた頃には、詩人が書いた批評なんて馬鹿にしてたけどね(笑)。そういえば思い出したんだけど、高校のころ、アンドレ・マルローに熱を上げましてね。『王道』、『人間の条件』、『希望』なんかに熱中したものです。それで、行動する文学者というものに憧れたわけです。マルローの親友の画家、小松清は、パリでホーチミンと知り合って仏印(注:当時のベトナムの呼び名)での革命にかかわったりした。そして、かれは行動主義文学論という事を主張していた。『人間の条件』に出て来る、キヨ・ジゾールというアナーキストは小松清をモデルにしているという。ただ、実際に、1953年に大学にはいり、行動つまり政治的な環境といえば、その2年ほど後に六全協で共産党の路線が民主統一戦線とかいうものになり、学生は歌声運動なんかに熱を上げる始末で、およそ行動とは縁が無かった。それで、大学の教室をつかって、ロシア民謡とか、「原爆ゆるすまじ」とか歌っている連中を馬鹿にするのが精一杯。その後,邦千谷さんの所に集まった若手の舞踊評論家たちの会で、「アンガージュマン」、政治的参加についてというトピックで討論があった時に、僕は参加ということを、オーディエンスによる作品への参加というふうにねじ曲げたわけです。そのころは、こういう概念はまったく無くて得意になっていたけれど、あとで考えると、行動の余地がないので、矮小化せざるを得なかったせいかもしれない。ただ、後になって作品における行為というものを、重視するという事の契機になったのかも知れない。
由本:ちょっと、話が変わりますが、戦時中は疎開されましたか。
刀根:伊勢に疎開しました。伊勢だけど、津は県庁所在地だから、またそこで空襲にあってね。
富井:東京って、普通東北とか中部地方に行くんじゃないんですか。
刀根:それがね、うちの祖父っていうのは松坂の出身なんです。
由本:空襲にあったということですが、その記憶は。
刀根:9歳から10歳にかけてかな。
由本:何回もですか。
刀根:もうね、東京から神奈川にかけて昭和17年か18年に空襲のようなものはあった。けどぼくは東京ではあってないんです。昭和20年に浅草とか下町を中心に空襲があって3月10日の大空襲で友達を亡くしましたよ。小学校の同級生なんかね。
由本:それでは、その津に3、4年ぐらいおられたんですか。
刀根:そうね、昭和19年、20年、21年、22年ぐらいまで津にいましたね。4年かな。22年の夏ぐらいに戻って。
富井:東京に戻られて。
刀根:ところが東京がね、当時は食糧難のために転入できなかったんです。それで、市川に家を買いましてね。市川の家はね、ちょうど家のすぐ裏辺りに幸田露伴が住んでたんです。ちょうど、市川に移った頃に、幸田露伴のお葬式があってね。幸田家っていう方向を指すサインがいっぱいあったんで覚えてて。だから、明治は遠くになりにけり、なんていうけれどもね、幸田露伴ていうのは、漱石以前の(尾崎)紅葉と並んだ、明治初期を代表する作家でしょ。それが僕の中学一年まで生きてたわけですよね。
由本:中学校から市川で、ずっとですか。
刀根:高校はね、忍ヶ岡高校って、うちが浅草だから、台東区で。忍ヶ岡っていうとこに入ったんですね。
富井:公立ですよね。
刀根:もう都立に変わっちゃったけど、昔は市立第一か第二か。
由本:その時はいわゆる文学少年というほど、文学に傾倒しておられたんですか。
刀根:僕の先生がね、面白い先生がわりと多くて。一人が分銅惇作(ふんどうじゅんさく)先生っていうのがいて、後に実践大学の学長になった人で、宮沢賢治なんかの研究と、比較文学もやってた人で、僕が習った時は、比較文学やってましたよね、教育大で。まだ文理大って言ってた頃で。
由本:その先生が高校で教えてらっしゃった?
刀根:ええ、詩人で、小説書いてましたよ(笑)。分銅先生っていうのはすごい面白い先生で、例えば、漱石とドフトエフスキーの関係とか、鴎外とカフカとかね。
由本:面白いですね。
刀根:面白かったですよ。それで、ニーチェの話なんかもしてくれたし。「永劫回帰」なんてのは高校の時に覚えてね。
富井:それは授業の時にそういう話をしてたわけですか。
刀根:そうです。
富井:すごいですね。
刀根:それからね、もう一人榊原政常(さかきばらまさつね)っていう、これは劇作家でね。
由本:すごい名前ですね(笑)。
刀根:その人は東京帝大の仏文科出た人で、のちに、大学に入った直後に祖母のお供で歌舞伎座にいったら、榊原先生の脚本を菊五郎鵜劇団が上演してました。「末摘花」を潤色した『新釈源氏物語』という出し物でした。その先生がね、授業が面白いんですよ。大体戦後文学が多かったけれど、その月の文芸雑誌の小説一つを選んでね、授業で朗読するの。本来劇作家なんで、台詞読むのなんかうまいんですね。また、戦争中に仏印に徴兵された際に、フランス語のアンフレクション(inflexion、活用の意)が正確だと感心されたと自慢していましたね。
富井:それは日本の文学?
刀根:日本の文学です。授業っていったらそれやるだけ。すごい新しいでしょ、教え方としてね。そういう先生がいたからやっぱり影響受けちゃいますね。
由本:それで、千葉大学の国文科に入られたわけですけど、それもその先生方の影響が。
刀根:そうですね。外国文学っていうのは翻訳を通じて読む以外にないでしょ。原文で読むなんていうのは、よっぽど語学がうまくなってからしかわからないわけでしょ。書くのは結局日本語で書くわけだから、それで、国文学だと思ったんですね。
由本:その時は国文学でも誰を特に勉強しようと思って入ったわけでは。
刀根:別にないんですけどね。僕はでも詩をいろいろ読んでましたね。現代詩をね。
富井:それも日本人の?
刀根:それは翻訳も読みましたけどね。
富井:その頃だとどういう人ですか。
刀根:そうね、大体読むときって、詩論も一緒に読んで。例えば村野四郎なんてのが。彼はリルケですけどね。その人の詩論集なんか読んで、いろいろモダニズムの詩人を読み始めたわけですよ。ちょうど当時、創元社っていうのが、日本詩人全集っていう、何十巻かの明治以降の詩人の全集があってそれを読んで。その中で、安西冬衞(ふゆえ)とか、北園克衛とかね、あとは北川冬彦とか。翻訳では、アンリ・ミショーとか。もちろん、アラゴンやブルトン、エリュアールなんかも読みました。
由本:それが卒論であるシュルレアリスムの文学に繋がってくるわけですか。
刀根:大体そういうことになるでしょうね。
由本:千葉大学の時も重信常喜先生や、栗田勇先生など影響力の強い先生方がおられたそうですけど。
刀根:そうです。
富井:千葉大はどうして選ばれたんですか。
刀根:それは、東大受けようと思って勉強してたんですよ。だけど8科目勉強しなければいけない。ところが試験のスケジュールが、東大が一期で、千葉大が二期なわけ。それで一期の試験までに8科目全部勉強しきれなくて。それで、少し残った部分を勉強するために二期の学校を選んだわけなんですね。考えたら、外語大でも選んどけば、5科目しかなかったからね、一期ですんだんだけど。
(ブロードウェイを消防車がサイレンを鳴らしながら走る)
由本:ちょっとうるさいですね。ここはこういうことがよくありますからね。でも刀根さんにはおあつらえ向きで(笑)。
刀根:はい。ノイズが伴奏してくれる(笑)。
由本:卒論のことは、(ウィリアム・)マロッティ氏の論文を読ませていただいたんですけど、瀧口さんも含め、インタヴューされたということで。(注:William A. Marotti, “Sounding the Everyday: The Music Group and Yasunao Tone’s Early work” in Yasunao Tone: Noise, Media, Language, Errant Bodies Press, 2007, pp.13–33)
刀根:ええ、瀧口さんもインタビューしたんですけどね、あの人声が小さくて。
由本:当時はレコーダーとかもないですしね。全部筆記で?
刀根:そう、全部筆記したんですけどね。
由本:それが初対面ですか。学生の質問にも答えて下さって。
刀根:まじめな人ですからね。その他に渋谷に中村書店てのがあって、そこにMAVOとかいろいろ、昭和初期の1920年代の大正アヴァンギャルドの雑誌が置いてあって、売ってくれって言ったら売ってくれないんですよ。それで、卒論書くので読みたいんですけどって言ったら、こたつと机貸してくれて、そこへ行って、僕はノートに全部筆記したんですよ。
由本:すごいですね。博論並みのリサーチのような感じがするんですけど。
刀根:でも僕はそういうもんだと思ってたから。
由本:随分枚数も多いんですか。
刀根:それがね、そんなことはなくて150枚ぐらい。
富井:4百字詰めで? それは大作ですね。
刀根:そんなことないですよ。博士論文っていったら、トラック一台って昔は言われてたでしょ(笑)。
由本:それは今も保管しておられるんですか?
刀根:大学に保管してあるんでしょうね、きっと。
由本:後に出版しようなんて考えには?
刀根:全然ないね。
由本:インタヴューなんかは全部それに入ってないんですよね。
刀根:そういうのは随分どっかにちらばっちゃって。ニューヨーク出てきた時に、家の本棚なんかに置いたまま出てきちゃったもんでね。そういうのは、ほとんどなくなったんで。
由本:お家が火事になったりして?
刀根:火事にあわないけど、うちの兄貴が店を潰しましてね。それで、家を売って市川に引込んじゃったんですよね。
由本:あの、千葉大学の時の栗田先生というのも詩人ですか。同時代の詩人の大岡さんや批評家の東野さん達とも親しかったとうかがったんですが。
刀根:あれはね、『美術批評』っていう雑誌があったでしょ。そこでシュルレアリスム研究会っていうの作ったんですよ。僕もシュルレアリスム研究してるから入れて下さいって行ったら、東野がね、「じゃ、お入んなさい」って言ってくれた。会ったら後で電話かかってきてね、他の人に相談したら、グループは人を一度増やすとどんどん増えて困るから増やさないって。
由本:じゃあ入れてくれなかった。
刀根:こっちは学生だしね。
由本:なるほど。でもその頃から交流が始まったわけですか?
刀根:あとね、その分銅先生に卒業後に喫茶店で会ってたら、「君、今月僕忙しくて、僕のやってる同人誌に書けないんで、君代わりに書け」って。
由本:分銅先生って、高校の時の。どういう雑誌だったんですか?
刀根:それはね、たしか、アオキ・ヒロタカという詩人が主宰する『風と光と象(かたち)』っていう雑誌でね。リルケっぽいでしょ? で、僕は全然違って、北園克衛のVOU(バウ)っていうグループがあったけど、それっぽいような詩をやってて。
富井:じゃ、記号詩とかですか。
刀根:いや、記号詩でもないですね。ちょっとカタカナ交じりですね。そしたら、分銅先生が10冊ぐらいくれて。合評会で「皆が褒めていたので、僕だけ貶しといてやったよ」なんて。
由本:それが初めての出版経験ですか?
刀根:そうですね。それが大学1年ぐらい。
由本:それはしばらく続いたんですか?それとも一回きりだったんですか?
刀根:それは一回きり。ただ、それを見てね、高校の同級生が、高校の時は皆言わなかったけど、隠れ文学青年みたいなのがいてね、なんか5、6人集まって、俺たち同人誌出そうと思うんだけど、お前もなかなかやるじゃないか、入れ、なんてことになって。
富井:それで加わって。
刀根:加わったんだけれども、結局一部も出ないうちに……(苦笑)
富井:それは残念でした。
由本:栗田氏っていうのは、文学者でありながら美術評論をされたみたいですが、そのことは、後に刀根さんのモデルになったんですか?
刀根:一種のモデルになりましたね。彼がしゃべってたことが後に文章になるでしょ。そしたら、なるほど、評論の発想ってものはこんなものかって。
由本:さっきのシュルレアリスム研究会にはシャットアウトされましたけど、他のインフォーマルな集まりで、東野さんがいたり、栗田さんがいらしたりして、ほかにも 飯島耕一とか。そういう集まりには大学時代から結構顔を出されていたんですか。
刀根:うん、まあ飲み屋なんかではよく一緒になりましたね。
富井:そうすると、よく東京にいらしたわけですか。
刀根:僕は家は浅草だったから。昭和20何年だったかな。高校の最初は市川から通ったんですけど、総武線で。だけど面倒くさくなって、浅草から通うようになって。大体僕は遅刻の常習犯で、遅刻の新記録を高校で作ってるんですよね (笑) 。
由本:大学の時に水野修考さんもご一緒で、その彼が東京藝大の楽理科に入ったことがきっかけで、グループ・音楽につながっていくようなんですけども。
刀根:そうなんです、実際に。
由本:水野さんとは千葉大の同級だったんですか?
刀根:大学はクラスっていうのは特にないですけどね。現代音楽のコンサートなんかに行くと必ずいるわけなんです。そしたら、またお前いたのか、てな感じで。
富井:ということは、大学の頃から現代音楽のコンサートなんかに行っておられたわけですか。
刀根:ええ、行ってましたよ。だから、シュトックハウゼンのチクルスの初演なんて行ってね。
富井:他には演劇をみたり、映画みたり、そういうこともなさってたわけですか。
刀根:それは、お芝居はいろいろ観ましたけどね。例えば「ゴドーを待ちながら」なんてのは日本初演を観にいきましたよ。文学座のアトリエ公演で。久保田万太郎が演出してんだよね。千葉の同級生でやはり、演劇青年がいて、そいつがもう久保万は死ぬべきとか言って。久保田万太郎は俳句作ったり、江戸っぽい人でしょ。浅草生まれで。浅草生まれの文人なんてのは、久保田万太郎の他に石川淳がいたわけですよね。だから、僕なんかはやっぱり石川淳みたいになれば、なんて感じはあったんですけどね。
富井:現代音楽はどういう形で興味をもたれるようになったんですか?
刀根:それはね、あとで藝大の先生になった人、柴田南男が精力的に現代音楽を紹介していた。NHKの第二放送で現代音楽の啓蒙番組があったんですよ。
富井:ラジオですか。
刀根:ラジオです。それと、ちょうど高校の時にLPが出て。それで、もうこれは昔のシェラックのに比べれば、すごいもんですよね。音はいいし。前はシェラックで5分かそこらでちょん切れていたりなんかして。だからLPが出たっていうのは本当に音楽聴く幅を広めたんですよね。(注:シェラックはカイガラ虫が分泌する天然樹脂。SP盤のレコードの材料に使われていた。)
由本:最初に買ったLPは何ですか?
刀根:ドーナツ版でね、デーブ・ブルーベック(Dave Brubeck)の「Take the A Train」だったかな。
富井:ドーナツ版だと短いですよね。
刀根:短いけど、シェラックよりは長いですからね。ジャズの一曲ぐらいはあるでしょ。それから普通の33インチも買いましたけどね。バルトークとか。
由本:シュトックハウゼンぐらい前衛的な作曲家では他に誰が。
刀根:他には、今は古くなっちゃった、ピエール・ブーレーズとかね。《ルー・マルトー・サン・メートル》なんて、面白いと思ったけどね。
由本:じゃ、かなり幅広く音楽から演劇まで早くから親しんでおられたんですね。
刀根:まあ東京にいたらそういう風になっちゃう。
由本:1950年代の後半ていうのは、海外のものが入ってきてそれを謳歌できる時期だったんですね。
刀根:だから、後で年表を作る時に、僕は二つに分けたんですよね。一つは大体1955年ぐらいから具体や実験工房が始まるとか、新しい動きが出てくるでしょ。それ以前の世代は戦前への復興ですね。戦争で何もなくなっちゃった上に,戦中に検閲で出来なかったことが、敗戦のおかげで出来るようになった訳ですから。針生一郎なんかは何もなくなったあとはダダが出るだろうなんて言ってたけど。つまり、一度にダダは出てこなくて、まず軍に統制されて、表現の自由は全く奪われて、大政翼賛会みたいな組織に統制されて、戦争画みたいなのしか描けなかった人たちが、戦後になって急に昔描いてた絵に戻れるっていうんで、元に戻ったわけですよね。とくに1932-3年には軍が強くなってくる、1940年になると政府全体が軍国主義になってしまう。だから表現の自由なんか全くなくなってしまうわけで。そういう戦前の復活がまず最初に出てくる。これはね、ヨーロッパでも同じですよね。アメリカは戦争の影響なんてのはほとんどないから、戦後にいきなり新しいものが出てくる余地があった。ヨーロッパもそうみたいですね。だから、あの年表の少し後で、フランス文学者の大島博光(ひろみつ)だったと思うんですが、フランスでも同じような状況だったとある文芸雑誌に書いていたことを思い出す。僕が年表で1955年を境にして戦前の復活、大正アバンギャルドとかそういうのと連続した動き、1955年から全く新しいものとしたのは、そういうことですよね。
富井:それじゃ、ご自分の1950年代の生きてる感覚として、その辺りで本当に変わってるみたいな。
刀根:それはありますけどね。ただ、一つはね、年表を作るにあたって、明治からの日本の美術の動きを調べてみたわけです。サロンがどういう風に変遷してきたかっていうと、日本では団体展っていうのが画壇の大勢を占めてたわけでしょ。団体展の前は院展とか、文展とか、官展ですよね。官展に対して新しい動きが出てくるのが、どういう形で出てくるかっていうと、日本の画家っていうのは皆パリに留学するんですよね。留学した時点での一番新しい動きを吸収して帰ってくる。それで、今まで付属してた団体に応募したりすると、落選したりするわけでしょ。基準が違うから。そこで反旗を翻して、新しい団体を作る動きが出てくるわけですね。二科会っていうのはそうでしょ。それで、二科会から三科会が出たりとかさ。それから他にもいろんな。
富井:独立とか。
刀根:そういう形で新しい傾向を持ってきた連中が別の団体を作るわけですね。日本のいわゆるサロンていうのは、そういう形でいっぱい出てくる。戦後もそれが続いてたわけですよね。ところが全くサロンと関係なしに、アンデパンダンの中から新しい動きが
出てくる。それから、具体みたいに、地方から全く関係ない、大阪地方の形が出てきたのが1950年代の半ばでした。それをみて、これは1950年代半ばで二つに分けるべきだと思った。
由本:批評活動についてはまた後でおうかがいする予定だったんですけど。同時代の具体や実験工房はご存知でしたか。
刀根:ええ、もちろん知ってました。実験工房は東京だから観に行きましたけどね。
由本:そうですか。大学時代から。秋山邦晴さんなんかは現代音楽の評論もされてたと思いますけど。
刀根:えーとね、秋山はね、ジャーナリストですよね。批評家というよりはね。グループ・音楽が最初にコンサートやる時に、向坂正久(さきさかまさひさ)っていう音楽評論家がいて、彼がね、草月の井川さん紹介してくれてね。そこで、僕らの最初のコンサート、会場費払わないでやらせてもらったんですけどね。その向坂さんなんかによると、秋山はジャーナリストとしてならいいけど、評論家としてはねって言ってた。実際読んでみるとね、評論としては頂けない。
富井:具体なんかも、具体が東京に出た時から行っておられたんですか。
刀根:ええ、白木屋でしたかね。
由本:もう既にポロックの作品なんかも、56年の(日本橋高島屋での)「世界・今日の美術展」でご覧になったんですか。
刀根:観ました。
由本:その時に具体の作品なんかも。
刀根:それははっきり覚えてない。ポロックはショッキングだったのは覚えてる。
富井:ポロックは断トツでしたか?
刀根:それはもう、質が違うでしょ? 非常に新しいものが出てきたと思いましたよ。
富井:あの時まだ東京でポロックはそれほどまでに言われてなかったように思うんですけど。
刀根:具体がやってたでしょ。
富井:でも具体も東京ではあまり理解されてなかったでしょう。
刀根:そりゃやっぱり、皆古いですからね。普通、新聞とか雑誌に評論書く人は若くないでしょ。若い連中っていうのはいたけど、まだ東野にしても中原にしても、そんなに力はないし。
由本:1956年ぐらいはこういった展覧会の情報はどこから仕入れて?
刀根:えーとね、もう銀座を歩いて。千葉の同級生で持田総章って、大阪芸大の大学院長だったのがいて、彼と一緒によく。
富井:じゃ、大学時代から画廊回りも。
刀根:ええ、ちょくちょく。だから神田のタケミヤ(画廊)なんてのも。
由本:ああ、タケミヤも。そうですか。それはそうですね。瀧口さんをご存知だったのなら。
刀根:それと、『美術批評』を読んでましたからね。あれは1957年からでしたね。
富井:創刊は1952年からじゃなかったですか。それで今泉旋風とか起こって。終わるのが1957年。
刀根:ああ、そうだ、1957年に終刊したんだ。
由本:それに替わって『美術手帖』とか。
刀根:いや、『美術手帖』は前からあった。
由本:あったけれども、メインになってきたんでは?
刀根:そう、メインになってきたんですね。僕が初めて『美術手帖』に書いたのは1964年ぐらいなんですよね。それは栗田勇が紹介したんだと思う。
富井:展評を?
刀根:書評ですね。瀬木新一の評論集の批評で、「俗物であることを恐れぬ眼」というタイトルで半分皮肉で書いたんだけど。
由本:グループ・音楽の前で少し脱線してしまったんですけど、やはりグループ・音楽のことを聞いておきたいので。まず、水野さんが藝大に入って、小杉さんたちと知り合って。
刀根:水野が「お前みたいなやつが藝大にいるから紹介する」って言って、それが小杉だった(笑)。そしたら、小杉が、「なんだ、ちっとも俺みたいじゃない」って(笑)。
富井:いろんなことに興味持ってる人だっていう意味なんですかね。
刀根:どうだったのかな。要するに新しがり。
由本:その彼は刀根さんに音楽的バックグラウンドがないことは問題にせずに、誘ってきたということに感銘を受けたと。
刀根:それはいや、全然、小杉はそういうとこは非常に面白くてね。五線譜は読めなくても何ともないって感じ。実際読めなくはないんだけれども、ソルフェージュ(注:楽譜を見ただけで頭の中で音楽を思い浮かべられること)ができない。だから読めないのと一緒だね。
由本:あと、サックスを彼から譲りうけて。それは実際に練習して演奏された?
刀根:ええ、彼から買って。サックスの教則本を買って。でもそんなに練習しなかったんじゃないかしらね。 教則本もさっさとやって、それで終わりって感じ。
由本:楽器はグループ・音楽では特にそんなに関係なかったんですか。
刀根:最初は楽器も結構使ってましたね。ただ、楽器だけだと面白くなくて、いろいろ使い出して。
由本:掃除機とかですね。
刀根:そうそう。クオーティディエン(quotidien)。要するに日用的なもの。
由本:それはもう大分後なんですか。一年ぐらい経った後? 大体1960年結成になっているんだけれども、1959年ぐらいからこういう流動的な活動をなさってたわけですか。即興演奏など。
刀根:そうですね。即興演奏は、外へ出て行ったりはあまりしなかったんです。藝大の楽理科の部屋が主だったけれども、あの練習室の空いたところを使ったりして。でもそれは1961年6月頃でしょう。
由本:邦千谷のところですか。9月は草月でしょう?
刀根:それで一柳(慧の作品発表会)が11月。邦千谷のところは1958年頃からで、確か1959年には池袋公会堂の邦千谷公演会で演奏したと思う。
由本:この辺で少し混乱があるんですけど、マロッティさんの論文ですと、1960年で既に邦千谷舞踏研究所で、コンサートをしたように書いてあるんですけど。
刀根:そう、1960年以前にはもうやってるんですよ。ダンサーと一緒にやってますね。
富井:じゃ、伴奏みたいなこと?
刀根:確かね、1958年には邦千谷さんのところに行ってたかもわからない。というのはね、1960年にやったのは、20世紀舞踊の会という 若手のダンスクリティックの集まりだった、その連中と一緒の企画で、「舞踊と音楽、その即興的出会い」という催しをやったんですね。
由本:これも水野さんのパートタイム・ジョブだったみたいですけど。
刀根:「舞踊と音楽、その即興的出会い」は水野も入っていたけれど、邦千谷さんのとこは、水野のパートタイム・ジョブで、ピアノの伴奏やってたのがきっかけですけどね。
由本:その頃からダンサーとの仕事が始まったわけですけど、そういう場合って、グループの目指しているような、破壊的といいような音楽活動とダンサーが欲しいものが一致しなかったりして、困ったようなことはないんですか。
刀根:えーとね、僕は全然困んないんで。困ったとしたらダンサーが困ったんだろうけども(笑)。
富井:ご自分たちも作りたい音楽を作ってたと。
由本:勝手に演奏をして、それにダンサーたちがついてくるという。
刀根:そう、そう。
富井:伴奏じゃなくって、そちら側がメインで。
由本:独奏ですね(笑)。
刀根:マース・カニングハムなんかの初期もそうですよ。僕なんか、1972年か73年の1月に初めてやったんだけども、カニングハムの音楽。その時も皆ダンスより、音楽聴きに来てるわけね。それから2、3年経って1976、77年ぐらいになったらさ、あるダンサーが「最近の観客はウィアード(weird)だ」っていうから、「なぜだ」って訊いたら、「音楽訊くよりもダンス見に来てる」って。当時の観客は音楽会のつもりでカニングハムの公演にきていたんだ(笑)。
富井:もうその邦千谷さんのところでやった時から音楽が先行してて。
刀根:先行じゃなくて、同時。
富井:同時だけれども、主導権みたいな。
刀根:いや、主導権握るようなつもりはなくって、音があってのダンスだから。別に伴奏とは思ってなかったね。
由本:じゃあ、ダンサーの動きを見て影響されるっていうことはなかったんですか?
刀根:全然なかった(笑)。
由本:じゃ、やっぱり独奏じゃないですか。
刀根:だからカニングハムはそうでしょ。ジャクスタポジション(juxtaposition、対置)だって言ってるでしょ。だから僕が伴奏つけるでしょ。すると、当時のプログラムをみても、「A Concert with Merce Cunningham and Yasunao Tone」というタイトルになっていた。
由本:なるほど。
刀根:だから、そういうのが当然だったんで。邦さんはそういうのが別に不思議と思う人じゃなかったからね。少ないですよね。ダンサーでそういう態度が取れる人は。
由本:ふーん。偶然ですけど、久保田成子さんの叔母様なんですよね。
刀根:そうなんです。
由本:ちょっと遡るんですけど、「グループ・音楽」っていう名前は刀根さんがシュルレアリスムの機関紙の『Littérature』にちなんでつけたということですが、最初はグループ名はなかったんですか。
刀根:そう、集まってただやってるだけで。それは確かね、邦千谷さんのとこのイベントの時に名前つけろって言われて。
由本:1960年ですね。
富井:でもほら、「グループ」の他にいろいろ可能性もあるじゃないですか。「集団音楽」でもいいわけだし。「グループ」とつけたのはどうしてなんですか。
刀根:どうしてなんですかね。
富井:いや、とってもかっこいいなと思って。
刀根:そういわれるとね、当時なんとか集団ってたくさんあったんだよね。
富井:それはそうですね。音楽集団ていうと。
刀根:まぎらわしくなるんだよね。あの時は「集団音楽」っていたみたいだけどね。
富井:ああそうですか。「グループ・音楽」ていうとかっこいいといつも思ってるんですけど。
刀根:ああそう。でも続かなかったんだよね。
由本:そうですね。もう要するに、草月での発表会が最初の発表会で最後のみたいな。
刀根:そうですね、公式には。
由本:そういう風になってしまったっていうのは、グループとして即興演奏が中心だったから、それを演奏会でするっていうことに矛盾があったんでしょうか。
刀根:矛盾があったんでしょうね。それで即興演奏以外に、外で自分の作品も発表したわけですよね。だから当然そういう求心力がなくなるわけでしょ。
由本:その頃から楽譜というかスコアを書くようになってくるわけですけど。
刀根:そうですね。
由本:即興じゃなくて。そういう意味ではダンサーとの協働っていいますか、その方がグループ・音楽の本来の活動のような気がしますか。
刀根:どうなんでしょうね。集団的な即興演奏ていうのは、僕らが考えて新しい表現形態だと思ったけれども、まあ確かに、ヨーロッパのグループもあったからね。Musica Electronica Vivaとか。それで、1962年の2月に僕が南画廊でコンサートやるんですけど。その時はグループ・音楽の連中は皆参加してます。それと一緒に一柳と(高橋)悠治が。
由本:そうなんですよね。その時にはもう解散してるように考えられていますが。解散という正式なものはなくて、流動的な。
刀根:だから、まあ一人ずつになっていく契機は前からあったんですね。コンサートやった時から既に。自分の作品を作るっていうこと自体がそうでしょう。
由本:ちょっとすみません、内容のことに戻っちゃうんですけど。「オートマチズムとしての即興音楽」という文章を書いていらっしゃいますが、シュルレアリスムの自動速記法に似た音楽のあり方と論じられていますけれども、それとミュジーク・コンクレートを組み合わせたような?
刀根:そういうことですね。テープ使ったりしてますからね。
由本:テープ使ったのは後半ですか?
刀根:テープはね、最初から使ってたんですよ。
由本:そうですね、最初にテープレコーダー買ったっておっしゃってましたね。
刀根:というのはね、演奏した時に録音して聞かないと、何やってるかわかんないんですね。水野が、僕が録音してた上に重ねてしちゃうからね。前の消すでしょ。そんな新しいのいちいち買ってられないから、残ってないけど、水野はわりにまめに録ってる。それを遠山音楽館ていうところがあって、そこに水野が寄付したんですよね。
由本:全てですか?
刀根:自分の持ってる分はね。それを小杉の今のガールフレンドで、岡本隆子さんていう人がいて、彼女がグループ・音楽のCD出したんだ。1995年ぐらいだったかな。それが唯一残ってる分。それがブートレッグ版でとかまた出てるんだよね。
由本:いわゆる、ミュジーク・コンクレートみたいに、テープをカットアップしたりはしてないんですか?
刀根:それはしてない。早回しをしたりはしてますけどね。後で加工することはしてないですね。ダンサーの曲をつける時も、僕はミュジーク・コンクレートみたいなやり方は古いと思ったからね。例えば、親父がね、取引先の店員に文句を言っててさ、それを録って、もったいないから、普通のスピードよりも半分ぐらいにして、19回転でとって後で38回転にして聴いてみたらものすごく面白い。なぜかって言うとね、当時ね、ちょうど自動車が増えてきた頃で、クラクションを長く鳴らすと罰金を取るっていうのが。それで鳴らす時間を短くする。それを倍のスピードにするとピッチが上がって、ピーピーっていう感じなの。それがアクセントになって、文句言ってるのと言い訳してるのとが掛け合いみたいになって面白いんだよね。それを ミュジーク・コンクレートとして発表したりして。ダンス音楽としたかもしれない。そうだ、《Conversation》ていうの。
由本:初期はテープを使った音楽もやってらっしゃいますけど。
刀根:ダンスは全部テープなんが多かったですね。
由本:《Anagram for String》になると図形になるわけですけど、その移行というのはどういう。例の図形楽譜展が開催されることがわかって準備し始めたのか。
刀根:そうじゃないですよ。僕のコンサートのために人に演奏してもらわなくちゃならないでしょ。それで、僕の個展ていうことになってるから、僕の作品書かないと。1962年の2月だから、1961年の終わり頃からそうしてる。
由本:その個展のことなんですけど、どうして南画廊でする機会ができたんですか。
刀根:それはね、銀座にガストロっていうバーがあって。南画廊の志水さんも来るし、瀧口さんも行くし。東野だとか。
由本:有名なバーですね。そこで志水さんと知り合って。
刀根:作品発表したいけど、お宅でやらしてくれないかって。
富井:自分で売り込んだんですか。
刀根:そう。それと、東野さんに少し言ったかもしれないけどね。だけど、実際に言ったのは直接言ったんですよね。
由本:そこで演奏された《Door》っていうのは何ですか。
刀根:それはいわゆるミュージック•コンクレートなんですよ。あんまりちゃんとした方法論を持たずについ作ってしまったようなところがあってね。そういうものは古いものをひきずっているわけですね。ローマでNova Consonanzaという 音楽祭みたいのがあったんですね。NHKが出さないかって言ってきたときに、いくつか渡したら、やっぱりそういう古い曲を選ぶんですね。
富井:やっぱり分かりやすいんですか。
刀根:分かりやすいんでしょうねぇ、古いから。特別賞をもらった作品です。
由本:ああ、これがそうですか。
刀根:だからやっぱりねぇ、恥じるべき作品ですよね。
由本:そうですか(苦笑)、理論的には自分では相容れられないような。NHKとかマスコミと関係がでてきたのは個展をされてからなんですか。それとも一柳さんのコンサートに出てからなんですか。
刀根:グループ・音楽の発表会からです。
由本:グループ・音楽の発表会は草月ホールで1961年9月ですけど、そのときに一柳さんはもう帰国していて。
刀根:ええ、見に来ていたんです。そのときに『音楽藝術』で一柳とかナムジュン・パイクとか栗田勇で座談会をやって(彼が)言ってたんだけど、日本へ帰ったらフルクサスを呼んで日本でやろうと思って帰ってきたら、もうフルクサスみたいなことをやっている連中を見つけちゃったって。っで、どんな人だって訊いたら小杉とか刀根とかグループ・音楽だって話がでたって。
由本:『音楽藝術』という……
刀根:『音楽藝術』っていうのは当時、元木さんていう編集者がいてね、彼女がアバンギャルドに非常に興味を示してくれて。荒川修作とか引っ張りだしたりね。その座談会にはもしかすると荒川修作もはいっていたかもしれない。
由本:じゃぁ荒川さんがちょうどニューヨークに来る直前ですね。
刀根:そうですね。
由本:その座談会には刀根さんは入ってらっしゃらなくて、一柳さんとか荒川さんとか……
刀根:ええ。
由本:あんまり音楽と関係ないような荒川さんまで。
刀根:そうなんだよね。
由本:っで、現代音楽について話してくださった。
刀根:グループ・音楽を見に来てくれた時の話とか。荒川たち(グループ・音楽の演奏会に)来たんだよね。ネオダダ。それで水野がよかったのが、あれ、ハウリングって、リバーバレーション(reverberation)。発振しちゃうでしょ、マイクとスピーカーが近いと。で、それを草月の録音用のマイクって天井まで届くくらいのマイクで、水野が少しずつ伸ばしていくんだよ。伸ばしていくとピッチが変わるわけね。それで面白いんで、水野はやっていたんだよ。荒川はそれを見て、「鉱物は成長しないと思っていたけど、鉱物も成長することが分かった」と言ってた。
由本:ああ、そうなんですか。
刀根:水野がやった中ではなかなか新しい試みのひとつで。マックス・ニューハウス(Max Neuhaus、作曲家)って知っています?
由本:はい。
刀根:彼もやっぱりリバーバレーション使ったのは早いんだけども、水野と同じか、水野のほうが早いかって感じだと思う。
由本:後の質問でお伺いしようと思っていたんですが、ネオダダの吉村さんのホワイトハウスなんかにも既に顔を出されていたってことで。それは1960年の頃の読売アンデパンダン展にも顔を出していたという……
刀根:ええ、見に行っていましたからね。1961年には上野だから近いからね、小杉に一緒に見に行こうよって連れてったことがある。そしたら、ギュウちゃんは一応ある程度俺たちがやっていたことを知っていてね、おい、一緒にやろうよ、俺がボクシングペインティングやるから、お前サックス吹けよとか。そういうことにはならなかったけどね。
由本:1960年頃から東京の前衛の人たちの交流の輪の中にいらしたんですね。
刀根:ええ、新宿に風月堂って喫茶店があって、それは、ネオダダの連中も顔を出していたし、色んな連中がやっぱり顔出してたわけですよね。えっと、一柳慧とグループ・音楽というコンサート、風月堂でやってんですけどね。
由本:これにでていました。刀根さんご自身のレジュメの方に。
刀根:でてました?
由本:じゃぁその連中が逆にグループ・音楽のコンサートに来たりして。
刀根:ええ。
由本:でも彼らが演奏に参加するってことはまだなかったんですか。
刀根:お客ですよね、単に。これね、九州派も来てたんだよね。
富井:九州派も!
由本:ああ、すごいなぁ。
刀根:ああそれはちょうどね、銀座画廊で展覧会やってたんだよね、9月に。それでね、吉村が引っ張って来たわけ。おい、お前ら団体だから団体割引しないかって、いいやって、焼酎だかウイスキー持ってきて、俺たちが演奏しているときに気勢を上げていたね。
由本:一応彼らは団体割引でも、演奏のコンサート費用は払っていたんですね、入場券。
刀根:そうなんだよね。武満も、一柳も、黛も来たしさ、みんなお金払ってきたんだよ。
富井:そうなんですか!
刀根:俺たちは、もう招待券配んのやめようって。
富井:あ、最初から。
刀根:うん、ガキだから図々しいんだよね。
由本:それがギャラになるわけですか、やっぱり。
富井:会場費ですか。
刀根:いや、ええとそれはねぇ、ギャラになったんかなぁ、どうなったんだろう。あ、一部は、会場費を払ったと思う。いや、切符代だったかねぇ、チラシ代だったかねぇ、かかるわけよ。
富井:印刷費とかね。
刀根:そうそう、切符だと印刷しないといけないし、ポスターもでしょ。
富井:あー、はい。
由本:そういうのは自分たち持ちなんですか。
刀根:それは自分たち持ちだった。会場だけタダで貸してくれたけれども。
富井:そうすると少しはお金がいるわけですね。
刀根:いるわけですね。で、それで経費を賄ったんだ。
由本:じゃあ、そのグループ・音楽の発表会の前に、かなり前評判があったわけなんですね、すでにその前衛のグループの間で。
刀根:あったでしょうねぇ、なんかねぇ。
由本:その頃から草月アートセンターで、いわゆるわけの分からないパフォーマンスが始まって。
刀根:始まってましたからね。
由本:じゃ、オノさんのコンサートくらいになると、1962年の5月なんですけど。
刀根:そのときにはもうネオダダも一緒に入っていましたね。
由本:もう作家たちが彼女の演奏を手伝ったっていうかたちですよね。刀根さんも参加されていたわけですけども、具体的にどのような作品をやったかって覚えてらっしゃいますか。
刀根:ええと、『グレープフルーツ』の中にある作品ですよね。
由本:そうですね。例えば《Of a Grapefruit in the World of Park》っていう、14人でやる長いやつとか。
刀根:どんなやつだったっけ、覚えてない。
由本:なんか14人が違う行動をしていてオノさんがその詩を朗読するっていうものだったみたいなんですが。水野さんが会場をほうきでずっとはいていたとか。そういったことは訊いているんですが。
刀根:ぜんぜん忘れちゃった。
由本:シャボン玉を吹くとか。
刀根:ぼくやりましたか。シャボン玉は秋山だったと思う。
由本:それは一柳さんの作品の方で、塩見さんがやったんですけれども。
刀根:塩見がやったかもしれない。
由本:塩見さんは、オノさんのには出てないですね。
刀根:え、出てなかったんだっけ。
由本:オノさんの時も、すでに邦千谷さんのとこで一緒にやったようなダンサーたち、若松美黄さんとか土方巽さんがでているんですが。
刀根:ええそうですね。アバンギャルド総出演ですよね。
由本:そのときにけっこうマスコミが「ハプニング」とかいう言葉を使い始めて、わいわい言い出した頃だと思うんですけれど。
刀根:そうでしょうね。
由本:「ハプニング」という言葉はその前にもう使ってらっしゃいましたか。
刀根:ええと、一柳が。
由本:そうだ、一柳さんがIBMの作品で使われましたね。
刀根:それだから、ぼくも招待作品としてね、僕のコンサートで一柳のIBMを、あれは譜面がありますからね、僕が一人で演奏したんです。
由本:あの、《IBM for Merce Cunningham》とはまた違うやつですね。草月でやったのは 《IBM for Happening》。
刀根:Happening IBM (同上)のスコアというのはパンチカードで、パンチカードを印刷してあって、黒くつぶしたんだ。まぁ穴が開いたとこと開いてないとこと。開いている方を演奏するとか、そういう形で一つずつやりながらやってくっていう。
由本:その時は、一柳さんのコンサートでは、刀根さんも鉢やセラミックボールを壊すっていう、それだけですか。
刀根:ほかにもなんかやったけども、それはあぐらかいてなんか。そのとき、ナムジュンがケビンとケルンでやったエチュードの話しを聞いていてね。
由本:一柳さんからですか?
刀根:誰からだったかな。黛か一柳か武満か忘れたけども、ナムジュンはピアノのペダルを食べちゃったんだよ。ていうのはね、ピアノのペダルを。それで僕もかけらぐらい食わなきゃって、ちょっとかけらをかじったけども。
由本:かけらをかじったんですか、その一柳さんのコンサートで?
刀根:うん。
由本:そんなことしてもいいんですか。草月のピアノを?
刀根:ピアノじゃなくて。
由本:そのセラミックのボールを壊したのを。ああなるほど。
刀根:考えたらね、あとでわかったんだけども、ペダルを食ったってのは、ペダルをなめただけで。「He licked it」だからね、「 licked(なめた)」 なんですよ。でも、女性が「Eat me」 って言ったら、クンニリングスでしょ。それを知らずに食べるもんだと思って(笑)。
由本:誤解があったと。
刀根:したらさぁ、僕だけじゃなくて、瀧口さんも間違えてね、瀧口さんがさ、ダリの文章を書いている中でダリの文章を訳しているんだけれども、あなたは、アール・ヌーヴォーについてどういう意見をお持ちですかっていったら、「あれはあたしを食べてって、言っているようだ」っていったのね。瀧口さんはまじめだから、意味を知らないで直訳したんだよね。
由本:Lost in Translationですね。
刀根:そう、Lost in Translation。
由本:そのコンサートのときに、東野芳明さんが一柳さんのコンサートのときに日本の藝術の概念が覆されたという大げさなことをおっしゃっているんですが、そういった歴史的転換期に自らいらっしゃったという意識はありましたか。
刀根:どうなんでしょうねぇ、ある程度はあったと思うんですよ。人がやるようなことはやらないっていう。
由本:そうですよね、もうそれまでに東野さんたちとも交流があるし。
刀根:それからナムジュン・パイクのコンサートのときに秋山は書かないんだよね。あんないいコンサートを。なぜだって言ったら、「あれはチャンス・オペレーションじゃないからだ」って。
由本:ふーん。
刀根:じゃあ、みんなケージのまねしなきゃいけないってことになるわけじゃない。そういうことはさ、例えば『ジャパン・タイムズ』の音楽評論家でヒューエル・タークイって人がいて、今でも日本にいるみたいですけど、彼が一柳のコンサートの後でさ、一柳のコンサートどうだったって言ったら、「一柳さんとジョン•ケージとはどこが違うんですか」って。
由本:あぁ、なるほど。もうその辺りで皆さんジョン•ケージの知識があったんですね。
刀根:ある程度はあったんですね。ただ実際にはよく知らなかったから、実際にケージの作品なんて演奏したのを見てないでしょ。あのケージと(デイヴィッド・)テュードアが来るまで。
由本:ですよね。譜面で見るだけとか。テープでもないですか。
刀根:譜面でも、テープでもないですね。テープでいうと、一柳がテープを持って帰ってきて面白いと思ったのは、ラ・モンテ(ヤング)と、それからリチャード・マックスフィールドっていう、これは電子音楽の作曲家がいて。これがすごい面白かったですね。
由本:じゃぁ、1961年の一柳さんの帰国以降は、ニューヨークの情報はかなり入ってきてテープも聴いたり?
刀根:といっても、テープも限られてますからね、ある程度聴いただけだし、それと同時に口でっていっても、もう一柳の方はなんかもう当たり前だと思っているからさ、あえてこういうことをやってるんだっていうことを別にいう必要ないと思ったんでしょ。だからそんな詳しい情報は聞いてないんですよ。
由本:その同時に、その頃から一柳さんがマチューナスっていう人がいるから刀根さんたちの作品を送らないかって言ってきたわけですよね。
刀根:ええ、そうそう。そのときに同時にね、ピータースって楽譜の出版社があって、ピータースの社長が、ピーターソンっていうのかな。社長がちょうど日本へ来て、一柳に呼ばれて上野学園っていう音楽学校でパーティーをやるから来てくれって言われて行ったんですよ。それは、ケージが名前をピックアップしてね、日本人の中では、僕がいちばん若造だけども、一人だけガキが入ってて、それで向こうは子供がいるって思ったらしくて。それで君はいくつだってきくからね、頭に来てね。そしたら黛が、「彼はもう子供じゃなくて藝大卒業してるんだよ」って。
一同:(苦笑)
由本:それで、やめたんですか。
刀根:うん。
由本:その出版をするのを?
刀根:うん。僕が止めたんじゃなくて、向こうが出版しなかっただけです。
由本:他の人は出版したんですか。
刀根:ええと、僕は、だから全然売り込まなかったし、「こんな作品あります」って言わないけども、そのなかで言った人はいくつかでて。湯浅譲二と、一柳と、あと誰だ。
由本:ああ、湯浅さんね。
刀根:武満、黛(敏郎)辺りがピータースからでたかもわからない。
由本:ふうん。でも最初にマチューナスに送ったのは、楽譜じゃなくてテープですね。
刀根:ええ、テープです。
由本:それは、さっきのナンバーとかいちばん最初の作品のテープ?
刀根:そうですね、それからあのスコアも送ったんだよね、アナグラム。
由本:《アナグラム・フォー・ストリング(Anagram for String)》。それだけですか?
刀根:それだけ。それで、あとも送れって言ってきたんだよね。そのときにマチューナスが手紙よこしてね、僕がなかなか送んないんで。っていうのは英語にしないといけないでしょ。僕は英語が苦手でね。でもあれさ、一つのインストラクション書く時に、例えば「ピアノのド音を弾け」と同じようなつもりで「物を叩け」とかいったら、譜面書いてるのと同じになると思って、そういうことにならないように言葉でインストラクションをつくるにしても、色んな複数の意味を持った言葉じゃないと面白くないとか、色々あるでしょ。余計迷って翻訳できない。
富井:なるほど。
刀根:したら、ヨーコが手伝ってくれるって、ヨーコに手伝ってもらって、いくつか譜面とインストラクションを翻訳したんだよ。その頃、ヨーコが一柳と別れて、トニー・コックスと一緒になったんだよね。トニーがヨーコ追っかけてアメリカから来て、みたいなことで。どうだったんかな、まだヨーコと一柳いたのかなぁ。
由本:まぁまぁ。
刀根:要するに、ヨーコに手伝ってもらって翻訳したわけ。そしたら、ヨーコが、軍事郵便だとね、ミリタリー・メールってのはすごい安いからね、それで送ってあげるわって、それじゃいくらかかったか教えてって、渡して置いてったの。そしたらそれをジェフ・パーキンスっていうGI でフルクサスの友達がいて、そいつに渡したんだよね。トニーの友達だったんだね。で、ジェフが送ってくれるってことだったと思うんだけど、ジェフはジェフでトニーと仲良くて、トニーが考えるのはたぶん、東京支部フルクサス、フルクサス東京セクションというのを作って、東京セクションは割と人材がいいから、東京セクションを作って伸ばしていくっていう頭があったらしいのね。それでたぶん、ジェフに送るなって言ったんだと思うんだよね。
富井:隠しとこうっていうことですか。
刀根:そうそう。
富井:いいものはとっておきたいみたいな。
刀根:それで着かないんだよね。僕は着いたと思っていたら着かなかった。
由本:それじゃあ例えば、MoMAに刀根さんの作品として《Four Scores》というふうに残っている作品は、いつ送られたものなんでしょう。あの、MoMAのシルバーマン・コレクションに入っている作品。
刀根:何と何が残っているんですか。
由本:《Music for Composers》(1964. 1)、《Solo for Several Composers》(1963. 10)、《Music for Every Tableaux》(1962. 1)、《Music for Footpedal Organ》 (1962. 8) の4点ですが。
刀根:多分これは、タイプライターを持ってなかったので、ヨーコがタイプしたものだと思う。それをジェフが売りに行ったらしいの。
由本:ふぅーん。
刀根:ジョン・ヘンドリックス(注:Jon Hendricks、シルバーマン・フルクサス・コレクションとオノ・ヨーコのキュレーター)のところへ電話かかってきてね、ジェフが持ってきたんだけど、これ確かめてくれるって。
富井:「本物?」みたいな感じで。
刀根:それで見てみたら、彼が言うのは、この本文は確かにヨーコのハンドだっていうんで、ヨーコが手伝って書いてくれたからね、英文は。それでこれは僕の書いた作品だ、あの譜面の方だよって。それは置いてあるから。それが多分そうじゃないですかね。
由本:でも売りにいったっていうのはだいぶ後じゃないですか。1980年代とか。
刀根:もう、1980年代の終わりか1990年代の初めか。
由本:そうですか。わかりました。1962年のフルクサスについてですが、最初は雑誌に掲載するために欲しいって言ってきたと思うんですけども、その後コンサートでヨーロッパ各地で演奏されることになったわけですけど、それについては承諾はなかったんですか。
刀根:えーと、それはね、なんかコペンハーゲンでやったってのは、手紙もらったけどもね。
富井:普通、楽譜送ったら、向こうが、勝手にっていうのは変ですけど、演奏するのは当たり前のことなんですか、その時だと。
刀根:だいたいね、フルクサスのコンサートでね、お金がでるなんて誰も考えなかった。
富井・由本:そうですね(笑)。
刀根:それはさ、相手が商売だと違うけど。例えば、僕はもう1963年くらいに、既にテレビのCMなんか作ってんのね。
由本:あ、そうなんですか。なんのCM?
刀根:明治製菓の「カルミン」っていう、ハッカのしゃぶるお菓子みたいなのあるでしょ。
富井:えー! コマーシャル作ってたんですか。それは、音楽を?
刀根:音楽でもない、えーと楽器がね、例えばビブラフォンで、ジーンて包んだ音を出してね、その後をちょっとグループ・音楽何人かに、お金払うからアルバイトしないかって、演奏してもらって。
由本:へぇー。
刀根:あと、湯浅譲二が、NHKの伴奏を、音楽のなんだか伴奏をやるんだけども、グループ・音楽も手伝ってやったこともあるんですよ。
由本:ああ、そうですか。
富井:それはちゃんとペイ(pay)がでたんですか。
刀根:それはもちろんでるんですよ。それから3月3日、耳の日とかいうのに出演したりね。それはテレビでね。だから、ジョージ•ブレクトが絵描きとして、フィッシュバック画廊なんかでショーをやってるけど、後は全然無名でしょ。だからそういう意味じゃ、フルクサスの連中の方が全然無名なわけ。
由本:まぁ、実験工房の人達も昔からそういう、今で言うソニーと関係があったりとか、なんか企業の人たちとコネがあったんでしょうね。
刀根:あった。
由本:じゃぁ、けっこうちょこちょこ収入はあったんですか。
刀根:収入というほどのことはないけど、たまにお小遣いが入ってくるっていう程度でね。
由本:そうだ、マチューナスも、なんか5ドル札が入っていたとか。送料だとしても、それくらいしか払っていない(笑)。
刀根:送料。そうそう、そうなんだよ。
由本:後で別に払ってないんですか、その、楽譜料みたいな、出版料。
刀根:払ってない、あのね、一部売れたら半額よこすって言ってたの。じゃぁそれは、アナグラムの額なんてのは一度使ったら使い捨てになるようにね、線を引いて、その上線の触ったのを読むっていうんで、一度使ったらもう使えないようにしたわけ。だけども、何回かやったみたいだけど、全然お金なんかもらってない。
由本:なるほど。
刀根:そりゃ、もらえると考える方が間違いだと思ってた。
富井:変な質問ですけど、その頃、刀根さんどうやって生活してたんですか。
由本:大学の後ですね。
刀根:親の脛かじり。
一同:(笑)
富井:一応念のため、こういうことも(聞いておく)。前衛芸術家って……
刀根:ええと、僕は就職しようと思ってね、なんていったけ、『国文学解釈と鑑賞』っていう雑誌があったでしょう。学燈社っていったかな。あすこの編集部に就職しかけたのね。
富井:したんですか。
刀根:就職した! ええと、入社試験受けて一応入ったわけよ。でも入ったら、うちの(実家の会社の)店員が使い込みしちゃって。それで、その店員の補充として僕はお得意回りを。
由本:ああ、おうちの家業を。
刀根:家業を手伝ったの。ただ、インセンティブに親父は僕に車を買ってくれて、それで回る。
由本:ああそれでバンの話が出てくるんですね。
富井:それで運転してたんですか?
刀根:そうそう。最初はバンじゃなくて、オペルのカデットという乗用車。
由本:そのお得意先を回るためのバンでなんか色々やったていうお話を聞きましたけど。
刀根:うん、商品の代わりにグループ・音楽になった。
由本:あ、それもちょっとマロッティさんの論文にでてきたんですけど、あの、安保闘争のときにそういったことをしたっていう。
刀根:それは、安保闘争の景気付けにっていうくらいだけど。
由本:景気付けに?
刀根:ええ。
富井:じゃぁデモに車で行ったんですか。
刀根:デモには参加できないから、そばをちょっと通ったぐらいだけども。
富井:情宣車みたいじゃないですか。
刀根:そうですか。
一同:(笑)
富井:即興グループ・音楽で情宣ですね、じゃぁ。
由本:それは特にスピーカーなんかは使わない?
刀根:スピーカーは使ってない。もう生演奏。だからテールゲートです。
由本:まぁでも、外から聞くとノイズでしかないっていうような、そういうような音楽ですか。
刀根:ノイズでしょうね。まぁ、グループ・音楽のレコードを聴くような。
由本:じゃぁそれは、心持ち安保に参加するような?
刀根:そうです。それから個人的にはデモには参加しましたけどもね。
由本:ああそうですか、やはり。
刀根:ええ。
富井:たしか、どこの団体に属していなくても、皆さん色々デモに参加できたわけですか。
刀根:僕は場所がなくて、考えたらちょうど新劇人なんとかの会ってのがあったのね。それで腕くんでたら、本郷新って彫刻家の息子で役者がいるでしょ、知らないうちにそれと一緒に手を組んでた。スクラム組んで。っで、あれは、敷石をはじめに割ったのは荒川修作だっていう伝説があるんだよね。
富井:そうなんですか。
刀根:ええ、あれはちょっとあれだから、ちょっと頭がおかしいから。
由本:なんの敷石?
刀根:歩道の敷石。
由本:ああ、歩道の敷石、そうなんですか。
富井:あの時もう石投げていたんですか。60年安保でも石投げていたんですか。
刀根:もちろん。最初に石を使ったのが荒川じゃないかって話しもある。
由本:「世界の新しい楽譜」展に戻るんですが、1962年の11月ですね。一柳さんと秋山さんが企画をされたと思うんですが、そのときに展示された欧米の作曲家達についてはもうかなりご存知でしたか。ブソッティ(Sylvano Bussotti)とか。
刀根:ブソッティとか、名前だけは知っていましたよ。
由本:名前だけ。
刀根:だけど見てがっかりした。
由本:それでその時、ケージの来日を記念したコンサートを別に土方さんのとこでやってらっしゃるんですけど、それはどんなことをなさったんですか。
刀根:ぼくは多分、そのこないだMoMAでやったピアノの曲あるでしょ、あれをやってるのよ。
由本:最後のナムジュンのじゃなくて?
刀根:地図を使うやつ(《Geodesy for Piano》)。だからケージがなんか、あのリーバーマン(注:Fred Lieberman、ケージの1963年の講演記録“Contemporary Japanese Music”を編集した)のインタヴューで話してる。それ知らない? (金田)美紀さんがなんかその部分を読んでいた、コンサートの紹介のときにね。それがその曲なんですよ。その、ケージが地図を使って書こうかなって思ってたら、もう先に僕が書いてたんだよ。
由本:なるほど。で、その時のケージの反応っていうのは、どんな感じだったんですか。
刀根:僕は全然気がつかなかったけれども、そういうのがあってケージは多分面白がったんだろうと思う。それからそれは、南画廊の中に出してたわけね。それとオルガンの曲があって。それは、電気時計の表面に譜を付けたオルガンのための曲なんですよ。そんなのも出して、出してんだけど、ケージはそれをすごい面白い面白いって言ってくれて。
由本:ふぅーん。
刀根:ケージがそれを見たんで、ピーターソンに会いに行けって言ったみたい。それで呼ばれたみたいね。
由本:あぁ、それは楽譜展のほうで展示されてたものですね。
刀根:そうです、そうです。だから同じ曲をやったわけですね。
由本:じゃぁ、南画廊では特に演奏はしていないんですね。
刀根:してない。
由本:それを、土方さんのところでやったという?
刀根:ええ。
由本:なるほど。
刀根:その一年くらい後だと思うんだけれども、1963年くらいに東京画廊で「四人の楽譜展」っていうのがあるんですね。それが、東京画廊だから東京画廊らしくて、一柳と武満と黛と、悠治だったかな。
富井:高橋さんじゃないですか。
刀根:いぇ、四人だと思う。そのときに一柳に何か演奏してくれって言われて、「スムーズ・イベント(Smooth Event)」って、僕はアイロンしてたの。楽器の代わりに小杉を使って(注:MoMAでの演奏については次を参照。http://post.at.moma.org/content_items/404-three-paintings-by-tone-yasunao)。
由本:楽器の代わりに何を?
刀根:小杉を。
由本:ええー、小杉さんですか。じゃぁ低温の設定で。じゃぁ、小杉さんが音を出したんですか。
刀根:う、熱いとか言って。
一同:(爆笑)
由本:それが音楽みたいな。それは笑える。その頃もうコンタクトマイクロフォンはあったんですか。
刀根:それはだから使ってないんです。
由本:使ってない。じゃぁナマモノで。おかしいな(笑)。読売アンパンで初めて出品されたテープレコーダーなんですけれども、瀧口さんが年表で記録なさってて、ついに美術館でも音が出るようになったとか言ったらしいんですけども、美術作品をつくっているというような意識はありましたか。それとも出すために、塗ったりしないといけなかったっていう……
刀根:最初はね、塗ったりしたけどね。
富井:テープレコーダーを?
刀根:うん、だけど、やっぱ面白くないんだよね、彫刻になっちゃったら(苦笑)。やっぱりあんまり形にならなくて、くしゃくしゃって無造作にキレが丸まっておいてあるって感じで音が出た方がいいなって思って、キレにしたんですよね。
由本:どこに書いてあったのかな、小杉さんの持っていた白い袋を……
刀根:ちょっとそれに入れるからもってこいって言って、そいで袋の中に入れてくしゃくしゃに丸めて。
富井:美術館の中では電気とかは。
刀根:コードはあった。
富井:じゃぁ別にそれ突っ込んでも文句は。
刀根:それは全然文句はいわれなかった。
富井:規則に反するとか、そういうことはなかった?
刀根:いや、それは後で問題になったんですよね。
富井:そうか、そうですね。
刀根:出品契約の違反じゃないかとかね。
由本:1963年。
刀根:そうそう。いや、1962年。
由本:その時になんかテープだけ盗まれたって聞いているんですけど、そうですか。
刀根:盗まれた。
由本:誰が盗むんですか、そんなの。
刀根:そりゃぁ、誰でも盗むでしょうよね(笑)。早く来てさ、誰もいない時にすっと持ってったんじゃないかと。
由本:会場の管理側が音が出るとまずいと思ってとっちゃった、というわけじゃない?
刀根:だって、それまでずっと鳴ってたからねぇ、管理側はあんまり気にしてなかったんじゃないかと。
富井:それは何のテープだったんですか。
刀根:それはね、《アナグラム》を録音したテープだったんです。
富井:じゃぁ一応ご自分の作品になるわけですか。
刀根:そうそう、要するにあれは、グリッサンド(注:Glissando、滑奏音とも呼ばれ、一音一音を区切ることなく、隙間なく流れるように音高を上げ下げする演奏技法)のサウンドだけが載ってるわけだから、河が流れているみたいなものなんですよ。だから作品というよりは、要するに30分サイクルで変わるから、だから、繋ぎがなんかわからないでしょ、そういうものだと。
富井:そうですね。じゃぁ別に音楽流してて、もうテープは放ったらかしですか。
刀根:そう、もちろん放ったらかしです。
由本:でもそんな風に、勝手にループするようになってるんですか。
刀根:そういうの売ってたんですよ。
富井:じゃあ、朝行ってスイッチ入れてたんですか。
刀根:そうそう。
富井:なるほど、なるほど。
刀根:だから、ある日行ってみたら、なかった。
由本:けっこう会期中の早い時期になくなったんですか。
刀根:真ん中ぐらいじゃないですかねぇ。
富井:そのとき音の出るものは他になかったでしょうから。
刀根:ううん、平岡弘子も(注:元ネオ・ダダのメンバー、後にニューヨークに移住)。
由本•富井:ああ、はい。
刀根:それはね、秤でね、乗っかるとなんか音がする。だからそんなにしょっちゅう音が出てるわけじゃないです。ぼくのは出っぱなし。そしてね、水道の蛇口とか川が流れているような感覚で出す。
由本:なるほど。その翌年の《Something’s Happened》はあんまり記録がないんですけど、どういうものだったんでしょう。
刀根:それはね、ちょうど搬入の日に、読売の美術部の記者で田中穣って人がいましてね、その人に頼んで、紙型(しけい)をいただけますかって。
富井:なに?
刀根:あ、紙型って知らない?
由本:どういう風に書くんだろう。新聞の紙に。
刀根:型。紙型っていうのはあの、固い紙の繊維でできてて、それを、組んだ活版できゅっと圧迫して亜鉛を流し込んで、新聞のステレオタイプみたいなのを作るわけですよ。それで、それを印刷したわけ。だから活字をそのまま印刷しないの。
富井:なるほど。で、その紙をもらったわけですか。
刀根:うん、その紙型。使ったもの、その日のをくれたんだね。したら、出展風景なんて記事が載ってるわけ。
富井:もう既に出展した展覧会の記事があるわけですか。
刀根:うん、それを四つ、六面で箱を作って、そのなかに石膏を流して、それを転がしといたんですよね。
富井:じゃぁ重かったでしょうね。
刀根:ええ。
由本:じゃぁ一応、彫刻といえば彫刻ですね。
刀根:彫刻です。
富井:じゃぁレディメイドの彫刻?
刀根:そうです。
由本:石膏でも読めるような状況なんですか?
刀根:白いからあんまり読めないんで、ちょっと拓刷りみたいにね、半紙を持ってって、周りに散らばしといたんですよ。
富井•由本:ほう。
刀根:ちょうどそのとき、ジャスパー(・ジョーンズ)が見に来ててね、《Something’s Happened》という英語のタイトルだったので、こうやって(かがんで)みてたけど。
由本:翌年っていうと、1963年か。ジャズパーが、へえ。(注:ジョーンズは1964年には椿近代画廊で「オフ・ミュージアム」展を見ている。刀根はこの展覧会で、他のアーティストによる出品作の全てに車のバックミラーを取り付けてその作品を映し出すというアイデアを自らの作品として実施した。その後、ジョーンズは同年の東京滞在中に、自転車のバックミラーを使った《Souvenir》、《Souvenir 2》などの作品を制作している)
刀根:その時は、風倉(匠)が裸になったり、小杉が笛吹いたんですよね。問題になったんだよね。
富井:たしか事務室へ連れて行かれたんですよね。
刀根:あれ、どうだったかなぁ。僕そばにいたんだけどねぇ。後ろからみてたんだけども。高松が紐をあれしてね、文句がでたの、交番から。上野公園までずっと引きずってたから。ギュウちゃんがまじめに一生懸命片付けたりして(注:赤瀬川原平『反芸術アンパン』ちくま文庫、1994年、193頁に言及がある。)
由本:え、ギュウちゃんが手伝ったんですか。
刀根:片付け、片付け。
富井:紐を巻いたり取りに行ったり。
由本:ふぅーん。その、同じアンパンの時に赤瀬川(原平)さんと中西(夏之)さんとミニチュアレストランをやったっていう(注:前掲書、202-203頁にイラスト付きで言及。)
刀根:いや、それは僕が音を作りましてね。
由本:そうなんですか。それはまた、会期中の日を選んで?
刀根:うん。それで、入り口で切符を売ってね、呼び込みをして。中西はそういうのうまいんだよ。それで、ぼくなんか‥‥
富井:それ考えたのは、皆さんで一緒に考えたんですか。
刀根:考えたのは、エーと、中西と、赤瀬川とぼくと3人かな。そいで、なにしようよってライスカレーと天ぷら作ろうって、ワカサギの小ちゃいのをちゃんと揚げたんだよ。
富井:へぇー。そこで揚げたんですか。
刀根:電気コンロ持って行ってね。
富井:なるほど。現場主義ですね。
刀根:うん。だから、あのときそんなにうるさくなかったんだね。で、やっぱりね、裸になったのと、それから、広川(晴史)っていう絵描きがいて、それが……
由本:ああ、包丁の。
刀根:お人形さんが出刃包丁もってね、それで風呂桶の中から《そろそろ出かけようか》って。(注:前掲書、177-180頁にイラスト付きで言及。)
由本:はははは。
富井:刀根さんが作った音ってどんな音なんですか。
刀根:だから、こう俎板でほいって大根切ったりとかね。
富井:じゃ演奏ですね、それは。
刀根:それは、料理をしている音。
富井:ああ、なるほどね。
刀根:だから天ぷらを揚げているように、なんか油使ってうちでつくってた。
富井:じゃ、録音したやつを持って行ったわけですか。
刀根:それはずっと忘れててさ。
富井:どういう意味?
刀根:あの、聞かれて思い出した。
富井:あ、そうですか(笑)。いや、何の音だったのかなぁ、と。
由本:赤瀬川さんのアンパンの本に、ちょっとイラストレーションみたいなのが入ってますよね。
刀根:入ってましたっけ。あ、ミニチュアレストランね。あれは、高松は入ってなかったような気がしたんだけど。
由本:その前にもう山手線のイベントに参加されて。1962年ですね。
刀根:1962年ですね。
由本:10月に参加されているので。その頃から既にハイレッド・センターにもほとんど参加されてた。
刀根:そうですね、ハイレッドの方があった。あれは『形象』って雑誌があってね、「直接行動の兆し」っていう特集だったんですよね。
由本:特にその3人が主要メンバーですけど、メンバーに正式になりたかったということはなかったんですか。
刀根:ちょっと周りでみてる方が面白いかなって思ったの。それにさ、最初は中原(佑介)と僕と発会式みたいのを新宿の焼き肉屋でやってね。そのときにもう連中は顧問ていう名刺を作ってさ。
由本:刀根さんがハイレッドの顧問っていう。
刀根:そうそう、僕と中原が。
由本:あぁ、そうですか。
刀根:そのときハイレッド・センターのためのPRなんて提灯文章書いたりして。だからある意味では、宣伝係というか。
富井:広報ですね。
刀根:広報係、うん。
由本:それは皆さんの間で、(刀根さんは)口が立つというか、ものが書けるということがあったんでしょうか。
刀根:そういうことだったんでしょうね。つまりその頃に、1962、63年に僕は『音楽藝術』に音楽会評を書き始めてたんですよ。「ニュー・ディレクション」という現代音楽のシリーズがあって。
由本:草月のですね。
刀根:草月です。そういうの2、3回書いたことがあって。その時の編集が元木さんで、元木さんの後の人も続けたんだけど、ある日その人が会社に行ってみたら、突然席がなくなってた。クビになったの、雑誌はあるんだけども。で、今後は、前衛音楽は扱いませんからって宣言されて。
富井:そうなんですか。私はどうして『音楽藝術』なんかで前衛音楽をしてたのかなって、ずっと非常に不思議だったんです。
刀根:あとになったらそうでしょ。一頃はそういう時期があったわけ。
富井:だから、そういう時期に刀根さんが書かれておられたってことなんですか。
刀根:そうです。
由本:じゃぁ、2年間くらいですか。
刀根:1年かそこらでしょうね。僕は3回くらいかな、書いたの。輝ける草月会館の歴史とか言うカタログに白石美雪さんが抜粋をのっけてくれました。(注:『輝け60年代:草月アートセンターの全記録』フィルムアート社、2002年)
由本:話が前後するんですけど、《山手線イベント》の時に、小杉さんと刀根さんも別に参加されて、他のハイレッドの人たちは上野で挫折してしまったのに対して、全線を回ったっていうことを聞いたんですけど。
刀根:それは、僕らは藝大だから、近い駅は鴬谷なんです。それで、鴬谷で待ってたけども、来ないし、時間だなって思って乗ってみたけど、誰もいないのね。でまぁ、小杉と2人で、じゃぁ、即興演奏やろうかって、ちょっと中で演奏して。
富井:あ、それは音を出していたわけですか。
刀根:うんうん、それで、向こうの始まりの駅まで行ってそれで止めたのね。
由本:ふーん、じゃぁ、逆回り。
刀根:いや、山手線だからぐるぐる回ってるわけでしょ。だからつなげたって感じになるんじゃない。
富井•由本:なるほど。
刀根:完成させたわけです。
由本:ああ、完成させたわけですか。その時って、テープレコーダーか、ラジオかなんかを持って音を出していたって……
刀根:ラジオは持っていましたね。携帯ラジオだと思う。まだカセットは出来てなかったんですよね。
由本:じゃあラジオを単にチャンネル変えたりとか。
刀根:そうそう、チャンネルをくるくる回したりとか。それから雑音も入るしね。
富井:そういうのってどれくらいの音量でやっておられたんですか。
刀根:あれは、そんな大きくはならないですね。
由本:じゃぁ、あんまり周りの人たちの迷惑にはならなかったから続けられたんですか。
刀根:まぁ、それもあるでしょうね。
由本:そうなんですか。誰かに変な目で見られましたか、やっぱり。
刀根:そりゃ多少はみられたでしょうけどね。変なやつがいるというくらいには。でもそういうのは慣れっこですから。
富井:それでも山手線ですから、その時間でもそこそこ混んでいるわけでしょう?
刀根:けっこう混んでいましたよ。
由本:鴬谷からこう一駅ずつじゃなくて、指定されていた駅で全部降りたりして、プラットホームでもやったりして。
刀根:プラットホームでもやったような気がするんですけどもね。その辺はどうも、記憶にないのね。