画家、グラフィック・デザイナー
兵庫県西脇市出身。神戸新聞社でグラフィック・デザイナーとして活動後、1960年に上京。今回の聞き取りでは、ウォーカー・アート・センターの「インターナショナル・ポップ」展(2015年4月11日~8月29日開催)に出品することから、1960年代に制作された「ピンクガールズ」の連作やアニメーション作品、また前衛作家や美術批評家との交流について主にお話しいただいた。また、ロバート・ラウシェンバーグやアンディ・ウォーホル、トム・ウェッセルマンなど、アメリカの作家との交流についても語っていただいた。
池上:今日はよろしくお願いいたします。 今回、ウォーカー・アート・センターの「インターナショナル・ポップ」という展覧会に横尾さんの作品を出させていただきます。アメリカやイギリスだけではなくて、東欧や南米、日本でポップ的な作品を作っていた方がたくさんいて、そういう同時多発的な動きを見ていこうというコンセプトです。横尾さんの作品も「ピンクガールズ」のシリーズですとか、アニメーションを出させていただきます。
横尾:今時というと変だけれども、アジアというのか日本というのは、ヨーロッパ、アメリカから見ると離れ小島みたいなところがありますよね。
池上:そうですね。1960年代当時は特にそうですね。
横尾:「ピンクガールズ」のシリーズは1967年か。
池上:1966年ですね。
横尾:ちょうどぼくのポスターだと、三島由紀夫のポスターとか、《ガルメラ商会》とか《腰巻お仙》とか、同時期に作ってるんですよ。その頃から、ああいうポスターを作ると同時にペインティングをスタートしてたんです。1980年代に「画家宣言」なんて、後でハッと気がついたら、「ちょっと待てよ、1966年から絵を描いてたじゃないか」みたいな。
池上:そうですよね(笑)。そのときにこういうシリーズを描こうと思われた、何か直接のきっかけはあったんですか。
横尾:あれは南天子画廊の、亡くなった青木(治男)さん、社長さんね、青木さんのお兄さん(一郎)さんが南天子のオーナーだった。そのお兄さんから頼まれて。あるコレクターが「横尾さんの展覧会やったらどう?」と推薦してくれた。ぼくは展覧会なんて全然関心なかったですからね。グラフィックの仕事をやってましたから、クライアントから来る仕事にただ応えてればいいわけで、展覧会という発想はほとんどなかったです。そのときに「ペインティングをやってほしい」って。
池上:あちらからペインティングはどうだという。
横尾:はい。まあ一回やってみようかなと思って、軽い気持ちで。そのころの美術界の状況というのは、ぼくなんかグラフィック・デザイナーでちょっと外側にいましたから、そういう状況はよく知らなかったんですね。知らなかったけれども、ネオダダとか読売アンデパンダン展とか、そういった活動が頻繁に行われていて。一般的じゃなく、ほんとに美術界だけのちっちゃな出来事なんですけれども、それを端からなんとなく情報として知ってる程度で。でもそういったことと無関係に絵を描いたんですね。それがあの一連の作品で。でも新聞もなにも、一切無視で。
池上:そうですか。批評というか、展評みたいなものは全然出ない。
横尾:全然無視。あのとき買ってくれた人たちというのは、渋澤龍彦さんはじめ同業者みたいな人たちが買ってくれたり、通りがかりのアメリカ人も買ってくれたり。そのアメリカへ行ったものは行方不明になってますけどね。
池上:そうですか。見つけたいですね。
横尾:ちょっと見つけたいですよね。
池上:日本にあるものは、あのよだれの女性(《よだれ》)ですとか、お堀の前で泳いでいる女性(《お堀》)ですとか分かりますけど(注:どちらも徳島県立近代美術館蔵)、アメリカに行った作品はどういう図柄ですか。
横尾:裸の女がバイクに乗ってる作品で。
池上:ああ、正面から女性が手を広げてる。それは見つけたいですね。
横尾:うん、その作品はアメリカに知らないうちに出ていて、オノ・ヨーコさんが持っていたんです。あのピンクの女の一連の作品も、なんか展覧会が終わると散らかってしまって、ぼくもそこまで管理してなかったので追跡調査もしなかったんですけれども。東京都現代美術館で個展をしたときに、あの頃の作品を展示するということになって、全部回収して集めてほしいと言われたんだけど、2点ぐらいなかったんです(注:「横尾忠則 森羅万象」展、2002年8月10日~10月27日)。この2点はあとで分かったんですが、やはりアメリカに行っていました。しょうがないから、写真があったので、それを見て摸写したんですよ。この摸写が時間かかってねえ。ひとの作品を摸写するのと違って、自分の作品になんでこんな時間かかるのかと思う。だってオリジナルは思いのまま描いてるでしょ。反復作品は、その思いのまま描いたものを正確に摸写するわけですから、もういやんなるぐらい時間がかかりましてね(笑)。それはぼくの《反復》の仕事の、その後のきっかけになったんです。
池上:あのシリーズもいろんなバリエーションで反復されていて、横尾忠則現代美術館のオープニングの展覧会の時、あれがザーッと並んでいてすごく素敵でした。横尾さん、ご自分で年号を書かれたじゃないですか。これは何年、これは何年っていう。あれがすごく効いていて。
横尾:でもウソの年代も。
池上:なんかちょっと間違えもあるとか、山本(淳夫、横尾忠則現代美術館学芸課長)さんが。
横尾:間違えじゃなくてね、意図的に間違ってるわけ。間違うというよりも、発想そのものが1966年代の発想ですから、それをその後の制作年にする方が、なんか抵抗あるんですよ。だから昔の年代にしたんです。これはキリコとかピカビアも時々やるんですよ。それに準じてぼくもやったんですけど。間違えじゃないんです。絵には1966年と入ってますけれども、クレジットには全部、制作した年が。
池上:ウォーカーの展覧会にも出させていただくんですけど、こういう、よだれを垂らしている女性ですとか、お堀で泳ぐ女性ですとか、すごい強烈だと思うんですけど、何かを見てインスパイアされたというのはおありだったんですか。
横尾:もしあるとすれば、ポップ・アートの「グレート・アメリカン・ヌード」《Great American Nude》なんて描いてるトム・ウェッセルマン(Tom Wesselmann)ぐらいですよね。あのピンクはここまで強烈な色じゃないんだけど、あのピンクに触発されたことは確かですね。
池上:口を大きく開けているところとか、彼もそういう作品ありますよね。
横尾:口を開けてましたかね。
池上:口だけの作品とかもあるので。
横尾:ありましたね。その後、1967年に初めてニューヨークへ行って、ウェッセルマンを訪ねたんですよ。ぼく、『横尾忠則遺作集』(学芸書林、1968年)という画集を持ってまして、これを全部見せたんですよ。反応、ちょっとこわかった、あの人の影響があったから。そのことも正直に言って。そうしたら彼がその画集を抱いて離さなくなっちゃったんです。
池上:気に入ったんですね。
横尾:気に入って、「これ、ほしい」って。でもまだ販売してなくて、ぼくは東京から、1冊だけサンプルで持ってきた。それをほしい、もう今日ほしいと言い出して。どうしようかなと思って。でもせっかくそんなこと言ってくれてるんだから、それを差しあげたんです。そしたら自分の大きな版画をくれて。だから値段的には1桁違いますよね。2桁とは言わないけれども。まったく大きな版画です。それと本の交換(笑)。
池上:お得な交換ですね。
横尾:たいへんお得ですよね。
池上:それはどんな図柄の版画だったんですか。
横尾:ちょっと待ってください。これに出てます。これです(注:かなり大きなサイズの版画で、ビキニの日焼け跡がついた女性の上半身と頭部が大きく描かれたもの)。
池上:すごい、いいですねえ。
横尾:いいんです。結構大きいんですよ。これをいただいて。
池上:迫力ありますね。
横尾:そうなんですよ。このあいだ、バンクーバーから来たコレクターの人がものすごくウェッセルマンのファンで、ぼくの「ピンクガールズ」のシリーズでウェッセルマンに対するオマージュの作品を描いてほしい、と言われて。
池上:へえ、具体的な注文として。
横尾:注文。コミッションワークですよ。でも面白いから、描きました。コレクターの部屋の写真を送ってもらって、そこのコレクターの家の中にウェッセルマンの女性のポーズをしたぼくのピンクの女性がいて。
池上:それ見たいです!
横尾:もう向こうへ行っちゃった。写真はあるかもわからないけど。ウェッセルマンのポートレートが写真立ての中に入ってこちらを見てるみたいな。また部屋の中には、彼が持ってるウェッセルマンの絵があるんですよ。それも絵の中に入れてくれと言うから。
池上:では画中画みたいな感じで入れて。
横尾:そう、画中画です。
池上:それはいつ頃書描かれたんですか。
横尾:去年かな、最近ですよ。
池上:それはぜひ見たいです。
横尾:そこの家から海が見えるんですよ、太平洋が。それが窓の向こうに見えてるみたいな感じで。
池上:その写真を撮らせていただいてもいいですか。
横尾:ウェッセルマン、その後会ってなかったので、彼に会いたいなあと思って、ぼくがニューヨークで展覧会をしたときに来てもらおうと思って調べたら、死んじゃってたんですよ。(注:ウェッセルマンは1931年生まれ、2004年没)
池上:いつ頃でしたか。
横尾:ぼくが展覧会をしてもう7年ぐらいになるんだけど、そのちょっと前ぐらいですかね。
池上:残念でしたね。
横尾:ガッカリしたんですけどね。ニューヨークでもっと大きい絵にしてデビューしなさいと言ってくれたんですがね。ぼくのその後の作品を見てもらいたかったからね。そんな年でもなかったと思うんですよね。
池上:でも、あの世代のポップの作家たちも徐々に病気をされて。(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)も5、6年前に亡くなったし。
横尾:彼とは何度も会って。信楽で制作したときもね。ジャスパー(・ジョーンズ)(Jasper Johns)もニューヨークに行くたびに会っていたけど、彼はまだ元気でしょ。
池上:お元気ですね。制作もされてるみたいです。
横尾:(ロイ・)リキテンスタイン(Roy Lichtenstein)も。
池上:彼は亡くなりましたね。
横尾:ぼくがリキテンスタインにニューヨークで会った、次の年ぐらいか、その次の年ぐらいに亡くなったんです。そのときなんかすごい疲れた顔してらしてね。「わあ、おじいちゃんになっちゃったな」と思ったんだけど、やっぱり具合悪かったんでしょうね。さみしいですよね、そういう人が。(アンディ・)ウォーホル(Andy Warhol)はもっと前に亡くなっちゃったし。
池上:彼は若かったですね。
横尾:若かった、今から思うとね。やること全部やったけれども。もうあとやったってあれの延長だと思うんですけれども、数は増えましたね、どんどん。
池上:ウェッセルマンのスタイルが気に入っていらしたということですが、最初に「ポップ・アートってこういうものなんだ」って意識されたのは、どういうきっかけがありましたか。
横尾:意識したのはちょっと覚えてないんですけれども。
池上:何か画集を見られたとか。
横尾:画集は手に入らない。
池上:では雑誌で見たとか。
横尾:そうです。1960年、安保の年にぼくは東京へ出てきて、日本デザインセンターというところに入るんです。そのときにそこの図書室に世界各国のいろんな有名な雑誌が、アメリカだったら『Esquire』とか、『McCall’s』とか、『Show』とか、今なくなった雑誌ばっかりだけど、そういうのを送ってくるんですよ。そのなかで『LIFE』の特集があって。『LIFE』で抽象表現主義の特集やポップの特集をしてたんですよ。
池上:同じ号で?
横尾:そこまで記憶にないけど。そこで全面的に(ジャクソン・)ポロック(Jackson Pollock)のドリッピングの作品だとか、(ウィレム・)デ・クーニング(Willem de Kooning)とか、マーク・ロスコ(Mark Rothko)などの抽象表現主義と、ポップ・アートのウェッセルマン、ウォーホル、リキテンスタイン、そういった人たちが載ってて。たぶん『LIFE』だと思います。それがいちばん最初じゃないかな。
池上:それは結構衝撃的でしたか。
横尾:特にポップ・アートは、デザインの世界とそう変わらないと思ったんですよ。デザインは、あの頃はモダニズムの時代で。デザインはモチーフが幅広いですけれども、われわれふだんクライアントから頼まれて企業とか商品を宣伝する仕事をしてたでしょ。あの頃はぼくも広告やってましたから。そういったものがモチーフになっているということで、ものすごく身近に感じたんです。特にウォーホルなんか非常に身近に感じましたよね。
池上:商品をそのまま描いてるわけですもんね。
横尾:そうなんですね。ほかのポップ・アーティストも消費社会のマスプロダクションをモチーフにしていたので、非常に身近に感じました。
池上:ポロックですとか、それまでの抽象表現主義のことはご存知で、でもそれはそんなに近い感じはされなかったですか。
横尾:そうねえ、まあ身体性を持った「芸術」という感じ。いわゆる前衛芸術みたいな感じとして見てたんでしょうね。むしろアメリカの抽象表現主義よりもヨーロッパの……
池上:アンフォルメル?
横尾:アンフォルメルの方が早く日本に紹介されて。
池上:影響は大きかったですね。
横尾:わりかし早い時期に(ジョルジュ・)マチウ(Georges Mathieu)が来まして。マチウが、松屋かどこかのデパートのショーウインドーの中で。
池上:大阪の?
横尾:東京だったような気がするけど。
池上:大阪でも東京でもやってたんですね。
横尾:ショーウインドーの中で飛んだり跳ねたりしながら。
池上:白木屋ですね、東京のときは。
横尾:そうですか。それをぼくは、現物を見たのか、それを映像で見たのか、雑誌で見たのか、その区別が自分ではもうできないんですよ。もしかしたら本物を見たのかもしれないけれども、そんなにまだ美術の世界に、ぼくは距離感をもって見てましたからね。スキャンダラスに取り上げられていましたね。
池上:東京に来られる前から、神戸でもある程度美術の情報というのは得ておられたんですか。
横尾:具体があったので。吉田稔郎さんという人がいて、その人はデザインもやってたんですよ、吉原製油のパッケージのデザインを。そんな関係でぼくたち数人のデザイナーが集まって、NONというグループを彼が組織して、そこに週1か週2かなんかでしょっちゅう行って、そういう人たちの話を聞いたりしてたんです。だから具体の一端には触れてたんですよ。
池上:では具体の展覧会とかもご覧になっていましたか。
横尾:一回、吉原さんに呼ばれて、倉庫みたいなところに。「来いひんか」みたいな感じで。元永(定正)さんもいたと思うんです。元永さんの方が先のつきあいだったと思います。そこへ行ったとき、元永さんや白髪さんら具体の作品があって。そこへふらっと訪ねていったら、ズラッとみんなが並んで迎え入れてくれたんだけど、ちょっと圧倒されましたね。神戸時代というよりも東京へ行ってから訪ねたような気がします。だけど元永さんは「モーやん」なんていっておつきあいしてましたしね。「おいコラ」とか「横尾!」なんて言われてたからね。だからどこでどうか分からないけれども、具体の吉田さんから、多少はね。でもそれほど興味なかったですよ。
池上:そうですか(笑)。ひょっとしたらずっと関西におられたら具体に入ってたかも、なんてことはやっぱりないですか。
横尾:なんかさぁ、あんなもんやりたくない、みたいなところはどこかにあったんじゃないかな。だけどぼくは高校の頃はデザイナーになるつもりはなかったので、むしろ画家になるつもりだったんです。東京から赴任してきた先生が、太平洋美術会という団体がありまして、そこの会友だったんです。そんな関係で、その先生の影響で、油絵を描いてたんです、ずっと。たぶんこのままいくと郷里で学校の先生をしながら油絵でも描くんだろうなとぼくは思ってた。そんなことで、生活しなきゃいけないので、その間長い話がいろいろあるんだけども、グラフィックだとすぐ生活できますからね、そっちへ行ってしまって。それでもグラフィックもなじまないし、やっぱり油絵の方が面白いなという感じがぼくの中にあったんですね。だけどね、画家としての、職業画家になりたいという気持ちはあんまりなかった。グラフィックをバイトでやってたけども、これも職業としてのデザイナーになりたいとは思ってなかったです。いちばんなりたかったのは、郵便屋さんなんです。
池上:そうですか(笑)。
横尾:郵便局行って、日曜画家的な絵を描きたいと思ってたんですね。
池上:個人的にやりたいことだけをできますもんね。
横尾:そうなんです。それと職業なんてまったく結びつかなかった。グラフィックも、神戸新聞に入るまでは、いや入ってもまだ職業と結びついてなかったです。そんなのと具体があったというので、もっと直結するかなと思って、あるいはそういう事実に興味もつかなと思ったけど、そこでもたないまま東京へ行ってしまった。向こうの雑誌なんか、『LIFE』とか一般誌で美術を大々的に取り上げてることに、それはもう驚きましたね。
池上:ほんとに大衆誌というか、何百万部と売られるようなものですからね。
横尾:それがしょっちゅう取り上げているんですよね。インテリアの特集なんかすると、そこに現代美術の作品が写ってたりするんですよね。生活に根づいた、アメリカの美術生活というのか、そういったものがなんとなく日本にはない環境で、うらやましいと思って。だけどぼくはそういう美術をやりたいと思ってなかった。さっきのウェッセルマンに会ったときに「キミの作品のサイズはどのぐらい?」って。「このくらい」って言ったら「それはダメだ」って言うわけ。「小さすぎる。ぼくと同じぐらいの大きさの絵を描きなさい。それでニューヨークに住みなさい。いまポップ・アートがやってるような、こういうことをやりなさい。できるから、大丈夫!」といわれても全然うれしくも興味もないんですよ。ウェッセルマンに褒めてもらってることはうれしいんだけども、そのためにニューヨークに住んで、そういう美術家に転向する、そんな気持ちは全然なかった。そこはそのまま作品をいただいて、交換して、素通りで行ってしまったって感じです。だけどウォーホルとかジャスパーとかラウシェンバーグになんで惹かれてるのかよく分からない。美術家になるという気持ちはないんですよ。グラフィック・デザインをやってるわけ。だけどジャスパーなんかぼくのグラフィック作品をすごい評価してくれて「ほしい」って言って、ホイットニー美術館での個展のポスターと交換してくれたりしました。
池上:すごいですね、それも。
横尾:後で聞いたら、ジャスパーの寝室にぼくのポスターが貼ってあるというのを聞いたり。ジャスパーも時々向こうでプリントアート展やるから「出品してほしい」って言われて版画を出品しました。でもね、まだ当時はぼくの精神が幼かったのか、それはそれで別にうれしいんだけども…… 今だったら興奮するんですけどね(笑)。
池上:そのときはどうしてそういう気持ちにならなかったんですかねえ。
横尾:なんでならなかったのかなあ。グラフィックが楽しくて面白かったんでしょうね。一点主義の美術と違って、時に10万枚ぐらい刷られるわけです。ビートルズのポスターなんか10万枚刷られて、それでレコード会社に添付されるわけでしょ。そのスケールの大きさと、そういうグラフィックのもつメディアの力というのかな、影響力、それにくらべると美術は一点主義だからね(笑)。
池上:そこで生きてる人にはそこの価値観があるんですけどね。
横尾:今思うと、タイミングを逸したのか、今でよかったのかよく分かりませんけど、ぼくは今のように画家に転向すると思ってなかったし、ついていけなかったというのか。それはそれとして一つの時代の風景として眺めてたような気がするんですよね。
池上:実際に『LIFE』なんかでポップを見て、ご自分のデザインもちょっと変わっていったというようなことはありますか。
横尾:いや、ぼくね、1967年に初めてニューヨークへ行くんですよ。そのときにいろんな人たちに会ったんだけども。それまでの日本のグラフィック・デザイン界というのはモダニズムが先行してる時代で、ぼくの作品は、ああいう前近代的というか土着的なものはちょっとうさんくさがられてたんですよ。それを評価してくれたのがMoMA(The Museum of Modern Art, New York)なんです。ニューヨークにぼくの作品を集めてるギャラリーがあるんですけど、それはポスター・オリジナルズというギャラリー(Poster Originals Gallery)で、一般のポスターじゃなくてアートポスター、ポップ・アーティストの作るポスターしか扱わないギャラリーだったんですけど、そこで扱われてたんです。そのときもポップ・アーティストのポスターと一緒に並ぶというのに、「なんかつまんないな」と思ったの。なんか作品がずいぶんアート的じゃないかという。
池上:アートとして作られたポスターということですね。
横尾:うん。ラウシェンバーグもそうだし、ウォーホルもそうだし。彼らはグラフィックの、どう言ったらいいのかな、そういう理論とかはないわけですよ。ぼくはグラフィックの理論でやってるわけだから。グラフィックの方が面白いと思ってたから。
池上:プロでグラフィックをしている方からみると「ちょっと甘いんじゃないの?」みたいな感じに見えた?
横尾:ポスターと言えないというか、ペインティングの複写じゃないか、みたいなさ(笑)。そんな感じだったんですよね。でもそこでやってくれたのを、MoMAが見に来て全作品をコレクションしたんですよ。
池上:それはすごいですね。
横尾:一点残らず全部コレクションしてくれて。
池上:そのときのそれを決めた学芸員さんというのは、そのときお会いになったんですか。
横尾:その学芸員はね、ミルドレッド・コンスタンチーヌ(Mildred Constantine)という非常に有名な女性の学芸員で、亡くなりましたね。その頃、MoMAの映画の学芸員がドナルド・リチー(Donald Richie)さんだったんです(注:1969年から1972年まで)。この方は日本の映画をやってる、非常に有名な人で。リチーさんは日本語がしゃべれる人だったんです。その方が、「将来MoMAであなたの展覧会をやりたい」とそのときすぐ言ったんですよ。でもぼく全然本気にしてなかった。社交辞令だと思った。その後でジョン・ガーリガン(John Garrigan)という学芸員がぼくの個展を企画しました。
池上:じゃあ最初はその女性のキュレーターで、実際に1972年に展覧会をしてくださったのはガーリガンさん。(注: “Graphics by Tadanori Yokoo,” ニューヨーク近代美術館、1972年2月~6月)
横尾:そうそう。MoMAが展覧会をやっとやってくれて。ぼくは、その展覧会をやられたことで、なんでかよく分かんないけど戸惑いを感じてたんですよ。彼は「全然うれしそうな感じをキミから受けないんだけど、MoMAで展覧会やってうれしくないの? だって現存のデザイナーでは君が初めてなんだよ」って、そういう押しつけがましい質問をするわけですよ。
池上:ふつうは皆さん有頂天になるでしょうから、それがないのが不思議だったんじゃないんですか。
横尾:そしてオープニングの日にぼく行かなかったんですよ。それで4ヶ月後ぐらいに行った。というのは、展覧会を2ヶ月やって、1ヶ月休館して、アンコール展でまた2ヶ月。
池上:すごい評判がよかったんですね。
横尾:その評判は聞いてないけど、そういうことで。2ヶ月もやってたのに、ユーウツな顔してて、オープニングも来なかったってね。
池上:ふつうオープニングに絶対行きますからね、MoMAで個展やったら。
横尾:行かなかった。
池上:気乗りがしなかったですか。
横尾:なんか知らないけどもね。MoMAのあとアムステルダムのステデリック・ミュージアムにも巡回したけど、このときもとうとう最後まで行かなかった。航空券、ホテルも用意してくれたのにね。どういうわけか、ああいうとこへ行くのは、なんかねえ。自意識が強いのかなあ。なんか知らないけどね、孤独感がものすごく襲ってくるんですよ。そんなんで行かなかった展覧会いっぱいありますね。ヴェニス・ビエンナーレも2回ともイタリアとアメリカのコミッショナーの招待で出品したけど、この時も行かなかった。そんな性格ですね。ポスターの時代は、一方ではモダニズム全盛だから、日本のデザイン界がぼくの作品に諸手を挙げて評価してなかったんですよ。してくれたのは、三島(由紀夫)さんとか寺山(修司)さんとかほかのジャンルの人たちです。肝心のグラフィック・デザイン界での評価が薄かった。それがぼくにとってはなんかたまんない寂しさがあったんでしょうね。だから向こうで評価されたそのこととの落差が、ものすごく大きいようにぼくは感じたんですよ。まあアメリカ大陸というところもあるし、人もどんどん来るし、いろんな人から声をかけられる。日本でそんなことやったって誰も声かけないみたいな。それで日本人が嫌いになったのかな。日本人に対する反抗から逆にアメリカに行かなかったのかもしれませんね。アメリカ人のフレンドリーさというのかな、率直な感想を述べてくれる、あの自然体がぼくはきっと好きになった。日本人にはそれがなくて。
池上:あまり反応してくれないですよね。今でも一般的にそういうところはありますよね。
横尾:あるんですよね。それがたぶんぼくにとってはさみしかったり、やるせなかったりして。それでまたぼくがどこかへ行くと、そういう、ぼくにとってはいい待遇で迎えてくれる。多分そうされると、もっともっと日本の中で孤独になるんです。
池上:歓待してくださるわけですもんね。
横尾:それに対して日本がまたシーンとしてる。
池上:落差が激しいんですね。
横尾:そうなんです。そういうことがあったんだと思うんです。たぶん自意識が強かったのかな。やっぱり今でもそうなんです。今でもそういう展覧会があったりすると、なかなか行かないんですよね。今もちょうどカルティエで100人の肖像画を出品しています。カルティエから「頼むから来てくれ」なんて、「全部面倒みるから」って言われてるのに、「行きたくない」って返事出しちゃったんですよね。分かるんです。この前のカルティエに行ったときにも、オープニングに2000人ぐらい来るんですよ。ものすごい数が来るんだけれども、2000人来ても、2000人対1なんですよ。2000人の全部が1という感じなんだろうけど、ぼくにとっては、それは人格を超えてしまった何かワケ分かんないものなんですよ。そうすると展覧会場にいながら、狭い部屋にじっと閉じこもったみたいな。なんでそうなるのか自分でもよく分かんない。
池上:もともとの原体験が、日本でのそういう反応のなさと海外との落差というところに根っこがあるのかもしれないですね。
横尾:それと、ああいうとこへ行くと、名前も聞いてる、顔も知ってる芸術家がいるわけですよ。そうするとぼくはその人たちと比較できるレベルにいないということを自分で分かるわけですよ。だけど実際会うとものすごくフレンドリーだったりするんですよ。「今晩うちに来なさい」とかいろいろ言ってくれるのに、なんかしらないけどもそうなっちゃうんですよ。病気じゃないかと思って(笑)。
池上:そんなことはないと思います。話の年代が戻ってしまうのですが、1965年にイラスト展というのをされています。銀座の吉田画廊に出された作品ですね。こういうところでさっきおっしゃっていた土着のモチーフ、「旭日」だったり「波」だったり、というのが出てくるんですけれど、これは「朝日麦酒」のロゴから着想を得ていらっしゃるという。
横尾:朝日麦酒のロゴ。アサヒビールがぼくは担当だったからね、毎日朝から晩までこればっかり見てるわけです。ロゴというかキャップ。キャップに旭日と波の絵がある、そういうものなんですよね。
池上:デザインセンターで朝日麦酒の担当をされていたということなんですね。
横尾:そうです。ぼくの郷里が呉服商やってたんです。呉服商のラベルとか、家の中にいろんなその頃転がってたレッテル、ラベルのことなんですけど、そういったものにはこういうアサヒのマークというのかな、そんなものがゴロゴロあったんです。
池上:ビールに限らず、一般的によく使われてたわけですね。
横尾:そうです。マッチのラベルとかね。ぼくにとってはこういったものがすごい忌々しいものとして。土着的なもので。
池上:忌々しい(笑)。切り捨てたい過去みたいな感じですか。
横尾:そうそう。そんなものから逃れたいというのが、どこか無意識のうちにグラフィック・デザイナーの世界と結びついていったんだと思うんですよ。グラフィック・デザインのあの時代は、こういう土着的なものを一切排除した合理的機能主義のモダニズム全盛ですから。
池上:でもそこに、切り捨てたかったはずのものを入れちゃった。
横尾:ぼくはモダン・デザイン的なものをデザインセンターでやってたんだけれども、それはそれなりの小さな評価は、賞をもらったりするんだけども、特別うれしくないんですよ。何がうれしくないかというと、田中一光のものを、亀倉(雄策)さんとか、杉浦康平さんとかそういった人たち、先輩のものの見様見真似のモダン・デザインをやっているので、それが賞をもらったってまぐれで。あの人たちは個性が強いのに、ぼくは単にスタイルでやってるという、自分に対する評価がすごい低かったんですよ。
池上:先輩の後追いをしているだけじゃないかと。
横尾:その頃に朝日麦酒の担当で、「ああ、またこれ」みたいな。
池上:切り捨てたかったはずのものがまた仕事になっちゃったわけですね(笑)。
横尾:ええ。朝日麦酒の打ち合わせに行ったら、なんかしらこんなもん(旭日や波のモチーフ)があるわけですよ。それで、朝日麦酒のポスターかなんか作ると、それを入れてほしいって言われたりしてたんですね。で、デザインセンターを辞めてすぐに吉田画廊の展覧会をして。そのときに朝日麦酒のそのイメージがまだあって、それとアメリカのポップ・アート的なものを意図的に結びつけた。
池上:もう入ってますね。
横尾:「ピンクガールズ」につながっていくんだと思うんです。これはほんとにイラストレーションという概念でやったものだと思うんですよ、この時点で。そのときに三島さんが、この中の1点、大きいやつを、欲しいとは言わないんだけど、気に入ってくれた。だから差し上げたんです。
池上:シルクハットをかぶったやつですね。
横尾:気に入ってくれたから、三島さんにあげたんです。
池上:横尾さんとしては朝日麦酒のモチーフだったんですけど、三島さんは、帝国海軍旗か旭日旗という風に見られたわけですよね。旭日旗のモチーフかなと思った人も多いと思うんですけど。
横尾:その当時はね。
池上:横尾さんの中では、例えば戦争中の記憶ですとか、そういうものとはこのモチーフは関係ないんですか。
横尾:関係なくはないね。例えば海軍のZ旗ってあるんですよ。黒と緑と赤と黄色かな。こういうZになって、色が。そういうものとか海軍旗、それは気分を、戦意を高揚させるビジュアルなんですよ。
池上:ですよね。
横尾:これが風になびいたりしてると、ウワーッていう感じ。
池上:少年の頃はちょっとこう……
横尾:軍国少年ですからね(笑)。そういうものにね。だけど戦争が終わって民主主義の時代にバーンってなったら、昨日までの軍国主義は、突然GHQの進駐軍がバーッと来てガラッと変わるわけでしょ。そしたらたった一日でこういうものは忌々しいものになってくるんです。それが、そう簡単に理解してもらえないぐらい、昨日と今日が違うんです。ガラッとアメリカびいきになるんですよ。
池上:横尾さん本人も?
横尾:ぼくだけじゃなく。
池上:皆さんですよね。
横尾:進駐軍がジープで来ると、チューインガムとかビスケットだとかチョコレートをくれるわけですよ。
池上:実際にもらわれた経験もありますか。
横尾:ジープの上から、子どもがガーッと集まってくるとみんなにくれるんですよ。
池上:西脇(注:現在の兵庫県西脇市)にもたくさん米兵は来ましたか。
横尾:1ヶ月もしないぐらいに来たな。もっと早かったんじゃないかな、あんな田舎でもね。それは綿織物をやっている大きな会社があって、そういったところでやっぱり何か関係あるんでしょうね。軍と関係あるのかどうかは分かりませんけど。西脇にとっては、街全部挙げての地場産業ということもあって。だから来るんですよ。そうするとカタコトの英語、ハローとかサンキューとかグッバイとか、なんでもいいんですよ、意味分かんなくて。ワーッと来て。そこからもうポップ・アートが始まってるんですよ。
池上:ほんとにそうですよね。
横尾:見るもの、さわるものが全部。例えば横山隆一の『フクちゃん』という漫画が4コマ連載であって、そこに出てくるおじいさんがいつも浴衣を着てたんです。浴衣の柄が「いろはにほへと」とひらがなで描いてある柄なんです、戦時中はずっと。ところが終戦と同時に「ABC」になったんです、柄が。
池上:そうですか(笑)。それはすごく面白い話ですね。
横尾:浴衣の柄がABCですよ。漫画の吹き出しが全部英語になって、そこに日本語がついて。それも8ページとか、せいぜい16ページぐらいの薄っぺらい漫画で、色は2色ぐらいの。そういうのがワーッと町に、あれよあれよという間に氾濫していくんです。あのスピードはすごかった。
池上:そこにポップが出てくる土壌みたいなものが染みこんでいくわけですよね。
横尾:日本的ポップがね。そうするとすぐ美空ひばりが「東京キッド」の歌とか「悲しき口笛」なんていうのを歌って。それがあちらからこちらからラジオと蓄音機で聞こえてくる。それはもうほんとに、何と言ったらいいのかなあ、あれは。
池上:ちょっと遡ると、戦時中は西脇も空襲というのは直接あったんでしたっけ。
横尾:空襲はないけどね、焼夷弾を落とされたりしたことはありますよ。それはべつに向こうが攻撃のつもりで落としたんじゃなくて、面白がって落とした。そういうことを彼らはやるんですよ。全部使い果たした石油のドラム缶を、B29の上からバーンと足で蹴っ飛ばして落とすんです。そしたらゴロンゴロンと空中を舞いながら落ちてくるわけです。見ててすごい怖いわけです、爆弾だと思って。
池上:じゃあ爆発はしないんですね。
横尾:しない。ドラム缶、オイルのないドラム缶だから。いたずらでそういうことはあった。戦争なんだけれども、彼らの中には、ポップもそうだけども、遊びの要素がものすごく強いんですよ。うちの兄貴が大阪で空襲に遭ったときに、グラマンという戦闘機に追っかけられて。一人でですよ。ワーッと走って逃げて、ダダダダッと機上掃射くるんです。打たないんです。距離をおいたところをバババッと。子どもでしょ。
池上:殺すつもりはないんですね。
横尾:殺すつもりじゃない。脅かすだけ。こっちに逃げる、そうするとまた反対の方へ回ってくる。そうしたらまたビックリして走って、ダダダダダッと。そういう風に彼らは戦争を遊んでるんですよ。その遊びは文化の中にも、戦争の中にも。その後いろいろ気がつくんだけどね。それもひっくるめて全部ポップ・アートですね。
池上:神戸で大空襲があったときなんかは、西脇におられて、特に被害に遭われたりはされなかったですか。
横尾:被害には遭わないけど、神戸や明石に爆弾が落ちると、何キロ離れてるのかな、家のガラスがガタガタッと震えるんですよ。山の向こうがバーッと真っ赤になるんですよ。それ結構こわいんですよ。山の向こうは阿鼻叫喚ですよ。だけどこっちは、普段だったら非常にロマンチックな風景かもわかんない。
池上:夜の闇に赤い炎が。
横尾:そのうちに向こうが爆弾を落として、編隊を組んだB29がものすごい数、ゴーッと上を通ってくるわけです。そうすると近くに練兵場があって、そこからサーチライトで照らして高射砲で攻撃するんです。B29がサーチライトの中にダーッと映し出されるんです。でも悠然として飛んでるんですよ。なぜかというと距離がありすぎるから。日本の高射砲は下でパンパンって。向こうは知ってるんですよ。
池上:話にならないわけですね。
横尾:だからサーチライトで捕らえようが何しようが、「はい、どうぞ」っていう感じですよ。そういうものがその後のいろんな作品の中の、ぼくのミステリアスな部分とか恐怖とか、そういったものが全部、ぼくの幼児体験というのかな、そこで決まってしまってる。そこからあとは知識と情報の影響だけで。
池上:そういう視覚的な体験も含めての経験が原点で。
横尾:原点というのかな、想像力の源泉は全部そこ。あとは情報だけ。ぼくはいつも自分の作品は古くさい作品だと、グラフィックの最中もそう思っていましたからね。こんなもん出てくるから、こういう古くさいもの。これは肯定してやってるんじゃなくて、否定的媒介として描いてるわけです。
池上:でもデザインとして見たときには、すごくポップで単純明快な中にそういう土着的な原体験が入ってくるという、組み合わせですよね。
横尾:それをね、寺山修司とかなんとかワケ分かんない文化人が面白がって評価したんですよ。だけど彼らの評価とぼくの評価にギャップがあるんですよ。そのギャップを修正してくれたのは三島さんなんですよ。三島さんは、いろんなとこに書いているから読んでいただいているかもわかんないけど、三島さんは、キミとぼくに共通点が3つあると言うんです。一つは、土着を嫌悪してること。キミは土着を描くことによって嫌悪してる、吐き出してる。オレは吐き出さない、土着は。書かないことで嫌悪していると。
池上:無理してるわけですね。
横尾:書かないことでチャックしてるわけ。書かないことでオレは土着を否定してる。そこは同じだねと言ったときに、ああ、なんだ、美術関係の人は全部ぼくの土着を肯定してるけども、いちばん的確に言ってくれたなと思って。
池上:なんでそれが出てくるかというところまで理解されたのは三島さんだけだった。
横尾:自分でやってて嫌なんですよ。いちばん最初、「変なポスターができたな」と思ったのが春日八郎のポスター《春日八郎艶歌を歌う》(1964年)なんですよ。(注:「横尾忠則の『昭和NIPPON』——反復・連鎖・転移」展図録、2013年、35頁。以下図録とする)。その次に変なポスターは、土方(巽)さんのガルメラ商会のポスター。(注:図録47頁)
池上:これですね、春日八郎のは(図録を開いて)。これ変なポスターですよね、確かに。
横尾:これは自分でも変なポスターができたなと思った。
池上:これが最初期の例かなと思うんですけど。1964年ですよね。
横尾:これがいちばん最初だと思います。
池上:千鳥がいて、波があって、でも星条旗みたいなデザインのジャケットを着ていて。
横尾:この波あるでしょ。この後ろに旭があるのが朝日麦酒。
池上:ですよね。この旭日の線がまだないというとこですよね。
横尾:そのかわりに、この線を変えてここにもってきた。なんか爆発的イメージで。
池上:これはすごく印象的なポスターだと思いました。
横尾:春日八郎がこのポスターをすごく嫌がってる、と労音(勤労者音楽協議会)から連絡が来たんですよ。
池上:そうですか。
横尾:伝統的な京都の町に貼るにはちょっと、ということで、申し訳ないけどもこれを限りに降りてくださいと言われた。
池上:ああ、そういうことですか。
横尾:それで降ろされちゃったんです。だけど降ろされたことで自信がついて、あ、そこまで嫌われるんだったらぼくの、チャンスとは言えないけども何かスタイルになるかなという。だからこの次に作ったのがその《ガルメラ商会》。
池上:降ろされたことが逆に自信になって。
横尾:その間にいくつかありますけどね。あるけれども、たぶん《ガルメラ商会》が次にできた変なポスター。それは土方さんとしゃべってる言葉の中からいろいろ影響を受けたんじゃないかと。このときも変なものができたと思いました。
池上:ですよねえ。
横尾:非常に麻薬的なものができたという感じが自分でしたんですね。だけどグラフィック・デザイン界の人たちは、余計なことやってくれた、みたいなことはあったんですよ。
池上:モダニズム的、合理的デザインの対極ですものね。
横尾:あのときの日本を代表する、勝見勝という評論家がいて。この人が日本のデザイン界を、ある意味で、デザインの精神を牛耳ってる人がいたんですよ。その人がぼくの作品を見て、「俺たちが全部排除して捨ててきたものを君が全部広い集める。なんてことをやってくれるんだ」って。
池上:それはある意味で的確に理解してたんですね。気に入らなかったんでしょうけれど。
横尾:ものすごい気に入らなくて。そのときに瀧口修造さんとその勝見勝ともう一人、原弘さんという、三人の公開審査があったんです。ぼくも出品している。ぼくが賞候補に挙がったんです。だけど「横尾が賞をとるんだったら、俺はこの場で降りる」って勝見が言ったんです。言ったために、さすがの瀧口修造さんも何も言えなかったんですよ。
池上:まあ、瀧口さんはデザイン界の人ではないですもんね。
横尾:そのとおりなんです。デザイン界の人じゃないから。自分は美術の方から来てる。
池上:いいと思っても、その世界の人に言われちゃうと。
横尾:そういう一つの事件があって。その事件は、ある意味でぼくに、こういうことをやることに自信をもたせてくれた。
池上:さっきの労音には気に入られなかったというのと同じで。
横尾:あれは生活がかかってましたから、イヤだったですね。たいした原稿じゃないけどね。だけどこれで急にいろんな友人がバーッとできたんですね。
池上:その同じ年に、有名なこちらのポスター(《Tadanori Yokoo》、1965年)を発表されて。これは「ペルソナ」展(銀座松屋、1965年11月12日~17日)に出された、自主制作ポスターということになるんでしょうか。
横尾:これはポスターというよりももっと別のものですね。ポスターだったら街に貼らなきゃいかんわけですから。
池上:会社なり何なり、宣伝する何かがふつうありますからね。
横尾:これは、ノーマン・メイラー(Norman Mailer)の『ぼく自身のための広告』(Advertisements for Myself, 1959年)というタイトルに触発されて作った。「ぼく自身のための広告って、ものすごいタイトルだな」と思った。それを何か絵にできないかなというので、これにしたんです。
池上:初めて旭日のモチーフがすごくはっきり出てきますね。
横尾:うん、いやなもの全部絵の中に入ってるわけです(笑)。時代がそういう時代だったし、そういう面白い人がいた。面白いのかどうかは分かんないけど、みんなが、方向は違うんだけど目指している一点は何か自由な表現みたいなね。たぶん「自由」だと思うんですよね。
池上:演劇でも美術でもデザインでも、いちばん最先端にいる人たちは同じようなことを考えていたという。こういう作品にしても「ピンクガールズ」にしても、反響がなかったとおっしゃっていましたけれども、そちらもそうですか。
横尾:全然ない。ただ三島さんとかそういう人たちは気に入ってくれて。欲しいという人もいてあげたりしましたけどね。
池上:ごく一部の感受性を共有してくれるような人たちだけという。
横尾:そうですね、非常に少なかったです。だけど三島さんを通じて、誰を通じたか分かんないけれども、アメリカに作品が。どういうルートで行ったか分かんないけれども、ポイント、ポイントにうまくはまるように。さっきの美術館の展覧会とか。アンディ・ウォーホルが作った雑誌に『Interview』という新聞があるんですよ。その新聞の初代編集長がジョン・ウィルコック(John Wilcock)というんです。そのジョン・ウィルコックというのが日本へ来たときに、まずタイム・ライフが窓口だった。そこへ行って日本の文化の状況を彼らは把握するんです。そこから、ぼくのとこへ行きなさいって来たときに、ぼくがこういうのを見せたんです。そのときに彼はこれをコレクションしたいと。それまでずいぶんたくさんあったでしょ。それを彼が持って帰って、自分の家の壁にバーッと貼ってたらアンディ・ウォーホルが来て、「これ誰だ」ということになって、それで彼がウォーホルに紹介してくれた。そういうすごい重要なポイントにいたことは確かなんです。それはなんでそうなったかは分からない。人との関係、三島さんがその間にいたり。三島由紀夫の伝記を書いたり訳したりしたジョン・ネイスン(John Nathan)というのがいるんです。この人がタイム・ライフにいたんです。そういった人たちから広がったんですよね。「ピンクガールズ」だってポンピドゥーのディレクターが南天子画廊の隅にあったぼくの作品を引っ張り出して、日本の前衛展に出品したのがきっかけで(「前衛芸術の日本 1910–1970」展、ポンピドゥー・センター、1986年)、日本の美術館が売れ残っていたものを全部コレクションしてくれたんです。
池上:それぞれに引きあうものがあるというか。
横尾:場所もあるけど、人というのはやっぱりすごい重要だなと。その人に出会ってなければ、今の自分じゃないし、別のところにいたかもわからないという。全部そうでしょ。子どもの頃から全部そうですよ。
池上:そうですね。どこかで決まってるのかな、というような。
横尾:ぼくは養子で横尾家に行ってるけれども、ぼくはもともと成瀬家で、兄弟4人いるんです。そこにいたら大阪で空襲に遭って死んじゃったかもわからない。いろんなことを考えると、この話と全然関係ないけど、ポイントってあるみたいね。その前を通ってるんだけども、そこでそれに興味をもったりそれに触れることをするかしないかだけの話で。
池上:気づかないで通り過ぎちゃうこともあるかもしれないですね。
横尾:もっとすごいチャンスがあったかもわからないけど、それも知らないで行ったかもわからないとか、いろいろありますよね。
池上:注文者がいないけれども作ってしまったというポスターで、高倉健さんのこういうのもあると思いますけれども、《切断された小指に捧げるバラード》(1966年)。私、これが大好きで、すごくかっこいいポスターだと思うんですけど。(注:図録88頁)
横尾:八九三(やくざ)書房なんてどこかに書いてあるけれども、こんな出版社名ないですからね。勝手に作って。健さんの了解も取らないで。
池上:いきなりお見せになったんですか。
横尾:いや、見せたかどうか忘れたけど。とにかくいきなり作ったわけ。そういう著作権とか肖像権とか、ぼくはまだそんなこと、そんなのに権利があると知らなかった。
池上:そんなにうるさくなかったですね、当時は。
横尾:そんな時代だと思います。
池上:これ、小さいんですけど、書かれている文章にすごく面白い文章がありまして。ちょっと読ませていただきますと。「渡世の修行まだ浅い身ではござんすがえせポップ男の心意気日本のグラフィックデザインにスジを通す大芸術家どうせおいらの行く先は文部大臣賞か芸術院会員」って。
横尾:ここに書いてるんですか(笑)。
池上:書いてありますよ。お忘れですか。ちょうどこの小っちゃいとこです。
横尾:それはまったく忘れてる。その後読んだことないもん。
池上:「えせポップ男」というフレーズがすごく面白いと思ったんですけど。
横尾:ああ、やっぱりポップがどっかにあったんですね。
池上:その当時ご自分のことを、ポップの作家だという風に思っていらしたんですか。
横尾:思ってない。ポップ・アートは海の向こう側の。
池上:やっぱりそうですか。
横尾:アンディ・ウォーホルとかあの人たちのもの。
池上:ポップというのはやっぱりアメリカのもので、ここで「えせポップ」と書いているのは、ちょっとアイロニカルに。
横尾:まあアイロニカルで、向こうの真似っこしてるみたいなことでしょうね。
池上:今回のウォーカー展もそうですけども、べつにポップというのはアメリカの専売特許ではなくて、いろんなところでいろんな人がそれぞれのポップをやってたんだよ、という切り口なんですけど、今あらためてそういう風に言われるとどうですか。
横尾:どんな言われ方をしても、それはやっぱり歴史の決めるところもあるし。だから、今このへんの作品とか1966年の「ピンクガールズ」のシリーズというのは、ヨーロッパでもそれを評価してくれたりするんだけど、「ちょっと待ってよ、描いたのは50年も前じゃないの」みたいなことは、言いたくなるわけね。
池上:今さら、みたいな。
横尾:「そしたらその時代になんで評価してくれなかったの」って言いたくなるわけ。アメリカに声を大にして言わなくても、日本でも、「なんでじゃあそれを新聞でも取りあげてくれなかったの?」と言いたくなるわけ。そういった気持ちが複雑にぼくの中で交差してて、スポットライトが当たるオープニングとかに行きたくなくなっちゃうことと、どこかでつながってるんじゃないかな。心理学者か誰かに聞かないと、ぼくが自分でそんなこと言っちゃうと間違っちゃうかもわからないけど。そういう「何なんだろうな」みたいな。だけどポツポツあったんですよ。例えばニューヨークのギャラリーで、アレックス・カッツがいるギャラリー、何と言うギャラリーだったかな。ロンドンにもあるギャラリーで。アメリカの何本かの指に入るギャラリーなんですよ。
池上:ペース・ギャラリーですか。
横尾:ペースじゃなかった。ああ、マルボロ・ギャラリーだ。そこでポップ・アート展をやるというので、ぼくの作品を向こうが探し当てて、コレクターから借りたりいろんなことしながら。《責め場》(1969年)の後のアクリルの作品を5、6枚並べて。
池上:《葬列》ですね。
横尾:そうそう、そんな作品をポップ・アート展で出品してくれたりするんです。このあいだもロンドンでやっぱりそんな展覧会があったんです(注: “Postmodernism: Style and Subversion, 1970–1990,” ヴィクトリア&アルバート博物館、2011年9月24日~2012年1月15日)。だからポツポツというかたちではあるんだけども。ウォーカー展は何というタイトルですか。
池上:「インターナショナル・ポップ」ですね。
横尾:大々的に、そういうふうな名前で中に組み入れられるというのは、もしかしたら初めてじゃないかな。もう一つバンクーバーでもあるんですよ。向こうがずれてるという言い方したら失礼だしね、何て言うのかな、やっぱりそれは鎖国してたんだね、日本の文化というか美術が。
池上:そういう部分があったんでしょうね、きっと。
横尾:向こうからわざわざ日本の隠れたいろんなものを、宝物を探しに来るかというと、そこまでしないんですよ。だから日本が、こんなのあります、あんなのありますと(言えばよかった)。具体もそうですよ、もっと前にやっとけば具体だって、抽象表現主義とアンフォルメルと具体の3つが、国際的な標準の流れの中で評価されたと思うんですよ。そういったことを日本はしなかったんですよ。
池上:具体の人たちは頑張ってたんですけども、一グループとしての活動なので、やっぱり限界があったり。
横尾:頑張ってても息切れするんですよ。
池上:そうですよね。分かります。
横尾:毎日ロープでぶら下げた足で描いてるわけにいかん、みたいになってくるわけですよ。評価されれば「もう足はあかんで、もっと全身でやらんといかん」みたいに変化していくじゃないですか。その変化をしないんですよ、なかなか。元永さんでも、途中でアメリカへ1967年かなんかに彼は行くんですよ。ぼくはその年に向こうの彼のアトリエに行って。そのときにミニマルっぽいポップに変わってたんですよ。
池上:アクリルのスプレーとか使うようになって。
横尾:そうそう。たった1回でガラッと変化するわけでしょ。彼アメリカへ行ってなきゃ、まだ絵の具ぶちまけてた。白髪(一雄)さんもそうだし。それはやっぱり変化の過程でどんどんその作家が評価され発展していく。それがなかったんですね。
池上:それを認めていく周りの批評家なり美術界なりというものが。
横尾:やっぱり向こうの方に全部関心が行っていて。自分が体を張って評価する自信もなく、なんて思われるかという自己防御が強いんです。こういう人は評論家になっちゃいけません。
池上:受け入れるばかりだったんでしょうか。
横尾:そうなんですよ。向こうがやったことで、よく似たことをやっていればまた評価が上がるんだけども、自信がなかったのね、評論家の人たちが。
池上:そうかもしれないですね。
横尾:アーティストたちはそんなこと関係なくやるわけだけども、評論家の人たちはものごとをはっきり主張しちゃうと、死活問題になると思っていたんです。
池上:当時の批評を読んでいても、ポップって確かにすごい話題にはなってるんですけど、批評家の方たちも、ポップというとアメリカという前提で話をしてるんですよね。横尾さんとか篠原(有司男)さんとかの名前もちょこちょこ出るんですけど、アメリカのポップとは切り離して考えてる感じで、今からみるとちょっと変だなと思います。
横尾:イギリスのリチャード・ハミルトン(Richard Hamilton)も、自分の作品がポップのいちばん最初のやつだと言われて、なんとも彼も煮え切らない、不思議な。
池上:そうですね。(エドゥアルド・)パオロッツィ(Eduardo Paolozzi)とかもそうですね。
横尾:そうです。みんなイギリスの人たち煮え切らないんですよね。
池上:アメリカのポップが出てきたから、「いや、自分たちももっと前からやってた」みたいな感じで、わりと後付けで来ますよね。
横尾:そうなんですよ。あれもイギリスの評論家たちがもっと自信もってアメリカに対抗すればよかったんですね。イギリスは、国民作家みたいな人って何人かいるんですよ。ハミルトンだって国民作家の一人だったかも分からない。だけどたまたまポップという変な現象のためにアメリカでも知られるようになったけれども。そうしたらアメリカでハミルトンの大きな展覧会を、MoMAでやるとかすればいいけど、アメリカもそれはしない。
池上:1960年代は、特にアメリカも文化的なプライドというか、ありますね。
横尾:「イギリスの影響なんて受けてない」っていうのがある。なんでまたイギリスの作家を評価しなきゃいけないんだ、というのがあるわけでしょ。
池上:美術界も、横尾さんはデザインとアートと両方込みの文脈で、当初からすごく評価されますけど、アートの人がアートとして評価されるのは結構まだまだ難しい時代だったと思います。
横尾:アートと言った場合、ぼくの前身はグラフィック・デザイナーじゃないかという、必ずそこへ戻るんですよ。
池上:アメリカでも、ですか?
横尾:アメリカでも。
池上:日本でも?
横尾:最近はだいぶ変わってきた。これも向こうの判断を基準に置いている。変わってきたけれども、根底にはそれがある。たまたま現在のぼくのギャラリストはそういう考え方じゃないのでアメリカ相手に戦ってくれています。出品作全部買い上げて、全部売り切ってくれます。
池上:アート界の中に、アートとデザインは別で。
横尾:アメリカはもっと厳しいですよ。
池上:厳しいですよね。アートを上に見るような考え方がありますよね。
横尾:上に見る。ウォーホルが、自分が前にイラストレーターでグラフィック・デザイナーということをひた隠しに隠したでしょ。
池上:完全に切り離しましたもんね。
横尾:まったく切り離して。それで自分が評価されてから「こんなもんありましてん」という感じで見せるわけです。そしたら「えっ、このドローイングはすごいじゃない」ってまた評価が上がって、彼のペインティングとドローイングも同じレベルに評価が上がるんだけれども、変なんですよね。だけどMoMAもポンピドゥーも、彼の生存中は個展はしなかった。
池上:それはアーティストとしての名声があるから、デザイナー時代のものも評価されているということですね。
横尾:そうでしょうね。
池上:そういう独特の価値観の序列みたいなものが、やっぱり横尾さんにはなじめなかったということもありますか。
横尾:ぼくは、絵を始めたのは1980年代でしょ。80年代の最初の10年間ぐらいは、自分でもたもたしてるのがよく分かってたんですね。分かってたんだけれども、ぼくを評価しようとするときに、元デザイナーという看板を外してくれないんですよ。ぼくが外すのに一生懸命になってても、外してくれないんですね。何かのときにそれを出してくるわけです。最近になってやっとそれが少しはなくなったというのは、アートにデザイン的な認識とか意識が導入されてきたじゃないですか。例えばアメリカも、非常にデザイン的な作品を作る作家も増えてきましたよね。そういったことで少しは変わってきたのかなという。
あの人なんかは…… また名前が出てこない。写真を使ってメッセージを出す。
池上:バーバラ・クルーガー(Barbara Kruger)ですか。
横尾:バーバラ・クルーガー。彼女はもともと雑誌のレイアウトをやっていた。だからグラフィック・デザイナーなんですよね。デザイナーの時代にやってたことを。
池上:そのままやってるんですよね。
横尾:サイズが違うだけでさ。そういう人が出てきたために、ぼくのグラフィック系のものも同時に評価が出てきた。面白いといえば面白いけれども、「もうちょっと体力のある時期に言ってくれよ」ということ。だってあと2年で80歳でさ、それぐらいになるともうその先って体力ないし、80歳ぐらいで死んじゃう人いっぱいいるんだから。「ぼくに残された寿命がないじゃないか。そのなかで何をしろって言うの」みたいな。これ自分に言いかけるんですよ。
池上:横尾さんはべつにやることは変わってないのに、周りが勝手に変わってきたという。
横尾:だけどその変わってきたことに対して、これからの仕事でやっぱり応えたいというのがあるじゃない。応えるためにはもう少し時間がほしいと思いますね。
池上:そうですね。話題が変わってしまうんですが、ウォーカーの展覧会で横尾さんが「草月アニメーション・フェスティヴァル」に出されたアニメ作品も上映させていただく予定なんですけれども、ちょっとそのお話をお聞きしてもいいでしょうか。
横尾:アニメを作ったのは、ぼくがデザインセンターを辞めてフリーになった頃に。
池上:ちょうど1964年あたりですよね。
横尾:『KISS KISS KISS』(1964年)というのと、『Kachi Kachi Yama』(堅々嶽夫婦庭訓、1965年)というのと。
池上:『アンソロジーNo.1』(1964年)というのも? あれの映像はなくなってしまったんでしたか。
横尾:『アンソロジー』というのはぼくのアーカイヴみたいなものでさ。あちこちにあるポスター全部の中からイメージで取って、それとしりとり式で発展させていったいちばん最初の作品で、アニメが何だかということが分からない頃の、紙芝居みたいなもんですよ。
池上:では本格的にアニメとして作ったのは『KISS KISS KISS』が。
横尾:『KISS KISS KISS』は最後の作品で。
池上:『KISS KISS KISS』が1964年で、『Kachi Kachi Yama』が1965年という風に。
横尾:そう? じゃあ『KISS KISS KISS』が先ですね。あれも、アニメといっても絵を何枚描いたかな。100枚ぐらい描いて、上にカメラがありますね、そこで破くんですよ、ビリビリと。破きました。それでまたビリビリと破る。それだけの映画ですけどね。
池上:あれはどういう風に思いつかれたんですか。
横尾:あれもポップ・アートが下地にあったと思うんですよ。アメリカのカートゥーン(cartoon)。
池上:コミックですね。
横尾:あの頃なぜか知らないけどアメリカのコミックを結構買ってたんですね、読めなかったけども。それでキスシーンばっかり集めて、それを摸写して。
池上:アメリカン・コミックそのものを使うんじゃなくて、摸写したものを使われるというのが面白いと思ったんですけど。なぜそのものじゃなくて摸写をされたんですかね。
横尾:そのものを使うというのは、コラージュの精神に近いんですね。ぼく、コラージュはその後からもっと積極的にやるんだけども、やっぱり絵を描きたかった。
池上:自分で描いた絵を動かすというような。
横尾:絵を描くという、描くことの快感とか快楽ってあるじゃないですか。それをしたいのと、もう一つは、自分がせっかく描いたやつをそのまま破いて、全部ビリビリに。
池上:ビリビリになっていくわけですね。
横尾:その行為自体は、なかなか自分の作品でしかできないわけです。それを破いて、捨てて、二度と使えなくなるという、それの方にむしろ関心があったんじゃないかな。そういう意味では非常にコンセプチュアルですね。秋山邦晴に音楽をつけてもらって。そのときにディーン・マーチン(Dean Martin)の「キスキスキス」といったか、「キスキス」といったか忘れたけども、そういう歌があるんです(「Kiss」、1953年)。そのことをぼくは秋山さんに言ったの。和田誠君がその歌を知ってて。そしたら秋山さんが、じゃあそれを逆さから回転させようと、レコードを。そうしたら、逆さから聴いたら、チュチュチュチュってキスの音みたいになったんですよ。それもうまかったなと思いますね。
池上:ビジュアルの効果と音の効果がすごくよく合ってるなと思いました。
横尾:あれをいちばん最初に評価してくれたのが、ハンス・リヒター(Hans Richter)なんですよ。ハンス・リヒターというのは、ダダの作家であると同時に評論家ですよね。ハンス・リヒターって結構ダダの中心的人物なんですよ。そのハンス・リヒターが日本に来たときに、やっぱり『LIFE』かなんか経由で来たんですよ。それで「あなたがこんなのを作ったと話を聞いたけども」って、タイム・ライフかどこかへ持っていってそこで見せたんですよ。そしたらリヒターがすごい感動してくれて、そのことを書いてくれたんですよ。ハンス・リヒターの『Dada: Art and Anti-Art』(Thames and Hudson、1965年)という本に。その本をいくら捜しても出てこないんだけど。短い量だけれども、どこかに書いてくれてます。彼が、ニューヨーク大学で自分が教えてるので、ニューヨーク大学と言ったかMoMAと言ったか、そこらへんちょっと記憶がないんだけど、そこでコレクションしたいので送ってくれるかと言われたときに、それをダビングする、コピーする予算がなかった。ぼくの給料というか収入が少なかったので、できなかったんです。だからリヒターに送れなかった。お金がかかりすぎるというので。どうしてもできないということを報告して。
池上:アニメを作ること自体もかなり当時はお金がかかったと思うんですけど、これはどこかから「作ってみないか」という風に言われたんですか。
横尾:羽仁進さんという映画監督がいて、草月会館に井川(宏三)さんという人がいて、その人がプロデュースして、羽仁さんのところからお金が出てた、たしか。
池上:最初から草月アニメーション・フェスティヴァルに出すというのが決まっていて。
横尾:そうです。ただ撮影機はそこになかったので、久里洋二さんのところで。彼が提供してくれて。今有名になっている、古川タクというアニメーター、彼がぼくの助手をやってくれて。
池上:それまでアニメというのはもっぱら見る方でいらしたんですか。
横尾:あまり見なかった。あの頃のアニメたってディズニーぐらいしかないんじゃない。
池上:日本でしたら1963年に『鉄腕アトム』が始まったぐらいで、まだそんなに。
横尾:映画では『鉄腕アトム』とか『鉄人28号』とか、ああいうのをテレビでやってた。あとは時代の何とかいう、ああいうのをテレビでやって。白黒だったですね。あの時代ですよね。
池上:特に熱狂的なアニメファンというわけではなかった。
横尾:全然。
池上:こういう機会が来て、面白そうだからやってみられた。
横尾:ぼくと和田君と宇野亜喜良の3人が頼まれた。どうやって頼んだのかなあ。草月ですね。誰もアニメやったことない、3人とも。でもやってみようというのでやった。それきりじゃないかな。あとぼくはグンゼのCMを何本か作りましたけどね、それから撮ってない。
池上:そのあとは、1965年、次の年に『Kachi Kachi Yama』を作られて。それ以降は作られてないですよね。
横尾:あれが最後だと思う。
池上:じゃあ特に、ひとつの表現としてもうちょっと追求してみようという感じにはならなかった。
横尾:ならなかったね。依頼されたものは何でも応えたんですよ。100%断るということなかったです。断ることがおそろしくて。生活できないから。来るものは拒まず。バーのマッチだろうが、バーの名刺だろうが、お金になるものは全部やりましたね。ただでは絶対やらない。100円でも1000円でもいいからというんで(笑)。そんな時代だったんですよ。みんな食べるか、食べられないみたいな。
池上:ただ来たからやったにしては、『KISS KISS KISS』も『Kachi Kachi Yama』もものすごく面白い、実験アニメとして今も名作と言われているわけですけれども。
横尾:クライアントがないからできたんじゃないかな。でも『KISS KISS KISS』なんかも今度テート・モダンが出品要請をしているみたいだけど、日本の美術界は美術のカテゴリーに組み込んで論じるということはしないんですよね。
池上:『KISS KISS KISS』はウォーカーの展示にも出させていただくので、カタログのエッセイで論じたいと思っています。
横尾:今から思うとね、(技術的には)あんなのは紙芝居以下なんですけどね。
池上:当時の批評でも「グラフィック・アニメ」と言われてましたね。面白いんだけど、描いたものを撮影しているだけなのでほんとのアニメとはちょっと違う、というような批評が出ていたような気がします。
横尾:そんなんできるはずないもんね。
池上:それをずっとやってたわけじゃないですもんね。
横尾:それはセル画かなんかでやればもっとすごいものができるのに決まってますけどね。そんなバカなこと書くの、意味ないよね。
池上:草月のアニメーション・フェスティヴァルというのは、観客としてもその場にいていろんな作品を見られたわけですか。
横尾:真鍋博さんとか久里洋二さん、長新太もやってたかな、その三人ぐらいで。外国から来るアニメーション、それはよく見ました。みんなビックリするぐらいすごいものを外国のやつは作ってるわけです。チェコなんか国家戦略でどんどん作らせてたからね、だから日本と全然違う。
池上:特にそのときご覧になったアニメでよく覚えていらっしゃるものとかありますか。
横尾:そう言われると分かんないなあ。手塚さんは意外とアヴァンギャルドなのを作ってたな。ものすごくアヴァンギャルド。
池上:手塚治虫さんですか。
横尾:そう。鉄腕アトムなんか出てこないですよ。画面がザラザラでね。
池上:草月のアニメーション・フェスティヴァルにも出しておられたんですか。
横尾:いやあ、どこで見たか分かんないけどね。あの時代から何年かたってからです。びっくりするぐらいアヴァンギャルドでダダ的な。
池上:見たいですね。(注:手塚治虫は草月アニメーション・フェスティヴァルで1964年に《めもりい》を、1965年には《しずく》を上映。その後実験アニメとしては1966年に《展覧会の絵》を、1968年に《創世記》を制作している。)
横尾:大げさだけどそんな感じを受けましたね。手塚さん、あれがいちばん良かったんじゃないかと思うぐらい。あとのはみんなコマーシャルだしね、すごい動きもスムーズで。やっぱり手で、ハンドメイドで作ったやつはすごい。
池上:久里洋二さんなんかは?
横尾:久里さんはマンガみたいなやつでね。時間とか空間を無視してるので、「これは新しいアニメだな」と思ったんですよね。
池上:久里さんたちから、『KISS KISS KISS』とか『Kachi Kachi Yama』については何かコメントはありましたか。
横尾:あまり意見聞いたことない。ああいうものは、久里さんたちからすれば、アニメじゃないんじゃないかな。もう少しアニメというのは、自然の動きに近づける。ぼくなんかは、いきなりこちらから向こうへ行く、このプロセスを無視して、ここからポーンといきなりこっちへ行っちゃうんだけども、久里さんだったらこの間に2つ3つ入れちゃうから。
池上:動きをスムースにするとか、ありますもんね。
横尾:ぼくなんかそれができないから、ポンポーンだから、そういうことは幼稚に見えたかもわかんないね。
池上:いろんなメディアでいろんなことをされていたわけですけれども、なかなかちゃんとした評論なり評価というのは。
横尾:そんなの全然期待してないもん、こっちも。ぼくの本業だと思ってないし。じゃあ本業って何だと言われたら、それも困るんですけれども。それは評価されても評価されなくても、そんなにぼくに影響するものでもなかった。褒められて有頂天にもならないし、けなされてひがみもしないという感じですわね。
池上:ほかにも草月アートセンターでいろんなイベントがあって、その頃はよく行かれてましたか。
横尾:わりかし行ってたね。例えばマース・カニングハムのダンスを見に行ったり、ジョン・ケージのコンサート、オノ・ヨーコさんのやつとか、ナム・ジュン・パイクとか。その頃そういう現代美術が好きだったんですよ。だけど自分がやりたいとは思ってない。現代美術から影響を受けたものをグラフィックの中に反映していきたいという、そういうイメージソースとしてね。
池上:現代美術が好きというのも、ほかのデザイナーの方とはちょっと違うところだったんですか。
横尾:ああ、現代美術が好きな人誰もいなかった、はっきり言って。
池上:なぜなんでしょうね。
横尾:もともと画家になろうと思ってたことがあったことと関係してるのかなあ。だけどあの頃は(ベルナール・)ビュッフェ(Bernard Buffet)が流行ってる時代だからね。ビュッフェみたいな、あんな実存主義的な暗い絵が流行ってる時代だったので。
池上:ほかのデザイナーの方たちは、現代美術に興味をもたないというのはどういうことだったんでしょうか。お互いだったんですかね、それは。前衛美術の人たちも、そんなにデザインには積極的に興味はなかったんでしょうか。
横尾:アートの人がデザインに? それは聞いたことないから分からないけど、あんまり興味はなかったんじゃないかな。
池上:で、デザインの人もアートにはあんまりですか。
横尾:うん。そういうのはダサイという感じが。
池上:デザインからアートを見ると?
横尾:このあいだ安西水丸さんが亡くなったでしょ。あの人の生きてるときのコメント、短い文章を読むと、「美術だとか芸術だとか言う人間は大嫌いだった」って。ぼくなんかも元同業者だからさ、ぼくのことも想定した発言だなというのが分かるんです。
池上:そうなんですか(笑)。
横尾:分かりますよ。だけど、ぼくたちの時代はほんとイラストとかグラフィックの時代で、アートの時代という感じはあんまりしなかったんですよ。そのあとファッションの時代になるわけです。あるいはロックの時代になるわけですね。アートは置いてけぼりだったんです。それがアートの時代だと言われるようになったのは、ポップと、それからポーンと飛んで80年代の新表現主義が出てきた、あの頃でしょうね。だから安西水丸が言うのはよく分かるんですよ。
池上:デザインの方から見ると、前衛美術みたいなものはよく分からないし、ちょっと時代とも合わないような感じに見えた?
横尾:いや、時代がアートを評価し始めたから、それに対する反発があったと思うんです。デザインとかイラストだってもっとちゃんと評価してちょうだいよ、みたいな気持ちはどこかにあったと思う。
池上:一方で前衛系のアーティストの人たちはものすごい貧乏じゃないですか、1960年代。デザインにいる方たちのほうがすごくしっかり生活はされているというか。
横尾:そうね。みんな忘れちゃってるんだけど、ギュウチャン(篠原有司男)と赤瀬川(原平)と3人で、新橋の100円カレーだか、30円カレーか知らないけど、カレーを食べに行ったの。ギューチャンが「安いカレーあるよ」と言うから。「こんな連中と付き合ってたら、もうほんとイヤだな」という。その時かそのちょっと前ぐらいか忘れたけども、赤瀬川君が「横尾さんハイレッド・センターに入らない?」って言ったときに、「こんなまずいものを食ったり、オシャレもできないしさ、こんな連中と一緒に、ヤだ」って(笑)。はっきりそういうように言ったかもしれない。まあ親しかったからね。
池上:そこまで貧乏したくないと(笑)。
横尾:正直それはあったんですよ。グラフィック・デザイナーは彼らにくらべるとブルジョワジーだからね。その店へ入った。そしたらギュウチャンが、「ちょっとおトイレ行ってくる」って中へ入っていって。真っ青な顔して飛んできて、「大変だよ、早く店出よ」って。「なんで?」「われわれカレー食ったけどさ、このカレーの肉何だと思う?」「何?」「ネコがぶら下がってるんだよ」「エーッ!」っていうのでさ。
池上:おそろしいですね。
横尾:飛び出して、新橋の駅行って水道でうがいを。
池上:もう食べちゃったんですよね。
横尾:もうあの二人とも忘れちゃってるんだよね。そのぐらいね、毎日こんな連中と付き合って、ネオダダだ、ハイレッド・センターなんてやってたらえらいこっちゃ、みたいな(笑)。だけどそれは野次馬的に、風景として見てる分には非常に解放されたし。
池上:インスピレーションとしてはすごくよかった。
横尾:彼らとのフィーリングもどこかで合うんですよ。デザイナーはデザイナーで、オシャレの話ばっかりしたり、どこそこの何とかがうまいよとか。みんなお金持ってるからさ。
池上:オシャレばっかりとか。
横尾:そうそう、オシャレのことばっかり。宇野さんとかと映画を観に行くとさ、「あのロベール・オッセンが着ているイタリアン・コンチネンタルのスーツ、今度作ろうよ」とかね。それで映画雑誌を調べて、お金はそんなにないんだけれども、出世払いで銀座の一流のテーラーで作ってもらったり。朝から晩までそんなことばっかり考えてるわけですよね。
池上:カッコ良さばかりを追求するデザインの価値観にも、違和感があったんですか。
横尾:いや、カッコ良くないとダメだ、というのが一方であるんです。
池上:だけどそれだけだと、という。
横尾:うん。ぼくが付き合ってるのは、もうほんとにデザイナーでも宇野さんと和田君の三人ぐらいだったですけどね。みんな違う方向へ行っちゃったけど。現代美術という名前もなかったんじゃないかな。あったのかな。
池上:あまりまだ使われてなかったと思います。グラフィック・デザインというのも、単語としてはどれだけ使われてたんでしょうね。そんなにまだ一般的じゃなかったのかなという気もしますけど。
横尾:東京画廊というのが銀座にあって、東京画廊はいつもお昼になるとよく見に行ってた。それは宇野さんたちもよく行ってたと思う。東京画廊はエスタブリッシュされた作家のものが多かったから。
池上:どういう展示をご覧になりましたか。
横尾:記憶してるのはね…… 外国のものはあんまり記憶してないね。あの人、日本で初めて有名になった人だけれども。
池上:(フリーデンスライヒ・)フンデルトヴァッサー(Friedensreich Regentag Dunkelbunt Hundertwasser)ですか。
横尾:フンデルトヴァッサーもやってました。オノ・ヨーコさんのマネージャーのお兄さん、誰だっけ。キャンヴァスに空ばっかり描いて、それを梱包したり。それから山口長男さんとか前田常作さん。前田常作さんはもっとアンフォルメルなものを描いてた、あんな仏画じゃないものを描いてる頃で。それから元永さん。白髪さんもいたんじゃないかな。
池上:そうですね、東京画廊でやっていらしたと思います。
横尾:東京画廊の作家はずいぶん、ぼく、替わるたびに見に行ってたなあ。
池上:東京画廊とは違うんですけれども、同じ銀座で、銀座松屋で「空間から環境へ」(銀座松屋、1966年11月11日~16日)という展覧会があって、そこにも参加されているんですけも、それはどういう経緯で。
横尾:そのときは一柳慧さんとかね、誰がいたのかな。磯崎(新)さんとかね。
池上:会場設計が磯崎さんで、横尾さんのポスターをアルミサッシのケースに入れて、手で動かせるようにしてあったというのを読んだことがあるんですけども。
横尾:誰かがやったんでしょうね。山口勝弘さんがやったのかな。
池上:作品を提供されただけで、あまりオーガナイズには関わっていらっしゃらなかった。
横尾:ぼくはショーケースみたいな、長いスペースをもらって、さっきの高倉健とか腰巻きお仙とか何点か並んでたのは記憶してる。三木富雄が、耳じゃなくて、プラスチックで何か変なマルチというのか、そういうのを出してて。ぼくのやつはショーケースみたいなものに入れて。それもたぶん磯崎さんがインスタレーションをやったんだと思うね。
池上:たしかそうだと思います。磯崎さんともわりとおつきあいはありましたか。
横尾:あの頃は、磯崎さんとか、音楽評論家の秋山邦晴とか、一柳慧とか、そういった人たちと交流は結構あったけど、一緒に何かやるというのはあんまりなかった。「空間から環境へ」にデザイナーで参加してた人ってほかにいなかったんじゃないかな。いたのかなあ。
池上:篠原さんと仲が良かったデザイナーさんでいうと田名網敬一さんがいらっしゃるんですが、田名網さんとはあまり交流はなかったですか。
横尾:全然なかったね。今でも会ったことないんじゃないかな。
池上:田名網さんも実験アニメを作られていたり、アートとデザインの垣根を行ったり来たりするようなことをされておられて、横尾さんと共通点があると思うんですが。作風は違いますけど。
横尾:そうねえ、ちょっとぼくの興味の対象の外にいたような。彼の友だちがいたでしょ、ギュウチャンとか。そういった人たちとか、別のところで赤瀬川君とか中西夏之とか高松次郎とかは会ってたような気がする。
池上:共通のお知り合いはいらっしゃるんですけど。
横尾:彼と会うということはなかったですね。彼は日宣美(日本宣伝美術協会)の会員だから、デザイナーのそういう場所で、いたかかもわかんないけども、あんまり話をした記憶がない。
池上:ちょっと活動の場が違ったんですかね。
横尾:うーん、違ったんでしょうねえ。彼はあんまり広告とかやってなかったんじゃないかな。
池上:雑誌の編集デザインとか、そっちのお仕事が多かったようですけどね。
横尾:田名網さんはグラフィック・デザイナーとの交流もあまりなかったんじゃないかな。
池上:そうかもしれないですね。わりと早くに独立されて、お一人でどんどんやっていらしたということもあるのかもしれないですけど。
横尾:ぼくなんかグループ展とかいろいろやったでしょ。そういったところには彼らがいればグループで話をしたりするけれども、そういったところにもいなかったんですよ。だから個人プレー的に展覧会をやったりはしてたかもしれないけど、ぼくは見に行ってない。現代美術のグループの中にもいなかったから、交流がなかったんじゃないかな。
池上:面白いですね。結構共通点があるにもかかわらず、お二人はあまり接点がなかったというのが。
横尾:そうですね。ほかの人は、例えばタイガー立石とかああいった人たちとは1、2回か、グループ展をしたり。ギュウチャンとぼくとタイガー立石と中村宏なんかは展覧会やったりするんですよ。
池上:観光芸術の展覧会ですね(注:「美術の中の4つの“観光”」展、池袋西武、1966年4月15日~27日)。
横尾:お若いのによく知ってらっしゃるね。さっきからしょっちゅうびっくりしてるのは、お若いのにさ、なんか同世代として話をしてるような(笑)。当然知ってらっしゃると思ってぼくもしゃべってるし。それに対して全部会話をされるから勘違いしちゃうのよね。
池上:すこし勉強してますので(笑)。
横尾:こちらの方がむしろ忘れたりしてることが多いんじゃないかな(笑)。
池上:中村宏さんとかタイガーさんともおつきあいは。
横尾:いや、そんなにないんですよ。展覧会やると、オープニングとかなんかで会う程度で、あんまりなかったです。中村宏さんも、この前どこかの展覧会で、一緒だったか、ぼくがたまたま見に行ったときに会ったりはしてるんですよね。だけど会うと妙な懐かしさはあるみたい、同時代にいながら活動してたというような。
池上:1967年にニューヨークへ行かれるんですけども、2~3ヶ月いらして帰ってこられて。60年代の末になるとどんどん政治的に激動の時期になっていきますよね。
横尾:60年代後半ね。
池上:日本でもそうですし、アメリカもベトナム戦争で大変ですし。というので、これもこのあいだの展覧会に出ていた『週刊アンポ』の表紙なんですけれども。(「昭和NIPPON」展図録、67頁)
横尾:これ70年って書いてますね。70号かな?
池上:1970年という意味だと思いますが、制作年は1969年なので、この70は何でしょうね。
横尾:70号も出してないし。第二号だからね。
池上:安保が更新されるのが70年だからでしょうか。
横尾:70年安保ということで、そこにシンボルマークとして70と書いてあるんじゃないかな。
池上:ふだんはあんまり、直接政治的なこととかは作品に入ってこないと思うんですけど、ここでは週刊誌の趣旨が反安保ということで、佐藤栄作の似顔絵を描かれていて。このあたりのこともお聞きしたいと思っていたんですが。
横尾:この頃ね、『朝日ジャーナル』にずっと連載して。何ていうんだろう、毎回時評を絵にしてたんですよ。政治的なものを。
池上:時評もご自分で書かれて、絵も?
横尾:文章でなく、絵でそれを描くんです。例えば佐藤栄作を描いたら、彼の名前の中にUSAが入ってたということを発見して、こういうものを描いたり。そういうことをずっとやってた。あの頃は『朝日ジャーナル』で結構政治的な発言はしてると思います。ただぼくにとっては、あまりそういう意識が強い方ではないんですよ。強い方じゃないけれども、なんか知らないけれども、時代の要請で、そういうテーマを。
池上:こっちはニクソン。(注:図録66頁)
横尾:これニクソンか。二つの顔でしょうね、これきっとね。そういう人格だったですからね。
池上:ちょっと二重性がある。
横尾:二重人格的な。
池上:当時の政治意識といいますか、やっぱりいろんなことを意識したりされましたか、この時代というのは。
横尾:ぼく1960年に東京行ったでしょ。60年安保の年にデザインセンターに入って。入って1週間目に安保闘争、デモに国会議事堂へ行くわけです。それが最初の政治参加。
池上:じゃあ上京してすぐに行かれてるんですね。
横尾:何のことか分かんないで行くんですよ。だって考えてみたらおかしい。全部オシャレして、ピンクとか黄色とかおかしなファッションした人ばっかりですよ。時代の先端なんですよ、特にデザインセンターの若手は。そこから流行が生まれるぐらいみんなオシャレに一生懸命だったんですよ。まあIVY(アイビー)の時代だったですけどね。だけどもともと8社の企業と契約した日本デザインセンターですよ。大企業ばっかりですよ。大企業というのは体制派じゃないですか。体制ベッタリですよ。「そこの仕事をしながらなんで反安保なの?」っていう矛盾があるわけですよ。あるんだけれども、亀倉雄策はじめ田中一光さんとかそういうレベルの人は、デザインそのものを社会的に認識させて、社会的地位、社会的責任、そういったものをもつためにはデザイナーもやっぱり政治的でなきゃいけない、みたいな妙な論理ですよ。どう考えたって矛盾してるわけですよ。その論理を考えて、プラカード作って議事堂に行くこと自体が、ぼくはおかしいなと思いましたね。「安保反対!」と書けばいいのに、プラカードが全部鳩の絵なんですよ。亀倉さんが鳩の絵をかたどって。
池上:それは「平和」を象徴している?
横尾:平和の象徴で。そりゃ平和はどの時代でも、安倍(晋三)さんでも「平和主義」とかハンパなこと言ってるわけだけども。
池上:ですよね。「積極的平和主義」とか言って。
横尾:そこにピースの文字でも入れば別だけど、鳩だけだから、平和かどうかさえ分からない人がいっぱいいるわけですよ。そのプラカードを持って行くと、「どっかの喫茶店、オープンしたんですか」って。全員でサンドイッチマンだと思われてるわけです。
池上:おかしいですね(笑)。
横尾:おかしい。
池上:皆さんオシャレだからよけいにそういう風に見えたのかも。
横尾:ほんとにあの時代、髪の毛なんか染めてる人いなかったけど、一人ぐらいいたんじゃないかな。そういう連中ばっかりで国会へ行くでしょ。そうすると学生から、「君たちは右か左か、どっちなんだ」って言われるんですよ。そうしたら何と答えていいか分かんないから、「ああ、君たちと一緒だよ」って。そうすると右翼が来て、「キサマたち、何だその格好は」って。「いや、ぼくたちはあなたたちと一緒の考え方ですよ」ってまた言うわけ。「じゃあケガすんなよ」なんて言われて。
池上:完全にノンポリになってますね(笑)。
横尾:どっち行っていいか分かんない。そんなことやってたわけですよ。みんな一回で懲りてしまって。そしてぼくはその晩、右の親指を骨折して帰ってくるわけですよ。それで10ヶ月か1年近く、仕事ができない。
池上:いいことないですね。
横尾:政治認識とか意識がちゃんとあればケガもしなかったんだけどさ。いかにいいかげんな連中がいいかげんなことしたかということですよね。大企業の太鼓持ちですからね、ぼくたちは。
池上:じゃあこの70年安保の時は、そんなに積極的にデモに行ったりしなかった。
横尾:70年の時はむしろ万博。
池上:万博か反博かというのでいろいろ。
横尾:だいたい芸術家は基本的に反博ですよ。だけど招集受けたのは全部その連中です。丹下(健三)さんはじめ、一柳さん、武満(徹)さん、磯崎さんも。
池上:いいお仕事している人を選んでいくとそういうことになりますよね。
横尾:ぼくも反博だけれども、じゃあ反博のデザインができないかなっていう。ぼくはやっぱりものを作りたい。政治的に左右されてものができないのは、これ不幸だっていう。純粋なものづくりの人間としては、ものを作るということが大事だという考えを基本的にもっていて。それでああいうせんい館のパヴィリオンを作って、足場組んで。それをそのまま放置した。完成じゃなく、未完の建築を目指したんです。しかも破壊のイメージを。そしたらそこに反博の精神が多少宿ったんじゃないかな。
池上:せんい館のポスターでは飛行機がたくさん飛んでるんですけど、旅客機なのに、三島さんは空襲を思い起こすというようなことをおっしゃったんですよね。(注:図録64頁)
横尾:そう、B29の編隊だって。
池上:実際にちょっと空も暗いし。
横尾:暗いし。
池上:そういう感じがすごくするなと私も思うんですけど、意識的にされたわけではないんですか。空襲や、B29みたいなものを意識されてたわけじゃない?
横尾:旅客機そうじゃない。世界中から観光客を日本に呼びましょうみたいな、コマーシャル精神ですよ。
池上:そこは明るいんですよね。
横尾:発想は明るいんですよ。各国の飛行機がいるはずですよ。各国の各社の飛行機かな。でも意識的なのは、ポスターの枠を仏壇の花のイメージにしたんです。
池上:それで結果的にちょっと暗くて不穏な感じになっているというのが面白いですね。
横尾:実際の写真は、屋根はこんな黒くないですよね、白くて。ここも真っ白ですよね。
ぼくは、精神的なものに対して積極的というのか、自分の内部に対する関心が強くて、外部に対する関心ってわりと無頓着なところがあったんですよ。だけど、ここに外国の人が書いてるんですけどね。『アートフォーラム』で(注: Steve Ridgely, “Total Immersion: The Designs of Tadanori Yokoo,” Artforum International, vol. 51, no. 6, February 2013)。
池上:私の知り合いです、このスティーヴという方。
横尾:その人はここに「政治的だ」って書いてるんです、ぼくのこと。それはちょっとね、面白いなと思った。「へえっ」ていう。どういう風に見たのかなって。
池上:本人が明確にそういうメッセージを入れてなくても、あとから人が見たときにそういう風に見えるということはあるのかもしれない。
横尾:そういうような言い分は書いてありましたね。
池上:こちらもそうですよね。佐藤栄作の顔で、はっきりと反米であると同時に、当時の日本の政治を批判するような表紙になってるのかなと思いますけど。
横尾:だから彼はアメリカに、この当時ベッタリだったですからね。
池上:ですよね。
横尾:日本を売ろうとしたんじゃないかと思うぐらい。自分の中に常に米国を持っているんじゃないかって。このUSA。
池上:これはすごい発見だと思います。
横尾:発見だね。
池上:「内なるアメリカ」ですよね。
横尾:「内なるアメリカ」ですね。ぼくはそこにパッと目が行ったときには、「ヤッター!」という感じで。決まり!という感じ。
池上:この『週刊アンポ』雑誌が創刊されて、第1号はたしか粟津潔さんがカバーを担当されているんですけど。これはどなたから、「じゃあ、次の表紙やって」っていう風に来たんですか。
横尾:たぶん小中陽太郎だと思います。あの頃、鶴見俊輔さんと小中さんと小田実さん、そういった人たちがベ平連をやってて、なんとなく小中さんとはよく会ってたんですよ。その関係かも分かんない。あるいは小田さんだったかな。
池上:毎号違う方が表紙をされていて。
横尾:その後誰がやったかぼく全然知らない。
池上:毎号違う方だったと思います。赤瀬川さんも一つやられてました。
横尾:でもそんなに、これが1年も出たというものじゃないと思うんですよ。せいぜい5、6冊で終わってると思います。このちょっと前だけど、『TIME』から佐藤栄作の表紙を頼まれて、描いたんですよ。佐藤栄作がネクタイをしてる。ネクタイの結んだ部分に星の絵を描いて、ここのぶら下がったとこ、赤と白のストライプでアメリカの旗にしたんですよ。そしたら向こうから言ってきてね。「これはまるでアメリカが日本の首を絞めてるようにアメリカ人には感じられて、アメリカ批判だ」って言ってきたんですよ。それでぼく言ったの、「そうじゃないんですか?」って。
池上:実際そうじゃないの、っていう。
横尾:「ほんとでしょ?」って言った。うまくごまかされたんだけど(笑)。「そうかもしれないけども、気に入ってるので、頼むからストライプだけにして、星だけやめてくれ」って。ストライプだけだったら通るって。ぼくまたガンコでね、「ダメ!」って言ったんです。今から思えば、妥協したものとして『TIME』の表紙になっててもよかったと思うの。
池上:残りますからね。
横尾:残るから。そのあとまた頼まれたんですよ。万博のときも頼まれたんだけど。これは、絵は通ったんだけど、アメリカの郵便事情が悪くて、ちょうどストやってるときで、空港にぼくの原稿が着いてるのに、空港でそれがストップになっちゃった。いくら頼んでも降ろしてくれなくて。だから2回続けて流れてるんです、『TIME』の表紙。
池上:残念ですね。佐藤栄作の星が付いた方というのは、原画は残されてはないんですか。
横尾:原画はタイム・ライフが持ってて。タイム・ライフにチャンさんという中国系の人がいて、日本人の奥さんがぼくの原画を持ってるんですよ。
池上:拝見したいですね。
横尾:奥さんが「横尾さんに返しましょ」と言ってくれたことがあるらしいんだけど、ぼくがそれに対して、なんか忘れちゃったんですよね。そのままになって。チャングさんはもう亡くなったので、奥さんはどこにいらっしゃるのか、一度白金かなんかの家を訪ねたことがあるんだけど。そこにあるはずです。
池上:日本にお住まいなんですか。
横尾:日本に。タイム・ライフがいま日本にないでしょ。
池上:はい。
横尾:あればそこから追跡調査で分かるかもわからない。そうするとたぶん奥さん持ってると思う。
池上:ご連絡先が分かれば、ぜひ拝見しに行きたいです。
横尾:そうしないとあの作品どっか行っちゃう。
池上:埋もれたらもったいないですよ。
横尾:もったいないかどうか分からないけど、あると面白いですよね。写真撮ったやつはありますよ。
池上:じゃあ写真だけでも拝見したいです。実物もぜひ。
横尾:でも、それは『TIME』がダメだと言うので。タイムという会社は『FORTUNE』という雑誌を出してたんです。『FORTUNE』が、じゃあうちに載っけましょうというので、『FORTUNE』に載っかったんです。
池上:ああ、そうなんですか。じゃあ一応雑誌には載ったんですね。(注:写真では、佐藤栄作が赤と白のストライプのシャツを着ていて、紺のネクタイを締めている。)
横尾:載ったけどね、その絵はどっちかというとスケッチなんです、ぼくにとっては。向こうは原画だと思ったんですね。でも向こうは必ずプレゼンテーションさせられちゃうんですね。それにもし通ればホンチャンを描こうと思ってたんだけど。
池上:そのプレゼンの方が通ってしまった?
横尾:通ってしまったというより、修正してくれと言ったわけだけど、描かなかったから。
池上:ああ、そういうことなんですね。じゃあ残っているのもスケッチ版のような。
横尾:通ったのは『FORTUNE』にラフの、プレゼンテーションの作品が出てるんです。
池上:じゃあ最終的なヴァージョンというのは結局描かずじまい。
横尾:じまい。今から描いたりして(笑)。
池上:やってみたら面白いかと思います。
横尾:だからダメになった話の方が、エピソードがあって面白いです。ほかにもいっぱいありますよ。ボブ・ディランのジャケットもそうだし、ミック・ジャガーのジャケットもそうです。みんなそういう話が。みな頼まれて、やったり、やらなかったり、エピソードだけが残るんですよ。そのほうが面白い。通ってしまったら面白くない。サインして、それで終わり。
池上:やっぱりデザインの仕事というのは、基本的にはクライアントというか依頼者がいるわけなので。
横尾:おかしいんですよ。ぼくは頼まれるものはすべて引き受けてたのに、なんで我を張ったのかなあ。我を張ったんですよね。相手が外国人だと特にね。
池上:そこは、そのときは譲りたくないと。
横尾:もうここで譲ったら、ぼくはほかもズルズルベッタリで全部譲っちゃいそうな気がしたわけ。『TIME』みたいなそういうところで我を張っとけば。
池上:大きいとこですもんね。
横尾:ぼくもあとは少々のことでは妥協しないだろうみたいな、なんか感覚的にそういうものを感じたんじゃないかな。
池上:そうすると当時の政治状況とかそういうことも意識しておられたんですね。
横尾:あったと思いますね。三島さんなんかに言わせると、「横尾くんはバカだなあ、そういうときは黙ってやっとくんだよ」って。
池上:そんなことをおっしゃってましたか。
横尾:三島さんは、「我を張って。そんなことどうってことないじゃないか」みたいなところはありましたね。すごい大局的にものを見る方だから。「まだ子どもだね」みたいな感じがあるんじゃないですか(笑)。
池上:万博のほうなんですけども、このあいだの展覧会でこちらの絵も出ていて(注:1967年の「日本万国博の楽しい会場より」と題された小ぶりの絵画シリーズ。図録65頁)。
横尾:「こんなの出してくれるなよ」ってぼく言ったのに。
池上:これ、万博以前のものですよね。
横尾:以前で、万博なんか見たことないし、どんなことが起こるのか分かんないのにさ、描いてくれと言われたって分からないものね。
池上:これはパンフレットかなにかに掲載されたんですか。1967年ですから、かなり早いですよね。
横尾:そうね、パンフレットでしょうね。
池上:こういうのを万博が作りますよ、という宣伝のためでしょうか。
横尾:どこもパヴィリオンなんかできてない頃に、勝手に未来都市を想定して描くったって、ぼくは建築を描いたりとか、弱いんですよ、そういう発想。
池上:でも結果的にわりと実際の万博を思わせるような、面白い図柄になってると思いますけど。
横尾:絵も下手くそだしさ、ひどいもんですよ。
池上:でも「ピンクガールズ」のときのピンクと、ちょっと似てますよね。
横尾:そうですね。
池上:実際にこれはパンフレットに掲載されたんですか。
横尾:だと思いますよ。これはいま国立国際美術館が持ってるわけでしょ。
池上:そうですね。
横尾:持ってるけど「こんなもん展示しないでちょうだい」っていつも言ってるんです。
池上:面白かったですけども(笑)。ちょっと戻ってしまうんですが、最初のイラスト展と同じ関係で作られたのかは分からないんですけども、こういう日本的なイメージにドリッピングがされている作品というのがやっぱり出ていて、これもすごく面白いと思ったんですけれども(注:図録78頁)。
横尾:これはなにか知らないけど、ぼくの拒絶反応の象徴だと思いますよ、出来上がったものに対する。
池上:もちろんアクシデントではなくて、意図的にやっていらっしゃるんですよね。
横尾:もちろん違う。テーマがつまらなくって、クライアントに対して、雑誌社かな、腹立ててやってるのか、あるいは、こんなことやった自分がすごく嫌なのか、あるいはもっと何か激しいものを伝えたくてやったのか、そこはよく分からない、今思うとね。
池上:これ年代不詳となってるんですよ。何年ぐらいなんでしょうね。
横尾:この絵から想像すると、1970年ぐらいでしょうね。60年代ということはないと思う。
池上:そうですか。こちらが65年ですけど。(注:図録77頁のポップなイラスト群)
横尾:これより全然後だと思います。1970年とか71年とか、その頃だと思いますよ。それは何がテーマになってるんだろう。《日本国売ります》みたいな、それは作ったことあるんです。これ、何書いてあるのか分かんないね。
池上:地名と富士山だと思うんですが。
横尾:ああ、たぶん「こんなつまんない仕事頼まれて」みたいなことじゃないかな。
池上:そういうことですか。でも作品はとても面白いです。
池上:展覧会の関係でいいますと、何かのインタヴューで、日本のポップというのは結局きちんと歴史的に評価されてないということをご発言されていて。
横尾:というより、日本のポップ・アートというのはあったのかということですよね。
池上:それは大きな問題ですね。
横尾:だから個人的にそれらしいものを描いた人はいると思うんですよ。例えば磯辺(行久)君とか小島信明君とか、ギュウチャンもそうだけど、何人かはそれらしい作品を作ってると思うんですよね。
池上:タイガーさんもそうですしね。
横尾:うん。だけどそれを「ポップ」と呼べたかどうかね、彼ら自身も自信をもってそれを打ち出していったという感じはないと思うんですよ。一発勝負で、「こんなのできましたけど」みたいな(笑)。
池上:篠原さんは正面切って「ポップだ」って言ってたんですけど、でも周りの人がそういう風に見てあげないから。
横尾:彼なんかモヒカン刈りの格好でやってましたね、アクション・ペインティングを。ああいうのはみんな誰もまともに取り上げなかった。
池上:週刊誌とかで、ロカビリーの文化として、という取り上げ方はあったみたいですけど。「アーティスト」というのとちょっと違うんですよね。
横尾:違いますよねえ。それは、美術界も冷ややかに見てたんじゃないかな。
池上:そうかもしれません。エスタブリッシュされた洋画家や画商なんかから見ると、なんか若いのがめちゃくちゃやってるという。
横尾:ショー的な要素があって、モヒカン刈りっていう自然風俗的な要素があって、アクション・ペインティング、ポロックのやったことをやってるという。オリジナル性はないけれども、そういうことを総合して、公開制作的にやったということではちょっと面白いといえば面白い。
池上:「ポップだ」と言うのはその後なんですけど。ラウシェンバーグのイミテーションの作品を作ったり。
横尾:そうね。あそこで東野(芳明)さんか誰かがもっと評価してれば。でも東野さん、あの頃ジャスパー(・ジョーンズ、Jasper Johns)に一生懸命になったり、(マルセル・)デュシャン(Marcel Duchamp)とか、正統派から入ってるからさ。ギュウチャンがやってるのは正統派じゃないわけだから。エンターテイメントというのか。だけど東野さんの性格からすると「おもろいやんけ」みたいなところもあったと思うんですよ。ぼくがサンパウロ・ビエンナーレに出品したとき、コミッショナーが東野さんで、ぼくは過去の作家の模写作品を出そうとしたんです。その時「そっくりはダメだぞ」と言われたんです。その後シミュレーション・アートが流行した。誰もやってないことをやろうとするとダメ出しが出たんですよ。無視してやればよかったけど、東野さんがNOと言えば出品できないから。
池上:結局、東野さんをはじめ、その当時の批評家は、日本の作家のことは、横尾さんの作品も含めて、ちゃんと論じてないじゃないかというような、そういうお気持ちはありました?
横尾:ぼくは中間地帯にいて、デザインの方からはデザインじゃないと言われて、アートの方からは、アートの方に受け入れてアートの一カテゴリーにしてもいいかなという、暗黙の了解がどっかにあったんですよ。東野さんとか岡田隆彦さんとかいった人たちから。
池上:特別枠みたいな。
横尾:あったんだけれども、それをまともに受け入れて「これはポップ・アートだ」と言うには、そこに作家としての自律性があるのかどうか。クライアントがいるからね。クライアントがいなければ自律性はあったかも分からない。高倉健にしても、宝塚の作品にしても、プレスリーにしても、あの何点かは全部自律的なんだけれども、ポスターという形態をとったでしょう、文字をいっぱい入れて。それはまずかったと思います。ポスターという形態を取ったけど、アート行為だから美術のカテゴリーに入れるべきですよ。
池上:文字はまずかったんですか。
横尾:うん。だけどあの文字を全部外すと、今度はあれの持つ意味がまたなくなるよね。やっぱり日本の字で、書道風の字があってというのをひっくるめて面白いんだけども。文字が多すぎるとポスターと思われ、アートとは思ってくれない。一体どこに目がついているんだと言いたいですよね。
池上:ホップ・アートという風にアートの中で打ち出すには、やっぱりもっと絵に近くないといけなかったんでしょうか。
横尾:かもしれない。それをあそこに文章を入れて、別の言語的コミュニケーションションとか、商業的、広告的コミュ二ケーションの方法論を使っているということで、ちょっとアートとは言いにくかったんじゃないかな、批評家も。それを新しいアートという人が一人でもいればよかったのに、その自信と論理がなかったんだと思いますね。
池上:東野さんに「絵をやりたいんだったら、ポスターをそのままカンヴァスに描いたらいいじゃないか」と言われたれことがあると、お読みしたんですけど。
横尾:その前に、東野さんがパリ青年ビエンナーレのときに、ぼくに「版画を作れ」って言ってきた。ぼくは「版画なんか興味ない」って言ったの。「君がいつもやっている感じでいいよ」と言うわけね。「日本がこのところ賞から見放されちゃってるんだよ。だから横尾君、これ賞を狙ってやってくれ」っていうわけ。ぼくは、賞を狙うたって、版画の世界のことも知らないし、興味もないし、やっているポスターに興味があるだけで。だから東野さんに「じゃあ分かった、東野さん、ぼくのポスターから文字を全部外しちゃおう」と。
池上:そこは意図的にされたんですね。
横尾:うん。全部外してしまったものを作る。版画というプロセスが面白いから、作品は完成したものを作らないけど、プロセスだけを版別に見せるっていう。「これでいい?」「いいやんか」とかいって、それで作った。それがたまたまグランプリもらって。
池上:それは《責め場》(1969年)という作品ですよね(注:図録50–51頁)。
横尾:今度もらったらもらったで、東野さんが…… 朝日(新聞)の「ひと」って欄があるじゃないですか。あそこにそのことが出たら、東野さんがパリから帰ってきてぼくに怒るわけ、電話で。「あんなたいしたことない賞をもらって、なんで朝日が取りあげてるんだ」って。そんなもんぼくに言ったって分かんないじゃない。あなたが「出せ」「賞取れ」って言って、結果そのようになったんで。「それ、東野さん、あなた自身の問題じゃないの」って言ったら、「いやぁ、もうひとつ恥ずかしいことがあったんだよ」って。「何?」って言ったら、「パリへ行ったら、パリの映画雑誌の表紙に君の写真が出てんだよ」「なんで?」って。『新宿泥棒日記』(大島渚監督、1969年)のスチール写真が出てた。「東野さん、その本どうして買ってくれなかったの」って。
池上:なんで恥ずかしいんですか。
横尾:ねえ。「俺、恥ずかしいよ、君が表紙になってるっていうのが」って。同じ年だから。一方で版画で賞をもらって、一方で表紙になってるっていうので。変なこと言う人だなあと思って。
池上:東野さんは何が気に入らなかったんでしょう。
横尾:何が気に入らなかったのか分かんない。ほとんど怒ってんの。
池上:ちょっと、横尾さんばっかり注目されちゃって、みたいなことなんでしょうか。
横尾:それは東野さんの中にあるわけ。まさか、賞はとらないだろう、という公算があったわけ。ぼくのほかに高松次郎とかも立体の作品を出してたし。それにしても、あのときの東野さんはおかしかったね。
池上:なんだか変ですね、いいことのはずなのに。
横尾:朝日が「ひと」欄で取り上げてたのが、仰々しいと言うんですよ。
池上:う~ん、ちょっとジェラシーが入っているような(笑)。
横尾:東野さんってそういうとこあんの。
池上:そうなんですか。
横尾:うん。高松次郎をバーッと持ち上げてね、高松次郎が現代美術のスターになったでしょ。そしたら高松次郎が、そのあと東京画廊で展覧会をやったんですよ。東野さんとしては面白くないわけ、その展覧会は。それでぼくと高松次郎と東野さんと中原祐介と4人で飲みに行こうと。ぼくはお酒飲めないんだけど、飲みに行ったんです、銀座へ。そしたら東野さんと中原祐介の2人が彼を徹底的にいじめるんですよ。
池上:中原さんも一緒になって?
横尾:酔っ払って、2人でむちゃくちゃいじめるんです。
池上:ほう。
横尾:彼もそんなにお酒飲まないし、それを全部受け止めて、いい加減にしておけばいいのに。ぼくはまだ美術の世界に入ってないから、「うわー、美術のこんな世界、こんな連中とやるのはいやだなあ」という感じはあったわけ。
池上:意外とドロドロしてるっていうか(笑)。
横尾:ドロドロしてる、ジェラシーかなんかよく分かんない。というのは、あの二人が高松次郎をクローズアップさせたんですよ、もうちょっと前の時代に。それが自分に気に入らない作品を作ってたっていうことで、なんか知らないけど攻撃して、高松次郎もかわいそうに。「もう眠いし、帰りたいよ」ってぼくが言ったら「今晩一晩、悪いけどつきあってくれよ」「なんで?」「俺、このまままっすぐ家に帰れないよ」って言うから、渋谷へ行って、朝までやってる喫茶店で2人で、彼の愚痴を聞かされて。
池上:あんなに言われてつらいって。
横尾:もうかわいそうだったですよ。ぼくはただ聞いてるだけ。なんて答えていいか分かんないし、美術界のことよく分からんしさ。「あの連中酔っぱらってるから、明日の朝になったらみんな忘れてるよ」って言ったって、彼にはすごくこたえた。
池上:センシィティヴでしょうからね、そこは。
横尾:ぼくが張本人だったら、もう怒ってケンカするか、そこで帰るけれども、高松次郎はそこでちゃんとそれを聞き入れて、妙な反論したりするわけ。でも彼らからすれば、反論じゃなくて言い訳になっちゃうわけよ。そういうところ東野さんもちょっとあんのよ。
池上:「美術界にどっぷりいなくてもいいか」っていうのは、そういうところもあったんですか。
横尾:いつもベスト10って取り上げるわけ、朝日で。東野さんは僕を何度も取り上げてくれたんだけど、ポスターとか変なものばっかり取り上げるわけ。でも東野さんの良いところは、そういうものを美術のカテゴリーに組み入れようとする、美術を解体させて、このままじゃ美術は硬直状態を起こすよ、というのがいつも東野さんの頭の中にあった。
池上:そうですよね。それでテレビのことにも興味があったり、いろんなことを論じていらした。
横尾:そういうところはいいんですよ。それがひとつ虫の居所が悪いとそうなっちゃう。だからジェラシーもあるんですよ。
池上:批評家が作家にジェラシーを感じるということも、やっぱりあるんですね。
横尾:やっぱり自分が世の中に出したっていうのがあるから。かわいい子供には旅をさせるけれど、ちょっと間違ったことをやっちゃうと今度は途端に厳しくなっちゃうという、そういう親子の感じに非常に似ている。それに打ち勝つかどうかですよね。
池上:そうですね。
横尾:ぼくも東野さんに何度嫌なことを言われたか分かんないけど、ぼくは東野さんにいつも口答えしてたから。なんで口答えができたかというと、その頃ぼくはまだ美術の世界にいなかったから。
池上:育ててもらったような恩もないわけですね。
横尾:そうです。美術がぼくを評価しなくったって、ぼくにはクライアントがいる、クライアントがたっぷりぼくに仕事をくれれば、それでいいんだ、みたいなところがあった(笑)。
池上:それを一種の評価というかたちで考えておられたんですか。
横尾:美術の評価?
池上:いえ、社会からの。
横尾:それもあったけれど、仕事を依頼されて次々と作る、メディアによってその仕事が、例えばテレビに出る、雑誌に出る。波及効果が、絵に比べると圧倒的に面白いんですよ。
池上:やっぱりスケールが大きいですよね。
横尾:そちらの方にぼくは興味があったわけ。
池上:アメリカではやっぱりウォーホルもそういう感じの戦略でメディアのスターになっていきましたね。
横尾: ぼくは戦略じゃなかったけれども、とにかくそれが面白くて楽しくてしょうがなかったの。ぼくがメディアを求めたんじゃなくて、メディアがぼくを必要としたんです。ウォーホルは、楽しいところももちろんあるから続けてるんだけど、そういうことを一方でやりながら、ウォーホルは「ミスター・ポップ・アート」と言われながら、ジャスパーから嫌われ、ラウシェンバーグから嫌われ、なんでそんなに嫌われるんだというと「ウォーホルはオカマチックだ」っていうわけ。どうもそのへんで。
池上:ゲイらしさを隠さなかった初めてのアーティストかもしれないですね。でもラウシェンバーグやジョーンズは、あまり前面に出したくないんですよね、それを。
横尾:まあできれば隠したいでしょうね。社会的地位に影響する可能性があるわけだから。エリック・シャイナー(Eric Shiner)が言ってた。
池上:ウォーホル美術館の館長ですね。アメリカの大学院で一緒でした。
横尾:エリック・シャイナーからも直接、ウォーホルが嫌われていることは聞いた。ウォーホルがジャスパーに言われたのは「目立ったことをやったっていうことだ」って言ってたけどね。
池上:今は時代も違いますから、あまりそんなことは言われませんけど。
横尾:ウォーホルはMoMAで個展をやりたかったんですよ。 MoMAとポンピドゥー(・センター)で。ところが彼が生きている間にできなかったんですよね。ジャスパーにしろ、フランク・ステラにしろ、皆MoMAで2回以上やってるんですよ。彼だけがゼロなんです。ポンピドゥーもゼロなんですよ。そしたら彼が死ぬと同時にポンピドゥーとMoMAがやったでしょ。
池上:そうですね。
横尾:これって何?って。アメリカ人の気質の中にも日本人によく似た何かがあるのかなっていう。
池上:そうかもしれないですね。
横尾:生きてる間に喜ばせたくなかったんですよ。有名なことは決まってるんだけれども、美術界から喜ばせたくなかった。ロックとかほかのところから喜ばせる。音楽は、彼らが関知できない世界だけど、美術界からは喜ばせたくなかった。とこらが今はいちばん高い作家になっちゃった。
池上:そうですね。
横尾:ざまあみろじゃないけど、ぼくとしてはうれしいですよね、ウォーホルが評価されたというのは。といってジャスパーとかラウシェンバーグが変だとは思わないけど。
池上:やっぱり世代の違いでしょうか、そこは。
横尾:世代よりももっと、性格とか生理みたいなものの方が大きいんじゃないかな。
池上:そうかもしれないですね。
横尾:レオ・キャステリ画廊(Leo Castelli Gallery)の番頭さんが、あるときリキテンスタインの作品を持ってきて、レオに「どう思う?」と言ったら、「分からない」って。番頭さんは「絶対この作家は面白い。うちで個展すべきだ」と言った。レオはOKしなかった。レオは「じゃあ分かった。ジャスパーに聞く」ってジャスパーに聞いた。ジャスパーも分からない。ジャスパーは一晩考えて、明くる日レオのところへ電話して、「あれはすごい」って。
池上:1日かかったんですね(笑)。
横尾:「やったほうがいい」。それでやったわけ。ああいうコミック漫画を、彼より先か同時にウォーホルがやってました。でもドット、網点でやったでしょう。あれにはさすがのウォーホルもまいったみたい。どうしてこのドットに気がつかなかったんだ、これはもう負け、というのであっさり降りちゃった。ドットの発見ってすごいよね。見れば分かるんだけど、それをああいう風に取り入れたっていうのはすごい。
池上:ドット、水玉のあれですよね。「バンディ・ドット」っていう。(注:Ben-Day dots、印刷の網点のこと)
横尾:あの網目をこんな大きくダーッとしたっていうのはすごいですよね。
池上:プロジェクションを使って大きくしてたって風に聞いたことがあります。
横尾:だけどあの丸は、丸をいっぱい並べたやつを作って。
池上:ステンシルみたいにして。
横尾:それを刷るだけだけど。ウォーホルとリキテンスタインは、やってきたことは非常に近いけども、どこかで仲良くないはずですよ。何かではニッコリしたりしているけれどもね、根底は。ウォーホルの方が有名になっちゃったからね。
池上:そうですね。
横尾:その点は良かったかも分かんないね。
池上:どこかで横尾さんが「アメリカのポップ・アートというときに、美術の現象としてだけ見ていたら本当はダメで、その裏にアメリカのフォーク・アートの伝統がすごくあるんだよ」というようなことをおっしゃっていたと思うんですけど。
横尾:フォーク・アートのもっているプリミティヴさと、あのフラットさ。あまり肉付けしない非常にフラットな感じ、ペタペタとした、距離感も全然ない。浮世絵と似てますよね。そういうところと、缶詰のパッケージなんかでポップ・アートっぽいのがずいぶんたくさん使われて、そこに文字がダーッと入ったりしているわけです。あれをみんな見て育ってるわけですよね。そこに生活がある。ぼくの友達にイラストレーターのポール・デイヴィス(Paul Davis)というのがいるんです。彼はフォーク・アートのスタイルを自分のイラストのスタイルに持ち込んだんですよ。それだけだったら面白くないんけど、そこに文字的なものを入れると、とたんにポップ・アートみたいに見えるんですよね。彼はどうしてあれをポップ・アートとして打ち出せなかったのかな、ぼくはすごく残念に思うんだけどね。
池上:日本にも土着とか前近代みたいな流れがあるように、アメリカにもそういうフォークの流れが底流にあって、だからポップが出てくるのかなと。そこは似てる部分があるのかなと思ったんですけど。
横尾:精神の根底にそういうものはあると思いますよ。その証拠にアンディ・ウォーホルはフォーク・アートが大好きなんですよ。看板とかなんかへんてこなものをいっぱい買いあさってる。全部オークションで売ってしまったけど、彼はフォーク・アートが大好きだったんです。彼のフォークからポップ・アートへのつながりは、ぼくも土着的なものとポップのつながりをなんとなく感じる。彼はそこをちゃんと掴んでたんじゃないかな、感覚的にも、論理的にも。フォークのアメリカン・ノスタルジーに対してマスプロダクションの現代、両方とも生活を基盤にしている。
池上:横尾さんのポップへの関心というのは最近のコラージュ作品にもすごく現れているなと。このあいだコラージュ集を出されましたよね。あれはアメリカの昔の雑誌を使われているのかちょっと分からないんですけど。
横尾:前の方は初期のやつ。1960年、70年ぐらいかな。
池上:あのあたりは、どちらかというともっとシュールレアリスムぽい感じなんですけれども。
横尾:そうね。シュールレアリスムっぽいね。
池上:2、3年前に集中的に作っていらっしゃる「BURGER QUEEN」のシリーズですとか、「アメリカン・ポップアート・コレクション」という、ほんとにポップ・アートの雑誌の複製をちぎってコラージュにされているやつとか。
横尾:肖像権の侵害ギリギリになる(笑)。
池上:あれはいつの時代の雑誌を使われているんですか。
横尾:ほとんどが1950年代から1960年、70年代の『LIFE』。
池上:それはご自分でコレクションされてたんですか、そのときから。
横尾:してたものも多少あるけれども、あれアメリカで展覧会やったからね、ニューヨークで。そのときに全部向こうのギャラリーが集めてくれました。
池上:材料として。
横尾:1950年代と60年代から70年代に限る『LIFE』を。あれほぼ全部『LIFE』です。
池上:それを材料として、自分の手でちぎって貼っていかれた。
横尾:そうですね。
池上:今またその素材を使おうと思われたのは何かあったんですか。
横尾:1960年代?
池上:はい。まさにポップの時代に立ち返ってらっしゃるのかなと思ったんですけど。
横尾:ぼくの絵の中に肖像写真とかいろいろ出てくるけれど、あれは今生きている人じゃなくて、できれば死んでる人の方がいいんですね。だから現代史じゃなくて、終わった時代の、人物も全部死んじゃってるみたいな。そういう「死」というものに関心がすごく強いから、「死」の匂いのするものを使ったんですよね。ところがアメリカのジャーナリストは面白いことを言うんですよ。見て「横尾さんって、ほんとに戦争と宗教とエロティックなものが好きですね」と言うわけ。そのときに冗談で「何言ってるんですか。ぼくが好きなんじゃないですよ。これはあなたが、アメリカ人が好きじゃないですか」って。ぼくは「アメリカの『LIFE』を全部送ってくれ」って言ったから。『LIFE』にいちばん多いのは、戦争、宗教、それからエロティックなものセックス、この三つですよ」って。
池上:それが反映されているだけ(笑)。
横尾:それが、「ぼくが好きですね」って言うから「とんでもない、あなたの国が好きなんですよ」って言ったら、彼初めて気がついたみたい。「ああ、そうか」って。
池上:宗教的なイメージもそんなに使われてましたっけ。
横尾:キリスト教的なもの。キリストの十字的なものや教会の中の建物とかね。
池上:でもますます海外でも、そうやって発表の場が増えている。
横尾:増えてるんだけど、できれば日本の美術館もちゃんとやってくれればいいんだけど。ああいう作品を今度どこかで発表するというと、ヨーロッパで発表するときはアメリカのコレクターが送ってくれたりするんですよ。ところが日本だと受け入れ体制がなくて、「いやぁ、予算がないんです。向こうが出してくれればいいんですけど」って。そんなの出るはずないじゃないですか(笑)。「着払いですよ」って。
池上:そうですよね(笑)。
横尾: そうすると日本で発表できないまま、作品が海外に流出して終わっちゃうのでね。
池上:それはもうどこの美術館も抱えている問題で。でも日本の戦後のコレクションが弱いままだと、困りますね。
横尾:そうね。今度これも120点ぐらい全部向こうへ行っちゃう、向こうでたぶんコレクションすると思うんですよ。日本の美術館は、カタログは出してくれますけどね、それだけじゃちょっと。
池上:国内と海外で、受け入れられ方にギャップがあるみたいな感じは、今もありますか。
横尾: というより、ぼくの場合はほんとに今始まったばっかりだと思うんですよ。ここ2年ぐらいの間に海外の雑誌の取材とかが増えたんで、これからどうなるのかな、これからじゃないかなと思うんですけれど、ぼくに残された時間は少ないんです。死なないとでも思っているんですかね。
池上:そうですね。
横尾:ぼくはデュシャンとも関係があってね。これ。
池上:ああ、《滝》のポストカードですね。
横尾:今度ローザンヌで、デュシャンの展覧会があるんです。デュシャンの《遺作》の中に滝が出てくるでしょう、あれをテーマにしたやつなんです。ぼくの作品も出るんだけど。なんでぼくとデュシャンって、みんな不思議がるけど、全然不思議じゃないんですよね。
池上:いま横尾忠則現代美術館でやっている展示にも、滝の部分にチラチラする素材を使われた作品が出てますよね、箱の。あれにはすごいデュシャンとの関係を感じましたけど。
横尾:あれは「テクナメーション」って言うんですよ。でもデュシャンの滝をぼくは知らなかったわけ。あれをやりだしてから後で気が付いたんですよ。時間的にぼくの方がうんと後だから模倣と言われてもしょうがないんだけど、そういう共通性を知ったとき、うれしかったですね。これは今バルセロナのピカソ美術館でやってる展覧会です。この展覧会は全部がピカソへのオマージュの展覧会なんです。今、ヨーロッパでデュシャンの《L.H.O.O.Q》の作品についての研究書が出ますけど、そこにもぼくのモナリザとピンクの女のパンツに「L.H.O.O.Q」と書いている作品が図版として出ます。
池上:面白いですね。
横尾:バルセロナのピカソ美術館でもピカソへのオマージュ展を開催中で、ぼくも出品してます。ジャスパーなんかもいるしね。これは(ジェームス・)ローゼンクイスト(James Rosenquist)です。
池上:結構みんなやってますね。
横尾:(ジャン=ミシェル・)バスキア(Jean-Michel Basquiat)も。これ、(ゲオルグ・)バゼリッツ(Georg Baselitz)ですよ。どこがピカソかよく分からない。
池上:ねえ。ちょっと不思議ですけどね、これは(笑)。
横尾:ぼくの方から逆さに見て、これピカソの顔かなって。なんだか分からないけどもね、どこかで関係あるんでしょうね。
池上:面白いですね。
横尾:日本はオリジナル性がどうだこうだとまだ言ってるけど、こういう面白い展覧会をバーンとやれば、一目瞭然で分かるんだけどね。
池上:そうですね。展覧会やるにしてもコレクションをやるにしても予算の制約がきびしいという、つらいものがありますよね。
横尾:予算だけじゃないよ、でも。とんでもない発想をするととんでもないぐらいお金がかかるけれども、国内だけでできる発想はいくらでもあると思うんですよね。想像力以前に経済観念を先行させる日本人がおかしいんですよ。
池上:そうですね。結局予算というのは、公的な援助に頼るからそういう発想になるので、いつまでも税金頼みでいいのかってとこもありますよね。
横尾:今、ボストンの美術館でぼくの展覧会の企画が進行中です。今、お金を集めてる最中で、2年、3年かかると思うけれども。それも美術館自体はお金持ってない、ゼロですよ。
池上:よそから取ってくるんですね。
横尾:よそから。ひとつやるというと、向こうの人は気が狂ったみたいに、悪魔がついてるんじゃないかと思うぐらい、お金集めてくるんです。だから美術っていう悪魔に、日本人は取りつかれてないんだ。
池上:う~ん、そうかもしれないですね。
横尾:もっと美術の悪魔に取れつかれればね。
池上:全然気が狂ってないですもんね(笑)。
横尾:そうそう、気が狂えばなんでもできる(笑)。ある程度「あいつは変だ」と言われるぐらいのキュレーターじゃないと。長谷川祐子さんのことがよく話題になるんだけども「長谷川さんだからできる」という言い方する人がいるけど、おかしいよ。長谷川祐子だからできるんじゃなくて。
池上:そこまでのめり込んで突き詰めれば、誰でも。
横尾:そういうものがあれば誰でもできると思うんですよね。そこへ行くまでいろんなこと考えちゃうんですよね、これ以上やって上の人に嫌われたくないとかさ。もっと身近なところで。
池上:ロッキー(ROCI、Rauschenberg Overseas Culture Interchange、ラウシェンバーグ海外文化交流)のカタログを持ってきてくださったので、ちょっとだけこのお話も聞いてもいいですか。
横尾:これ、信楽も出てますよね。
池上:はい。ラウシェンバーグと最初に接触というか、実際に会ったのは?
横尾:1967年。ジャスパーがラウシェンバーグのところに連れて行ってくれた。
池上:ニューヨークに行ってから。でも1964年の公開制作もご覧にはなったんですよね。
横尾:それは見てるけども、会ってはいない。客席から見ただけ。
池上:客席から見た印象、感想はどんな感じでしたか。
横尾:もう、躊躇してないんですよ。とにかく考えてはいない。体が先にパッパッと動いて、体と想像力と技術、それが一体になっちゃってるんですよ。それがすごいと思った。「え~と」と腕組みしたり、「なんだっけ」と、こういうポーズがない。パッパッとやって、それでアシスタントに「それで早く塗って」という感じで、どんどんあっという間に作ってるわけ。
池上:実際には4時間ぐらいかかったと聞いたんですが、そんな感じはしなかったですか。
横尾:やってる時間はたぶん2時間か3時間ぐらいで。もしかしたら4時間やったのかな。
池上:でも、やっぱり見ていてすごいなって感じでしたか。
横尾:なんか無心状態っていうのか、無の状態。ぼく坐禅やってたりした経験があるからかもわかんないけど、「考え」っていうのはいったい何なの、という。体の行動がすぐ「考え」で、考えたあと行動を起こしてないんですよ。
池上:アクションと考えが一体になってるんですね。
横尾:一体になってる、技術も一体。そこにあるものを使う、これがポップ・アートだと思ったんですよ。わざわざ買ってくるとかしない、あるものを使う。そうすると篠原有司男が自分の作品を持ってきて。
池上:《コカコーラ・プラン》のイミテーションを持ってきて、何か質問するんですけど。
横尾: 「見てくれ」って。向こうはパッと見て、ニタッと笑って。もう相手にしていない、ようするに。見たら陳腐なんですよ、現物が(笑)。もうびっくりするほど陳腐、みんな大笑いですよ(笑)。
池上:笑ってました? お客さん。
横尾:お客さんって、まあ美術関係の人かな。ぼくなんかもう大笑いだったですね(笑)。そしたら次、なんか知らないけれども英語で書いたやつを渡したの。そうしたら読みもしない。パッと持ってパッと貼り付けて、パッパッと色塗って絵の中に入れてしまうわけです。ギュウチャンとしてはうれしいですよね、自分のメッセージがその中に入ったんで。そういう風に、手の届く範囲内にあるものを全部そのまま許容して。フレキシビリティというのか、自由さっていうのか。音楽でいうチャンス・オペレーションですね。
池上:なんか全部受け入れちゃうっていう。
横尾:うん。スポーツみたいに瞬間にどんどんできていく。それはすごいよ。これは信楽でやってても同じだった。でも信楽は公開制作じゃないから、やっぱり考えてた。
池上:ああいうセラミックで初めてやるというのは、結構挑戦だったんですかね。
横尾:まず日本で何ができるかっていろいろ調査した結果、あそこで協力してくれることが分かって、できたものは半分もらって、半分置いとくという条件で来たわけですよね。あのとき、ぼくは隣の部屋で作ってるんだけど。(ジャック=ルイ・)ダヴィッド(Jacques-Louis David)の《ナポレオンのアルプス越え》とクールベの作品で作っていたね。
池上:《サン=ベルナール山からアルプスを越えるボナパルト》ですね。
横尾:そう。ダヴィッドのナポレオンと、(ギュスターヴ・)クールベ (Gustave Courbet)の、女の人同士がベッドインしている有名な絵、その二枚のフィルムをテーブルの上でグルグル回してるんです。
池上:どの角度がバッチリくるかって。
横尾:それで独り言を言いながら「これはやめよう、シリアスすぎる」って。「シリアスはダメなの?」って言ったら、「カジュアルでないとダメだ」って言って、偶然を探してるんですよ。彼の作品、パッパッとデタラメに置いてるんじゃなくて、ダヴィッドの絵は指差してますよね。
池上:ナポレオンがこういう風にやってる。
横尾:そうすると、グルグルやってる間に、ベッドインしてるクールベの女性のお尻ところに、うまいこと指がいくんですよ。
池上:浣腸しているみたいに?(笑)
横尾:そうそう、浣腸。そうすると彼は「やった!」ってニッコリしてね、「やっとこれでシリアスじゃなくてカジュアルになった」って。そこでぼくに説明してくれるんですよね。「アートというのは、シリアスはダメ、考えてもダメ」みたいなことを言うんですよ。実際考えてないんですよ、ただこうやって、偶然ピタッときた瞬間があるわけで。彼はそれを信じてるんですよ。これではダメだっていうんじゃなくて、絶対この二つのもの、どっか接点が合う場所があるに決まっているって。それを横で見せられて、すっごい勉強になった。それともう一つ、これOTっていうんですけど、この大きさでもっと薄いセラミックがあるんですよ。こんな薄いやつ。
池上:それもセラミックなんですね。
横尾:うん、それもセラミック。ぼくはこの薄いのを使ってた。薄いやつを使った人はぼくがいちばん最初なんだって。みんなこの厚いのを提供するわけ。彼もこれでやってたんだって。ぼくの持ってる薄いのを見て「これ、どうしたの?」「これは建築材料で、陶板用のやつじゃないんだ」「俺もこれ使いたい」「使っていいんじゃない」って言ったら、彼は「いや、君がそれを使っているのに、自分はストレートにこれを使うわけにはいかない」って言うわけ。それで明くる日、ちょっと断りたいと。「俺もこれを使いたい」「これぼくのものじゃないから、どうぞ。使っていいんじゃないの」「君はフラットに使う、俺はこれを丸くしたい、丸くして使う」と。そういったことをぼくにわざわざ了解を取る、その礼節、礼儀正しさと、同じ道具を使っても、人がやってること以外のことをやって、絶対それを超えていくっていうことだったんですよ。
池上:わざわざ断りにくるっていうのが、ちょっと感動しますね。
横尾:もう感動、頭下がりますよ。
池上:彼はそういうところはすごくきちんとしていたというのは、ほかの人からも聞いたことがあります。
横尾:これは芸術に対する礼儀・礼節ですよ。例えばピカソのオマージュするにしても、やっぱりそこに礼儀・礼節みたいなものをもってやるのと単にやるのとでは、ぼくは全然違うと思う。あるいは、ピカソをやっつける、ピカソを批判する、ピカソを失墜させるぐらいの強烈なことをやるかどっちかしかないと思う。
池上:そうですね。
横尾:それである日、彼が一日いなかったんですよ。「昨日どこ行ってたの?」と言ったら「東京に行ってた」って。「何しに行ってたの」って聞いたら、「君のショーを見に行ってた」って。
池上:そうですか!
横尾:ほんとなんですよ。ぼくに言わないで見に行ったんです。
池上:へえー。
横尾:そのセラミックで作ったやつをアメリカの文化センターに出すプレビューがあって、ぼくは行かなかったですけど、彼は行って、見てきた。黙って行って、帰ってきて。そんな、ぼくのなんか見なくったってね、彼は自分のペースで仕事やってんだから、と思うけどね。なんていうか、学生気分というのか、アマチュアリズムっていうのかな(笑)。
池上:でも陶板の作品だし、勉強も兼ねてということでしょうか。
横尾:彼がやってないようなテクニックをぼくがやってることは確かなのね。それを彼はまた自分に置き換えて、またさらに発展させて。
池上:勉強熱心ですね。
横尾:それでぼくのよりいいの作るから、腹立って(笑)。
池上:今も滋賀の近代美術館にある、陶板なんだけどグニャグニャ曲げて作った作品がありますよね。
横尾:それはたぶん、それから来てるんじゃないかな。
池上:ちぎれたみたいな形になっているものとか。
横尾:塊のやつね。ああいうのは全部、原版見てるとね、いろいろアイデアが浮かんだんじゃないですか。だからそれ自体はたいしたもんでなくっても、例えば壺でも、アメリカ人が作る壺と日本の壺は作り方が違ったりするじゃないですか。そういう民芸品をちょっと見ながら、自分の方へ。
池上:何からでもヒントを得るっていう。
横尾:それも身近なものから取ってくる。それがすごい。ぼくは大尊敬しますよ。初めて行ったときに『TIME』の表紙をやってた。『ボニー・アンド・クライド』の映画のスチールを使って。
池上:『俺たちに明日はない』(1967年)ですよね。
横尾:そうそう、あのスチール写真を使って『TIME』の表紙をやってたのね。ああでもない、こうでもないと。「君デザイナーだからさ、ちょっと教えてくれよ」、こんなこと言うわけよ(笑)。印刷のことは多少知ってたからちょっと言ったけど、そのときはそれを一生懸命やってた。
池上:すごいお話ばっかりで。もう3時間も経ってしまって、すいません。
横尾:いやいや、懐かしいです。ぼくこういう話めったにしないから。あの時代の話をしても、興味をもたない人がいっぱいいるんですよ。今の若いアーティストも、たった今起こってることには興味あるけども、歴史的な話にあんまり興味なかったり。
池上:ぜひもってほしいですけどね。
横尾:ぼくはもたないとダメだと思う。ぼくたちが今いるのは、ラスコーの壁画から、そのままヨーロッパの中世から、日本の中世からずっと、ルネッサンスからバロックを通っていろんなものを通してここへ来てるんだから。今の若い人はいま流行ってるものに興味があって、そんな悠長なことできない、みたいなとこがあるみたい。
池上:もうすこし1950年代、60年代の勉強もしようねって、いつも仕向けるんですけど。
横尾:ぼくは一回東野さんと二人で、ドイツのカッセルにドクメンタを見に行ったのね。そのとき東野さんが「横尾くんさ、君、美術っていうとたった今起こってることにしか興味ないんだろう」って言うから「ぼくは今始めたばかりだから、それに興味ある」「ダメだよ」「なんでですか」「もっと君がやる以前に美術の歴史があるんだ、その歴史を勉強しなきゃダメだ」っていうわけ。「東野さんは評論家で、勉強すればいいじゃないですか」とまた口答えした。そしたら「画家だって同じなんだ」って。それがすごい気になって、気分が重くなるぐらい気になっちゃったんです、それからずっと。それから日本に帰って、これは歴史だと。いちばん最初からではなくて近いところから順番にさかのぼって、ぼくなりの勉強。しかも本を読むよりも画集をとにかく徹底的に見るっていう、眼から始めて。それから1年も経たないうちにティツィアーノ(・ヴェチェッリオ)(Tiziano Vecellio)の話をぼくがしたらね「なんだよ、そのティツィアーノとかいうややこしいのは」って言うわけ。「東野さん知らないの?」「聞いたことないよ」なんて言うわけ。
池上:ティツィアーノを知らなかったらまずいと思いますけど(笑)。
横尾:まずいよね。「東野さん、あなたぼくにさあ、美術の歴史の勉強しろって言ったじゃない」「いやぁ、君が本気になってルネッサンスまでやると思ってなかったよ」「いやぼく、ジョット(・ディ・ボンドーネ、Giotto di Bondone)までやりましたよ」。そしたら東野さんが大喜びしてくれたんだけど。ある日、「おい、横尾ちゃん、川端龍子が男だってこと知ってる?」って言うわけ、「何?」って言ったら「俺ずっと女だと思ってた」「なんで?」て言ったら「カワバタタツコ」だって。
池上:おかしい(笑)。
横尾:あのとき東野さんは美術評論家連盟の会長だったんですよ、いちばん偉い人。「待って、東野さん、あんた評論家連盟のいちばん偉い人やっててね、川端タツ子はないよ」(笑)。
池上:タツ子はまずいですよね(笑)。
横尾:「恥ずかしいから言わんほうがいいよ」って言ったのを覚えてるわけ。そういうところがぼくはまた好きなんですよ。東野さんのことが。
池上:ちょっとお茶目ですね。
横尾:「男だって知ってた?」って聞き方がおかしくって(笑)。一方で「お前、歴史観がない」とか言われてさ(笑)。
池上:真面目に勉強したのに。
横尾:真面目じゃないけど、面白かった。ぼくは絵から入ったからさ、名前を覚えるのは後回しにしたの。名前は後でいいやと思って。評論家は名前も絵も一体でなきゃいけないけど、ぼくたち名前は知らなくたって、ゴッホとゴーギャンの区別なんかつかなくったっていいわけだからさ(笑)。ラウシェンバーグがあるときこんなこと言ったの。彼に「あなた、現代のピカソだって言われてるよね」て言ったら、ニッコリして「俺ほどスタイル、様式を変えるやつはいないんだよ」って言ったわけ。そのときぼくはラウシェンバーグほどスタイルを変えない人はいないんじゃないかと思った。
池上:逆に。
横尾:逆に。彼は、変えてるのは支持体だけで、それを立体にしたりしているだけで、やってることはなにも変わっていない。
池上:組み合わせのアートですよね。
横尾:全部支持体が違うから、全部同じことはやってないと思ってるわけ。彼はそのことがあったのでなんぼでも作品ができたと思う。手当たり次第に作品が増えていったと思うんですよ。
池上:そうですね。
横尾:増えすぎて値段が下がったと言ってるんですよ、本人は(笑)。ROCIでお金使い過ぎたから、えらいこっちゃと言ってるわけ。アンディ・ウォーホルやジャスパーの作品を売らなきゃいけないって言ってるわけ。
池上:大変ですね。
横尾:その作品は、自分の絵は売れないけども、彼らの絵は高く売れる。しかも初期のものを持ってるからね。
池上:もったいないですけどね、手放したら。
横尾:「あんたさ、作品の数多いから自分のを売ればいいじゃない」と言ったら、「俺のは売れないんだ」って言うわけ(笑)。正直ですよ。アーティストは正直でなきゃダメですね。
池上:ROCIの頃の作品は確かに、当時はあんまり評価されてなかったかもしれないですね。
横尾:だけどね、また時代が変わってどうなるか分からないし、この自由気ままというか、無頓着性ね、東洋的につながるこの無頓着性は、ぼくは美術にとってものすごく大事だと思う。
池上:そうですね。
横尾:だけどみんな評価するのは、この作品よりこっちがまずいとか、そういう言い方すると思うわけ。それはだめで、一人の優秀な作家が一点傑作を作れば、他の作品にも同じ血液が流れてるんだから、それも同じだけの評価をしないとぼくはダメだと思うわけ。1等、2等、3等と付けてもいいけども、これはいいけどこれはダメだというような言い方は、ぼくは評論家としてはダメだと思う。これと他の人のを比べて、こっちはダメっていうのはいいけれども、一人の人の組織、細胞、血液から流れて出たものは、やっぱり大傑作を一点作ってれば、あとはもう傑作の水脈があると思うんですよね。
池上:ラウシェンバーグは、出かけていく文化が違う文化なので、そこでいくらでも違う素材を発見してるんですよね。だから多様なようには見えるんですけど。
横尾:彼としては、アメリカでは手に入らないものを手に入れて、なんだか妙なものをぶら下げたりして、「やった!」という感じは。昔の、タイヤに山羊か羊を放り込んだやつ、ああいう感覚でたぶん作ってると思うんですよね。
池上:方法論はあんまり変わってないんですよね。
横尾:そうなんですよ。アメリカの場合は、ジャスパーなんかは一生懸命変えようとしている感じはするんだけれども、どうなんですかね。ウォーホルも方法論は変わってないですよね。変わってしまって消えるのが怖いっていうのはあると思いますよ。
池上:あとやっぱりひとつのブランドみたいになるので、それと違うものをやる怖さはあるのかもしれないですね。
横尾:あると思いますよ。ぼくは日本にいて助かってると思います。ぼくみたいな気の多い、あれやりたいこれやりたい、すぐ飽きてしまう人間というのは毎日違うことをやってたいと思うんですよね。アメリカじゃこんなことできないもん。でも、こんなエピソードがあって。ウォーホルのところへ行ったときに、アシスタントがロールのキャンヴァスをズルズル引っ張って持ってきたんです。ウォーホルはスケッチ描いてるんですよ。彼がそのスケッチを見てウォ-ホルに、「あんた、ここにプレスリーを入れて、ここに花を入れて、ここにモンローが入っているけど、これとこれを入れ替えてこうしたほうがいい」って言うんですよ。ウォーホルが描いたそのとおりにすりゃいいのに。ウォーホルがどう言うかなと思って聞いていたら、「あ、そう。君がそう思うんなら、好きなようにやったら」、これで終わり。「Thank you」とか言いながらズルズル持っていく。
池上:それでやると(笑)。
横尾:ウォーホルの凄さっていうのは、アイデアはなにも自分の固有のものでなくてもいい。いい考えがあれば、他人であろうが誰であろうが関係ない、それは採用すべきだみたいな。そうすることによって自分がもっと幅広くいろんなことをできる。そういうのをまざまざと見せつけられた。2回目に会ったときは「入っていいよ」って秘書の人が言うから行ったら、彼はテーブルの上に腰掛けてさ、入っていいよって言っといて電話をしてるわけですよ。電話を頭と肩の間に挟んでんの、こうして。コーヒー茶碗を持って「やあやあ」とか言いながら飲んで、こちらでは新聞を見てんですよ。
池上:へえ~。
横尾:それは完璧な演出なんですよ、ぼくに対する。前に会ったときもそうだった。とにかくそういう演出。入っていいよって言ったら、全部こちらの要件が終わって、それで「はい、どうぞ」と秘書が言って、それで行くわけでしょ。そしたら応接間があって、みたいな。彼はもう、5th Avenueのビジネスマンみたいな感じで。
池上:「多忙なぼく」っていうのを見せたいんですね(笑)。
横尾:多忙で、全然アーティストらしくないだろ? って。
池上:クールでしょ、みたいな。
横尾:いつもこんな感じで作品作ってんだよって、そういうことを言いたいわけ。
池上:イメージ演出の一環なんですね。
横尾:そこも面白いですよ、だけど、ぼくは彼の発想の原点が面白かった。
池上:発想の原点っていうのは、人の言うことを聞いちゃうっていう。
横尾:そう、人ごとみたい。自分ごとじゃないんですよ。あれは何なんだろうと思ってね。彼が秘書の女の子に、「アイデアないんだけど、何かアイデアちょうだいよ」なんて言ったら、女の子が「じゃあ今すぐ行くから待ってね」って女の子飛んでくるんですよ。「アイデアあげるから、そのかわり50ドルくれる?」って言うから「じゃあ、あげるよ」「先にちょうだいよ」。そしたらウォーホル「50ドルでいいの?」って50ドルあげた。「じゃあ教えて」「この50ドルをキャンヴァスに描きなさい」。で、彼は50ドルをダーッと並べてカンヴァスにあの傑作を作った。だから自分のものは何にもない。
池上:自分はまさに媒体というか、いろんなものが通過していくという。
横尾:そう。それでいいんですよ。ウォーホルがたくさん書いた、ウォーホルの言葉を読むのもいいけど、やっぱりそういう、会ったときのちょっとした経験、体を通して感じたものっていうのは、こちらは万巻の書を読んだぐらいのあれになるわけですよね。だからできるだけ会った方がいい。
池上:そういうちょっとした出会いが。
横尾:そう、1回か2回でいいんですよ。
池上:ありがとうございます。たいへん貴重なお話をたくさん聞かせていただいて。
横尾:余計な話ばっかりで、活字にしたらおかしいような話ばっかりだと思うけども。
池上:いえいえ。今日はだいぶ時間が過ぎてしまったので、もしよければまた来させていただきたいと思います。
横尾:ぼくがまた神戸に行くこともあるしね。
池上:長い時間、本当にありがとうございました。