鷲田:今日は、このインタビューの続きということで1970年代から後のお話を聞かせていただければと思います。
中森:今度ムサビ(武蔵野美術大学)で展覧会やりますよね、コンポジションの作品の。
石元:杉浦(康平)さんが(カタログの)レイアウトやってて。昨日電話があったの。
中森:杉浦先生のデザインというのはどうなるんでしょうね。ちょっと心配ですか(笑)。
石元:けったいの、するからね(笑)。《曼荼羅》を一緒にやったのよ。《曼荼羅》をやってもらったときは、自分はアメリカにちょっと行ってて。まだ《曼荼羅》撮ってなかったの。杉浦さんにも話してなくて。カリフォルニアでヒッピーの雑誌があって、それを買ってきて。
中森:なんていう雑誌か覚えてらっしゃいます?
石元:いや、なんていうかわからない。それでなんか杉浦さん好きそうだったから買ってきてあげたの。
鷲田:前から石元先生と杉浦さんは親しかったんですか。
石元:親しかったよね。
鷲田:出会われたのはいつごろですか?
石元:わからない。それで《曼荼羅》をやることになって、杉浦さんに頼んだんだよ。それで杉浦さんにも京都に来てもらって、曼荼羅見てもらって頼んだの。それで最初、曼荼羅を5000枚くらい撮ってるの。ここ(自宅)にあるんだけどね。それで最初につくったのは、こんな小さい、こんな薄い本だったの、これくらいのね。「これじゃあ全然入らないから、もっと大きいのにしてください」って。そう言ったら、今度はもうちょっと100枚くらい入る。それでもやっぱり、5000枚の中でねえ、ちょっと少ないかなって。それで今度考えたのは、15万やって、20万になって、それで30万くらいになったかな。
中森:それは30万「円」ですか。プロトタイプですよね。
石元:そう、だんだん膨らんでいってね。30万からあと、88万に増えちゃったの。だけど、ほんとは120万くらいするわけだったの。平凡社の社長が「88万円で末広がりにしてやっちゃおう」って。それであのときは平凡社も損したのよ。
鷲田:平凡社の方が杉浦さんを推薦されたとかじゃなくて?
石元:自分が選んだの。
中森:杉浦さん芸大の出身で、建築出身だし、先生と仲良かった太田(徹也)さんとか、太田さんの先生の田中一光さんとか、仲間だったんでしょうね。
鷲田:それまでは杉浦さんは曼荼羅にはそんなに関心はなかったんですか。
石元:関心なかったの。ヒッピーの雑誌に(曼荼羅に)興味がわくことが書いてあったの。それで杉浦さんをひっぱりこんだの。
中森:杉浦さんにとってはすごく大事な作品だったんですよね。
石元:すごく大事な本だったと思う。それからブータンに行っててね、そこで奥さん亡くなったの。
中森:そうでしたね。
鷲田:石元先生は杉浦さんだったらきっと興味を持つだろうと思って、ヒッピーの雑誌を買って帰られたってことですよね(笑)。
石元:そう。引っかかるように。
中森:(笑)おかしいですね。それで《両界曼荼羅》は何部売れたんですか?
石元:500部刷ったの。どんだけ買ったか知らない。
中森:完売しました?
石元:完売した。こんな木の箱に入ってるの。
中森:東京写美(東京都写真美術館)の図書館に行くとあるんですよ。でも二人がかりで持ってきますよ。
石元:あれ全部、顔が見開きになってるの。それで気に食わないで今度(頁の境目が)入らないやつをやろうとしてる。
中森:お顔はきれいな方がいいですよね。
鷲田:それは新しく作ろうとされている?
石元:そう、明後日あたり、平凡社がやってきてそういうこと話すの。
鷲田:今度はもっとセレクトした?
石元:もう平凡社はつぶれちゃったから。あれで直接つぶれたわけじゃないんだけど、まもなくつぶれたの(註:平凡社は1981年経営危機に陥いる)。そのときの印刷はニッシャ(日本写真印刷株式会社)でやったの、京都の。その当時、スキャナが二台か三台しかないときだった、日本に。イスラエルのスキャナがあったでしょ。それが一番最初に入って、大日本スクリーンなんかがつくり始めて、大日本スクリーンのは二台くらい入ってたの、ニッシャに。それで《曼荼羅》をやることになって、曼荼羅の色に合わせてやろうということで、スキャナをなおしちゃったの。曼荼羅の色に合わせて出てくるようにね。一台はそれで、10ヶ月くらいタイアップしちゃったの、もう曼荼羅しかできないの。杉浦さんが怒っちゃってね、曼荼羅の色はということで。他のものには一切使えないことにして。今だったらなんでもないだろうけど、当時スキャナないだろうからね…、そんなときに一台使えなくしちゃったの。
中森:確か曼荼羅のときは奥様の滋さんお手伝いなさって…。
石元:彼女がここに全部、原版も並べて。
中森:撮影のときにも、もちろん滋さん一緒だったでしょう、一つ一つの顔を見て写真を撮るわけで。
石元:撮るときには杉浦さん、東京に帰ってたの。
中森:撮るときには?
石元:自分と、アシスタントが一人ついてやったの。
中森:どのアシスタントですか。
石元:あのときは誰だったかな。田中さん・・・?それでストロボがないんでね。自分が持ってたやつ、ストロボでやっても2回やれなかったの。曼荼羅がこんなに波打ってるの。それでね、その上にテープを貼って、上と下と。それで少しフラットにしてやったんだけど、折れてるやつがまだ波打ってるのね。それで8×10で撮る時に絞りが16しか絞れないの。
鷲田:暗いから。
石元:16くらい絞っても35mmで言ったらF4くらいのところでしょう。それで今度、4×5で撮ったの。そのときはアップでやったんだけど。その時はもう16くらいまで絞ってやれたんだけど、全体像を撮るときは、もうほんと絞れなかったの。4×5と6×6と使って、5000枚くらい撮って。
鷲田:先ほどのお話だと撮り始める前には杉浦さんもいっしょに来られて?
石元:杉浦さんは一緒に曼荼羅を見にきて。
鷲田:そのときはこういう風にしようとか
石元:そういうのはない。自分でやった。
鷲田:自分で見て。
石元:レイアウトだけ頼んだの。
中森:写真のセレクションですけども。どの写真を使いましょうっていうときは、杉浦さんがお一人で決めたんですか。それともお二人で?
石元:5000枚を杉浦さんに渡して、それを杉浦さんが適当に選んでやった。
鷲田:平凡社っていうのは『太陽』を出してたとこですよね。
石元:『太陽』の取材に行って、当時の曼荼羅を撮ることになってたの。一枚か二枚。
鷲田:『太陽』に掲載するために?
石元:それで「曼荼羅は痛みが激しいから、勘弁してほしい」て言われたの。どっか別のお寺に行って撮ったの。もう一度帰ってきて。あそこの宝物殿に飾ってあったの。それならどうせ飾ってあるんだったら、許可も初めもらってるんだから、「1枚か2枚撮るの、やらせてくれないか」って。そしたら「しょうがない」ってやらせてもらったわけ。そのときに4×5で見てて。フィルムが残ってたから、好きなやつをみんなに撮ってやるからって、後ろから覗かせてみんなで撮ったの。お寺の坊さんも好きなやつを選んで撮ったの。「これはすばらしい」ってことになって、みんな曼荼羅を見るとき、遠くの方からしか見ない。
中森:そうですね、細部には注目しないですね。
石元:それでアップで見たでしょ、そしたら「これはすばらしい」って。「仕事が空いてる時にやってくるから許可を欲しい」って。それで1ヶ月くらい後に行ったの。それで許可を下ろしてくれなかったんだけど、勅使河原蒼風、草月流の。彼に頼んで許可をもらっちゃったの。それで5000枚撮っちゃったの。
鷲田:そこからは『太陽』の仕事とは別に。
石元:そう、自分の仕事として。
鷲田:自分の作品として。
中森:『太陽』の編集長さん、誰でしたっけ、名前。とても頭の切れる人でしたよね。たしかその人はわりと先生とおつきあいありましたよね。
石元:あのときは、松森(務)さんが編集手伝ってくれたの。松森さんはこちら(東京)にいて東寺なんかに行かなかったんだけど。社長が編集長みたいな格好でやってたの。
中森:社長さんのお名前は何とおっしゃいますか。
石元:下中(邦彦)さん。彼なんかもよくうちにやってきて、遊んでたの。平凡社は5月頃、ストをやるの。ストをやってる間はね、ここを編集室に(笑)。ここでやってたの。
鷲田:《曼荼羅》のことだけではなくて、『太陽』のお仕事はたくさんされていたんですか。
石元:そんなにやってないの。この《曼荼羅》の仕事は自分もお金出してやったわけ。桂とか伊勢だとか自分もお金を出して、仕事じゃない。
鷲田:例えば『太陽』という雑誌に掲載されるときは、原版は雑誌社の方に渡してしまうものなんですか。
石元:それは杉浦さんに編集やるときは渡してたよね。
中森:それでもネガは返ってきますよね。 宮内(嘉久)さん、川添(登)さんが編集人をなさっていた『新建築』のときにはどうなさいましたか。
石元:8×10に伸ばして、それを渡すの。
鷲田:4×5とかで撮ったものをブローアップするような。
石元:そうそう。最初のあの頃は、1枚700円くらいだったのよ。
中森:結構いいほうですよね、安いですか。
石元:(雑誌に)使った場合に700円。だって何枚も渡すでしょ。その当時、パックのフィルムが750円くらい、1パックがね。だからこっちは全然損しちゃうの。
中森:1パック何枚入ってるんですか。
石元:12枚。撮ったやつが全部いいわけじゃないでしょ。
中森:先日、石元先生の韮山の「江川邸」の写真、「縄文的なるもの」(註:白井晟一、『新建築』、1956年)というエッセイに付いている写真を拝見しました。とても大事な作品ですね。
石元:あれも露出がうまくいかなかったら大変だったよ。焼くときに。
鷲田:話が変わりますけれども、《曼荼羅》の頃に中東とかイスラエルとか取材の長期の旅行をされてますよね。
石元:最初中近東に行ったのは、《千夜一夜物語》をやるときで、あれで行ったの。澁澤さんと祐乗坊(ゆうじょうぼう)さん。《千夜一夜物語》で初めて中近東に行ったの。
鷲田:その本に載せる写真を撮るために?
石元:雑誌にね。
鷲田:雑誌に「千夜一夜」の連載がされていたということですか。
中森:『太陽』ですか?
石元:『太陽』。それで、初めて行って、「ここはずいぶんアメリカやヨーロッパと違うなあ」と思って。文化が。ほんとにそう思ったわけ。日本とも違うし、ヨーロッパとも違うし。それでとにかくトルコで、女の子がいたら表紙にするために撮るはずだったの。そしたら断られちゃったの。それでこちらもそんなにお金はね…。篠山紀信がちょうど前の年に行ってて、500ドル払ってたの。こっちはそんなにお金払えないから断られちゃったの。それで一回だめで、二回か三回やってる間に、ホテルの部屋を使ってモデルに女の子を使って、なんか一緒になっちゃってやってたんだけど、断られて。トルコはだめだって、それでエジプトに行って、そこでやった。夜、ベリーダンサーが来て、ピラミッドのために。ベリーダンサーを撮ってたら、そのベリーダンサーがやってきて、「写真を撮ってくれないか」って言ってきたの。これは「しめたもんだ」って、次の日に来てもらうはずで別れたの。やっぱり「だめだ」って言われて。向こうでは男がついてるんだよね、みんな。それでタクシーの運転手に頼んだんだけど、だめで。話をしている間に、いいことになって、それでホテル……あれは何だったっけ。ルーズヴェルトとかね、ああいう連中が集まるそういうホテル。
中森:ああ、そういう場所ありますよね。なんだっけ。
石元:そこを借りてやることになって。その部屋のイギリスの将軍の、誰だったっけ。ナチを追っかけて砂漠の…。その部屋を借りて。
中森:戦後の話ですよね。戦犯のナチが逃げていくんですよね。
石元:あれはなんていう名前だったっけね。そういう人が泊まってた部屋を借りてやったの。
鷲田:結構長期、1ヶ月とか2ヶ月とか?
石元:そんなに長く行かない。一週間くらい。エジプトにも、そういう格好で行くと、お金もうけてるだろうって。やれるようなこと言って、だめになって。交渉をしてって何回もやらなきゃいけないのよ。一回じゃいかない。大変だったよ、あのときはね。今度砂漠の中でラクダ連れて行って、絨毯を引いてお祈りするやつで、そこで踊ったりするの。また女の子を連れてってやってもらおうと思ったんだけど、おばあちゃんだったの。あんまりひどいから、悪魔の方をおばあちゃんにして(笑)。ほんとにね、楽しんだよね。
鷲田:『イスラム 空間と文様』ていう本に繋がっていくわけですか。
石元:そのときトルコ行っちゃって、それでそのときは初めてで。今度二回目に何で行ったんだっけね。そのときにイスラムの建築見たんだよね。そのときにトプカピなどなんだの見たのよ。それでそういうやつを撮影して、それを少し撮ったやつを『太陽』に出しちゃったの。それで今度、あのときはバクダッドに行ったよね、テヘランの方にも行ったし。イスラムの建物…。
鷲田:その頃からは『太陽』の仕事を離れて?
石元:『太陽』の仕事じゃないんだけど、余った時間にそういうのを全部写したの。
鷲田:旅費も自分で出して。
石元:それで今度イスラムの建築の写真をほんとにこんな小さい、ちょうどこんな本だね。こんな大きさの本にするんだったら100ページくらい。それくらい写真があるから、それでやってほしいって。それで田中一光さんに出したら、「100ページくらいじゃもったいない。もっと大きいのにしましょうよ」って。「そんなに大きいのにするならもう一度行ってくるわ」って。
中森:大変ですね。
石元:それでまた中近東に…そのときはスペインから行ったの。
中森:コルドバ宮廷の写真も撮影なさりましたね。
石元:スペインからシベリアかなんか周って、アフリカに行ってやろうと思って。でも時間が短くて行けなくて、スペインの次はトルコに行って、トルコを撮って。それで次はイランに行って、イランを撮って。それでインドに来て、インドも撮ったの。
鷲田:そのときは一人で行かれたんですか?
石元:いや、ワイフと。
中森:滋さんはもちろんいろんなところで先生のことをアシストするんでしょうけども、どういうふうに二人でお仕事するんですか。
石元:彼女はほんとに大変だったの。タージマハールなんか行くと許可取らなきゃいけない。三脚は使わせないの。だから彼女、肩にこうして(カメラを置いて)撮ったの。大変だったの。
中森:じゃ滋さんがいないとできないこといっぱいありましたね。
中森:その頃、写真をつくって本にすることは第一ですよね。その写真のセレクションの中から、時々雑誌に載ることもあったわけですよね。まだ美術館とかギャラリーっていうかたちで展覧会することはなかったんですか。
石元:ぜんぜんなかった。田中一光さんが、「西武のギャラリーで展覧会やりましょうよ」って言ったの。
中森:なんていうギャラリーですか。
石元:西武美術館。まだそのころそんなにシャープじゃないのよね、フィルム自身が。今のカメラだったら、レーザーでやってずいぶんきれいにいくわけよね。だけどその当時はまだそんなにきれいにいくわけじゃないから断ったの。今だったらスキャンをしてデジタルでやれるでしょう。今だったらいいよね。
中森:これ(年譜)を見てると、75年の「日本現代写真史展 終戦から昭和45年まで」というのがあったわけですね、西武美術館で。
鷲田:開館してすぐ。
中森:77年に先生の個展で「(石元泰博写真)曼荼羅展」が始まったわけですよね。先生の展覧会の場所として、西武百貨店美術館が日本における比較的最初の美術館展示の場所だったんだ。
石元:その頃の社長さん、堤(清二)さんとちょくちょく話して、「やりましょう」ってOKしてくれた。だからあの時はずいぶんデカくやったよ。《曼荼羅》を原寸大に伸ばしちゃって、ずいぶん大きくやったよ。
中森:まだ写真の全盛期かもしれませんよね。
石元:あの時はまだね、お金も日本にあったからね、すいぶん使わせてもらったよね。一回展覧会やると、2000万か3000万使っちゃったから。
鷲田:当時のお金で、ですよね。
中森:西武は展覧会のデザインなんかは誰がするんですか。
石元:これは田中一光さん。
中森:田中さんとのコラボレーションは本にしてもそうだし展覧会でも続くわけですよね。
石元:曼荼羅なんかのときは杉浦さんがやって、西武で展覧会やるときなんかは田中さんだったの。田中さんが西武の堤さんと一緒にやることになってたから。
鷲田:当時はその後、美術館にコレクションされるということはなかったんですか。
石元:その《曼荼羅》を西武でやったのをドイツに持ってったの。それで今度は大阪の美術館が《曼荼羅》を同じように伸ばしてほしいって。もう一つ同じ大きさのをつくって。
中森:国立国際(国立国際美術館)ですね。万博の跡地の。78年ですね。そのあと個展っていうかたちで、ギャラリー・アイハート、P.G.I.(82年)と続く。商業ベースのギャラリーでの個展がそろそろ頻繁になる。シカゴでは、写真集「シカゴ、シカゴ」の展覧会がそれまでにありましたよね。
石元:それはギャラリーでやったの。だけどね、(シカゴの美術館での展覧会では)当時ヒュー・エドワード(註:シカゴ美術館のプリント、ドローイング キュレーターで1959年から1970年まで在職)てのがいてね。
中森:エドワード?
石元:うん、それはキュレーターなんだけど、浮世絵なの。それが好きで、写真が好きで、ロバート・フランクなんかをやったの。
中森:シカゴ・アート・インスティテュートですね。
石元:だから他にやる前にもロバート・フランク、あそこにやっちゃったの。まだ(美術館には写真専門の)ギャラリーがなかったのよ。プリントなんかを掛けてる廊下があるでしょ、そこに掛けたの。自分のときもそこに掛けられたの。ギャラリーが無いから、写真の。そのあとギャラリーができたの。
中森:東京の P.G.I.での一番最初の展覧会。82年でしたよね。そのときにまたシカゴの写真をお焼きになったんですよ。
石元:一つはグロッシーの印画紙しかなかったの(註:フェロタイプ・ドラム乾燥機で光沢面に仕上げるための薄手光沢紙)。それしかないから全部それで焼いてたの。シカゴのやつをね。それで…。
中森:「月光(GEKKO)」じゃないでしたっけ?新しい紙ができたんですよね。
石元:(オリエンタルの)新しい印画紙ができて、そのとき相談持ち込まれたわけ(註:オリエンタル・ニューシーガル厚手光沢紙)。黒のしまりがいいとかって。そういうことを頼まれてやってて、それでそれができて使い始めたの。
鷲田:「月光」っていうのは紙の種類の名前ですか?
石元;「月光」は最初の方の印画紙の名前(註:三菱社製の印画紙の名称。グロッシー、薄手光沢紙)。
鷲田:グロッシーな方ですね。そのあとノングロッシーの紙が出てくるようになった(註:自然乾燥の状態で仕上げる厚手の光沢紙)。
中森:わりとしっとりとした深い黒が出る感じの。
鷲田:そういう印画紙がでてきたから、それにプリントしてほしいっていうことが出てきて。
石元:それでまた初めからやり直し。
中森:そこでP.G.I.の展覧会のためにやり直したんですよね。
鷲田:P.G.I.で展示したときは、新しいノングロッシーの紙で展示したんですね。
石元:それでシカゴに行ったときは、300枚くらいグロッシーに焼いて、学生のときのも。それをシカゴ(美術館)に最初あげたの。それから今度、いい紙に焼いて。
中森:この前ヒューストン美術館で3件コレクターより寄贈があったんですよ、先生のシカゴのときの写真。コレクターの方がたぶんシカゴの80年のときの展覧会で買ったものを、寄贈してくださって。紙がとてもグロッシーなんですよ。同じイメージのものをP.G.I.で見せていただいたんですけども、そちらの方が新しい紙でマットな感じで色がしっとりしたもっと深い感じなんですよ。それが先生がさっきおっしゃったP.G.I.の展覧会のために全部焼いた中の一部なんですよね。P.G.I.ではどうして展覧会をすることになったんですか。
石元:ほとんど一番最初だったよね。最初は山本さんという人が(ディレクターを)やってたかな。オーナーは医療器具の輸入商社でしょ。
中森:佐多さん(註:株式会社佐多商会 代表取締役社長)ですよね。
石元:たしか山本さんってのがいて、山崎さんはいつ頃入ったかなあ。
中森:山崎さんは79年からいらっしゃるでしょう。今のディレクターの方ですよね。日大の写真学科の方ですよね。その頃、写真をギャラリーで見せるっていうことはあまりなかったんですよね。
石元:そのころオリジナルプリントだなんだかんだって騒いでた頃なの。そのころ、奈良原一高さんや細江英公さんだってほとんどオリジナルプリントをいい紙に焼いてなかったの。オリジナルプリントっていうことを言い始めてみんなが焼き始めたの。30年くらい前?
中森:そうですね、80年代の頭くらいですよね。じゃそういった頃からやっとオリジナルプリントっていうかたちで、美しいプリントがギャラリーで見せたりとか、コレクションしたいという人が出てきたのですね。
石元:やっと始まったら紙はなくなっちゃうし、写真は終わっちゃうんだよね、デジタルになって。
中森:山岸さんはいらっしゃったんですか、『カメラ毎日』の。
石元:もういなかった。
中森:じゃあ亡くなったのは70年代後半ですかね。
石元:あの頃は雑誌に印刷するのは山岸さんなんかはやっててね。他の人はグロッシーだったから。
中森:作品としてはノングロッシーの方が見た感じはしっとりしてますよね。芸術品ぽいですよね。
石元:だけど初めはそれ(グロッシー)しかないからね。それで焼いてたの。そのときは藤沢に住んでてね。影山(光洋)さんとこの。トタン屋根の小屋があったの。そこを借りてやってたの。そこの下は浄化槽、その上でやってるもんだから、臭いのと(笑)暑くてね、大変だったの。乾かすのは影山さんとこにうちのワイフが行って、乾かしてもらったの。
鷲田:P.G.I.で展示される頃から、サインを入れたりとか、エディションをつけたりとかされてたんですか。
石元:そのころにサイン入れたりなんかし始めて。アメリカなんかでは、最初からグロッシーのもマット面の紙もあったのよね。フォト・ディアボーン・カメラ・クラブでは、マット使ったのよね。それでマウント(合紙)に貼って仕上がりになる。写真のまんまだと、仕上がってない感じになって、マウントに貼って仕上がりになる。そしてサイン入れる。フォト・ディアボーン・カメラ・クラブのときは、最初は知らないけど、学校に入る前だよね。
中森:48年とか?
石元:48年、フォト・ディアボーン・クラブで、印画紙を台紙に貼って。
中森:サロンぽい写真ですよね。
石元:そこにハリ・シゲタ(ハリー・K・シゲタ)がいたの。
中森:ハリウッドにいった人ですよね。
石元:ほとんど、フォードがスポンサーで、ステフンていう帽子の、それも。
中森:商業写真で富を成した人ですよね。
鷲田:そういう習慣は日本ではだいたいP.G.I.とか80年代くらいから。
石元:そう、日本は遅れていること。
中森:山岸さんがいらしたのは日本の前衛の写真を外に出すってところではとてもすばらしいことやってらしたけれども、プリントのクオリティうんぬんとか、エキシビションのなかで美しいものを見せていくというところでは躊躇なさってなかったんじゃないですか。あくまで写真ジャーナリズムの人ですね、彼はね。
石元:だから細江英公さんなんかも今はプラチナプリントやってる。だけどほんとに30年前頃までオリジナルプリントでも持ってけなかったの。グロッシー(薄手光沢紙)でやってたからね。
中森:桂のカラーを81年にお撮りになるじゃないですか。また桂に行きたいと思ったのはなぜか。
石元:リニューアルして、そのときの最初だったんだよね。全然人を入れていないときで、やらしてもらったの。同じことだったんだけど、オリンピックの年に、市川崑があそこで映画とってくれないかって。そのときは断ったの。
鷲田:64年てことですよね。64年に市川崑が石元先生に映画を撮ってほしいと。
石元:そう。映画でも最初の本をなぞることになっちゃうから、面白くないから、それで断ったの。
鷲田:この83年のときは最初とは違うことができるんじゃないかと。
石元:ちょっと色もついてるから、撮ってやろうかなあって。このときはそんなに気乗りがしてるわけじゃないけどね。
鷲田:それは誰かに依頼されてじゃなくて、自分で、カラーでやってみたいってことで撮られたんですよね。
石元:《曼荼羅》やって、そんなに硬いこと言っててもしょうがないじゃないかって。《曼荼羅》やって、ずいぶん角が取れちゃったんだよね。
中森:カラーの方はあんまり気合が入ってないんですよっておっしゃてましたよね。やっぱり白黒は一対一の対決みたいな感じだったんでしょうけど。どうしてまた磯崎さんが文章書いたんでしたっけ?
石元:磯崎さんの建物の写真をずっと自分がやってたの。
鷲田:それよりもずっと前から?
石元:一番最初から磯崎さんと一緒だったの。九州の…
鷲田:大分とか。
中森:福岡とかありますよね、いろいろね。
石元:それで一緒にやってて、磯崎さんは、伊勢で終わっちゃうの。
鷲田:最初は磯崎さんが写真を撮ってほしいっていうような依頼があったんですか。
石元:そう、頼まれて。それで当時、丹下さんの広島(広島平和記念資料館)を撮ってたの。
石元:それから高松の。
中森:香川県庁舎。
石元:丹下さんはそこまでだったの。それからちょっと頼まれたのは、名古屋の織物やるところの建物(註:図書印刷原町工場、1955年竣工、静岡県沼津市)。
中森:そうですね、あれは工場ですよね。
石元:そこでも丹下さんの写真を撮った。
中森:ちょうど『桂』の本ができる前ですよね。ちょっと休憩しましょうか。
(休憩)
鷲田:前回話を聞いたときに、映画の話、フィルムに色を塗ったりというお話を聞いたんですが、それとは別に、勅使河原宏さんの「白い朝」という映画に撮影で関わられていたんですか?
石元:あれはほんのちょっとなの。
鷲田:どういう関わりだったんでしょう?
石元:オムニバスみたいな映画だったよね。
鷲田:そうですね。
石元:それで、自分もちょっとまわしたんだけれども。
鷲田:フィルムのカメラをまわされたんですか。
石元:自分に向かないと思って、よしちゃったのよ。
鷲田:全部じゃなくて、一部分?
石元:吉岡(康弘)っていう。
鷲田:吉岡さんていう人のカメラをされたんですか。
石元:自分がシカゴでやった映画があって。
中森:マックスウェルストリート?
石元:あれを35mmに直しちゃったら
中森:まだ見たことないんですよ。確かP.G.I.にあるんですよね。
石元:あれ?うちにある。高知は、作っちゃったらしいの、別のやつをね。これは近代美術館(東京国立近代美術館フィルムセンター)にあげようと思ってつくったの。そしたら、あそこはあんまり素っ気ないから。「シカゴの映画をあげるから」って言っても「いらない」って。もう一度聞いても「いらない」っていうから、もうあげない。それでもう、写真も一切あげないってことにしちゃったの。
石元:あれはニューマンと撮ったんだけど、割合にいい。
中森:なんていう名前でしたっけ。
石元:「Street without Name」(註:「Church on Maxwell Street」としても知られている)
中森:ゴスペル、歌を歌ってませんでした?
石元:音はなかったの。音は別々だったの。16mmでやってね。最初から音を入れるつもりもなくてね。初めはお金もないから、24コマじゃなきゃいけないのを16コマにして、サイレントにして。ちょうどそのころ、テープレコーダーができた。それをシカゴのカメラ屋で借りて、ストリートに持ってってそれで歌ってる連中を撮ったの。その連中はほんとに上手ですよ。ニューマンと二人でね…当時はまだ、編集する機械もないの。ただテープだけでしょ。
中森:適当ですね。
石元:それで、それを繋ごうってやってたんだけど、自分も帰ることになって、ニューマンもニューヨークに帰ったの。二人がテープを半分ずつ持ってて。ニューマンがね、フィルムを16mmでやって、ニューマンの友達がハリウッドでそれをテープに起こすのをやってるから、それに頼んだの。16mmから、35mmにしたの。それでニューマンもね、そこまで行ったらもう今テープに音も入るからって音も一緒に入れちゃおうって。ニューマンのやつは失ったかなんかしちゃって、自分は持ってて、それでアメリカに送って、それでその友達が音を入れてくれたの。
中森:それは最近の話ですよね。いつ頃ですか。いつ音を入れたんですか。
石元:それで、ほんとにうまく入れてるの。
中森:じゃぜひ見たいですね。
鷲田:「白い朝」のちょっと前くらいの時期に御陣乗太鼓の写真を撮っておられますよね。それも『太陽』とかのきっかけがあったんですか。
石元:あれは『太陽』じゃなかったよね。先に撮りに行って、あとで『太陽』が使ったかなんかしたの。
鷲田:石元先生が関心をもたれたんですか。太鼓に?
石元:勅使河原で御陣乗太鼓やって、面白いなと思って。
鷲田:「砂の女」の映画のなかにも出てきますよね。
石元:なんか勅使河原に…どうしたっけね。勅使河原に聞いたの。
鷲田:で、おもしろいと思われて。
石元:そう、それでおもしろいと思って撮り行こうと思って。それから青森の方で、ねぶたを撮りに行ったの。そのときついて行ったのが、ロバート・フランクの本をやってる、元村さん・・・
中森:元村和彦さんね。
石元:そう、彼が付いてって。
中森:彼とはお付き合いあるんですか。
石元:あるんだけど、ご無沙汰してる。
鷲田:あと、出雲とか伊勢に撮影に行かれてますよね。これは、何かきっかけがあったんですか。これも雑誌ですか。
石元:これは西村さんていう女の人に、伊勢やらないかって言われたの。だけど、自分も最初日本に来たときにね、ちょうど戦後のときだったの。そのときにやりたいなあと思ったんだけど、やらなかったの。そのときにやったのは渡辺義雄さんだったの。
中森:そうですね。
石元:それで考えたんだけど、西村さんが許可取ったからやらないかって。それで始めたの。許可はなかなか下りないの。で、初めの間、許可も下りそうになって途中でだめになっちゃって、また人が変わってやれることになったの。それで自分だけかと思ったの、許可をもらったのは。そしたら渡辺義雄さんと…、3人にもくれちゃってて。その中に、もう一つ入っちゃって、映画が。
中森:4人ですね。
石元:義雄さんが一番最初に入れるのよ。とにかく義雄さんが最初に撮ってるでしょ、伊勢をね。それで義雄さんが入るのよね。それで義雄さんも車椅子に乗ってたのよ。自分なんか、中に入っても塀のそばに待機してるだけなの。義雄さんの場合も前に撮ってるからね。今度新しくやるにしても、ちょっとカットが一つか二つか変われば前のやつに足してやれるからそれでよかったの。自分なんか全部初めからやんなきゃいけないから大変だったの。外宮と内宮とあって、外宮3日、内宮3日て、それも日にちが決められてるの。それも、お天気が悪かろうが、雨が降ろうが、決められた日に撮らなきゃいけない。9月だったんだけど、外宮のときにちょうど台風が通っちゃって、で、雨のとき撮っちゃったんだよね。
鷲田:もうすぐ20年経つんですよね。
中森:どうですか、もう一回。
石元:もう行けない。一人でカメラ持たなくなったら、やらないと思ってるから。もう持てないから4×5のカメラなんか全部高知にあげちゃったの。だから日本ではね、おんぶしてもらっても、やりたい人はやって、ただのぞくとかでやってる連中いるんだけどね。自分はやらない。自分は三脚もカメラも持てない。それができなくなったらもうやらない。
鷲田:《シブヤ、シブヤ》で撮られた写真は35mmのカメラで撮られてるんですか。
石元:あれは35mm。
中森:ノーファインダーで撮っているからほとんど隠しカメラみたいですよね。
鷲田:もう作品集ができてからは、渋谷では撮っていないんですか。
中森:2006年ですか。
鷲田:2006年くらいですね。
中森:そのあとに多重露光のコンポジションはずっと撮っておられましたよね。2007年くらいまで。
石元:あれはもう50年ほどやってるの。(マガジンラックを指して)あそこにある、『approach』(竹中工務店季刊広報誌)っていう雑誌で表紙やってるの。
中森:2008年に平凡社から出た『めぐりあう色とかたち』ですね。
石元:去年(2008年)の1月まで撮ったのよ。それからは一切撮ってない。
鷲田:また今後、写真を撮ろうっていう気持ちは。
石元:もうぜんぜん思わないの。
中森:今は編集作業ですよね。《曼荼羅》もあるし、《桂》もあるでしょ。まだ二冊は必ずあるでしょ。
石元:今やれることはそういうことしかないの。
鷲田:曼荼羅は先ほどおっしゃていた小さいサイズのものを作ろうとされているということですね。
石元:あれはほんとに顔が割れてるから、1ページに残しておきたいなあと思って。
鷲田:《桂》の方はどんな?
石元:《桂》はモノクロ。
中森:53年、54年の写真を使っての本ですよね。(三好和義氏の本を取って)三好和義さん。撮るところは先生に影響されてますね。
石元:これとかはやってない。それからNHKのハイビジョンのカメラとかはほんとにいい加減で。フレームとかぜんぜんできてない。
鷲田:展覧会とかの予定は。
石元:ヒューストンで。日本でやってくれないの。
中森:あとムサビのコンポジションの展覧会がね。夏でしたっけ、秋でしたっけ。
石元:4月?6月か(註:2009年5月11日から6月14日)。
中森:確か6月くらいですね。先生の作品は、アメリカのメジャーな美術館には入ってますからね。ニューヨーク近代美術館、サンフランシスコ近代美術館、シカゴとヒューストンと、あとイーストマン・コダックの、あそこにも何点か入ってますよ。だからコレクションの展覧会のなかでは、先生の写真出てくると思いますよ。
鷲田;高知とはよく行き来されてるんですか。
石元:ぜんぜん行かない。
中森:弟さん、亡くなったんですよね。
石元:弟が亡くなって、高知まで行って。家には帰ってないのよね。家に帰ったのは、40年ぶりか。ちょっとの間ね。だからこの《桂》撮ったとき。最初、俵屋に泊まって。おまえは勘当だって。それからは家に帰らなかった。だからこういう仕事やってくには、百姓だからね、ぜんぜん関係ないわけよね。何話してもわからないのよ。こういう人と会ってってどうだこうだ言ってもぜんぜんわからないでしょ。うちの親父も、おふくろも、うちの弟もほとんど、しゃべってなかった。それでこないだの…。
中森:内藤(廣)さんのやつですか。『INAX REPORT』かな。先生がインタビュー受けていて。《桂》の話を内藤さんがなさってて。内藤さんとても面白いコメントとかあって。
石元:土門拳美術館なんか人も入らなくて大変なの。それで今度展覧会やってほしいって。《シカゴ、シカゴ》を50点貸しちゃうの。マット切るお金もないらしいの。50点より少なくしちゃうの。マットするお金も出ないの。
中森:皆さん、作家の方々、作品をどこに残そうかって考えるじゃないですか。先生は高知にいけば全部あるし、粟津さんの場合は金沢に行けばあるわけだし。
石元:植田正治さんだっけ。そういうふうにしてもしばらくして建物だけ何十億も出して作っちゃってそれで終わっちゃうのよ。だから既存の美術館に収集してもらったほうがいいと思う。
中森:どれだけ活用してもらってるかは分からないですけれども、そこに行けば保存されているわけですから、学芸員だとか学者の方たちが見にいけるわけですよね。
石元:だから自分なんかは、初めから高知(県立美術館)にあげようと思ってたんだよね。みんな自分ひとりの美術館つくろうと思ってやってるけど、それは無理だよね。流行廃りもあるし。
中森:植田正治美術館ありますよね。植田さんのお孫さんがおじいさんのことを皆さんに伝えて本をつくったりとかなさっていたんですけれど、お孫さんが去年亡くなっちゃったんですよね、突然。そういうことがあると、どうなるのかなって気になりますよね。
石元:だから自分なんかは、美術館の隅の方に積んでもらっていいって言ってるの、作品を。いつか興味のある人が積んであれば見る人があるだろうって。特別に何かしたらお金がかかってしょうがない。
中森:高知でも、毎年一回くらい展覧会ありますよね。
鷲田:日本においては高知ってことになりますけど、アメリカにおいてはヒューストン?
石元:アメリカは少ないよ。置いてあるところが少ないよ。
中森:写真で大事な美術館にはだいたい入ってますよ。(注:その後の調査でシカゴ美術館、ヒューストン美術館、カナダ建築センター、ニューヨーク近代美術館の四館で1300点に近い写真が収蔵されていることが判明)
鷲田:最近の話もお伺いできたので。長時間にわたって、ありがとうございました。