細谷:今日はよろしくお願いします。
岩田:よろしくお願いします。
黒川:黒ダさんの『肉体のアナーキズム』(黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』、グラムブックス、2010年』)の取材でここに来たとき(2005年11月19日)は、こんなに広くなかった気がします。
岩田:上の部屋だったんだよ、たぶん。ここは芝居(岩田が1978年10月に原智彦らと結成したロック歌舞伎〈スーパー一座〉。2008年12月に解散)の稽古場だったんです。ゴチャゴチャと芝居の道具があって、今はだんだん片付いてきた。捨てるのが惜しいんだよな。
細谷:そうですよ。岩田さんに捨てられるのは困りますね。いろいろ大切な物があるじゃないですか。
岩田:今カーテンを引いてるけど、この後ろは全部、衣装だもんな。衣装棚になってる。しかも歌舞伎の衣装は明治時代のものをわけてもらったのが多くて、そういうのは大事だからね。
黒ダ:歴史的な価値があるんですね。
岩田:多少はね。今のと全然違うもんね。
黒ダ:昔の古い衣装は買ったんですか。
岩田:そうそう。買ったりもらったり。僕らが芝居を始めた頃は、逆に歌舞伎なんてどうでもいいという時代だったので、昔の貸衣装屋さんが処分してたんだよな。今になったらものすごく貴重だけどね。僕じゃなくて安田(文吉)という大学(現在は東海学園大学)の先生が、伊勢の衣装屋さんがものすごい衣装をトラックで捨てるところを偶然見つけてね。それをもらってきた。伊勢だから歌舞伎が盛んなんだよね。トラックいっぱいだったそうだよ。ここにあるのも息子の代になっても守ってほしいけど。
黒ダ:岩田さんは息子さんがいらっしゃるんですか。
岩田:おるよ、一人。
黒ダ:何をされているんですか。
岩田:学校の先生をやってる。今一緒にはいないけどね。高校の国語の教師だ。豊田にいるの。
黒ダ:真っ当な(笑)。
岩田:愛知県立だけど、よく入れたと思ってね。俺は県からものすごく嫌われてるから、どうして入れたのかと思ってね。俺は一切ノータッチで、息子のことは放りっぱなしだった。息子は自分で受けて、受かったって言うからびっくりしたよ。愛知県だよ(笑)。いっぺん入れば、親父がバレてもクビになることはないだろう。
細谷:幼少期の頃からお話をうかがっていきたいと思います。岩田さんは1935年の名古屋生まれですね。まずお家や両親、ご家族のことを聞かせてください。
岩田:うちは家業が質屋をやってたんだ。僕は長男だ。親父は兵隊に行った。僕の小さな頃に兵隊に行ったから、ほとんど親父の記憶はない。ほとんど一緒に暮らしてないわけ。戦死しちゃったもんでね。このあいだのお盆にお墓参りに行ったら、親父は27歳で戦死してるんだよね。だからほとんど記憶がない。だから僕は祖父と祖母に育てられたみたいなものだよね。おふくろはいるよ。親父はいつ死んだかわからなかったけど、5歳か6歳くらいの頃に死んじゃって。祖父母と母だから、母子家庭ではないな。主に商売はお祖父さんがやっていた。それが戦前の話だね。戦争中は子どもは疎開していて、集団学童疎開といって学校から行くのもあったけど、僕は縁故疎開といって個人で勝手に田舎に疎開したわけ。その田舎が、名古屋の郊外に津島という小さな町があるけど、そこのはずれの勝幡(しょばた、現・愛知県愛西市勝幡町)というところに疎開していた。勝幡は無名なところだけど、信長が生まれたところで、勝幡城があったらしいということで、最近有名になってると聞いた。昔は勝幡城なんて誰も知らない。小さな石ころが置いてあるだけだったけどね。たぶんこれから有名になるよ。
細谷:疎開先で記憶に残っている体験はありますか。
岩田:それまでは名古屋の都会っ子で、しかもひ弱ないじめられっ子だったのが、田舎に行ったら一気にガキ大将になった。だから僕は自分のことを思うと、町で育って、また田舎に育って、戦後に焼け野原で育った。この3つが非常におもしろい。ひとつの人生に3つがある。勝幡の田舎に疎開していたのは小学校の2、3、4、5年の4年間。この4年間の田舎暮らしがものすごくよかったね。僕を健康にした。それまではものすごくひ弱な都会っ子だったよ。
細谷:身体が弱かったりしたんですか。
岩田:身体も弱くて過保護でね。町では本当にいじめられっ子だった。田舎に行ってどうしてあんなに元気になったのか。一気にガキ大将になったな。というのは、田舎だからすべてレベルが低いじゃない? 僕は何につけても威張れたのかもしれない(笑)。身体もどちらかというと大きいでしょう。その頃の田舎は、名古屋から20kmくらい離れただけだけど、全然違う。たとえばびっくりしたのは、小学校に皆、紺絣の羽織を着て通ってたよ。昭和18(1943)年くらいにまだ、服の上だけど、羽織を着ていたからね。それくらいのんびりしていた。
黒川:岩田さんは一人だけ、違う格好をしていたんですか。
岩田:そうだね。僕は都会っ子だから、わりと気取っていた。そこに母親と行って、祖父母は名古屋でまだ商売をしていた。勝幡では母子家庭だった。親戚を頼って行ったんだ。そこですごく元気になったな。
細谷:1945年の敗戦はどこで迎えましたか。
岩田:勝幡で。それからしばらくして名古屋に戻ってきたんだけど、家は全部焼けちゃっていた。
細谷:戦後すぐの名古屋はどういうふうでしたか。
岩田:もうすべて焼け跡だよ。それがいい感じだったな、広々として。全然悲惨な感じじゃなくてよかったね。この3つを経験したのがよかったな。
黒川:このあたりですか。
岩田:そうだよ。全部焼けた。不思議とちょいちょいと残っているところもあるけど、俗に言う焼け野原だな。
黒川:ご兄弟は。
岩田:妹がいる。二人兄妹だ。
黒川:疎開は妹さんも一緒に?
岩田:もちろん。三人で疎開した。
黒ダ:お母様はどんな人だったんですか。
岩田:別に変わってないよ。普通。
黒ダ:お父様が早くに亡くなったんですよね。
岩田:(母は)独身で通したよね。
黒ダ:いろいろ苦労されたんじゃないですか。
岩田:普通に苦労したんだろうな。たとえば戦争中、米の買い出しについて行ったとか、そういう普通の苦労はやってるよね。
黒ダ:お父様やお母様は芸術関係ではなかったですか。
岩田:全然。ただ親父もモダンボーイで、カメラが好きだった。それは趣味の範囲だったけどね。兵隊もカメラ(従軍記録写真家)で行かないかという話があったけど、やめて一般で行ったので死んじゃった。カメラで行ったら死ななかったかもしれないな。
黒ダ:かなり撮れたんじゃないですか。
岩田:だろうね。趣味だろうけどね。
細谷:これまでの高橋綾子さんなどのインタビュー(「スーパー一座主宰 岩田信市さん(上)(下)」、『なごや文化情報』、2005年2~3月)を読むと、わりと幼少期から岩田さんは美術に触れたのが早かったそうですが。
岩田:そうだけど、特別わざわざ言うほどのことじゃないよ。幼少期は多少絵が好きで描いていたというだけで、好きで好きで朝から晩まで描いているとか、そんなんじゃない。普通だよ。遊ぶほうが好きだったよ。一応、多少うまかっただろうけど、学校の選抜で選ばれるけれども、一等になったことはない。そんな程度の普通の子だよ。
細谷:平凡社の美術全集(日本初の「美術全集」である『世界美術全集』[全36巻]、1927~30年)を買ってもらったそうですね。
岩田:そうそう。あれがすごいんだよね。好きだったんだな。自分で描くのは好きじゃなかったけど、小学校の卒業のときに成績がよかったら買ってくれるということでね。
細谷:岩田さんが買って欲しかったんですか。
岩田:うん、欲しかった。なんでそんな本があるかを知ったか不思議なんだけど、けっこう戦後はおもしろい本が古本屋に出てたの。なぜか知らないけど僕は本屋が好きで、古本を見ていて覚えたんだろうな。小学生にしては珍しく、そんな古本を買って自転車の後ろに積んで帰るものだから、古本屋が心配して「お宅の息子さんが買ってくれたんだけどいいですか」と家に訊きに来たくらい。珍しかったんだろうな、小学生がそんな本を買うのが。小学生のくせに生意気に買ったということもあるけど、その本がすごくてね。今の美術全集と違って、全部網羅してるんだよ。これがすごいわけ。戦後はついこのあいだまで、クリムトとかラファエル前派とか忘れられていたでしょう。でもその本にはそれらも、若冲だってちゃんとカラーで載ってたんだよ。若冲なんて今こそ新発見みたいに言っているけど、当時にしてちゃんとカラーで載って、しかも御物と書いてあるから「見たいな。でも御物だから見れないな」なんて思っていた。あと東洋美術がものすごく載っていた。今は東洋と西洋を分けてしまって、関心がなければ東洋美術なんて見れないでしょう。でもそれを見ると東洋美術にものすごく詳しい。あとの話になるけど、僕がインドに行ったのはそういう理由があったの。ヒッピー思想じゃなくて、その本の影響があったんだよ。今、その本を見せようか。
細谷:あるんですか。
岩田:あるよ。持ってくる。(本を持ってきて)なんとなく2冊持ってきたけど、これを見ると東洋がいっぱい、特に中国なんかがいっぱい載っていておもしろいよ。ものすごく網羅的なんだよな。僕はこれをよく推薦するんだけど、古本屋でもあまりないみたいだね。
黒ダ:いつ出たんだろう。
細谷:昭和3(1928)年ですね。
黒ダ:22巻で、こっちは昭和4(1929)年ですね。
細谷:世界美術全集。ルイ王朝。
岩田:これを毎日見ていた。だから目が広くなったな。今の全集だと、有名な絵ばっかりピックアップでしょう。
黒川:特に印象に残っているものはありますか。
岩田:日本だと、やっぱり奇想の画家(辻惟雄の著書による)、蕭白とか若冲が印象に残ってるね。蕭白なんてものすごく印象に残ってたよ。
黒ダ:これはひとつの巻のなかに違う地域の同時代の作品が載っているんですね。てっきり巻によって時代や地域を分けているのかと思ったんです。
岩田:そうなんだよ。知らんのがいっぱい出てくるでしょう。特にほら、東洋がすごいでしょう。
黒ダ:すごいバラバラなんですけど。
岩田:時代で横断したのがこれの特徴なんだよ。時代を横切りにしたということがね。
黒ダ:そんな発想って、今ではそんなにないですよね。
細谷:全集となると、巻ごとで別々になっちゃいますけどね。
岩田:こういうのを今の人は知らないんだよな。
細谷:これで目を養っていたんですね。
岩田:そうだな。しかも東洋のウェイトが多くて、インド、支那、朝鮮あたりが多い。
黒ダ:普通はベトナムの建築なんて出てこないですよね。
岩田:ベトナムなんかも出てきておもしろいんだよ。
黒ダ:こういうことをする美術史学者の蓄積があったということですかね。たしかに地域もジャンルも幅広い。
岩田:そのアジアの建築がおもしろいでしょう。
黒ダ:さすがにカラーは少ないですね。
岩田:まぁ、昔だからね。こういうのを毎日見ておったから目が広くなって、わりにインドのぼってりした感じが好きだったね。だから僕がインドに行ったのは、ヒッピーというよりこっちの影響なんだよ。
細谷:小学校の頃に、世界が広がったわけですね。
岩田:町の小学校を卒業したときだからね。それまでの戦争中は古本屋も無縁だったし、毎日遊んでいたな。
黒川:一人でご覧になったんですか。他に誰かとご覧になったことは?
岩田:ないね。一人で見ていたね。
黒田:お家でこれを一人で見るというのは、ものすごく贅沢な時間ですね。
岩田:だけど、うちのお祖母さんが見て「裸の絵ばっかりだな」って(笑)。西洋の絵のページを見たんだね。「いいのかな」とは言わなかったけど、「裸ばっかり」って。マティスなんて載ってないんじゃないかな。まだピカソもあまり載ってないと思う。
黒ダ:(目録を確認しながら)ピカソとかキュビズム系や表現主義はカバーしていますね。
岩田:19世紀のアール・ヌーヴォーとか、あのへんはおもしろいと思ったね。戦後は一時期、アール・ヌーヴォーなんて忘れられていたもんね。日本は普通だな。今とそう変わらんでしょう。
細谷:前津中学校に1949年に入ると、加藤好弘さんに会いますよね。
岩田:同級生だからね。
細谷:あと1年上に川口弘太郎さんがいらして、のちの〈ゼロ次元〉のメンバーが出会います。そのときの出会いについてお聞かせください。
岩田:あまり記憶がないんだよね。
細谷:ガキ大将同士ということでもなかったんですか。
岩田:記憶がないな。加藤とは美術の仲間としてそんなに親しく付き合っていないんだよね。一応は美術部で、僕が部長をやっていたけど、今から思うと知れたもので、放課後にちょこちょこっとデッサンをするとか、夏休みにときどき来て描くとかの程度で、不活発でいいかげんな美術部だったよ。そんなに熱心にやっていなかった。加藤がさぼって来やしないんだよね。何をやっとると思っていたら、夏休みのある日、あいつが自転車の後ろに重たい氷を積んで配達をしていた。あいつの家は氷屋(天ぷら屋の別業)だから、配達を手伝っていたんだな。「そうか、こいつはこういう仕事をやっとるから来ないんだな」と納得したのが記憶にあるくらいだよ。一緒に並んで描いたという記憶はないよ。親父の仕事を手伝っていた。それが印象に残っとる。
黒川:岩田さんは家業の手伝いをしなかったんですか。
岩田:しない、しない。質屋は子どもができる仕事じゃないよ。
細谷:岩田さんや加藤さん以外に、美術部のメンバーは何人かいたんですか。
岩田:もちろん部だから他にもいたはずだし、のちにメンバーになる小岩(高義)もたぶんいたんだけど、一緒に描いたという覚えがない。ということは、部活動をそんなにやっていない。美術部という名前だけだったということだよ。
黒川:岩田さんの代でつくった部なんですか、それとも岩田さんの先輩の代からすでにあったんですか。
岩田:そんなの記憶にないよ。僕が積極的に発言してつくったものでもないし、昔から伝統がしっかりあるものでもないし。新制中学という新制度の学校なんだけど、そこができてからたしか2~3年だもん。そんなに伝統がないよ。新制中学の校舎がないから、焼け残った校舎を転々と移ったものだよ。最後はこのそばにある上前津というところに固定したけど、名前は前津中学でも校舎は点々としていた。そのたびに生徒が重い机を手で運んだんだよ(笑)。運ばされたよ、3回くらい。焼け残った小学校を半分借りるとかね。
細谷:半分共同生活みたいな感じですか。
岩田:そこまでいかないけどね。部活なんて、今みたいに落ち着いて熱心にやるようなものではないよ。ただなんとなくつくったんだろうな。それと僕のなかでは大事なんだけど、社会研究部というのがあって、これはけっこう一生懸命やっていた。社研と言っていたから、たぶん社会研究か社会学研究。俗に社研と言っていたね。僕はそことよく付き合っていた。そこで先輩が一生懸命やっていて、僕が新人で入った。なぜそこに行ったかと言うと、そこはちょっと知的なおもしろさがあった。他は皆ガキ大将で、知的な会話なんてないわけよ、当時の中学生なんて。絵も一生懸命描いているわけじゃないしね。でも社研に行くとマルクスだヘーゲルだって、わからないけどおもしろい会話があったわけだ。僕は主にそっちに行っていた。僕より学級としては上の人たちだけどね。そこで僕は左翼を簡単に信じ込んだんだ、おもしろかったから(笑)。わけはわからんかったけど。
細谷:マルクスをそこで読んだんですか。
岩田:マルクスは読まないですよ。一番読んだのは河上肇の『貧乏物語』。これはよくわかって、非常に影響されたよね。そんな程度で、マルクスまでは手が出ない。ただ話には出るよ。弁証法で統一されて何とかって、わけもわからずやっとったよ。
黒川:活動は主にディスカッションをやっていたんですか。
岩田:そうだよ。それ以外にないじゃない? ただ、クラブとしては学校内でその程度を読むんだけど、外に出て当時の労働組合に遊びに行った記憶がある。労働組合が勧誘に来たんだろうな。若い奴を洗脳しようとしてかわいがってくれるわけだよな。産別会館、産業別労働会館というところへよく遊びに行っていたな。かわいがってくれたしね。そのうちにだんだんラディカルになっていって、運動の手助けをするようになったな。たとえばチラシをつくって撒いたり、これが中学校3年間の話だ。
細谷:ガリ版刷りで?
岩田:そうそう。僕が美術部だということで、チラシに漫画を描いたりした。いや、僕は描かないよ。川口が描いていた。だけど怒られたよ、「こんな大事な紙を漫画に使うな」って。それから紙芝居を持って回るとか、夜中にビラを貼るとかね。よく中学生でやっていたな。
細谷:紙芝居で行くんですか。
岩田:いろんなところを回るんだ。サークルだろうね。細かいことは忘れたけれども、一生懸命説明していたよ。
黒ダ:紙芝居は左翼的な教育的な内容なんですか。
岩田:もちろん。僕がよくやっていたのは「桜田門」だったよ。たぶん今で言う「血のメーデー事件」(1952年5月1日、皇居外苑でデモ隊と警察部隊が衝突した事件)を紙芝居で説明していた気がする。夜中のビラ貼りはスリルだったよな、外に出るんだから。
黒ダ:紙芝居は組合員の誰かが描いたものですか。
岩田:たぶんそうだな。
黒ダ:それを演じるというか、持ってしゃべるんですね?
岩田:そうだ。
黒川:どんな人が来るんですか。
岩田:工場の寮でやるから、労働者だろうな。主に寮じゃなかったかな。「今晩、紙芝居があるよ」とやってくれたんだろうね。
黒川:大人に向かって中学生がやっていたんですよね。
岩田:そうそう。大人に向かってやっとった。
黒川:幻灯はなかったですか。
岩田:幻灯はなかった。そんな機械はなかった。中学校のときは美術よりもそっちを一生懸命やっていたな。
細谷:メーデーの大会とか?
岩田:そうそう。子どもは馬鹿だから、簡単に革命を信じていたよね。産別会館にはたくさん武器があったんだよ。ピストルを見せてくれたりさ(笑)。俺にやらせてくれないかなと思っておったらね、そのうちに大須事件が起きた。
細谷:1952年7月7日ですね。
岩田:この家のそばに野球場(大須球場)があって、そこで中国に行ったホタリなんとか(帆足計[ほあしけい])という人の帰朝報告があった。社会党の議員だ。帰朝報告(改進党の宮越喜助も参加)のときに、そこからなぜかデモ行進に流れた。デモ行進の途中で警官と衝突して、大勢の逮捕者が出た。僕は逃げたけどね。必死になって逃げて、家に帰ったらシャツがボロボロになっていた。別に警官に引っ張られた記憶はないんだけど、とにかく服がボロボロで逃げ帰った。その日はそれで済んで、しばらくしてから、僕らの先輩が、高校で何人も逮捕された。僕は高校1年生。尋問されただけで勾留はされなかったけれども、尋問で頑として頑張っとったら警察にほめられた。「君は若いのにしっかりしとる」って(笑)。頑として内幕を話さなかった。3回くらい聴き取りされてね。
細谷:大須事件のときにデモに流れ込むのは、計画があるわけじゃないですか。
岩田:そうそう。皆やっていた。プラカードに釘を飛び出して付けるとか、いろんな武器をつくってた。そのときにピストルを貸してくれないかって思っていたんだけど(笑)。
細谷:実際にデモ隊はピストルを用意していたんですか。
岩田:そこまでは知らない。そう思っただけで、子どもだからそこまでは知らない。ただそのときに、ぶつかって警官が発砲したんだよな。それがこっちへの挑発なのか弾圧なのか、裁判でもめていた。僕は棍棒をつくって突っ込むつもりだった。挑発されなくてもね。このすぐそばに警察署があったんだけど、そこをめがけて占拠するつもりだったんだよね。僕はやるつもりだったけど、あとになったら「やられた、やられた」と言うから、そこで共産党を疑い出したんだよな。自分の意志でやるつもりだったのに、あとになって警察が挑発してきたからだと言う。それは嘘なんだよね。今から考えると怖いことだけど、僕の家には別棟に僕の個室があったんだよな。そこを貸してくれって言われて、かなり密談があったはずだ。子どもだもんで、何も知らずに「いいよ、いいよ」と貸したら、若い奴らが5~6人来て密談しとった。それから、名古屋に東海高校という名門がある。立派な講堂が今でもあるんだけど、その講堂を借りて左翼系の集会をやった。校長は林霊法(1950~64年在職)という名僧で、宗教系の高校なんだ。よく左翼集会に貸してくれたなと思った。俺は貸してくれただけで感謝感激しておったのに、それを乗っ取ろうと会が言い出したんだ。それも俺は嫌気がさしたよね。せっかく善意で貸してくれたものを、それを乗っ取って占拠しようなんて嘘じゃないかって。人間の善意をそんなふうに裏切っていいものかと思って、そんなふうにだんだん党から離れていった。言うことが日に日に「だましてだまして」というふうに感じるようになった。
細谷:共産党には入らなかったんですね。
岩田:子どもだから共産党には入れなくて、民青(日本民主青年同盟、共産党下の学生組織)だな。民青に入りそうになっていたけど、その頃にやめた。そういうことをやっとるうちに高校になったもので、それから美術に専念し出したんだよね。中学校でもそうやって一生懸命運動をやりながら、絵も描いていた気がするよ。たとえば(日本美術会主催の)日本アンデパンダンに出したんだけど、あれは中学校か高校1年かな(1953年2月22日~3月5日の第6回展)。左翼リアリズムみたいな絵を1回か2回出した覚えがある。
細谷:これは加藤さんの記憶なんですけど、岩田さんが赤い旗を描いていて、それがすごかったと。
岩田:一応、左翼リアリズムを真似た絵を描いていたんだな。
細谷:それが中学か高校ですか。
岩田:だろうね。僕も覚えがないけど、東京に持って行った記憶がある。
細谷:その頃は社会主義リアリズムの絵だったんですね。
岩田:具体的な運動はやめたけれども、絵としてはそういう絵を描いていたな。
細谷:今だと高校で美術科がいくつかあるんですけど、名古屋の高校で美術科は珍しかったんじゃないですか。
岩田:そうそう。当時、高校で2つか3つだよね。名古屋(愛知県立旭丘高等学校)と、京都の日吉高校(京都市立日吉ヶ丘高等学校)に美術科が新設された(京都市立美術高等学校が1949年に新制高校となり美術科が設けられた)。僕がその(旭丘高校の)3期生だから、僕の入った2年前(1950年)に美術科(美術課程)ができた。なぜか中学校のときにそこを選んだんだな。やっぱり絵が好きだったんだろうね。
黒川:それは美術の先生を養成するのではなくて?
岩田:何だろうね、美術教育って。先生の養成ではない。高校だもん。
黒川:美術家の養成というわけでもない?
岩田:美術家の養成だと思うよ、僕は。主旨まではよく知らんけれどもね。
黒川:先生はどういう人たちだったんですか。
岩田:毎日の教師はどうってことないけども、講師は杉本健吉とか我妻碧宇(あづまへきう)とか、そういう偉い人が週1回くらい来ていた。
黒川:それは実技指導ですか。
岩田:そう。毎日の授業には普通の学課もあるし、実技指導もある。両方だよね。ただ割合として、美術が多かったと思うんだよね。美術科というんだから多いわな。どうやって普通の教程を削ったのかわからないけど、削ったんだろうね。
黒川:1クラスですか。
岩田:もちろん1クラス。
黒川:何人くらいですか。
岩田:約40人。たぶん男女半々くらいだったと思うけどね。
黒川:愛知県内の人だけが来るんですか。
岩田:そこまでは知らんけども、少なくとも同級生には県外の人はいなかった。遠くから憧れてわざわざ来ている人はいなかった。そこらへんはどうなっていたか、よく知らんけどね。今は岐阜にもできたよね(岐阜県立加納高等学校)。誰か有名な奴が一人おるよね。活躍してる、テレビにいつも出とる。マンガみたいなのを段ボールで何かやってる。
黒川:日比野克彦。
岩田:そうそう。彼が岐阜だな。
細谷:旭丘高校の同級生に小岩高義さんがいたんですね。
岩田:中学校からずっと親友だな。美術をやる奴が多かったな。
細谷:赤瀬川原平さんが転入であとから入ってくる。それから荒川修作さん、岸本清子さんがいらした。その頃、皆さん親しくされていましたか。
岩田:赤瀬川は同級生だからいつも一緒にやっていたし、一番の親友は小岩だった。赤瀬川はわりとクールな奴だから、べったりは付き合わないんだよね。川口は旭丘じゃなくて工芸高校(名古屋市立工芸高等学校)で、加藤が明和高校だ。ただ川口は東洋美術が好きで、そういうことで話が合った。他に東洋美術の話をできる奴はいなかったからね。誰もそんな若い奴で東洋美術なんて興味がないよ。川口はわりと東洋主義だからね。そこで話が合った。もうひとつ、中学で星野という美術教師が我々と非常に親しく付き合ってくれて、俺はあまり影響を受けなかったけど、おもしろかったね。我々は子どものくせに対等に接してくれてね。でも自分には嫌な教師というか、ものすごく精神主義の教師なんだ。川口はそっちが好きなんだ。僕と川口は星野先生とよく付き合っていたんだけど、僕はうんざりして付き合っていたんだな。腹が立つんだよな、付き合うと。でも川口は心酔していた。そこらへんが二人は違うんだよな。線をワッと引いて「この線には命がある」とか、そういう精神主義の感じだ。それから二言目にはニーチェと言うんだけど、こっちはニーチェと言われてもわからない。そういう意味でけっこう友達扱いしてくれたんだけど、我々にはわからなかったんだよな。ニーチェなんて読んだこともないから。
細谷:実技というよりも、哲学というような。
岩田:そうそう。
細谷:星野先生のお名前を教えてください。
岩田:星野弘。その人の絵がものすごくいいと思うんだけどね。ただ、付き合ってる頃は抽象画になっとったけれども、もっと若い頃はリアリズムでものすごくよかった。今どこにあるか、気になっているんだよね。中学校に掛けてあったんだ、自分の作品を。それを見て感心していたんだけど。
細谷:ちなみにさっきおっしゃっていた、高校に入ってからも美術のほうでは社会主義リアリズムを描いていたそうですが、他の生徒はどうでしたか。
岩田:全然。あまり他の仲間の絵は見たことがない。学校で描くのは習作だから、人体デッサンとかそんなのだからね。特別に意図をもって描くような友達はいなかった気がする。当時は今と比べると格段に幼稚だったんだよ。ものすごい差があるよ。当時の高校生なんて何も知らないしね。幼稚なものですよ。そのなかで荒川だけがハッタリで変な絵を描いていたな。
黒ダ:「変な」というのは?
岩田:たとえばヌードを変形させたり、単なる写実じゃなく変わった絵を描いていた。わりと大きい絵も描いていた。当時の高校生には100号なんて大作だけど、そんなのを描いたりね。荒川だけはそういうハッタリ屋だったな。赤瀬川だけはアカデミックながっちりしたセザンヌばりの絵を描いていた。転入生のくせにうまいなと感心したよ。
黒ダ:先ほどのお話ですけど、1953年2月の日本アンデパンダンに岩田さんが出していて、そのときに岩田さんの作品が《叫び》というタイトルで、川口さんの作品が《ひめゆりの塔》です。当時の左っぽいですけど。
岩田:あ、そう。
細谷:小岩さんはいかがでした?
岩田:あいつはどんな絵を描いていたかな。僕は高校は旭丘の美術に入ったけど、2年のときには病気で休学しちゃったわけだ。だからあまり知らないんだよな。その頃、小岩は何をやっていたんだろうね。あまり知らないな。記憶にないね。
細谷:親しくされていたんですよね。
岩田:うん。僕が病気で家でブラブラしていると、けっこう皆が遊びに来たからね。そういう意味ではものすごく親しかったけど、具体的に絵を見た記憶はない。
細谷:岩田さんはどういうご病気だったんですか。
岩田:結核でね。……あ、皆さん、煙草を吸いたい人はいないか。僕はちょっと吸うよ。僕は意外と記憶がないんだよ。もっと皆は細かく覚えているけど、僕は今言ったのがすべてくらいだよ(笑)。
細谷:川口さんや加藤さんは市工芸や明和に行って、高校が違っても交流があったんですね。
岩田:それが不思議でね。そんなに親しく交流していた記憶はないんだよな。そういう意味で記憶が鮮明じゃない(笑)。
細谷:川口さんもその星野さんと会っているんですよね?
岩田:そうそう。その三人の付き合いはよく覚えてる。その先生の家によく遊びに行ったからね。
細谷:高校時代の加藤さんはどうでしたか。
岩田:高校のときはあまり付き合わなかったな。僕は病気で寝ていてあまり外に出ないし、旭丘の同級生はそうやって、見舞いというほどでもないけど、遊びに来ておったけれどもね。加藤はあまり家に来たことがないんだけど、これが不思議なんだな。皆は東京の大学に行って、加藤は多摩美に行って、俺は夏休みに加藤の下宿を使わせてもらって1週間くらい行った記憶があるから、そんなに付き合いがなかったわけでもない。不思議なんだよな。僕は病気といったって、そんなにひどい病気じゃなくて、結核だから静かにしていろという程度だから、けっこう東京に行ったり動いたりしていたんだよ。加藤の下宿を借りて夏休みに一週間くらい行った記憶もあるし、それ以外も友達の下宿を転々と行った記憶があるから、それなりに付き合っていたんだろうね。
黒川:東京に行ったときはどんなことをされていたんですか。
岩田:主に美術の展覧会を観に行った。
黒川:覚えている展覧会はありますか。
岩田:あまりないね。
黒川:たとえば当時だとアンフォルメルあたりとか。
岩田:記憶はない。しょっちゅう行ってはいたけど。僕は半面、文学青年でもあるから、東京の古い街を歩くのが好きでね。そういう街を歩いておったな。たとえば神田明神とかね。そういう文学散歩もよくやっとったな。あと博物館によく行った。特に現代美術よりも博物館がおもしろかった。
黒ダ:伝統美術ですか。
岩田:そうだね。
黒ダ:文学青年というのはどういう?
岩田:普通に小説を読むくらいのものだよ。
黒ダ:日本の小説ですか。
岩田:もちろん日本のだよ。外国のは面倒くさいから。そういう意味で浅いの。軽く軽く、すべて浅い(笑)。
黒ダ:日本の古典を読まれたそうですね。
岩田:病気中に一時は寝っぱなしのときもあったから、いっぺんこういうときに古典を勉強しようと思って、古典はだいたい読んだな。それは一生懸命、意図的にね。おもしろいから読むんじゃなくて。言い忘れたけど、俺は左翼であると同時に、けっこう右翼青年だったんだよ。日本ということを忘れなかったわけ。左翼の奴はソ連でしょう。僕は思想的には「皆が幸せになるためには共産主義(社会)をつくりましょう」と言うけれども、精神的には「日本人は日本じゃないか」というのがあってね。いろいろややこしいわけ。川口と話をすると、そういうふうに日本や東洋の話ができたわけだ。星野先生の禅の公案の話で「両手をポンと打って」とか、そういう話を三人でするんだけど、家に帰ると僕は「とろいことを言っとるな」という反発があるわけ。
細谷:そこはちょっと科学的になってしまうわけですね(笑)。
岩田:そうそう(笑)。精神主義には入りきらんわけだよね。おもしろいけどね。文学はそういうことで、勉強で意図的に読んで、ラジオでも徹底的に邦楽なんかを聴いたよ。日本にも音楽があるはずだと思ってね。当時はテレビがないから、ラジオで一生懸命聴いとった。そういうことで、美術もだんだん東洋のものに興味が湧いた。逆に当時は西洋のものに興味があっても西洋美術館(1959年開館)はないし、見るチャンスもないしさ。戦後巡回展で複製の西洋美術展が話題になるくらいでね。西洋なんて接するチャンスもなかったし、また俺も意図的にそんなに接したいとも思わなかった。
黒ダ:1950年代になると読売だろうが朝日だろうが新聞社の主催で今では考えられないくらい西洋の美術を紹介していますね。デパートがマティス展とかピカソ展とか、今では考えられないくらいやっています。そういうのをご覧になりましたか。
岩田:名古屋には来ないんじゃないかな。
黒ダ:東京に頻繁に行かれていたんですよね。
岩田:行っていたけど、このチャンスにわざわざということはなくて、東京というものに憧れていたくらいのわけで。ピカソを観に東京に行くというほどの情熱はなかった。
細谷:もう一人、高校のときに岸本さんがいますね。
岩田:あれは後輩なんだよね。同級生としての付き合いじゃなくて、高校の頃、あいつは日本画を一生懸命描いていて、彼女は日本画の先生のところによく行っていた。鬼頭篁(きとうたかむら 1907~88年)という旭丘の先生で、彼女はよく彼のところにいて、僕も遊びに行って軽く付き合う程度でね。むしろ彼女は卒業して多摩美に行くようになってからのほうが、よく付き合うようになった。その頃、男女は今ほど付き合うものじゃなかったよ。今だと平気だけど、やっぱり差があったよ、高校のときに男と女が付き合うというのはね。
細谷:皆さん、美術科なんですよね。
岩田:そうそう。彼女がその先生のところに行っていて、僕も遊びに行くと、デッサンを教えてもらったりね。デッサンがものすごくうまいんだよね。
細谷:岩田さんは高校を仮卒業なんですか。
岩田:そうそう。要するに、大学に行く資格だけくれたの。ややこしいんだよ。当時はいいかげんなものでね。大学に行くつもりだったから資格をくれたわけで、でも卒業の紙はくれた気がする。当時の校長(小川卓爾)が偉い人で、そういうことをけっこう自由にやってくれたんだな。ものすごく一般的に尊敬されてる偉い先生なんだ。変わった人でね。だから特例をやってくれて、仮卒業にしてくれたわけ。
細谷:結核で出席日数が足りなかったということですか。
岩田:そうそう。「単位はやるから、出席不足はあとで適当に絵でも描きにいらっしゃい」と仮卒業の免許をくれた。
細谷:ちなみに、病気中に絵はご自宅でも描かれていたんですか。
岩田:病気中はあまり描いていないな。ただその病気も、どこまでが病人だかわからないような曖昧な病人だからね(笑)。多少は描いていたと思うよ。その頃、僕は東洋主義だもんで、本当は日本画をやろうと思っていた。日本画の先生に弟子入りして、一応、日本画を勉強していたんだよ。
細谷:石川英鳳さんですね。
岩田:そうそう。勉強するといっても頼りないものでね。他の趣味のおじさんと一緒に、描いてもらった手本を真似するわけだ。なんとなく行っとったけど、全然もの足りんわけだ。一応はそこで習ったということになっているけど、そんなものは何のプラスにもなっていない。一応、四条派の附立を覚えたということになっとる(笑)。そんなものは趣味の範囲だよ。もの足りんので、他の高校にもぐりで行ったりしたね。これもおもしろい話で、工業高校(愛知県立愛知工業高等学校)というのがあって、そこの先生(小寺推古[本名=金彦])がものすごい古典主義者で、その人が「うちにいらっしゃい」と言ってくれた。工業高校では古典の勉強をさせてもらったよ。
黒川:名古屋ですか。
岩田:名古屋。行っとるうちに、そこの校長からクレームが出て、「よその生徒を入れちゃいかん」とそこをクビになった(笑)。そういうことで、日本画は全然教えてくれなかったわけだな。だからこれは自力でやるしかしょうがないと思って、自力で模写し出して、博物館に通うようになる。中では絵具を使わせてくれんから、外に一式並べておいて、中で見ては走って、中で見ては走って、往復して絵を描いた(笑)。
細谷:それは名古屋の美術館ですか。
岩田:いや、東京に行ってから。東博(東京国立博物館)は絵があるのが美術館の2階なので、2階から走って外に出るのが大変なんだよ。東京は大変でたいしたことができんから、京都(国立博物館)に行ったわけだ。京都は絵画が1階に並んどるわけ。1階と外がわりと近い。そうやって描いたのがこれだよ。
黒ダ:模写していたのは仏画とかですか。
岩田:そうだね。(絵を見せながら)これは京都で描いたんだ。これは模写したやつ。
細谷:これはいつ頃ですか。
岩田:高校卒業してからだろうな。
黒ダ:これは京都ですか。
岩田:京都。東京はあまりたいしたことができないよ。
黒ダ:仏画って保存上、すごく暗くして展示しているから見づらかったんじゃないですか。
岩田:そうでもないよ。そのときに俺は、今でも尊敬している先輩に出会ったんだ。田中穣という人だけどね。その人も出たり入ったりしながら模写をしていた。そこで二人は仲間になって付き合ってるんだけどね。
細谷:それは京都ですか、東京ですか。
岩田:東京の人。偉い人だよ。つい先まで愛知県芸(愛知県立芸術大学)の客員教授だった。愛知県芸に行くと、法隆寺のものすごく立派な模写がある。俺は本物よりいいと思ってるけど、それを中心になってやった人。県芸のときも、俺はときどき手伝いに行っていた。あの県芸の法隆寺の模写はすごいよ。本物よりいいよ。田中という人は、古典の、特に仏画が好きで、それ一辺倒で、自分の絵を描かなかった人だ。このあいだ死んじゃったけども。もうちょっと先だけど、その人の紹介で俺は浅草の三社様の修理に行った。その人が三社様の壁画の修理の主任で描いていたんだ。助手が要るもんで俺が呼ばれて、その人と一緒に他でも1~2回仕事したかな。
細谷:上京して、浅草神社の修復をしたんですね。
岩田:上京したあとだよな。年代的には記憶がないけど。それが済んでから、富士浅間神社にも行ったし、岡崎の大樹寺にも行った。いろんなところに手伝いに、ちょいちょいと行ったよ。
細谷:お寺の修復をけっこうやられていたんですね。
岩田:浅草は1年近くばっちりと職人として、朝から晩までやっていた。それはある意味では俺の自信になった。俺はいいかげんなことばかりやっていたけど、少なくともその1年は職人としてやったぞというのが支えになっているな。今でも雑だけどね、そのときは金をもらってやってる仕事だから。
細谷:その頃、荒川さんたちは東京にいるんですよね。
岩田:荒川のところはしょっちゅう宿屋代わりに行っとったな。荒川は一軒家に住んでいたからね。
黒ダ:阿佐ヶ谷でしたっけ。
岩田:そう、阿佐ヶ谷。
黒川:岩田さんはお身体の関係で進学をやめようと?
岩田:そうそう。俺は2年くらい遅れて大学に入ろうと思って、一応は東京に行ったんだ(1958年に上京し、御茶の水美術学院に通う)。準備として東京にいたんだけど、俺が入ろうというときに皆が辞め出したんだ。馬鹿らしくなったね(笑)。人が辞めるところに今から行くことはないと思って。それで進学をやめちゃった。
黒ダ:東京で一時期は大学に入ろうとしていて、予備校などに行っていたんですか。
岩田:俺も幼稚だったし、うちの親もそういうことを全然知らなくて、美術学校に行くには予備校に行かなくちゃならんって知らんかった。普通に行けば入れると思っていた。全然そんな知識がなかったよ。教育熱心な親じゃないから。
黒川:もし進学するなら、愛知県の美術大学じゃなくて東京の美術大学と思っていましたか。
岩田:なんとなく武蔵野(美術学校、現・武蔵野美術大学)に行くつもりだった。最初は皆のように(東京)芸大を望むよ。でもあの頃から学科が難しくなって、英語が入ったか何かでね。俺は英語が苦手だから。武蔵野はあの頃はまだ大学じゃなくて、わりと自由で、学科なんてゼロでもいいということだった。多摩美はなんとなくブルジョワ風のイメージだからね。武蔵野はなんとなくバンカラで自由でいい。だから皆、友達も武蔵野に行ったんだ。大学になったのはあとからだ。俺たちの頃はまだ武蔵野美術学校だった。だけども、それを皆中退するから、アホらしくなってやめちゃった。
細谷:多摩美に行った加藤さんとはお付き合いがあったんですよね?
岩田:不思議とあったんだよな。下宿を借りたりしていたからね。
黒川:加藤さんは当時の武蔵美を「あんなの学校じゃない」と言っていました。
岩田:そうだろう(笑)。このあいだのビデオ(加藤好弘のアジテーション、「グレイト・クレセント 1960年代のアートとアジテーション―日本、韓国、台湾」関連企画、2015年6月2日、森美術館)を見せてもらったけど、岡本太郎の弟子だと言っていたけど、そんなに付き合っていたのかな。どうもハッタリくさいぞ。
黒ダ:本人は鞄持ちとおっしゃっていますが。
岩田:言うとるね。俺はだいたい加藤と岡本太郎はそんなに合わないと思うしね。あの頃から思想が違っていたと俺は思うけど。ハッタリだと思うよ。
細谷:岩田さんは岡本太郎についてどう思いますか。
岩田:あまり興味ないね。おもしろくないね。当時から好きじゃなかったな。彼が縄文を発見したみたいに言っていたけど、俺はさっき話したあの本で縄文のすごさを知っていたから、何を今さら縄文と言うんだろうと思っていた。あまり尊敬はしていなかったな。でも今思うと、油絵はいいなと思い出したな。あのチャックの絵(《森の掟》、1950年)なんかがそうだな。あれを発表したとき二科(展)で見てるけど、当時は感心しなかった。今から思うとけっこういいな。あの原色の絵もいいと思うよ。ただトータルとして岡本太郎の活躍は、特に立体はあまり好きじゃないな。なぜ加藤があんなに岡本太郎を尊敬しているか、ちょっと不思議だな。
黒ダ:〈万博破壊共闘派〉をやったのも、岡本太郎が万博をやっていたからだと加藤さんはおっしゃっていました。
岩田:昔そんなに岡本太郎のことなんて、全然言ってなかったぞ。あれは最近言い出したんだよ。
細谷:1学年下だった岸本さんも、もう東京に出られていたんですよね。
岩田:そう。彼女がいろんな奴を紹介してくれた。彼女のほうが東京は先輩だったからね。あの頃の彼女は東京の女王様として威張ってたな。〈ネオ・ダダ〉(「ビーチショー」、1960年7月20日、鎌倉・安養院)で(絵具を)ぶっかけられて、どうのこうのって言うでしょう? ウーマンリブかジェンダーの人が持ち上げるでしょう。あの結論はどうなってる? ジェンダーの人たちは、もてあそばれたという結論を出したわけ?
黒ダ:あまりそのことはふれられていない気がします。でも前提としては〈ネオ・ダダ〉の唯一の女性作家だし、非常にマッチョな男社会の〈ネオ・ダダ〉のなかで頑張ったという感じだと思います。岸本さんから紹介されて、当時の同世代のいろんなアーティストに会ったわけですよね。〈ネオ・ダダ〉の人たちともそこで会ったんでしょうか。
岩田:そうだね。皆会ったね。岸本だけじゃなくて、荒川も赤瀬川もいたから。
黒ダ:東京で初めて吉村益信や篠原有司男に会っているわけですよね。
岩田:そうだね。
黒ダ:彼らの仕事は見ていましたか。
岩田:もちろん見てるよ。
黒ダ:どう見ていましたか。
岩田:あの頃はおもしろかったんじゃない? あの頃はね。吉村のアトリエにもよく遊びに行ってたよ、皆と一緒に。
黒ダ:〈九州派〉の人たちにも会っているんですよね。桜井孝身とか。
岩田:桜井はなぜか付き合うね。あの人は人付き合いがいいから。桜井孝身はどうして付き合い出したかな。ついでで話がずれるけど、孝身の弟子で泉というのがいたけど、泉はどうしてる?
黒ダ:記録では名前を見ているんですけど、たぶん東京にいると思います。デザインか建築の人ですよね? 泉孝佳ですよね?
岩田:僕はわからない。本来は京都の人だけどね。
黒ダ:一緒にアメリカとかに行っていた人ですよね?
岩田:そうだ。弟子みたいなものでね。もう一人、女の人がおってね、二人が孝身を一生懸命売り出そうとしていた。名古屋で展覧会(詳細不明)を開いていた。二人の信者が展覧会を応援しとったわけ。話がまた飛ぶけど、俺はその泉と一緒に商売をやったことがある。アールデコというインチキ商品をつくってね。あいつがアメリカで覚えてきたんだ。ニスを塗るとひびが入ってクラシックに見える。アメリカのホビーであるんだよね。印刷の絵を貼って、上にニスを塗る。それを商売にしとった。
細谷:アールデコ。
岩田:アールデコじゃなかったかな。そんなような名前だった。
黒ダ:複製なのに本物っぽく見せるんですね?
岩田:そうそう。ニスを塗ってひびを入れて、古色を出す。それを売ろうと会社までつくってね。加藤も一緒に、三人でやったんだ。加藤はそんな話、しないだろう(笑)。
黒川:いつ頃の話ですか。
岩田:いつくらいだろうね。今話してきた青年時代ではない。もうちょっとあとの話だけどね。
黒ダ:泉さんがアメリカから帰ってきてからですね?
岩田:そう。
黒ダ:だとすると、けっこうあとですね。
岩田:話をずらしちゃったね。
細谷:話を戻しますね。ひとつには東洋美術にずっと関心があったということ。もうひとつは、ポップアートがどれくらい岩田さんのなかで影響や関心をもち始めるのかなと。
岩田:僕もよくわからんな。アメリカからポップアートの展覧会がパーッと来たでしょう(「現代アメリカ絵画展」、1966年10月15日~11月27日、東京国立近代美術館/同年12月10日~1967年1月22日、国立近代美術館京都分室。岩田は『アサヒグラフ増刊 現代アメリカ絵画展』[1966年10月]で同展のポップアートを知った)。
黒ダ:いや、そんなに来ていないと思うんですよ。
岩田:あれは大感激した。あの頃は好きだったね。といって、あれに影響を受けて真似したということはないんだよね。そう簡単にポップアートと一口に言えないけど、〈ゼロ次元〉を調べればわかるけど、俺はいくら習っても日本画も油絵も描けないから、もう絵なんか無茶苦茶やれということで、〈ゼロ次元〉のときに最初にやり出したんだよね。だから〈ゼロ次元〉のスタートは俺の下手くそ加減みたいなものだ。その頃はアカデミックな絵とも離れていたね。見るのは好きだったけど、自分でアカデミックな絵を描く気は消えていた。やれ!やれ!という感じで〈ゼロ次元〉を始めて、だんだんアクションになっていった。
細谷:1960年に一度名古屋に戻られて、川口さんや小岩さん、梅田正雄さんらと最初の〈ゼロ次元〉(当初は〈0次現〉、のち〈0次元〉)を立ち上げる。
岩田:最初はやけくそでスタートしたわけだよ。ポップアートと言い出したのは、そうだな。さっき話した星野先生の精神主義への反発がすごくあって、精神じゃなくて、もっと気楽なものを求める反発があった。それがぐっと伸びていったんだろうな。難しいものじゃなくて、誰にでもわかるものというと、結局当時はポップアートというスタイルはないから、キッチュなものがだんだん好きになってくる。キッチュは一種のポップ趣味だからね。キッチュなものが好きになると同時に、僕はキッチュのマニアックなところが嫌いで自分に合わないから、キッチュが好きなくせに、もうちょっと簡単なモダンなものに憧れる一面があった。そこらへんが俺のポップアートのスタートなんだろうな。要するに、非常にクールでモダンななかにキッチュを放り込んだのが俺にとってポップアートで、これだったら誰にでもわかるだろうって。
黒ダ:(岩田の絵の写真を見せながら)こういうのがポップですか。
岩田:それが一番簡単に描いたやつ。まだポップとは思えないな。
黒ダ:たとえばこの富士山とか?
岩田:それは富士山じゃないんだよ。道路なんだ。遠近法なんだよ。こんなようなものがその中間みたいなもので、もうちょっと具象的になっていくと俺はポップアートと言う。このなかに自分では、やけっぱちな野蛮なことと、もうひとつ、モダンな洗練されたものも多少好きだった。というのも、当時アメリカ文化がバンバン入ってきて、それは日本のベタベタしたのと別の世界だった。それが好きになっていったということがある。日本のベタベタをだんだん切り捨てていく。たとえばジャズで言うと、黒人の熱気あるベタベタしたものがモダンジャズとして主流でしょう。そのなかでキース・ジャレットとかがスカッと新鮮な気がしたわけ。汗がとれてね。そういうモダン志向も一方にはあったわけ。もう一方で、俺が大衆だから、俺の好きなものは大衆も好きだろうということで、ポップアートと言ってた。そういう意味で、自分で俺はポップアートとは言うけれど、評論家が言うようなポップなものを利用したという意味ではない。ポップな人にも理解できるという意味でポップアートと言っている。だからいつも、ポップアートの意味が違うと評論家たちに異議を出しているんだけどね。
黒川:これをお描きになった頃は、ポップアートという意識はなかったんですね?
岩田:あまり意識がなかったね。
黒川:今おっしゃったある種の大衆志向は、岩田さんが大須でお育ちになったことと関係がありますか。
岩田:あまりないと思う。今こうやって大須のど真ん中にいるけど、ほとんど町も出歩かないしね。ポップな下町は好きだけど、大須は人が言うほど下町じゃないんだよ。
黒ダ:今はそうかもしれないですね。
岩田:子どもの頃は覚えてないけどね。それよりも東京の文学散歩みたいに、根岸や下町を歩いているほうが好きだ。
黒川:そのへんは憧れがあったんでしょうか。
岩田:やっぱり下町が好きなんだよね。憧れと言うほどでもないけれども、好きなんだよね。今でも俺は山の手はうんざりで、嫌いだね。高級住宅地は嫌いでね。そういう意味では下町は好きだよ。でも大須は本当の下町ではないし、かろうじてあるのもだんだん薄れていく。人の言うような、生まれ育ちの下町の影響はあまりないと思うよ。
黒ダ:前のインタビューで出たんですけど、歌舞伎は観ていたけど、普通の大衆演劇は観ていなかったそうですね。
岩田:そうそう。今の演歌と一緒で、あまりにも媚びすぎているからね。あまり媚びるのは嫌なんだよな。そのへんに多少目の高さがあるわけだ。媚びちゃいかんわけですよ。
黒ダ:完全に泥くさいのもダメで、すごく微妙ですね。
岩田:みんな相反するものなんだ。泥くさいものというと、岸田劉生の言う初期の浮世絵、あの泥くささは好きだったよ。岸田劉生の絵は好きじゃない。精神的になりすぎるから。でも彼の言う初期の浮世絵、特に湯女のやつ(《湯女図》、17世紀初期、MOA美術館所蔵)は憧れだったね。見たいと思っていた。なかなか見れないんだよね。
細谷:話を戻して、最初の〈ゼロ次元〉を川口さんや小岩さんと結成する。そのとき、皆さんとどういう話をしていたんでしょうか。
岩田:記憶にないよ。
細谷:グループを立ち上げるということで話し合ったことなどはありませんか。
岩田:皆、芸術青年だから、発表する場をつくろうという、ごくごく当たり前の話だよね。改革しなきゃいけないとか、そういう目的もなく、ただただ芸術青年は発表する場をもちましょうという簡単な話だよ。〈0次現〉という命名は川口だと言ってるけど、あいつが言っていた「0次現」の意味は、俺はいまだにわからん。たぶん星野さんが言う禅的なゼロの次元とか、そういうのが川口のなかにはあったと思うよ。だけど俺はそういうのを馬鹿にしてるから、理由も聞かずに「ああ、何でもいいよ」と言うだけだ。そうやって決めたんだけどね。
黒ダ:川口さんは「0次現」という言葉を数学小説(クリフトン・ファディマン/三浦朱門訳『第四次元の小説』、1959年、荒地出版社)からとったとおっしゃっていました。その小説には「ゼロ次元」という言葉は出てこないけど、ヒントになったそうです。
岩田:そうかもしれない。
黒ダ:星野さんの禅的思想や東洋思想の影響があるとは……。
岩田:言わなかった?
黒ダ:僕は会っていないんですが、三頭谷鷹史さんのインタビュー(「『ゼロ次元』前史 川口弘太郎に聞く」、『裸眼ノート』、1994年9月)を読んだんです。
岩田:そうか。
細谷:一方で加藤さんも学校の先生で戻ってくる。加藤さんは〈青年美術家協会〉をつくる。それも場をつくろうというお気持ちからだったんでしょうか。
岩田:そうだね。加藤は人集めが上手だから、名古屋でいっぱい人を集めたよね。
黒ダ:人数が相当いますよね。何十人かいましたね。
岩田:俺も入った。その頃はもうポップアートを自覚していて、だから具象を描くわけだよ。そしたら皆、馬鹿でね。抽象画しか認めないなんて馬鹿を言い出したから、俺はそこで大喧嘩してやめたんだ。これは印象に残ってるけどね、なぜ具象が現代美術になってはいけないのか。頭にきて大喧嘩になった。それでやめたの。その頃から俺は具象画。素人には抽象画なんてわかりはしないって思っていたよ。
黒ダ:見る人がポップ、ポピュレス(大衆)ということではなくて、一般大衆にとってわかるようなものを描くことがポップということですか。
岩田:そうそう。基準は自分にあるんだけどもね。だから演歌になっちゃうと、俺はまたポップと言わないけどね。あくまで自分が中心だ。自分は優れた精神志向ではない。通俗人であるという前提のうえで。
黒ダ:1960年に名古屋青年美術展に出されているんですけど、そのときに喧嘩した相手が誰だったか、覚えていないですか。
岩田:覚えてるけども、名前が具体的に出てこない。
黒ダ:川口とかではない?
岩田:ない。
黒川:加藤さんでもない?
岩田:ない。一人が言い出したんだけど、他の奴も皆そっちの抽象のほうに同調した。それで俺は全員敵にして、「こんなのは馬鹿らしい」と言ってやめた。言い出した人の名前は思い出せないけれども、全体の雰囲気がそうだったんだな。言い換えると、抽象はあの頃まだ新鮮だったのかな。
黒川:アンフォルメルの残滓が残っている頃じゃないですか。
黒ダ:青年美術家協会の頃の加藤さんの作品を見たんですけど、一見アンフォルメルですよ。写真が出てきたんです。
岩田:加藤の話になるけど、あいつは若い頃、色を使わないんだよな。黒一色なんだよね。そうじゃない?
黒ダ:モノクロ写真しかないからわからないです(笑)。
岩田:加藤は石版画が好きでやっていたけど、あれはモノクロなんだよ。色が嫌いだったんだよ。今はものすごいカラフルで、いいと思うけどね。たとえば(読売)アンデパンダンの絵なんてそうでしょう。
黒ダ:モノクロの写真しかないからわからないんです(笑)。
岩田:アンデパンダンも? なんで今、色に目覚めたか不思議だよ。やっぱり薬物のせいだな(笑)。
細谷:それは追々出てきますけれども(笑)。
黒川:ひとつだけ確認したいんですけど、中学生のときの社研、そこには加藤さんは出入りしていないんですか。
岩田:全然。
細谷:社研のつながりと関係なしに加藤さんが〈ゼロ次現〉に入ってきたのですね。
岩田:入るというのではなく、一緒にやろうという。
細谷:1963年の1月1日に街頭でのはいつくばりと「狂気的ナンセンス展」(1963年1月1日~6日、愛知県文化会館美術館)があります。このときは街頭に出ようとか、そういう?
岩田:そうだね。
細谷:そのアイデアは誰かから出てきたというよりも、皆さんがそういう感じだったんですか。
岩田:それこそ記憶にない。誰が言い出して誰が主導だったか、そこまでは記憶にないな。皆で「やろう、やろう」という感じだったね。言い出しっぺは記憶にないな。
黒川:基本的な意志決定のプロセスは、誰かが何か言い出して、皆がそれでいこうという感じで動いていたんですかね。
岩田:それが原則で実際だけど、具体的には俺か加藤のどっちかだった。数からいうと、加藤のほうが多かったね。二人でやっとったんだけどね。
黒川:どちらかがアイデアが出していた?
岩田:そうそう。他は黙っとれということはないけども、あまり出てないよな。
黒ダ:はいずりの写真です。皆がはいずっているから顔がわからないんです(笑)。
岩田:わからんね。
黒ダ:階段で地下街に入っていったんでしょうか。
岩田:そうだろうね。
黒ダ:地下はショッピングモールで、最後は展覧会の会場に入っていく。
岩田:これは何ナンセンス展と言うの?
黒ダ:「狂気的ナンセンス展」です。
岩田:そんな題がついていたかな。
黒ダ:そういうタイトルなんです。このなかに岩田さんがいるか、わからないですよね。
岩田:わからないね。さっきちょっと出ていたのはアンデパンダンだよね。
黒ダ:このなかにはっきり岩田さんが写っています。これは加藤さんの奥さんのお家で全裸の茶会をやったということなんですけど(1962年8月か?)、ご記憶がありますか。
岩田:あるよ。
黒ダ:アイデアは加藤さんですか。全裸になった、早い時期のものだと思うんですけど。
岩田:全裸は誰ということもない当たり前のアイデアだけど、ただ、ここでお茶会をやろうというのは加藤だと思うよ。裸になるのは当時、当たり前だったよ。
細谷:当たり前というのは、全然抵抗なく?
岩田:そうそう。
黒ダ:62年に始めたと加藤さんはおっしゃるんですけど、この写真はもっとあとかもしれません。『クレイジー・ラブ』(1968年、岡部道男監督)に出てくる場面が一緒なんです。ただ実はこのとき、小岩がいるのでね。
岩田:加藤の隣にいるね。
黒ダ:小岩が68年までいたかなと、ちょっと微妙な話になっちゃうんですけど。
岩田:彼はわりと早く離れたから。僕は全然記憶がないけど、皆とにかく裸になったよね。僕の結婚式(1965年4月7日、名古屋の国際ホテル)でも皆、裸になったよ。
細谷:裸になるのは本当に抵抗がなかったんですね。お酒が入ったからということでもないんですか。
岩田:ない。
細谷:あくまで美術ということで?
岩田:多少は意識しているよ。我々は裸グループだというのが多少はあるけど、恥ずかしいとかそういう抵抗はなかった。その意味で当たり前だと言っているわけで、といってヌーディスト・クラブじゃないから、そうしょっちゅう裸になるわけでもない。裸になろうという意思は、多少はあると思うよ。
黒川:抵抗がなかったのは岩田さんと加藤さんと小岩さんだけじゃなくて、他の方々もですか。
岩田:他はつられてだろうね。やれと言われてやるようになったんだけど、そう抵抗はなかったと思うよ。
黒ダ:ちなみにこれは桜画廊で、1963年(6月16日)で間違いないですね。加藤さんの個展で、格子状の石版画を使っています。音とか声を使ったパフォーマンスで「赤の儀式」と案内状にはっきり書いてあって、儀式という言葉が正式に使われた最初にかなり近いですね。
岩田:これは誰だろうね。加藤は知っていた?
黒ダ:ええ。伊藤孝夫じゃないかな。
岩田:あぁ、伊藤孝夫は若い頃はこんな顔をしていたか。儀式という言葉だけれども、俺の記憶だと、一番最初に言ったのは荒川だと思う。それを加藤が使い出したんだけど、銀座の個展のときに荒川が「これは儀式だ」と言い出したという記憶があるよ。
黒ダ:棺桶の作品のときですかね。
岩田:そうかな。作品は知らんけど、銀座の個展のとき(1961年1月23日~31日、夢土画廊か)。会場だけじゃなくて、外に出て何かやったんだよ。それを儀式と荒川が言ったような記憶だけどもね。
黒ダ:荒川が個展のときに、実際に外で身体表現をやったんですか。
岩田:そのような気がするけどもね。それを儀式と言ったような気がする。
黒川:その行為を、ですか。
岩田:うん。
黒ダ:たしかにあの作品だけで儀式と言うことはないと思います。ただ、あの作品を使って風倉匠が……(荒川作品の蓋を開けていくパフォーマンスを行なったという記録がある)。
岩田:あぁ、そうかもしれん。自分じゃないかもしれん。風倉かもしれん。それはありうる。
黒ダ:だとしたら61年か62年ですかね。
細谷:〈ゼロ次元〉のなかでは、加藤さんが儀式と言い出したんですね?
岩田:うん。僕らは反対する理由もないし、放っておいたらそのままになったんだ。
黒ダ:岩田さんは前に、儀式という名前は好きじゃないとおっしゃっていましたね。
岩田:僕は儀式という言葉は好きじゃないけど、あえて反対するほどのものでもない。〈ゼロ次元〉という名前も本当はそんなに好きじゃなかったけど、それもいいかと。わりと僕はイージーなところがあってね。
黒川:加藤さんは〈ゼロ次元〉という名前にこだわっていますよね。
岩田:こだわってる? あれは自分=ゼロ次元だからね。
黒ダ:意味じゃなくて、その言葉がよかったんだとおっしゃっていました。
岩田:でも他のところで言っていたぞ、「いろいろ考えたけど、いいのがなかった」って。
黒ダ:『裸眼』の岩田さんの文章で、「ソフトニンジン」とかを考えた、と。
岩田:ソフトニンジンというのは今風でね。力のない象徴みたいなもので、ゆるキャラのつもりなんだな。
細谷:ソフトニンジンは覚えていますか。
岩田:覚えてるよ。俺が提案したんだから。ゆるキャラのイメージなんだよ。
黒ダ:〈ソフトニンジン〉だったら、その後の膨大な〈ゼロ次元〉の歴史がかなり変わりますね。
黒川:政治活動がしづらいですよね(笑)。
細谷:ちょうどその頃、御茶の水美術学院に行かれていて、上條順次郎さんと会っていると思います。
岩田:あぁ、一緒に遊んでいたな。
細谷:上條さんとの交流について、何かあれば。
岩田:当時若者だから、意味もなく深夜の喫茶店に行っていたな。それが冒険だったんだろうな。悪ガキの仲間で山中保というのがおって、そいつがけっこう中心でおもしろかった。のちに版画の刷師になって、いろんな人の版画を刷っていた。そいつが遊びの中心だったんだ。
細谷:岩田さん、山中さん、上條さんでよく遊んでいたんですか。
岩田:他にもいるよ。あとはあまり記憶にないけどね。
細谷:遊ぶというのはどういう?
岩田:夜中に喫茶店に行ったり、コンサートにタダでもぐり込んだり……。
黒ダ:喫茶店でお酒を飲んでいたんですか。
岩田:あまり酒は飲まなかったな。かわいらしい喫茶店遊びだったよ。あの頃、オリンピックの前だよな。喫茶店に入ると、嫌でもパンを注文させられるわけ。要するに、夜中にコーヒーを飲んで遊んじゃいけないというわけだ。パンをとると食事になるからと。嫌でもトーストをとらされるんだよ。
細谷:営業法で?
岩田:そういうことで。
黒川:風月堂とかでもですか。
岩田:どこでも。
黒ダ:喫茶店としても言い訳的に?
岩田:そう。食事は人間だからとめられないということだね。
黒川:特定の喫茶店によく行ったということはないですか。
岩田:ないね。皆、風月堂によく行ったと言うけど、俺も行ってみると不思議なもので、いつもクラシックの宗教音楽がかかっているんだよね。
黒ダ:現代音楽まで、当時聴けなかったいろんな音楽が流れていたそうですよ。
岩田:いや、現代音楽はあまりなかったよ。現代音楽にしても、ポップアートからしたら、しみったれているんだよな。気取っちゃってさ。若い元気のある奴が集まるくせに、辛気くさい喫茶店だったよ。
黒ダ:バッハとかですか。
岩田:バッハかヘンデルか知らんけど、宗教音楽が多かったな。
細谷:上條さんが東北大で学生運動をやっていたでしょう。運動の話はしなかったですか。
岩田:あまりしなかったね。彼も忘れていたんじゃないかな。
細谷:上條さんとは美術の話をするんですか。
岩田:いや、何を話したか記憶にないね。何を話して集まっていたんだか、具体的に取り立てて言うような話はないよ。雑談だよね。
黒川:御茶の水美術学院はどういう学校ですか。予備校ですか。
岩田:あの頃は予備校ではなかったな。趣味の学校かな。
黒川:大学に行くために岩田さんが入ったわけではなく?
岩田:ない。俺は具象を描こうと思うから、多少なりともデッサンをやろうと思って行っただけの話でね。予備校的に行ったわけではない。
黒川:美術の技術を学びに行ったんですね?
岩田:そう思ってね。御茶の水(美術学院)に行ったって何もないことはわかっていたけど、とりあえずモデルがおればいいわと思って行っとっただけの話でね。
黒川:上條さんはどういう意識だったのでしょうか。
岩田:そこまでは知らんけどね。彼は東北でそれまで違う勉強をしていたから、これから美術をやろうと思って来たんじゃないか。
細谷:日本アンデパンダンに出品されているんですけど、読売アンデパンダンに出そうとは思わなかったですか。出してますかね?
岩田:東京に行ってる頃は、読売に出してると思う。
黒ダ:63年に終わっちゃうから……。
岩田:終わる2年前くらいだな。2回出した(1962、63年)。
細谷:63年は皆さんで寝転がって。
岩田:そのときに同時に俺の名前で造形作品も出したのかもしれない。
黒ダ:個人名で出していますね。
岩田:ともかく2回出した覚えがある。そのときに狭い下宿で立体をつくるなんて到底できないので、名古屋に戻った。広いところでつくって作品を持って行けばいいと思って戻ったんだな。
黒川:作品をつくるために戻ったんですか。
岩田:そう。下宿の6畳、しかも2階の畳の部屋でつくるなんてね。
細谷:それは職人の仕事をしていたときですか。
岩田:そこにも通っていたし、同時に読売(アンデパンダン)の作品もつくるんだけども、そこで金属の廃品を使ってどうにかするなんて、できっこないもんね。
細谷:それで名古屋に戻ってきた。
岩田:その間に京都に行ったのかな。東京から京都に行ったんだ。
細谷:1964年に京都に行かれていますね。京都行きは何かきっかけがあったんですか。
岩田:ちょっとしたきっかけがあった。いっぺん東京を離れたくなって逃げた。簡単に言うと、男女関係で逃げていったわけだ(笑)。
細谷:名古屋ではなく京都だったんですね。
岩田:そのときはね。模写をやろうという気持ちもあったし、両方あって京都にした。勉強でこういうことをやったけど、京都でも下宿だから作品をつくることはできない。だから名古屋に戻って、さっきあったペンキの絵を描いた。大きい絵をのびのびと描けるようになったね。
細谷:京都にいた頃に、京都アンデパンダンがありましたね。
岩田:あれは京都にいた頃じゃなくて、名古屋から出した覚えがある。戻ってくる前か後かは覚えがない。
細谷:京都アンデパンダンは、岩田さんはどういうふうにかかわっていたんですか。
岩田:出すだけ。2回か3回出しただけだな。1回は時間切れで断られた。3回出したけど、1回は搬入の時間に間に合わなかったんだ(名古屋から車での搬入で、岐阜にいた小岩も出品する予定であったため、岐阜にも寄ったことで遅れてしまった)。
黒ダ:64年からほぼ毎年出していますよ。64年に《袋》という作品で、65年は(出品目録で《作品1》《作品2》《作品3》となっているので)作品が何かわかりません。66年から69年まで毎年出しています。
岩田:そんなに出しているか。中身は記憶がない。岐阜アンデパンダン(1965年8月9日~19日に岐阜市民センター、金公園、長良川河畔で開かれた「アンデパンダン・アート・フェスティバル」=通称「岐阜アンデパンダン展」)はその前? 後?
黒ダ:岐阜はその途中です。65年です。
岩田:とすると、俺は京都と岐阜と同時期に出しているんだね。
黒川:京都にはどれくらいお住まいだったんですか。
岩田:そんなに長くいなかった。1年くらいだよ。
細谷:京都アンデパンダンで水上旬さんも出されていますよね。水上さんとのお付き合いはこの頃からですか。
岩田:あいつは京都に住んでいて、名古屋に戻ってきたんだよ。戻ってきてから付き合い出した。京都の頃は付き合ってなかったの。
細谷:それはどういうきっかけでしたか。
岩田:名古屋でおもしろい友達は俺くらいしかいないから付き合おうって、水上が訪ねてきた。アンパン(京都)で見とったんだろうね。
黒ダ:その前に〈万博破壊共闘派〉を一緒にやっているわけですよね(万博反(アンチ)狂気見本市、1969年3月29日~30日、男爵/京都)。
岩田:それ以降ね。
黒ダ:それ以降ですか。水上さんが名古屋に戻ったのは70年代に入ってからじゃなかったかな。水上さんは前から知っていたんですか。
岩田:あまり知らなかった。名古屋で付き合い出してからは、よく付き合っていたよ。いや、待てよ。彼が京都におったときも、彼の家に泊まりに行ったことがある。
黒ダ:水上さんが最終的に名古屋に居着いたのが71年です。行ったり来たりしていたのかもしれませんが。岩田さんと水上さんはキャラクターや考え方、お仕事がかなり違うと思うんですが、気が合ったんですか。
岩田:変態的なところ、マニアックなところでね。あいつは今、篆刻をやっとる。当時、篆刻の話なんかできる相手はいなかった。
黒ダ:最近会わないですか。
岩田:全然会わない。あまり出歩かんみたいだな。子ども(林緑子)がパフォーマンスをやっとるみたいだな。名古屋じゃけっこう有名だよ。水上の娘がな。
黒川:お名前は水上姓ですか。
岩田:知らん。わりとよくやっとるみたいよ。水上の奥さんは生きてる?
黒ダ:奥さんって昔からの奥さんですか。
岩田:そう。
黒ダ:鈴木田朝子さん? その人は確か亡くなったと思います。
岩田:「昔からの」って、もう一人いるの?
黒ダ:僕が知っているのは〈プレイ〉時代に一緒にやっていた鈴木田朝子さん。
岩田:あれは愛妻だもん。変わらないよ。二人してべったりだったよね。
黒川:京都に1年間いらしたときは、生活とか収入はどうしていたんですか。
岩田:なんとなくアルバイトとか、多少お小遣いをもらったりとか。俺はおふくろに死ぬまで食わせてもらった。多少小遣いをもらっていたんじゃないか。
黒川:事業をやっていたりしましたけど、あまりお金に困ったことがなさそうなので。
岩田:本当にそうだ。俺はおふくろに食わせてもらっとるんだもん。堂々と言ってるよ。
細谷:お家からということですか。
岩田:そうそう。なんでこうも開き直ってるのかわからんけど(笑)。多少の引け目があるから、泉と商売をやってみたり、多少は儲ける気があったりするけど、せいぜい自分の小遣いくらいでね。
細谷:お家の質屋さんが大きかったんですか。
岩田:普通だよね。名古屋じゃ大きいほうでもないし、小さいほうでもないし、中間だよね。
黒ダ:まだ質屋はあるんでしたっけ。
岩田:とっくにやめてるよ。
黒ダ:ご兄弟かどなたが継いだりしていないんですか。
岩田:ない。祖父さんと祖母さんが死んで、しばらくはおふくろがやっとったけど、その後、いつ頃か知らんけどやめたね。
細谷:64年になると「ゼロ次元商会」というかたちで東京に行かれる。加藤さんが東京に行ってからは、加藤さんとの交流は密だったんですか。
岩田:もちろん。でも「ゼロ次元商会」は俺らがやり始めたわけでね。加藤は曖昧にしちゃったけど、あれは明星電機だわな。「ゼロ次元商会」は、僕と小岩と二人で始めたわけ。それは喫茶店に絵を貸そうという、貸し絵の商売。レンタルをやっとったわけだ。
黒川:それはいつ頃から始めたんですか。
岩田:記憶にない。
黒ダ:京都に1年いて名古屋に戻ったあとですか。
岩田:そうだと思うよ。小岩は岐阜におった。岐阜と名古屋は近いからね。レンタルの商売を始めた、そのときの名前が「ゼロ次元商会」なんだよ。商売も絵も生活も全部一緒だから、トータルで「ゼロ次元商会」でいこうと。正式に会社の名前を「ゼロ次元商会」にしたわけ。レンタル美術をやり始めて、始めたばっかりだったけど、それがわりとうまくいった。これは大事な話だけど、うまくいき出して、結果的に俺と小岩が大喧嘩して縁が切れた。小岩は〈ゼロ次元〉からもすべてから縁が切れた。なぜ喧嘩したかというと、資本は俺がおふくろに借りていた。小岩はそれまでヤクルトか牛乳の販売をやって営業がうまいものだから、あいつが仕事を取って回って、俺が裏で材料を仕入れたりしていた。商売はうまくいったもんで、最初は俺と小岩の二人で絵を描いていたんだけど、人手が足らんようになってきた。そしたら小岩がよそから下手くそな絵をどんどん仕入れ出したわけ。無限にどうでもいい屑みたいな絵を仕入れてくる。俺は資本を出しとるもんで「ちょっと待て。いっぺんストップしろ」と電話で言った。絵だけじゃなく、額縁も買わんといけんしね。それで言い合った。途端に小岩は仕入れた絵を全部俺のところに持ってきて「これを出資の代わりに引き取れ」と、それで大喧嘩して決裂した。それから小岩は〈ゼロ次元〉から離れたわけ。小岩は本当に昔からの親友で、〈ゼロ次元〉でも有力でパワーがあったけど、そんな変なきっかけでね。
細谷:小岩さんはそれだけ膨らませようとしたんですけど、それほど絵画レンタル業は儲かったんですか。
岩田:それなりにね。最初は自分で描いてたけど、額縁代は要るからそれは出していた。そんなに儲からんだろうな。しかも拡大していって、決裂した。小岩は一人でやると言った。自分で実際にお客を回っていたから自信があったんだろうな。一人でやって、これが大成功したんだよ。後々にはレンタル絵画じゃなくて、額縁屋になった。これが日本の業界を驚かすほどの大会社(ゼロ次元商会)になったの。
黒川:レンタル業のとき、岩田さんはどんな絵を描いていたんですか。
岩田:売り絵的なものを真似して、きれいな風景画とかきれいな林檎とか、ごくごく当たり前のそのへんにあるやつを描いていた。
黒川:でも小岩さんが仕入れてきた絵は気に入らなかったわけだから、何かこだわりがあるんですよね。
岩田:しょうがないよ。売り絵は売り絵なりの技術があるから。
黒川:喫茶店とかに納めていたんですか。
岩田:そうだろうね。俺は販路は一件一件知ってるわけじゃない。小岩が回っとったからね。儲かったといったって規模は知れてるけども、あとになって小岩の額縁屋がものすごいことになった。あいつはパワーがあるから、あの手この手で商売を拡大したんだよ。たとえば露骨な話をすると、全国のお客を岐阜の遊郭へ招待したりしてさ。あの手この手でやるんだよ。大きな自社ビルまでつくっちゃってね。成功して、俺は付き合いがないままだったけど、ある日突然破産して、その後、死んじゃったんだよ。ずっと前、まだ若いときだった。だから聞くにも聞けんのだけどね。
黒川:その一件以来、音信不通だったんですか。
岩田:そうそう。いっぺん仲直りしようと加藤が仲介して、三人で会を開いたんだよ。そのときに加藤が心理学をやっとるもんで、岩田が悪いと言い出した。俺は「どうしようもない額縁とかガラクタみたいな絵を山ほど持って来られて、金は出っぱなしで」と言ったら、「そうさせたお前が悪い」ってさ。仲直りの会でそんなこと言われたらなぁ。心理学を学んじゃいけない(笑)。仲直りの会がまた決裂だったんだよ。
細谷:一方で、岩田さんが名古屋のほうでグッドマンを開かれますよね。ジャズ喫茶です。このきっかけは何だったんですか。
岩田:おふくろに寄りかかっていてもいかんから一本立ちしようと思っとったときに、俺の知り合いの女の子がそこに勤めとって、そこを売りたいという話があると聞いて、それならやろうかということで始めた。
黒川:お店を買い取ったんですか。
岩田:そうそう。
黒川:お母様のお金で?
岩田:そうだな(笑)。ええ歳して。
黒ダ:伏見のわかりにくい場所にあったそうですね。
岩田:そう、小さな路地の中の小さな店だ。だけども、けっこう有名になってね。その店は前からぼそぼそとジャズをやっていたんだけど、本格的にジャズ喫茶にして、けっこう若い奴が来たよ。今、中年の奴に会うと「学生のときに行きました」って皆言う。溜まり場になっていたな。
細谷:名古屋では文化的な溜まり場だったんですね。
岩田:そうそう。皆そう言うよ。
黒川:まだそんなにジャズ喫茶自体が名古屋では多くなかったんですか。
岩田:全然。うちともう一軒の老舗と、その二軒だけだった。それからずっとあとは増えて、また今はなくなったけどね。
黒川:レコードをたくさん仕入れたんですか。
岩田:そうそう。レコードを買うのが大変でね。まだ1ドル360円だからな。360円で、しかも物がないんだよな。レコードの輸入が取り合いでね。ヤマハに特別な顔をつくって「取っといてよ」と頼んでさ。すると、うちに特別なレコードが来るわけだ。それで皆が聴きに来る。今みたいに自分で買えないから、ジャズ喫茶に行って聴こうと来るわけだ。そういうふうに本当のジャズが聴きたい人と、文化の拠点みたいなつもりで来る人と両方でね。それでも儲からなかったな。あまりはやらなかった。店が小さかったしね。
黒ダ:そこでライブコンサートをしたとかはなく?
岩田:そんな広さはない。この部屋の半分くらいで、両側に人が座ってる。
黒ダ:この半分くらいだと、けっこう広いですけど(笑)。
岩田:じゃあ、もっと狭いかな。そこで俺も朝から晩まで勤めっきりもうんざりだから、途中で人に任せたわけだ。
細谷:オーナーのようになったんですね。
岩田:そうだな、途中でな。そこに一生懸命勤めとった奴が今、東京でグッドマンという名前でライブハウスをやっとる。前衛ジャズでやっとるよ。
細谷:荻窪ですよね。岩田さんの絵が入口にありますよ。
岩田:まだあるか! うちに勤めとったんだ。よく続いとるよな。前衛の拠点みたいにして、いろいろ若手がやっとるみたいだな。そうか、あの絵をまだ飾ってるか。
黒ダ:矢矧(やはぎ)雅英さんはグッドマンにいた人? 仕事として働いていたということですか。
岩田:そうそう。矢矧は店員であると同時に、〈ゼロ次元〉の活動もけっこうやっていた。
黒ダ:元からあったジャズ喫茶の権利を譲ってもらったんですよね?
岩田:前はジャズ喫茶というより普通の喫茶店で、BGMでやっとった奴を本格的に始めた。
細谷:岩田さん自身がかなりジャズに関心があったということですか。
岩田:あまりない(笑)。
黒ダ:そういう意味では、ジャズ喫茶じゃなくてもよかったんでしょうけど。
岩田:そうそう。たまたま知り合いの女の子がそこにおったからというだけの話だ。
細谷:でも、サキソフォンをやっていた。
岩田:鎌田雄二という東京の奴な。あれは本格的なサキソフォン。
細谷:岩田さん、やっていませんでした?
岩田:俺はそんなに専門的にやってない。プープーピーピーと雑音を出すやり方だ(笑)。
黒ダ:この写真があるんですよ。MAC・J(モダンアート・センター・オブ・ジャパン)のとき(1964年12月の「ミューズ週間」)です。このときに吹いていますけど、別にどこかで学んだわけじゃないんですね。
岩田:そうそう。
黒ダ:サキソフォンは音だけだったら誰でも出せるんですよね。
岩田:サキソフォンは誰でも出せるよ。トランペットと違って。
細谷:溜まり場みたいなものをつくろうというのは、意識的にあったんですか。
岩田:溜まり場ってそういうことはなかったな。なんとなく自立しようというときにそういう話があったから、喫茶店をやって自立しようかなというだけでね。当時はまだジャズのことも知らなかった。当然、やりながらいろいろ覚えたけども、覚えるとやっぱり今までのビバップよりも最新の前衛のほうがおもしろくなって、前衛ばかりかけるようになった。そしたらお客がいっぺんに減っちゃって。前衛ジャズなんて、ファンは聴かないわけですよ。
黒ダ:フリー・ジャズのことですよね。コールマンとか。
岩田:そう。客が入らんようになって、はやらんようになった。
黒ダ:一般のお客さんはビバップとかを聴きたくて来ていたんですね。けっこうオーディオはいい機械を揃えていたんですか。
岩田:そうそう。その影響でこのへんにゴチャゴチャと。オーディオなんてそう興味がなかったけど、やっぱり店でやってるものだから、それとなく。
黒ダ:昔のジャズ喫茶や名曲喫茶は、家にオーディオセットがないから、いい音を聴きに行っていくところだったんですよね。
岩田:そうだよね。それが売り物だった。いい機械もそうだし、レコード、LPが手に入らなかった。ジャズの場合はそうだよね。クラシックの場合はオーディオだろうな。でもジャズ喫茶はけっこうオーディオに凝ってるよ。ものすごい凝り方。
黒ダ:平岡正明だってすごいですよね。平岡のオーディオ機器の話なんて、まったく意味がわからない。すごく詳しいです。
岩田:本も書いとるよな。
黒ダ:ものすごくいっぱい書いていますね。
岩田:あの人がオーディオ気違いとは思えないよな。
黒ダ:はい。でも相当詳しく知っていると思いますよ。
岩田:そうだな。あの人な。
細谷:グッドマンという店名はどこから?
黒川:買い取ったときからその名前だったんですか。
岩田:そうそう。
黒ダ:ベニー・グッドマンからですかね。
岩田:それか、スピーカーの名機でグッドマンというのがあって、両方兼ねてね。スピーカーのグッドマンは当時の憧れの的だったんだよ。両方の掛詞だ。
細谷:今日はこのへんで、名古屋に戻って来てからの話は以降にまた。
黒ダ:(写真を見せながら)これ(『肉体のアナーキズム』、p.357参照)は岩田さん、どこかに出ていますか。こんなのは加藤さんのアイデアですか。
岩田:そうだな。
黒ダ:覚えていることはありますか。おもしろかったとか。
岩田:別にあまりないな。これは高橋皓子だな。
黒ダ:高橋さんに一度お会いしました。高橋さんはけっこう主役で出てきます。それからこれは町のなかでやったものですね。
岩田:これは加藤の土地だな。
黒ダ:これは展覧会だったんですかね。
岩田:展覧会というか、野外で展示した。展覧会といえば展覧会だ。アクションが主体じゃなくて、展示が主体。
黒ダ:岩田さんは作品を出しましたか。
岩田:出したよ。
黒ダ:岩田さんの作品、どこかに写ってないですかね?
岩田:大きなベニヤのパネルに大きな矢印を描いた。
黒ダ:それは写ってないな。撮ったのが加藤さんかその周辺の人だから。絵だったんですね。
岩田:そうそう。塀みたいな大きな絵だったと思う。それで最後に燃やしたんじゃないかな。
黒ダ:アクションには岩田さんは参加していない?
岩田:参加してるよ、当然。
黒ダ:これは加藤さんの話では、I. Y.がとち狂って突然作品を燃やしたと言っていたけど、最初から燃やす計画だったんですか。
岩田:よく覚えてない。狂って燃やしたのかな。
黒ダ:演劇をやっていた人がいて。
細谷:燃やすのが前衛だと言われて、誰も何も言えなくなったと。
岩田:そうかもしれん。ともかく誰が主導してやったとか、そういうものじゃないんだよ。皆やりたいことをやってたんだよ。なんとなく皆がワーワーとやってるほうにいく。それが当時に雰囲気だよね。
黒ダ:野外だけど、誰に邪魔されることもなく。しかも加藤さんのお家の土地だったんですよね。
岩田:そうそう。
黒ダ:自分の土地で何をやろうと構わないという感じだったんですかね。
岩田:その土地に小屋があったと思うんだよな。小屋を壊しちゃったあとかな。
黒ダ:小屋はちょっと覚えてないな。
岩田:変な小屋があったんだよ。
黒ダ:アトリエとかじゃなくて?
岩田:だから変なんだよ。2階建てだった。だから俺は変だと思ったんだよ。おんぼろのくせに2階建てでね。何かの物見みたいな小屋だった気がする。加藤は何と言ってた?
黒ダ:そこまでは聞かなかったです。小岩の話は聞かなかったので。これ(『肉体のアナーキズム』、p.358参照)は?
岩田:地下街だよね。
黒ダ:これは3人でやった最初の?
岩田:そうだね。
黒ダ:ラクダのシャツと股引で。
岩田:そう。これもゆるキャラみたいな、のっぺりした感じだ。
黒ダ:袋を持っていますけど、何が入っていたんですか。
岩田:これもゆるキャラだ。籾殻が入ってる。
黒ダ:籾殻は作品として展示したんですか。
岩田:ない。中に詰め物として。
黒ダ:パフォーマンスの道具だったんですか。
岩田:両方だよね。物として展示したこともあるし。
黒川:ランニングマンはゆるキャラの意識はないんですよね?
岩田:ちょっと「ゆる」じゃないな。締まっとるな。
黒ダ:これなんて、加藤氏に訊いたらほとんど覚えていなかったんです。愛知県美、超芸術見本市(1964年8月30日~9月5日)。
岩田:これは美術館の中だと思うけどね。
黒ダ:このときに岩田さんは何をやっていたか覚えていませんか。作品を出したんですよね。
岩田:出してた。立体だったと思う。卵を半分に割ったような立体。でも絵も出してた。この頃はいっぱい出していたんだよ。球を半分に割って、弓の的みたいな半球だとか、簡単な物語をつくって、箱を開けると自動的にテープが鳴って物語をしゃべるという立体。大作だったよ。
黒ダ:凝っていますね。皆ほとんど立体ですか。
岩田:半々だよね。
黒ダ:球は床に置いたんですか。
岩田:置いた。箱はあそこにある白いやつみたいのをもっと長くして、開けると順番に写真が出てきて、テープが物語や音楽を流す。
黒ダ:けっこう写真が残っているので、あとで見てみます。若干インタラクティブなんですね。これが高橋皓子で、これがたぶん桜井孝身で、K.T.で、あさいますおです(『肉体のアナーキズム』、p.204参照)。
岩田:あぁ、そうか。
黒ダ:参加した記憶はありますか。
岩田:狂気見本市(日本超芸術見本市)のときでしょう? もちろん覚えてるよ。名古屋の栄町から何kmもある平和公園まで歩いていって大変だったね。おもしろい話があって、途中で加藤がI.Y.を口説き出したんだよな、草むらの影で。これをやってる最中に。俺が見つけてぶん殴ったよ。加藤は何も言わなかった……(笑)。
細谷:やってる最中なんですね(笑)。
岩田:真っ暗で、しかも裸だもん(笑)。俺はけっこう真面目だから、それは許せない(笑)。
細谷:こういうときは岩田さんは真面目なんですか。
岩田:やるときは真面目だよ。ふざけてないよ(笑)。
黒ダ:記念塔の階段を上がって服を脱いでいって?
岩田:ちょっと記憶にないね。栄から歩いて行ったんだけど、栄から服を脱いでいたのかどうか、それも記憶にない。けっこう遠いんだよね。よく歩けたと思う。
黒ダ:何時間もかかったんじゃないですか。
岩田:何時間はかからなかったけど。
細谷:やっているときはかなり緊迫した気持ちだったんですか。
岩田:いや、普通だよね。
黒川:脱ぐときは誰かが合図して一斉に脱ぐんじゃなくて、自然にだんだん減らしていくんですか。
岩田:うん。たとえば合図をするにしたって「1、2、3」ってちゃんとしたものじゃなくて、なんとなくだよね。なんとなく一人が脱ぎ出したから「じゃあ、俺も」って。そこらへんはいいかげんなものですよ。
黒ダ:女性もしっかり裸になっていますが。
岩田:I. Y.らでしょう。二人しかいなかったもんな。あまり他はいなかった。
細谷:女性は抵抗があるのではないかと。
岩田:そうだろうね。そんなには増えないもんね。2~3人はいつもいるけど、それくらいだもんな。あ、これは俺の絵だね。
黒ダ:矢印ですね。これは内科画廊の個展(1964年6月29日~7月4日、コレガゼロ次元だ!! ゼロ次元シリーズ 第1週 岩田信市展)ですね。
岩田:あ、そうか。こんな絵も描いていたからな。内科(画廊)も県(愛知県文化会館美術館)も一緒だわな。
黒ダ:このときは値札をつけた人がいっぱい写っているんですけど、これは岩田さんじゃないですよね。
岩田:そうだね。そんな曼荼羅みたいな絵は描かないね。……いや、待ってよ。わからん。加藤はこんな絵は描かないし。とすると小岩でもないから、僕かもしれん。
黒ダ:この流れで、新宿の「スペイン」という喫茶店を覚えていますか。
岩田:覚えてないね。
黒ダ:〈ゼロ次元〉が「スペイン」でパフォーマンスを続けていたようなんです。このコタツの作品は誰のでしょうか。加藤、岩田、連続個展なのであるいは二人の合作かもしれませんが。上にマネキンがあって。
岩田:エロチック展もスイートホームというのも記憶にあるんだよね。
黒ダ:岩田さんはそこにいたんじゃないんですか。
岩田:少なくともこの写真ではないけれども、これを一緒にやった記憶はあるんだよね。ただ、エロス博物館(1964年11月9日~14日、博物館計画第1次予告展・スイートホーム展 加藤好弘個展、内科画廊)というのは加藤だけじゃないかな。このエロス博物館は俺は加わっていないと思う。次のエロチック展(1964年11月16日~21日、博物館計画第1次予告展・エロチック展 岩田信市個展)はやった。
黒ダ:これ(1964年12月、銀座パンティ行進、『肉体のアナーキズム』、p.198参照)は小岩氏が先頭に立ってる。
岩田:そうだな。銀座だな。
黒ダ:これは岩田さんは出ていますよね。
岩田:出てる、出てる。
黒ダ:一人大きい人が出ている。
岩田:俺は何をやっても平気だけど、このときは女のパンツをデパートで買うんだよな。恥ずかしかったな。
黒ダ:皆で買ったんですか。それとも誰かが代表して?
岩田:代表じゃない。俺も嫌々買ったよ。女のパンツだよ(笑)。一人一人買ったんじゃないかな。
黒川:外で裸になるより恥ずかしかった?(笑)
岩田:そうそう。
黒ダ:女物のパンツじゃないといけないですもんね。これは平田実さんの写真で、銭湯(1964年12月か、目黒の銭湯での「正装服のまま入浴儀式」、『肉体のアナーキズム』、p.198参照)。これもどこかに写っていますよね。銭湯は何回かやっているんでしたっけ?
岩田:そうだね。そうしょっちゅうではないけど、何回かやってる気がするよ。
黒ダ:これがグッドマンのマッチですね。
岩田:懐かしいね。これは店内か。マッチもそうだし、部屋の中もいっぱいだったんだよ。
黒川:〈ネオ・ダダ〉のなかの岸本さんについてお話があったのでうかがいたいのですが、〈ゼロ次元〉のなかの高橋皓子さんを、岩田さんはどう捉えていましたか。
岩田:一人の仲間で、別に特別どうということもなかったね。ただただ一人の仲間で、そんなに二人で話したこともなかった。だいたい〈ゼロ次元〉は皆でミーティングすることもなかったしね。ただ、俺はあとで「日本超芸術見本市」のパンフレットに(高橋に宛てた)変なラブレターみたいなものを書いたけれども、あれはインチキというか、書いただけの話で本心ではない。一応、かわいらしい子だなとは思っていたからラブレターを書いたんだろうな。でも特別に深くどうということではない。心の意味じゃなくて、表面的には好意をもっていたんじゃないかな。だからラブレターを書いた、「こういうきれいな人もおりますよ」と。
黒川:〈ゼロ次元〉のなかで性別はどうだったんでしょうか。
岩田:あまりない。女は二人しかいないもんな。そんな特別ないよね。女の取り合いなんてこともないし、乱交も、あったかもわからないけど、少なくとも俺は無縁だし。
黒ダ:先ほど京都のお話のなかで出ましたが、結婚される前に継続的に付き合っていた女性がいたんですか。
岩田:それは〈ゼロ次元〉のなかじゃないよ。
黒ダ:一応、彼女はいたんですね。
岩田:乱交しないと言ったけど、固定はいたよ(笑)。
黒川:先ほど、岸本さんは自分のなかに解放の要素があったのではないかというお話がありました。高橋皓子さんにもそういうことを感じられましたか。
岩田:そこまではわからない。彼女は加藤の弟子みたいなものだったからな。加藤のところに何かを覚えに来ていた。最初は学生だったもんな。
黒ダ:愛知学芸大(現・愛知教育大学)だったんですよね?
岩田:そうそう。名古屋は当時、美術志望は皆、教育大に行っていた。名古屋美術を語ると、皆ほとんどが教育大。昔は学芸大学と言っていたけど。東京まで行くのは少なかったよな。
細谷:当時の名古屋の美術界というと、ほとんど教育大学だったんですか。
岩田:そうそう。
黒ダ:その時点ではそれしかなかったんですかね?
岩田:そう。東京に行くのが大変だったんだよ。我々の仲間の話を聞くと、皆、大変だった。親なんて美術学校に一切学費を出さないよ。1年間浪人して自分で稼いで行ったとか、皆大変だった。結局、皆、金に詰まって中退だよな。行ってみたら意味がないと思ったということもあるけど、半分は金だよ。
黒ダ:加藤さんは高校と大学を出るんだけど、教員免許を取って、簿記の免許も取っているんですよ。だから完全に社会に出て働けるような資格を取っているんです。
岩田:そうだろうな。多摩美に行ったということは。だけども戻って中学の先生になってからは、無茶苦茶やり出したんだな。
細谷:中学校の先生時代を岩田さんは見ているんですか。
岩田:そんなに見てないよ。多少は知ってるけれどもね。教室を占拠しちゃって、大きなわけのわからん作品を中学校で描いてるとかね。
細谷:それは皆さん、耳にしていたんですか。
岩田:見に行ったよ。教室を私有していいのかって思ったね。それから組合運動も熱心にやっていたみたいだね。それはマルクス的な深いものじゃなくて、単に生活のための運動だった。会長か何かやっとったみたいだよ。俺らが知らないところでやっとったみたいで、わりと力があったみたいね。
黒ダ:学校で生徒から人気者だったみたいですね。組合でもそうだったと思いますが。
岩田:やっぱり教祖になる要素があってね。ずっとあとに加わる松葉(正男)も生徒だな。斎藤(メツボー)というのも生徒だし。
細谷:オルガナイズしていくところがその頃からあったんですか。
岩田:うまいんだよね。高橋も一種の生徒だしね、学芸大に入ってからだけども。
黒ダ:岩田さんは自分の作品を売ったことはないですか。
岩田:ないない。売れないよ。甲斐性ないよ。
黒ダ:アンデパンダンとかには出すけど、64~65年以降は個展とかは?
岩田:最近は全然しない。若いときは人並みに5~6回はやったけどね。5~6回じゃないか。
黒ダ:名古屋に戻ってからですか。
岩田:そうそう。京都の画廊で2回か3回やったよ。木屋町画廊を借りて2~3回やった覚えがあるよ(詳細不明)。有名な民芸風の版画家がやっとるよな。田島征彦。兄弟でやっとる(兄弟は絵本作家・美術家の田島征三)。童画みたいな版画をやる人。その人が主催してたな。京都で個展をやったのも水上の紹介だ。そういう意味でも水上とは深いね。
黒ダ:では一端ここで、ありがとうございました。
細谷:これ以降は明日にします。