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北山善夫オーラル・ヒストリー 2012年3月19日

北山善夫アトリエにて
インタヴュアー:青木正弘、坂上しのぶ
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2013年7月28日
更新日:2018年6月7日
 
北山善夫(きたやま・よしお 1948年~)
美術家(絵画)
1948年滋賀県生まれ。80年代初頭、竹と紙による大型彫刻で鮮烈なデビューを果たし82年ヴェニスビエンナーレ日本代表。86年より本格的に絵画作品の発表を開始。粘土でつくった人型の彫刻をもとに描いた細密なペン画や宇宙空間を描いた作品で知られる。インタヴューでは病気をくり返し常に死と隣り合わせだった幼少時代の記憶から、出世作である竹の作品が誕生したきっかけ、禁欲的だった70年代から表現主義的な作品へと本格的に移行した80年代初頭の動き、82年のヴェニス・ビエンナーレ、絵画回帰へと向かう内なる心の動きが語られた。

北山:(青木さんとは)共通項はものすごくあるし。やっぱり世代が一緒でしょう。美術状況がある程度分かるし。

坂上:誕生日は(1948年)何月何日ですか。

北山:6月9日。 これスケベですよね。6月9日。

青木:シックスナイン。

北山:シックスナイン。いやあ…。

坂上:(青木さんの)1歳下という。

北山:僕は下でしょう。昭和23年。

青木:僕は昭和22年。1947年の12月3日だから、半年位違うんだよね。

坂上:滋賀県の八日市って今日(来る時に)通って来たんですけど。もともと京都の友禅染の家に生まれた。

北山:友禅?いや友禅の家じゃないですよ。もうちょっとちゃんとしゃべったら、滋賀県生まれで、何で滋賀県生まれかっていうと、京都育ちなんですけど、入籍が、滋賀県の母親の役場で入籍されてるんですよ。母親の里で生まれたんだけど、届け出はおじいちゃんなんですね。

青木:届け出に行かれたのはおじいちゃん。

北山:ですね。で、父親の名前は「のち」やねんな。つまりね、父親はまだ離婚出来てなかったんですよ。それは10年程前、父親が死んで遺産相続のことで、原原簿(はらげんぼ)というやつを調べたら、ずっと代々載ってるでしょ。戸籍上は、父親は違う人と結婚してるのね。それはずっと、父が死ぬまで母は言わなかったんですけど。要するに「再婚、騙されてした」って母は言っていた。

坂上:お母さんは正式に結婚してない。

北山:してなかった。入籍されてなかったわけ。そんなで生まれちゃったんですよ。だから滋賀県生まれでそれで良かったわけ、僕は。一応、母親が実家で産んで、京都に家があったから帰ってきたんやと思うのね。で、何でか、っていうのがあって。向こう(八日市)で、長いこといたってこともないわけ。でもまあ、向こう生まれということで、滋賀県の文化奨励賞ってのを(後に)もらう時に「あなたは、ほんまに向こうで住みましたか」と。「どのぐらい」とかって、ちょっと聞かれてん。その時は、母親がね、病弱やったから、僕が向こうで、それは幼稚園前でしたから、4−5歳やったかな、滋賀県にやられてたんですよ、疎開みたいな。おじいちゃんと一緒に住んでたってこと。で、大分(滋賀県に)いてたというのがあって。「ほんならあげましょか」みたいなことやったんですよ。

坂上:じゃあ、お父さんとはずっと離れて。

北山:いや、そんなことはないですよ。その後、父は離婚になって母と入籍して、年子の弟はちゃんと二人の(子供)でした。その後、僕は、父親の籍に入ったと思うから。一応、滋賀県のそこで入籍、(離婚前の)親父のところに入ったか、ということは、戸籍は、見ていないね。

坂上:ということはもともと「北山」という名前ではなかった。

北山:あ、そうか。いや、北山でした。やから、認めたんやろね。父親が認めるというのがありますやん。ほら、結婚してても、石原慎太郎のところも「自分の子供や」って認めてるでしょ。そしたら、奥さんはいはるわけやから。認知なんですよ。認知しましたよ。で、名前は北山やね。

坂上:で、八日市で5−6歳位まで。

北山:いや、だから、生まれただけで、こっちに。京都市の中京区。壬生のとこに。父親の職場のところに住んでた。そこは友禅工場で、友禅職人やったんですよ、親父がね。

坂上:じゃあ、ほとんど京都で生まれ育ったと。

北山:と言っていいですね。

坂上:そのままずっとですか。その壬生のところで。

北山:そうですね。はい。あ、で、幼稚園の時に京都市右京区に引越。西院ってとこですね。

坂上:じゃ、近いですね。

北山:はい。歩いて移動したみたいですよ。
 
坂上:じゃあ、ほとんど、自分の中の小さい頃の思い出っていうのはあの辺。

北山:そうやね。ほんまに。歩いて。松尾の方に。自転車かなあ。行ったりとかしてましたね。で、田んぼとか空き地とかありましたから。

坂上:ありました?(今は無い)

北山:ものすごくありました。全然ありました。阪急西院の駅の向こう側は全部田んぼと原っぱで。

坂上:今とは全く…。

北山:全然違いますね。ずーっと何も無かったですよ。西京極までほとんど何も無い。西京極の向こうも何も無い。ずっと田んぼ、畑。

坂上:今は本当に家とビルがバーッと。

北山:そうです。もう。全然違いますよ。

坂上:工場が。あの辺、桂川の辺りなんかほとんど工場ばっかり。

北山:そうやね。本当に空き地。

坂上:田舎っぽい感じだったんですか?

北山:田舎っぽいねえ。だから西院っていうのは、小学校の先生が「ここは賽の河原の賽(サイ)やと。西院(サイ)という名前やけど、賽の河原のところやし、桂川のところやから、河原町と同じように死刑もあったし死者の埋葬もあった」と言われてますね。西院駅の向かいに高山寺(こうざんじ)というのがありますよ。お寺がね。高雄の高山寺の末寺みたいなのかな。

坂上:その頃の友達とみんな…。

北山:みんな近所付き合い。

坂上:中学高校とみんなずっと。

北山:小中だけです。僕は小学校3年の時に腎臓病やったんですよね。それからずっと長期入院ですわ。ネフローゼっていう。小学校3年でね。

坂上:9歳とかそれぐらい。

北山:10歳。10歳ですね。九九の6段終わって7段からうろ覚え。僕。6×6=36まではさーっと言えるわけやけど、(高校は)受からなかったわけ。そっから入院したから。

坂上:小学校3年生までは普通に元気に、近所の子と遊んだり。

北山:僕はものすごく元気で、全然わんぱく坊主だったんですよ。で、皮膚病やったから、例えば蚊とか刺されたり、ぶと(ぶよ)とか。ものすごく腫れるのね。アレルギーか分からないけど。で、皮膚病のお医者さんに行ってたみたいで。で、親父に河原町の性病か何か変な皮膚病院に連れて行かれて。で、その薬が追い込んだ、のかな、というのもある。

坂上:副作用で。

北山:そうそうそう。

坂上:腎臓の方の。

北山:そうやねえ。確かとは言わないですよ。50歳頃に再度腎臓が少し悪くなり、病院に掛かり、何度か主治医が変り、病院が閉鎖になり、違う病院を紹介され、そのお医者が初めての腎臓内科の専門医で(今まで専門医ではなかった)、その先生が言わはるには、いろんな原因があって、土の中の細菌とかでもなる、って。特定はでけへんけどね。それもあるって。昔はねえ、地べた這いながらビー玉とかさあ、面子とかって。どぶがあっても手洗わなかったりとかね。ものすごく汚かったんですよ。で、赤痢とか何かでよう死んだんね。で、下水とかも無かったしね。そういうとこであったから、何とも言えないですけど、とにかく10歳で。元気やったんですけど。

坂上:急にって感じ。

北山:急にやね。

坂上:お腹痛いって。お腹痛いみたいな感じになって。

北山:体全体がだんだん腫れるのね。おしっこが出んようになるわけ。腎臓っていうのはおしっこを作るところだから。その細胞の機能が落ちて行くわけ。

青木:血液を濾過して行くわけ。

北山:そうそうそう。

坂上:で、どんどんどんどん具合が悪くなってお医者さんに行ったら、入院しなさいと。

北山:そう。ものすごう腫れてるからね。体中、もう要するに水分が出えへんわけよ。腎臓は働かないし。おしっこはねえ、もう、内蔵まで溜まるわけ。頭まで溜まるんですよ。(頭を)押えたらべこーってへっこんだまま。それぐらい。もうほとんどおしっこ行かないんで、もう腎不全状態やねん。それもおかしいな。昔、母親が産婦人科で結構長いこと患っていて。そこに入院させられてな。四条西洞院の佐々木病院。そこから「小児科に行け」って言われて。そこで入院したんだよ。で、そこへ搬送されて、で、そこで治らんかったんですよ。で、治らなくてそのまま家に返されたんですよ。そのままの状態で。もうそこでは治らない、と。もう、腎臓移植とかそんなんしか無かったらしい。

坂上:京大病院とか行かなかったんですか。府立医大とか。

北山:それが行かなかったのね。で、もうタクシーで返されて。で、その後、家で寝ていたら、保険のおばちゃんが「この近所にいいお医者さんがいる」と。そのお医者さんが京大の循環器系のお医者さんで。夜とか日曜日、開業しはる人がいはって。日常的には京大病院に勤めてて。そこに行ったのね。そしてまあ向こうはまあ一応先端だから。新薬のプレドニンって副腎皮質ホルモンがあるんやけど、それがまだ臨床実験やってん。それでただで飲ませてくれたわけ。で、効いたんですよ、それが。で、落ち着いた。まあ完璧には治らなかったのかも知れないけど、一応治ったんですよ。

坂上:3年生で発病して。

北山:1年位は休んだと思う。だから治らないで(病院を)出て、そこでやっと治って、ということで。それはね、今でも副腎皮質ホルモンってあらゆる病気に使っていて、副作用でムーンフェイスになるのね。

青木:皮膚病にも使うあの副腎皮質ホルモン。しょっちゅう出て来る。

北山:耳が聞こえないという時にも出て来る。大量投与とかしたりするんやけどね。それで僕はとにかくミニマルタイプで効いたんや。だから僕は、その薬は効く、ということがあるらしいんですよね。その後再発するんやけど、効くというのが分かってるから、それをまあ投与すれば。ただそれきついから、投与する前の段階で違う薬をやるんやけど。で、もう1回、義務教育9年か。で、中学校1年でまた再発するねん。

坂上:もとの学年に戻れたんですか?

北山:下に年子の弟がいてんねん。1歳下。で、同じになるから可哀想って言うんで、(学年終了を)出してくれるわけ、どんどん。中学校のときも休んでるから。だからちゃんと9年で出ました。

青木:じゃあ留年はせず。

北山:しないで。すごいあの、数学とか英語とか段階的に覚えて行かないといけない学科はものすごい遅れるわけ。で、社会とか理科、あ、理科は好きじゃなかった、その時その時に覚えるのはええねん。

青木:勉強よう出来たでしょう。

北山:普通に出来たし、入院前は良かったね。まあよく遊びましたけど。めちゃ良くはないと思うけどな。

青木:じゃあその頃は読んでました?ものを。

北山:読んでなかったです。全く。で、せやね。読んだのは、3回目の再発入院中からです。もう一度腎臓病になったら死ぬよと言われていたから。えーっとね、だから勉強がものすごい遅れて行くわけですよ。で高校受験したんですよ。日吉ヶ丘高校って美術のね。で、僕、美術は得意やったわけ。小さい時から得意やったわけ。それだけは自信あったんや。

坂上:じゃあもともと美術が好き。

北山:絵好きやった。それはものすごい大事なことやと思うんやけど。休みがちで。でも身体も大きかったんですよ。小学校の時クラスで相撲番付があって横綱でした。そっから向こう見ず。ものすごい向こう見ずだったんですよ。今でもあると思うんやけど。それで、その辺(病気した辺り)から丸くなったかな(笑)。で、もう1回ね、病気再発したら、看護婦さんから「死ぬ」って言われてたわけ、僕。それが頭にあって。18歳でもう1回再発するんですよ。中学校で再発して、中学校卒業して就職するわけ。高校は落ちちゃった。実技は受かったけど勉強で落ちた。で、就職した。近所の染織業で。座って出来るしあんまり運動してはいかんと言うので、お昼ご飯食べに(家に)帰って来る。就職したところで美術の好きなおじさんがいはったんです。得意先にね。この人が大丸の支店長してリタイアして。その親族の染織の大きな「悉皆屋(しっかいや)」さん。

坂上:間に入って全部やる。

北山:そうそう。全部やって。問屋さんから白生地を預かるでしょ。で、どんな柄にしたいかって全部プロデュースするんですよ。で、一個ずつが分業やねんから、染めの図案描いて、柄も決めて、図案とかいうのも全部そこで決めて。色とか全部決めるわけ。一作業ずつ発注して。また出来たら別のところに持って行って。すごい行程をそこでするわけ。制作者。そこの会社のおじさんがYMCAの京都の洋画教室に行ってはったんですよ。で、ほんで、僕、あの、「ぼん」って言われてたんですよ。愛称やってんね。ほんで「行かへんか」って言うので。

坂上:関係無いけどその頃のYMCAって(ジェームズ・リー)バイヤースも先生だった。

青木:あ、そうか。

北山:へえ。あ、そうですか。独立系の先生でした。坪井さんって人が。

坂上:三条柳馬場ですよね。

北山:そうそう。三条柳馬場。毎週水曜日に通ってましたよ。

坂上:バイヤースに会ってるかも知れないですね。 

北山:僕16歳から行ったから、20歳位まで行ってましたよ。

坂上:(北山さんは)62−3年から行ってますよね。重なってます。

北山:それでデッサンを習ったんですよ。で、油絵も、おじさんは写生に行ったりとかいうのがあって(連れて行ってもらった)。その当時ユトリロとか好きでね。ユトリロっぽく。

坂上:描いてたんですか?

北山:やっぱし、油絵具買って。石膏デッサンもそこでやって、家も描く。そのいいおじさんが連れ出してくれて。屋外写生しに行ったりね。

坂上:じゃあ風景は、ユトリロみたいな街の風景だったりとか。

北山:とか、普通の山野。でもほら、美術やりだすと、見るじゃないですか、いろんなものね。で、そこが染織業だったから、「運筆」っていう日本画的なね、筆を使う仕事やから、職場から「習いに行け」というので、水墨画っていうか日本画、あ、でも顔料使わないから水墨画やな、その2つに行ってたんですよ。

坂上:それもYMCA?

北山:YMCAじゃなくて私塾みたいな感じ。向日町の先生がいはって教えてくれるという。あんまり大した先生やなかったなあ。(笑)。

坂上:日展の先生の何とか塾みたいな。

北山:ううん、日展の先生でもなかったなあ。うん。2つその時行ってて。仕事して。ほんで、もうちょっと経つと、博物館とか行きましたね。博物館に行ったのと。あとは京都書院っていう本屋さんが四条河原町にあったですよ。美術書とか染織とかの。そこに、ほんまに休みの時に行って。本屋さんだけど、図書館みたいにして見てた。

坂上:上が画廊で何かしてましたよね。

北山:そうそうそう。その時に山下菊二とか来て対談とかやっててさ。その時に「これが東京のすごい有名な人なんだな」っていうの? 雑誌とか載ってるから。熱心に聴きましたよ。で、僕は学校行ってないから、そういうことの印象ってものすごい感じるんですよ。人物像っていうのかな。オーラっていうのかな。芸術家はこんな話、しゃべり方するんや、みたいなね。山下菊二だけやな、その時は。で、京都書院のおじさんも(僕が)毎週来るわけ、で、でかい本見るやん、で、「こうして見なさい」って教えてくれるわけ。「丁寧に見たらなんぼでも見てもええよ」って。「あんた若いからそんな本買えへんのは分かってるから」って。すごい親切。後からよう考えたら、すごく大っきな気持ちで見たはる。

坂上:そうですね。普通立ち読みっていうとハタキで(読書邪魔されて追いやられる)。

北山:そうそう、ハタキでね。そんなの全然無かったですよ。ほんで、だから見倒しちゃった。で、そんなん見てると、僕、死にかけてるから。哲学書読み始めたんですよ。京大の井島勉とか。そんなんで『美学』って本があんねん。それ生意気に『美学』、買いましたよ。16(歳)から買いましたね。

青木:小学校3年生の時に腎臓病に罹った時に、やっぱりどっかで死のことをもう…。

北山:小学校の時は死は思わんかった。中学の時は「死ぬ」って言われてたから、もう1回やったら。18(歳)でなった時は、もう死ぬと思ったもん。

坂上:いつも何か怯えてた。

北山:その時、僕は、25までは生きられたらいいなあと。18でやった時に思いましたよ。もう本当に余命はちょっとしかない、と。その時に、もう少し生きられたら、何して生きたいかなあと思った。そしたらやっぱし、美術するだろうと。その時、もうものすごい決心をしてるわけ。かなり生死懸かってるんですよ。

青木:だからほとんど、小学校3年生の時に始まった腎臓病が、ある意味で北山善夫を創った。

北山:今から思うと、そう思います。

坂上:その前は、全然。もっとちゃきちゃきの。

北山:もうねえ。ものすごく。もうちょっとその前の言うたら、えーっと、頑固でね。幼稚園児の頃、親父に連れられて、福井が実家だったから、おじさんの家に行ったんですよ。その家の前まで来た時に「気に入らん」っていうのがあったんやろね。その家に入るのが気に入らんと。そこで何時間も立ち尽くした。入った記憶がない。でも、夜に着いてるから、もう「また始まったあ」みたいな感じで(笑)。親父と弟は家のその中に居て、記憶はないけれど、いつか入ったんやろなあ。泊めてもらったと思うんやけど。あと、幼稚園に行く時に、とにかく「一番」にならなきゃあかんかったんや。先頭になって行くねんね、いつも。で、先頭にならなかったから、「俺はもう行かん」と。で、母親が「とにかく一番にならしたって」って言うようなことがあって。もう、近所の兄ちゃんたちとも喧嘩したし。ここ、「でんこぶ」っていうのが出来てるんですよ。ここ。後頭部。触ったらわかりますよ。これ、2回喧嘩して、どぶ板に当たって、ボーンと倒されて。もう、追いかけ回すみたいなところがあって。小学校入ったらどんなんなるやろ、と、心配された。身体もでかかったから。腕力もあったんですよ。

坂上:それがいきなり病気になったってショックですよね。

北山:まあ、ショックというか。小さかったからね。絶対安静で動けんかったから。動かんようになって。

坂上:お父さんお母さんは?

北山:父親は、「勉強出来んでも、一つ得意なことがあったら、それでええんや」みたいなことは、父親はずっと言ってたから、それはすごい励みになりましたね。でも何かあんまり「可哀想やなあ」って言われるのは嫌やったね。すごく情けない、っていう感じでしたね。ずーっと寝てるからさ。とにかくトイレにも行ったらあかんかったんですよ。入院している時は。完璧に、動いたらあかんわけ。だからベットでうんことおしっこを取るわけよ。寝てるだけ。昔は「腎臓は動いたらいかん」と。今は動かすけどね。あと塩分制限ね。もう真白よ。おかず。塩分全く無し。

青木:醤油も味噌も全く無い。

北山:全く。だからバターとかええから、ごはんにバター掛けて。あの無塩のやつを。とかですよ。そういうなんで、ちょっと暮らしてたから。

坂上:人生変わる。

北山:変わる。変わりますねえ。うん。

坂上:想像が付かない位。質問が思いつかないよね。それ位(つらい状況の話)になると。

北山:まあ…とても頑固で、意固地でこだわりで「一番でなかったらあかん」というところがものすごいあんねん。走るとかそんなんでも同じだ。

坂上:それがさあ、びりになっちゃうわけでしょ。かけ算も駄目になっちゃうし。

北山:結構、勉強が出来ないから「2」とかね、通信簿。「3」ならまあいいなあと。美術だけ「5」ですよ。

坂上:入院してる時、動いちゃいけない時って、本読む位しか駄目なの?

北山:そうそうそうそう。18の時に、本当に考えたのは、「ここで寝ながら何が出来るか」って考えた。そしたら「本、読むだけや」というので。弟がいたから高校の図書館で古典を全部読みました。日本と西洋の。小説ね。古典と言われる。ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』とか。でも『三銃士』もあったし。面白いやつもあったけどね。『赤と黒』とかね。

坂上:どんなやつとか面白いと思いましたか、全部持って来るやつは…。

北山:うーん。『モンテ・クリスト伯』なんかも面白いけどね。うん。夏目漱石の『こころ』とかね。あれなんかも、読み込んで行くと大分読めるじゃないですか。日本の方は、西洋読んでから読んだんやけど。

青木:西洋を最初に読んでる?

北山:そうやね。で、看護実習生っていうのがいてて、その人たちとも仲良くなったから、そちらからも本を借りてたりしてね。で、本当によく読みました。

坂上:みんな持って来てくれるんですか?

北山:図書館の本を。向こうが持って来てくれるやつを、要するに片っ端から借りてもらう。知らんやから何も。言うたら「どんな本が出てるか」も知らんから。ランダムに読んで行くわけやから。16(歳)で京都書院で本読んだりするのも、ランダムに。ほら、読んだ本の中に「この本はどこから出ているか」って言う、「引用のやつ」元があるじゃないですか。そしたら「この引用も読んだらどうか」って広がるわけ。問いが増えて行くんですよ。そういう具合に自分で勉強したの。

青木:絶対腎臓病が創ったね、北山。

坂上:だけど描いてたのは、そういう街の風景だったり。ユトリロっぽい絵。

北山:画集とか読むから、ユトリロっぽい。あとはね、中学3年の時に「受験する」ってので、僕の友達が、同じ受験生でね、僕に「一緒に日吉ヶ丘ってあるから一緒に行こう」っていう前田君っていうのがいてたんやけど。こいつはね、東京芸大の彫刻科に入るんですよ、一浪して。で、もの派とも関係あるんやけど。こいつが「もの派」みたいなことやりよんねん。で、僕が上京して、見に行くねん。で、その友達と、夜ね、一緒にしゃべったりして。「あ、今度は本気で行くかあ」と。

坂上:それは前田君が大学生の頃?

北山:そうですね。大学生の頃。『美術手帖』の展評にも載るんですよ。

坂上:(前田君が)里帰りした時にそういうことをしゃべったりするんですか?

北山:東京の案内状が来たから行きました。やっぱり現地に行かないと。で、個展も見て。で、そしたら「よう来たなあ」って。で、「今日は飲むから」みたいなんで。僕はその時は飲めなかったけどね。一応禁止だったから。

坂上:じゃあ1960年代の後半になったら、18歳になって発病はしちゃうけれども…。

北山:そう。18で発病して1年間入院するんですよ。で、職場は行けないんですけど。それ以後は、50位でもう1回発病して。今も薬飲んでるんですけどね。

坂上:じゃあ、すごい発病量。

北山:そう。今は(腎臓は)60パーセント位しか動いてないんですよ。腎臓。でも、一応、ま、オッケーなんですけどね。一応普通の生活も出来るしお酒も飲んでもええということでね。

坂上:60年代後半になったら積極的に東京に行って、いろんなものを。

北山:いや、そんなことないです。彼を知りながら、年に1回か2回しか行ってませんよ。でも、生の現場を、友達がそれに関わっているから、現代美術はこんなもんだなあというのがあるけど、僕は、現代美術は遅いんですよ。で、もうちょっと前を言うと、博物館とか行ってたから。あ、もうちょっと前にね、中学3年の時、受験の為に彼と「俺等、美術高校に行くんだから、展覧会見に行こう」ということで、京都市美術館ね。レンブラントとか。

坂上:「ミロのビーナス」展(1964年)とか。

北山:見た、見た。「ミロのビーナス」もやし「モナリザ」展(東京国立博物館、1974年)も行きましたよ。ものすごい並んでね。それも見ましたし。その頃から見出すねん。

坂上:アンパンとかは? そういうのはまだ。

北山:いや、行きましたよ。出したしね。

坂上:60年代?

北山:そう。井島勉(1908-1978)さんはそれのディレクションとかやってたからね、アンデパンダンの。もうちょっと言うと、YMCAに行くでしょ、18でもう1回再発するでしょ。それが1年位で治って、19か20位の時、治ってからやな、京都市の「市民アトリエ」っていうのがあるんですけど、それで彫刻で、富有小学校でやってる、岡本庄三いうのが先生でね、そこに4年行きました。同時に版画も。ものすごく流行ってたんですよ、版画とタペストリー、織、が流行ってたのね。ファイバーっていうね。で、銅版画も行ったんですよ。版画も市民アトリエで。で、2つね、その当時2つ(行ったら)あかんかったんやけど、あそこ、京都会館のところに文化関係の事務所があって、そこのおっちゃんが「ええ」って言ったのね。で、2つ行ってた。週2日。その時に4年間かかって、彫刻と版画とやって。行き出したら、彫刻の方は案外写実とかそんなもんやったから、現代美術じゃなかったんだけど、版画の方はかなり現代美術の子がいてて、友達が池田満寿夫(1934-1997)とか(知って)。ほんで、もうちょっと進んでる奴がいたんだけど、そいつが「若冲なんかもいい」って言って。で、それ見られなかったんだけどね。そういうところから情報を得て行くわけや。

青木:その頃には「作家を志向している自分」がいたってことですか? 北山さんの中に。

北山:18の時にね、「これは25まで生きられないから美術やって行こう」って思うから、やっぱりその時に作家志向はありましたね。

青木:あったんやね。

北山:現代美術やろうというのは無かったんですよ。もう一つは古典を見ていたし。博物館はしょっちゅう行ってたわけ。俵屋宗達とか、光琳とか、あの当時は、横山操とか、『芸新』で「水墨画再生」とか。そういうやつ言われてたじゃないですか。そこなんかも興味あったし。雑誌良く読んで。昔は『芸術新潮』。20歳位から『美術手帖』を読むのね。

青木:今の話を聞いてると中学校の時の同級生が一緒に(高校を)受けて、北山さんが駄目で、彼は行って。その後、北山さんは市民アトリエでやってて、彼は東京芸大。そうすると普通だと、中学校の友達、違ったところで何か「うっ」とくるものがあるじゃないですか。

北山:うん。

青木:だけどそういうとこ、付き合っていけてるんやね。そこんところもちょっと(普通じゃないね)。

北山:それからもう一つは、人間関係やから、東京芸大行ってる奴で、4年の時に、21(歳)か、帰って来た時に、そいつ、前田君っていうのは、京都の方で付き合ってる、京都教育大学の同級生がいるわけ。特殊専攻科(美術専攻)って。その子らと一緒に、展覧会を一緒にする。ちょうど寄り集まった時に「僕らやるから、やらないか」って声掛けてくれたの。版画やってるから「版画をやる」っていうので、僕だけ入ったんですよ。で「四人展」やるわけ。で「四人展」のそのグループが出来るのんね。で、3回やるんですよ。京都府立文化芸術会館。

坂上:あそこの病院(府立医大)の前。

北山:そうそうそう。あそこは大きいから、僕は、市民アトリエの彫刻に行ってる時に、奥田忠雄さんていう府民ギャラリーかな、京都府の職員で彫刻されてる人がいてね、おじさんなんだけど、いつも帰る時に誘ってくれるわけ。で、ご飯も食べさせてくれるんですよ。すごく親切な人がいはんねん。すごく忘れられないの。今でも年賀状は交わしているんやけど。その人に言ったら、そこのところ(京都府立文化芸術会館)4人でね、4人なんて少ないんですよ、本当はもっとようけで借りないといかんのね。で、貸してくれたわけ。それで、そのグル—プで3回やって。その後も次のグループが出来るんやけど、その版画のグループも3回3年間やるんですよ。大きな会場で、一人では個展位の規模で出すんですよ。

坂上:北山さんはどういう作品を…。

北山:紙の立体と版画と混ざってるやつ。

坂上:抽象と具象とどっちなんですか?

北山:抽象的なやつ。あ、具象もある。あ!あそこにある!あれ!教育大学の子らと一緒にね、あれ。

(3人で作品の所に移動)

坂上:あ、これ!えー!(見ながら)

北山:あ、忘れてた!こう向きなんですよ。(いっぱい描いてあるの)顔だから今(自分がやっている表現)と一緒だよ。だから、(昔の作品に、今の作品が)戻って行くんですよ。

坂上:どれが顔?(細かいのがうわーっとオールオーバーに描いてあって一瞬分からない)

北山:これ顔。これ顔よ。目鼻。これ、銅版でエッチングなんです。

坂上:えー、顔なんだ。

北山:うん。

坂上:面白いねえ。似てる似てる、今と。何でー何でー、不思議ー。

青木:実は顔が集まっているっていうのもね。

北山:それ(展覧会)をやった時、彼達の先生で日展の作家が僕の作品だけを買ってくれた。木村浩吉っていう。有名な先生ですよ。で、教育大学の子らの絵は買わないんです。「ものすごい気に入った」って言うんです。

坂上:こういうやつ(作品)。

北山:そうそう。

坂上:これ(タイトル)何て書いてあるんですか。「出ようとするもの」。これ反対向き。

北山:あ、これね、ガラス割れたんですよ。落ちたの、ガラス。(で、天地逆に置いてある)

青木:「出ようとするもの」。

北山:閉じ込められてるから、こっから出ようとする。

坂上:身体の中に(顔がいっぱい詰まってる)。

北山:苦しいっていうか、そういうこと。意識が閉じ込められてる。

坂上:これは何時ぐらいのですか、20歳位の?

北山:21かな。

坂上:何かさあ、ちょっと暗いよね。

北山:暗い暗い。だから社会的なことをやりたいっていうのがあって。

坂上:どちらかというと内向的な人だったんですか?

北山:両方かな。

坂上:でもさ、こういうのって、ほら、50年代っぽいよね、表現が。池田龍雄(1928-)とか河原温(1933-)とか。

北山:池田龍雄のペン画とかああいうの、僕ものすごくいいと思いますよ。

坂上:ああいうのは「社会芸術」っていうの?

北山:社会的なものをものすごくやりたいと思っていた。

坂上:でもああいうのって、ほら、公害とかあったり、大学闘争とかあって、反権力とかあって、戦って、そういう中で生まれるわけじゃないですか。

北山:そうそう。そうですよ。その当時は社会的にそういう理由があったんやけど、で、練馬の美術館で池田龍雄と中村宏(1932-)(「ねりまの美術’97 池田龍雄・中村宏」練馬区美術館、1997年)。

坂上:行った行った。

北山:あれを見に行ったのは、彼等の作品が何で悪くなるのかっていうのを見たかったからです。つまり面白くなくなって行くかってのを。あれはね、70年代に入って、経済が右肩上がりにね、高度成長期に入って行くわけ。72年のちょっと位までは彼等は良かった。

坂上:私はああいう観念芸術みたいなのが入ってからかなあと思って。

北山:そうじゃなくて、僕の理由は、社会的にそういうことを描く人も、(時代から)遊離して行ったんですよ。時代が右肩上がりで、もうそういうこと言ってもしょうがないよ、と。社会の労働運動とかさあ、そういうことも、世論も意識も低くなってきてて、労働争議も。

坂上:でもまだ70年代ってごちゃごちゃごちゃごちゃありますよね。赤軍があって。

北山:ああ、それはテロっていうか、そういうものはあるんだけど、バブル期まで日本は高度成長に入って行くんですよ。だから抽象美術。美術はそういう社会的なことはしなくてええ、と、いうのがみんなのコンセンサスですよ。

坂上:だけど、面白いね。50年前と今が(北山さんの表現が)ほとんど一緒で。

北山:今、ものすごく社会と経済が悪いのは、今やけど…もうちょっと前段階で、グループのやつを2グループを…あ、これがカメだー!

坂上:あ、カメムシ!

北山:これが臭いんですよ。ほら、

坂上:いやーん。これはもうストーブの中で退治するしかないですね。焼却する。(北山宅には立派な薪ストーブがある)

北山:沢山いるんですよ。薪ストーブ用に薪を積んで乾かしているんですけれど、薪の1本ずつに1匹はいる。全部でかなりいるからかなりの数や。公害やねん。ちょっと。だからまあ、その前田君の関係からそんなのを知ると。京都教育大学。それで、シェル美術賞展に出したんですよ、水墨。墨の表現っていうので。それでね、夜8時頃、教育大学に塀飛び越えて忍び込んで、教室で制作をやってた。ほんで、その時に西山英雄が教授だったのね。で、いつも絵具が垂れない程度に乾いてから(作品を壁に)立て掛けて、12時位か1時位に帰るんですよ。守衛のおじさんも来るんですよ。「頑張ってるな!」って。(爆笑)

坂上:行動美術の先生とか(教育大には)多かったじゃないですか。

北山:でも日本画の教室にいてたから。ほんで一人だけでやっててさあ。で、どうも1回だけ(作品を)干すのをさあ、床に置いていたらしく忘れててん。で、「どうも違う奴が(教育大の夜に)いてる」っていう(笑)ことになって、(友達)「ちょっとばれそうになってんでえ」(北山)「えー」って。「気を付けるわ」って言って。2ヶ月位行ったかなあ。夜。アトリエ無かったし。

坂上:自転車で行ってたんですか。

北山:車。僕16(歳)で軽自動車の免許証を取り、車も買ったから。

坂上:すごいね。意外と。

北山:ホンダのやつ。

坂上:池田龍雄とかそういうのが好きだって今おっしゃったけれども、だけど…。

北山:好きっていうか、社会的な作品。

坂上:だけど(池田龍雄の作品に)出会う前に既にああいうの(池田龍雄を彷彿とさせる作品)を作っていたっていうわけでしょ。

北山:そうそう。

坂上:自分の中で。

北山:もう浜田知明(1917-)とか知ってましたからねえ。版画で。うん。それは一応雑誌とか『みづゑ』、『美手帖』、『芸新』とか読んでたから。

坂上:あの頃60年代後半から70年代の『美術手帖』って、池田龍雄とか(メインで)出て来ないし。

北山:そうですか。

坂上:観念芸術とかさあ、

北山:そうね、日本概念派とか言われてましたね。コンセプチュアルアートとか、

坂上:福住(治夫)さんが編集長で。(今とは)大分違いますよね。

北山:そうね。編集長が違うと大分違うよね、木村(要一)さんもね。

坂上:面白く読んでたんですか、やっぱり。

北山:いや、もう昔の『美術手帖』はかなりのもんやったとちゃいます? 読者も多かったし。若林(若林奮、1936-2003)さんなんかはもう雲の上の人でしたね。『美術手帖』で。で、どんなもんかなっていうので、雅陶堂(へ展覧会)見に行きましたよ、愛知が持ってる緑の何とか(《大気中の緑に属するもの》1982年、愛知県美術館所蔵)って言うのね。で、本物見て、「おかしいなあ」って思った(笑)。これは、神格化されてるけど、落ちてるなあって思ったわ。「振動尺」のちょっと後やね。それから、あと本だと、ミッシェル・フーコーの『言葉と物』って、あの、表紙が高松次郎(1936-1998)。《この七つの文字》。だからもう、高松次郎なんか、美術手帖でもう天才ですよね。あこがれっていうか神格化されてるし、めっちゃ頭もいいし。

坂上:同年代の作家がもう『美術手帖』に出始めていたじゃないですか。少しずつ。そういう人の作品って。

北山:僕の友達がその学生の時に展評に載ったって。ピストルがテンションで空中に。概念。もの派以後やね。もの派が終わってた時やと思うんやけど、ただみんなその時やってるのは、概念派ともの派をなんぼやっても追随者になるから、それを越えるというのをどうしたらいいかっていうのを、みんな探っているなっていうのは何となく分かりました。京都アンデパンダンに僕はコンセプチュアルな作品を出していたから、「紙体」ってタイトルで。画用紙か何かを破る、これ位(手のひらより大きい位)に。それを立てて行く、壁にずっと立てて、2メーター位の(筋に)。上から見ると紙の断面が見えてる。それを床に。あと、鉛を、斜めに切った紙に、破った鉛を引っ掛けて行くというやつ。置く作品とかも。

坂上:ものそのものというようなやつを。

北山:そうやね。

坂上:ちょっと手を加えたようなものだけを。

北山:(ギャラリー)射手座で二人展やったのは、カミキリムシをエンボスでプレスする。プレス機買ったからね、自分で。それが、2−3000枚刷って、それが山盛りになってるやつとか。やっぱりその当時の、ものをそのまま、あるいはちょっと加工して、出すというのをやってましたね。

坂上:60年代後半は、ああいう社会芸術とか…。

北山:最初はね。あの頃はあんまり知らなかったんですよ。現代美術を。

坂上:まだ現代美術を知らなかった段階。自分の中で出てきたかたちが自然にああいう風(身体の中に顔がいっぱい詰まっている表現)になって。

北山:そうそう。だから何が面白いのかっていうのがあるんですよ。現代美術はアイデアちゃうか、みたいな。古典からしたら。

坂上:ああ。美術の歴史とかは学んで来なかった。

北山:美術の歴史はその後ずっと学ぶようになるんやね。

坂上:自分で飢える。

北山:いや、やっぱり書物やねん。『ジャコメッティとともに』(1969年)っていう矢内原(伊作)さんの作品ね。彫刻やってる時に、彫刻18(歳)以後だから、すごい感激して。実存主義。サルトルも出て来るし。ジャン•ジュネとか出て来るし。その矢内原さんの中にも、他にもジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901-1966)のこと書いてるけれども、やっぱりその、『ジャコメッティとともに』が一番いいですよね。すごくその時の雰囲気があるし。で、矢内原さんと、(ジャコメッティの妻の)アネットとが、関係を持つと書いてあるのね。それで絶版になるんですよ。(矢内原の)奥さんが禁止する。それは僕はその時読んで分かったもん。ねえ。こんなこと公にしていいの? って。その位、その、ジャコメッティが、奥さんなんやけど、「好きやったら関係を持て」、って言うんですよ。ジャコメッティ自身が薦めるわけ。愛はそういうもんや、と。何と、僕、それは大きかったね。自由主義というのか。縛らない、相手を、って書いて。それ、とても印象的。作品の作り方も。で、ジャコメッティの絵がやっぱし好きやったね。その後イギリスのテート見に行ったけど、ずらーっと並んで。絵の方が好きやったね。

青木:ああそう。鉛筆のドローイング。

北山:いや、鉛筆のドローイングは、あそこで見ましたよ。佐谷(画廊)でね(1994年)。だけど、油絵ですよ。油絵。彫刻よりも僕、どちらかと言えば絵の方が。うん。

青木:ジャコメッティは60年以降の絵は僕は。やっぱ50年代。54−5年まで。

北山:そこまで細かく見れないわけ。こんなもんがあったっていうね。

坂上:そういうのを見て、だんだんだんだん歴史を知りたいなと。

北山:歴史も結構、18の頃から辞典で勉強しましたよ。ざーっと。

坂上:そういう風に知らなかったら、あいつらは結局ものまねじゃないかという風に。分からない。

北山:ああ、昔は現代美術はアイデアじゃないかっていうようなとこがあって、それ以前のものはやっぱり具象というか、積み重ねの中で。(当時制作していたのは)彫刻やったから、ヘンリー・ムーア(Henry Moore, 1898-1986)までやってね、ヘンリー・ムーアまでやると、骨のところをやってますよね。それは、具象の際まで行っていて、抽象まで行ってない。そっからですよね。ブランクーシ(Constantin Brancusi,1876-1957)になってくると、かなり抽象の方に入るんですけど。それが作品の個々の中で分かってくるわけ。書かれていることと図像とを合せてこの作品はこうだ、って見ながらね。実感的に分かってきた。で、池田満寿夫とか、友達が面白いって言う。で、やっぱし現代美術の方が面白いなと思うようになるの。やっぱりリアリティがあるわけ。時代の中で生きているから。高松次郎とか元永定正(1922-2011)の展覧会も、国際(国立国際美術館)であったしね。

坂上:だけどその頃の現代美術って言ったらさ、また話戻っちゃうけど、ものがぽーんと置いてあるだけとか、文字が書いてあるとかだけじゃないですか。

北山:と、プライマリー・ストラクチャーというか、ミニマルアート。あとアメリカンセンターで、藤枝(晃雄)さんの講演会があってね、アメリカのやつが、ものすごくええと。

坂上:ああいうのがいいと思ったんですか。ものだけとか。文字だけとか。線だけみたいな。

北山:究極的に行くとそうだなあとは思いました。すごい、あらゆるものを削ぎ落として行って、言葉との関係を、まさにギリギリに近い状態で行ってるじゃないですか。

坂上:蒸発しきった感じのものしか残ってないじゃん。もっと(いろいろな要素を持った)かたちがあるものだったら分かると(もっと分かり易いと思うけど)。

北山:それが、そこまで行く(究極まで行く)と、出られない。っていうか、それ以後を目指さないと、自分の作品としては、浮かび上がらないじゃないですか。

坂上:(究極的には)何も無くなっちゃう。

北山:そうですよね。追随者になるから。それで、町中のギャラリーで、作家としゃべってると、どうも説明ばっかしだなあと。何故「自分がこの作品を作ってるんだ」ということを言わないんだと思ったわけ。つまり、「こういう作品が流れているから、私はこういう作品を作る」ということを言うんだよ。「貴方とその作品とはどんな繋がりがあるの」と考えてしまう。感じる。つまり哲学が抜けてると思ったわけよ。個人の思想、心情が抜けてると思ったわけ。一つの路線の中でそういう作品がいてて、この変遷の中でちょっと新しいから面白いんちゃうかということなんやけど、「あんたとこの作品はどうなんや」と言いたいわけ。そこが日本の美術に抜けてる。だから「主題の喪失」という。池田龍雄とかそういうあの時代のところっていうのは、社会の中でせめぎあってるものがあるし、概念派とかミニマルアートっていうのは美術純粋主義になってくるわけ。美術だけで行けばいいというわけ。社会は関係ない。だけど美術は、どこにあんねんって言ったら、社会の中にあるわけだけど、それを忘れ去ってると思うの。で、自分の子供の絵を見た時に、彼等はほんまにビビットに絵を描いてるし、ピカソも天才だって言うてんやけど。その前は思わなかったんやけど、すごいなあと思うわけ。人間はみんな芸術家やったんちゃうかと言う位、思いましたよ。ほんで、自分も、だから、説明したり、そういう概念的なものは、ほとんど死んでると思った。うん。子供の絵って生きてる、って思ったんですよ。言葉のしゃべりとかね。そういう風なものをとっても。

坂上:線一つとっても、何か、こう、通ってる感じがした。

北山:だってね、もう「ガタンゴトン」って線の上でも引きながら言いますよ。保育所の中でも他の子も同じです。

坂上:もう子供がいたんですね。

北山:二人ね。保育所行ったら、見て行ったら、みんな面白いんですよ。自分の子供だけやなくて。で、いつの頃から面白くなくなるんだろうと。小学校5−6年位からね。それは何でやと。ものと言葉ね。そのものがきっちりして行くのね。で、子供の頃って自分の自我、我っていうのがすごく大きいじゃないですか。だんだん、親元から離れながら、友達と遊んだりしながら、他者というか社会を知っていく、関係性を知っていく。その時に言葉と出来事、あるいはものとの関係がきっちりしていく。ある時、子供とお風呂に入ってたの。子供はその前の日に潮干狩りに行ってね。で、「お父ちゃん、このお風呂の下にもずっと、水がずっとあるんやね」って言うんですよ。マジで。お風呂の下にもずっと海が続いてると思ったわけ。前の日に海に行って潮干狩りしてるから。僕らは、風呂の水は風呂の水だけであるんやけど、彼等は繋がってる。分け隔てがまだ出来てないからその広がりは大きいわけよ。雨水があっても、水。実際は遊んだみたい。バシャバシャと。で、家に帰ってたら「あんたこんなのベシャベシャにして」って怒られるからあかんのやけど「ええことしたね」って言えば大分違うと思うんやけど。そういう風にして、ものと言葉にくくられてないんですよ。ダイナミックに関わってる。世界と。関わり方が。僕らはある一つのフィルターがあるし、人の間でも、行ったらあかん境界線があるし、様々な規約っていうか制約が植え付けられるんですよ。そのことが無いと思うのね。だからだんだん、作品を作るという時に壁が出来るわけ。それを壊すことになるんですよ。壊さないと次の作品が出来ひんわけ。絶えず自分の廻りに既成事実を作って行くことになるわけなんや。だから芸術はある意味でそういう世界観を破っていく、やっぱし個人が破らないとあかんわけ。流れてるものをそのまま鵜呑みにしたら、壁さえ、あること自体分からないわけ。

坂上:それって、ものの見方をブレークスルーするみたいな。

北山:そうそう。

坂上:そういう感じって。美術ってそうなんじゃないかって、いつぐらいから意識しましたか?

北山:小さい時から、俺一人みたいなところがあるから、我が強いから、自分で納得しないとすまんのね。

青木:やっぱり大学へ行って、作家になりたいとか、絵描きになりたいとか、彫刻家になりたいとか言っても、今の北山さんの話を聞いてると大分違いますね。大学に行って、作家になるっていうのと。何か、北山さん自身が、北山さんを作家に創っていってる、って気がする。

坂上:大体、京都の美大だと、18歳になったら、ギャラリー16に行って、見て、あ、こんなんなんだって、シンポジウムも見たりして。ちょっと勉強もして。肉付けしてっていうのがノーマルなパターンですよね、学生の。

北山:ギャラリーって、京都美大(京都市立美術大学、現京都市立芸術大学)の事は知らんわけ。

青木:北山さんが矢内原のことを思っている頃、矢内原さんは京都美大にジャコメッティの講演に来られましたよ。僕が大学1−2年の頃。それ聞いた記憶がある。60年代後半。

北山:いいねえ。そういうのはたまに聞くといいんだけど、今はそれを浴びるほど聞いてるでしょう。

坂上:うらやましいなって思うけど。贅沢でいいなって。だってそんなの全然無かったもん。

北山:僕は教員やって、そういうのいっつもあるから。

坂上:いつもゲストゲストゲストで、新しい先生が話に来る。

北山:しょっちゅう来るから、超有名とか知らんのですよ。

青木:降って来るようにあるでしょう。

坂上:うらやましいよ。

北山:うらやましく思ってないよ。彼等は。

坂上:それが当たり前。

青木:そうなんだよ。だから全然ね、こう、内側の作られ方が違う。さっきも北山さんが、その頃の話で「哲学」って言葉を出したのも分かるね、うん。日本人はあんまり哲学意識が無いんですよ、芸術っていうことで。それともう一つは「個」って意識が非常に弱い。今ある美術館見てても「大衆を」とか「市民を」とか言うじゃない。そうじゃなくて「個」なんだよ。その意識がヨーロッパに比べると弱い。「哲学意識」も。

北山:「和」の意識が多過ぎて。

青木:日本のいいとこでもあるんだけど、そこがちょっとやっぱりね。

北山:思いますね。

坂上:哲学意識ってどういうこと。

北山:やっぱし、自分は、何処から来たのか。何処へ行くのか、っていうね。

青木:そう、ゴーギャンのあれですよ。「そして何者か」っていうね。

北山:そう。で、それで、僕の《宇宙図》っていうのは、ああいうもの(人間が詰まっている様なかたち)は自分でやった(60年代、勉強前に、自然な発露で)でしょ、前にね。あの後、現代美術になっていくわけですよね。抽象を覚えて。で、あれをやってる時にもビアフラ(戦争)とか新聞を読んでるんですよね。それに悲惨なことがあって。作品に現すだけなんだけど、ほんまに深くはないわけね。結構浅いと思ったわけ。で、やっぱりちょっと、密着してないと思ったんですよ。もっとよう考えたら、「生と死」っていうのがあって、離れられない。っていうのは長い事続けているから。やっぱしその時からね、意識的に自分が「こう思ってる」っていうのはなかなか言えないんだけど、言えないだけで、自分にはその時には、そこの問題が大きな問題、密着した大きな問題だということは、言えるんだけど。もっと、今の作品になったら、ある程度、作品をやって発表して、それがどういう具合に受け取られるかっていうのを、関係性、跳ね返ってということも感じながら。自分の言葉っていうのはある程度、発言に責任を持ってやってるでしょ。それは(当時は)無かったわけね。それまでは見られてないわけだから、それこそ社会運動やってる奴もあるし、その意識になってない奴もいるわけだから。僕の知ってる奴でもいるわけだからね。共産党に入って新聞配ってる奴なんかもいたっていうのがいるんやけど、「ほんまに分かってしてるのか」っていうのを話したこともあるんやけど。うん。

坂上:何か成り行きでやってるとか。

北山:ほんまにはそんなにはないんやね。深く言えないものがあって。学生運動のあれでも転向した奴も多いんやけど、ほんまにやってる奴がいるのかな。って。それはまあ難しい問題ですよね。人それぞれの奴があるから。「吉本隆明に騙された」って奴も(笑)。言ってるしさあ。でもまあそれも何かね、聞いたら、「あんたの責任ちゃうか」って言いたいんだけど。

青木:そうだよねえ。

北山:吉本はお前に「やれ」って言うてはいないんやから。

坂上:そういう哲学、「我々は何処から来て何処へ」って言うけど、まあ、何だろう、男と女は違うから分からないけど、元気だったら、取りあえず自分の考えたことも精一杯やって行こうとか(前向きに)思うんだけど、病弱でいつ自分が死ぬのか分からない中で、「自分は何処から来て何処へ行くのか」って。自分は、たとえば社会の中で役立つことによって元気になる(問題を克服する)人もいるじゃないですか。だけど、病人で、動かない様な人だったら、そういうことも出来ないし、人の世話になってばっかりだしね。薬飲んでばっかりで、って。そういう生活だったかどうかは知らないけれど、想像すると…(私の状況とは全く異なった哲学になるのではないか)。

北山:重病の時、死ぬ事は怖くはなかった。楽になれるかも知れんから、死ぬ事はたやすく受け入れていて、普通に眠れた。

坂上:そういう時って…。

北山:体はすごいしんどいけれど、気持ちの焦りは無かった。頭は体の奴隷。

青木:やっぱりそれは、そのこと自体が哲学っていうか、やっぱり哲学の方に行く、何ていうかなあ、切っ掛けっていうか。

坂上:私達が生きてたって「自分は何処から来て何処へ行くのか」って(いつも思うけど、どう違うのか)。 

北山:僕はね、やっぱし男やし、言葉っていうのがすごい多いと思うのね。冗舌だと思うわけ。女性みたいに「身体(からだ)」っていうのがベースに無いわけよ。ここだけが生きてるわけ。飛び跳ねるんよ。

青木:そうそう、雄はそうなんだよ。雌はもうねえ、存在自体が次の命をつなぐって存在だから。

坂上:やってもないですけどね。(冷笑)

青木:それは産むとか産まないとかいう以前にそういう存在なんですよ。もう本当に情けない話だけど、1年前に気付いたけど、何や、自分の乳見りゃ男の存在そのものや、って思ったのね。

北山:貧弱な乳って言うんですよね。

青木:印でちょっと残って。元女かなっていう。女性ってそういうこと思わないのね。

坂上:別に何にも思わないですよ。

北山:だからその分、頭でっかちで、歴史的に見ても、かなり男がしゃべってるじゃないですか。

青木:宇宙へロケット飛ばしたりするのもみんな雄ですよ。肉体的にそれ(命を育む機能)を具えていないから。

坂上:(女)だからって探検心が無いとかそういうことではないと思うんだけど。病弱で自分が死ぬっていう状態で。

北山:個人的に、そのこと(考えること)だけで(人生)終わるかも分からないけど、その時にやっぱし苦しいことを「これは何や」とかあるいは「もう少し生きられたら何をするのか」と。つまり苦しいなら苦しいなりに「うんうん」ってうめいているんじゃなくて、意識してそのことは何かっていう分析をしてるわけ。自分はそれでも、これでも有意義に生きたいと思ってるのよ。だから本を読むとか。そこで問いが発せられてるっていうのを解決しようとしてるのよ。一つの希望を持とうとしてるんや。

坂上:(エミール・)ガレなんかも自分が死ぬってなった時に、彼はキリスト教の国で生まれたけれども結局最後は、永劫回帰的な事まで踏み込んで考えたり、肉体があってさらに肉体は滅んでも精神は生き延びるんじゃないかとか、いろんな考え、哲学もあればそういうオカルト的な考えも全部含んで悩み苦しんで悶える。

北山:そうなんですよ。悶え苦しむんですよ。悶え苦しむことを知ってしまったわけ。「禁断の実」を知ったんだよ。勉強するということはそうなんや。そしたらそれが回りよんねん。動き出すんや。

坂上:私は元気だから、もちろん人間が100パーセント死ぬのも分かってるし、自分が死ぬのももちろん分かってる。だから分かってるけど、だからって自分が、本当に自分が明日死ぬという状況になったことが無いから、例えば、ガレの心情は分かるし共感出来るところもあるからガレは好きだし。だけど実際の自分はそういう状況になったことがないから、ただ感激する立場にあるわけ。そこの哲学って全く違うと思うわけ。

北山:同じ状況になることは無いわけだし。自分は自分なりに、っていうことに戻らなきゃあかんわけ。ガレはガレにして、他者にしてしまわなきゃあかんわけ。

坂上:そこでさあ、宗教的なものに興味を持ったりとかしない?

北山:神、っていうのかな、そういうものには、惹かれるものがありますね。信じるとか信じひん以前に、僕らは神無き、以後の人間やと思うんやけど、「人間は何故神を創ったのか」ってタイトル、僕にあるんやけど、でもいてるわけ。神って言葉を無しに出来ないわけよ。で、神っていう存在を考えた時、今まで神に対する存在、人間の存在、一つの信頼感があるわけやな。自然に近い状態で、神のところに持って行ってるわけ。キリスト教でも仏教でも、神がいるから、或る程度神で問題は解決出来たんや。「身体がどっか悪い」「ないがしろにしたんちゃうか」ということで、一つそれで済んだんや。だけど今はそれを自分で引受なあかん。どっかで物理的に悪くなったんやから。科学的になったわけやからね。神とは分離されたんでしょ。でも、逆に僕らの中に、ある「神」に代わるものを持ち出してるわけ。医者が神なわけ。な!一つの。パート的に言えば。様々なものの寄り集まりがそうやと思うねん。うん。固有のもんではなくて。だからキリスト教、ストーリーとしてはものすごい面白いですよ。つまり、男が最初に、天地創造のところね、(蛇が女に「神が食べるのを禁止している」リンゴを食べさせて、楽園喪失となるストーリー)全部女が悪くしてあるって。あと受肉するじゃない。マリアのお腹の中で生まれるじゃない。それは神は一応精霊やったんやけど、受肉して、自分の身体になって、人間を味わって、死ぬわけや。そういうことする為に人間の腹の中に神が来たんですよ。それで人間の為に死ぬというストーリーになるわけ。原罪をあがなうと。全部の原罪を引き受け死ぬ。それをこの、我々の(身体を)持っているキリストがやると。ストーリーとしてそういう具合になってるわけね。それで、その時、肉っていうのは性欲もあるし、禁断の実の時の知恵の実もあるでしょ、それは神から逸脱するわけやから、そこに原罪が出来ると。キリスト教、あるいはユダヤ教は救われると。それ以外は異端者やと。

坂上:そういう宗教の本もいっぱい読みましたか?

北山:一応、かなり面白いから、それから「異端審問」とか「魔女」の問題も出るし。肉の問題っていう、つまり、セックス自体は動物的なことやから、それをしたらいかんと。人間は、動物じゃなくて、その上に立つもんやと。そういうことだから、そういう意味で忌み嫌われてるっていうのか、動物にならないようにするためにどうしたらいいのかって書いてあるの。向こうは。こちらの性欲とは違うわけね、「色即是空」じゃないんやな。でもこっちも、貶めてるけど。でもヒンズーとか性交してるのとかあるじゃん。もっと大らかなのね。

青木:性っていうのは決定的に次々に命を繋いで行く。

北山:そう。だから彼等は矛盾してるんですよ。神父さんはしたらあかんわけでしょ。

青木:だけどしなかったら滅ぶわけでしょう。

北山:だから、かなり男主義的なんですよ。単独のあれ(系図)を作りたいわけやけど。だけど出来ないわけよ。で、出来ないのは何故かっていうところには行かないわけよ。

青木:行かないね。それだけは。

北山:そういうなんが大きくなって、やっぱし植民地主義にもなるわけね。自分のアーリア人の地位が最高地位にいるわけやし。異端なものは、我々に従うべきやと。

青木:権力闘争っていうか、そういうものの方に繋がって行くんだよね。その考え方が。

北山:言われているのは、他者を作りながら、自分たちを生かすような形の中で「他」を作ってるのね。ほとんど同じようなもんなんですけどね。ほんまに他者じゃなくて。

坂上:ちょっと関係ないけど、身体弱かったじゃないですか。でも性欲はどういう風だったんですか。

北山:それはありますよね。たっぷりかどうかは知らないけど。落ちる時は落ちるし。つまりね、病気があって治るやん。治る時は段々忘れてくわけ。この、死ということの苦しみから離れてくねん。どうしたって離れてくねん。日常生活になって行くわけやんか。だけど消え去るわけじゃないけど。元気になって行くわけじゃないですか。

坂上:考えて考えて考えるわけじゃないですか。(弱ってる時は)布団の上で。

北山:今も考えてますよね。ずっと。

坂上:だけど元気になると、肉欲の方に。

北山:身体は元気やもんね。だから、何でその性欲があるんか、っていうので、毎日ペニスを描いたもんね。4年間。(この話は、時が飛んで2000年以降)

青木:あ、この前「宇宙御絵図」(豊田市美術館、2007年)に出してもらいましたもんね。宇宙御絵図の時に。

北山:1回だけは(ギャラリー)ほそかわで、発表した。1冊だけ。性欲を描いてんねん。ペニスが描いてあんねん。250枚の丸善のスケッチブック5冊。文字も描いてある。

青木:メッセージのようなものも描いてある。

坂上:どうしてそういうことをしようと。

北山:性欲っていうことを。自分の中でどうしてもあるから。かたちで、美術的に(性欲を)解決出来ないかって。(爆笑)

3人:爆笑

北山:美術で解決せなどうしようもないと。

坂上:痴漢になるわけにも行かないし。

北山:それも1つの方法だけどね。

坂上:でも美術でそれを解決するって。

北山:でも一応あれですよ。「女のようなかたち」になったの。

坂上:「女のようなかたち」

北山:うん。ペニスを埋め込むんですよ。自分の中に。

坂上:ああ、「女の子」って感じで、足と足の間に入れて。

北山:違う違う。ペニスだけが埋まんねん。

坂上:穴の中に?穴ないじゃん。

北山:あの袋の中。身体の中に埋まるんですよ。

坂上:相撲取りがふんどしする前に。

北山:そうそう。それを聞いたことあってやってみたら出来てん。それずっと描いて行く中で。

青木:お腹の中に入れちゃうの。全部。ペニスを。

坂上:最初は出てたん?

北山:最初はね、勃起してるやつも描いてますよ。

坂上:ぴんぴんみたいな。

北山:そうそう。

坂上:だけど

北山:描いてたらね、縮まんねん。

坂上:(性欲問題を)解決してんじゃん。(爆笑)

青木:自分の見て描いてんの?

北山:鏡で。

坂上:え、よく分かんない。

北山:見してあげようか、とか言って。(笑)

(北山、スケッチブックを取りに行く)

青木:ペニスあるやろ。小さいのね。起ってる時は出来ないよ。やわらかい時に、くるくるくるくるってやるとお腹の中に入っちゃうの。

坂上:ぴんぴんじゃなくて、ほにゃほにゃになってると。

青木:ぴんぴんじゃ出来ない。

坂上:巻けるの?

青木:やってみる?

坂上:いい。

青木:これをこうやってくるくるくるくるってやってくとキュっと。君が言ったみたいに、お相撲さんがやると。それ(スケッチブック)は「宇宙御絵図」に出してもらったから。展示室2のところに。ボックスの中にあった。5冊出して1頁だけ開いていた位だったから。彼はそこにいろんなメッセージを書いてるの。毎日毎日ペニス描いてて。

(北山、帰って来る)

北山:最後の1冊だけ持ってきた。最後の年、4年目位のやつですね。

坂上:巻くっていう意味が分かんない。

北山:それがね、巻くっていうかね、宇宙図みたいな感じになってくわけ、渦巻きやねん。

坂上:アンドロメダみたい。

北山:そうそうそう。それでね、描けるの。毎日かたち変わるから。毎日かたちが変わるから。

坂上:ちょっと待って。最初は性欲の問題を解決するので、ぴんぴんなのをとにかく収めるために描いていたわけではなくて。

北山:自分の中に性欲というものがあるということがあって、かたち的に解決するようなことがないかなと思って描いたら、こういう具合に。

青木:ペニスが固い時には出来ないですよね。

北山:描いているうちに冷静になるから、性欲に行かへんねん。やっぱり描写しようとするから冷静になんねん。

坂上:そうすると自然にこう、しゅっと。

北山:縮まんのよ。だって大きくなったままってものすごい難しいんだよ。ほんまに。あの、ようね、学生で、「自分のペニスを型取りしたい」っていうからやるんやけど、もたないねん。ずーっと勃起したままにならない。どうしたってしぼむねん。

坂上:(スケッチ見ながら)へえ、これが巻いてるんだ。

北山:綺麗でしょ。ホホホホホ。

青木:これは、手を離したら(ほぐれちゃう)。

北山:ううん、手離して描いてますよ。ままよ。巻いたまま。

坂上:え?これはきゅっきゅっきゅっと巻いて…。

北山:いや、ぐーーーっと入んねん。

坂上:青木さんは巻くって言ってたけど。

青木:収めるんですね。

北山:収めんねん。うん。

坂上:収めようと思ったのは。

北山:何で収めようと思ったのかは、ラジオで聞いたんですよ。お相撲さんが「中に入れてる」って言わはったわけ。どうして中に入れてるのかなって思ったわけよ。で、それはそのことは言わないから、自分でやってみたんだよ。やってみたら入れられたわけ。

坂上:それまで入れたことは。

北山:無い。知らなかったですよ、もちろん。描き始めた中で、途中でそういうことを知るわけやし、かたち的に何かならないかなって。

坂上:女の子みたい。

北山:でしょ。「女になる」っていうので、一つの…様々なことが言われてるんですよ。ペニスがあるっていうのは、この外側に雌型としてこっちがあると、雄型はこっちやね。雌型のヴァギナが、膣があると思うわけ。女は「膣」というかたちを持ってる。そこに「ペニス」という雄型が入るんちゃうかと。そういう女性もいるんです。夢想する。夢見る人もいるんです。持ちたいという人もいるねん。ペニスを。だから僕は「産みたい」というあれもあるよね。「子供を産みたい」という。それが想像としては、男には出来ないからさ。男にはな。想像したらものすごいことやと思うわけ。自分の腹の中で、もう一つの命が産まれて、それを出すいう。それは自然の現象かも知れないけどさ。

青木:同じ、例えばレズでも、ホモでも、両方2色ずつある。ホモは、男のペニス、男の機能を果たせる相手として男を望むというホモと、女になったかたちの方の男のホモと。女性の方は男の行為としてペニスがあると想像しながら女のヴァギナに向かうレズの女と。

北山:攻撃タイプと受け身タイプがあるの。

青木:彼等は、こういうことを何かで読んでる。「実際自分はペニスを持ってないから、張り型みたいなのを入れる行為をしたがるレズの女」もいるけど、まず多くの女が願望として持っているのは、男性のトイレへ行って、便器の前に立って(小便を)したいという、そういう願望を持ってるレズの女性が多いらしいね。「男のような振る舞い」がしたい。セックスしたいじゃなくて、男のような振る舞いをしたいという。

坂上:いろんな面があるから、それが強い人とそうでもない人とがあって。だけどで
もこのかたち(スケッチブック見ながら)はちょっと違うよね。そういうこととは。

青木:ちょっとこうヴァギナっぽいやろ。

坂上:ちょっと肛門みたい。

北山:ここが縫合やねん。

青木:この線がまた意味がある。

北山:そうそう。シワとかな。その時に見えるものを描いてるわけやし。

坂上:どうやって見て描くの。

北山:鏡。鏡やね。えへへ。この1冊を(ギャラリー)ほそかわで出したんだけど。それを僕の教え子が見て、「先生がこうやって鏡で描いてるのを想像すると面白い」とか言ってた。(笑)。「そうかあー」とか言ってて。だからこれ発表するのかなり躊躇しましたけどね。福岡道雄(1936-)大先生とやるんやから。

坂上:(後で福岡道雄さんは)「腐った金玉」みたいなの出してましたよね。

北山:フィーリングもかなり近いし、これ見て喜んでたよね。

坂上:こういう風に描きたい、って、まあ人それぞれ違うかも知れないけど、女の人でこういうの描きたいって人、あ、いるか。

北山:いるね、いるね。女性の方が性の問題を表現する人は多い。ものすごいもん持ってるもんやし切り離せないねん。僕なんかよりももっと切り離せへんと思うわ。

坂上:だけどもっと(女性の表現に比べて北山さんは)分析的だよね。描き方が。

北山:どうしたって分析的になる。

坂上:女の人ってもっと感情に任せて描くと思うような気がするんだけど。同じような。

北山:だけどキキ・スミス(Kiki Smith, 1954-)とかもっとこう、ぐわーっと来る。中身が出る。多分。

青木:あともう一人誰だっけ。ペニス持って(手で抱えた格好で)こうする。

北山:(ルイーズ・)ブルジョワ(Louise Bourgeois, 1911-2010)。

坂上:だけどブルジョワはもっと即物的な感じ。

北山:ブルジョワは、小さい時から自分の父親が家庭教師と関係があるというのを分かりながらずっと持ってる問題やね。自分が女であることを知ることと、その事実を知るという中で、ものすごく、何やろね、知らなくて良かったのも有るし。抱え込んでしまった、汚点みたいな。

坂上:こういうことを描くことによって解決したの?

北山:ある意味で、続けるっていうか、見続ける。それが無くなるわけじゃないでしょ。また出て来るわけやしね。だから、まあ、作品的に、かたち的に、1個ずつ面白いというのがあったんや。この為に2時間とか、失われるわけやから。1日ね。

坂上:北山さんは結婚して、子供はいつぐらいに出来るんですか。

北山:28で…。

坂上:25で死ぬって言われてた。死ぬって言われたのによく結婚したなあと。

北山:うん。(25で死ぬと思ったのが)18でしょ。23で僕家を買うんですよ。キャッシュで買うんですよ。

坂上:貯め込んだんですか。

北山:貯め込んだ。僕の母親は、すごい勤勉な人で、彼女に小遣い以外は渡すわけ。で、「家を出て行くなら家を建てろ」というのが僕の田舎出の母親の考え方やった。男の子は。だから家を借りるというよりも家を建てるという。

青木:それはどういう仕事でお金を。

北山:染織業。染織業しか就いていない。同じところで。だから、16(歳)からヴェニスに行く年(1982年)の1月20日で辞めるまで働くねん。高給取りやった。

坂上:そうなんだ。確かにあの頃、芸大出た子でもみんな。染織。

北山:20万位の給料もらってた時もあるねん。それで780万円の家を買う。

坂上:どこに家を買うんですか。

北山:長岡京。

坂上:それは何で。

北山:親から遠いところ。

坂上:でも近いじゃーん。

北山:でも京都市内やったら遠いよ。

坂上:でも(間挟むのは)西京区(だけ)でしょ。

北山:西院から長岡京だから。4駅ある。向日市とか桂とか。

坂上:え、遠いと思った?(電車で10分足らずなのに)

北山:遠い。車で行ったらやっぱし40分位掛かるから。

坂上:結婚したのは26だから、23で家を持った。71年に長岡に家を持った。で、奥さんは26だから、長岡に家を持った時は独身だった。

北山:そうそう。結婚のために家を持ったんやなくて、僕はアトリエの為に家を持ったの。

坂上:それは、家から遠いという理由で。

北山:親が来ないように。アハハ。

坂上:竹が好きだから(長岡)とか。

北山:いや、親から独立したいっていうのが。

坂上:でも西院だから。別に北区に行ったって。岩倉に行ったって良かったんじゃないですか。

北山:高かったんですよ。北の方のエリアは…

坂上:まだ安かったんですか。(今は高い)

北山:まだ安かったですよ。「列島改造論」が出た直後位やったから、それから上がっていったけどね。北に行こうとは思わなかったね。絶対に視野に無かったね。西の方がベッドタウンで。

坂上:自然にそっちの方に行って。(長岡京市)奥海印寺。何でそんなマニアックなところに。

北山:そんなことはないですよ。とにかく親から離れたところに。駅からは歩いて行けるけど20分位掛かるかな。登りで。それがたまたま竹があったんだよね。

坂上:71年頃から竹に親しむ。

北山:周りに竹があるから行ったんじゃなくって、たまたまあったんや。

坂上:で、仕事は通ってた。

北山:もちろんもちろん。僕は18で、美術しようと思ったから。もう一つはね、16から行ってる染織業で商売しようと思ったんですよ。で、3年位は。YMCAとか行ってたんですけど、着物は着物という枠組みからはどうしても出られないなと思った。現代美術はかなり自由で世界的だし、そういうものを持ってるなと思ったのね。やっぱり狭いかな、って思ったんですよ、染織業って。彫刻と版画も習って行く中で、で、商売っていうのはやっぱし品物でしょう。売れるっていうかデザインっていうか、売れるものを作るみたいなところあるから。やっぱり限界を感じたのね。で、その時に美術の方に、それも現代美術というんじゃなくって、まあ、絵描きという方が近いかな。

坂上:平面ってことですか。

北山:平面とかいうのはそれまでは知らないですよ。絵描きっていうのは普通の画家という。父親なんかも「絵描きは売れんでえ」って言ってたけどね。

坂上:25で死ぬみたいに思っていたけれども、23で家を持つって矛盾してるかな。

北山:だんだん元気になって行くから、遠のいて行くわけよ、だから18直後はそう思ってるわけ。だけど25過ぎたら「通ったなあ」って思いましたよ。病院も行かなくて良くなりましたよ。3年位は病院通って薬飲んでたんですよ。その後は大丈夫ってんで離れんねん。

坂上:だけど絵としては、池田龍雄の50年代みたいにイメージカラーは黒でしょう。

北山:それはそうやって行くんだけど、あそこの踏み込み方っていうかな、自分自身の立場としては弱いなって。いいとこだけで、ほんまには無いんちゃうかなという疑問を持つわけ。それ、絵は出来るけど、やっぱし魂っていうか、仏作って魂入れずみたいなところあるじゃないですか。それで現代美術すると、現代美術はそんな深くもないし、浅いじゃないですか、表面的にパーッとしてるし、広いし、新しいし。次を見張るようなニューワールドちゃいます? みんな友達もやってるしさ。

坂上:今の、北山さんの表現との共通項、在り方と(20代前半の作品は)共通項があるんだけど、反対に(長岡に行ってから79年以降に発表する)竹の作品は、反対に生命力がどんどん外に向かって行くような感じ。あれ(20代前半の北山作品)は反対に、生命力が内に向かって行く様な感じで、反対な感じがする。

北山:そうやね。

坂上:身体が元気になればなる程、外向きになるのかな。

北山:作品の事で言えば、現代美術を知って、ヴェニスが32ですよね、82年だから。(1948年生まれなので、本当は33か34)。79年が毎日現代美術展なんですよ。僕、経歴は79年からしか書いてない。それ以前は切ったの。学習段階やということで。で、言えるだけのものが出来る作品を作ろうとしようとしてたから。それまで(79年まで)は、個展はしてなかったんですよ。個展をするなら「10年もつやつをやりたい」と思ったわけ。

坂上:グループ展とかアンデパンダンとか出して。それは付き合いで出してたの?

北山:付き合いちゃうけど、一つのチャレンジ。そんなに重くない。個展って行ったら責任持たなあかんし、重い。個展やから。

坂上:個展は避けて。

北山:個展は、自信があって、世に送り出すものが出来た時に、ある、と。だから79年でしょ。いよいよあれだね、ヴェニスのやつですけど。(ヴェニスの直接のきっかけの個展は)ギャラリー16かな、そこで、あ、もう一つはね、79年の、射手座でやった。で、射手座の前、靫が最初やったかな。

坂上:その前まではコンセプチュアル。

北山:そうそうコンセプチュアル。

坂上:ごろっと変えたの。

北山:コンセプチュアルの作品は追随やと思ってたの。そんで、この作品(竹の作品)に至る作品、パネル状の作品が豊田(市美術館)に入ってます。その作品が毎日現代に入ったんですよね。その作品が、つまり、観念的な絵じゃなくて、「自分は何故その作品を作るのか」という一つのヒントで自分の子供の話をしましたよね、自分の子供のように落書きをしてみたんや。で、落書きをしてみたんだけど、その絵が、見られる絵だしうまく描こうとする絵やったのね。そう見えるわけよ。子供の絵は自由なんですよ。見られるとかそういう想いも無いわけ。そこにどっぷり自分があるわけよ。だけど僕は関係性の中で、どうにかその絵を見られる、見て欲しいとか、何とかいい線を描こうとか、いやらしい線なわけよ。で、その上に、ずっと見てたら、竹とかあるいは拾った鉄筋とか、クリーニング屋さんのハンガーとかね、ビニール巻いたような、そういうジャンクな素材を上絵として乗せたんですよ。つまりその時に下絵そのものの在処は自分の中にあったけれども、その描かれた線の中に次にイリュージョンが発生するわけ。「こう思ったり」(次はこういう線で行こうというような考え)っていうようなことが。いやらしいな、って思ったけど、そう思ったわけ。で、それを上絵として(実物を)乗せたら何とか行けるんじゃないかと。

坂上:イリュージョンをかき消すことが出来ると思った。

北山:イリュージョンを実物の質量っていうか、存在感に委ねたわけ。つまり描くっていうのは、そういうことを無くす問題なわけ。イリュージョンって平面上の問題だから、目つむってみたら何も無いわけよ。目つむってみたら思ったものが乗っかってることがあるわけや。その表についている線、実物の在処に、最初の絵から断念しながら、オブジェっていうか、レリーフになって行くわけ。立体になるわけ。存在感のあるものに確かさを移行するわけよね。それで何とか折衷で出すわけ。その上絵と下絵っていうのもね、土田麦僊の絵があるんやけど、《大原女》(1927年、京都国立近代美術館蔵)って。あのデッサン見た方がいいんですよ。本画の方はもう1回なぞってるわけやからね。最初のやつの初々しさ。子供の絵の初々しさのように。そっちに力があると。で、そのように、じゃ、両方とも見せたらどうや、って。両方のやつを見せるようになったわけ。ちょうど両方の線があるんですよ。で、まあ、そういう意味では見立てながら、「こう見えるもの」をそういうものに乗せたわけね。だけど絵具では乗せてない。実物で乗せたわけね。

坂上:そういうことを70年代考えてた。

北山:パネルが出来てその次に、パネル状の矩形が、自分が考えた矩形じゃないから、その矩形をどうにかしようとするわけ。基盤になってるパネル状のものを今度は卓状みたいな、板の上じゃなくて、鉄筋を曲げた上に紙を貼付けたようなものにするわけ。そこに取り付けといて、下絵から、また自由に付け足すわけ。オブジェ、ものをね、それが1カ所穴あけたら、向こう側に空間が出来る、手前にもオブジェを出し広がりを作る、左右にも持ち出して。爆発すんねん。(線が縦横無尽に広がって行く)自由になってくねん。方程式みたいなものが応用問題になって行くわけ。それ自体は空間があるわけ。ものを使うという事は、手前も奥も空間を出して行くわけや。色なんかもあるわけだし、実物もあるわけやから、総合的に読み込んで行くわけ。僕はその時その時出来上がって行く過程を読み取るわけ。作品が出来て行くのをずーっと読み取るわけ。見てるわけ。で、「今、何が弱いかな」「今何が欲しいかな」というのを、向こう側から来るのを待ってんねん。だから毎日そういう作業をしてたんですよ。だから何を作ろうかという、そういうプランは無しなんですよ。そういうコンセプトは持たないでおこうと。オープンに、偶然っていうか、その時その時に出来上がる、僕の出会いの中で生じるものを作品化しようとしたわけ。だからずーっと大きいものでも、それ(プラン)をやめてるわけ。プランニングはやめてる。生きるその時の、自分の生の在処をそこに掛けたいと思ったわけ。それは造形的には。これも同じなんやね。

坂上:そういうふうに出来るまでっていうのは、やっぱり(勇気がいった)そこに踏み込むわけじゃないですか。

北山:やっぱしものすごい大きく変わったのは、やっぱし子供の存在の生の在処、っていうビビットなものを作ると。その前の作品は説明しながら見られるものであった、と。そういう意味では、かなり死んでる、と。

坂上:だけど説明を求めてたしね。美術の方も。

北山:ということは、でも作品を作る人間っていうのは、指向としてそれから考え方を変えないと次に行けへんと思うわけ。次のビジョンに行けないと思うわけ。うん。

坂上:(美術がもう行き着くところまで)行き着いたからそういうふうに思ったのかな。

北山:それはそう。そういう意味で、(行き着いた末に出て来る)イエスアートとか、そんなんも全然知らんわけ。

坂上:75−76年頃の、もの派的な…。

北山:李禹煥(1936-)のとか。

坂上:そういうものに対して、ブレイクスルーしたいという気持ちを持った人たちが話し合ってということはあったじゃないですか。みんなその人達なりの、脱皮の仕方みたいなのを、みんなそれぞれ悩んでたけれども、それがみんなうまくまだ脱皮出来なくて。苦しんでたのかな。70年代後半っていうのは。

北山:うん。みんなそうですよ。

坂上:70年代前半ってまだ分かり易いなって思うんですよ。紙がぽんってあったり、石がぽんってあったり。だけど74、5年あたりから混沌としてると思う。

北山:それねえ、向こうからニューペインティングがくんねん。ヨーロッパ、アメリカからニューペインティング真っ盛り。ぼちぼち来てる。

坂上:だからか。画廊の歴史が一番分かり易いから、やっぱりダイレクトに出て来るから。見てると74、5年からぼちぼち都築房子さん(1949-)とか木で小屋みたいなのを作り始めたりとか、何か入り始めた、おしゃべりな要素が入り始めるんだけど、まだそれが無骨。

北山:それ、「もの派」っていうか…向こうのリチャード・ロングとかアルテ・ポーヴェラとか、向こうの方でもヨーロッパの方でも、ものをもっとシンプルに使うじゃない。で、デンマークで展覧会した時(「個展」ブランツクレデファブリック美術館、1989年)に、そういう風な使い方っていうのはその流れのように、もの派もその流れの中に入るって、言われました。もの派っていうのはミニマルの概念と混ざってるやつですよ。僕のも、もの使ってるし。だけどものすごく印象的なのは、菅木志雄(1944-)は、「表現をしない」と。「表現をしない」ということを書いてるのね。「造形をしない」とは書いてないけど、「表現をしない」と。つまり、「そのまま出す」。ここ(質問票)に書いてあるけど、「すっかり駄目な僕たち展」(京都市美術館、1971年)は見た。京都市美術館で見て。菅木志雄の窓に(柱)。あれ一番いいと思った。(この菅の作品は、実際は1970年京都国立近代美術館「現代美術の動向展」で発表。菅は「すっかり駄目な僕たち」には出ていない。)で、植松奎二(1947-)の柱を縦にした、写真で。パフォーマンスもしたと思うんだけど。(植松が、美術館の扉でパフォーマンスなどをしたのは、「京都ビエンナーレ」京都市美術館、1973年)(注:2人とも「すっかり駄目な僕たち」には出品していない)だから「何も表現をしない」って分かりますよ。それが表現なんだけどね。僕はその時、「いかに表現をしてもしないもの」を作ろう、と思った。最初の1つの出来事が、あって、次々付け足すんだけど。だからずっと見ながら「その次何が欲しいか」見て。だけど最初のビビットなこと、初々しいっていうかな、これだと思うことの構造を壊さないで、なんぼ伸ばしてもいいと思ったんですよ。つまり木が立ってるみたいに、根があって枝葉がばーっとあっても、一つのもんじゃないか、と。最初の根はぽっと出るのと、ほとんど大きいものと一緒じゃないかと思ったわけ。なんぼ伸びてもええ、と。だからなんぼ伸びてもいいと思ったんですよ。それは装飾的じゃなくって、なんぼ伸びてもその時は造形がかかるんだけど、表現をしないということだったけど、絶対造形をするということは、次には来るなあ!と思ったの。でも菅さんは、ときわ画廊とか、ものすごい大きなやつとかあるんだけど、もう一つ「美意識」がね。美意識がものすごい大きいと思うの。小清水(小清水漸、1944-)さんは、日本美っていうか「美」の方に行ったんですよ。その時にものすごく「工芸的」になったんだけど、その時、菅木志雄は、一昨年かな、釜山の展覧会で一緒に、会ってね、インスタレーションしはってて。で、助手の人がいはってね。その人と大分しゃべったんだけど。菅さんは、子供の時の造形遊び、あれが、一番、彼の中心的なものにあるらしいんですよ。子供の時に作るっていうのは、教養的な美とか西洋的な美とか、日本的な美とかじゃなくて、ある意味で原始人が「ものとの関わりの中で面白いと思う」そのことを一歩もはみ出さないで作品を作って行くと。その事や、って言わはって。ちょっと文章書いたんですけど。「もの派」の原点は、僕はだから菅木志雄の作品見ても全然面白いと思わへんねん。ペノーネ見たら、ものすごい美があって分かるんやけど。逆に菅木志雄は、他の「もの派」と違うもので、あそこまで持てたのは、原点を一歩もはみ出さない、っていうか考え方の問題。ものすごいしっかりしたものがあって、それが彼の哲学だと思うけどね、それがあるから、美を作らないで、やろうとしてるんですよ。それは「決意」やと思うわけ。だから一個も面白くない。僕、何個も見てるんですよ。

坂上:そう。一個も面白くないの。

北山:それやねん。彼のダダイストとしての。僕は彼をダダイストだと思ってるんですよ。すごい人なんですよ。続けられるの。その眼差しっていうのは何か、と思ったんですよ。で、僕らは何かと思ったわけ。僕らの見方は「美を見てる」ねん。その時に安心するんですよ。彼は安心出来ないわけ。美が無いから。その安心出来ないものをあれだけ作れるっていうことは、巨大ですよ。うん。他、無いもん。

坂上:私にとっては(菅木志雄は)受け入れがたいナンバーワンみたいな。

北山:そうやと思う。そう思った時に解決しましたよ。菅木志雄。それは一個も言われてないけどね。彼はものすごい理論的に文章ものすごい書いてるけど、そのことを僕は読んではいないけれど、彼自身の話の中でも言わないんだけど、ずーっと助手をしてる人がいるわけ、同じ位の年の人で。その人と話をしてると分かったの、僕の中で。それを彼は言ってるんですよ。子供の時のやつや、って。

坂上:美。

北山:美が無いわけ。美以前のことをしたはんねん。だから僕らは作品を見る時、絶えず分かろうとしてるんですよ。で、分からないものは排除して行くわけだから。固有の造形表現なわけ。それなかなか文章にしにくいかも分からん。そういう意味でものすごいあらがってますよ。西洋的なものとか、そういう意味で。だけど僕、菅さんのことはちょっと他にも書いたけど「表現をしない」ということと「その原点があって、なんぼ表現をしても表現をしないこと」をしようと思ったんですよ。そういう意味では、ポストもの派かも分からん。継承してるかも分からん。だけど一応立体の作品は、もうやっぱしこれ以上面白くならないな、って。いうのが分かるのと、それ以前に絵をやってきて、おっしゃってるように、竹の立体の作品は、最初の頃はバーンってものすごい爆発して増殖していくわけ。それはものすごく面白いわけ。で、今度は枝を切っちゃうんですよ。絵描き始めた時と同じ頃。枝が折れたりすることがあって。じゃ折れるなら最初から切ろうかって。で、だんだん丸くなって、点になって、銅板叩いて丸くしたやつある。全部張っちゃって。そういう意味で今度は収縮して行くわけですよ。僕の作品が。「膨張」から「収縮」に向かってくねん。

坂上:ギャラリー16で、北山善夫が売れて、竹でバーっと売れてる時(1986年)に、「こんなん出したいんだけど」って絵を持って来て。

北山:そうそう。

坂上:「両方出していいのかなあ、みたいなことを北山君が言うんや」って言って。で、「迷ったけど、両方とも彼の表現やし出してみた」っていうような言い方を(ギャラリー16の井上さんがしてた)。私は北山さんの作品をよく知らないからね(その時の)、で、(実際に個展に出したものを)見た時に、まあ、両極端なわけよ。竹の作品と、ちっちゃい、うにょにょにょって描いた「(日の丸弁当の中の)梅干しがちょこっと爆発したような奴」とか。まあ、どうなんかなと。

北山:(1986年のギャラリー)16ね、あの時、もうちょっと前に絵を描き始めるんです。もともと絵の上にオブジェを乗せ始めたじゃないですか、パネル状から徐々に矩形になって。だんだんスリーディメンションになってくんだけど、その82年にヴェニスに行くでしょ。で、その会場でね、オーストリアの建築家が、建築的な立体のやつと、あとね、壁にドローイング40点位掛けるんですよ。額縁に入れて。水彩。それがまたものすごいいいんですよ。それでね、それを見た時に、いや、一応僕ヴェニスに日本代表で来てるのにドローイング描けれないなあって思ったの。片手落ちなんですよ。立体は出来るけど。そこからまた僕、恥じ入るの。もし注文来た時に僕描けないと思ったの。

坂上:イメージ無しで竹の作品作ってるもんね。

北山:そうそう。無しなんですよ。あれは。でも向こうの状況見たら、ドローイングも描けて立体もしてるのは、もう必須条件じゃない。あらゆる売り方をするわけだからさあ。

坂上:だけど林剛さんは「北山善夫が売れたのは、あれは身体性ですよ、身体性」って。頭で考えるんじゃなくて、身体がどんどんどんどん伸びて行く。あれがまさに時代に訴えたんだっていう言い方を彼はするし。やっぱりそういうのとドローイングっていうのはやっぱりその、まずは設計図的な意味合いもあるわけじゃないですか。だからドローイングが無いからこそブレイクしたんじゃないのかな。

北山:あのね、その身体性がもうちょっとあるんですよ。(2012年3月17日)木下長宏さん(1939-)としゃべってる時に、彼は、ジャコメッティのことも書いてて。僕のやつ(絵画の表現)は、「彫刻を絵にするのは世界でお前だけや」と言ったんですよ。「他、誰かいるか」って言ったんですよ。

坂上:そうだね。それって「あべこべ」だしね。(粘土でかたちを作ってからそれをドローイングして行くから)

北山:そうやね。頭の中で考えて。粘土で考えて。ジャコメッティは粘土で考えながら、手でね、土の塊の中で存在の在処をやってるんじゃないかと。つまり、手の中で、思考というか、この考え方、ここ(手)が考えてくれることはもっとあるんちゃうか、って言ってんねん。僕そのことを思った時に、粘土と頭で考えるとか考えないといけないんですよ。でもこれ、(手はどんどん)動きよんねん。こうして。竹の作り方も、1個ずつ合わせながら、こんなんやったり、やってみるんですよ。で、どうやってって思わないのに、粘土もね、これ、そうしたら思わんもんが出来るんですよ。で、描く時に、そこに光が掛かるんやけど、絵具をこうふわっと掛けるように、ライティングでね。太陽がふわっと降りるでしょ、ここに像の陰影が出来るのね。絵の描き方いうのは、大きさとか縮尺自由なわけ。暗くも出来るでしょ。そうしたら、そういうイリュージョンを踏まえながら僕描くんですけど、もう一つ、頭できっちり決めたことじゃなくて、描く時に、もう一度、ここをこうしたらええんちゃうかな、もうちょっと暗い方がええかな、って。僕らはもうひとつの目を持ってると思うの。もう一つの頭を持ってる。もう一つのブレーンを持ってる。もう一つの脳がここにあると言った方がええの。手に脳があると。身体性じゃないの。身体全体が脳なんですよ。養老孟司も身体全体が脳だって言ってるよ。この間(木下長宏さんと)対談して、「あ、そうかな」って思った。限界を破るもう一つのもんがある、って思った。思考する手という感覚器官を持ってるんですよ。手の思考ってのは。そこは身体性っていうよりも、「目であり脳である」って感じするなあ。パフォーマンス的な身体性じゃないと思うねん。言われている身体性とは僕のはちょっとちゃうなあ。

坂上:世間的には(当時)イエスアートとかフジヤマゲイシャとか、もっとそれこそ身体性っていうかな。

北山:石原友明(1959-)も身体性やんね。

坂上:彼等は本当に身体ってものを感じるし、しゃべってても、今は違うよ、だけどその時のインタヴュー見てると「いいんじゃない、楽しければ」って。全肯定イエス、みたいな感じ。だけど彼等なりに悩んで、そういうふうな道を歩んだと思う。今から見れば彼等だって反逆児だったと思う。けど。何か、こう、正に身体性っていう中に、北山さんも世代が違うのに、同じ80年代の戦士として組み込まれているけど、どこか違う。何が違うのかなっていうのがちょっとあったから、例えばその話を聞いて(みたい)。

北山:そうですね。ま、関西でいてるとあれやねんけど、もう一つは全国エリアで見ると、僕東京の人に思われてしまってるところもあるのよ。

坂上:え、いつからですか?

北山:最初から。82年に村松でやってるから、向こうで、彦坂(彦坂尚嘉、1946-)がものすごく戦略家だったから、2人共同じ画廊でやってたからね、その前に、出品する前に、出品する作品を並べさせよったんですよ、彦坂。ものすごい意識してんねん。だってその時はものすごい人が来たんですよ。ヴェニス前夜やった。

坂上:それってギャラリー16で北山さんが展覧会をしてる(1981年)のを(村松の)川島さんが見に来て、「わ、これいい」って言って、村松に引っ張ったんじゃなかった?

北山:そうですよ。その時に来て決まったんやから。でも中原さん(中原佑介、1931-2011)は東京画廊に言うててん。その時東京にものすごい言いふらしてんねん。僕82年の村松やった時、高松次郎から全部見に来たんですよ。芳名録見たら信じられない人達ですよ。それ全然知らんかったから。初めてだったけど、ものすごい言われててん。

坂上:伝説の北山が来る、みたいな?

北山:いや、「10年に一遍の男や」って。中原佑介さんが言っててん。で、「前は誰ですか」って言ったら「狗巻賢二」(1943-)って(笑)。まあ、ものすごい好きやねん、狗巻さんを中原佑介さんは。

坂上:で、彦坂さんは。

北山:彦坂は村松の作家やから、向こうはどうにでもなると思ってるわけ。東京はどうにでもなると思ってるわけ。

坂上:若い80年代の作家、Bゼミの学生なんかも村松で(彦坂さん主導で)やってたけど。

北山:北山善夫研究してたんですよ、向こうで。「結局、北山善夫は何でもない」ということを結果にしたんですよ。

青木:誰が?

北山:彦坂が。

坂上:82年に? 

北山:81年に。(82年に個展を)やるまでに。個展をやるまでに、それまでに「決済」したんですよ。あの人達は。

坂上:どういうふうに「決済」した?

北山:その研究会か飲み会か何か分からんけれど、「北山は何でもない」と。彦坂自身からかその当時聞きました。僕はヴェニスに行った時、(彦坂は)「北山、お前の作品は紙くずだ!」って言ったんですよ。

坂上:決済された後だった。

北山:後ですよ。やりたいわけよ。だってね、岡崎乾二郎(1955-)と彦坂は、(村松の)カタログ撮影の時、ずーっと待ってたんよ。村松で僕が来るのを待ってるのを、名神は雪が降っててものすごい遅れたんですよ。でもずっと待ってたんだよ、彼等。

青木:それだけ意識してたんだ。

坂上:偉い!

北山:(彦坂は)「もう勝たないかん!」というのがあった。大変でしたよ、ヴェニス。だって2人部屋やってん。

坂上:え、彦坂さんと2人だった?

北山:いや、僕と谷(新)さんやった。でね、彦坂と事務局の矢口(國夫)さん。川俣(川俣正、1953-)は助手の人とやった。矢口さんと彦坂が同室やってん。泊まる部屋が。独り部屋では許されなかった。あの当時コミッショナーは谷さん。矢口さんは交流基金。

坂上:じゃあ5人で行った?

北山:うん。川俣は前に行ってたんですけどね。

坂上:その時はもう北山さんは…。

北山:もう、毎日飲みながら(いろいろと)言われたり、まあ。

坂上:あの時彦坂さんはキラキラと。

北山:もう(彦坂と川俣)2人ともものすごいですよ。もう彼等の実績すごいですよ。僕なんか全然あらへん。

坂上:彦坂さんはそれこそ70年代前半にね。

北山:「木との対話」(西武美術館、1979年)とかね。

坂上:それは70年代後半でしょう。やっぱり彦坂さんって70年代前半にウッドペインティング前半にね、フロアイベントそういうのでやっぱり70年代前半の作家として(すでに出てた)。

北山:それと批評的な。年表で。

坂上:そういう売れ方をして、その後で、ウッドペインティング。生き生きとした。

北山:(ギャラリー)16でやったのは78年?

坂上:77年じゃないかなあ。(実際は1979年)

北山:(豊田に)入ってるやつが78年じゃない?(79年)

青木:そうかなあ。

北山:あれ、16のやつでしょ。

坂上:違う。16のやつじゃない。

北山:違うの?16持ってたやろ。

坂上:持ってた。あれ、すごいいいやつ。

北山:それが16でやってたやつなんですよ。

坂上:でも豊田には入ってない。

北山:そうなんや。

青木:すると岐阜で84年に「木と紙」展(岐阜県美術館)で彦坂と一緒になってるやろ。

北山:そうやね。あの時出した。初めてね。最上(最上寿之、1936−)さんとかね。

坂上:全然関係ないけどさあ、北辻さんってさあ「俺と北山っていつも頁の右と左になるから嫌なんだよ」って言ってた。(笑)北辻良央でよしひさなんだけど読みようによっては「よしお」になるし。で「きたやまよしお」でしょ。

北山:あの人は、針金でやって。僕、好きですよ。北辻さん。僕、買ったもん。作品3点。

坂上:ストイックな作品から出発した。

北山:そうね。あの地図のコピー。

坂上:それがだんだん『車輪の下』とかそういう本から得た…。

北山:ギリシャね。

坂上:どんどん膨らんで行って、やっぱり80年代にすごく。

北山:売れましたね。

坂上:(話がとびますが)(ギャラリー16の)井上さんが、「1回売れた人は、もう2回目(違う表現で)売れるっていうのは本当にありえない話だ」って言ってた。

青木:(笑)

北山:2回売ろうとしてんねん。僕、自分の中にある問題点をいつも忘れないで、このあれ(竹の作品)はもうやっぱし自分自身、頂点をいってるなって感じている。ものすごい巨大なものも作らせてもらったけども、やっぱり初期の作品の処女作を越えられるか、って問題をみんな持ってるわけよね。

坂上:ペノーネ(Giuseppe Penone, 1947−)だってそうだもん。さっきもいいって言ってたけど、あの69年の木の皮をむしったやつ。あれを越えるなんて無理。あの人だってもう、2度は売れないよ。

青木:まあな。

北山:でもね、そんなには落ちてないねん。前にカール・アンドレ(Carl Andre, 1935-)がね、高松次郎のことについて新聞か『美術手帖』に書いてて、ものすごい印象的なんだけど、「高松次郎がアメリカに来たら、もっとじっくり作れたやろう」と。売れる言うことは、安定性があるわけ。しっかり保てる。僕は、81年の村松の時に高松さんが来られて、一緒に食事に行ったんですよ。コレクターの車で、後ろに堀浩哉と高松次郎、で、行った時、話をしてて、で、堀浩哉が「高松さん、いつもセンセーショナルなものを追い求めてやっているんですね」と。その責任、重圧を彼は一身に受け止めてやってきたわけ。「そうだ」と答えていた。日本の現代美術を一身に支えようとしたし、確かに支えていると思っていた。だから細いんですね。

坂上:声が甲高い。

北山:そう、で、絶えずね、どんなふうに求められてるのかな、ということを、クリアーしたいと思ってるんですよ。それがもっと売れたらもっとじっくり作れたわけ。で、カール・アンドレさえ認めてるわけだから。こっちに来たらもっとじっくり作れるのにって。向こうからそう見えてるわけ。それはマーケットの問題なんですよ。

坂上:いやあ、何かそれ痛々しいなあ。
 
北山:日本の作家はみんな痛々しいの。

青木:売れないとなかなか解決しないから。だから豊田で僕、高松さんの初期の針金ぐじゃぐじゃとかコンクリートの中に(破片を)詰め込むとか買ってたから。あの頃まだゴミだったと思われてた頃。彼はそうじゃなかったわけだけど。(高松次郎は認められていたが、作品自体の価値はまだほとんど認められていなかったの意)今はそれ、輝き出してるもんね。あと、木の…。

北山:木の立方体の、あれでしょう。毎日現代の、人間と物質じゃなかったんですか?あれは展覧会で見て覚えてました。 

青木:あの時まとめて買ったから。まとめ買い。一室あるもん。高松のあの頃。針金とか、皮結んでっていう。あれ大事。線やね。あとコンクリートの…。

北山:《単体から単体》へって。コンクリートの真ん中割ってるやつでしょ。紙のもあるでしょ。紙を破って元に戻して。

坂上:高松次郎もころころころころ。変わる。

北山:同じように作品に課題があって、シンプルに、あれで。うーん。でも。

青木:今、輝いてる感じするね。あの頃の高松は。

北山:あの辺の作品が良くて。絵、描くじゃないですか。あれはもうあかんと思った。波形の。

青木:あの頃(のもの)、僕一点も(買ってない)。

北山:ペケや。

坂上:でもさあ、そういう風に、恋人でもそうだけど「ここはいいけどそこはだめ」みたいな否定することが作家を否定することじゃない。

北山:そうじゃないねん。作家自体を否定していない。他の作家の作品を評価する時、自分の作品も同時に評価する態度を持っている。そこは厳しくありたいと思う。刀は錆びついたらあかん。いつも研いどかな。

青木:そりゃどの作家でもあるけどさあ。

坂上:あると思うよ、そりゃ。「(ピカソの)青の時代はいい」とか。だけど、日本の作家の場合は違う人の作品が同じファイルにあるみたいになっちゃうよ。

北山:(爆笑)

坂上:だから北山善夫にしたって、86年に(竹とドローイングと両方出した。実際は会期をずらしている)。

北山:ギャラリー16はそういう意味で貸し画廊だからさしてくれたと思うけど。あと、(ギャラリー)上田と村松は拒否された。僕は個展したかってん。混ぜてやると意義が分からなくなるから、16では前半と後半と分けたの。それはオッケーやってん。その展覧会も、竹の作品をいいって言った人はもう「なんや」って言ったわけ。だけど竹の作品に疑問を持ってる人は「いい」って言ったんですよ、絵を。少数だけど。村岡三郎(1928-2013)とかはいいって言ったの。

坂上:絵はいいけど竹は駄目って言ったの?

北山:駄目って言ったわけじゃないけど、暗黙で分かるわけ。竹の作品っていうのは何を思ってはるのかって。中村敬治だってそんなにいいと思ってなかったよ。多分ね。うん。やっぱり日本的なものっていうのか。竹には記号があるねん。日の丸しょってるみたいな。

青木:竹と和紙っていうとね。

北山:そう。海外に出したらね、そういうもので釣ろう、と。ジャポニスムやねん。

坂上:それはあんまり(北山作品からは)意識しないですけどね。

北山:それは僕ら世代だともっと露骨にありますよ。思ってたもん、僕も。だから洋紙張ってたからね。破れるから強い和紙貼ったんだよ。

坂上:「木との対話」とか展覧会見てると、別に「木」ってものが日本のものだけでないのに、無理に「日本イコール木」って感じでわざと押し出してる感が嫌らしいなっていう位、別に素材に対しては(それほど固執しなくてもいいのでは)。

北山:でも、木っていうのは、伊勢神宮からの伝統があって、その思想っていうのは、恒久的なもんやっていうのがあるやん。向こうは石文化やん。西洋の場合は。

青木:僕がね、ペノーネは、随分前から知ってるけど、彼に会った時に僕は言ったけど、「あなたの木の作品見て、クソ、石の国の奴が木でこれをやりおった」っていう怒りがあったもんね。日本が本来やらなければならなかったやつをやられたっていうそういう意識だった、最初は。(一定の)年輪のところで削って行く(作品)ね。

北山:でもね、あれの原形自体は、木材からなんですよ。最初。木材。要するに建材として使われたところから掘り出して、作ってるわけ。だから一旦「人工になったもの」を「自然に戻した」んや。

青木:四角い柱から。

北山:それが大事やねん。日本の場合は「生成り」やねん。

青木:そうだね。

北山:自然木やねん。そこが全然違うねん。文化が。そうなんだよ。だから二重構造になっていて、深いと思うねん。1回言葉にしてそれをもう1回戻しよんねん。これがやっぱりギリシャ哲学っていうかね。そこんとこ言わないかんと思う。簡単なもんじゃないんだよ。文化の問題は。全部その作り方してるじゃないですか、ペノーネは。

坂上:同じ木なのに全然違う。

北山:石の中に水がちょろっと。あれも中国かなって思うんだけど、やっぱり違うよ。うん。あれだって木並みにええ作品だよ。

青木:自分が、子供の頃にね、障子があってその向こうに木の雨戸があったの。で、いつもおばあちゃんの部屋で保育園か小学校の頃に(一緒に)寝てる時に、節穴が空いてるんですよ。ぽこっと抜けて。そっから何となく風景が逆さまになるのが障子に映る。そういうのをずっと見てた。それをね、節って言うのは何かっていうのは、情けないけど、ペノーネの彫刻を見て、そうか、節っていうのは木の枝の木の内っ側の部分なんだっていうのを分からせられた。

北山:僕もそう思いました。節は節で。

青木:それが木の内っ側に入ってる部分が、柱にした時に(表面に)出て来るのが「節」なんだよね。それをペノーネの作品で知らされたことで「くそ」って思った。すごいなと。枝っていうのは木の内っ側にも入ってる。

北山:そうなんですよね。そこをこう。彫ってるやつもあるもんね。真ん中をこうぽこーっとね。

青木:ペノーネの大きい「12メートルの木」っていうのを展示してる時に、面白いのは、お客さんがね、「これすごいねえ、木の枝振りまでそっくりに作ってある」って。そう見ちゃう。ところがあれは木の内部。内部にも枝は走ってる。それをね、ペノーネに教えられて悔しかったな。それからですよ。ペノーネに走ったのは。

北山:そうね。それとペノーネね、売れるからね、ものすごい数作ってるじゃない。あれもねえ、作家にとってはどうかなと思うんですけど。それだけいい作品は売れて行く。そのことってものすごく大きいね。

青木:それとね、ペノーネの作品は何とかうまくいってるけど。彼はね、普通、あれだけ売れたら職人のようなの付けてバンバン作るじゃない。それはしないんです。ほとんど自分とアシスタント、若い男が1人か2人いる位。もう一つ悔しかったのは、豊田でコレクションした時はそんなにまだ豊かじゃなかった。だから、ある時に(彼の家に)行った時に、「青木、お前のお陰で俺はアパートのオーナーになれた」って言って、最初行った時は、山の上に彼の仕事場と家があるだけだったのに、途中に、日本にあるようなそんな大きなマンションじゃないけど、3階建て位あるアパートが2つ建ってるじゃない。こんなところにアパート建ってたかなと思ったら、「青木のお陰だ、アパートのオーナーになった」って。それがペノーネが作ったアパートだった。でもやっぱり向こうには、日本よりもコレクターがちゃんといるからね。日本はなかなかコレクターが育たない。

坂上:北山さんは、作品作る時に、買ってくれることがまず頭にあった?

北山:最近売れへんからね(笑)。多分ね、80年代の時ね、多分ね、僕が一番売れたと思う、最初に。若林さんだってまだ大学の先生だった。

坂上:美術館自体がまだ少ないし。

北山:売れると思ってなかったですよ。

坂上:だから友禅を一生やってようと思った。

北山:そうそう。職人でね。だけど82年ヴェニスの前に、あまりにも忙しいから、辞めた。

坂上:注文があって忙しいから。

北山:企画の展覧会があって。10個位来るから寝てられない。

青木:この展覧会(「木と紙」展)は84年だからヴェニスの2年後だね。この時も大作。

北山:ものすごく作った。これを展示したんですよね。それが愛知に入ったのね。

坂上:79年に、「よし、これで俺は行くんだ」って覚悟を決めて個展したけど、誰も見向きもしなくて展評にも出なかったって。

北山:載らなかった。

坂上:その時はどんな感じ。「(世間は)遅れてるわ」って感じ?

北山:あのね、僕まだその前、まだ何も知らなかったから、作家が「面白い」って言ってくれた。作家が来るじゃないですか、見に来るじゃないですか。

坂上:ああ、(見に来てくれた)作家が「この作品面白いね」って。

北山:そうそう。言ってくれる。

坂上:「新しい物を感じた」みたいなことを作家が言うけど。

北山:新しいかどうかは分からないけど「いい」って言ってくれて。

坂上:でも靫ギャラリーと射手座でやって誰が見に来るかなって。

北山:イレギュラーに見に来てるじゃん。あの、展評者も見に来てるんやで。

坂上:展評って誰がやってたの?

北山:那賀さん。祐子貞彦。懸賞論文で通った人ね。建畠(建畠晢、1947-)。(後で)恨み事言ったからね、建畠。

坂上:スルーだったんだ、建畠さんは。

北山:書かなかった。まだ国際に来て1—2年目かな。で、アンデパンダンが81年かなあ、もう既に立体やってん。それは「美術館ニュース」で書くんですよ、建畠さん。で、だし、キーポイントは中原佑介やね。もう見続けてた。靫も見に来てた。

坂上:(何も)書きもしないけど「追ってた」ってことか。

北山:そうそう。

坂上:やっぱり中原佑介ってすごいね。

北山:そうだね。中原さんに建畠さんが「中原さんが押したから彼は受けたんだろう」って(建畠さんが)言ったら、中原さんが「カーネギーは向こうが独自で来て…」、ジーン・バロー(Gene Barrow)っていうディレクターが来て僕をピックアップしたんですよ。その時カーネギーは建畠覚造(1919-2006)、それと斎藤義重(1904-2001)、菅木志雄。彦坂落ちたんだよね。4人上がって、カタログに日本では僕だけがカラー頁に載った。ディレクターは16のパンフレットを見ただけで、「(ギャラリー)16の作品を全部キープしろ」って言ったんだけど(16は)売ったんだよね。何点か売れたんですよ。その後、新田さんっていうのが数点買うたんよ。うん。で、「何で残しとかんのか」って言うから。残ってたんですよ、5点。それを出したんですよ。それも全部売れちゃった。そんな評価とかね。あとヴェニス出したんですよ。で、オープニング始まったら「いくらだー」って言うんですよ。ルイジアナ(美術館)も来たんですよ、ルイジアナも「いくらだ」って言ってた。前回は小清水さんとか若林さんとか、あと榎倉康二だったんですよ。それ全然評価なかったんですよ。これ(『ヴェネチア・ビエンナーレ 日本参加の40年』国際交流基金、1995年)に載ってますよ。豪華本。毎日の編集の人が、僕のが一番評価あるって言った。

坂上:日本の作家は(それまで)見向きもされなかったんだ。

北山:もの派の何年間は、韓国と同じように、1人の作家が作ってるように思われたわけ、もの派の作品は。で、若林さんは、あれやねん、ボイス的に思われてるから、2回やらはったけど、全然評価ないんですよ。そんな気分でいたから突然に受けたんですよ。(それまで)無かったから、「いくらだ」って一番でかいやつね。ルイジアナ。その時さあ、英語もしゃべれなくて。お金はリラでしょう。その人が何者かも知らんやん。その時会場の後ろに西村(建治)さん(西村画廊)とか山本(豊津)さん(東京画廊)とかいてるわけ。でも「お助けください」って言えへんやん。彼等見てるだけ、手伝おうとしないよ。

坂上:自分の儲けにならないから。

北山:そうそう。ぜんっぜんならないから。そんなのやってやれるかーって。で、僕1人だよ。で、リラで書いて。リラってものすごい000やん、で、書いて。「こんな高いの?」って言われて。間違えたんよ。(笑)。もう何人もに言われました。

坂上:プライスリストは用意してった?

北山:そんなの無いよー。だって売れないって言われてたから。でもね、カタログを作って持って行ってたんですよ。1ヶ月前に、小清水さんに、(彼が出したのは)前回やし、小清水さん僕の推薦者でもあるしね、1回目の僕の靫に来た時に、「名古屋桜画廊で、いい作家いたらやりたいって言ってるから、君写真持ってるか?」と。「あっち紹介する」って言わはったんですよ。その後、(ギャラリー)16で(個展が)あって、それ全部ストップされたわけ。信濃橋(画廊)からも話あったんですよ。16が「断れ!」って。3ヶ月後に(16で展覧会を)やったんですけど。で、ヴェニスの時にそれで、とにかくスライドカタログを作った。段ボールに2箱。200部作ったのかな。手持ちで持って行ったんですよ。120キロ。(持ち込み送料)120万円を半額の60万にまけてもらって、持って行きました。重量オーバー。

坂上:そんなのは後で元取れたよねえ。

北山:直接その時は配っただけ。あの時はどうしようかなって。「まあ、払う」って言ったわけ。手荷物で持って行ったんですよ。カタログに100万以上掛けたから、ほんで持って行って。彦坂に「何でこんなもん持って行くんやー」って言われて(笑)。出発1ヶ月前に小清水さんに電話したら、まあ、100万円掛かってもいいからカタログを作れって言われたんですよ。あと作品1点につき作品写真100枚。「持って行き」って言われた。プレス用で。ほんで、プレス。オープン前の日まであの会場、人いてへんの。ほんまに。で、当日になったらえらい人が多いじゃないですか。川俣と二人で、プレスに白黒写真のやつ持ってったらすぐ無くなったんですよね。で、「すぐ持って来い」とか言われて追加した。とにかく右往左往でした。

坂上:彦坂と川俣は。

北山:プレオープンでは全然やったな。作品の前で僕だけ写真撮られてました。

青木:それは「しまった!」って思ったやろうね。

坂上:人気は?

北山:人気自体は、川俣は無かったですよ。彦坂は『アートフォーラム』に載った。僕と2人だけ。その時ね、賞が無かったんですよ。金獅子賞、無かった時やねん。ビエンナーレ事務局から「5人の作家に選んだからお前(その展覧会に)出せ」って言われた。そしたら矢口さんに「一人だけピックアップ出来ない」って言われた。

青木:出来ないって?

北山:(展覧会に)誰かが行かないといかん。出張料がいると。言ったんだよ。作品をピックアップするのに。それで流れた。僕、だから、(82年ヴェニスを代表する)5人の作家に選ばれてたんですよ。だから賞あったら絶対に選ばれてた。その時に、雑誌に、アメリカもヨーロッパも『ユーロヴィジョン』にも出たし、すごい受けたんですよ。抑えられた。日本で抑えられたんだよ。彦坂が「棟方志功以来(の受け方)や」とその時言っていた。

青木:日本らしいところやなあ。

北山:ヴェニスに針生(針生一郎、1925-2010)さんが来はったんですよ。で、針生さんが「北山が受けた」と朝日新聞に書いた。けれど「どれぐらい受けたか」はオープニングに参加しなかったから書いてない。自分は見てないから。それはものすごく残念やったね。そっからもっと行けたんですよ。それからもう一つは、ビジネスが無かったから。例えば井上さんと川島さんが付いてったら、商売になったんですよ。何とかなったと思う。カーネギーだって全部売れたんだよ。その時まだ安かったんだよ。ああ、フジテレビ(ギャラリー)もいてた。次のビエンナーレに日本代表でフジテレビは田窪(恭治、1949-)が行ったんだ。その時に、ちゃんと商売してるんだよ。どんなことがあるか。

(電話かかる)
(電話から帰って来る)

北山:おかんでした。僕の母親。西院に住んでる。1人で。93(歳)。元気ですよ。ま、都会やからね、やっぱり。

坂上:京都のおばちゃんは年寄りになっても元気だから。全然違う。それにしても。へえ。

北山:そういうサクセスストーリーもあるんだけど、僕、挫折感もあんねん。そこでね。
出なかったっていう。

坂上:ああ。私だったら絶対行くよ。うれしいじゃん。同じ日本人として。足引っ張り合う時じゃない。行くよね、絶対。

北山:だからね、その後ヴェニス・ビエンナーレに対する考えが変わったと思う。付いてく人がいてて、その時ヴェニスはもう、イタリアもつぶれるところやけど、ここはね、「商売になるところや」っていうのが分かったわけやから。ビジネスに出来るというので。

坂上:そうか、それまでは「ビジネスに出来る」という頭でみんな行ってないから。

北山:考えてみなさいよ。概念派とか、売る的ものは無かったんや。ペインティングになって、売れるものが出来て、ギャラリーは何とか売りたいってんでさあ。ある意味で売る事を拒否してたんだけどさあ。作品がね。その後売れるようになった。

坂上:他の外国の作家は売ってたんですか。

北山:イギリスはバリー•フラナガン(Barry Flanagan, 1941-)で売りましたよ。うさぎの奴。名古屋(市美術館)にも入ってるじゃないですか。向こうはブリティッシュ・カウンシルが来てて、美術部長と展示(担当者)と。それで30パーセント取るって言う。

坂上:えー、すごいね。国が30パーセント(マージンを)取るっていう。

北山:30パーセントだけだよ。「売る」ってことは相手の国に自分たちの文化を「売り込む」っていうのがあんねん。日本はちゃうねん。「持って行って、そこで開いて、閉じて、持って帰って来る」。国の税金使ったのを売るってのは「ケシカラン」ってね。

青木:それはもうほんっとに、分かってないのね。

北山:そうなんですよ。ヴェニス行った時、ものすごく各国のパーティの招待が来るのね。で、イギリスの領事館とかでパーティしてんのね。僕等全然知らんよ。でも、「えー!」って言う位関係者が集まってるよ。「裏のヴェニス」があるねん。

坂上:何百人の招待客が…。

北山:何千人。3000人位来てるのよ。僕その一つ、カナダのアカデミーや。アカデミー会員や、おばちゃんで。「アパートにおいで」って招待された。行ったら、芸術院会員のね、売り込みされてんねん(笑)。僕、「この人を利用しなさい」って廻りの通訳の人に言われた。そして、次の国のところに行け、って。みんなそう言うね、(事情を)全部知りながら毎年顔を売りながら話してってことがあるけど。帰って来たら、小清水さんも言ってたけど「日本は、貸し(画廊)ばかりで、全然あかん」って。言いたくなる位。

青木:空気読めとらへんねん、ヴェニスの。お役人って感じ。

坂上:だけどそれは日本人が売れなかったから、そういうの目にする機会もなくって知らない人が多かったとか。

北山:それもあるけどね。もう一つは、ヴェニス・ビエンナーレっていうのは日本代表して来てるし、各国代表して来てるし、各国パビリオンがあるでしょ。それある程度違うものもあるけども、外務省が持ってる国有の地で、その国土なんだ。外交権がある位にね。だからステージ的には全然違う場所なんですよ。もう見る目が違うわけ。他にどんなもの出すよりもそこに行くから行く方が。みんな、舟越(舟越桂、1951-)だって戸谷(戸谷成雄、1947−)だって、違うように見られてるのよ。そこに出すってことは。だから、そっから行く、ヴェニスの都市の始まりとか、ヴェニス100年の歴史的な地位っていうのをもっとやっぱし知るべきやね。

青木:僕はもう10年位前かな。ヴェニスに行った時、オランダの画商だったかな、ちょっとお仕事してたんだ。それが、夜のパーティに招待してくれたの、サンマルコの高級レストランに。その場に行って分かったけど、ずらっと紳士、淑女が招待されてるわけね。その画商が招待してるんですよ。ヨーロッパの主な現代美術館の館長を招待してるの。はっきり言ったら「買ってよ!」ってね。

坂上:日本の画廊だったら1人招待するだけでも難しいよね。

青木:それでね、もう1つは、そんなことやったら、(日本だったら)招待されたらすぐに「癒着だ」とか言うよね。そんな子供じみてない。「うちの作家買って下さい」って言葉では言わないけど、ほんと、それこそもう、有名な美術館の館長みんな招待してるんだもん。それぐらいやってるんだよ、ビジネス。

北山:値段聞いたんだよ、ルイジアナが。だから前の関根伸夫さん(1942-)の場合でも、その場では売れなかったのね、で、寄付になってるのね、《空相》、で、いったん持って帰って、いったんですよ。戸谷もね、ルードヴィッヒ、いったん持って帰って持って行ったんだよ。それは返したらオッケーなんだよ。交流基金は、「美術館ならいい」って言ったね、売っても。

青木:当時はまだ、今もそうかも知れないけど、展示する時、スタッフとか言っても、あまり充実してなかったでしょう、でイタリアに住んでる日本人を使ってって…。

北山:いや、違うねん。

青木:そういうことはなかった?

北山:イタリア人に照明頼んだけれど、毎日朝来るんやけど、すぐにどっかへ行ってしまって、中々仕事が終わらなかった。結局一週間掛かって出来た。ホンマに働らかんね。日本パビリオンのプレオープンの日に(ローマ日本文化会館がサポートしていたのでそこの)館長(名誉職のような感じで学者)が来られて会場を見られてたんです。その人は病気らしく自ら立つ事が出来ないので車椅子で会場を回っていました。その時、招待客の外国の方が「パーティを良いものにする絶好の機会なのに日本の事務局は何をやっておるんや」「もっと元気で活動的で働ける人を連れて来い」と非難していましたよ。

青木:まだまだね、孤立感がある。日本館は。

北山:あるなあ。

青木:何年か前に北海道の何とかって作家(岡部昌生、1942-/2007年出品)が出た時も、もうね…。

北山:あれなあ、国際的に通用可能の作品とは思えんわ。僕ねえ、神奈川県民ホールで2人で同時期に個展をしたから岡部さんの作品は知っているつもりやけど。

坂上:広島みたいなやつだよね。

北山:そうそうそう、広島の原爆ドーム。フロッタージュや。

青木:いつまでこれをやっとるっていうような。あれ、誰がコーディネートしてたのかな。

北山:あれな、聞いてるのは、国際交流基金がコミッショナー選ぶんやけど、公募らしく、今は、作品をどんなもんするか言うのをコミッショナーが提案するんですよ。そのコミッショナーを、基金が選んだ評論家数人が投票して選ぶ。たまたま下位がたくさん票が入って選ばれたん違うかな。想像ですけど。

青木:選び方も何かなあ。それとメディアもちょっと。向こうでの評価と日本のメディアが書いてることと全然違うのね。評価。去年は束芋だったけど。

北山:全然だったな。

青木:日本のメディアはね、要はね、僕は急いでざっと見ただけだけど、(ヴェニスは毎回)テーマを持ってるんですよね。去年は「イルミネーション」だったの。やっぱりそれぞれ、ドイツ館みても、(何か根源的なものが伝わって)「来る」んですよ。イルミネーションに来るんじゃないけど、ドイツ館は、去年はね、教会みたいだけど、見た時パッと、こっちの方に映像がいくつか。ここではねえ、男と女がセックスしてる画像があって、こっちに教会がある、そういう印象。で、イギリス館は、入ってずっと廃墟歩いてる感じ。ホコリとか積もり積もったようなものがずっと上まで。そういう暗いイメージだった。ところが束芋、展示は良かったよ。きれいに考えて、映像の写し方も良かったけど、何か、どういう評価かなって聞いた。そしたら、「他館のイルミネーションにあるようなものは一切ここからは伝わらない」って。そういう言い方してた奴がいた。だけど日本では「評判良かった」って。

北山:日本でも聞かないですよ。

青木:あ、そう。浮いちゃってた感じ。束芋(1975-)。

北山:だって何も載らなかったですよ。

坂上:作家は2度売れないから。束芋もバリエーションで生きてるんだろうなあ。

北山:バリエーションも、向こうだってそうじゃないですか。バリエーションで出来るかっていうのは、大きな力ですよ、作家にとっては。

坂上:そのバリエーションの組み方がね、例えば北山さんだったら、一生かけても解けない疑問みたいなのが出発点だから、バリエーションがどんどん組めるわけじゃないですか。でもそれが「かたち」であったり、作家の個性で決まってたら、バリエーションにも限界があるもん。

(一旦停止)

坂上:(年賀状に貰ったし、今回のMEMのテーマでもある)「生きること死ぬること」ってね。「生きること死ぬこと」じゃなくて、る、で韻を踏んでるじゃないですか。わざとそうした意味を。

北山:今年はおめでとうって言えないじゃないの。世の中、「死ぬる」今沈んでる人いはんのやから。今年しか使えんって思った。