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宮永理吉オーラル・ヒストリー 第2回
2018年6月20日

京都府京都市、宮永理吉自邸にて
インタヴュアー:大長智広、菊川亜騎
書き起こし:京都データサービス
公開日:2022年12月27日
 

菊川:本日は2018年6月20日です。宮永理吉先生オーラルヒストリーの2回目を始めせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

宮永:はい、こちらこそ。

菊川:前回のインタビューで、1960年にアメリカに行かれた経緯をお伺いしたんですけれども。ニューヨークに滞在なさっていた頃にですね、お会いした日本人の作家さんたちについてもお伺いしました。

宮永:あの人。すぐに名前出てけえへん、いややなぁ。おつゆみたいな絵描いた作家で、ニューヨークで最初に有名になった。

菊川:岡田謙三さん。

宮永:そう(笑)。ちょうど岡田謙三さんがものすごく売り出してて。そこへ猪熊弦一郎さんが夫婦で来たわ。それからもう一人、名前出てけえへんな。

大長:川端実さん。

宮永:そうそう。よくわかるんな(笑)。岡田さんのとこはね、何回行ったかな。猪熊さんのとこは、私の友達が姻戚関係を持っていて紹介状を最初から持参したんで、猪熊さんのとこはどれぐらい行ったかな。お茶飲みに行ったり、飯食いに行ったりしてたから。

菊川:そうですか。

宮永:だけど、その二人はやっぱり出てきた立場も違うし、ニューヨークでの扱いも違ったし。岡田さんは受けてたから、「君、勉強するんやったら、ちゃんとして腰据えて来て勉強すんのがええよ」って。猪熊さんはね、どっちかいうたら、あんまりええ待遇で来てはらへんねんね。アメリカで岡田謙三みたいになって戻ろうというのが、どうも猪熊さん夫妻の考え方やったみたい。猪熊さんからは「得るとこがなかったら、帰るのがええよ」というようなアドバイスを受けた覚えがある。そのとき、岡田家では奥様が家で洋裁してはったわ。岡田さんみたいな作家の奥様でも自宅で仕事をされているのはショックだったなぁ。だからアメリカの画家の生活っていうのは(そのような感じ)。一応そこまでで、ポインデクスターっていう画廊の話をしたやろ。そこで会った…… また名前が思い浮かばんな。二科から行動美術へ行った。

菊川:高井貞二さん。

宮永:高井貞二さん。高井さんが住居の世話からアルバイトの世話からいろいろしてくれたわ。高井さんは奥さんを日本に置いといて彼女とニューヨークに来ていて、ブロードウェイで小さなお土産物屋さんをやって生計を立てていた。それでも、一応そこで、ちゃんと定期的に個展をやらしてもらっている作家だった。作家としてアメリカの美術界でも、正当に認識されていた。

菊川:ポインデクスター・ギャラリーというのは、女性のエリノールさんという方がオーナーで。

宮永:うん。女の人やった。おばさんで缶詰会社やっていると聞いたけどな。ニューヨークでは二流の上といった感じの画廊で。ロスコなどの作品も扱っていた。

菊川:はい。旦那さんも作家だそうですけれども。

宮永:そうか。そこまでは知らんかったなぁ。へえ。

菊川:そこのオーナーさんに、作品のこともご相談されたりして。

宮永:そうそう。そこの番頭さんがえらい私のことを気に入ってきてくれて、アメリカの美術の話やニューヨークでの生活などいろんな話をよくしてくれた。作家としてやっていく道みたいな話。このあいだは螺旋階段の話、したかな。若い番頭さんだったが、「宮永、これから作家になっていくには、段々の階段を上るようなやり方では、絶対にアメリカでは成功せえへんよ」、「アメリカで成功しようと思うたら螺旋階段を上るようなこと。そして明日展覧会するといってもできるだけの作品をいつも手元に持て」と言ってくれた。彼の言う意味は、一つの画廊を決めてやる以上はそこでずっとやっていくということ。比較的、自分の所の顧客というふうに販売してやっていく。そして、前回と次の作品が同じやと、お客に飽きられてしまうよと。だから最初に作品を作り出していくときに、はっきりと方向づけが必要。最初が重要なのだと。
その頃はね、アクション・ペインティング自体がもう下がりめだった。1960年はちょうど次の若い連中のいろんな作品がいっぱい出てきた。アメリカの美術界もわりかし変革が起こっていた時代やったんやと思う。それで日本から来てる私らみたい若い作家は、そんなオープンに渡航が許されてへんから、美術の勉強しに留学する人たちっていうのはまだまだ少ない。だから、あんまり日本人作家の展覧会とかはニューヨークで見ることはなかったな。

菊川:もうちょっと後になると日本人作家もニューヨークに行かれますけど、タイミングがずれるというか、少し前になりますよね。

宮永:そうそう。60何年にできるのかな、フルブライトが。フルブライトを境にしてると思うわ(注:日米間のフルブライト交流事業が開始したのは1952年)。私らがその時分に行った話をしてるのには、フルブライトで行った人はほとんど親米で、ちゃんと金銭的にも自分で来て芸術の勉強ができる状態。私らと一緒に行った人は、帰っても親米というよりは反米に近いような感覚。とりあえずそういう体制に組み込まれるのを嫌がる人たちが多かったな。

菊川:ちょうど戦後のアメリカの方でも、日本に対する印象が変わってくる境の時期に行かれて。

宮永:うん。アメリカの方の人の感覚もものすごい変わってくる時分で。私は、最初はランプシェードのとこ(店)を紹介してもろうて、そこで生活費を(稼いだ)。結局、日本から生活費をはじめお金は送れへんしね。自分で稼がなんならん立場で行ってたから。それでニューヨークへ行ってからは、日本料理店のマネジメントの職を見つけたり土産店の店番をやったり。

菊川:そんなこともされてたんですね。

宮永:ニューヨークでは、昼夜逆転の生活みたいな生活してたね。

菊川:その頃は作品制作もされたのですか。

宮永:だから、作品制作っていうのはニューヨークではほとんどしてへん。ロサンゼルスのときはね、平日はランプシェードの陶器工場で働き、土日はロスマンの友達と仕事場を一緒に借りてるとこで仕事をして。

菊川:小型の作品を作っておられた。

宮永:うん。普通の作品作って、やってたけどね。(写真アルバムを指して)これは、この辺のがニューヨークのやつ。ロサンゼルスの時分のやつ。これは、ロサンゼルスの時分。こういう作品を何点かは撮ったのがある(注:台座に置かれた抽象的な陶土の彫刻)。だから、ほとんど日本で作ってたような作品。作品的には、別に小品っていうわけでもなかったけれども、アメリカ作家の作品としては小さかった。自分では小さいとは思わなかったけど。

大長:そうですね、大きそうですね。

宮永:普通の作品を作ってた。それでこれは全部ね、スクリプス大学が管理保管していたけど、どうなったかは、もうわからんようになってしまった。

菊川:日本に持って帰れなかった。

宮永:持って行っても、持って帰られへん。ほとんど向こうに置いていった。残ってた作品は、友達に言って、後にスクリプス大学に一旦引き取ったとこまではわかってるねん。その後は行方不明のままになっている。

大長:向こうで何かしらの形で発表されたことは。

宮永:したことはない。まだ、そういう状態じゃなかったしね。作家の力量としても、まだまだやなとも感じていた。ニューヨークではポインデクスターにいたおかげで、日本から来た作家がどういう待遇を受けとるか、ニューヨークで今どのような作品の作家がおるかっていうのは、大体はわかった。川端さんなんかは早くに成功した。日本で知られてる作家も何人も見たけど、修繕屋さんをしてる人が多かったな。40代から50代くらいの藝大(東京藝術大学)を出てる人たち。我々が名前を知ってる作家が当時に何人かいたことは知ってはいたが、会ったことはなかった。

菊川:岡田謙三さんなんかはベティ・パーソンズ・ギャラリー(Betty Parsons Gallery)という非常に大きな所で展覧会をされてました。そういった華やかな、ニューヨークのアートシーンをご覧になって、それで帰国されていったという。

宮永:私はだから、岡田さんの展覧会に正式に呼ばれて行ったりしたことは1回もない。家には行ったりしたことは何回かあったが、岡田さんも私を一人前の作家としてよりも美術の学生として接していただいたと思う。

菊川:プライベートなお付き合いでということですね。

宮永:何ていうのかな、ソサエティー自体が今の感覚とはもう全然(違う)。60年代の日本人と日本人とのコミュニケーションもほとんどなかった。そういう状態。大体、岡田さんと猪熊さんってものすごく言ってることも(違うし)、お互いに負けないようにする。後から思うと、決して皆、何かで助け合うこともなければ、むしろお互いに相反する立場をとってるという感じやったし、住まいもやっぱりそういう感じやったね。

菊川:お宅の様子も、ということですか。

宮永:うん。猪熊さんなんか当時、ちゃんとした正式の外出もなかったしね。ニューヨークに来た当座は、猪熊さんのような偉い(人には)普通にお目にかかれるとは思ってへんかった。そんな人と違って、人柄は大変あれ(親切)やったけど境遇的にはやっぱり。後から聞いたらな、あの人はこのまま日本でいてたら、埋もれてしまうので、何とかニューヨークで……。ところが彼の期待したようには受けてくれなかった。その辺ででも川端さんの話はよう出てたから、川端さんは比較的短時間で(成功した)。
だからそういう情報もあんまり(なかった)。生活と、たまにレストランの仕事の仲間と一緒に海に行ったり遊んでたというか。そういう所では美術家とあんまり付き合わへん。展覧会はね、ポインデクスターの友人がどれを見ておけばいいか教えてくれた。

(電話により中断)

菊川:アメリカの話をお聞きしてたんですけども、帰国後のお話もまた伺っていきたいと思います。

宮永:私はね、帰ってからまた行くつもりやったんねん。もう一遍戻るつもりやった。アパートも全部そのままにしてあったんだけど、家の事情で流した。日本での仕事があってそのまま戻らずじまいという形でアメリカの生活を終えた。だから、ものすごい中途半端で終わってるねん。きれいに、「帰ります。さよなら」と言って帰ってきたのと違った。それが今でも残念なことをしたなと思う。

菊川:そうですね。展覧会なんかもたくさんここから出展されて、お忙しくされていらっしゃるので。

宮永:そう、その辺からね。いない間の方が何か依頼が多かったようなんで。

菊川:そのうちの一つで、集団現代彫刻展に作品を出されていらっしゃいます。戦後の日本の彫刻作品を作っている作家たちの自主的なグループ展ということで注目を浴びたと思うんです。日本の作家さんの作品をアメリカからお帰りになって、どのようにご覧になったのかなと思いまして。

宮永:うん、そう。(写真アルバムを指しながら)これは、62年やから、もう2年後やね。第3回のやつや。第1回のやつが、どんなんやったかな。3回で集団現代彫刻はもう潰れてるねん。

菊川:はい。終わりになりましたね。

宮永:あの頃は西武が美術界で力をつけてきていた時分で、集団現代彫刻っていうのは、第2回からは西武がお金も全部賄ってやった展覧会やった。最初は推薦制みたいなのをとっていて、会員になって出すことになった。で、3回のときに何でお終いになったんかっていうのは、原因は、勅使河原(蒼風)さんの作風を彫刻として認めるか、認めへんのか(ということ)。勅使河原蒼風さんは、自分も会員になりたいと言った。会員の中で、あれを彫刻として認めんのか認めへんのかというのが一番の主原因で、メンバーの何人かが「ほんならもう、やめよう」というので、終いになった。だから、会員の中で立ち行かんようになった。

菊川:この展覧会の中核のメンバーになっていたのは、戦前から活動されてきてた作家さんたちだったと思うんですけど。

宮永:そやけど向井(良吉)さんとか建畠(覚造)さんとかが、大体、中心メンバーやね。その前にね、私は出してへんけど、西武が「生活美術」っていうものを立ち上げた。アートと生活を結びつけるみたいな展覧会やな。それはもう、2回も続かへんのと違うかな。それの続きが集団現代彫刻になったように私は記憶している。

菊川:そこに向井良吉さんや建畠さんなどマネキンを作ってらした方々が関わっておられて、話が来た。

宮永:そのように聞いてる。そういう一環の一つが、大阪中之島のフェスティバルホールの陶壁(注:フェスティバルホールを併設し1958年にオープンした新朝日ビルの南外壁に設置された陶製レリーフ《牧神、音楽を楽しむの図》。建畠覚造ら行動美術協会彫刻部よる共同制作)。

大長:ああ、はい。

宮永:信楽で作っていた。あれなんかは、そういうやつの一環。一つの成果やと。だから、多分、西武が出してたんだと思うわ。お金の面倒は。

菊川:このときに、日本の彫刻家の作品が勢ぞろいしてたわけですけど。先生、ご覧になって、どう思われたんでしょう。

宮永:参加させてくれて、嬉しかったで。やっぱりそんな機会は今までなかったのに、メンバーにしてくれて。

菊川:直前までアメリカに行かれてたんですよね。

宮永:それはね、何点かの作品はアメリカに行く前から作っておいたのを出してるんだけど。家業の陶磁器の仕事の方も順調で忙しかった。寝る所の半分を仕事場にしてやってる時分や。この何年間には作品の方向づけが、もうわりかたはっきりしてたしね。手法的にも。これはね、下から積んでいく作品とは違う。大まかな形を考えといて、パーツを作ってたんや。パーツとパーツを組み合わせながら、立体的に仕上げるっていう方法をずっととった。だから、下からひねったりと違って、普通の陶器の作り方とは全く違う制作手法を考えた。人生で一番働いたのはこの時期だったなぁ。

大長:全然違いますね。

宮永:陶器のセオリーからいったら、やったらいかんことをやる。それは初めから、この時分の私の大まかな制作のスタイルで。それと考え方自体、この時分はアクション・ペインティングが身にしみついているからね。アクション・ペインティング以外は考えへんようなぐらいの入れ込みというよりも、はっきり言うたら、それしか知らん。他のものに目向ける余裕はなかった。それで、この方法をやめるまでは一貫していた。この方法で何年過ごしたことになるのかな。
あの頃話題になったのと一緒で、伝統的な陶芸技法で成形するということを、アメリカの作家はあんまり頭に入れてへん。入れてる人たちもいるけども、どっちかといったら、陶器では小山(冨士夫)さんらがやった展覧会が評判になった時代や。大長君、覚えてへんか。

大長:64年の「現代国際陶芸展」です。

宮永:それは違う。それより前のやつや。

大長:日本に持ってきた国際展で小山さんがやったのは、64年のオリンピックの年になります。

宮永:オリンピックの年か、あれ。

大長:これが初めての国際展になりますので(注:東京、久留米、京都、名古屋を巡回した)。

宮永:ああ、そうか。私はもうちょっと前やと思ってたんやけど。私らみたいに行って見たりしたのは別としたら、多くの陶器作ってる人たちがああいう作風を初めて目にして、「そういう作り方でも可なんか」という考え方が出てきた。

大長:そうですね。ようやく海外の状況を知ったという展覧会ですね。

菊川:国際陶芸展の話が出たので、あわせてお聞きしておければと思います。海外の作品が初めて日本で大々的に紹介されたという展覧会でした。日本の陶芸家の作品も集められてる中で、宮永先生の作品は入っておられなかった。

宮永:私はそのときはまだ歯牙にもかけてもらわれへんで(笑)。だけどその時分ね、言い方はおかしいけど、作品の話などをするのがものすごく面白くて威張れていた。京都国立近代美術館の館長や学芸員と私らの年代のある一定の作家が、コミュニケーションができた。学芸の事務所で「こら、ブランデー入れろ」とか言って(笑)。あるときまで京近美はそんな雰囲気があったんやね。少人数の美術館で右から左までうまい具合にぶち当たってた。「こんにちは」って言ったら「おう」と言われる。「こないだの作品、あんまりええことないで」とかな。

大長・菊川:(笑)

宮永:「あれはもうちょっと考えた方がええで」とかいう会話ができた。

菊川:それぐらい美術館と作家も身近な感じだった。

宮永:それはやっぱり、今泉(篤男)さんと乾(由明)さんが二人でやった――まあ実際やったのは乾さんやけど――現代美術の展示。あの展覧会が我々若い人たちの意欲を一気に高めたのは確かなことだった。

菊川:「現代美術の動向」展ですかね。

宮永:うん。上の人はどう思ってたか知らんよ。だけど、私らの年代の者にとったら、あれに選んでくれるかどうかというのは、とりあえず、まず作家になれるか、なられへんかの出発点ぐらいのインパクトがあった。それと、もう一方に朝日新聞がやった朝日新人展というのがあんねん。始まりはこっちの方が早いけど、その二つが、要するに作家として認められる第一歩みたいな展覧会で。だけど、私らでは雑魚の作家という感じを委員さんらは持っとるわけよ。最初の頃は、ちょっとぐらい名前の知られてる作家も呼んできてしてたね。後の方はだんだん、作品さえよければ名前を知られんでもね。あれは乾さんが、ノミネートした作家の仕事場を一軒一軒回って、作品を見て自分の目で見てチョイスしてたからね。だから、乾さんもあれで随分、変な言い方やけど自信もつけたやろうと思う。

菊川:先生が出品されたこの「現代美術の動向」展(1964年と1965年)は、副題が「絵画と彫塑」ということで、彫刻作品も一緒に展示されるようになりました。このとき、彫刻家の作品とともにですね、宮永先生のような陶彫の作品もあるし、荒川修作さんのような読売アンデパンダン系の作家のオブジェなんかもあった。

宮永:うん。ようけあったで。

菊川:こういった作品は、関西ではまだあまり見てなかったですね。

宮永:あまり見なかったしね。名前を知ってても、作品を見たことはない。写真では見たことがあるけど、というようなのが多かったからね。

菊川:そうですか。では、この展覧会を通して東京の作家については初めて実物をご覧になった。

宮永:そう。それだけの評価を受けるだけの出品は、美術館側も努力したやろうと思うし、我々関西の作家の多くも作品を見て考えることが多かった。

菊川:関西だけで活動していると見る機会のない若手の作品もたくさん出されてますもんね。

宮永:そう。現物自体を間近にあれだけ見るということはなかったので、私も多大な影響を受けた。

菊川:そうですか。こういった「動向」展もご参加され、その後の「現代の陶芸」展(1970年)への出品も大きな話題になりました。

宮永:うん。だから、そのときには私はまだ陶器屋さんだと思われてへんと思う。近美の学芸員も土を素材にした彫刻家と思って来た。

菊川:あまり陶芸展の方には、先生自身もご関心がなかった。

宮永:うん。私自身もそんなに、陶器の作家になろうという気はなかった。うちのお爺さんがどうかまではわからへんにしても、父親は作家になることをあまり望んでなかった。初めからね。工房経営者になることをものすごく望んでたんや。今から思うと、当たってるねんけど。「工房経営者になるための勉強をしろ」としょっちゅう親から言われた。作家になっていくことを、ずっと、死ぬまで喜ばない人だった。

大長:そうですか。

宮永:うん。「素直に作家として仕事していくことよりも、工房の経営というもんが京都のやきものにとっては大事や」ということを、もう口酸っぱく、うるさいぐらいしょっちゅう聞かされていた。作家になるなとは言わへんのやけど、もう、終いまで。早う言うたら、親子の溝が死ぬまで埋まらへんかったな、やっぱり。特にやきものの作家になることには、嫌というぐらい嫌っていた。

大長:その場合の作家というのは、彫刻的な作品を作る作家。

宮永:(父親も)作家やったさかいに、そこまでは許しているわけ。「世の中で陶芸作家と言われるような作家の意味を、よく考えろ」というのもよく言っていた。一方で親の言う陶芸家という立場に同感するところも多々あった。

大長:例えば器を作っても、日展や新匠工芸とかですね、ああいうのに出すのは?

宮永:ああいうなんを、ものすごい嫌っていた。

大長:ああ、そうですか。

宮永:それやったら、彫刻みたいな仕事をずっとやれと。そうや。今あんたが言ってくれたように、要するにそういう陶芸作家というものに対して、あんまりよしとは思ってへんかったな、あの人は。私もそれはわかってて。わりかた、それはしないように心がけたことはある。実際の実用的なもんは作るけど、ちょっとオブジェ風の作品的な花生けとか、ああいうもんには一切を手をつけなかった。それは、親の言っていることがわからんことはなかったさかいに。

菊川:一方でですね、1970年代に入りますと、先生も走泥社の方に活動の場を移されるかと思うんです。彫刻と陶芸をしていくこと、美術と工芸といったジャンル、こういったことについて、当時どのようにお考えになっていたんでしょう。

宮永:これはもうほんまに何ていうのか…… 公募展というものには出さんっていうのも初めから決めてたし。で、行動美術もそれでやめてしまった。それは私の理由でやめて、これから個展だけでやっていこう、彫刻をやっていこうというときに、京近美が「工芸の鳥瞰」展(注:「現代工芸の鳥瞰」展、1973年)というのを企画した。どっちが先やったんかな。「アメリカの陶芸」がちょっと先やったか。この辺は大変複雑で人にも説明しにくいしね。人のせいにするのも変な話なんやけどね。元々の出発地点は、東京の秋山画廊という所でやきもの素材の彫刻展として個展をしたんや。鎌倉近美にいた……。

菊川:柳生(不二雄)さん。

宮永:そうそう。柳生さんの世話で。

菊川:1967年6月の個展ですね。

宮永:うん。その個展を見た工芸館の研究官だった吉田君。

大長:吉田耕三先生。

宮永:大長君はその辺の事情はわからへんやろうけど。私は工芸館や吉田耕三氏も全然知らん。その吉田耕三さんが秋山画廊の展覧会の作品を見て、「これで個展してくれへんか」と言うた。それで引き受けて器の陶器だけの展覧会をやったんや。
ちょっと矛盾してるねんけど、秋山画廊にはオブジェの作品で出品してんのやけど、吉田さんに頼まれたとこでは器の展覧会をしてん。吉田さんがやってたギャラリー手(注:東京)という所で。吉田さんは、やきものの器みたいなもんをもうちょっとちゃんと作るのと、作品制作とを、両輪でやっていけと言ったわけ。

菊川:両立させながらやったらどうかと。

宮永:うん。だけどね、器の陶磁器の展覧会というのは、当時の私の立場では「東山風」ではなく「理吉風」の今までにないようなものを作りたかったので、ものすごい難しい。それで、吉田さんとこの展覧会は2回やったんやけど、それは完全に器だけ。自分にとっては不満足な展覧会となった。ところが、京近美が「鳥瞰」展というのを企画し、そのときにこっち側の造形的な作品を皆「鳥瞰」展に出せという。それが今、東京近美にあるやつと京近美にある作品や。それで「鳥瞰」展に出したら、次にアメリカの作家の作品と日本人の作品で展覧会をするので、あそこにある彫刻的な作品を出してほしいと言われた。

菊川:それは1971年の「現代の陶芸 アメリカ、カナダ、メキシコと日本」という展覧会ですね。

宮永:そうそう。ヨーロッパの方が先のやつ。

大長:「現代の陶芸 ヨーロッパと日本」展が70年で。

宮永:だからね、「鳥瞰」展に出したり、「ヨーロッパと日本」「アメリカと日本」展に出したとこまでは、そんなにまだやきものという意識が(なかった)。今でもそれが一番問題なんやけど…… やきものの造形というものと、彫刻家の作るやきものの造形というものとの違い。私の生きてる間に解決するのか、しないのかもわからんぐらい、自分でもそこを放ったらかしにしたまま、動いてしまった。本当は吉田さんの器を作ったときと、「鳥瞰」展を頼まれたときに、もっと考えないといけなかった。
だけどね、あんまり皆に見せてへんけど、ゼロの会なんかのときも、素材としての鉄とか木とかは、捨てていない。別に、猛烈に土だけにこだわっていたわけではなかってん。だけど、必然的に、取り上げられてそうなっていく。木や鉄の素材の作風よりも、土の作風がだんだん取り上げられていくようになる。展覧会も大概そういう作風で要請される。大変言いわけがましい言い方になるけど、自分では変わったつもりは全然ないわけよね。わかるかな。世間はいつのまにか土の造形を、作品を私に求めるようになった。自分では彫刻のつもりでも、このような工芸の展覧会に出すから、周りから宮永は彫刻からやきものに変わったと思われた。
その辺のときからね、彫刻をやってきたのを整理していくと、土の素材の可能性がもっともっといっぱいあるのに、わりかた一時的な造形に見えたんや、私の目には。日本人の土の造形は総じて抹香臭いなという感じで受け取っていた。釉薬にしても伊羅保とか黄瀬戸とか、鉄釉系統の薬と土物で作る、土の造形だけしかない。土というものの素材の幅はもっと広いはずやという意識が、ものすごい芽生えたんや。自分はもっと土の造形の可能性の幅を広げてやろうと思った。だから、これは陶器の展覧会に出すとか、彫刻の展覧会に出すということは、もう考えんとこうと思った。そこへ「鳥瞰」展が重なる。1回目は近美側が「あの作品を出して」と言っていたけど、2回目は自分で作ったやつを出して渡したわ。やっていくうちに、そういう展覧会への出品がずっと続くようになった。
走泥社にはもう入るつもりはなかったけれども、その頃にちょうどまた学校へ勤め出した。それも重なってるねん。彫刻科にいろんな事情があって、学校へ戻る。あんたも知ってるかわからんけど、あの学校は(教育について)妙なシステムをとっていたからな。特に彫刻じゃ、辻先生、堀内先生の助手みたいな形で非常勤講師を務めた。

菊川:そうなんですか。

宮永:それは、わからんことはないねん。辻先生と堀内先生の思いが強くて、自分らの考えでやり出した美術教育というものに対して粗相のないように、教育と美術と両立させた、ちゃんとした授業が行われていくようにと。それはもう、あからさまに自分の教育方針を他科の教員にも要求したこともあった。

菊川:そういった人選のもとで非常勤講師も選ぶ。

宮永:そうそう。だから私は別に初めから、辻、堀内両人とものすごい密接な関係持っていたのとは違って。世間の人は私が二人と学生時分から密接な関係持っていて、もう学生の頃から辻に信奉して憧れていたと思ってはるかもわからんけども(笑)、だけど実はそうじゃないねん。60年代のときはそんなに(密接ではなかった)。第一、堀内先生には、むしろ反感抱いてたんやから。私はああいう四角や三角の作品を作って何がおもしろいねんと思っていた。陶器屋の倅なのでよく相談は受けたが、辻先生の大全盛時代にもそんなにツーカーの仲ではなかった。登り窯がなくなった時分ぐらいから、相談に呼ばれる回数も増えてしょっちゅう親交があった。同時に堀内先生も呼び出すようになった。私の前には、広島(市立大学)にいった藤原(信)が辻先生と堀内先生との連絡(係)をやっとったんや。だけどそこからは実際上、辻先生と堀内先生と私というのは、何か知らんけどいつも3人おるというような状態になっていった。辻先生が親に頼んで、「二日やったら大学を手伝うてもええよ」と言ったので先生たちとの交流が深まった。

菊川:彫刻の先生方とのお付き合いが新しい形で始まる中で、ご自身の作風なんかも見直されていった。土の仕事に、より特化していこうというふうに考えられたんですか。

宮永:やっぱり見ていて、もっといろんな方法があるのに、手をつけてないなと。磁器でも鈴木治さんより早く始めているしね。土という素材にはもっといろいろな使い方があるなと、新しい技法への挑戦も始めた。

大長:そうですね。

宮永:私は「鳥瞰」展の《波》からやしね。年代的にも、磁器に染付を使用したのは、私が早かったと思うわ。鈴木さんが後々話したところによると、同じようなことを考えていた。あの人は私と違って、やきものとしての可能性の方で考えていった。
私はやきものそのものよりも、造形の素材としての土や石、磁器を、もっといろいろやれるん違うかなと考えた。結局、今までやれへんかったやり方を探したね。板紙による型取りにたどり着いたのも、あれでも5年ぐらいかかってるねん。初めは石膏でやってたわけや。そんなもんで一々やっていた日には、数の方も限られてくる。何かもっと手早くできないかと思った。そうしたら、ある本屋のおっさんが「ほんもんの板紙を使ったらどうや」と言って、京都に板紙屋さんというのがあるのを知った。それが、どんなようなものでも作れるねん。注文さえ出せば。「あれでいこうか」と言うたり、考えたり。初めは布糊で付箋をつけたりして、マスクペーパーにした。それから、洋服を留めるために使う粘着性のあるやつも使ったりしてはった。ある人が「スワンペーパーという、デザインの紙でやったらどうや」と言ったり、他の業種の人の仕事も見て幅も広がった。それともう一つはね、私は、わりかた年代で変えるねん。それはね、一つは今までやってきた経験上の理屈。その本(『宮永理吉の世界』駸々堂、1992年)を作った頃は確実にそうしていた。今は、あまりにも自分で作った枠にはめ込んでしまったかな、ぼちぼちもう1回考えないといかんなと思ってるのやけど。
自分でうまいこといったと思う形があんねん。人がどう思おうと。そうすると知らん間にね、次に作った作品にも(その形を)また使うねん。それでね、それをやめる方法を見つけてん。やめる方法はね、また最初の作品を作るねん。そうすると、今自分の作りたい作品の形が見えてくる。これも、もがいた結果かな。

菊川:自分の作品を、もう一度作り直すと。

宮永:うん。そうするとね、「しまった。こんなの作りたいのとは違う」ということが、不思議とわかるねん。それで、自分の作りたいのは何だろうと考える。ここのところ20年ほどは大体、同じようなやり方をしてるけど、どう言うたらいいのかな、作品も人生と一緒で、作品も自分で壁に当たってもとへ戻った時点で「ああ、こうだ」というのがわかったときに、わりかた自分でテーマづけがはっきりしてくるねん。人から「窮屈な仕事やな」と言われるときがあるけどね。

菊川:そうですか。作品の詳しいお話については後でお聞かせいただいてもよろしいですか。一度休憩を入れましょうか。

(休憩)

菊川:では、続けてご質問をさせていただきたいと思います。先ほど、走泥社にお入りになったお話をお聞きしたんですけれども、当時の大学では、例えば陶磁器専攻で清水九兵衞さんもお勤めでいらっしゃったと思うんです。清水さんも陶芸家としてご活動されながら彫刻作品を作っていかれるようになったわけですけれど、そういったご活動や、八木一夫さんとの違いというのを、どのようにご覧になってたのかなと思いまして、少しお伺いできればと思います。

宮永:(時期が)ずれてるねんけどね。九兵衞さんとは学校での接点もなくよく知らなかった。彼が外国にいるときぐらいやと思うねん。それであの人、学校へ戻ってきてすぐにもう辞めてるからね(注:清水九兵衞は1971年に退職、後任は八木一夫)。私もちょっと、その辺はあんまりようわからんねん。
個人的に、九兵衞さんはやっぱり六兵衞家の(製陶)家になる素質とは違うと思うねん。あの人は本人さんがどこまでわかってはったかどうかは別として、学生時代に扱った鋳物の素材に対しての感覚をずっと持っていて、土にもそれを持ち込んでデザインや意匠に力を入れていた。あの頃の清水家の家風と、ご養子さんとしての陶器屋の仕事とは全然かみ合うところがない。だから、鋳物よりも終い(晩年)の紙やクリスタルガラスが、清水さんが自由に駆使できた素材になるのかな。デザインの思考の方で物を作ろうとしすぎて、造形の素材にも必要以上に神経を使われるので、多分作るのが嫌になったんやと思うわ。もし(清水)家の者やったら、それがある程度見聞きで身についているもんやけれども、やっぱり東京藝大からあそこにご養子さんに来るもんやから。晩年のあの紙の仕事の方がのびのびしてるというふうに私は思う。学校へ何で来はったんか、私は事情も知らんけれども、清水さんにとってええことやったんかな。もっと自由にできると思ってはったのかもわからんけど。それから陶器の作品の場合、どう言ったらいいのかな、わりとパターン化されてるデザインの形だと、私らには見えていた。後の方が、自由にやってはった。それで、紙の作品は自分でも「楽しい」と言うとった。「土は嫌やった」と言っていたのは、そのところを指しているのかな。

菊川:そうですか。やはり窯元として名前を継いでいく立場にありながら、彫刻的なものを作るということで悩まれていたのですね。
例えば、宮永先生も60年代後半から70年代に入る頃に、こういった幾何学的な形態の作品へと変わっていかれると思うんです。そういった作風の変化は大学に戻られたり、土を追求するという過程で、新しくテーマになっていったものなんですか。

宮永:うん。でも「やっぱり形やな」と思った。要するに、人間が考えて美しいと思う形というのは、やっぱり幾何学的な形なんと違うかなと。嫌みをたらたらと言われたりもしたし、自分でも思ったけど、どう言うたらいいか…… 作品ができていくねんね(笑)。できていくということに、ものすごい抵抗を感じて、「どうも違うのかな。もっと考えなあかんのか」と思った。辻先生がよく言っていた、最後は無心になれたかどうかや。
堀内先生は「君は馬鹿だね」と言った。「よくぬかしやがったな」と思ってたけど、「そうやわ。馬鹿やったやな」という感じを受けて、「ああ、堀内先生が言ってたこと合ってるのかもわからんわ」と思ったわ。

菊川:この頃は彫刻の方でも、プライマリー・ストラクチャーズとか、幾何学形態が盛り上がった時期でもありますよね。一方で、宇部市や須磨離宮の野外彫刻展など、どんどん作品が巨大化していく時代だったと思うんです。

宮永:うん、そういう作品が多く生まれた。ものすごい時代や。宇部や須磨への出品は、このような状態ではあかんと思って出品を諦めた。

菊川:それに反して、宮永先生はやきものの世界で形を追求していくように切りかわっていくところが、すごくおもしろいなと思ったんですね。彫刻科にお勤めだったので、美術の状況をよくわかってらっしゃったと思うんですけど。

宮永:そうや。学生なんかとその頃は付き合ってるわけやから。で、『美術手帖』なんかを持っている若い学生どもが、いっぱい言いよるわな。皆、そっち側に行きたい。「そういうのは、どうして勉強したらいいか指導してくれ」とか。でも、「わしに言っても、わかるかい」って。本当にわからないぐらい、ほんまに次から次へと新しい動向が大阪万博のときにもの派も含めて、がばっと出てくる。本当に身の危険を感じるっていうか、どっちへ自分を置いていけばいいのか。当時は自分の考えもわからず、もがいた時期やった。

菊川:大学でも学生運動はやはり盛んでしたか。

宮永:うん。ものすごく盛んではないけどやっとったな。学生運動をやっとったとき梅原(猛)先生が学長をやっとったわ。

菊川:そうですか。そういった学生の熱気と作品の巨大化も連動していた。

宮永:そう、学生の方が熱気があった。だから辻先生なんか、あのときにがくんときた(注:落ち込んだ)のと違うか。あの頃から、全く彫刻制作に手を出さないようになったもんね。

菊川:堀内先生も1974年に退職されるので、お二人の時代がやはり70年を境に終わっていくというところなんでしょうね。
作品の話に戻りますが、やきものとして形を追求されていくなかで、青磁や白磁で作品を作っていかれたり、また80年代になりますと陶彫の作品でも、幾何学形態の展開図を使って、型を作るような仕事に入っていかれます。形の追求の中で、伝統的な陶芸の技法をたくさん試されたり、やきものの制約をより作品につけ加えていかれることになると思うんですけども、そういった背景について少しお伺いできればと思うんですが。

宮永:でき上がっていくもんは、古い形でなくても、その形を作る手法、技術とかというもんは、なるべく「どないしてこのような形をやりよったのやろう。きっとこれは何か特別な方法でやりよったはずや」と(思ってほしい)。それを極めてみたい。型紙を使ってからの作風だと、技法的にはできんことはないやろうと。まずできるだろうと考えて、物事をどうしたらできるんかと展開図を考えた。「そんなもん、コンピューターにかけたら、角度を測る必要あらへん」って言う人もいて、子供らにも「お父さん、計算したろうか」って言われるけど、「要らん」って言うねん。結局、「何度にして、こっちは何度にして、測るとこっちの角度が何度になる」という、それを考えるのがだんだん楽しくなっていく。そやからね、時間がかかってくるねん、あの一点一点が。だから仕上がる作品が可愛くなっていく。
変な言い方やけど、大長君なんかにちょっと言うのは恥ずかしいけどな。私、いつも一番腹が立つのは、陶器の作品に対してね、「1週間で1個ぐらい作ってはりますか」って言われることが多いねん。大体、私の場合は一つに1カ月ほどかかるねん。そやけどそれは何も、長いことかかってるからええというわけでもないねん。だけどやってること自体は、その形を考える時間の方がよっぽど、土を触ってるより楽しいことは楽しいねん。「この三角がこっちの三角と、こういうふうに曲がってくるようなのはどないしたらええねんやろう」と思ってやってて。やっていったのを実際上置いて作って、最後の方になってきて、イメージしてる形になったときは嬉しいし、「ほれ見ろ、できるやないか」と(笑)。

大長・菊川:(笑)

宮永:私ね、堀内先生の言うこと、学生時分はほんまにわからへんかった。このごろはよくわかるねん、そういう意味でね。あの人の「君は馬鹿だね」って言うのは、口癖の一つでもあるんやけど、あれはあの先生の他人に対する本心でもあるねん。あの人は中傷ばかりしてるとこがある。「こんなもんもわからないのか。君は馬鹿だね」って言う。「なんでそんな形に変わるのか、そんなもんわからん」って言ってたんやけど、確かにこのごろ何回かやってると、一つの法則みたいなのもあるねん。どれにでも。

菊川:幾何学の法則。

宮永:そうそう。展開図を作っていくのにね、順番の起点をね、どっちに置いていくかによって変わってくるねん。で、同じ形を作ってもね、こういう形があって、起点をここに置くのとここに置くのとで全く(違う)。やってると、同じ寸法をとっても変わってくることがわかるねん。あんなの紙に描いてるだけやったらわからへん。それが、板紙というのは、ありがたいことに紙やから、切ってまた反故にして足らなかったらテープで貼って引っつけたら直せるし。というので、今、自分にとって板紙というのはものすごい重宝している。 

菊川:紙で形が決まってくということですね。

宮永:うん、紙から。紙で形が決まってくということは、「やきものとは違うのとちがうか」と言う人もいるかもわからんけれども、私は別にそんなのどっちでもええと思ってるのやし、陶器で作る形として、気持ちええか、気持ち悪いか。美しいか、美しくないかよりもね。極端に言うたら、「あんた、どっちとります?」言われたら、「気持ちええのがええな」と言う。

菊川:幾何学形態の陶芸作品というのは、これまであまり見たことない斬新なものだったと思うんです。一方で形は変わってますけど、型を使うのはやきものの技法としてずっとあるものですよね。型作りの現代的な読み直しともいえるのかなと思ったんですけれど。

宮永:そんなに大それたことと違うねん。要するに面倒臭いってことや。セーブル式の割形というのは手順がいくつもあるから。

大長:手法はかなりね、面倒臭いですね。

宮永:そう。この面倒臭さは、もうかなわんと。それで何かこれにかわる、もっと自分の形の求めてるものと作り方の技法とが、何とかうまいこと結びつかんかと。だから、いろいろな技法や耐性のベニヤでやったりしたけど…… やっぱりね、展開図を作ってばらして、また形を直すのにテープで貼ったり足してたりしながらやってるねんけど、それが楽しいということが最初からわかったわけじゃないねん。思わぬ面白い形が表せたりすると、本当に自分で考えたのかと嬉しくなる。

菊川:きちっとした幾何学的な形を陶芸で作るのはすごく難しいと思うんですね。焼成の偶然性もありますし。それでもやきものという手段にこだわったのは、技術の追求ということなんでしょうか。

宮永:いや、それは皆の考え過ぎで、要にとり過ぎやねん。結局それしか、今までやってきた中から…… そうだな、一つは怠慢なんやな。興味を持たなかったということやな、それ以外の素材に対して。

菊川:土以外の素材に。

宮永:うん。それと、やっぱりね、親から言われてた家業の陶器屋ということが、これが頭の底に(あった)。
やっぱりね、私にとっての辻晉堂先生と堀内先生、八木一夫さんは制作の上で重しでもあるしね。八木さんはちょっと違うんやけど、足を引っ張っとるのも3人やし、上から重しとして乗るのも3人やねん。で、堀内先生は直接、それに関しては言ってへんけど、辻先生は口に出して言ってるわけやねん。八木一夫さんは最初に茶化したように「わては茶碗屋で、茶碗屋が作るやきものの造形です」と周りに公言して、枕言葉みたいに言ってる。あれは本心やと思うんや。本心でないような言い方で使ってるけども、あれはあの人の完全なる本心やと私は思うねん。最初から見てて、それと長い間の付き合いの中から見ても、ずっと作風を見ても、そうやと思う。確かに、陶器というやきもののうえに、立体造形という形にした。
ただその一方、辻先生は…… 辻先生と私が陶器に入っていく、「現代の陶芸 アメリカ、カナダ、メキシコと日本」展のとき、私と辻先生とはセットやねん。知ってる?

大長:いいえ。

宮永:あれはセットやねん、近美側にしたら。当時の京近美の学芸員の頭には、何はともあれ辻先生に大型の陶彫を発表して欲しいという考えがあった。辻先生は断っとったんや。「そんなもん、陶器の展覧会に出すのは嫌だ」と言って。はっきりと「私は茶碗屋と違うさかいに、一緒にせんといてくれ。私のは彫刻家としての彫刻なんやから」と。まあまあ、それを近美の学芸員が説得して出品した。
確かに両方とも言葉だけやったら大変わかりやすいねん。ところが、実際上の作品を並べてみて、「どれを指して彫刻と呼ぶか」「どれを指して茶碗屋が作った造形と呼ぶか」というのは、どこがどうなんやろうとなる。具体的にイメージとして「こんなん茶碗屋しか考えへんで」とか「茶碗屋の考えることやで」とか。茶碗屋はわりかた、古い写しをやるのを、何にも悪いことやと思わん。問題とも思わん。だけど、彫刻家は人のものを写して自分の作風として出すことは、まず絶対にしない。そういうふうなことでしか、わからん。
わかってることもあるけど、実際上、自分の作品を「あんたはそこを一体どう考える?」と言われたときに、どう答えたらいいのかというのは、私は今までのところまだ…… 答えが見つからんかもわからんけれども、何か近づいてみる方法がないのかなと。
九兵衞さんみたいな、土から金属へ行って、金属から紙へ行ってという手順の中でのあの言い方。あれははっきりとした彫刻家の言い方であって、彫刻家へ行く道でああなっていく。あれはうまいよ。「そうやな」というふうによく理解できるわけやけどね。ああいう境地にはなれへんねえ。清水さんの話の中で「ああ、この人はこうやから、そう思いよったんや」と思う節は何回かあるけどね。自分に当てはめた場合は、わからん。ここまで来た中で、それを考えられてよかったなとは思ってはいるけど。生きとる者やったら、何ぼでも言えるんやけどね。

菊川:八木一夫さんを含め走泥社のメンバーの皆さんで、そういったことを議論されたりはないですか。

宮永:ない、ない。私が入会してから展覧会の出品、不出品の話は何回かあったが、やきものの造形についての話はなかったな。八木さんのメッセージがあまりにも強かったから。

菊川:そうなんですか。

宮永:なかったのと、もう一つ悪いのはね、走泥社での議論もいつの時代も八木さん個人の議論になってしまって、同人の意見というものが反映されにくかった。悪いっていうのか、何かな。結局、議論のないのもそうやし、土で作る造形というものの持ってる狡さが…… それはわかってるねん。狡さがあるねん、ものすごい。これは気がつかんかもわからんけどね、まず器に転用できるということ。土というのは素材の時は作り手は自由になるが、焼成された作品になると頑として自己主張し、動かない形になる。八木さんの言う「壺の口を閉じる」というのと反対に、なぜ造形の作品に口を開けるかということ。もうあれは自然なものやと、誰に聞いたってまともに答えてるのを聞いたことない。そやけど口がついてるという造形、これは不断に目にする事象や。だけどそれに対して誰も何にも言わへんし、反対のことも言わん。だけど、それはやっぱり説明をできるように考えないかんのと違うかなと思う。答えにならんかもわからんけど、そういうふうに自分は思う。今のやきものの大きな問題の一つで、土の素材も含めて考えるべきだと思う。

菊川:もう少し時代が下ってきますと、70年代後半から80年代にはクレイ・ワークという言葉が陶彫の世界では流行し出しますよね。壺であるとか口をつけるというだけではなく、陶彫としての幅広い表現が一気に流行していくわけですけど、こういった動向については、どのようにご覧になっていらっしゃったんでしょうか。

宮永:クレイ・ワークという言葉は便利がええさかいに、クレイ・ワークという言葉を使う、皆が。便宜的にものすごく使うようになった。うーん、その壺の口と全く同じことで…… 例えば、誰か一人、Aさんという人のやつをちょっと見て、「おもしろいな」と思ったら、Bさんはそういう感覚で作ってみたいと思う。どうも70年以降の多くの作家の多くの作品、どう言うたらいいのかな。階段も上がってへん。ほとんど段差のない階段みたいな作品で、一見は幅が広がって多彩な造形が出てきたように思うけれども、見る者にはその作者が見えへんというか。私は最近つくづく、80年ぐらいからの作風の多くを見ていて(思う)。伝統工芸みたいに、美術的なものでずっとやっていたらいいで。そうではなくて、いわゆる造形としてのクレイ・ワークといってやってるものでも、作品は見えても、その作家が見えへんという感じ。それはね、走泥社が相対的にあれ以上の評価が得られへんのも、熊はん(熊倉順吉)も含めての、あの四人以外の走泥社の同人がはっきり見えへんということと同じやねん。あれだけメンバーがいてるのに。それぞれの作家が見えたら、もっとおもしろい団体になったはずやし、それかもっと早くに潰れてやめてたら、後の半分ぐらいの作品で終わってたら…… 私も含め同人の多くが土という素材に幅を持たせたら、もう少し変わった方に向いたかもね。

大長:それぞれの評価が変わるかもしれませんね。

宮永:評価が変わってくるということな。自分がいててこんな発言をするのは無責任なようやけど、そう思う。

大長:そういう中で、ちょっと話がずれるかもしれないんですけど、例えば、クレイ・ワークって言い出したのは乾先生ですよね。言い出して、そのもののスタイルを作っていきましたよね。

宮永:うん、そういうことになってる。

大長:その中で、乾先生が走泥社を見直して、その評価づけというか、価値づけをしていったと思うんですね。八木さんだったり、《ザムザ氏の散歩》というのを神話的に評価し価値を置いていった。その価値の置き方というのは、僕はちょっと、その当時というか、やきものが元気だった時代においてはよかったのかもしれませんけれども、今、見直したときにですね、「こういう評価でよかったのかな」というのをちょっと持ってはいるんです。

宮永:それを持ってる人は、少なからずいる。あれは乾さんの作り出した一つのお話で、八木一夫論が成り立つために、《ザムザ氏》の作品をああいう形に置いて、クレイ・ワークという筋道を作り出した。それが定説のようになって、教科書のテキストみたいな感じで、皆、読んでしまっている。それに対しての疑問を誰も挟まなかった責任がある。乾先生のクレイ・ワークの神話が成立するまでの土の造形作品としては、最初に話をした生け花との関係で論じられていて、「オブジェ焼き」なる造語もできた。私の学生時分はそういう風潮が強かった。時に走泥社の同人が《ザムザ氏》の作品をなんの批判もなく神話化したことには、一度立ち止まり検証する責任があったかと思う。同じ土の材質を使ったいろいろな造形について、その後論ぜられる機会を失った。

大長:(責任)はありますよね。

宮永:乾さんがクレイ・ワークと言って以来、今までクレイ・ワークに対して、どういう見方も、何もしなかった。もしくは、金子(賢治)さんみたいに現代陶芸を見る見方。この二つで大体、現代のやきものというものの造形を見てしまった。こう言うたら言い過ぎかもわからんけど、まあまあ、私らから見てるとそういうことに見えるわね。そうすると、やっぱりそこに対するプラスαになるのか、マイナスαになるのかはわからんにしても、いるわけやと思う、私は。それに対しては、言わなさ過ぎたという責任は、皆にも私らも含めて持たないかんと思うし。それで私は、自分の作品だけでなしに、自分に関わった周りのことに関しては、なるべく自分なりの答えで物を見たいなと。私は自分の答えで「だから、そうなんだよ」というところをなんとか見つけたい。私の場合は「やきもの」と「彫刻」を土という素材でどう表現するかを今まで考えて発表してきたが、「土の造形」と「土による彫刻」という問題は背を分けて考える必要もあるかと思う。

菊川:やはり宮永先生のように、本当に陶芸と彫刻の間でご自身の居場所を探しながら、作品を展開された方だからこそ、そういった批評的な見方ができているのかなと。

宮永:それは確かに自分の身を置いた立場もあるし、付き合った辻先生、堀内先生の、ある意味では、薫陶なんやろうな。「そういうふうにして見ろ」と。大長君が言ってる、八木一夫論の説明の中で、辻先生の方は考え方と作風が変わっていくということは、確かにはっきりしてるねん。今こういう場で話が出てきたさかいに、言ってしまったら、八木さんは違うねん。八木さんはやっぱり、茶碗屋さんのやきものの造形。クレイ・ワークというところへ行ってくるわけやと思うねん、私は。そうでないと間尺に合わんし、言ってることと作ってる作風とを並べて見るとそう思う。だから、八木さんは人の作品のいいとこどりを簡単にやっても、彼は作家としてのイメージに傷がつくことでも何でもないねん。ところが、辻晉堂先生にとったら、それは大変傷のつくことなんや。そこが確かに違うねん。
大長君に対して答えになってるかどうかはわからんにしても、その出発時点のところで、乾さんは初めから八木さんに対してものすごく好意的だった。

大長:そうですね。

宮永:そこから話を出発してると思う。私はそれを言うたことあるのや、乾さんに。八木さんは五条坂でやっていた以上、そういうことに対して――作家としての恥というのかどう言ったらいいのか――思っていないと。

大長:そうですね。何か作る上での出発点が本当に、八木さんも含めて、情緒的なところでやきものとか土を捉えてるような気がするんですね。で、よく言葉の中で、生理的な繋がりとかで捉えているので、そのコンセプトとかを重視するんじゃなくて、それはもうよそからいくらでも借りてきていい。土と自分の繋がりさえ保てれば、それはそれでよしというふうにしてると思うんです。それが、先ほどクレイ・ワークの中でもそうですけれども、作風の螺旋状への展開があまり見られないというような言い方をされました。それは皆結局、乾先生が情緒的なところをよしとして、それでクレイ・ワークも組み立ててしまって、その中に入ってくる人たちが、作り手とその素材との情緒的な繋がりだけで物を作ってきたような気がするんです。もうそこから離れられないっていうのか。それがちょっと、結果として見たときに、どうだったのかなという気もしてて。なので、そういう中で宮永先生がクレイ・ワークの枠組みでも一応紹介をされていると、先生からはどう見えてたのかなというのが、ちょっと興味もあったとこなんですけどね。

宮永:あんたが言ってるように、クレイ・ワークというなかで仕事を続けるよりも、土を素材とした彫刻に眼を向けた方がよいのではないかと、悩んでいたといえば悩んでたということになる。私はそうだからといって回答を見つけたわけじゃないよ。見つけたわけではないけど、どう見ても、そういうふうに考えられるし、実際上、八木さんの作風を見た場合、それは明らかにそう見える。
この間の清水さんと八木さんの展覧会を見たとき、「これはあまりにも清水九兵衞さんはかわいそうや。一緒にする展覧会ではない」という感想だった(注:「八木一夫と清水九兵衞 陶芸と彫刻のあいだで」菊池寛実記念智美術館、2017年)。そこがもう全く違うんだから。そこを全部優位に持って展開していくのが、いわゆる八木一夫の造形であった。清水さんは、そこを何とか切り抜けようとするけれども、かえってその深みというか毒を飲んでしまって、とてもじゃないけど自分はそういう道では生きられん、だから他の道を探した。私なら「同じ会場でああいう並べ方で展覧会されたら、たまらんで」と思った。(清水さんの)紙の作品をもっと増やしたり、会場構成によっては随分変わってくると思うよ。確かに興味はそそる、その二人のそういうところは。皆どう思ったんか知らんけど、私はその展覧会を見て「ああ、なるほど」と感じたけど、私としてはこの場景はとてもじゃないけど、受け入れられないと思った。
だからね、八木さんのリップサービスをどこまで聞き手が本気で受けるかということや。それでいて、結構、ほんまのこと言ってんのやから。ところが、それを書き手の方が自分の都合のええ方に聞いたさかいに。そやからね、私は八木さんが嘘をついてるとか言ってるわけじゃない。神話って言ってもいいんやろうな。神話が神話を生んだ。だからクレイ・ワークという言葉以降は、これからのやきものというものに対してあんまりええ影響は見えんのじゃないのかなと。「どうしたらよろしいか」と言われたら困るけど。

菊川:作品が増えるとともに、八木一夫神話にしてもいろんな角度から批評や言説が増えると、また一つ進めるのかもしれませんね。そういった局面に差しかかってるのかもしれません。

大長:うん。来てるんじゃないかな。

宮永:差しかかってるやろうと思うよ。私が見てる限りで、そんなに独断できへんけどね。特に、彫刻はもう長い間見たことがないように思う。

菊川:展覧会は見に行かれないですか。

宮永:違う。展覧会そのものがありますかというの。私自身は考えなければならん問題はまだまだたくさんあるのに、考える展覧会が少なすぎる。

菊川:一つ、質問させていただいてよろしいですか。時代が下るんですけれども、1999年に宮永東山というお名前を三代目として襲名されます。お爺様以来の東山窯に流れる美意識のようなものを、やはりご自身の作品にも意識されるようになりましたか。

宮永:ううん、それはない。

菊川:例えばこういった幾何学的な作品でも、青磁を使っておられたりもしますけど、ご自身の窯の意識というのは作品には反映されてないと。

宮永:それはないねんけどね。親との葛藤の中ですまなかったという詫びの気持ちが50%以上ある。このような最後ではしっくりこないし、自分なりの勉強の仕方にももうちょっと締めくくりが欲しいなぁ。

大長:そうですか。

宮永:ほんまやで。笑うてるけど(笑)。それはあるねん。これはうちの家だけの事情にもよるんやけれども、やきものの「や」の字も知らん人(初代宮永東山)がやりだして、やってきた。確かにね、勉強はよくしたなと思うねん。そして、早く言えば人の集め方や使い方がうまかったわけや。はっきりそう思うねん、さっきの話で。そうしてきた人の子供で、やっぱり土を素材にして作っていく以上は、作品は同じものを作る必要もないし、私がしないとならん理由もない。だから、そんなことはしない。せえへんけれども、一応、自分の血縁がある以上は、名前を知らしめといてやってやろうと。だから、工場を再興して、職人を集めてということはもうしたいとも思わんし、やったような仕事をもう一遍自分でやってみようかという気持ちもない。今のままでええし、そして、もし子供が「名前を継いどこうか。継いだ方が便利がええな」と思うんやったら、便利宜的に使えばよし。別に「要らん」と思えば、もうそこでやめればよし。
うちのお爺さんは、そういう点でわりかた厳しいとこもあったし、私も確かに工場を経営する葛藤もあったから、それに対する負い目は50%ぐらいは感じてるわな。うちの家業をちょっと放ったらかして、学校に行ってみたりね。だけど、仕事の上では全くそう思う。うちの(息子の)甲太郎にしたって、「継がん」と言われたら「別に継がんでもええよ」と放ってしまったらええし、また孫が「継ぐわ」と言ってもええしと。あんなの別に戸籍の上でも何でもないさかいな。戸籍があると厄介やけど。

菊川:襲名というものはどういうものなのか、外部の人間からするとわかりにくいところもあるんですけど。おうちによっても違うと思うんですけど。

宮永:うん。それぞれ違うと思う。うちなんか親父が死んでからは放ってあったんやから。相続も人も全部放ってて。だからその辺は大変無責任なようやけど、それなりの罪悪感が働いてることは確か。三代か四代か後に、「おたく、何してはりますねん」って聞かれたら、誰かが「陶器やってます」って言ってくれたらありがたいなと思う程度の気持ちやろうな。そのためには、名前というものを継いどけば、便利はええやろうという、大変功利的な面ももう一方であり。正直言うたら、ほんまにそういう状況やわ。

菊川:襲名したすぐ翌年に工房を閉鎖されて、今では東山窯のアーカイブや研究の方に注力されて。

宮永:今はな。職人の離職と登り窯の廃止で、東山窯の顧客に「これが製品ですよ」という商品を届けられなくなった。幸い家には創業時からの見本品も多く残っていたので散逸しないうちに整理して盛時の京焼の姿を少しでも残したいと思っている。

菊川:お仕事や資料からご協力されていると思うんですけども。やはり近代の京焼をどのように残していくか、ということについてお考えですか。

宮永:うん。それはしたいと思う。そやけどね、美術品としてのやきものの資料はまだあるけど、京焼としてのやきものの資料はない。これはなかなか大変やわ。大変でなかなか一人でする仕事と違うから。それは、大長君の京近美でも、これからどうするか…… 資料が少ないかもわからんとわかってでも、何かで残すということは、私は大事なことやと思うし、しょうもない話でも皆が「そういうことは何も恥ずかしいことやないよ」と。だから今思うと、続いてること自体がええ場合もあるし、悪い場合もある。それは、その立ち位置もあるし。やっぱり知ってる限りは言うといた方がいい。現実になくなるから。

菊川:そうですね。本当に大事なご活動をされてると思います。

宮永:いやいや、そうでもないけど……。まあ我々、元へ戻っていくわけやないからね。前へ前へ行くんやからね、実際上。今話せることを、後世に残せるよう整理するのも一つの仕事だなと考えている。

菊川:そうですね。こういった機材なんかも手軽に買えるようになったのも、本当に3、4年前だという。

宮永:そうやろう。世の中が、こんなによって全部左右されてくるぐらいになってくんねやから。

大長:そうですね。

宮永:うん。そんなん、私ら、想像もできへんだし。

菊川:でも、そういった技術の変化があったからこそ、いろんな形で記録を残せるということもあるかと思います。あとですね、先生のお子様の甲太郎さんや愛子さんも、皆さん作品を作られていらっしゃいますけども、ご家族の存在は、やはり先生の作家活動や現在の資料を残すご活動にも影響を与えてこられたのじゃないかなと思うんですが。

宮永:私が子供からどうのこうのはないけど。甲太郎はあんまりそういうことはないけど、愛子はどうもあったらしいな。彼女が書いてることを見ると時々そういうことを書いてるから、そうかな。そういうたら、そういうふうな教育したのか。愛子なんて三つのときから、君ら(学芸員)に「愛ちゃん、愛ちゃん」と言われて。展覧会にはよく連れて行ったからね。

菊川:お二人は幅広い現代美術の世界でご活躍されて。やはり先生を見ながら制作もされてたと思うんですけれども。

宮永:向こうがこっちを見てるけど、私は向こうのを見たことないで。

菊川:お互いに作品の話をされたりすることは、あまりないですか。

宮永:あんまりない。小さいときはしたけどね、ほんまに小さいとき。そうやね、美術学校に行きよるようになってからは、したことないね。

菊川:先生が作品を見に行かれることもあまりないですか。

宮永:展覧会は見に行って批評はするよ。ぼろかす言ってる、大概(笑)。ぼろかすに言って、帰るけどさ。

大長・菊川:(笑)。

宮永:うん。皆必ず見に行くし、必ず行って批評もする。するけど、作風の話とか、今言ってるような美術のそういうことはない。家の資料整理の手伝いはやってくれるけどね。私は子供に型紙を切ってほしいとか、そんなんは絶対頼みもせえへん。もったいない。こっちの楽しみを人にやらして教えることはない(笑)。甲太郎はそうでもないけど、愛子は確かにね、三つぐらいからよく展覧会に連れていってたからね。「親が展覧会でどうのこうの言うた」とかいう話を書いとるから、「こいつ、こう思っとったんか」と思うことはあるけど。

菊川:そうですか。最後の質問になりますけれども、こういった長きにわたる美術、あるいは工芸との関わりの中で、先生が一番大事にしてこられたことというのは、どういったことになりますでしょうか。少し答えにくい質問かもしれませんけど。

宮永:一番大事にしてきたことっていうたら、やっぱり、辻先生と堀内先生との存在やったやろうな。最初から畏敬の念を持っていたわけではないが、両先生と接する機会が多くなり、学ぶことが多くなった。ああいうのは、合うか、合わんかなんやろうね。だから、私が20代の60年代なんかに、辻先生とどっか行って大長君と会うとするやろう? 「この人をお弟子さんなんですね」と大長君が言ったとするよ。そしたら烈火のごとく即座に「弟子じゃないよ、彼は」って言う。「彼は私の大学のときの教え子なんだ」と。絶対にあの人はね、そういうとこは曲げない。死ぬまでそう言ってたね、どこに行っても。

大長:それは、やっぱり一人の作家として見てるってことですね。

宮永:うん、そうよ。そういうことや。作家として紹介するよということ。それと「私はプロや。プロを騙そうというような、不逞な心を起こすな」って言ってね(笑)。「ムーアのあの彫刻とよう似てますな」と言ったりすると、「馬鹿。おまえ、俺はプロの作家だ。何だ、おまえと一緒にするな」と。

大長・菊川:(笑)

宮永:さっきの話やないけども、皆が言ってるこの話は風聞の方に近いと。実はそういうのと違う所から来てる人の繋がりや。やっぱり歳がいったせいかな。風聞の方ということを、わりかたまず疑いの目でもって見る。「そんなはずないやろう」とか「それはちょっとおかしいの違う」とか。そうすると「あれっ」と思って、「そういうたら、この人こんな人の話をしてたな。私が聞いた話でいうと、会った順番が逆やないか」ということを思い出す。歳がいってくると、何かわかるね。それは長生きしていく功徳かもわからんなと、この頃思っている。さっきの八木一夫もそうやねん、結局。幅がちょっと広く見えてくるねん。学校の話でも、やっぱり辻先生と堀内先生のあの教育だけを皆が善とするさかいに、さっきの乾さんのようなことになるねん。京都市立芸大の彫刻科の立体造形のあのカリキュラム・システムというのは、確かにあんなもんよく考えてえらいもんやと思うわ。それを二人が任期中、あそこまで守っていった。ただそれを全部、善としてるわけやろう。カリキュラムの発表後、この意見に反対する考えに接することはなかったな。

大長:そうですね。批判的には見てないですもんね、そういう行為をね。

宮永:うん。あれを批判的に見たらよかったんや。

菊川:そういった仕事も今からですね。

宮永:そうや、今から。このごろはあんまり言わへんさかいに、もう害は全然あらへんけど。あんなもんと言ったら悪いけど、ある意味じゃ害になってしまうさかいな。

菊川:そうですね。カリキュラムに対する批判や八木神話に対する批判も、次の段階に向かいつつあるのかなと思います。

宮永:向かいつつあるんやろう。

菊川:質問はこちらで以上になるんですけれども、インタビューの中で言い残したことはございますか。

宮永:別にない。いろんなことしゃべったから忘れてしまう。作品の話をしても仕方ないしね。

大長:そんなことないです。

菊川:とても貴重なお話をお聞かせいただいて勉強になりました。本当にどうもありがとうございました。

宮永:いえいえ。いや、客観的な話したって、作品の話したってな、そんなもん。ほんまに楽しみの滓をやって、皆にこう言ってもらえるだけありがたいと思ってなあかんのやから。ありがとう。

大長:ありがとうございました。