白川昌生 オーラル・ヒストリー 第3回

2010年9月30日

於白川昌生アトリエ
インタヴュアー:福住廉、鷲田めるろ
書き起こし:齋藤雅宏
公開日:2013年8月19日
更新日:2018年6月7日

白川:1985年からだと思うんですけども、山口市にシマダギャラリーという現代アートだけを扱う画廊が出来て(注:1984年、ギャラリー・シマダ・ヤマグチ、山口市に開設)。

鷲田:ギャラリー・シマダ。

白川:そうです。そこで展覧会をやったんですね。

鷲田:1985年ですか。

白川:僕の展覧会は1985年ですね。嶋田(日出夫)君は、デュッセルドルフの時に知っていて、彼は(ゲルハルト・)リヒター(Gerhard Richter)のクラスにいたのかな。ドイツではあまり付き合いは無かったんですが、日本に戻って来てから、彼も日本に戻って来て、嶋田さんの方は山口の実家に帰って、僕は群馬の方に来て活動してました。彼から連絡がきて、うちで画廊を始めたから、展覧会してくれないかって言うんで、山口市に行って、付き合いが始まったんですよ。嶋田君は山口県では有名な嶋田工業というゼネコンの会社で、ある意味、群馬でアート支援をしていた井上工業みたいなもんですよ(注:1987年、嶋田建設工業株式会社からシマダ株式会社に社名変更。井上工業は、群馬県高崎市に本社を置く建設会社)。大きな土建会社で、そこの彼は御曹司なんですよね。親が会社をやっていたんだけども、彼は芸大を出ていて、最終的には会社の跡継ぎをしなきゃいけないので、作家活動はどこかの時点で辞めなきゃいけない、諦めなきゃいけないというのはあったと思うんですけども、奥さん(嶋田啓子)が同じアカデミーの時の学生だったんで、奥さんが主体的になって、現代アートの画廊を山口市内の民家を使って始めたんですよ。

鷲田:嶋田さんが日本に戻られたのは白川さんが戻られた後ですか。

白川:その後すぐですね。1983年の終わりくらいじゃないのかな。おそらくドイツにいる時から、嶋田さんは夫婦で画廊をしようという話を決めていたんじゃないかなと思いますね、おそらく。経済的には問題が無い家だったんで。画廊を運営して、僕も展覧会をやって。デュッセルドルフの時のアカデミーの繋がりで、彼らがデュッセルドルフの時代から付き合いがあって知っている作家、トマス・シュトゥルートとかどんどんやり始めて。あと、オランダの作家とか、いろいろ。フォーマルな感じの、コンセプトがクリアーで、非常にモダンな、汚れてない、きれいな感じの作品のものが多かったんですけど。もともと山口県は、日本画とか伝統もあって盛んなところですよね。それから宇部(注:宇部市現代日本彫刻展)もあったりしたんで。だから、アートについては、おそらく関心がある街だったと思う。それで、嶋田君が山口県内で初めて現代アートの画廊をつくって、もうちょっと積極的に、現代アートの状況を、周りの人に知らせていく、啓蒙活動みたいなことも始めたんですね。それに賛同するような意味で、山口大学の奥津(聖)先生、美学の先生だけども。ちょっと前に確か山口県のメディアアートセンターの…。

鷲田:YCAM(山口情報芸術センター)。

白川:そうそう。そこの顧問かなんかをしばらく、最初の立ち上げから手伝ってたと思うんですよ。その前なんですけども、奥津先生がドイツ美学が専門なんで、それでドイツの現代アートっていうことで、興味を持ってくれて、画廊によく来るようになって。それで、嶋田君たちの方も勉強会かなにか始めたと思うんです。現代アートについてのレクチャーとか、いろいろやって。いろんな作家を呼んだりして。一番彼らの中では、僕は、群馬の方に居たからあれだけども。かなり有名な作家、なんて言ったかな、ガラスの。

鷲田:ダン・グラハム。

白川:ダン・グラハム。彼を呼んで、公開のレクチャーをしたり、彼の作品を市内に設置したりして、現代アートを認知させていく活動を盛んにやり始めて。そのうち嶋田さんの方は、旦那さんが段々親の後継ぎをやらなきゃいけなくなって、奥さんが中心になっていき、東京の方にも画廊を出したいということで、確か青山の方にギャラリー・シマダを出して積極的な活動をやってましたね(注:渋谷区神宮前。2003年まで)。日本に当時のドイツの現代美術を紹介する窓口になっていったと思うんですよね。しかし結局僕の場合は、前に言った、《日本人ですか》みたいなシリーズを1980年の終わりに作り始めて。あの作品を作ってから関係がぱっとなくなっちゃった(笑)。やっぱり彼らはヨーロッパ的なクールなモダニズム的な作品が好きというか、あまりイデオロギーとか政治とかそういうような部分には興味がないところもあったので、それで関係が切れるというようなことがあったんです。

鷲田:1985年の展覧会は山口市でされたということですよね。

白川:そうです。山口市でやりました。このカタログもその後、2回目の個展、1988年かな。その後展覧会は2回くらいやったんですよね。あとケルンのアートフェアにギャラリーが店を出したので僕も出しました。(カタログの写真を指して)これがギャラリー・シマダのスペースなんです。個人住宅を改造して画廊スペースにしたんです。山口市の古い日本住宅を借りて。これ千葉さんが撮ったと思うんだよな、千葉成夫、写真を(笑)。いずれにしても80年代に、ドイツ系の現代アートを日本に紹介するという点では大きな力だったし。それから北九州、福岡、山口あの辺りで現代アートの情報を提供する窓口にもなったと思います。

鷲田:ワタリウムもドイツの作家を東京で紹介する役割を担っていたかと思うんですけども、そちらは全く接点はなかったんですか。

白川:全然。100パーセントなかったですね(笑)。ワタリウムさんの方はどちらかって言うとナム・ジュン・パイクの系列かな。僕がいた1980年代にはナム・ジュン・パイクはデュッセルドルフの教授になっていたので、ドイツ系の作家の窓口が、パイクを通じてあったと思うんですよ(注:1978年より、ナム・ジュン・パイクは、デュッセルドルフ芸術アカデミーで教鞭をとる。1978年、ギャルリー・ワタリで個展開催)。僕はワタリウムさんとは付き合いが無いので。嶋田さんのところの関係では、嶋田さんがその後ドイツからアメリカの方にシフトしていったりして。これもデュッセルドルフがらみだけれども、河原温。彼の方に近づいて、温さんの方からの流れでいろいろな作家に知り合ったりもしていったんですよ。僕もニューヨークに一度展覧会で行ったことがあるんで、その時は温さんにちょっとお世話になったりしましたね。

鷲田:ニューヨークはいつ頃ですか。

白川:ニューヨークは、1990年だったかな。ニューヨークのギャラリーイハラ、イハラさんっていう写真家が…。(カタログの写真を指して)これだ、割と大きなスペースなんだけども、これはニューヨークで作ったんですよ。これはイハラさんっていう写真家の人が、運営してた画廊なんですよ。イハラさんは確かずっと(河原)温さんの専属のカメラマンで、イハラさんが記録してたと思います。バブルが始まりかけていた時か、あるいはバブルがはじける前だったと思うんですよ。イハラさんは自分で画廊を始めて、韓国とかにもアートのビジネスチャンスを求めて動き出していたのですが、その後ポンとはじけちゃったんで画廊はやめたようです。

鷲田:イハラ・ルーデンス・ギャラリー(Ihara Ludens Gallery)。

白川:1990年だから、バブルがはじける直前の時ですよね。確かね、調子が良い時だったと思います。嶋田君のところの画廊もそれなりに作品がコレクターに売れていたと聞いています。

福住:山口のコレクターとは嶋田さんはお付き合いがあったんですか。

白川:山口のコレクターの話は聞いたことがないんだよね。結局それがあって、嶋田さんは東京に画廊を出したと思うんですよ。それはおそらく温さんのサジェスチョンというか、助言だったと思うんですよ。東京にシマダ・ギャラリーを置いて、確か一回目が温さんかなんかだと思うな。結局、温さんの関係のコレクターとつながって、作品を売っていく関係をつくっていくみたいな。シュトルートなんかもそうだけど、美術館に入れたりとか、割とちゃんとした公的なタイプの作品が動くように、東京で動いてたんだと思うんですよ。広島にいるコンセプチュアル・アートの結構大きなアートコレクターも出てきたりして、これは温さんの関係だと思います。それでビジネスが嶋田さんの所は回り始めたんじゃないかなと思うんですよ。でも、家賃が高かったりしたから、プラスマイナスで考えると、多少赤字で、そのうちバブルがはじけちゃって、会社としてはちょっとやってられない、みたいな話になって、東京のギャラリーは閉めちゃったんですよ。

福住:東京は銀座ですか。

白川:銀座じゃなくて、青山近辺だったと思いますよ。ああいうところのビルの一角を借りて。

鷲田:広島は佐藤(辰美)さんですか。大和ラヂエーターの。

白川:なんでも漢方薬の権威の人だと聞いていましたが。特にコンセプチュアル・アートを中心にコレクションしている人だということです。

鷲田:(ゲルハルト・)リヒターとかも。

白川:確かそうだと思います。そういうメインコレクターみたいな人たちに、温さんを通じて紹介されたりして、ビジネスが回り始めた頃に、バブルがはじけたんだと思うんですよ。でも、僕は《日本人ですか》みたいな作品を作り始めたから、全然そこの線からはポンと外れて(笑)。

福住:その頃は、それまでの白川さんのフォーマルな作品からちょっとはみ出るような時期だったんですか。

白川:はみ出るっていうか、ギャラリー・シマダでは、(カタログを指して)こういうのを作っていたんですよ。その後に、確かこの後だったと思ったな。1989年にハラ・アニュアルに選ばれて、これ出した時に僕はこの傾向の作品だけで満足出来なくて、こういうドローイングを描いたんだよ。日本の美術がどうとかこうとか、こんなんでいいのか、批判みたいなことをぐちゃぐちゃ。この時に僕の作品を見て、すごく意気投合というか、お互いの姿勢に何か分かるなあという風に話がうまく合ったのが宮前(正樹)君だった(注:宮前正樹は、白川が出品した1989年のハラ・アニュアルに出品)。それ以後、宮前君とは連絡取り合っていた。それでフォーマリズム的な表現をしている作家というカテゴリーから外れていく、僕はそこから出て行ったと判断されたようです。

鷲田:1989年。

白川:1989年、はい。だからね、問題を共有できる人が 周りにほとんどいなかったですよね。特に美術作家で、東京で付き合っていた作家の人からはほとんど拒絶されたから、フォーマリズム的な絵を描いて、評論家でもあった友人の松浦(寿夫)君とか、あとは川俣(正)関係の活動をしていたヒルサイドギャラリーの池田(修)君とか。あの辺はみんな何か、こう、「ん?白川君、どうなっちゃったの」、みたいな感じで。だから、なかなか難しかったなあ。嶋田さんのところの関係もなくなっちゃったし、発表する場所がモリス画廊一つになった感じですよね。モリス画廊の方でも僕の作品は全然売れないから、全然ビジネスにはならないけど、まあいいだろう、みたいな感じでやってたんですよ。ほとんど作品は売れない。

福住:モリスとの付き合いは古いんですか。

白川:日本に戻ってきて、東京で活動していくのに阿部(良雄)先生が声かけてくれて、すでに日本のダダの資料あつめの時に紹介されて知っている松浦(寿夫)君が飯塚さんを紹介してくれて。松浦君があの時確か、今無くなっちゃったけども、アート系の専門学校あったじゃないですか、品川の方に。TSAじゃない?飯塚(八朗)さんがやってて。斎藤義重とかが。

福住:ああ。TSAとか…。僕一回行ったことがある、なんだっけ。

白川:高校のそばにあった芸術専門学校ですね(注:TSA東京芸術専門学校。齋藤義重は校長、飯塚八朗は教頭。所在地は品川。1982年から1999年)。

福住:今、高校のあれになってますよね(注:朋優学院高校。2001年中延学園高校より改称)。

白川:そこの中に専門学校があったんですよ。そこに松浦君が講師で行ってたんだよ。それで、飯塚さんっていう、中心にやっている人、任されている人がいて、飯塚さんがモリス知ってて。それでモリス画廊紹介されたんです。斎藤義重とか中原佑介とかさ、みんな来ていた学校だよね(注:中原佑介は、1982年の開校時より「芸術論」の講義を担当)。Bゼミとはちょっと違う方向性で。その流れでモリスではやり始めるようになったんですよ(注:1985年、白川は、モリス・ギャラリーで初個展)。他にはね、僕は知り合いは誰もいなかったから。モリスさんの方は展覧会いいですよ、って言うんで。ずっと閉まるまで企画でやってもらって。

鷲田:無人駅のプラットホームでパフォーマンスを行う前にも、パフォーマンスはされてたんですか。

白川:はい、ドイツにいる時に何度もやってたので。しかし、日本に戻ってきてからは、ほとんどやるところが無かったし、やるチャンスも無かったし。そういうシチュエーションに置かれるようなことも全然無かったんですよね。ドイツでいろいろやってた時は、周りにいる人がパンクみたいな人とか、音楽やっている人、映像やっている人とか、コンピューターやっている人とか、コンピューターと身体運動を合わせて画像にするとか音楽にするとか、そういう、絵を描いたりする連中じゃないようなのがいっぱいいたから。割とナチュラルにパフォーマンスをやれたんだけど、日本に帰って来て群馬県の山の奥に行っちゃうと誰もそういう人に会わないし、東京に来ても、ほとんどそういう人に会わないんですよね。ダムタイプみたいな人に出会うようなチャンスは全然僕には無かったんですよ、本当に。

鷲田:ギャラリー・メールドの人と帰ってから、一緒に何かやったりは無かったんですか。

白川:無い、っていうか、小西君は、アートはもういいからやめる、みたいな感じでとっくにやめちゃったんで。他の人と連絡も取らなくなっちゃったから、ほとんどあの時に関わっていた人たちに。小西君が江古田にいて、僕がドイツにいたんだけど、小西君の江古田のところに出入りしていた、何人かの作家の人たちは作品を続けていったけども、小西君はやめちゃった。あの時付き合ってた連中で、剣持一夫とかね。そういう人は作品は続けていたけども、他はもう。

鷲田:パフォーマンスとかそういう感じではないということですね。

白川:そうです。そういう状況じゃなかったよなあ。日本の美術評論も僕は読んでも共感できないし、分かんなかったりしたのもあったから、前にこういうの(『日本現代美術序説』ギャラリー・メールド出版、1979年)自分で書いたりとか。自分で必要だと勝手に思った情報をなるべくメールドの方から発信したりもしたんだけども、日本の状況の中では、ほとんど海に石投げるみたいなもので、無視、関係ない、みたいな世界だから(笑)。阿部先生以外は、受け取ってくれる人は誰もいないわけで。

鷲田:無人駅を使っての活動は、「場所・群馬」からの流れで始まったということでしょうか。

白川:そうですね。1993年の時からの「場所・群馬」、つまり近代批判的な意味を持った流れがあると思うんですよ。それに場所の問題、自分が生活している場所でやるしかないなあっていうのがあったのと、ドイツではボイスもそうだったし、フランスのニースにいる友人のベン・ヴォーチェもそうだった。自分が生活している場からアートを始めていました。だから僕もそうしようと。さらにもう一つは、自分が勤めてたデザイン系学校が、倒産したみたいになっちゃったんで。

鷲田:1999年に一旦無くなったんですか。

白川:銀行管理下で学校は今でも続いているはずです。(駅から白川の自宅まで車で)通った時見えるでしょ。現在は20人くらいしか全学生いないんだけどもね。前は、僕は教室をアトリエに使っていたんですよ。空いていた教室が2つあって、そこに作品を全部、結構大きな立体作品。(作品集を見ながら)日本に戻ってきて、作っていた大型の立体、平面作品とか、これも全部そこの学校にいる時に作った、これもそうだ。これの原型とかドローイング、全部そこの学校の教室に解体して置いてあったんですよ。そしたら、銀行の人がある日突然来て、「富士銀行です」、「え、何でしょう。」「明日からここの建物は銀行の管理下に入ります、ここにあるものを速やかに出してください」とか言われて「ええ、何だあ」みたいなね。学校の経営が危ないっていうのは知っていたけども、そこまでなるのかなっていうのはねえ、(思って)なかったんで。いろいろな問題がそれまで学校との間であったから。芸術活動を援助してくれていた部分もあるじゃないですか。外国との学校の交流もしようとか、評論家の小倉(正史)さんのこととかもあって。公私にわたって身動きがとれない状況が僕にはあったわけですよ。逃げるに逃げられないような状況にね。作品も教室に全部あったから。学校長からは、「君が今後この学校に残って一緒にやってくれないか」とかって言われたんですよ。で、僕は「いやそれはお断りします」って言ったわけ。「お断りします」って言ったのはいいけど作品が人質になっているような感じじゃないですか。だから、すぐにね、知り合いの作家に電話をして、トラックを借りて、そこの部屋の中にある作品、ともかく大きな作品を全部切断機で、のこぎりで全部切断して、全部焼却場に捨てたんですよ。トラックで3回往復したかな。ともかく、もう、逃げなくっちゃいけないみたいな、そういう感じだったんですね。ともかく空っぽにして学校を出ちゃったわけですよ。それで一応学校には、「これで学校辞めます」みたいな。平面はすぐに運べたけども。そしたら学校の方でも、「なにい」みたいな感じで。「こんだけ面倒見てやったのに恩知らずが、裏切り者が」とかってひどく怒ってね、もうぼろくそに言われて。毎日学校へ行くたびに何時間も文句言われました。毎日、家には理事長から電話かかってくるし。えらい大変だったんですよね。結局、職はなくなるし、活動もこれで続けていけるか不安定な中で、どこにも場所がなくなるわけじゃないですか。そういう中で、お金もかからず、一人だけで活動を続けていける場所をということで、無人駅を考えたんですよ。

鷲田:1999年に学校を出られたのも、一つのきっかけだったんですね。

白川:そう。一度、全て失いました。

鷲田:「場所・群馬」で、無人駅を使って一緒に展覧会をされていますよね。

白川:やりました。それはね…。

鷲田:それはその後。

白川:その後。「場所・群馬」というのは名前だから、僕が知っている作家に呼びかけて、一人で何度かやった後、いくつかの無人駅を同時に使って、みんなでちっちゃい展覧会はやったんですよ。

鷲田:最初は一人でパフォーマンスという形で始まった。完全に一人で始めたんですか。

白川:そうです。無人の所で、一人でやってました。

鷲田:記録写真が残っているのは三脚立てて撮ったんですか。

白川:あれはね、教え子の木暮伸也君が写真やっているので、一度、彼に頼んで写真だけ撮ってもらったんです。

鷲田:特に告知もしなかったんですか。

白川:そう。あの時、僕がコンピューターのネットを始めた頃で。ネットに何日に無人駅に行って手振りましたとか書き込んで流してました。家内を太田方面の病院に連れて行ってたんで、前橋からずうっと桐生までたくさんの無人駅があるんですね。無人駅が病院のすぐそばにもあるんですよ。そういうところとか、焼きそばを食べたとか、無人駅で手を振ったとかを、メールで流して。それを読んでた人は何人かいたと思うんですよね。

鷲田:それは告知という形ではなくて、こういうことを行ったという、過去形で。

白川:過去形です。で、ぜひみなさんも他のそういう無人駅で、全国に無人駅あるから、みんないろいろやってみてください、みたいな。そういうちょっと挑発的な文章をちょこっと入れて。

福住:メーリングリストって昔の…。

白川:AW(注:「美術品観察学会」のメーリングリスト)。

福住:AW。見ました僕。今記憶を辿って。入ってました。1999年でしたね。

白川:1987年にアーティスト・ネットワークの活動に加わりましたが、あれは僕にとってあまり成果はなかったんです。川俣の全国展開を手伝っていた山野(真悟)くんとか他の人たちにとっては成果が出たのかもしれないけども、僕には期待したようなイメージの成果が出なくて。ああいうのとは違う方法で作家が関係を持てるようなものを考えていた時にインターネットが出てきて、それが一つのツールになるんじゃないかなっていう気持ちもあったんです。それでネットに積極的に行為を書き込むということもやったんです。

鷲田:パソコンでインターネットを使い始めるようになったのはいつ頃ですか。

白川:1990何年くらい。

鷲田:ちょうどその頃ですか。

白川:そのあたりです。

鷲田:メーリングリストに入って。山本(育夫)さんたちがやっておられた。

白川:山本育夫さんです。山本育夫さんはね、僕が日本戻って来てすぐだったけど、「アーティスト・ネットワーク」に関係するんだけども、渋川の野外展に僕が作品出してた時期があるんですよ(注:渋川野外彫刻展、1985年)。その時、山本育夫さんは、確か山梨の美術館の学芸員だったんですよ(注:山梨県立美術館)。だけど同時に作家もやってたんです。作品も作ってた。立体作品。それで僕2回くらい一緒にグループ展に出したことあるんです。それで山本さん、僕のこと知ってて、ただ山本さんはあの後しばらくいろいろ活動してて、美術館をやめるのかな。その後自分でメーリングリストを立ち上げて、ネットを使った関係を作家の間につくる活動を始めたいということを知らせてきて。アーティスト・ネットワークとは違うタイプの、ネットを使ったものとか、評論も自分たちでやる『LR』の活動を始めるとかっていうことで僕なんかに、文章書かないか、って言ってきたんですよ。それからずっと山本育夫さんとは繋がってるんですよ。

鷲田:その渋川の野外展に山本さんは作家として作品を出されてたんですか。

白川:そうです。出してた。あの人作家だったの。結構みんな昔作家だった人多いんだよね。学芸員だけど作家だったという人(笑)。

鷲田:白川さんは、同時に、文章を書いて本を出版していかれるのですが、それも最初は『LR』だったんですか。

白川:一番最初は79年に自費出版したこの「日本現代美術序説」ですけど、ギャラリー・メールドですよね。その後はドイツで出した83年の『日本のダダ』っていうのがありましたね。あれを1988年に水声社で日本語にして出すという話があって、その辺から水声社の方との繋がりが出来て、今まできています。僕は1999年にデザイン専門学校をやめて、その後1、2ヶ月して別の服飾学校を紹介されてそこに入るんですよ。『LR』はだから北関東デザイン学校にいた終わりの頃です。

鷲田:前橋文化服装専門学校。

白川:そう。煥乎堂の役員の岡田芳保さんからの紹介で。全部そうなんです、今までのは。地元の専門学校は、みんな煥乎堂にいた画廊の部長さんが紹介してくれて、話が決まるんです。やめた後、専門学校にまた行くようになるんです。ところが、僕は服飾のことは全然分からないんで、正直言って向こうも困っただろうと思うんだけども、僕が受け持っている時間は全部じゃないんですよ。一応常勤で行ってるんだけど、時間の全部が授業には僕の場合ならないわけですよ。学校にいるんだけど、授業を持っていない空いてる時間があったんです。すごく居心地が悪いような状況じゃないですか。空いている時間は、学生集めに県内の高校を全部まわったり、入学案内のガイダンスをやったりしていました。アーティスト・ネットワークの持っている問題のことや、いろんなこと考えてやってる中で、たまたまテレビで「エンデの遺言」とかっていう番組を見て驚きました(注:1999年放映、NHK)。僕はそれを見た時に、瞬間的に昔ヨーゼフ・ボイスが言ってた話と同じだと理解しました。79年にボイスにインタビューした時に説明を受けた、ドローイングで描いていたシステムと同じだと。それまでのいろんなイメージがすべて一緒になって全体像が見えて来たという感じでした。そこで、地域通貨とアート作品を一緒にやる「オープン・サークル・プロジェクト」をモリス画廊に話しかけて、やり始めました。作品だけだと分からないところもあるだろうと思って、文章も書いて発言しようと思って、それで、まとまった文章を『LR』に書き始めたんです。文章が出来て水声社の方に話をして、どうだ、って聞いたら、出版してもいいって言うんで。2001年に本が出ました(注:白川昌生『美術、市場、地域通貨をめぐって』、水声社、2001年)。

鷲田:それが『日本のダダ』を除いては最初の本、水声社からは初めての本だったんですね。

白川:そうです。

鷲田:その文章は展覧会で出されたわけではなくて、展覧会をされている頃に地域通貨について考えられたことを。どこかで出版するつもりもなく書き始めたんですか。

白川:『LR』に書いていましたよ。最初ね、少しずつ少しずつ。そう、『LR』に少しずつ、全部じゃないんだけど書いていて、その後、まとめて書き加えて、再構成して出したんだと思います(注:『LR』18-19, 21-24号に連載。2000-2001年)。山本君の『LR』があったおかげで、急がずに、ゆっくり考えながら書けました。毎月だったんで、毎月何か書かなきゃいけなかったんですよ。連載で書いてくださいってはじめに言われたから。だから、市場のことを書こうと思って書き始めたんですよ、確か。

鷲田:無人駅に話に戻るのですが。それを始められた頃、群馬という地域に対しての意識はあったんですか。つまり、群馬に無人駅が多いからとか。

白川:無人駅の活動の前からそれはありますね。僕が90年に勤めていたデザイン学校自体が電車のそばに初めはあったから。ほとんどの学生はその電車使って通って来ていたんで。無人駅があるということも、そういう意味では知っていたんですよね。それから「場所・群馬」の活動では93年から6年間くらいかな、臨江閣っていう場所を使ってたんですよね。臨江閣っていう場所は、明治に天皇が来るためにわざわざ作った歴史的な場所なんですけども。後になって考えたのは、歴史的な場所だし、権威的な場所でもある、ある程度きっちり確立されている。だから僕が仕事を失って全部ゼロになっちゃったことも考えると、そういう権威的な場所じゃなくて、もっと日常の、目立たない普通にある場所。ゲリラ的にやれて、お金もかからなくてっていう、誰でもがどこでも使えそうな場所を探して見つけるというのが非常に重要じゃないかなと思って。それでね、無人駅はそういうところにぴったりするなと思ったんですよ。だからそれ以降、僕は臨江閣は使ってないんですよ。今、臨江閣は他の人たちが現代美術の展覧会場に使っているんですよ、時々ね。それと83年に群馬に来て初めにすんだ六合村の経験も大きく影響しています。

鷲田:メーリングリストで他でもやってみてください、と呼びかけられたように、群馬でなくても無人駅のような権威的じゃない場所であれば成立するような、むしろそちらに対する関心が強くて、群馬に対するこだわりはそれほど無いのでしょうか。

白川:うーん、でも半分半分ですよね。どうしてかって言うと、無人駅っていうのは、抽象的に考えれば日本中どこでも転用できる、世界中どこでも当てはめられる物なんですけど。同時に群馬の中での無人駅っていうのは独自の歴史、おそらくそれぞれの地域で固有の歴史を持っているだろうと思うんですよ。その地域の人たちが暮らした。だからそこの部分も、無視はできないし。そこの個別のリアルな歴史があるから、逆に非常に抽象的な無人駅っていうことも成立しうるんだと僕は思うんです。

鷲田:無人駅で行ったパフォーマンスは、地域と関わるようなものも含まれていたんですか。

白川:いや。最初にやったのは、手を振ったりなんかっていうもあるんですけど、今現在、写真で作品になって残っている方は、群馬で作られてるペヤングという地元の焼きそばを食べることで、小麦畑、生産地、産業、生活と地域を結びつけることなんです。いわば「文化を食べる」というイメージの行為でもあるのです。その後、北九州の美術館で、経済と美術、という展覧会が行われて作品を出しました(注:第7回北九州ビエンナーレ「ART FOR SALE:アートと経済の恋愛学」、北九州市立美術館、2002-03年)。その時のパフォーマンスと、前橋のいろんな食品会社が作ってるラーメンの写真、カラー写真を並べたりしたんですよね。

鷲田:焼きそばを食べるパフォーマンス以外に、群馬ならではというものはあったのでしょうか。他にはどんなことをされましたか。

白川:うーん。他は似たような感じですよ。一人じゃないんだけども、夏に地元で売られている、シマダヤという会社の流水メンを使ったそうめん流しやったりとか。これは結構後の、2006年ということで。2005年に前橋でアートNPO全国フォーラムがあって、その時にアートNPOに関心を示した若い人たちと一緒に、無人駅でそうめん流しをやったものなんですよね。

鷲田:最初はそのパフォーマンスは一人で始められて、徐々にメーリングリスト等で、それを知る人が出て来て、一緒にやろうっていうような発展の仕方をしたんですか。

白川:しなかったですね、全然(笑)。メーリングリストを見て興味があるな、って言ってた人は遠方にもいたと思うんですよ。一緒にここまで来てやろうという人はいなくて。ただ、そうめん流しの時は、ネットで見て参加してくれた人が3人、全くアート関係者ではない人、無人駅のすぐそばに住んでいた主婦の人など、ネットで見て来ましたね。僕は驚きました。

鷲田:「場所・群馬」のもう一つの展開としては、展覧会をやるということでしょうか。

白川:そうですね。今まで「場所・群馬」の展覧会を6年間、学校の持っていた美術館と臨江閣でやってきていたので、すでに参加していた人達に声かけて、今度は同時多発的にいくつかの無人駅を使ってそれぞれで。無人駅はいっぱいあるからそれぞれのところでやったものを写真記録で撮ったりして、それを一緒にどこかで展示しようとかっていうので、提案したことがあるんですよ。それは煥乎堂の支店でやったんじゃなかったかな(注:「場所・群馬(無人駅のプロジェクト)」、煥乎堂群馬町ギャラリー、2000年)。

鷲田:その時も展示を見に来てくださいというような形での告知じゃなくて、やった記録を展示をするという形でしたか。

白川:そんな感じですね。

鷲田:あえてゲリラ的にやるために告知をしないという方法を取られたんでしょうか。

白川:展覧会っていう形よりも、権威的なものを全部相対化して、知ってる人は知ってる、知らない人は知らないかもしれないけど、でもこういうことがあったよ、みたいな感じで、淡々と物事が進んでいくことの方が良いなと僕は考えていたんですよね。だから、広報やチラシに熱を入れることはしなかったです。

鷲田:実際に地域通貨の実験を始められたと思うのですが、それは2001年くらいからですか。文章を書かれてた頃ですよね。

白川:そうですね。その時に実際に地域通貨の活動をやってる人たち。アートの方じゃなくて経済関係とか、街おこしとか地域の中でやっていこうとする人たち。「エンデの遺言」に実際に出ていた経済学者の森野栄一さんとかNHKのディレクターの人たちとか、あと、経済関係の人たちとか結構いて。そういう人たちに連絡をとって会って、その人たちのアイディアも聞きながら、僕も美術とそれを結びつけることは、どうしたら出来るかなあという風に考えていたのが確か2000年だったと思うんです。2000年にベルリンとバーデンバーデンのグループ展があったんです(注:「夢のあと」展、ハウス・アム・ヴェルトゼー、ベルリン、2000年。バーデンバーデン市立美術館、2000年)。それに参加できることになったんで、久しぶりにドイツに行ったんですよ。その時にはすでにヨーロッパの中での地域通貨のことは僕は知ってたんで、フライブルグで実際に行われている「リンク」という地域通貨の実践例を見に行ったんです、バーデンバーデンから近いから。現地の事務局でいろいろ資料をもらい、話も聞いて来ました。各地の地域通貨の資料持ってるんですが、さまざまなシステムを見て、実際に、どういうふうにやればそれが芸術の方向に転用できるのかなっていうことを考えてました。しかし、クリアしなきゃならない問題がいくつか出てきて、そこが今でも解決は出来ないんだなあと思ってます。福岡にいる藤浩志くんみたいに交換っていう形でやるんだったら出来るんだけども、美術作品の流通形態そのものを地域通貨に置き換えたり、地域通貨に置き換えた部分を地域のコミュニティと結びつけるところまで、アートを持っていけるか、なんてことを考えていくと、藤さんみたいにはできない、というか、あれとは違うなという。具体的にそれをお金に換えられるかを真剣に考えなきゃいけないな、ということで考えたんだけども。ヨーロッパでやられている基本的なやり方は、美術作品じゃなくて美術作家がやれる技能の方なんですね。絵を教えるとか、音楽の人だったらピアノを教えるとかっていう。ある時間子供に教えると、それがお金の代わりにっていうことなんですよね。壁塗りとか。それは分かるんだけど、やっぱり作品じゃないんだよね。美術作品がなんとかしてそこに入り込めないのかなあっていうのを考えると、単価の問題、作品の単価をどのくらい安く売れるかっていう具体的な問題が起こるのと。それと、芸術作品は誰しもが求める必需品じゃないという問題があります。フランス革命の後、19世紀のはじめに、イギリスで(ロバート・)オウエン(Robert Owen)が似たようなことをやって、失敗してるんですよね。結局は藤さんがやっているような交換みたいなことを、もうちょっとフリーマーケット方式でやろうとして、みんながいらない物を持って来て、それを物々交換なり、安く売るなりしてやるとうまくいくだろうとオウエンは予想したのですが、外れてしまいます。生活必需品や食品などはすぐに回るんですよ。ところがね、結局人が自宅から持って来て、回らないものがどうしても大量にゴミとして残っちゃうんです。その一番のゴミが何かって言うと美術作品なんですよ。

一同:(笑)

白川:絵とか彫刻作品とか誰も持って行かない、必要としてない。だから分かるんだよ、藤くんがやってることはね。家具とかおもちゃとか実用品とか食料品、そういうものはその日に無くなる。ところがアート作品は無くならない、誰も必要としてない。かつて宮廷があったりした貴族の時代には貴族の肖像画とか、貴族のお仲間にとっては意味があったんだろうけども、その貴族の社会が壊れちゃって、ブルジョア社会になった時に 貴族の肖像画って意味が無くなっちゃっているんだよね。オーラが無いわけですよ。単なる屑でしかないんだよね。だから、そういうものは誰も欲しがらない。それよりも椅子とか大根とか人参とかソーセージとか。あるいはお皿とか、きれいなお皿とか。それは何万円のお皿であろうと何十万円のお皿であろうと関係ないわけですよね。そういうものは時にさばけるけど。アート作品だけはね、残っちゃうの。そういうオウエンの事実があって。そこから考えると、中世のカテドラル建設などの過去にさかのぼっていくと、日本もそうだけど、あるスケールでの公共事業とつながった、あるいは発注されたアートは回るというか、個人は無理でも共同体が引き受ける、共同体がお金を払うと、それは可能だと思うんですよ。『あいだ』の前の前の号だったかな、大阪の方で、藤井君…、耳のこう、音をやってる作家がいますね。

鷲田:藤本由紀夫さん。

白川:そう、藤本君。藤本君の作品を一人じゃなくて、グループで20人とか50人ぐらいの人がお金を出し合って、買って、それを美術館に寄贈するみたいな(注:「美術館にアートを贈る会」、 HYPERLINK “http://www.art-okuru.org/” http://www.art-okuru.org/ 藤本作品が西宮市大谷記念美術館に寄贈されたのは2006年)。その方式はありだし、それだったら可能だなあと僕は思ったの。でも、そういう風に人数を集めてやるためには様々なマネージメントが必要なわけですよ。だから僕一人じゃ当然できなくて。その藤本さんの作品にしても、値段がおそらく100万いくかどうかだろうと思うんですよ。200万くらいになっちゃうと買えないと思うんだよね、100万くらい。美術作品の場合は、額がだんとつに跳ね上がるわけですよね。だから僕がやっているのは、その非常に高い額について適切な値段で、ある程度複数の人間が納得して、お金を出し合って、みんなで共有して、それを共同体に還元するというやり方。これは非常にレゾナーブルというか、普通の考え方だと思うんだけども、最後まで引っかかるのは価格の問題なんですよね。普通の商品が流通していくようなスピードではアート作品は流通していかないわけです。だから、さっきのお皿で考えれば、マイセンのお皿であろうと、有田焼のお皿であろうと、有用性があるからね。犬も使えるし、人間も使える。確実に使えるわけですよ。ところがその藤本さんの作品の場合だと、これは限られるわけです。その価値を誰が保証するかですよね。それは当然、その人の、これまでやってきたキャリア、どこの美術館でやったとか国際展に出たとかっていう、キャリアの羅列が保証になるわけですよ、おそらく。それ以外何も無いんだから。ところが目の前のお皿とか服とかコップとかは、そんなのは無くたって、使用価値がそこに生まれるわけです。だから本当に、地域通貨とアートをつなぐのは興味深いけれど非常に難しいなって僕は考えてるんです。ヨーゼフ・ボイスに話を聞いた時には、ボイスは、これから先の社会においては貨幣ではなく人間の創造力が資本になって、流通し価値になるんだ、って言ったわけなんだけども。話を聞いている限りでは、真っ当な意見だなと思うんだけども、僕がどうしても分からないのは、ある人のやっている、思考している何かは創造力がある、創造力が無いと、誰がどう決めるのだろうか。その基準の問題なんですよね。全ての人間は芸術家、それは良いと思うんだけども、どこにその基準、誰がどうその基準を決めるのか。デモクラティックバンクがあるとしても、銀行である限りは受け入れ先、窓口があるわけじゃないですか。その窓口のところで、これは10の創造性、これは5の創造性って、そういう風に流通のため数値化するんだろうと思うんだけど。その基準がね、どのようなコンセンサスで作られるかが僕はちょっと分かんないんですよ。そこの部分の、その妥協点というのが、なかなか僕には見えてこないんで。地域通貨は非常に有用性があるし、これは考えなきゃいけない。マイクロファイナンスもそうだけども、問題はイエス、ノーを決める基準なんですよね。農業の場合は畑を耕す、そうすると作物が出来る。その作物を出来た物として、他の人々に渡す。それは有用性があって、食べたり、何か消費できる。ところが、美術作品の場合は、出来たものが必ずしも消費に結びつくかというと。それを担保にしてお金を借りるということ。非常にそこが大変というかね。シュタイナーのエコバンクも有機農業などには投資してますが、アート活動にはどうでしょう。カナダのLTSというシステムの地域通貨は、技能の交換で成立していますね。

鷲田:地域通貨のことを始められた時、美術に関わっている人で一緒に関心を持ってやろうという人も現れたんですか。

白川:誰もいなかったですよ。一人もいないなあ。僕がモリス画廊で、最初に提案してそういうことをやった時には、ぼろくそに言われたし。その後、面白いから一緒にやってみようかっていう人は誰もいなかったですよね。価格破壊はやめろ、と画廊に言ってきた人もいたようです。

鷲田:でも実際に「MAAS」はやってみられたんですか。

白川:そうですね。やったんです、あれは僕が全部やれたっていうわけじゃなくて、「エンデの遺言」に関わっていた人たち、経済学とかやっていた人たちが中心になり、一緒になってくれて。彼らの方でいろいろプランを考えてくれて、一緒に話し合いをしながら、作ったわけですよ。だから、あれもね、基本はさっき言った大阪の藤本君の例に近くて、小さなお金で分担をして、それを集めて一つの作品を購入する費用に充てたらどうかみたいな。そういう方法なんですね。

鷲田:実際にその通貨を作って使い始めることをされたということですよね。

白川:そうですね、初めはね。仲間の中では。でも美術作品としてどこまで動くかは分かんないから、モリス画廊でやった時に、MAASで作品が買えるみたいな形にして、最初はやったんですけど。その後がね、需要と供給のところで回っていかないわけですよ。

鷲田:その後継続するところまで、いかなかったということですか。

白川:いかなかったですね。今言ったような様々な問題がわき上がってくるから。様々な問題については、もう僕の知識とか考え方だけでは対応できないですよ。経済学者とか、そのスペシャリストたちとかで共同でチームを作って考えないと、出来ないことだと思います。そういうことが実験でもね、出来ればこれは面白いんだと思いますよ。藤浩志さんがやっている交換もいいんだけど、本当に貨幣の一部を担うような流通システムをモデルケースでいいからやってみることの面白さも、失敗するとしてもあると思うし、僕はその専門家のチームを作って、ディスカッションをして実験をやってみたいと思うんですよ。それは日本だったら出来るのかなあと思って。数年前に光州のビエンナーレでのパネルディスカッションに呼ばれて行って、会場になったソウルの韓国アートインスティテュートで韓国の作家、評論家とも話した時に、向こうの人も地域通貨のこと興味持って考えている人もいたし、NPOもスタートすると言っていた。(注:2008韓国現代美術の「現実と発言」公開シンポジウム、第7回光州ビエンナーレ公式行事)。だからこそ、日本のこういう社会で、そういう実験をどんどんやっていいんじゃないかなあと思うんですけど。僕の力不足で、そういう出会いが無いですね。経済学者とか、もうちょっとそういう専門家の人たちが…。出来なくてもいいからディスカッションして、それを文章にすることとか、何かにしてみることの意味は僕はあると思いますけど。その時は、日本からは椹木(野衣)氏が招待されて来ていました。彼は村上隆の話をしていた。

鷲田:地域通貨のことを集中的に書いたり、考えたり、展示したりされたのは、2001年から2002年ぐらいの頃ですよね。

白川:そうですね。その後、モリス画廊の経営が厳しくなってきちゃったんで。今は僕はほとんど東京へ行っていません。バブル以後に、画廊自体の運営が行き詰まって、場所も他に引っ越しをして、いろいろ大変。

鷲田:一方、《サチ子の夢》(2002年~2003年)は商店街と関わるものだったんですよね。商店街の方からの働きかけがあって出来たものだったんですか。

白川:いや、全然。無人駅と同じですよ。関係なく自分が勝手に知り合いの写真家に頼んで、ここでこういうのやるから写真撮ってください、って言って。服飾学校の学生に頼んで服作らして、女の子に、君モデルになって、とか言って、という感じで。商店街は一切関係なく、自分の思い入れで。

鷲田:商店街という場所を選ばれたのは、どこからなんですか。

白川:まずは僕の過去の記憶というか、うちは北九州の戸畑で、商店街の中でお店をやってたんです。親父が洋服店をやっていたので、商店街は僕にとってはそういう記憶が繋がっているので。北九州の商店街、戸畑の商店街などもそうですが、1970年の国のエネルギー政策の方針で、製鉄所が駄目になっていく形で街全体がゴーストタウンというか疲弊化していき、失業者が増えたりとか、衰えていくの見ていたこともあるので。今の前橋の商店街がどんどん疲弊していく様子を見ていて、自分がかつて見ていたことと同じような出来事がここでも起こっているんだなあ、みたいな。僕がたまたま服飾の専門学校に勤めてるわけですね。それと、自分の小さい時の洋装店の記憶が結びついています。僕の姉は東京の文化に行って勉強して戻ってきて、それで服を作って注文服を作ってやってました。今の前橋の専門学校では、雑誌とかでファッショナブルな、刺激的なデザイナーの話とかいっぱい見てて、みんなそういうところに夢を抱いて、専門学校に入ってくるんだけど、専門学校を出る頃には全てそれが夢だった、どこにもその足場が無い、前橋の中にはどこにもそういうお店は無いですから。東京に行くしかない、でも行けない現実。結局それは一時期の夢でしかなかった。前橋の街、商店街を見ていると、1950年代にはものすごく人がいて賑やかで通っていた街が、今やほとんど無人化している。その街の中にある洋装店もどんどん閉まっていって。かつて人々の中で輝いていた夢が今は完全に消えている。そういう記憶が重なって、じゃあここの商店街を使って人や町の記憶の残響をつくろう、そこで《サチ子の夢》を作ったんです。それともう一つの大きなきっかけは、前橋の服飾店に長く勤めていた女性のデザイナーさんとの出会いです。彼女は60年代からずっと前橋の女性服のデザインをやってきた人でしたが、90年代の終わりに亡くなりました。僕個人も生活等々の面で大変お世話になった人でしたので、彼女が亡くなったと聞いた時に《サチ子の夢》という作品のアイディアが浮かんできたのです。その人の半生と商店街をつなぐイメージが出てきました。その人との出会いが作品になったと思います。

鷲田:そうすると、商店街を再活性化したいとか、そういうのは全くない。

白川:いや、むしろ、再活性化するよりも、もっとどんどん滅びていくだろうなと思いますが、人や出来事、街の記憶を作品にして残しておきたいという気持ちの方が大きかったです。

鷲田:教えている学生も一緒に関わってされたんですか。

白川:そうですね。ほんの少しアートに興味があったりする学生もいたりするから。いろいろ話したりすると、ぜひそういうのだったら参加したいです、っていうような学生もいて、手伝ってくれたりして。

鷲田:そういうところと、「場所・群馬」のアーティストたちは、全然グループが違う、重なってはこないような感じだったんですか。

白川:重なってこない時もあるし、重なる時もあったりするわけですよ。ヤーマンズカフェのような場所だとそういう人も来るし、作家も来たりするから、普段顔を合わせないような人たちが顔合わせたりとか。そういうつながりが出来たりするわけですよ。地元にいる作家って言ったって、ほとんどが、地元出身だけども東京の美術系大学に行っている人だから、年齢が少し上なんですよね。専門学校卒業生に比べると。

鷲田:世代がちょっと違うんですね。

白川:そう。ちょっと違う。そういう中でコミュニケーション作っていくのが、簡単なようで、なかなか難しいところもあるんですよ。

鷲田:一方では、専門学校生の学生たちと関わりながら、同時に「場所・群馬」の活動で、少し上の世代の、東京から戻ってきたアーティストたちとも関わって、というような感じですか。

白川:そうなんですよね。あとは、街おこしに関わりたいっていうような若者もそこに加わるわけですよ。3つの違った立場の人がいるわけですよ。アートをやっていこうと思っている人たちもいる、それから、専門学校を出てファッションとか何かやっていきたい、実際難しいんだけど、そういうことを考えている若い人もいる。もう一つは群馬大学の出身者で、国民文化祭とかに関わって、アートNPOとか、そういうことを今からはやっていけばいいんだ、という大学で勉強した人たち(注:2001年、第16回国民文化祭を群馬県で開催)。NPOを実際に運営してみたいと思って、商店街に入ってきて、街おこしっていうことで市と繋がってやっていこうとしている若い人たちがいて、その人たちの何人かが商店街に定着してるわけですよ。だから、定着している人たちがいて、そうじゃない2つ、作家とその若い人たち、といるわけですよ。だから3つ。

鷲田:《サチ子の夢》の時は、まだそういう人たちとの接点は無いということですよね。

白川:《サチ子の夢》の時はまだ、3番目の街おこしの人たちとの接点は無いですよね。

鷲田:そういうことをやった結果として、その人たちとの接点が出来たという感じですか。

白川:そうですね、どう言ったらいいのかな、前橋では僕は完全な部外者なわけです。前橋の人間じゃないから。前橋は1995年ぐらいにまず、日本デザイン会議というのをやってるんです(注:1995年、「第16回日本文化デザイン会議群馬」開催)。その次は日本国民文化祭、これが2000何年かな…。行われて(注:2001年)、その後、2005年に全国アートNPOフォーラムっていう(注:2005年、「第3回全国アートNPOフォーラムin前橋」開催)、これまで3つの大きな街おこしの動きが、群馬県では前橋を中心に起こってるわけです。それは、行政絡みなわけですよ、全部ね。ところが僕は専門学校にいるし、ほとんど行政とは関係が無いんです。行政の人たちっていうのは大体、今もそうだけども、全部、委員会を作りますが、委員会は全部、大学の先生なんです。専門学校は一切関係ないんです。さらに、僕は作家なんだけども、群馬の人にとってみれば部外者の作家なわけですよ。それから、行政の動きの中でも、大学の人が中心だから初めから専門学校の先生なんていうのは完全に部外者なんです。行政主導の文化イベントの中で僕は部外者だったんだけども、1995年の日本デザイン会議の時にはですね、東京の方の委員に小池一子さんが入っていたんですよ。僕は前に佐賀町(エキジビットスペース)で展覧会やっていたことがあって、それで小池さんは、群馬にいる人だからって言って、僕を呼んだんですよ。行政の頭越しに、おそらく指名で。それで僕は初めてそういう世界に呼ばれて行って、群馬の行政の人たちとか、全国を渡り歩いているような知識人、文化人っているじゃないですか。中沢新一とかさ、みんな委員になっているんだけども。小池さんもそうだけども。それから、前の京都芸大の学長、芳賀徹とか。ああいう人たちがみんな委員になっているわけですよ。そういうところに入ってみると、そういうところに長く群馬県、前橋市で、行政と結びついてる特定の文化イベント屋さんがいるわけですよ。

鷲田:その集まりに小池さんに呼ばれて入ったというのは、その集まり自体は東京で行われたということですか。

白川:いや、前橋です。全国各地を回っているわけです。1995年に前橋が主催地、群馬が主催地だったんですよ。僕はそれに呼ばれて行って、初めて、そういう街おこし系の文化イベントに参加しました。

鷲田:そうすると、2005年に全国NPOフォーラムが前橋で行われるようになった経緯には、白川さんはそれほど関わっておられないということですか。

白川:全然僕はそれらについて何の情報もないし、知らないですよ。1995年の全国デザイン会議ありますよね、その後2001年に行われた全国国民文化祭、これも前橋で行われた、群馬県主催だったんです。億単位のすごいお金を使って。これも全部行政の絡みだったから、僕は部外者なんですよ。ところが、煥乎堂の部長さんがたまたまその時はこれに入っていたんですよ。煥乎堂の画廊の上の人が。それで、その人が委員会の一人の人に話していて、前橋出身の作家で法政大学の教授の人がいるんですよね。小説も書いてるんだけども、挿絵描いている人がいるんだけども。群馬の文化人、有名な人(注:司修)。その人に煥乎堂の人がおそらく僕を推薦したんだと思うんです。それで僕に連絡が来て、県庁でやるイベントの手伝いをしてくれないかっていう話が突然来ました。

鷲田:国民文化祭の時に。

白川:はい。県庁でやる、子供向けのイベントを任せるから、全部やってくれとかって言って。で、僕が設置、イベントの全部組み立ててやったんですよ。いろんなワークショップをやったんだけども。でも僕が部外者だから、それが終わっちゃうと、もう無関係なわけなんですよ。ちょうどその時期に、消防署を使ってアートセンターにしようか、みたいな話が起こって、その時に、さっき言った、前橋のイベント屋みたいな人がそれにも関わっていて。僕が国民文化祭の方に出てたりしたのがあるんで、僕に声を掛けてきて。何か手伝ってくれって言うんで、僕は地元の「場所・群馬」の作家とかに声を掛けて、消防署でのアート展示活動に参加したわけですよ。その時に、群馬大学の学生、大学院の学生たちが県庁前通りに屋台村を作ってやってて。現在、商店街に入っている若い連中に出会ったんですよ。それが街おこしの若い人たちとの最初の出会いなんですよ。この時まだ、みんな学生だったんだよね。で、イベント屋さんとすったもんだがあって。

鷲田:全国NPOフォーラムが2005年に前橋で行われたのは、必ずしもそれまでの「場所・群馬」の活動があったからというわけではないんですね。

白川:全く無関係です。僕はそういう委員会に一度も入ってないし。さっき言った、文化イベント屋さんみたいな人は、ずうっと行政からの丸投げをすべて受け取るところに独占的にいるわけです。2005年のNPOフォーラムの時にも、そのイベント屋さんが群馬の代表なわけですよ。彼がアサヒビールだとか、トヨタの窓口もみんな仕切っているわけだから。彼が僕に電話してきたわけですよ。白川君、何かこういうのがあるから参加してくれませんか、って。そういう時に必ず言うのは、白川君が群馬の作家だから、って、こういう時はそう言うんだよね(笑)。でも彼はずっと「場所・群馬」の活動などは無視してきたから、おかしな反応でした。最初の1995年の全国デザイン会議で、僕が小池さんに呼ばれて行った時に、周りの人は初めて顔を合わせる人だけども、みんな、「え、こいつ何」みたいな目で見られちゃうわけですよ。行政の人とか「この人誰」、みたいな(笑)。2011年の今、前橋で市立美術館を作ろうって言う話があるじゃないですか。これも全部、大学の先生が委員なわけですよ。だから僕なんて完全に部外者で。

鷲田:群馬大学の先生とか。

白川:そうそう。芸大とか、前橋出身の芸大の先生とかね、みんな。

鷲田:先ほどの、消防署跡では、ワークショップをされたということですか。

白川:ワークショップをしたのは、消防署ではなく、群馬県庁のホール。消防署は、ワークショップじゃなくて、アート展示のために活用しようということでした。古い消防署の建てられた通り、これが県庁通りなわけですよ。中は放りっぱなしになっているから使えないわけですよ。使えるようにするために、誰かが掃除しなきゃいけない。イベント屋の人は自分じゃ出来ない、やらないから彼は。結局、僕に話しかけて、将来アートセンターにしたいから地元の作家で使えるように整備しないか、みたいな話だったわけですよ。それで僕は地元の作家に声かけて、地元の作家もそこがアトリエとして将来使えるんだったらきれいにしよう、みたいな形で、みんな力出して頑張ってきれいにしたんですよ。片付けて、全部。

鷲田:2001年に。その後アトリエとして、使ったんですか。

白川:全然全然。そのイベント屋さんは市と話をちゃんとつけてなくて、僕らにはそう言ったけども…。つまりそのイベント屋さんは当時、神戸移民局跡を活用したC.A.P.という活動のコピーを前橋につくろうともくろんでいたわけです。ボランティアとして作家を使うだけ使って捨てたという感じでしたね。

鷲田:継続的にその場所を使えなかった。

白川:イベントが終わった後、すぐ解体がはじまっちゃったんですよ。だから、僕ら、地元の作家っていうか、僕の知っている作家たちは、すごくだまされたみたいな感じでね、全員怒ってる。今でも怒ってる(笑)。しかし、イベント屋さんはいいわけですよ、補助金もらっていてさ。東京とか愛知とか京都とかから、『BT』に載っているようなトレンド作家呼んできて、そこで展覧会を一度やって、あたかも自分がすべて企画しましたという顔をしているわけだから。地元の作家には何の利益も無いんだよね。

鷲田:先ほどおっしゃっていたカフェ、ヤーマンズは、いつ頃から始まったものなんですか。

白川:2005年のアートNPOフォーラムの後ですね。ちょうどそのアートNPOフォーラムが開かれている中でヤーマンズが始まったんだね。

鷲田:この始まりには、白川さんは何か関わっておられたんですか。

白川:その時の仲間みんないろんな意味で関わっていたから。でも実質的には山本(真彦)君がオーナーなんで、彼が自分でお店始めたので、僕はそのアートカフェでの様々な展示、活動の提案をしました。

(休憩)

白川:(お茶を入れながら)日本中回ってるんですよね、国民文化祭。水戸で前カフェやったのも国民文化祭ですよね。

鷲田:そうなんですか。

白川:国民文化祭が水戸に来てて、その予算でやったんですよ。(注:2008年の「カフェ・イン・水戸2008」は「第23回国民文化祭・いばらき2008」の参加プログラム。)

鷲田:カフェ・イン・水戸。

白川:そうそう。カフェ・イン・水戸。だからあれすごく大きなお金がどさっと。儲かるってわけじゃないけども、いるんですよ。

鷲田:ヤーマンズは今でも続いてるんですよね。

白川:そうですね。

鷲田:そことは良い距離で、白川さんは付き合っているような感じですか。

白川:そうですね。若い人にみんなあそこで展覧会やってもらったりして、僕もヤーマンズで何度も展示やりました。(本を指して)これなんかそうですよね。僕とその服飾学校出た男の子と一緒で二人でやった展示(注:内山浩幸との共作《薔薇能力検定》、2006年。『フィールド・キャラバン計画へ』水声社、2007年、n. p. )。

鷲田:2000年代前半は、そういった活動と平行して、それまでの円環のような作品も平行して作り続けていたんですか。

白川:いやあ。広いアトリエが無いから、場所がもう無いし、お金が無いし。前の学校やめて、次の服飾学校行って給料もかなり下がっちゃったんで、材料買うお金もない。そういう意味でだんだんと鉄の素材の大型の作品は作れなくなったんですよ。たまにっていうか、それでも2000年くらいが限界だったと思います。1990年代の10年間くらいでしょうかね、北川(フラム)さんのアートフロントと関係が出来て、野外彫刻展の作品とかを作り始めた時期があったんで。でもそれも、1994年だから、バブルの時なんで(注:1991年、ヒルサイド・ギャラリーにて個展。1994年、彫刻《円環-世界》を東京のヒューレット・パッカード社に設置)。2000年になってからは、妻有のトリエンナーレの第一回目に作品を出したのが最後くらいかな(注:2000年、総合ディレクターは北川フラム)。その後はほとんどそういう野外の話も無いですね。

鷲田:ノイエスとはいつからなんですか。

白川:ノイエス朝日は…。

鷲田:《サチ子の夢》はノイエスで展示されたのですか。

白川:それは2002年のフランスの後ですね。一番最初じゃないですね。ノイエス朝日は、バブルの後経営が苦しくなった中で、煥乎堂のギャラリーにいた人たちが、煥乎堂をやめて移っていってから、今のノイエス朝日の流れになってきています。2000年過ぎてからですね。2003年ぐらいかなあ、みんな煥乎堂をやめて移っちゃって、それでやったんだと思います。《サチコの夢》はフランスで発表した作品の再構成みたいな感じでやったんですよ、確か。メスでやった作品を(注:2002年、現代美術センター<フォ・ムーヴマン>、メスにて個展「サチ子の夢」。2003年、ノイエス朝日にて個展「サチ子の夢」)。

鷲田:最近のスノーボードのプロジェクトは、急にスノーボードというのは出てきたんですか。

白川:急にっていうか、僕が商店街によく行くようになって、さっき言った若い人たちと出会って、段々会うようになっていろんな話をして。それで、一緒に活動やったり、僕がやるちょっとしたイベントみたいなのを手伝ってくれたりしているうちに。(『フィールド・キャラバン計画へ』の《薔薇能力検定》の図版を開いて)ちょうどそうだなあ、この作品をやってた時だったと思ったなあ、2006年のこの作品を片付けようかなあと思っている時に、確か(群馬)県立近代美術館の染谷(滋)さんから電話があったんだと思いますよね。「来年の夏に展覧会したいんですけど」って言って、あの非常に小さな旧県知事室のスペース。美術館じゃなくて、アスベスト問題で美術館が間借りしてるスペースが県庁にあったんで、そこを使ってっていうことで。その県庁の建物が非常に古い建物なんで、そういう文化的な歴史が背景にあるから、僕だったら「場所・群馬」の関係で何かそういう近代問題に絡んだ作品を作れるんじゃないかなと思って電話してきたみたいなんですよ。そしたら残念でした、みたいな(笑)。でも僕は、その時若い人と話してて、スノーボードの話とかよく聞いてたんで。僕も興味はあったんですよ、若い人のライフスタイルとか。そういうのは、ファッションの学校に行ってたせいだと思うんだけど。ファッションの学校ではライフスタイルをどう考えるかっていうのは非常に重要な問題なんですよ。流行もそうだろうけども、ライフスタイルは一つじゃなくて、いろいろな文化活動の分野が結びついているというか。服もそうだし、音楽もそうだし、食事もそうだし、仲間の付き合いとか、仲間が行く場所とか。いろんなものがくっついているわけですよね。それは何か、僕には非常に興味はあったんですよ。一つの作品を作るっていうことよりも、スノーボードを中心にして、若い人が動いている社会的な範囲というか、ライフスタイルというか、そういうものが作品に出来るといいなあ、っていうのがあったんですよね。そして夏の展覧会に群馬の冬のウィンタースポーツの代表のスノーボードを展示するということにも大きな興味がありました。地域の生活とつながっているし(注:2007年、「白川昌生と『フィールド・キャラバン計画』」展、群馬県庁昭和庁舎)。

鷲田:そういう方法での展覧会や作品の作り方は、今までの作品の作り方とはちょっと違う感じですよね。

白川:フランスなんかでは社会学的な芸術っていうのが存在しているのは知ってはいたけれども。僕はボイスみたいな作品とか、ハンス・ハーケみたいな形の真正面から社会批判の作品が、作れるわけじゃないし。そのための情報とか資料とかが手元にあるわけじゃないので。やっぱり自分の身の回りにある素材とか資料で、社会と芸術が結びついているような作品も作ってはみたいなというのは前から考えていたりしていました。スノーボードであれば、若い人とか見ていて、服だけじゃなくて、食べ物も、音楽も、行動パターンも、一つのまとまった世界を作ってるなあっていうのが見えてきてたんで。これだったら自分でもやれるかなあ、みたいなね、気持ちがあったんですよ。

鷲田:スノーボードのライフスタイルをうまく作品化できたと感じておられますか。

白川:できなかった部分、難しいところもあるなあと思いましたね。ただし、僕はスノーボードの作品を作る時は、半分はこうしようっとかって提案してやったんだけど、あとの半分は関わった人たちにみんな任せて、その人たちのアイディアとか考え方とかも取り入れて、ある意味では恊働作業としてやってきたところがあるんですよね。だから、ポスターも、昔の教え子なんかがデザイナーになっていたりしていて、それで話しかけると、「じゃあ、白川先生、そんなんだったら一緒にやりますよ」みたいな感じで、「じゃあロゴは作ってくれるだろうか」って言って、勝手に向こうでロゴを作って、こんなのはどうだろうか、そんなのをみんなに見せて、みんなで、じゃあ、こういうのやろう、ああいうのやろうって進行していきながら全体が形成されていきました。初めは僕はスノーボードやるっていう話じゃなかったんですよ(笑)。一番最初は僕はドキュメンタリー映像だけ撮ればいいかなみたいなね、カメラ持っていろいろインタビューしてつくればいいかなと思ってました。でも、「白川先生、やっぱりボードで滑んなきゃだめですよ、やりましょうよ、やりましょうよ」とかって言って、ええ、みたいな感じで。で、まあ、やるっきゃねえか、みたいな感じで(笑)。それで、急遽、やります、みたいな形になって。じゃあ僕が教えます、って言う人も出てきて。例えばDVDの中に出てくるメイドカフェも、こういうのも面白いねって展覧会の時に話はしてたんですよ。みんな、なかなか気に入っていて。そしたら、そんなんだったら白川先生、メイドカフェを上でやるっていうのはどうですか、って話が出て、ああそれいいねえ、とか言って、で、やろうか、みたいな感じで。そしたら、服作っている若い子がいるじゃないですか、服作る子は、じゃあ僕メイド服作ります、とかって言って。僕はちょうど県立女子大に教えに行っていたから、女子大の女の子がいて、じゃあメイドさんやります、とかって言って一応分担が決まって。僕が簡単なラフなスケッチというか、ストーリーを作って、じゃあこれで行きましょう、みたいな。それを持ってスキー場にインタビューに行った時に、女の人に、メイドカフェを上でやるのはどうでしょうって、突然、いろんな話をしている中で話したんです。そしたら、いいよ、みたいな二つ返事だったんで、じゃあやります、みたいな感じで。撮影するんだったら一般のお客さんが来る前のお昼の前の時間だったらいいから、とスキー場のオーナーが提案してくれて。朝一番に行って、昼前に撮影を終えて、みたいな。それをみんなで決めて、分担してやったんです。だから、僕自身も、こうなって、ああなって、こうなる、みたいな予定調和的ストーリーが初めからあるのでは無くて、行き当たりばったりでやっていったんですよ、本当に。予算もあまり無かったし、美術館からもらえるお金の多くは、例えばカタログ作るとか他のところに使っていて、基本的に大きなお金はなかったので。その辺はみんなも知ってたから。みんなもね知っていて、進んでボランティアで協力してくれたと思うんですよ。

鷲田:そういうコラボレーションの度合いが高い作品の作り方をされて、今後作品を作る時にも、そういうやり方でやろうという思いはあるのでしょうか。

白川:いやあ、周りの人からはもう一度やりたいって言われるんだけどもね、なかなかそのモチベーションを続けるのはね、難しいなあっていうか。やっぱり、スノーボードっていう素材が非常に良かったと思うんですよ。いろいろな側面があったのと、街の中からスキー場まで移動して、また戻ってくるっていう場所が変わる問題とか。それから世代間の交流のこととかあって。いろいろなことがそこで起こりえたから良かったと思うんですよね。それと同じような効果を持つ素材を探すのがね、なかなか大変だなあ、みたいな。そう簡単にはね。

鷲田:むしろ先に素材に関心があって、そういう作品の作られ方をしたということでしょうか。

白川:そうです。僕があの時期は商店街によく出入りしていて、若い子たちとの話とか、コミュニケーションがあって、そういう中で、こういうのが生まれてきたのがあるから。今の状態だと、その時にいた人たちは例えば東京に行っちゃったりとか、全体的にあの時よりもみんなの年齢やモチベーションとか生活のレベルとかが落ちたりとか。ヤーマンにしても、協力しないわけじゃないんだけども、やっぱり段々落ちついてくると、自分の生活のこととかがメインになってきて。彼女も出来たから彼は。それぞれの人が、少しずつ少しずつ、ニュアンスが違う形になっているんで、前と同じようにはやっぱりいかないし、同じメンバーというのは難しいんじゃないかなって思ったりもするんですよ。そういうこともコラボレーションの時には考えなきゃいけない。例えば、大きな補助金をもらったりして、みんなに多少お金を渡して参加してもらうようなことであれば可能かもしれないけども、僕はそのために補助金を取りに動くのはあまり興味がないんで。周りを見ていると、大きなプロジェクトやっている人たちはやっぱり、次々と補助金をもらっていく活動、書類づくり、根回しもきちんとしているし、その度にプロジェクトはどんどん大きくなっていく。参加する人も多くなる。周りの人も上昇していくように要求するじゃないですか。もっとすごいことやれよ、みたいな。僕なんかも、県立近代美術館の学芸の人から、白川さん、もう2回目のフィールド・キャラバンやらないんですか、って言われるんだけど。予算が何も無い中でやってもいいというきっぱりした覚悟とコンセンサスがないとやれないような気がしますよ。そりゃ僕が一番駄目なのかもしれないけども、でも、僕は周りの作家の人見ていてそう思うんですよ。一回目の次、二回目、三回目、四回目とプロジェクトを新しく続けていくっていう。クリストがそうだけども、どんどん規模が大きくなるし、そういうことを要求される。お金をたくさん集めること、補助金取りにいくようなこと、プランも考えて、画廊も乗ってきたり美術館も乗ってきたりするから面白くなっていくんだろうけど、何か、ううん…。まあ、それが普通の作家のやり方なのかもしれないけども、商店街にいるとよく分かんないです。みんなそれぞれに自分の生活が出来てきて、いろいろ今までとは違うスタンスで生活し始めて。前に付き合っていた人たちは、違う仕事に就いている人もいるし、社会的な条件が変わっちゃっている人もいたりするから、同じことは出来ないなあと思いますね。そういう意味では、今度、毛利(嘉孝)さんなんかと映像祭をやろうかって、10月30日、31日から。今年は時間が少なかったから、今年は来年にやるための準備段階というか、それをやろうという話をしているんだけども。そういうものが今度は出来ればいいなと思っているんですよ。

鷲田:それは前橋でですか。

白川:そう、弁天通で。あそこのヤーマンズカフェと、その斜め前に大蓮寺っていうお寺があって、お寺の本堂に大きなスクリーンがあるんですよ。その両方を使って映像祭をやろうって、今話していて、プロジェクトを進めてるわけです。なるべく補助金をもらわないで、自前でなんとかやれないだろうかと。参加したいっていう人も自分から手を挙げて参加してもらって、それで一緒に何か作っていければなあと思うんです。だから、いわゆる街おこし、これをやれば街にとって、商店街にとってすごく利益になるっていうのは、僕はあまり考えてないですね。

鷲田:話を伺ってきて、教育について、生活の手段として教えているように聞こえる部分もあるんですが、一方で、ずっと教育を続けてこられて、白川さんの中で重要な部分になっているんじゃないかとも思います。今後も教育は続けていきたいと思っていらっしゃるのでしょうか。あるいは、例えば映像祭を若い人と一緒にやることが、教育の場だと考えておられるのでしょうか。

白川:教育の場だとはあらためては考えていません。ただ教育というのも色々な関係があり、その辺はね、微妙というか、難しいです。僕は1983年に日本に戻ってきて、白根開善学校に6年いて、その後デザイン学校に6年かな。それで服飾学校に今、非常勤なんですけど、いて。2000年、2001年から大学の方も非常勤で教えるようになったんですよ。

鷲田:それが県立女子大。

白川:県立女子大。最初の学校では、義務教育の中での美術を教えていて、別に作家を作るためのことをやってたわけじゃないですね。デザイン学校でも基礎造形みたいなやつを教えていて、現代美術の話もするけれど、例えば僕がドイツの美術学校で受けたりしたような教育はやっているわけじゃないんです。それから服飾学校でも、僕がやっているのは服装史とか色彩とかで、全然アートを教えてるわけじゃないんですよ。県立女子大の方も、僕は美術理論を、何でもいいから、って言われて、話はしてるんだけど、実技は教えてないわけです。だから、自分が本来関わっている美術の現場の話はするけれども、そのことを学生に、お前もやってみろよ、とかっていう形とか、作家を育てるって言うのはおかしいけども、そんなことは一度も経験してないわけです。開善学校の時も、みんなそうだけども、僕は教育って言っても、これが美術だっていう話とかはしなくて、僕はこういう風にやってきてる、きたけれどもみんなはどう思うかなっていうのとか。世の中にはアートやってる人間もいるけれども、そうじゃない人間もいるよな、みたいな話で。たまたまアートやって、こんなことを考えたり、やってる馬鹿なやつもいるんだよ、みたいなことを話をしたり。だから自分の生き方みたいなものを学生に見せて、その中で、それぞれの学生に考えてもらうっていうようなことなんですよ、おそらく僕がやってきているのは。だから開善学校でも、学生に、こうしろよ、ああしろよとか、デッサンの授業とかあるけれども、ほとんど僕は強制はしないんで、なるべく学生と話をしたりとか。開善学校の時は、つっぱった兄ちゃんとかが多かったから、ああいうお兄ちゃんなんかは、アートの作品の話なんかよりも、パンクの話とか、そんなの方がいいわけですよ。そういう話をしたりとか、音楽聴いたりとか、そういう話で。中には、夜中に美術室に潜り込んで、置いてあったシンナー吸ってラリって、うろうろしてて僕に見つかったやつもいるんだけども、そういう感じですよね。デザイン学校でも、僕は基礎造形だったから、デッサンと基礎造形なんで、手取り足取り全然ないわけですよ。学生に、こういう可能性があるよ、こういうことやってるやつがいるよ、こんなことやってる人がいるよっていう、情報を学生に教えて、そういう中で、学生の中でそれが発想とか生きていく中でのアイディアの元になればいいかな、みたいな感じなんですよ。服飾学校では、服装史と色彩学だから。でも中には、美術に興味持つ学生もいるから、そういう学生にはこういう作家がいるよって、同じようなことを話して、展覧会もあるからって。でも、美術に興味持っている学生はそんなにたくさんいないんで、基本的に。教育って言ってもあまり大きくは考えなくて、非常にアバウトにしか考えてないですよね。

鷲田:若い世代のアーティストを養成したいと、それほど思ってられるわけではないということですか。

白川:いや、それはね、例えばね、前の前のデザイン学校の場合には小倉さんがいたんで、小倉さんがいた時には、現代アート研究所みたいな場を作ったわけです。そうすると、現代美術みたいなものをやりたいっていう若い子が何人か出てきて。海のものとも山のものともつかないけども、作家みたいになるといいな、みたいな時に、僕は非常に何か、自分は力不足だなあと、しみじみ思っちゃうわけです。自分がデュッセルドルフにいた時の経験からすると、リヒターとか、ボイスとか、先生が非常に有名で、画廊との付き合いもあって、美術館とも付き合いがある人は、そこにいる学生をカタパルトみたいな形で外に放り出して作家になれるチャンスを具体的に与えてやることは可能だけど、そうじゃないクラスでは、なかなかそれが難しいわけですね。自分が現代アート研究所みたいなところにいた時に、将来作家になりたいと、はっきり思ってないかもしれないけど、そういう学生がいた時に、自分が何をしてあげられるかなあみたいなこと考えると、ここは東京じゃないし、僕自身がコマーシャル画廊と結びついているわけじゃないし、何にもしてやれないですよね。小倉さんは来て、ビエンナーレの話とかするけれど。結局向こうに出ている、スライドに映っている人は作家ですよね。でも、ここにいる、僕の周りにいる群馬の若い子たち、彼らは何なんだろう。作家になりたい、と思っていたって、向こうのビエンナーレに選ばれるような世界には到底行けないじゃないですか。行くためには、何かの条件とか、何かクリアしないといけないところがあるから、そこで僕なんか考えるのは、僕はそういう力は無いなあ、政治力とかも無いし、何にも無いから、学生たちに何にもしてあげられないなあ、みたいな。若い世代のアーティストを養成するだけの力は、僕にはないと思います。一緒に話をしたり、聞いたりはできますが、養成できるとは思い上がりたくないです。美術理論を少し知っていても、具体的に作家にはなれないでしょう。

鷲田:狭い意味でのアーティスト、例えばビエンナーレのアーティストとか、どんどん作品が売れるようなアーティストへの道を目指している人は、そういうこともあるかもしれないですけれども、それ以外の人の方がはるかに多いですよね。

白川:多いですよ。多いんですけどね、それ以外の人たちはみんな貧乏で、無名で、みたいなことだから。生き方としてアートをやっていくので、俺を見れば分かるだろう、みたいなことになるわけですよ。でも、前の学校の時もそうだし、今の服飾学校もそうだし、開善学校の場合は非常に少ないんだけども、僕が関わってから、知っている学生で、学校を卒業しても自分で何かを作ってきている学生っていうのが結構たくさんいますよね。ノイエスとかで展覧会すると、その時の学生がみんな見に来てくれて、みんな何か作ってたりしてるから。そうした生き方は各自が独自につくり出していくものだと思います。無力の僕がアーティストを育てていくというのは、おこがましいと思っています。

鷲田:刺激を受けることもありますか、学生から。

白川:僕は受けない(笑)。全然、僕は受けないなあ。学生っていうか、みんな卒業しちゃって、アクセサリー作ったり、写真やったり、グラフィックデザインやったり、それぞれにいろんなことやっているから、そういうのを続けていけるといいなあ、とは思いますね。県立女子大でもそうなんです。僕は美術理論の話はしてるけれども、あの人たちは、学芸員になるわけじゃないし、まあ、なりたいっていう人もいるだろうけども別にそれを求めてるわけじゃないし、評論家になるわけじゃないし。だから僕は、彼らに対しては、こうしろあれしろとか、これが良いとか悪いとかっていうことじゃなくって。例えば、美術っていうのがお金や社会とこんな風に結びついているとか、実際にこんなことが起こっているよとか、こんな風なお金に取引がされたりしていることをどう思うかとか。作品の決め方とかもいろんなこういう形で関わって決めていることとか、こういう歴史があって美術史が出来ていて、もうちょっと先になればこうなっていくだろうっていう話とか、そういう現実の話をなるべく僕はたくさん学生にしているわけですよ。おそらく僕以外の大学の先生たちは、みんなアカデミックにきてる人たちだから、ルネッサンスとか、18世紀とか、割と決まったところを、きちっと、かちっと、教えていると思うんだけれども、僕はそうじゃなくて、その人間にとって、表現活動をしていくこととか、それを評価したりとか、それを楽しんだりとか、まあ、それで苦しんだりする人とか、いろんな人がいて、それも時代によって変わっていったりするんだよ、みたいな、決して永遠、不変的なものは無いよっていう。場合によっては、アートなんか無くったって人は生きていけるっていうのも正しい部分でもあるし、とかいうような話とかも学生とするわけですよ。つまり学生、本人自身の頭で考えてほしいのです。すいませんね、何か教育に結びつかないような話で。

鷲田:いえ。ちょっと話が戻ってしまうんですけど、お酒を造っている会社と、一緒にプロジェクトを…。

白川:あれもこっちの勝手な押しつけです、はい。

鷲田:勝手に宣伝を作ろう、みたいな感じですか。

白川:そうですね。確か2006年の初め、2005年の暮れかもしれないですけれど、新聞に、群馬にある島岡酒造というところが火事で酒蔵が全部焼けちゃって。江戸時代からある、群馬でも古い酒屋さんなんですよ。

鷲田:前橋ですか。

白川:太田ですね。全焼して、もう酒がつくれなくなる危機に面しているっていうのが新聞に載っていて。僕はその新聞記事読んだ時に、酒づくりも美術も地域に住んで、そこで一緒にやることだから同じなんじゃない、みたいな感じで。酒づくりをやめないで続けていけるように、がんばって欲しいなというエールを送るような感じで、展覧会をこっちで勝手に企画して、やるのもいいんじゃないかなと思って。勝手に「場所・群馬」に参加していた作家の人たちに声をかけて、場所を借りて展覧会をしたんですよ(注:「サバイバル・アート」展、旧麻屋デパート、2006年)。そしたら地元の新聞とかが来るじゃないですか。何でこの展覧会やってるんですかって、その話をして、そしたらその話が新聞に出て、そしたらNHKの方とかで地元の人とかで興味持って。ちらっと流れたりか何かしたと思うんですよ、それで、その酒屋さんが、自分の会社のことを宣伝してくれてどうもありがとうございます、みたいなことを。

鷲田:その時点で初めて、酒屋さんの方はこのことを知ったということですか。

白川:そうです。勝手に僕が仲間に呼びかけて展示して、向こうの人も、自分の酒蔵のことでやっていただいてどうもありがとうございます、みたいなことで。(『フィールド・キャラバン計画へ』掲載の白い服の女性が酒の瓶を持っている写真を指しながら)この写真を作っていて、小さい案内状を作っていたんで、それを、ポスターに使えるといいですよね、とか言って、酒屋さんに渡して。酒屋さんの方はそれを持ち帰って、酒蔵の再建の方針とか、親戚とか集まってやってる時にこの写真見せたらしいんですよ。そしたらみんなが、宣伝には使えないけどいいんじゃない、って(笑)。

鷲田:そういうタイプの作品はそれ一回きりですか。他にも勝手に宣伝みたいなタイプの作品は。

白川:そういうのは、たまたまそういう新聞の記事を見て、触発されてこっち側が手を出すっていうようなことで、自分から満遍なく、いつも探して回ってあれをこうしようとか、ないんですよね。自分が生活して住んでいるところで起こってくる出来事ってあるじゃないですか。今回2010年にノイエスで発表した「前橋妄想」の絵画シリーズじゃないけど、前橋で美術館の話とか、駅前のイトーヨーカドーとかサティとかが閉店してしまうみたいな、現実に今起こっていることを取り上げて、それを絵にして、もう一度フィードバックっていうか、みんなに見せて、戻すみたいな。そういうのが表現活動している人の社会における一つの役割かなと僕は思うんですよね。ささやかながら、そういう風に自分が生活して生きているところで起こっている生(なま)の出来事を取り込んで、それをもう一度表現にして、違う形で、造形的にしろ何にしろ、みんなに伝えるというか。それは非常にオーソドックスな方法で、ヨーロッパの美術なんかは、ずっとそうしてきたんじゃないのかなって思うんです。最近、日本の美術を見ていると、そういうことがちょっと少ないのかなって気もするんで。

福住:面白いと思ったのが、補助金をあえてもらわないようなところがあるじゃないですか、白川さんは。

白川:あえてもらわないようにしているんだよね。

福住:もらうための努力はあんまりしたくないとか。むしろ、今おっしゃったように、自分の生活の中で起こってくる出来事に対して反応して、それを違う形で人に伝えるというところに重きを置いているということですよね。一方で、例えば山野(真吾)さんや宮本(初音)さんみたいに、作家活動をしている途中で、補助金をもらってイベントを立ち上げる方向に行く流れはあったじゃないですか。今もあると思うし。アートNPOも、先に補助金とか助成金をもらうことを念頭においてNPOを立ち上げようという順序になっていますよね。そこをあえて、その流れに逆らっているのか、あえて乗らない、アーティストとしての態度が白川さんの中で一貫しているのかなと思って。それは、前回のパンクの話との結びつきはありますか。つまり、ヨーロッパでいろんな人たちと活動をしていた時には、補助金とか助成金なんていう概念は無かったわけですよね。そういうところに今の白川さんの態度のルーツはあるんですか。

白川:確かにお金があれば、それに越したことは無いだろうと思うんだけども、そのことが表現活動とか、人間関係を壊すことにも通じるし。パンクやってた時はみんな、そういう社会的なものには抵抗するような感じで、ともかく自分たちで何かやるっきゃねえ、って感じで。頼ってないでDIYで手作りでもいいからやる、みたいなのはあったと思うんですよ。初期の頃のアムステルダムのギャラリー・デ・アペルとか、実験ギャラリーとか、みんなそうだけども非常にオルタナティブというか、利益とかじゃないもっと自発的なものを作り出していきたい、発信していきたいという気持ちが強くあったと思うんですよ。さっき山野君の話も出たけれど、昔、1990年代に福岡に行った時に山野君と話して、山野君も大変だったなあと思うんだけども。ミュージアム・シティをやり続けていくと、段々規模が大きくなるし、それで段々期待される、そのために大きな補助金をもらう、そのために有名な作家を呼ぶ。そうすると最初は地元の作家、福岡の作家とかが割と中心だったのが、二回目、三回目になってくると、どんどん地元の作家が消えていって、関西の森村(泰昌)とか、東京の岡崎(乾二郎)とか有名な人がどんどん入ってきて、作品や展覧会のレベルも上がるし、有名になるし、そうしたらどんどん有名な人が増えて、結局地元の人は自然に排除されて、関係なくなっちゃうんだよね。そういう話を山野君にしていて、僕もアーティスト・ネットワーク見ていて、そう思ったりしたわけです。そういうので本当にいいのかなあ、みたいな。そういうのと比べると、確かにヨーロッパでは、有名無名ってあまり関係ないって言ったらおかしいけども、あまりそこにこだわらないっていうか。だから、ボイスとかだって、若い人たちがやっている小さなところの展覧会でも、ボイスに、参加してくれないか、って呼びかけたりして、時間があって余裕がある時かもしれないし、分かんないけども、ボイスも気軽に参加するわけだよね。ユッカーとか、他の作家もそうだけども。日本に帰ってきて、僕が一番嫌なのは、展覧会やる時に、レベルが、とかさ、その展覧会の水準には自分は合わない、とかさ、いい加減なこと言うなよ、みたいな気がするわけ。そんなことじゃねえだろう、みたいな。無名だった時のことをそういう人たちがどう考えるか知らないけれども。日本の画廊との関係とか見ていて、もっともっとオープンな形にならないのかなあ、っていうか。NPOにしても、補助金をもらうことは確かに必要だろうと思うけども、もっと大切なことはあるんじゃないかって気が僕なんかするんだよね。街おこしとか地域おこしとかってみんな言うじゃない。でも、さっきの酒蔵の話もそうだし、あまり美術関係の人からは評価されないけど、僕はこういう日常に起こっている事柄を大切にする必要があるんじゃないかなと思うわけです。だから、街おこしのためのイベントではなくて、街で実際に起こっている、生活している中の事柄に関わって、それを何らかの形で自分からすすんで作品にすることが、作家の一つの仕事っていうか、役割だと思うから。そこには補助金無くったってさ、出来るんじゃないかなって思うけどね。すごい数のメディアとか、すごい反応を呼ぶとか、そういうことは出来ないかもしれないけど、少なくとも、例えば酒屋の人とかは見てくれていたりするし、あるいは《サチ子の夢》でも、例えば服地屋さんとかはそういうことは分かってくれたりするから、些細なことかもしれないけど、僕はそういうところから、始めるっていうか…。街おこし無くてもいいんじゃないかな(笑)。

福住:今のお話と、中盤に出てきた地域通貨の話はどういう兼ね合いになりますか。つまり、補助金をあてにしないで、地域のことに反応していくのは。

白川:一番理想は、かつてのカテドラルじゃないけど、地域の人たちが自分たちで何か作りたいとか、あるいは、自分たちのところで生活している作家を、こいつは面白いやつだから自分たちでこいつと何か一緒にやっていこう、みたいな。そういう関係が生まれるといいなと思ったりするわけですよ。そうするとそこでは、中央とか関係ないんだから、地域の中だけで作品が回ったっていいなあと思ったりもするから、地域通貨みたいな感じで、作品が、例えばジャガイモとか、食べるお米とかに変わったっていいような気もするんだよね。そういう流れの中で生まれるアートがあってもいいんじゃないかなと思うんですよ。今はそういうのが全然ないわけじゃない。だから例えば、昔の話になっちゃうけど、ボイスにしたって、彼が戻ってきて、精神的にダウンしちゃって、精神的に病気になるギリギリみたいなところにいた時に、彼の家の近くにいた人が彼の作品を買ってあげたのが生活費になって、彼は助かったんだよね。だから結局、近くに住んでるその人が、ボイスの初期の作品一番たくさん持っているわけだよね。生活費出してくれたんだから。そういう関係があってもいい気がするわけ。そういうことが、今のアートシステムの中では逆に無くて、作品が名作とか名作じゃないってことばっかりの問題で。自分と周りの人の人間としての付き合いとか、あるいは、この作品を作っている人を私は支持したい、みたいなさ。そういう理想的というか、小ちゃなコミュニティが生まれてもいいんじゃないかなと、僕は思うんだけどね。ストラスブールにいる時にそういうこと感じたりしたんだよね。ああいうところで昔、北方ルネッサンスとか、酒飲んでうたうたしていたやつとか、(マティアス・)グリューネヴァルトとか、ああいう人たちってみんなそういう風にして、地域で絵描いていて、地域の中の、自分たちの教会とか共同体とかで関わっていて。(アルブレヒト・)デューラーとかもそうだろうと思うんだよね。ニュルンベルクからリュックサック背負って動き回るっていうか、地域の中を動き回って。その中で時々版画を売りながら生活していくような、目に見える形でのギブ・アンド・テイクが、あるようなことが今は無いよね、とか思ったりするんですけど。だから、そこに地域通貨が関わって、少しそれを円滑に動かしていけるようなこととか、逆に地域が自覚して、中央とかグローバルなところもあるけれど、それとば別に自立できる経済システムを確立していくとか、そういう意識があってもいいような気がするしね。僕は、そういうアートがあってもいいような気がするんですよ。そういうものが決してローカルなアートじゃなくて、逆に非常にローカルなものが時代の中で普遍性を持てるような共通項を、他のローカルと持っていくような気がするんだよね。初めから普遍性っていうんじゃなくて。初めは、そういう作品とか活動があって、それがあちらにもこちらにもあって、それが世界の中である時間が経った時に一つの共通のものが見えてきて、普遍性とか共有できる価値観とかが考えられるようなことが始まるんだと思うから。一つのユートピアを考えているわけですよ(笑)。

福住:そういう意味でも地域自体が無いっていうことですよね。

白川:地域というのも、存在するようで存在していないようなものだと思うので、僕は「僕の群馬」と言っています。しかし、みんな中央の資本と情報にやられちゃう。作品の評価だって、そこに全部行っちゃっているから。そういうところのメディアに載らないと駄目、みたいな感じだよ。群馬だってそうだもんね。群馬では毎年前橋アートコンペとかってやっているけど、伊東順二とか、21世紀美術館の秋元(雄史)さんとかが来て審査委員長でやるんだけども、ああいうのも非常に疑わしいなあと思うんだけど、行政はあそこにお金出しているし、イベント屋は行政からお金引き出しているんだよね(注:前橋アートコンペライブ。前橋市、前橋文化デザイン会議実行委員会主催)。地域の若い連中に幻想振りまいて、初めの頃はここに当選すればニューヨークで展覧会が出来るよとか、作家になれるよとか言ってさ。でもこれまで誰もそうしていない。一種の詐欺だと思う。俺はもう腹立たしいんだよね、ああいうの見ていると。いい加減にしろよ、みたいな。本当に。もうちょっと、違うタイプの道というか、何かあるんじゃないかなあと思って。そういう方向のアートも探していかないと。これからのアジアとか世界とか、大きい話だけど、考えた時には、そういうものの方が残っていくような気がするんだよね。世界にって言ったらおかしいんだけど、アジアの中で先駆けてやっていくことがやがて将来、他のアジアの国にとっても、一つのモデルケースみたいな形になって、やっていけるようになるといいなと思ったりするんだけど。あまりそういうことを話し合える相手はいないですね。本当に。