沖啓介 オーラル・ヒストリー 第1回
2023年12月11日
東京、沖啓介自宅にて
インタヴュアー:足立元、鏑木あづさ、伊村靖子
書き起こし:東京反訳
公開日:2025年4月14日
足立:今日からインタビューさせてください。オーラルヒストリーは、基本的に編年体で聞き取りすることになっています。全て聞き尽くすのは無理なのですが、今日(第1回)は、1952年のお生まれから70年代ぐらいまでで、明後日(第2回)は80年代の活動、来週(第3回)はその後という感じかなと想像しています。
沖:わかりました。(インタビュイーたちの背後を指して)その後ろに掛かってある絵が、うちの高祖父の絵なのです。その絵は、たまたまここのところずっと掛けっぱなしなんです。沖冠岳(注:おき・かんがく、江戸時代の絵師)っていうんですけど、冠岳の作品としてはそれほど彼の絵のスタイルを表していなくて、この絵は多分注文されて描いたんじゃないか、中国風の絵を描いてほしいって言われて描いてたのではないかなと思うんです。その女性が持ってる楽器が七弦琴という楽器で、ぼくも演奏する中国の3000年ぐらいの歴史がある楽器です。中国では古琴(グーチン)っていうのですけど、その楽器のFacebookの中国語圏のグループにこの絵についてのコメントを投げたら、みんなすごい「いいね!」ってなって、そこのグループの中で一番「いいね!」が多かった(笑)。もともと中国の楽器だけど、日本人から「高祖父が江戸時代に描いた絵です」と紹介したのが珍しかったみたいですね。面白いのでその後もずっと掛けているのです。
鏑木:文人の家系でいらっしゃるんですか。
沖:高祖父が画家で、曾祖父が漢学者なのですよ。曾祖父は沖冠嶺(おき・かんれい)といいます。
沖冠嶺は、若い時から本を書いていて、漢学者でした。明治時代には、それまで日本では中国文化をすごく尊んでいたのですが、日清戦争で日本が勝って、一挙に中国文化を否定し始めましたね。曾祖父は、それまで漢学塾をやっていたんですけども、多分それでやめてしまった。最初に国民学校ができた時に、その初代校長になったんです。でも本来彼がやりたかったことは、やれなかったんじゃないかなと思っています。そういう意味でも、文人の家では全然ないんです。うちは高祖父が画家で、曾祖父が漢学者でというふうになっていて。それは多分、江戸時代では普通の教養……、普通ではないかもしれないけど、教養の主流でした。高祖父と曾祖父は、親子仲が良かったらしいです。気もあって、古代中国を中心にした話とか、漢籍の世界で共通していたんじゃないかな。冠嶺も少し絵を描いて、当時の官展に入っているんだけど、父に比べると絵はたいしたものではない。ぼくも1つだけ持っています。冠岳のほうは、もともと愛媛県、伊予の人です。京都に出て、京都で岸派(きしは)っていう、岸駒(がんく)の門にいた。岸派は虎の絵で知られているけど、冠岳はいろんな種類の絵を描いていました。江戸の末期、明治の始まりで、外国人が来て絵を買っていったので、びっくりするんですけど、大英博物館とか、ベルリンの美術館にも彼の絵は所蔵されているんです(笑)。大したもんです。2018年に、愛媛県美術館で「生誕200年記念 沖冠岳と江戸絵画展」がありました。その時、ぼくも「子孫が語る沖冠岳」という講演をしました。ぼくは、その絵に描かれている女性が持っている古琴という楽器の演奏をして、それで、文人というのはどういうものかっていう話をしたんです。また沖家の中で冠岳というのはどういうふうに伝わってるのかという話にちなんで、例えば浅草の浅草寺の中の一番大きな絵馬が、冠岳の作品であるなどを話しました。ぼくが子どものときは、お堂に掛かっていたのですけど、今は宝物館に入っていて、年に何回かしか見られません。でもそれほどはその後の沖家は文化的な家ではないです
鏑木:文化的なおうちのように思います。
沖:そういうのを根拠に美術系の大学に行くというのに、ぼくは利用した感じはありますね。でも、日本の世の中はやはり明治時代でガラッと変わって、漢学者の冠嶺は国民学校の先生になったりしていました。漢学は、――シノロジーっていうほうの漢学ですけど、だんだん尊ばれなくなった。面白いのは、その息子である祖父は、またまったく違う方向にいって、彼は横浜で英語を学んで、イギリス商社に勤めていた。明治時代を挟んで、うちはずいぶん変わった。うちの宗旨はカトリックなんですが、それは、曾祖父の奥さんが、いきなり天主教、つまりカトリックに宗旨がえし、一挙にそのまま西洋化が進んだ。理論物理学でノーベル賞受賞者の湯川秀樹の家では、漢籍をずっと子どもの時から読むようにしていた。湯川秀樹全集とか見ると、漢籍の知識があるのがわかりますけど、うちは漢籍を捨てて、西洋化に流れていったのでしょう。
鏑木:お父様、お母様は、どういった方々なんですか。
沖:父親は、英国商社に勤めていた祖父のもとで横浜で生まれました。絵描きの冠岳が東京、江戸に来て、それで、江戸で曾祖父の冠嶺も江戸で育ったのですけど、曾祖父は江戸で、今の銀座7丁目あたりで、敬業堂という漢学の塾を開きました。その後、いつの時点だかよく分からないのですけど、横浜に移って、社会の変化に染まった。横浜に行ったのは、新しいものがあるからという考え方だろうと思うんです。それで、父親も横浜で生まれたのです。関東大震災の後に、祖父の代が4人兄弟なんですけど、全員集まって、これからどうしようかと話した。ぼくの祖父は神戸に行って、他は横浜に残ったんです。父親はその後神戸で育った。母親は、神戸で生まれました。母親の父は高裁判事をつとめた後に弁護士になりました。母方のほうは、また全然、堅い家でしたね。母方の祖父は、もともと京都の日本海側の宮津のほう、つまり丹後の出身でした。もともと日本海側から京都に出てきたのですが、田舎のことで、周囲の人からは、田舎に帰って学校の先生でもやれと言われて、最初は師範学校に入った。だけど嫌で、司法試験を受けて、それで裁判官になったそうです。父と母の家では、ずいぶんと違っていた。父方の祖父は横浜、神戸いう土地柄もあるのだけど、英国商社に勤めたりとか事業を起こしたりとかしていました。祖父は、ぼくが3歳ぐらいの時に他界したので、全然知らないのですけど、特許を取るとか、発明するのが好きだった人らしい。その家は変わっていて、中国の狼の血を引いた大型犬がいたりとか、インド人の書生がいたりしたそうです。神戸は印僑とか華僑が多いので、インド人の書生が家にいたのだと思います。犬は、中国の狼と大型犬のシェパードとの混血で大きな犬だった。戦争中に軍用犬として徴集されて、戦死したのです。断片的にしか知らないけど、わりと変わった家なんじゃないかなっていう気はしますね。
鏑木:今、少しお話を伺っただけでも、沖さんのその後の活動に何かつながっている気がしました。
沖:そうですね。わりとつながっている気がしますよね。後から知ったわけですが。冠岳についても後から学んだ。はとこの沖憲之が、冠岳について調べ始めて、愛媛県美術館に問い合わせて、そこの学芸員の方が研究を始めたんです。今は京都国立近代美術館にいらっしゃる梶岡秀一さんですが、沖冠岳について調べて論文を書いたりして、愛媛県美術館で何度か展覧会を企画された。
足立:おうちに漢籍もいっぱいあったんですか。
沖:うちに漢籍はないです。あったのかもしれないですけども、多分、大震災のときになくなった。大きな家というか、曾祖父の奥さんが、すごく商才があってビジネスをやっていたらしいです。横浜駅の周辺の土地を、彼女が随分持っていたらしいです。で、薬屋をやっていました。大きな家だったけれども、関東大震災でみんななくなった。そこで、どういうことがあったかわからないのですけれど、それが転換点になったと思うんです。
足立:決して古い漢学の本に囲まれていたわけではないんですね。
沖:そうですね。
鏑木:子どもの頃に触れていたとか、そういうことはあるんですか。
沖:ないですね。ぼくも、後に中国の琴(きん)とユネスコの世界無形文化遺産となったその楽器の学問である琴学を学んだけど、漢学の文化は我が家にもあったなと知る程度でした。それで漢文でなくとも、日本の古文書はよく読めないです。曽祖父冠嶺の書いた本、棚の上にあるんですけど、読みにくいですよね。その右のほうにあるのは、ぼくの古琴の楽譜集です。
足立:沖さん自身がお生まれになったのは横浜?
沖:ぼくは、目黒です。
鏑木:子どもの頃は目黒にお住まいだったのですか。
沖:そうですね。曾祖母がカトリックになって、それまでうちは曹洞宗だったのにカトリックに変わって、その後代々、カトリックなんです。目黒にサレジオ教会があるのですけど、その学校に通いました。サレジオ教会の修道会の学校で目黒星美学園小学校といいます。その前にサレジオ幼稚園にも通っていました。8年間ぐらいカトリックの学校行って、その後は区立の目黒八中、高校は世田谷区にある東京都立桜町高校に行きました。
鏑木:そうでしたか。ずっとそのあたりにお住まいだったんですね。
沖:そうですね。ほぼ目黒、世田谷ですね。大田、品川も含めて城南地区かな。
足立:中高の文化的な影響は結構あったと思うのですけど。
沖:文化的影響はよくわからないけれども、目黒八中はわりと自由な感じの学校で社会的にもリベラルな雰囲気でした。
鏑木:世代的にもきっと社会的ですよね。
沖:そうですね。ぼくはボーッとしていたけど、周りの友達は、今から考えると随分ませたことを文章に書いたりしていました。そのころ大きな学生運動があって、アメリカの原子力空母来航反対闘争とかあったり、ベトナム戦争が拡大していて中学生でも反応する人もいたりしました。社会科の先生はもちろんそういう話もしてくれるし、英語の先生は、英語で当時のフォークソングを教えてくれた(笑)。
鏑木:それは、いわゆるプロテスト系のフォークソングですか。
沖:そうですね、反戦の「花はどこへ行った」とかです。あの当時、ごく普通にあった、そういう文化ですよね。ちょうど中学校の時に自分もギターを弾くようになりました、楽器はもともとピアノ、6歳ぐらいの時からピアノを弾いていたんです。
鏑木:ギターに触れるきっかけというのはなんだったんですか。
沖:周りでポップスがはやっていて、みんなはどっちかと言うとエレキギターを使っていた。中学校の先輩がやってたバンドは、当時だと、ベンチャーズ。テケテケテケっていうやつをやってて。それもそれでいいなと思ってたけど、なんとなく内容的にはフォークソングのほうが文化的に面白かったのと、あと、英語の歌も面白いと思ってた。その英語の先生が教えてくれた。友達と演奏するようなことになったのは、中学校。
伊村:ビートルズの来日(1966年)は、どう受け止めていましたか。
沖:ビートルズが来た日は、中間試験で、ぼくは勉強してたんですけど、クラスの女の子たちは勉強しないで見に行ったり(笑)。
鏑木:当時からポップス、洋楽がお好きでいらっしゃったんですね。
沖:それはそうですね。普通にはやっているし、ぼくは校内放送のポピュラー音楽担当のディレクターだった。グループサウンズも流行っていました。
鏑木:GSの時代ですよね。
沖:グループサウンズは、ポップスで考えると、どちらかと言うと、それまでは、自分で演奏するよりも受けて側の人が多かった。グループサウンズ以降は、自分たちで弾くっていうようなことが増えたんじゃないかなと思います。
鏑木:それでバンドということになっていくんですね。
沖:みんなバンドやろうということがあったのじゃないかな。ギターを持って歌を歌うのは、そのころで、フォークソングの影響もあったし、ロックもそうだし、楽譜を読めなくてもコピーして楽器を弾くようになったのは、そのころですよね。
伊村:新宿西口広場にそういう人たちが集っていた場所というのは、どういうふうに受け止めていましたか。
沖:そうですね。懐かしいですけど、ぼくも時々行っていました。ぼくが高校生で、ベトナム戦争がもっと激しくなったし、反対運動も激しくなった時で。新宿西口広場でフォークソングを歌っていた人たちは、ベ平連といって、ベトナムに平和を市民連合のフォークゲリラの人たちだったんです。フォークソングの中でもプロテストソングに興味を持っていた。フォークソングをやるようになってから、アメリカの歴史も知るようになって、また戦争とか何かを考えるようになって、高校1年生の時に、15歳ぐらいで初めてベトナム戦争反対のベ平連のデモに出た。それ以来ずっと、50年以上戦争に反対しているけど、戦争はなくならないですね。
伊村:当時の高校生は、早熟ではないかと思ってお聞きしていたんですが、人によってはデモに参加することを難しく捉えている人もいたと思いますし、沖さんは、特別な環境にいらしたという感じもします。
沖:今から考えると不思議なんですけど、15、16歳ぐらいって、そういうものをわりと共有できたような気がします。あと学校でコンサートをやったりしました。そうすると、フォークソングを歌ったりすると、そこで社会を風刺するような歌を歌うのは普通だったりしました。その後、高校2年生の時に、高校紛争がありました。東京都だと、都立高校の半分ぐらいでなんらかの紛争があったのですよ。全校集会があったり。ぼくの場合は、自分の高校にバリケードを作りました。
鏑木:沖さんも参加されていましたか。
沖:そうですね。ぼくは言い出しっぺのほうだった。でも、先輩たちがいたから、一緒にやっていたんです。それはわりと普通の流れでしたね。学校の先生たちにも共感する人もいるし、そうでない先生たちもいたと思うんだけど、ほとんどの都立高校っていうか、私立の学校も含めて、なんらかのことがあったから、なにもなかったら、逆にかっこ悪いと思っていたんじゃないかなという気もしますね。またこれを機会に、教員も授業科目の改良を試みたり、文化革命でもあったと思います。友人の高校では、科目の男女指定を撤廃したので、家庭科の授業を男子も取れるようなりました。
鏑木:ちょっと戻ってしまうんですけれども、中学生の時にされていたバンドは、音楽で言うと何に近い感じになるんですか。
沖:その時は、モダンフォークソングですよね。ピーター・ポール&マリーとか、ボブ・ディラン、ブラザーズ・フォアとか。
鏑木:あと、その頃、小説とか、美術とか、映画とか、音楽以外でお好きなものってありましたか。
沖:中学校だと、わりとボーッとしてた。
鏑木:やっぱり音楽が一番好きっていう感じですか。
沖:そうですね。まあ、クラブでバレーボールやってた。
鏑木:部活でバレーボールをやりつつ、それ以外は音楽を中心に過ごしていた感じですか。
沖:そうですね。わりとたくさん、いろんな、子どもの時からいろんな本を読んでたけど、小学生の時は、作家名を挙げろって言えば、エーリッヒ・ケストナーのものはほとんど読みました。あとは、『ドリトル先生』とか。そのころは、その本がどこにでも、巷にいっぱいあったので、読んだっていう感じです。考えてみると、小学校は私立だったから、わりと盛んにあったかもしれない。小学校はカトリックの学校だったから、先生もイタリア人の先生とか、友達もハーフの子どもとかも多かったし。小学校の時から英語の授業があった。そういう意味では、小学校のほうがよりミックスカルチャーでしたね。面白かったです。運動会も、ブラックの子がいるとめちゃくちゃ速くてね。リレーで数十メートルぐらい離れていても、ブラックの男の子や女の子がシューンって追い抜いていっちゃう(笑)。
鏑木:それも面白いですね(笑)。
沖:スピードが全然違っててね。
鏑木:みんな等しく、みたいなカルチャーとは少し違うというか。
沖:そうですね。まあ、いいか悪いかわからないですけど。一つは、今から考えてみると、その人たちの親がカトリックだったのかもしれないけれども、またハーフだと、他のところに行くといじめられるけど、先生もイタリア人だったりとか、いろんな外国人もいたりするようなことがあって、そういうことで来てた子どもが多かったんじゃないかなと思います。英語の授業があって、その子たちは家では英語で話していて、英語と日本語を話すから、ものすごくできて、ただ、おお、すごいなと思ってました。
鏑木:では、高校生ぐらいから少し美術に関心を持たれるようになった。
沖:そうですね。高校の時は、わりとシュルレアリスムの本などをずっと読むようになった。美術ももちろん興味あって、美術全集がうちにあったんですが、サルバトール・ダリの絵にものすごく影響を受けた。ただ、高校生の時は状況的にも政治化しました。もともとが、自分にとって政治と文化っていうのは一緒にあって、それでシュルレアリスムにいくんですけど、シュルレアリスムの本を読む前に、最初にシュルレアリスム的な本を読んだのが、ロートレアモンなんですよ。その本が現代思潮社から出ていた。現代思潮社の本、やっぱり左翼系の本も多かった。あと、レフ・トロツキーもあった。トロツキーというのは、アンドレ・ブルトンとも仲良かったじゃないですか。だから、普通に入ってきていた。
去年、美術評論家連盟に入ったんですけど、つい最近、栗田勇さんが亡くなったんですね。そしたら、栗田勇さんが亡くなったので、連盟としても追悼の文章を書かなきゃいけないって話をやっていた。あれ、どっかで聞いた名前だなと思って、考えてみたら、栗田さんの本をずいぶん読んでいた。トロツキーもそうだし、そのシュルレアリスム的なこともそうです。考えてみると、10代の中ごろぐらいに影響を受けたのは、あの栗田さんだった。後からわかってくる。誰も書かなかったら、ぼくが書こうかと思ったけど、ちゃんとした美術評論家の人が書くことになって良かったです。
鏑木:思い入れがある方が書かれるのも、いいと思います。
沖:そのうちいつか書くかもしれないです。トロツキーの本は、例えば『わが生涯』は、サルトルとボーヴォワールが恋人だった時にお互いに読んだ本だったりするし、トロツキーって面白くって。それで政治的にはトロツキストになるんです。もっとずっと後に知るのだけど、美術評論家のグリーンバーグとか、ローゼンバーグとかも、みんなトロツキストなんですよね。やっぱりそれはシュルレアリスムの影響が強かったんだな。そういうふうにして、ぼくは入っていった。トロツキーの本とか読んだりとか、現代思潮社の本とか、マルクスや、サルトルの本を読んだりしましたね。
鏑木:当時、桜町高校の人たちはやっぱり現代思潮社界隈の本を読まれていたんですか。
沖:まあ、自分の周りはそうですね。他には吉本隆明の「共同幻想論」とか読まれていた。ぼくはそういう本も読んだけど、シュルレアリスムや他の文化イメージが大きかったです。もともとミックスカルチャーだから、普通にロック文化の影響もあったし、あと、やっぱりヒッピーカルチャーの影響を受けてますね。やっぱりベトナム戦争に反対。そういう意味では、政治主義的な人がトロツキズムとか、マルクス主義に関わるよりは、もともとラブ&ピースみたいな気分も強かった。まあ、政治と文化が共存してるっていうか、まぜこぜになってるようなところが、当時はあったのじゃないかなと思います。
伊村:今、栗田さんのお話があって驚いたのですが、後の世代からすると、シュルレアリスムに出会うのは瀧口修造さん経由でと想像することが多いんですけれど。
沖:もちろん瀧口さんはそうですね。
伊村:当時、瀧口さんではなく、栗田さんの方に関心を持たれたということだったんですか。
沖:そうですね。瀧口さんの本も読んだし、瀧口さんの本を読むようになったのは、多摩美に入ってからです。詩を書いて雑誌に投稿していたこともあったし。瀧口さんのことは、高校の国語の教科書に瀧口さんの文章が出ていたから、知っていた。それで、感覚的には瀧口さんの詩とかは好きだったんだけど、ただ、ブルトンはもっとすごく政治的なものがあった。ぼくには、瀧口さんはちょっと軟弱な感じがしていました。
鏑木:文学のほうから入ると、栗田さんになるんですか。
沖:いや、そうではないです。文学のほうで言うと、やっぱり瀧口さんですね。ぼくは、ちょっと外れたほうの、トロツキーから入ったり、本当のシュルレアリスムではないです。シュルレアリスムについての捉え方はみんなさまざまです。日本の場合は、ほとんど文学や絵のスタイルで入ってきている。だから例えばオートマティズムは強くコアにはなっていないです。オートマティズムというのは、ものすごく強い感覚的な世界であって、あれが超現実主義のコアです。オートマティズムは、その後の抽象表現主義とかジャクソン・ポロックとかにずっとつながっていくもので、それ以前のニューヨーク・スクールもオートマティズムがコアです。要するに、無意識の世界とは何か。その辺って、日本のシュルレアリスムは弱いと思いません? 専門の人でもその辺は抜けてしまう。今から思うと、ヒッピー文化とかにしても、やっぱりスピリチュアルなものも含んでいて、その後のコンピューター・テクノロジーとか、人工知能へもつながっていくし、なぜサンフランシスコを中心に、シリコンバレーも含めて、今のコンピューターのテクノロジーが出てきたかって言ったら、やっぱりスピリチュアルな文化も含めてあった。Appleのスティーブ・ジョブズだって、やっぱりインド思想に惹かれた。インターネットの初期って、そういうのが多かったですよね。ぼくが、1994年にDTI(Digital Therapy Institute)でミュージシャンのヘンリー川原と作った《ブレイン・ウェーブ・ライダー》って、かなり外国で評判になったのですけど、それはテクノロジーとスピリチュアルなものとか、ちょうど一緒になったからじゃないかなと思うんです。まあ、そういう文化がぐちゃぐちゃになりながら、実はそれは自分の中では中学校ぐらいから始まっていたかもしれない。
足立:高校生のころの美術への関心は、シュルレアリスムがメインで、そこから彫刻への関心に?
沖:それも話すと長いというか、一つの体系で言うとシュルレアリスム的なんですけど、どちらかと言うと、1960~70年代当時のグラフィックデザインの影響も強くて。グラフィックデザインでもいろいろなものが出てきて、当時、ポール・デイビスのEvergreen誌のチェ・ゲバラの表紙のポスターが出たりとか、デイビスも所属していたシーモア・クワストやミルトン・グレーサーのプッシュピン・スタジオも華々しくやっていて、どちらかというと、絵画はあまり入ってなくて、最初からグラフィックデザイン的なものと、映像と、オブジェとか、立体に関心があった。典型的な彫刻は、そんなには近しいイメージがない。まあ、彫刻もわりと詳しいし、はまってる部分もあったのだけど、どちらかと言うと、映像とか、立体とかだった。
鏑木:ビジュアルなもの。
沖:そうですね。
鏑木:プッシュピン・スタジオのデザインは当時、具体的に何でご覧になっていたんですか。
沖:プッシュピン・スタジオが関わった雑誌や印刷物などですよね。日本のデザイン雑誌でも随分と取り上げられて。
鏑木:デザイン系の雑誌ですか。
沖:そうですね。あと、レコードジャケットが圧倒的に多いですよね。
鏑木:それはすごくわかる気がします。
沖:現代美術を始めた時も、わりとインスピレーションの元になっているのは、実はジャケットなんです。アイデアがないと、詰まると、大体レコード屋さん行って、こうやってジャケットを見ていたんです。ずいぶんシュルレアリスムとそれるんですけど、プッシュピン・スタジオにも影響を受けた。まあ、プッシュピン・スタジオだけじゃないんですけど、ヒッピー的な絵とか、ああいうようなものを含めて、感覚的には随分と影響されている。それも、そっちからまた《ブレイン・ウェーブ・ライダー》みたいなものに関わってくるのですけど。
ぼく、ニューヨークにいる間、プッシュピン・スタジオに行ったことがありました。友達っていうか、友達よりむしろ先生ぐらいの歳のパッケージデザイナーの木村勝さんと知りあっていて、お嬢さんがプッシュピン・スタジオでインターンをしたいという話があった。木村勝さんは世界的にも有名なデザイナーだから、連絡を取ったらいいよってことになった。その時、木村勝さんとそのお嬢さんと一緒にプッシュピン・スタジオに行って会った。それはもう1980年代だから、もう1960年代の頃のパワーはないけど、シーモア・クワストなど有名な人たちがいたのは楽しかったです。
伊村:栗田勇さんも、当時デザイン評を書かれていたと思うんですけれど。
沖:そうですね。
伊村:先ほどのトロツキーというお話もありましたけれど、同時代について書かれているものも読まれたりしていたんですか。栗田さんが書かれていた、例えば『SD』のような、雑誌は?
沖:そうですね。書いていましたね。でもまあ、高校生だから、そんなにはいろいろ読んでないです。
伊村:どちらかと言うと、グラフィックとして入ってきた?
沖:どっちかというと感覚的に入っているので、体系的には読んでない。栗田さんって、考えてみると、当時の中で高感度の人だったんじゃないかなと思うし、いろんなとこ出てたんですよね。ぼくは、紛争中の大学に行って、立て看板があって、そこでも栗田さんの名前を見たことあった。文化的なものと政治的なものとをミックスした感じでありましたね。
鏑木:ちなみに当時のレコード屋さんって、具体的にどのあたりですか。
沖:渋谷です。ぼく、学芸大学に住んでいたから、渋谷のヤマハです。今は変わってしまったけれど、あそこが大きかった。
鏑木:どのあたりにあったんですか。
沖:道玄坂の上のほうですね。今はレコード店はもうなくなっちゃったんですけど、大きなお店で、渋谷のヤマハに行くとなんでもそろうみたいな感じでした。それから入り口のところがちょっと広めだったんですよ。そこ行くと、無料でコンサートが聴けて。ロックはそこで聴かなかったけど、ジャズはほとんどそこで聴きましたね。その当時の有名な日本のジャズのミュージシャンの演奏を、みんな渋谷のヤマハで聴いた。みんな誰もが行ったかもしれないな。
鏑木:全然知らなかったです。
沖:時代が違うから知らないのでしょう。音楽好きはみんな行っていたかもしれないな。山下達郎さんがプロ・デビュー前に作ったレコード“Add Some Music To Your Day”に参加したことがあるのですが、それがどのようにできたかっていうと、ヤマハがその時、ホームユースの6チャンネルのミキサーYes-600を作ったのですよ。それを買って、これで多重録音して録音編集するのを山下が考えた。その時はオープンリールの普通のテープレコーダーで多重録音して作ったのが、そのレコードだったんです。彼が使ったミキサーも、当時のヤマハで買ったものです。渋谷のヤマハは、文化的にも、高校生ぐらいの時はめちゃくちゃ影響ありましたね。
鏑木:そうですか。その頃、沖さんがされていたバンドっていうのは、どんな感じだったんですか。
沖:高校生の時ですか? 高校生の時やっていたバンドっていうのは、フォークソングのバンドをやっていたんですけど。フォークソングやフォークロックみたいなバンド。
鏑木:ちょっとポップス寄りになる感じですか。
沖:そうですね。ハードロックみたいなのは自分の演奏には入ってなくて、でも、コンサートはハードロックのコンサートにも行っていたのです。ぼくはどちらかというと、ロックはハードロックが好きでした。山下のグループに会うようになって、彼らは全然違う音楽の志向性を持っていた。彼らはコーラスグループというか、ビーチボーイズの曲をやっていた。ぼくは、ビーチボーイズっていうのは、中学校の時のバレー部の友達がビーチボーイズ好きだったんだけど、ぴんとこなくて。でも、ストライプのシャツをぼくが持っていて、それを着て学校に行ったら、「あ、ビーチボーイズみたいじゃん」って言われたぐらい(笑)。山下たちに会って、ビーチボーイズを聴き始めた。アメリカ西海岸の音楽とか、あと、モータウンサウンドが入ってきたのは、山下たちに会った頃。山下たちに会ったのは、もともとその頃知り合った友達が山下の中学校からの友達で、エリア的には、ぼくは目黒で、彼らは池袋とか、練馬とかなので、普通には会わないんです。でも政治や文化の活動もいろいろなものがごちゃごちゃなんですけれど、高校は全国的に紛争とかあったから、たくさんの友達がいて、その友達を介して山下を知ったわけです。
鏑木:都立竹早高校。
沖:よく知ってますね。
鏑木:(笑)。
沖:竹早高校って、途中で学校の改装工事で新宿高校の場所を借りて、半分新宿高校と竹早高校が一緒になっていた。その時、実際にその時は会ってないかもしんないけど、その時、坂本龍一と山下とは一緒の学校にいた(笑)。山下は、今は政治的なことは言わないけど、政治的な活動には入ってなくても、その周りの近いとこにいた。反抗的な生徒だったらしくて、髪の毛を伸ばしていた。髪の毛伸ばしているのって、当時は悪いことだった。
鏑木:皆さんわりとそういう格好を普通にされていたんですね、学校の中で。
沖:そうですね。あと、紛争中に全校集会で制服をなくしたので、一時期は好きな格好して、ぼくもヒッピーみたいな格好して高校に行っていました。
足立:確認すると、高校生の時に山下さんと出会っている?
沖:そうですね。山下はもう高校出たぐらいです。ちょうど出たぐらいで。高校の時かな。高校出たかぐらいの時に会った。
足立:その高校生の時に見た美術とか、あと、映画についてお聞かせください。
沖:映画ですか。美術は、美術という感じでは、高校の時は特にはないです。発表するとかいうのはないんですけど。どっちかっていうとグラフィック的な絵を描いたりとか、こういうサイケデリックな感じのパターン描いたりとかしてたし、映像は、ビデオが出てからです。うちは、父親がキヤノンに勤めていたので、小学生の時からカメラがいっぱいあった。
鏑木:それは大事なことではないですか。
沖:ちゃんと小学生でもライトメーターで読んで、撮っていた。家には8ミリカメラもあったし、なんでも、キヤノン製品がいっぱいあったし。あと、ぼくが中学、高校ぐらいの時は、父親はキヤノンで宣伝課長をやっていて、うちに宣伝課の人たちやデザイナーの人たちが来たのも、今から考えると影響があった。その人がフォークソングのいろんなレコードをくれた。それ、中学校の時だ。レコードくれたのは大きかったですね。
鏑木:映像がわりと身近に常にあったんですね。
沖:そうですね。映像っていうか、グラフィック。写真はわりとあったし。8ミリカメラで撮って表現するっていうのは、よっぽど意識が高くないと無理でしょう。もともとカメラそのものが、家庭、ビデオもそうだったけど、ファミリー映画みたいな感じで、家族の記録を撮るっていうのがあった。父親も、家族の旅行とか、運動会の記録とか、そういうのばっかり撮っていた。世界中どこでもそうかもしれないですね。映像は、そういう意味では難しいというか、もう一歩先の世界じゃないかなと思う。足立さんの戦前の日本の前衛芸術の本を読んでいて、やっぱりアヴァンギャルドのムーブメントでも、映像というのはちょっと違うところにあるじゃないですか。今だったら、国際美術展になると、半分ぐらい映像みたいになっているんだけど。映像が美術に入ってくるようになったのは、やっぱり90年代で、ヴェニス・ビエンナーレなどでものすごく映像が増えて、表現がブラックボックスになった。そういう時代の時から入ってきたんじゃないか。もちろん、ビデオアートはその前からあった。ビデオアートは、ナム・ジュン・パイクが、彼自身が言った世界で最初のビデオアートだって、1963年かそのくらいですよね。ソニーのポータパックが販売された日に、パイクが最初にビデオ作品を撮影した。ぼくは、大学生になってからビデオアートに興味を持った。カメラとか機材っていうのは周りにはなくて、たまたま当時お金をためて買ったような人がいて、それをみんなで共有して、一回何千円か払って借りたりとかして、それでやっとこさ撮っていた。自分でカメラとデッキを持ってる人はいなかったですよね。
鏑木:映画館で見るような映画でお好きだったものってありますか。
沖:やはり高校生ぐらいから、池袋の文芸坐とかかな。あと、映像は、高校の時にサイケデリックみたいな、ああいうような映像とかは、文化としては見てましたね。
鏑木:実験映画的なものですか。
沖:実験映画や、ピンク・フロイドなどの映像というよりは、ライト・ショーみたいなやつですよね。オーバーヘッドプロジェクターに油とカラーインク流していた、イギリス人のアーティスト、マーク・ボイル。2005年に亡くなったのだけど。その人が、ピンク・フロイドの映像をやっていて、ヴェネツィア・ビエンナーレに出てるんですよ。ぼくはその人と、富山県立近代美術館のこけら落としの展覧会に一緒に出てるんです(「富山国際現代美術展」富山県立近代美術館、1981年)。
鏑木:1981年の。
沖:そうですね。その時、マーク・ボイルと一緒になった。「ああ、この人だ」って驚いた。もう普通のおじさんになっていたし、わりと堅いタイプのおじさんだったから、話が全然ピンク・フロイドとかとつながらなかった。ボイルは、富山県立近代美術館で一緒だった時は、半立体みたいな絵画の作品を作ってましたね。面白い作品だと思ったけれど。
天井桟敷が渋谷に実験映画を上映する場所を明治通り沿いのところに持っていた。大学に入ってから、実験映画は、そこに行ったりとかして見ていた。それから後に四谷にイメージフォーラムができて、そこでも実験映画がかかるようになっていた。
鏑木:映像は、高校じゃなくて大学に入ってからですか。
沖:そうですね。映像はその後ですよね。
鏑木:それまで、特別に好きな映画はありましたか。文芸坐に行っていたとおっしゃっていましたね。
沖:そうですね。よく見たのは大島渚で、あと、その流れで言うと、ゴダールとか見ていた。ゴダールは、政治的な集まりの中での文化的な活動をやってるような人たちは、ゴダールを見ていましたね。パリの五月革命の内容やシチュアショニストの考えがもっと日本に入ってれば、もっとすごくなったんじゃないかと思う。断片的には、日本ではアンリ・ルフェーブルの本が読まれていました。五月革命には、高校生だったので、連帯感を感じていた。当時、フランスからも高校生が来日したりしていました。パリの五月革命では高校生の働きが大きかったのです。
足立:高校生の時に美大を意識し始めたと思うのですけど、多摩美の彫刻科には、いい先生がそろっていたと考えていましたか。
沖:そういうのは全然ないですね。ぼくはとくに彫刻科に特に入りたいと思ってなくて。ぼくは、本当はデザイン科に入りたかった。絵画っていうのは関心の中に入ってなくて、アートの中でもアンディ・ウォーホルが好きになってくると、やっぱりグラフィックデザインとか映像とかのほうがよくなってくる。油絵で、テレピンで描くみたいなのは全然(関心に)入ってない。もちろん高校生の時に油絵も描いたりしたことあるのですけど、あんまり入らなかったです。いまなら映像専攻、アニメーション専攻、メディアデザイン専攻など、自分に近い選択ができるのですが、当時は無かったですから。
鏑木:沖さんは高校生の時は、将来はグラフィックデザイナーの仕事をしたい思っていたんですか。
沖:グラフィックデザイナーというか、アンディ・ウォーホルみたいな形で表現がうまくいけばいいなというふうに考えていた。
鏑木:デザインだけじゃなくて、いろいろ包括的な表現。音楽なども含めた。
沖:表現的にはそうですね。今は、グラフィックデザイン的なものとアートっていうものも含めて、わりと広く総合的に見えるけど、美術史って美術館のコレクションと画壇の歴史でほとんど書かれているじゃないですか。そこから外れたものって、やっぱり全然考えられてもいなかった。今でこそ、絵画や彫刻などの美術以外のものも含めて美術史を考えられるようになったけど、それはずっと後ですよね。美大に入る時って、ほとんどの人のメンタリティーは、やっぱり絵を描きたいとか、誰々の影響で絵を描きたいとか、彫刻作りたいとか、その辺のメンタルなもので入ってくる。まあ、特に美大に入る時のモチベーションっていうのは、そういうところにあるのではないかな。
鏑木:具体的な何かを目指しているというよりは、そういったものが好きだから、なんとなく方向的に美大かな、という。
沖:そうですね。それもぼくの場合は、高校卒業して何やろうかと思った時に、ジャズ・オーケストラのバンドで、「ボウヤ」を募集してたから、一瞬そういうとこに入ろうかなとか思ったこともあった。ミュージシャンになろうかと思ったけど、やはり大学に行こうと思って美大に行ったんです。あと、山下みたいに、むちゃくちゃ音楽の能力が高い友達と早くも10代の時に会ったというのもわりと大きい。すごいので、ちょっと音のほうではかなわないような気がしてました(笑)。
鏑木:それは山下さんとお付き合いされていた頃から、そういうふうに感じていたんですか。
沖:まあ、山下の場合は、圧倒的にすごいです。ミキサー使って録音することもすぐに自分で習得したし、それから、ビーチボーイズの曲をコピーして、みんなに楽譜を配って、それからボーカルの楽譜も書いて渡してくれた。普通のロックだったら、みんなギター弾いて、ドラムとベースで組んでいれば、だいたい良いような時に、コーラスのバンドだ、と。要するに、ビーチボーイズはハーモニーじゃないですか。ちゃんと音楽そのもの全体も知らなきゃならないですからね。
鏑木:テクニックがないとできないタイプの音楽ですよね。
沖:昔のグループサウンズをやってる人たちって、楽譜を読めない人が多くて、あいつは楽譜を読めるよっていうのが、それだけでもすごかったわけです(笑)。そういう人ももちろんいっぱいいるけど、今の人たちみんな楽譜が読めるし、曲構成もややこしい、複雑な音を作ってやるようになったのだけど、その頃はほとんどいなかったですよね。山下とか、まあ、坂本龍一は作曲専攻だったから、そういうのを知っていた。ぼくも高校の時、芸術科目は音楽を取っていて、音楽理論を習っていた。その時の先生が、ちゃんとした音楽の先生で、和声の進行とかを教えてくれたのですけど、いやだなと思いながらやっていた。でも、その後、自分でちゃんと勉強したら、その和声の進行がちゃんとつながった。その先生はクラシックで教えていたんだけど、ジャズとクラシックは同じように音楽の論理で成り立っているのかっていうのを知った。その声楽家で女性の先生、ぼくの高校の担任だったんですけど、「後から先生に感謝することがあるよ」って言ってたことがあったけど、本当でした(笑)。
鏑木:では、音楽もしっかり高校生の時に続けていた。
沖:そうですね。やっぱり現代アートが中心になって、やり方とか決まりとか全然ないじゃないですか。美大とか芸大とかも全部含めて、その在り方は旧来のものと違ってた。ナム・ジュン・パイクだって、もともとは音楽やっていたじゃないですか。日本人のメンタリティーでいくと、何かに影響を受けて、こんなふうにしちゃいけないとかいうのが強くて、今でも石膏デッサンを中心にしていたりしてるじゃないですか。あれって、クリエイティビティーの無さを表していて、壊さないとなかなか厳しいですよね。そのわりにはユニークな人も出てきて、やっぱり彼らはぼくよりもちょっと後の時代だからかな。
足立:多摩美に入られたのはストレートで。
沖:いや、ストレートじゃないですけど。浪人してからですけど。
鏑木:予備校には行かれていましたか。
沖:予備校は、新美と、すいどーばたに行きました。すごい美術っぽい話。
鏑木:そうですね(笑)。一応、アーティストの方にはお聞きしてます。
沖:大体、みんな予備校でつながってたりするんだよね。
鏑木:そうなりますね、美大だとどうしても。
沖:ぼくは、わりと多摩美の人脈とずっとつながってることもあって、イラク戦争のデモの時に思ったのが、多摩美の前身の多摩美術学校のころの卒業生の方と一緒に。池田さん。
鏑木:池田龍雄さんですか。
沖:そうです。池田さんとデモをしました。その時のイラク戦争のデモを多摩美の先輩である堀浩哉さんと一緒に呼び掛けました。一緒になった多摩美関係の方は、池田さんや建畠晢さんで、一緒に渋谷で飲んだのを覚えています。建畠さんは、3代続けて多摩美じゃないですか。多摩美の人脈がずっとつながっているんだと思って、面白かった。
鏑木:そうですね。美術大学って狭いコミュニティーになりがちだと、ご指摘のとおりだと思います。
足立:美大にカルチャーショックみたいなのありましたか。
沖:美大にはあんまりなかったです。カルチャーショックはやっぱり街にあった。大学はいい先生というか、東野芳明さんとか、李禹煥先生とかに恵まれていた。でも、もっと紛争前のほうが、多分もっといいでしょう。斎藤義重さんみたいな方がいて面白かっただろうと思います。ぼくの場合は、神田の画廊界隈で会ったアーティストたちの活動は、大学の授業よりも面白かったです。
(休憩)
足立:大学に入学したのは、1972年になるんですか。
沖:1974年かな。
鏑木:では、もう校舎は全部八王子ですか。
沖:そうですね。
鏑木:当時、彫刻の先生だと、さっきお話されていた、建畠覚造さんとか。
沖:覚造さんはいないです。ぼくの時の彫刻科は、日展と新制作の先生だったので、ほとんど関係ないですよね。李先生とか、東野先生とか、あと、絵画科で宇佐美圭司さんが教えていらしたので、そっちのほうが刺激的でした。宇佐美さんがいい先生で、まだ当時36~37歳ぐらいで、授業で非常勤で教えていた。お金もたいしてもらってないんだろうけど、学生を集めて、その当時、自主ゼミみたいなのをやって、ヴィトゲンシュタインとか、荒川修作のテキストを使って、話してくれた。ぼくは、日常的なところでは、李先生、東野先生のゼミにも出ていた。でもいろんな話をしたのは、宇佐美さんですね。でも、宇佐美さんとは表現的には重ならなかったけど。《意味のメカニズム》とか、荒川修作についての解説はとても共感しました。表現的に影響を受けていたのは、初期の関根伸夫さんや、菅木志雄さんなどのもの派より、榎倉康二さんとか、高山登さん、小清水漸さんとか、ちょっと後のもの派の人たちです。あと初期では、李禹煥先生、成田克彦さんとか。その後、時代的にはポストもの派みたいなところでは、戸谷成雄さんとか、遠藤利克さんとかは同時代的に感覚的に近かったです。
鏑木:多摩美の先輩とか、同級生とか、後輩とか、別の大学でもいいんですけど、学生時代に交流を持たれていた同年代の方はいらっしゃいますか。
沖:当時は誰でもみんな知っていた。特に交流は持ってないけど、途中で川俣正さんがちょうど出てきた。大体どこの学校にどういう人がいるかってみんな知っていて、大体共通の友達がいるから、お互いに初めて会っても知っているんですよ(笑)。
鏑木:わかる気がします(笑)。
沖:初めて会っても知っていて、その後、ぼくは、ポストもの派みたいな表現は嫌だと思うようになっていました。あのまま続けているほうが多分美術的には理解されやすいのだけれども、もっと違う方向に向かって突っ走っていった。神田を中心にした、当時の美術の一番中心、神田、銀座のあたりから外れていったというのもある。六本木NEWSというギャラリーを作って、そこはいろんなデザイナー、コマーシャルの写真家、ミュージシャンとか、当時とても活躍していた人たちが集まりました。
鏑木:六本木NEWSのお話は、また翌日以降にぜひ教えてください。
沖:そうですね。美術の中では全然位置付けられてないですが。
足立:多摩美の1970年代に興味があって。どんな授業なのですか。
沖:多摩美の一般の授業は、そんな面白くなかったです。ぼくは、李ゼミだったんですけど、ゼミはよかった。ぼくは、正式には二つのゼミに入っていて、奥野健男文学ゼミにもいた。奥野さんのほうは、あまり真面目に出席していなかった。でも、奥野ゼミの最後の文集にはエッセイを提出した。それ以前の文学の授業では、課題で文章を提出しなくてはいけなくて、その時はいきなり政治的な文章を書いて、早稲田大学の闘争の、スローガンをその文章に書いたら、奥野さんが気に入ってくれたことがあった。それから、当時の学長が共産党の人で、どっちかっていうと話は合わないけれども、授業の課題の文章の最後にマルクスの言葉を引用したら、それも褒められた(笑)(注:当時の学長は、真下信一、哲学者)。
足立:そのゼミっていう言い方が気になるんです。
沖:え?
足立:多摩美のその時のゼミというのは、どういう制度だったんですか。
沖:専攻に関係なく先生を選んで、取ることができたんですよ。
鏑木:つまり、沖さんは、――何度もくり返して申し訳ないですけど、彫刻科ですよね。でも奥野さんは文学者で、李さんは非常勤?
沖:そうですね。関係ないんですよ。ゼミを開講している先生なら誰でも東京造形大学でも、誰のゼミでも取れるじゃないですか。
鏑木:ゼミを2つ取ることもできたんですか。
沖:そうですね。受講時間が重なっていなければ取れた。
足立:単位とかは関係ないんですか。
沖:単位は、時間さえ取れればいいだけの話で、ぶつからなければいい。ゼミを2つ取るのは珍しいほうかもしれないですが。奥野ゼミは取ってる人がわりといて、美大だけど文学少女みたいな人たちがいて、奥野さんのゼミを絶対取りたいとかっていうような人も多かったです(笑)。
鏑木:そんなに人気があったんですか。
沖:奥野さんの文学の授業も、テキストはバシュラールの『空間の詩学』で、すごいものを読んでいた。さっき、授業はつまんないって言ったけど、他の普通のほとんどの授業はつまらなかったけど、やっぱり面白い授業はあった。
鏑木:奥野建男さんは、それほど人気があったんですね。
沖:それ以外に、数学の遠山啓さんがいらして数学の授業があったけれど、ぼくは取ってなかったな。多摩美の紛争の以前ほどはすごい先生はいないかもしれませんが。紛争があって、教授会が分裂して、それで半分は戻ったわけです。東野さんは、最初出たけど、やっぱり戻ったし。斎藤義重さんは出っぱなし。それで、その流れがBゼミにいって、面白いものが出てきたと思いますね。
鏑木:キャンパスが八王子になってからは、多摩美は比較的落ち着いていたんですか。
沖:そうですね。美共闘の世代の人はいなくて、自称アナキストたちの人がいたけど(笑)。
鏑木:残っている人たちじゃなくて。
沖:もう全然。その前の勢いはなくて。全然なにも……。
鏑木:平和に、普通の大学に。
沖:平和というか、なんにもないんだけど。すごいつまんない感じ。どちらか言うと、いろんなことを勉強したのは、やっぱり神田で、真木画廊、田村画廊で、山岸信郎さんのところに行って、そこに集まるアーティストたちで、そこで高山(登)さんとか、榎倉康二さんたちを知って、一緒によく飲みに行ったりしました。あとは、日大芸術学部ですね。原口典之さんがトップで、日大の芸術学部のアーティストって、たくさんいたんですよ。ユニークなアーティストが多かった。他の美大を全部含めて総がかりでもかなわない。とてもユニークな人もいて面白かった。
鏑木:1970年代の初め頃の美大界隈では、わりと日大の勢いがあるイメージがあります。
沖:多摩美と日大と、美學校とBゼミですね。
鏑木:沖さんは、Bゼミとの関わりは。
沖:Bゼミは、閉じる寸前のころに講師に行ったことがあります。でも、一番盛り上がっている時には行ってないです。宇佐美圭司さん、先輩でもある彦坂尚嘉さんやバリバリの顔ぶれの人々が教えていた。いまでこそ、美術系大学では現代美術を教えているけれど、当時の教員は団体展の人ばかり。
鏑木:そうですか。真木・田村画廊界隈のいわゆる神田のギャラリーに行かれるようになったのは大学生の頃からなんですか。
沖:そうですね。学生の時は毎週行ってました。展覧会は週単位じゃないですか。全く、毎週。この後に話に出てくるかもしれないステラークにもそこで会った。ステラ―クの表現は、周りの人はあんまり理解していなかった。ぼくは、学生の時だけど、たまたま英語が話せたので、ステラークの活動も手伝うようになった。それで、ステラークと話していて面白いなと思ったのと、《第3の手》は、もうそのころ作っていたから、すげえなと思っていたんです。
伊村:少しさかのぼる話ですけれど、多摩美に入られたころに、東野ゼミに北澤憲昭さんが出入りされていたと北澤さんからお聞きしたことがあって。その後になりますが、『象』という雑誌に関わっていらした。東野さんたちも批評を書かれていますが、批評の代替わりが1970年代にあるように思います。
沖:(『象』3号を見ながら)おお、懐かしい。
伊村:こういうお付き合いと画廊との関わりというのは、どのように?
沖:これは、ほとんど真木画廊、田村画廊の関係です。北澤さんが1972年かは分かんないけど、1975~76年ぐらいに、多摩美の先輩でビデオアーティストの和田守弘さんをとおしてつながったのだと思います。北澤さん、そんなに多摩美に来ていたわけじゃないでしょうけど多摩美の人たちとつながっていたんじゃないかなと思う。
鏑木:東野ゼミには学生かどうかにかかわらずいろんな方が出入りをされていたように聞くんですけれど、北澤さん以外で覚えている方はいますか。
沖:多摩美の東野ゼミの卒業生がみんな活躍してアーティストになっていたから、その流れで来たのと、授業では、海外で活躍してるアーティストの方が日本に帰国した時に、授業に来て、話してくれたりしていました。当時としてはすごいなと思っていました。ぼくは正式には東野ゼミではなくて、東野さんの授業は英語のリーディングの授業しか取ってないのだけど、東野さんとは、なんだかんだとよく学校では話していた。ぼくは、東野ゼミでは神田の先端の表現からすると緩いと思っていたので、もっとそちらの現場に近い李さんのゼミにいた。
鏑木:李さんのゼミというのは、具体的にどういったことをされていたんですか。
沖:李さんの話を聞くのが中心で、李さんの授業では、ハイデガーを読んでいましたね。あとは、どの先生もやるけど、一緒にみんなで画廊を見に行くっていうのがあった。ちょうどぼくが銀座のサトウ画廊で展覧会やった時に、李ゼミの人みんな見に来てくれたことがあったな(笑)。ゼミでは、いろいろな話をすることがあって、中谷芙二子さんの古い作品で、卵を立てる作品があるんです。それを李さんが見てて、これは面白いなと思って、自分でも、実はビデオの作品を作ろうとしていたんだっていうのを学生の前でぽろっと言ってた。こういうのは李さんについての正式な話には出てこないじゃないですか。卵を立てるのと、關係項、点線面などの作品をつくるのは、よく似ている。その話は、その時学生にたまたま話しただけなのだろうけど、ぼくはその時から李さんの作品の話と、中谷さんの初期ビデオ作品とはつながっているなと思っていた。その頃の李さんは、石などと何かと並べるとか、縄などをくるっと柱を巻くとか、そういうような仕事だったんだけど、その後、絵画の作品、要するに、筆でぐって描いてつくる緊張感が、緊張させて卵を立てるようなところと似たようなひらめきがあったんじゃないかなっていう気がしていました。それはぼくの勝手な解釈ですけどね。
鏑木:先程サトウ画廊のお話でみんなで李ゼミで鑑賞に、というお話がありましたけれども、それ以外に1976年に第2回神奈川版画アンデパンダン展(神奈川県民ホール)に出品されています。当時、どのような作品を制作されていたんですか。
沖:その時は、版画にかこつけて出したんだけど、木の板があって、そこに鉄の板を加工して、箱みたいな形を作って、そこの真ん中にスリットがあって、そこに石がぽんぽんぽんと入っていて、そこの上と下に朱色の墨汁に浸したひもを引っ張ってピッとつけて線を引く作品です。それを版画だと言って出した作品ですね(笑)。わりとかっこいい作品だった。カタログがあれば見せられるけど。探せばあるかもしれないけど。
鏑木:そうですか。では、その後のインスタレーション的な作品につながるのかもしれませんね。
沖:つながっていきますね。
鏑木:(千葉成夫「展評」『美術手帖』421号、1977年6月掲載の白樺画廊での個展の会場風景を見せながら)ここにつながりがありますよね、既に。
沖:お、すごいな。千葉さんが書いている。
鏑木:そうですね。いろんな方が書かれています。
沖:そう考えれば、みんな全部つながっているんですね。
鏑木:そうなんですよ。
沖:みんな、先輩たちには非常にお世話になった。
鏑木:これは少し違うものですけれども、田村画廊の田村・真木画廊の展覧会のリスト(『田村画廊 真木画廊 駒井画廊 真木・田村画廊 展覧会リスト』、和光大学芸術学科三上研究室、2009年)。
沖:これはずいぶん後にできて、山岸さんの後ですよね。『展評』っていう批評集をあそこで出していました。面白くて、ぼくも何回か書いています。若くして他界した諏訪直樹さんの作品についてぼくが書いたものもあります。
伊村:『展評』は、国立新美術館に全部そろっています。
沖:お、すごいですね。
伊村:ぜひお見せできたらと思います。
沖:こんなラジカリズムについて書いている(沖啓介「ラジカリズムの問題」『象』3号、1982年)。
鏑木:そうなんです。沖さんが多摩美時代にどんなものを作ってらっしゃったか、どんなものに触れていらっしゃったか、いろいろな角度から教えていただきたいと思っています。
沖:写真はないですけど、さっきの版画アンデパンダンに出したのと、その後京都アンデパンダン展に出したのは、わりと似てる作品です。で、最初に『美術手帖』の評で取り上げてくれたのが千葉成夫さんだったのですけど、千葉さんは京都アンデパンダンのぼくの作品も見て、その時、粘土を使って作品を作っていて、その空間の中でものを構成して作った作品である、とか何かみたいなことを書いていた。千葉さんは銀座4丁目の交差点に近いところにあった白樺画廊での最初の個展も取り上げてくださった。
鏑木:そうなんですか。ちなみに、京都アンデパンダンに出されたのは1977年、同じ年ですが、出品しようと思われたのは、何か理由があったんですか。
沖:若いアーティストにとって美術館で発表できるのは京都アンデパンダンぐらいしか出すとこなかったからじゃないでしょうか。だから、東京からみんなでレンタカーをシェアして行ってましたね。だって、現代美術って限られたところでしか発表できなくて、美術館で展覧会やるってことは、ほとんどなかったです。京都アンデパンダンは京都市美術館でやっていて、ちゃんとした会場でやれるし。ぼくがちょうど出した時は、三木富雄さんがアメリカから帰国していて、耳の作品の大きなドローイングを出していました。三木さんぐらいに活躍してる人とかも、菅木志雄さんとかも、みんな出していたのです。無監査だから、多摩美の学生でもみんな出す(笑)。やる気のあるやつは、みんな行ってたんです。
鏑木:では神奈川の版画アンデパンダンもそうかもしれませんが、みんなで出そうぜ、みたいな感じ。
沖:そうですね。版画アンデパンダンは1人で出したんだけど、京都アンデパンダンはみんなで。みんなでっていうか、多摩美で行きましたね。先輩たちと一緒に行った。
鏑木:そうでしたか。
沖:あんまりいろんな機会がないから、ほとんどなんだかんだで、みんな一緒だったと思いますね。当時よく知られてるアーティストの、――よく知られてるって言っても、『美術手帖』の末尾の「展評」に出ているだけですが。『美術手帖』しかなかったから。その当時よく知られてるアーティストの人たちも、みんな一緒に行ってましたね。
足立:1978年にご卒業で、卒業制作はあったんですか。
沖:ええ、ありました。その時は、田村画廊で発表しているやつと同じようなボール紙を使った作品で、彫刻科の先生には、「お前は学校に何を勉強しに来たんだ」って言われました(笑)。でも、その後同様な作品で、東野さんが、その年の朝日新聞の美術のベスト5に選んでくれた。
鏑木:新聞のですか。
沖:彫刻科とはずいぶんと評価が違った。1、2年生の時は、普通に課題作って、普通にAとかもらってたんだけど、現代美術にはまり込んでからは、全然先生たちとあわない。面白いのは、彫刻の作品で課題を提出しなければいけなかったんだけど、カセットテープを提出して、「これ作りました」って言いました。それが、綜合社で作ってたシンセサイザーのサウンド作品で、日本でのアンビエントミュージックの先駆者の芦川聡さんが参加していたやつです。後に多摩美で情報デザイン学科ができた時、呼ばれて話しに行ったのですが、「シンセサイザーで作った課題作品を彫刻科の授業で出したけど、全然駄目で、今この情報デザイン科で出したら、多分褒められたと思う」と話しました(笑)。もうほんとにアートと言っても、全然違う世界ですよね。
足立:決して、彫刻科の大勢が新しいことをやったのではなかった。
沖:ぼくの作品は学生の時にもよく紹介されていました。それは、下級生にも影響して、現代美術をやりたいと言うようになっていた。それまでみんな団体展しか考えてなかったのに、彫刻科の中でも現代美術作品を制作するようになった。要するに、現代美術でつながっていたものは、彫刻科の専攻と関係なくて、学内では東野さん、李さんなどの影響だし、一番支えていたのは、もしかするとアートシーン全体じゃなかったかな。学校の専攻科目は、ほとんど関係なかった。
足立:1977年に宇宙舘でパフォーマンスをした。
沖:そうですね。明大前にあったところなんですけど。その時、キッド・アイラック・ホールっていうのが明大前にあって、その同じオーナーが宇宙舘っていうのを作ったんです。その時の、宇宙舘の時のパフォーマンスで、白い服を着て、「展覧会の絵」って、ムソルグスキーの曲をピアノで弾いて、白いミルク飲んでってやつです。それは、安齊重男さんが写真を撮ってくれていたので、いろんなところで展示されている。最近も神奈川県立近代美術館でやった展覧会で、ぼくは行ってなかったのだけど、他の人が見て、「沖さんの写真がありましたよ」と言われた。(吉村弘 風景の音 音の風景 神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 2023年4月29日– 9月3日)他のところにも、ぼくの写真が出ていたらしくて、多分その宇宙舘の時の写真。宇宙舘のやつは、そんなに大きなイベントでもないんだけど、安齊さんのおかげもあって、そういうのが評価を受けるようになったんじゃないかと思います。
足立:あと、1977年のオーストラリアでグループ展に出た。
沖:そうですね。タイトルを忘れちゃったけど。それはステラークと付き合いがあったからでしょうね。
鏑木:そうか。オーストラリアはステラークがきっかけなんですね。
沖:そうですね。直接ステラークじゃないけど、その界隈の人たちの流れですね。
足立:実際オーストラリアに行かれたんですか。
沖:行ってないですけど、作品を送りました。
鏑木:少し戻ってしまいますが、李さんとの話をもう少し教えてください。
沖:李さんの話ですか。
鏑木:奥野さんのゼミと両方掛け持ちされていたということではありますが、李さんのゼミで沖さんがどんなことを具体的に学ばれたか。今、回想してみて思うことでもいいんですけれども。
沖:まあ、圧倒的に出会いを求めてたんだよね。
鏑木:『出会いを求めて』が本になったのは、ちょうど1971年です。ドンピシャですよね。
沖:もうドンピシャですね。ぼくのもの派理解は、『出会いを求めて』です。まあ、もともと、もの派っていう言葉自身が適当なネーミングなんだけどね。ぼくはもの派の中で、李さんとか高山さんが好きです。もちろん、榎倉さんにも影響受けてるけど、肌の感じで好きなのは、高山さんのほうが好きな感じがあった。
鏑木:そうすると、李さんが直接(本に)書いてる人に限らず。
沖:李さんの場合は、どちらかと言うと、やっぱり先生という感じでした。どちらかと言うと、ぼくは、巷のアートシーンのほうが身近にあった。そのアートシーンを中心にして考えると、李さんの授業が学校の中ではもっとも近かった。それから東野さんでした。東野ゼミも真木画廊でゼミ展をやっていたし、東野さんも真木画廊に来ていたりしてた。アートシーンの現場のほうが近くて、それから逆に、李さんに近づいた。ただ、李さんは、『出会いを求めて』という本で衝撃を受けていました。あと、現代美術全般としては、やっぱりポップアート以降のアートの流れの、特にポロック以後あたりを紹介されている東野さんの影響が大きかった。東野さんの独特な「見る・見られる」関係の理論があった。東野さんは、大学でもパフォーマンスをやっていた。素潜りをやっていたので素潜りのウェットスーツの格好をして、《ミルとミルクは同じかな》(多摩美術大学学長室、1976年10月22日)が面白かった。あと、東野さんが話してくれた、昔の多摩美の話で、以前の学生がどんな作品を作ったかという話をしてくれて、面白かったですね。「ある学生が、ビートルズの「イエスタデイ」を全部漢文で書いたんだ」、とか言ってた。それ、実際には見てないんだけど、かっこいいなと思った(笑)。自由に考えることを、みんながどれだけ感じているかどうかわからないけど、いろんなことをやればいいんだなっていうのをぼくは感じていた。そういう機会を大学で持てたのは、やっぱり良かったです。専攻は全然関係なくて、むしろ東野さんとか、李さんとかだった。
足立:雑誌の『美術手帖』って、もちろん沖さんも読まれてたと思うんですけど、他の人たちは読んでなかった感じですか。
沖:一般の学生はそれほど読んでなかった。今でも現代美術でコアなことをやる人って、少ないじゃないですか。ものすごく少ないし、それはいつでも同じような感じがします。今は絵画は、どっちかと言うと、現代絵画みたいな表現はみんな好きだけど、ビエンナーレとか、トリエンナーレという国際展などは見に行かない。もう全然見に行かない。特に美大の学生は見に行かない感じです。展覧会に行くと、多くの若い人が一生懸命見ているじゃないですか。あれって、もう美大の学生じゃないですね。美大生じゃなくても、観客は映像作品もよく見ています。映像って、ぼくより上の人たちも全然見ることができなくて。画廊でビデオアートの展覧会やっていると、「ああ、なんだ、ビデオか」って言って、あそこの画廊は今週はビデオだと、みんな行かなかったりとかするぐらいな感じでした。
鏑木:大学の時も音楽は続けていらっしゃったんですか。
沖:そうですね。ポップスみたいなのもやっていた。キーボードを弾いたりしています。それで、鉄腕アトムの音響で知られる大野松雄さんの綜合社でコマーシャルの音楽を作る時にキーボード弾いてくれって言われて、行ったら初めてシンセサイザーとコンピューターに出会った。1970年代の後半ですね。学生の時代に少し関わっています。
鏑木:ちょうどポップス的な音楽がだんだん一般的にというか、みんなが弾くようになるころなのかなって。
沖:そうですね。それはもうちょっと後ですよね。それは多分、MIDI、打ち込みとかができるようになってからです。ただ、現代音楽みたいなのは、学生の時、ゲーテ・インスティテュートが、ずっと現代音楽のレベルの高いコンサートをやってくれていて、よく行きましたね。
鏑木:ではポップス的なプレイ、ミュージシャンとしてお仕事もしつつ。
沖:そうですね。バンドで原宿のクラブとかで演奏したことがあるけど、それは表現っていうよりはむしろ遊び。
鏑木:サポートメンバーみたいな感じですか。
沖:そうですね。
鏑木:でも、そのころもいろんな音楽を聴いているし。
沖:そうですね。音楽を聴いているっていうか、よく音は使っていて、「ハラ・アニュアル」(原美術館、1980年)で展示をやった時も、ボール紙と鉄の玉とネオン管を使っていたんだけど、そこも、滝の音が流れる音を使っていました。
鏑木:音のことは、カタログだと全くわからない。
沖:わからないですね。音を流すというのは、やる人が少なかったです。わりと美術の人は音が嫌いな人多いけど、ぼくは、音に関心が強い。視覚のほうが、情報量が多いのだけど、空間に対しては、音ってすごく大きく影響して、例えばエレベーターみたいなところはなにもない空間だけど、音が入っていると気持ち良くなったり空間を変化させたりすることができる。そういうのを感じていたので、音を使っていた。
足立:それは、最初の白樺画廊の個展からそうだったんですか。
沖:そのときは使ってないです。もっと、「もの」だけです。
伊村:音を作る環境というか、機材も含めて、いい出会いがあったのではないかと想像します。滝の音は、どういうふうに作られていたんですか。
沖:録音しに行った。フィールド・レコーディングですね。鎌倉の銭洗弁天の滝の音。
鏑木:普通にマイクで録られたんですか。
沖:そうですね。スイスで個展をやった時も、それを使った。
鏑木:綜合社さんのお仕事の中で、電子的な楽器に触れる機会はあったというお話でしたが、それは結構大事なことなのではないかなと思いました。
沖:そうですね。大事ですね。
鏑木:お仕事とはいえ、個人的にそういうものに触れる機会がある人は、まだそんなに多くはないですよね。
沖:そうですよ。シンセサイザーは、もともと普通のところにはなかったんです。綜合社には、IBMのエンジニアの人が自分で真空管を使って作ったシンセサイザーがあったんですよ。部屋いっぱいの。多くの機能はなかったけれど、そんなにシンセサイザーはなかったから、一柳慧さんとか、あと、坂本龍一さんも使いに来ていました。お金のある人は……、あの人、『砂の女』を書いた……。
鏑木:安部公房ですか。
沖:安部公房もシンセサイザーを買ってるんですよ。それがイギリスのメーカーのシンセサイザーで、それが高かったから、あまり誰も持っていなかったのだけど、芦川くんが根性で買って持っていた。それで、ぼくが最初に弾いたシンセサイザーは、安部公房も持っていた。EMS Synthi AKSっていうものです。有名な。今でも値段が高いです。
鏑木:ビンテージとか高そうですよね、きっと。
沖:このアナログシンセは、コントロールしにくいんです。
鏑木:(『象』2号を見せながら)ここに綜合社の広告が載っているんですけど、映像の編集スタジオと録音スタジオが両方あって、そういったものにお仕事で触れられることがあったんですか。
沖:そうですね。もともと綜合社に行ったのは、映像に音楽をつける仕事でした。
シンセサイザーのEMSというのも会社なんです。ぼくも買おうかなと思ったことがある。今では多分150万円ぐらいしてる。でも、演奏に使うのは、難しい。
鏑木:まだ当時は、きっと今ほどそういうものが使いやすい時代ではないですよね。
沖:当時じゃなくて、今でも上手く使えない。ぼくの場合、どちらかというと楽器演奏のほうから入っているから、演奏できない楽器は、あまり得意ではなかったです。
鏑木:いわゆる機材オタク的な興味関心では、そういうものには興味を持たれていないんですね。ありがとうございます。
伊村:先ほど、電子技術にふれるきっかけがステラークってお話もありましたけれど。このころに、シンセサイザーを経由してということと、もう1つはロボティクスみたいな興味もあったのでしょうか。
沖:そうですね。それは、ステラークが《第3の手》を作ったからです。彼は、その前は、《第3の手》はなくて、どちらかと言うと、サスペンション・イベントというパフォーマンスをやっていた。そのサスペンション・イベントを手伝っていたんです。ぼくは針を身体に刺すとかやれないので、機材を運ぶとかやっていて、彼の体に針を刺すとかを友達がやっていた。その友達が作った会社でも働いていました。その会社のニューヨーク・オフィスができた時に、ぼくはニューヨークに住み始めました。ステラークのつながりの中で広がっているわけですね。
足立:1978年のことを聞いてもいいですか。1978年に神奈川県民ギャラリーで展覧会をやっていますが、詳細がよく分かりません。
沖:これは二人展で、友達とやりました。その時の作品は、『美術手帖』に残っていますね。『美術手帖』発刊30周年記念の、中原(佑介)さんと東野さんがトークしているやつの中で使われている写真も、その写真(針生一郎、東野芳明、中原佑介、峯村敏明、岡田隆彦「座談会 現代日本美術はどう動いたか」『美術手帖』436号、1978年7月増刊)。その時、『美術手帖』は30周年記念ですごいなと思っていた。70周年記念の時に、ぼくは芸術評論で文章を書いたから、40年も空いていた。ぼくは芸術評論に応募したいと思っていたのだけど、いつも見ると、もう募集が終わっていて書けなくて40年。
鏑木:募集が不定期ですもんね。
沖:そうです。ぼくが『美術手帖』をちゃんと読んでいないからなんですけど。たまたま
募集広告を見たので書いたのだけど、賞を取ったら周りの人が、そんなに歳を取ってから書いて、「すごいね」とかって、たぶん呆れて、言ってました。ぼくはただ書きたかっただけで、全然関係なく書いているだけなんですけどね。
足立:1978年の時、東野さんは沖さんのことを、「コンセプチュアル・アートのフォークソング版」って呼んでいました。
沖:そうですね。そうそう、フォークソング。まあ、どういう意味だかよくわからないのだけど(笑)。もう1つ、東野さんと中原さんとが30周年で話した時は、「コンセプチュアル・アートのキャンディーズみたいなものです」と言われてました。キャンディーズのほうがぼくには合ってて、なんだっけ、キャンディーズと同じころ出た女の子2人組の。
鏑木:ピンクレディーですか。
沖:ピンクレディーはハードだけど、キャンディーズのほうが甘いとか。コンセプチュアル・アートのキャンディーズみたいなものって言われるのは、感覚的には自分にはあっている気がしていました。「フォークソング版」というのと、どっちが先かわからないけれど、諏訪くんについての、真木画廊の展評を書いた時に、ボブ・ディランの言葉を使ったからかな、という気がします。東野さんはそれが印象に残ったらしい。その頃、美術批評を書く人たちは、概念的なことばかり書いているのに、ボブ・ディランから始めたからですね。「初めて普通の言葉で話ができるやつが出た」って、東野さんがどこかで言っていたのか、書いていた。ぼくは複雑に考えていたわけじゃなくて、もともとぼくは高校生ぐらいからの気分の流れで書いているだけなので、あんまり考えていなかったのです。そのあたりが東野さんに面白がられたんじゃないかなと思います。
鏑木:東野さんの、常に現代的なものに惹かれる感覚に、沖さんの当時の作品がマッチしたのは、わかるような気がします。
沖:ハードじゃなくて、やっぱりキャンディーズみたいな感じだったからじゃないですか(笑)。多分、そういう感じだったのですよね。ロジカルに考えるようにはしないで、むしろ自分の好きなものを中心に考える。自分にとっては普通のことで、中学生の時からギター持ってフォークソングやってた、みたいなものだから、自分にとってはごく普通のことですね。今ではそういうアーティストって多くなっているじゃないですか。
鏑木:そうなんです。
沖:当時は珍しかった。
鏑木:沖さんは、美術一辺倒だけの作家じゃないクリエイターとしては、たぶん当時からすごく早い活動をされていた。当初、沖さんにお話を伺うに当たって、いろいろと文献を渉猟して、美術の記事だけを見ていてもなかなかわからないところがあったのはそういうことなのかなと思います。
沖:ぼく自身のことは、やっていることがいっぱいあるので、わからないですよね。アメリカのアーティストでバンドやってた人を調べたことあって、ドナルド・ジャッドとかも、自分でロックバンドやっていて、それなりによく知られているんですよ。ジャッドがフィールドワーク録音を使って自分で自主的に作った音楽があって、CD化されています。ミュージシャンでなくても、アーティストはみんなバンドやっていたりとかするので、ごく普通なんですよね。そういうことって見えにくいのだけど、ごくごく普通のことです。
鏑木:世代的にはやっぱり沖さんぐらいの世代より前のアーティストが、実験音楽などをやっているイメージがあるんですけど、バンドをやってるイメージはあまりなかったんです。ひょっとしたら沖さんの世代がその最初なのかなと思いました。
沖:それは美術史が美術館と画壇の中での話だけで書かれているので、見えてこないだけです。
鏑木:フィールドが限られ過ぎていますよね。
沖:世界的にそうかもしれないけど、日本の場合は特にそれが強過ぎていると思います。ジャッドあたりの人たちでも、バンドのこととか、わりといろんなところで文章が出てくるんですよ。本当は日本でもごく普通にあることなんじゃないかと思うけど。
鏑木:それはそうだと思います。
足立:沖さんのウェブサイトの年譜で、1978年にビデオアート展、とうでんギャラリーというのがあるんですけど、その78年ごろから、沖さんのビデオアートは始まったんでしょうか。
沖:外で発表したのは、そうですね。だいたいアーティストは作っては忘れる。さっきの話のように、李さんも発表しなかったものがある(笑)。学生にはポロっと言ってしまったビデオアートが多分実際はあるんですよ。それを見つけ出すと面白いんじゃないかなと思う。
足立:最初のビデオアートは、さっきおっしゃったように、ビデオカメラを借りてつくった?
沖:そうですね、当時は借りるしかなかった。個人で持っている人から借りるか、あと、吉祥寺にビデオインフォメーションセンターというのがあって、菅木志雄さんの弟さんがやっていたところですが、そこでみんな借りてましたね。
鏑木:そうですか。で、編集は、こちらの綜合社などで行った。
沖:綜合社で4分の3インチビデオの編集をしていた。フェイドイン、フェイドアウトなどはできないんですけど、そこではつなげることはできた。それだけでもすごい画期的なことだった。アメリカの場合は、ニューヨークの公共放送テレビ局のチャンネル・サーティーンが夜間にアーティストに設備を使わせていて、放送局の設備を使って制作してるから、もう全然レベルがすごい違うものができていた。今はそのくらいのことをコンピューターがあればできるようになったのですが。それまでは、撮るものの対象がコンセプチュアルであるかどうかで、技術的にはただつなげるぐらいのことしかできなかったんだよね。
鏑木:どういう作品だったんですか。
沖:とうでんギャラリーの作品ですか。どっちかって言うとインスタレーションの映像化のような作品ですけど、ものがあって、センサーとフラッシュを隠してあって、途中でチカッ、チカッと光って、音が流れてくるような作品ですね。それをアメリカに持っていったことがある。アメリカのほうがビデオアートが進んでいた。ビデオアートは、お金がないとできなかったですね。海外のアーティストみたいに、スローモーションなどの効果をかけるようなことでも、当時でも1時間で10万円か15万円ぐらいかかるんですよ。それで作ったことあって、大変なもんだなと思ってました。スローモーションかけるとかだけでも、1インチのビデオテープを使った大きな専門の設備を使わなきゃなんなかった。今はコンピューターが1台あればできる。全然違いますよね。
鏑木:そうですね。学生の感覚も。
伊村:海外の作家の作品を見る機会は、どういう時にあったのでしょうか。
沖:海外のビデオアートの作品は、特に原宿のビデオギャラリーSCANでです。1980年代です。ビデオ雑誌に中谷芙二子さんとそれぞれ隔月ごとにビデオアートを紹介する記事を書いていました。学生の時はほとんどないです。身近では日本のビデオアート作品だったら、先輩で和田守弘さんがビデオアートをやっていました。彼の作品は当時の飯村隆彦さんと同様に、コンセプチュアル・アートの手段として作って、見る/見られるの関係、要するに、カメラを使って、人が見る/見られるという構造を見せるような使い方で、映像的というより、むしろ概念をシステム的に見せるっていう感じでした。それはそれでビデオアートの1つのジャンルです。
鏑木:アメリカンセンターには行かれていましたか。
沖:ああ、行きました。アメリカンセンターはやっぱり、あそこでしか見られないものいっぱいあったし、もうほとんどアメリカンセンターのブースで見ましたね。そことビデオギャラリーSCAN。
鏑木:SCANができる前までは、アメリカンセンターっていう感じですか。
沖:アメリカンセンターだと自分で映像をブースで見ることができたので、もうほんとによかった。
鏑木:そうなんですね。ライブラリーみたいになってて、自分でデッキにカセットを入れて作品を見る感じですか。
沖:そうですね。アメリカンセンターはすごくよくて、ドナルド・ジャッドとか、有名なアーティストが来て日本でレクチャーする時は、アメリカンセンターだった。
鏑木:ジャッドが来たのは1978年かな。
沖:それから、1979年にスーザン・ソンタグが日本に初めて来た時に会った。その時通訳の佐藤恵子さんが友達で、ソンタグが、築地の魚市場を見に行きたいっていう話になって、ぼくが夜中の3時ごろに迎えに行くことがありました。ソンタグに会ってからソンタグの本を読むようになった。『ラディカルな意志のスタイル』とか「反解釈」。スーザン・ソンタグに会ったときは、「あなたはどういう本を読むのか」って言われてね。なんて言おうかなと思って、「マルクスと三島由紀夫」と答えた(笑)。いま思うとバカっぽくて恥ずかしいけど。
鏑木:アメリカンセンターで見ていた作品の中で、沖さんにピンとくるものはありましたか。
沖:やっぱり圧倒的にナム・ジュン・パイクですね。コレクションでも多かったけど作品として並んでいるものの表現が強い。あとは、パフォーマンス、ダンスの記録もビデオの中に入っていた。マース・カニンガムやルシンダ・チャイルズも並んでいた。ダンスはそこでずいぶん見てます。ダンスからもわりと影響受けていた。後に、ルシンダ・チャイルズが日本に来た時に、原宿でパフォーマンスをやったことあって、ぼくはその時のカタログの冒頭に文を書いてるんです。
足立:今日の聞き取りは1978年までにしましょうか。
沖:そうですね。
足立:すごく勉強になりました。
沖:いいえ、全然。