沖啓介 オーラル・ヒストリー 第2回
2023年12月13日
東京、沖啓介自宅にて
インタヴュアー:鏑木あづさ、伊村靖子、足立元
書き起こし:東京反訳
公開日:2025年4月14日
鏑木:かつてビデオデッキを担いでビデオ作品を制作されていた沖さんから見て、今のようにスマホでボタンひとつで映像が撮れて、しかも世界中に送れてしまうというのは、どのように感じますか。
沖:すごくいいんじゃないですか。仲本拡史さんっていう映像作家がいるんですけど、彼は全部スマホで撮っている。海の中のウミガメを追うのも、iPhoneで撮りました。それがすごくきれいで、もう本当にスマホだけでいいやと思った。劇場公開される映画の撮影も、部分的にiPhoneで撮っていたりしますよね。『シン・ゴジラ』(2016)に、いろんな角度で撮るからどんなカメラでもいいっていうシーンがある。その一部は、スマホでも撮っているそうです。だからそういう意味では、全然いいんじゃないですか。スマホでも4Kで撮れるのでそのまま使えます。技術っていうのは本当にどんどんどんどん変わっていくし、それによって表現の世界も変わってくるから、スマホで撮るのはとてもいいと思いますよ。それに、今って写真がいっぱいあるじゃないですか。昔、ぼくの学生の頃は、カメラをわざわざ持って行かないといけなかったから。この間、多摩美のある専攻の歴史をまとめようとしたら、昔の写真が全然なくて、でも今の写真はめちゃくちゃあるっていう話だった。そういう意味では写真自体が、すごく変わりましたね。
鏑木:ありがとうございます。それでは、スタートしましょうか。
足立:では一応、今日の日付から。今日は2023年の12月13日です。沖啓介さんインタビュー第2回、よろしくお願いします。前回、おとといは1978年まで伺いました。
沖:そうですね。
足立:編年体で、今日は1979年から伺っていこうと思います。79年の大きな出来事として。
沖:原美術館。
足立:原美術館の前にお伺いしたいのは、韓国と日本で「七人の作家 / 韓國と日本」展を開催されています(韓国=韓國画廊[ソウル]、2月22日-28日。日本=駒井画廊・真木画廊、1979年8月20日-26日)。
沖:そうですね。それはすごく大きいですね。まず韓国に行っているんです。4人日本から行って、向こうで3人韓国のアーティストがいて、7人のアーティストになった。その展覧会をやるきっかけになったのは、野間秀樹さんという方です。野間秀樹さんはお母様が韓国の方なんですが、彼がたまたま韓国のアーティストの李相男(Lee, SangNam イ・サンナム)さんと、手紙のやりとりを始めたっていうのがきっかけです。野間さんは偶然だけど今、ここから近いところに住んでいて、評価の高い言語学者であり、もともとアーティストでもあって、すごく面白い。彼は非常に優秀なアーティストです。その後、東京外語大の朝鮮語専攻に行って朝鮮語を学んで、大学院も卒業してその後は東京外語大の教授になった。今でも第一人者で活躍しています。外語大は6、7年くらい前に辞めたみたいですけどね。彼と李相男がやりとりを始めて、じゃあ展覧会をやろうということになった。1978年なので、日本と韓国との現代美術の交流はありませんでした。でも李禹煥先生は、アーティストとしてかなり知られていた。その頃、韓国のアーティストが世界に出る第一歩っていうのは、東京画廊。世界の美術は『美術手帖』を通して知っていたから、ソウルへ行ったら韓国のアーティストたちは皆、ぼくたちの作品を知っていた。だから話がすごく進んだのと、ちょうど78年くらいっていうのは朴正煕政権で、政治的には厳しい時代だったんです。夜は外出禁止令が出ていた。夜は皆サーっと帰らなきゃいけない、という時代だったんです。そういう意味では文化的には厳しい時代だったけど、でも現代美術のアーティストは多かった。今では90歳くらいになると思うんですけど、朴栖甫先生(Park, SeoBo パク・ソウボ)がいました(注:朴栖甫は2023年10月23日に死去)。他にも沈文燮先生(Shim, MoonSeup シム・ムーンセップ)とか。でも、そういう状況の中で交流するということは珍しかったから、ソウルでは新聞社などが随分と取材に来てインタビューをされたりしました。日本でも現代美術は今みたいにポピュラーじゃなかったけど、峯村敏明さんがぼくたちのことを『朝日ジャーナル』に書いたと思う。それは日本でやった展覧会のことですね。ぼくも『さぐる』(2号、1980年)という雑誌に「イメージの海峡」っていう文章を書いたことがある。その7人のアーティストの中で今も生きているのは、ぼくと野間くん、池田徹さんと李相男、そして金壯燮(Kim, JangSup キム・ジャンソップ)。彼とは10年くらい前に、韓国で一緒にまた展覧会をやったんです。ぼくが去年の恵比寿映像祭で審査員をやった時に、審査結果で最終的に2人のアーティストが選ばれたのですけど、そのうちの1人の女性のアーティストが金仁淑(Kim, InSook キム・インスク)さんです。彼女にぼくが昔、1978年くらいに韓国で友人たちと展覧会をやっているという話をしたら、仁淑さんが、「え、それは野間さんという人とですか」って言うんです。そして自分の先生が金壯燮で、いつもその話をしていたという。仁淑さんはソウルに行って大学に入って勉強したんです。だから偶然だけど、金壯燮の学生だったっていうのがわかりましたね。それはすごい印象的な体験でした。李相男とぼくはニューヨークで一緒だったんです。ブルックリンに住んでいる時に、1軒まるまるアーティストが住んでいるビルがあったんです。4階建てで、1フロアに1組ずつ住んでいた。その時のブルックリンは今みたいにはあまり開けていなくて、ぼくたちの周りは南米系の人たちだった。さらにその周りは全部ブラックの人たち。そういう中にぼくたちだけ、アメリカ人、ドイツ人、カナダ人、韓国人、日本人だけが住んでいた。相男とは別のフロアだけど、同じビルに住んでいたんです。李相男はその後に大成功して、来月から展覧会をやるんですけれど、作品がとても高く売れているみたい(笑)。
足立:1979年の時点で韓国を意識した方々っていうのは本当に珍しかったと思うんですけど、その時の政治的な意識ってどんな思いだったんですか。
沖:展覧会自体は現代美術だから、むしろ高度にコンセプチュアルなので、別に政治的なものはないんです。ただ「イメージの海峡」にも書いたけど、帰りの日がちょうど3月1日だったんです。車の中で壯燮が隣にいて、「今日は3月1日だね」ってぼくから話した。3月1日はサミル運動、三・一運動という独立運動の記念日で三一節(サミルジョン)になっているんです。壯燮は「え、知ってるの?」と聞いてきた。ぼくはたまたまそういう歴史に興味があったから、知っていただけですけどね。でもその時はたまたまその話をしただけで、向こうの若いアーティストと一緒に話をしていても、コンセプチュアル・アートとか反芸術の時代だから、そういう概念的な話ばかりで政治の話は全然しないわけですよね。ただ、ぼくと同じくらいの世代までは漢字が使えるから、“現象論”とか皆全部、漢字で書くわけですよ。どっちかと言うと日本より韓国の人のほうが英語がうまいんだけど、哲学的な話っていうのはなかなかできないじゃないですか。でも、その時は全部漢字で書くと、それでお互いにやりとりできたんです。向こうで新聞を読んでいてもほとんど漢字とハングルの文字。漢字は日本の漢字と同じでした。でもその後、1980年代になると韓国ではハングル世代っていって、日本で言うとぼくなんかよりもちょっと上、要するに全共闘なんかと同じ戦後世代が文化的に影響力をもって1970年に廃止が決まった。78年ごろは漢字も併用されていた最後の時期でしょう。
鏑木:日本でいうベビーブーム世代ですか。
沖:ベビーブームの世代です。彼らが社会の中心を担うようになって、それで漢字を排斥した。要するに、民族主義的にハングルだけ使おうっていうことになって、皆が知っている漢字は自分の名前くらい、というようになっていったわけです。アメリカに住んでいた時、韓国の若い人は漢字が書けないから、以前のように難しい話を漢字を使ってできなかった。だからアメリカでは若い韓国人とは英語だけで話してました。その前はものすごく難しいこと、現象がどうしたとか哲学的な本に書いてあるようなことは皆、漢字だけでやりとりできた。ナム・ジュン・パイクが、直接彼から聞いたわけじゃないですけど、やっぱり漢字をやめたのが間違いだったんじゃないかって言っていたらしいです。ぼくは今、ちょっと韓国語を勉強しているんだけど、難しいのは、表音文字だけだと覚えにくいんですよ。英語でも、やっぱりラテン語などの語源を知っていると、なんとなく知らない単語でも大体意味がわかったりするのと同じような感じです。今、中国語も勉強しているんですけど、中国語はやっぱり漢字だから、日本人でも概念的な言葉だとわかるじゃないですか。でも韓国語は全部ハングルになっちゃっている。韓国語を日本人が上達することの秘訣っていうのが、ハングルで漢字語を覚えるっていうことなんですよね。その辺は今、経験しているところですね。
伊村:野間さんとのお付き合いで韓国の李相男さんとお会いすることになったということですが、美術系の方と出会うのは、すごく難しかったのではないかなと。
沖:そうですね。たまたま、野間くんが相男と文通するようになりました。どうやって知ったのかはよくわからないですけど、何かのきっかけで知り合ったんですよね。
伊村:もうひとつ、山岸信郎さんが金在寛(Kim, Jai Kwan キム・ジェグワン)さんとか、エコール・ド・ソウルの作家たちにすごく興味を持っていたのを資料から知って、最初はそういうつながりなのかなと思っていました。
沖:違いますね。山岸さんは山岸さんで進めていた。ぼくたちが「七人の作家」で日本と韓国のアーティストの展覧会をやったらその後にドッとつながって、展覧会の場所が真木画廊になった。ほとんど真木画廊でしたね。あと、かなりエスタブリッシュドされた、成功しているアーティストは東京画廊で展覧会をやる、みたいな。そんな感じがありました。
伊村:東京画廊は民間外交として、韓国と日本の交流を探っていたという話を聞いたこともあるんですけれど、あくまで個人的なつながりだったということですよね。
沖:それは知らなかったですけど、東京画廊はたぶん現代美術だけじゃなくて、骨董なども扱っていてもともと韓国とはいろいろな形でつながっていたんじゃないかと思います。
鏑木:私は今回、沖さんにお話をお聞きするにあたって、1979年にこういう展覧会があったことを初めて知りました。今のお話だと国内でもそれなりに取り上げられていたということですが、韓国でも日本の若い作家たちがこういう形で展覧会をすることは報じられたんですか。
沖:そうですね。新聞や雑誌にも出ていましたね。すごく珍しかったし。
鏑木:たぶんほとんどないですよね。
沖:もうほとんど最初くらいの感じ。
鏑木:あと変な言い方ですけど、なんの差し障りもなく日本のアーティストが韓国のアーティストと一緒に韓国で展覧会をすることはできたんですか。
沖:それはできましたね。全然できたし、さっき言ったみたいに、皆『美術手帖』を読んでいたっていうのもあるし。だから当時の韓国のアーティストにとっては東京画廊とか、東京でやるっていうのが彼らにとっての世界という感じだったんですね。今はそういう構造はなくなって、韓国のアーティストはどんどんどんどん世界に出ています。BTSとかK-POPみたいな感じで、日本を超えてやっています。すごくレベルも高い。ちょうど現代美術っていうのはその頃までは、日本とのつながりがすごく多かった。朴栖甫先生あたり、その頃まではどっちかと言うと、現代アートはハイカルチャーとしての現代アート。どこでもそうだけど、現代美術がそんなにすごく広がっているわけでもなかった。でも1980年代の後半くらいになって、それが一挙に変わったきっかけにミンジョン運動、民衆運動っていうのがあるんです。民衆運動っていうのは政治的なものだけど、現代アーティストもすごく関わっている。韓国がすごいと思うのは民衆運動の時のポスターとかバナーみたいなものも作品として評価されていて、それがちゃんと市場価値も付いていたりするんですよ。考えてみると日本って学生運動はあんなにやったけど、その頃のものって全然残っていないじゃないですか。全然評価されていないし。でもそれは戦前のアナキズムの前衛文化活動と同じで、そういうもの自体が評価されていないんですよね。だからやっぱり日本人は、政治が絡むっていうこと自体が駄目なんじゃないかなっていう気がしますよね。ちょうど1980年代は、韓国のアーティストにはかなり大きな転換があったんじゃないかなと思うのと、ぼくが1980年代後半にニューヨークに住んでいたときは、若いアーティストたちが韓国からやってきたりしていた。その辺の感じは、当時のぼくと同じくらい、そんなに年が離れているわけではないんですけど、随分と感じが変わっています。1990年代に入ると世界も随分変わって、現代美術がグローバルな方向に向かうようになってアジアの作品、アフリカの作品みたいなものが出てきた。だから1990年代は特になんとか主義とかそういう傾向みたいなものはないけれども、グローバルな在り方がすごく変わった。インターネットが入ったおかげで、ますますグローバル化した感じがあります。これはぼくの解釈ですけど、そう思いますね。ぼくが1980年代にニューヨークに住んでいたときまでは、アーティストは自分のアトリエに画廊の人が来てくれる、呼ぶっていうのが、プロモーションとしてすごく大事だったじゃないですか。でもそうすると来るのは大体、イースト・ヴィレッジのこの辺までだ、とかね。トライベッカになると誰も行かないとか、そんなことを言っていたりね。ブルックリンなんか誰も行かないよ、とかアメリカ人のアーティストと話したりしていたんです。そのくらいマンハッタンにアトリエを持っていなきゃ駄目だ、という話があった。でもそれが1990年代になると、そういうのが一気にぶっ壊れて、今は別に世界のどこに住んでいてもいいじゃないですか。その辺は1990年代くらいから始まったな、という感じはしますよね。
鏑木:では沖さんが参加された「七人の作家 韓国と日本」という展覧会は、そういう流れの最初のポイントという感じだったんですね。
沖:そうですね。その後から1990年代まではちょっと時間がありますけれども、でも韓国のアートシーンはものすごく変わった。それまでは概念的な作品と考えられていたものが、政治的なものや社会運動を含めたような構造を持つことで、ダイナミズムをもった部分がありました。それ以外にももちろん、そういうことと関係なく抽象的というか、概念的な作品を作っている人ももちろんいるし、いろんなパターンはあるけれども。やっぱり第二次大戦前っていうのは日本による植民地支配下だったので、要するに自分たちの文化、例えば近代美術みたいなものが抜け落ちているわけですよね。韓国の場合は近代美術みたいなものがうまく育たなかった。だから韓国の戦後美術はいきなり現代美術から始まって、1960年、70年代くらいはまだ助走期間。1980年代、90年代でかなり出ていったという感じはしますよね。それから経済力が付くのと一緒に、コレクターがそういうものを買っていったっていうのもある。だからある意味では、タイミングが良かったという感じはしますよね。民衆運動もすごく評価されて残っているっていうのは、今はすごくたいしたものだと思いますよね。マーケットを中心にアートの歴史を考えるのと芸術の中身で考えるのとでは、かなり違ってきます。でも、そういう社会運動的なものを含めた、もっと複雑な構造で美術史を理解するっていうのが、今は一般化してきていると思います。それはソーシャリー・エンゲイジド・アートとかそういうものとは関係なくても、あると思いますね。ドクメンタ15のルアンルパの話もそうだけど。
足立:今日、主に聞きたいのは1980年代の前からです。大学を卒業されてから広告の仕事をされていたということですが、具体的にどんなお仕事だったんですか。
沖:もろに広告の仕事です。でも広告の仕事は広告の仕事で、随分とハマっていた(笑)。ぼくが最初にアシスタントとして入ったのが、村瀬秀明さんっていう方の事務所なんです。村瀬さんは資生堂のアート・ディレクターだった人で、資生堂の『花椿』が300万だったか、一番売れている時のアート・ディレクターですごく評価されていた。彼のところに入って最初のひと月はアシスタントをやっていたんですけど、その後はアシスタントじゃなくてちゃんとデザイナーになりました。広告業界に入ったら、それはそれですごく文化的なショックがあったんです。優秀なデザイナーやカメラマンたちは、アートのこともすごく詳しかった。「え、この人たちってこんなにいろんなことを知ってるんだ」と思った。それがすごく大きかったですね。事務所が原宿にあったから、田中一光さんの事務所も近くにありました。今で言えば、皆忙しくてブラックに働いているんだけど、デザイナーたちは、クラシックのコンサートや現代音楽のコンサートに随分と皆で行ったりしていましたね。ぼくが自己紹介のときに、多摩美で李禹煥のところにいたと言ったら「おお、それはすごいね」って言われたんです。他の人たちは皆、普通にデザイン科を卒業しているんだけど、ぼくだけそういうこともやっているアーティストとしてきたから、「面白いね」って随分といろんなところを紹介してくれた。あと村瀬さんが資生堂の仕事をしていたので一流のカメラマン、例えばもう亡くなった横須賀功光さんとか、トップの写真家の人たちと知り合ったんですね。あとはパルコのオープンで石岡瑛子さんがアートディレクションした広告のスタイリングをやっていたのが、伊藤佐智子さんです。伊藤佐智子さんはパルコの広告の時は19歳くらいだったけど、ぼくがその数年後に会った時は広告業界ではもうすごくて大先輩だった。でも、すごく仲良くなったんです。伊藤さんの話がすごく面白くて「沖さん、シュルレアリストやその頃のアーティストたちがどうして奇抜な格好をしたか知ってる?」って聞かれたんです。「え、なんで?」って聞いたら、「それは自分たちを勇気づけるため。自分たちの気持ちを高揚させるためにそういうことをしたんだよ」って言っていた。要するに、奇抜な格好をすることによって自分のモチベーションを上げていたんだっていう話をしていて、それはすごくショックでしたね。なぜかと言うと美術史は学校でずっと習っていたし、シュルレアリスムも知っていたんだけど、なぜシュルレアリストの人たちが奇抜な格好をしていたかなんて考えなかった。でもそういうことを聞かれたときに「あ、そうか」って、それは随分カルチャーショックでしたね。そういうこともあって、おもしろかった。高校生の時、父親が当時キヤノンの宣伝課長をやっていたから、うちにデザイナーが来たりしていたんです。それで高校の時に印刷会社でアルバイトをしていたりとか、学生のときもデザイン事務所でバイトをしていたりとか。あと、ぼく自身は学校は彫刻科なんだけど、でもグラフィック・デザインっていうのは自分で勉強した。
鏑木:沖さんがデザイナーとして制作された広告などで、私たちがいまでも見られるものはありますか。
沖:特に残っているものはないんですけど、会社のクライアントはその時は道路挟んだ反対側がラフォーレ原宿で、あとは花王とかですね。
鏑木:大企業ばかりですね(笑)。
沖:あと、ぼくがエディトリアルをやったのは、主婦と生活社の『ふたりの部屋』。そのときの表紙の服飾やオブジェのデザインは、伊藤佐智子さん、写真は小暮徹さんが撮影をやっていて、これはかなりきれいなグラフィックでした。あと個人的には、レコードジャケットをやったりしていましたね。会社が原宿だったから、小さなマンションメーカーのお店のロゴを頼まれてやったりもしていました。でも技術的なことや考え方とか、そういう物事の段取りをつけて仕事をするっていうのは、やっぱりデザインのところで習った。あと村瀬さんが、デザイナーはエリートじゃなきゃいけないって。そのとき村瀬さんの世代っていうのは、東京のどこにどういうデザイナーがいるかが分かるくらい。今はデザイナーってものすごくたくさんいるし誰でもデザイナーだけど、その頃のデザイナーっていうのはエリートの仕事だった(笑)。逆にそういう、デザイン至上主義みたいな感じでしたね。
伊村:多摩美を卒業して、わりとすぐっていうことなんですね。
沖:そうですね。学校を卒業して、すぐにデザイナーになったので。だから学生のときに、例えばすでに『美術手帖』に名前が出たりしているんだけど、でも別に。今でもそうだけど、現代美術ではあまり生活ができないじゃないですか。誰もが皆グラフィックデザインとかそういう仕事をしたりしている。それはずっとそういうものだし、海外でも皆そうですよね。海外の場合はMoMAの警備員をやっていたり(笑)。ソル・ルウィットはMoMAの受付をやっていてね。それからロバート・ライマンはMoMAの警備員をやったり、ニューヨーク公共図書館の案内係をやったりとかね。皆、そんなようなことをしていた。他にもニューヨークのアーティストは大工さんをやったり、配管工をやったり。
足立:1980年代に戻ると『Brutus』が1980年に創刊されて、ライターをやっていらっしゃったとお聞きしました。それはどういうつながりだったんでしょうか。
沖:『Brutus』はたまたま高校の先輩で、エッセイストで写真を撮ったりもしている永井宏さんっていう人がいて、彼はフリーのエディターとしても活躍していたんです。彼は『Studio Voice』にも関わっていて、でも『Brutus』が立ち上がったので、それでですね。彼自身は昔、多摩芸術学園の写真か映像学科を出ていて、現代美術が好きだったんです。ぼくは現代アートをやっていたから、そういうことを『Brutus』に書かないかって言われて、それで書いたんです。『Brutus』はその後にアートをすごく取り上げているんだけど、その頃はまだ全然理解がなかったですね。創刊から3号目くらい、ヘミングウェイが表紙になっている号で、最初に書いたのは多摩美で作って、今は東大の教養学部にあるデュシャンの《大ガラス》のレプリカのことですね。それと、ちょうどその頃にビル・ヴィオラに会ったんです。ビル・ヴィオラにはその前にも会っているんだけど、ビル・ヴィオラが東京に1年くらい滞在したので、ビル・ヴィオラのことを書いたんです。でも《大ガラス》もマルセル・デュシャンも皆は知らないし、ビル・ヴィオラも知らないから、全然ありがたがられなかったですけどね(笑)。
鏑木:依頼としては、何か美術の記事を書いてください、ということでテーマは沖さんが書きたいものということですか。
沖:そうですね。でも、あまり評価されなかったというか、その当時はあまりそういうものが面白いと思われなかった。
鏑木:早かったんですね、きっと。
沖:それから何年かたつと、『Brutus』でもニューヨーク特集とかね。『Brutus』の初めの頃だったから。その前は『POPEYE』だったじゃないですか。最初は『POPEYE』的だったわけですね(笑)。そういうハイカルチャー的なものは、理解している人がすごく少なかったんですね。広告業界にいたから、出版業界は隣り合わせみたいな感じがするじゃないですか。だから別に特に構えることもなくて、普通に頼まれたら書くっていう感じ。『宝島』にも書いていますね。ぼくはビデオもやっていたから、レーザーディスクが出たときに技術解説のようなことを書いたりしていましたね。
鏑木:そうなんですね。見てみたいです。
足立:1980年はいろんなことがあって、オーストラリアでグループ展に出たり、ジュネーブで1980年12月に「Dioptre」というアートスペースで個展をやったり。あと、北澤憲昭さんと一緒に「作品はここにあった。」(ときわ画廊、1980年8月19日-23日)っていう展覧会をやったり。
沖:そうですね。忘れていました。
足立:それから、1980年に「第1回ハラ・アニュアル展 80年代への展望」展(原美術館、1980年11月26日-12月25日)。
沖:そうですね。あと、富山県立近代美術館も1980年ですよね。県立近代美術館のこけら落とし。
鏑木:富山は翌年(富山国際現代美術展、富山県立近代美術館、1981年7月5日-9月23日)ですね。
沖:1981年でしたっけ。
鏑木:本当にたくさん、重なっています。
沖:そうです。たくさん重なっていますね。
足立:では、海外体験のほうから。オーストラリアは、ステラークさんの関係ですか。
沖:そうですね。ステラークも含めてだけど、オーストラリアの展覧会のオーガナイズは銀座とか神田の画廊が集まってやっていたんです。それをリードしたのは、ルナミ画廊の並河恵美子さんです。並河さんが中心にしてやっていたわけですね。
鏑木:「Continuum ’83」ですか。
沖:そうです、「Continuum ’83」。でも、その前にグループ展がひとつあって、それからシドニー・ビエンナーレがあって「Continuum ’83」があって。オーストラリアと東京との結び付きっていうのは、圧倒的に並河さんを通してですね。それと並河さんと仲のいい、日本人の方でオーストラリア大使館の文化担当の方。おととしも大学に来てもらったりした。
鏑木:玉井祥子さん?
沖:そうです、玉井さんですね。日本とオーストラリアとの交流というのは、玉井さんとそれから、並河さん。で、ステラークも行った。でも玉井さんはステラークのパフォーマンスは見たことがなくて、最近見たって(笑)。当時のステラークの作品はなんと言うかブラッディーな、ボディーアートみたいな作品だったから、見なくて良かったかもしれないですね。
足立:オーストラリアには行かれたんですか。
沖:オーストラリアには行っていないです。オーストラリアは長い付き合いなのに全然行ったことがなくて、その後でわりと最近、6~7年くらい前に大学の予算で行ってきました。
足立:ジュネーブの個展のことも教えてください。
沖:ジュネーブの個展の前に、パリでグループ展があったんです。1980年に「余白」っていう展覧会。それはヴラスタ・チハーコヴァーさんっていう、彼女はチェコの人で、批評をやっている方で、展覧会のオーガナイズしたんです。パリはピサロの孫か子どもがやっているカティア・ピサロ画廊っていうところでやったんです。それに合わせて、ジュネーブにも来ないかっていう話があって、ジュネーブで展覧会をやった。
足立:では、パリに行かれたんですか。
沖:そうですね、パリには行きました。パリで一緒だったのは島州一さん、倉重光則さん、中山正樹さん、高木修さんとか、5人くらいかな、日本からのアーティストは。島さんはそのとき、文化庁の在外研修派遣でパリにいたんです。
足立:それが初のヨーロッパ体験ですか。
沖:そうですね。その前にアメリカに行っているんだけど、ヨーロッパは行ってないです。そのときはわりと長めに行って、パリに行ってジュネーブに行って、その後はロンドンに遊びに行っていたな。
足立:その時、カルチャーショックとか影響っていうのはありましたか。それとも、あまりなかったですか。
沖:あんまりなかったですね。要するに英語圏のほうが慣れているけど、まぁ特にはなかった。どちらかというと、アートは世界中どこにでも行けばあるなっていう感じでしたね。わりと普通に、純粋に、世界はどこでもコミュニティーがある。どこそこに何千人、どこそこに何千人くらいで、世界全体では何万人くらいの感じのコミュニティーがあるんだ、という感じはしている。現代美術は、そういう意味でグローバル。でも今から考えてみると、すごく欧米中心ですよね。その前に韓国にも行っているけど、韓国の人たちも皆、最終的には欧米を見ているから。
鏑木:沖さんが最初に行かれた外国はアメリカですか。
沖:そうですね。アメリカが最初ですね。
鏑木:いつ頃ですか。
沖:1976年くらいじゃないかな。
鏑木:大学を出てすぐですね。卒業旅行ですか。
沖:ではなくて、ちょうどサンフランシスコから大学院に来ていた留学生と知り合って、「サンフランシスコに来ないか?」って言われたんです。「サンフランシスコで展覧会をプロモートすればいいんじゃないの?」って言うから、それでサンフランシスコに行ったんですよ(笑)。展覧会は結局はできなかったんだけど、ポートフォリオを持って画廊を回って。ちょうどその話がきたのが4年生のときで卒業制作の講評会のときに、おととい話した「沖、お前何やってるんだ」なんて言う先生がいたから「ぼく、3月くらいにサンフランシスコで展覧会やるかもしれません」って言ったら、先生が「えー!」とか言っていました(笑)。
鏑木:先生もびっくりですよね(笑)。それが最初の海外ですか。
沖:でも、今から考えると当時のサンフランシスコは地方都市で、物価も安かった。今はめちゃくちゃ高い街になっちゃった。
伊村:それは、カセットテープの作品ということですか。
沖:そのときは、カセットテープの作品じゃないですね。そのときはビデオの作品も持っていって、真木画廊で知り合ったサンフランシスコから日本に来ていた、ダニエル・ケリーっていうアーティストがいたんです。彼はUCバークレーの美術館で、働いていたんですよ。だからぼくがダニエルに会いに行って、ビデオを見せた。そのときUCバークレーの美術館で、すごく変な展覧会をやっていたんです。それまでぼくはどっちかっていうとコンセプチュアル・アートとか、そういうものに興味があったけど、行ったらなんだか変な人間の形をしている作品があって、それがジョナサン・ボロフスキーの作品だったんです(笑)。だからあのとき、アートが随分と構造転換していたわけです。ぼくは「やっぱりカリフォルニアだからこんな変な作品があるのかな」と思ったものでした。なぜかと言うと、ぼくが泊まっていたところはマニュエル・ネリっていうカリフォルニアですごく有名なアーティストのところで、その人たちのグループが「ファンク・アート」って呼ばれていたんです。ちょうど抽象表現主義以降くらいの世代で、カリフォルニアを中心にしたグループ。その人はすごく大きな元教会に住んでいて、部屋が余っているからそこに泊まっていたんです。こっちは世代的には表現主義とかポップアートの流れよりは若くて、具体的なイメージよりも概念のほうが中心だから、マニュエル・ネリの作品はポップアートの傍流のようだなと思っていました。UCバークレーでは若いアーティストがそういう具象的な絵を描いて発表したりしていて、ボロフスキーに出会って、こういうのが出ているんだなと思った。それはすごく印象に残っていますね。そのずっと後、ぼくがカーネギーメロン大学に行ったときに、ボロフスキーはカーネギーメロンを卒業している、あいつは卒業しているけど全然学校に寄付しない、とか言われていましたけれどね(笑)。
足立:そのときはニューヨークにも行かれましたか。
沖:サンフランシスコに行って、その後でニューヨークに行ったんですよね。
鏑木:シスコに続いてニューヨークですか。
沖:アメリカの両端ですね。サンフランシスコはヒッピー・カルチャーはもうなかったけれど、やっぱり文化的にはちょっと風変わりでしたね。でも「これからニューヨークに行く」って言ったら、若い人たちは「アメリカの文化っていうのはニューヨークとサンフランシスコが両極で、あっちはあっちで、こっちはこっちなんだ」っていう話をしていた。こっちはもともとアートの中心はニューヨークだと思っているから、「ああ、そうですか」って聞いていたんだけど。
伊村:そのときのニューヨークで印象に残っていることはありますか。
沖:ニューヨークで印象に残っているのはやっぱりソーホーとか、レオ・キャステリとかを全部見たことじゃないですか。あとはMoMAに行って、グッゲンハイムも全部見て、メトロポリタンも見たし、それだけでもめちゃくちゃすごかったですね。そのときはニューヨーク大学の映画専攻だった友だちがいて、若いアーティストを紹介してくれて会ったりしましたね。
伊村:キャステリに行かれたときは、メアリー・ブーンは。
沖:そのときはなかったです。その後ですね。メアリー・ブーンができたのは、1980年代かな。(注:メアリー・ブーンは1978年に開廊)ニューヨークはやっぱりいろんな文化、全般的なね。だから美術だけじゃなくて、パフォーマンスみたいなものもあった。あと夏から秋にかけて行ったので、夏にセントラルパークで無料のフェスティバルがあって、それはレベルがすごく高かった。メトロポリタンのオペラがあったり。
鏑木:サンフランシスコとニューヨークと、長期間アメリカに滞在されたんですね。
沖:そうですね。2カ月くらいいたんじゃないかな。それで帰ってから就職したんです。それまでは、繊維会社でアルバイトをしていた。
鏑木:すごくいいモラトリアム期といいますか。
沖:そうですね。地方から来ていたら別だけど、すぐに働かなくても自宅が東京だから。
足立:ちょうどその頃、制作がビデオアートに変わり始めたと思うんですけど、ニューヨークでビデオアートは見ましたか。
沖:ビデオアート、そうですね。まだその頃はThe Kitchenも有名じゃなかったから、特にビデオアートっていうのはなかった。でも面白い画廊はどこかと教えてもらった時に、Printed Matterがあったんです。Printed Matterがまだトライベッカにあって、すごく小さなお店だったんですよ。この部屋くらいの大きさ。そこでアーティスト・ブックというのを見て、あ、こんなものがあるんだって思った。それからたぶん10年くらい経ってからソーホーに移ったんですけど、最初は本当に小さなお店がトライベッカにあった。でも、それはすごく印象にあって、そういうマルチプルなものっていうのが面白かったですね。それは後から考えてみるととても大事なことで、マルチプルにものを作るっていうことの最初の出会いだった。そういうアーティスト・ブックの流れがあったり、あとは60年代くらいかな。うちにもあるんですけど、『S. M. S.』っていうマルチプル作品があるんです。それはすごい作品でジョン・ケージとかオノ・ヨーコとか、皆がマルティプルで作った作品を5つの箱に入れているんです。ぼくも持っているんですけど、それはもう1980年代になってから入手したものですね。1980年代後半にニューヨークに住み始めて個展をやったところが、どちらかというと美術というよりデザインに近い画廊だったんです。そこのオーナーが『S. M. S.』が大量にあるのを見つけてディストリビューションを始めたので、ぼくが日本のファッション系の雑誌に文章を書いて紹介したんです。そうしたら「紹介してくれたから」と言ってワンセットくれたんです。今なら何十万円もするんですれけど。
足立:今おっしゃったのは、1984年のレインホルド・ブラウンですか。
沖:そうですね。レインホルド・ブラウンですね。そこで『S. M. S.』とか、マルチプルを販売していた。それは今のアーティスト・ブックとつながっていて、ぼくがいる時にちょうどメールアートをやっている方で、具体の……
鏑木:嶋本昭三さんですか。
沖:そうだ、嶋本さん。嶋本さんと関西から3人くらいアーティストが来て、向こうで会ったりしました。メールアートはぼくが知らない分野だったけど、それはそれで面白いなと思いましたね。
伊村:MoMAのPS1ができたのは、この頃ですよね。
沖:できたのは1975~76年ですよね。
伊村:はい、76年。
沖:できたばかりのPS1を見に行ったら、閉まっている日だった(笑)。でもガードマンの人に「東京から来た」と言ったら入れてくれて、誰もいないところでずっと見ていたんです。PS1って、本当に校舎じゃないですか。もろに校舎のままで、通路の横に鉄板が置いてあったりして、それがドナルド・ジャドの作品で面白かったですね。でも実はそれには驚かなかった。多摩美の大学院のアトリエの隅に木の箱があって、中を開けると綿の作品があって、それは荒川修作の作品だったのだけど、でも誰もありがたがらないんだ。汚くなっているだけ(笑)。だから現代美術って、あるところにそんな風にあるからすごい。あの作品を今誰が持っているのか分からないけど、荒川さんの作品が転がっていたんですよ。でも誰もありがたがらない。それと同じようなことは、そういう話はあんまりしちゃいけないかもしれないけど、新宿にすごくおいしい焼肉のお店があって、おすすめなんですけど、壁に李先生の作品があった(笑)。焼肉の煙でちょっと茶色っぽくなっているんです。でもたぶんそのお店のオーナーの人は、恵まれないアーティストの作品を買ってあげて、自分のお店に飾ったのでしょう。
足立:1980年に戻って、ハラ・アニュアル展について覚えていらっしゃることはありますか。どんな展覧会だったのか。第1回のハラ・アニュアルですよね。
沖:そうですね。
足立:誰がやった展覧会だったんですか。
沖:他の作家は要するに先輩たちで、同じジェネレーションでは川俣正くんが一緒だったんですよね。あと覚えているのは、堀(浩哉)さん。堀さんの世代ですね。でも、菅木志雄さんの世代ではなくて、その下の世代ですね。(本棚からカタログを探して)お、いきなりちゃんと出てきた。すごいな。よく見つけた。お、小清水(漸)さん。
鏑木:大学の先輩ですね。
沖:堀さん、原口典之さん、眞板雅文さん、村岡三郎さん。そんな感じですね。(カタログを指して)ぼくの若いときの写真。
鏑木:ありがとうございます。この作品は例の……
沖:ときわ画廊ですね。
鏑木:カタログに掲載されているのは、1979年9月のときわ画廊の個展の時の作品。ハラではどういう作品を出されたんですか。
沖:このときはこの作品で、同じようにネオン管を使っている。それと、音が入っていた。滝の流れの音ですね。
鏑木:ネオン管とおっしゃっていたのは、これですか。
沖:そうですね。これですね。
鏑木:これが壁伝いに?
沖:そうですね。
鏑木:ひょっとして、こっち側の壁にもありますか。
沖:そうですね。このときは、こっち側の壁にもありますね。でもこれは2週間連続でやって1週目がこれで、2週間目は黄色いビニールのシートを敷いてやったかな。あ、2週間連続してやったのか。その黄色いシートを敷いてやったときは、音を山下達郎に頼んだの。
鏑木:ではハラ・アニュアルのときは、ときわのこの作品ではないけれども……
沖:まぁ同じ作品。この鉄の玉はこの間ずっと、「今日の作家展」(後述)でもこの玉を使ったんです。
鏑木:この玉はきっと、ものすごく重いんですよね。
沖:重たいですね。鋳造を頼んでやったんです。
伊村:これは割れていますけど……
沖:わざと割ったんです。
伊村:落として割ったんですか。
沖:そうですね。落として割ったから、行為と痕跡とが一緒になっている。
伊村:ブロックは既製品なんですか。
沖:そうです。道路に使われているやつ。床は石綿板を敷いているんです。画廊の床はもともとリノリウムだけど、これは石綿の入ったコンクリートの板みたいなものを敷いて、その上にまた歩道に使うコンクリートを使って、それを割って。
鏑木:ハラ・アニュアルは選考委員が何人かいたと思いますが、誰の推薦ですか。
沖:東野さんですね。
鏑木:沖さんに声をかけたのは、やっぱり東野さん。
沖:もろに東野さん(笑)。
鏑木:(カタログを見ながら)選考委員はこの人たちですね。東野さんも入っています。
沖:そうですね。次の年の富山の県立近代美術館のカタログを書いたのも東野さん。そのときは、(選考委員は)東野さんひとりですけどね。
鏑木:こういうときは「こういう作品をお願いしたい」みたいな出品依頼があるんですか。
沖:いや、全然ないですね。
鏑木:「この展覧会に出してくれない?」みたいな感じですか。
沖:そうですね。原美術館も、まだできたばかりだから。第1回。
伊村:1979年オープンだから、翌年ですものね。
鏑木:東野さんは沖さん以外の方にもお声がけされたんですか。
沖:この中で東野さんが選ぶとしたら、ぼくと、誰だろうな……。他は分からないですね。村岡さんかもしれないな。他はやっぱり針生さんとか、その辺が選んでいるんじゃないかなっていう感じがする。ぼくは東野さんがずっと選んでくれているから、ゴマをすって東野さんに言い寄っているんじゃないかって思われていたらしいです(笑)。でもぼくはそういうことは全然やらなくて。でも、他の人はたぶんそう思っているかも?
鏑木:お話をお聞きしていると、沖さんがそういうタイプの方ではないとわかります。
沖:そうですね。でも、わからないじゃないですか。
鏑木:いえいえ。わかりますよ、きっと。
沖:ぼくは出ようが出まいがあまり関係がない。普通に、どんな展覧会でも呼ばれたら行く、みたいな感じだから。
鏑木:原美術館の前に、ときわ画廊で北澤さんの「作品はここにあった。」という展覧会があります。この年は海外も含めて展覧会が多いと思いますが、この「作品はここにあった。」はいかがでしたか。
沖:それは全然覚えてないけど、たぶん段ボールを使った作品だと思いますね。グループ展みたいな感じです。北澤さんは田村画廊の画廊番だったので、毎週行くたびに会っていましたね。だから『象』とかをやったのも、北澤さんから話があったから。
鏑木:では沖さんとしては、ハラ・アニュアルのほうが印象に残っている感じですか。
沖:そうですね。大体がボール紙を使うっていうのと、この玉を使うっていうのと、どこかに手を使った痕跡をペンキで塗るっていうのは、かなりつながっています。だんだんちょっとずつ形が変わっていくんですけど、サトウ画廊でやった個展とかも少しずつつながっていますね。でもこの玉の作品は、この時点ではずっと使っていますよね。1980年代はそういう感じですね。80年代後半にアメリカ行っちゃうから。
鏑木:一回お休みしましょうか。(書架を見ながら)お仕事関係の本はここにまとめているんですか。
沖:まとめてはいないですけどね。最近、本屋を始めたんです。
鏑木:そうなんですか。本屋さんは最近始められたんですか。
沖:3週間くらい前。Code&Modeというオンラインショップですけど。
鏑木:本当に最近始められたんですね(笑)。
沖:そうですね。急に始めたんです。自分がどんな本を持っているかって、普段は覚えていないじゃないですか。でもやってみるとかなりいい本が多くて、「随分偉いな」と思った(笑)。珍しい本も多いです。2階にはこれの2~3倍あるんですよ。このあいだ引っ越しをして、そのときにやっぱり本をずっと持って引っ越しをするのは大変だなと思った。でも、ぼくの友だち、足立さんもそうかもしれないけど、文章を書く人は何万冊も持っている友だちもいるから、それから比べたら大したことはないですけどね。ただぼくの場合興味が広いので、音楽系のものもあるしカウンター・カルチャーみたいなものもある。ここはまだ一部です。
足立:最近では中国語も韓国語もやられていて、今は何カ国語くらいいけるんですか。
沖:日本語と英語と、どうにかできるのは中国語ですね。中国語はあまり大したことはないですけど。普通に本を読むとかはできます。
鏑木:中国語はいつ頃から始めたんですか。
沖:中国語はニューヨークから帰ってきたとき、1991年に帰ってきたのかな。第1次イラク戦争が始まったときです。これから面白いのはテクノロジーとエコロジーと、それからインターネットだと思ったんです。あ、1990年代初頭にはインターネットはなかったんだ。エレクトロニクスの技術、その3つを1990年代にやろうと思ったんです。そのままちゃんとやって、エコロジーは仕事にも関連していて、環境系のコンサルテーション会社の研究所の主任研究員になったわけです。テクノロジーは、コンピューターをもっとちゃんと使おうということを考えているうちに、インターネットが一般化していった。あともう一つが中国。中国はたぶんこれからすごく面白くなるだろうって思った。でもぼくは中国語を勉強しないで、広東語を勉強していた。香港のほうが気楽だから。ニューヨークにいたとき、この頃はアメリカの中国人が大体、広東系だったんですよ。あと中華街で使う言葉が、広東語だったんです。それで広東語を勉強してから、中国語を勉強したんですよね。でも中国語はちゃんとした学校には行ったことがなくて、北京語言学院で5日間くらいのコースを1回取っただけなんです。最初の筆記試験でクラス分けされるんだけど、ぼくは中国語はほとんどしゃべれなくて、数カ月前にラジオ講座を聞いたけれど、チンプンカンプンだった(笑)。でも中国語って言葉は違っても書くと同じだから、いきなり中級クラスに入っちゃって(笑)。
(休憩)
鏑木:お聞きするべきことが、いろいろあり過ぎますね。
沖:そうなんですよ。話すことがいっぱいあって。
鏑木:お聞きしたいことを全部お聞きできるかなって、いま皆で相談していました。
沖:枝分かれしていくと、またいっぱいあるんですよ。
伊村:先ほどのマルティプルとメールアートのお話で、Printed Matterのような出版活動が活発な時期にニューヨークにいらっしゃったんだと、すごく気になりました。
沖:そうですね。Printed Matterはやっぱりすごく面白かったですね。それでなにかをやったということはないんですけど、でも今は逆にそういうものも面白いなと。ただ、本っぽい作品を作ったことはあるんですよ。一点ものなんだけど、本の作品。(書架を探しながら)本形式の作品をひとつ作ったんだけど、今はすぐ出てこないですけど。
足立:1981年も、いろんなことがありましたよね。
沖:はい。
足立:ときわ画廊の個展からお聞きしてよろしいでしょうか。「Musical Space Art + Special Groovy Sound」(1981年6月8日-13日)。
沖:それは山下(達郎)とやったやつですね。
鏑木:黄色のシートを使ったのは、このときが初めてですか。
沖:そうですね。黄色と、赤や緑のシートを使ったんです。それは富山県立近代美術館の大きなインスタレーションの作品で、ど真ん中に使ったのと同じ布ですね。赤と緑の作品。だけどときわのときは黄色で、イメージ的にはわりと強くて皆、色も解釈してくれた。誰かは、たぶんエスニックなものとして解釈したんじゃないかと思います。でも別にエスニックに考えたわけじゃなくて、色の構成として考えたんだけどね。
鏑木:このときに色を使おうと思ったのは、何か理由があったんですか。
沖:特に強い理由はないんですけど、もともと使わなかったから使うというのもあって。ちょうど時期的にポスト・ミニマルみたいなものから…… 最近は自分のことを説明するときに、通じる人と通じない人がいるんだけど一応、ポスト・ミニマル以後って言います。ポスト・ミニマルと考えると、一番近いんです。その頃の作品って今考えてみると、ポスト・ミニマルなんですよね。コンセプチュアル・アートの影響は考え方としてはあるんだけど、でもそういう概念的なものだけを出すというよりは、むしろポスト・ミニマル的な作品だった。ポスト・ミニマルもどっちかと言うと、あまり色は使ってなかったんだけど、たぶん仕事の影響もあって、色っていうものの影響を考えるようになった。あと、だんだん音を使う作品が増えたのは、やっぱり音を使うことによって空間の感じが変わるじゃないですか。視覚的なアーティストの人は音があると空間がゆがむから嫌いっていう人も多くて、グループ展では実際に音なんて出せないじゃないですか。それは、音によって視覚的には同じに見えているものも全然違って見えてきてしまうから。でもぼくは、逆に音を使ったほうがいいなと思ったんです。
鏑木:前回はフィールド・レコーディングで採集した滝の音を流したとおっしゃっていましたが、このときは山下さんが作った曲ということで、自然の音を使うのとは全然違うと思います。どういう経緯で山下さんに曲をお願いされたんですか。
沖:自然の音を使うのは、アートっぽいですよね(笑)。山下の音を使ったのは、より面白いから。
鏑木:それは沖さんから「こんな感じで」というお願いをされたんですか。
沖:そうでもなくて、ちょうど彼が『On the Street Corner』っていう最初のアカペラのレコードを出した頃なんですよね。彼が多重録音に凝っていたっていうのもあるから。ちゃんと2パターン作ってくれたんですよ。しかもエンドレス・テープで作ってくれているので、ずっと回せる。
鏑木:面白そうですね。
沖:面白いですよね。
鏑木:それは沖さんの作品のためだけに作られた、オリジナル音源ですよね。
沖:そうですね。
鏑木:昨日、カセットを見せていただきました。
沖:そうなんです。でもたぶん、山下の公式の歴史の中には残ってないですけどね(笑)。前に雑誌か何かの山下についてのインタビューを受けて、ぼくの展覧会で山下に音を作ってもらったっていう話をしたんだけど、そこはカットされていたから(笑)。
鏑木:もし良かったら、カセットを撮影させていただけませんか。
沖:構わないですよ。
鏑木:カセットの写真では音は分からないですけど、私たちは展示風景を見ることしかできなくて、当時、会場で音楽が流れていたことは知りませんでした。でも音源が残っているんですね。
沖:(カセットのラベルを見ながら)「Spacial Groovy Sound」って書いてある。
伊村:(文字を指して)これは?
沖:これはぼくの字ですけどね。
鏑木:これが原盤ですか。
沖:そうですね。もうこれしかないですね。
鏑木:これは当時流していたカセットそのものですか。
沖:そうですね。
鏑木:当時の会場のお客さんの反応はいかがでしたか。
沖:人によってですね。皆、ポップスとかあまり知らないじゃないですか。それで展覧会を見て、山下達郎がぼくの展覧会のために作ったっていうのを知って、山下のことを詳しく調べた人がいて、もっとすごくコンセプチュアルなアート的な作品だと思ったら違う、ポップスだったって。
鏑木:やっぱり当時、今でもそうですけれども、展覧会の会場でポップスが流れているというのは、なかなかイメージが湧かないですね。
沖:でも、これはポップスじゃないんですよ。要するに今で言うと、声だけの環境音楽みたいな作品。同じフレーズをずっと繰り返しているから、かなり芸術的(笑)。山下自身は、かなりアートに詳しいんですよ。
鏑木:そうなんですか。それも初耳です。
沖:そうですね。その辺はあまり出てこないですよね。山下といえば普通はモータウンとかの話だから。
伊村:何か歌詞があるっていう感じではないってことですよね。
沖:じゃないですね。
鏑木:声を楽器のようにということですか。
沖:「オオー、オオー」みたいな感じのフレーズが多重録音されているんです。でも、今考えてみるとよく作ってくれた。当時はわりと暇だったんですね、この頃(笑)。
鏑木:インタヴューを公開するときに、写真も一緒に掲載してもいいですか。
沖:いいですよ、全然。勝手にぼくがここでばらした。でもこの間、後で話すと思うけどヘンリー川原のレコードを再制作した会社が、これをレコード化したいって言ってきた。スマイルカンパニーの人を知っているから、話をしてみると言っていたけど連絡がないな。でも山下の歴史からすると、秘密の歴史なんじゃないかな。
鏑木:そうなんですか。
沖:表には出てこないから。
鏑木:私たちも今回初めて知って、びっくりしました。貴重なものを見せていただいて、ありがとうございます。
沖:そうですね。確かに貴重。面白いですよね。でもアメリカにいると、こういうのってわりと普通な感じがします。ニューヨークでマンハッタンを歩いていて、お店に入ろうとするとドア開けてくれた人がハービー・ハンコックだったりすることが、普通にあったから。レストランで食事をしていてパッと隣を見たらトーキング・ヘッズの、なんだっけ。
鏑木:デヴィッド・バーン?
沖:そう、デヴィッド・バーンだったとか(笑)。
鏑木:すごい世界ですね(笑)。
沖:マンハッタン・トランスファーが日本に来たことがあって、日本でプロモーションビデオ作るときにぼくが提案したんです。そのときぼくはヨーゼフ・ボイス的なイメージの作品がいいと言ったんですけど、マンハッタン・トランスファーの人はボイスは知らなくて、でもマルセル・デュシャンがすごく好きだと言っていました。だからマルセル・デュシャンは、そのくらいのミュージシャンだったら皆、知っているんだなと思いましたね。
足立:それではビデオ・ギャラリーSCANの話の前に、富山国際現代美術展について教えてください。
沖:そうですね。美術館の1回目の展覧会ですよね。こけら落とし。
足立:東野芳明さんは、日本の6人を選出されたということで。そこでも沖さんは一番若くて。
沖:そうですね。
足立:そのときの図録で、2年前にお会いしたスーザン・ソンタグの本を引用されていますね。
沖:そうですね。その辺はずっと、ある意味つながっていますからね。
足立:そのときの展覧会図録には作品図版がなかったけれど、『週刊新潮』(1981年7月23日号)に大きく掲載されていました。
沖:そうです。めちゃくちゃなことが書いてあるやつですね(笑)。こんな田舎でこんな訳のわからない展覧会をやって、みたいな記事。写真はちゃんと撮っているんだけど、切り口がね。まぁ、そういう風に書かれるのが『週刊新潮』らしくて、逆に言うと現代アートの位置がそんなものだったっていうこともありますよね。
足立:その後もいろいろな展覧会に関わってはいるけれど、でも日本のアートシーンとは距離を置くようになったようにも見えます。
沖:そうですね。その後、あんまり神田とかには行かなくなった。ちょうど1980年代からよくニューヨークに行くようになったし、あと六本木のNEWZに関わっていて、一生懸命やっていたのでね。しばらくたって美術評論家の平井亮一さんと何十年ぶりかにどこかの展覧会で会ったときに、「沖さんは、途中で神田あたりから消えたからね」と言っていたから、皆は消えたと思っていたんですね。でもぼくは勝手に自分で展開をしていたのと、アメリカに行ったっていうのと、それからどんどんテクノロジーから生み出された、価値っていうのが大きなものになっていっていた。それは、それまで知っていたいわゆる戦後美術みたいなものとも、もの派とも、李先生とも違うものに入っていくわけですよね。ただニューヨークにいる間はまだその中間期で、ニューヨークで自分にとって2番目のコンピューターを買ったんだけど、それがAmigaだったんですよ。最初に自分で買ったコンピューターは、MSXなんです。他に使っていたのは、NECの98とか。コンピュータを使う割合がどんどん増えてって、自分より若いアーティストでも、そういうテクノロジーを前面に出すようなタイプ、三上晴子さんとかが出てきた。三上さんとは仲が良かったので、よくいろんな話をしました。年齢的には、彼女のほうが10歳くらい下なんだけど、彼女は美術のことは全然知らなくて、でも新しい表現をしていて、その辺はやっぱり自分にとっても、ちょうど転換点になっている。その後は美術とはあまり関係なくやっていて、日本に帰ってきてからもそうだったんだけど、その頃ちょうどインターネットが出てきたから東京芸大のグラフィック・デザインの内山昭太郎先生に頼まれて、グラフィック・デザイン科の学生にインターネットを教えてくれって言われたんです。それでコンピューター室でHTMLのコーディングを教えたんですよ。たまたまそのコンピューター室を管理している人が、今は武蔵美の先生をやっている三浦均さんですけどすごく面白い人で、メーリングリストを作るから入れって言われたんです。それでFridayっていうメーリングリストが始まって、足立さんともつながった(笑)。そのときはほとんど美術には関係なくて、むしろインターネットとその文化がテーマみたいな感じになっていました。
足立:1981年に話を戻すと、その頃からSCANに関わり始めるという。
沖:SCANができたんですね。中谷(芙二子)さんとはその前から知り合いだったんだけど。
鏑木:そうですか。最初に中谷さんと交流されたのは、どういうきっかけだったんですか。
沖:中谷さんとは1970年代にも会っているんですけど、たまたまビル・ヴィオラが日本に来たとき。
鏑木:1970年代ですか。
沖:1970年代の終わりに来ているんです。中谷さんに会ったのとビル・ヴィオラに会ったのは同じときで、アメリカン・センターか何かで会ったんですよね。その日は考えてみるとすごい日で、ビル・ヴィオラと中谷さんに同時に会って知り合った。そのときは中谷さんは、ぼくのことは知らなかったんだけど、でも美術の雑誌を見たら沖っていうのがいるっていうのがわかって、それがきっかけで中谷さんのところにちょくちょく行くようになったんです。原宿に中谷さんのお宅があって、その2階に岡崎球子画廊、岡崎球子さんは岡崎和郎さんのパートナーだった方ですけれども、岡崎和郎さんのための画廊があって、そこにもよく行っていました。岡崎さんの家にもよく行っていたし、広告の仕事を一緒にやったこともある。そのついでに池田満寿夫さんにも会って、池田さんの家にも行ったことがある。
鏑木:沖さんのお勤め先と中谷さんのお宅が近いこともあって、行き来がしやすかったんですね。その流れで、SCANの審査員をなさることになるんですか。
沖:そうですね。SCANが始まって何年か、まだそんなに経っていないと思うんですけど、2年目か3年目くらいかで公募展が始まったんですよね。
鏑木:1981年ですね、最初が。
沖:じゃあ、まだそんなに経ってないですね。それで最初の審査員をすることになったんです。そうか、そのときはビルがいたから最初はビル・ヴィオラとぼくが審査員をやって、2回目はぼくと松本俊夫さんがやったんですよね。
鏑木:沖さんはビデオの作品も作っていらっしゃるし、新しいビデオの作家を選びましょうっていうことだったんですか。
沖:そうですね。ぼくはビデオはそれほどメインじゃなかったんだけど、でもあそこに来ていたアーティストたちよりは年上だったっていうのがあった。あとは、そういうアート全般に詳しいからっていうことで審査員をやったような感じ。ビデオギャラリーSCANは中谷さんがギャラリーをオーガナイズしているのと平行して、違うフェーズだけど、そこに集まっている人たちのいろいろな活動があって、Scanning Poolっていうインディーズの音楽フェスティバルみたいなものをオーガナイズしたりしていた。そっちにも関わっていたんです。
鏑木:そうなんですか。
沖:そうですね。それでぼくがScanning Poolのポスターとか、パンフレットとかをデザインしたりもしていました。Scanning Poolも、すごく面白い活動でしたね。
鏑木:Scanning Poolについても教えていただけますか。
沖:Scanning Poolはぼくはそのオーガナイズには関わってなくて、ポスターを作ったり、あとはコンサートを見に行っていただけなんです。でも、その当時の東京のインディーズのバンドは、そこに随分集まっていた。インディーズみたいなものと、そういうビデオの作家たち。だからちょうどプロモーションビデオ、MTVができたこともあって、やっぱり映像と音っていうのはかなり近くなったっていうのもある。あとはビデオがかなり使いやすくなって皆が持てるようになりつつあったから、それを使ってミュージック・シーンを撮るっていうのがあったんです。その頃は、そういうことが随分ありましたよね。その辺にも関わっていたし、デザインもやっていた。自分が作ったプロモーションビデオで一番好きな作品は、シンプルなものなんですけどMUTE BEAT。YouTubeで調べると出てくるんだけど、それはぼくが作っている。そういう流れの中で、MUTE BEATのプロモーションフィルムを作ったりしていました。アメリカではプロモーションフィルムっていうのは16ミリとか、35ミリが普通にあった。アメリカは広いから、音楽産業がプロモーション用にフィルムを作っていたじゃないですか。日本は国が狭いからあまり必要なかったけれど、でもMTVができたおかげでミュージシャンがそういうものを作るっていうのが始まったところですね、ちょうど。
鏑木:Scanning Poolは、何の名前と考えればいいんですか。イベント?
沖:そうですね、イベントですね。SCANに来ていた人たちは、「ART / new york」っていうシリーズのビデオ(注:ポール・チンケルによるプロダクション、Inner-tube videoがプロデュースしていたビデオ・マガジン)を見ていたんです。それは有名なビデオ・アーティストが作っていたんですけれど、ニューヨークの画廊やビデオアート以外のものも取材して、ニューヨークのアートシーンを伝えるっていうものだったんです。それを見ていたから、アートだけじゃなくて音楽とかいろいろな何かが全部一緒くたになっていても全然、普通でした。(YouTubeを検索して)あ、見つかった。これですね。MUTE BEATの「Coffia」(1986)っていう曲。この文字はぼくが入れたんじゃないけど、でもこれがぼくの作品ですね。白黒の映像で、すごくかっこいい曲なの。これは小玉和文さん。
鏑木:小玉さんがお若いですね(笑)。
沖:このバージョンとこれを加工しているバージョンがあって、ぼくはどっちかと言うと加工している方が良かったんですけど、でもプロデューサーが加工していない方がいいということで、それでこういう風になった。
伊村:この映像を加工するために、コンピューターを使うようになったんですか。
沖:いや、この時はコンピューターはなかったんです、1980年代なので。コンピュータが映像で使えるようになったのは、1990年代後半くらいからですよね。この時は全部、8ミリで撮っているんですよ。8ミリで撮って、スクラッチ・フィルムのように1960年代の実験映画みたいに傷付けている(笑)。
鏑木:ビデオじゃないんですね、この作品は。
伊村:きれいに残っているってことはあるんですかね。
沖:これはビデオじゃなくて8ミリで撮って、それをビデオに変換したんです。プロ用のスタジオでやったから、きれいに残っているんですよね。ビデオカメラだったら、こういう感じの映像にはならなくて。普通は16ミリで撮るんだけど、低予算で8ミリを2~3台使って撮ったんです。でもきれいに撮れて、皆に16ミリか35ミリで撮ったと思われた。MUTE BEATのベースの松永孝義さんは、亡くなっちゃいましたよね。
伊村:当時の六本木というのは、どういう感じだったんですか。
沖:六本木はそうですね、すごく面白いものもあった。あと、1980年頃にはちょうど村上龍の『限りなく透明に近いブルー』で出てきたり、それも、わりと関係しているんですよ。そういうカルチャーシーンがあって、あとカフェ・バーっていうのが出てきた。ぼくもよく行っていたのが、霞町の交差点にあるTommy’s Houseっていうところだったんです。そこがたぶん最先端だった。
鏑木:SCANと関わられている頃と同時期にNEWZが始まるんでしょうか。
沖:そうですね。
鏑木:NEWZのスタートは、何年になるんですか。
沖:NEWZは、やっぱり1981年くらいかな。81年か82年くらいですよね。
鏑木:そうですか。ちなみに場所は、六本木のどの辺だったんですか。
沖:六本木の防衛庁に近いところですね。
鏑木:では今は国立新美術館があるあたりですか。
沖:そうですね。あれより駅のほうにちょっと近い。レストランとか飲み屋がたくさんあって、そのうちのレストランのビルの1階がたまたま空いていた。そこのオーナーの人がパッケージデザイナーの木村勝さんの知り合いで、「そこを使ってなにかやってくれない?」って木村さんに言ったことから始まって、無料で借りていたんです。ちょうどその頃、戸谷成雄さんが木村さんを知っていて、ぼくに声をかけた。戸谷さんがぼくに声をかけたっていうのは、ぼくがアートとデザインにまたがるところにいるからちょうどいいということで連絡してきたんじゃないかと思うんだけど。
鏑木:他にもいろいろな方が関わっていらしたと、メールで教えていただきました。
沖:そうですね。他にぼくが推薦したのは、衣装デザイナーの伊藤佐智子さんと歌手の大貫妙子さんとカメラマンのブルース・オズボーンさんで、大貫さんは坂本龍一さんを推薦しました。他にはカメラマンで稲越功一さんがいたり、三浦憲治さん、中山泰さん。あと、イラストレーターのペーター佐藤さん。彼の原宿の家に行って、プラスチックスのメンバーや今野雄二さんとかと食事したことがあります。彼のパルコでやった個展の映像を制作したり、ぼくがニューヨークから日本に戻る数ヶ月前に、グリニッジビレッジを歩いていて偶然出会ったり。ひさしぶりに、それもニューヨークの街角で出会って話をしたのだけど、彼とはそれが最後になって、ぼくが帰国してしばらくしてから突然亡くなりました。思い出の多い人です。話し忘れていたけど、とても1980年代的なアーティストだと思います。あと代々木ゼミの先生もやったデザイナーで、『美術手帖』に出ていた……
鏑木:吉本直貴さん?
沖:そう、吉本さんですね。あと当時はアウトドアショップをやっていて黒澤明映画にでて俳優にもなった油井昌由樹さん、他には途中で亡くなったけど、グループ・サウンズのブルー・コメッツのサックス奏者の井上忠夫さんもメンバーでしたね。だから、めちゃくちゃ多様な顔合わせだったのですよ。歌謡曲っぽいものからなにから、全部混ぜこぜになっていておもしろかった。ぼくのそのときのコンセプトは、トランス・アバンギャルドだと思っていたから。
鏑木:今お名前が挙がった方たちは、皆さんがNEWZの運営に関わっていたんですか。
沖:そうですね。皆でやっていた。
鏑木:皆さんで企画を出し合ったりしていたんですか。
沖:そうですね。企画を出すっていうより、皆でそこで集まって、遊んでいるだけですけどね(笑)。後の方で戸谷さんが声をかけて、現代美術系からは遠藤利克さんと上田雄三さんが入った。ほかに途中で入ってきた人は、当時は電通のプロデューサーの杉山さん。
伊村:杉山恒太郎さんですか。
沖:杉山恒太郎さん。そうですね。
鏑木:基本的には、ギャラリーのような感じですか。
沖:そうですね。アートスペースです。
鏑木:他にもイベントをやったり。
沖:自分たちの展覧会と、それ以外には企画で誰々の展覧会をやったり、そういうようなことはありましたけどね。
鏑木:この頃の六本木の中心は、たぶんディスコですよね。飯倉周辺はNEWZのあったエリアとは少し違うのかもしれませんが。
沖:でもまぁ、同じようなエリアですよね。
鏑木:きっと今と違ってアートスポットみたいなところは、なかったですよね。
沖:そう、アートのスポットは全然なかったです。だからもう全然浮いているというか、どこからも浮いているんですよ(笑)。
鏑木:では本当に木村さんのご縁で、たまたま場所があったから。
沖:そうですね。雑誌に取材されても、『an・an』とかだから。美術雑誌はもともと、『美術手帖』くらいしかないじゃないですか。
鏑木:では雑誌の取材も美術雑誌より、むしろコマーシャルな雑誌が多かったんですか。
沖:そうですね。普通のファッション雑誌とか。
鏑木:そうだったんですね。さっきもお名前挙がっていた大貫さんや坂本さんは展覧会をされたことがあるようなんですが、どんなことをしたんですか。
沖:大貫さんは展覧会はやっていなくて、坂本龍一さんは彼自身はやらなくて、彼と同じプロダクションの人で、アーティスト2人組のグループで、おしゃれTVっていう名前(おしゃれTVは野見祐二、荻原義衛によるユニット)。彼らが展覧会をやりましたね。メンバーはアーティストと作曲家の二人組。
鏑木:沖さんが企画されたのは、さっきお名前が挙がった遠藤さんや戸谷さんですか。
沖:グループ展みたいなものを企画して、吉本さんと一緒にメンバーの展覧会っていうのをやったり。
鏑木:NEWZのメンバー?
沖:NEWZのメンバー。他にはぼくも展覧会を企画したな。それはニューヨークの日本人のアーティストを紹介する企画。写真の人が多くて、ニューヨークのアーティストが3人で、そのうちの1人は友だちで女性のアーティスト。その後に活躍している神蔵美子さんですね。
鏑木:写真家の神蔵美子さん。
沖:そうですね、今は私的なテーマの写真を撮る。その頃は、あまりそんな感じじゃなかったんです。
鏑木:当時は海外の方たちが、お客さんとしても見に来られることが多かったんですか。
沖:そうですね。案内状を出すと、一応神田とか銀座界隈からも来てくれた(笑)。普段はつながりはあまりなかったですけれどね。でもあの辺でやっているのは面白くて、ぼくがたまたま画廊に行った時に入ってきたのが、プロレスラーの高田延彦さん。その人はすごくセンスが良くて、作品のことについて随分とよく理解していたな。その時の有名なプロレスラーだったんだけど。
鏑木:NEWZは何年頃までされていたんですか。
沖:3年くらいしかやっていないんですよ。
鏑木:そうですか。1986年くらいまでは、展覧会案内で確認できました。
沖:そうですか。なら4~5年くらいですね。ぼくはNEWZが終わってから、ニューヨークに移ったから。
鏑木:そうですか。では、1985年ごろ。
沖:85年くらいですね。5年の途中で終わっているから、たぶん春くらいに終わっている。NEWZはそういう意味ではなにも残っていなくて、ただ最後に皆で小さな作品を作った。作品集、こういう大きな箱に入った作品集が残っています。
鏑木:それは、どういう形で出版されたんですか。
沖:出版したんじゃなくて、マルチプルの作品を皆で作った。ぼくもブロンズでこういうコマみたいなの作ったり。大貫さんはちっちゃな自分の詩の本を作ったり、皆それぞれマルティプルの作品を作ったんです。たぶん、戸谷さんも作ったんじゃないかな、覚えていないけど。うちのどこかにあります。非常に楽しかったですね。
鏑木:沖さんが当時面白いと思われていたのは、さっきおっしゃっていたようなトランスカルチャー的な部分、美術プロパーだけじゃない、いろんな方が集まってそれぞれに表現をする場所っていうところですか。
沖:そうですね。でも、ぼくもこのあいだ足立さんの本の書評を書いていて、『マヴォ』とかも同じだなっていう感じがしています。政治的な厳しい状態のなかでだけどアバンギャルドの歴史ってやっぱりもともとかなりトランス・アバンギャルドなんじゃないか。いろいろなことをやっていて、演劇をやったりダンスをやったりすることが普通だったから。日本でも、もともとそういうことがあったけどかなり途絶えていたのと、今はちょっと違うけど、美術史っていうものがやっぱり基本は美術館と画壇で作られてしまったので、抜けているものが多かったんじゃないかと思いますよね。
伊村:当時の感覚だとニューペインティングとか、日グラ(日本グラフィック展)とか、あと坂本龍一さんが本本堂を作られたり、いろいろなことが同時進行であったような気がするんですけど、そういうものはちらっと見ながら、でもそれとは関係ないっていう感じだったんですか。
沖:関連していますよね。ニューペインティングもあるし、ストリート・カルチャーみたいなものもあった。グラフィティーも同じくらいですよね。ニューヨークもグラフィティーが盛んだったから。ニューヨークは住む前からよく行っていたけれど、ちょうどキース・ヘリングなんかが出てきて、普通に街を歩いていても、クラブに行っても会ったしね。それにニューヨークに行くとアンディ・ウォーホルのグループの人たちがいっぱいいて、それがわりと普通だったから、むしろそっちのほうが中心なんじゃないかという感じがあった。ちょうど1980年代はニューヨークのクラブシーンがすごく盛んで、そこはかなりアートとも関連している。特に映像はすごく関連したし、磯崎新さんがPalladiumの内装をやったりした。ここは、世界で最初にマルチモニターを入れていた。だから自分の感覚に合ったものだけを選んでいると、映像にしても音にしてもそっちにいくのが普通で、むしろアートだけに限ってしまうほうが不自然な感じでしたね。
足立:たぶん沖さんより上の世代がいわゆる絵画・彫刻の復権みたいな方向にいっちゃったと思うんですけど。
沖:そうですね。
足立:それに対する、これは違うなっていう思いがあった?
沖:あんまりない。というか、どっちかと言うと、自分の好きなものだけをやっているからだと思います。でも復権って、大体駄目じゃないですか。時々、美術評論家も美術批評の復権みたいなことを言ったりするけど全然復権しないっていう感じがする。何かを取り戻そうっていうのは、全然駄目に決まっているじゃないですか。取り戻すんじゃなくて、何か新しいものを作るしかないかなっていう。でも復権って言うと文脈に入りやすいから、彫刻でも若手の世代の彫刻家たちが「彫刻」をあえて取り上げています。でもアートの枠組みは、もう全然違っている。彫刻という人体を立体的に作る表現は太古のギリシャ、ローマ、近世のルネッサンスからあるのだけど、美術の概念としてはロダンあたり以降の近代のもので、日本ではその西洋美術の近代彫刻を取り入れたものです。その後は、立体物とか構造物みたいな概念が表現として入ってきて、Sculptureというと、立体作品を意味します。例えば世界的に見ると、アートスクールで彫刻科のある大学ってほとんどないんです。ほぼ日本だけなんです。だって普通はもう、アートというものに統合されている。伝統的な文脈で絵画はあるんだけど、特に彫刻が専攻として残っている美大って本当に日本くらいしかないですよね。話が外れちゃうけど、片方で例えばアニメーション学科ができたりするじゃないですか。例えば大学でアニメーション学科ができたときも、多くの先生たちが反対したらしい。「アニメーション学科が美大に入ってくるの?」とか。でもその後、漫画の専攻ができたりして、それが普通になったりしている。専攻っていうのは、それはそれで日本的な仕組みのような気もします。ぼくもメディア・デザイン科っていうのができて教えたけど、メディア・デザインってなんなの?っていうのは随分ありました。
足立:では、1982年に移ってもいいですか。1982年も幾つかありますが、真木画廊でステラークの《Handswriting》を記録なさった。その2年後の84年に、ステラークの《遠隔操作トランスミッション:四つの手のためのイベント》で、沖さんは自らの体を提供された。
沖:体は提供してないけど、右腕に第3の手を付けた。で、彼が…… あれはすごく画期的なイベントで、でも見ている人は5人くらいしかいないんだけど(笑)。ぼくが神田の画廊にいて第3の手を付けているんですけど、それをコントロールしているのは、横浜にいたステラークです。電話回線を使ってこっちの第3の手をコントロールしていたから、彼の拡張していく身体なわけですよね。ぼくは彼の第3の手を付けて、彼がコントロールする手を持っていた。
伊村:これはインターネットのない時代で、電話回線で何か信号を送信する。
沖:そうですね。モデムを使えばできたんですよね。
鏑木:このときはファクスはもうありましたか。
沖:ファクスは当然ありましたよ(笑)。要するにインターネットはないけれど、パソコン通信というのはあったから、モデムもあった。だからインターネットが普通に入ってくるのは1995年くらいで、ぼくがインターネットを使い始めたのは92~93年くらい。普通の人より早いけど、その前にパソコン通信っていうのがあって、パソコン通信は1980年代くらいからあったから、皆モデムを使ってパソコン通信をしていた。オウムの事件が起きたときはパソコン通信で、普通では聞けないようなオウムに関連する情報がパソコン通信のフォーラムの中に出ていましたよね。オウムにもそういうタイプの人がいて何か流していたから、あんたはオウムのメンバーでしょ? とかやりとりされていたりしていましたね。オウムの事件が起きた日、つまり地下鉄サリンの日は、ちょうど仕事でアメリカに出張するときだった。ぼくは代々木上原に住んでいて、先に右側のプラットフォームに電車が来たら千代田線に乗って行くし、左側が来たら小田急線で新宿に出ていく。どっちからでも成田に行けるから、そのときは小田急線に乗って新宿まで行ってリムジンバスに乗って行ったけど、もし千代田線が先に来たら、東京シティターミナルに行ってたぶん、サリンのまかれたところに行ったんじゃないかなっていう気がします。アメリカに着いてから、日本で何かすごいことが起こったって。アメリカにはモデムを持って行ったからパソコン通信で調べて、サリンの事件の報道されないようなこともわかりました。だからインターネット前だけど、今のインターネットと同じような感じ。そういうのをやろうとしている人たちとは一緒にやりとりできました。ステラークは実は技術にはあまり詳しくなくて、プログラミングもやらないんだけど。第3の手の開発は東工大でやったので、そこの研究室の人が手伝って実現したのでしょうね。要するにサーボモーターをコントロールする信号を送って、それをモデムを使って流してやった。でも、ものすごく画期的なことですよね。でも誰も知らないし、見ている人もいない。
足立:それこそ、後の沖さんの《ブレイン・ウェーブ・ライダー》(1993)につながっていく世界。
沖:そうですよね。先生って考えてみると李禹煥先生とか東野さんとかだけど、1990年代、特に電子テクノロジーっていうものが入ってきたときのものの考え方とか、面白いこと、すごいことをやっているなと思ったのは、1970年代からのステラークですよね。ステラークはぼくの先生であると言うと、彼も「えー」と言うんだけど(笑)。すごく影響を受けましたね。
足立:年はどれくらい違うんでしたっけ。
沖:ステラークは上ですね。彼は元気だけど、もうすぐ80歳くらいじゃないかな、たぶん(1946年生)。しょっちゅう日本に来て、造形大学では話してもらったりしました。
足立:神田の画廊で英語を覚えられたと書いてらっしゃいましたけど、ステラークも英会話の先生ですね。
沖:英会話の先生じゃないんだけど、ステラークが他の人に説明した時「ケイスケは、ぼくのパフォーマンスを手伝って英語を覚えたんだよ」って言っていた(笑)。でも確かに、そういうこともなくはないですね。大体、話さなきゃ覚えないですから。画廊では英語ができるって思われていたから、アメリカから急にお客さんが来た時とかに呼ばれて、ぼくが話をしていました。その頃はまだ今みたいに英語をしゃべれる人が少なかったんじゃないですか。だから、ぼくが対応したことがあります。山岸さんが「沖さんは、大使みたいだね」とか言っていましたけど(笑)。
足立:1982年には、シドニー・ビエンナーレにも参加されましたね。
沖:そうですね。
足立:作品を送っただけなんですか。
沖:そうですね。シドニー・ビエンナーレはいい国際展だけど当時はわりと雑な展覧会で、別に日本側に誰か代表する人がいるわけでもなくて、向こうの人が「何か送ったら」っていう感じで来るだけだったんです。でも例えばサンパウロ・ビエンナーレには松澤宥さんとかが行っているけれど、たぶんそんな感じなんじゃないかと思いますね。パリ・ビエンナーレはステータスがあったから、昔はパリ・ビエンナーレに出たらパリビ作家って言われていました。だからさっき話した韓国の沈文燮先生も、韓国のパリ・ビエンナーレ作家だから評価されていました。でもパリビは、政治的な理由で自滅したじゃないですか。それは素晴らしいっていうか、大したもんだと思うけど。
足立:あと、November Steps展(今日の作家展 November Steps、横浜市民ギャラリー、11月11日-24日)。
沖:横浜の展覧会ですね。あの企画は東野さんです。November Stepsっていう名前を武満徹の曲からとったのも、東野さんですね(笑)。その時のポスターは、ぼくがデザインしたんです。わりと広告っぽいっていうか。その時に使った写真は伊藤佐智子さんが作った電球の人形で、いつもの「今日の作家展」とはちょっと違った感じのポスターができた。その時のパンフレットもぼくが作って、最初のページの似顔絵が東野さんと海老塚耕一さんですね。
鏑木:カタログの表紙のデザインと、ポスターのデザインは別ですか。
沖:別って?
鏑木:今回カタログは拝見したんですけど、ポスターは拝見したことがないんです。
沖:ポスターは全然違います。ポスターは写真を使っていた。
鏑木:別のデザインなんですね。
沖:ポスターは残っていないんですよね。ぼくはどこかに持っています。でも、市内ではバスとかに貼られていたから、わりと目立ったんじゃないかな。何か変わったポスター。ほとんど広告の仕事でやっている技術をそのまま。その時のカタログは身近にいる藤井吾郎さんっていうニューペインティングっぽいアーティスト、イラストレーターの人に頼んだけど本当は、誰だっけ……。
鏑木:(カタログを見ながら)かわいいデザインですね。
沖:そうですね。左はブルース・オズボーンの写真。本当は彼に頼もうと思っていた。誰だっけ。この間、東京国立近代美術館で展覧会をやった。
鏑木:大竹伸朗さんですか。
沖:ああ、大竹くんだ。彼は当時はまだ有名じゃなくて、ニューペインティングのアーティストみたいな感じだった。もともとイラスト的な作品だから。大竹くんに頼もうと思っていたんだけど、頼みそびれて(笑)。
鏑木:オフレコかもしれないですね、今となっては(笑)。
沖:そうですね(笑)。
鏑木:それも見てみたかったですね。
沖:そうですね。大竹くんに頼んだら良かったな。
足立:大竹伸朗さんとの出会いというのは?
沖:大竹くんとはどこで会ったのか分からないけど、ファッション・デザイナーの友だち、また話が広がっちゃうんですけど、ちょうどその頃はファッション・デザイナーがいっぺんにたくさん出てきて、三宅一生さんのところにいた人とか、一度に5~6人の若いファッション・デザイナーが出たんですよ。ほとんど忘れちゃったけど、その中に菱沼良樹さんっていうファッションデザイナーがいました。菱沼くんとは仲が良かったので一緒に遊んでいて、それで何かの時に大竹くんにも会ったんですよね。菱沼くんをぼくが東野さんに紹介して、彼がクリストみたいな感じのすごく長い服を作っていたんです。でも制作場所がなくて、上野毛校舎を借りて作ったんですよ。
鏑木:多摩美の(笑)。
沖:そうそう、あそこの芝生のところを使ってね。その流れで会ったんですね。その頃はよくファッション・ショーも見に行っていました。ファッションにもわりと影響されています。今やっている本屋さんで、ファッションっていうカテゴリーもあるじゃないですか。食事、料理もあるけど、ファッションっていうのもかなり入っているし、さっき言った伊藤佐智子さんの「シュルレアリストたちは奇抜な格好をしたか」という話にあるように、「自分を勇気づけるため」に、やっぱりアーティストにとってもファッションってとても大事なものだし、そういう意味でファッションのことを考えているっていうのもあった。伊藤さんにそう言われた時に、ぼくも美大でいろんな美術史の勉強をしたけど、そういう風に考えるっていうのはすごいな、と思って大ショックだった。
足立:菱沼良樹さんはファッション・デザイナーですが、アーティストとファッション・デザイナーがコラボして、《重大事件のドレス》っていう作品をNovember Steps展に出品したんですね。
沖:そうですね。菱沼くんも入っています。東野さんもミーハーだから(笑)。あと、東野さんはもともと、一生さんに興味があった。一生さんも多摩美だけどね。東野さんはわりとおしゃれな服が好きで、似合わないのにデザイナー・ブランドの服を着ているとかで、その頃はワースト・ドレッサーに選ばれていましたね(笑)。あともうひとつ、『流行通信』というのがあって、かなりアートに力入れていた。こういうことも、もしかしたら言っておいいた方がいいのかもしれないですね。ぼくも『流行通信』では文章を書いたり、対談に出たりしていました。
鏑木:ぜひ言っておいてください。
沖:だから『流行通信』もとても大事だった。『流行通信』って、現代アートをよくやっていたんですよ。それって、言わないと残らないじゃないですか。考えてみると美術館と画壇と、『美術手帖』しかない。あと『みづゑ』くらい。美術出版社しかないから、そういうものが抜け落ちちゃうんですよね。
鏑木:昔の『流行通信』で、山岸信郎さんが記事を書かれているのを読んだことがあります。
沖:そうです。山岸さんなんかもね。担当していた方が若い女性で、ぼくと同じくらいの年なんだけど、その人がすごく一生懸命、現代美術をフォローしていたんですよ。あと『ぴあ』ができました。
鏑木:村田真さんですか。
沖:そうですね。村田くん自身はアーティストだったけど、『ぴあ』の仕事をやっていた。『ぴあ』を辞めてしばらくたって、今はまたなんとなくアーティストっぽいけど。村田くんは、当時は作品を作っていたんですよ(笑)。自分自身が出てきて、エピステーメーがどうのこうのっていう作品。たぶんぼくくらいしか本人を知っていて見てないから、いつも会うと脅すんです(笑)。でも本当はそういうのも全部含めて、アートシーンなんですよ。『ぴあ』ができたことはすごく画期的で、要するにその前は『美術手帖』の展評の後ろにあるスケジュール欄しかなかった。でも『ぴあ』のおかげで、全部出ていたじゃないですか。文もイラスト付きで、こんなちっちゃな字でなんだかんだとコメントを書くような欄があったり。だから『ぴあ』が出ることによって、アートシーンがどうなったかっていうのは、北澤憲昭さんはよく言っていましたね(笑)。やっぱり情報の流れ方が変わってきた。そういうこともあって、だんだん他の商業雑誌、例えばマガジンハウスなんかの雑誌も現代アートみたいなものを載せるようになってきたんじゃないか。でもそう考えてみると、村田くんが情報をなんでも流すことと、映画や音楽と一緒に美術欄ができたっていうのは、やっぱり重要ですよね。『ぴあ』自身は雑誌としてはなくなっちゃったけど、でもあれがなかったら、現代美術はそんなに広がらなかったんですよね。それも重要なことですね。
鏑木:極めて重要ですね。
伊村:そういうメジャーな商業雑誌がある一方で、今野裕一さんみたいに。
鏑木:ペヨトル工房界隈。
伊村:そう。ペヨトル界隈との関係っていうのは。
沖:ペヨトル界隈も、わりと関わっています(笑)。
鏑木:さっき、三上晴子さんのこともおっしゃっていましたね。
沖:そうなんですよ。だからメジャーではないけど、かなりマイナーなものでも、媒体になって出るっていう時代。彼らとは北澤さんも含めて、毎月集まる会があったんです。彼もメンバーだったんです。だからすごくよく知っています。ずっと交流がなかったんだけど、三上さんを通してまた交流したり。彼のほうが年上だから、ちょっと先輩っぽい感じなんですけどね。
足立:毎月集まる会っていうのは、名前はあったんですか。
沖:ないですね。北澤憲昭さんを中心にした会。あとは多摩美の先輩で和田守弘さんと、ぼくと。『象』のメンバーと同じ。だから『象』っていうのは、そこから出てきたんですよ。『象』の伊藤博史さんとかは、その会に出ていた。あと、造形大の人で、渡辺哲也さんっていう映像作家。
伊村:今野裕一さんが編集していた『EOS』の第2号(1983年1月)が手元にありますが。
沖:すごいですね。
伊村:これに北澤さんのお名前が載っているのが、私はとても意外だったんです。「協力」と載っているんですけど、脈々とつながっている。
沖:そうですね。脈々というか、偶然つながっていますよね。
鏑木:私たちはこういうものを後から見るので、知り合いとかつながりがあるっていうことはなかなかわからない。
沖:そうですよね。まあ、もともと皆わからないですよね。それが起きている時はわからないし。それも記録されないとわからないし。
鏑木:こうやってお聞きすると、いろいろなところでいろいろな方たちが、たぶん同じようなことを考えながらつながっていらっしゃったのかな、と感じます。
沖:全くそうですよね。バーチャル・リアリティーで、こうやってゴーグルを使って見るっていうのも、たぶん世界で200人くらいが同時に考えていたんじゃないかと思いますよね。ぼくも、ビデオカメラのファインダーだけ2つ持っていて、それつなげてこうやったら面白いね、と思っていたらVRが出てきたから、たぶん同時に、ある時世界で一遍に、別に連絡もないのに、同じことを考えているんじゃないかなと思いますよね。でも、ちゃんとやっている人はちゃんと残っている。続けた人はね。
鏑木:いろいろな形で、残ったり残らなかったりということはあるかもしれませんね。
沖:そうですね。今回それを考えると、オーラル・ヒストリーというのは良いですね。
鏑木:そうですね。そう言っていただけると嬉しいです。
沖:ぼくの場合はいろんなことをあんまり脈絡ないようにやっているけど、そういうのをいろいろと掘り起こすにはちょうどいいかもしれないですね。
鏑木:やっぱり作品だけを見ていてはわからないことが多いし、残っているものからだけではなかなかわからない。
沖:そうですね。作品はかなり概念的なもので、ものすごく抽象化されているじゃないですか。そうすると、そこしか見えない。このあいだ話したジャズとか、皆バンドをやっていたり、あの辺のニューヨークのアーティストたちは皆ものすごく過激派だったらしいから、飲み屋ではもう革命が起きそうなことを言っていたらしいんですよ(笑)。それはグリーンバーグとかがそうだったように、たぶんトロツキストとかそんな感じだったんだろうけど、残っているのはわりとまともな話が多い。
鏑木:この少し後からニューヨークに住むんですか。
沖:そうですね。
鏑木:何年に行かれたんですか。
沖:1986年か87年。6年間くらいですね。
鏑木:それは具体的には、お仕事の都合ですか。
沖:そうですね。ぼくはその前からよく、もう毎月くらいアメリカに行っていたので。
鏑木:すごい。それは、お仕事としてですか。
沖:そうですね。友達の会社があって、そこの役員みたいな感じになったんです。ちっちゃな会社だから、役員でもあまり関係ないんですけどね。その友だちっていうのは、ステラークを針で刺している人なんです(笑)。齊木貴郎さんっていうんですけど、その彼がコマーシャル・フィルムのコーディネーションの会社を、最初はロサンゼルスで作って、次にニューヨークでも作ることになった。ニューヨークの事務所をつくる時にぼくがニューヨークに行って、床張りとか大工仕事からやった(笑)。だからその前、住む前からニューヨークには行っていたんですよね。
鏑木:そうだったんですか。では、お仕事でと言いますか。
沖:そうですね。ぼく、わりと慎重なので(笑)。と言っても、ニューヨークにいる間にその会社は辞めちゃったんですけどね。でもバブルだったので、日本のおもちゃメーカーがお金をくれたり、景気が良かったからだと思うけど、1年間にぼくを訪ねてきた人を数えると200人くらい来ていたので、1人1万円取っていたら200万円だったな(笑)。でも、皆タダで案内していた(笑)。
鏑木:そうですか。その時は、もうフリーでされていらしたんですか。
沖:そうですね。
鏑木:その流れで、お友だちのニューヨークの会社のお仕事を請け負う?
沖:最初はその会社の仕事で行って、その後はそこの会社を辞めたから、日本の会社ですね。日本の企業はお金が余っていたっていうのと、海外情報をどんどん知ることによって、企業のイメージを作るっていうのがあった。あともうひとつやったのは、日本のインテリア会社の家具の買い付け。ニューヨークに、アメリカでやっている家具のコンベンションに行ったり。あとは、アートの作品を買ってくれっていう依頼があったりして、「どういうところに作品が行くの?」って聞いたら、政治家か誰かのガールフレンド(笑)。「いくらくらい?」って聞いたら、決まっていて。エンツォ・クッキとかフランチェスコ・クレメンテとかイタリアの、ああいう作品が流行っていた。3Cなんかの作品ですね。でも、今から考えると安いですけどね。200万円くらいで買えるようなクッキの作品とかがあって、それはマルティプルっていうか、すごく大きいけど版画だった。そういうのを買ってあげたりね。あと、そこの経営をしている人が来て飲んでいて、その後で絨毯を買いたいと言って、一晩で1,000万円くらいの絨毯を買ったことがありますね。今から考えると、バブルって本当にすごい。
鏑木:それは企業がニューヨークのアートの情報を、ということなんですか。
沖:そうなんですよ。難しい話なんじゃないかと思うんだけど、アートの話。
鏑木:企業がアートの情報を欲しがっていたというのは、どういう文脈なんですか。
沖:うーん…… まぁ、なんでも良かったんじゃないかなっていう感じもするけど、要するにアートの情報って言っても、こういうお店にアンディ・ウォーホルがいますとかっていうこと。その頃、ダウンタウンにインドシンっていうベトナム料理屋があって、そこがすごくおしゃれでかっこ良かったんです。ベトナム料理って今じゃ一般化しているけど、その頃はまだエスニックな食べ物って珍しかった。インドシンは、ウェイトレスの人もすごくかっこ良かった。そこにウォーホルが来ていたりとか、映画の関係の人とかが来たりとか。でも、そういうことはかなり普通にあったんです。だから時々行きましたね。日本からもお客さんが来て、そういう業界っぽい人はね。
鏑木:例えば沖さんがしていたアート情報のレポートは、企業で何かに活用されたんですか。
沖:いや、されてないですよね。
鏑木:何も? 特に使っているわけではないんですか。
沖:使ってないですね。使いものにはならないですね。
鏑木:そうですか。当時は企業がなんとなく常に海外の情報を入れておこう、みたいな感じだったんですか。
沖:そうですね。たぶん、お金が余っていたんじゃないですかね。あの後、ぼくには直接来てないですけど日本のメーカーで、3月までに3億円使えないかとか、そういう依頼が来ていましたからね。アメリカで。
鏑木:けしからん話ですね(笑)。
沖:その時の3億円だから、今の3億円よりも大きいんですけど。アメリカは文化的な事業にお金を使うと、タックス・ブレイクになるんですよ。だから日本の会社のアメリカの現地法人の決算で、3億円くらい使えないかとかっていうのがあった。アートのイベントで3億円も使うのは難しいんだけど、でもそういう問い合わせがあったりね。あと大きなゴルフ場も1億円くらいで買えたので、ゴルフ場を買ったりしている人がいましたね。
鏑木:お金の感覚がおかしくなっちゃいそうですね。
沖:本当に、全然違いますよね。ニューヨークには、そういう金融関係の人も随分いたんです。その人たちは投資の話をしているから、「絵画なんかもいいんじゃないですか」、「絵画ってどういう風になってるの?」って聞かれるから、「絵画ってこういう風になっていて、どこかの経済が悪くなっても他の国の経済が良くなるから、大体値段はずっと安定しているか、上がってく一方だ」と言ったら、「おお、そうか」とかなんか言っていた(笑)。それを聞いて画商になった人がいるかどうかは知らないけど、やっぱり金融業界とアートのつながりみたいなのはありましたね。
足立:ニューヨークでは、どこにお住まいだったんですか。
沖:最初の2年はブルックリンに住んでいました。
鏑木:ブルックリンのどこですか。
沖:場所は分かりにくいかもしれないけど、Pratt Instituteっていう学校の近くです。ウィリアムズバーグ・ブリッジとブルックリン・ブリッジのちょうど中間くらいのところ。わりと不便で、バスでどっちかに出るんですけどね。だから住んでいるのはほとんどマイノリティーで、ぼくの家の前だけはスパニッシュで、その周りは全部圧倒的にブラック。スパイク・リーの家が、わりと近くにあったんですよ。300メートルくらい。スパイク・リーには会ってないんだけど、スパイク・リーの家族には、スパイクを除いて全員に会っている(笑)。特にスパイクのサンキ・リーっていう弟がいて、サンキは映画を作るところだったので、プロデュースしてあげるっていう話になったけど、結局できなかった。でもサンキとは、よく遊んでいましたね。あとはスパイクの妹かな。スパイク・リーの家に彼のお父さんとお母さんがいたけど、お母さんは本当のお母さんじゃないのかもしれない。白人の人だったんだけど。
鏑木:では最初はブルックリンの真ん中あたり。
沖:そうですね。その後はチェルシー、西14丁目あたり。
足立:1980年代後半のニューヨーク時代の交友っていうのは、ビジネスの付き合いもあるでしょうけど、アートや音楽の付き合いっていうのはどうでしたか。
沖:周りにはアーティストがいっぱいいるし、ギャラリーとかアートスペースみたいなものはいっぱいあった。有名なアーティストはいないけど、有名じゃないアーティストはすごくたくさん。でも有名なアーティストもいたのかもしれない。皆ごちゃ混ぜだから、分からないですけどね。面白いなと思ったのが、ロウアー・イーストサイドで、その時はかなり治安の悪いエリアだったんだけど、そこの小さな、日本でいうスナックくらいの大きさのお店のオープンの日に遊びに行ったら、カウンターに作品が置いてあったんです。ラウシェンバーグが、作った作品を持ってきて置いていったっていう。そういうのは、すごく普通のことだった。あとはチャイナタウンの外れにすごくボロい銀行のビルみたいのがあって、それは実はジャスパー・ジョーンズのアトリエだったりね。だからそんなふうなアートとのつながりはありましたね。
鏑木:当時、ニューヨークに日本人はたくさんいたんですか。
沖:いっぱいいましたよね。
鏑木:知り合いのアーティストもいましたか。
沖:知り合いのアーティストも、向こうで会って…… ぼくはどっちかと言うと、あまり日本人とは付き合わないでいたから。だけど向こうで会った人も随分たくさんいるし、ファイン・アート以外の人、カメラマンとか、そういう人たちもいたし。
鏑木:クリエイターがいろいろ。
沖:そうですね。クリエイターの人がいましたね。日本のアーティストで会った人もいるし、いろいろな人に会っていますよね。日本からの友達では、太郎千恵蔵さんとかも遊んでいました。
鏑木:おっしゃっていたようなお仕事をしつつ、ニューヨークにお住まいだったんですね。
沖:そうですね。というか仕事が何かないと、向こうに滞在できないじゃないですか。ぼくの場合は会社のビザも取れたけど、会社のビザだと会社を辞めるとなくなっちゃうから、ジャーナリスト・ビザを取ったんです。出版社にジャーナリスト・ビザを取りたいから身分証明書を作って、レコメンデーションの手紙を書いてくれたら取れるからって。でも出版社は別に国際的なことはやっていないし、身分証明書もない。だからぼくが自分で作ってパウチして、いかにもそれっぽくして写真も付けて、それでその出版社のレターヘッドもないから、ぼくがレターヘッドを自分で作って。
鏑木:ダミーで(笑)。
沖:それで自分で文章を書いて、それを出版社に持っていってサインしてもらって、アメリカ大使館に持っていってジャーナリスト・ビザを取ったの。でも、皆そういう感じでやっていた。新聞社に知り合いがいる人は、ニセ新聞記者になって取ったり(笑)。
鏑木:面白い。
沖:でもジャーナリスト・ビザって、そういうのがあれば簡単に取れるんです。それでずっといられるし。
鏑木:嘘じゃないですもんね。
沖:そうです。原稿も書いていたしね。Amigaが面白かったので、Amigaはビデオの編集ができるっていうことを書いたんだけど、編集者はあんまりピンとこなかったらしいんです。でもその後に、コンピュータがビデオの編集につながった。それも最初にぼくが教えてあげた。Amigaでビデオ編集ができると言って最初に反応したのが飯村隆彦さんで、飯村さんはその後はAmigaを買っていました。
鏑木:それは何年ごろですか。
沖:日本に帰ってくる前だから、1988年から9年くらいですよ。
伊村:その頃は飯村さんとか、あと三上晴子さん。
沖:そうですね、三上さんなんかも。飯村さんは、その前から知っていた。SCANにも来たりもしていたから、ぼくにはわりといろいろとやってくれた。文化庁の芸術派遣の時のレコメンデーションも、一つは飯村さんが書いてくれた。
鏑木:文化庁でも行ってらっしゃるんですね。
沖:そうです。文化庁でも行っていますね。奨学金。
鏑木:別のフェーズで?
沖:そうですね。だからカーネギーメロンに行った時は、アメリカの研究員っていうのは大体、自分でお金を工面して行かなきゃいけないんですよ。アメリカの先生っていうのは、ほとんど半分、自分でファンディングする。例えば、1億円ファンディングすると、学校が5,000万円を持っていくくらい(笑)。そういうシステムになっている。でも、それで回っているんですけどね。
鏑木:1986年ごろからニューヨークに行ってお仕事をされて、その後ジャーナリスト・ビザでそのまま滞在を続けられて、その次のフェーズとして文化庁。
沖:1991年に第一次イラク戦争が始まった時に、帰国しました。ちょうど戦争が始まった頃で、ぼくは仕事で東京とニューヨークを行ったり来たりしていたけど、戦争が始まったから、お客さんが乗っていない飛行機に乗って。
鏑木:5年、6年かと思いますが、ここはつながっているんですか。
沖:何がですか。
鏑木:その間はずっと、ニューヨークにお住まいだったんですか。
沖:そうですね。日本に帰ってきて2年目くらい、1994年にCanonアートラボで《ブレイン・ウェーブ・ライダー》を発表した。それがあってエレクトロニック・アートに入っていくんです。名古屋造形大でたまたまカーネギーメロンの先生たちに会ったのでプレゼンテーションをしたら来なさいって言われて、それでカーネギーメロンに行ったんです。
足立:ちょっと話は戻るんですけどニューヨーク行く直前、1986年にNEWZと大倉山集古館で「ART-平和との対話」展に参加しています。ニューヨークと、どうつながるんですか。
沖:あまりつながってないんですけど、その時にナム・ジュン・パイクのパフォーマンスがあったんですよ。そのビデオはぼくが撮影した。それは撮影したまま今でも持っていて2階のどこかに転がっていますけど、すごく大事なビデオだからちゃんと編集しなきゃいけない。原盤は、もう何十年もたってしまっているんですけど。
足立:その時は、パイクを撮影したんですか。
沖:そうですね。パイクと山下洋輔が演奏したんです。その展覧会をやったのは同じくらいの世代のアーティストたちで、現代アートの人です。そのつながりは現代美術というよりは、新宿美術学院でつながっている感じ(笑)。新宿美術学院の時の友だちが現代アートもやっていたので、それで会ったんです。あれは展覧会はすごくマイナーだけど面白い展覧会で、あの集古館を全部借りてやったんです。ナム・ジュン・パイクと誰を呼んだか忘れちゃったけど、すごかったですね。
足立:その時、パイクとはお話されたんですか。
沖:してないです。なんで話さなかったのかよく分からないけど、しなかったですね。カメラマンはぼくだけだった。会社のカメラを使って撮影したんです。
伊村:ちょっと聞き忘れたと思ったんですけど、パイクの《Good Morning Mr. Orwell》(1984)は、ニューヨークでご覧になったんですか。
沖:ああ、見ましたね。
伊村:皆で沖さんはその時ニューヨークだったんだ、という話をしていたんです。その時、1984年にもいらしたんですね。
沖:そうですね。あの時はまだ住んではいなかったですけど、しょっちゅうニューヨークに行っていたんです。本当に毎月くらいで行っていたから。
鏑木:すごいな……。
沖:別にすごくないんです。会社があったから。でもニューヨークに単にアーティストとして行かなくて良かったのは、会社の人たちって普通の人じゃないですか。そういう普通の人たちっていうのは別にアートには興味がないけど、アメリカに行ってもちゃんと普通に暮らすんですよ。だから家を借りて、子どももいたりする。アーティストの友だちと行くと、皆どこでもいいから寝て、仕事でもあったらなにかやるとかって考える。でも普通の人たちと一緒に行くと全然違って、ちゃんと住むっていう風に考えるんです。それはすごく良くて、同じニューヨーク生活でもたぶん、その辺でだいぶ違ってくんじゃないかなと思いますね。
伊村:そうですね。出会えるものとか、全てが。
沖:そうですね。そこはやっぱり普通の仕事の人は普通感覚で、日本で生活するのと同じようにするじゃないですか。他は、わりと大変ですよね(笑)。家がない人も随分いた。家がなくて、1年間ストリートで暮らしたとかね。ストリートで暮らすことを作品にしたチャイニーズ・アメリカンの人がいたけど(笑)。
足立:そういう日本人を助けたりとかもあったんですか。
沖:ないけど、でも一緒に展覧会をやったり。助けられないですよ(笑)。
足立:ありがとうございます。では今日は1980年代をなんとか終えたということで。
鏑木:そうですね。ちょっと駆け足でしたけど。
伊村:すいません、長くなってしまって。
沖:いえいえ。全然大丈夫です。
鏑木:ありがとうございました。