由本:昨日ちょうど1962、3年の話を。
刀根:ね、なかなか進まないね。
由本:そうなんですよ(笑)。ハイレッド・センター辺りだったんですけど、その辺りを細かく伺うと長くなってしまうので、かいつまんでお伺いします。前に私が個人的にリサーチでお伺いした時に、ハイレッド・センターの方達にイベントをしつこく勧めたのはご自分だったとおっしゃっていたんですけども。それは要するに山手線のイベントの前だったわけですよね。もう「イベント」という用語を言い出したのは……
刀根:たぶん大体同じような時期ですね。
由本:だから1962年の前半から夏くらいの話になるから、そうするとフルクサスはもうイノーギュレーション(inauguration、設立関連のイベント)というか。
刀根:いや、済んでいなかったと思う、たしか、1962年9月のヴィスバーデン(ドイツ)が最初で、それから、コペンハーゲン、パリと続くはずです。
由本:でも、その頃までにフルクサスのジョージ•ブレクトや他の作家のイベントのスコアなんかも、マチューナスから送られてきたりして、イベントっていうものをどういう風にフルクサス人たちが書いているっていうのは、ご存知だったんでしょうか。
刀根:その辺は、はっきりは見ていないと思う。イベントのカードなんてものは後で。
由本:ウォーターヤムのときに、ブレクトが1963年に。だからもう少し後ですね。
刀根:だから、そういうカードなんかはね、塩見が帰ってきて持ってきたものを見たのか、あるいは、マチューナスがカタログみたいな小さいのを送ってきたのをかすかに覚えているんですよね。そのなかに細かくちょこちょこっとイベントが、インストラクションが入ってたような気がしますけどね。それはもうちょっと後でしょうね、たぶん。1964年くらいかなぁ。
由本:1964年くらいですね、フルクサスショップを始めて、印刷を本格的に始めたのは。
富井:私がお聞きして覚えているのは、赤瀬川さんに作曲を勧めたっていう。イベントを勧めたのではなく、作曲をしたらどうだっていうふうにお聞きしました。
刀根:そう、作曲って言葉を遣った。赤瀬川とかね、風倉に。
富井:ああ、風倉さんも。
刀根:赤瀬川が、なんだったけな。
富井:パンをくちゃくちゃやるっていうのは赤瀬川さんでしたけど。
刀根:うん、パンを食うっていうのは、1966年に京都会館でやった「鎖陰は映画である」っていう上映会の主催で。
富井:あれは、刀根さんの入れ知恵みたいなことになるわけですか。
刀根:いや僕が勧めたら、彼が考えた、そういう作品。そしたら風倉はあんまりさえなかったんだったかな。
富井:その時は……
刀根:柔らかいもので固いものを叩くとか、固いもので柔らかいものを叩くとか。それから、地面に耳を付けて地球の音を聞くとか、そんなようなインストラクションを風倉は。それはだから1964年くらいだと思うんですよね。
由本:なるほど。じゃあ、作曲といってもいわゆる作曲じゃなくて、イベントの作曲だったわけですか。
刀根:風倉の思い出みたいなことを、思い出っていうか、風倉については最近も追悼文を書いてるんですよね。だけども、その前に『形象』っていう季刊雑誌に、「風を食らって走る風船」っていうタイトルでね。風倉がどんな人間か、みたいな作文ですよね。
富井:でも、その周辺の人たちとか事情についても少し書いておられたと思うので。
刀根:ええ、けっこう割と長かったですよね。
富井:あと年表を作られた経緯なんかも少し書かれていたと思うんですけれども。
刀根:そうでした?
富井:そうだったように思います。わたしもちょっと今うろ覚えですけども。
由本:風倉さんとは、九州の英雄達の大集会にも参加されているのに気が付いたんですけど、その前から読売アンパンから知り合いなんですか。
刀根:読売アンパンから知り合いですね。風倉は一時ぼくらと一緒に、俺も作曲家だって言って、グループ・音楽だって言ってたことがあったんですよ。
富井:そうですか、じゃぁその手の作曲をなさってたわけですか。
刀根:そうです。九州派の集会よりも後ですよね。九州派が僕らのことを呼んでくれたんだけれども、それはグループ・音楽のコンサートに来て……
富井:昨日も少し話してらした。
刀根:それで、桜井孝身が「音楽家ってもうちょっとお上品かと思ってたら、凄いえげつないから気に入った」って。柄が悪いから気に入ったって呼んでくれた。
由本:えげつない。
刀根:うん、柄が悪いっていったかな。
由本:それは小杉さんと2人で?
刀根:2人ですね。
由本:けっこうペアで行動されてますね。
刀根:小杉とはよく2人で一緒に。えーと、紀田順一郎って言ったかな、物書きがいて。それの最初の処女出版の出版記念会があって、それを日比谷の日活国際ホテルかな、でやった時に、なんかやってくれって頼まれて。それは常盤新平っていう、早川書房に当時いたんで、そいつが頼んできて。じゃ小杉呼んで、また小遣い稼ぎだって。
富井:ずいぶん稼いでおられましたね、昨日から伺っていると。
一同:(爆笑)
刀根:最初はラジオをかけて、それから次は中に小杉を入れてかけた。
由本:そこで関連した質問で、刀根さんと周りのアーティストの皆さんは割とイベントとハプニングの混同はしていなかったっておっしゃったんですけど。そのことについてもう少しお話しいただけますか。
刀根:ハプニングの方はシアトリカル(theatrical)ですよね。
由本:その方が先にタームとして日本ではやったわけですけれども。
刀根:それに要するに、画家達の芝居って言われてたわけでしょ。だから(クレス・)オルデンバーグ(Claes Oldenburg)だとか、それからあと誰だっけ。
富井:ジム•ダイン(Jim Dine)とか。
刀根:ジム•ダインとかね。(アラン・)カプロー(Alan Kaprow)はもちろんハプニングの創始者みたいなもんで。まぁ、画家がやったから早いですよね、伝わるのが。音楽だとね、ほら音楽界ってのは保守的だから、そういうの伝わらないんですね。特に『音藝』がうちは今後前衛はやりませんって宣言したような後でしょ。イベントっていうのはそういう意味ではもっと日常的だっていうか、行為で。それは中西も、千円札裁判の証言で言ってましたよね。
富井:そうですね、劇場的だって。
刀根:劇場的だって、うんうん。
富井:それで「イベントは劇場的じゃない」って言って、だから赤瀬川さんの裁判では、どうも検事がpassionateの激情と勘違いして凄くしつこく聞いててね、ある時点で、それがシアターの劇場だってわかったとたんにね、なんか全然質問なくなったらしいのね。それですよね。
刀根:そうです。
由本:その辺で、その違いはかなりはっきりしてたんですね。
富井:そういう意味では早いですよね、1966年ということになりますからね。
由本:でも山手線のイベントで、もう「イベント」っていう名前を使っているところが早いなって思ったんですけど。結果としてハイレッド・センターのパフォーマンス作品の多くがイベントと呼ばれているわけなんですけれども、それをマチューナスに最初に紹介したのも刀根さんなんでしょうか、それともオノさんを通して?
刀根:もしかしたら一柳と僕の関係だったかも。その頃は僕は一柳と非常に仲が良くて。
富井:たぶん、「こういうことしたんだよ」みたいな口で話せるようなことは、比較的伝わりやすい。
刀根:ええ、そりゃそうですね、口で言うのは。だから僕が南画廊でやった後、僕の場合は音楽的なプログラムと両方混ざってるでしょ。だけど、行為だけ、アクションだけの、それ1本でやってるやつが、アメリカではもういるんだよって言ってましたね、一柳が。
由本:後にこちらに来られた久保田さんが地図にされる作業を手伝ったんですね。イベントのドキュメンテーションのコラージュ写真のみたいなのを、マチューナスと一緒に。
刀根:そうですね。それで彼女は、ハイレッド・センターの帝国ホテルのイベントに。
由本:出てますね。
刀根:それをマチューナスに口で報告したんだと思うんですよ。それをホテル・イベントと称して。だから正確な例えではないけれども、成子もちょっとおっちょこちょいだから、自分でそう思い込んでいて、ということもあったかもわかんない。
由本:広報係って昨日はおっしゃっていましたけど、刀根さんご自身も、「シェルター・プラン」、「クロージング・イベント」、「クリーニング・イベント」と、全てのイベントに参加されているわけなんですけど。Co-organize(協働企画)っていうふうにも、言ってらっしゃるから、どの程度の企画にかかわってらしたのかなと。
刀根:やる前に集まるでしょ、その時は一緒におしゃべりしてますからね。
由本:ええ。
刀根:でも、ぼくは「こうしたらどう」とか言ったかもしれないけれど、積極的に、主体的に参加しているという感じではなかったですね。
富井:じゃあ、常にそこにいたみたいな感じですね。
刀根:そうですね。
富井:「クリーニング・イベント」の時にはチラシ作っていますよね、参加しようっていう。いろんな協賛者の中に面白いものがあって、フルクサスも入ってると思うんですけれども。
刀根:そうです、いっぱい入れたと思います。
富井:ああいうのも結局皆さんで座ってがやがや言いながら、これしようかみたいな感じだったんでしょうか。
刀根:そうです。だからね、赤瀬川が後で自分の美学校の生徒2人ね、1人はあの、イラストレーターの南伸坊でしょ、もう1人は松田哲夫、今筑摩の重役。あの2人と、3人でがやがや色々おしゃべりして冗談言ってるのが彼の小説筋になってるんだよね。だからお風呂の出前なんてのは、きっとそういうのしゃべってたんだと思う。
富井:じゃぁそのノリが、ハイレッドの時から刀根さんの加わっている中であった。
刀根:そういうノリはもうありましたね。
由本:その同じ頃、内科画廊で、「刀根賞」展、英語名では《Investigation Event》ってやってらっしゃるんですけど、これはどういうものですか。
刀根:あれはねぇ、宮田國男から「なんか展覧会やって」って頼まれたの。
富井:やってって形で依頼があったんですか。
刀根:依頼があったんです。それで、じゃあって、僕の名前をつけたんです。作曲を募集するんです。
由本:作曲の募集だったんですか。
刀根:うん。
富井:あれは、作品の方でしたか、作曲の方でしたか。
刀根:作曲ですよね。
富井:広告を『音楽藝術』にお出しになってますよね。
刀根:出したね。あれもなんか、持っていったらタダでだしてくれたんですよね。
富井:あれはタダだったんですか、よかったですねぇ(笑)。いや、昨日お伺いした時は、一時的に前衛音楽を『音楽藝術』もやっていたけども、担当者の方の席がなくなったということだったから。
刀根:そうだったんだけども、あれは大丈夫だったんですかね。
富井:広告だったから。
刀根:それに1964年がぎりぎりの線だと思う。
富井:そうですか。
由本:その同じ展覧会に小野賞とか土方賞とかあったようなんですけど、それは?
富井:皆さん出して、本当に選んだんですか。
刀根:選んだ。来てもらってね、審査してちょうだいって。
富井:本当に審査してくれたんですか?
刀根:うん、それでね、中西なんかは自分の探してきたオブジェをなんか既製品のオブジェみたいなものをやってたしね。
由本:じゃぁ、アーティストの友人達が。
刀根:審査員になった。
由本:あ、でも応募したのは?
富井:赤瀬川さんなんかハイレッドで、応募もしてるでしょ。
刀根:そうそう、赤瀬川達、ハイレッドが応募したのは、「クリーニング・イベント」です。
由本:ああ、だからそれが一部になっているんで。
刀根:だからそれが。
富井:写真みると清掃中の看板が内科画廊の壁においてあって、そこに、なんと言うんですか、昔の賞状のリボンみたいのが貼ってあって、全員が賞状じゃなくて賞のリボンが貼ってありました(笑)。
刀根:そうです、全部あれね……
富井:あれはぜんぶ、刀根賞を頂いたんですよね。
刀根:そのはずですね。
富井:平等に入選者全員に、だからアンパンの逆ですよね。みんな、審査があって賞があって。全員賞がもらえたんですね、あの時は。
刀根:そうです。
由本:入選者全員ていうのは、応募者全員?
刀根:応募したひと全部。
由本:それで何人ぐらいいたんですか?
富井:覚えてらっしゃる?
刀根:全然覚えてないですね。
由本:ギャラリーを埋め尽くすくらい?
刀根:狭いギャラリーだから一応壁いっぱい。
富井:埋まっているみたいでしたね。
刀根:床にもおいてあったでしょう。
由本:20人くらいかな。
刀根:もっとあったかもわかんないね。20人以上は。
由本:それは写真とか(で残っているか)。
富井:平田さんの写真が2つ、私が知っているのは。
由本:それだけなんですか。
富井:私が知っているのは2ショットですけども。たぶん平田実さん。
刀根:なんかカラスの剥製みたいな。
富井:そうそう、そういうのもありますし、あと、刀根さんが立ってるやつもあるし、だからひょっとしたらもっとあるのかもしれないし。とりあえず2ショットは一応出回っているというか。
由本:これは一週間だけの会期で?
刀根:そうです。
富井:(内科画廊では)会期はいつも1週間ですよね。
刀根:1週間です。
富井:月曜日から金曜日ですか。そういうかたちで、貸画廊だから。
由本:一つだけさかのぼるんですが、これハイレッドと関係なかったので。1963年の暮れに草月でSweet 16というパフォーマンスのイベントを16人のアーティストと企画されているんですけど。これギュウちゃんも関係してましたよね。
刀根:ギュウちゃん入ってなかったと思うよ。
富井:入ってないと思う。Sweetっていうのは……
刀根:Sweetっていう展覧会が別にあるの。別なんだ。
由本:ああ、なるほど。
刀根:これはパフォーマンス・フェスティバルで2日間ですよね。
由本:なんでSweetだったんですか。
富井:Sweet 16だからでしょ。
刀根:メンバーが16人だから、Sweet 16。
由本:それで単にそうしただけなんですか。
刀根:池宮信夫がつけたんだよね、それは。だいたい名前は僕がつけるのが専門だったんだけど、その時は池宮信夫がすっと出したからね。あ、それいいって。
由本:これは草月側からなにか依頼があって。
刀根:ないです。そのへん、依頼はなかったような気がするんですけど、「やらしてください」みたいな感じで言ったんじゃないですかね。
富井:そういう形でやらしてくださいって言って、結構やらしてもらえるもんだったんですか、草月は?
刀根:その辺は、相手によるでしょう。
富井:(笑いながら)ああ、そうか。
刀根:その時は土方だって入ってるし。
由本:そう、土方さんと邦千谷さんも入ってるみたい。だからアーティストだけではないですよね。それはどういう経緯で起こったんですか。刀根さんは《Monotone》と《Tonework》というお名前に引っ掛けた作品を演奏されているみたいなんですけれど。
刀根:イブ•クラインのモノクロームとかね、それから(ピエロ・)マンゾーニ、(エンリコ・)カステラーニとかあったでしょ。
富井:マンゾーニはアクローム(Achrome、無色の意)ですね。
刀根:ああアクロームね、無色の。だから、そういう含みがあって。そいで、名前にひっかけて題を作って。
由本:じゃぁ文字通り、一音、一つの音だけ鳴らすとかそういうことが。
刀根:うーんとね、一つの音だけじゃなかったけども、クロマチックじゃなくてモノトナス(monotonous)な作品が多かったですね。まぁ、《アナグラム》なんて比較的そうでしょう。それからオルガンの曲があって、オルガンの曲の音があんまり出ないですよね。でしかも鍵盤を両腕でおさえて、足の踏み方を指定する譜面が、あの南画廊で出した時計の楽譜があるんですけど。見ました?
由本:時計の楽譜。
刀根:なんか写真で見たことないですか?
由本:ちょっと覚えがない。それはもう少し前の作品ですか。
刀根:そうです。それは僕の個展の時にやったの。だからそういう若干変化が少ない、ミニマルな音楽ですよね。音楽のミニマリズムとはちょっと違いますけど。音楽のミニマリズムっていうのはあれは、ミニマリズムじゃなくて、一種のパターン・ミュージックですよね。
富井:フィリップ・グラス(Philip Glass )とか。
刀根:そうそうフィッリップ・グラスとか(スティーヴ・)ライヒ(Steve Reich)とかね。あれはぼくはパターン・ミュージックだと思うんだけど。
富井:そのほうがより正確な表現かも。
刀根:パターンでしょう、ねぇ? 僕がしたのは、ミニマル。
由本:ラ・モンテ•ヤングとかも?
刀根:そうです、ラ・モンテとも。
由本:つながるという。
刀根:そうですね、ええ。確かラ・モンテの曲は一柳のコンサートであったのかなぁ、それとも(高橋)悠冶のコンサートでやったのか、覚えてない。あれがすごいよかったのは、たぶんオルガンはラ・モンテの影響で…… でも影響受けてないよなぁ。
一同:(爆笑)
刀根:それはねぇ、おかしかったのは、同時に思いついてたんだね、同じような発想で。
由本:そうですね、ほとんど彼の作品は1961年とかですね、作曲がね。
刀根:1961年なんですよ、傑作がみんなね。それやったのは一柳のショーか悠冶のリサイタルの時で、彼もピアノをトーン・クラスターで(注:tone cluster、手の平や肘で多くの鍵盤を一度に押さえる奏法)。
富井:じゃぁこう腕を重ねてこう?
刀根:それはどういうインストラクションかっていうと、数を頭の中で考えてね、423と、423回って、タイトルはね「ヘンリー•フリントのための( )」なんとかって、括弧になっているの。それはナンバーなの。頭で思いついて540回のときは、「ヘンリー•フリントのための540」っていう。
由本:この次の質問がギャラリー・クリスタルのことなんですけど。
刀根:これはずっと後ですよね。
由本:この年譜では1964年なんですけど、この写真のキャプションがたまたま、「400 for Henry Flynt by La Monte Young」なってて。これが刀根さんで、白衣を着てらっしゃって。
刀根:白衣じゃないんですこれ、シャークスキンのジャケット。
富井:鮫皮?
由本:シャークスキンのジャケットっておしゃれですね。
刀根:ううん、だから翻訳すれば鮫肌っていうことになるけれども、要するにそういう生地。ちょっと艶のある。
富井:ああなるほど、生地の名前ですね。
由本:ハイレッド風に、ラボコートを着ているのかと。
刀根:そうじゃない(笑)。
由本:そうですか。だからその時に演奏されたんだなって、ちょっともう一回ここで演奏されているんだなって思ったんですけども。具体的にこれで演奏されている時の写真なのかわからないんですが。それはたぶん西山輝夫さんの写真だと思うけど。
刀根:これ一柳ですね、たぶん。
由本:ああ、後ろ向きの。
刀根:これが秋山でしょ。これ僕何やってるんだろう。なんか演奏してますね。
由本:その、ヘンリー・フリントにあてたラ・モンテの作品というのは腕で鍵盤を押すんだったら、これはキャプションが違いますよね、じゃぁね。
刀根:そう、《400 for Henry Flynt》。これが正式なんでしょうね、タイトルは。誰が演奏してんだろ。
由本:でもこれはキャプションとしてはあいませんよね。
刀根:あわないですね。これピアノが……
由本:ピアノがないといけない。
刀根:ないですよね。ピアノなんかないよね、あんなとこに。坂本君て、絵描きがいってた?
由本:1965年のギャラリー・クリスタルのフルックス・ウィークなんですけれど、これはどういう経緯で企画されたんですか。以前は、秋山が中心でしたよね。
刀根:それは秋山が中心ですね。
由本:秋山さんは、ニューヨークにしばらくいて、帰ってきてらした。
刀根:ちょっと行って帰ってきた直後でしょうね。帰ってきたのはたぶん1964年の秋かなんかに行ってたんじゃないですか。
由本:ええ。
刀根:何月になってます?
由本:9月だったような気がするんだけれども。
刀根:それじゃその年かな。どうなんだろう。
由本:秋山さんがいらしたのは1964年の暮れじゃなくて。フルックス・コンサートがあったのは、夏だったと思うんですよ。
富井:9月ですね.
由本:フルックス・ウィークは9月なんですけど、秋山さんはその前年の、結構長い間いたんじゃないですか? 半年以上とか。
刀根:あ、そんな長くいたの?
由本:塩見さん達が来たのが夏で、だから春ぐらいから、もう1964年の前半からいらしたような感じがするんですけど。ヨーロッパに行った後に。
刀根:ああ、そうヨーロッパに行って。
由本:じゃぁ秋山さんがこういった色んなフルクサスのものを持って帰ってきたわけですか。こういった印刷物とか。キットとか。
刀根:そうでしょうね。
由本:それがどっかの美術館に入っているのかな。
刀根:『日本読書新聞』に秋山が書いた記事が載りましたよね。
由本:ああ、これについて。
刀根:あれ、カーネギー・リサイタルホールでやったんじゃないかと思う。
由本:あ、わかりました、1964年のフルクサス・コンサートのことですね。自分で指揮棒を振った。
刀根:そうそう。あの、指揮する時にね、真剣を振るようにね。
由本:ニューヨークでかなり活躍されて帰ってきて、日本でも広めたいっていうような経緯だったんでしょうか。
刀根:それなんでしょうね。ただ、これ一回だけだったんじゃないかな。あと、もう一つあったのは、靉嘔のショーの時に。
由本:翌年ですね。「空間から環境へ」のときには、(草月会館で)ハプニングをやりました?
刀根:ハプニングというか、バスに乗る……
由本:バス観光ハプニング。あれには刀根さんも参加されたんですか。
刀根:ええ、一緒に乗って。
由本:その前はもちろん、靉嘔さんとは見識はないですよね。
刀根: 靉嘔は、うん、帰ってきた時に 会ったのが初めてですね。
由本:このギャラリー・クリスタルのイベントと1966年のバス観光ハプニングだとか、「空間から環境へ」の時のハプニングでのコンサートっていうので。
刀根:「空間から環境へ」は、どんな?
由本:草月で別にやったイベントで。
刀根:それが1966年ですか。そんな早かった?あれ、万博の予行演習みたいな感じで。
由本:そうですね、でもかなり早かった。
刀根:ええとね、ジェフ•ヘンドリックスが東京画廊でショーやってるんですよ。それで来たと思ったんだけども。
由本:ジェフは1968年くらいだと思います。
富井:「トリックス•アンド•ビジョン」の時にジェフ•ヘンドリックスが色々アイデアを出して。
由本:その時は「EXPOSE 1968——なにかいってくれ、いまさがす」かと。(注:1968年4月に旧草月開館ホールで行われた連続シンポジウム)
刀根:あーそうか、そうだ。
由本:もっとだいぶ後で、その頃にはもうかなり皆さん、万博に批判的になっていて、その批判派とせめぎあうというような会だったみたいなんですけど。1966年の段階ではまだ「空間から環境へ」で、環境芸術がまだユートピア的に提唱され始めた頃の話だと。
刀根:あの「空間から環境へ」ていうのはソニー・ビルでショーやったんじゃなかった、ちがう?
由本:いや、松屋。
刀根:松屋! 松屋だったの、銀座でやったのは。
由本:松屋でやって、草月でもハプニングをやっているんですよ。その時に出てなかったでしたっけ、刀根さん。塩見さんの作品とか。
刀根:えーと、出てたかな。僕は、もう……
由本:展覧会には出てないんですけども。
刀根:展覧会はもちろんでてないし。
富井:この刀根さんが作られた年譜には入ってない。
由本:これはそうだ、山口勝弘さんと秋山さんと塩見さんと靉嘔さんです。塩見さんがやった、《コンパウンド・ビュー(Compound View)》という作品の写真がよく写るんですけど、あの「空間から環境へ」の時に。
刀根:「空間から環境へ」は、僕は全然関係なかったと思う。
由本:ふーん、あれは特に批判的だったってことはあるんですか。それとも特に全然関係してなかった。
刀根:どうだったんだろうかな。
由本:おそらく1966年ぐらいには秋山さんたちは、磯崎さんを通じて万博に参加することが、わかっていたような感じなんですよね。
刀根:もうそういう準備してたみたいな感じですね。
由本:だからそれの前哨といえばそうなんでしょう。
刀根:そうなんでしょうね。ええと、僕が全然関係なかったってのは、だいたいあんまり関係のない感じだったですよね。
富井:それ1966年だから、思うに、刀根さん千円札事件で忙しかったんじゃないかと思うんだけど。
刀根:そうだ! それどころじゃないよ。
富井:そんなお遊びしていられないみたいなところはあったんじゃないかと。
刀根:そうだそうだ。
富井•由本:それが次の質問なんです(笑)。
刀根:そうだよ、1966年は千円札で大変だったんだよ。
富井:だって公判が10月にあったから、7、8、9月ぐらいはずっともう支援活動されてましたよね。
刀根:支援活動と、その展覧会もやったし。
富井:あのチャリティの。
刀根:チャリティ、それから、証人集めでね、赤瀬川や川仁を僕の車に載っけて。
富井:あの頃はまだその車があったわけですか。なるほど、便利だったんだ、じゃあ。
刀根:そいで、その時はちゃんと使えって。
富井:そうですか。
由本:経費で落として、ガス代を(笑)。
富井:ああ、なるほど。
刀根:だから、証人になってくれって色んな人のところに頼みに行った。そういえば、宮川淳なんか断られた様な気がしたけどね。
富井:なんか一応行かれて……
刀根:そうそう、行って、しゃべって。
富井:結局来てもらわなかったっていうことで、お断りになったんでしょうかね。
刀根:たぶんそうだと思いますよ。うん。
富井:まぁ、第三者的にみたいなことがあるんでしょうかね、彼の場合は。
由本:それが本格的に始まったのが、1966年だったんですか。
刀根:えっとね、1965年ですよ。起訴猶されたのが1966年ですからね。
富井:1965年に起訴されたんですね。
刀根:1964年にはもう送検されてたんじゃないかな。
富井:えっと、書類送検だけで済んでいて、もう大丈夫だろうって言ってたら1965年の何月かちょっと忘れましたけども起訴されて。それで1966年の8月でしたっけ、裁判が始まるからっていうので、色々こう危機感を持って、その活動が千円札の段階で始まったと思うんですね。
刀根:だから特別弁護人が、東大の先生だった奥平さん。
富井:瀧口さんと針生さんと中原さんと。
刀根:それもだけど、東大の法学部の教授で偉い人がいたんだ、奥平康弘っていったかな。それが特別弁護人で、法律の方のね、それから主席弁護人は杉本正純。
富井:そうですね。
由本:刀根さんはその千円札懇談会のリーダーというか。
刀根:懇談会の事務局長は川仁宏で、僕は……
富井:何だったんですか。
刀根:何っていうんですかね。
富井:実動部隊みたいな感じの印象があるんですけど。
刀根:そうです。しょっちゅう車で走り回ってたんで。
富井:じゃあ、赤瀬川さんとご一緒に?
刀根:赤瀬川乗っけていつも……
富井:色んな方のところに行ってお願いしますってことでなさってたわけですか。
由本:ふーん、何なんでしょうね、役目でいうと。
刀根:コーディネーター。
富井:いや、活動隊長みたいな感じですよ、私のイメージだと。コーディネーターっていうとちょっとまたおしゃれですけれども。
刀根:えーと、まぁ、実動部隊ですよね。
富井:実動部隊ですよね。あの時ずいぶん、川仁さんとか今泉さんとかとお話しになってて、あと、高松さんとも。
刀根:高松と、それから石子順造もはいってるよね。
富井:石子さんもそうですね。
刀根:高松はもちろん入ってて、中西も入ってて。そう、裁判の時はね、日比谷公園の中の松本楼でよく飯食ったんだ。
富井:刀根さんは実動部隊の役割とは別に、例えば千円札裁判やるっていうアピールのチラシとか、千円札裁判に来てくださいっていう青焼きの招待状とか、色んなものをデザインなさったって、聞いていたように思うんですけれども。
刀根:千円札会報、なんていったっけ。
富井:トレーシングペーパーのやつですよね。
刀根:トレーシングペーパー、あれは僕がデザインしたんですよね。
由本:それはお宅に印刷機があった。
刀根:全然ないんです。
由本:なかったんですか。
刀根:デザインをしたんだよ。
富井:あれは凄いアイデアですよ。トレーシングペーパーのところにその時の違うデザインの千円札がどーんと載ってて、その上からテキストが。
刀根:そう、透かし彫りみたいに。
富井:あれはきれいな、非常によく出来た。
刀根:あれは自分でもよく出来たと。
富井:そうですか、じゃぁ一応ここで、確実に歴史に残しておきますので。
由本:MoMAには出てないですね(注:インタヴュー時にMoMAで開催されていた「Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde」展)。
富井:MoMAに出てない。
刀根:出てないね。たぶんね。
富井:ああいうもので例えば、青焼きで裁判傍聴に来てくださいっていう招待状もお作りになってたような気がするんですけども。
刀根:えっとね、あれはどうなったかな。赤瀬川に勘亭流で書いたらって言ったような気がした。
富井:ああ、なるほど。
刀根:ほら、彼はレタリングの会社でやってたから、色んな字知ってるから、勘亭流がいいんじゃないって。あの千円札なんとかって題字があるでしょ、あれは彼が勘亭流で書いたんですよね。勘亭流で書けって言ったのは僕だ(笑)。
富井:なるほど、じゃぁデザイン指南を。
刀根:もう一つ、瀧口先生にお礼をしようって言ってね、いくつかお礼があって一つは、こういうのどうって言ったのは、木の箱なんだけども、非常に浅い箱でね、馬券が一枚はいるんだよ。それがぴったり入るように浅く彫って、それで上に「御馬券入れ」って勘亭流で彫ってやったらどうって。それやったかどうか、やったんじゃないかと思うんだけども。
富井:ちょっと調べてみます。
刀根:それで後からやったのは《零円札》ですよね。お礼にしたのは。
富井:あれは関係なさったんですか。
刀根:あれは関係ないです。
由本:じゃ1960年代後半は、なんだかその旋風に巻き込まれたような感じで。
刀根:巻き込まれたっていうか、積極的に参加して。やっぱり証人として、証言もしましたしね。
富井:証言の時は基本的にご自分の作品のお話をなさったんですか。
刀根:えーと、証拠物件として《君が代》を出してますよね。君が代の電子音楽を。それで、僕は遅刻して行きましてね、その証拠物件で君が代の電子音楽を演奏する時に。で、もしかしてね、どんな音だったって聞いたら、回転を秒速38と19回転、スピードが遅い方でやっちゃってんのね。それで、やり直してくださいって、また聞いてもらった。
由本:ああ、裁判側に言われて。
刀根:いや、それだと僕の作品を正確に演奏したことにならないから、ちゃんとしたスピードでもう一度やってくださいって頼んでやってもらった。
富井:検事が言いませんでしたか、もういらないって(笑)。
刀根:それはやっぱり、そういう風に言われると、法律家ですからね。
富井:そうなんですか。
刀根:そりゃそうですよ。断らないからちゃんとやらしました。
富井:ふふふ。
刀根:証言もして。ぼくは証言を、要するに一種のイメージ論みたいなことを。像というものはあくまでも虚像であってっていうことでしょ。
由本:それはけっこう長いものなんですか。
刀根:30分くらいでしょうね、せいぜい。
由本:でも書かれたものもあったわけでしょう?
刀根:一応メモを作っていったと思いますけどね。
由本:それは今まで活字になったことはないんですね。
刀根:えっと、どうだっただろう。
富井:裁判の記録は残されてますよね、法廷記録。やっぱりそういうのは杉本さんと前もってこういうふうに話しするからって形で打ち合わせをなさるわけですよね。
刀根:もちろんそうです。
富井:そうすると刀根さんは、他の証人の方ともやっぱり事前に打ち合わせする形で杉本さんとも作戦を立てたわけですか。
刀根:そうですね、よく三原橋で会ったんですよね、歌舞伎座の反対側に。三原橋法律事務所というとこによく行きましたよ。
由本:千円札事件の色んな関係があって、それが契機になってというわけではないのかも知りませんけれども、芸術評論活動になんとなく重きが移っていっているような感じがするんですけど。
刀根:そういう風に感じる人はそういう風に言ってましたね。
由本:ああ、そうなんですか。
富井:実際にはどうなんですか、その前に音楽批評もなさって。
刀根:その前にね、実は杉本昌純の、いちばん最初に言う、冒頭陳述。冒陳っていうんだよね。冒頭陳述の元原稿を僕が書いたんですよ。
富井:まさにそのことをお聞きしようと思って。杉本さんがああいうこと言えるわけがないからたぶん、みんなで相談したのかなと思ってたんですけども。それはじゃあ刀根さんがお書きになった。
刀根:そう。それで、石子順造も少し手伝ってくれて。
富井:あ、石子さんも手伝ってくださったんですか。
刀根:と思いますよ。僕1人じゃ不安だから、石子さんちょっと見てって。
富井:でもその頃まだ美術批評は……
刀根:彼はまだほとんど書いてなかったですけどね。僕の方が美術批評は先輩なんですよね、石子君より。
由本:『音楽藝術』にさかのぼってくるんですよね、最初に出版されたのは。
刀根:ほかにね、太田三吉っていうもとの『美術手帖』の編集室長だった人が、『現代美術』って言う雑誌を。それに僕は書いてましたよね。
富井:えっ、書いてらしたんですか。
刀根:ええ、イメージ論なんかも書いたし。あの、ジャスパー•ジョーンズに関しても書いたし。
富井:ジャスパー・ジョーンズですか。
由本:それいつくらいですか。
刀根:南画廊でやったちょっと後ですよね。
富井:じゃぁ展評みたいな、あるいはそれを見て。
刀根:えっとね、あれは何年でしたっけ?
富井:1965年。
刀根:だからね、1965年にたぶん1号がでたんですね。
富井:ふーん、なるほど、じゃぁ先輩ですね、石子さんよりも。
刀根:そうです。へへへ。だから不思議だと思ったのは、僕は、文章遅いせいもあるけども、編集者から直してくれって言われたことは一度もない。
富井:テキストをですか?
刀根:うん。でも石子順造は、いつも直されていたって。
富井:そうなんですか。ははは、面白いですね。
由本:そのシフトっていうのは自然に起こったという感じで。
刀根:だから、千円札裁判が一つのきっかけですよね。
由本:やっぱりきっかけですね。
刀根:色々考えなきゃいけないってのがありますからね。
富井:まぁ、赤瀬川さんはずいぶんあれを機会に色んなことを考えなきゃいけないってことになったわけですよね。
刀根:そうです。そうです。彼も文筆業が始まったわけですからね。
富井:じゃあ、やっぱりより深く考えるようになったみたいなことは、刀根さんの場合にもあるわけですよね。
刀根:そうですね。
富井:その時に例えば大学で読んでいた哲学関係のものとか思想関係のものっていうのがよみがえってきたりってこととかはあるわけですか。
刀根:ええ、メルロ=ポンティ関係なんかはよく読んでいたし、ソシュールなんかも、それからあとね、ロラン•バルトも『エクリチュールの零度』っていう、森本和夫が訳したのが、1965年にでてるんですよね。
富井:けっこう継続してそういうフランス思想とか哲学関係はずっとお読みになっていたんですか。
刀根:そうですね。
由本:これを先に訊いてしまいましょうか。現象学のワークショップってやつを。
刀根:それはずっと後ですけどね。1969年、70年からかな。
由本:1969年って書いてありました、年表に。ご自分の年表だからたぶん間違いないと思います。
刀根:たぶん間違いないですね。えーと、それは青山デザインで教えていて。
富井:石子さんの関係ですよね、たしか。
刀根:うん、石子順造と谷川晃一。石子順造がみんなに「代行」って呼ばれてて、学長代行。
富井:あそこはいわゆる学生運動が成功したというか。
刀根:唯一ね。
富井:カリキュラムなんかも改革されたという所ですよね。
刀根:うん、まあ1年も続かなかったですけどもね。ほぼ1年。1969年で終わっちゃったでしょ。でも一応バリケードを張った後で、最初自主講座をやって、まあ、それは全部、石子順造が仕切ってたと思うんだけども。それで自治会の連中と話して、自主講座に来てくれた人の中から選んだ、っていう。建前はそういうことになってますけどね。
富井:じゃ、刀根さんは自主講座の頃から関わられた。
刀根:そうです。もう石子順造とはしょっちゅう付き合ってたから。で、原稿の時に彼は電話してくるから、長話して。
富井:ご自分が原稿書いてらっしゃる時にですか?
刀根:そう、うん。
富井:こんなん書いてるんだけど、とかいう話になるんですか?
刀根:そうそう、それで議論してね。
由本:ちょっと先に行ってしまったんですけど、現象学っておっしゃった時に、その辺りの興味っていうのは1966年くらいから展開された、インターメディア•アートとの関係もあるんでしょうか。例えば、コンピューター•アートのチーム•ランダムっていうグループを1966年に立ち上げてらっしゃいますけども。
刀根:あれは、あんまり関係ないんですね。どっちかっていうと、建築家の佐藤暢紘だったか。
由本:2人ぐらいでしたかね、後のメンバーは。
刀根:えーと、竹馬っていう川喜田二郎の弟子みたいのが一人いて、都立大か。あと佐藤って建築家がいて、それから、月尾(嘉男)君って、後で東大の工学部の教授になった人とかね。それに僕がちょっと引っ張り込んだのが何人かいたんですけどね。
由本:そのBiogode Processというフェスティバルはどういうものだったんですか。
刀根:要するに、コンピューター•アートのフェスティバルですね。
由本:その頃、もう十分日本にそういうものが根付いていたんでしょうか。
刀根:全然根付いてないからできたんでしょうけども。
富井:僕もやってみたいっていうことでしょうか。刀根さん自身も。
刀根:もちろんそうですね。要するにテクノロジーの問題っていうのは考えなければならないって思っていたことなんで、それは実際にやってみなきゃわかんないですからね。それに、当時のコンピューター、僕らの使ったUNIVACってのはすごい、このスペースよりももっと大きいスペースでね……
富井:普通の教室よりも大きいですね。
刀根:2階建てか3階建てくらいの、東大の生産技術研究所っていうのが麻布にあって。そこにあるビルのひとつが、コンピューター一台に充てられていた。プリンターは、そのビルのワンフロアーにあって、ラインプリンターと言うのですが、プリントすると、マシンガンみたいな音がしてました。
富井:じゃぁそこに行って使っておられたんですか。
刀根:使ってって、僕たちは触らしてもらえませんよ。
富井:あ、すみません。さっき、東大の方もいらっしゃるっておっしゃていましたよね。
刀根:そうそうだから月尾君なんかに「これやって」って言って、それもプログラムして、それから機械に入れるでしょう、で明日の朝になると答えが返ってくるという。
富井:え、そんなに時間がかかったんですか。
刀根:そうですよ。もう、当時のコンピューターなんて、実に野蛮なもんだ(笑)。
富井:そうですか(笑)。
由本:かなり早くからテクノロジーの問題にエンゲージ(engage、携わる)されていたんですけど、その頃から広まったいわゆる日本でいう環境芸術っていうのは、後に万博に来るまでに技術化されてしまってテクノロジー•アートみたいに誤解されたようなところがあると思うんですけれども。
刀根:そうですね。
由本:その動きについて、刀根さんは批判的だったようですけれど。それと、ご自分のテクノロジーとアートの関係はどういうふうに見てらしたのかなと。ニュアンスが難しいから。
刀根:そうですね、一口でいうのは難しいんだけれど。まず一つは、テクノロジーっていうのは環境と一体化しているわけですからね。一つのテクノロジーだけを取り出してっていうんじゃなくて、そういう社会的な環境の中でしか考えられないもんだってのがあるわけでしょ。ところが万博行った連中ていうのは、ひとつには、やっぱり日本の連中はあんまり、その辺がはっきりしてなかったんだと思うけど、まず外国のお手本を探して、それに合わしてやるみたいなことがあるのと、それと、だいたい面白くないんですよね。例えば、宇佐見圭司なんてのは、レーザービームをなんか鏡で反射させているだけでしょ。
由本:刀根さん、「芸術の環境化とは何か」という論文で、アンディ•ウォーホルを逆にたくさん論じてらっしゃるんですけど、ウォーホルの芸術の方が複製イメージを使ったりってことで、環境的だというような論の展開ですよね。
刀根:まぁ大体そういうことですよね。例えば、マリリン•モンローの写真を1枚持ってきて例にとってみても、マリリン•モンローとの実態とは関係ないわけでしょ。社会が持っているマリリン•モンローのイメージがそこに投射されて、それを反映しているわけで、マリリン•モンローのイメージを取り上げるってことは、マリリン•モンローのイメージとマリリン•モンローを生んだアメリカの社会との関係でしか、理解できないはずなんですよね。まぁ大体そういうようなことが頭にあったと思いますけどね。
富井:そうすると、それはどういう風に刀根さんがやろうとしていたテクノロジーを使った芸術に反映されていくわけですか。
刀根:テクノロジー論を含まなければ成立しないような作品ていうのは、作んないと意味がないというのが、一つにあったですよね。
由本:それはテクノロジーをディスプレー的に使うんではなくて、ファンダメンタル(根本的)な意味で。後のCDプレーヤーの作品みたいに、その根本に関わるようなところで使うっていうっていうような感じだったんでしょうか。
刀根:スペインかどこかのね、大学の先生の女の人が、僕の作品の政治的主観性についてっていうようなことを文章に書いてた。
由本:あぁ、シスネロスって人ですか。(注:Roc Jiménez de Cisneros, “Blackout Representation, transformation, and de-control in the sound work of Yasunao Tone,” Quarderns d’audio [Museu d’Art Contemporani di Barcelona], 2009, http://rwm.macba.cat/en/quaderns-audio )。
刀根:シスネロスじゃなくてね、あれはねぇ、あ、彼もいいですよね、彼はもっと、「ブラックアウト」とかいってるでしょ。
由本:そうですね、もっと最近……
刀根:ええとねぇ、 アンシーラという人ですね。(Andrea Ancira, “The reinvention of political subjectivities through music practices: Yasunao Tone, Cultural Pública 1.5.11 [2011], http://blogs.arteleku.net/noise_capitalism/wp-content/uploads/2011/04/Espacios_Infinitos.pdf )
富井:その場合、例えばテクノロジーのレベルが違うじゃないですか、今と1960年代、あるいはCDの音楽作られた時と。だから、60年代にされた仕事を今振り返った時に、何て言えばいいんだろう、失礼ないい方ですけど、うまくいってたんですかって訊き方はちょっとおかしいんですけども。
刀根:あんまりうまくいかなかったかもわかんないですね。作品として成功したかどうかってことですか?
富井:それもありますし、あるいは刀根さんが思想的に追求していたことが、うまくテクノロジーと協働できたのかという意味もあります。
刀根:あ、それはうまくいかなかったですね。当然ね、まだ。
富井:テクノロジーがさっき悪かったっておっしゃったので、ひょっとするとまだテクノロジーが刀根さんのしたいテクノロジーについてきてなかったということがあるのかなって。
刀根:それは確かにありますね。例えば、ぼくはシンセサイザーっていうのは一度も使ったことがないんですよね。なぜ使わないかっていうと、シンセサイザーっていうのは要するにコントロールする機械なわけですよ。こういう音を出そうとして出すためにはどうするかっていう。パッチングをしてね、例えばいちばん最初、元になるのは発振音ですよね。その発振音を上げたり下げたり。それからそれを、波形を複雑にしていく。そうやって自分の思っている、出したい音を出すわけでしょ。それから、そのつりあげで音楽を作っていく。僕のやり方だと、全く相反するわけでね。
富井:それは基本的には、ふつうに古典的な音楽を作るものを。
刀根:それをだから実質、そうなんです。
富井:シンセサイザーが入ったということになるわけですね、今のご説明でいくと。
刀根:そうです。それだったらわざわざシンセサイザー作ることないでしょ。例えば、コンピューターで人間の声を……
富井:ああ、複製するっていうかシュミレーションする。
由本:まぁ楽器と同じような。
刀根:楽器と同じですよねぇ。だから、それはエンベロップ(envelope)作ればね、そういう音は簡単にできちゃうわけですよ。犬の鳴き声で歌を歌わせるとか。そういうのは僕は全然興味ないんで。そういう意味では、CDプレーヤーがでてくるまで……
由本:これっていうものがなかった。
刀根:なかった。それからその前に僕が最初に出したCDですね、それはラブリー・ミュージックから出したんですけども、もうコンピューターだけで作った音で、しかもCDでできているから、CDってのは、一度出したら正確にその音を出すわけで、その作る過程がいわゆる、1990年代の作品ですからね。もっと後で説明した方がいいけれど、ひとつは、例えばそういう音を作ろうと思うと、もうストレージ(storage)自体が小さすぎて。
富井:メモリーの?
刀根:ええ、できないんですよね。で、やっと出来るようになったのが1992年なんですよ。
富井:ああなるほど。
刀根:それでもねぇ、一番大きなストレージがね、1ギガですよね。今だったら……
富井:今だったらお笑いですね。
刀根:でも当時は200メガが一番大きな感じだったでしょ、普通に買ってついてくるので。だから1ギガはすごいという感じだったんですよね。それで1ギガだし、ちょうどスティーブ•ジョブズ(Steve Jobs)がアップル追い出されて、自分でたちあげた会社で、NeXTcube という強力なコンピューターを作ってくれたおかげで出来たわけです。1990年から1993年にかけてです。NeXT のデモンストレーションには、ジョブス自身がトライベッカの、Roulette にやってきたほどです。
由本:iPodのずっと前ですね。
刀根:やっとそれで僕の思う通りのテクノロジーについて考えていることができるってんで。1992年ですからね。コンピューター・ミュージックっていうのは1950年代からあるわけで。コンピューター・ミュージックって、実際に、MITでMax Matthews なんかが作ったというのがあるけど、それなんかどういうのかというと、マルコフプロセスですよね。マルコフ過程で、いわゆるクラシックの音楽らしいものを再構築するわけですよ。だからエンジニアが機械で音楽もできますよっていうのがいわゆるコンピューター音楽の始まりですからね。僕の考えている作品とはまるで関係がなかったんだよね。
富井:ずいぶん時間がかかって、でもテクノロジーの方が追いついてくれてよかったですね。
刀根:ええやっと(笑)。
富井:じゃぁ今の方が音楽作りやすい?
刀根:そうですね、それで今、MP3のやってますけども。
富井:なんかちょっとずいぶん飛んでしまったですけれども。
由本:そろそろ1960年代も終わりなんですけれども。環境芸術と同じくらいにでてきた言葉で、少し後になると思うんですけど、日本だと、インターメディアという言葉は、刀根さんがわりと中心的な火付け役というか、中心にいらしたように見えるんですけど。
刀根:そうですね、あと石崎浩一郎とかね。だいたい僕と石崎が最初にやった、ルナミ・インターメディアっていうのがあるでしょ。(注:1967年5月、銀座のルナミ画廊で開催されたインターメディア展)
由本:あのパネルとコンサートですか。
刀根:ええそうですね。毎晩やったんじゃないかな。展覧会の他に。
由本:展覧会中、毎晩?
刀根:よく覚えてないですけどね。僕はあれを持ってましたよね、富井さんに見せなかったかなぁ、ルナミ・インターメディアの。
富井:インターメディアは拝見していない、ホワイト・アンソロジーは拝見してます。プログラムとかですか?
刀根:あれもルナミだった?
富井:あれルナミです。
由本:ルナミが一番最初なんですねぇ。
刀根:そうですね。
由本:1969年には日経ホールでインターメディア・アーツフェスティバルを。
刀根:日経ホールと銀座のキラージョーズってクラブで。
由本:その頃なんですけど、ちょうど「クロストーク/インターメディア」(注:1969年2月、国立代々木体育館で行われたインターメディアのイベント)だとか、「国際サイテック・アート展——エレクトロマジカ ’69」(注:1969年4月、銀座ソニービルで開催されたメディアアート展)だとか、他のイベントも催されてたんですが、それに対しては批判的で。
刀根:もう全然批判的だったですね。
由本:だからそのインターメディアというのがすごく濫用されているので、刀根さんの中ではディック•ヒギンズのいうインターメディアが。
刀根:頭にあったけど、あとで、パラメディアって言葉を考えたんですけどね、ディックのはね、まだスタティック(static、静的)なんですよね。たとえば 芦手絵なんてあるでしょ、つまり絵のなかに文字が隠れていて、文字がそのまま絵になる。つまり、文字というメディアと絵画というメディアの両方が入ってるけども、非常にスタティックなわけですよ。
富井:刀根さんのパラメディアっていうのは?
刀根:最初はインターメディアでも、もっとダイナミックなインターメディアってのがあっていいっていうのが一つありましてね。それはある程度頭の中に、僕は実際には見ていないけれども、ウォーホルがやったね、イースト・ヴィレッジにあった……
由本:クラブですか?
刀根:そうクラブ、有名な。あのニコもでた。
富井:フィルモアじゃなくて?
刀根:フィルモアじゃなくて、ドムだ。ドムで彼はずっとやってたでしょ。
由本:そういうのも「芸術の環境化」の論文で出てくるんですけれども、刀根さんってまだ、アメリカにはいらしてないのにあたかも見たかのような詳しい論じ方をしていらっしゃるから(笑)、すごくびっくりするんですけれども、それはどうやって。
富井:東野さんから?
刀根:多分、東野じゃなくて雑誌で見たんでしょうね。もうあの頃は雑誌は入ってきてましたからね。
富井:アメリカの雑誌で?
刀根:ええ。
富井:そういえば刀根さん『美術手帖』とかでずいぶんアングラカルチャーとか特集するように働きかけておられたんじゃないかなって思うんですけど。
刀根:どうなんでしょうね、だんだんああいうことになったのかなぁ。
富井:そのことも一つお訊きしようと思ってたことなんで(笑)。
刀根:一つはねぇ、宮井陸郎って映像作家ですけど、彼のところがアングラポップみたいな名前だったような気がする、フーテンアーティストの巣になってたんですね。実際には、フーテンっていっても、慶応の学生だったんだけど(笑)。まぁガリバーみたいなわりと本格的なフーテンもいたけどね。
富井:じゃあわりとアメリカからそういう情報が入ってきてて、日本でもそういうことをしている人もずいぶんいたんですか。
刀根:そうですね、それから、たぶん石崎なんかと一緒にアメリカの雑誌を見ていたんだと思います。そうだな、ウォーホルのことを頼まれて書いたのと、そっちの方が後でしょう?
由本:ウォーホルだけではないんですけど、一応中心はそうですね。これは『デザイン批評』の1969年1月に出た「芸術の環境化とは何か」。中原さんも書いてるものがあるんですけれども、もちろん彼は、ダダとかだいぶ昔の方からさかのぼって歴史的に見ているようなやつだったと思いますけども。
刀根:なるほどね。ロゼリーの「パフォーマンス・アート」って本(注:RoseLee Goldberg, Performance Art: From Futurism to the Present, H.N. Abrams, 1988)もそうだよね。
由本:ああ、ロゼリー•ゴールドバーグ。そうですね。
刀根:だいたいそういう風になるんだ、ふつうは。やっぱり、作家と批評家っていうけども、態度が違うんだよね。
富井:やっぱり刀根さんが何かそうやって批評とか評論する時は、音楽家として自分がなにかしたいとか、あるいは自分だったらこういうものに興味があるみたいな視点がどうしても入ってきている。
刀根:そうです。それがないと書いても意味がない。そうじゃないですか。そうなったら単なる批評家になってしまうんで。親父に批判されたことがあってね。
富井:え、お父さんですか。
刀根:ううん、あのさ、田畑(書店)から本出したらさ、「お前、そんな若いうちから評論家になっていいのか」って。
富井:ええ、そうなんですか、そんなこと言われたんですか。1970年ですよね。
由本:じゃあ何歳ですかねぇ。
刀根:35歳。
富井:言われたんですか。
刀根:うん、言われた。
富井:それで反省とかしたわけですか。
刀根:そりゃ、全然しなかったけれども(笑)。べつにおれは評論家やってるわけじゃないよって言ったけれども。
由本:田畑(弘)さんという方は、針生さんの「われわれにとって万博とは何か」とか、粟津さんの「デザインに何が出来るか」とか、「~できるか」というシリーズを出してらっしゃるみたいなんですけども、そういう関係で刀根さんに。
刀根:多分ね、粟津潔だと思うね。
由本:その頃、グラフィック・アーティストの木村恒久さんとか粟津さん達と親しかったんですか。
刀根:そうですね、特に木村恒久とは親しかった。
由本:それは、「反万博」というようなところから来ているのかしら。
刀根:「反万博」というのは結果であってね、日頃の作品を作る態度が「反万博」になったんで、木村恒久は「反万博」だけれども、政府館に、広島の犠牲者の写真を集めて、やってんですよ。
由本:粟津さんもそういうことをしようとしていたんでしょうね。一部残ったんですけどね。
刀根:そういう意味では木村恒久は徹底してて、粟津潔の紹介で田畑さんに会ったわけでしょ。当然表紙のデザインは粟津ってことになると、普通は思うでしょ。で、僕は粟津さんじゃなくて木村さんにしてくれって。
由本:ふーん、そうなんですか。
富井:あの時のサブタイトルが「芸術は思想たりうるか」ですよね。
刀根:だからその一連の「~できるか」っていうのと同じで。
由本:一貫してたんですね。
富井:でも「芸術は思想たりうるか」っていうのは刀根さんの問題意識だったわけですよね。
刀根:そうですね。
由本:木村さんと粟津さんとはいつからお知り合いだったんですか。けっこうグラフィック関係のご友人も多いですよね。
刀根:そうですね、あと、神田昭夫とか杉浦康平とかね。日経とキラージョーズでやったポスターは、杉浦康平ですね。それから、横尾(忠則)君はわりと近所に住んでたんですよ。僕は平河町にいて。
富井:ご近所だったんですか?
刀根:そうなんです。彼にポスター頼んだことありますけどね。それは、小沢金四郎っていうダンサーがいて、三島の恋人の一人だったのね(笑)。三島ってのは土方みたいなタイプが好きだったらしいんですね。
由本:で、その人が?
刀根:その人が、なんか音楽お願いしますって言ってきたんです。なんかライブ見たらあんまり面白くないんだけれども、お金くれるって言うからね、いっぱい。それで、当時モップスっていうグループがあったんですよ。知ってます?
富井:知ってます。
刀根:それ使ってやろうって。それでホリプロに行って、モップス使って、ちょっと僕の曲演奏さしてくれって。だから鈴木ヒロミツなんていたでしょ、死んだ。彼なんかよく町で会うと「刀根先生、また作ってくださいよ」なんて。
富井:内田裕也さんにもなんかしてらっしゃいますよね。
刀根:裕也はね、僕は知ってますけどね、ほとんど付き合いないです。ガリバーなんかよく知ってたな。
由本:さっきの『美術手帖』の質問がちょっと中途半端になってしまったんですが、編集長であった宮澤さんにアドバイスをするような形で1967年くらいから。
刀根:何年だったかよくわからないんだけども、頼まれたんですよね。
由本:千円札裁判のこともあるし。
刀根:そうそう、そうです。それで、千円札裁判の文章なんかもたぶん、見てて。
由本:で、結果的に戦後美術50年の年表を。
刀根:それはもう福住(治夫)君になってからですよ。
由本:それは福住さんから提案があったんですか。
刀根:そうですね。福住君がだいたい、1960年代の美術を総括してみませんかっていって。それで、編集部全員来てね。
富井:なんか、編集部ぶんどられたっていう。
刀根:えっ?
富井:雑誌とかも全部、大変な調査になったとかいって。
刀根:あれはねぇ、とにかく、50ページくらいでやってくれって言われたのを、400何十ページとかに拡大しちゃったんですよね。
富井:あれ、刀根さんですよね、1920年代まで遡ろうって言ったのは。
刀根:そうです。
富井:それはやっぱり大学時代からずっと端から見ておられて。
刀根:ええ、だから結局ね、昨日言い忘れたかもわかんないけども、要するに土着なアバンギャルドっていうのが頭にあったんですよね。輸入じゃなくてね。それまでは、輸入で団体展が、できたりつぶれたりしてたわけで、じゃぁ土着なアバンギャルドはどういうところからあるかっていうと、大正アバンギャルドってのは、土着なアバンギャルドですよね。大正アバンギャルドは、第一次大戦の戦後にできた土着なアバンギャルド。で、第二次大戦の戦後にできた土着なアバンギャルドはどういうものかっていうふうに捉えたらどうかと。そうすると、やっぱり見てると、あんまりジャンルにわけちゃうと見えなくなるんですよね。一定期間はジャンルの間の交流は激しいですからね、その一定期間はジャンルの枠を取っ払って。で、ジャンルの枠に入るようなものは、旧世代の藝術だというふうに考えたんですね。だからそういう形でね、もう一つ頭にあったのは、デュメジルだったか、ブローデルだったかな、アナル学派の歴史についてフーコーが書いた文章が『パイデイア』っていう思想誌に截って、その中にはね、「歴史的な出来事をタブロー化することによって見えない部分が見えてくる」って。その例として、フーコーはケネーの経済表をタブロー によって視覚化した例としてあげています。だから年表もそうなる。
富井:それフーコーだったんですか。
刀根:フーコーだと思いましたけどね。
富井:私それ刀根さんだと思ってたんです。「歴史をタブロー化する」って話しは聞いたんですけどね、私は刀根さんかと思って尊敬してたんですよ。
刀根:尊敬しないでいいですよ。
富井:私はいまも尊敬してますけど。ああ、そうですか。それはすごく重要なコンセプトだと思って、年表の作り方が階層的になってて、社会とか常にそれが一緒に見えるような形で構造的に作っておられたので。
刀根:年表の構造っていうのはそういう社会的な構造をね、そのまんま反映できるように作ろうと思ったのが一つ、それから、どうやったら見えない動きが見えてくるか。
富井:そこ重要ですよね、見えないものが見えてくるようにするっていうのは。
刀根:たしか、フーコーが例に挙げていたのはね、ヨーロッパのタンパク質の消費量ってのは、普通に歴史を見てるんでは見えないっていう。それを細かくわけていって、物質的に見ていくと、18世紀の終わりから19世紀の初めから急に消費量が急激に増えるんだって。
富井:そうなんですか。
刀根:ええ、それがヒントですね。
富井:初めて聞いた。面白いですね。
刀根:だから年表っていうのはそういう風に作るといいんじゃないかって思って。
由本:今でこそ日本の大正アバンギャルドも、研究されるようになりましたけど、当時はまだ批評家の人たちの中でもそこまでは。まぁ、瀧口さんは生き証人ですけど、他の人たちは欧米と比べるばっかりで、土着なアバンギャルドという見方はあまりしてなかったんじゃないですかね。
刀根:そうですね。
富井:随分リサーチなさったでしょう、なんかトラック2台分くらい資料を色んな所から借りてきたみたいなことがたしか前書きかどっかにありましたけれども。
刀根:あ、書きましたね。あれはもうね……
由本:それはアシスタントはいなかったんですか。
刀根:それは彦坂君がアシスタントだね。最初はね、赤塚行雄さん,後に別のペンネームに変えましたが、彼が入っていた。というのは、彼が自分のノートブックに現代美術の年表を書き込んでいたんですね。それを発展させて行くというのが最初のアイデアでした。そしたら、僕と一寸意見が違う所があったようで、彦坂君は多摩美にバリケードをはって、2年くらいで退学したあとで、内ゲバみたいに、パージ(追放)しちゃったわけです。『美術手帖』のなかで。僕はびっくりしたけど、赤塚さんがおとなしく引き下がっちゃった。
富井:『美術手帖』、借り切っちゃったんじゃないですか、たしか?
刀根:会議室全部。それから追い込みになってくると、近所に旅館がありましてね、四谷に。
富井:確か、スタッフの人も勝手に使っちゃって、編集に色々駆り出されてたってことも聞きましたけども。
刀根:ああ、それは全部手伝ってもらったんですね。田村さんなんかずいぶん手伝ってくれた。それでさ、あの千葉成夫がね、なんか彦坂が独力でやったって書いたって……
富井:まぁその辺りは、誤解が色々あるみたいなので。こういう形でお聞きして、こういう出来事があったとか、どういう形でフォーマット決めたのかっていうことをお訊きしておけば、一応他の方も、刀根さんの側からはこうだったんですよって話ができると思って。
刀根:いや、彼(千葉成夫)はね、最初送ってきたの、なんとかっていう雑誌、自分がやっている。
富井:ああそうですか。
由本:自分がやっている雑誌?
富井:『現代美術逸脱史』(晶文社、1986年)がでる前になんかしてた雑誌。
刀根:それが突然送ってこなくなったの。で、その辺に彦坂が独力でやったって書いたんじゃないかと思うんだけども。
富井:それはちょっとわかりませんけど、『現代美術逸脱史』のなかにこう、誰が書いたみたいなところがあるから。
由本:いよいよ1970年代に入るんですけど、一つ前に富井さんからの質問があったんです。
富井:そうそう、毎日の現代美術展の1969年に公開審査を求める動きがあって、その時に刀根さん入ってらっしゃいましたよね。
刀根:そうですか。
富井:入ってなかった?
刀根:入ってなかったです。僕はねぇ、1969年に草月の映画祭があったでしょう。あれが粉砕されたんですよね。
富井:あれ粉砕したんですか?
刀根:僕は粉砕していないんですけども。粉砕する側にいたんだけれども、審査員も引き受けたの。
富井:おかしい(笑)。じゃあ、粉砕精神を持って審査に臨んだわけですか。
刀根:まぁ、そういうことですね(笑)。
富井:そういう風にいうとかっこいいな。じゃぁ、毎日現代美術展の方はあんまり?
刀根:毎日とは関わりなかったですね。評は書きましたけれどもね。
由本:それで、著作も出版されて、年表も完成されて一括りされた所で、アメリカに移られるんですけれども、それは一括りついたということ以外に、特にアメリカに来る契機があったんですか、カリフォルニアのミルズ・カレッジに呼ばれたとか。呼ばれたのは後ですか?
刀根:後です。それは行ってからですよ。ひとつは、確かひとみ座とかいう人形劇の公演がどっかにあって、そこで瀧口さんとか中西とか、何人かでおしゃべりしている時に、瀧口さんに「刀根さん、外国行かないんですか」っていう。中西は「コーヒーがおいしいとこがあったら行ってもいいですけどね」って。気取ってんの、あいつ(笑)。それで僕は、「そうですね、1度くらい行ってもいいでしょうね」って。で、何となくって思っていたら、アスペンのデザイン会議から、別に招待状じゃなくて、デザイン会議をやるから来ませんかっていうようなチラシが入ってきた。ちゃんと申込書がついてる。じゃあ、デザインのこと書いてるし、メンバー見るとさ、みんなルイス•カーン(Louis Kahn)だとか、そうそうたる。あと、当時やっぱり1972年ですからね、反体制みたいな人たちがアスペンのデザイン会議に入ってるんですよ。じゃ行ってみようと思って、それで行って、最初は1年で帰ってくるつもりだったんです。
富井:それでも1年くらいは考えておられたんですか。
刀根:うん、そうです。ていうのは、行くとしたらさ、昔みたいに、洋行帰りでなんて時代じゃないでしょ、もう。まあ、それでもそういう所はあったんですよ。栗田さんも若干そういうことを僕に言ってたけどね。ちょっと見てきた方がいいんじゃないかって。で、その前に石子順造はハワイに行って帰ってきてるのね。
富井:あ、石子さんはハワイでしたか。
刀根:ハワイ行ってたけども、彼にとっての収穫は、『キッチュ』っていう本を買ってきたんだよね。それで彼のキッチュ論がハワイで始まったんだよ。(注:石子は1970年の末にアメリカに滞在しており、その後のキッチュ論でよく言及しているのはGillo Dorfles, Kitsch: The World of Bad Taste(New York: Bell Publishing, 1969)である。イタリア語版は1968年。)
富井:なるほど。じゃあ、刀根さんはとりあえずアメリカっていうことで。
刀根:そうです。
由本:先ほども申しましたが、(刀根さんは)ずっと遠隔からアメリカのことを見てきて、フルクサスにも遠隔から参加されて、10年以上経っている。で、行かれる前には既にフルクサスというものについて懐疑的な見解があったと思うんですけども、それが行くことによってだいぶ変わったんでしょうか。
刀根:行ってね、ナムジュンにむかって「もうフルクサスなんてだめなんじゃないの」って言ったら、「いや、フルクサスは全然生きてますよ」って、ナムジュンが言うの(笑)。
由本:まだ死んでいないって言ったんですか、生きてるって言ったんですか?
刀根:「死んでない」って言ったのかな。「立派に生きてますよ」かな、うん。
由本:ナムジュンとはもう顔見知りだったんですけども、他の方は全員、出版物で写真を見るぐらいしか見識が無かったのでは。
刀根:そう、塩見が帰ってきた時にね、Something Else Press (注:Dick Higgins が編集出版していた出版社)の本を一杯持ってきてくれてね。(塩見が)ディックに「彼は文章を書いてるから、送ったらフルクサスのことを広めてくれるんじゃない」って言ったみたいで、それで何冊かもらったんですね。
由本:でも書面で見ている人たちと、実際に会って一緒にイベントしたりすることによって、「ずれ」は感じられませんでした?
刀根:それはわりとなかった。ていうよりも、他人もまだ知らない人のところに来たわけでしょう。したら、昔から知っている奴がきたって感じで迎えてくれたから。
富井:向こうの方が?
刀根:向こうの方が迎えてくれたわけだからね、こっちも嬉しくって。
富井:なるほど。ニューヨークに来られたのはアスペンから。
刀根:アスペンから一度ニューヨークに行こうと思ってたんだけど、市川雅ってダンスの批評家がいるでしょ、彼がニューヨークにいたんですよ。東京書店で、禅書店というのがあったでしょ、フィフス•アヴェニューに(注:東京禅ブックストア)。あそこで店番なんかやってた。
富井:そうなんですか。
刀根:で、彼に訊いたら、「刀根さんね、夏は暑くてあんなとこ行ってもしょうがないから、夏はサンフランシスコ辺り行った方が涼しくて楽しいよ」って言われたんで。
富井:そりゃそうです。うん。
刀根:それでね、アスペン行った時に、行く途中にサンフランシスコで乗り換えたの、飛行機を。それでサンフランシスコから桜井(孝身)に電話したんだよ。そしたら、「先生、来ましたか、ぜひ寄ってください」ってんで、それで帰りには、帰りっていうか、ニューヨーク行かずに、サンフランシスコ寄ろうと思って、アスペンからサンフランシスコに。
富井:そのときサンフランシスコにいらっしゃったのが、桜井さん達だったんですか。
刀根:桜井のコミューン。
由本:ああ、なるほど。
刀根:「こんにゃくコミューン」ていうのね。僕が行った時はオリジナルのメンバーは彼だけで。元のメンバーは、義仙っていう臨済宗の禅の坊主、それからアル•ロブレス(Al Robles)っていうフィリピーノの詩人と桜井と3人で始めたんです。始めたのは1960年代の初期のことだから、もうコミューンのなかでは一番古株のひとつなの。それで尊敬されてたみたいね。
富井:そうなんですか。じゃぁ刀根さんそこ行って昼寝してくるんですか。
刀根:そうですよ。
一同:(笑)
由本:その頃、髪も長くて。
刀根:髪も長くて。いや、それが長くなかったんだ。ほら、旅行に行くってんで髪を短くして、髭も剃ってさ、スーツ着ていったんで。
富井:コミューンに。
刀根:そう。それで、みるみる間に汚くなりましたけどもね(笑)。
富井:そうでしょうねぇ(笑)。で、そこで夏を過ごされて、ニューヨークへ?
刀根:ええ、そうですね。いや、それが夏ぐらいと思ってたらね、ついでに寄るんならコンサートやっていこうってんで、ミルズ・カレッジでコンサートやっていったんですよね。ミルズ・カレッジも、ニューヨーク行くから早くやらしてよって言ったけども、早く来たって学生が帰ってこないから9月なんかだめよって言われて。それで11月の初めですよ、やったのはね。
由本:カルアーツ(注:California Institute of the Arts、略称Cal Arts)でもやっていますよね、(アラン・)カプロー(Allan Kaprow)のところで。
刀根:カプローのところに行って。
由本:それも同じぐらいの時に?
刀根:ええ、それはこんにゃくコミューンにいる時ですね。こんにゃくにいる時に、ロサンジェルスに行って、カプローに会おうって。
由本:じゃあ、それは学期中のイベントではなかった。
刀根:そうです。カプローと一緒になんかやろうよって言って。
由本:その間に?
刀根:ええ。それで、2日間のフェスティバルみたいのをやった。その時はハイレッド・センターの清掃イベントってのを。
富井:ああ、お掃除したんですか?
刀根:カプローの教室だけじゃなくて、いっぱい集めてね、カルアーツの生徒を。
由本:じゃあ、夏も夏期講習みたいなのがあったのかな。
刀根:ええっと、そのときは何月だったんだろう、書いてあります?
富井:11月です。
刀根:11月か。
由本:その頃までにはけっこうカプローもイベントに近づいてたでしょう。ハプニングの受動的なものから、もう既に大分。
刀根:ああ、カプローは、どっちかっていうとイベントに近かったですよね。
由本:そうですよね。
刀根:その時やったのが、カルアートの校庭のそばをスウィーピング、掃除してて、それをスーパーマーケットの袋に入れたんですけどね、その袋は、ハイレッド・センターのオッタマゲションマーク(注:エクスクラメーション•マーク、俗にびっくりマークのこと)があるでしょ、あれをプリントで作らせてね。
富井:なるほど。貼ったんですか。
刀根:それはね、ピーター•ヴァン•ライパー(Peter Van Riper)がちょうどいて、版画の先生やってたから、お前ちょっと版画しろって、版画指導して。それでスーパーマーケットの袋にオッタマゲションマークを印刷して。
富井:ああ、印刷したんですか。
刀根:うん、それでいっぱい作ったんだよ。何百枚か。あいつうまいんだよねぇ、500枚とか1000枚とかまとめてもらってきたよ。
富井:そうですか、なんかすごいですね。
刀根:それでね、そのスウィーピングを、だいたい落ち葉だけどね(笑)。
富井:ああ、落ち葉、秋ですもんね。
刀根:そうそう、それでそれを袋一杯につめて、ちょうどその時にね、なんか日本人の学生が1人いたんですよ。それが、カプローに自分のプランを出したけどうまく受け入れられないっていうんで、じゃあ俺と一緒にやってカプローに担がせようって。それで彼は《Aフェスティヴァル》って作品を。何かって言うと、京都の大文字焼きみたいなことを。カルアートの土手に大きなA型の溝を掘って、それでスーパーの袋を燃やしたりとかね。ちょうどスウィーピングした落ち葉を、Aの溝の中に入れて火をつけて。
富井:あ、いいですね。
刀根:そしたらカプローはちゃんと消防署にかけあってくれて。あれ大変ですからね、山火事になるから。
由本:そうですよね、許可とれるのも大変ですよね。
刀根:それで、ちゃんと消防署がついて。
富井:さっき木の葉集めてどうするんだろうって思ってたんですけど、それでうまくいったんですね。
刀根:それから、皆島万作って絵描きさんがいてね、LAに。彼がなんか絵の大量生産やってたのね、いまでもほら売ってるでしょ、郊外で。
富井:ソファーアートですね。
刀根:その工場に木の削りかすとかあるから、そういうのも集めに行って、車で。それだけじゃあれだから、どうせ運ぶことになるからって、彦坂の「デリバリー・イベント」ってあるでしょ。それをついでにやっちゃおうって。
富井:どうやってやったんですか?
刀根:カプローのライトバンを僕が運転してね、横にREVOLUTIONて。
富井:(文字を)つけたんですか?
刀根:横断幕をつけた。そうだ、片側がハイレッド・センターのオッタマゲーションで、反対側は彦坂のREVOLUTIONってなったんだ。
富井:色んな1960年代がばっちりじゃないですか。
刀根:1972年というのはまだ60年代の一部ですよ。
富井:はい、私も入れてますから。
刀根:それでLAのフリーウェイを走ってると、やっぱり当時のことだから、過激派がいるんじゃないかと思って、通報する奴がいるわけ。
富井:ほう。
刀根:警察のヘリコプターがずうっと尾けてきた。だからイベントとしてはもう、陸から空から……
富井:すごいじゃないですか。
刀根:それはすごいイベントでね。それで、神田さんという女の人、日本人の学生さんがいて、その人がドキュメントかなり撮ってくれてましたけどね、16ミリで。僕が持っていますけどね。
由本:じゃぁニューヨークに来るまでに大活躍で。
富井:そうですね、ほんと。
由本:ニューヨークにいらしてからは、シャーロット•ムーアマン(Charlotte Moorman)のアヴァンギャルド•フェスティヴァルにほぼ毎年のように参加されてますけれども、その中で1番印象に強く残っているというか、ご自分でも成功したと思われる作品があれば。
刀根:わりとまずったものも、僕はすごく気に入っているけれど。
由本:はは、そういうことありますね。
富井:内容を教えてください。
刀根:Floyd Benet Fieldっていうブルックリンに陸軍かなんかの飛行場があって。その飛行場のハンガーの上に、ウェザーヴェイン(weather vane、風見鶏)を作ってね。
富井:あの、風見鶏をつくって?
刀根:そうです。それを取り付けて、それを下から望遠鏡で見て貰う。
富井:望遠鏡で見るんですか?
刀根:そう。それで、ポスターを一応貼ったんですよね。「チーズのバッジを付けた人から望遠鏡を借りてください」と書いた。それは一つは「La vache qui rit(笑う雌牛)」というフランスの安物のチーズがあって、それをもじって。知らない? テレビでもたまに宣伝してるけどね。
富井:なるほど、はい。
刀根:それはなぜかっていうと、作品の発想の話をさせて下さい。ダッコちゃん人形というのが昔々はやった事があったでしょ。あの人形の目玉が角度が変わると空けたり閉じたりする、まあウインクしているみたいに見える。あの目玉の部分はレンティキュラー・シートというプラスティックで出来ているんです。その原理はプラスティックのシートにかまぼこ状の波が入っていて、光の向きによって屈折が起きる。これを使って2つの45度の正反対の角度で違った映像を撮影し、それらを重ねて、プリントしたものにレンティキュラー・シートを被せると、角度が変わると一枚の同じシートから、まったく違った映像が見える、というものです。ブレクトが、かつて、「セディーユ・スリ(ç sourrit 、セディーユは微笑む)」って言う詩のようなものを書いていたことがあって、それと「 La vache quit rit(笑う雌牛)」が同じ面にプリントしてあり、それが風向きによってどっちかに違って見えるわけです。そのタイトルが「レンティキュラー•ポエム(Lenticular Poem)」。
由本:ああ、じゃあ1975年ですね。
刀根:レンティキュラーでやると、風向きで字が変わるんですよ。
富井:そうですね。風で動くと、見る角度によって変わるので。
刀根:そうそう、だから風で動くと変わるでしょう?その「セディーユは微笑む」が「La Vache qui rit」に変わるわけ。
由本:それが、受け手が、コンセプチュアルすぎてわからなかったって。
刀根:みんなあんまり目につかなかったんだ。一応僕はポスターに「La vache quit rit」のバッジをつけた男に望遠鏡を借りて見てください」っていう文章を入れてたんだけど。貼っといたんだけども、あんまり目につかなかったんじゃないかな。
富井:だってまぁ、飛行場けっこう広いところでしょうから。前に一回、刀根さんにお訊きしたことがあったと思うんですけれども、「アヴァンギャルド•フェスティヴァル」、ヤンキー・スタジアムでやってますよね。
刀根:シェイ•スタジアム(Shea Stadium)
富井:ああ。シェイですか。
刀根:あれはねぇ、失敗だった。
由本:1974年の前の年ですね。
富井:フェスティヴァル自体が?
刀根:あ、いやいや、僕が。あれは松澤(宥)さんに頼んで、松澤さんのメッセージをシェイ•スタジアムで……
富井:電光掲示板かなんか?
刀根:電光掲示板は出したんですよ。それで、パブリック・アナウンスメントのPAがあるでしょ。PAに松澤さんの声で、「人類は消滅する」ってやってもらおうと思って、ところが、時差があるでしょう。それで、待ってたの。一応は交換台には頼んであったんですよ。「日本へ電話するから、電話したらそのメッセージ、声をPAに出してください」って。 したらさ、交換台の人はもう8時になったら帰っちゃっていないんだよね。あれはほら、昼間じゃ目につかないから夜でしょう。
富井:そうですね、電光掲示板だから。
刀根:だから暗くなるまで待ってたの。それで後で聞いたら、松澤さんはずっと待ってたんだって、僕から電話あるの。
富井:そうでしょうね、まじめな方だから。
刀根:うーん、悪いことしちゃった。
富井:それは、刀根さんの作品だったんですか。
刀根:そうです。『Communication with Mr. Ψ』という、
富井:じゃぁ松澤さんとコラボレーションみたいな。あるいはオール・プロデュース?
刀根:松澤さんのメッセージを内容とした僕の作品です。
富井:なるほど。
由本:コミュニケーションを元にしたプサイ芸術になってる。この頃、マース•カニングハム•ダンス•カンパニーにも音楽を何度か作曲されてますけど。この協働の仕方っていうのがほとんど……
刀根:そうですね、それは日本のダンサーの作品と全く同じやり方でできるってんで、じつに好都合で。
由本:こちらの方の受けはどうでしたか。
刀根:最初はどうだったんですかね。でも、ケージがそれを見たおかげで頼んでくれたから。全体の受けはどうか知らないけれども。
由本:何を頼んでくれたんですか。
刀根:えーと、1979年にアメリカのダンス•フェスティヴァルで。それまではダンサーにコリオグラフィー(choreography、振り付け)を委嘱する形だけだった。ところが、シェルダン・ソスファーっていうプロデューサーがね、新しくMAD(Music and Dance)っていうプログラムを作ったの。つまり、コレオグラフィだけじゃなくて、音楽も一緒に新作をコミッションしましょうという。その時に、《ジオグラフィー・アンド・ミュージック(Geography and Music)》をやって。そうしたらケージが僕んとこに電話かけてきて、やらないかっつって。
由本:それは、それは。
刀根:それはねぇ、よかったですよ。けっこう作曲料もくれて、何千ドルだったかなぁ。キャップスが3000ドルのときにね、5000ドルくらいもらいましたからね。
由本:That’s a lot!
刀根:それで、ロイヤルティー(royalty、著作権料)が、一回演奏する毎に45ドル入って。だから、1年なるとなんかまた何百ドルか、500ドルとかさ。で、8年ぐらい続いたろうね、レパートリーで。
由本:マース•カニングハム•ダンス•カンパニーがそれを続けて演奏して?
刀根:ええ。それで《ジオグラフィー•アンド・ミュージック》は評判になって。わりと評判よかったですけどもね。
由本:ええ、8年続けたくらいですからね。ちょっとプラクティカルな質問になってしまうんですけど、1年しかいないつもりで行かれたっていうことは、観光ビザで行ったんじゃないですか?
刀根:いや、えーと、ジャーナリストのビザです。
富井:そうですよね、批評というか、執筆なさってましたもんね。じゃあそれを延長していったわけですか。
刀根:そうです、延長したんです。最初のときは、マチューナスがイミグレーション(移民局)にコンタクトしてくれて、彼はスポンサーじゃなくて、ロイヤー(lawer、弁護士)みたいなふりをして。ローブックを手に提げて。
富井:ひっひっひ(笑)。
刀根:すると、スッと延ばしてくれたの。
富井:そうなんですか!
刀根:わりとさ、次がどうなるかなぁって。
由本:何年おきぐらいなんですか、3年おきぐらい?
刀根:その後ね、今度は一度日本へ帰って。ってのは、最初にスポンサーにしてくれたのは『美術手帖』だから、また(ビザの書類を)もらいに行ったのね。
富井:それ、1978年くらいの話しですか?
刀根:1979年ですね。
由本:大分後ですね。それまで全然日本に帰らずですか、じゃあ。
刀根:帰んなかったんですよ。初めて帰ったの、1979年に。
由本:ええ、すごい。
刀根:帰る前にちょっと旅費をつくんなきゃいけないと思ってね、探偵小説の翻訳をやったの。
由本:色んなことやって(笑)。
刀根:あれ、誰だったけな。わりと有名な推理作家だよね。名前いくつか持ってる人で、それはジャズ小説なのね。エヴァン・ハンター(Evan Hunter)だった。日本では「87分署シリーズ」のエド・マクベイン(Ed McBain)のほうが知られているよね。
由本:そういうものがあるって知らなかった。
刀根:うん、でもくたびれ儲けだから、翻訳って。
富井:力仕事ですから、あれは。
刀根:えっとね、二百何十枚かを10日ちょっとで……
富井:おお、超スピードで、お金儲けですね。その後、またジャーナリスト・ビザですよね。グリーンカードに切り替えなかったんですか?
刀根:グリーンカードはねぇ、1986年まで切り替えなかったんです。
富井:そうですか、遅かったですね。
刀根:遅かったんです。もうね、グリーンカードを申請する頃は、「stay of extension」 って、(アメリカから)出さえしなければいつまでもいられるっていう。でもつまらないでしょ、外へ行けないと。だから1986年に審査して、86年の終わりにもらったんだ。
由本:1978年のマチューナスが亡くなった時のことは、何か思い出とか、特にありませんか。
刀根:彼の思い出はだから、イミグレーションについてってもらったりとかね、彼は親切で。
由本:『Mr. Fluxusミスター•フルクサス』(Mr. Fluxus: A Collective Portrait of George Maciunas, Thames and Hudson, 1998)に書いてらっしゃる。
刀根:ええ、書いてましたね、あれが英語で書いた初めての文章じゃないかしら。
富井•由本:(同時に)ええ、そうなんですか。
由本:だいぶ後なんですねぇ。その後、フルクサスはどうなると思われました、1978年当時は。
刀根:いやもう、あのね、僕は既にフルクサスではないと思ってましたからね。
由本:だから、そのあとKitchen(注:当時はソーホーにあった、実験的なアートやパフォーマンスのための非営利スペース)でフルックスのコンサートが開かれたりとか。
刀根:その時は、ものすごいお客が来てね、あそこのBroome Streetから、 Wooster (ストリート)まで回ってぐるっと一回りお客が並んじゃって。僕は中にいたから知らなかったけど。んで、だから入れなかった奴から嫌みを言われて、「ソーホーにアートワールドのスターが来た」とか言って。
由本:それはマチューナスが亡くなったことと関係してるんですか。
刀根:でしょうね、マチューナスが亡くなったから、出来たってことを聞いた。マチューナスのお葬式の直前にMoMAのライブラリーでフルクサスのショーがあったんだけども、ライブラリーですよ。マチューナスのお母さんに、「こんなミュージアムなんか入れて、ジョージはどう思ってるんですかね」って言ったら、「あんなのは、もちろんジョージが生きていたら反対してますよ」って言ってたけど。
由本:その後に色々フルクサスを見直す展覧会が世界各地で行われるわけなんですけれども、その度にアーティストが集まって、フルクサス•コンサートをしたりするっていう、その状況についてはどう思われます?
刀根:まぁパフォーマンスだけをとってみたら、「フルクサス」っていう括弧つきだけどね、「フルクサス」のメンバーであっても、そんな不自然ではないですよね。ただ、「フルクサス」って名前付けたのはちょっとおかしいんじゃないのっては思いますけどね。ジョン•ヘンドリックスなんかは「フルクサス」はマチューナスが生きていた間だけの話だっていうふうにしたでしょ。だからディックには僕は「フルクサス」なんてのは1964年で終わってんだって。
由本:1964年に。
刀根:ってディックに言ったら、「ジョンのより厳しいんだな」って(笑)。
一同:(笑)
由本:なるほど。そういうお気持ちの場合は、この間のMoMAのコンサートは複雑な心境でやってました?(“Tokyo: Experiments in Music and Performance,” January 10, 2013 at the Museum of Modern Art. http://www.moma.org/explore/multimedia/videos/5/1356)
刀根:えっとね、「フルクサス」って別につかないでしょ?
富井:あれは、刀根さんのコンサートだったんですよね。
刀根:うん、僕のコンサートだったし、個人コンサートだった。
富井:ナムジュンなんかのも友情出演かなと。
刀根:招待作品ですよね。だから、他人のは別にやってもいいと思う。
富井:作品自体も別にフルクサスというわけでは。
刀根:だって、フルクサス以前の作品でしょ。だからそういう意味では、ずっとパフォーマンスしてきてもおかしくないと同様に、「フルクサス」をつけなければ、僕はいいと思っているんですけど。それともう1つは、久しぶりですよ、他人を使って演奏するってのはあんまりやってないから。
富井:ああ、即興とか。
刀根:ほら、ずっと僕、ソロでやってきてんですよね。
富井:こないだはかなり大掛かりでしたね。アンサンブルが常に一緒に動きながらお仕事してたって感じで。
刀根:それに楽器を揃えるのも大変だしね。
富井:音響もよかったですよね。
刀根:だから、そういう点では大変感謝してますけどね、やらせてもらって。
富井:でも面白かったのはやっぱり、いわゆるノイズ•ミュージックの即興の時に、皆さん一生懸命はりきってやっておられる中で、刀根さんが一人平然とコンピューターをいじっていた。
刀根:そうですか。
富井:なんかこう、ほぼ平然となさっててね、他の人はけっこう、一生懸命アクションが入ったりとか、ジェスチャーが入ったりして、激しいんですよね。
刀根:そうですか。
富井:そう、もうノイズと同じでけっこう激しいんですけども、刀根さん本当にねぇ、ひっそりと座ってらっしゃいましたね。
刀根:あ、そっ?
富井:でもその代わり、あれってすごい音出してるんだからって思いましたけれども。コンピューターから出るんですよね、刀根さんの作品は、あれは?
刀根:そうです。
由本:1976年の《Voice and Phenomenon》以降、テキストを導入された作品が多くなってきて、それが今も続いている感じなんですか。
刀根:今も続いています。全部僕の出す音っていうのはテキストが元になってますね。テキストといっても、たまに英語のテキストも入るんですけど、それは例外ですよね。ラカンの『エクリ(Écrits)』(1966年初版)の中の、エドガー•ポーの「盗まれた手紙」に関する「Seminar on the Purloined Letter」というテキストと、僕がそれにテキストを足して使ってますけどね。それからもう1つは、デリダの「Introduction to origin of geometry」(邦題「 幾何学の起源 」)という、それはフッサールのThe Crisis of European Sciences and Transcendental Philosophy(邦題『 ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 』)っていう本があって、それもアペンディックスに20ページばかりの文章があるんですよ。それにデリダが1冊の本をイントロダクションにして付けた本があって、そのテクストと、図形楽譜の譜面でかいたハープの曲がもう一つ。それからもう1つは、デリダのGlas(邦題『弔鐘』)ていう本があるんですけど、それを僕がドイツ語を英語に訳して、トム•バックナーっていうバリトンの歌手が、フランス語を英語に訳して、それで演奏したけれども、その3曲ぐらいで。もう一つは、逆に音楽によってテキストが発生する作品、それは、バーバラ・ヘルドというフルーティストの為の曲で、フルートのメロディーによって、英語の俳句が発生する作品です。それ以外は、全部、漢字で書いたテキストをイメージにして、それをスキャンして……
由本:もっと最近の詩経とか、万葉集とかですね。
刀根:詩経とか万葉集はもっと前ですね。スキャンして、デジタル化したものを使ってんですよね。
由本:ビジュアルを集めるのが大変だったそうですね。
刀根:えぇ、これはものすごい大変でした。
由本:それだけで、1年以上かかりそうな。
刀根:もうほんとね、ものすごくかかったですね。最初やったときはそれでも、詩経は詩ですからね、比較的文字の数が少ないんですよ。
富井:なるほど、そうですか。
刀根:ええ、「比較的」だけどもね。それでも僕はモントリオールのマクギル・ユニバーシティの電子音楽スタジオで作ったんだけども。そうですね、一月と一週間くらいです。夏休み、学生が戻ってこないうちだったら自由に使えるっていうね。
由本:それはこの1990年代の作品ですか。
刀根:そうですねぇ、1990~92年ですけどね。それがだから僕の最初のコンピューター ミュージックですね。
由本:その頃、古典文学を積極的に取り入れ始めたのはどうしてなんでしょうか。
刀根:それはねぇ、1976年の《Voice and Phenomenon》のからなんですよね。それは偶然なんですよ。例の東京禅ブックストアっていうのが、フィフス・アベニューにあって、そこ見てたら白川静の「漢字」っていう岩波新書が。それを買って見てたらものすごい面白いしね、これは作品に使えると思って。漢字がイメージになるというプロセスというのは、普通はね、知らない人は、例えば「空」だったら「空」の写真撮れば済むと思っているらしいんだけども、そうじゃなくて、漢字を分析しなきゃいけないですね。で、分析するためには、白川さんはどういう方法を使ったかというと、「聞一多」という中国の古代民俗学的な研究方法の影響により 、この文字はどういう儀式だとか風俗だとか、そういうのに関連した文字だということを学んだんですね。例えば、「方向」の「方」という字は、これは「地方」の「方」ですよね、同時に。何かっていうと、例えば、基地なんかの境界線なんかに敵の捕虜を殺して、それ境界線に磔にして。
由本:そういうイメージ。
刀根:磔にすると、死者の霊が、ここからいくとお前危ないから来ない方がいいよっていうんで、その境界をね、保護できるという。そういう一種の古代の風俗に基づいている訳です。そうやってみると、「方」っていう字を古い形で見ると、本当にここが磔で、死ぬとこう顔が傾いているでしょう、だから首が傾いて。
富井:あ、だから「てん」(ヽ)なんですね。
刀根:うん、そう。手で書けばわかるんだけどね。そういう字なんです。だから、「空」は空、「家」は家の写真撮りゃぁいいってもんじゃなくてね。
富井:じゃぁ、語源的っていうのは字源的に。
刀根:字源学ですよね。語源じゃなくて。っで、例えば「家」という字だと、上のウ冠が、家の屋根なんだけども、その下にイノシシを置く。
富井:豚の?
刀根:豚ですよね、あれは。それに刃物でこの下という、これが入ってるわけなんです。家でその家の中に悪霊が入ってこないように、そういう豚を祀って地面を収めるっていう部分をもとにした字だと。そういうようなあれだからね、「家」という文字がでてくると、イメージは中国のお寺かなんか建物の屋根と、それから豚の死骸みたいなものを組み合わせると、「家」という文字になるんです。それを、2枚の写真をスキャンして初めて「家」という一字になる。
富井:なるほどね。
刀根:だからね、まず字源の解釈から始めてたいへん時間がかかって。
由本:それはリングイスティック(linguistic)な側面がすごく。
刀根:だからプロセスがすごく面白いんですよ。
由本:そうですよね、やり始めたら。
富井:そりゃ、「家」だから家の写真とりゃぁいいんだったら、かなりシンプルですけど、そうすると、そこに1枚もう1つ歴史が加わってくるわけですよね。それも1つの歴史じゃなくって、色んなレベルでその字が関わってくるわけですよね。一回切りで、全部ができたわけじゃないでしょ。それぞれの形成の歴史があると思いますので。
刀根:ええ、そうですね。まぁだいたい、甲骨文字から金文って、青銅の、文字にかけての時代っていうのは、かなり社会変化がありますからね。金文で選んだり、甲骨文で選んだりすると、字体も違ってきますから。
由本:最後にお伺いしたいのは、いつもニューヨークに在住している作家さんにお伺いしているんですけれども、ニューヨークに住んでいることによって、どういうふうに制作活動が変化したか。かなり大まかな質問なんですけど。桜本さんのインタヴューでは、「アメリカの中でも国内亡命している」とか、「異物として棘のように突き刺さっていないと移動した意味がない」というような面白い発言をなさっているんですけど、そういう態度は最初からあったんですか。
刀根:ええと、だんだん、(ここに)いる間になってきたんでしょうね。
富井:先ほどからお聞きしていると、かなりインボルブ(involve 、関わって)してた作品の活動もいろいろあったみたいなんで。
刀根:ええ、ただその、たとえばフルクサスの中でやるとしても、僕じゃなくても済むことはいっぱいあるわけでしょ。
富井:パフォーマンスするなかで?
刀根:うん、だからそういう意味ではなるべく、僕じゃなきゃ、つまり、僕がやって自分に意味があることじゃないと面白くないから、どうしてもそういうふうにならざるを得ないと思う。ちょうどさっき言った、アメリカン・ダンス・フェスティバルってのは、ダーラムであったんですよね。ダーラムのデューク・ユニバーシティーで。で、パフォーマンスの後のパーティーでね、パーティーに来たお客さんの1人から「日本みたいに文化の異質なところから来てね、適応するの大変でしょ」っていわれたわけ。僕は、「うん、だから適応しないことに決めた」って言おうと思ったら、デヴィッド・テュードアが横にいて、「彼はものすごく適応してますよ」って。
富井:言われたんですか(笑)?
刀根:言われちゃったんで、そういえば、その適応するっていうのはそういうことで、異質であることが、適応したことになるかなって思ったんですけどね。
由本:ニューヨークだと通用しそうですけどね。
刀根:うん、ニューヨークでは通用するでしょ、それがね。ただ僕は、田舎行ったら無理だよね。
富井:そういうコンセプト自体がないですから。
刀根:ないですからね、うん。それは日本だってそうですよ、田舎行ったらね。昔さぁ、英語をしゃべるのたいへんでしょうとか言った、それは当然なんだけども。例えば、日本でもね、トヨペットのセールスマンとしゃべることに比べたらさ、こっちのアーティストと英語でしゃべる方がほうがずっと楽なんだよね。
富井:そうですねぇ(笑)。
刀根:そうでしょう。
由本:それで、気がついたらずるずるといたということだったんですか。
刀根:そうですね。
由本:そうじゃ、1978年と1980年、けっこうバラバラとしか帰られてないんですか。
刀根:1979年に帰って、1981年に帰って、その後ね、1983、84年なんかも、わりと帰ってるんですよ。えーと1985年はなんで帰ったかな?
由本:まぁその頃はバブリーな時代でしたからね。
刀根:そうですね。
由本:招待もあったでしょう。
刀根:招待はねぇ、なかったと思うんですよ。当時は僕は忘れられてたんだと思うんですよ。
由本:1980年代は?
刀根:うん、80年代はね。で、ほら日本は景気がいいからさ、アメリカなんてばかばかしくて行けないと思ってたんじゃない、みんな日本の人は。
由本:そうですねぇ、おまけに1960年代の見直しは1990年代ぐらいまで始まらないですからね。この辺で終わりにしましょうか。
富井:何かもし、どうしてもおっしゃっておきたいことがあれば、この機会ですのでおっしゃっていただいても。じゃあ、長い間どうもありがとうございました。
刀根:どうも、はい。
由本:ありがとうございました。