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磯崎新オーラル・ヒストリー 2012年4月1日

東京都港区元麻布、磯崎新自邸にて
インタビュアー:辻泰岳、中森康文
描き起こし:成澤みずき
公開日:2014年3月11日
更新日:2016年1月31日
 

中森:《ホワイトハウス》(注:磯崎が設計した吉村益信のアトリエ)での赤瀬川(原平)の結婚パーティーの話がありましたから、そのあたりからですね。まずネオダダ(ネオダダイズム・オルガナイザー)関連のいろいろなイベントがありましたよね。《ホワイトハウス》での集いがその一つだったでしょうし、美術家としての磯崎さんの活動はどうだったのかという質問に関しては、オブザーバーであって自分ではそれほどたくさん作品は作らなかった、いうお話がありました。ネオダダ(ネオ・ダダイズム・オルガナイザー)のいろいろな展覧会ですとかパフォーマンスがありますよね。それは時にはそういったイベントを主催する立場にいらしたでしょうし、例えば吉村さんがニューヨークに行った時は、「サムシング・ハプン」(注:「NEO DADA + TANGE’S TEAM : Art + Architecture + Dance…Something Happens」、大和村(駕籠町の元磯崎新宅)、1962年8月25日)ですよね。渡米のための壮行会を磯崎さんが企画なさったりとか、ネオダダとの関係について、もうすこしお話いただければと思います。

磯崎:どっちにせよ昔からの付き合いで、あげくにホワイトハウスの原型のようなものを僕がつくったというのは思い出したんだけど。思い出したというのは、ぜんぜん僕は忘れていたことなんですね。赤瀬川原平が最初に1960年前後のいろんな物語を書いて(注:赤瀬川原平『いまやアクションあるのみ!読売アンデパンダンという現象』(筑摩書房、1985年)、『反芸術アンパン』(筑摩書房、1994年)に所収)、そして片っぽで、その後似たようなものを篠原有司男(1932〜)が書いて。この2冊がおそらく60年前後のネオ・ダダ関係の資料の原本のようになっていると思います。

辻:『前衛の道』(美術出版社、1968年)ですね、篠原さんは。

磯崎:そうです『前衛の道』。原平は何だっけ?その原平の本で僕がホワイトハウスを設計したというのを書いてあったって。そうだったっのか、と僕は思い出した。それでその件については、ちょうど1年前の震災(東日本大震災、2011年3月11日)の直前の時に、藤森(照信)、赤瀬川(原平)の2人が見に行って。それで藤森から連絡がきて。吉村(益信)は来れるかどうかわからないけど、この中(ホワイトハウス)に行って、現地で話がしたいと。ということになったから、吉村も来てくれたというので。そういうことの中から、僕は時々いろいろな催しやら何かがあると、吉村から連絡が来て、出てこいということで出て行ったというのが、1960年頃までで。そして家に行くと、もう不思議な連中がうろうろし始めている、というのがあって。それで吉村が、そうですね…… どっちなんだろう? 読売じゃなくって、もう1つの方のアンデパンダン、日本アンデパンダン。靉嘔(1931〜)もそこにいたと。靉嘔と吉村というのがちょっと似たような雰囲気で油絵を描いていたという記憶が僕にはあるんです。靉嘔、今やっているのかなあ(注:「靉嘔 ふたたび虹のかなたに」展、東京都現代美術館、2012年2月4日〜5月6日)。群像でざーっと人が並んで歩いている、向かって来るあの感じのやつ(作品)がありますね(注:《田園》1956年)。吉村の当時の絵というのはそういう感じの雰囲気がちょっとあったんですけど。そのうち彼は篠原と付き合いはじめて、篠原のアナーキズムにもう完全に乗ったところから、周りのやつらも全部変わっていったというので。僕の感じで言うと、篠原の方が一番始まりはネオダダがラディカルに動き、いろいろやっていたんじゃないかということですね。

中森:ラディカライズする動きに対してですね、段々距離を、磯崎さんは建築家として活躍なさるわけですから、やっぱり距離が出て来るわけでしょうか。

磯崎:僕はそういうかたちで、つまりプロフェッショナルに絵描きなろうという、こういう気持ちは全然無かったんですね。それでなんか絵を描くというグループで自分で絵も少し描いていたという、そういうぐらいの印象ですから。まあ絵描きというよりは、建築家になるには基本的にデッサンだけじゃなくて、すこしは絵も描かなくてはいけないだろうし。まだコルビュジエが何をやっていたかというのは知らないわけですよ。そうこうしているうちに学生の頃だったと思うんですが、『ニュー・ワールド・オブ・スペース』(注:Le Corbusier, New world of space, Boston: Institute of Contemporary Art, 1948)っていう、彼の確かあれはMoMAのカタログを再編したものですかね。これを読んで僕はいたく(感銘を受けた)。 丹下さんはコルビュジエの作品集を読んで見ていたというのはわかっているんですけど。そういうのとは違うコルビュジエのこの本の編集されたコンセプトというか、それで建築というものが何だかすこし理解できたという印象を自分では持っている。やっぱり絵がそこに介在しているわけですね。建築も都市も一緒なんですよ。これが僕なりの理解だったんですね。そしてもう既に美術の時代で考えれば、その時には日本ではポロック(Jackson Pollock, 1912〜1956)がすこし紹介されはじめた時期だし。マーク・トビー(Mark Tobey, 1890〜1976)というちょっと東洋風と言われた画家がいて。そして日本に今井俊満(1928〜2002)がサム・フランシス(Sam Francis, 1923〜1994)とマチュー(Georges Mathieu, 1921〜2012)という2人を連れて日本に帰って来たわけですよ、パリから。これはだからアメリカ経由じゃなくてパリの抽象表現なんですね。抽象表現、それをタシズムって言ったりそれからアクションペインティングはアメリカから来た言葉ですから……

中森:アンフォルメルですか。

磯崎:アンフォルメルって言ったわけですね。そのアンフォルメル旋風っていうのが日本にあったと。それでここからは僕もこれはファッションとして見に行ったりしているから(笑)。マチューの実演とか。やっぱり篠原も多かれ少なかれこれに影響されたんだというように彼の自伝を見てもわかりますね。ですからこれが僕らのあの時代の一つの、何て言うのかな、気分だったんですね。僕は彼らが行くって行ったのと違う感心を持っていたというふうに思います。そしてまた、つまり60年に彼らがいろいろネオ・ダダを始めようという頃に連絡がきて。やっぱり彼らは「オルガナイザー」と称してたわけだから、オルガナイズしていくということで。最初は確か吉村が「オールジャパン」とかいう名前を付けていたと思うんですよ。それであいつは相変わらず、お前はナショナリストだということを僕は言った記憶があるんだけど。もとから、ようするにモダニズムというよりは、どちらかというと禅修行をやるようなかたちで絵を描くという。こういう気分を持っていた男なんですね。左翼とは全く無関係な理屈で、自分でやっていたことは知っていたんですけど。そういうので右左入り乱れている中で(の出来事)ですけど。それで突然、アメリカとフランスのアクションペインティングが日本に登場したと。その時にいろいろアクションそのものというものを、いわゆるスタイルとして見た人はあまりいなくてですね。これをどういうふうに理解するかという時に、結局やっぱり篠原有司男のボクシングペインティングとか、ああいうアクションそのものが表現だという。だから結果よりもドリッピングとかなんとかっていうのでその後は言うわけだけど。こういう感じじゃなくて、ようするに肉体自体のアクション自体が作品だと。こういう解釈をしたのがやっぱりネオダダのベースにあった。これはその後にアメリカのパフォーミング・アーツをカプロー(Allan Kaprow, 1927〜2006)が整理したああいう感じのもの。それから読売アンパンのあらゆるアクションが入っているんですね。

中森:大阪の具体(美術協会)なんかもありましたよね。

磯崎:具体はそれを早く理解していた。だけど具体についてはむしろ客観的には情報は(なかった)。あれはフランスの批評家で今井(俊満)が連れて来たミシェル・タピエ(Michel Tapie,1909〜1987)。この人なんかは具体までいっているんじゃないかと思うんですね。そういう感じでいて。吉原治良さん(1905〜1972)は二紀会の人で。斎藤義重(1904〜2001)も二紀会の人で。戦前から両方やっていたわけですね。吉村(益信)や我々の感じで言うとこの2人の作家、具体の吉原治良、まあ息子もいたし。いろいろ、風船みたいなやつでぶちやぶる人とか、いろいろいたよね。

辻:村上三郎(1925〜1996)とか。

磯崎:村上三郎。こういうような人たちの流れと、あとは東京っていうのはストレートにわけわかんないままやりはじめた流れと。

中森:そういうテンションを感じてましたか。そういうネオダダがいて、大阪には具体がいて。具体のものを見に行ったりとか。

磯崎:それにそのうちそれに一番早くこの流れにギャラリーで飛びついたのが東京画廊。東京画廊にあれがいたわけです。この両方が斎藤義重と吉原治良、両方いたわけで。その中から、ネオダダの周辺から何人かピックアップされた。そうすると東京画廊のわかれに南画廊というのがある。今度は南画廊がまたそれなりにピックアップするんですけど。南画廊の方は東野芳明(1930〜2005)と大岡信(1931〜)と、この2人を入れているんですよ。東京画廊はいずれは中原佑介(1931〜2011)と、ときどき針生一郎。こういう御三家を2つに分けてやっていたというのがあってですね。南画廊はサム・フランシスが東野の関係で行ったために、アメリカ系列になっていくんですよ。東京画廊はどちらかというと土着系なんですね。ですからそのうち東京画廊は李禹煥(1936〜)みたいな感じの、かつエコール・ド・ソウルというふうに言われていた。李禹煥も同じレベルで、もうすこし早くあの体の仕事をやっていたのはソウルの連中で何人もいる。これみんな東京画廊。こういう具合で2つ、東京の中で1960年代の流れができてくる。僕はいつの間にか両方(付き合いがあった)。建築家というのは立場がニュートラルになっちゃうので。絵を描いてないから両方から呼ばれるわけですよ。それで東京画廊はあそこで展覧会やる、つまりインスタレーション。例えば磯辺(行久、1935〜)とか……

辻:これですね(注:「磯辺行久(第3回展)、東京画廊、1965年6月」『東京画廊の40年 Document 40』1991年)。これは磯崎さんのデザイン(会場設計)ですか?これは後の《エレクトリック・ラビリンス》(ミラノ・トリエンナーレ、1968年)に近いです。

磯崎:近いですね。この時はもう非常に簡単で、あいつ(磯辺)はワッペンやっていたんですよ。それで展覧会で入らないって言うから、それならこういう出来合いのガラスサッシですよ、ガラスサッシのフレームをそのまま持ち込んで、そこで扉のように作品を10キロくらいのものをどんどんやって。それでこれ(サッシのフレーム)をこうやって順々に本をめくるように。日本で言うと雨戸の(笑)。

中森:インタラクティブなわけですよね。入って来た人がそれを動かすんですか。

磯崎:動かす。組み合わせもどんどん変えられるという。

辻:観客との関係ということですか。

磯崎:そういうことですね。それをたまたまやって。まあ磯辺と付き合いはじめた。それからもっと後、吉村なんかがやった時もここでやりました。3、4回付き合ってます。だけど杉浦康平(1932〜)はここでカタログ(グラフィック・デザイン)をその頃からずーっとやっていた。

辻:他にもネオダダとどういうふうに関わったかというと、会場構成ですか。

磯崎:僕は会場構成というので作品は入らないと。入らないということにしてあったんですね。それでネオダダには僕のところに、僕は整理が悪いから残ってないですけどネオ・ダダの夜のパーティーのぼけた写真、どっかアトリエに2、3あったんだ、僕自身の(撮影した)やつ。ただそれはもうネガももちろんわかんないんですけど。素っ裸で躍っている写真とかというのは僕、1、2枚撮った記憶がある。そういうような付き合いだった。だからよく行っていたということですね。それだけのことですけどね。それがあって。作品を出すというつもりはなかった。ところがそういううちに、東野がいろいろと付き合って。最初まあ残っているのは、「反芸術是か非か」という、論争があったわけですよ。ブリヂストンでパネルディスカッションで(注:公開討論会「”反芸術” 是か非か」、ブリヂストン美術館ホール、1961年1月30日、司会:東野芳明、パネラー:池田龍雄、磯崎新、一柳慧、杉浦康平、針生一郎、三木富雄)。そのパネラーに呼び出されたというのが一つあって。この記録はいろいろあるから。工藤哲巳(1935〜1990)やら針生一郎やら、三木も出ていたということがありますね。その時に僕は何を喋ったか覚えてないんだけど、アメリカから帰って来た直後だったから、ニューヨークを回ってきたんですよ。

中森:最初のニューヨークですね。

辻:1963年ですね。

磯崎:1963年に僕はニューヨークに行って。

辻:初めはそうですね。

磯崎:それで1964年も行ったんだ。その是か非かの展覧会は、どちらか覚えてないんですが、その帰った直後で。みんなようするに手の痕跡を消すとか、いろいろなことを言っているわけですよ。僕が言ったのは、いやそんなことはないと。リキテンシュタイン(Roy Lichtenstein, 1923〜1997)がステンシルでこうやって絵を描いたように見えるけど、僕の見た限りにおいては、あいつは漫画を単純に拡大して、点は手書きで全部(描いていて)、ステンシルではないはずだというのを俺はちゃんとこの目で見てきたというのを(言った)(笑)。だからあれはポスターじゃなくて絵だと。手で描いてるよっていうのを僕はその時に言った記憶がある(注:リキテンシュタインはその後ステンシルも用いるようになる)。

中森:素晴らしい発見ですね、それはね。

辻:「発注芸術」という言葉が、当時はあったと思います(注:「色彩と空間へ」展(南画廊、1966年9月26日〜10月13日)を企画する際に東野芳明が使用。磯崎新、山口勝弘、アン・トゥルーイット、サム・フランシス、田中信太郎、三木富雄、湯原和夫、五東衛(清水九兵衛)が出品。東野芳明「色彩と空間展」『美術手帖』276号、1966年11月)。

磯崎:発注芸術論争というのがその頃に出始めて、反芸術もそれのうちなんですよ。まあ僕はパフォーマンスっていうか身体性みたいなものが関わったというのが、一番僕にとっては関心事だったんですけど。行為の痕跡みたいなものですね。それが行為の痕跡となってきたら段々結局ポロックに戻って行くわけですけど。まあ僕自身がいろいろ理屈を別に考えずに建築のプロジェクトをやっていくと、いつのまにかポロック風に見えて来るというような話がいろいろと出てくると思います。それで僕は初めて『空間へ』(美術出版社、1971年)で文章をいくつか書いたのは、あれはほとんど書いた物を全部載せたように思うんですけれど、その中でいつもポロックは参照しているというのを自分でもわかって。その頃は本当の一番、今から考えてみて関心を持ったのはポロックとケージ(John Cage, 1912〜1992)だったわけですね。これはどういうことかというと、○○派とかイズムというように批評家がつけるけど、そういうことは言ってなくて。ケージっていうのはチャンス・オペレーション。チャンス・オペレーションというのはようするに一種のゲームの理論みたいなものじゃないですか。ようするにそれは芸術の流派の、何とか主義、社会主義リアリズムとかイズムではないと。単に制作するやり方を言っているにすぎない。それからポロックもドリッピングですから、言ってみれば落とす痕跡であって、自分が歩いた跡、手の跡だけなんです。ドリッピングって言っているということは、アクションって言っているということが一番重要で。つまり理論としてイデオロギーのようなかたちで問題を立てて描いた絵というのは、僕らから見るとスターリニズム以来の社会主義リアリズムとか、キュビズムとか、ヨーロッパのいろいろな近代モダニズムのセオリーだったわけだけど、これを切る方法というのはそんなイズムを外して行為だけに還元してしまうという、このことなのではないかというのが僕なりに連中と付き合って理解をしてきたことで。これを僕の都市とか建築の方法に、全く対極的になるけれど取り込めないかというのが始まりと言えば始まりなんですよ。ですから近代、モダニズムというのは、いろいろ勉強していたわけですけど、それからどう抜けるかということが一番の問題だったわけです。

中森:先にいわゆるそういったことからポストモダンへの移行が始まっていたと考えていいのでしょうか。モダニズムからの解放ですよね、ある意味で。

磯崎:まあ、ある意味では。

中森:オリジナリティとか、イズムからの解放ですよね。

磯崎:まあそういうことはある程度理屈にはならないし、その時代に説明が通用するとも思えなかったんですけど、まあともかくやった、やるのはこういうことだという。そういう感じなんだよな。

辻:繰り返しになってしまいますが、その実践としてはやはり会場構成という関わりが多かったと思うんですけれど、例えば1966年の「色彩と空間」展だったり、同じく1966年11月の「空間から環境へ」展(1966年11月11日〜16日)には《福岡相互銀行大分支店》(1966)の模型を出品されていると思います。そのあたりのお話をお聞きしたいです。

磯崎:これは南画廊の展覧会「色彩と空間」展が先にあって、2、3ヶ月後に「空間から環境へ」ですね。おそらく僕の記憶では、あの時に東野芳明が南画廊の相談にのって彼のキュレーティングで、最初の展覧会(「色彩と空間」展)をやったわけですね。もちろんサム・フランシスとかみんな付き合ってたわけですけど。そういうことから言うと話がちょっと飛ぶけども、あの頃は日本に草月アートセンターがらみもあってですね。アメリカからジョン・ケージやデヴィッド・チューダー(David Tudor,1926〜1996)が来たと。それは一柳(慧)が連れてきたと。それからこれはどういう順序かわかんないんですけど、サムはずっと日本にいたわけですが、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns,1930〜)がちょっと来てた。それで日本で制作もしたんですが、そのうちの裸の事件を起こしたパーティー(「Something Happens」)から半年後くらいに、実は本郷のアトリエに移ったんですけど。本郷ではまあなんかみんな場所無いから、僕はわりとそこでパーティーをよくやっていて。それで一晩覚えているのは、ジャスパー・ジョーンズがその時徹夜で、最後は朝ゴロ寝を一緒にしたという(笑)。ジャスパーだってそういうレベルだったんですよ当時は(笑)。

辻:1966年にジャスパー・ジョーンズがパーティーで磯崎さんのアトリエに来たということを、靉嘔さんが書いてますね(注:靉嘔「ぼくのために武満さんが音楽を書いてくれた」『輝け60年代 草月アートセンターの全記録』フィルムアート社、2002年)。

磯崎:じゃあ靉嘔もいたんだ。

辻:草月の演奏会の後にそういうパーティーがあったと(注:「空間から環境へ」展のハプニング、草月会館ホール、1966年11月14日。出演:秋山邦晴、粟津潔、一柳慧、東野芳明、勝井三雄、田中一光、永井一正、福田繁雄、横尾忠則、泉真也、塩見允枝子、高松次郎、靉嘔、ジャスパー・ジョーンズ、武満徹)。

磯崎:うん、それはそれでジャスパーがいたと思うんだけどもうちょっと前だ、もうちょっと前にいたと思うんだ。1964年か1965年くらい(注:ジョーンズの来日は1964年5月から7月、1966年にも再訪)。

中森:ラウシェンバーグ(ロバート・ラウシェンバーグ, Robert Milton Ernest Rauschenberg 1925〜2008)が来たのはいつでしたっけ。

磯崎:ラウシェンバーグもいました(注:マース・カニングハム舞踏団の美術監督として1964年11月に来日)。ラウシェンバーグの方がやっぱり当時から大家だったんですよ。彼は日本にうろうろしていたわりにあんまり南画廊グループとは付き合ってなかったんだな。むしろ東京画廊系列だった。それから南画廊側に東野がいたんだ。東野がジャスパーを捕まえたと。ジャスパー・ジョーンズはそこにいてですね、さっきの「空間から環境へ」展の時に、僕はディスプレイのプランを作った。その『美術手帖』の特集号(注:『美術手帖』1966年11月号増刊。製作費の都合上「空間から環境へ」展のパンフレット(展覧会カタログ)の役割を担った)ができたんですが、これの構成刷り、まだ手を入れている時に写真が一応いろいろ入って。確かグラフィックで僕のさっきの模型写真が出るから1枚使うよということになって。それでこれをどこでトリミングするかというのを、(作品の)周りは真っ黒に潰した方がいいだとかいろいろ議論していた時があって。これをずっと持っては銀座のカウンターで、僕らが行くバーがあったんだけど、それでジャスパー・ジョーンズに、何が出ているって説明をした。だから彼と飲んでたわけだ。それでジャスパーは出てないわけですよ。ジャスパーはものすごくプライマリーの、こういう板がこうやってばーんとなっているような、今名前出て来ないけど、消えちゃった人なんかもいるんですけど、そういうのが流行で、出ているわけですよ。

中森:「プライマリー・ストラクチャーズ」(「Primary structures: younger American and British sculptors」展、1966年4月27日〜6月12日)という展覧会がありました。ユダヤ美術館での。

磯崎:それの写真なんかが特集号に入っているわけですよ。それでジャスパーと一緒にこうやって見ていて。ジャスパーが「こんなのダメだ」って言う。半分くらいアメリカのやつがジャスパーは気に入らないわけよ。普段あの人は何もいろんな人のことは言わない人なんだけど、酔っぱらうと、まあ僕らみたいにずっと付き合っているやつにはその時にはいろいろ言うというのは覚えてますよ。ようするにネオダダ的な50年代末のニューヨークのネオダダ的なコンセプトというのは日本に反芸術として入ってきた、その時に。入ってきたんだけど「空間から環境へ」展というのは、その後に山口(勝弘)(1928〜)が光の彫刻を持って帰ったりして、ようするに(東野によって)発注芸術というものでプライマリー・ストラクチャーが理解された。それがちょうど入ってきてこれが展覧会になるという。展覧会組もうよという。それがむしろ「色彩と空間」展のコンセプトですね。それになっていて。僕はちょうどこの大分の建物(《福岡相互銀行大分支店》の設計)をやっていて。これをまだ設計中だったわけですけれど、発注芸術なんだから設計図出せばいいんだとかなんとかというレベルなわけですよ。それでまあ僕なりに考えてみてそこで思ったことは、建築をコンクリートの、つまり50年代のグローバリズム以来の表現ではなくて、(建築における)様式(的な考え方)と切って、光と色彩と空間だけに還元してしまう方法はあり得ないかということをたまたま考えていた時に、東野たちが企画していたんで。「それならまあこれは合っているかもしれないね」と言ったら、引っ張り込まれたというのがいきさつなんですよ。

中森:森美術館の「メタボリズムの未来都市」展(2011年9月17日〜2012年1月15日)で再現したものがありますよね。あれは忠実にできてますか。

磯崎:あれはほぼ忠実です。

中森:あの作品のいわゆる見せ方というのは、1966年の時にはあれは壁に掛けてあったんですか。

磯崎:その通り。あれはその後、僕の木の模型を作ってくれた石黒模型で頼んだんですけど。石黒は、あいつは空中都市のこういうやつも作ってくれて、もうほとんど僕の(模型)は全部作ってくれたんですが。木を使えば細工物は得意だと思ってるけど「今度は全部ペンキ塗るんだ」って言ったら彼はがっくりきて(笑)。俺はそんな(ことはできないって)、しょうがないとかなんとかぶつぶつ言いながら、それでもやってくれたんですよ。(最初に出来上がってきた時は)随分ペンキが一部塗り残し(がある)っていうんだけど、担ぎ込んだという記憶があるんだけど、南画廊(「色彩と空間」展)の時。だからポスター(の出品)とか、カタログは無かったと思いますけれど、設計図しかないわけです。それでやっと「空間から環境へ」展の時に、まともにペンキが塗ってあったという。

辻:素材としてのプラスチックのお話だったり環境工学のお話だったりとか、あとはプレファブリケーションのお話などに、(特集号の)対談の中では触れられています。

磯崎:そうですね。まあだからその時にまだこれはですね、時代から言うとサイケデリックが出て来る前なんですね。LSDなどはそろそろ議論になり始めたかなあと思うくらいの頃ですね。つまりサイケデリックという表現もああいうディスコも無いと(注:1968年1月に日本で最初のディスコ「MUGEN」が赤坂に開店)。アンディ・ウォーホル(Andy Warhol, 1928〜1987)の初期ですから時代としては。それでですね、空間が溶けて行くような、そういう雰囲気の非物質性と言ったらいいのかな。そういう物はあんまり表現として出て来るものはあんまり無かったのに、「プライマリー・ストラクチャー」展、みんなペンキ塗ってあったから。アンソニー・カロ(Anthony Caro, 1924〜)も見たりしたので。これで色でいいというのと、スケールさえあればいいんだというのでこの気分が入って来た。だから筆で描くということがもう馬鹿馬鹿しいような話になってきて。この辺の前後が、いきさつがあるんですけれど。結局1960年代の始めの頃を見れば読売アンパンは1963年までしかやってないですね。それで1964年にはもう止めるっていう通告があっただけで。1964年が、この年が終わりの年になっているということですけれど。反芸術のようにして議論されたのは、またどちらかというと工藤哲巳とか篠原とか、とりわけ工藤ですね。彼らはだからある意味で言うと反芸術的な東野の理論に基づいて、東野がこれをずっとそういうタイトルで押し出したわけですけど。その記憶ではポップがニューヨークで始まってきて、リキテンシュタインなんかが出てきて、プライマリーが出てきた。そういう1964年くらいのその状況の中で、つまりそれまでのアクションの流れとかそういうゴミみたいなジャンク・アートの流れみたいな、この流れと境目なんですね。

中森:そうですね。終焉というか。

磯崎:この境の年が僕は1964年だったと。1965年からガラッと雰囲気が変わっていったという印象がある。

中森:ハイレッド・センター(高松次郎(1936〜1998)、赤瀬川原平、中西夏之(1935〜)のパフォーマンスは1964年だったりとか。

磯崎:あれはまだ1963、64年でしょう。

中森:そして《シェルタープラン》ですよね。あれはヨーコさん(オノ・ヨーコ, 1933〜)がプラクティス的なことをはじめたのが1964年くらいじゃないですか。ですからあのあたりから「反芸術」のものが無くなってくるわけですね。海藤さんのことについて聞きたいんですけど、海藤日出男さん、読売(新聞社)の方ですね。個人的にはお付き合いがありましたか。

磯崎:もうありすぎるくらいありました。この人は、この読売アンパン始めた人ですけど、読売の長、政界の大ボスでナベツネ(渡邊恒雄、1926〜)っていうのがいますね、ジャイアンツの。アメリカじゃあまりわかんないですね。日本じゃナベツネっていうのは有名なの。この人が読売争議の戦争直後にですね、読売の争議の委員長をやったんですよ、左翼で。共産党なんですよ。それの直下にいたのが海藤さんなんだ、というように僕は聞いているんですね(注:海藤は読売ウィークリーのデスク。海藤日出男(インタヴュアー:村上紀史郎)「新しい芸術の推進と運動 展覧会・画廊・瀧口」秋山邦晴ほか『文化の仕掛人』(青土社、1985年)。2016年1月31日更新)。ナベツネは読売でいろいろやった揚げ句に、今や読売のイデオロギーの総大将みたいな感じになっているわけですね。海藤さんは(読売の)文化部に入っていろんなこと、つまり近代の、一種のモダニズムの啓蒙みたいなことをやりはじめて(いた)。昨日(注:2012年3月31日に)言い忘れたんだけど、東大美研の時に読売がマチス展というのをやったんですよ(注:「アンリ・マチス展:礼拝堂/油絵/素描/挿絵本」(注:東京国立博物館、1951年3月31日〜1951年5月13日、読売新聞社も主催となり海藤が展覧会を準備。2016年1月31日更新)。あとゴッホとピカソかな? つまり今でいう有名な連中ですが、最初マチスだった。それでね、猛烈に流行ったわけ。それで僕は読売に行って切符を割引してもらって、それで販売する。切符を仕入れてきてそれで東大で宣伝したんですよ。そうしたらコンスタントに買いに来るわけ学生が。それで1枚いくらか忘れましたけど。何円か1つ売れば、美術研究会の資金になったというので、僕らは「とんとんマチス」と(笑)。とんとんと(部屋に)来るわけですよ、マチスの切符買いに。それでものすごく売れたわけ。それで今考えてみると(マチス展の出品作品は)全部複製なわけですよ。本物全然無いの。つまり日本の啓蒙活動の、戦後の現代美術、近代美術というのはそういうレベルから始まっているんですよ。そしてマチス展があってゴッホがあって。僕らはその時に切符売りをやって稼いだということなんですけど。これが新聞社が何かやる時に、何かくっついて行ったら儲かるかもしれないというきっかけの1つですね。それでおそらくこれであったかどうか覚えてないんですが、僕は始めてこの手の展覧会でちょっとまともな油絵が出ているというので、岡本太郎の《森の掟》(1950)、《重工業》(1949)のどちらだろう、を見たんですよ。

中森:《森の掟》ですね、多分。

磯崎:《森の掟》を見て。それで、それまでは僕は瀧口修造の『近代芸術』によるヨーロッパのいわゆるアヴァンギャルド理論みたいなものは一応そういう筋書きで学んだと。それでもうちょっと他の人の紹介っていうのはたくさんあったわけですけど、まあ瀧口さんのしか面白くなかったと。それと違うアヴァンギャルドではないかと、太郎を見てはじめて思ったんですね。これが僕が太郎という人の仕事に感心を持った一番初めなんですけれど。ですから僕にとっては、日本のアヴァンギャルドのオリジナルというのは《森の掟》だったというように思っているくらいなんですね。太郎の作品の中であれ以来、あれに全部太郎は出ていて。他は一種のポップですから。漫画みたい、今で言うと劇画みたいなんですよ。それで絵は下手なんだな。だけど一種のアレゴリーを表現しようとしているという。この違いが、僕はそういう展覧会を見たのは、これはデパートで見たのかな。

中森:それはもちろん岡本太郎の会場構成をなさった、もっと前ですね。

磯崎:はるか前ですね。そういう中から海藤日出男さんという人に会ったんですが。一番面白かったのは、そういう中を通じて、ようするに海藤さんは瀧口修造に毎週一回、展覧会評っていうやつを1950年代にずっと頼んでいたんですよ、読売に。瀧口さんは真面目な人みたいだからくたびれて1961、62年頃にもうやめたんですよ。どうして瀧口さんとそんなに近づいているかというと、瀧口さんの家と海藤日出男さんの家は、並んで建っているんですよ。

辻:どのあたりでしょうか。

磯崎:これはね、池袋からなんとか線というので行ったあたりで、中央線との間くらいの所ですよ。それでちょっと出ると当時、十三間道路といっていたんだけど、目白からずーっと何とかっていう道路ができたんです。十三間の幅の広い道が戦後始めてできたという、それのちょっとはずれのところにあって。海藤さんは僕が付き合った時はそこから家出をして、東京のどこかいろんな所に、ジャーナリストだからっていうのもあるけどいろんな人の所にしけこんで住み着いていたりして。そこから家には帰らずに、海藤さんの娘さんは、なんかそこで孤児みたいにして育ったんですよ(笑)。娘さんいるでしょう、海藤(和)さん。今批評書いてる。その家出先というのに僕はいろいろ遊びに行ったことがあるから。そちらの(落合の)家には踏み込んだこと無いんだ。その前が瀧口修造さんの家。そしてこの土地は当時『美術手帖』の、美術出版社にいた人の持ち物の土地の1つで。この人は土地持ちだったらしくて「お前たち俺の土地を貸してやるからここで家建てろ」というので、木造の小さい家を造ったというのが始まり。だからそういう関係なんですよね。だから僕は、海藤さんは家出の後だから、知り合ったのはそこには行ってないから。一定の時期はわかると思うんですけども。至る所でだから会うわけですよ。そのうち二川幸夫と一緒に1964年に世界一周(旅行)をして、(その)原稿を書いたのが(注:書いた相手が)海藤さん。

辻:海藤さんのお話の続きで、何年頃がはじめにお会いされた頃になるのでしょうか。

磯崎:やっぱり1957、8年頃だと思います。そして、僕が岡本太郎展の会場構成したのがありますね。

辻:1964年ですね(注:「岡本太郎」展、池袋西武(第1会場)、1964年1月18日〜28日)。

磯崎:これは海藤さんが推薦をしたのと、それからおそらくそういう意味ではっきり覚えてませんが読売新聞が後援か何かをしていると思います。

辻:そうですね、読売新聞です(注:読売新聞社は主催)。

磯崎:それで海藤さんが一種プロデューサー役をやってくれたというようにみてますね。僕はそれで初めての仕事をさせてくれたということですね。

辻:1962年の渡米のための壮行会であった「サムシング・ハプン」という催しでは、ネオダダの方々や瀧口修造さんや海藤日出男さんと合わせて丹下健三さんもいらっしゃっていると思うんですけど、建築の方々との関連というのはあったのでしょうか。

磯崎:おそらくね、丹下さんがまあ唯一50年代の半ばぐらいから建築家として、日本アヴァンギャルドの連中と付き合った唯一の人だと思うんですけども。昨日話が出たみたいに、《香川県庁舎》や猪熊(弦一郎)さんの。その前に岡本太郎というのがあるわけじゃないですか。岡本太郎のポジションというのが、昨日は正確に説明ができていないのですが、日本のアヴァンギャルドの中で微妙なポジションにいたんだというように思うんです。その理由は、日本の、われわれの時代は、教科書にあるようなものというのは、ヨーロッパの正当的な理解というようなものは、瀧口さんの戦争前に書いた『近代芸術』、この本がベースだったわけですね。これはピカソ、ダリまで一応入っていると。それからアンドレ・ブルトンの説明がいろいろあると。瀧口さんの、僕は戦争中に出たブルトンの『シュルレアリスム宣言』を訳した本、文章を見たことがあるけど、大部分が○○○って伏せ字になっている。意味不明なんですけど瀧口修造訳になっているのがあるんですね。まあ戦後は全部復刊されてますからあれなんですけど。その戦争中に瀧口さんがいっぺんそれで捕まっているけれども、その時に戦争中に出たものも伏せ字ばっかりの本だったんだと思うんだよね。それが戦後復刊したのが僕らの教科書になった。今考えるとここで紹介されているのは、正当派のアンドレ・ブルトンまでの、もちろんデュシャン(Marcel Duchamp, 1887〜1968)とかまできちんと入っているその流れであって。ヨーロッパのフランスで、パリでいうならば1930年くらいまでの、まだ《ゲルニカ》が登場するもっと前ですね。その頃までの1933年くらいとまで言ったらいいのかな、ナチが規制する前。それまでのものだったんだと思うんですよ。僕の感じでは1930年代にパリの知的雰囲気というのが、どこでも時代がばっと変わるみたいに変わるわけですけど。1930年代、人民戦線になって左翼化したりそれからナチが出て来たりというので、まあ対独協力の人とかいろんな人が出て来るわけですねこの時期に。結局バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille, 1897〜1962)が出て来る。それからこの時期にコジェーヴ(Alexandre Kijeve, 1902〜1968)がヘーゲルの精神現象学の講義をすると。それはあくまで講義であって本にはなってないわけですから。これは僕らにしてみると、1970年代に僕はミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926〜1984)なんかにパリで会ってるんだけど、その頃はフーコーの1960年代の本の翻訳しか無かったから、1970年代になって彼がやりはじめたネオリベ批判に基づくバイオポリティクスという。その中から展開している理論というのはごく最近になって翻訳が出始めたけど。それやっている頃は無いわけですよ。だけど何か言っているらしいというものはわかっていて。それをいち早く理論化しているのがアガンベン(Giorgio Agamben, 1942〜)とかああいう人たちですから。日本はある意味ではゼロ年代になるほど遅れているんですね。こういう人たち、こういう感じが30年代のパリにバタイユ中心、あるいはその中に岡本太郎は一番末端に、このグループの中に入ったわけですね。太郎はその中でマルセル・モース(Marcel Mauss, 1872〜1950)とか、それからコジェーヴというのがいたのか、みんな書いているんですね彼は。だけど誰も、僕も最近まで太郎がそういうのを書いていたということさえ読んでいないという有様だったわけですから。それがあって。太郎はそういうふうに変わった一つの雰囲気、これはある意味で言うとコジェーヴ、バタイユ、こういう人たち、いろいろな人がいるわけですけど。この2人の仲間というか流れの中のものをある種感じていた。これはもうちょっと別な目で見ると左翼に対する批判なんですね。それから同時にニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844〜1900)を復活させるということは、ヒトラーもやっているわけだから。そのニーチェの両面のそういう部分をどういうふうに理解するか。それをオリジナルに突き抜けようとしたのがモースをはじめとしたこのへんの人たちで。この気分を理屈にならずに、勘で持っていたんだと思う太郎は。そして彼は彼なりに全く勝手に解釈をしてアヴァンギャルド論というものを持ってきた。太郎の持ってきたアヴァンギャルド芸術なんていう本なんかもあるんですけど、これと瀧口修造の正当派のアンドレ・ブルトン、マルセル・デュシャンというものと、太郎のアヴァンギャルドは違うんですよ。僕らはその違いがわからなかったわけ。それから説得力あるのは20年代までのアヴァンギャルドを解釈した瀧口さんの方の流れだったから。日本の人たちはみんなそうだったわけ。太郎は最初は、だから画家を含めてこれをかなり日本で自分なりに説得を試みた。その中で唯一話が通じると思ったのがおそらく花田清輝とその配下にいた安部公房。ここら辺だけだったんだというのが僕の印象なんですよ。美術批評で言うならば針生一郎という人がいました。針生一郎が自分でもいろいろと書いたみたいに、戦争中は右翼で、昨日話していた保田與重郎よりもっと過激で、三浦義一とかここらへんのことは俺はわかっていたよと彼は言って。それで宮城前で切腹するはずをやり損なったんだと。それは仙台に彼はいたわけだから。仙台から陸軍の飛行機に乗って東京に着いて。それで宮城に駆けつけることに8月15日になっていたのに、その飛行機が仙台について故障して乗れなかったんで俺たちは立ち遅れたんだっていう。こういうものから彼の話が始まるようになったんですが。これはもうごく亡くなる間際のことで。僕は飲むと聞いてましたけどそんな程度だった。それで針生一郎は昨日の話で言うと『人民文学』と『新日本文学』に順々に両方付き合ったりして、なんかずっとこういろいろ流れていたわけですよ。ここで結局、客観的に見て、この2つのアンデパンダンを見ながらですね、彼は日本にスターリニズム批判を、芸術を介してどういうやり方でやったらいいかということを理論的に組み立てようとした一人で。いずれ1968年にいろいろ議論されたような、何人かの初期アヴァンギャルドの哲学者たちの紹介なんかも彼はするけども、まだベンヤミン(Walter Benjamin, 1892〜1940)がわからない、あんまり載ってなくて。それでここらで岡本太郎を彼は見ていて、岡本太郎を当時は推していたんですね。だから僕は太郎のところへ出入りした時に針生一郎を見たことがある。ただし瀧口修造さんはネオダダにべったりくっついてる、付き合っていたわけだし。パーティーではむしろ主催者側に入っている。お客じゃないわけ。それで瀧口修造さんは最後まで、みんな帰ってもまだずっといた記憶があるから。まあそういう感じでいた方ですけど。太郎とは同じアヴァンギャルドを言いながらずれてるわけ。太郎さんはそこで何を戦略的に考えたかというと、ある時ですね、これは太郎さんの現代芸術研究所みたいなのがありますね。あそこの資料をひっくり返すとありますけど、初期に日本の二科会か何かのそういう画家をアヴァンギャルドに洗脳しようと思って彼はずいぶん頑張ったんです。それで全部こいつら馬鹿だ、ダメだっていうんで諦めて、完全に美術界と切ってですね、そして自分で何か研究会を始めるようになった。それで始めるきっかけというのは、確か青山の住宅、アトリエを、坂倉準三(1901〜1969)に設計してもらって。それで出来上がった時に、ここ(現代芸術研究所)を一つ、本拠地にして芸術運動をやろうと。

辻:1954年くらいですね。

磯崎:それでこれができた翌年くらいに僕はそこ行ったから。その出来た年か前の年くらいからですね、その研究会みたいのを太郎は組み立てるんですよ(注:現代芸術の会)。だけどその時のメンバーを見ると面白いんだけど。アーティストはほとんどいない。ほとんど同じメンバーがその後日本デザインコミッティーに流れていくような、他のジャンルの連中を集めているわけだよね。

辻:丹下健三や浜口隆一もいますね。

磯崎:入ってますね。その中に丹下健三が呼ばれていった。それで何か順々にちょっとくらい報告したから、丹下さんもいっぺんくらい喋ってると思う(注:丹下健三「芸術の総合化」現代芸術の会第12回例会、1956年11月)。あとはデザイナーとか石元さんとかも入ったりいろいろして。後で見るとデザインコミッティーみたいになっちゃうようなこういう人(たち)ですね。こういうことから言うといわゆる日本のモダニズムのデザイン運動みたいなものはですね、アートにつながっている。アートというのはむしろ純粋に瀧口さんからネオダダにいって反芸術という方に行ったけど、太郎が持ってきた30年代後半のパリの別種のアヴァンギャルドというか、これが奇妙なかたちで日本の中に動いて行っているんじゃないか。だから大げさに言うと太郎は絵を描いてるけど、絵を芸術と思ってないんじゃないかということが、僕の印象なんだけど。実際にイラストみたいなものですよ。あるいは書だって、書道だと思えばいいとか。誰でも使えるのは絵の具だけだという、まあそういうようなレベルですね。なんやかんやそういう風に考えて行くと、そういう一種違う流れがモダニズムに対して、僕は30年代のバタイユたちがモダニズムだと言ってもいいかもしれない。反対のモダニズムですね。ポストモダニズムではないと。そういうようなふうに見といてもいいかなと。太郎さんはそちらのアヴァンギャルドだったんだという感じがするんですよ。そして海藤さんという人はジャーナリストですから、この2人、つまり太郎も瀧口修造も、日本の状況の中でどうやってこのそれぞれを立てて表に出せばどう流れるかというのは彼なりにいろいろ勘で考えていたと思う。それでだから瀧口さんも太郎も付き合うと。そして太郎の研究会なんかは、これに海藤さんがどう関わったか、これは僕わかんない。それの出席していた連中というのは僕よりちょっと上の連中だから。僕はまだ学生で。年からいったら修士で。(そういうものは)先生がでていくという印象を持っていた。それでそのうち丹下さんに太郎は、俺は東京改造やりたいんだって言うんだ。計画を考えているんだっていうことを言ってそれを最初にメディアに売り込んで、どっかでこの話をするからお前手伝えと。でも丹下さんはそんなの付き合っている暇はないからと。それで僕が派遣されて、図面などを整理するということをやって僕は太郎の所に出入りを始めたと。そこからは個人的にある程度ちょっと出入りはしたわけですね。一つの記憶ではネオダダが動く前くらいの頃に、50年代の終わり頃ですよ。もちろんアトリエでは丹下さんのところでいろいろプロジェクト付き合っていたわけですけど。たまに展覧会を見て歩いていた、東京都内で。何展か覚えてないんだけど、新制作だったかな、なんかその手の団体展だったかな、ちょっとわかんないけど。ちょっとまあその時評判だった展覧会。なんかそれ見に行ってたら丹下さんにばったり会ったの。丹下さんも見に来ていたわけなんだけど。それで丹下さんは「どうだ、このごろの日本のアート。どういうのが出て来てるか、面白いのは出てきてるか」と言うから「いませんねえ」って(笑)。大家のばかりが並んでいるんですよそこには。それでつまんないとか何とかって言った記憶はある。それでそんな程度の付き合いで。丹下さんも関心を持っていたことは持っていた。これはだからネオダダとか何かとアンパンとは違うレベルの話ですね。海藤さんという人はそういう意味でいろいろ建築界を、やっぱりある種、建築界と美術界というかデザイン界とか、そういう文化状況をやっぱりメディアの人というレベルでプロデュースに関わってきたような、こういう動きを客観的にはやった人なんだというふうに僕は思うんですね。状況から言うとこういうことになる。たいがい太郎さんというのは1950年代というのは文章がうまい、語り口が面白いというか。メディアには、メディアというのは総合雑誌レベルです。だから新聞。そういうメディアにはがーっとこう、名前がもう出て来ていた人なわけですね。それで丹下さんたち、丹下さんは《東京都庁舎》(1957年)をやった時に太郎に壁画(を依頼して)、それから同じ《東京都庁舎》の頃に《草月会館》(1958年)をやった(設計した)。《草月会館》をやった時はいわば一種のアート活動の…… 今の前身ですね。これで勅使河原蒼風(1900〜1979)というのと付き合うことになった。そのいろんな仲間というのがずっと出てくるわけですけど。これは一種の、銀座が夜のその時の彼らの溜まり場ではあったんですが。さっきの2つの画廊もみんな銀座ですから。それよりは六本木文化ではないのかというのが僕の考えなんですね。そして六本木文化というものが、一番最初に特徴的に出て来るのが「キャンティ」というレストランなんだ。このキャンティレストランというのを始めた人が川添紫郎(川添浩史、1913〜1970)という人で。今はちょっと僕より少し下の象郎(1941〜)っていう息子がいてこれが代を継いで、一人はこの間死んだのかな。なんかまあそういうような歳の。だから丹下よりちょっと上くらいの人ですよ。この人が日本で初めて世界的に評価された原智恵子(1914〜2001)っていうピアニストと結婚していた人で。その二人の間の息子がそうなんですが。この川添浩史という人はパリに遊学していた。1930年の、パリにいた不思議なグループというのがあって。僕の坂倉順三さんについて書いた文章がありますが(注:磯崎新「坂倉準三の居場所〔?〕」『建築家坂倉準三 モダニズムを生きる 人間、都市、空間』(2009年5月)、磯崎新「坂倉準三の居場所2」『住宅建築』(2009年7月号))、この時に本当はあんまり手を伸ばして書くところまでいかなかったんだけど、一番面白かったのは坂倉順三のパリの時代の人間関係なんだ。コルビュジエはもう仕事無いからタダで事務所にいるやつしか(いれなかった)。しょうがないというのでやっているうちにそれでもいれるのは坂倉順三だけだったの。あとの連中はもうみんな前川(国男)さんもふくめてみんな帰っちゃうわけですよ。それで彼だけ残って延々とこうやって、日本に帰って来て、また前川さんがらみでも会ったんだけど。それをコルビュジエの事務所から帰って、(パリ万国博覧会で)日本館を1937年に作ると。こういうことで。まあ都合坂倉さんは10年くらいずっとパリにいて。それでペリアン(Charlotte Perriand, 1903〜1999)は逃げて来る時に坂倉さんを頼りに来たの。まあこういう関係であるわけですね。そうするとこの時に妙な連中がたくさんパリにごろごろしていたわけですよ。この連中は東大で言うと吉川逸治(1908〜2002)が一番古い人で。この人は早く帰ったのかな、偉くなって。もちろんそのもうちょっと前の美学の人たち、たくさんいたんだけど。この人たちはもう早く戦前に日本に帰って来て戦争をやったんだ。戦争直前にそこらへんうろうろしていたのが吉川逸治さんで。戦後そのパターンを繰り返したのが高階秀爾(1932〜)だったという、こういう感じなんだな。だけど吉川逸治は早く日本に引き上げたと。そしてそこに太郎が学生の時にパリに行ったわけですね。そして坂倉順三さんも行ったわけですね。その他に仏文で有名になった丸山熊雄(1907〜1984)さんという人とか。これは学習院の教授になった人ですね。それからきだみのる(1895〜1975)という小説家。これは本名はなんとかっていうんですよ(注:山田吉彦)。それでさらにはこの川添紫郎っていうのがいるわけですよ。これの関係でさらに哲学をやって西田幾多郎(1870〜1945)の弟子になって、三木清(1897〜1945)の後輩で、この仲間でいたんだけど。なぜかしら右翼に転向して、国体精神研究所(国民精神文化研究所)っていう日本で言うと当時の文化文部省ですか、今ではシンクタンクですよ。僕はこれは構造的に言って、一種の今のアメリカで言うとCIAと同じ役を文化レベルでやっていた所だと思うんです。これは小島なんとかっていうのがそこにいる(注:小島威彦、1903〜1996)。この人なんかは戦後に日本人で唯一ハイデガー(Martin Heidegger, 1889〜1976)にインタヴューした人なんですよ。それでいろいろ戦後やった人ですけど。坂倉事務所に最後べったりいろいろ付き合っていて、売り出しにもいろいろ関わった。この間にいたのが川添なんですよ。それでこれは正確じゃなくて、藤森(照信)あたりはこういうのはあまり関心無いから調べてないと思うんですけど。丹下さんの仕事の中で、《熱海ガーデン》っていうのがあるんだけど。この《熱海ガーデン》っていうのは、まあ僕は担当していなかったんですけど、これの仕事を持って来たプロデューサーはこの「キャンティ」の川添だったんじゃないかというように僕は思うんですね。それであのホテルは熱海の唯一いいコンクリートの、いいホテルということになっているけども、まあ極端に言うと当時は何にもそういうものはなくて、温泉マークが東京にはいろいろあって。今で言うラブホ(ラブホテル)ですよ。高級ラブホというものを熱海で組み立てる。このデザイン、発想だったんじゃないかというのが僕の勘ぐりなんだけど。僕らはそんな全然わかんないからただ図面引いている、僕も一部手伝ったりしたけども。ようするに温泉でやるんだから、温泉宿というのは団体で泊まってドンチャン騒ぎするというのは昔からあって。今もそうなわけじゃないですか。あのプランちょっと細かく見ればわかるけど、つまり団体が泊まれないようになっているんだ。それで当時はエレベーターは猛烈に高かったから、まあドーンとエレベーターを固めてこう部屋に入るという、普通のホテルのタイプですよ。今でもそうですが。あそこだけはロビーにいる時から、ロビーというのはほとんど旧館か何かがあるだけで、新館は単純にもうダイレクトにエレベーターがいくつかあってそれに直行するという、そういうプラン(平面図)になっているんですよ。それで丹下さんはだからこのプランを作るにあたって、僕らは若干ロビーが無いホテルっていうのは(どうなのかと思った)。(ホテルというのは)ロビーからはじまる。まあ菊竹さん(菊竹清訓、1928〜2011)の《東光園》(1965年)ならわかるけどあの手のものだと……と我々は思っていたわけだ。ところがそうじゃないと。「顔を合わさないようにして、エレベーターまでどういうふうに行き着くかというのがお前、肝心なんだ」って言うんだけども。これは我々の歳では理解できない。熱海に行ってそんなのみたいな。これをだから川添の付き合いで、丹下さんはこういうものをやっていたらしい、というのがだんだん後になって僕の推定しているところなんだよ。それは1950年代(笑)。これは知らないこと、まあ記録として成り立っているかは知らないけども(笑)。この人間が重要だというのを言っているわけよ。太郎は同じように日本に帰って来ているんだけど、太郎とはずれているけど。だけど村田豊(1917~1988)が担当した。「キャンティ」の小さいのを建てる時は彼が。太郎は僕に「俺は村田を知らなかったから、昔の付き合いで坂倉に頼んだけど、実際やったのは村田なんだよ」と。「これはよくできた」と俺は思っているんだという感じなんだ。その彼が「キャンティ」に。それで人間関係がわかるでしょう。もちろん村田だけじゃなくて、川添、坂倉というのは、本当べったりの付き合いの間柄なんですけどね。

辻:先ほどの現代芸術研究所、岡本太郎のお話ですね、それとデザインコミッティーのお話が出たのですが当時の背景としては伝統論争、あとは岡本太郎の「縄文」というキーワードがあったと思います。1954年の現代建築史研究会の稲垣栄三(1926〜2001)、村松貞次郎(1924〜1997)、大河直躬(1929〜)、あとはそれと近い「NAU」(新日本建築家集団)の派生部会の「火曜会」(注:川上秀光(1929〜2011)、奥平耕造(1929〜)、長峯晴夫(1931〜1997)、野々村宗逸(1931〜1994)、高橋昭、冷牟田純二、磯崎らが参加)のお話を事実関係だけで大丈夫ですのでお聞きしたいです。

磯崎:これはまあようするに戦後の建築運動を研究した人たちが、あの頃に何があったかを整理している。これが単純に僕から見ると、ただ飲み友達の付き合いだというくらいに思っているんですけど。整理して言うと、(現代)建築史研究会というのは僕はどこまでこれがどういう役割をしたかというのはよく覚えてないし知らないけど、一定期間、始まりから1年か2年くらいの間というのはわりと出席していたということは記憶にあるんですけど(注:現代建築史研究会には稲垣、村松、大河、磯崎の他に、奥平、冷牟田、小島敏夫、田中稔、近江栄らが参加)。

辻:書記を担当されていたということですが。

磯崎:いやいやその時に、何だか記録係でやらされたというのは事実ですが。

辻:どういった内容だったのでしょうか。

磯崎:それがこういうことなわけだ。藤島亥治郎さんという人が、建築史で言うとこんな話、僕も又聞きですが、正確じゃないから裏取ってもらわないといけないんですが。東大、まあ帝国大学ですね、その時代の建築学科というのは佐野利器さん(1880〜1956)がいて、それからその下の内田祥三さん(1885〜1972)がいたという時期があって、大震災(関東大震災)にあったと。それで大震災の前にこの堀口捨己(1895〜1984)たちが分離派建築会というのをつくった理由というのは、この佐野利器さんたちが構造派として言われているわけだけど、学生を弾圧、弾圧じゃないな、構造(注:構造力学。転じてここでは建築に関する社会政策、特に技術や法制度を中心とした体系を指す)がわかんない奴は建築をやめろというくらいに言われていて。「デザイン」やる連中がもう完全にいじめにあっていたということが堀口捨己の後の話でいろいろ出て来るんですよ。ようするに捨己さんは、この時にまず構造がわかんなきゃ建築家じゃないぞと言われた。これに一番のトラウマを持っていてまず分離派をつくるわけですね。分離派をつくって、それと同時にその後の最初の彼の理論の中に「非都市なるもの」という概念を立てるわけです(注:堀口捨己「建築の非都市的なものについて」『紫烟荘図集』洪洋社、1927年)。それからその中にお茶室的なものというような、そういうものがだぶって出て来るわけですよ。非都市的なものをなぜ言ったのかというのはですね、まああの頃『田園の憂鬱』とか何とかってありますけど、佐藤春夫(1892〜1963)がとかこういう時代ではあったわけだけど。こういうこととは別にですね、佐野利器さんという人の思想を考えてみるとこの人はヨーロッパではなくてアメリカに行って、まあ僕はシカゴ派を見ていたんだと僕は思うんですが、シカゴ派のラーメン構造(注:鉄筋コンクリート構造に代表される骨組形式を採用した構造物)というものと、不燃(建築)というものと、それからそれを背景に国家的な計画、パリみたいなものではなくて、ヨーロッパではなくて、都市開発の資本活動が都市をこういう技術で組み立てているということを最初に理解してきた人なのではないか。そして日本の国家政策というものがあって。それで僕は建築と都市と国家というのをつなぐ話を出す理由は、これは当時、もともと昔からなんだけど、それをとりわけ強調して教育しようとしたのがこの佐野利器さんたちなんだ(注:磯崎新「建築=都市=国家・合体装置(メガ・ストラクチャ)」『思想』2011年5月)。これの被害者が日本のデザインをはじめた連中で。だからラーメン構造によって不燃建築を作った。この不燃建築を都市に広げて、日本という都市で日本国家を成立するために組み立てると(注:岸田日出刀『不燃家屋の多量生産方式』乾元社、1946年)。この三段階論法をですね、そっくり一つのものとして身につけて教育するということは、ようするにテクノクラート(技術官僚)を養成するということ、まあエンジニアを超えるものですね。これがこの人の理論で分かってきたことなんじゃないかと。これまで建築運動やらなんやらイデオロギーを言う人たちは、佐野利器はちゃんと震災(関東大震災)のあとも復興をやって、というような面だけを見る(言及する)。それからそちらの抑圧された側というのが戦後にデザイナーとかになっているから、あれは(構造派に対する)反動だっていう。まあこんな評価がだいたい多かったわけですよ。それでその関係は両面、僕なんかは思想的に考えてみて、これはさっき言ったような理屈は、研究会(現代建築史研究会)でとりわけ……その研究会の前身に「NAU」(注:新日本建築家集団、1947年6月28日創立)という浜口隆一以下が関わった……

辻:高山英華(1919〜1999)がトップ(中央委員長)ですね。

磯崎:高山さん。それから前川さんももちろん入っていて。こういう人たちがいて。丹下さん、浜口さんはその下にいたけど、丹下さんはさぼっていたというような。むしろ神代雄一郎(1922〜2000)とか、それからその下に田辺員人がいたかな。

辻:あと宮内嘉久、平良敬一と。

磯崎:まあ、そこらへんがいたわけですね。川添(登)は入っていなかったと思いますね。そのNAUというのがある。これがいわば左翼イデオロギーで、ナベツネもその当時は委員長ですから労働組合の(笑)、その時代ですよ。それが消えてもうどんどん仕事が増えたから、もう理屈なんて言っている暇はないというのが建築家で。ばっと立ち消えになったんですね(注:NAUは1951年6月以降に解体)。それがあったと。その後始末、後に学年で言えばすぐ下の学年の連中ですね。彼らがやっぱり何かやらないといけないなという話が、意識がそれぞれある。そうして当時丹下さんをはじめとした、大江宏(1913〜1989)とかそういう人たちは「例の会」というやつを作ったと思うんですね。これはこれで一つ、仲間内の話だと。それで横の(世代の)並びになっていると。それに対してもう一つまだ下の組、今度は宮内嘉久とか何とか、平良さんもみんなそうですけど、いかに丹下批判をやるかという……

辻:五期会ですね(注:1956年6月に結成。村松貞次郎「「建研連」と「五期会」」『日本科学技術史大系 第17巻 建築技術』第一法規出版、1964年)。

磯崎:そう、五期会ができてきたんですね。五期会ができて、五期会の周辺にいろいろそういう研究会が出来はじめたと。そしてそのうちに女建築家だけの研究会があって。

辻:「PODOKO」ですね。

磯崎:「PODOKO」ですね。それができる。それから歴史研究会(現代建築史研究会)というのはこれとは無関係なんじゃないかと思うんですが(注:建築研究団体連絡会(建研連)に両研究会は加入)。話が途切れちゃったけど何を言おうとしたかというと、東大で佐野利器が出た(辞めた)んですよ。出た時に(他の)いろんな先生も辞めたり、それから歴史では重要、属目されていた長谷川輝雄(1896〜1926)、この人が亡くなったりしたんですね。そうして慌てて内田祥三の代になったのかな。教授を数揃えないとならないっていうふうになった時に岸田日出刀(1899〜1966)も内田さんの手伝いをやっていたんだけど、お前も教授だって言われてなっちゃうわけですね。そうするとぱっと見たら教授の平均年齢が30(歳)になっていなかったという(笑)。こういう時代があって。それでそのうちのひとつとして歴史研で、長谷川さんが死んだから誰がいるかと。それであれは韓国のソウルか何かの大学(注:朝鮮総督府京城高等工業学校)に行っている藤島亥治郎がいた。もうそれしか人がいないわけですよ(笑)。それで伊東忠太さん(1867〜1953)はその頃どうなっていたのかなあ。まだいたのかなあ。この人は別格だったんだなあ。それでそうなっていると。早稲田は今和次郎(1888〜1973)の頃かなあ。それで藤島さんが来たと。藤島さんは当時われわれが聞いていたのは、つまり歴史研究の中で他の人たちは大体みんな法隆寺研究したりそれから何やったりで肝心の研究テーマがあってそれで実績を残していると。この人はフレッチャー(Sir Banister Fletcher, 1866-1953)を祖述するだけで。僕も出入りしていたけどまあ悪口は言えない、世の中の評判というのはそういうふうになっているので。それで僕は岸田さんの晩年にいろいろ一緒に飲むのをお付き合いしたので、こういう時にぼそぼそ言う話はこういう昔話(笑)。いろいろ聞いたんですね。それでみんな困ったと。その後にじゃあ誰をつけるかと。それで内田さんのあとは高山(英華)さんがいたと。それで内田祥三さんが退官したと。その息子さん(内田祥文)が来るはずだといろいろ言われていたけど結局亡くなったからね。それでやっと丹下さんが浮かんで来るというような時代です。まあそういうことなわけですよ。京大には福山さん(福山敏男、1905〜1995)という優秀な人がいるにも関わらず東京は手薄だと。という時に足立康さん(1898〜1941)という人がいて。この人はなぜか在野なんですね。東大出てないせいなのかな、わかんないですけど(注:足立は東京帝大工学部大学院で建築史を専攻し1933年に工学博士の学位を受ける。その後は日本古文化研究所理事として藤原宮の調査を行う)。そういうのがあって。この人にまあいわばプライベートに指示していたのが太田博太郎(1912〜2007)だったわけね。中国研究なんかいろいろやっていて足立さんは。伊藤ていじ(1922〜2010)の奥さんは足立さんの娘さんですから。そういう関係なの。太田さんは藤島さんのところには出入りせずに足立さんの所に行っていたわけですよ(注:足立は太田、大岡実、関野克、竹島卓一、谷重男、福山敏男と建築史研究会を1937年5月に設立)。それで法隆寺に通っていた。そこで太田さんは足立さんから何かどっかの叢書みたいなので日本建築史を書けって。「俺はもうめんどくさい、こんな通史は嫌だ」と。「お前なんとかしろ」って言って、太田さんがアルバイトでなんかその原稿を頼まれたらしいんだ。太田さんはそこで一週間で『日本建築史序説』(彰国社、1947年)を書いたということになっているわけ。後にも先にも日本建築史でこれしか無いわけだ、まともなものがね。それはだからそういういきさつで、東大研究室で太田さんが書いたことになっているんだけど、実は正当じゃないわけですよこの本は。だけど太田さんはそれでも……だけどそれを書き直して戦後にパンフレットみたいにして出てきたので有名になったんだけど。戦争前は法隆寺建築論みたいなのを書いているはずですよ(注:『法隆寺建築』東亜建築選書、彰国社、1943年)。太田さんの仕事は僕はとってもいい仕事だと思ってるけど。あの人は論文は東大寺か何かですか、卒論は重源なんかも入っているのかな(注:「東大寺南大門の研究」東京帝国大学卒業論文、1935年)。法隆寺のところへ行って書いたのはなかなか面白いものだと思うんですね(注:太田は1939年4月より法隆寺国宝保存事務所に勤務、この時期に調査を行い禅宗建築に関する諸論文を執筆。「五山の建築」『社寺建築の研究(日本建築史論集)』(岩波書店、1986年))。岸田日出刀も書いているんですけど。それでこの太田さんが戻って来たと。それで助教授になっていると。藤島さんはまだいたんだ。それでですね、この太田さんのところにみんな卒論ではつくわけですよ。そこを出たのが稲垣(栄三)さん。それからあと僕の一期上に大河(直躬)さん。この大河さんという人が僕は太田研の、あの時代の50年代の半ばくらいの動きを一番よくわかっていた人だろうと思うんですけど。稲垣さんはどちらかというと左翼の農村研究みたいなものから始まっている人ですから(注:稲垣栄三「山村住居の成立根拠」『建築史研究』10・12・15号、1952年12月〜1954年3月)。伊勢神宮なんかとか数奇屋なんか(の研究)をやるのはもちろん東大に戻ってきてからですけど。彼らがやっていたのはそういう一種の歴史的な町(都市)の形成の問題だと思うんですね。その時に伊藤ていじという人は病気で寝ていたんですよ。寝ていて密かに論文として発表しなきゃならんと思って書き貯めたものが『中世住宅史』(東京大学出版会、1958年)っていうやつで。これは全部、大工とか構法のサイド(側面)から歴史の問題を読み返すと。だからそれまでのいわゆる日本建築史の通史とは全く違う見方をしている。稲垣さんは農村でやって。こういういきさつがあるわけだ。そして伊藤ていじがひょろひょろになって出てきた(退院した)と。それで大河なんかが、大河直躬さんですね、なんかは卒業した途端くらいでいろいろ雑用をやっていると。こういう状況だったわけです建築史は。それでなんかもうちょっと学会でもダメだし、教室の中も中途半端だし何かしなくてはいけないというので、これは誰が言い出したのかはわからないんだけど、なぜか田辺員人なんかがいたんだなあその時。それでよくわからないんですよその(現代建築史研究会の)事情は。それで建築史を研究するのをいろいろやろうというので、学会の報告じゃなくてそれに当たるような何かを研究会みたいにしてやろうというので、なんか週に1回か月に1回か何か始めると。こっち(磯崎自身)はまた絵じゃないけど、専門にやる気は無いのにも関わらず、しかもその頃《総評会館》というのが出ていた(竣工していた)と思うんだが。これはこれでまた別な共同設計の問題で。まあ僕なりにその時いろいろ関心を持ったのはロシアかなんかの、ソ連になってからロシアのプライベートな建築家というのはあれだけいたのを全部潰して、人間はみんなずっと生き残っているわけですけど、これを全部テクノクラートに再編して国家所属のユニットっていうものに(した)。なんか若い連中がグループで「ユニット」と言っているけど、これはもともとはロシアなんかのそういう社会主義体制になった時のシステムなんですよ。それでようするに建築家というのが自分のアトリエというのをユニットNo.1とか2とか3とかって言って。中国はそうやって戦後はきたんですね。同じやり方なんですよ。ともかくそういう中での仕事の仕方はないかというのが《総評会館》をやった(磯崎自身がその共同設計に加わった)時のいろんな問題、僕にとっては問題意識だったんですね。これはこれでいいと。そういうことは何が起こっているかというと、既存の組織事務所やらアトリエ事務所やら大学やらといろいろバラバラにいる人間が、ようするに何かそこで研究を集団でやらないといけないんじゃないかという、そういう動きというものはあったんですね。その歴史研究会だっけ?

辻:現代建築史研究会ですね。1954年です。おそらく近代建築に関する内容(議題)もあったと思うんですけど。《総評会館》も1954年(の竣工)です。

磯崎:それも1954年。じゃあ同じ年だ。僕はその春に卒業して、その秋頃にいろいろそういうのが同時に起こったと。そして僕の同級生というのがこれでいうと、川上秀光が高山研に行った。それから奥平(耕造)は前川(国男)事務所に行った。それからあとは誰がいる…… あとは住宅公団に長峯と…… 

辻:長峯晴夫さんですね。公団(日本住宅公団建築部設計課)の方。

磯崎:住宅公団に行ったというのは、ようするに住宅公団の基本的な、つまり日本で言うとパブリック・ハウジングの原型になっていく、西山吉武理論(注:西山夘三や吉武泰水らによる食寝分離が可能な間取りを意識した51C型の公営住宅案)を政策化するというような。こういうものが動き始めた、この時代の最初が彼(長峯)が担当でやっていたわけですから。(火曜会は)これのグループなんだけれど、そんな真面目にやっていたとは思えないんだけど、まあ一種の飲み会みたいなもので、金も無いから、酒も無くてお茶くらいで会っていたというのが火曜会。同級生ですね全員、1959年卒業の。まあその他にここにあんまり出て来なかったけども、請負(注:ここでは設計施工を一貫で行う総合建設業や住宅産業を指す)にいった連中が何人かいて。ゼネコン行ったやつで同級生では清水建設、大成建設で社長やっているから(注:平島治など)。いろいろな人間はいたんですよ、その同級の中で。そのうちのわりと理屈が好きな奴5、6人でやっていたというのが火曜会。それから女だけで集まったのがPODOKO。それから歴史のやつはそうだ。あとはまだだいぶあるでしょう。

辻:ソ連研、ソヴィエト研究会というのがありますね。藤井正一郎さん(1925〜)とか。

磯崎:藤井さん。この人がロシア語できた人ですね。この人はどちらをやっていたのかなあ。イデオロギーというレベルよりはプレハブ住宅、パネル構法で、日本にはまだ無かったからね。こういうロシアの政策的に大量のパブリック・ハウジングをパネル構法で組み立てると。今はスターリンの時代の最悪のデザインだというふう(評価)になっているんですけど。どっちにせよそういうものというのは、ちょうど僕の個人的な感心は建築の技術においてはそういうレベルだったんだけど、ウィーナー(Norbert Wiener, 1894〜1964)の本なんか出た頃ですから。僕は個人的にはウィーナーとかフラー(Richard Buckminster Fuller, 1895〜1983)なんかに関心を持っていて。それで勉強会をやるならこういう手のものをやりたいって言っていたけれど、全然やんなかったというくらいの感じですね。

辻:最後にもう一度「空間から環境へ」展についてお話を聞きたいと思います。この時の会場設計は六角鬼丈さん(1941〜)が担当だったと思いますが。

磯崎:そうか六角か。それと山本(靖彦)君というのともう1人くらいいたかもしれないんだけど(注:他に林のり子が在籍)。山本はそんなデザインをやるよりはディティールをもっぱら描いてもらっていたんで。六角がうちに入った年くらいか。

辻:六角さんの年表に記載がありました(注:「自作年譜」『六角鬼丈:奇の力』丸善、1985年)。

磯崎:じゃあその担当だ。

辻:松屋の会場だと思うんですけど、作品の配置とかは覚えていますか。

磯崎:それはね、もしかすると最初の、植田実が(編集)担当でやった僕の『空間へ』に載った文章なんかが出た特集号が『建築』であるんですけど。これの時に、闇の分布状態を会場で……(資料を見ながら)これは岡本太郎(の展覧会の会場設計)か。

辻:そうだと思います。

磯崎:そういう絵は描いたと。この時は会場の図面無かったかなあ。作家に番号ふって。番号を会場にふると。これは覚えている。

辻:これは磯崎さんが企画をされたのですか。

磯崎:この配置はそうです。そしてこれは囲いを作って、天井を低くしたりして。靉嘔はどっかこのへん(会場中央)の部屋の中で、手を入れたら絵の具がつくというようなものをやっていたと思う(注:暗室内の壁に据え付けた≪フィンガー・ボックス≫を指す)。ここから(会場に)入るでしょう。この正面に三木(富雄の作品)を置くとか。そういう位置関係でこの壁の中にこの作品をどの位置にどの順序で置くかというのはやった(設計した)記憶はあるね。

辻:絵画だったり、オブジェのようなものだったりいろいろありますけど。

磯崎:壁にはしょうがない、壁掛けのものをやって。部屋の中でようするに空間的に配置しなければならない。これはもうしょうがなかったんだな。これは作ったんだと思う。このへんもまあ、いろいろ作ってますね。

辻:この展覧会は原広司さんが有孔体のパネル(《有孔体の世界》)を出品されています。

磯崎:原は何番だ? 30番か。ここにあったんだ。僕はどこに入ったか知らないよ。

辻:ここですね。

磯崎:ああ、遠慮しているんだ(笑)。

辻:どういった経緯で原広司さんにお声をかけたんですか?この展覧会に出品するように。

磯崎:原とは、原は僕の何年下だ?

辻:5つくらい下です。

磯崎:そうすると彼の学生の時から付き合っていた。この時はあいつはどこにいたんだ?内田(祥哉)研か。まだいた頃かなあ。

辻:この頃は東洋大学にうつられていて『デザイン批評』で磯崎さんとも対談されています。

磯崎:同じ年?その1年かその後ですね。そうすると彼は反芸術の頃はあんまり参加しなかったんですね。そちらの側には付き合い無かったと。それで彼に声かけたのは、たいがい建築家でもう1人や2人やっていうんで、おそらくこの企画をやった時にいろいろ出てきていて。メタボリズムはもう(候補に)無いからということで、じゃあ原だっていうことに。原の有孔体っていうやつは、この時はじめて出てきたんだと思うんですが。

辻:模型がパネルになっている作品で、RASという建築事務所で制作されています。

磯崎:じゃあ、香山(壽夫)がいたんじゃない?

辻:そうです。ですが展覧会に出品されているのは、原さんのお名前で出ておられます。

磯崎:個人的にはずいぶん付き合っていたんだと思うんです。いろいろなレベルで。理屈は言う人だったし。

辻:1960年頃に磯崎さんと川上秀光さん、あと奥平耕造さんが先生になって、原さんや唐崎健一さんや曽根幸一さんという下の世代の方々が参加された近代建築に関する勉強会があったと書かれています。覚えておられますか。その後1970年代に『都市住宅』で近代建築史を扱う企画もありますけれども。

磯崎:僕はそれは原と一緒にやった記憶はあるんだ。この学年は僕が丹下研入って、一応次のジェネレーションで何をやるかというのは見ていたわけだけど。この学年が一番面白い奴が出て来たという印象はあって、原の学年。実は原の学年でもう一人…… 原じゃないか、もっと下か。学生の時に1人死んだやつがいて。富士山に行って雪崩にあって、東大の山岳部が5、6人死んだ年があったんですよ。このうちの1人が建築の3年くらいのやつが…… 4年かなあ。冬だから3年の冬ですね。この時に死んでるんだ。それで学生の課題を見ていてちょっと違うんじゃないかと。ちょっと違うというのは、他よりもかなり面白いことをやりそうだと。まあだから学生だからあれなんですけど。ちょっと僕は思った記憶があって。これ原の学年なのか、それともそうじゃなかったのか。富田(玲子)の学年か。

辻:先ほどの勉強会と「都市デザイン研究体」、伊藤ていじさんは関係ありますか。

磯崎:これは無いと思います。だいたい「都市デザイン研究体」というのは、「体」という名前を付けるっていうんで僕が付けた記憶があるんだけど。これはすごくいい加減な出来上がりなの。というのは伊藤ていじと川上(秀光)、僕とで「八田利也」(注:ハッタリヤ、3人連名のペンネーム)をやっていたわけですね。そのうち伊藤ていじがそれ以外に、例えば美術出版(社)で建築ガイドブックというもののポケット版を作るので「お前レイアウトやれ」とか、まあそういうので付き合ったりしていたので、伊藤ていじとはわりとべったり付き合いはじめて。川上とも同じく付き合うというのがあって3人組でいろいろやりはじめたわけですね。そのうち伊藤ていじはさっきの太田さんのところで、まあいわば当時の表現で言うと眠狂四郎(笑)。ああいう感じの男が同じ部屋にいて、いつ切り付けられるかわかんないというようなぐらいシャープな男なのでこれと一緒にいるのは困るじゃないかというのを言ったとか言わないとかいう噂があって。それで伊藤ていじが『建築文化』の編集長で金春国夫さんという人がいて、これは能の家系みたいだから名前がそういうのですぐ思い出す人ですけど。この人とうんと仲良くなって。それで特集号を3冊引き受けるよということにしたんですよ。そしてまず「都市のデザイン」という特集号が1つある。

辻:1961年ですね(注:『建築文化』1961年1月。後に再編され『現代の都市デザイン』(彰国社、1969年)として刊行)。

磯崎:そしてその2年後くらいですか、日本の都市デザイン。

辻:はい。日本の都市空間の特集ですね(注:『建築文化』1963年12月。後に『日本の都市空間』(彰国社、1968年)に所収)。

磯崎:日本の都市空間。この特集号の仕事を引き受けた。その前に既に都市デザインというのをやったんですね。それで実は僕は前の年くらいに、『建築文化』が全くスタイルを変えた号があって。「構造特集」という号があります(注:「構造設計への道」『建築文化』1961年4月)。僕のその時に医師会館(《大分医師会館》)ができたときに、この構造特集をやるにあたって医師会館を出すということもあったのかもしれませんが付き合って。それでこの時に、それまでは建築というのはラーメン構造みたいなものだけだったわけですよ。それに対してシェルとかいろいろなものが丹下研ではちょっとあるとか、そんなレベルだったんですね。たまたま僕は東大の数学教室に石膏の数学模型が埃かぶってあるというのをなんか教室歩いている時に見つけて。1930年代に教材用に買っているわけですね。それで同じ物をマン・レイ(Man Ray , 1890〜1976)が撮影をして。マン・レイは30年代の後半くらいの時に、これだけでほとんどかなりの量の撮影をした揚げ句に油絵でもこれを随分描いているんですよ(注:《数学的オブジェ》)。この数学模型があるのを見つけて。最近杉本博司(1948〜)がいろいろやっているのは、もう遥か昔に既にやってあったというのを本人は知っているから言っちゃいけないんだけど(笑)、僕はそれがわかっていて。僕はその彰国社の撮影の人を連れて数学教室に行って、これをかなり撮ったわけよ。そしてこの特集号、「構造特集」、『建築文化』でやったのがあって。今、構造屋さんで理屈を言う人は、その時には川口君(川口衛、1931〜)は僕と一緒にやったから、川口君もいろいろと関わっていると思うんですけど。まあそれはワックスマン(注:1955年11月に開催されたコンラッド・ワックスマン(Konrad Wachsmann)によるワックスマン・ゼミナール)以来のことですが。この構造特集で建築構造(研究とその実践)をやりはじめたという人が、何人もいるんだ。日本の今の建築の構造設計。だから木村(俊彦)さんはもうちょっと前の上の人ですけど。その下のジェネレーションの人はこの号から始まっているんだ。それでこれは数学模型なんですよたまたま。僕はそういう付き合いがあって。この「都市デザイン」の本が、世界の都市の資料集成みたいなものをやったので。ハーヴァードで60年代くらいにいわゆる都市史みたいな講座があって。それをモホリ=ナギの奥さんだった人(Sibyl Moholy-Nagy, 1903-1971)、彼女が日本のこの雑誌が面白いって。それでハーヴァードの教科書に使っているという噂がきたんだよ。「日本の都市空間」はオリジナルだけど、それはようするにそこら近所にある歴史のパターンの整理を、都市のパターンを整理して順序付けたという。今まで都市史をやった本はたくさんあるんだけど、単純にビジュアルに(視覚的に)都市がどういう構造パターンになっているのかというのは、グリッドだとかなんかそういう程度ですよ、放射状とかなんとか。こういうのをダーッと並べた本は無かったんだよ。それがはじめてだというのがわかった。構造とかそういうのを僕は下請けでやったから、それでその「日本の都市空間」の時は、それじゃ面白くないからっていうんで、オリジナルで金出してもらって調査に回れというのがあって。これが発表する時に、東大で10人くらいでいろいろ研究した人たちがあるんだけど、これが著者(名)じゃ面白くないからなんか名前付けろよということになって、最後の構成の時に「体」という名前を入れたという。

辻:それはどういう意図で「体」だったのですか。

磯崎:研究グループとか研究会じゃもう使われすぎていて紛らわしいと。それで「体」というのでいいんじゃないか、というのは単純にその時の思いつきですよ。

辻:他の建築運動というか芸術運動というか、メタボリズムとの関係が念頭にあって「体」ということだったのですか。

磯崎:いやあそれほど深い意味はないですよ。だけど八田利也(ハッタリヤ)だって、あれは3人の名前で匿名にしたいと。どうしようかっていうんで、それで僕がたまたま思いついて付けた名前ですから。

辻:当時、伊藤ていじさんと一緒に「原稿マスプロダクションカンパニー」という組織があります。

磯崎:これはもう冗談で、2人でいたので(笑)。これはですね、僕は最近も時々真似をするけども、伊藤ていじは文章を、つまりべらんめえ調の文章を書く。つまり学会論文とは全く違うスタイルで書ける人だったんですよ。だからその3人は、伊藤ていじは文章家、川上は資料集めをすると、僕はキャプションを付けると。

辻:別に会社組織を作っているわけではないのですか。

磯崎:そうじゃないですよ(笑)。それはカンパニーっていうのはね、外国ではアメリカなんかじゃダンスカンパニーとか言うじゃないですか。ようするにもたもた集まっているグループをそういう呼び方するっていうのはわりとあるというのは、こんくらいの情報は知っていた(笑)。それで「カンパニー」って言って。それでカンパニーじゃあどうも面白く無ない。日本じゃかえって通用しないから、それで「体」にしたというような感じはあるかもしれない。でもハッタリは使えないからね。

辻:「空間から環境へ」展くらいまでお話ができたということで、それ以降のことについては、また別の機会でお話をお聞きできればと思います。