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木村秀樹オーラル・ヒストリー 1回目
2018年12月3日

滋賀県大津市比叡平 アトリエにて
インタヴュアー:奥村泰彦、山下晃平
書き起こし:日本職能開発振興会
公開日:2022年2月5日
 

木村秀樹(きむら・ひでき 1948年〜)
美術家

1948年京都生まれ、1974年に京都市立芸術大学西洋画科専攻科を修了。版画の技法を学び、シルクスクリーンを中心に制作を進める。修了年の「第9回東京国際版画ビエンナーレ」に出品し、最年少で「京都国立近大美術館賞」を受賞する。その後、国内外での展覧会に参加し高い評価を得る。1987年にMAXI GRAPHICAを結成し、2008年の一区切りまで前衛的なグループとして、版画表現の可能性を追及し次世代に影響を与えた。本オーラル・ヒストリーでは、版が持つ技法の可能性と人間の認識やイメージ(あるいはレイヤー)に対する探求、版による様々な手法を活用した緊密な造形性など、生い立ちから現代の活動まで、2回の聴き取りを通してこれまでの制作姿勢について丁寧に語って頂いた。

山下:2018年12月3日、木村秀樹先生のオーラルヒストリーを始めます。よろしくお願いします。

木村:よろしくお願いします。

山下:最初に生い立ちについて。いつ、どこでお生まれになって、また両親について、かなり最初のお話なんですが、いつも聞かせていただいています。1948年の京都生まれとは、存じていますけれども。

木村:そうです。京都市上京区。北区になるのかな。上賀茂で生まれているはずなんです。 そこの記憶、僕は全然ありませんけどね。すぐ引っ越したんで。

山下:そうですか。それは、どちらの方に。

木村:ええとね、その次は、三条白川。

山下:でも、京都市内の。

木村:はい。華頂大学か、華頂女子高があるところ辺りですわ。

山下:上賀茂だったら、かなり静かな環境で。

木村:だったはずなんですけどね。記憶は、ほとんどないです。

山下:上賀茂にいらっしゃったということですが、ご両親につきましては。

木村:父親は、陶工でもあったんですけども、主に焼き物を東南アジアなんかに向けて輸出する会社が京都にあって、そこの番頭さんというか、そういうことをやってたみたいなんですよ。そこは、生産と同時に輸出を一貫してやっていたみたいで、製造の方も関わってたみたい。焼き物のね。

山下:製造ですか。

木村:はい。だから、陶工でもあったんですよ。さらに言うと、おじいちゃん、私の父の父が、粟田焼っていう窯元をやっていたらしいんですよ。その祖父も42歳っていう早死にだったので、そのあと残された子供たちが、ある家にもらわれて、男の子は丁稚、女の子は女中のようにして育てられたんですけれども、その家から一応みんな独立させてもらうんですが、その家が貿易会社だったんですよ。

山下:ああ、丁稚先の。

木村:そうです。主に焼き物を扱っていたらしいんですね。

山下:そこでお父様が学んで、お仕事もどんどんされて、先生がお生まれになったという。

木村:そうです。だから、僕が上賀茂から三条白川に移った時は、焼き物の成形工場と隣接した住居だったんですよ。

山下:そうなんですね。もう既に美術の匂いが漂っていますね。

木村:なので、庭の裏から建物が見えてて、その建物の2階でおやじがろくろを回していたという記憶はあるんですよ。

山下:ごきょうだいはいかがでしょうか。

木村:兄が一人、2歳上です。

山下:お母様は、専業主婦でしょうか。

木村:母親は、母方の祖父がいわゆる職業軍人で、ルーツが福島県の方なんですよ。9人か10人きょうだいの4番目――5番目かな――娘として生まれて、父と知り合って結婚したと。

山下:そうですか。では、福島からこちらに。

木村:母親は、焼き物好き。

山下:では、お父さんとは、すごく気が合ったんですね。

木村:恐らくね。父親と母親が仲良く一緒に暮らしてるという記憶は、ほとんどないんですよ。というのは、僕が6歳の時に父親は死んでるんで。

山下:そうでしたか。

木村:うん。なので、共通性を見つけ出すっていうことができないんですけど、恐らく母親と父親の共通性を、何で結ばれてたかっていうことを、あえてね、この年から考えると、焼き物しか考えられへんという感じですね。

山下:そうなんですね。では、いつも美術との関わりとかも質問してしまうんですが、最初から、そういう工芸というか、ものづくりの雰囲気の中で、幼少期を過ごしていることになりますね。

木村:そうですね。両親共に、子供たちに絵を描かせるのが好きな親で。そういう雰囲気の家でしたね。

山下:では、木村先生も、「絵を描いて」と言われたりするのは、もちろん好きで。

木村:そうですね。好きになっちゃいましたね。おやじの膝の上で、絵を教えてもらってたっていう記憶もありますしね。

山下:そうなんですね。お兄さんも、そういうときは一緒に。

木村:そうです。ただ、長男と次男は、育て方を変えていたというか。うん。兄貴の方は、絵を描かせたり、そんな遊ばすようなことはしないで、「ちゃんと勉強しなさい」なふうに育てられいてたような気がしますけど。

山下:そうですか。それは、仕事に関わっていってもらうというか、継いでもらうではないけど。

木村:というか、母親がね、結構教育ママ系の母親だったんで、「お兄ちゃんは、もっとしっかりせなあかんよ」という感じで育てられたと思います。

山下:2歳年上で。

木村:はい。

山下:では、木村先生は、少し自由に育てられた記憶が。

木村:そうです、そうです。こういうあほでもええ感じ。

山下:いえいえ(笑)。そうなんですね。その焼き物の製造の現場とかは、やっぱり覗いたり、見せてもらえたりしていたんでしょうか。

木村:ええ。うっすらと記憶はあります。成形の工場に、基本的に仕事場なんで、入っちゃいけないんですけど。小さかったから、3歳、4歳、5歳でしょう。その頃、入った記憶はありますね。

山下:小学生になったら、どうでしょうか。

木村:小学校一年の時におやじが死んでるんで、そのあとは、もう一切途切れちゃうんですね。

山下:ああ、そうか。すいません。ちょっとそういった突っ込んだお話になってしまうんですが、小学生や中学生時代になると、少しそういうものづくりの雰囲気から離れた場所で過ごされるのでしょうか。差し支えない範囲でいいんですが。

木村:ええとね、京都、三条白川でいたでしょう。で、おやじが死ぬと、そこの会社とは縁がなくなるので、そのあとね、五条坂に引っ越しするんですよ。

山下:登り窯がありますね。

木村:ちょうど六兵衞窯ありますよね、清水六兵衞さんの。あの北側の向かい辺りの所に、おやじが家だけ建てといてくれたんですよ。借りた土地の上に。そこへ母親と子供二人が住むことになったんですが、あの辺りって、ほんと陶器の町なんですよ。陶工さんか、作家さんか、あと、工芸関係の箱を作る職人さんとか、そういう人たちばっかりだったんですけども、そういう地盤にある小学校に行くんですね。六原小学校という。

山下:はい。

木村:そこが、美術教育に熱心な学校だったと思います。

山下:ああ、なるほど。

木村:絵画教室を積極的にやっていて。

山下:授業とは別にですか。

木村:はい。授業が終わってからね。週に一回、そんなのに通ってたりしてました。

山下:そうなんですね。かなり幼少期から、美術が接近している環境だったんですね。

木村:だったと思います。同じクラスの友達でも、大体陶器関係の人で、作家さんの甥御さんとか、あとは陶工ですよね。職人さんの息子、娘たちという学校でしたから。

山下:はい。そういったお友達との遊びみたいなものは、小学生時代は、いわゆる普通に外で野球やサッカーとかいうよりも、粘土であるとか。

木村:いや、絵画教室で絵を描くのは大好きだったですけど、週に一回だけですし、毎日学校終わったら近場で遊ぶじゃないですか。その遊び場所が、大体窯の横とかね、焼き物に必要な粘土の置き場とか、そういう所がいっぱいあって、そういう所に忍び込んで遊んでたので。

山下:面白そうですね(笑)。

木村:大概悪いことしてると思うんですけど。

山下:触ったりもして。

木村:ええ。だから、五条坂にいた頃に、それこそあとで出てくるかもしれんけど、林康夫さんなんかが見てるはずなんですよ、僕を。(注:林康夫は、1928年京都市生まれの陶芸家。1947年には前衛陶芸グループ四耕会結成にも参加している。)

奥村:お父さんにお世話になったことがあるとおっしゃられてました、林さんは。

木村:らしいです。

奥村:釉薬の輸入も取り継いでもらったりとかね。

木村:うん。なんか、そんなことらしいですね。

山下:そうなんですね。

木村:のちに康夫さんとお知り合いになって、いろんな話を聞かせてもらうことになるのだけども、「知ってたで」って(笑)言ってますから、俺、小学校ぐらいの時から多分、知られてて。もう、あの頃、むちゃくちゃしてたんで。

山下:そのむちゃくちゃ具合、結構気になるんですけど(笑)。

木村:うーん。

山下:窯の中に入って、火とかは。

木村:それはならなかったけどね。

山下:そこまではさすがに。

木村:新聞紙に粘土の、こう、どう言うのかな。乾燥して砂になっちゃうじゃないですか。砂というか、土。

山下:はい。

木村:それをまくとね、ばーっと煙になるんですよ。それを集めてきて、新聞紙に包んで煙幕を作って、こう、ぶわーっと、どわーっとなるわけですよ(笑)。そんなことを仕事場のすぐ横でやってたから、迷惑やったやろうなと思って。

山下:仲の良いメンバーがいてという感じですか。

木村:そうです、そうです。団塊の世代じゃないですか。町内、子供だらけなんですよ。

奥村:ちょうど多いね。

山下:ああ、そうか。もう少し幼少期の話を聞かせてもらいたいんですが、基本は、割と家で籠もって静かな子というよりも、外で、そういうアクティブな。

木村:そうです。オタクじゃなかったですね。

山下:(笑)。暗くなるまで外にいるというような感じでしたでしょうか。

木村:そうですね。どちらかというと、そうです。

山下:お兄さんも一緒になって。

木村:兄貴は、野球好き、相撲好き。

山下:そうなんですね。

木村:なので、外で遊んでましたね。

山下:一緒に遊ぶ感じではなかったですかね。

木村:なかったです。幼年期の頃、それこそ幼稚園までは、お兄ちゃん大好きで、後ろついて歩いてる弟だったんですけども、小学校に上がって父親が亡くなって、いわゆる母子家庭というか、大変な生活が始まるんですけど、その頃からはめちゃくちゃ仲悪かったですから。

山下:そうなんですか。

木村:兄貴とはね。なので、口もあんまりきかないぐらい、仲悪かったですね。

山下:そうですか。小学校、中学校あたりも、もう少し聞かせていただきたいんですが、もう少し美術や他の芸術に触れる機会はどのようなものだったのでしょうか。今のでもうかなり見えてはいるんですけれども。

木村:小学校は、本当に美術教育に熱心な学校でした。僕も大好きやったから。

山下:大好きだったんですね。

木村:授業も、その絵画教室も、大好きでやってましたね。

山下:そのときは、水彩画とか絵を描くという、粘土とかじゃなくて描く方の教室ですか。

木村:そうですね。主に水彩ですね。あと、クレパス。

山下:クレパスとか、はい。

木村:「図画と工作」と一緒になってたんですよね、授業。だから、立体物も作らされてましたけど、それももちろん好きでした。

山下:展示と言うと大げさですけど、先生がどこかに貼ってくれたり、あるいは入選とかもあったりしたんでしょうか、この頃は。

木村:そうですね。大体、出したら何か賞を頂いてて。

山下:そうなんですね。すごい。

木村:母親も、そういうのがうれしい母親だったんで。

山下:じゃあ、最初からやはり入選もしていたんですね。

木村:そうです、大体。賞をもらわなかったら、あれ?って思ったことはありますわ。

山下:その辺、非常に興味深いです、木村先生の。

木村:「おかしいな」という(笑)。

山下:かなり真剣な、遊びでもなくて、結構狙っていかれてたんですね、小学生の時から(笑)。

木村:いや、狙ってないです。楽しく描いてる。

山下:描いてて、でも、出品はしている。

木村:うん。だって、先生が大体出されるわけじゃないですか。自ら出すんじゃなくて。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:その結果聞かされて、「何々賞もらったよ」とかっていうのを聞くのが普通だと思ってたんで、一回聞かなかった時に、あれ?と思った記憶がありますわ。

山下:そうなんですね。すごいな。それは、京都市内のどこかに展示されて、お母さんと見に行かれたりとか。

木村:はい。そういう記憶があります。

山下:お母さんもやっぱり、お仕事も忙しくなっていたとは思いますが、芸術とかは好きだったということでよろしいですかね。

木村:そういうのを子供にやらせるのが好きだったと思いますね。

山下:お母さんが、ご自宅でたまに何かをされたりとかもあったんでしょうか。

木村:なんかね、その当時はそんなに時間がなかったですけど、洋裁とか編み物とか、何やかんや自分で作る人ではありましたけどね。

山下:そうなんですね。なるほど。では、そのまま、少し中学生とかの木村先生もどんな様子だったかもお聞きしたいんですが、いわゆる美術部とかとの接近というのは、ありますでしょうか。

木村:中学で、また引っ越しするんですね。山科の日ノ岡(注:京都市山科区日ノ岡)というところに行くんですよ。そこの木造の2階建てのアパートの一室借りてね、そこでうちの母親は、仕事しながら、家を買うお金をためたんですね。

山下:そうですか。

木村:頭金作って移ろうやないかということで、できるだけ経費を切り詰めた時期なんですよ。だから、ある意味、一番貧乏がはっきり見えるっていう時期なんですけども、移ることで、今の花山(かさん)中学。当時、山科中学北花山分教室というところなんですね。人数が突然増えたでしょう、われわれ世代が。だから、学校が追いつかないので、分教所を作って、日ノ岡周辺の子供たちだけ集めた学校のはしりがあって、僕が二年生の時には花山中学になってたと思うんですけど、そこに移るんです。そこで、もちろん美術の授業は大好きでしたけども、バレーボールを始めちゃうんですよ。

山下:ああ、そうですか。体育会ですね。

木村:クラブはバレー部でした。一年生から三年生まで。

山下:三年生までずっとバレーボールですか。

木村:うん。なので、いわゆる美術部とは、全く縁なかったですね。

山下:そうなんですね。そのときも、でも、家ではたまには描いたりとかはあったのでしょうか。

木村:そうですね。なんかこう、すぐ、がっとやっちゃう方でしたね。

山下:バレーボール部となると、だいぶ週末もお忙しいということになったり、夕方まで。

木村:そうですね。でも、中学の時のバレーボール部というのは、専門の顧問の先生もおられなくて、当初。だから、ほんとに有志の生徒たちが集まってやってる同好会に毛の生えたようなもので、二年生ぐらいでやっとバレーボールが分かってる先生が赴任されてきて、顧問になられてという感じだったんですけどね。だから、きついクラブじゃなかったですわ。

山下:でも、試合もあって。夏休みも。

木村:はい。京都市の大会に出てました。

山下:なぜバレーボールなのかなっていうのを、やっぱり思うんですが、運動も好きだったんですか。

木村:体育の授業で成績悪かったですけど、何でかな。バレーボール部。

山下:友達とかに誘われたとか。

木村:いや…… 何でやろうね。

山下:結構私は、「おお」と思ったんですけど。

木村:あの頃、だから、「東洋の魔女」という、日紡貝塚が世界でというのが話題になりかかっていた時期ですね。世間のバレーボールに対する注目度が、じわーっと上がってた頃ですかね。

山下:はい。やってみようということで。

木村:はい。

山下:結構そういうスポーツ系も好きだったんでしょうか。

木村:そうだと思います。体質的には、どっちかというと体育会だと思います。

山下:そうなんですね。すいません。まだまだ木村先生像を、私は不勉強なところがあって。

木村:いえいえ。みんな一緒じゃないかな(笑)。

奥村:それは聞いたことない。

木村:「それが、何で美大行ってんねん」みたいな話ですよね(笑)。

奥村:そこだけ聞いたらね。

山下:そうですね。

奥村:1960年ぐらいだから、そうですね。東洋の魔女というのは、もうちょっと前。早いけど。

木村:1964年の東京オリンピックで金メダルなんで。

山下:そうですね。

奥村:それよりもうちょっと前。

木村:うん。

山下:そうですね。では、美術部には入っていないのでしょうか。

木村:はい、入ってません。で、京都の公立高校のあれが学区制で、いわゆる中学に入った時点で指定された公立高校が決められてるという制度だったんですよ、当時は。

山下:はい。

木村:そのときに、僕が行くべき学校というのは洛東高校というところで、山科(京都市山科区)にあるんですけど、そこはバレーボールの強豪校だったんですよ。

奥村:そうですね。

木村:うん。常に京都市・府下の決勝まで行っている強豪チームで、そこでバレーボールをするんだと思ってました。中学校の時に。

奥村:洛東で。

木村:はい。

山下:では、かなりやる気のある状態だったってことですよね。

木村:そうです。だから、本当にその頃は、オリンピックに出るというぐらいの思い込みがあったんですよ。高校行って、一年生ぐらいまでは。

山下:はい。やっぱり得意だったというか、レギュラーとかあるじゃないですか。割と試合にも出たりというか。

木村:そうですね。中学の時のバレー部のレベルって、そんな高くなかったですけど、三年生の時キャプテンやってましたし。

山下:そうなんですか。すごいですね。

木村:で、アタッカーだったでしょう。エースアタッカーってもう一人いましたけど、僕もアタッカーだったし、打ちたいタイプ? 

山下:興味深いです。

木村:そのエースアタッカーの人と、一緒に洛東高校に進学するんですけど。

山下:そうなんですね。バレーボール人生。

木村:当然のように、高校に入ってバレー部に入るんですよ。間もなく挫折が来るんですけどね(笑)。

山下:そうなんですか(笑)。でも、人によっては、サッカー部とか野球部とかやりだしたら、絵とかあまり描かなくなっていったりもするんですけど、そっちも止まってはいなかったんですね。

木村:でも、中学の時に、進学相談とかありますよね、父兄を交えての。そのときに、「高校どこに進学しますか」ということ当然聞かれますでしょう。そのときに、当時、美術系のある日吉ヶ丘高校。今の銅駝ですよね。(注:京都市立銅駝美術工芸高等学校は、京都市立日吉ケ丘高等学校の美術課程から1980年に独立開校した。)あそこの進学を、一応、ターゲットに入れてましたね。

山下:ああ。では、やっぱり頭の中に美術もよぎっておられたという。

木村:はい。それを先生に相談して、中学の先生は、「それも一つあるよね」というアドバイスだったんですけどね。

山下:結構、分かれ目ですね。

木村:まだ明確に進路決めるよりも、オリンピックの芽もあるし、洛東やなという感じで、普通科でしたしね。

山下:面白い。そうだったんですね。ちなみに、好きな授業はどうでしたか。

木村:中学の時ですか。

山下:はい、あるいは小学生でも。絵を描く以外でどんな勉強がお好きだったのかなというのを。算数とか。

木村:小学校の一年生の時に算数と出会うでしょう。そこの出会い方が悪かったんだと思うんですけどね、ずっとそれ以降、算数嫌いなんです。数学嫌いでした。

山下:そうなんですね。作品は結構シャープですけど。

木村:うーん。数学が「こういう面白さがある学問なんだ」ということに気づけたのは、大学入ってからですね。

山下:では、割と文系の方で、ずっと自分の関心が。

木村:そうですね。だから、中学の時だったら、美術以外だったら英語、国語。ああいうのが、まだ好きかなっていう。

山下:それから、ちょっと戻って申し訳ないんですけども、五条の方からお母様が山科に移りたいと思ったのは何でなのでしょうか、差し支えなければ。今、お聞きしていて、五条の雰囲気、お子さんとしてはすごい楽しそうな環境に見えたので。

木村:家は自分たちのものだったんですけれども、土地は借りてたでしょう。だから、毎月地代を払いに行ないといけないんですよ、浅見さんとこに。

山下:はい。

木村:有名な焼き物の先生でした。(注:浅見家は、京都清水の五条坂にて1848年(嘉永初年頃)より初代五郎助が登窯を築き作陶を始めた。)

山下:ああ、そうですか。

木村:だから、こんな中途半端な、結局、ね。いずれ出ていかなきゃいけない家なんですよ、そういう意味では。「こんなとこにいてられない」ということだったと思います。

奥村:浅見さんだったんですね。

木村:浅見さんの土地です。ちなみに、浅見さんの縁の方が、六原小学校の先生をしていたんです。その先生が絵画教室の指導もされていたし、かわいがってもらいましたね。いい先生でした。

山下:そうしたら、中学、高校はバレーボールの日々で、放課後も基本は部活ということで。

木村:部活です。

山下:たまに友達と遊んだりとかはあったかと思うんですが、高校ぐらいになってくると、どういうふうに遊んでおられたのかなという。

木村:リマーカブルなことで言うと、中学の三年生ぐらいの時にビートルズと出会うんですよ。

山下:ああ。

木村:もう、パーンってやられちゃって、もう一筋になっちゃうんです。

山下:木村先生もビートルズがお好きなんですね。

木村:ビートルズ・クレージーでしたね。

奥村:1962、63年ぐらい。

山下:やっぱりすごかったんですね。

木村:で、洛東高校に入学して、何人かまた新しい友達できるんですけど、その中でやっぱりビートルズ・クレージーが何人かいて、そういう連中とつるんでたかな。

山下:では、音楽の。

木村:音楽というか、ロック、ポップスですね。クラシックとかいうのは、あんまり。

山下:一緒に出掛けたりとか、外出の思い出とかはありますか。

木村:家からですか。

山下:はい。そういうお友達と、どういうふうに遊ばれていたのかなという。

木村:友達とはね、だからもう、ビートルズ・クレージーでしょう。

山下:はい。それは、あれですか。いつも仲の良い仲間がいて、よくどこかの家に集まって。

木村:ということもありました。新曲を待ってるんですよ、常に。「新譜出るよ、もうすぐ」って。いち早く、ドーナツ盤という45回転の、あれを聴きたいわけですよ。手に入れたいわけ、少ないお小遣いはたいて。それを、高校の学区にあるレコード屋さんに、授業を抜け出してまでは行ってないと思うんだけども、休み時間中なんかに行って、「もう出てる?あれ」みたいな。「まだまだ」とか言われて。

山下:すごい熱狂ですね。へえ。

木村:という友達が、何人かいてました。

山下:本当ですか。面白いです。では、ビートルズとバレーボールと、家では絵は、頭には常によぎっていたということですね。

木村:そうですね。

奥村:高校の美術の授業とかは、どうでした?

木村:高校に入って、美術の授業が嫌いになっていくんですよ。

山下:そうなんですか。

木村:芸術という選択科目だったんですね、書道と音楽と美術と。当然のごとく美術取ってたんですけどね、要は小学校の一年生から中学の三年生まで、楽勝で5が取れるんですよ、美術って。当然そのノリで行ってるじゃないですか、高校行っても。初めて取れなかったんですよ。

山下:本当ですか。

木村:それで、あれ? っていう(笑)。

山下:でも、ずっと5だったんですね、やっぱり。

木村:うん。高見の見物で5が取れるわというノリだったのが、初めてそうじゃなくなって。いわゆる、ほら、「自分の思うこと好きに描いたらいいんですよ」という、創造美術的な教育をずっと小学校から中学で受けてるでしょう。高校になって、初めて理論的な話も出てきたりするわけですよ。

山下:はい。

木村:時間の中には、たまに美術史のことを教えられたりもするでしょう。教科書があったし。あれがめんどくさくてね、そこでちょっとスイッチ入れ替えないとっていう時期でもありましたね。

山下:そうなんですね。嫌いになるという。

木村:うん。

山下:油絵の授業とかもあったんでしょうか。

木村:油絵はなかったですね、さすがに。水彩でしたけど、主に。

山下:まあ、4とかでも、いい成績だとは思うんですけど(笑)。

木村:「あれ、何で5と違うの」という。だから一年生の時までは、バレーボールだけ考えてるでしょう。そしたら高校になったらレベル上がってて、学校自体の。なので、成績ガタガタになるわけですよ。

山下:そうなんですか。

木村:うん。おまけに算数嫌いでしょう。数学のいきなり対数とか教えられて、いまだに僕、対数理解できてないんだけど。

山下:ああ、対数。あれは難しいですね、確かに。

木村:だから、勉強しないとついていけへんよという、初めてそういう事態に陥るわけですよ。バレーボールは強豪校だったし、かなりきつい練習でしたし、夢はオリンピックじゃないですか。そこで客観的に状況を分析してね、それなりに。自分の身長が180cmを超えるならば、バレーボール続けようと思ってたんです。

山下:ああ、なるほど。

木村:175cmぐらいで止まっちゃったんですね。

山下:あと5cm。

木村:それでちょっと冷静になって。

山下:すごい冷静ですね(笑)。

木村:バレーボール部辞めて、二年生の間にちょっと、考えるって言ったらかっこいいけど、何にもせんとだらだら学校行ってて、三年生の時に、もう「美術系に行こう」というふうに決めてました。

山下:そうなんですね。京都市立芸術大学を受験するいきさつなんかもお聞きしてみたいとは思ってたんですが、三年生からスイッチが入ってということで。

木村:はい。それで美術の先生のところに相談に行って、実は京都芸大、京都(市立)美術大学ですわ、あのとき。(注:1969年より京都市立美術大学は、京都市立音楽短期大学と統合して、現在の京都市立芸術大学となる。)

山下:美術大学ですね。

木村:「行きたいんですけど」と言うたら、伏見の美術研究所を紹介してくれたんですよ。まあ、予備校ですね。「ここに行ったらば」という。高校の美術の先生が、独立系(独立美術協会)の先生だったんですね。だから、独立の東儀一(はじむ)さんという方が、伏見桃山のところで画塾を開いていて。東儀秀樹さんの縁の方ですよ。

山下:そうなんですね。

木村:うん。音楽関係の家でした、東儀さんのところは。

奥村:元々雅楽の家ですからね。

山下:そうなんですね。それで、伏見でその東儀先生に習う。

木村:はい。習うことになりまして、当時住んでたのは、その日ノ岡の木造のアパートから、醍醐の方に家を買って、母親が。

山下:少し南に。

木村:そこに行くんですよ。石田というところでしたけど。なので、伏見桃山は割に近かったんですよ、どちらかというと。なので、六地蔵から電車に乗って通ってました。

山下:その頃になると、あまり運動もしなくなって、まさに画塾生みたいになるということですか。

木村:そうです。

山下:その伏見で習っている間の自分の、結果的には京都芸大へ入学されたのですが、技術的なところは、どういう感じだったんでしょうか。どんどん伸びていったという。

木村:最初は、それはもう、何も描けないじゃないですか。当時の受験科目は、木炭による石膏デッサンと、油絵の具による人物画制作だったんです。全然技術的な知識もないし、技術もないので、一から教えてもらうという感じでした。手探り状態。でも、そういう研究所というのは、猛者の連中が、「俺、もう5年ぐらいやってるぜ」という人がごろごろいて、そういう人たちが信じられないぐらい上手なデッサンを描いてたりするわけですよ。そこでちょっとショックも受けつつ、辞めもしないで頑張ってましたね。

山下:では、もう、夜遅くまでということもあって。

木村:そうですね。夜までやってたときもありますね。

山下:三年生になると、バレーボールのことは、すっぱりと切り替えられたんですか。

木村:趣味です、単なる。

山下:そうか。そこから一気に美術に。

木村:校内大会に出てました。うまいじゃないですか(笑)。そこで目立ってるという、レベルの低いとこで。

奥村:いやいや。

山下:でも、学校の美術の授業はちょっと嫌になっていたけど、やっぱり美術の方には進もうということですかね。

木村:そうですね。

山下:描くのは、やっぱり好きで。

木村:そうですね。美術の、どういったらいいのかな。楽しみ方というのが変わりますよね、そのあたりで。

山下:知識も必要になっていって。

木村:そうですね。気持ちのままに、とりあえず「勢いで描いたらいいのよ」という教え方から、構築的なことを習うでしょう。最初それに戸惑いましたけど、それはそれで面白いなと思っていきましたから。

山下:そうですか。東儀先生の指導は、どういう形だったんでしょうか。合評は厳しいとか、指示も細かいとか、その辺の思い出なんかも。

木村:東儀先生自身が、高校の先生かな、やられていたということもあって、学生の扱い方が上手でしたね。なので、すごく気持ちよく入門させてもらったし、強制的に「こうしなければいけない」というふうなことを、束縛を受けたこともないし。ただ、周りの既にデッサンのことがある程度分かってる人たちを見つつ、先生の指導も受けつつ、合評会も受けつつという感じかな。

山下:やっぱりどんどん伸びていかれたということで。

木村:どうなんでしょうね。僕はね、だから、目に見えたとおり、木炭という材料で白い紙の上に写すという行為を見よう見まねでやるんですけど、自分なりのやり方を自覚していくというか、自分なりの方法論を立てていくわけですよ。水平線と垂直線で、その交わった点を座標の上にいかに正しく取るかという方法を、自分なりの方法でやってて、それが少しずつ成功してくるんで、「よし、よし」と思ったんですよ。

山下:はい。

木村:なので、それなりにデッサンは描ける方だというふうにやがて思い始めるんですけどね、それが受験で失敗するでしょう、1年目。

山下:そうなんですね。

木村:はい。そこでちょっと、まあ、軽い挫折みたいなものがあって。

山下:1年目が終わって、また2年目、粘り強く東儀先生のところに続けておられて。

木村:そこで結構揺れるんですね。

山下:揺れますか。

木村:というのは、洛東高校も美大志望者がすごく多くて、同じ研究所にね、4、5人通ってたんですよ。もっといたかな。

山下:結構いますね。

木村:そのうちで、自分が一番トップと思ってたんですよ。そうしたら、全然下手な子の方が先入っちゃったんですよ。それも2人。で、もう一年先輩の方もおられて、その人も一緒に入っちゃったんですよ。

山下:そうだったんですね。

木村:うん。俺は何で入れないんだろうなと、それなりに傷つき、挫折したんですね。なので、「このままやったらあかんでしょう」と思うじゃないですか。

山下:はい。

木村:なので、当時の京都美術大学西洋画科の受験界というのは、京都の関西美術院で勉強してる人か、伊庭(イバ)研究所でやってる人か、東儀塾か、この三つがほとんど押さえてたんですよ。

山下:そうなんですね。

木村:その中で伊庭研というのが、やっぱりちょっとね、幅利かせてたっていうかね。

山下:人も多かったとお聞きしてます。

木村:多かったしね。

山下:活況だったと。

木村:はい。その一年前に、鶴田(憲次)君とかね。僕、同じ学年なんですよ、高校がそもそも。

山下:そうですか。

木村:伊庭研ですよ、彼。だから、「伊庭研の方がいいのではないかな」と、ふらふらっとしちゃって、門をたたきに行ったんですよ。

山下:本当ですか。2年目ということですね。

木村:2年目の初めの頃に。で、「どこで勉強してきたの」と言うので、「いや、東儀塾で」と言ったら、入れてくれはるはずないよね、ゆっくり考えたら。

山下:そうですか。

木村:うん。そら、東儀さんともお友達でしょうし、伊庭先生。それが、受験に失敗したからうち来るって、それは「ああ、そうか」というわけにはいかないでしょうしね。そんなことも分からずに行ったんですけどね。それで断られて、しばらくどうしようかなと思ったんですけど、もう一ぺんやり直してみようと思って東儀塾に通い始めて、描き方もちょっと意図的に変えてみて、東儀先生なんかにも「ちょっとようなってるよ」というふうな励ましもあり、1年そこで頑張ったんですよ。

山下:それで、合格なさった。

木村:はい。

山下:ちなみになんですが、京都芸大を受けたいということに関して、お母さんからは特に反対もなく。

木村:全くなかったですね。私立は、ないよっていう話でした。まあ、母子家庭ですしね。貧乏な家ですし、進学するなら国公立しかないよっていうのは。

山下:でも芸術の道は、「いいね」という。

木村:はい。

山下:そうですか。ちなみに、東儀さんのところにいた時の友達関係は、どういった様子でしたでしょうか。結構お一人で黙々とされている日々だったのか、あるいは、結構遊びながらというか。

木村:遊びながら…… 

山下:人によって、作家さんによっていろいろなのですが、5、6人と仲良くやっての画塾時代だったとか。

木村:いや、つるんでましたよ、友達と。東儀塾というのは、ロケーションなんでしょうけども、塾生は桃山高校の連中か、洛東か、あと日吉。あと、私立のノートルダムの子とかね。そういう感じだったんですよ。桃高は、やっぱり同じ公立高校ですから、すぐ友達になって、どこの塾がどういう教え方してるとか、「こんなことしてたら受からない」とか、いいかげんな知識ですよ、もちろん。正しくもないような知識(笑)。そういう情報交換しながら、「来年行くで」という感じで頑張ってましたよ。

山下:それでは、そういうふうに、割と仲のいい5、6人がいて、いつも日々一緒に過ごしているというような感じだったということですかね。

木村:そうです。そこで、田中孝(注:後に結成されるMAXI GRAPHICAのメンバーの一人)という。

山下:もう田中さんとも。

木村:うん。出会いますし。ちなみに、東儀先生のお手伝いをされている芸大生が何人か来られていて、その中に佐野賢さん(注:1968年に京都市立芸術大学彫刻家を修了し、その後、1974年より同大学の構想設計専攻で後進の指導に当たった。)とかもおられたり。

山下:来られてたんですね、画塾の方に。

木村:うん。結構影響力強かったですよ。

山下:そうですか。

木村:あと、平岡(靖弘)さん。独立(美術協会)で安井賞取った方ですけど。あの方も来られてました。僕、直接は習ったことないかもしれないけど。

山下:結構な方が来ていますね。そういった方の話も聞いて影響も受けつつ、京都芸大一本でいくということでの2年めだったということですね。

木村:いや、みんないろいろ考えてましたよ。

山下:本当ですか。

木村:うん。当時、公立というと、東京藝大か、京美か、金沢なんですよ。だから、その辺も一応、視野の中には入ってるわけですよ。

山下:はい。

木村:あと、京都の教育大学。で、間もなく愛知県立芸大ができるというのもあったし、その辺はずっと、可能性ありと思って見てましたけどね。

山下:ああ。では、東京、関東に行くことも少し。

木村:はい。というか、具体的に関東での生活がどうなるかということではなくて、パスすることしか考えてないじゃないですか、受験を。だから、東京藝大はえらい難しそうだけども、「行ったろかい」みたいな、何ていうのかな。受験生の面白さというか。だから、2年目は、東京藝大と愛知と、三つ受けたんです。

山下:そうだったんですね。で、東京藝大の西洋画科の方に受験することになった。

木村:油画ですね。油絵科。愛知もそうですね。京都美大は西洋画科でした。

山下:ここに合格されて、行こうということで。

木村:そうです。発表が一番早かった。東京藝大はその頃ね、一次が鉛筆デッサンで、AグループとBグループに分かれるんですね。受験生が多いから、43倍かなんかなんですよ。

山下:すごいですね。

木村:抽選でAかBになるんですね。もしBだったら、日程的に受けられるよと。

山下:ああ。

木村:それ、たまたま受けられたんですよ。なので、受けに行ったんです。事前に鉛筆デッサン、ちょっとやったりして。鉛筆による石膏デッサン。で、いとこが早稲田大学にいたんですよ。一年上のいとこが。そこに世話になって。覚えてます、鶯谷から歩きましたね、たしか。

山下:恐れ入りますが、結果の方は。

木村:一次で落ちました。

山下:一次ですか。

木村:それで、鉛筆デッサンだったはずなんですよ。Aグループ、Bグループまでは確かですわ。ところがね、その年、鉛筆デッサンがなかったんですよ。いきなり木炭デッサンだったんです。

山下:変わったんですね(笑)。

木村:もう、「いいよ」という感じで行って、京都美大の木炭デッサンはキャンソンというメーカーの木炭紙で、東京藝大はMBMという、紙質が全然違うんですよ。知っていると思うけど、ざらざらしているのと、さらさらのとね。

山下:結構、影響しますね。

木村:うん。やり方かなり変えないと、うまくはいかないんですね。それは情報としては知っていたし、受ける前から一回や二回ぐらいのテストぐらいはしてたと思うんですけど、本番に行きました。出されてる石膏像が、《マルス》。

山下:ああ、《マルス》ですか。かっこいいですね。

木村:こういうやつね。それもね、ものすごくいい角度の席だったんですよ。「ラッキー」と思ってて(笑)。で、調子よく描き出して、おおよその形描けたところまでは、成功したなって思ってたんです。周り見てても、そんな大層なやついないしね。1人だけ、まあ、ちょっとかなっていう。一教室に30人以上入れられてますよ。

山下:そんなにですか。

木村:いよいよ影をつけていく、調子つけるっていう段階になって、全然感じが違って、木炭紙の感じが。

山下:はい。こすって。

木村:うん。もう、木炭ののりが全然うまいこといかない。

山下:苦しいですね。

木村:2日目ぐらいで、もう失敗したのも分かってるんですよ。みんなさらさら、さらさらってやってるでしょう。その教室の上が、天窓みたいなのがちょっと見えてて、そこに鳩が来るんですね。

山下:はい。

木村:鳩が鳴くんですよ、クークーって。「早よ帰りたい」と思って(笑)。絶対受からないしと思って、もう分かってて、引き揚げてきて、案の定滑ってたんですけど。

山下:その思い出が。

木村:ちなみに、その一回目のふるいで、その教室、全員落ちてましたわ。

山下:えー、そうなんですか。

木村:そういう時代ですね、受験が。

山下:すごいですね。過酷な勝負の時代ですね。

木村:まあ、面白かったですけどね。そのあと愛知も受けて、愛知も石膏デッサンから始まって。

山下:やっぱり石膏ですね。

木村:《アリアス》です。

山下:ああ、《アリアス》。

木村:バッカスという、人が下を向いてるやつ。あれで、まあまあかなと思って、それは受かってたんですよ、一次だけ。

山下:はい。

木村:愛知の発表の前に京都芸大の発表があったんですよ。京都芸大、もう受かったので、もういいやってやめたという。

山下:そうだったんですね。お母さんの方は、遠くを受けること自体は良かったんですね。

木村:受験の段階では、文句は言ってませんでしたけどね。でも、結果、ほっとしたんじゃないですかね。東京で下宿させるって大変でしょう。

山下:京都芸大の方の2年目の受験は、合格もされてますし、結構いい感じでできたのでしょうか。

木村:いや、むしろ1年目の方は自信あったんですよ、僕。あれです、《聖ジョルジュ》ですわ。

山下:ああ。やっぱり石膏ですね。

奥村:覚えてるんですね(笑)。

木村:《聖ジョルジュ》や。

山下:難しいですね。

木村:ベストじゃないけど、いけたかなって。油も何とかこなして、「まあ、いけてるだろう」という感じだったんですよ、1年目。ところが落ちてたでしょう。で、「絶対あいつ滑るわ」と思ってる人が入ってるわけでしょう、ばーっと(笑)。自信なくしてるし。だから、2年目に出てきたのがね、ミケランジェロの《奴隷》ですわ。あれの顔の部分だけくり抜いたやつ。だからね、石膏像としてはこれぐらい小さいんですよ。

山下:そうなんですね。

木村:そんなの、みんな勉強してないでしょ。みんな、《ブルータス》とか、ごっついやつ描いてるでしょう。だから、ぐっと戸惑ってるんですよ。僕も戸惑ったし、何とかやったけど、自信なかったんですよ、それは。

山下:そうだったんですね。興味深いです。

木村:だから、ひょっとしたら2年目もアウトかなって思ってました。

山下:でも、見事合格になったということですね。

木村:ラッキーですね。というか、あとで点数を教えてもらって、デッサンだけだったら滑ってたんですよ。

奥村:油がよかった。

木村:油が1番だったんですよ。

山下:1番ですか。

木村:うん。あれ、(試験結果が)合算じゃないですか、京都芸大は。

山下:はい。

木村:それで入れた。

山下:そのお話の続きでお伺いしますと、色彩の方は、そのときからも好きだったとか、得意だったんでしょうか。鉛筆だけじゃなくて、色を作ったり。

木村:そうですね。いわゆる、何ていうか、造形主義的な色の考え方というのよりも、描写、描写でたたき込まれるでしょう、受験の時は。なので、油絵の具を使ったデッサンですよっていうトレーニングなので、色が遊ぶという感じになると、止められてましたね。

山下:そうですか。

木村:うん。主に人物を勉強するんですけど、髪の毛を描く時に、絶対に僕、緑を使いたくなるんですよ。ビリジャンという。で、収まってると思ってたら、「髪の毛、グリーンじゃないよ」と言われて、変えないといけないんですよ、それ。

山下:そういうことがあったんですね。

木村:そういうのが、ちょっと嫌だった記憶はありますね。

奥村:油絵の具は、東儀塾で習い始めて使うようになられたんですか。

木村:そうです。難しかったですね。

山下:ありがとうございます。ここまでで幼少期を私も伺えて、光栄です。バレーボールをされていたけれど、三年生から一つに絞って、受験に向かわれたことが伺えました。ここから大学の話も伺いたいのですが、奥村さん、よろしいですか。

奥村:はい。

木村:お茶、頂いていい?

山下:はい、どうぞ。(お茶を飲みながら)バレーボールをされていたのですね。かなりアクティブな幼少期。キャプテンですもんね。

木村:バレーボールは詳しいですよ。当時の、どの選手が、どういうふうなあれやみたいな。

山下:最近も盛り上がってはきていますけどね。

奥村:家でお父さんが陶器をいじっていた時は、五条坂の方に、焼くのは共同窯ですか、やっぱり。

木村:いや、それは。というか、おやじが死んでから五条に行くので、窯の直近までは行ってないですね。

奥村:ああ。

木村:周辺の物置き場。焼く時に下に敷くような素焼きのものとか、あるじゃないですか。

奥村:はい、はい。

木村:あれなんかを積んである所が、まあ、ジャングルなわけですよ。

奥村:遊び場で。

木村:で、下見たら、粉だらけでしょ。ぶわーっていうやつですわ(笑)。ほこりだらけ(笑)。

山下:そうしましたら、そういった環境だったのですが、京都芸大では油絵の方に進まれるのですが、そこから版画の方にもなっていきますね。

木村:はい。

山下:その目指した流れは、工芸とか彫刻とか、ご自身の関心は、入学後はどうだったんでしょうか。

木村:なかったですね。

山下:なかったですか。

木村:ええ。油絵が描きたいというよりも、美術の王道というか、一番太い脈になっているのは西洋画でしょうという思いがあったと思います。逆に潰しが利くだろうという。

山下:ああ。

木村:最初から専門的に、デザインであるとか、工芸であるとか勉強するんじゃなくて、美術の基礎というか、勉強できるんじゃないかなっていう希望がありましたね。

山下:ここからは、これまでもお話しをされていたり、私も不勉強なところもあり、結構ストレートな質問もしてしまうかもしれませんが。

木村:どうぞ、どうぞ。

山下:その中に陶芸もなかったということで。

木村:なかったですね。

山下:幼少期のお話からいくと、やや意外な感じではあるんですが。

木村:うーん。やっぱり研究所、画塾に行って、自然主義的な描写にはまり込むんですよね。写し出す面白さっていうのかな。あれでみんな一方向に向いちゃうんですよ、受験生って。

山下:やっぱり木村先生も、空気遠近というか、空間の中に対象を入れていく、写実的な描写自体は楽しいというか、好きで。

木村:楽しかったですね。

山下:京都画壇の京都芸大、京都としての歴史もありますが、日本画の方はいかがでしたか。

木村:(関心が)なかったですね。

山下:なかったですか。

木村:洋画の方が難しいですもん。だから、倍率の高い方に行きたがる受験生っているでしょ。

山下:はい(笑)。

木村:あれにちょっと似てるかな。デッサンに関して言ったら、日本画の連中なんて描けないでしょうっていう、なんか……

山下:そういう空気が。

木村:ちょっと偉そうなところがありましたよね。

山下:そうなんですね。

木村:伝統的な空間とか、日本画の京都画壇の歴史とか、知識がすぽっと抜けてますからね。

山下:学生の時は。

木村:うん。

山下:そうしましたら、まずどういった教育環境だったのか、どういった指導教員の方についたのかについて教えていただけますか。

木村:入学して、当然描写から始めるんですよ、当時の油は。だから、研究所の連続みたいな、入ったら石膏がだーっと並んでいて、それを木炭でデッサンして。

山下:すごい。今と違う。

木村:当時の教授陣が、今井憲一さんという独立(美術協会)の先生。あの先生が主任で、伊藤継郎さんとか。新制作(協会)の先生かな。それから、津田周平さん。安田謙。ヤスケンさん。あと真野岩夫。

山下:結構多いですね。真野岩夫先生。

木村:あと山添(耕治)先生。助手かな、山添さんが。で、舞原克典さんが助手ですかね。あと、非常勤の先生が何人かおられて。

山下:かなりのメンバーですね。

木村:ええ。基本的に、描写から、いかに自分の表現を形作っていくかという。

山下:はい。その中で、特にお世話になった先生とかはございますか。

木村:油の先生としては…… 油絵を習った記憶がないんですよね。

山下:そうなんですね。学校生活の様子、少しお伺いしてみたいんですが。

木村:僕が入学するの、1968年でしょう。

山下:はい。1974年の修了までですよね。

木村:そうです。1968年というと、反体制学生運動真っ盛りなんですよ。いずこの大学も、ほとんど授業をやれていないみたいなことで、安田講堂事件とかね、あとに起こるわけですよ。あの時期なんですね。京都芸大もそういう風が吹いてて、反日共系の全学連に染まったような人たちっていうのが数人いて、僕は心情的にそっちのシンパでしたから、やっぱり。全学共闘会議というね、派閥を超えて全学で一緒にやりましょうやという組織が、全ての大学にできてた時期ですね。

山下:なるほど。

木村:一番激しかったのが、多摩美かな。

山下:そうですね。美共闘がありますので。

木村:だから、授業がね、ほとんどまともに行われてないんですよ。一年生の後半から二年生ぐらいにかけてね。

山下:そういう状況下で、先生との交流も、あまりないということになりますか。

木村:そうですね。自治会に日共系の人たちもいて、やっぱり。「民青」という。そういう人たちが自治会を一応、握っていたんですけども、反日共系のあの動きに同調するような連中が、ある種、学生を束ねていく組織を持っていたりしたので、学生と教授会というのは、基本的に対立構造が作られていたんですね。だから、小さい大学で、それこそ先生も学生も友達どうしみたいな良さが京都芸大にはあるんだけども、そういうものがズボッとなくなっていた時期ですね、その頃。

山下:今と全く想像できない状況ですね。

木村:大衆団交のまねごとみたいなことやってましたしね。

山下:そうですか。そうなりますと、入っていきなりそういう環境になったので、制作は、一応されていたんでしょうか。

木村:デッサンは好きだったからやってましたけどね、それが意味のある表現というか、意義ある行為に思えないんですよ、状況的に。「好きでやってるだけでしょ」ということなら、幾らでもやってられたんですけどね、デッサンは。「芸術って何なの」というのを、いや応なく問われるわけですよね、社会全体から。学生の状況もそうだし、問題意識を持っている先輩たちもいるしね。だから、そこで、いわゆる現代美術みたいなものに触れることになるんですね。

山下:そうなんですね。

木村:1968年というと、関根伸夫さんがね、《位相‐大地》を発表された頃なんですよ。ニュースターとして関根伸夫さんが、ぐんと、『美術手帖』あたりで特集になるみたいな時代でしょう。その直前には、高松次郎さんというスーパースターがいて。

山下:やっぱりスーパースターだったんですね。

木村:超スーパースターですね。

山下:もう既に。

木村:はい。

山下:ああ。轟いていたんだ。

木村:高松次郎さんうっとりになっちゃって、その頃は。みたいな時代なので。

山下:はい。そこのところが興味深いのですが、油絵の写実も好きで、「よし」ということで入学するんですが、その現代美術へのスライドは、結構自然だったということですかね。

木村:そうですね。

山下:そこには、京都芸大のきな臭い環境が影響していた。

木村:きな臭いというと?

山下:きな臭いというか、今までの描写を普通にやっていけるような、制作できる状況になかったということも影響しているというか、ゆっくり制作もできない。美術そのものを、入った瞬間に問われてしまう。一年生で入ってきて、先輩がそういうことを考えていてということで、急に揺さぶられるという。

木村:そうですね。

山下:そうですか。関根伸夫さんの《位相‐大地》も出てくる時期ですけど、そういった「形態」以上に、認識とか、視覚への関心を表象するような作家がいるということは、一年生、二年生の段階でも割と自然と受け入れられたというか、「そういう表現、ありなんだ」ということ。

木村:うん。気になってしかたがなかったですね、そっちの方が。

山下:本当ですか。でも、描写も好きだったということですよね。

木村:そうです、もちろん。

奥村:神戸須磨離宮公園とか行かれました?(注:関根伸夫の《位相‐大地》は、第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展の出品作だった。)

木村:行ってないです。まあ、情報ですね。『美術手帖』だよね。やっぱりあれは大きいと思います。

山下:そうなんですね。

木村:まさに批評の時代じゃないですか。中原、東野、針生、あのあたりが書きまくっているわけですよね。あれがまた気になるし、そこへ李禹煥(リ・ウーファン)なんかが、『出会いを求めて』を発表して、本はまだ出ていなかったと思うんですけど。僕、あのときに、「高松次郎論」というのを李さんが書いてて、それを必死で読んだんですよ。(注:李禹煥「出会いを求めて (発言する新人たち--非芸術の地平から(特集))」、『美術手帖』(324号) 、美術出版社、1970年2月号、14-23頁。)

山下:そうなんですね。

木村:それまで、中原さんにしても東野さんにしても、文章は読んでも、もうひとつ分からない、理解もできない。でも、「これが問題になっているのだろうな」ぐらいの感じだったんですけど、それじゃ読んだことにならないなという気持ちもあって、李さんの高松論だけは、一所懸命読んだんですよ。自分の理解、自分の言葉に置き換えるような読み方をしたというか、初めて。それで、高松さんの作品の展開と、歴史的なオブジェ。物体とか、ああいうものの考え方の変遷みたいなことを、ざっくり勉強できたんで。

山下:そのざっくり入るのも、木村先生は受け入れられたんですね。

木村:そうですね。

山下:こういう違う表現もある、こういう動きがあるんだということに、抵抗感はなかったということなんですね。

木村:抵抗はなかったですね。

山下:むしろ、逆に面白い。単なるオブジェじゃない表現でもいいんだと。

木村:そうですね。何年だったか知らないんですけども、学校全体が大荒れに荒れてるわけでしょう。先生と生徒が、けんかするみたいな状態じゃないですか。でも、芸大展は必ずありましたよね。そのときに、野村仁さんの段ボールの作品。有名な。(注:1969年の京都市立美術大学での修了作品として、重力と時間により巨大な段ボールが崩壊していく様子をカメラでとらえた作品《Tardiology》を制作している。)あれを目撃してるんですよ。あれで、やっぱりすごい衝撃でしたね。

山下:ああ。では、先輩にそういう方がいて。

木村:あのとき以来、「野村さんってすごいな」と思いましたね。

山下:本当ですか。

木村:ええ。

山下:在学中の制作の展示のことや、どういう仲間関係だったのかもお聞きしてるんですが、芸大展があって、常に上の方の作風なんかを確認していて、木村先生もそのときは出品されてますか。

木村:してます。

山下:そのときは、どういったものを。

木村:一年生の時は……

山下:版画に行く前の様子を、もう少しお伺いできれば。

木村:一年生の時は、当時ね、澁澤龍彦さんが好きだったんです。

山下:澁澤さんですか。

木村:はい。シュールレアリズムの売れっ子の文筆家でした、澁澤さんって。ファン、たくさんいたと思います、当時。彼が見ている空間がありますよね、いわゆる。シュールレアリズム系のあのあたりの作家が好きで、その周辺に、アール・ヌーヴォーのちょっとした流行があったんです。(オーブリー・)ビアズリーとかね。今でもビアズリー出てきたりしますよね。

奥村:人気もありますね。

木村:ミュシャなんかもあったし、あの辺の表現にちょっといかれてて、一年生の時はね、そんな絵描いてたと思います。人物でも。

山下:興味深い。今もそういった……

木村:存在しません。潰しました(笑)。

山下:そうなんですか。そういうのは、制作室で描いていたと。

木村:そうです。

山下:先生とは、でも、あまり意見交換はできないという状況だったんですか。

木村:はい。チェックしてもらってないと思う。でも、並べとかないと成績はもらえませんよね。なので、展示されたものを先生が、ざっとチェックで点数つけていたのではないかな。

山下:そうですか。では、画塾を経て入学して、更に技術的な学びという環境ではなかったんですね。とにかく入ったけれども、あまり教育は進んでいない。

木村:油絵の基礎が勉強できてないですね、僕。

山下:ああ。ちなみにその頃は、どういった方々と一緒に行動していたりとか、仲間との思い出はありますでしょうか。

木村:ええとね…… 当時、現代美術研究会というのがあったんですよ。「KASOU(カソウ)」っていう名前がついてて、そのクラブの名前に。

山下:クラブですか。

木村:うん。同好会かな。

山下:学内の研究会ですか。

木村:うん。だから、西洋画科の授業に物足りなさを感じている連中がいて、KASOUという名前は、ダダが、「ダダ」という言葉をさいころかなんかでやるじゃないですか。偶然性の並びでタイトルつける。それと同じ方法で、KASOUというのは、つけてるはずですわ。

山下:燃やすことの火葬じゃなくて。

木村:うん。K、A、S、O、U。

山下:それでKASOUですか。面白い。

木村:一年先輩に何人かさえた人たちがいて、更にその上には、政治的にさえてる人たちがいて。なので、芸術至上主義的に現代美術を追求したい連中と、政治的にやりたい連中とが共存していたグループです。

山下:そうなんですか。なんか、いろいろと見えてきました。

木村:そこにちょこちょこ顔出してて、面白いなとは思っていたんです。その中には、もちろん鶴田もいてましたし、あとは、中島一平とか。あとね、橋本文良。あと、岩崎容三というのがいたんですよ。僕と同じ歳で、現役の時に西洋画科1番で通った優等生なんですよ。ものすごい才能もあったしね。だから、「こいつには絶対かなわない」と思った人なんです。彼が、そのKASOUの中にいて。

山下:面白いですね。

木村:そんな人もいて、街頭でデモ行進なり、ああいう活動をするときに、必ずトップを走って行ってるという人たちが数人おり。

山下:へえ。先生の様子が見えてきました。

木村:そんなところに顔を出してたんです。で、1970年、紛争がピークまで一気に行って、終息しますよね。

山下:はい。三年生ぐらいですね。

木村:はい。そこで、みんなぽつりぽつりと学園に帰ってくるわけですよ。あそこまで言うてたやつが、どの面下げて帰ってくるわけ? というのがいっぱいいるわけですよね。そういう連中もぽつりぽつり帰ってきて、そういう連中を何とか救い上げなきゃいけないよねって、教授会も考えるんですよ。

山下:そうですか。

木村:で、木村重信さんあたりが改革案というのを作って、カリキュラムがごろっと変わるんですね、そこで。そのときに西洋画のカリキュラムも変わって、「構想設計」という教室ができるんですよ。(注:構想設計は、元々は絵画専攻の造形構想であり、その後1980年に専攻として独立している。)その構想設計になだれ込んでいったのが、そのKASOUの連中なんです。だからKASOUなんですよ、構想設計って。僕らの感覚で。

山下:そうか。すごいメンバーの方が、構想設計に行ったんですね。大学三年生頃になりますが、そのときに木村先生は……

木村:僕は、構想設計にはいません。絵画3を取っていました。絵画3の担当教授が真野岩夫さんだったんですけど、真野さんというのは抽象絵画を描いていた人ですけども、まあ、自由にやれるかなという感じがしたので、そこに身を置きながら、高松次郎さんのまねをしてましたね。そのときに作ったのが、日時計なんです。(注:《Mへの手紙、あるいは限界としての3時30分》(1972年))

山下:進級作品展の作品。

木村:はい。

山下:制作や作品のこともこれから伺いますが、その一歩手前で、絵画3ですが、そこから版画の方に移ると思うのですが。

木村:僕、3がね…… 現代美術の状況を見ているでしょう、その段階ではね。で、高松さんを神様みたいに思っているでしょう。そのあとに関根が出てきて、「もの派」が幅を利かせて、いわゆる千葉成夫さんの『現代美術逸脱史 1945〜1985』(晶文社、1986年)。

山下:逸脱史、はい。

木村:あの本が描写してるような状況が、周りには見えているんですね。そんな中にあって、版画というのは、全然音色が違ったのですよ。そこへ吉原英雄さんが来られてて、ものすごい人気のある教室でした。

山下:そうなんですね。

木村:「版画基礎」というのをとりあえず必修で取って、それでないと版画制作に行けないんですけど、版画基礎の授業が、なかなか取れないという時代でした。そういう状況の中で、田中孝という研究所からの友達が、彼は一学年下なんですけどね、「おもろいで」というので連れていってもらったのが、版画研究室だったんですよ。

山下:版画研究室。

木村:はい。そこに吉原英雄さんが主任教授みたいな形でおられて、助手に舞原克典さんがおられて、非常勤で井田照一がいるわけですよ。

山下:非常勤でいらっしゃったんですか。

木村:非常勤でした。

山下:へえ。

木村:ある種の緊張感がある合評会で、でも、音色としては、いわゆる現代美術の王道というか、主流?の高松さんがいて、もの派が出てきてという。で、日本国際美術展かな。高松さんが柱を建てたような作品を作っていた、あの時期。ああいうのと全然音色が違う人たちがいるんですよ。

山下:そうですね。

木村:で、並行して、東京国際版画ビエンナーレというのが活況を呈してるんですね。(注:東京国際版画ビエンナーレは、1957年から1979年にかけて、東京国立近代美術館と京都国立近代美術館で隔年開催された。)東京国際版画ビエンナーレの方に行ったら、色があるわけですよ、少なくとも。他の現代美術の展覧会って、色ないわけですよ。色なんか使える時代じゃないんです。物そのままっていう。あるいは写真、白黒の写真。

山下:はい。コンセプチュアルですね。

木村:ゼロックスコピーとかね、そんな時代でしょう。のうのうと色を使っているんですよ。池田満寿夫とかね、そんな人たちが。「こっちの方が自由やな」と思ったんでしょうね。

山下:そうなんですね。高松さんに関心を持ちつつも、少し版画の方に自由さを感じたんですね。

木村:そうですね。高松さんはほんと、神様みたいに思ったけど。

山下:そこまでの影響力が。

木村:そこをフォローしていったら、自分はアウトだなという感じがありました。狂っちゃうというか、あそこまで突き詰めていったら、俺の頭だったらもたないっていうかね。

山下:ああ。畏怖みたいな感じもあったのかもしれないですね。

木村:そうね。一種の恐怖感やね。

山下:うーん。惹かれるけれども、ちょっと距離を置いてしまうというか。

木村:うーん。

山下:そこで、田中さんに紹介をされて版画研究室の方に入っていくと、割と合ったといいますか、空気感が合っていくのでしょうか。

木村:そうですね。吉原さんの教育方法というのが、それまでの教師と生徒との関係からは想像できないようなものだったというかね。

山下:そうなんですね。

木村:「プロのアーティストの現場っていうのは、こういうもんよ」というのを、じかに見せてくれたというかね。「卒業して、あんた、どういう人生設計を持っているのか知らないけども、具体的にはこういうことです」というのを見せてくれたんですよ。高松さんの作品を見ていても、中原さんの文章を読んだって、全然そういうものは見えてこないわけですよね。

山下:そうですね。構想は強いですけど。

木村:取り組みとしては面白いのですけども、「それで、あんた、どうすんの、あしたから」っていう。その辺を吉原さんは、よく見せてくれましたね。

山下:そうなんですね。では、そこで、シルクスクリーンを中心にやってみようかという気になっていったという。

木村:そうですね。版画というジャンルは面白いなと思ってましたが、最初は僕、リトグラフから始めてるんですよ。吉原さんがリトの先生でしたし、先輩の作品も廊下によく貼ってあったんですね、当時。

山下:そうですか。

木村:校舎の1階に版画工房があって、その廊下側に展示コーナーみたいなのがあってね、先輩の作品が時々並べられていたんですよ。その中で抽象のリトの作品を見て、「こんなきれいなものを作る人がいるんや」と思って。リトグラフのしっとりした色面があるんですね、ちょっと濡れたようなね。

山下:はい。それに惹かれていったという。

木村:惹かれましたね。「こんなの作れるんだったら、ここの教室行きたいな」みたいなものがあって。

山下:そうなりますと、今までの油絵からは離れるのですけど、それに対するもったいなさみたいなものは、あまりなかったんですか。

木村:なかったです。

山下:むしろこの技法、版画を覚えていきたいなという。

木村:そうです。リトの方が面白そう。で、学校がまだ荒れてる状態じゃないですか。だから、その教室に潜り込むんですね。正規に版画なんか取ってないんです。

山下:そうなんですね。

木村:リトをみんな刷ってるわけですよ、先輩たちが真面目に。そしたら、その中の女性の先輩が、「リトやりたいの? 教えてあげるわ」と言って、「こうやって、こうやって、な」と教えてもらったのが最初ですね。

山下:そうなんですね。

木村:なので、後に版画を正規に取った時は、「俺、もう先やってるし」みたいな気分があったんですよ。

山下:先に覚えてると(笑)。

木村:生意気でしょう(笑)。やりにくかったと思いますよ、舞原さんやらは(笑)。

山下:先生の若い時代の様子が見えてきました。

木村:「おまえ、版画基礎を取ったんだろうな」って、まともに取ってないわけや(笑)。「なんや、こいつ」ってなもんでしょうね。でも、そういうのが許された、それぐらい学校が荒れてたというのもあるしね。

山下:そうなんですね。その吉原先生の研究室は、学生は多かったんですか。

木村:多かったですよ。一番人気だったんじゃないですか、当時。

山下:そんなにですか。

木村:いわゆる現代美術というところで幅利かせてたのは、彫刻ですけどね。

山下:そうですよね。

木村:彫刻の時代ですわ。中原さんの時代というか、立体化していくわけ、どんどん。

山下:はい。そこはそこで大きな、京都芸大内でも集まりにはなっていった。

木村:なってましたね。「やっぱりすごいな」と思う先輩がいる科ですよね、彫刻は。

山下:はい、興味深いです。お話を伺って、高松さんや関根さんが出てくるので、そっちの方に行きそうに思いきや、そこは違ったんですね。版画は色もあり、自由もある。そちらの方にとどまられた。

木村:そうですね。

山下:方向を、ぐっと変えたんですね。その話は結構、その後の起点だなと思って、今、お伺いしました。現代美術系の人たちとの友達関係みたいなものは、あったんでしょうか。割と版画周辺の友人とのつきあいになっていったのでしょうか。

木村:うん。その頃仲のよかった連中で、あと、KASOUにいた連中?もうちょっと遠いですけど、その辺の連中が見てたところって、みんな現代美術なんですよ。なので、友達はみんな現代美術でしたね。

山下:それは、どうですか。自分との距離感のようなものは。友達は友達だしみたいな。

木村:うーん。でも、当時やっぱり、真面目に日本画を描いてた人もいるんですよ。

山下:はい。その辺の空気感が見えてくると、すごく面白いんですが。

木村:そんな中で、今でも影響というか、関係のある友達が、長野五郎というのがいるんですけど、彼は染織科で入ってくるんですね。学年としては一つ下ですわ。彼が、リトの部屋で何かやってるんですよ、染織科なのに。

山下:染織なのに。

木村:うん。僕はその頃、もうリトのプロセスをのみ込んでいたので、「それ、違うよ」と。僕も先輩に教えられた身だから、「こうして、こうして、こうする」みたいなのを教えたのがきっかけで、彼と大の仲良しになるんですよ。

山下:そうですか。

木村:彼が、そうやな。一番影響受けているかもしれない、友達だったら。

山下:制作ではなく友達付き合いや、お酒も含めて、木村先生はどんな学生だったのかについてもお聞きしたいんですが。

木村:入学してね、バレーボール復活させるんです(笑)。

山下:そうなんですか。

木村:趣味ですよね、結局。同好会みたいなクラブじゃないですか、芸大のクラブなんて。でも、高校の頃に経験したよっていうのが数人いて、割にレベル高かったんですね。なので、入って遊んでましたね、バレーボールで。

山下:京都芸大で、バレーボールが復活した。

木村:バレーボール部です、はい。

奥村:元々あったんですか。

木村:ありました。先輩でもね、かなり上手な人がたくさんいて。

山下:そうなりますと、今の大学の五芸祭じゃないですけど、大会に出場されて。

木村:出場、ずっとしてました。

山下:やはりバレーボールが好きだったんですね。

木村:だから、当時バレー部というと、森田りえ子とかね、結構な連中いっぱいいるんですよ。

山下:そうなんですか。

木村:箱崎睦昌さんが先輩でしょう。更に先輩には、福嶋敬恭さんもバレー部らしいし。

奥村:ああ、本当に。

木村:はい。この間亡くなった岩倉(壽)さん、日本画のね。あの人が先輩であり、後に顧問でしたね。部長というのかな。

山下:先生の学生時代の様子が見えてきましたけど、バレー部の仲間とも長い4年間だったんですね。

木村:そうですね。

山下:大学院も行かれますが。では、いわゆる宴会みたいなものや夏の合宿とかはありましたか。

木村:はい。酒の日々ですね。

山下:酒の日々ですか。

木村:めちゃくちゃ飲むからね、芸大生って。当時は。

山下:そんなイメージがありますけど、先生も好きで。

木村:強かったですね。

山下:そうですか。先生の学生時代が見えてきました。友人はKASOUの人たちもいて、進級作品展というものがあったんですね、当時は。

木村:いや、卒業制作と進級制作が並ぶ展覧会だから、芸大展のことですよ、要するに。

山下:そうなんですね。先ほど、高松次郎さんへの憧れという話で日時計のお話もあったんですが、《あるいは限界としての3時30分》は、このときはまだ版画ではなく立体的なものだったのが興味深いと思ったんですが、立体にされたのは、ここではまだ。

木村:立体と平面との区別はしてなかったですね。

山下:このときはまだ。

木村:うん。「どっちでもできるでしょ」というノリ。

山下:はい。この作品はこれまでにもお話しているかもしれないのですが、日時計にされたひらめきについて、もう一度お話しいただけますか。

木村:高松さんの《影》の作品を見ているわけですよね。平面の上に平面を描くことで、平面のオブジェを作るということをやっていたんですよ、高松さんは。でも、そこの上に、実際の影がまた当たるじゃないですか。実際の影と描かれた影は、判別できないんですね。その判別不能性に、ものすごく興味あったんですよ。

山下:うーん。

木村:おまけに、それがぴたっと二つ重なってしまったらね、「どっち見てんの」という、その状況が面白かったんですね。

山下:そういった判別不可能性、空間に、イリュージョン的なものが取り込まれていくことや、それを見る側の認識の問題という、結構構想が入ってくる進級作品展だったのかなと思うんですけども、ひらめき自体は容易なものだったんでしょうか。描写が好きな状態から入ってきて、それでも、高松さんとかも見ているということですが。

木村:そうですね。

山下:かなり苦労して作ったものでもないですか。

木村:いや、ひらめきが先にありました。アイデアが先にあって、それが一番合理的に提示できる方を選んで、着々と作ったという。一気に作っちゃったという感じですね。

山下:ここは結構、その後の先生像にも関わる、先生の思考の部分だなというふうに私は思うんですけども。

木村:さっきのリトもそうですけど、先生に技術的な指導を受けるということがあまりないんですね、僕。先輩に習ったり、そんなことが多いんですよ。だから、それも、かなり大掛かりな設備の要る塗装作業が必要なんですね、スプレーで。

山下:そうなんですね。

木村:で、塗装科があったんですよ、当時。漆科で。そこにも友達がいて、「俺、これこれ、こういうもの作りたい」と、「それなら、あそこ行ってこれやりや」と教えてもらって、やらせてもらったりとか。科とか専攻を完全に越えてますよね。

山下:この作品展に出された時の周りのコメントなどは、記憶はございますか。先生とかは、「立体を出してきたな」みたいな。

木村:いや、それはなかったです。立体に対するアレルギーって、当時はなかったんじゃないかな、油の中でも。というか、平面に価値を見いだすという論調もなかったんですね。藤枝(晃雄)さんがまだ、ね、平面性の絵画というのを(推進していた)…… 当時から、だから、中原さんにかみついていた批評家って藤枝さんぐらいの感じで、藤枝さんの文章を僕も一所懸命読むんですけども、何言うてはんのかよく分からなくて、ピンとこなくて。グリーンバーグも知らないしね、その頃。だから、「立体、立体」言うて、みんな向かっていた時代ですね。

山下:では、出された時は周りも、「木村さん、こんなの出してきたな。面白いな」というような雰囲気だったという。

木村:そうですね。

山下:いろんな作品がある中の一つで。

木村:そのとき、まだ絵画3にいたわけでしょう。でも、版画の部屋には潜り込んで、何かやっているはずなんですよ。

山下:そうかなと思いまして、作品展は立体的なものにされたんだなと。周りの友人の反応はどうだったのかなと思いました。

木村:みんなそんなもの作ってましたよ。ちなみに、田中孝ね、かしわ出してましたからね(笑)。

山下:かしわですか。

木村:鶏肉。鶏のもも肉かな。あれをそのまま展示した(笑)。

奥村:そのまま?

木村:そういう時代です。先生もそれを拒否できない。

山下:時代感が。

木村:さんざん暴れてる連中ばかりですからね。

山下:ただ、先生は、いわゆる現代美術の方に、ちょっと繰り返しにはなるんですが、進級作品展は日時計を出されるけれども、その後は版画に向かっていく。

木村:はい。

山下:それは、自然なんですね。

木村:版画は現代美術ですからね、そのとき。なので、そこには区別はないんですよ、ある意味。

山下:そうか。先生にはなかったんですね。

木村:うん。現代美術の一つのやり方として、「版画あるよね」と思っているから。

山下:それでは、次は、リトグラフないしシルクスクリーンを用いた制作に入っていこうかという心境で、そのまま修士の方にも上がっていかれるという。

木村:そうです。修士というか、専攻科ね、当時。専攻科の受験の時には、もう版画に行くことを決めていました。版画教室に行くと。

山下:その専攻科の時の教育は、どういった雰囲気での2年間だったのかも、思い出話があればいただきたいんですが。

木村:自由制作ですね、基本は。課題が出されるなんてこともなくて。で、合評会が繰り返されると。そのときには、井田照一なり、吉原英雄(がいた)。

山下:そのときに、抽象絵画的な学生もいらっしゃれば、どっちも境界はないとは思うんですけれども、あえてジャンル的に見るのであれば、そういう絵画的な作品もあれば、先生のように少し構想も入ってくる学生もいるという。

木村:そうです。

山下:それを先生方は、割と自由にさせていたということですね。

木村:そうですね。自由でしたね。

山下:合評的は、何かコメントをもらったりなど思い出はございますか。

木村:うん。緊張感がありました、やっぱり。

山下:結構厳しさも。

木村:そうですね。特に井田照一は、ずけずけ言う人だったし。

山下:そのあたり、興味深いですが。

木村:「趣味的」と言われたことがあってね、一ぺん。趣味的という言葉、当時、理解できなかったんですよ。「俺、趣味でやってる気ないし」みたいな、単なる反発みたいなのだけがあって、趣味的という言葉を理解するのに、吉原さんに聞きに行ったり、井田さんにももちろん聞いた記憶あります。納得の行く答えは聞けなかったんですけどね。

山下:そうなんですね。

木村:今となっては分かりますけどね。要するに、「批評のレベルまで行ってないよ」という話ですよね(笑)。

山下:うーん。

木村:「作品じゃないし」という意味だったんですけどね。でも、作ってる方は、必死で作ってるわけじゃないですか。

山下:はい。

木村:なので、切り捨てられたみたいな印象を持っちゃったんで、反発を覚えたというか、そんなのは覚えてますけどね。

山下:そうですか。また専攻科でも変わらずバレーボールをされつつ、版画制作を研究室でしつつ。

木村:修士の時は、もうバレーはやってなかったと思うけど(笑)。

山下:やってなかったですか。

木村:吉原さんの教育は独特でね、一種。当時の教授陣というと、堀内正和とか、辻晉堂、八木一夫。で、のちに学長をやられる佐藤雅彦さんとか、ああいう人たちが仲良しなんですね。夕方になると、版画研究室にふらっとやってくるんですよ。特に八木さんなんかが。

山下:そうなんですか。

木村:そしたら、英雄さんも飲むの大好きでしょう。ウイスキーが出てくるわけですよ、自動的に。そこで酒盛りが始まって、そこで交わされる言葉というのが、やっぱりプロの言葉でしょう。聞いてるだけで面白いんですよ。で、そこで終わりません。次、東山だから、祇園が近いんですよ。

山下:ああ、そうか。

木村:街へ繰り出すわけですよ。それに絶対ついていってました。

山下:日付を越えてみたいな。

木村:そうです。最後は吉原さんの家にいたりとか。その途中で、最初は堀内さんがいなかったんだけど、どこからともなく堀内さんが入ってたりとか、辻さんがいたりとか、そこへ林剛が絡んできたりとか。そこで交わされる言葉というのは、やっぱり面白かったんです。

山下:そういう環境下だったんですね。

木村:だから、授業時間中に教授されてない感じ。

山下:外でお酒が入っての。

木村:そうです。そのあと(笑)。

山下:本当に熱いというか、それぞれの集まりの強い状況だったんですね。研究室内の人と人とは、それぞれが孤立に制作しているというよりも、結構集っていた場だったという。

木村:でもね、最後までついていくのは、限られた連中なんですよ。

山下:そうですか。

木村:でも、田中孝は、当時もう車を持っててね。なので、運転手なんですよ。彼が常に最後は英雄さんを家まで送り届けるみたいなね、役割だったから。で、僕、仲良かったからね、一緒にいるでしょう。それと版画研究室だけの話ですると、井田組と吉原組というのは、ちょっと色合い違うんですよ。

山下:そうですか。

木村:大きく分けて2派いるんですね。井田さんは、絶対吉原さんには絡んでこないし。井田は独自の井田空間というのを持っているんで、それを慕う連中が家に入り込んでて、合宿状態ですよ、一種。橋本文良さんも完全にそっちに行ってたからね。あの辺は逆に吉原批判的な目を持ってたし、吉原側は井田批判的な目を持ってたと思うし、和気あいあいではないんですよ。

山下:そうなんですね。

木村:その両組にも絡まない人がもちろんいて、それは、ある意味マジョリティーだったと思いますわ。そういう人は、制作は現在はしてない人たちですね。

山下:ああ。先生は、どちらかというと吉原先生の。

木村:完全にそうでしたね。吉原さんの優しさかな。

山下:作品を出す場としては、この頃はまだ芸大展だけですか。

木村:そうです。最初にグループ展をやったのは、1970年ぐらいだと思うんですよ。

山下:学部生ですね。

木村:「4人展」をやるんですよ、最初に。1970年ですね。(注:「版画4人展」(画廊みやざき、大阪))

奥村:学生でやる。

木村:うん。軽いノリで、画廊「みやざき」で。

山下:このあとから個展の話もお伺いしたいんですけど、それは、いわゆる仲間で集まって「やろうか」ということですか。

木村:そうです。軽いノリでした。でも、1972年の「みやざき」では、日本画の箱崎(睦昌)さんも一緒だったと思う。

山下:ジャンルはいろいろですか。

木村:はい。箱崎さんもシルクスクリーンを作っていましたし、版画基礎かなんかでね。

山下:そういう学生どうしで展示したりというのは、まだ少ない頃と他の方で聞いたことがあるんですが。

木村:そうですね。

山下:木村先生はそういう中で、1970年の在学期間中に大阪の信濃橋画廊や京都のギャラリー16での個展をなさるのですが。結構関西で重要な位置づけにあるギャラリーだったと思いますが、早い段階での個展となった経緯について改めて教えていただけますでしょうか。

木村:はい。1972年に「木村秀樹の版画展」というのを信濃橋画廊で(やった)。これはエプロンといってメーンの会場ではない小さい方のスペースなんですけどね。実はその前に吉原さんが、「若い人を推薦してください」とギャラリーさんに頼まれて、何人かを選んでグループ展をされたんですよ。(注:「新人推薦展」(信濃橋画廊、大阪)そのときに、橋本文良さんというのが一年先輩なんですけれども、彼が断わったかなんかなんですよ。

山下:断られたんですか。

木村:うん。で、穴が開いたんですね。そのときに「おまえ、出すか」と言われて出したんですよ(笑)。それを当時、画廊の相談役だった福岡道雄さんが見てくれて、恐らく福岡さんがちょっと気に入ってくれたんだと思うんですよ。それで、ギャラリーオーナーの山口さんに「あれ、やらせたら面白いんじゃない?」と言ってくれて、声をかけてもらったのが、最初のこの個展なんです。

山下:そうだったんですね。そのときはどういった作品を。ギャラリー16の時は、《Small Blinder》(1978年)を出されているかと思いますが。(注:最初のギャラリー16での個展「木村秀樹の版画展2」は1973年に開催している。)

木村:写真製版のシルクスクリーンでした。

奥村:シルクスクリーンは、いつから、どのような形で。

木村:ええとね、もうリトでしょう、僕は。

奥村:うん、うん。最初はリトで。

木村:リトグラフって、基本的には石で始めて、僕。石のタッチというか、感触というのを好きでしていたんですけども、石が足りないというのもあるし、作品のサイズをどんどん大きくしていったというのもあって、ジンク版、亜鉛版に移っていくことになるんですね、当然。ところが、言うこと聞かないですよ、なかなか。リトグラフって。で、せっかちでしょう、こっち。製版にそんな時間もかけてられない。もっとさっさ、さっさって続いていくものが欲しかったというかね。シルクスクリーンって、そういう意味では速いんですよ。データどおりのことが、一応できるんで。で、写真に興味がもう移っているので、この頃は。

奥村:写真への興味は、一方であるわけですね。

木村:そうです。写真製版、すなわちシルクスクリーンだったんで。

奥村:感光乳剤は最初から使ってらっしゃった?

木村:使ってました。重クロム酸系の。今や発売禁止になってますけどね。それもね、先生にきちっと教えてもらった記憶ないんですよ。

山下:そうなんですね。

木村:はい。先輩に「こうやってな」いうのを習って、見よう見まねでやってたんですよ、1970年ぐらいからは。

山下:ギャラリー16の方は、これも京都市内のギャラリーとしては結構重要な場だと思うんですが。

木村:そうですね。やっぱり関西の前衛の連中が集まっているギャラリーで、そこはね、僕もほとんど毎週見に行って。最初、ギャラリー16でやりたいと思って、信濃橋でやらせてもらった作品の作品写真をぶら下げて、オーナーの井上さんに話しに行ったんです。「こういうのをやってるんですけども、個展をやらせていただけませんか」って。

山下:ああ。

木村:最初は井上さんね、「版画をしてるの? 版画だったら、平安画廊に行った方がいいんじゃない?」と言われたんですよ(笑)。その話、今でも言うんですけどね、「私、本当にそんなこと言った?」と彼女は言うんだけれど(笑) 平安さんとちょっと違うやつだと言って、信濃橋でやった作品の写真見せたら、「こういうのをしているのだったら、けっこうですよ」とやらせてもらったのが最初です。

山下:その場で。

木村:はい。

山下:すごい。

木村:そのときは、貸し画廊というか、貸してもらうつもりで行ってますし。

山下:では、木村先生の方から、ギャラリー16でやってみたいということで。

木村:そうですね。やりたかったです、あそこでね。

山下:作品ですが《Small Blinder》(1978年)を出されたということで、景色をレイヤー的に重ね合わせていきたいという作風のひらめきが、この時点からあったということに。つまり、こういった作品を作ってみたいと考えた過程を、お聞きしたいのですが。

木村:1978年の、ギャラリー16+ONEという所でやらせてもらってるんですよ、恐らく。その頃から、そうですね。「レイヤー」という言葉はまだなかったですけども、そのとき。(注:ギャラリー16+ONEは1976年と1978年と二度個展を開催している。)

山下:構想をどういうふうに準備されていたのかについて聞いてみたいのですが。

木村:いわゆる鉛筆の作品が、1974年に専攻科を修了するんですけども、そのときの修了作品展に出したものがベースになっているんです。(注:《Pencil 2-1》(1974年))その頃、写真製版のシルクスクリーンで、モノクロの写真ですけれども、網をかけて中間調子を再現するということも覚えて、キーワード的に言うと、「原寸大」というアイデアに興味があったんですよ。原寸大、これはもう実物ですけども、これを写真に撮ったものを、「原寸大」ってよく出てるじゃないですか。「原寸大で撮ってます」という。(注:鉛筆を持ちながら話をしていただいた。)それが不思議でね。だから、実際の影と描かれた影がぴたっと重なるという水準と、原寸大という概念は近いと思ったんですよ。同じというかね。現実界にも属しながら、イリュージョン界にも属する。でも、どっちでもない、ちょうど宙づりになってあるわけでしょう。そこに興味があったんですよ。かつ、写真の手描きによる描写では得られない描写力、写真の描写力を生かして、何か作品が作れないかなと思っててやったのが、修了制作なんです。それをたまたま乾由明さんが見てくれて、東京国際版画ビエンナーレに推薦してくれたんです。

山下:推薦だったんですね。

木村:はい。望外のチャンスですよね。みんな出したい展覧会ですから、東京国際版画ビエンナーレって。転がり込んできたわけですよ、チャンスが。

山下:では、個展をしたことで、乾さんがばったりと見てしまったという。

木村:そうです。信濃橋(画廊)でやっていたのも、ごらんになってたと思うんです。乾さんと吉原さんは結構仲良かったし、しょっちゅう会われてたし、対談もされてるのかな。そういう間柄でしょう。「吉原教室のやつやね」ぐらいは知っていたと思うんですよ、この辺で。信濃橋でやってた作品も見て。

山下:結構キーになったのですね、信濃橋は。

木村:大阪をよく回っていましたからね、乾さんは。そんなこともあって、「木村というのがいるよ」というのを推薦してもらって、それで「気張らなあかん」と。こんなチャンスめったにないしと思って作ったのが、《Pencil 2》というシリーズなんですが、それを制作したのは嵯峨美術短期大学だった。

山下:嵯峨美ですか。

木村:はい。芸大の専攻科修了してすぐ、嵯峨美の非常勤副手というのに雇ってもらったんですよ。ねじ込んだっていう方があたっているかな? 先輩がいましてね、村上文生という(笑)。結構仲良かったんですよ、在学中から。当時、嵯峨美の版画科の先生をされていたんです、村上さんが。それで、その上に西真さんという主任の教授がおられて、西さんも比較的話ができるような人だったんで、在学中から嵯峨美に暇があったら通っていたんですよ。「来年、僕、卒業するし、雇ってくれへんかったら暴れるで」と(笑)。村上さんとは、そういうノリの会話していたんですよ。

山下:そうなんですね。

木村:ええ。それで、修了したら、約束を守って採ってくれたんですね。だから、制作したのは嵯峨美の版画の部屋で、《Pencil 2》のシリーズは刷っていましたね。

奥村:嵯峨美には、そういう施設、設備があったんですね。

木村:ありました。当時、版画科と呼んでいたかどうか、コースだったかもしれないけども、独立してたんですね。唯一だったんじゃないですかね、当時。版画として独立した研究室を持っていて、入学時点で版画として入学させていたところというのは。多分、他にはなかったと思うんですよ。後には、多摩美とか京都精華大学とか、京都芸大も一種独立した版画研究室になりますけども、それまでは大体油の中の一教室ですからね、版画は。

山下:ここから、前半部分の展覧会や制作のお話を今日は伺えて、1980年代に入る手前ぐらいまで伺えたらと思っていまして、長丁場になりますが、大丈夫でしょうか。

木村:私は大丈夫です。

山下:すいません、ありがとうございます。

奥村:学校とかで学科があるのも、今は普通にあると思っているけど、「いつできたかな」と聞いていったら、結構なかったりとかしますね。

木村:そうでしょう。版画科って、ほんとに新興勢力ですよね。1970年代になって当たり前になっていきますけどね。

山下:では、続けてよろしいでしょうか。もう少し突っ込んだ質問になってしまうのですけれども、原寸大などへの関心があって、それを修了前後では作品にしようというふうになっていたということですが、版画研究室での周辺の環境は、他の学生や卒業したばかりの方も含めて、こういう構想的なものを版画という技法を用いて表現するというような方々は、他にもいらっしゃったのでしょうか。版画という技法を用いて、抽象的な、絵画的な作風をしている方も多かったけれども、人の認識や視覚的なものについて何か表象したいというような方もいらっしゃったのか、木村先生がこういった関心・表現を作品に出していきたいという思いが深まっていく過程をもう少し聞いてみたいのですが、やはり高松次郎らの活動が、ずっと念頭にあってということなのでしょうか。

木村:そうですね。技法的には、やっぱり写真のプロセスが入ってきたというのが大きいと思いますね。発想が変わるというかね、写真が入ってくることによって。

山下:写真への関心というのは、時代意識、時代状況もあるのでしょうか。

木村:そうですね。遠いところの影響関係で言えば、ポップ・アートが1960年代にはやりますし。ただ、ポップ・アートの日本サイドの理解としては、例えば、横尾忠則さんのポスターの作品とか、岡本信治郎さんとか、あの辺を日本のポップの、どう言うのかな。最も影響された部分というか、そういう評価が当時あったのですが、ポップ・アートってもっともっと面白いので。僕は、ポップ・アートを一番正確に理解して、自分なりにそしゃくして、かつ作品まで持っていけた人というのは、やっぱり高松さんだと思うんですよ。

山下:ああ。

木村:高松の《影》の作品だと思うんです。あれが、ポップ・アートの一番核というか、芯の部分を正しく理解した日本的な反映であったと思うのですけども、そういう意味でのポップ・アートからの影響というのは、自分もあると、僕は思っているんですよ。ただ、いわゆるあとに、「ポップな感覚やんか」とか、いろんな使われ方するでしょう。今でも「ポップ・アート」という言葉が流布してますけど、あの辺で言われてるポップ・アートには、あまり興味がないので、実は。

山下:だから、やろうと思えばできるけれども、木村先生はそっちには行かなかったと。

木村:直接的にね、じゃあ、何で写真製版のシルク(スクリーン)をやりたかったのかという話になると、キャンバスの上に写真のイメージがそのまま載っているというのを見た時のショックというのは、一方であるんですが。「おもろいな」と思った体験はあるんですよ。でもね、もう一つは、キタイという作家がいるんですね。

奥村:R・B・キタイ。

木村:デイヴィッド・ホックニーの兄貴分みたいな人で、美術史的には「第2期ポップ」と呼ばれたりする人で、本人はアメリカ人なんですけども、活動のベースがイギリスなんです。あの人の作品がね、好きだったんですよ。四年生ぐらいかな。あれで写真のテクニックをどうしても覚えたいと思って、キタイみたいな作品をまねして作りたいというのがあって、四年生の卒業作品展には、そういう感じのものを出したと思います。

山下:それで木村先生像ができてくるんですね。先ほど、乾さんの推薦で修了年に東京国際版画ビエンナーレで京都国立近代美術館賞を受賞してしまうということになりましたが、確認的な質問になってしまうのですが、ペンシルという身近なものと、手という着想ですね。そこに至る経緯、制作過程について改めて教えていただきたいんですが。原寸大への関心があったという話で「なるほど」とはなるんですが、さらにペンシルという身近な素材に向くという流れを、もう一度お話しいただきたいのですが。加えて、ここから重要なモチーフである方眼紙も登場するのですが、そのひらめきも、何かきっかけがあったのでしょうか。

木村:原寸大というのは、例えば、ここからここまでが10cmだとしたら、引き伸ばし作業の時にここが10cmになるようにするのが原寸大じゃないですか。そういう作業を、鉛筆ってやりやすいんですよ。

山下:ああ。

木村:実際の鉛筆の長さを測っておいて、それと同じ長さに引き伸ばしているわけなので、そういう意味でペンシルいうのは使いやすかったということと、一方でね、当時、僕の先生の吉原英雄さんは、「足の作家」と言われていたんですよ。女性の足ばっかり描いていたんですね。「エロティック・サスペンス」と呼ばれたりしていたんです。それで、吉原教室の中で、吉原さんの作品をそのまま写してるんじゃないかみたいなタイプの作家というか、生徒も何人かいて、僕、それは絶対にしたらあかんと思っていましたし、吉原さん自身、それをすごく嫌がってましたからね。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:うん。主題として、モチーフとして、足はもう使えない。「手だったら使えるか」という、そういうのもありましたね(笑)。

山下:なるほど。

木村:もう一つね、受験生時代に人物画を描かないといけないわけですよ、油絵の具で。それで、全て目に映るものを同じ重さで正確に描いていくのが人物画じゃないよと。ここはしっかり描かないといけないけれども、ここは流しといてもいいという、どう言ったらいいの。ある種の強弱みたいなものを教えられるじゃないですか。

山下:そうですね。

木村:そのときに、決して手を抜いちゃいけないよという部分が、手なんですよ。

山下:ああ、なるほど。

木村:こういうふうにポーズをしていたら、「顔と同じぐらい濃く、しっかり描かないといけない」というふうに言われていて、それを実際実行に移したら、絵が締まってくるというか、完成度が上がってくるんですね。だから、画面の中にある手というのは、ある種の魔力というか。

山下:見る側に対するですね。

木村:はい。そういう力のあるサブジェクトだというのが分かっていたので、使ったというのもありますね。

山下:その辺のひらめきというのは、この《pencil》時代は、木村先生はクロッキーや下書き、構想を描きながらされるのですか。

木村:そうですね。メモ程度の。

山下:メモをしつつ、考えていかれる。

木村:スケッチ、メモ、その程度のものでね。

山下:それで、「これは、いける」となるわけですね。

木村:いや、《Pencil 2》のシリーズに関して言うと、僕の想像を完全に超えていたんですよ、実は。

山下:そうですか。

木村:こっち側が、《Pencil 1》のシリーズなんですね。(注:『HDEKI KIMURA works: 1972-1990』(ノマルエディション、1990年)20-22頁の《pencil》シリーズの作品を確認しながら。)それで、これは原寸大に引き伸ばしして、こちらは宙に浮かんでるわけですね、こうして撮ってるから。これはテーブルの上に置いているんです。なので、影まで含まれているんです。同じ長さのものなんだけど、これとこれは状況が違いますよと、空間の。ということをしていて、それの組み合わせで、6点、7点、バリエーションを作っていったんですね。そのときに、前の鉛筆とうしろの鉛筆が逆になっているバージョンがあって、それが先なんですよ、まず。そのときは、基本的にこの空間の考え方と同じ考え方でいっていたんですけども、それを一ぺん逆にしてみようと思ったら、ここが重なっちゃったんですよ。この重なりが、ものすごく面白くてね。こういうふうに重なるんですが、この重なりの部分というのが、本当だったら手前のものが後ろを隠すはずなんです。でも、隠さないで、すぽっと透けて、向こう側のイメージも同時に見ることができるということに気づいて、「これは面白い」と思ったんですよ(笑)。「これでいける」という。なので、東京国際版画ビエンナーレ、3点出品してもいいですよというときに、イメージの重なりを見せるつもりで出してますよね。

山下:そうなのですね。そういった見る側の認識というものは、平面であり、実際の空間であり、あるいは透過でありという、さまざまな認識を与えてくれることになると思うのですが、この若い頃に既に方眼紙も入ってきているのですが、それは何かひらめきの経緯はあるのでしょうか。

木村:ちょっと後づけの説明になるんですけども、原寸大にこだわってるわけですよね。原寸大が明確に出るじゃないですか、方眼紙って。ミリ単位で。定規として便利だった。だから、自分で刷る方眼紙じゃなくて、レディメードの、既製品の方眼紙である必要があったということなんですけどね。ただね、いわゆる現代美術の世界で、方眼紙を使うって普通のことだったんですよ。

山下:そうですか。

木村:うん。方眼紙を使っている作家は他にもたくさんいたんですよ、当時。なので、特別なことではないという感じ。

山下:そうなのですね。実際、出品された時の言説も様々あるのですが、木村先生も会場の方へ行かれた時の何かコメントとか、思い出せることはありますか。乾さんなり。既に様々な資料はあるのですが、木村先生は、展示された時にどんな感触だったのかという。

木村:東京国際版画ビエンナーレで?

山下:はい。受賞ということになって。

木村:ああ。そうなんですよね。「シンデレラボーイ」と言われましたね。一夜のうちに有名になっちゃったみたいな(笑)。

山下:吉原先生や研究室の方々とかは。

木村:ああ。基本的には引いてたね。

山下:そうですか。

木村:と思う。「まさか」という感じだったんじゃないですかね。みんな現役の作家ですからね、井田照一にしても、吉原英雄にしても。そこに割って入っていくような形でしょう、まあ言ったら。

山下:そうなりましたね。

木村:うん。それは、みんなこうなりますよ。本気になりますよね。

山下:ああ。先生は会場を見に行かれて、他の作品も見ていて、自分の作品はどういうふうな印象でしたか。

木村:「勝ったかな」と。

山下:本当ですか。すごい。

木村:あのときだけですよ。一瞬ですよ。まだ生意気盛りですしね、まだ卒業したてですよ、26歳の。

山下:いや、でも、それでこの作品ですよね。見る側の認識に問いかけてくるような作品という方向性が出ていますね。

木村:要らないものが削除されているじゃないですか。「これだけ」という断言があるでしょう。そういう作品って、やっぱり強いですからね。

山下:ちなみに、先ほどのお話で色彩も好きなのかなという印象を受けたんですが、色をいろいろと出せますよね、版なので。結構、若い段階から鋭い構想のある作品なのですけれども、例えば、普段は違うところで色彩を使って制作していたとか、そういうこともあるのでしょうか。

木村:そうですね。キタイのまねなんかしていた時は、結構カラフルだったんですよ。

山下:カラフルだったんですか。

木村:うん。これは、じゃあ、色のことを全然考えていないかというと、そうでもなくて、薄い、淡いブルーの背景の上に墨がぽっと載ってるだけの美しさというのはありました。でも、そういうことを言っちゃいけない時代でもあって、言わなかったですけどね、そういうことは。

山下:そうですか。

木村:ええ。原寸大であり、透明性であり、組み合わせの問題とか、そっちの方の話題に持っていこうとはしていましたけど、ブルーの上に墨がぽんと載ってるだけの美しさって、絶対あると思っていたから。

山下:そうですよね。

木村:うん。だから、賞をもらった時にも、それは絶対に影響しているはずだと思っていました。言いませんでしたけどね。

山下:なるほど。

木村:今、初めて言うよ。

山下:貴重なお話ですが、すいません、くどいのですが平面の表現というときに、版はフォーマリズム的な平面上での色や形の構図を楽しむ可能性もあるわけです。時代的にも、まだまだそういうのもいっぱいあったかと思う中で、見る側の認識に問いかける方向へ行かれる。木村先生がこちらに行かれるというのが興味深いと思います。フォーマリズム的な色や形の構図を楽しむことも木村先生はできるけれども、それは選択されずに、(構想的なものへと)進んでいかれたんですね。

木村:うーん。「フォーマリズム」という言葉もね、当然あったんですよ、美術の中には。身近じゃなかったですね。

山下:そうですか。身近じゃないですか。

木村:ええ。藤枝(晃雄)さんって、フォーマリズムの立場で批評をされていたはずなんですけども、聞こえてこなかったですね。

奥村:実作品を見られる機会が、そんなにあったかなって思うんです。その議論、フォーマリズムとか。

木村:フォーマリスティックな?

奥村:うん。だから、藤枝さんの議論とかは『美術手帖』には載るんだけど、論拠になっている作品を実際に一般的に見ることが。

木村:少なかったかもね。当時、藤枝さんが推している作家って、桑山(忠明)さんぐらいを引用されていて、「こういうのが好きで言っているんだな」ぐらいの感じしかなくて。

奥村:滋賀県立近代美術館ができたり、名古屋市美術館ができたりして、ふだんから普通に実物を見られる。

木村:尾野(正晴)さんだったかな。

奥村:尾野さん。滋賀近美はね。(注:尾野正晴氏は滋賀県立近代美術館の館長を務めた。)

木村:フォーマリズムの何たるか、平面性の絵画というのが何たるかというのが、僕なりに「ああ、こういうことか」と分かったのは、1980年代になってからですね。

山下:ああ、そうですか。

木村:うん。あれ、はっきり分からせたのは、浅田彰じゃない?

奥村:ああ、かもね。それだとしたら、もうちょっと……

木村:浅田(彰)さんとか、岡普i乾二郎)さんの『批評空間』での対談とか。

奥村:ね。だから、議論として、実物が広く見られるようになって理解ができるようになってくるって、1980年代の後半ぐらいからかなという気はします。

山下:では、現代美術のその時代の潮流としては、抽象的な言い方になりますが、観念的なものとか概念的なものを、人と物との関わりなどをいかに作品として提示していくのかが、学生や作家にもすごく勢いのある状況だったのでしょうか。

木村:まあ、まだその時代ですね。そんな勢いですね。1970年代というのは、1960年代のミニマル、コンセプチュアルを引きずってますよね。反芸術は消えるんですけどね。

山下:はい。先生は、こういう作品に入っていくわけですが、例えばですが、マティスやピカソのような展覧会も、見ることのは好きだったんでしょうか。

木村:はい。

山下:それはそれで好きでということですよね。

木村:はい。要するに、油絵が好きだったじゃないですか。最初は油を一応選んでいるから。受験生時代は、キリコが好きでしたわ。

山下:キリコですか。形而上的な絵画ですね。

木村:うん。いわゆるシュルレアリズム好きじゃないんですけど、キリコの絵を、もちろん図版でですけど、初めて見た時のショックというのはありましたね。

山下:そうなんですね。

奥村:大学入られた時に、今井憲一さんなんかは、元々……

木村:どちらかというと、シュルレアリズム系のね。

奥村:独立美術文化協会とかで活動されていた方だから、シュルレアリズムの流れ、引いてらっしゃると。

木村:確かにその流れではあったんです。ただ、日本のシュルレアリズムの理解というのも、なかなか難しいものがあるでしょう。瀧口(修造)さんあたりが言って、やっと新しい理解を知って「なるほどな」と。きちっと理解した人たちが出たんだなという印象なんですけど、あとは幻想絵画というかね。お人形さんが宙に浮いてるとか、売れ線の絵がたくさんあるじゃないですか。日本のシュルレアリズムって、あっちの方じゃないかって誤解されていた時期もあると思うんですね。だから、今井憲一さんがどこまで理解していたかというのは、ちょっとクエスチョンですが、関西にシュル(レアリスム)をきちっと理解してやっている人って、小牧源太郎さんぐらいじゃないですか。

奥村:うん、小牧さんと。まあ、何というのかな。逆にね、フランスのシュルレアリズム思想をどれだけ理解しているかというのと、独自の芸術家としてどんな表現を出しているかというのと……

山下:ちょっと違うと。

奥村:うん。イコールでは語れないところがあって、小牧さんの独自性というのは、非常にね、独自な人だったとは思います。

木村:ありますよね。

山下:時代的に結構、表現の在り方がまだ複数ある時代だったかという中で、木村先生は、いわゆるコンセプチュアルの方に入っていかれる。木村先生の修了後の1970年代、20代の時に、木村先生がどういうふうに自分の位置決めをしていたのかということに興味がありまして。

木村:うーん。

山下:場合によっては、それこそマティスのような表現も可能だったと思いますし、シュルレアリズム的な抽象絵画も可能だったと思うのですが、そういうところを、木村先生は20代の時に自分でも見ておられたんでしょうか。一応そういう動きもあるけれども、「私はこっちで行こう」という、木村先生の意識がどうだったのかということを、せっかくなので、聞いてみたいのですが。あるいは、どっちもいろいろ試していたけれども、版画ビエンナーレの時はこれを出品されたとか。

木村:うーん。批評が好きだったでしょう、僕。批評家と言われるような人たちを嫌いつつも、言葉が気になって、読んでしまう方のタイプだったから(笑)。

山下:ああ。それを聞きますと、私は少しすっきりとします。すごいアンテナを張っておられたんですね。

木村:その辺の批評家の人たちが問題にしていたものが、「近代絵画の延長に絵画なんてないでしょう」という批評ですからね、その頃の主流は。「絵画、終わってますよ」という論調じゃないですか。

山下:そうですね。

木村:それをうのみにしていた傾向は、あったでしょうね。そこで、藤枝さんあたりは必死で闘っていたんだと思うけれども、藤枝さんが何を言いたいのか、もうひとつピンときてないしね。

山下:そうか。少し見えてきた感じがします。

木村:でも、1980年代に入ると、突然、絵画が復権するんです。それで、藤枝さんの時代が来るわけですよ、ある意味。そのときに……

山下:「絵画的な表現もいいかな」という。

木村:うん。「いいかな」というよりも、その1960年代の批評、1970年代というある種の中間状態のあの時代を越えて、絵画をもう一回やり直すためには、「やっぱり絵画の方がいいな」で始めたらいけないという気持ちがあったので。そこで「きちっとした咀嚼をしているんでしょうね」と。「手続き、ちゃんと踏んでるよね」ということを言いたいタイプだったんで。それをね、きちっとやった人がいるんですよ。それが、僕は辰野登恵子だと思ってるんですよ。

山下:ああ、辰野さんですか。

木村:はい。辰野登恵子はシルクスクリーン・アーティストなんです、元々。東京藝大の版画なんですよ。あのときしていた作品があったから、あの平面に移れるというのを、すごく納得できてね。

奥村:グリッドの仕事があってね、1970年代に。

木村:そうです、そうです。その前には、方眼紙じゃない、便箋?

奥村:便箋ですか。

木村:うん、便箋の作品。あの便箋のイメージというのは、原寸大のイメージ。実際はもっと大きく引き伸ばしていますけど、あのイメージなんですよ。

山下:なるほど。つながってきますね。

木村:あれを反復的に刷り重ねていく中で、表現をもう一ぺん発見し直していくということをやった人として、僕は辰野さんをすごく高く評価してるんです。

山下:そうなんですね。なるほど。先生の時代意識が見えてきました。

木村:1970年代に写真製版のシルクスクリーンが果たした役割の、とても面白い一つの水脈というか、ルートを作っていると思いますね。でも、その部分と、重なりながらも透けているというのとは、どこかで通底しているはずとは思ってますね。

山下:ありがとうございます。では、次の質問ですが、その後、1976年に第5回のイギリスの国際版画ビエンナーレにも買上賞になり、さらに1978年には、ポーランドの第7回クラコウ国際版画ビエンナーレへの出品があります。そして、1980年には「日本現代版画アメリカ展“21人の版画家展”」。さらに1982年にはビルバオの「国際グラフィックアート展」で第2席受賞ということで、立て続けに海外出品をしていくことになりますけれども、もう一度、この連続して出品をしていく経緯を教えていただけますでしょうか。

木村:状況としては、1960年代から1970年代、版画の国際展の花盛り時代だったんですよ。なぜかというと、「版画は送るのが簡便だったから」ということで説明されるんですけどね、まあ、実際そのとおりだったと思います。で、基本はコンペティションなので、応募できるわけですよ、誰でも。なので、プラスチックのチューブに巻いて作品を入れて、エントリーフォームに書き込んで出せば、誰でも審査はしてもらえるし、その中で賞を取ってる人たちは、僕以外にもたくさんいましたからね。そういう時代ですね。

山下:では、木村先生としても、この後海外にもどんどん出していこうという意識ではあったという。

木村:はい。そういうものだと思っていました、版画というのは。

山下:実際に賞も次々に取っていくことのですけれども、木村先生は、展覧会場にも行かれて、自分の作品が並んでいるところもご覧になっていますか。

木村:海外では見たことないかな。行ってないですね。外に出たのは、1976年ぐらいに初めて海外旅行をして、ヨーロッパをぐるっと回るんですよ。そのときにクラコウ(クラクフ)に寄りまして、クラコウの美術館に賞金が…… 向こうはまだ共産圏だったので、賞金を取っても払ってくれないんですよ。

山下:そうなんですか。

木村:ええ。現地に行って受け取るか。「これはチャンスだね」というので、友人の安東菜々という作家がいるんですけど、彼女も賞金がたっぷりあったんです。で、「一緒にもらいに行こう」と言って行った程度かな。展示は見てないですね。

山下:そうですか。ちなみに、海外に立て続けに出品される時に、海外作家のことは意識はされたんでしょうか。

木村:してました、もちろん。

山下:作風としては、「闘っていけるな」という。実際、賞を取っていますが。

木村:うーん、そうですね。だから、全然有名になる前の(ゲルハルト・)リヒターとか、知ってましたよ。

山下:そうですか。

木村:リヒターもシルクスクリーン・アーティストなんですよ。ある一時期、結構たくさん作品を作っていて、海外でも受賞しているはずです。「ああいう人と一緒にやってるんだ」ぐらいの気持ちでしたよ。

山下:そうですか。

木村:あとでビッグアーティストになってしまいますけどね。

奥村:リヒターはね。

木村:リヒターは(笑)。

奥村:リヒターはね、宇佐美(圭司)さんも言っていた。ヴェネツィア・ビエンナーレで同じ年に出している。(注:宇佐美圭司は1972年の第36回ヴェネツィア・ビエンナーレに参加している。)

木村:そうですか。

奥村:それで、ドイツ館、日本館。「当時は、僕の方が注目されてたのにな。おかしいな」と、あとに言っておられました。

山下:そうなんですね。

木村:リヒターは、やっぱりアメリカのあのフォーマリズムの伝統の中で、評価され得たんじゃないですか。

山下:1970年代後半から連続で海外に出されていく作風ですが、《Pencil》シリーズで出されていたということになりますか。

木村:《Pencil》と、あと、このシリーズももらってますし、あとは1975年ぐらいなんですね。だから、これは1974年でしょう。(注:『HDEKI KIMURA works:1972-1990』を見ながら。)

山下:はい。

木村:1975年にね、また全然違うことをやったりしてるんですよ。どこで出てくるかな。

奥村:椅子。

木村:椅子のやつ。(注:『HDEKI KIMURA works:1972-1990』148-149頁の《Two Chairs》(1975年)の作品を確認した。)

山下:海外に出す、出さないで、少し作品のモチーフや意識に違いがあったのかどうかと思いまして。

木村:うーん。

山下:そこまでは、この頃は別になかった。

木村:そうですね。

山下:つまり、時代意識は、割と海外とも共有していたという感覚でしょうか。

木村:そうです。そんなつもりでした。「ジャポニカで売るな」という話がありましたよね。吉原さんは、よう言うてましたね、それは。日本趣味を持っていって海外で受けるのは、「そんなの当たり前やろう」と。「それをやったら終わりやわな」みたいな話は、よく出てましたし(笑)。

山下:出品される前は、国内で教わった先生とかに少し見てもらったりもされたんでしょうか。

木村:そうですね。でも、《鉛筆》までですわ。

山下:で、実際受賞をしてしまうんですね。すごいですね。受賞に関して海外のコメントなど、何か思い出すことはございますか。

木村:《鉛筆》ですか。

山下:イギリスの版画ビエンナーレに出されたり、クラコウに出されたり、ビルバオもそうですが、向こうから何かコメントを聞いたりとか。

木村:ないですね。

山下:受賞理由みたいなものとかは、特にこの頃は。

木村:ないですね。出せば、大体賞をもらえちゃうんですよ、その時期ね。

山下:そうですか。

木村:今から思うと、1980年代になって、写真の時代が始まるじゃないですか。そのプレ写真時代というか、写真製版それ自体が注目されてたと思いますね。

山下:ああ、そうか。技法を取れ入れているかどうかってことで。

木村:うん。「美術の中に写真が堂々と入ってきていいですよ」というのが、1980年代からそうなるんですけど、その前の段階をやってたような気はしますね。

山下:それに絡むのですが、少し横からの質問になるんですが、その一歩手前の1970年前後は、「現代の造形」、「フィルム造形」や「映像表現'72」など、映像や写真を素材として扱うグループ展も若干、京都も含めて活発化していたと思うのですが、そういった写真を使うアーティストたちの様子も捉えていたのでしょうか。見ていたりされたんでしょうか。

木村:見てましたね。

山下:そうですか。それが、先生にも刺激になっていた。写真を用いたりという。

木村:そうですね。なので、白黒の印画紙に焼いただけの作品も、発表したことはあります。ギャラリー16(京都)だったと思うけどね。

山下:写真を使うという時代意識は、やっぱり先生も共有していたということになりますかね。

木村:そうですね。ただ、いわゆるコンセプチュアル・アートが、表現の本源的な問題というのを客観的に観衆に伝えるために、「道具として使ってるだけですよ、写真を」という説明は、違うと思ってました。

山下:そこは、ちょっと距離を置いていたんですね。

木村:それって、ストレート・フォトということでしょう、結局は。

山下:そうですね。

木村:美術の動きとしては、すごく新しいんだけども。写真を持ってきたこと自体も、美術としては大事件だったかもしれないけれども、その写真って要するにストレート・フォトで、近代写真じゃないですか。だから、「そんなことをやってるのではない」と思っていましたね。

山下:写真という製法、プロセスのところですね。

木村:うーん。

山下:あるいは、本質というか。

木村:作家で言うのだったら、この頃の写真を使っていた日本の版画家だったら、あの人、誰だったかな。「博物詩」やってた人。上矢津(かみやしん)さんだ。

奥村:ああ、上矢津さん。

木村:あの人なんかが、僕はものすごい重要な仕事していると思ってて、コンストラクテッド・フォトなんですね。コンストラクテッド・フォトのはしりだと僕は思いますし、面白いなと思ってました。だから、《鉛筆》のシリーズの前に、僕が「馬のシリーズ」と呼んでいるのがあるんですけど、あれもその辺の意識でやっていたと思うんですよ。

山下:そうですか。では、今、おっしゃったようなことを、20代の頃に考えておられたということで。

木村:はい。コンストラクテッド・フォトという言葉は、なかったですけどね、ただ。写真を使うことの面白さは、中原さんが好きなような、コンセプチュアル・アートで使われてるあの写真の使い方ではないよなと思ってました。

山下:そうなんですね。なるほど。ただ、そういう動きがあるというのは、察知はされていたということですね。

木村:そうですね。写真は、当たり前の技法の一つでしたね。

山下:ちなみに、写真史の動向にも、いわゆる東松照明とか、ああいう方々のことも少し、何か見たり、聞いたりはあったのでしょうか。

木村:聞いたりはしてました。ただ、興味は湧きませんでしたけどね。

山下:そうですか。

木村:近代写真の歴史、森山大道あたりまでを含めて、そんなに興味ないですよ。

山下:でも、一応、動いているのは感じていたということですか。

木村:そうですね。状況としては、すごい問題にもなってましたし、多木浩二さんとか、面白いものを書いていたし。

山下:でも、自分の表現まで戻ると、ちょっと違うなということで。

木村:うん。

奥村:京都市立芸術大学では、アーネスト・サトウさんが教えてらっしゃいましたが。

木村:そうですね。

奥村:アーネストさんとの接点とか。

木村:アーネストさんも、英雄さんと仲良かったんですよ。あの人、もっと酒飲みじゃないですか。よく来てましたよ、研究室に。

山下:そうなんですか。

木村:ええ。一緒に飲んでいました。でも、僕、写真を一生懸命使っているんで、何となく近しい感覚を持ってくれていたみたいです。

山下:何かコメントを受けたとかは。作っている時に、何か言われたりとか。

木村:コメントというよりも、とりあえず、ちょっと褒めてもらってたね。「いいねえ」みたいな。

山下:本当ですか。

木村:とりあえず写真だったから、よかったんじゃないかな(笑)。

山下:でも、そうか。写真、重いですね。時代意識が見えてきますね。

奥村:コンストラクションとか、バランスとかにすごい、作品については、気を遣う人だったそうなので。

木村:そうでしょうね。

奥村:そういう部分はやっぱり、この厳密さっていうのは。

山下:好印象でということですね。

奥村:うん。評価されていた点ではないかなと。

山下:分かりました。少し戻りまして、立て続けに海外でも受賞し、制作を進んでいかれるかと思うのですが、先ほど嵯峨美のお話もあったので、修了後は美術と仕事との兼ね合いをどうされていたのかと、これも確認めいた質問になりますが、助手をしつつ、制作を続けておられて。

木村:そうです。

山下:何か他のお仕事もされていたのですか。

木村:やってないですね。修了の年に嵯峨美で副手に採っていただいて、そのあと、すぐ常勤助手にしてもらうんですよ。だから、常勤教員にすぐしてもらうんですね。

山下:そうだったんですね。

木村:なので、助かりましたね。ラッキーですよ。

山下:それは、やっぱり今までの受賞の実績もあってということですよね。

木村:いや、違うと思いますよ。まだそこまで受賞してませんもん、その段階では。たまたま東京国際版画ビエンナーレで、「当てたね」という程度のことだったでしょう。それは、やっぱり西さんと村上さんが、「うるさいから入れといたら」という(笑)。

山下:では、早い段階で、授業や指導など学生とも向き合いつつ、自分の制作もしつつということになってしまったということですか。

木村:そうです。教員ですね。

山下:早いですね。制作時間は結構あったんでしょうか、十分に。

木村:あったと思います。ありがたかったですよね。文句言うたら、罰当たりますね。

山下:そうですか。分かりました。ここまで1970年代までの話をお聞きしまして、人の視覚に対するご関心や、可視と不可視、虚と実など、二律背反的な印象への関心がありました。木村先生は「Period1」という位置づけもご自身でされています。(注:2018年にギャラリー・ノマル(大阪)にて個展「PROJECT PERIODS 2015-2018」を開催。)高松次郎を含めて。一方で木村先生は、木版とか、シルクスクリーン以外の技法への関心、たまにされてみるとか、そういうことは全くなかったんでしょうか。

木村:全くでもないですけど、発表するには至らないぐらいの感じですかね。

山下:やっぱりシルクスクリーンで、写真を使ってという。

木村:そうですね。違うのも、むちゃくちゃやりたいですけどね、今。

山下:本当ですか。

木村:うん。木版もやりたいですし。

山下:木村先生が視覚や認識に関わる作品にどのように至るのかは、すごく興味深かったので。でも、少し感じ取れました。そのまま進めますが、少し周辺状況の話なんですけれども、1976年になりますと京都市美術館での「京都ビエンナーレ」にも参加しています。時代状況のお話もまた聞ければと思うんですが、関西では「京都アンデパンダン展」は、1960年代、1970年代では重要な展示の場だったかと思いますが、このアンデパンダン展の動きは、今思うとどういうふうに捉えていたでしょうか。

木村:どう言ったらいいかな。

山下:「京都アンデパンダン展」という会場、歴史を、どうのようにその頃の木村先生は見ておられたのかなという。

木村:うーん。やっぱりね、もうひとつ好きじゃなかったんですよ。

山下:そうなんですか。

木村:うん。気にはなるものが出てたはずなんです。一個一個の作品に当たったわけではないですけど、あの存在感自体が、もうひとつピンとこなかったんですよ。

山下:そうなんですね。

木村:どう言うたらええんかな。プロフェッショナルの感じ、しないんですよ。

山下:ああ。実験場みたいな感じですか。

木村:要するに、誰でも出せるわけでしょう。

山下:そうですね。それは、あとのいわゆる「もの派」の方々も関わっていたり。

木村:そういう傾向のものもありましたよね。

山下:一概にそうではないんですね。

木村:「アンデパンダン」という形式に積極的な意味を見いだして、定期的に出していく人たちは、もちろんいました。そういう人たちに対する尊敬の気持ちみたいのは、あったんですよ。

山下:その辺をお聞かせいただければ。

奥村:林(剛)さんとか。

木村:そうですね。林さんなんか、もろそれですしね。

山下:あと、植松奎二さんとかも。

木村:植松さんは、でも、そんなによく出してないでしょう。何回かは出してはるかな。

山下:そうですね。3回ぐらい。よく写真の作品が展示されていますけどね、扉の入り口の所の。でも、一概にそればかりでもない雰囲気ではあったということですか。

奥村:まあ、早い者勝ちで場所取ってるから。

木村:うーん。

山下:そうか。しかし木村先生も、1976年は一応、出されている。

木村:京都ビエンナーレの方ですね。あれは、推薦制だったんですよ。

山下:このとき、7人の美術評論家の方が選んでという。(注:京都アンデパンダン展は1976年は3回目の京都ビエンナーレとして開催された。その際、乾由明、高橋亨、たにあらた、中原佑介、早見堯、平野重光、峯村敏明がそれぞれ数名を選抜する推薦制を採用した。)

木村:そうです、そうです。高橋亨さんに推薦していただいて。

山下:そういうことだったんですね。

木村:はい。

山下:では、推薦されて出された以外は、あまり関心はなかったということなんですか。

木村:自分で出そうとは思いませんでしたね。海外にも出してるわけじゃないですか、送って。「そちらの方が忙しいから」って感じかな。

山下:なるほど。ちなみに、ビエンナーレの時に出された作品を十分確認し切れていなくて、教えていただいてもいいでしょうか。

木村:どのビエンナーレですか。

山下:1976年の京都ビエンナーレの、高橋さんがどれを推薦されたのかなと。この時代、中原(佑介)さんや峯村(敏明)さんとか、全員が推薦する時代だったので、木村先生がその現場にどういった作品を出されたのかが、興味深くてですね。

木村:《鉛筆》ですよ。

山下:《鉛筆》シリーズですか。

木村:うん。手のイメージがないやつじゃないかな。このあたりのもんじゃないかなと思います。(注:『HDEKI KIMURA works:1972-1990』147頁の《Work 5-15》(1976年)などを確認しながら。)

山下:それは、高橋さんから何か、「どんなのを出してくれ」とか指示はあったんですか。

木村:ありません。逆に僕が聞きたくて、高橋さんに電話して。高橋さんは、僕の個展はしょっちゅう見に来てくれてましてね、当時、書き手としても版画のことを積極的にあちこちで書いておられたから、重要人物であることは確かなんですよ。そんな人に出品依頼をいただいたから、それなりにちゃんとしないといけないという気持ちもあって、電話して会ってもらった記憶があります。

山下:そうですか。

木村:でも、向こうがものすごい恐縮されてね、「自由にやってくれたらいいよ」って感じだったんですよ(笑)。

山下:へえ。では、木村先生は、この《鉛筆》シリーズでいこうというふうに。

木村:その延長ですね。出してました。ここにカバーされてないシリーズも、実はあるんです。

山下:「自由にしてくれて」と言われたんですね(笑)。

木村:「あなたの作品、大体見てるし、みんな知ってるし、あんな感じでいってくれたらいいよ」という感じかな。

山下:ちなみに1976年の京都ビエンナーレは、乾(由明)さんから中原さんから、今思うとそうそうたる美術評論家の推薦展示で、ビエンナーレにもなっているんですけど、会場に行かれたりとか。

木村:もちろん。

山下:他の方の交流などの思い出は、どうでしょうか。

木村:交流はなかったですけど、菅木志雄さんが展示してたのは覚えてますわ。小さい石の砂利を床にキチッと並べて、もう夕方になって、他の展示がほとんど終わってる時に、まだ展示作業をやっていたんですね。

山下:そうですか。

木村:で、僕、全体を見とこうと思って会場をぐるっと回ってた時に、靴がちょっと当たってしまったんですよ。で、砂利が、わーっと散らばってしまって、「すんません」と言って直してたら、ものすごい気分の悪そうな顔してこっちを見てたというのは、覚えてます(笑)。

山下:そんなことがあったんですね(笑)。

木村:作品潰してもうた(笑)。

山下:展示場所などの指示はあったんですか。「この部屋に」と。

木村:あったと思います。でも、パネルに水張りした《鉛筆》の一連のやつを、ぽんぽん、ぽんぽんと掛けただけでしょう。そのときの会場写真が、安斎重男さんが撮っていて、それがこの間、国立国際展に出してくれていて。(注:「安斎重男の眼1970−1999 写真がとらえた現代美術の30年」(国立国際美術館、2000年11月2日〜12月17日))

奥村:出てましたね。

山下:他の美術評論家の方にお会いされたりとかは、中原さんとか。

木村:そのときは、なかったです。

山下:推薦はあったけれども、交流的のようなものは、あまりなかったということですか。

木村:そうですね。展示して終わりですね。シンポジウムがあったわけでもないし。

山下:でも、どうでしょうか。今思うと、あとの1970年代以降に活躍してくる方も出品していたわけなんですが、木村先生は、どういうふうに周辺の雰囲気を見ておられたのかなという。

木村:緊張感はありましたよ、それなりに。あれ、オーガナイズしたのは、平野さんじゃないですかね。

山下:平野重光さんですね。

木村:平野さんだから、できたんでしょう。

山下:会場の印象とかありますか。自分で並べてみて。

木村:まあ、現代美術展ですわ、いわゆる。あの時代の、色のない。

山下:そうですね。

木村:ある意味、殺伐とした(笑)。でも、みんなしゃかりきに、とんがってる連中がやってるという。

山下:その中に先生も入っていたということですよね。

木村:うーん。あのとき、植松さん出してます?

山下:植松さんも出されてますね。

奥村:結局その後も、色はあまり使わないままの作品が。

木村:僕がですか。

奥村:うん、うん。

木村:いえ、その後、ずっと出てきますけど。1990年代ぐらいから。

奥村:1990年代ね。

山下:はい。ただ木村先生としては、いわゆる絵画・彫刻から平面・立体へ移行して、概念的なものが周囲にどんどん出てきている。自分もその中に今回呼ばれて、出しているという、その時代状況は、受け入れていたというか、そういう時代に入ってるなというのを実感していたと。

木村:うん、うん。そう思ってました。

山下:それに関連してですけど、1970年の大阪万博の年で、東京ビエンナーレ(日本国際美術展)の第10回「人間と物質」展が、木村先生の学生時代にあるのですが。

木村:はい、はい。

山下:プラス、学部生になりますが、1969年は「現代美術の動向展」が京都市美術館でも開催されていて、学生時代の話に戻りますが、そういったコンセプチュアルなものに対する反応は、どうだったんでしょうか。

木村:「人間と物質」、もちろん行っています。

山下:行かれてますか。

木村:はい。高松さんが神様と思っていた時だったから、「見に行かなあかん」と思ってましたしね。

山下:それは、京都市美術館の方ですか。

木村:京都市美術館です。カール・アンドレとか出ているはずですね。

山下:そうですね。出ています。

木村:記憶にないな、あまり。

奥村:クリストも来ていましたし。

木村:高松さんしか覚えてないですね。

山下:本当に好きだったんですね。

奥村:そのときは、布にドラム缶。ドラム缶じゃない、一斗缶でしたっけ。

木村:いや、僕が覚えてるのは、杉の木? 杉の木に、中に…… (注:高松次郎は16本の杉の丸太を等間隔に設置した作品《十六個の単体》を出品した。)

山下:丸太で。

木村:そうです、そうです。柱を思わせる形が。

山下:それを16並べてという。

木村:そうです。あれだったと思うんですよ。

山下:リチャード・セラも出てましたけど。あと小清水先生とかも出されて。

木村:小清水さん、どんな作品だったろう。

山下:鉄板、鉄の3種類のですね。研磨した鉄と、その途中の。

木村:ああ、そうか。まだもの派って、僕、理解できてなかったと思うけど。

山下:ただ、やっぱり「見に行かないといけない」という思いはあったと。

木村:そうですね。重要な展覧会ですよね。

山下:東京ビエンナーレが開かれているというような話というか、情報はあったんですか。

木村:そうです。KASOUの連中は、全員行ってるでしょう。

山下:1969年の「現代美術の動向展」(京都国立近代美術館)は、どうですか。

木村:動向展がね、あんまり記憶ないんですよ。誰が出てるの、あれ。菅木志雄? 菅木志雄も、こう、斜めに。

山下:はい。も含めて、ほぼ似たメンバーの方も。

木村:もの派ですか。もの派の紹介みたいなやつ。

山下:その若手、先駆けみたいな感じですね。ちなみに万国博覧会の方は。

木村:一回だけ行きました。僕は、嫌いでした。

山下:「太陽の塔」を含め。

木村:うん。あのノリが、「何やってんの」って感じでしたね。まだあの紛争、終結してないわけですよ。

山下:ああ、そうか。万博粉砕の動きもありましたから。

木村:そうです。あっちの方に心情的には同情してたし、「何をお祭り騒ぎやってんの」という。

山下:なるほど。一度、確認で行くみたいな感じで。

木村:いや、僕のいとこがね、それこそ1歳違いの。「ただ券あるし、中でご飯食べられるらしいし、それだけ行かへん?」と言われて、それ行ったら、また並ばされて(笑)。それだけなんですよ。なので、岡本太郎がこんなに評価出てくるって、全然思ってなかったしね。

山下:そうですか。そういった意見、コメントも貴重ですが。

木村:あれは、やっぱり椹木さんのあれだろうな。椹木さんの批評が、岡本太郎さんの評価にものすごく響いてるでしょうね。

奥村:椹木さんだけかどうか、分からんですけどね。

木村:うーん。

山下:ペプシ館とかに、今では振り返られて、いわゆるメディア・アートの先駆けというような感じで、当時のプロジェクションを使った松本俊夫さんの作品(注:松本俊夫は「せんい館」を担当した。)などもあったということなんですが、見てはおられるんでしょうか。

木村:見てません。その前に、東京でね、「クロス・トーク/インターメディア展」というのがあったんですよ。それは僕、見に行って、伊藤隆康や伊藤隆道とか。(注:「クロス・トーク/インターメディア展」は1969年に東京の代々木体育館で開催された。なお後日、伊藤隆康、伊藤隆道が出品したのは「国際サイテック・アート―エレクトロ・マジカ ’69展」(銀座ソニービル、東京、1969年)であること確認した。)

山下:そちらは行かれてるんですね。

木村:ええ。「こんなん、やってるんや」と。ヨシダさん?

奥村:ミノル?

木村:あの人も出していたんじゃないかな、たしか。(注:ヨシダ・ミノルも「国際サイテック・アート―エレクトロ・マジカ ’69展」に出品している。)

山下:そういう、いわゆる「色彩と空間」とか言われる時代なんですが、空間表現的なものへの関心は、あまりなかったですか。

木村:興味なかったですね。高松さんですもん。

山下:ああ、そうか。

木村:あっちを見ているわけですしね、「何を浮かれとんねん」と思って。

山下:なるほど。映像は、あまり興味ないんですね。写真まではあるけど。

木村:いや、だから映像も、ある意味、関西で盛んだったでしょう。

山下:はい。映像表現とか。

木村:先ほど言われた70年代の前後って。あのときに、これもね、野村仁さんの作品を見てるんですよ。

山下:ああ、はい。

木村:これで、やっぱりちょっとショック受けたというか。《Big Beat》という作品だったかな。

山下:《Big Beat》ですか。

木村:《Big Beat》かね、何とかビート。「ビート」は間違いないんですよ。要するに、京都の同志社大学近くにあるジャズ喫茶か、そういう所なんですけども、その店の名前なんですよ、タイトルが。

山下:そうなんですね。

木村:で、そこに行くまでの音を録音しているだけの作品なんですよ。

山下:ああ。

木村:ドアをこうやって開けたら、急にジャズがドーンと入ってくるっていうね。

山下:それを見ておられるんですね。

木村:「うまいな」と思いましたね。ただものじゃないという。

山下:ただし、木村先生は、ビデオカメラを回したりとかはされなかったという。

木村:してました。

山下:してましたか。

木村:うん。発表したのはないけど、手持ちの、なんか。

奥村:その頃、8mmですね、多分ね。

木村:やってました。

山下:すごいブームだったんですよね。いろんな作家さんが挑戦していたとは聞いていて。

木村:そうですね。

山下:では、木村先生も一応、触って。

木村:「なんかできそうかな」と思ったときはありましたけどね。

山下:作品までには至らなかったんですね。あとは、1970年はMoMAで「インフォメーション展」(1970年)もあったりして、同時代的に、情報とか過程とか、人が認識の体験とかを強調する場を作品として提示するというような動きは、海外でも出てきているのかなと思うんですけども、木村先生は、学部時代の海外の美術動向に対する情報収集や関心は、どのような感じだったんでしょう。

木村:やっぱり日本のメディアは、『美術手帖』他、美術雑誌と批評を通しての情報でしたね。

山下:そういう美術雑誌は、貪欲に読む方だったんですか。

木村:どっちかというと、好きな方でしたね。

山下:基本は、では、雑誌から海外の状況をつかんでいて。

木村:そうですね。だから、『美術手帖』よりも『現代思想』とか、あっちの方が、よく読んでたと思いますよ。

山下:すごいですね。

木村:現代思想。フランスから流れてくる構造主義の始まりあたりとか、その前に何人か、はやりの哲学者いますけど、あの辺の方が興味ありましたね。

山下:フーコーとかもですね。

木村:フーコー、好きでしたね。

山下:そうなんですね。

木村:構造主義好きなんですよ、どっちかというと。

山下:アーティストさんによっては、「作るのは好きだけど、あまり読まない」という人もいるようですが。

木村:うん、うん。僕らの時代は、割に読んだと思います。

山下:そうですか。ちなみに、そういう海外のコンセプチュアル・アートが台頭してきているということに関して、木村先生の20代の時の思いみたいなものは、どうだったんでしょうか。純粋に吸収していた。

木村:物事を根源的に問い直すという、その姿勢自体が好きだったから。

山下:ああ。では、結構合っていたんですね。

木村:そうですね。ありうる表現というか、「真面目にやったら、こうなるよね」と思っていたから、好き嫌い別にしてね。

山下:木村先生像が見えてきました。ただ版画以外の素材、日用品の活用というものでの、インスタレーション的なことをやってみようということにはならなかったんですか。

木村:レディメイドですか。

山下:まあ、レディメイドになりますが、いわゆる……

木村:インスタレーション?

山下:インスタレーションになりますが、電話機を持ってきたりとか、自分のメモやレシート、テキストなんかを展示に使ったりとか。実際にはされてないんですけども、その頃、海外の雑誌とかを見てて、そういったことも挑戦してみようかなという。

木村:インスタレーション的なものは、やってますよ。

山下:そうですよね。すいません。

木村:この部類に入らないやつというのがね、最後にあるんですよ。「other works」という所があるんですけど、その辺に、その傾向のものが大体入ってるんですよ。これなんか、印画紙だけなんですね。これは、こういうインスタレーションで完成させてるんですね。(注『HIDEKI KIMURA works:1972-1990』の74-77頁を確認しながら。)

山下:ああ、そうか。失礼しました。

木村:あと、こういうフェンスを縮小したユニット作って、空間を現地で広げるとか、こんなのもやってました。(注:《Fence Endless》(1970年代)。)ただ、これはほとんど発表してないですし、これは、それこそ信濃橋のエプロンですわ。すりガラスと、ミニチュアの椅子と鉛筆が立てられてる状況の写真製版、写真とセットでやってます。

山下:そうなんですね。

木村:後ろにミニチュアの椅子が置いてあるんですよ。本物の椅子の上にね。

山下:そういうご関心もあったということですね。それは、先生としては実験的に。

木村:うん。ただ、インスタレーションいう形式に興味があるわけじゃないので。版画というカテゴライズに入ってても、現代美術をやってるつもりですしね。

山下:確かにそうですね。

木村:ただ、この分類にしちゃうと、「入りません」ということになってくるという(笑)。苦心をされて。ノーマル・エディションだよ、これはね。

山下:ありがとうございます。あと少しだけいいですか。

木村:はい。

山下:この《Pencil》から、今日でもう一段階踏み込んで、次のステップまで行っていこうと思うんですが、1983年になりますと、木村先生の近作展で「水鳥は」ということで。

木村:はい、はい。

山下:大阪府立現代美術センターで開催されて、木村先生としては「Period2」ということで、「Water Bird」の時期にも入ってきておられるのかなと思うんですが、これまでも話されたとは思うのですが、次のステップに進んでいった経緯や、「Water Bird」に向けての当時の心境というのを、もう一度お聞かせいただければと思うんですが。フォトグラフも用いて。(注:個展「今日の作家シリーズ 木村秀樹近作展 …水鳥は…」、大阪府立現代芸術センター、1983年。)

木村:「水鳥」は、腕を組んだ形が水鳥に似てるというのを発見して、それを写真製版のシルクスクリーンで作品化できるというのを、まず思ってるんですね。で、「腕でありながら、水鳥でもある」という両義性のイメージを、制作の一番核のところに置くと。確定不能性です。確定不能性を制作の核に置くことによって、形式横断的に展開できるというのを示せたらいいなと思っていたんですよ。なので、絵画という形式も取りましたし、もちろんオーソドックスな版画もやってますし、インスタレーション的にも展開してますし、さまざまやったんです。

山下:先ほどのインスタレーションの資料も頂きましたように、《Pencil》からの自然な流れで、次に移行していったということになりますね。

木村:そうですね。時代も変わってますよね、その頃は随分。雰囲気も。

山下:方眼紙を離れて、ただし両義性という意味では一貫しているということで。

木村:そうですね。

山下:ちなみに、大阪府立現代美術センターでの個展になったいきさつは、どういうことになりますでしょうか。

木村:これもね、高橋亨さんですね。高橋亨さんが館長でしたね。

奥村:その頃、館長でしたかね。

木村:それで、声をかけていただいて、個展のチャンスを頂いたんです。「水鳥」を核にして、いろいろできるよねというのを見せたかったんですよ。僕にとっての1980年代を振り返るとしたら、「水鳥」ということになるんですけどね。

山下:こういうときに出てくる素材類、チューリップも含めてなのですが、どうしても制作経緯が気になるのですが、ひらめきといいますか、こういうモチーフを使っていこうというモチーフとの出合いはどういう…… 水鳥は今のお話なんですが、チューリップにせよ、「こういう構想でいこう」というのは、木村先生はどのようににひらめかれるのでしょうか。

木村:チューリップ。まあ、これとこれとは、ちょっと微妙に違うんですけどね。コンセプトも違いますし。主題の選び方としては、チューリップって、現代美術の作家が結構使うサブジェクトなんですよ。ウォーホルも使ってるし、ポップ系の作家がよくチューリップ使うじゃないですか。

山下:そうですね。

木村:だから、自分も、それ使ってやってみたいというのがあってね。「いっちょかみしよう」という。

山下:はい。そういうのを、木村先生はふだん、先ほどもメモ書き程度にということでしたが、そのように準備をされるのでしょうか。個展に向けての着想は。

木村:そうですね。メモ、スケッチですかね。

山下:ここのチューリップなり、水鳥のこの構図が完成していくプロセスは、何回も実験などをされているんでしょうか。

木村:そうですね。

山下:結構、それとも、速やかに。

木村:まあ、写真の仕事ですからね、ワンシャッターで撮ってる写真。モンタージュもしていますけどね、部分的には。一気に、35mmの36枚撮り一本、撮っちゃうわけじゃないですか。だから、36点作品があるんですよ、実は。その中で選ぶ作業というのがありますけどもね。こっちの場合は、本当に近代絵画の作り方みたいで、刷り重ねながら考えてるんですよ。完成予想図って、あんまり見えてないんですよ。

山下:そうなんですね。版を重ねながら。

木村:はい。「まだちょっと足らんかな」とか、やりすぎたら一からやり直すとか、そういうやり方ですわ。

山下:少し繰り返しの質問になってしまうのですが、先ほどの確定不能性とか、両義性に対する関心は、1970年代からの延長として持っていたということでいいでしょうか。

木村:そうです。

山下:それで、次なる表現に入る機運になってきたという、1980年代に入って。

木村:そうですね。

山下:分かりました。この《水鳥》シリーズに関して、高橋さんのコメントや展示の時の反応はございますか。

木村:基本的に信用してくれているというかね、高橋さんに関しては。作品を買っていただきましたね。

山下:そうですか。では、新しいシリーズが出ても、「次、こういうのが来たな」という形で。

木村:高橋さんに関しては、そうですね。ただ、このとき、井上明彦君。

山下:ああ、井上先生。

木村:うん。が、『美術手帖』に展評を書いてくれてるんですよ。その批評がね、いい批評なんですよ。(注:井上明彦「展評」、『美術手帖』(520号)、美術出版社、1984年1月号、224-227頁。)木村に対するコメントって、さまざまな人がくれていますけれども、「あれ、一番ええんちゃうかな」と思うぐらい、よく見てくれてるなと思います。

山下:そうですか。木村先生は、こういう水鳥とかチューリップへの着想は、あまり悩まれないのでしょうかね。個展依頼があったあとに、どう出していくのかという時に、割と速やかに、「どんなふうにいこうかな」と入っていくという。

木村:サブジェクトに関してですか。

山下:そうですね。サブジェクトですね。どういったものをモチーフに使っていこうとか、どういうふうに生まれてくるのかなという。

木村:あんまり悩まない方かな。まずやってみないと分からないので、やってみて、それから判断するぐらいの感じですかね。

山下:そうですか。ありがとうございます。ちょうどいいですね。和歌山版画ビエンナーレの話まで行こうかと思うのですが。

奥村:ああ、はいはい。

山下:1980年代の後半になりますと、第2回の和歌山版画ビエンナーレ(1987年)で大賞ということになります《冬のライオン》(140×200cm、キャンヴァスにシルクスクリーン、1986年)という、また改めてになりますが、この出品経緯と制作姿勢に関して、教えていただけますでしょうか。

木村:これは、もう一つ断片性ということに、一方で興味があったんですね。鉛筆のシリーズの前に、「馬のシリーズ」と呼んでいるのがあるのですけど、馬の写真の切り抜きと、ボタンとかお皿とか、そこらにある日常的な事物をぽろっと並べて、それを写真に撮って、それをそのままさっとシルクスクリーで刷るという仕事をしていたのですが、画面に登場する一個一個というのは、特に関係性があるわけではなくて、それ自体でも独立してて、他との関係が断ち切れている断片のイメージというのが、興味あったんですね。

山下:1970年代から。

木村:はい。なので、断片性というのを、一つのテーマとしてずっと抱え続けてはいるんです。それで《冬のライオン》に関しては、本当に断片的なイメージの寄せ集めなんですわ。特徴的なのは、この真ん中にシンボルマークみたいなものがあるのですけども、これは当時、和歌山で親しくなった歯科技工士さんから、「歯科技工所を開くので、ロゴマーク考えてくれませか」と頼まれて、歯のイメージをデザインしていろいろ作ってたんですよ。

山下:そうなんですか。へえ。

木村:その中で、白い紙の上に黒一色で作っていくイメージの強さというのを、「使えるな」という感じがあったので、いつか使おうと思っていたことと、あとはタイヤのホイールのあれとか、自転車のハンドルの部分とかね、特にそれと直接関係ないんですけども、無関係なものを白と黒の緊張感の中で置くことで、画面を作れるんじゃないかなと思ってたんです。

山下:それが、この1987年ぐらいになると、《Pencil》とか《Water Bird》を経て、この頃に自分としては、技法となって出てくる。

木村:そうですね。あと、作品サイズが大きいんです。支持体がキャンバスになっているというのと。だから、ある意味、絵画に再接近した最初かな。

山下:そうか。1980年代で。

木村:ええ。最初でもないか。「水鳥」でもキャンバスの上に刷ってるんで、あるけど。

山下:キャンバス面を出されてくるというのは……

木村:絵画、意識してますね。

山下:そういうことなんですね。1980年代に入っていますので、《冬のライオン》は1986年ですしね。和歌山版画ビエンナーレへの出品ということの関係もあったのでしょうか。出品する場所を意識されるとか、そういうことはあるのでしょうか。

木村:僕、これ、2回目なんですね、たしか。和歌山版画ビエンナーレの。1回目、僕、落選してるんですよ。

山下:そうなんですか。

木村:はい。そのとき、この作品出してるんですよ。これは、自分で刷ったシルクスクリーンを、もう一度コラージュし直しているという作品で。(注:手元資料の《Man`s Heart》(1984年)を確認しながら。)

山下:そうなんですね。

木村:個人的には、僕、ものすごい好きな作品でね。

山下:木村先生、落選とかあるんですね。

木村:これは、「いけるかな」と思ったんですよ。ところが、あっさり落とされて、「えー」みたいな感じだったんですけど(笑)。

山下:そうなんですね。初耳です。

木村:2回めで、ちょっと仕返しに、サイズ大きくして、とりあえずストロングで。

山下:そういう経緯もあったんですね。実際、大賞ということになったんですけれども、そのときの周囲の反応とか、またはコメントみたいなものはどうだったとかありますでしょうか。

木村:特に…… もちろん大賞を取っているんだから、肯定的なことしか言ってくれませんけれども、特に批評というのはなかったと思いますけどね。

奥村:同時期に、同じようなモチーフをペインティングで描かれたりもしてます?

木村:その辺ですか。

奥村:この辺のこれは。

木村:ちょっとあとですね。

奥村:あとですか。信濃橋の個展の方が前? この辺を発表されたのは。(注:1987年に信濃橋画廊5(大阪)で個展を開催。)

木村:あとです。

奥村:あとですか。和歌山が先。

木村:先。信濃橋のそれも、エプロンというか、No.5。5階にあった。

奥村:5階の方ですか。

木村:ええ。あそこでやらせてもらって。で、大々的にパーティーをしてくれたんですよ、受賞記念パーティーを。大阪でね。

奥村:うん、うん。幾つかの、何というかな。根本的な意識・関心としての断片とか、イメージの重複とかいう主題はありながら、《冬のライオン》あたりで、作品としての出てき方が大きく変わるのは変わりますよね。

木村:そうですかね。

山下:その辺、興味深いですね。どういう木村先生の意識が働いたのかという。《Water Bird》からこっちに移る、木村先生なりの。

奥村:おっしゃったとおり、断片の集積という意識も元々あったけども、新たな提案。

木村:絵画という場所でやるというか、制作方法が、あまり版画的じゃないんですよね。一回刷っては考え、一回刷っては考えみたいなことをしているから、絵画制作に近いような制作方法を取っているというところがあります。

山下:それで実際、1回目から変わって、大賞になってしまったということなんですね。一貫して木村先生の学生時代からの関心を持続しつつ、新しい手法へと変えていっているということですよね。展開しつつ。

木村:一応ね、そういうことになると思います。

山下:それは、展覧会に対する意識というのはあまりないけれども、時代状況を踏まえていくことで、少し自分なりにも変わっていったということになりますでしょうか。

木村:そうですね。

奥村:タイトルが、《冬のライオン》とか、このあたりから即物的じゃないタイトル。

木村:《work2-3》とかとは違うような、うん。そうですね。

奥村:その辺も意識された?

木村:そうですね。それはね、「ワーク・日付」というので続けていた時期があるんですよ。それが、昔の作品探りに行ったときにね、思い出せないんですよ、無機的で(笑)。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:うん。だから、やっぱり印象深いタイトルをつけとくべきかなということもあったんですね。

奥村:《冬のライオン》は、形が何となくライオンに見えるっていうとこと……

木村:うん。映画のタイトル。

奥村:映画のタイトルと。

山下:ああ。木村先生は、タイトルに関しては、あとでつけられる?

木村:あとです。

山下:あまり悩まない方ですか。

木村:悩む方じゃないかな、どっちかというと。

山下:なかなか決まらない時もあるという。

木村:あります。

山下:ありがとうございます。では、時間も来ていますので、今日のところはこの前半にして、「MAXI GRAPHICA」ですね。

木村:ああ、1988年ね。

山下:大きな話は、またお聞かせいただいて、その後の、作家でもありつつ、教育とか、あるいはいろんな審査に関わられる木村先生の後半像を、また確認したいというふうに思っております。

木村:はい。

山下:では、今日の最後の締めの質問になるのですが、木村先生の作品のお話というよりも、和歌山の版画ビエンナーレもありますが、その後、版画ビエンナーレが興っていったり、終わっていってしまうという、版画ビエンナーレの隆盛に関して、今、何か思いはありますか。これは本当に、木村先生が振り返ってどういった時代だったと捉えてるのかという、版画ビエンナーレの隆盛に関しては。

木村:うーん。版画ブームというのがやっぱりあって、世界的な規模で版画ブームというのがあるんですよね。1960年代の後半ぐらいから、1970年代にかけての頃ね。その頃に隆盛だったんですけど、「あの隆盛を今」というのは、なかなか難しいですよね。

山下:難しいですか。まあ、一つの時代で。

木村:そうですね。ただ、版画人口が減っているとも思わないし、版画が発信力を失ってるというか、そういうことはあるかもしれませんね。批評の受け皿もないしね。

山下:うーん。先生は、1970年代、1980年代の先生の動きを見ていまして、版画の展覧会以外のところにも、出すこと自体に……

木村:全然抵抗ないですよ。

山下:なかったってことですね。そういうふうに過ごされたということですね。

木村:そうですね。1980年代のことになると、「シルクスクリーンを出したら賞をもらう」みたいな時代が1970年代にあるのですが、結局、プレ写真の時代というか、1980年代の写真の隆盛ということが、メイプルソープとか、あの辺からぐっと来るでしょう。

山下:ああ。

木村:で、何年か前に、もう10年ぐらいになるかもしれませんが、東京の近代美術館と京都の近代美術館で、写真の展覧会あったでしょう。(注:「トーマス・シュトゥルート:マイ・ポートレート展」が東京国立近代美術館で2000年10月3日−12月9日に、また京都国立近代美術館で2000年12月19日-2001年2月4日にかけて開催された。)いわゆる海外の写真をメディアとして使って面白い写真を作ってる、ベッヒャー・シューレ等々の。コンストラクテッド・フォトなんかも一緒に出てて、ありましたでしょう。

奥村:はい。シュトゥルートとかね。

木村:そうそう。あれを見た時にね、ある種のすがすがしさがあったんですよ。美術館を出て、「ああ、ええ展覧会見たな」という感じのすがすがしさって、ないよな、最近と思って、「でも、こんなの、昔あったな」と思って。「それって何」っていったらね、東京国際版画ビエンナーレだったなと思い至ったんですよ。東京国際版画ビエンナーレを見に行って、「おもしろいな」と思って出て、いわゆるもの派とか、コンセプチュアルで言っているのと全然違うある空気があって、「ええのを見たわ」と抱いた爽快感と清涼感みたいなものと、写真展が似てるなと思ったんですよ。あの展覧会見た時にね。だから、すっかり写真が持っていっちゃったんじゃないですかね。1970年代まで持っていた版画のある種の隆盛というか、ある意味、写真にシフトしてしまってるような気がします。

山下:そうですか。東京国際版画ビエンナーレは、やっぱり重要な場所であり、華やかな場だったんですね。

木村:ちなみに僕は、写真は版画の一種だと思っていますけどね。エディションがあるはずですし。ところが、1,000万円とか言っていますね、1点の値段が。「あれって、どうなの?」と(笑)。

奥村:どうなってるんでしょうね。

木村:すごいよね。だから、やっぱりそっち行くよね、そりゃ。

奥村:まあ、うーん。

木村:若い人はね。

奥村:でしょうね。と言いながら、写真ももう、ね。技術的には、フィルムだの印画紙だのって、ほんとに…… 作品としては、そういうやり方は残るのかな。

木村:こだわってやる人はいるでしょうね、やっぱりそれは。

奥村:でも、そういう勢いだから。フィルムなんて、知っている人がいないし。

山下:デジタルカメラで。

奥村:作品の説明するときに、フィルムの話から始めないといけないと。野村さんの作品とか。「昔な、フィルムいうものがあって」みたいな。

木村:そうそう。僕の仕事場、いまだに暗幕がついているでしょう。あそこを暗室にしようと思って造っているからね(笑)。その後、もうデジタルに変わっちゃったから。

奥村:版画そのものもイメージ性がすごい強いですよね。絵柄を見せているというところがすごい強いのですが、実は、もちろん絵柄で表現してるけれども、絵柄だけではなくて、やっぱり物質性というのは非常に大事で。木村さんは、すごく薄いけど、物の物質性はすごく大事にしているというか、そこへの関心が強いような気がするんですけど。紙とか方眼紙とか、それからインクとか。

山下:はい。チャコールでは焼いてますし。興味深いところですよね。

木村:まあ、次回ということで、それは。

山下:そうですね。

奥村:大きくもなりますし。

山下:はい。今日は、ありがとうございます。

木村:いえいえ、こちらこそ。

山下:また来週、改めまして後半の動きに関して引き続きお願い致します。