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小清水漸オーラル・ヒストリー 2016年10月25日

京都府京都市、小清水漸アトリエにて
インタヴュアー:菊川亜騎、加治屋健司
同席者:山下晃平
書き起こし:京都データサービス
公開日:2019年3月14日
 

加治屋:昨日は「人間と物質」展の話まで伺ったので、今日はそのあとから伺えればと思います。

菊川:「人間と物質」展にご出品された《鉄》という鉄板を磨いた作品以降、1971年の田村画廊での初個展で展示された《表面から表面へ》という作品に続いていくように、作者である小清水先生が何かしらの素材を磨いたり形を作ったりといった加工作業を加える作品に移り変わっていかれます。その変化について当時のお考えをお伺いできますでしょうか。

小清水:「人間と物質」展のあの鉄板を磨いた作品の後、大きな《70年8月 石を割る》っていう仕事をして、それの何カ月か後に木を切り刻む〈表面から表面へ〉という作品に変わっていきます。鉄板を磨いたり石を割ったりした頃に、作者である僕が物質に対してアクションを加える、そういうことが自分の中では大事なことのように思えてきて。それと一方で、もうもの派という言い方が確立していたかどうかわからないんですけども、われわれの仕事が物質に手を加えずに提示する、ある状況を作って提示するということが特徴として言われる。僕からすると、本当はそこに本質があるのではないんだという気持ちがどこかにあって。手を加えないということが大事なのではなくて、いかに的確に物質とその作者である人間とが対峙するか、その対峙したときの関わり方が重要なんだと僕には思えた。何も手を加えないんじゃなくて、ちょっと反抗的に目いっぱい手を動かして作品化してやるというつもりがあった(笑)。
それ以前の彫刻の作り方、あるいは絵画の考え方と違うところは、作品にイマジネーションを加えないということ。それが一番違っているところです。例えば作品の読み解きみたいなことをするときに、西洋の絵画だったらキリスト教の教えだとか、あるいはギリシャ神話のことだとかをアトリビュートを探して読み解いていく。それから、読み解けないものは何かしら類推していくっていう見方が当たり前になっている。西洋の絵画や彫刻でも、宗教的あるいは神話的な背景が必ず下敷にあることが当たり前だったし、日本の美術の場合にも絵画なら絵画の画面から何かを読み取るということがずっと当たり前に続けられてきた。そういう教えられ方をしてきたことに対する違和感というのが、僕には以前からあって。「作品の背後に何か重要なことが隠れているぞ」と思わせるような、思わせぶりな作品というのが僕はすごく嫌いで。そういうことをしたくないと思っていたもんですから〈表面から表面へ〉のときには、僕が作った作品を会場に並べて、見る人の最初の瞬間の印象と会場を出ていくときの印象が等量であるものを作りたいと(思った)。だから作品には僕は目いっぱい手を加えているんだけれども、その背後に何があるかという読み取りや深読みが一切成立しないような作品を作りたいというふうな気持ちがあったんですよ。だから〈表面から表面へ〉というタイトルも、最初に見た作品の表面と、その表面を通じて何か読み取ろうとしたそのあとの表面が実は同じなんだと。それは例えば板を僕が鋸で切り刻む前の木の表面と、僕が行為を加えて丸鋸で切り刻んでできあがった表面と、確かに変わっているように見えるけれども実は本質は変わってないんだ、そういう思いを込めていたところもあって。なかなか説明しても説明しきれない、非常に伝えにくいところなんですけど。
その当時ジャン・ティンゲリー(Jean Tinguely)が作品として作ったオートマティック・デッサン機みたいなのがあって。人間がデッサンをするんじゃなくて機械がデッサンをして、延々とずっと線を描いていくみたいな作品がありました。非常に図式的に言うと、人間が表現行為をするということは、そのオートマティック・デッサンマシンと何ら変わるところがないんじゃないかというところもあって。だからどんなに一生懸命作為をしようが手を動かそうが、広い視野や長いスパンで見ると特段意味のあることをやっているわけではなくて、ただ生きている証をたくさんの人が長い時間かけて絵画あるいは彫刻として表してきたんじゃないかと思った。描かれる前のキャンバスと描いた後のキャンバスとは、実は同じものなんじゃないか、本当は何も変わってないんじゃないか、そういう気持ちがどこかにあって。一瞬で感じ取れることがすべてだという作品を作りたいと。僕が汗を流して一生懸命切り続けるとか彫り続けるっていう気持ちで作っていた作品ですね。
例えば高速道路を車で運転して100km、120kmで走っていくときに風景や標識がどんどん通り過ぎていくんだけど、それを一瞬で読み取っていくじゃない。そういう、瞬間にバッと捉えるものを僕の彫刻で実現させたい。じっくりじーっと見てね、絵画であればこれはキリスト教の何かのシンボルであるとか、あるいはギリシャ神話の題材を取っているんだとか読み解いていく作品ではなくて、見た瞬間にすべてが伝わってしまうような、そういうものが作れないかなという意識があったんですね。

加治屋:それはこの〈表面から表面へ〉以降の作品で、その前は必ずしもそういうことはお考えにはなっていない。

小清水:〈表面から表面へ〉のときに、はっきり自分の姿勢みたいなものがつかまえられたんです。それ以前も、物質に対して人間が行為を加えることに対する何かしらの重要さみたいなものは感じていましたけどね。

菊川:この《鉄》という作品は、その移行期にあった時代の作品になるんですか。

小清水:そうですね。鉄とか石というのは、自分の中でまだ明確にさっき言った〈表面から表面へ〉で考えたようなことがそれほどはっきりしていなくて。ただ漠然と物質と人間との身体的関わり、そこで生まれてくる何かしらの面白さ、重要さみたいなものを探し出そうという気持ちはありました。

加治屋:この《鉄》という作品の場合は、磨くことによって鉄の性質が出てくる作品だと思うんですけれども、〈表面から表面へ〉の場合はどちらかというと先生のアーティストとしての行為ということが重要です。木というものの性質は関係しているんでしょうか。

小清水:木の質を出そうという気持ちは、もうなかったですね。鉄のときはいかにも鉄であるということを主張する状態を探し出そうっていうふうな(考えだった)。日本の文化の中では、鉄というのは刃物の部分というのがあるんでね。刃物だけではない鉄の表情もありますけど、一番ストレートに伝わるには刃物にするというのが端的かなという捉え方でしたね。石はバーンッと割った瞬間の状態が、人との関わりが一番端的に表れる状態ではないかなという捉え方をしていました。

菊川:木という素材は日本の彫刻においては特別な意味を持っていると思うんですけども、〈表面から表面へ〉においては、木の性質というか精神性みたいなものを極力感じさせないように行為を加えるということは大事だったんですね。

小清水:そうですね。非常にシステマティックに作業しているみたいですけども、本当にぶっきらぼうに、木を木とも思わないみたいなやり方をするということです。その作品を作るときに初めて僕、電気の丸鋸を手に入れて。それで、自分の手の延長として使える丸鋸の性能を最大限使った。それから、木の質を変えないということですよね。例えば木で布袋様を彫れば、木ではなくて布袋様に変わっていくわけですよね。そうではなくて切り刻まれても元の木と同じで、木は木なんだっていう状態で見えるようなやり方をしようと思ったんですね。

加治屋:この〈表面から表面へ〉のお話は、それまでの人間が物質をどう対峙するかというお話のときの“人間”に、鑑賞者というか、見る人のことが入っているのかなという印象があります。

小清水:そうですね。結局、絵画を見る、彫刻を見るといっても、結果的にはそこにあるものの表面を視覚的になぞっているということだなと思って。自分が作るということの結果、それを見てもらうということがあるということです。一つのものの表面を表面として感じ取ってくれるのは、見る人がいて、それがものの表面として伝わっていくのかなという気持ちはありましたね。作品は作る側の視点と、観る側の視点があるので、その二つの異なる視点を常に意識しているのかなと思います。

山下:当時も作品の準備中や展示期間中にお考えを知人に聞かれたら、今のようなお話をしながら作っていたんですかね。

小清水:聞かれたら答えていましたね。だけどすごく伝わりにくくて。いまだにそうですけどね。

加治屋:「人間と物質」展のときは、海外の作家に何か聞かれたりすることもあったんでしょうか。

小清水:ああ、全くなかったですね。

加治屋:今の話をお聞きしていると、同じテーマで一堂に展示はしましたけど、海外の作家とご自身の作品とは違うなというふうに思いながら見ていたのではないかと思いました。

小清水:うーん…… 共感するところはたくさんあった。例えばカール・アンドレの作品の作り方っていうのは、すごく僕は感じるところがありましたしね。クリスト(Christo)の彫刻室を包んだやつが、一番好きです。ほかのやつより。

加治屋:あのときのクリストの布の色っていうのは。

小清水:白ですね。全く白。

加治屋:ああ、そうですか。

菊川:この展覧会で見る前からご存じではあったんですか。

小清水:クリスト、知っていましたよ。写真で。ニューヨークの街角をドラム缶で通せんぼしたのとか。それから、扇風機を梱包したのは彼じゃないか。赤瀬川原平か。

加治屋:はい、していますね。小さいですが。

小清水:そういうのは知っていました。でも赤瀬川原平の梱包と並んで評論されるってことがないのは不思議だなと思って。

加治屋:そうですね。

小清水:(バリー・)フラガナン(Barry Flanagan)のこの作品は、段ボールと綿と、何かそんなようなものでできていて。彼はその綿を、2本の大きな木の棒を使って箸でものを摘むみたいにしてね、作っていたんですよ。彼は当然、日本に来てからこれを考えたんじゃないかなと思って。それ以前はどんな作品を考えていたのかなと、今不思議なんですけど。どうやら予定していた作品が実現できない事情が生じたらしい。

加治屋:「プライマリー・ストラクチャーズ」(ジューイッシュ・ミュージアム、1966年4月27日-6月12日)に確か出していたと思います。

小清水:これ以前のフラガナンの作品ってどんなやつがあったかな。

菊川:外国の作家のこういった大がかりなインスタレーション作品をたくさん見る機会は多くなかったかと思うのですが、ご覧になってどういうご感想を持たれたんですか。

小清水:正直いろいろあるなと思ってね。世の中いろんなものを作っている人があるなってのと、ぴんとこない作品が結構ありましたよね。その当時の僕としては。中原さんが言うように、僕の感性がクラシカルで古典的だったのかも知らないけど(笑)。でも、このルウィットも多分、ここへ来て作品を変えたんだと思います。

加治屋:そうですね。

小清水:壁の穴にこうやって差し込んだの、こんなのどこが面白いんだって思いましたね。

加治屋:「いろいろ禁止されて結局それしかできなかった」みたいなことでしたね。

小清水:そうそう、思い出した。(ジルベルト・)ゾリオ(Gilberto Zorio)が電球ぶら下げていたんですよね。僕、その2カ月、作品を考えている間におんなじ作品を考えていたんです。下に砂を敷いてすれすれに電球を置いて、それをゆらゆら揺らすっていうようなことを考えたりして。いろいろ考えましたけど。それと彼の名前、忘れた。水を1本のホースから出して、それが2本に分かれ4本になりっていう。誰だったかな。

加治屋:水ですか。

小清水:アメリカの有名な作家です。ハンス・ハーケ(Hans Haacke)だ。ハンス・ハーケの作品やカール・アンドレの作品は、すごく感じるところはありましたね。ただまあ、この「人間と物質」に出したときは、本当に僕まだまだ未熟な若僧でしたからね。客観的に人の作品を理解する、そういう力はまだなかったと思いますね。ただ、わずか1年しか経っていないけど、71年ぐらいには自分の作品の位置づけと、ほかの外国の作家の作品の位置づけは割と見えるようになったと思いました。特に71年にパリ・ビエンナーレに行って《表面から表面へ》の仕事をやって、ほかの人たちの作品を見るチャンスがあったんですけど、非常に不遜ですが、ほかの作家たちはまだまだ前の世界で生きていると思って。「僕が一番最先端にいるぞ」というふうな、本当に不遜な自負心を抱いたりしましたね。そのパリ・ビエンナーレの会場で。

加治屋:話が戻ってしまいますが、〈表面から表面へ〉の作品は何種類かあるのでしょうか。これは15点組なんですけれども。

小清水:一番最初が14点組なんですよ。最初の作品はもうすぐに消え失せてしまったので、再現する必要があったときに1点増やして15点にしたりとか、あるいはサイズを少し変えたりとか、そんなふうにやりました。

菊川:この木の長さというのは売っている木材の規格のサイズですか。それともご自身で直接(加工される)。

小清水:規格のサイズもありますけど、最初にやったときは田村画廊っていうところで。あそこは天井高が低いんですよ。だから2m40でぎりぎりだったので2m40で作りました。再現したときは美術館の展示だったので3mにしましたね。

菊川:じゃあ、展示場所に合わせて割と柔軟にサイズを変えていらっしゃる。

小清水:そうですね。

菊川:本数も展示空間にある程度合わせてということですか。

小清水:そうですね。それとあと日本の材木のサイズが2m、3m、4mっていうふうなそういう規格になっているので、大体3mのものを使う。2m40の場合には60cmぶった切って2m40にする。

菊川:ちなみにこの展示方法なんですけれども、この「人間と物質」展に出された《鉄》の作品もそうですが、ここにきて壁に立てかけて見せるというような展示スタイルを取られています。何か理由があったんでしょうか。

小清水:特に材木の場合は、日本の材木屋さんって材木を保管するときに、立てかけて保管するんですよ。寝かして積み重ねるっていうやり方もあるけれども、大体街の材木屋さんって壁に木を立てかけてストックしておく。そういうのが普通に見られる材木のあり方として記憶にあった。それからこれは後からの理屈づけかもしれませんけど、床にボンッと置くものと、壁にこうやってかけてしまうものと、その中間で床と壁と両方に繋がっているものとは、それぞれの見え方が全部違うんですね。平面としてのタブローみたいな壁に近いんだけど、実は床にも接している、そういう展示の仕方に魅力を感じたっていうことはありますね。

加治屋:これは板のように薄い場合もあれば、もう少し角材のようなものも…… 。

小清水:角材の場合もあります。

加治屋:2種類あるんですね。

小清水:はい。角材の場合には基本的に床に置く。床に置いて、床から30cm程度立ち上がるとかそういう量感のあるものに作りましたけども。

菊川:角材は床で板なら斜めというのは、私たちの日常で木材を見かけるときの自然な状況に近づけてらっしゃるということなんでしょうか。

小清水:そうですね。特に壁に立てかけてるというのは、材木屋さんで見る材木の表情と合わせているというところがありますね。71年の正月に田村画廊でやって、すぐ2月の末か3月の初めに、今度は30cmの角材のやつをピナール画廊っていうところでやるんですけど。本当にそのときは見に行ってくれた人に「毎月展覧会やるのか」って質問されるぐらい、頻繁にというか一生懸命やっていましたね(笑)(注:ピナール画廊で個展(3月1日-13日)、「言葉とイメージ展」企画:針生一郎(3月20日-4月3日)、「東京画廊展」(4月28日-5月11日)と展示が続く)。

菊川:今、田村画廊のお話が少し出たのでお伺いしておきたいと思うんですが、山岸(信郎)さんとのお付き合いについて、どういった経緯で個展を開かれたのか教えていただければと思います。

小清水:うん、山岸さんね。多分、山岸さんは僕のその前の紙の作品を作るとか、あるいは鉄板を磨くとか、あるいは石を割るとかっていうふうな仕事を見てくれていたんだと思うんですよね。当然、田村画廊にも僕はほかの人の展覧会を見に行くし。今もそうですけど、あの時代は自分でお金を払って個展を開くっていうのはとてもエクスペンシブでお金が要ることなんで、僕はずっと個展は開いてなかったんですよ。わずか数年のことですけど、自分でお金を出して展覧会やるっていうのはグループ展しかやってなくて。グループ展なら一人の負担が少なくて済むし。例えば秋山画廊なんかは学生のときに3人で展覧会をしたんだけど、そのときに学生だったら一人1万円で、3人で3万円というふうな金額でやらせてくれたんですよ。

菊川:お安いですね。

小清水:そう。そういう若者を助けるっていう気持ちが昔はあってね。だからグループ展はできたんだけど、個展はできなかったんですよね。ところが山岸さんが「個展を企画でやってみないか」っていうふうに初めて声をかけてくれたので、個展ができたっていうことですね。

菊川:山岸さんとはその後も個人的にお付き合いがあった。

小清水:山岸さんが今度、真木画廊っていうのもやり始めたときに、その真木画廊で個展(1975年11月3日-9日)をまたやらせてもらったりとか、ずっと付き合いはありました。だけど僕が73年には東京を離れてしまうのでね。(その後は)そんなに頻繁に付き合うということはなかったですが、関西に来てからも山岸さんが時々声かけてくれました。

菊川:この71年の9月にパリ青年ビエンナーレに出品されるんですけれども、その出品に至った経緯というのを教えていただければと思います。

小清水:岡田隆彦さんっていう詩人で美術評論をやっておられた人がいて。彼が一番好きな作家って、若林奮だったんですけどね。ご本人も自分で昔言っていたけど、非常にフェティッシュな志向が強い人ではありました。パリ青年ビエンナーレのコミッショナーとして人選するときに、そのときの若い作家の中から、榎倉康二とそれから僕と吉田克朗をピックアップしたんですね。それはその時代に割と旺盛に作品を作っているという僕と吉田克朗、それから岡田隆彦のフェティッシュな志向に合った榎倉康二との組み合わせでやるということで選ばれたんだと思うんですね。今、もう榎倉くんが亡くなってしまってから、榎倉くんがまるでもの派の一員であるかのような取り扱われ方をしてしまっているけれども、当時はお互いに異質だって認識していて、大体酒飲んで会うと喧嘩ばかりしてました(笑)。

菊川:パリ青年ビエンナーレで榎倉さんは、美術館の外にコンクリートの《壁》(1971年)という、かなり大がかりなものをされていますけども、搬入とかも現地で皆さんで手伝いされたりしたんですか。

小清水:一緒にやりましたね。僕も現地に電気鋸だけ持っていって。

菊川:現地で作られたんですか。

小清水:現地で材木を買って作るっていう作業をしました。実はあのときはね、市の美術館が改修中か何かで使えなくて。それで従来は市の美術館でやるんだけど、僕らが行ったときにはちょっと郊外のヴァンセンヌの森の中にあった昔の兵器庫の跡みたいな場所を使って展示するというので、現地へ行って初めてどんな場所に展示するかっていうのが伝えられて。それで榎倉くんも、多分最初に日本を出るときに持っていたプランがそのまま展示できそうもないということが現地へ行ってわかって。それで展示場の外側の、松林のところを使っていいよっていうんで、僕と榎倉と吉田克朗と3人に「松林の中に展示することができるやつはいないか」という問いかけがあってね。急遽、榎倉くんが松と松の間に壁を作るっていうプランに変更したんですよ。

菊川:ああ、そうだったんですね。

小清水:あれは壁を作ることがメインではなくて、作った壁に油を垂らすという、そっちのほうがメインだったんだけど、実際には木と木の間の壁というほうがインパクトが強いので、そっちがメインのように伝わっていますね。

加治屋:実際に油は塗られていたんですか。

小清水:油をバーッと引っ掛けて油が垂れるっていう、そういうところもあって。それから兵器庫の建物の林に面した壁の下のほうにも油を塗ったりしていたんですね。だからあの状況の中で実現させた作品としては、僕は本当にいい作品ができたなと思っています。吉田克朗は布を張ってそれをキャンバス(にして)、そこに赤い塗料でストロークしていくという作品だったから屋外には持っていけないし。僕は切り刻んだ材木を林の松の木に1本ずつ立てかけて、自然の木と切り刻んだ木と対比させて展示しようかなとも思ったんだけど、結果的に榎倉くんが「自分がやる」っていうことでね。僕はその中の広い空間を使わせてもらいましたね。

加治屋:今、榎倉さんはもの派とは少し違う位置にあったとお話があったんですけど、高山(登)さんもやはり違うところにいらっしゃったんでしょうか。

小清水:高山くんも全然違うところから出てきていますよね。今、もう彼も年取ったから「別にもの派の中に含まれてもいいや」ぐらいに思っているかもしれませんけども、でも彼はずっと「俺はもの派でない」って言い張っていましたね。榎倉くんが亡くなってすぐにフランスのサン=テティエンヌの美術館でもの派の作品を展示することになって、そのときに亡くなった榎倉くんの作品を皆で展示するっていうそういうことがあった(注:「1970年 物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」展は1995年2月から各地巡回。サン=テティエンヌ近代美術館では1996年6月26日-9月8日に開催。榎倉は95年10月に亡くなった)。最初僕がやろうとしたんだけど、やっていくうちにこれは僕にはできないと思ってね。それはなぜかというと、紙とか油とか非常に物質性の強いものを使っているんだけど、作品そのものは絵画なんですよね。床に描かれた絵画なんですよ。そういう絵画性がすごく強くて、僕のセンスは生かすことができない、消化しきれないということをものすごく感じたんですよ。高山の仕事もそばで見ていて、やっぱり枕木と砂とで描く絵画なんですよ。本当になかなかわかってもらえないんだけど、彫刻的なセンスとそれから絵画的なセンスというのははっきり違うんですね。人の作品を手伝ってみて初めてわかりましたけどね。
だから榎倉くんとはパリ・ビエンナーレの間、2カ月近く日本館というところで一緒に過ごしたんですけど、本当に毎晩酒を飲んでは二人で喧嘩して、それで間に吉田くんが入ってそれを分けるという(笑)、お互いにお互いを認めないっていうような状態にいたんです。ところが長い時間経って、その展覧会が北九州美術館に回ったときかな(注:北九州市立美術館では1995年8月19日-9月24日に開催)。パネルディスカッションで、僕と榎倉とそれから狗巻だったかがパネラーで話をした。彼の捉える「表面」っていうことと僕が言っている「表面」ということはずっと相反していたんだけど、そのときにようやくお互いにわかってきた。これから榎倉とはじっくり話ができるなというふうに思ったんですね。そういうすごくいい状況になったんだけど、ところがすぐ死んじゃったもんでね。そのあとに。それはすごく残念ですね。

菊川:その当時は「表面」という言葉が捉えているものにしても、まだお互いの違いがわかっていない、未分化な状況で討論されていた。

小清水:そうそう。若いからただ反発し合うだけっていう(笑)。でも彼の皮膚感覚的な「表面」ということと、それから僕が言っている視覚的に見えてくる「表面」ということの接点が、お互いにわかり合えてきたっていう印象だったんですね。

加治屋:このパリ青年ビエンナーレに出された後、関根さんとルイジアナ近代美術館のほうに行かれたんですか。

小清水:そうですね。当時、関根伸夫はその前の年のヴェニス・ビエンナーレ出品以降、ヨーロッパのあちこちの小さい画廊で個展をしたりして、自分を売り込むっていうのでずっとヨーロッパにいたんですよ。イタリアにいたのかな、ミラノに。パリ・ビエンナーレのときにイタリアから彼が見にきて。それでルイジアナ美術館に自分の作品を作るかもしれないということで、そのゲストハウスに彼が行ったんですね。僕は展覧会終わってしばらく1カ月ぐらいフランスをちょっと回って、そのあとルイジアナで合流したんですよ。波打ち際に建っているゲストハウスで、いいところでしたね。寝泊りするだけじゃなくて作品を作るスペースもあったりとかね。そこでひと月ちょっとぐらいかな、二人で過ごしたんです。

菊川:そのときは関根さんが作品を作っていらっしゃったんですか。

小清水:関根さんはね、コペンハーゲンの画廊でもう展覧会をしていて。僕もルイジアナにいる間にキャンバスの作品を作ったりして。別にそれを発表するあてがあるわけではなくて、ぼーっとしててもしょうがないのでね。そんな大がかりでなく作れるキャンバスの作品を作って。それは持って帰るわけにいかないので、関根さんが個展をやっていた画廊に預けてきたんです。そのあとどうなったかわかりませんけど(笑)。

加治屋:そのとき関根さんといろいろな話をして、彫刻についてのお考えなんかもかなり違いがあるとお感じになったと。

小清水:そうそう。昨日もちょっと触れましたけど、要するに彼の作品のトリックの部分というか “からくり”の部分ですね。穴を掘って立てる、その両方があって成立するということと、それから野原で草を結ぶ、その「結ぶことと解くことがあるから面白いんだ」っていうふうな言い方を彼はしている。それは非常に皮相な表面づらのことだけを言っているので、本当はそうじゃなくて人間のやったことは動物や虫がやることと同じで「そのまま残しておけばそれはそれで自然なんだ」っていう気持ちが僕にはあったのでね。そんなこと議論をしたってしょうがないのに議論をして(笑)。

一同:(笑)

菊川:このルイジアナ美術館に滞在も含めても半年ほどヨーロッパを遊学されたということですが、このときって滞在費はどうされていたんですか。

小清水:ええとね、基本的にはその頃ノーマル・チケットの世界一周チケットをくれたんですよ。

加治屋:国際交流基金が。

小清水:国際交流基金がね。あの頃は予算があったのか何か知りませんけど——今は安売りチケットしかくれませんけども——そのときはノーマルな世界一周チケットをくれたので、それで短い距離でも飛行機で同じところさえ飛ばなければ一筆書きでどこでも行けたんですよ。

加治屋:おお、すごい。

小清水:最初、だから日本からアンカレッジを経由してコペンハーゲンに入って、コペンハーゲンから僕はパリに入って。パリから今度コペンハーゲンは汽車で移動しましたけど。コペンハーゲンからハンブルグ、ロンドン、ミラノっていうふうに全部飛行機でお金使わないで行けたので、あとは1日10ドルっていう予算で安いペンションに泊まったりして過ごしましたね。

菊川:榎倉さんも李さんもかなり長いことそのあと外国を回られていたので、皆さん何かいいチケットがあったのかなと思いまして。そういうことだったんですね。

小清水:李さんはね、韓国からの派遣なんですよ。日本からではなくて韓国の出品者としての派遣だから、彼の資金ルートがあると思うんですけど、僕と榎倉と吉田克朗は同じノーマルな世界一周のチケット。

加治屋:このときって中平卓馬さんも参加されていましたよね。

小清水:中平さんはね、岡田さんの選抜ではなくて、多分、パリの事務局からの直接の選抜だったろうと思うんですよ。それから名前を忘れたけど、パーカッショニストの京都に住んでいる人(注:ツトム・ヤマシタ)。非常にエンターテイメントなパーカッショニストがその当時いたんですけど、その人も事務局からの選抜で。

加治屋:この間いろんな展覧会をご覧になっているかと思うんですけども、何か印象に残っているものはおありでしょうか。

小清水:そのときヨーロッパのどこの美術館に行ってもポップ・アートのコレクションがすごいたくさんあってね。アメリカの力をすごく感じました。一方でドイツのダルムシュタットで、ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)のアトリエにあるものを全部持ってきて、倉庫に置いてあるような状態に展示した美術館があったんですね(注:ヘッセン州立博物館)。それが印象的だった。ボイスは榎倉くんがすごく好きだったから、よく彼の話には出ていた。僕は特に自分の好みではなかったので、あまり興味があったわけではないんだけど、ダルムシュタットのやつは見たほうがいいだろうなと思って見に行った。それからあと記憶があるのは、確かミュンヘンの美術館だったと思うんだけど、ヘンリー・ムーア(Henry Moore)の彫刻の展示があって、その展示の仕方がね、すごくよかったんですよ(注:「ヘンリー・ムーア 1961-1971」ミュンヘン州立現代美術館、10月11日-11月21日)。その当時の日本の彫刻の展示の仕方からすると、彫刻の展示ってこうあるべきだなというふうな(感じで)。例えば屋外に作品を置く場合でも、枕木を積み重ねてしっかりした台を作って、その上にムーアの彫刻がぼんと置いてあるような展示の仕方とかね。なかなか展示に対して意を払っているっていう感じがあって、その記憶が強かったですね。それとあとアンソニー・カロ(Anthony Caro)の作品が、個展ということじゃなくていろんなところで置いてあった。僕は割と好きだったのでね。日本の雑誌や何かでちらちらと見る作品とはまた毛色の違うアンソニー・カロがあちこちに置いてあったので、それがいまだに記憶にあります。

菊川:このパリ・ビエンナーレに出品されて、そのあとヨーロッパを巡られた経験が先生の一つの転換期になったということなんですね。

小清水:そうですね。最後は2カ月ちょっとぐらいミラノにいました。関根伸夫が日本に帰った後のアトリエを僕がまた借りて、2カ月半ぐらいいたのかな。そこで、本当はミラノの画廊で個展をやるために作品を作り始めていたんですよ。ところが、当時の日本にいる自分の感覚からすると結構いい値段で画廊が作品を全部買い取ってくれるという、そういう契約で話が進んでいたら、長澤英俊が「それは安すぎる」と。「そんな安い値段で契約してしまったら後々大変だからやめたほうがいい」って言うんで、それで結果的に個展はやらないで帰ってきたんですけど。
それはまあ、よかったか悪かったかは別にして、その頃のミラノには結構たくさんの日本の作家たちがいたんですよね。見ていると本当に、彼らは生活をすることはできるんだけど、一流の作家として美術界に出ていくことができない状態。例えば、絵を描いたりあるいは彫刻を作ったり皆しているんだけど、それは展覧会でもてはやされるのではなくて家具屋さんに買ってもらうとかね。家具屋さんが家具を売ったついでに、おまけとしてつける。

菊川:ああ、そうなんですか。

小清水:おまけとしてあげる彫刻、皆そういうものを作ってそれで生活しているという人が大半だったんで、これは悲惨だなと思って見ていた。

菊川:長澤さんもこの少し前にミラノにいらしたばかりですよね。

小清水:そうそう。長澤さんもまだミラノに着いて数年の頃ですね。彼は身に空手という武器があったので。

菊川:教えてらっしゃいましたもんね。

小清水:空手を教えてそれで生活して。それでその間にルチアーノ・ファブロ(Luciano Fabro)とかいろんな連中と友達になって、それでだんだん彼らと一緒に作品を発表し始めたので、いわゆる家具屋さんのおまけのようなものを作らないで済んだっていうところがあってね。外国へ安易に出ていくと、一生日本に帰れそうもないという。生活だけはできるんだけど、到底作家としては出ていけないっていうような人がたくさんいたのを見て、安易に外国へ出ていってはいけないなと思いましたね。

菊川:例えば関根さんのように海外の画廊に売り込んで、ご自身もそこで作家としてやっていこうという気には、そのときはなられなかったですか。

小清水:僕がですか。僕、関根さんのように押しの強い人間ではないので(笑)。自分を売り込むっていうことがすごく苦手だったのでね。僕の性格には合わないなと思ったのと、なんていうかさほど魅力を感じなかったのかな、ヨーロッパに。僕はその頃は、さっきも言いましたけどパリ・ビエンナーレの会場では「僕の作品が一番最先端にある」と思うぐらい自負心があったんだけど、ヨーロッパをずっと見て歩いているうちにその考えが変わってしまうんです。個展がだめになったということもあって「日本に帰ってやろう」と思って帰ってきましたけど、もし個展をやっていたらそのままずるずるといたかもしれませんね。

加治屋:半年ほどヨーロッパにいらっしゃった後に日本に帰られて、帰国後まずこの《表面から表面へ―四面体》という作品を作られたんですね。

小清水:それは帰ってきて半年後ぐらい、4、5カ月たってからですかね。実は帰ってきたときに、非常に内省的になりましてね。自分が最初にパリ・ビエンナーレの会場で感じた「自分は最先端である」というそういう意識が、あちこちヨーロッパ見て回っているうちに、「最先端であることがなぜ大事なんだろう」と自分に問いかけるようになって。「最先端でなければいけないっていう理由は何なんだろう」という疑問を感じるようになってね。帰ってきていろんなことを考えたんですよ。須磨離宮の彫刻展(第3回現代彫刻展、1972年10月 1日-11月10日)に呼ばれて。そのときは、非常に幸運なことに人数を絞って選ばれて、どの人にもすべて賞が行き渡る、しかも制作費がいくばくか出るというので、ちょっと落ち着いて何カ月か作品を作って。
四面体の仕事、本当はそれブロンズでやりたかったんだけど、お金がないから結局コンクリートで作ったんですね。四面体の仕事と、それからクレパスを使ったドローイング。50色のクレパスと50枚のケント紙でできあがる作品です。もう一つは〈表面から表面へ〉の細長いやつを床に置くようにざっと並べるもの。その3点を作って展示したんです。結果的にはクレパスのやつに、宇部の野外彫刻美術館賞というかたちで賞がついたんですね。そのときはクレパスの仕事も、それから材木を切り刻む仕事も、全部僕の中では同じ〈表面から表面へ〉という意識で作っていた。
四面体も実は同じ意識でしてね。四面体って三角形が四つ組み合わさってできあがっていますよね。その一つ一つの三角形の比率を変えて作ると、置き方が変わると同じものなのに違ったものに見える。見ている表面は角度が違っているんだけど、元は実は同じなんだっていうことをやろうとして。そういう〈表面から表面へ〉の仕事の流れでやっているんです。

加治屋:これは当時コンクリートで作られて。ロサンゼルスのBlum & Poeのときにブロンズで作られていました(注:「太陽へのレクイエム:もの派の美術」2012年2月25日-4月14日)。

小清水:作り直しましたけどね。

加治屋:どうですか。ご覧になって印象は随分違うものですか。

小清水:ブロンズのほうが非常にシャープに見えますよね。コンクリートも僕は嫌いじゃないんですけどちょっと鈍い感じはありますかね。

加治屋:このクレパスの作品っていうのは50枚で、どういう作品でしょうか。

小清水:1枚にクレパス1本を使い切ると。使い切ったところでそのドローイングは終わりっていう。ただ、塗り始めと、どんなふうな範囲に塗っていくかっていうことだけ1枚ずつ決めてね、塗っていくんです。

加治屋:1枚につき1色。

小清水:子どもが使うクレパスを1本使い切るというふうな。それを野外彫刻展のときは屋内展示場もあったので、そこに50枚束ねて1冊の大きな本にしてね。1枚ずつビニール袋の中に絵を入れて、それを本の状態にして開いてみるというもの。多分、今でも宇部のときわ公園の屋内展示場にあると思います。

菊川:壁に貼っているイメージがあったんですけど。

小清水:壁に貼るやつはね、そのあとの73年の(第11回)毎日現代展ですね。確かそのときに選ばれて。ところがすごい貧乏していたから、作品作れなくて。結局クレパスと紙なら何とか買えるっていうので、それでそのときは25枚で25色でやったんですよ。それは壁にずっと並べる作品なんです。

菊川:最初は本のように綴じてめくるスタイルだったというのは、何か意味があるんでしょうか。

小清水:本のかたちにするのはね、なんていうか特段意味があったわけじゃないけど、大きな本のかたちにしたほうが彫刻的かなというふうに思ったのと。それから、その頃ビニ本っていうのがちまたであって。エロティックな写真集をビニールの袋の中に入れて綴じて売るっていう。僕のやつもビニールの袋の中に色が入っている。

一同:(笑)

小清水:それで「でかいビニ本だ」とか言って(笑)、作っていたんです。ただ展覧会で見せるとしたらざーっと並べたほうが、それこそ視覚的には〈表面から表面〉が一瞬で伝わるっていうこともあって、都美術館だから壁が広いので並べる作品にしたんですね。その毎日現代展のやつが地方巡回をして、京都でたまたま見てくれていた同志社の教授だった哲学者の吉田謙二さんの目にとまってね。大阪に僕が来たときに、間接的に「おまえの作品を面白いって言っているやつがいるぞ」って言われて出会ったのが、僕が関西に来るきっかけになったんですね、もともと。

加治屋:関西に移られる前のことをもう少しだけ伺えればと思います。帰国されて斎藤義重さんの作品の再制作の助手を務められましたが、それについてお話を伺えるでしょうか。

小清水:帰ってきてすぐに僕は非常に内省的になって、何も手がつけられない状態にいたときに、「斎藤義重さんの回顧展があるから手伝ってほしい」っていうのを東京画廊から言われたんですよ。僕と成田克彦が二人で手伝うことになってやり始めるんですけど、途中で成田は逃げ出しちゃうんですよ(笑)。到底これは展覧会に間に合わないと思ったらしくて、早々に逃げ出しちゃうんだけど、僕は最後まで作ったんです。斎藤さんの戦前の作品で消失してしまったものを再現すると。その手掛りっていうのは、(両手を囲って示しながら)こんな写真だけなんですよ。

加治屋:小さい写真。

小清水:こんな小さい写真と、それから斎藤さんが記録しているメモとね。それを基にして作るんです。斎藤さんの作品なんだけど、そんな手がかりから実現させていくと、もう作るプロセスを全部体験できるわけですよ、自分でね。それも古い消失してしまったものと、それから新しくそのときに考えた新作と両方を作ることができて、それですごく面白かった。自分にとってはためになった。それから技法的なものも自分で工夫しながらやっていかなきゃいけなかったので、僕にとっては本当にいい経験になりましたし、その間に斎藤義重さんと、休憩とかお昼の時間とかそういったときにいろんな話を——それこそ今僕がここでしているような——彼の昔話をぽつりぽつりと聞かせてもらって。

加治屋:このとき再制作した作品は何点ぐらいあったんですか。

小清水:結構ね…… 何十点かありましたね。

加治屋:この展覧会(「斎藤義重展」東京国立近代美術館、1978年)に、全部で21点が73年の再制作っていうふうに出ているんで、これを作られた。

小清水:それは全部僕が作りましたね。それと73年の新作もあると思うんですけどね。

加治屋:新作もお手伝いされた。ああ、なるほど。

小清水:そう。新作も作りました。

加治屋:今、2003年の岩手県美や千葉市美などで開かれた斎藤義重さんの展覧会の図録を見ているんですが。作品の写真というのは、作品だけが写っているものが各作品にあったんでしょうか。それともこういう感じのスナップショットといいますか、ご本人も写っている写真しかなかったんでしょうか(注:展覧会場における斎藤のポートレート、『斎藤義重展』岩手県美図録、p.106、fig.2)。

小清水:いや。もう作品だけですね。多分、これは僕は見たことがないから、こういう写真はなかったですね。

加治屋:106ページの写真はご覧になったことがない。そうですか。

小清水:いや、もう本当に小さい、こんなようなモノクロ写真だった。それを見ながら斎藤さんがスケッチして、「こんな感じなんだ」っていうふうに説明してくれる。(岩手県美図録、pp.106-107を見ながら)これなんかもそうですね。写真を見た限りでは、よくわからないんですよね。いったい重なってるのか、それとも別々なものなのかっていうのはよくわからないんだけど、そういうのを斎藤さんに「これは一枚一枚別で、重なっているけれども下はないんだ」って確認しながら作ったりしましたね。

加治屋:色は斎藤さんが覚えてらっしゃったんですか。

小清水:そうです。色はすごく単純ですからね。赤か青か、黒か白かっていう。

加治屋:じゃあ、それはその当時の写真を見てかなり忠実に作られている感じですか。それともむしろ73年の時点でのお考えというのも少し反映されているものと思われますか。

小清水:基本的には変わってないんですけども、ただ僕が大体のところを作って、それで見せて。例えば一つ一つのエレメントについて斎藤さんが鉋(かんな)を当てるとか、ちょっと形を修正することがあったので、修正の過程でニュアンスが変わるとことはあったと思います。でもほとんど変わりなく再現したものですね。ただ写真がこんなだから、もともとの作品の大きさっていうのはわからないですよ。厳密な何cm×何cmだったかっていうのはね。ただベニヤ板が基本ですからベニヤ板の大きさで大体決まってくるので、さほどの違いはないだろうと思いますけどね。

加治屋:この作品(斎藤のポートレート中央の《作品》)に関しては、写真だと2色の色が使われているように見えるんですけども。

小清水:うん、そうですよね。

加治屋:確か再制作されたものはこういう作品がなかった気がしたんで、どうなっているのかなと思ったんですね。

小清水:多分、ほとんど1色でやっていたと思いますね。2色ね、その作品の再制作があったかな。(岩手県美図録pp.54-62を見ながら)こういうのもやりましたね。これはそのあとのほうの仕事だな(《四つの位置A》、《四つの位置B》1973年)。この辺は全部作りましたね。これも、これも。これらも作りましたね。さっきのあれ(《作品》)はないですね。

加治屋:あれは確か、同じ黒一色か何かであったと思うので。

小清水:今ここにはないですけど、(東京国立)近代美術館のときのカタログには多分、出ていると思いますね。

加治屋:でも《作品2》っていうのはないのか。失礼しました。これそのものはないですね(注:単色で《トロウッド》として再制作(岩手県美図録、p.160、作品番号:73-17)。東京国立近代美術館の展示にも出品)。

小清水:写真もね、その当時本当にぽつりぽつり、1週間に1枚とかいう感じで出てくるんですよ。要するに彼の古い荷物の中から探し出してきて、「ああ、見つかった、見つかった」とか言って持ってきて見せてくれるんで、そのあとにもまた見つかったのかもしれませんね。あるいは誰かが撮ったものをほかの人が持っていてそれが出てくるとかね。

加治屋:作品の再制作というのは、多分、頻繁になさる方は多くないと思うんですけど、もの派の作品は特に近年あると思います。再制作ということに関して何かお考えがありましたら、お聞かせいただけないでしょうか。

小清水:僕らの仕事って割と生け花と一緒で、ある一定期間しかもたないっていうような、そういうものが多かったのでね。例えば紙の袋に石を入れる作品にしても、何年も何十年ももつようなものじゃないですよね。紙という素材だし、どこかに移し替えておくっていうこともできないし。展覧会のその都度、新しく作り直すというのが僕らにとっては当たり前な感覚だったんですよね。だから再制作っていう意識すらもなかった。常に新作を作っているという意識が僕たちにはあったんですね。ところが、斎藤先生の再制作のときにもいろいろと言われましたけども、なくなってしまったものをもういっぺん作り直すことに対する違和感みたいなものがね。特に美術館のものを収蔵する意識——いわゆる博物館としての資料的な価値という観点からすると、(再制作は)非常に違和感をもって捉えられたのかなとは思います。ただその本人が生きている限りは全然違和感がないですけどね。僕たちの仕事は常に新作として作るっていうものなので、資料的な意味でなくなったものを再制作するという意識は僕にはなくて、作る場合も常にサイズとか数とかは全部変えますね。
作家によっては一つの考え方の作品をバリエーションをつけながら何十点も作る人もいますよね。似たようなものを、1971年にも72年にも作ってとかね。斎藤先生の〈トロウッド〉にしても1枚じゃなくてシリーズが何点も何十点もあるっていうのと同じで、一つのバリエーションとしてたくさん作るということは世の中にはあると思うんです。少なくとも僕の場合はあまりなかったんですよ。鉄板を磨くのもそれだけだし、それから石を割るのもそれだけだし。次々に僕は新しいものを作りたくなってしまったので、バリエーションを作っていくっていうことがあまりなくて。唯一〈表面から表面へ〉だけ、壁に立てかけるやつとか床に寝せるやつとか、屋外で展示するやつとか3種類ありました。あと〈かみ〉も大小があるかな。そういうのが何点かありましたけどね。それ以外のものは大体1点しか作っていないですよね。今になって、もっとバリエーションたくさん作っておけばよかったと思います(笑)。

一同:(笑)

小清水:だからこの間、Blum & Poeで5月にやった(個展の)作品は、実は昔の作品を発展させたものとして、あえて意識して新たにバリエーションを作るっていう見せ方をしたんですね(注: Blum & Poe、東京、2016年5月14日-7月2日)。

菊川:ちょっとだけ斎藤先生のことをお聞きしてもよろしいですか。先生が『美術手帖』の「影響を受けた作家を挙げてください」という記事で、この斎藤先生の《カラカラ(カルカラ)》(1973年、原作1936年)っていう作品を選ばれていまして(「特集 誰が最も影響を与えたか」『美術手帖』1978年3月号、p.89)。

小清水:そんなことがありましたか。

菊川:この作品は戦前のロシア構成主義のような印象も受ける作品ですけども、これはどういった理由だったのかなというふうに思いまして。

小清水:それを選んだ理由ですか。こんなことがあったということをすっかり忘れていますね。

菊川:斎藤先生の作品の中でもこういった半立体は数が少ないですが。

小清水:これはもう本当に、斎藤さんがその時代に構成主義の影響を受けて作った仕事なんですよね。こういう半立体のレリーフ状の作品、絵画とは違う作り方の作品ね。絵の具を塗るのとは違う作り方の作品っていうのが面白かった、珍しかったっていうことと、それから〈カラカラ〉という名前のつけ方を、僕、気に入ってね。〈カラカラ〉って名前はね、何の情緒もなくてカラカラに渇いた状態の気持ちで作ったものっていう意味なんですよ。

菊川:ああ、そういうことなんですね。

小清水:斎藤さんの名前のネーミングの仕方はね。だからそれが面白かったっていうことはあるのかもしれません。そのネーミングについても〈トロウッド〉にしてもトロのような木だから〈トロウッド〉っていう。マグロのトロの刺身のようなね。非常に突き放したようなタイトルのつけ方をするので。そういう話を再制作の間、ぽつりぽつり聞いていたんです。

菊川:題名のつけ方も含めて、斎藤先生が戦前にどんなことを思いながらこういう作品を作ってらっしゃったのかっていうこともお聞きになっていたんですか。

小清水:うーん…… まあ、彼はなかなか本音は言わない人で。例えば、彼は本当に貧乏して病気もして、それで子どもも孤児院に預けてしまったりというすごい悲惨な生活をしているんですよ。そういうことがあるにもかかわらず絶対言わないのね。ただ彼の経歴を見たり年譜から考えたり、いろんな話から総合していくと、壮絶な生活をしているっていうのがわかるんです。その当時、僕が手伝っていたときには二人の息子さんも引き取られて一緒に生活をしていた。その二人の息子さんも、子どもの頃には孤児院にいたっていう。親がいなかったわけではなくて生活できないから預ける。そういう事実を組み合わせていくと相当大変な生活をしているはずなんだけどね、そういう湿っぽいことは一切出てこない、話の中では。だけど、彼の晩年の立体的な仕事の中で彼のちょっと湿っぽい部分が出ているなと僕が個人的に思っている作品がありますね。でもそういうことは聞けないし、向こうからも言わないし。

菊川:パリやヨーロッパを遊学された直後に、斎藤先生の戦前時代と向き合うような体験をされて、なかなか強烈な経験だったのではないかなというふうに思ったんです。

小清水:そうですね。僕にとってはすごくいい経験になりましたよね。僕らより大先輩の人の手伝いというのは。学生時代ですけど、菅井汲の助手もちょっとしたことがあって。彼が大怪我をして、そのあと日本に初めて帰ってきたときに、国立近代美術館に大きな壁画(《フェスティヴァル・ド・トウキョウ》1969年)を納めたんですね。その仕事をしたり。その間、東京の南画廊と東京画廊とで個展をやるんですけど、その期間の2、3カ月、毎日僕は秘書のように、朝ホテルに迎えに行ってずっと1日付き合うという仕事をしたことがあって。その間に彼と話をしたことがすごくためになっています。今はもうはずされて倉庫に納まっていますけど、あの壁画のサインは僕がしたんですよ。「SUGAI」って。

一同:(笑)

小清水:壁に収めてから「あっ、サインがない」って誰かが気がついて。僕が足場を上がっていってね、菅井さんが見ている前で書いて「いいですか」って(笑)。そんなふうな、人のそばで作品手伝うとかその人となりに触れるっていうのは、すごく勉強になるし面白い体験ですよね。

加治屋:先ほど名前が挙がった吉田謙二さんとの出会いをきっかけに関西に移られたんですね。

小清水:ヨーロッパから帰ってずっと内省的になっていたときに、たまたま吉田さんが僕の作品を見てくれてすごく気に入ったという話で。今度は野外展(第5回現代野外彫刻展、1973年10月1日-11月10日)のための作品を作らなきゃいけなくて、突然、僕、セラミックの質感に惹かれてね。焼き物の作品を作ろうと思って人の紹介で信楽へ行って2カ月、3カ月ぐらい作っていた。これですね(《香久山は畝傍を愛しと耳成と相争ひき神代よりかくにあるらし》)。これを作っていたときに吉田謙二さんと京都でお酒を飲む機会があって話をした。僕は自分が最先端にいるなんていうふうに変に粋がっていたけども、結局最先端でいることが重要なのではなくて、なぜ今自分がこういう仕事をしているか、それの裏づけは何なのか、その社会的背景は一体何なのかっていうことを、もっと大事にしなきゃいけないんだって僕は思い始めていて。吉田さんも、歴史的、社会的な必然性をきちっと踏まえたうえで自分たちの作品を作ることが日本の場合には欠けているんじゃないかっていうことを(言った)。で、僕がその頃考えていたこととすごく話が一致した。意気投合したといいますかね。それで彼がぽつっと「関西に来ませんか」って言ったので、僕独り身だったし別に定職があるわけでもなかったから、関西に来ることにしたんですね。

菊川:吉田謙二さんはその頃、同志社大学の哲学の先生だったんですよね。展覧会の展評を関西で書かれたり、簡単な企画なんかもされていたみたいですけど。

小清水:そうです。僕と知り合った後ぐらいに、展評を書いたりとかね。

菊川:そのあとからですか。

小清水:そのあとですね。文化的なこと、特に美術に関することには興味を持っていたみたいで。僕が面白いなと思ったのはね、哲学者でありながら一方で商売人なんですよ。大阪の洋服屋さんの息子で。親が何店舗か持って営んでいる洋服屋さんが傾き始めたときに、彼はそれを立て直すんですよ。だからそういう商才もある。現実的な能力があってなおかつ哲学者であるというところに僕は面白いなと思って、それで付き合うようになったんですね。

菊川:そのあと、お二人で美術批評の雑誌を作られようとしたという経緯もお聞きしましたが。

小清水:そうそう。関西に僕が来てから、せっかく来たんだから何かやろうかっていう話を二人で始めて。その当時70年代初め頃、日本の明治以降の美術をきちっとまとめてそれで現代美術に繋がる、そういう研究が日本にはあまりにもなさすぎると。そういうパースペクティブを持ったところで、美術の同人誌のようなものが作れないだろうかっていう話をし始めた。僕はものを作る側で、吉田さんはそれを哲学的な視野で見る人で、もう一人実は要るなと。要するに美術史的にそれを補完していく、そういう目がもう一つ要るなと。そこで一つ欠けたまま断念してしまったんですね。彼がすぐにアメリカに行ってしまったこともあって、途中で先に進めなかったんです。

加治屋:それまで関東で活動されてヨーロッパにも行かれています。関西に移られてどういう印象を受けましたか。何か違うなとか。

小清水:あのね、ヨーロッパに行っている間、言葉が通じないじゃないですか。片言の英語でしか通じない。帰ってきて関西に来たら「うわぁ、言葉がよく通じる外国だな」と思った。

一同:(笑)

小清水:大阪って僕、初めての土地だから本当に外国みたいで。だけど言葉だけはよく通じるなと思った。そういう印象がまず最初にあったのと、それからあと東京にいたときの習慣で画廊回りするでしょう。画廊に行けばそこで出会った人と、その展覧会のことについて、あるいは美術について話をしたりするのが東京では当たり前だったんだけど、関西に来て話を持ちかけるとね、返ってこないんです。返事が。それでずっと観察していると、本人を目の前にして本人の作品についてしゃべるっていうのは、非常にエレガントではないと。

加治屋:ああ。

小清水:そんなことをしてはいけないという雰囲気があるんですよ、関西の画廊にはね。その場に当人がいなければ、皆悪口言うんだけど(笑)。これは多分、文化の違いだなと思いました。どうしても東京で青年時代を送ってしまった自分の経験でストレートにものを言ってしまうので、なかなかなじめなかったということはありますけどね。

加治屋:関東のほうは友達もいっぱいいらっしゃったと思いますし、急に交友関係も変わったと思います。

小清水:全く変わりましたよね。関西に来て、作品と名前とを知っていたということで村岡三郎さんとすぐに仲良くなって。それから村岡さんとか今度は福岡道雄さんとかね。福嶋敬恭は芸大に来てからです。関西の作家たちとの付き合いがだんだん増えていきましたね。東京の連中は僕が「ドサ回りに出た」って言っていました(笑)。特に田窪恭治なんかはそう言って揶揄していましたね。

一同:(笑)

加治屋:関西は68年の信濃橋画廊のグループ展にも出されているんですね。

小清水:それは「DISCORS CONCORDIA」っていう展覧会で。東京の秋山画廊で学生のときに3人展をして《框》っていう作品を出したときに、それが彼、君(注:菊川)が研究している…… 。

菊川:堀内正和さん。

小清水:堀内さん。名前が突然出てこなくなる。堀内正和さんがその作品を見て記憶していたらしくて。関西で堀内さんの教え子と東京の何人かと合わせたグループ展を信濃橋画廊でやるっていうので、それで呼んでくれたんですよね。後から考えれば、堀内さんが京都芸大で教えている彫刻と僕が作った作品とは(近くて)、割とストレートに認められたっていうところがあるんだと思う。堀内さんの目に留まったっていうのは、僕はすごく嬉しかったんですね、そのとき。

菊川:今、村岡三郎さんや福岡さんのお名前も出ましたけど、村岡さんなんかは72年の須磨離宮の展覧会でもご一緒されたんですね。このときから作品もご存じだったんですか。

小清水:このときいなかったんじゃないかな。第1回の須磨離宮のとき、《位相―大地》を作ったときには村岡さんも出していましたけどね、確か。

菊川:これは第3回ですね。

小清水:第3回ですね、僕のやつ。そのときいました?

菊川:はい。この鉄板に音を聞かせる作品です(注:《STORE…ing(貯蔵していくこと)》)。

小清水:ああ、このスピーカーのやつか。そのときはもう村岡さんとは付き合いが始まっていて。

菊川:もうご面識があったんですか。

小清水:そうそう。それで大きな鉄板にスピーカーつけて振動マイクか何かで街の騒音を拾ったものをそこに響かせるっていう作品ですよね。その頃、信濃橋画廊でやった彼の個展で初めて振動マイクを使った作品(を出した)。例えば木の幹に振動マイクつけて、その周りをごりごりごりごり切り取ってしまうっていう。その音を振動マイクで拾って会場で流すっていう、そんな仕事を彼がしていた頃ですよね。

菊川:関西にいらしてから、関西女子美術短期大学の非常勤講師になられるんですけれども、それは村岡さんの斡旋があったんですか。

小清水:村岡さんがそこの教授をしていたのでね、僕が関西に来て生活できないでいるから非常勤の職を紹介してくれて。村岡さんとはね、すごく濃密な付き合いを何年間かして。鋳物屋さんに頼まれて、レリーフの原型を二人で作るっていう(仕事)。村岡さんも金持ちじゃなかったから、例えばエッシャーの絵をレリーフにするとかっていうようなのを二人でやって小遣い稼ぎをやりましたね。

菊川:そのあと、福岡道雄さんも同じ学校に勤めるようになられて。

小清水:そうそう。短大に福岡さんも来るようになって、村岡さんも福岡さんも魚釣りが好きだったので、3人で本当あちこち魚釣りに行きましたね。僕は二人に手ほどきされて渓流釣りとそれからヘラブナ釣りと。

菊川:この頃は皆さん同じ学校にお勤めなので、学校で制作をされて一緒に手伝ったりされる関係だったんでしょうか。

小清水:そうですね。僕は大学で作っていましたね。福岡さんはアトリエがあったから自分のところでやって、村岡さんも大半は自分のところで作っていたんだけど、たまに大学の設備を使って作ったり。特に彼の《ホヴァリング》っていう作品があるでしょう。

菊川:1977年の空中停止の写真作品。

小清水:村岡さんって昔から模型飛行機を作るのが好きで。あの人は予科練の飛行機乗りだったからね。飛行機が好きで。ちょうどその頃、お金が高かったんだけどヘリコプターのキットを買って、ヘリコプターを作ってそれを飛ばすっていうのを一生懸命やっていた頃でね。それとあともう一つはフランスの作家で、青い色で…… 。

加治屋:イヴ・クライン(Yves Klein)。

小清水:イヴ・クラインです。イヴ・クラインが空をぴょーんと飛び出している写真があるじゃないですか。そういう作品を村岡さん、作りたかったみたいでね。あれは結局8ミリカメラ、動画で撮ってその1コマを拡大するっていうやり方で作った作品なんですね。60cmぐらいの高さのところから彼がぴょーんと飛び降りるのを、あたかも宙にホヴァリングしているみたいに僕が下から狙って写真を撮った。そういう作品を一緒にやったり。

加治屋:あと、この《晩餐−人間再視》(1975年)という舞台も村岡さん、河口(龍夫) さん、植松(圭二)さんと一緒になさっているんですね(注:ほかに宮崎豊治、今井祝雄、斎藤智が参加した)。

小清水:それは芦屋のルナホールを使って展覧会の企画があって、それを主催したのは建築家の山崎泰孝さんという人なんです。そのときに呼ばれて皆で何かやろうということで。僕が提案したのは、舞台の上で皆でフルコースのめしを食うという(案)。それを成立させるために、王子動物園で動物が餌を食べているところを特別に夕方から食事の時間に映画を撮らせてもらって。カバやライオンが食事したりっていうような映像を、ずっと上からテーブルの上に流して。そこに、あのとき6、7人だったかな。メンバーが一人ずつ舞台に上がってきて、全員が揃ったときに食事が始まる。それで村岡さんの友人の産婦人科のお医者さんのところへ行って一人一人心音を取ってもらって。(舞台に)一人登場すると「ドンドンドン」というその人の心臓の音を流して、だんだん人が増えてくるにしたがって「ドンドンドンドンドン」って人数ぶんの音が(流れる)。薄暗いところで、そういう状態で人が集まって映像が始まって。そこで本当にプロのサーバーが食事をスープから始まってサービス(する)。それを皆で食べて、食べる間とりとめのない会話をするんですよ。それはシナリオがなくて、ただ僕が「きっかけだけ作ります」って言って。唐突に食事しながら「生まれたばかりの赤ん坊がね、笑うんですよ」っていう話を僕が投げかけると。それから会話が好き勝手に進んでいくっていう。

菊川:企画自体は、小清水先生が中心になって考えられたんですか。

小清水:全体の最初のプランは僕が出して、それを皆でああしようこうしようということで。食事が終わったらまた一人ずつ退場していく。心音がだんだん少なくなっていって、最後に「ボンッ」と全部音がなくなるというような、そういう舞台でしたけどね。

菊川:心音を集めて流すというのは村岡さんの作品にも通ずるところがあると思うんですけど、皆さんの意見を集合させて作った舞台なんですね。

小清水:うん。多分、それは村岡さんがアイデアを出したんだと思う。自分の知り合いで産婦人科医がいるから心音を取ってもらおうっていう。村岡さんとはほかにもいくつか作品のコラボレーションがあって、彼のドローイングの中に自分の顔をガラスにべたんと押しつけた、へしゃげた顔を自分で描いたデッサンがあってね。「それに額縁つけてくれ」と言うから、僕が手作りでがっちりした木の枠に鉄格子を噛ませて、牢獄の窓みたいな額縁をつけた作品とかね。

一同:(笑)

小清水:それからあと彼の〈タナトス〉っていうシリーズの作品の中で、村岡さんにはわからないように「中に何かの死物を入れたもの、それを梱包して渡してくれ」って言われて、彼がそれを石膏の中に埋め込んでしまうっていう、そんな作品を一緒にやったりとか。

菊川:《密死》という作品ですかね。1976年の京都ビエンナーレに出されて、このとき先生もクレパスの作品を一緒に出されています。

小清水:そうそう。これは何人かの批評家が作家を選んでやるんですよね。僕は峯村さんのところと乾(由明)さんのところとで出したんですよね。峯村さんのところではドローイングを出して、乾さんのところは〈作業台〉の作品かな(注:《作品》、《作業台》、《作業台−裏山の木の枝》を出品)。

菊川:東京で長いこと作家生活をされてきましたが、関西で村岡さんのような団体展にもどこにも属さずにやってこられた作家さんとお会いして、作品の違いを大きく感じられることはありましたか。

小清水:村岡さんも福岡さんも僕は昔から作品は知っていたのでね、そんなに違和感はなかったんですけども、関西って具体美術協会の人かそうでない人かというような違いがあって。僕はむしろ、具体に背を向けてきた村岡さんとか福岡さんとかそういう人と付き合ったっていうことなんです。なんていうかな…… 「アンチ巨人」と同じように「アンチ東京」みたいな雰囲気はあったんですよ、大阪にはね。美術の作品でも東京のことは意識しているんだけど、あえてそれを直視しないというか、正面から見ないで半分無視したようなかたちで作品を作る、そういう姿勢があったように思いますよね。僕が来て感じたのはね。でも皆、個性が強くて面白かったですね。

加治屋:73年にいらっしゃって、具体がもう解散した後も、やはり具体かそうじゃないかというような違いは結構ありましたか。

小清水:ありましたね。だから例えば元永(定正)さんとか具体にいた人たちと、そうじゃない人たちのソサイエティと二つあるような感じはしましたよね。

菊川:この70年代の大きな出来事として河口さん、村岡さん、福岡さんと一緒に、京近美に対する作品出品の拒否という声明を提出されています(注:『ドキュメント・8月 : 京都国立近代美術館に於ける「現代美術の鳥瞰」展に対する出品拒否と抗議』1977年)。

小清水:あれはね、僕は新参者で人間関係があまりよくわかっていなかったのですけど、近代美術館がそれまでやっていた「現代美術の動向」展をやらなくなって、そのあと「現代美術の鳥瞰」展というのを企画したんですよね。そのときに、割と濃密に関わった人が京都未生のお花のほうの関係の人でね。アート・コア(・ホール)っていう画廊をやっていた人なんですよ。松本正司さんという人だったかな(注:京都未生流三代家元の松本司頌)。村岡さんや福岡さんや河口さんは、それに対する反発みたいなものがすごくあった。しかも美術を鳥瞰するとはけしからんということもあって、「これは出品を拒否しよう」という雰囲気になって。それで僕は友人である村岡さんや福岡さんに同調してね、僕も出品を拒否することにしたんですよ。それでただ拒否するだけではいけないっていうんで、それで4人の展覧会をギャラリー16と信濃橋画廊と両方で開くという成り行きになったんですね。一昨年だったかな、兵庫県美の信濃橋画廊のインタヴュー集でもうちょっと詳しく話をしています(注:『信濃橋画廊インタビュー集』兵庫県立美術館、2014年)。

菊川:では次に移りたいと思うんですけれども、関西女子美術短期大学で教えられた後、78年には京都市立芸大の構想設計の非常勤になられて、80年には彫刻科の専任講師になられます。京都芸大のほうに関わりを持たれていった経緯というのだけ教えていただけますか。

小清水:最初に構想設計の非常勤で呼んでくれたのは、関根勢之助さんっていう先生です。構想設計ってもとは彫刻の堀内さんの教室と絵画の関根勢之助さんの教室が一緒になって作ったという経緯があったらしくて、関根さんに言われて教えるようになったんですね。僕はすごく構想設計っていう専攻の立て方が面白いなと思って。特に今も京都芸大に残っているテーマ研究っていうのがあってね。要するに普通の授業とは別個に、学生や教員が自由にテーマを立てて授業を組み立てる、そういうことが始まった時代なんですよ。そのテーマ研究に本当は僕に加わってほしいっていうことだったんだけど、授業のカリキュラム上は僕がそこに入るわけにいかなくて、普通に実技の授業を持つということで週に1回だけ構想設計を見ていたんですね。そのときには僕は京都芸大の中の組織だから、彫刻と絵画、絵画と構想設計とかって皆仲良しだと思っていたら、後でわかったのは皆仲が悪い(笑)。

一同:(笑)

小清水:お互いにお互いを否定するという。本当、後で大変な苦労をしましたね。

加治屋:構想設計78年に非常勤されて80年から彫刻科の専任講師になられたんですね。

小清水:そうですね。僕は同じ京都芸大だからどこの専任になっても同じだろうっていうふうに思って応募したんですね。「公募があるから君も応募しませんか」っていう声掛けを野崎一良さんっていう彫刻の先生から受けて。たまたま大阪の白画廊で、野崎一良さんと東京の土谷武さんともう一人誰かグループ展をやっていて。土谷さんは僕の先生だから展覧会のオープニングに行ったら野崎さんがいて「君、応募しないかね」と言われて、僕は気軽な気持ちで「いいですよ」と言って応募した。「応募しましたよ」と関根勢之助さんに言ったら、「えっ」と言われて。言葉には出さないんだけど、あんまり賛成じゃないみたいなことだったんです。実際に入ってみたら、本当は僕ではない京都芸大の卒業生の人が入る予定だったらしい。それで僕が横から入ってきて僕が選ばれてしまったものだから、彫刻科としては大変困った状態(笑)。異物が入ってきたっていう、そんな感じでね。

菊川:関西女子美大は、場所は宝塚でしたか。

小清水:箕面にあった。

菊川:箕面ですか。京都芸大とはご関係はなかったのかなと思うんですけれど、当時関西における京都芸大ってどういうイメージがあったんでしょう。

小清水:それはもう、美術界の京大みたいなもんですよ(笑)。関西の美術教育の頂点にある大学という意識と位置づけが今以上にあったんじゃないでしょうかね。

菊川:どちらかというと前衛的な美術よりも、伝統ある美術のほうが強い大学という感じだったんですか。

小清水:まあそうなんですけども、彫刻科というのが戦後できるんですよね。そこに堀内正和さんとかがいたもんだから彫刻の教育は割合新しい教育をしてて。一方で古い人もいるんだけれども、ちょっと当時の美術学校としては異色な教育をしているところはありましたよね。僕はそういう印象が強くて、もともと。さらに構想設計なんていう新しい教育形態を作り出しているところなんで、非常に先進的なことを考えているところだろうなと思って入ったんですね。全然違ったけど(笑)。

加治屋:堀内先生がいらっしゃった頃は、それこそ点、線、面のような彫刻のカリキュラムがあったと思うんです。先生が入られた頃のカリキュラムってどういう感じだったんでしょう。

小清水:私は結局、古い教育体系の中に組み込まれたので「素材として石を扱う授業をやれ」と言われてそれを任されたんです。ただ僕は昔から、石をただ彫って何かのかたちを作り出すなんていうのは、それに没頭してしまっては彫刻がわからなくなるから、石というものをちゃんと自分の目の前に据えて、石そのものをどう捉えるか。その過程で彫るならば彫る、削るならば削る、そういうことを学生一人一人が考えてできるような授業にしようと思ってやり始めたんですね。だからカリキュラムはいろんなことを考えました。例えばこぶし大の石ころを10個以上拾って持ってこさせて「そのこぶし大の石ころ10個でどうやって遊べるか、遊びを考えろ」ということを課題として出して、それで皆で遊ぶとか。それとあと「大きな石を宙に浮かす方法を考えろ」っていう課題を出して、石に向き合わざるを得ない状態を作り出す。彫るとか削るとかっていうことではない向き合い方が強いられるという、そういう課題をいくつも考えてやりましたね。それがよかったか悪かったか知りませんけど。中原浩大はその授業に非常に不真面目に取り組んで、それがよかったのかもしれない。

一同:(笑)

菊川:でも、今も受け継がれていますよね。

小清水:ははは。彼が僕の後を受けるなんて想像もつかなかったけど。

菊川:先生が彫刻の専任講師になられたときのほかの先生はどなたでしたか。

小清水:そのときは一番年長者が野崎一良さんっていう人で、この人は二科会に長かった人で。その人が担当していたのが木だったかな。それからあと福嶋さんも僕の何年か前に入って合成樹脂をやっていた。それから山普i脩)さんという人がいて、彼が鉄をやっていたのか。それから三宅(多喜男)さんという人がいて、これは山崎さんと同学年の出身の人で。本人は乾漆で作品作ったりしていましたけど、授業は何を担当していたかちょっと覚えてない。早くに亡くなられたのでね。それぞれ自分の持ち場の授業は自分の勝手にカリキュラム作れるのでね。石の授業はそんなふうに、本当に彫刻科の授業じゃないようなことをやっていました。ただ僕が行くまでやっておられた石の先生っていうのは、本当に石を彫ることに巧みな人でね。上田(弘明)さんという人で、今も芸大には作品残っていますけどね。本当にこつこつ彫っている、そういうタイプの人だったんですけど、それを僕ががらっと変えてしまったというところがあります。

菊川:彫刻での教育とともに総合基礎実技という1年生が受ける授業がありますが、その中で小清水先生が数トンの大量の砂とか粘土なんかを校内に持ち込んで、学生に体験させるというような授業もされたと聞いてます。

小清水:そうそう。総合基礎は僕は京都芸大の中で一番大事な授業だと思っているんだけど、僕より上の世代の人たちがいる間は好き勝手なことがあんまりできなくて。だけど僕が総合基礎の責任者になったときに、もう上がいなくなったので勝手なことをやってやろうと思ってやったんですね。四つのクラスがあるんですよ、総合基礎には。一つのクラスには砂を20トン教室の中にダーッと持ち込んで砂を扱う。一つのクラスは水を20トン。あそこに丸池っていうのがあって水をいっぱい貯めると約20トンなんですよ。「丸池に水を貯めてそれで考えろ」って言って。それからもう一つが5トンの粘土を渡して教室の中に持ち込んで。最後に残ったのは綿を100キロ、教室に積み込んで。「それぞれその素材に向き合って、何週間か遊んだり何かしながら最終的な形を作って作品にしなさい」というのでやってもらったんだけど、大変だったね(笑)。

一同:(笑)

小清水:砂を20トン積み上げたところは、もう砂がどんどん外に広がっていってジャリジャリになるし。それから水を最終的にはビニール袋に入れて20トン持ち込むんだけど——これが一番最終的には面白かったんだけど——ところがだんだん水が腐ってきてね。変な臭いがしてきたりとかね。

菊川:素材とじかに向き合う経験を教育の中でさせるということなんですけども、Bゼミで1970年から何年か講師をされていて、その中でも課題で「クラフト紙を使って最もふさわしいかたちにする」とか、素材をただやすりにかけてみるとか、道具を使って素材に向き合うという授業をされています。そういった教育経験は京都芸大でも生かされてらっしゃったのかなと思ったんです。

小清水:そうですね。やっぱり物質、素材と向き合うっていうのが僕の中では一貫した教育方法でね。クラフト紙の場合には割と大きな紙なんだけど、割と安く手に入るっていうふうなことがあって、そのクラフト紙を使ってどんな表現が可能かっていうふうなことを一人一人に問いかけてやってみたり。それから芸大でやった大量の物質と向き合うっていうのは、あんまり経験することがないことなので、それをあえてやってみようと思ってやってもらった。自由に遊んでいる間はすごく面白いんですよ。それぞれどれも、どの素材も面白いんだけど、最後にまとめて作品にするっていったときに皆つまらなくなっていくんだね。

菊川:ああ(笑)。

小清水:面白かったのは水だけ。あとはそんなに結果が面白くなくて。途中の段階で例えば5トンの粘土を教室の床一面に厚さ5cmぐらいでペターッって敷き詰めるっていう(作品)、それはきれいだったしその上を歩く気持ちよさったらなかったけどね。ところが最終的にはね、皆こんな団子みたいなものを作って学校中あちこちに置いて回るとかっていうあんまり面白くないものができあがったりとかね。でも、やらせているほうは楽しかった(笑)。学生はどう思ったか知らないけど。

加治屋:最初は素材別に担当教員が決まっていたと思うんですけど、徐々にそれは変わっていくんですか。

小清水:最後のほうはね。鉄の溶接の仕方とか、木の彫り方とか切り方とか、石の割り方とか、そういう基礎的な技術教育は一応何カ月かやるんですけど、そのほかに僕が退官する前は、二人以上の教員のペアを組んでテーマを決めて授業をやるっていうやり方に変えたんですよね。僕は中原浩大と組んでやる授業が多かったですね。

加治屋:結構長い時間お話伺っているんですがどうしましょう。休憩を少ししましょうか。一旦ここで休憩を入れます。

(休憩)

菊川:では、引き続きご質問させていただきたいと思います。関西に移ってからの作品についてお伺いしていければと思います。1974年の《a tetrahedron-鋳鉄》という作品から、1975年の信濃橋画廊での個展で発表された〈作業台〉の作品、こういったテーブルをテーマとした作業台のシリーズというのが始まっていきますが、その変化について改めてお伺いできますでしょうか。

小清水:関西に移ってきてからは〈作業台〉のシリーズが一番新しい仕事なんですね。作業台のシリーズを始めたときには、その前にヨーロッパで僕が感じた「自分の仕事が最先端である」といった変な錯覚の元になっていた、瞬間的に感じ取る〈表面から表面へ〉のような作品と、関西に来てから始めた〈作業台〉というのは大きくがらっと自分の意識が変わるんですよ。特に〈作業台〉が始まったときに、実は最初にやったのは《作業台−裏山の木の枝》(1975年)っていう作品なんですけど、それは本当に拾ってきたポプラの木切れを、自分でナイフや鑿で削ったりする仕事で。それは昔、子どもの頃に遊んだのと同じように遊んで作ってみたんですよ。それをどんなふうに展覧会に出すか、自分の中では決まってなくてやり始めたんだけれども、作業をしている間に、木を削っているテーブルそのものも作品の一部だなと思い始めて。

菊川:(作品写真を指して)これですね。

小清水:ああ、それですね。木を削ったりして作業している間に流れていった時間とか、それを作っているときにスーッと自分の横顔を吹いていった風とか、そういう総体全部を作品化できないだろうかって思い始めたのが、作業台にそのまま乗せて見せるやり方の始まりなんですね。〈表面から表面へ〉のときには、本当に作業する時間のことなんかもう全く無視して、そういうものが作品の中に取り込まれることすら僕は拒否して作品を作っていたんだけど。そうではなくて、関西に来たらなぜか作業する時間までも含めて作品にしていきたい、そういう考えに変わったんですね。どこかこう、とんがって突っ張っていたものがふっと消えたみたいな感じが僕の中にはありましたね。

菊川:テーブルのかたちが出てきた一番初めが、この《a tetrahedron−鋳鉄》ですね。

小清水:実はそれはね、脚がついたのは後づけで。その前に作った四つ作って置き換える(作品)、それをマケット化しようと思って作ったんですよ。それで、四つのありようをでこぼこの凹状態で示して、1個だけ地面の上に出ているというような。手法を見ると《位相−大地》と同じような手法になります。そういうことになるけども、僕にはもうずーっと、作品が置かれる地平、地べたの広がりっていうのが自分の中に基本としてあるみたいで。それで、地面を作ってそこに一つの四面体を置くという、そういうマケットとして鋳物で作った。作ってみたら持ち上げたほうがいいって思って、それで脚をつけたんですよ。

菊川:ああ、後から脚をつけた。

加治屋:後からというのは、74年に作ったときは脚はなかったんですか。

小清水:いやいや。もう鋳物で吹き上げてすぐ「これは脚つけたほうがいいな」と思って、すぐ脚をつけたんです。意識としては本当に、地面の広がりをテーブルの上に再現した。いまだにテーブルの作品は、テーブルの広がりが僕にとっての地面の広がりって、そういう捉え方で作っていますね。で、脚をつけたことによって「テーブル状の表現が可能だな」と思い始めて、次々にいろんなものを作っていくんですね。それを〈作業台〉というふうな認識を持ったのは、ポプラの木の枝を削ったとき。作業台そのものを作品として見せる、そういう意識に発展していった。

菊川:そのときは先に木の枝を削る作業があって、後で作業台をすべて作品にしようってなったんですか。最初からなんですか。

小清水:それは、作業をするためにまず台を作ったんです。それで削っていたら「この台も作品の一部なんだ」って自分で思うようになって、そのまま展示することにしたんですね。

加治屋:じゃあ、まさにこの台の上で作ったものが上に置かれていると。

小清水:そうです。はい。

菊川:この木の枝の削り方も特徴的だと思ったんですけども、〈表面から表面へ〉でやられていたような、作業の跡とか時間を見せるような意識もここにはあったんでしょうか。

小清水:そうですね。〈表面から表面へ〉でやったやり方とか、それから一番強いのは子どもの頃に自分がナイフで木の枝を削って遊んだ(やり方)、それの大人になってからの遊びっていう感じで作り始めたんですよ。だから、一つ一つが何の形とか何を目的にということはなくて、1本の木の枝で遊べる遊びを自分でやって、それがたくさん集まった、そういうものなんですけどね。だから、大阪に来たばかりで定収入がなくて材料を買うのにも困っていたときに、勤めていた短大の裏の土手にカミキリムシにやられたポプラの幼木がたくさん切り倒されて置いてあって、それを拾ってきて作品にしたんですね。今でも冗談で、「僕は全く金がなくてたとえ新聞紙しか手に入らなくても、作品は作れるって思っているんだ」という話を時々します。

菊川:やはりテーブルっていうのはもともとある形ですよね。もともと用途があるものを作品として出していくっていうのはどんな変化があったんでしょうか。

小清水:テーブルの面って本当に無限の使用方法があってね。テーブルの上で本を読む、食事をする。あるいはものを作る、頬杖をついて夢想するとかいろんな使い方ができる本当に便利な空間だって感じたのでね。作品を作っているうちに、「テーブルっていうのは本当に無限に可能性があるな」という意識があって。それでいろんな状態のものを作り始めるんですね。それが何年かたって、昨日言いましたけど、斎藤義重さんに「これは本当に無際限に作れるね」と言われたときにね、自分なりに戒めだと思った(笑)。〈三点セット〉のやつがありますよね。

菊川:これですね(《作業台−三点セット》1977年)。

小清水:それもさっき示したように〈tetrahedron〉と同じ意識でね。四面体はああいうかたちで作品にできたんだけど、じゃあ六面体はどんなかたちで作品にできるんだろうっていうふうに考えて「あ、テーブル状にすれば成立するな」と思って作ったんですよ。それ、三つとも同じバランスの直方体なんですけどね。それぞれ向きを変えて脚をつけることで全然別々なものに見える。それからその桐の枝のやつ、それはヴェニス・ビエンナーレに76年に出品したときに返ってこなかったんです。〈裏山の木の枝〉とそれから《能勢川の石》と、それからもう一つ京都ビエンナーレで出した作業台のやつとね(注:《作業台−桐の枝》、《作業台−裏山の木の枝》、《能勢川の石》、《作業台》を出品)。

菊川:すべて返ってこなかったんですか。

小清水:全部返ってこなかった。クレパスのドローイングも8枚ぐらい送ったんだけど、全部なんにも返ってこなくて、いまだにどこにいっているかがわからないんです。

菊川:ちなみにヴェネチア・ビエンナーレの企画部門に出品されるお話なんですけど、コミッショナーは中原佑介さんだったんですか(注:第37回、1976年6月14日-10月10日)。

小清水:ううん。そのときの日本館のコミッショナーは中原佑介だったんだけど、僕が出したところの部門の相談を受けたのは東野芳明だったんです。東野芳明の口利きで出したんですけど、残念ながら国際交流基金を通して出してないので、作品が紛失してもどこにも文句の言いようがなくて。イタリアのビエンナーレ事務局に80年に行ったときに、「俺の作品まだ返ってこないけど、どうなってる」って聞いたら、「事務局が皆変わったからわからない」と言われるだけでね。

加治屋:企画部門は、東野さんのセレクションの作品がいくつかあった感じですか。それとも、企画部門であるキュレーターなりコミッショナーがいて、その人に東野さんが意見を求められたんですか。

小清水:メインのコミッショナーがイタリアのほうにいて、それで東野さんに声をかけて「日本のやつを選んでくれ」って言われたんだと思う。

加治屋:確か76年のビエンナーレというのは、70年前後にいろんな騒動が起こって、それを踏まえて新たな出発という感じでやったように思います。

小清水:そのときに僕がヴェニスまで行っていればこういうことにはならなかったと思うんですけど、作品だけ送ったのでちょっとトラブってしまいましたけどね。でもまあ、そのことをネタに「イタリア人は皆泥棒だ」っていう冗談が言えるようになったので。

一同:(笑)

菊川:このときに行方不明になった《作業台》という作品を、1997年と今年(Blum & Poe個展)にバリエーションとして再制作されて。

小清水:97年に「76年の京都ビエンナーレのときに出品した作品をコレクションしたい」って京都市美術館が言ってきて。でもテーブルがないからちょっとだけサイズを変えて作って、京都市の美術館に入れて。それとクレパスのドローイングもそのときに一緒にコレクションしてもらったんですね。そのとき76年に担当者だった平野(重光)さんっていう学芸の方がいらして、定年で退任される直前に「ずっと気になっていたからあの作品をコレクションしたい」ってわざわざ言ってくれて、買ってくれたんですね。Blum & Poeのやつはさらに発展させた作品ということで、四つの作業台で成立するようなものにしたんですね。

菊川:あの作品はアメリカにいっているんですか。

小清水:ううん。あれは今、僕の山のアトリエに返ってきていて。ちょっと天板が反ったりなんかしたので、それを修理するために返してもらっていますね。

山下:〈作業台〉のときも特に図面を書いたりせず、ひらめきで制作を進めていたんですか。

小清水:もう、すべてそうですね。作業台の大きさをどの大きさにするか、バランスを考えるためにちょっと図面を書くとか、その程度ですね。僕の作品の作り方っていうのは、作品の物質的な構造も含めて論理的な構造が決まればそれでもう何でも作れる、そういう作り方なんですよ。だから表現の骨組みがつかまえられれば、もう後はOKっていう感じだね。

山下:よく、模型を作る方もいらっしゃいますが。

小清水:ええとね、自分のために模型を作ることはまずない。人に説明するために模型を作って、こういうものになりますよっていうふうに見せることはあります。だからプレゼンテーションも絵に描いてデッサンするんじゃなくて、僕は実物の模型を作って見せることが多いですね。何カ所か野外の彫刻を依頼されて作ったことがありますけど、そのときも絵でビジュアルに見せるってよりは具体的に見せる、そういうやり方をしていますね。

菊川:次の質問に移りたいと思います。作業台の作品が始まった75年のすぐ後に、信楽で制作した陶器を使った作品(《器、水、浮子》)をギャラリー16で発表されています。作業台でも台を作るという木工作業が入って、技術的なことへの関心も高まられたのかなと思うんです。さらにこういった陶器の作品制作を通して、工芸にもご関心が向かれていったのではないかなと思うんですが、何かきっかけがあればお聞かせいただけますか。

小清水:焼き物の器を焼こうと思ったのは、その前に僕、野外展のために大きな作品を生まれて始めて焼き物で作っているんですよね。自分では7割失敗して3割だけ成功したと思っているんだけど。

菊川:ちょっと割れたりしていましたけど、これはOKだったんですか。

小清水:そうそう。割れるのは全然問題ない。ただその経験でね、焼きもんって、やっぱり基本的には器だなあと思ったんですよ。器を作るということが、焼き物という素材と向き合う一番素直な向き合い方だなと思って。これをやった2年後ぐらいに、今度は器を作ってみようと思って、その器をどう使うかは決めてなくてただ器を先に作って。できてみたら「これは器だからものを中に入れなきゃ」と(考えて)水を貯めようと。で、水が入ったら、「この水には何か浮かなきゃいけないな」と。それで器と水の中に浮かべる浮子を作って。その浮子も、子どもの頃に遊んだ記憶から作ったっていうのかな。だから自分の感性としては、もう本当に素直に作った作品なんですよ。それを彫刻家が焼き物に手を出して工芸的なことをするっていう捉えられ方をしたんだけれども、僕からすれば土という素材を窯に入れて焼いて、できあがった空間に水を貯めてその水にものを浮かせてという、本当に自分の中ではストレートにできあがってるんですね。ところが実際にやってみるとものすごく稚拙なわけですよね。できあがったものが、焼き物としては。

菊川:技術的なことを教えてくださる方がいらっしゃったんですか。窯を貸してくれたりとか。

小清水:信楽の焼き物をやってる若い人たちにね、これはどんなふうにしたらいいんだとか、焼くときにどんな釉薬を掛けたらいいんだっていう相談はしながらやりましたけども、手ほどきを受けたっていうことはあまりなくて。こうやって粘土の紐を作って、こうやって積み上げていくんですよと教えてもらって、もうそれで好き勝手にやって。信楽でそうやって作業している間、若い陶芸家の連中と夜な夜な酒飲んだりとか魚釣りに行ったりという時間の流れのほうが楽しくてね。

菊川・加治屋:(笑)

小清水:できあがった焼き物を見て「すごい稚拙だなあ」と思ったんだけど、作品としては焼き物の良し悪しを見てもらうわけではなくて、器というものと、水と、そこに浮く浮子ということで成立する彫刻として見てもらいたいというのが僕の望みですから。稚拙さは一向に構わなかったんだけれども、世の中にはプロがたくさんいるわけです。焼き物のプロ、あるいは木工のプロがいて。そういう人たちに、あまりにも失礼に当たるような作品を作ってはいけないなと。つまり、木の作品を作ったのであれば、木工作家のような緻密な作品を作ることが目的ではないんだけれども、木というものを扱う人間同士として木工の人が見ても一応耐えられる作り、焼き物にしても陶芸家が見て納得する仕上がりというかね。工芸の世界の緻密な焼き物ではないんだけれども、でも焼き物をする人からもとりあえず認めてもらえるレベルにはしなきゃいけないだろうなというのが僕の姿勢で。工芸的にやろうとか、工芸の世界に自分の作品を足そうとか、そういう意識は全くないんですよ。だけど、そういうものを作って発表すると、「小清水は工芸のほうに移った」という見られ方をどうしてもしてしまう。

菊川:ただ、京都なんかですと戦後以来の走泥社なんかの歴史もありますし、工芸材料を使いながら美術作品を作るというのも、既に一般的ではあったのかなと思いますけれど。

小清水:そうですよね。ただやっぱり走泥社の人たちが最終的にやっていったのは、陶芸の世界で成立するものということになっていくんですよね。八木一夫さんも晩年は茶碗を焼いたりとかね、あえてやっていたんだと思うんだけど。それから鈴木治さんなんかも陶芸としてきちっとしたものを作る方向にいく。僕は、稚拙でも構わないけど失礼にならなければいいと。

菊川:やはりギャラリー16という、京都で注目度の高いところで発表されたというのは、何か一つの提言があったんですかね。

小清水:いわゆる工芸界に対する挑戦っていうところもありましたけどね。つまり緻密にきれいに作るばかりが作品じゃないだろうっていう意識がどこかに僕の中にはあって。

菊川:その工芸に対するお気持ちは、やっぱり関西に来られてから思われたわけですか。

小清水:そうです。身近にそれこそ八木一夫さんがいたりなんかするので。そのときに僕は面識なかったんだけど、たまたま僕が画廊にいるときに八木さんがやってきて僕の作品を見てね、「うーん、こんな見せ方があったか」とか言って帰っていったので、「よし、しめしめ」と思いました(笑)。

加治屋:今のお話は、工芸の人たちが緻密に作られたとは違うものもあるんじゃないかということですか。

小清水:そうですね。僕は陶芸にしても工芸にしても、非常に可能性のある技法だと思っているし、素材だと思っているんですよね。それを、ただ完成度を高くするためにやっている。狭い視野ではやっぱり工芸もじり貧になっていくだろうと思うんで、もっと視野を広く持ったほうがいいんじゃないかなっていう気持ちは僕にはありますね。ただそれは立場の違う人間が言ってもなかなか素直には受け入れてもらえないし、わざわざそんなこと言う必要もないので、工芸の世界の推移というものに任せればいいと思っている。ただ、僕が工芸家に寄り添っていると見られるのが本当に残念です。だって、彫刻家でも工芸の世界のことを認めなければいけないはずなんで、同じ立体的なものを作っている人間同士であれば、お互いのものをちゃんと見る目がないと僕はいけないと思っている。そういうつもりでやっています。

菊川:ありがとうございます。もう一つご質問なんですけども、関西移住以降、非常に親しく親交を深められていった生け花の世界についてご交流を教えてもらえたらありがたいです。

小清水:いや、これはね、僕が生け花に近づいたんじゃないんですけどね。まず最初に僕の仕事に興味を持ったのが小原流っていう流派。前衛生け花の先駆けの流派、その小原流が僕の作品に興味を持ったんです。器を作る前にね。それで小原流の本に僕の作品をよく取り上げてくれたり、峯村さんが小原流の雑誌(注:『小原流挿花』)にずっと連載をしていて、その中で僕のことを取り扱ってくれたり、小原会館で展覧会があってそこに出展したりしました。

菊川:平行芸術展ですね。

小清水:そうそう。あれも峯村さんの企画だと思う。それからあと、1981、2年か、80年かな。勅使河原宏が草月流の家元を襲名したときに、彼が生け花の世界でも絵画とか彫刻の修練をしたほうがいいと考えて、それでまず大阪に家元教室ができて、そこに彫刻コースと絵画のコースを作ったんですよ。そのときは乾由明と木村重信を中心に元永定正、吉原英雄、それから増田正和、森口宏一、清水九兵衛という人が集められて、その中の一人に僕が入って。僕が一番若かったんで、まだ30代だったんだけど、「彫刻のクラスを見てくれ」って言われて関わったのが始まりです。それ以来もう40年近くずっと家元教室で、基本的には草月流の先生たちに教えるというのをいまだにやっていますね。もうちょっと疲れてきたけど(笑)。

菊川:東京のほうの草月会館でも講演されたりしていますね。

小清水:そうそう。東京の草月会館で何回か特別講師で行って講習会をやったりとか、それから勅使河原宏さんが生きているときは、富山県の利賀村っていう早稲田小劇場が芝居をやっているところに草月の山房ができて、そこに集まって何日かかけて野外で作業をする、そんなこともやっていたんですね。勅使河原宏が亡くなって娘さんが跡を継いでから、続いてはいるんだけど、以前とはちょっと違う感じになってきていますね。

菊川:あと、池坊なんですけれども。

小清水:池坊は、お花としての付き合いは全くないんですよ。

菊川:吉田謙二先生が池坊の学長をされていますよね。

小清水:そうそう。吉田謙二さんが同志社の教授で、同時に池坊も学長を一時期やっていて、それで。

菊川:吉田先生に生け花の知識がおありだったという経緯なんですか。

小清水:じゃないと思うんだ。どういういきさつか僕は全然知らないんだけど、大学をちょっと立て直すために呼ばれたんだと思うんだよね。立て直す計画の中で、あそこにある展示室を有効に使おうっていうんで、僕がその展示室の有効な使い方の委員会の外部委員として呼ばれて、それで室町のギャラリーを活気のある空間にするために関わったんだけど、ところが吉田さんが突然亡くなったのでそれで立ち消えになってしまってね。何回か彫刻科の学生の展覧会もやってもらったんだけど。

菊川:そういった生け花の世界から、ご自身の作品のことで何か得るものはあったんでしょうか。生け花という考え方とか。

小清水:日本人が花を生けることそのものは、僕はすばらしいことだと思って、あの世界観はすごい大変立派な世界観だと思っている。それからもう一人、岡田幸三さん。

菊川:池坊の関係の方ですか。

小清水:うん。池坊から出た人なんだけど、岐阜県立美術館の岡田…… 彼、下の名前何だっけ。

菊川:もの派の展覧会なんかをされている、岡田潔さん。

小清水:そうそう。岡田潔さんのお父さんなんだけど会津出身の偏屈なお爺さんで。その岡田幸三さんっていう人は、僕は生け花の作家としてはすごい尊敬している。その人は池坊と仲たがいをして一人でやっていましたけど、ものすごくお花の研究をしていて。例えばタンポポ1輪でも立花としてきちんと生けるとか、あるいは枯れススキを1本生けるとかね。そういう自分で生けて撮って本にした写真集を僕にくれたんです。(『岡田幸三 花の伝書』神無書房、2007年)。それ見てものすごく感銘を受けて。岡田さんも僕の作品を気に入ってくれていたみたいで、僕がいろんな落ち葉を使いたいって言ったら裏山に行って落ち葉をいっぱい拾ってきてくれたりとか、岐阜の美術館でやったときにはそうやって助けてくれましたけど、残念ながらその人も早く亡くなってしまった(注:「小清水漸展 彫刻・現代・ 風土」岐阜県美術館、1992年2月18日-3月22日)。僕、濃密に生け花そのものに関わってはいませんけど、生け花の世界は本当に日本の文化としてはすばらしい世界でね。僕らの仕事と考え方の上で繋がるところはすごくあると思いますね。特に、関根伸夫は生け花を習っていたことがあって。だから、初期の彼の仕事は生け花からの発想は結構あるんですよ。

菊川:それはどういった生け花を習ってらっしゃったんでしょう。前衛生け花とか。

小清水:彼は多分池坊をやっていたと思う。例えば、お花の中でわざと枝をボキッと折って、折った状態で生けるっていう技法があるんだけど、それを使った作品は1本の木から彫り出して、こういうふうにこう繋がっている作品とかね。それから石を柱の上に浮かせるっていう作品があるけど、あれも木の上に石をポンと置くという、そういう生け方があったりするんですよ。いつ習っていたのかは僕は知らないんだけど、若い頃にやったことがあるって聞いたことがある。

菊川:そういったご関心が、先生の世代の作家さんや身の回りの方にあったんでしょうか。

小清水:どうでしょうね。それはわからないんだけど、ただ僕の母親もやはり池坊の花を生けていたので、そういう姿を子どもの頃から目にしていて。正月に花を生けることによって改まった世界を迎えるという意識は、清々しいなと思いながら見てましたね。

菊川:生け花の花の見方って、すごく日本的な美のあり方かと思いますけど、そういったものも参照されながら作品を作られたり。

小清水:直接僕の作品に現れることはまずないですけどね。ただ、僕の作品を生け花の作家が見て、評価してくれることは結構ありますね。また名前忘れたけど、前衛生け花で、例えばバラの花びらをグシャーッと潰してしまうような。

菊川:中川幸夫さん。

小清水:そうそう。中川幸夫さんも鎌倉画廊でやった器の作品の展覧会を見に来て、すごい感心してくれたりとかね。生け花の作家が作品を評価してくれるということはよくありますね。でも、決して僕は生け花の世界にすり寄っているつもりはないんですけど。

山下:小清水先生は関西に来られた頃に、定番ですが京都や奈良の寺院仏閣も散策されたんですか。

小清水:僕のもくろみとしては京都や奈良の寺とかも見て回る予定だったんですけど、ほとんど見てないですね。学生と一緒に桂離宮とか修学院を見に行ったとか。そういうのはありますけど。当初の予定では毎週のようにお寺参りをする予定だったんだけど(笑)、全くできていませんね。

菊川:じゃあ、次の質問に移りたいと思いますけれども。70年代の後半以降から、壁に直接かけて展示するような木彫のレリーフ作品を盛んに作られるようになります。この経緯を教えていただければと思います。

小清水:最初、なぜ始めたのかは思い出せませんけど、ただ、レリーフ状の作品のあり方はすごく魅力があるんですよ。僕は絵を描かないので、絵画の世界のことがわからないということが一つあるんですけども、ただ、絵画でもない立体彫刻でもないレリーフ状の作品っていうのは、本当に鵺(ぬえ)のようなどっちつかずの世界で、すごく魅力があるのも確かなんですよね。本当に何mmか、ほんの数cmの間の空間を作ることに対する魅力があって、いまだにレリーフ状の作品は時々作りますね。一番最初が、板を組み合わせてその表面をナイフで削っていく(仕事)。それをなぜ始めたのか、きっかけは僕にも思い出せないんですけどね。多分、木という物質をキャンバスの広がりのような面として作り変える、そういうことの面白さをやってみたいと思ったのかもしれませんね。で、そのレリーフの表面はテーブルの天板の広がりに繋がる。だから、テーブルの天板に刻み目を入れる、削る作品も1、2点あります。《作業台−vanishing point》っていう作品があるんですけど、多分写真は載ってないかな。木のレリーフと同じような彫り込みがテーブルの天板にあるやつね。それから、テーブルの天板を彫って、木版の版木のようにしてしまう。そこから木版を刷り出すという作品もありますね。

菊川:このレリーフの作品で、彫刻界の代表的な中原悌二郎賞や平櫛田中賞というのを受賞されていますけれど、日本の彫刻史における新しい木彫作品として位置づけられたのかなと思いました(注:《レリーフ'80-4》で第11回中原悌二郎賞優秀賞、《レリーフ’80-8》で第10回平櫛田中賞)。

小清水:そうですね。多分、僕がレリーフを発表し始めた当初は、割合と彫刻の世界では新鮮に捉えられたのかもしれませんね。それで田中賞や何かをくれたんだと思います。

菊川:次の80年の第39回ヴェネチア・ビエンナーレにもレリーフの作品がたくさん出されています。

小清水:そうですね、テーブルの作品とレリーフの作品と両方出していますね(注:《作業台−木の帆》、《作業台−桐の枝》、《作業台−水》、《レリーフ'80-7, 8, 9》、《レリーフ'80-1》、《レリーフ'80-2》を出品)。

菊川:このときのコミッショナーがパリ青年ビエンナーレのときと同じの岡田隆彦さんですね。そのときに出品されたのが榎倉さん、小清水先生、若林奮さん。

小清水:そう。若林さんと榎倉と僕と。岡田さんの好きな二人と、さほどでもない僕で。

一同:(笑)

小清水:でも、3人の展覧会は僕はすごく気に入っていましたね。皆それぞれ違う作風だし。そのときにマクダレーナ・アバカノヴィッチ(Magdalena Abakanowicz)というポーランドの作家が、僕がいないときに会場に見に来て、わざわざ「この作品はすばらしい」と書き置きを託してくれたりとかね。それから中国系の作家でスイスにいた人かな、ザオ・ウーキー(Zao Wou-ki)。彼も「僕の作品がすばらしい」って言い置いていってくれたりとか、割と手ごたえはあった。それと、このあいだ亡くなった吾妻兼治郎さんっていう日本人のミラノにずっといた(作家)。あの人は会場で実際に話をしましたけど、僕のテーブルの仕事や何かを認めてくれて「木彫はどこで手ほどきを受けたのか」と聞かれたりしました。

菊川:先ほどもおっしゃっておられたように、彫刻も工芸の世界との関わりを無視してはやっていけないし、日本の近代彫刻の歴史というのを工芸や工芸的技術も含めて見直すべきだというような発言もされています。今、そういったことをどう思われていますでしょうか。

小清水:やっぱり、いまだに工芸の世界のことは熱心にではないけども、無視をしない程度に見ていますね。ただ、工芸の世界に僕の作品を並べる意識は全然ない。そういうことはないんですけど、ただ本当に、同じ時代にものを作って表現している人間であれば、やはりそれぞれがやっていることはちゃんと真摯に見なきゃいけないと思うんですよ。何年か前に東京近代美術館の工芸館のほうで「かたちの領分」という展覧会があって(注:東京国立近代美術館工芸館、1998年10月3日-11月23日)。それに呼ばれて、僕やトニー・クラッグ(Tony Cragg)とか彫刻系の作家と、工芸の人たちの作品が同じ会場で並べられるという体験をしたんですね。そのとき僕は、わざと木で作った皿の中に焼き物の皿を埋め込む、そんな作品を作りました。やっぱり工芸の人と彫刻の人というのは、お互いを知るためのコードのみたいなものを出し合わないといけないと思っていてね。工芸の展示会場でやる展覧会だから、こっちからも一つの提案みたいなことを出してやってみようと思ってやったんですね。残念ながらこのあいだ僕、愕然としたんだけど、東京画廊の主人に、あの作品から僕の作品がわからなくなったと言われてしまって(笑)。

菊川:ああ、そうなんですか。では最後に、70年代前半までのもの派といわれている動きについてのご質問なんですが。80年代半ば以降、もの派という一つの括りは日本美術の重要な動向として批評家や美術館で何度も再検証されてきたと思うんですけれども、これまでも十分語っていただいたんですが、ご自身の作品が歴史化されていくことについてどうお感じになってきたかを改めてお伺いできますでしょうか。

小清水:昨日もちょっと触れたかもしれませんが、何十年も作品を作っていると、僕自身は変わらないで作っているんだけど、ところが僕の70年代のことを全く知らない人たちが美術のことを論じる、そういう時代になってくるじゃないですか。自分のことを思い出しても、自分が生まれる以前に起こった美術上の出来事なんていうのは、リアリティを持って感じ取ることはできないわけですよ。どうしたってね。やはりそれは歴史として教わることの知識の中で捉えていく、実際に残っている図版とかを見ながら自分の中で再構成していく、そういう追体験をするしかないのでね。だから70年代初頭のわれわれの仕事を、例えば90年代生まれの人が見る場合には、やはり僕の感じ方と彼らの感じ方というのは当然ずれがある。それは確かだと思うんですよね。ただ残念なのは、まだ何人か生きているのでね。僕を含めて生きているので、もっとリアルな出来事として捉えてほしいなっていう気持ちがどっかにある。それから、歴史っていうのは恣意的にやっていこうとすればいくらでも脚色できる。歪めていくことができる。しかもそれが資料として残ってしまえば、その資料は独り歩きしていってしまってね。そういったことで、本当に世界の歴史は脚色されながら語られていくのかなっていう感じは持っていますね。
ただもの派に関しては、たまたま李禹煥という、言葉に巧みな人が身近にいて、さまざまな言説を世の中に出していったために、逆にほかの人たちがもの派のことについて深く踏み込んでこれなくなってしまったというか。もの派をきちっと腑分けすることができなくなったっていうかね。李禹煥の存在が一つの鎧のように、バリアのように周りには映ってしまって、そこに敢えて入ってくることがなかったのは、ちょっと不幸な一面であるかなと思う。本当は、恐れずにどんどん踏み込んで疑問をぶつけることがもっと闊達に起こっていれば、日本の美術界の中でもの派の解釈や位置づけは、もっと確固としたものができあがったんじゃないだろうかって思うんですよ。もの派だけじゃなく具体もそうですけども、今、ヨーロッパやアメリカで戦後の日本の現代美術の動きに対する視線が割と多くなってきているので。ただ、外国からの見方の間違ったリードをどこかでされていってしまうと困るなという気持ちはありますね。まあ、長い目で見れば歴史なんてそういうものかもしれないと思うので、それは致し方がないかなと思いますけども。ただ、もの派といわれる人間たちが、ごくごく短い期間だけれども本当に情熱を込めてやろうとしたこと、それはできるだけ正当に評価してほしいなという気持ちはありますよね。日本の美術界の中でも数少ない一つのエポックとして捉えられるものだろうなと思うのでね。ただ、自分たちがやってきたことを声高に人に押しつけたいとは全然思ってないので、自然の流れで流れていけばいいとは思っていますね。僕、大学で教えていましたけど、教員として教えてはいけないっていう戒めが僕にはあって。教えないように、教えないようにと僕は努めてきたつもりで。えてして自分のことを押しつけたがるんですよね、教える立場になるとね。自分の考えを押しつけたがるんだけど、それはしてはいけないっていうふうに思ってきた。でも、巧妙に教えていますけどね(笑)。砂を目の前に山積みにするとかね。

菊川:ありがとうございました。最後に何点かだけ共通のご質問をさせていただければと思います。美術家として長年ご活動されているんですけども、現在、普段の1日の生活はどんな構成でしょうか。例えば、作品制作をどの程度されているとか。

小清水:あのね、僕の作り方って、昨日も言ったけど、大半の時間は考えたり感じたりしている時間なんですよ。それで、最後のごく何割かは手を動かして具体的に作品にするという、そういうやり方をしてきているので。ただ若い頃はエネルギーも体力もあったから、常に複数の作品の考えが頭の中にふわふわ浮いていてね。それをあるときふっと引っ張る、自分の意識の中に持ち込んで、それをぐっと集中して考えて作品を作る、そういうことが割と早いスパンでできた。四六時中作っているような状態にできたんだけど、今はもう体力もないしエネルギーもないのでね。それと、時代的にもう昔のように作品の要請がないんですよ。展覧会をやるから作品作ってくれとかね。この20年って特に彫刻の展覧会ってすごい数が少なくて、世の中不景気で美術館も予算持ってなくて。それであんまり要請もなかったこともあるし、僕も元来怠けるのが好きなので(笑)、できるだけ何もしないようにぼーっとしてる。ずっと作品については考えているんですけどね。だから、今の一日を見ていると恐らく24時間のうちの12時間ぐらいは、ぼーっとしてると思います。

一同:(笑)

菊川:大体展覧会に合わせて作品作られるんですか。

小清水:そうですね。

菊川:展覧会がなくてもコンスタントに作るというタイプではなくて、展覧会の会場や状況に合わせて作っていかれたという感じでしょうか。

小清水:もう九分九厘、必要があって作る。どうしても、自分が作りたくて作ることはまずないですね。たまにありますけども、もう本当にできるだけ怠けていたい性分なのでね。けど、常に頭の中では動いているっていう状態ですかね。時々アトリエに行って。アトリエに行くと強制的に体を動かすのでね。作品の作業場に行って、片づけをするだけでも結構僕の気持ちのリフレッシュには役立つんで。そんなことをしています。

菊川:ありがとうございます。また、大学で長らくお仕事をされてきたと思うんですが、美術作家として生計を立てていけるようになったのはいつ頃からになりますでしょう。

小清水:うーん、まだですね(笑)。本当に正直な話、彫刻家として自分の生活を維持できているかっていうと、全然じゃないですかね。大学に勤めることによって得る収入で僕は家族を養ってきたし。今は子どもたちが独立しているから、僕の家内だけを養えばいいのでね。お互いに年金ももらっているからやっていけるので。本当に彫刻作品が売れることによって生活を維持するって、いまだに本当にできていません。ただ普通に勤勉な社会人と同じように、得た収入をきちんと貯めてきちんと使うっていうふうな習慣がついてれば、十数年ぐらいは生活できているのかもしれないけど。厳密に言うと本当に作品だけで生活はできていませんね。

菊川:関西女子美大に行かれた頃にご結婚されたと思うのですが、奥様である上原貴子さんとの出会いですとか、娘さんとか息子さんの存在というのは、先生の制作、美術家としての人生にとって大きな影響がやはりあったんでしょうか。

小清水:そうですね。関西に移ってきてすぐに結婚しましたけどね。「本当におまえ古い人間だな」って、ついこのあいだも友達に言われましたけど、家族は養わなきゃいけないと。家族を路頭に迷わせてはいけないというのが僕には基本的にあって、そのために大学に勤めて給料を得るとかいうことがあった。それから僕のかみさんは、それこそ関根伸夫、吉田克朗、櫛下町順子と知り合った頃と同時に知り合っていて、一緒に壁画描きのアルバイトをしたりもしていたので。

菊川:奥様は作家さんだったんですか。

小清水:いやいや。彼女は生活美術なんていうところを出ているけども、作家ではなくて設計事務所に勤めてたのかな、昔出会ったときは。その設計事務所を通じてアルバイトを僕たちに流してくれていたこともあって。その前は多分ね、画廊に勤めていたことがあると思うんですよ。僕と付き合うようになった頃は中曽根康弘の国会議員会館の秘書をしていましたね。もちろん上に偉い秘書さんたちがいるんだけど、一番下っ端の秘書をやっていましたね。僕が結婚したときはまだ中曽根事務所にいて、そこからこっちへ来ましたね。たまたま選挙地盤に彼女の親が住んでいて後援会の仕事をしていたので、そのつてで秘書をしていた。

菊川:でも前衛的な美術に関してご理解があったんですね。

小清水:僕がいくらぼーっとしていても、ちゃんと作品を考えているんだっていうことを理解してくれる人間なので、足蹴にされないで(笑)、今までやってきていますけどね。その点はありがたいなと思いますね。

菊川:じゃあ最後になんですけれども、今までお話いろいろ伺ったんですが、これからのご活動で何かなさっていきたいことはありますでしょうか。

小清水:ちょっと触れましたけど、たとえ新聞紙1枚でも作品にするのと同じように、たとえ石ころ一つでもそれを作品として成立させることに、いまだに僕は気持ちが動いていて。本当に極端な言い方すると、わらしべ1本をいかに作品にするか、そんな気持ちでやっていきたいところはありますね。多分、死ぬときに藁をこうやって(手で)持って死んでいるかもしれないです(笑)。

一同:(笑)

小清水:石を彫るとか木を彫るとかっていうことよりも、今手に入る何かでそれを作品にするっていう、そんな気持ちはありますよね。

菊川:ぜひ拝見できるのを楽しみにしています。

加治屋:長時間お話伺いまして、何か言い漏らしたこととか、ちょっと補足しておきたいこととかございますか。

小清水:何かいろいろ言い忘れているような気がするんですけどね。昨日の夜、これ言わなきゃいけなかったなと思ったのがあったんだけど、忘れていますね。
あえて言うことではないかもしれないけど、重ねて言えば、関西に来たのは吉田謙二と知り合ったからということだけではなくて、やはり僕の中で自分の作品を本当に日本の文化の中にきちっと土着したものとして成立させたい、そういう気持ちが強かった。それを吉田謙二の言葉を借りて言えば、歴史的、社会的、風土的必然を担った作品として示せるかどうかというね。それが僕が関西に移住してきた一番の(理由)。日本のどこでもいいんですけど、情報が集中する東京ではないところでそれを探し求めるというのが、たまたま73年の関西だったっていうことなんですよね。それこそ関西そのものが僕にとっては言葉のよく通じる外国でしかなかったんだけど、そういう気持ちがいまだにやはりある。ただ、それをなかなかうまく伝えることができないというか。特に日本人って、日本的であるものを非常に毛嫌いしたり馬鹿にしたりするところがあったりするのでね。だから、なかなかそれを打ち破れないなっていう気持ちがどっかにありますね。
でも1971年にパリに行ったときに、外国の作家たちは僕の作品なんかを見て「おまえの作品は禅やブッディズム(Buddhism)と関係があるのか」という問いかけをしてきたんですよね。あるといえばあるし、ないといえば全くないわけなんだけど。彼らがなぜそういう質問をしてくるか考えると、彼らにとっては禅、ブッディズムは何か論理的でない不可思議なものっていう感じがあって、それと関係があるおまえの作品は不可思議領域にあると。理解の外にあるものだというふうな捉えられ方をしているなと思ったんですよ、そのときに。これはわれわれの仕事が——少なくとも僕の仕事が正当に理解されることは、もう生きている間は無理かもしれないなと思っていたんです。だけど最近僕たちの作品の展覧会をしてくれる風潮が出てきたのを見ると、何か向こうから近づいてくる——不可思議領域に置いとくだけじゃなくて、それを棚卸ししてもう一遍眺め直す動きにはなってきたのかなと思ってね。それに正しく応えることができるような日本の美術界の動きが本当は必要なんだろうと思うんだけど、いまだに自分たちのことを正しく知らせるというよりは、外の出来事をいかに取り込むかということでしか日本の美術界は動いていかないのが、歯痒いといえば歯痒いところですよね。

菊川:それは作家だけじゃなく、研究者や文章を書く人も。

小清水:そうそう。研究者かどうかわからないけど、少なくともジャーナリズムはそうだと思いますよね。昔初めて外国へ出て、日本にいたときにいろいろ吹き込まれた外国の情報あるいは外国の美術の情報が、いかにごく皮相でしかもごく僅かなものであったかを感じたので。美術を研究するにしても作品を作るにしても、それを報道するにしても、もっと客観的な自分の位置づけと世界の捉え方が必要なんだろうなというふうに思いましたね。ただ、あんまりこういうことを言うと皆から嫌われるのでね(笑)。あまり言いませんけども。

加治屋:この日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴはこうやって作家の方々のお話を伺って、ウェブサイトで公開して、日本国内の学芸員、研究者の方も見ていますが、海外の方も結構見ています。作家の方々がお考えになったことを、より伝わるような状況を作っていきたいなと思います。

小清水:そうですよね。本当に昔に比べて相互の情報交換が増えてきたので、それはすごくいいなと思ってね。

加治屋:本当に長い間、2日間にわたってお話をお伺いできて、どうもありがとうございました。

菊川:ありがとうございました。

小清水:いえいえ。質問なさる側のほうが疲れたんじゃないかなと思います。

加治屋:本当に貴重なお話をありがとうございました。