文字サイズ : < <  
 

ロジャー・シモムラ オーラル・ヒストリー 2018年5月9日

カンザス州ローレンス、シモムラ自宅スタジオにて
インタヴュアー:池上裕子、金子牧
書き起こし:金子牧、チェイニー・ジュエル
公開日: 2022年1月5日
 
ロジャー・シモムラ (1939­­–)
美術家(絵画、版画、パフォーマンス)
日系三世のアメリカ人であるシモムラは、アメリカの人種的ステレオタイプに関する問いかけを行うポップなスタイルの絵画や版画で知られる。1939年にシアトルで生まれ、太平洋戦争中はオハイオ州のミニドカ収容所で過ごした。聴き取りにはかつてシモムラも教鞭を執ったカンザス大学で美術史を教えている金子牧氏にご協力いただいた。1日目は、グラフィック・デザイナーとして活動した後に美術家を目指した経緯や、作品に浮世絵のモティーフを使い始めたきっかけ、それが日系アメリカ人の収容所体験を描いた〈ミニドカ〉(Minidoka)シリーズ(1978–79年)や〈日記〉(Diary)シリーズ(1980–83年)にどのように発展したかについて伺った。2日目は、祖母のトクが収容所でつけていた日記を題材としたパフォーマンス作品や、後にスミソニアンの国立歴史博物館に寄贈された家族史と収容所に関する品物のコレクションについてお話しいただいた。

池上:本日はインタヴューを受けてくださりありがとうございます。これはオーラル・ヒストリーの聴き取りなので、通常は生年月日から始めて生い立ちについてお聞きします。まず、1939年にワシントン州シアトルでお生まれになりましたね。子供の頃の最初の記憶についてお尋ねしていいですか。特に記憶に残っていることはありますか。

シモムラ:子供の頃の最初の記憶は、実は収容所の中にいた時のことで、3歳の誕生日でした。バラックを出たり入ったりして、誰かが通りかかったり出てきたりする度に「今日は僕の誕生日なんだ」と言っていたという記憶です。どうやってか母がケーキを手に入れてくれました。(収容所では)自分の部屋で料理ができず、食堂でしか食べられませんでした。だからどこで買ったのかは分かりませんが、当然どこかで買ってきたんでしょうね。3本のろうそくが立っていて、私は何度もそれを数えていたのを覚えています…… 3歳の誕生日で覚えていることはこれだけです。他にもいくつかの出来事がありますが、私が後で付け加えたものだと思います。実際に起こったことではありません。これはほとんどの記憶に言えることだと思います。だから私は個人的な歴史に対して非常に疑い深く、実際に起こっていないことを付け加えて話を脚色しないように、自分の覚えていることについても実際より少ししか話しません。しかし3歳の誕生日については、ある程度正式な……

池上:最初の記憶だと。

シモムラ:そうですね。

池上:お母さまが工面して何とかケーキを手に入れてくださったのは素敵ですね。

金子:当時の環境を考えるとすごいです。

シモムラ:それ以外の記憶はそのあとのことだと思います。実際、それが収容所での最初の出来事だったかどうかは分からないのですが、はしかにかかったり隔離されたり、最初の1年が過ぎる中で他にも色々と起こりました。母と私は別の建物の別室に入れられていたので、祖父母が様子を見に毎日私を訪ねてくれていました。また、1日に3回ドアの投入口に食べ物を置いて私たちが食べられるようにしてくれたのですが、たぶん2週間か3週間は隔離されていたと思います。

池上:なるほど。水ぼうそうにかかったから、隔離されていたと。

シモムラ:いえ、はしかだったと思います。そう、それがとてもはっきり覚えているもうひとつの出来事です。《こども時代の思い出》(Memories of Childhood)(1999年)は今説明した出来事のどちらも含んでいますね、私の3歳の誕生日とはしかと。

池上:隔離されていたことを覚えているのは、そこにいるのが不満だったから。

シモムラ:その通りです。私が覚えている唯一の気晴らしがネズミでした。その部屋にはネズミがいて、母はそれを毛嫌いしていたんですね。彼女は半日もかけて箒でそれを殺そうとしていましたが、私は守ろうとしていました。唯一の楽しみだったんです、ペットを飼っているような感じで。そうしたらある日、ネズミはもういなくて、ゴミ箱を見たら、ね…… とても悲しかったです。

池上:お母さまに殺されて、ゴミ箱の中にいたんですね。

シモムラ:そう、箒で。

池上:それは悲しい話ですね。収容所での暮らしで何か他によく覚えていることはありますか。

シモムラ:全般的にですか? 収容所にいたことで?

池上:はい。

シモムラ:えー…… やはり《こども時代の思い出》を参照していただきたいと思います。率直に言うと、この連作を作るために10個のことを思い出すよう言われたとき、私は9個しか思い出せなかったのです。それはニューヨークのバーニス・スタインバウム・ギャラリー(Bernice Steinbaum Gallery)が行った大きなプロジェクトの一部でした。彼女はギャラリーに所属するアーティスト全員――20人はいたでしょうか――に、人生で最初の10個の記憶を思い出すように言いました。なぜなら彼女は、彼女がギャラリーで抱える人々のタイプから考えて、とても型破りな出来事があっただろうと分かっていたからです。(注:バーニス・スタインバウム・ギャラリーはマイノリティのアーティストを扱っていた。)そしてもちろん、私の最初の記憶は全て収容所にいたときのものです。9個しかなくて、10個目は考えられませんでした。だから私は少しズルをしました。10個目は有刺鉄線のフェンスの内側で催された「踊り」(注:盆踊り)にしたのです。非常によくそれについて読んだり聞いたりしたので、実際に見たことのような気がします。だからそれをリトグラフにすることができました。ですが実際には見ていないと思います。他には叔父が軍隊に行くので別れを告げたときのことなどもあります。それは実際に見たと思います。いつ起こったのか覚えていますから。しかし版画で描いた構図として正確に覚えているわけではありません。それは《こども時代の思い出》の中にある他のほとんどの出来事に言えることです。

池上:あなたの日系三世のアメリカ人としてのバックグラウンドについても少し教えてください。お父様の職業はなんでしたか。お母様はどんな方でしたか。

シモムラ:私たちが典型的な二世・三世家族だったかどうかは分かりません。というのは、私たちはほとんどの一世、二世、三世の人たちよりも年が上だったんです。それは、私の祖父が1906年にアメリカに渡って来て、祖母が来たのが1912年だったからです。つまり彼らは早くに来た人たちだったので、私の父も(他の二世より)年が上だったんですね。彼は大学を卒業して、戦争が勃発した頃にはシアトルで7年間薬剤師として働いていました。でも、ほとんどの二世は、収容所に連行された時にはまだ大学生か高校生だったんです。だから私たちの家族は少し違っていました。もちろん私自身、他の三世よりも大体年上でしたね。私と同じような経験をしている同年代の人もいなくはなかったけれど。私の父は、ワシントン大学出身の薬剤師で、私が聞いた話では、母はその大学のキャンパスのすぐそばにある農場に住んでいました。私がワシントン大学の建築事務所に1年間勤務し、昔のキャンパスのドローイングや写真を全て管理していたとき、面白いことがありました。母の家の農場が写真に収められているかどうか見てみたいと思っていたんですが、実際にそういう写真を見つけたんです! 今ではショッピングセンターになっていますが、その当時は農場と家があるだけでした。それで、私は写真をコピーして家に持ち帰り、母に見せたんです。彼女は信じられない様子でしたが、「この家、これが私たちが住んでいたところで、こっちがあなたの叔父さんのリック(Rick)が住んでいたところ、そしてそっちが…… 」などと言っていました。彼女はそこで暮らしていたすべての人と地図にのっているすべての建物を知っていました。今では有名なショッピングセンターになっています。
 私の母が父と交際していたとき、彼は既に大学の学位を持っていたので、いい相手を見つけたと冗談を言っていました。父は医者になる予定でしたが、大恐慌の影響でできるだけ早く学校を卒業しなければならず、薬学部ならあと1年で済むのでそうしたようです。私の祖母と祖父は学費を払って彼が卒業できるように、収入を維持するために食料品店を開きました。彼らは二世が高等教育を受けることの重要性を知っていたからです。特に父は、大学を出た最初の日系アメリカ人の1人だったので、ことに重要でした。私の母は農家の娘でした。彼女は大学に行っておらず、高校も卒業していません。だから彼女は家族を支える典型的な主婦でした。彼女は私を授かりそのあと収容所に入りましたが、そこでキャロリン(Carolyn)と名づけられた私の妹を授かりました。キャロリンは私たちが収容所を出てシカゴに移った頃、3歳で亡くなりました。私たちはシアトルから3年間離れていました。そのうち2年はミニドカにいて、3年目はシカゴにおり、私はシカゴの幼稚園に行っていました。だから私の母は主婦として子供たちを育てていたわけです。しかし収容所を出てシカゴについた年に、私の妹のキャロリン――私は何枚か彼女の絵を描きましたが――は、インフルエンザ髄膜炎にかかり、亡くなりました。だから私がシアトルに戻った時、私は一人っ子でした。そして私たちがシアトルに戻った後、母は妹のカレン(Karen)を身ごもりました。彼女は今も生きていて、サンフランシスコ郊外に住んでいます。これで当時の私の家族構成がお分かりでしょう。

池上:収容所での生活の話に戻りますが、あなたの母方の叔父さんのうち3人は商業アーティストだったと読んだことがあります。叔父さんの1人が戦争に行ったともおっしゃっていましたね。それはグラフィック・デザイナーだった3人のうちの1人ですか。

シモムラ:私の母は子供が9人いる家庭の出身です。9人のうち3人は商業アーティストで、リック、ロイ(Roy)、ジョージ(George)でした。父方は、父と、その兄ミッチ(Mitch)と叔母のフミ(Fumi)でした。フミ、ミッチ、そして(もう1人の叔父の)エディ(Eddie)。もちろん、今では皆亡くなっています。商業アーティストだった3人の叔父のリック、ロイ、ジョージは、ただの商業アーティストではなかったです。並外れていましたね。彼らはシアトルではとてもよく知られていました。でも彼らは絶対に…… つまり、私がデザインに興味を示し始めて、大きくなったらリックやロイ、ジョージのようになりたいといつも言っていたんですが、表立ってそれを支持することは決してなかったんです。やめろと言われたことはありませんが、私の面倒を見て色々教えてくれたということは全くなかったですね。

池上:それはなぜだったと思いますか。

シモムラ:分かりません。実のところ、本当に分からないんです。でも彼らとの関係から、あらゆる新聞や看板で彼らの仕事を見て、触発されるだけで十分だったとも言えます。彼らの1人、叔父のジョージは「ニコちゃんマーク」(“The Smiley Face”)をデザインしたんですよ。それで彼らの子どもたち、つまりこの叔父と叔母たちから生まれてきた子どもたちはアーティストになった人が多かったんです。遺伝的なことでしょうね。母方の家族で興味深いのが、9人のうち4人が日本生まれ、5人がアメリカで生まれたことです。その4人は初め日本で生まれて、その母親、つまり私の祖母は彼らを日本に残して友人に育ててもらったんです。彼女はアメリカに来て更に5人の子どもをもうけました。そして50年後、ついに彼らが出会ったんです。それがいつ起こったか覚えていますよ。4人のうち3人は亡くなっていて、残っていたのは1人だけでした。でも彼女は娘と一緒にアメリカに来て、それまで会ったことのなかった兄妹たち全員に会ったんです。本当に興味深かったです。50年も会っていなかった母親に、彼女は会いに来たんですね。

池上:つまりその娘さんは戦争の間日本にいた。

シモムラ:はい。今はもう亡くなっているはずですけどね。彼女にはとても独立した娘さんがいて、世界を飛び回っています。彼女は叔父や叔母の間ではあまり人気のある人ではなかったですが、私は彼女の独立心がいつも好きでした。

池上:その3人の叔父さん、グラフィック・デザイナーだった方々は、あなたと同じ収容所にいたのですか。

シモムラ:はい。全員ミニドカにいてみんな戦争へ行きました。

池上:全員ですか。

シモムラ:叔父のうち3人は第442連隊にいました。(注:第二次世界大戦で戦った第442連隊。ほぼ日系二世のアメリカ人だけで構成されていた。)1人は負傷しましたが、全員が生き残りました。別の叔父、ミッチは軍事情報部にいました。その部門はMI(Military Intelligence)と呼ばれていて、彼はバイリンガルだったので通訳になることを求められました。それで彼は原爆が落とされた直後に日本に派遣されました。彼が犠牲者たちの信じられないような写真を撮っていたのをいつも思い出します。原爆投下からほんの数日後のことだったのです。彼はそれをアルバムにしました。とても大きく分厚いアルバムです。私は彼の家に行くたび、そのアルバムを探して引っ張り出し、写真を眺めていました。とにかく信じられないような写真だったからです。私は自分が何を見ているのか分かっていませんでした。

池上:ご自身もかなり小さいころだったのではないでしょうか。戦後すぐだとしたら4、5歳くらいでしょうか。叔父さんはそのようなむごい写真を見ることを許してくれたのですか。

シモムラ:しばらく後になるまで見ていませんでした。恐らく10代のころだったと思います。

池上・金子:それにしてもまだ若い!

シモムラ:ええ。でもとにかく、彼の家に行くたびに、そこに座って写真アルバムを見ていましたね。その後年月を経て、彼の3人の子どもたち――ケニー(Kenny)、デニー(Denny)、パティ(Patty)――がアルバムを引き継ぎました。デニーがそれを家に持っていたんです。彼は一番下の息子でした。そのアルバムが本当に珍しいものだったので、彼は多くの人に見てもらうために貸し出したいと思っていたんですね。1969年か1970年に私はここ、カンザス大学に来て2年目くらいだったんですが、スペンサー美術館(Spencer Museum)のキュレーター兼写真家であるジム・エンヤート(Jim Enyeart)と話していたんです。私がこの話をジムにしていたら、彼は「これは、展覧会をするべきですよね」と言ったんです。写真は本当に小さいんだと言ったら、「引き伸ばして展示をやりましょう」と。それで私は「素晴らしいアイデアですね」と言って、そのアルバムを預かっていたいとこのデニーに電話して「アルバムを送ってよ」と言ったんです。そしたら彼は「なくなった」と。

池上・金子:なんとまあ!

シモムラ:彼は「アルバムは母さんから借りたよ。僕が持っていて用が済んだので、それで母さんに送り返したんだけど着かなかったんだ」と言っていました。なのでアルバムは全て失われてしまった。なんという悲劇でしょうね。

池上:それは甚大な損失ですね。

シモムラ:ええ。今でも何枚かの写真を思い出せますよ。

金子:それは広島、東京か長崎かの写真でしたか。どれだか覚えていらっしゃいますか。

シモムラ:分かりません。広島だったと思います。確信はありませんが。でもいつも広島だと思って見ていました。

池上:叔父さまのどなたかは、戦争の経験をお話しになりましたか。

シモムラ:いえ…… 私はそんなに母方とは親しくなかったんです。父方の家族につくというのが典型的な日本の家族だったので。なので、タナギ家の人たちに会うのは、ごく限られたときだけでした。

池上:タナギ。それがお母様の旧姓ですか。

シモムラ:ええ、そうです。

池上:収容所から出たあと、ご家族はどこでどのように暮らしを再開しましたか。それについてはすでに少しお話して下さいましたね。シカゴに行って、それからシアトルに戻って来た。

シモムラ:はい。私の父は薬剤師だったので収容所には最小限の期間しかいませんでした。どこかで仕事が見つかりさえすれば収容所を出ることが許されたからです。でも家に帰ることはできませんでした。ワシントン、オレゴン、カリフォルニアといった(太平洋に面した)警戒区域にも行くことができませんでした。だから彼はミネアポリスに行かなければなりませんでした。それは彼がまずメイヨー・クリニック(Mayo Clinic)に行き、その後いくつかの場所を周って、シカゴに仕事場を見つけたからでした。そこはサージェント・ドラッグズ(Sergeant Drugs)と呼ばれる薬局でした。その場所にずっとある薬局で、有名なところだったようです。ドイツ系アメリカ人の一家が、父が私たちを収容所から出すための場所を見つけるまで彼を受け入れ、薬局の中の部屋に住まわせてくれました。しかし(日系人への)偏見が高まっており、場所を見つけるのは本当に難しかったようです。加えて4人家族のため十分な大きさが必要でした。だからドイツ人の一家と一緒に住まわせてもらえただけでも幸運でした。最終的に彼はシカゴ南部の高層アパートに部屋を見つけ、私たちはそこに住みました。おぼろげな記憶ですが、そこは妹の亡くなった場所でもありました。彼女の亡くなった夜のことを覚えているからです。散歩をしたことも覚えています。そこは湖に近くて、私たちは週末にはよく湖へ散歩に行ったのです。でもそこは南シカゴの貧しい地域でした。キッチンに窓があったのを覚えています。窓を見るとこんな風に、チューブのようになっていました。全てのキッチンの窓が下を向いていたんです。私たちが何階に住んでいたのか分かりませんが、ずっと下の方でした。私たち子供がよくやったゲームがありました。誰かがブリキ爆弾のようなものを持って、こんな風に窓に登って、他の子供たちは下にいて、それから叫ぶんです、「日本人(Jap)を殺せ!」って。そして窓から爆弾を投げます。下にいる子供たちはみんな爆弾に当たらないように逃げるんです。その遊びはかなり危険でしたが、私たちは自分たちがしていることの意味を考えていませんでした。

池上:それでは、あなたもその遊びに加わっていたのですか。

シモムラ:ええ。あらためて考えると、私が一緒に遊んでいた子どもたちがやっていたことは、かなり荒っぽかったんです。ある時、私たちは遊んでいて、私が台所に行ったら母に何か言われたんです。叱られたんでしょうね。それで私は彼女の前で「くそくらえ!(Fuck you!)」と言ってそのジェスチャーをしたんですね。意味は分かってなかったんです(笑)。みんながお互いにそうしていたこと以外はね。それで母に言ったら、彼女は私の頭をぱしんと叩いて、「もう、なんてことを」って(笑)。でも、それが当時のシカゴでの生活でした。

池上:つまり、小さな子どもでも四文字言葉(注:罵倒語、タブー語)を使っていたと。

シモムラ:そうそう。妹が亡くなった夜のことも覚えています。彼らは「彼女を病院に連れていくから」と言って、廊下の向かいに住んでいたベビーシッターが来て、私の子守をしていました。それから次の日、母か父かが、どちらだったかは思い出せないのですが、キャロリンが亡くなったと教えてくれました。そして最後に彼女に会いたいかと尋ねてきました。私は「うん」と言って、まあ、他に何と言えるんですかね、葬儀場に行ったんです。ワンルームの部屋と同じくらいの大きさの部屋に入っていったのを覚えています。もちろん、そこには揺りかごと赤ちゃんのキャロリンが横になっている以外、何もありませんでした。彼女はたったの1歳半だったと思います。そこまで歩いて行くと、父が抱き上げてくれたのを覚えています。私は彼女を見て「これは誰?」と言ったんです。つまり、妹には見えなかったんです、少なくとも私が覚えている妹とは。それが死に化粧や、おしろいか何かのせいだったのかは分かりません。それが私の死との最初の出会いでした。これが(シカゴでの)もうひとつのはっきりしたな記憶です。それから、私たちは祖父母を収容所から連れ出しました。叔父のミッチと結婚した叔母のヒデコも連れてきました。私たちはシアトルでの暮らしを再開するために、電車に乗りました。電車に乗ったことで覚えているのが、乗り物酔いをしたことです。私は電車でこんな風に、もっと近い感じで座っていたんです。それで叔母の膝の上に吐いてしまったんです。彼女はそのことは覚えていると言ってましたね(笑)

池上:つまり、忘れられないんですね(笑)。それではお父様はシアトルで薬剤師としての仕事を再開された。

シモムラ:ええ。彼はシアトルに戻りました。彼はラッキーでした、なぜなら前の仕事に戻ることができたからです。

池上:同じお店ですか。

シモムラ:はい。ジョセフ・ハート薬局(Joseph Hart Pharmacy)と呼ばれていました。シアトルのダウンタウンにありました。シアトルで一番大きくて古い薬局です。お伝えするべきもう一つの話は、私が父に「戦争が始まったとき、物事は変わったか」と尋ねたことです。父は「ああ、変わったよ」と言いました。戦争が始まったとき、薬局のオーナーであるジョー・ハート(Joe Hart)が、これからはカウンターで出入りするところの床に線を引いておくと言ったそうです。そして父は「これからはこの線より前にいるところを見られてはいけない」と言われました。つまり、父はカウンターの裏側で働いたということです。父は実に不公平だと思いましたが、しかし何ができたでしょうか。父はまた、突然、窓を拭けとか、床を掃除しろとか、埃を払えとか、そういうことを言われ始めたと言っていました。しかし彼は言われたとおりやったんです。つまり、繰り返しになりますが、家族全員を養っているときに、仕事を辞めてどうするんだ、ということです。とにかく、これが彼の記憶です。仕事に関する直接的な苦難のひとつですね。

池上:でも戦争の後に、同じ人が彼を雇いなおしてくれたんですね。

シモムラ:ええ。私たちが収容所を出たとき、彼らは父を雇いなおして、その薬局の所有者が変わるまで彼は長い間働き続けました。薬局は別の名前になりましたが、場所は同じでした。なので、父はその薬局と長い歴史を持ったんですね。それから私たちが収容所から出てシアトルに戻ってくると、母がすぐに妹のカレンを妊娠しました。カレンが生まれてそれで、ええと…… 結婚して…… 長い話なのでこれ以上はやめておきましょう。でも彼女はハクジン(hakujin)と結婚して、それで父がとても動揺したんですね。(注:以下、シモムラが白人を指すのに日本語で「hakujin」と言った場合は「ハクジン」と表記し、「white」などの英語を使った場合は「白人」と表記する。)この部分はおもしろいと思います。私が若かったころ、私があまりデートしていなかったのを父が心配して、「素敵な日本人の女の子はいないのか」とか、そういうことを言ってきたんです。それは父に限ったことではなく、ほとんどの二世が子どもに同じことを言っていたと思います。覚えているのが、ある時、私は大学か…… 高校か大学のどちらかにいたはずなんですが、ハワイ出身の女の子と付き合ったんです。彼女の叔父は州知事で、バーンズ知事(Governor Burns)という人でした。殆どのハワイの人たちがそうであるように、彼女もミックスでした。半分アジア人で、もう半分はたぶんハワイとフランスとか、そんな感じだったと思います。でも私は両親にそのことを言わなかったんです、彼女はアジア系と言っても通るので。父と母が「彼女を夕食に招待しよう」と言ったので、私は「いいね」と言って、彼女を迎えに行って、家に連れてきました。彼らは彼女を見て、すぐに彼女がニホンジン(nihonjin)でないことを理解したんです。それで、居間のダイニングテーブルでみんなで食事をするのではなく、母が彼女のために――名前はハウナニ(Haunani)といいます――地下にテレビ用のトレーテーブルを持っていき、ハウナニと私は母と父とは別に、階下で食事をしなければなりませんでした。彼らに関する限り、彼女は私たちと食事をするには至らない相手だったんです。

池上:それはかなり極端ですね。

シモムラ:ええ。かなり極端ですが、でも珍しい話ではありませんでした。私の友人たちも同じような経験をしていました。次に付き合った女性も父は気に入りませんでした。彼女は私と同じ三世でしたが、歌手だったからです。彼女はバーで、トリオで歌っていました。その3人はフィリピン人、アフリカ系アメリカ人、そして日系アメリカ人のエイミー(Amy)でした。彼女たちはシアトルではよく知られた存在でした。その活動をしていたとき、彼女は20代前半で、もちろんそこ(父の判断)には日本的な価値観がありました。「多くの人がお酒を飲んだり煙草を吸ったりするような場所でそういうことをするにはちょっと若いんじゃあ……」ということですね。

池上:まともな仕事ではないと思われていたんですね。

シモムラ:はい。悪影響があるんじゃないかとかね。でも私たちは付き合い始めて、3年くらい付き合いましたね。大学の1年生から3年生にかけてだったと思います。実際は4年間だったかな、大学4年生の時も付き合っていたので。そのあと私が軍隊で韓国に行ったので別れました。それから彼女はブルース・リー(Bruce Lee)と付き合い始めたんです。

池上・金子:ブルース・リー!?

シモムラ:ええ(笑)。友人から、「エイミーがブルースと付き合ってるぞ」という手紙が来るようになりました。私は「どうでもいいよ! 僕たちは別れたんだから! それに、僕にどうしろって言うんだ!」と答えました(笑)。面白いですよ、ネットで調べれば2人の話が読めますが、それは絶対に彼女が書いたものです。というのは、彼女は1960年くらいからブルースと付き合っていたと言っているからです。でもそれは私たちが付き合っていた時期なんです。私に隠れて彼と付き合っていた時期が2年もあることになります。

池上:そんなことができたと思いますか。

シモムラ:絶対に無理です。私はほとんど彼女の家、というか彼女のお母さんの家に住んでいたんですから(笑)。ああ、私はそれについてパフォーマンスも作ったんですよ。

池上:本当ですか。

シモムラ:シアトルでね。私がやった一連のシリーズの一つでした。お客さんの入場のとき、なんと彼女が私の友達と入ってきました。私は「あっ」となりました。自分がやろうとしている作品のことを考えたからです。彼女たちは入ってきて、最前列の席に座りました。私はパフォーマンスの全行程をやり抜いて、その部分についてもやり切りました。終演後、彼らはすぐ立ち上がって、何も言わずに出ていきました。今でも全く分かりません、どのように……

池上:彼女がそのパフォーマンスをどう思ったかですね。

シモムラ:そうです。でも、それは全て真実で、彼女もそれを分かっていた。なので、どんなことをしていたとしても、例えば彼女が広めていたかもしれない噂などがそうですが、パフォーマンスの内容が真実だということを彼女は心中では分かっていたはずですよ。

池上:それはとても興味深い話です。

シモムラ:それで、私が実際に言おうとしていたのは、私たちがシアトルに戻って、妹のカレンが生まれたということでした。先ほども言ったようにそれについては深入りしませんが、彼女は20代前半、本当に激動の時を過ごして、ハクジンの若造と付き合ったことでも父を本当に怒らせていました。私は妹を弁護するに時間を費やしたんですが、彼らが密かに結婚していたことがわかったんです!

池上:すでにですか。

シモムラ:ええ。妹は彼に会いに行くために真夜中に家を抜け出していたんです。本当に許せませんでした、だって今日に至るまで、密かに結婚していたことなど私には言っていないんです。私は他の人から知ったんですよ。おかしいですよね。

池上:収容所から出た後、多くの日系アメリカ人の家族は、収容所での経験についてあまり話さなかったということを読んで知ったのですが。それはあなたの家族にも当てはまりましたか。

シモムラ:ええ…… 父が私に言ったことがあります…… 私は大学の1年生だったと思うんですが、ライティングの授業を取っていて、自分が経験したユニークな経験について書くことになっていました。私は父に「収容所についてのレポートを書きたいので、収容所についてのインタヴューをしたいんだけど」と尋ねたんです。収容所が何なのかも分からなかったのでね。自分も経験していたのに、一種の謎だったんですよ。覚えているのは自分が3歳、4歳、5歳のときのことなので、収容所が何なのかを理解するのに役立つようなものではなかったんです。なので父に「覚えていることを教えてくれないかな」と聞いたんですね。すると彼はとても怒って「この家では収容所のことは話さない」と言ったんです。それがほとんどの二世の典型的な態度だと、私は知る由もなかった。ほとんどの二世が子どもたちに「それについては話さない」と言っていたんです。彼らはそのように説明したわけではないですが、恐らく、収容所での経験があまりに恥ずべきことだったので、それについて語らなければ過去に追いやれるのではないかと考えたんでしょう。こうした態度が、日系のコミュニティが強制収容の体験にどう向き合ったのか、あるいは向き合わなかったのかを示す一種の典型的な応答でした。今日でもそれは続いています。(アメリカ政府による)賠償が状況を変えたとしても、そのこと(沈黙していたこと)の痕跡はあります。私は、二世が立ち上がって、彼らに起きたことがどれほどひどいものだったのかを語らなければ、賠償は実現しないだろうと、とても恐れていたのが思い出されます。(彼らが沈黙したままだと)政府が、「ほらご覧、それほどひどくなかったんじゃないか」と言えるでしょう。でも幸いなことに、水門が開くようにすべての二世が語り始めたんです。

池上:その頃にはお父様も収容所の話をされていたんですか。

シモムラ:ええ、彼もその話はしていましたが、その時のおもしろい話は……。フランク・チン(Frank Chin)ってご存じですか(注:フランク・チンは中国系アメリカ人の劇作家)。フランクとは旧知の仲なんです。私たちにはある種の歴史がありまして。私は、彼に好かれている数少ない人間のひとりだと思います。なので、お互いに話し合ったり、許し合ったりするんですけど。フランクが1970年代にシアトルに移ってきたのは、シアトル・アジア劇場(Seattle Asian Theater)を引き継ぎたかったからでした。しかし、偶然にも私とその時の妻――ビー・キヨハラ(Bea Kiyohara)という名前ですが――が離婚することになり、彼女がシアトルに引っ越すことになったんです。彼女はシアトル・アジア劇場のディレクターの仕事に応募しました。そうして彼女かフランクかのどちらかとなり、彼女が採用されたんです。彼女が採用された主な原因は、彼女はすごく人に好かれたからですね。フランクは頭の切れる人ですが、敵も多かったんです。どこに行ってもたくさん敵を作ってしまうんですね。でも前妻のビーはみんなに愛されていて、それで彼女がその仕事に就きました。フランクは数年間シアトルにいたんですが、仕事なしには生計が立てられず、結局カリフォルニアに戻ることになったんです。
 フランクについて他に何か話すことはあったでしょうか。……ああ、思い出しました。フランクはシアトルの週刊新聞である『ザ・ウィークリー』(The Weekly)でパートタイムの仕事をしていて、ある日私に言ったんです。私の祖母と、父と、そして私についての記事を書きたいと。私たちは一世、二世、三世だからです。彼は「君のお父さんはインタヴューさせてくれるかな。もう大丈夫だろうか。今なら話してくれるかな」と言いました。私は「聞いてみるよ」と言って父に聞いたら、「もちろんだ。フランクに話すよ」と。まあ、父はフランクのことを知らなかったのでね。それでフランクが来て、私たち3人はリビングにいました。父は収容所での話を語り始めましたが、それは私が一度も聞いたことのないものでした。私の最後の記憶では、彼はそれについては話さない、という態度だったからです。だからフランクはその話への扉を開けたんです。私は父が語る話をすべて聞きました。そして、父が非常にいい話をするたびに、フランクは座ったまま気が違ったかのようにメモを取っていました。父がテープレコーダーを使うことを許可しなかったからです。フランクがレコーダーをつけると父は「ノー、録音はだめ」と言いました。フランクが「メモはとってもいいですか」と尋ねると、父は「いいよ」と言いました。だから彼はメモをとって、父が話をしていたんですが、フランクが書き取ろうとすると父は「ノーノー、この話は書いてほしくない」と言うんです。(フランクは)もうお手上げですよ。実際に書かれた記事からは本当に多くのことが削除されていましたから。でも最終的に記事は掲載されたんです。シアトルの『ウィークリー』で大きな特集があって…… コピーを取っていなかったか失くしたか、でも……

池上:その記事かインタヴューで覚えているエピソードはありますか。お父様の収容所での暮らしのお話とか。

シモムラ:ひとつ印象的な話があります。これは私たちが最初に収容所に来た時の話です。私たちは登録をしていて、注射を打たなければならなかったんです。父が言うには、彼が私を抱っこしていているところに兵士がやって来て、こんな風に私を手から取り上げたんです。父はそのやり方が気に入らなかったので、私をこうやって取り戻して、その兵士がまた私を引っ張り戻した。父が手を放すと、兵士が「ズボンを下ろせ」と言ったんです。周りは人だらけだったんですよ。だから父は半分だけズボンを下ろす感じにして、彼らが注射を打つために私を連れて行って、私を父のところに帰してから、「よし、ズボンを上げろ」と言ったんだそうです。父は、あれが人生で最も屈辱的な瞬間だったと言っていました。それが私が覚えている話ですが、父はフランクに「この話は書くな」と言っていました。

池上:彼にとっては、公表するにはあまりに恥ずかしいものだから。

金子:でもそのことについて、話はしてくれたんですね。1980年代、リドレス運動が勢いを増していた頃でしょう。(注:リドレス運動とは、第二次世界大戦中に日系アメリカ人が強制収容されたことに対して、アメリカ政府から公民権の返還、謝罪、金銭的補償を得るための一連の努力と政治運動のことを指す。この運動は1978年に本格化し、1988年に制定された「市民の自由法」でピークに達した。)

シモムラ:ええ、そうですね。

池上:学校のことについて少しお尋ねできたらと思います。子供のころのご自身をどのように表現されるでしょうか。どんなお子さんでしたか。

シモムラ:私は少し風変わりな子で、そんなに社交的ではありませんでしたが、近所に本当に仲の良い友達が数人いました。それが私の生活のほとんどすべてでした。シアトルで私が育ったのは、イタリア人、ユダヤ人、アジア人が多い地域でした。イタリア人が多かったかと思います。4軒ほど先の家が親友のマスモト家でした。1、2、3、4、5、6人いたと思います。一番下の2人は男の子で、そのうち1人が私と同い年でした。だからその子たちとよく遊びました。もっと先の方には中国人の家族がいました。そいつの名前はメルヴィン・ヒン(Melvin Hing)と言いました。メルヴィンはちょっとおかしな子でした。私たちはありとあらゆる本当に危険なことをしました。銃を使ったこともあります。メルヴィンはとても賢い子でした。本当に賢かった。素晴らしかったです。一言で表すなら彼は「賢い馬鹿」といったところです。彼はいちど、キャップガン(注:おもちゃの銃。引き金を引くと大きな音と煙が出る)を見つけてきて、普通の銃のように火を出せると言いました。それを改造して銃弾を手に入れてきたんです。私は彼の家にいたんですが、彼はなにもかも準備して言ったんです、「あそこにいる鳥を撃ちたい」って。それで銃を取って、狙って、「バン!」。その銃は彼の手の中で爆発しました。銃身がこんな風に戻ってきて彼は手に火傷をしたんです。もちろん、彼はそのことを誰にも言えませんでした。問題になるからです。またある時は、私は彼の家に行ったんですが、他に誰もいなかったので、ライフルを撃ちました。誰のライフルだったかは分かりません。でも私たちは撃っていて、彼の家の地下でソファをターゲットにしていました。部屋の向こう側にあるソファに、22口径の弾を撃ち込んでいたんです。撃っている時に何かが動く音がしました。それで振り向いて、こんな風に「バン!」と撃つと、ドスンという音が聞こえました。彼は姉妹の猫を撃ったんです。

池上・金子:ああ、そんな……。

シモムラ:殺してしまった。「オー、マイゴッド」です。困ったことになりました。彼は猫を埋めなければならないと言いました。突如として私は巻き込まれることになったのです。それで私たちは隣の、彼の叔父であるアブラム(Abram)の家に行きました。アブラムはちょうどトマトの苗を植えたところで、彼がその日にやっていたのを覚えていました。だから私たちはトマトを掘り起こして、大きな穴を掘りました(笑)。そして彼の姉妹の猫を穴に放り込んで、トマトの苗を植え戻しました――そのトマトはすごく早く育ちましたよ!

池上:では誰にもバレなかったんですか。

シモムラ:誰にもバレませんでした。私は軍隊には2年間いたんですが、韓国から帰ってきてすぐ、よくたむろしていた中華街に行ったんです。当時は、「キークラブ(key clubs)」と呼ばれる、営業時間外の違法クラブがありました。でもアジア人なら入ることができて、シアトル警察は彼らからお金をもらっていたので、朝の4時まで営業できたんですね。それで中に入ってギャンブルもできる。私は「レギオン(Legion)」と呼ばれていたクラブに行きましてね、そこにメルヴィンがいました。先ほど話した経験は全部高校と大学のときに…… いや、メルヴィンとは大学時代には会っていなかったんですよ、お互いワンブロックの距離に住んでいたんですけど。それで除隊後、偶然この違法クラブのバーで会ったんです。だから座って、一杯飲んで、「この数年何をしてたの」と聞いたんです。彼はブリーフケースを持っていて、「ハーバード出身の40人のビジネスマンに讃えられたところなんだ」と言ったんです。私は「何だって?」と。彼は「そうだよ、このケースを見てくれ」と言って。彼はストラップ付きのケースを持っていて、腕にしっかり抱えていました。それを膝の上に置いて、中に100万ドルが入ってると言うのです。「僕が助けてあげた人たちからのお礼だよ」と言っていましたね。「一体何の話をしているんだ」と思いましたよ。それから20分の会話の中で、私がいなくなっていた間に彼がどういうわけか――なんといったらいいのか――誇大妄想をこじらせていたということが明らかになったわけです。こういう幻想のような人生を送っている人たちのことをそう呼びますよね。それで彼と数時間過ごしたんですが、後日私に電話をかけてきて、会おうと言うのでそうしたんです。実際は彼の家に行きました、その時点では彼の母親の家だったところですが。そして彼はステレオのスピーカーを作っているという話をし始めました。私が「この数年の間何をしていたの」と言うと、「グレイトフル・デッド(Grateful Dead)のリードギターを弾いていた」と言うので、「ほら、また始まった」と思いましたね。それから彼は世界最高のステレオスピーカーを作る話をし始めて。何というか、何かおかしいと思って。
 それで、私たちはある種の喧嘩別れをしたんです。彼とはもう会わなくなって、2人とも何年も再会しようともしなかった。50年もの間ですよ。それからここ(カンザス)に電話がかかってきて、言ったんです、「メルヴィンだよ」と。私は「まさか」と言いました。最初に言ったのは「どこにいるんだ?」でした。彼はすぐ外にいるんじゃないかと思いました(笑)。でも「ハワイだよ。ノースショアだ」と言いました。「何をしてるんだい」と聞くと、「分かるだろう、俺はステレオスピーカーを作ることに興味があって、それをずっとやっていたんだ」と言いました。「今は数人の顧客のためにしかやっていない」とも。それで「もう十分稼いだからハワイのノースショアにこの大きな農場を買ったんだ。来いよ。俺を訪ねてきて、好きなだけ滞在してほしい」とか言って。突然、(過去と比べて)筋の通った話に聞こえてきました。だから私は、「ああ、スピーカーとグレイトフル・デッドのことを話していたのを覚えているよ」と言いました。彼は「ああそうだよ、俺たちは全てやりつくしたんだ」と言ってまたグレイトフル・デッドのことを話してくれました。私はパソコンでグレイトフル・デッドのこととか、誰がギターを弾いていたかとかそういうことを調べていたんだけど(笑)。もちろん、彼だという証拠はありませんでした。とにかく、彼は自分の姉妹の猫を撃った、私の幼なじみの親友だったのです。

池上:学生時代はグラフィックデザインにも興味があり、デザイナーになりたいと思っていたそうですね。それはずっとそうだったんですか。

シモムラ:自分の人生はきちんと計画されてはいなかったと思います。でもそのこと(グラフィックデザインに興味があること)は分かっていましたし、幾分か計画的にやっていました。私は漫画を集めて眺めるのが大好きで、でも自分が漫画コレクターだとは思っていませんでした。手に入れて大事にしていたのだから、明らかにコレクターだったんですが、自分のことをそんな風に見ていなかったんです。それで集めていた漫画というのが、自分の作品に似てるものばかりで。ウォルト・ディズニーの漫画やリトル・ルル(Little Lulu)ですね。もっと単純化されているもので、スーパーマンとかそんな感じの作画もありましたね。「クラシック・コミック」のシリーズ(注:古典的な文学作品をマンガ化したシリーズ。1941年から1969年にかけて、169冊出版された)とか、そういうのにはあまり興味がなかったです。なので、自分にとって美学的に関心を引くような、ある特定の漫画があったんですね。

池上:一番好きだったキャラクターは何ですか。

シモムラ:リトル・ルルかドナルドダックかな。私がカンザス州に来て10年くらい経ったときに、母がまだ生きていて、私に箱を送ってきてくれたんです。「おばあちゃんがいつかあなたにこれを送ってほしいと言っていたのよ」と言っていました。祖母は何年も前に亡くなっていたので。箱を開けてみると、全て小学1年生から6年生までの私の絵だったんです。学校で描いて、家に持って帰って母と祖母に見てもらった絵を、祖母は全てとっておいたんですね。箱に入れて、母に「これをいつか彼に送ってあげるのよ」って。なので、私は自分が描いたミッキーマウスやドナルドダックの絵を持っているんです。面白い話がひとつありましてね。学校で絵を描くとき、家族の絵を描くでしょう。母さん、父さん、妹のカレンと自分、そして犬のスクーターとか、そういう具合にね。でも母を描くときはいつも、髪がブロンドだったんです。「なんという教訓だろう」と思いましたね。それから約1年後、作品としてブロンドの自分を描きました。その作品は額装した後、片づけてしまったんですけどね。1回ぐらいは展示したことがあると思います。その母を描いたドローイングは、自分の講義のときにいつも見せていました。だって、なかなか強烈だと思ったので…… まあ、これもひとつのお話です。

金子:では、子供の頃は暇つぶしに絵を描くことがお好きだったんですね。

シモムラ:そうですね、自分の手に入らないものは何でも絵に描いていました。夜にベッドに寝そべって懐中電灯で絵を描いていたのを覚えています。(懐中電灯を使ったのは)寝るはずの時間より遅くまで起きていたからです。私は二つのものをよく描いていました、カウボーイブーツと自転車です。

金子:ブーツですか。

シモムラ:ええ。母は(買ってくれないのは)カウボーイブーツは爪先がすごくとがっていて、足に悪いからだと言っていましたが、本当ではありませんでした。買う余裕がなかったから、足に悪いと言ったんです。私はよくブーツの絵を描きました。絵を描くことは私にとって何かを所有する手段だったんです。魔法のようでした。もう一つ私が描いたのはシュウィン(Schwinn)の自転車でした。シュウィンはブランドの名前で、特に私が欲しかったタイプのものがありました。釣り大会で自転車をもらったこともありましたが、問題はフレームのバーの形が私の欲しかったものと違ったことでした。私が欲しかったのは下のバーがこんな風にカーブしていたんですが、もらった方は真っすぐだったんです。そして12、13歳の子どもには、それは大きな違いなんですよ。父に「別の種類と交換してもらえるかな」と尋ねたのを覚えています。もう一つの方はもっと高いし、実際、そっちの方がいいというわけでもないんです。でもそれを子どもに言ったところでねえ…… だからその時、芸術が私にとって一種の魔法になったんです。自分が手に入れられないものを手に入れるための手段として絵を描き始めました。

池上:では大きくなるにつれて自然に、大学でグラフィックデザインを専攻しようと考えるようになったのでしょうか。確かあなたのお父様は、それを好ましく思っていなかったと思いますが。

シモムラ:ええ、彼は自分ではなれなかった医者になることを私に期待していたので。ワシントン大学に入学する前の晩、彼が私の部屋に入って来て「医大予科に入るのか」と言ったんです。私は「このことは散々話し合っただろう。入らないよ」と言いました。「商業美術の道に進むつもりだ」と。そうしたら彼は「それはお前の叔父のリック、ロイ、ジョージがやったことだ。彼らは大学に行かなかった。美術学校に行っただけだ」と言ったんですね、それは事実で、美術学校は2年しかありません。でも父は「お前には医者になってほしい、自分はなれなかったから」と言ったんです。「あのね、理系は苦手なんだよ。やりたくない」と私は言いました。彼は「妥協はできないのか」と言ったんですよ。「商業芸術家と医者との間でいったいどうやって妥協できるんだ」と思いましたね。なので、何か専門的なものを考えてみたんです、建築とかね。それで「建築は?」と言ってみたんです。彼は私を見てかぶりを振って、「歯科はどうだ」と言ったんですよ。大した妥協ですよ!

池上:そうですね。

シモムラ:ワシントン大学で珍しいことのひとつに、男性だと二つのことをしなければならないということがありました。ワシントン大学を卒業する男性は全員、まず一つ目に、予備役将校訓練課程(Reserve Officers’Training Corps, ROTC)に参加しなければならないのと、二つ目に、水泳ができなければなりませんでした。泳げることの証明に、大きいプールに行かなければならなかったんです。大学の大きなプールで、服を全部脱いで裸になって飛び込まなければならなかった。そして8分間与えられるんです。何にも触ってはいけないので、立ち泳ぎをする必要がありました。腕をかき始めると止められるので、泳げなかったんです。教官が大きい棒を持っていて、こんな感じで突いてくるんですよ。なので、文字通り水を踏まなければならなかったんです。どうやって水を踏むか分かっていれば、ずっとそうしていられますからね。それで私はそのテストに合格して、2年間ROTCを受けなければなりませんでした。(注:ROTCとは、米軍の将校を養成するための、大学や大学で行われる一連の士官養成プログラム。)
 ROTCでは週3回授業に行くだけでなく、週1回「ドリル」(注:実地訓練の意)と呼ばれるものをしなければなりませんでした。軍服を着て他の500人の新入生の男性と一緒に運動場の小屋に行き、ライフルや色んなものを使って様々な「ドリル」をしなければなりませんでした。それは本当に「メンドクサイ」(mendokusai)でした。金曜日にこの軍服を持ち歩かなければならないのですから。でもそれは私たち全員がしなければならないことだったのです。それでとにかく、2年後には、続けるかやめるかを決めなければなりません。もしやめれば、徴兵が待っています。つまり卒業後、ただの下級の兵士として2年間軍に行かなければならないということです。ですが、3年生か4年生でROTCを修了することを決めると、中尉か少尉、つまり将校になるのです。私はROTCが本当に嫌だったので、3年目、4年目もやるなんてありえないと思っていました。父にもそう言いましたが、問題は学費を払っていたのは彼だったということです。だから父たちはできるだけROTCを続けるよう、そのプランを魅力的なものにしました。でも私は言ったんです、「ROTCを続けるつもりはない。軍隊には一兵卒として行くことになるだろうけど、それでもROTCには行かない。将校なんてどうでもいい」と。
 しかし、ROTCをやめるという用紙にサインをしなければならない日の前の夜、父が家族の親しい友人であるシロー・カシノに電話をして、家に来て私にROTCを続けるよう説得してもらうよう頼んだんです。私は「彼には僕を説得できないよ。ありえないよ。もう決めたんだから」と言いました。シローは来ました。シローは442部隊で最も多くの勲章を受けた退役軍人で、家族ぐるみの古い友人でした。私たちはみんなシローやその家族と一緒に育ったんです。私はシローのことをとても尊敬していました。彼は3時間以上かけて私を説得しました。彼が言うには、442部隊がヨーロッパで戦っていた時には、日本人の将校はいなかったそうです。将校は全員ハクジンでした。彼らは日系アメリカ人を信用していなかったからです。それでシローは「これは私たち(日系アメリカ人)が従うだけでなく導くこともできると示すチャンスなんだ」と言いました。それ以外のことも言いましたが、彼は私が考えを変えるよう説得するのに3時間半もかけたのです。つまり、彼は私の恥の意識に訴えて考えを変えさせたのです。だから次の日私は大学に戻って書類にサインし、その夏のサマーキャンプに行きました。2年生と3年生の間にはサマーキャンプの後にもイベントがあって、2週間フォートルイスに行かなければなりませんでした。いや、もっと長かったと思います。6週間の集中的な精神的、肉体的トレーニングでした。
 サマーキャンプから戻ると、優等軍事学生と呼ばれる賞があって、それがキャンプの後に授与されます。キャンプでは毎日、体力、精神力と同様にその他あらゆるテストを受けるのですが、その出来映えや成績で決まるのです。帰って来た次の週に、私が優等軍事学生に選ばれているというリストを見たんです。司令官に聞きに行くと、「我々は2週間前から知っていたよ。どうして知らなかったんだ」と言われて。そうして分かったのは、他に賞を受けた学生は、全員ハクジンなんですけど、2週間前からこのことを知っていて、すでにパーティーを開いていたということです。私は招待されていなかったんですね。みんな友愛会(注:フラターニティ(fraternity)と呼ばれる親睦会のような組織)に入っていたからなんです。当時のワシントン大学では、友愛会は白人だけだったんです。内規としてそういう決まりがあったんですね。私がこれを話題にするのは、人生のその段階で、しかも表彰されたあとで、そんな扱いを受けたことに完全にショックを受けたからです。でも、私が自分でその情報を得ていなければ、完全に無視されていただろうと思います。
 それで4年生のときに、ある友愛会から声をかけられ、「自分たちの友愛会に誓約を誓ってほしい」と言うんですね。私は「でも、もう遅いんじゃないの?」と言ったんです。すると「卒業前の6か月間、君も入会できる特別な措置を取っているんだ。それでレセプションを開く家に、君を招待したいんだけど」と言うんです。それでその夜、どういうことなのか見に行きました。他の多くの三世の友だちも友愛会に招待されているのを知ったので。そこで本当に奇妙なことが分かりました。彼らは人種の壁を壊さなければならなかったということです。そのように強制されていたんですね。なので、すぐにでも有色人種を入れたかった。彼らが言うことには、「でも、伝えておかないといけないんだけど、我々の友愛会では君たちは決して上に進めない。役員とか、そういうものにはなれなくて、ただの一般会員になれるだけ。パーティーには来てくれてもいいけど、役員にはなれないんだ」と。私たち全員、知り合いの三世は皆断りました。要するに、かかわり合いにはならなかったんです。

池上:では彼らは、大学の上層部からそういう指示を受けていたのですね。

シモムラ:ええ。それで私はグラフィックデザインの勉強を続けました。当時は商業デザインと呼ばれていましたが。卒業後は軍に入り、韓国に2年間送られました。それから戻ってきて、退役後は建築事務所で1年働いてから自分の事業を始めました。メニューカバーの仕事を始めましたが、あまり面白くなかったですね。それからニューヨーク万国博覧会のポリネシア館の大きな仕事を得て、万博関連のグラフィックやイラストの仕事をして、いつも忙しくしていました。でもその仕事が好きではありませんでした。必死になって注文をこなして、お金を貰ったらただ去るだけ、というのが嫌だったんです。自分のやったことについて深く考えたり、問い直したり、もっと良くしようと考える時間もなかった。自分が間違った分野にいることに気づいたんです。それで、初めて自分で絵を描き始めました。そして、描けば描くほど好きになっていくのに気づきました。学生時代にも最低限の絵の授業は受けていたのですが、何のことだかあまり分かっていませんでした。私にとっては、それは油絵具を使って絵を描くというだけのことだったんです。ですが突然、深い意味が分かってきて絵を描くことに全ての時間を費やすようになりました。朝起きては絵を描いていました。それで「商業的な世界から少し離れて、ワシントン大学に1学期だけ戻ってみようかな」と決めたんです。実際にそうしたら、全てがうまく行き始めたんです。結局、MFA、つまり美術修士号(Master of Fine Arts)を取ることに決めました。これはまた別の長い話です。でも最終的には転学して東部に、ニューヨークのシラキュースへ行ったんです。

池上:そのとき、お父様はあなたの決意に反対されなかったのですか。絵を描くというのは商業デザインよりも悪いように聞こえますが(笑)。

シモムラ:反対はされませんでした、私が結婚したので。私の妻は教育学の学位を持っていたので、いつでも仕事に就くことができました。2人のどちらか片方がすぐに就職できると分かっていたという事実があったからこそ、「専攻を変えたい」と言える余裕ができたのだと思います。でも、もし(父が)商業美術を理解しづらかったとすれば、「画家になりたい」(というのはどうでしょうか)。「画家だって。家を塗るとかかい?」(笑)。しかしなんとかそういうことを乗り切って、自分は絵の能力は十分にあると分かっていたので、大学院に行こうと思えばきっと入れると思っていたんです。でもその間に、妻と私はひどい交通事故に遭い、2人とも死にかけて入院してしまったんです。私が先に目を覚まして、妻は何週間も入院していました。彼女は整形手術を受けたり色々して、私は肋骨と足首を折りました。

池上:それは何年のことですか。

シモムラ:うーん…… 1965年ごろ、だったと思います。

池上:ご結婚はいつでしたか。同じ年ですか。

シモムラ:ええ、1965年です……。いずれにせよ、私は専攻を変えて、絵画の世界に入りました。おもしろいことに、その決断であまり悩んだ記憶がないんですよね。妻のおかげだと思います。妻がいつでも教職に就くことができると分かっていたので。それで東に行くことにしたんです。東部に行ったことがなかったので。3校に出願しました。NYU(ニューヨーク大学)、シラキュース、あとイェールですね。そしてイェールでは私は1人目の補欠だったんですが、その(合格リストの最後の)人が入学すると知ってたんです。もし彼女が辞退していたら、私が行くつもりでしたが。それから、NYUは美術教育で、実技ではないことが分かって、私は教育には興味がなかったので、シラキュースがベストな可能性を提供しているように見えたんですね。私は東に行ったことがなかったし、それにシラキュースは、モントリオール、デトロイト、シカゴ、フィラデルフィア、ボストンなど、すべての場所からほぼ同じくらいの距離に位置していて、まさにど真ん中にありました。なので、多くの土地を見ることで、より広い視野を持つ良い機会を得られると思ったんです。そうして行ってみたところ、特に私は全額給付の奨学金をもらっていたので、非常にうまくいきました。

池上:少し戻って、軍役についてお尋ねしてもよろしいですか。2年間韓国に行かれたということですが、その経験はどんなものでしたか。

シモムラ:実際は13か月だったんですよ。

池上:分かりました。そんなに長くはなかったんですね。2年よりは短かった。(注:軍役が2年間だった。)

シモムラ:はい。私にとっては本当に奇妙な期間でした。初めて家族や友達など、全てから完全に独立して、誰も知り合いがいない外国へ行ったからです。さらに私は将校として、人々を指揮しなければならないという状況にありました。当時の軍隊は非常にマイノリティに対する偏見が強くて、それを恥とも思っていないくらいでした。私が担当していた部隊には60〜80人くらいいて、平均学力は小学校4年生レベルでした。70%がアフリカ系アメリカ人で、残りはヒスパニックだったと思います。しかし学力レベルがかなり低かったので、指揮にさまざまな問題が生じました。だから私はかなり早い段階で、指揮を取るための唯一の方法は物理的な力を使うことだと学びました。私の下で働いていた軍曹がいて、規律の問題が生じるたびに、私は彼にその兵士を小屋の陰に連れていけと言います。そこで軍曹は彼を数回殴って戻ってくるというわけです。そこでは物事の全てがそんな風に動いていたんです。誰も信じてくれませんが、実際にそこにいた人たちはみんな「そうそう、それが昔の軍隊だった」と言ってくれます。それで私は酒を飲むようになりました。過度に飲みましたが、まだ完全に狂っている中でもいくらかコントロールは残していました。誰がより狂えるか、競争しているような感じでした。軍法会議にかけられてもおかしくないようなことをたくさんやりました。かなりまずいことをね。
 それはさておき、韓国で日系アメリカ人として暮らすことで興味深いこともありました。車で田舎に行って過ごすことが多かったんですが、私は砲兵隊にいて、大砲を担当していました。村をとてもゆっくりと運転して、私が前の席にいると、韓国の人たちがみんな走ってきて日本語で話しかけてくるんです。占領されていたためでした。それで彼らは私の名札を見て(日系アメリカ人だと分かった)…… それは非常に興味深いことでした。すごいカルチャーショックだったんです。何もかも、全ての瞬間がカルチャーショックでした。それでも、将校の立場でいることは、いくぶん特権的でした。何か起きてもそこから逃れることができますから。それはまるで古い価値観を示す映画のようでした。政治的に正しいことはひとつもないどころか、(その概念とは)全く正反対でした。それで友達から別れた恋人のエイミーがブルース・リーと会っているという手紙をもらっても、「どうでもいいよ!僕たちはもう終わったんだから!」という感じで(笑)。まあ、それが韓国での話です。

池上:日本にも数日滞在したと読んだことがありますが。

シモムラ:ええ。私たちは横浜に滞在しました。横浜へ向かう飛行機の中である男性と友達になったんです。着いて彼がまずしたことはバーへ行くことでした。それはクレイジーでした。あんなことは経験したことがなかった。まさにB級映画とか、下手をするとポルノ映画のような感じで。ホステスたちに取り囲まれて、ブースへ入ると彼女たちはカーテンを引くんです。(そのようにして過ごしたのは)1週間くらいだったと思います。私たちはバーをあちこちまわりました…… こういう生活とはどういうものか、やってみて理解するという感じです。たしかに私はいつも極端なことが好きでしたが、これは確かに極端な出来事でしたね。それに、私が一緒にいた男はモルモン教徒だったんです。

池上:では、彼はお酒を飲まなかったんですか。

シモムラ:飲みませんでしたね、すごく大変なことだったでしょうが。でも彼は女性たちにずっと奢らなければいけなかったんです。そういうことばかり覚えているのはおもしろいですね。でもとにかく、それはもう純然たる退廃の1週間でした。そして韓国に着いてからは13か月の退廃でしたよ。戻ってきたときには、すっかりうっぷんを晴らしきったといったような気持ちで、もう退廃は必要ないといった感じでした。それで最後の8か月間はワシントン州のフォートルイスで過ごして、シアトルのすぐ郊外なんですが、私は総司令部のスタッフとして働きました。それは韓国にいたことと、実際にその地でうまくやったことのご褒美だったんだろうと思います。総司令部のスタッフとして働くことでおもしろかったのは、部屋全体に秘書のようなタイピストがたくさんいて、私たちみなが総司令官のために働いていたことです。全員が博士号を持っていました。みんながみんな。私は韓国での部隊について考えてしまいました。4年生くらいの学力しかなかった部隊についてね。だから総司令部にいるのも全然しっくりこなかったんです。まあ、それはそれとして、私がフォートルイスにいたときにケネディがダラスで暗殺されました。ティッカーテープの機械があって、速報が常に「カチカチカチカチ」という具合に印字されていました。みんなでそれを見ていると、ケネディ大統領が暗殺されたと書いてあったんです。みんな駆け寄ってきました。つまり、事件が起こったまさにそのときに私たちはそれを読んでいたんです。私は将校として多く任務を兼任していて、そのうちのひとつが軍法に基づいて弁護士役をやることでした。脱走兵を30人弁護しなくてはならなかったりしましたね。彼らは6か月の懲役に処される可能性がありました。私の任務は、弁護士のように法廷で彼らを弁護することだったんです。オフィスでティッカーテープを読んだ後、私は車に乗って、軍刑務所に向かいました。30人の兵士が私と一対一の聴取を受けるのを待っていたんです。ケネディのことを考えながら中に入ると、その囚人たちがみんな立って泣いていました。

池上:彼らもそのニュースを知っていたのですか。

シモムラ:はい。大音量でラジオを流していました。全てが平等になった、とても劇的な瞬間だったのを覚えています。全ての囚人が私と同じように悲しいと感じていました。私の訓練士官補としての追加任務は、亡くなった大統領を称えるためのパレードやイベントを取り仕切ることでした。それで私は図書館へ行ってそうしたことに関するあらゆる本を集めなければなりませんでした。フォートルイスのような都市は、在職中に亡くなった大統領を称えるために何をするのだろうか。大変でした! その後の2週間、私はずっとチャートを書いていました、「君たちはここへ行き、彼らはあそこへ行って敬礼する」とかね。分かるでしょうか。初めにしたことは大砲で、24時間ずっと、1時間ごとに発射しなければなりませんでした。ドーン! 1時間に1発です。各編隊は大統領を称えるためのそれぞれの役目をしなければならず、それが何週間も続きました。私はそれらすべてを統括して、指揮する立場にいたのです。私は何年か後に、このことが私のパフォーマンスに大きな影響を与えたことに気付きました。誰がどこに行って何をして、何を着てなど、そういったことの段取りを計画するのは、いつも楽しかったんです。そのことはフォートルイスでの経験に直接つながっています。

金子:シラキュースでMFAのプログラムに参加する前の、特に大学時代のことについてもう少しお聞かせいただけませんでしょうか。コーニッシュ・スクール(Cornish School)でイラストを学ばれましたね。

シモムラ:ええ。それはただコースを取っただけです。授業に参加して、イラストレーターと一緒に作業するという感じです。それが唯一の理由でした。本当に大したことではありませんでした。

金子:スタンフォード大学はどうでしたか。1967年の夏、スタンフォードで絵画を学んでいらっしゃいますよね。

シモムラ:はい、そうです。当時こうしたことを色々やっていたんです。私がワシントン大学の大学院に戻ったことは言いましたね。だからこういう絵画のコースを取ったんです。それでファインアートの修士号を取ろうと決めたんですね。そうしたら、何の問題もなく、出願の手続きすらしなくても、ワシントン大学が入学許可をくれたんです。それで私は絵画専攻の学生になって、修士号を取ろうと思いました。それがアートの世界との、そしてアーティストになりたいと思っている人たちとの最初の出会いでした。アートのコミュニティには、医学や社会学、教育などのコミュニティとは違う何かがあります。アートは、自分のルールで生きているようなものです。それはともかく、当時私がやっていたのは抽象画でした。ワシントン大学はそういうところなのでね。教員のほとんどは抽象表現主義を描いていました。私が教わった先生はみな、それを奨励していました。
 しかし、その学校の底流に流れていたのは陶芸のプログラムでなされていたことでした。それは陶土を使うもので、ファンク・アートと呼ばれ、カリフォルニアで起こっていた動きです。ワシントン大学には何人かの教員が、ハワード・コトラー(Howard Kottler)もその1人でしたが、ファンク・アートを本当に支持していました。私はそれにすごく関心を持ったんですね。ファンク・アートはすごく不遜な態度で、社会のあらゆるものに対して中指を立てているような感じでした。それで「ファンク・アートに関してできる限り多くのことを読みたい」と思ったんですが、それについて書かれたものがあまりないことが分かりました。というのは、ファンク・アートについて研究するなんて、ファンクに反することですからね。何でもありだったんですね。私は陶芸科がやっていたような作品が好きで、「ああ、どうにかして自分の絵画でそういうことをやってみたい」と思っていました。でも私の絵画というのは、すでに言ったように、抽象でした。私の先生もみなそのように描いていました。なので、「よし、大きな一歩を踏み出そう」と決めて、〈TVディナー〉(のシリーズ)を描き始めたんです。4 x 5 フィートくらいの絵で、大きいTVディナーが描いてあるんですけど、ふたは空けておいて、間仕切りの中に色んな種類のものを詰めてみました。メインディッシュのところにはデ・クーニングの絵の複製を入れるとか、そういう感じで。もちろん、絵画科の先生は私が正気を失ったと思いました。私は正気を失うというのは一種の褒め言葉だということ以外は、よく分かりませんでした。その頃の私の頭の中はそういう感じだったんです。夏にはドローイングの展覧会に参加して、抽象表現主義のドローイングで賞を取ったり、別の展覧会には〈TVディナー〉の絵を出して、賞を取ったりしていました。
 つまり私は混乱していました。二つの異なる哲学を追求していたからです。そういうことはもう続けられないと思いました。そのままでは精神が分裂してしまいそうだったので。混乱がかなり酷くなってしまったので、私はものごとを整理して考えるために学校を辞めることにしました。私の親友のフランク・オカダ(Frank Okada)――彼は実はシアトルの二世の画家で、とても有名です――はシアトルで最も素晴らしいと言われたスタジオを持っていました。2500平方メートルもあって、このオフィスよりも広いんですよ。そこは月20ドルでした。フランクはグッゲンハイムの奨学金をもらったので、彼は「スタジオを貸すから、僕が1年間留守にしている間だけ引き継いでくれないか」と言いました。月20ドルで、小さい部屋は写真家に月5ドルで貸していたので、ひと月たったの15ドルなんです。私は「すごくいいね」と言いました。フランクは旅立ち、私は最高のスタジオを手に入れたというわけです。学校へはもう行っていなくて、妻が働いて収入を得ていたので、私は1年そのスタジオでドローイングを描いて過ごしました。ペインティングではありません、なぜなら私はどちらか片方を辞めようとしていたからです。そしてドローイングの個展をシアトルで行いました。初めての個展です。アール・バーラード画廊(Earl Ballard Gallery)というところでした。そこでドローイングの個展をして、その後交通事故に遭ったんです。

金子:その年だったんですね。

シモムラ:そうです。それが大学院に出願した年でもあったんです。学校を辞めてスタジオを借りて、展覧会をするという総まとめのような時期だったので。そういうこと諸々が私の頭の中の色々なことをすっきりさせて、そしてこれが一生やり続けていきたいことなんだと決めたんです。それで大学院に出願したんですね。シラキュースに行く前、その夏はスタンフォードに行こうと決めていました。スタンフォードには、私が悩んでいた二つのこと、つまりは、態度と絵具とを結びつける絵画のスタイルがあったので。そしてそこでベイ・エリア具象派(Bay Area figurative school)が起こっていて、それがどんなものか見てみたいと思ったんです。それで大学院長に手紙を書いて、「いいよ、おいで。我々のところには特別な絵画のコースがあるから」と言われて、「君を大学院のスタジオに入れてあげるから、学生とも交流できるよ」とも。私は「いいですね」と。それで3か月間そこに行きました、マウンテン・ビューに住んでいたと思います。「私たち」と言ったのは妻もそこにいたからで、素晴らしいことでしたね。絵を描くということについて、頭の中で多くのことの整理がついたわけです。シアトルに戻ってそれからシラキュースに向かう頃には、頭の中はかなり良い状態になっていましたね。そうしてシラキュースに着いた頃には、少なくとも私から見れば、興味があるのはポップ・アートだということがはっきりしていました。ニューヨークに行ったり、セミナーでゲスト・アーティストの訪問を受けたりしているうちに、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)にすっかり夢中になって、卒業するまでずっとそうでした。そして、それは今日に至っていると思います。

池上:ポップ・アートに初めて目覚めたのはいつのことでしたか。〈TVディナー〉のシリーズを描いていたときでしょうか。

シモムラ:シアトルで、初めて大学院で学び始めたときでしょうね。大学院は私があらゆることに目覚めた場所です。まるで生まれ変わったみたいでした。なぜなら、芸術の世界ではまるで初心者だった私が、突然、非常な強烈さでもってその世界に入っていったからです。それが私の学んでいたことで、それで学位も取ろうとしていたし、将来も友達も全てそこにあったからです。

池上:初めてポップ・アートに目覚めたとき、それは雑誌を通してでしたか、それとも何かの展示を見たのでしょうか。

シモムラ:主に本とか雑誌ですね。たぶん、『アート・ニュース』(Art News)と『アート・イン・アメリカ』(Art in America)です。

池上:分かりました。納得がいきます。でもシアトルでの先生方は、その方向を勧めなかったのではないでしょうか。彼らは抽象画家だったから。

シモムラ:ええ、ええ。

金子:それでは、当時の西海岸には二つの潮流があったと理解していいでしょうか。一つは抽象表現主義で、もう一つはファンク・アートと。

シモムラ:少なくとも私から見れば、そうです。

金子:そしてあなたは、しばらくの間その狭間にいた。

シモムラ:狭間ではなく、どちらもやっていたんです。ファンクの見た目とポップの見た目には似ているところがありました。でもポップにはファンクよりももっと知的な構造があったんです。ファンクは反インテリでした。何か議論しようとするといつも、アーティストはノーと言って逃げ出してしまいました。一方、ポップが出てきたとき、ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein)には、特に彼の漫画(のような作品)には多くの反響がありました。多くは嘲笑です。でもウォーホルがシーンに入ってくると、突然知的な次元が生まれたんです。ウォーホルに関しては、それは否定できないものだったと思います。そしてポップが得られなかった多くの知性主義を吸収するかのように、同時期にカラー・フィールド・ペインティング(color field painting)がワシントンD.C.で生まれました。

金子:その頃は、都会的で知的なポップともっと前衛的なファンクとの間に何か同じようなジレンマを感じていたのでしょうか。

シモムラ:うーん…… シラキュースに着く頃には…… さっきあなた方にお話ししたのは、実際には私がシラキュースにいた間に起きたことだと思います。シラキュースに着く前に起こったことのように聞こえたでしょうが、私がそこにいた2年の間に起こったことですね。それでここがポイントですが、ポップ・アートが説いていた反インテリ主義のようなものが、実はインテリ主義であることが分かったんです。MFAの修論レクチャーが大きかったと思います。それは修了のための要件で、私たちはプレゼンをしなければならなかったんです。それで、《ポップカルチャーとアンディ・ウォーホル》(Pop Culture and Andy Warhol)(1969年)というプレゼンをしたのですが、実際にはそれはパフォーマンス作品でした。手に入る視聴覚機器は全て手に入れて、宇宙人みたいに聞こえるようなマイクで話したんです。反体制的なことばかりやりましたが、それはアンディ・ウォーホルや、彼がヴェルヴェット・アンダーグラウンドとロサンジェルスでやったパフォーマンス《プラスチック爆発は不可避》(Exploding Plastic Inevitable、1966年)を意識したものでした。それが本当の意味での分岐点でした。たぶん私の最初のパフォーマンス作品です。
 そのプレゼンは嘘だらけでした。ニューヨーク公共図書館で見つけたと言った(創作した)映画も含め、プレゼンのために適当なことを何でも言いました。その映画は《背中》(Back)というタイトルで、学生の背中を撮影したものでした。明かりを全て消して、彼を窓の前に立たせて、窓ガラスに映る彼の姿をただカメラが5分半撮影しているという。彼は動きもせず、息をしているのだけが映っています。それだけです。私はフラッシュフレームを使いました、5、4、3、2、1、という感じで。それから最後にみんなには、「ニューヨーク公共図書館のアーカイブで、未登録の資料としてこの映画を見つけたのだが、それがウォーホルによって撮影されたものだと分かった」と言いました。みんな私を信じました。そしてアンディ・ウォーホルへのインタヴューで終わりましたが、それは彫刻科の院生と話している私自身の(音声)テープでした。BGMとしてアンディ・ウォーホルのパーティーの45回転のレコードを流しました。ウォーホルのスターたち、ビバ(Viva)もウルトラヴァイオレット(Ultraviolet)も全員そこにいて、グラスをチリンチリン鳴らしていて、みんな(薬で)トリップしていて。聞いていて分かるくらいトリップしていて、音楽が後ろで流れていて、そんな感じです。そのレコードの上から私は、アンディ・ウォーホルだということにしたその彫刻の院生にインタヴューしている自分の声を録音したんです。

池上:それはクールですね。みんな信じたんですね。

シモムラ:みんな全てを信じました。その授業の先生はとても感心していました(笑)。これ以上ないというくらい、私のプレゼンの良かったところを褒めてくれました。それからテレビ局が来て、「これを放映したい」と。だから私は「トラブルになるからだめだ」と言わなければならなかったんです。「あれはアンディ・ウォーホルでもなければパーティーでも映画でもない……」などということです。それで彼らはそうした部分を全て取り除いて、ただのレクチャーに変えたんです。そしてそれをセントラル・ニューヨーク・テレビ(Central New York TV)で放送しました。

池上:それはパフォーマンスだったのでしょうか、それとも実際同様に論文を書いたのですか。

シモムラ:はい(書きました)。文章と図版で60ページくらいありましたが、本当に軽いつもりでやったことで、人に見せるのも嫌なんですよ。実際、それがどこにあるかも分かりません。本当ですよ! まあ、頑張って探した訳でもないですが。だからなかったことにしてください(笑)。

池上:シラキュースでは映画製作の勉強もされていましたね。

シモムラ:ええ。私たちは一つ専攻の授業を取らないといけなくて、映画製作のクラスがありましてね、私はいつも画像を動かすことに興味があったものですから。ですのでそれに申し込んだんですが、チームでやらないといけなかったんです。それで親友のジョー・パチェコ(Joe Pacheco)と私とで殺人映画を作ることにしたんですね。実際は彼はそのアイデアにあまり乗り気ではなかったので、私は全ての過程を自分でやって、彼の名前はただ入れただけでした。そうしておけば彼に煩わされることもなかったので良かったんです。その殺人ミステリーは、その殺人が起こったのかどうかがわからないようなものでした。説明するのは難しいですが、本質的にはくだらないものでした。でも絶賛されまして。なぜかは分からないんですけど。

池上:やっぱり良かったんでしょうね!

シモムラ:時として、あまりにも意味が判然としないものをつくっていると、それが評価されることがあるんですよね。

金子:まさに60年代、70年代という感じですね。

池上:そうですね。読みづらい(ことが評価された)。

金子:もうすでに触れましたが、1969年の初めての個展について詳しく教えていただけますか。

シモムラ:ええ、それは私がシアトルを離れて大学院に行く直前のことでした。その年はオカダのスタジオで制作をしていたのですが、絵は描かないことにしたんです。これは私がペインティングとドローイングに対して抱えていた問題を解決できるかもしれない方法で、一方をやめてもう一方だけをやるということです。それで、ドローイングだけをやって、アール・バーラード画廊(Earl Ballard gallery)で展示しました。かなりの数のドローイングが売れましたね。抽象表現主義のドローイングで、ちょっとエロティックな感じでした。

金子:アクリル絵具の絵画ではなく、全てドローイングだったんですか。

シモムラ:圧縮された木炭を使ったドローイングでしたね。だからすごく濃い色の黒が出るんです。ちょっと具象的で、(ウィレム・)デ・クーニング(Willem de Kooning)風の作品でした。

池上:大学院についてもう一つ質問です。ワシントンでは、彼らの先生がやっていることだという理由で、多くの学生が抽象絵画を描いていましたね。でもシラキュースでは、あなたのほかにもポップをやっていた院生が多くいたのでしょうか。

シモムラ:いや、そんなに多くはなかったです。シラキュースで最も皮肉だったのは、私がそこで最終的にラリー・バッケ(Larry Bakke)の指導を受けることになったということです。ラリー・バッケは私の出身校であるワシントン大学からシラキュースへ来て、教え始めたばかりでした。2年目か3年目だったと思います。彼の作品は明らかに私のものと関連していましたが、私は彼がシアトル出身だから、彼の指導を受けるのをためらっていました。でもそれを乗り越えるとうまく行くようになりましたね。でも彼はくだらないことも信じていました。これは彼が美学の授業で言ったことなんですが、女性は決して抽象表現主義者になれないと主張しました。彼は証拠として、男性と女性の肩関節のX線写真を出して比較し、男性のここの球関節がどれほど女性のものと完全に違う動きをするか見せたんです。そして、デ・クーニングが広めたような動きを女性がするのは不可能だと(笑)。こういうでたらめです。多くの人がこれを信じたということが悲しかった。残念なことに、男性よりも女性の方が多く信じていたと思います。

池上:本当ですか。彼女たちは怒らなかったんですか。

シモムラ:ある集団を取り上げて、初めから打ちのめすようなものじゃないですか。君たちがこれをできない理由はこういうことだと、この部分が正しい体格ではないからだと言うんですよ。多くの人がそれを信じました。それで私たちは道を分かれたような感じになって、2年後に彼が亡くなりました。若かったんですが。

金子:分かりました。カンザスのことについてお尋ねします。よく知られているように、1969年から2004年の長い間カンザス大学で教鞭を執っておられて、今でもカンザスにいらっしゃいます。カンザスと、その学術的な環境や生活を概してどのように感じたか、お教えいただけますか。

シモムラ:まずおもしろいのが、シラキュースでは美術棟の前に看板を立てて自分たちの卒展の宣伝をしていたことです。MFAを受け取るグループ展ですね。私たちは美術棟の前に墓地を作ったんです、大きな石板と、それにみんなの名前がありまして、「ロジャー・シモムラの絵画、誰それの陶芸」みたいな。それから合成ガラス製のお墓のようなものがあって、身体みたいなものが埋められているように見える。美術棟は、みながプラスチックの花を供える共同墓地からそう遠くないところにありました。そうして私たちはグループを組んで、毎日共同墓地に行ってはプラスチックの花を取って、それを(美術棟の)お墓の横に置いて、それからそのブロックを一回りするようにしていました。友達のジョー・パチェコと私とで花を取りに行く番になり、外に出て自分たちの計画について話していたんです。「就職の可能性についてはもう聞いた?」「まだ。君は?」みたいな話を。すると彼が「自分がどこに行くことになるのか、兆候を探してるんだ」と言ったんです。それから1分もしないうちに、彼が「なんてこった」と言ったんです。私は「何?」と言って。彼はプラスチックの花を拾っていて、車のナンバープレートを引き上げたんです。カンザスのものです。私は笑って言いました、「僕はそこには応募すらしてないと思う」と。そうすると彼は、「実は、僕はしたんだ」と。私は「君が?」と言いました。彼は「K-Stateというところに応募した」と。私は「そこには応募してない」と言ったんですね。「カンザス州はどこにも応募していないと思うよ、どこにあるかも知らないし」と。そして何が起きたかというと、彼はカンザス州立大学に就職し、私はカンザス大学に就職したんです。私も応募してたんですね(笑)。それで卒業したときには、私たち2人と妻とでキャンプ旅行に出かけて、ロードアイランドから始まって大西洋海岸からエバーグレーズ、テキサスを横断してサンディエゴ、そしてシアトル、カンザスへと辿りました。まるごと3か月間かかりました。それからカンザスのマンハッタンまで彼らを送り届けました。彼は2年間しかそこで続かなくて。それからマウント・ホーリーヨーク(Mount Holyoke)に就職しました。

金子:初めてカンザスに到着したときのご自身の反応はいかがでしたか。

シモムラ:まるで映画みたいでした。マサチューセッツ通り(Massachusetts Street)(注:カンザス州ローレンスのメインストリート)は全く今のようではなかったんです。木もなければ駐車場のようなものもなくて、お店も今の半分くらいでした。面接の時とは全く違う街みたいでしたね。シラキュースにいる間に、学部長のピーター・トンプソン(Peter Thompson)から電話をもらったんです。ピーターは「面接を受ける気はありますか」と聞いてきました。私は興味がないと答え、「どうやって私の名前を知ったんですか」と聞きました。申し込みはしていないと思ったからです。彼は「ええと、いまあなたの手紙を拝見していますが、300通送ったということでしょうか」と。「ええ、送りました」と答えました。すっかり忘れてたんです。カンザスも(送った手紙の中に)あったに違いありません。でも私には他の選択肢があったので、カンザスには興味がないと言ったら、彼は「分かりました。もし気が変わったら知らせてください」と言ってきました。そして2か月後、またピーターから電話を貰って、「候補者を見つけたんですが、あまり気に入らなかったんです。それであなたに来る気があるかどうか、他の仕事についていないか知りたいんです」と言われました。わたしは「分かりました」と。カンザスへは行ったこともないので、とりあえず訪問するだけということを承知してくだされば、と伝えました。彼は「大丈夫です」と。それで私はカンザスへ向かって、彼が迎えに来てくれました。彼が私を乗せて通ったのは、本当に丘しかないカンザスの道だったんですよ。そしてローレンスに着いたとき、私は「この辺には丘がたくさんありますね」と言いました(笑)。後で言っていましたが、全ての丘を通るように彼が計画した特別な道だったそうです。
 とにかくそれで、私たちはすぐ、ドワイト・バーンハム(Dwight Burnham)の家で行われたレセプションに向かいました。彼はここからそう遠くないところに、とても素敵な家を持っていたんです。私たちが彼の家へ向かうと、そこには12台のオートバイが並んでいました。学科の教員の誰もがバイクに乗るんです。「かなりかっこいいな」と思いましたね。中に入ると、全員が大きな輪になって座って私を待っていました。初めて会った人は、ギリシャ人の男性のバシリオス・プーロス(Basilios Poulos)でした。私は彼のことを知っていたんです。シラキュースでの私の親友が、「バス(Bas)に会いなよ。彼はカンザスで教えてるんだ。ちゃんとした人だから、カンザスについて色々教えてくれるだろう」と言っていたんです。それでバスに話しかけました。君が話すべき相手だと教えてもらったと言うと、彼はカンザス大学について色々と教えてくれて、「最高の場所だ。僕は大好きだ。君もきっと気に入るよ」と言ってくれました。それで全部終わったあと、私は仕事のオファーを受けることにしました。それで妻と私はピーター・トンプソンの家まで運転して、(カンザスに)到着したことを知らせるために家にあがったんです。私が「バス(Bas)はどこに住んでいるのですか」と言うと、彼は「辞めたよ」と言いました。私は「辞めたってどういうことですか。私がここに来た理由は彼なんですよ」と。「辞めたのは、我々が彼に支払った金額以上のものを、あなたに支払わなければならないからだよ。年に500ドル以上ね」と彼が言ったんです。でも、私の給料は年7000ドルだったんですよ。とにかく、バスはいなかった。結局彼はライス大学に職を得て。彼はまだそこにいるんですよ。何度か会ったことがあります。

金子:彼がいない視覚芸術学科についてどう思われましたか。昨日おっしゃっていましたが、当時は新しい教員がたくさんいたそうですね。新しいメンバーが9人とか。

シモムラ:えっと、質問の最初の部分は何でしたっけ。

金子:視覚芸術学科についてどのように思われたか。

シモムラ:当時のことでしょうか、それとも今のことですか。

金子:そうですね、今のこともお伺いしたいのですが、まずは当時のことから。

シモムラ:私がここに来たときは、視覚芸術学科はありませんでした。素描・絵画学科と呼ばれていましたね。ピーター・トンプソンが学科長代理で、彫刻はデザイン学科にありました。デザインは学科として存在していて、そこにも学科長がいたんです。でも私がここに来た時には、その年に採用された私たち6人と、前年に採用された3人がいました。合わせて9人で、17人の教員のうち半分以上が新任だったと思います。なので、色んなことができましたね。何かあれば得票数で勝てますから。私たちは先輩教員の間ではあまり人気がなくて、みんな「まあ、来ても君たちは1年くらいで去るだろうし」と思っていたから。しかし結論から言うと、1人しか辞めなかったんです。マイク・ブラボー(Mike Bravo)という人です。彼は1年後に辞めて、オクラホマ大学で教え、その後フンボルト州立大学に就職しました。退職してフンボルトに住んでいると聞いています。辞めたのは彼だけでした。それ以外は、8人が残ったんです。

金子:それってすごかったんじゃないかと思います。活発な雰囲気だったんですかね。

シモムラ:そうそう。色んな人がいたのもあります。みんながみんな必ずしも仲良くやっていたわけではなかったのですが。そうでしょう。だって、あるやり方で作品を作っていれば、その人の哲学も同じような方向になりますから。でも、大抵の場合は(それなりに仲良くやっていた)……

金子:授業の担当量はどうでしたか。何を教えることになっていたのでしょうか。

シモムラ:私は新入生に人物デッサンを教えるために雇われました。私は絵を描いていなかったんですけど、彼らはそのことを知らなかったんですね。私の写真を用いたシルクスクリーンをドローイングだと思っていたんです。

池上・金子:わあ。

シモムラ:ええ。でもそれは大した問題ではなかったんですよ。それまで自分が経験してきた変化を色々と考えるとね。私がここに来て3年目のときだと思うんですが、二つの学科をまたいだ仕事をやったんです。絵画学科とデザイン学科があって、新入生用プログラムはどちらの学科の管轄でもなかったので、そのコーディネーターになったんです。別個のプログラムなので、誰かがそのプログラムとTAのみんなを仕切らなければなりませんでした。ほんの少しだけ給料が増えるのと、(それまでの給料では)ぎりぎりでやっていたので、その仕事に就きました。実際、クローガー(Kroger)(注:ローレンスにある倉庫)の配送部門の仕事に応募していたくらいです。もらっていた給料ではやっていけていなかったから。みんな苦労していました。私たち全員、もっと稼がないといけないので、みんな必死で仕事を探していたんですよ。状況はかなり深刻で、調査によれば、我々よりはましだった英語学部に次いで、私たちはカンザス大学のまさしく最底辺にいたんです。

池上:一方で、その短期間に9人もの人を雇ったんですね。

シモムラ:9人を雇うために多くの人が辞めたわけですが、実現しました。思うに、その計画のためにいくらかリストラもあったかと。

池上:〈オリエンタル・マスターピース〉(Oriental Masterpieces)シリーズ(1972年- )の話に移りましょう。昨日一緒にスペンサー美術館で作品を拝見したときに少しその話をしましたが、シルクスクリーンなどの初期の作品について聞かせてください。シルクスクリーンを始めたのはシラキュースで、道具が揃っていたという理由からでしょうか。

シモムラ:というより、ポップのアーティスト達がやっていたことと関係があると思います。まあ、主にウォーホルですね。実際、彼のファクトリーでやっていたシルクスクリーン制作に関する映画がたくさんあります。そういう制作に対する憧れがあったんですよね。アートワールドに完全には受け入れられていない媒体で制作することについてもね。というのは、シルクスクリーンは純粋に商業的なメディアで、それがファイン・アートの目的のために使われていたからです。

池上:1960年代後半になっても、アートワールドではシルクスクリーンを使うことにまだ抵抗があったのでしょうか。

シモムラ:ええ、シルクスクリーンは美術教育での立場を確立できていませんでした。マイク・オット(Mike Ott)と私が一緒に「アーティファクト・ショー」(Artyfact Show)の展示をした後にやっと、我々はシルクスクリーンの授業を開講すべきだと学科を説得することができました。美術館で我々の活動を見た学生が「自分たちもあれをやりたい」と言ったからです。学生たちが何かやりたいと言うと、学科としてもそれを聞き入れるんです。それでそのコースを開講しましたが、反応がとてもよかったので、レギュラーで開講されるようになって今でも続けられています。

池上:なるほど。シラキュースの時はそうではなかったのですか。

シモムラ:シラキュースでは、シルクスクリーンは単に開講されなかったか、受け入れられなかったかのどちらかなんでしょう。開講されたのはインタリオで、それが唯一の版画だったと思います。リトグラフもやっていたと思いますが、シルクスクリーンは全くやっていませんでした。

池上:公式のシルクスクリーンの設備はシラキュースには全くなかったんですか。

シモムラ:公式の?

池上:1960年代後半からあなたにはいくつかのシルクスクリーン作品がありますよね。どうやって制作したり設備を見つけたりしたのか疑問に思ったんです。

シモムラ:ああ、伝統的なタイプのシルクスクリーンと、自分たちがやろうとしていたタイプのものとがあったんです。誕生日カードや趣味で色んな物を作ったりするので、伝統的な方法は非常によく知られていて、簡単にできたんです。それが基本的なシルクスクリーンの技術で、できるようになるために授業を受ける必要もありませんでした。でも私たちが関心を持っていたのは、新しい革新的な写真のシルクスクリーン技術です。それがやりたかったんですが、提供されていませんでした。

池上:なるほど。どのようにして作ったんですか。

シモムラ:そうですね、業界誌を見てニューヨークに注文し始めたわけです、どこで設備を仕入れるか教えてくれるシルクスクリーンの製作会社にね。何度も電話をして、見つけたときには大興奮でした、製作キットが全部手に入るので。それから夜は浴槽でスクリーンを洗ったり、技術的なことをやって。ニューヨークでも彼らはこういうことをやってるんだと分かっていたから、そこにある種のロマンがあったんですね。

池上:そうですか。シルクスクリーンは独学のようなものだったわけですね。

シモムラ:そうそう。それからここに来る頃には状況は変わって、かなり普及していた。大学にも材料を入手する経路ができて、シルクスクリーンもできるようになりました。そうすると以前ほど面白くなくなりましたね(笑)。

池上:どのような経緯で作品に浮世絵を用い始めたのでしょうか。

シモムラ:ええと…… 始めた経緯というのは農家の人との会話と関係があったかと。彼は私にどうやって英語をこんなに上手く話せるようになったのかとか、どこ出身かとか、お定まりのことを聞いてきました(注:詳細は後述)。それで私は浮世絵がたくさん載った『日本の塗り絵』(A Coloring Book of Japan)という本を買ったんです。日本のアートらしく見えるものが必要だったので、浮世絵が適していたんですね。それでシンプルな線画がたくさん載ったその本を手に入れました。つまり、原画に触れた訳ではないんです。私は既に加工されたものを手に入れる必要がありました。最終的には日本のアートらしく見えるものを作りたかったんだけど、それが一体どんな見た目になるか分からなかったので。まあどんな見た目になるか分かってはいたんですが、微妙なところまでは分からなかったので、大衆的なものが欲しかったんです。それで『日本の塗り絵』がぴったりでした。だから、私はハクジンが日本のアートだと思っていたのと同じようなものを描いたんです。いい質問ですね。今まで聞かれたことがなかったと思います。

池上:それでは、日本の美術史やそういったものに特に深い知識があったわけではないということですね。

シモムラ:日本美術史の授業は取ったことがないし、極東の美術史のコースはなおさらです。

池上:それまで特に関心はなかったんですか。

シモムラ:なかったですね。私は美術史は得意ではありませんでした。美術史の授業はたくさん取りましたが、それに逆らったり、そこから別の何かを作ったりする時が来るまで気にしたことがなかったです。

池上:非常にうまくできているので、技術的なところが気になります。プロジェクターかマスキングテープのようなものを使ったんでしょうか。

シモムラ:マスキングテープは使ったことがありませんね。全部フリーハンドです。みんなそれに感心するんですよ。でも一番感心すべきでないのがその点なんです。私は学生に教えていましたからね。彼らが実践する頃には、私よりも上手くなっていますから。

池上:それで、この〈オリエンタル・マスターピース〉のシリーズについてですが、私の記憶が正しければ、最初の作品は…… 単なる浮世絵ではなく、俵屋宗達のイメージも入っていましたね。

シモムラ:宗達、ええ。鬼の?

池上:はい。《風神雷神図屏風》(Wind God and Thunder God Screens)(江戸時代、17世紀)ですね。

シモムラ:それはたぶん、日本的であることから連想したものです。それで入れました。そこでの唯一の西洋的なものの引用は煉瓦の壁でしたね。当時は煉瓦の壁の版画を多くやっていたので。

池上:最初は絵画のシリーズとして始まりましたね。合っていますか。

シモムラ:うーん…… そうですね、絵画が最初でした。

池上:それから移って……

シモムラ:版画に。

池上:1973年に始まった、〈オリエンタル・マスタープリント〉(Oriental Masterprints)シリーズ。それから、私が読んだところによると、〈オリエンタル・マスターピース〉シリーズでは100点以上の絵画を製作されています。これは多いように思いますが。

シモムラ:そのうちの50点は5 x 5 フィートのものでした。それであとの50点は、色んなサイズでもっと小さいものでしたね。

池上:それにしても、比較的短期間で多くの作品が制作されたように思われます。それだけ多くの作品を描かれた理由は何でしょうか。

シモムラ:そういった絵画をやることに関して、他の絵画では経験したことのない満足感というか、充足感みたいなものがあったんだと思います。みんなの反応の仕方とか。それはこう、自分の予想を上回る何か大きなものを掴んでいるような感じでした。それは実際にそうだったんです。それが一生続くことになり、結局自身のことや自分の経験をテーマにし続けることになるとは思ってもいませんでした。

池上:このタイプの作品への観客の反応はどうでしたか。初期の作品とどう違いましたか。

シモムラ:初めて〈オリエンタル・マスターピース〉を見せたときは、人々が来て「おめでとう」と言ってくれて、「(日系人である君が)君らしいものを描いているのが見られてよかったよ」と言われたんです。私にとっては逆でしたね。全く反対でした。自分が描いたものについてはほとんど知りませんでした。描いたのはだれか他の人で、それに自分が責任を持っているような感じだったんです。だからそうした人々の反応によって、私は自分の作品ととても奇妙な関係に陥ってしまったんです。それで《オリエンタル・マスターピース》のシリーズを続けることを決めたんですが、そんなに長く続けるとは思っていませんでした。でも、私が話していた100点の絵を描いている間にも、予想も関連付けもしなかったようなことが起こっていたんです。作品を見るたびに、芸術的な観点というより、恐らく社会的な観点から、自分とつながる新しい発見があったんです。徐々にそれに引き込まれていきました。おばあちゃんの日記とかね。

池上:いつどこで、初めての〈オリエンタル・マスターピース〉のシリーズを展示したんでしょうか。

シモムラ:初めてですか?

池上:ええ。ここカンザスのギャラリーでしょうか。

シモムラ:いえ、初回はシアトルでした。《オリエンタル・マスターピース #1》(Oriental Masterpiece #1)(1972年)でしたね。他の7点の作品と一緒だったんですが、その7点は全く関係ないものの絵でした。バック・ロジャース(Buck Rogers)や、懐かしのコミック本とかです。その時私は古いおもちゃを集めていたので、作品にもそれが反映されていたんです。ある作品にバック・ロジャースの宇宙船を描きましたが、それは私が何年も探して買おうとしていたおもちゃでした。ついに見つけたので、その絵を描いて展覧会に出したんです。

池上:それから版画シリーズが出てきたんですね。どうして版画シリーズも作ろうと思ったのでしょうか。

シモムラ:分かりませんね…… なぜそういうことをして、変化を起こしたのか、ということを自分でも十分に意識したり認識したりしていなかったんじゃないか、ということぐらいしか。その時は離婚協議中だったということもあるかもしれないですね。スタジオに寝泊まりしていたので、それが変化の原因になっていたかもしれない。それか、悪い煙を吸って妄想を膨らませていたのかも。というのも、スタジオはとても狭くて、有毒な化学物質が充満していたから。朝には、壁から出てきて死んだ蟻で床がいっぱいになっているんです。だからそこで寝泊まりしている間は、毎日蟻を掃き出しては袋を蟻でいっぱいにしていました。つまり、私もスプレーの煙を吸っていたから、そのせいで色々な変化が起きたのかもしれません(笑)。とにかく、離婚のせいなのか化学物質のせいなのか分かりませんがが、私はワーカホリックのような感じでした。それで、とりあえず一学期間はできるだけたくさん〈オリエンタル・マスタープリント〉シリーズを作ろうと決めたんですね。行っては印刷して。起きていて授業をしていない時はいつも刷っていました。

池上:なるほど。その期間は、ほとんど執着めいたものになったと。

シモムラ:ええ。それから次の学期も同じことをして、これらの版画を多数作ってしまいました。でもエディションは多くなかったんですよ。いくつかはね。エディション5枚だけとかだったりして。イメージに飽きてしまっていたのでね。20枚やるのは無理だと思ったんです。そうしなければ、実験して上手くいかないとき、何枚も版画を処分しなければならなかった。

池上:これらの版画に用いられているスマイリーの顔が気になっていまして。最初に使った作品がこの歌舞伎役者のイメージで……

シモムラ:それから、2回目につり目を入れたものですかね。

池上:その通りです。俳優たちにこのスマイリーの顔を入れるアイデアを得たきっかけは何だったんでしょう。

シモムラ:シアトルのブッシュ・ガーデン(Bush Garden)での会話に関係があると思いますね。そことチャイナタウンへ遊びに行ったんです。私の叔父のジョージがニコちゃんマーク(The smiley face)を発明しましたよね。そのことを措いても、笑顔を入れた一番の理由は、日本の図像の豊かな伝統に対する私の捉え方とその笑顔が、ちょうど反対のものだったからです。その伝統に正面から対抗するような、最も軽薄なものとはなんでしょうか。ニコちゃんマークです。これほど陳腐なものが他にあるでしょうか。だから私は、その伝統の上に陳腐さを置きたかったんです。

池上:そして、別の歌舞伎役者を使った作品では、その顔をつり目にしていましたね。

シモムラ:ええ。ちょうど…… 楽器を弾いている小さな子供がみんなの注目を集めようとするけど、誰も注目してくれなくて、楽器にこんな風に当たり始めるようなものです。それと同じように感じていました。つり目やそれが表すものが嫌だったんです。それで、そのイメージを一歩先に進めようとして作品に入れたんです。

金子:〈オリエンタル・マスターピース〉が、あなたが人種のステレオタイプや差別の問題を扱った最初の作品でしょうか。

シモムラ:〈オリエンタル・マスターピース〉ですか。絵画でということですか。

金子:絵画でも版画でも。このシリーズに先立って、人種差別や人種のステレオタイプの問題を扱った作品を作られたことはありますか。

シモムラ:最初、《オリエンタル・マスターピース #1》は人種差別の事件から生まれました。

金子:カンザスでの、ですか。

シモムラ:ええ。農家の人との会話がそれでした。

池上:その会話についてもう少しお話しいただけますか。

シモムラ:オークションの時でした。カンザスに来て初めての年で、そういったことを何度も経験することになりました。「あんたは何者だ。どこから来たんだ」とかね。ネイティブアメリカンに間違われることもしょっちゅうでした。そのオークションには同僚のマイク・オットと行ったんです。その農家の人が私の隣にいて、こんな風に、何か話しかけたそうに私を押していたんです。それでようやく、オークションの休憩中に彼が言ったんです、「すみません、サー。あなたが英語を話すのを聞いていて、どのようにしてそんなに上手く話せるようになったのかと思いまして」と。それで「どこの出身ですか」と聞いてきたんです。私は「シアトルです」と答えました。彼は「いや、そういう意味ではなくて」と言って、それから「本当はどこから来たんですか」と聞いてきたんですね。いや違うな、「ご両親はどこ出身ですか」ですね。それで私は「父がシアトル生まれで、母はアイダホ出身です」と答えました。それで彼は、「何をされているんですか?」と聞いてきました。私は「カンザス大学で教えています」と答えました。それから「わあ、本当に? 何を教えてらっしゃるんですか」と言うので、「美術を」と答えました。すると「美術! 妻と私は美術をコレクションしていましてね、ギーシー(芸者)の女の子の絵を収集していたんですよ。そういった絵を制作されるんですか」と言われたんです。私はこれが自分に起こっていることだと信じられなくて、一緒にいたマイク・オットなんかは死にそうになっていましたね(笑)。私はそこに座って、この男に関してはスマートでいようと努めていました。それからマイクに何を言いたいかとか、彼が私に何を言おうとしているかとか、そういった類のことを考えていて。そうしてかろうじて会話を終えたわけですが。でもその時に、この経験からアート作品を作ろうと決めたんですよ。芸術的に力を尽くすのに値するような何かが恐らくあったんでしょう。それでオークションからの帰り道で学生会館に行って、以前見かけた、『日本の塗り絵』を買ったんです。その本を買って、スタジオに持って行っていくつかスケッチをしてみて、それで《オリエンタル・マスターピース》のアイデアが思いついたんです。なので、まさしくその経験から生まれたわけですね。

池上:なるほど。おそらく(金子)牧さんが言おうとしていたのは、あなたがこの吊り目の作品を制作するまで、人種にまつわるステレオタイプを直接反映する特定のモティーフが絵画にはなかったということだと思います。

シモムラ:でも、明らかにあったんですよね(その作品の前に)。

池上:そうですね。それは分かります。

シモムラ:出てくる口実を探していただけなんですよ。

池上:それではこのモティーフを取り入れたことは、つまりつり目の笑顔ということですが、それは一つのステップに過ぎないのですね。

シモムラ:そうだったと言いたくなりますね。でもこれは、最初にそれを使ったときのような1回きりのものでした。もう二度と使うことはないと思っていました。それを使ったときは、どうやらさきほどの一連の出来事に対する反応だったようです。どんな経緯だったのか覚えていませんが、私の意図としてはそれ以上はやらないつもりでした。ですが、私の人生のすべてのことがそうであるように、それらは大抵また戻ってくるのです。

池上:分かりました。1975年の日本への旅行についてお尋ねして今日のセッションを終わりたいと思います。

シモムラ:国際交流基金の助成金での旅行のことですか。

池上:ええ。

シモムラ:目的はただこの〈オリエンタル・マスターピース〉シリーズをやるための、できるだけ多くの視覚的素材を手に入れることでした。助成金の申請書ではそうやって正当化していたんです。すごく単純で馬鹿馬鹿しかったので、まさか受かるとは思ってもみませんでした。実際、応募したことを忘れていたほどです。春学期の最初の頃で、次の年の授業の計画を立てていました。「ああ、これも教えたい、あれも教えたい」と考えていました。ずっと心に引っかかっていたのは、「教えることに関わる何かに応募したんじゃないか」ということでした。そして思い出したのが「国際交流基金」だったんです。それでファイルを調べたら自分の申請書が出てきて、もう結果が分かる時期だと書いてあったので、事務所に電話したら、「はい、あなたは受かっていますよ」と。「なぜ知らされていないんですか」と尋ねたら「分かりません」と言われ、「でもあなたは1週間以内には行くことになっていますよ」と言われて。「ビザすら持ってないんですが」と話したら、「それは恐らく我々が用意できます」と言われました。実際に彼らはビザを取ってくれたんですが、それは丸1年分のものだったんです。「来年の授業の予定が既に組まれているんですが」と言うと、彼らは「可能な限り長く行ってください」と。「行けても3か月くらいになると思いますが、ビザを出してもらわないといけないですよね」と言ったら、「我々に任せてください」と言われ、ビザを取ってくれました。日本へ行けるのはとても素晴らしいことでした。前の秋に卒業した日本からの学生で、オオバノブヒロ(表記不明)さんという人がいたからです。
 彼は千葉に住んでいて、自分のところに滞在してくれていい、そして私が行きたいところならどこへでも喜んで一緒に行くと言ってくれたんです。会計さえ持ってくれればいいと。私は「素晴らしい」ということで行ったわけです。彼は空港まで迎えに来てくれて。私たちは彼のお母さまの千葉の家まで向かって、私は小さい食料品店みたいな「お土産部屋」に滞在しました。彼女は醤油とかせんべいとか、そういったものを何ガロンもその部屋に持っていて。誰かがお土産を持ってくるたびに、彼女はそれを棚に置いたり出したり、また誰か他の人にあげたりといった具合で。まあとにかく3か月間、私は旅ばかりしました。オオバとはたぶん半分くらい一緒にいたんですが、京都へはひとりで行きました。それからキャピー・ハースト(Cappy Hurst)という人と出会いまして、彼は最終的に私の親友の1人となる人で、私はその旅で彼に会うことになったんです。その後も何度か会いました。とにかく本当に良い旅で、その旅のあとには日本に対する気持ちがずっと良くなりましたね。

池上:その前まではどんな気持ちだったんでしょうか。

シモムラ:うーん…… ほとんど自分のせいなんですけど、外国人みたいに感じていました。最初に感じたのは、どこも自分にとっての故郷ではないということですね。日本に行くことで何を期待していたのか分からないんです。たぶんもっとこう、おばあちゃん的な、自分のためになるとか、あったかい感じがするといったことだったんでしょうが、全くもって敵意むき出しでしたね。旅の半分くらいまでは、私のガールフレンドが日本に一緒に来てくれました。彼女には大いに助けられたんです。というのも、私が日本語を話すという期待を取り去ってくれたのでね。私たちが切符売り場か何かに行くと、彼女がすごい片言の日本語で尋ねるんですね、ちょっと言葉を交わすと、わざわざ彼女のために対応してくれたりするんです。でも私が聞くと、日本語で「アメリカ人の女の子と一緒にいるから、彼女を感心させようとしているんですか。日本語で話してください」と言われるんです。

池上:では、ガールフレンドは日系アメリカ人ではなかったんですね。

シモムラ:そうですね、彼女はハクジンでした。

金子:京都以外ではどこに行かれたんでしょうか。千葉に行って、それから京都に行かれていますね。

シモムラ:大阪には文楽のためだけに行きましたね、それから奈良、鎌倉、熱海…… それだけだったと思います。富士山にも登りました。

池上:申請書に書いたように、浮世絵の調査もたくさんされたのですか。

シモムラ:それは聞かないでください(笑)。

池上・金子:分かりました。それが答えですね。いいでしょう(笑)。

池上:翌年、東京のフランネル画廊と京都の平安画廊で個展をされました。既にカンザスに戻っていたので、あなたはその場にいらっしゃらなかったと思うんですが、どうやって個展を開催させたのでしょうか。

シモムラ:(日本に)博士号を持った友人がいました。(その友人の)助けが必要だったのは平安画廊の方だと思います。フランネル(Franell)はアメリカ人だったので。

池上:画廊のオーナーの方ですね。ちょっと彼女の名前は思い出せませんが。

シモムラ:はい。でも平安画廊はショッピングセンターの中にあって、それが典型的な日本の画廊という感じでした。

池上:そうですね。貸画廊のような。

シモムラ:ええ。彼らは私にギャラリーにいて、毎日お茶を入れて作品について説明して欲しいと考えていましたね。でも私はアメリカに帰る予定だったのでできませんでした。それで、京都でポスドクをしている、博士号を持った友人を頼りました。週に1度そこへ行ってお茶を出してくれないかと頼んだんです。彼にはパーティで会ったのですが、とても興味を示して、喜んでやると言ってくれました。彼はそんなことを言ったことを後悔したでしょうが、私はそれを利用したわけです。それで彼はお客さんにお茶を入れながら、彼らが作品に対して言ったことを全てリストにして私に送ってくれたのです。
 フランネルは全くアメリカの画廊のようでした。彼らの展示で唯一興味深かったことは、作品がほとんど完売してしまったことでした。彼女は作品を手元に残しておけなかったんです。ギャラリーは霞が関にありました。

池上:ええ。そこは…… ホテルの名前は何でしたっけ。

金子:ホテルオークラでしょうか。

シモムラ:そうです。そこで売られた作品は全部大使館の人たちの下へ行きました。だから彼らは私の作品を世界各地へ持ち帰ったんです。でも面白かったのは彼らがみんな日本の美術品を買ったと思っていたことですね。

池上:あなたの作品は、彼らにとって日本で過ごした時の思い出のようなものになったんですね。

シモムラ:ええ。それが私にとっては最後の笑いぐさになりました。彼らにとってではなく。

池上:あなた自身は日本では自分は外国人だと感じていたのに、あなたの作品は彼らにとって日本的なものを意味してしまったんですね。

シモムラ:ええ。でも平安画廊では誰も何も買ってくれませんでした。版画の1点も売れなかった。遠くは大阪からツアーバスで個展を見に来た人たちもいました。テレビに出たし、新聞にも載った。ありとあらゆる媒体に出て、最終的には「この狂ったアメリカの三世はだれだ? 彼は我々の国宝で何をしていると思っているのか?」と言われるわけです。だから京都での反応はものすごくネガティブでした。それが私の日本の経験です。

池上:京都での受け止められ方には少しがっかりしましたか。

シモムラ:いえ、納得がいきました。納得がいったし、私にとっては、これまでのキャリアを通してそういったネガティブなことに突き動かされてきましたからね。

池上:アメリカでも日本でも。

シモムラ:そうです、そうです。ある時、《ノー・ノー・ボーイ》(No-No Boy)(1979年)という大きな絵を描いたことがあるんです。ジョン・オカダの『ノー・ノー・ボーイ』(ジョン・オカダ著、川井龍介訳、旬報社、2016年)(No-No Boy, University of Washington Press, 1976。チャールズ・タトル社による初版は1957年)を読んだあとでした。私はこの絵を浮世絵風に描いたんです。全員着物で、ジョン・オカダの本に出てくる人物に対応していました。この作品を東京銀行がリザーブしました。シアトル支局がそれを承認して、最終的には東京からの承認もないといけなかったんですが、東京本社は断ってきたんです。断ったりするのは初めてのことだったんですよ、というのも…… 4 x 6 フィートもある大きな絵だったわけですよ。結局彼らは、その絵を描いた三世のことを信用できなかったみたいです。

池上:具体的な理由はあったんでしょうか。

シモムラ:いえ、特に理由はありませんでした。作品の購入をそんなに楽観視していなかった人たちから意見をもらってはいたんですけど。というのも、彼らは日本的に見せようとするものは何でも侮辱か何かになるのではないかと疑心暗鬼になっていたので。分かりませんが。でも完全に心の準備はできていたんです。残念だったけれど、覚悟はできていた。そういうことを経験したり、あるいはそうなるだろうと想定したりすることで、何年ものあいだ(自分の制作の)燃料にしていたというわけです。

池上:春画を題材にした浮世絵についてお聞きしたいのですが。昨日一緒に《日本のレストラン七景》(Seven Views of a Japanese Restaurant)(1977–78年)を見ました。このエロティックな版画について少し教えていただけますか。

シモムラ:議論の的になると分かっていたものを選んだのは意図的な決断だったという事実以外には、特に言うことはありません。ですが、それを自分が十分にコントロールできることも分かっていたので、議論の的になる必要もありませんでした。誰かの気分を害してそうだな、というときに、自分が「よし、これなら気分を害さないだろう。でも問題提起にはなるはずだ」と思える地点まで戻ることが常に、私の制作における課題の一つですね。これが恐らく《七景》(Seven Views)シリーズを作るにあたっての最初のステップだと思います。

池上:原典の春画を見たのはいつだったか覚えていますか。

シモムラ:恐らく…… たくさんの春画の本を持っていますが、最初に手に入れた本のうちの1冊だったんじゃないかな。でも正直に言うと、分からないんです。何か具体的な話を思いついて作り話をしているような気がします。

池上:分かりました。でもどこかであなたは春画に出会ったわけです…… なぜなら70年代には……

シモムラ:初めて春画を買ったときのことは覚えています。ニューヨークにある日本の土産物屋でした。ブルーミングデールズ(Bloomingdales)のそばで、とても有名なところです。もう閉店してしまったと思うけど、2階にありました。窓からはブルーミングデールズが見えましたね。

池上:本当ですか。それならマンハッタンのミッドタウンですね。

シモムラ:ええ。今から話すのはそれよりも後に起きたことです。面白い話で、シアトルにいたとき、グレッグ・クセラ(注:Greg Kucera、シアトルの画廊オーナーで、シモムラを取り扱っている)から電話がかかってきて、「春画の版画を買った」と言うんです。彼は春画を集めていました。でも彼が集めているのはゲイの春画で、それは彼自身がゲイだからです。でもこのとき彼は私に電話をかけてきて「ギャラリーに来て見てみろ」と言ったんです。だから行って見てみました。3枚の版画があって、それぞれに奇妙な場所で男性に連れていかれそうになっている女性が描かれていました。ある1枚には地図が描かれていました。彼が最初に私に見せてくれたものは線路の上で男性と女性が愛し合っていて、電車が来ているというものです(笑)。その女性が赤十字の看護婦さんだったので、「僕のおばあちゃんは赤十字の看護婦だったんだ。これは僕のおばあちゃんだ!」と言いました(笑)。彼は笑って「持っておきなよ」と言ってそれをくれました。他の二つは思い出せません。でも今もその版画は持っていて、あそこに掛けてあります。でもさっき言ったようにそれは私が最初に春画を使った後のことで…… だから分からない。覚えていないんです。

池上:分かりました。いま話に出た、おばあさんのトクさんのことに移りましょう。1978年に、絵画に収容所のモティーフを組み込んだ〈ミニドカ〉シリーズを始められていますね。どうしてこのシリーズを始めようと思ったのですか。

シモムラ:賠償運動が進んでいたからです。あとはフランク・チンです。フランクから、シルクスクリーンのTシャツを作ってほしいと言われて。賠償運動か、もしかすると(ミニドカへの)巡礼と関係があったかもしれません。最初に行った巡礼のひとつです。とにかく、私はこの事実を広めようとシアトルに行って、それは賠償運動と関係があるイベントでした。ちょうどサバティカルの申請をする時期だったので、「ミニドカに関するシリーズをやってみたらどうだろう」と思いました。それでやってみたんです。サバティカルを申請したらもらえたので、その連作を作りました。あとはご存知の通りです。

池上:では、〈オリエンタル・マスターピース〉や〈オリエンタル・マスタープリント〉シリーズを制作されていた頃は、あまり収容所のことは考えていなかったんですね。数年後に〈ミニドカ〉シリーズを制作することになるとは、思ってもいなかった。

シモムラ:ないです。ないない。

池上:これはかなり大きな方針転換だったと思ったんですが。

シモムラ:いや、そういう風には起こらないこともあります。そのTシャツに関わったことで引き起こされたのかもしれませんが、でもそういう風になった流れは思い出せません。

池上:とても多くの絵画や版画を制作されたので、日系アメリカ人の歴史に言及することによって、何か他のことをやったりそれをより複雑なものにしたりすることへの、技術的な準備が既にできていたんじゃないかと思ったのですが。

シモムラ:収容所の作品を作る前にということですか。

池上:ええ、収容所の作品を作る前です。既に浮世絵のシリーズを制作されておられたので。

シモムラ:その連作の後に感じたのはスタイルのことだったと思います。(浮世絵を借用するという)スタイルは、それを使う場所や理由、目的を求めていました。自分のアイデンティティがそれに関係していることにも気づいていました。なので、こういう街で何か起こるたびに、たとえばクローガーのレジに行くと「これはハスケル宛の請求ですか」とか言われるんですよ(注:カンザス大学の近くにあるハスケル・インディアン・ネーションズ大学)。もう自動的に、そういったことを材料にしていたんですね。他の出来事と同じポケットに入っていったわけです。ついでに言うとあそこにあるカタログは…… その小さいやつです。(こういう事件が)いっぱい載ってますよ(注:『ステレオタイプと訓戒』(Stereotypes and Admonitions, Greg Kucera Gallery, 2004)。私がローレンスで経験した、あるいは全国的に起こった人種差別事件が60件ほど載っています。それから…… これがここ、ローレンスで起きたものですね。「1970年春、カンザス州ローレンスに引っ越した後、ロジャーは…… 」ここでは「ウィルソンズ・デパートメント・ストア」とありますけど、そうじゃなくて…… ダウンタウンの百貨店の名前は何て言いましたっけ。

金子:ああ、Wから始まる。ウィーヴァーズ(Weaver’s)じゃないですか?

シモムラ:そう、それです。「(ロジャーは)妻の誕生日にコートを買うためにウィルソンズ・デパートメント・ストアに行った。当時のウィルソンズではVisaもMasterCardも使えず、ウィルソンズのクレジットカードでしか支払いができなかった。店員はロジャーに、申請書に必要事項を記入すれば、すぐにコート代をクレジット払いにする承認が得られることを伝えた。指示された通り、ロジャーは2階のクレジットカウンターに行き、申請書の作成を依頼した。カウンターの後ろにいた女性は、(アメリカン・)インディアンにクレジットカードを発行するのはウィルソンズの方針に反していると言った。ロジャーが自分はインディアンではないと言うと、女性は信じられないと伝えた。それでロジャーは店長と話がしたいと頼んだ。店長が到着すると、カウンターの後ろにいた女性は、インディアンにクレジットカードを発行しないのは店の方針であることをロジャーにきちんと伝えたと言った。店長はロジャーを注意深く見分した後、『彼女の言う通りです、サー。わたくし共はインディアンにはクレジットカードを発行しておりません』と言った。ロジャーは店長に自分はインディアンではないと繰り返したが、店長は『お客様、インディアンではないという証拠はありますでしょうか?』と言ったのである。」

池上:信じられないですね。それが1970年代に起こったんですか。

シモムラ:ええ。だからとにかく、これは全て起こった話で構成されているんです。

池上:〈ミニドカ〉シリーズでは、物語や、あなたとあなたのご家族の体験――こうした人種のステレオタイプに基づいた、日系アメリカ人の体験――について語る方法を見つけましたね。

シモムラ:はい。

金子:このとき、ミネ・オークボ(Miné Okubo)やヘンリー・スギモト(Henry Sugimoto)のような、収容というテーマで作品を制作した日系アメリカ人アーティストへの意識はありましたか。

シモムラ:いえ、その時は別に。でもミネ・オークボへの意識はありました。ミネ・オークボの話があります。

金子:本当ですか。お聞かせいただけますか。

シモムラ:ニューヨークのフランクリン・ファーネス(Franklin Furnace)でパフォーマンスをしたのですが、彼女はそこに男性と現れました。彼女の写真家の友人だと思うのですが、80代に見えました。彼女を見て驚きました。すぐにミネ・オークボだと分かりましたから。彼女のところへ行って、来てくれたことに感謝を伝えました。そして「このパフォーマンスに来てくださったきっかけは何ですか」と尋ねました。彼女は「誰かが私の番号をつけているのを見たの」と。彼女が言っていたのはそのパフォーマンスの告知写真のことでした。彼女の収容所での番号が書かれた名札を俳優の1人につけさせたんです。その番号は彼女の本の『市民13660号−日系女性画家による戦時強制収容所の記録』(ミネ・オークボ、前山隆訳、御茶の水書房、1984年)(Citizen 13660, Columbia University Press, 1946)の表紙から取りました。それを複製したんです。それでその俳優をこんな風に座らせて、彼女はその写真を新聞で見たんですね。それで彼女は一体何が起こっているのか確かめようと決めたんです。

池上:彼女はパフォーマンスを気に入っていましたか。

シモムラ:分かりません。終演後すぐに帰ってしまったので。理解できなかったからじゃないかと思います。彼女が期待したようなものではなかったことは確かですね。私が振り返ったとき、彼女とその友人は出ていくところでした。自分が感じたことについて本当のことを言いたくなかったんじゃないかと思います。

金子:興味深い繋がりですね。

シモムラ:ええ。だけど私は彼女の写真を撮りましたよ。

池上:彼女がそこにいた証拠を持っているということですね。では、〈ミニドカ〉シリーズについて話し始めるにあたって、これがシリーズの最初の作品でしょうか。

シモムラ:《通告》(Notification)(1978年)ですかね。

池上:はい、《通告》です。それまでの〈オリエンタル・マスターピース〉シリーズや〈オリエンタル・マスタープリント〉シリーズのようでは中心人物が1人しかいないことが多かったのに対して、〈ミニドカ〉シリーズの構図は歴史画のように人がたくさんいて、より複雑な構図になっていますね。

シモムラ:ええ、制作姿勢が異なっていますね。自分のやろうとしていたことが、それを突然必要としたんですよ。ここ(「オリエンタル」シリーズ)では、ひとつのイメージに基づいてある声明を出しています。それだけでいいんですよ。イメージひとつで主張するんです。でもここ(〈ミニドカ〉)では物語性が導入されているので、色々なものが必要になってきて、風景や部屋のインテリアなど、多くのものを入れていくことになります。

池上:〈ミニドカ〉シリーズでは人物が増えていますが、どのようにしてオリジナルの浮世絵からインスピレーション源を見つけたんでしょうか。仮に10人いたとして、実際に10人分の浮世絵があったんでしょうか。

シモムラ:いえいえ。普段なら1人1枚ずつ。そこに追加していっただけです。

池上:この人たちのオリジナルのソースは覚えていらっしゃいますか。

シモムラ:いいえ。

池上:私は浮世絵の専門家ではないので、イメージのソースを特定することができなくて。

金子:それは美術史家の仕事になりますね。これなんか(鈴木)春信みたいですが(笑)。

シモムラ:《オリエンタル・マスターピース #1》を制作したすぐあとに、日本の美術史家にその絵を見てもらっていました。それを見た彼女はすごく動揺してしまって。

池上:どうしてですか。

シモムラ:「これらの人物の間に何世紀もの間があることは分かっていますか」と言ったんですよね。「美術史家として、イメージの出所と日付とを切り離すことができない」、「頭が混乱する」と。興味深い指摘だとは思いますけどね。

池上:では、歴史的に正しいことをしないといけないとは思っていなかったのですね。

シモムラ:ええ、全くもって逆です。選択肢があれば、いつだって不正確にやっていたものですよ。

池上:これは二つ目の作品です。《ミニドカ #2 脱出》(Minidoka #2 Exodus)(1978年)。この絵にはさらに多くの人物がいますね。この連作は(「オリエンタル」シリーズ)より複雑でサイズも大きいので、それぞれの絵を仕上げるのにより時間がかかったのではないでしょうか。

シモムラ:ええ。1人ずつね。

池上:どれくらいかかったでしょう、覚えていらっしゃいますか。

シモムラ:思い出せません。それはいつも人に聞かれる質問で、私は意図的に思い出さないようにしているんです。その質問が好きではないので。

池上:分かりました。なぜこの質問が好きではないのでしょう。

シモムラ:その質問は制作時間が絵と何か関係があることを想定していますが、そこには何の関係もないからです。その作品に必要なことをやるだけですからね。その質問は制作時間に質的な側面があると示唆している。時間が長くかかれば、より価値があって重要であるとか、すぐに出来上がるものなら、そんなに価値がないとかいうようにね。

池上:なるほど。でもそれはあなたにとっては重要ではない。

シモムラ:ええ…… その作品に必要な時間がかかるというだけです。

金子:もう一つ、美術史家的な質問をしてもいいでしょうか。ソースとなるイメージを探して歌舞伎役者を選んでいるとき、彼らが演じる役柄や歌舞伎の演目のテーマには関心を払っていますか。

シモムラ:冗談でしょう。ノーです(笑)

金子:あなたの作品について話しているとき、私の学生がこんな疑問を思いついたんです。例えば、「四十七士だから、もしかしたらロジャーは何か歴史的な言及をここでしたのかもしれない」と。(注:《ミニドカ #5 第442連隊》(Minidoka #5 442)には歌川国芳が描いた47人の赤穂浪士の1枚が使われている。)でもそうではない……。

シモムラ:彼らに教えなければなりませんね。ロジャーは三世で、彼はそんなことは知らないと覚えておくようにと。

金子:分かりました(笑)。私がよく聞かれるけれど、答えが分からなかった質問なんです。

シモムラ:ええ。少なくとも年に1回は誰かからそういう質問をされますよ。特に講演をしてあちこち周っているといつもです。

池上:〈ミニドカ〉シリーズを初めて展示したのはいつでしょうか。

シモムラ:シアトルですね。プライベートギャラリーで、キク・ギャラリー(Kiku Gallery)というところです。彼女はとても個性的な人でした。ちょっとクレイジーだったとか言いたいわけじゃないですよ。とても個性的で風変わりな人でした。シアトル全体でそういう評判でした。でも彼女はかなり上手くやっていました。展示の半分かそれ以上は売れたんじゃないでしょうか。

池上:どういった人が絵を購入したかご存知ですか。

シモムラ:シアトル美術館(Seattle Art Museum)に入った絵を買った弁護士しか知らないですね。実を言うと、他のものは誰が買ったのか分からないんです。そのうちの1点が、展覧会終了後にだめになった東京銀行です。もう1点はニューヨークの友人が買ってくれたもので…… カンザス・シティで私の作品の取り扱いをしていたディーラーにも1点行きました。彼らは1点買ったんですが、それを失くしてしまいまして。

池上:失くしたんですか!?

シモムラ:ええ。あなたが先ほど見せてくれていた《通告》の絵です。

池上:あれがなくなったんですか。そんな。じゃあどこにあるか分からないんですね。

シモムラ:展示のために借りたいと言ったら、見つけられなかったんです。信じがたいですよ。5 x 6 フィートの絵をどうやって失くせるんでしょう。

池上:このシリーズのために制作した作品の点数は覚えてらっしゃいますか。

シモムラ:6点だけですね。〈ミニドカ〉シリーズと呼んでいました。

池上:なるほど。それで1点がなくなっていると。残りの絵がどこにあるかはご存知ですか。

シモムラ:売った絵は全て、どこにあるかの記録はあるんです。ただ具体的な住所はなくて、市と州の名前だけで。しかし年月を経れば当然、その情報も変わってきます。

池上:1978年から79年にかけて、6点の絵を制作しました。そして1980年には、お祖母さまの日記に基づいた〈日記〉シリーズの制作を開始されています。それは自然なことというか、論理的な展開だったんでしょうか。

シモムラ:1980年のシリーズが始まったのは、日記をカンザスに持ち帰って、それを翻訳してもらったからなんです。翻訳してくれた女性は、2週間分の日記を約2週間かけて翻訳してくれました。彼女はプロではなくて。アメリカに18年間住んでいる美大生だったんです。彼女の英語はかなり上手で、日本語についてもやはり上手でした。それで私は、彼女にその費用を支払うための助成金を受けまして。一般研究助成(a General Research Grant)ですね。翻訳が上がって来るのに合わせて、どの日付の絵をやるか決めていました。最終的には、25枚だったと思います。長年の間に、多くの展覧会に出品されましたね。よく思い出せないけど、たぶん全国で15回くらい個展をしたでしょうか。

金子:ではあなたの院生がお祖母さまの日記の一部を翻訳してくれたということですか。

シモムラ:私たちは戦時中のところを選びました。実際に始めたのは…… 真珠湾攻撃の1か月か2か月前のところからだったと思います。それから彼女は戦時中と収容所にいたときの全ての分を翻訳してくれました。

金子:では1941年から1945年の間でしょうか。

シモムラ:ええ。

池上:お祖母さまは1年ごとの日記帳を使っていたのでしょうか。

シモムラ:はい。

池上:彼女は全部で何冊の日記帳を持っていたんですか。

シモムラ:37年分だと思います。(日記をつけた)58年間のうち、37年分くらいですね。

池上:お祖母さまはいつ亡くなられたのでしょうか。

シモムラ:1968年です。

池上:おいくつだったんですか。

シモムラ:よく覚えていません。80代前半でした。

池上:翻訳を読んで、彼女の収容所での生活について発見や驚くことはありましたか。

シモムラ:いえ、特に驚くことはなかったです。面白いのは彼女の血圧でした。私は高血圧ですから。これがどこから来ているかということが明らかになったわけです(笑)。彼女は収容所で諸々のことをして、「今日の血圧は下100、上200」とか書いてるんです。

池上:それはかなり高い(笑)。

シモムラ:それで「私は梅干とお茶漬けを食べて、昼寝をした」なんて書いてるんです。梅干なんて(高血圧には)世界中で最悪の食べものでしょう、ほとんど純粋な塩なんですから。でもそれで昼寝をして起きたら元気になったと。

池上:では日記は概して彼女の生活の客観的な記録に近いものだったのでしょうか。自分の気持ちなどは表現していましたか。

シモムラ:ええ。そういう時もありました。アメリカ政府が男性の収容者にアメリカのために戦うことを許可すると言ったときだったと思います。彼女はそれについては多くを述べていました。

池上:なんと言っていましたか。

シモムラ:彼女は自分たちが置かれた板挟みの状況に動揺し、憤慨していました。彼らは全ての権利を失って収容所に入れられたわけで、戦闘許可は彼女の息子であり、男性収容者の範疇に入るミチオ(Michio)に大きな影響を与えます。それで、論争をするような調子ではないですが、非常に感情的でした。

池上:あなたは絵の題材とするためにある特定の文章を選んだのか、それとも……。

シモムラ:特定の?

池上:絵を描くきっかけになったのは、日記にある特定のフレーズや文章だったのですか。順番があるとしたら、初めに文章を選んでそれから絵を描いたのでしょうか。どうだったんでしょう。

シモムラ:何しろ、覚えていないんです。日記の内容を見てみないと……。今思い出せるのは、1枚の絵に1から3の文章があったことだと思います。それが大抵、何かしらのイメージの引き金になっていました。

池上:私は先月ワシントンDCにいまして、障子の向こうにスーパーマンの影が見える《日記: 1941年12月12日》(Diary December 12, 1941)(1980年)という絵を見ました。アメコミのキャラクターが出てくるのはこれが初めてなのではと思っていたんですが。

シモムラ:うーん…… そうですね、〈ミニドカ〉シリーズにはありません。おそらく〈日記〉シリーズで初めてだったんでしょう。(注:実際には〈オリエンタル・マスターピース〉シリーズの中に、浮世絵の人物がスーパーマンの衣裳を着ている作品がある。)

池上:あなたのキャリアにおいて、このタイミングでスーパーマンが登場するのがなぜかお話しいただけないかと思っているのですが。子供時代からアメコミがお好きでしたし。

シモムラ:そうですね、起こるべくして起こったんだと思います。自分が使っているイメージに慣れ親しんでくると、他のものとのつながりがより明確に見えてくるようになります。こういった観察に従って、何かを行う上での許可を自分に与えるようになるんですね。それは、そういうつながりを持たない外部の人からすれば論外なことに見えるかもしれないけれど、実際には、創作するにあたって論理的なことなんです。アーティストは常に壁を壊しているというか、普通の人が見ている以上のものを見ようとしているので。絵画の場合もそうだと思います。だから(アーティストは)常に当たりを見つけるために準備をしています。時には間違ったものを選ぶこともあるでしょう。でも時々、正しいものを選んだ時には、その選択をしたことで天才だと思われたりします。でも、それは常に際どい所に立とうとすることの結果です。尖ったところのないアーティストなんて何者でもない。そういう人は装飾家です。あるいは公園にあるアートをやるような人たちです。それは私のやっていることとはほとんど関係ないです。

池上:今日の私の最後の質問です。〈ミニドカ〉と〈日記〉のシリーズでは収容所への言及をかなり微妙にされていますよね。例えば、すごく遠くに有刺鉄線がほんの少しだけ見えるとか。作品が観客にとって理解しやすいものであるよう、意図的にこういう選択をされたと読みました。これらの作品の市場性はあなたにとって重要なものだったからと。理解しやすいことと、市場性があることの重要性について、少しお話しいただけますか。

シモムラ:今おっしゃったことは重要なことだと思いますね。アーティストが話したがらないような類のことではありますが。アーティストは、自分はそういったこと(市場性や理解しやすいこと)を超越していると考えたがりますから。彼らは市場性に基づいて決断しているのではないし、選択肢があるなら、より議論を呼ぶ方をいつも選んでいる(と考えたがる)。それは大嘘です。仮に大嘘ではないとしても、アーティストはスタジオの外で生活をしなければならないんです。素晴らしくとんでもない選択はいくらでもできますが、誰かに売らなければ、その作品はスタジオの中で死んでしまう。二度と日の目を浴びることはない。ほとんどの作品は完成した後でしか観られることはありません。成功した偉大なタイプのアーティストについて話しているのではありません。自分の満足のために絵を描く普通の画家について話しているんです。それは作品の終わりです。でももしより多くの観客に届くことを期待するなら、作品はたくさんの人に観られる状況に置かれなければなりません。それで重要なコレクターとか、美術館や企業に購入されないと。作品は命を保ち続けなければならないんです。スタジオの中では命を持たないのです。そこに座って作品を観て、「まあ、あれもこれもやって売れっ子になって、すっかり尖ったところがなくなったね」と言うことはできますよ。でも誰かが作品を買って、作品がスタジオの外で命を得れば、少なくともその作品は重要なものになっていくチャンスを得るわけです。そうでなければ、何もせずにいるのと同じことですよ。

池上:ここまで率直にそういった見方をするアーティストはあまりいないと思います。この方針はどのように生まれたんでしょう。

シモムラ:私の中の先生の部分ですね。長いこと絵を教えていましたから。私がいつもやっていたことのひとつは、なぜ作品を見せるのか、そして、なぜ作品が売れるのは良いことなのか、について話すことでした。お金がもらえて何か買えるからという理由以上のことをね。つまり、購入とは、そのおかげで作品の命が続くという保証であり、作品に重要性をもたらすことなんです。なので、ここが、私の教え方が他の人と少し違うところだと思います。普通ならタブーであることを教えていたわけですから。