美術評論家
長野県佐久市生まれ。早稲田大学文学部卒。広告デザイン制作の実務に携わる一方で、1965 年「芸術評論募集」(『みづゑ』 60 周年記念)で佳作。60 年代後半から『三彩』『美術手帖』『デザイン批評』等々、雑誌・冊子などに展評・論考を寄稿している。
今回の聴き取りでは、生まれから戦中・戦後に受けた教育、大学時代に所属した民主主義科学者協会(民科)芸術部会での読書会、広告デザイン制作の実務、デビュー作となった「私の主題」、『三彩』での連載(展評)、『デザイン批評』に関連する話などを語っていただいた。平井氏自身、これまで現代美術における「アマチュアの視点」について言及することがあったが、本インタヴューでも「アマチュア(私)の視点」についての立場(思想)がうかがえる。
粟田:それではよろしくお願いします。
平井:こちらこそ。
粟田:オーラル・ヒストリーということで、生い立ちからお話をうかがえればと思います。平井さんは昭和8年のお生まれ……(デビュー作である芸術評論募集・佳作「私の主題」『美術手帖』第263号、1966年2月にある略歴を見ながら)
平井:いや、それはね。締め切り間際にかけ込んだのですが、慌てると僕は「6」をこういう風に(留めの部分の線がはみ出すように)書くんですよ。それが(掲載誌では)「8」年になっていたからびっくりして。私は昭和6年なんです。1931年ですから。だからこれは若ければいいかと思って、放っておいたんです。
鏑木:誤植なんですか(笑)。
平井:誤植というか、向こうでどう取ったのか。「6」をそうやって書いちゃう癖があるんですよ。
粟田・鏑木:(笑)。
平井:それを「8」と見ちゃったのかなと思うんですけどね。
粟田:それがそのまま『美術手帖』に。
平井:私はもう出ちゃってから気が付きましたから、あえて訂正しなかったんです。
粟田:なるほど。じゃあ昭和6年のお生まれなんですね。
平井:はい。若ければ若いほどいいと思っていたところがあって(笑)。後の記録はもう、ほとんど昭和6年、1931年になっています。だから、中原(佑介)さんと同世代なんですよ。
鏑木:全く同じですね。
平井:高階(秀爾)さんもね。
粟田:同じ世代ですね。
平井:ですから私はあまりに奥手で。出るのが遅かったもんですから、当然かなと思うんですけどね。私は中原さんの論文を読んで「いや、すごいな」と思いながら。
粟田:中原さんの論文というのは「創造のための批評」(中原佑介のデビュー作)ですか。
平井:彼は20代で出ましたからね。僕はその頃は、美術というものにそれほど関心がなかったものですから。いろいろ書いてはいましたけど、美術についてものを書くっていう意識があまりなくて。ですから中原さんのものを読んで感心した覚えがあります。
粟田:それは『美術批評』とか、雑誌でですか。
平井:中原さんの載ったのは『美術批評』でしたっけ。それを読んでいたわけですね。
粟田:平井さんはそういった雑誌をご覧になっていたんですか。
平井:ええ、雑誌は見ていましたね。文学部でしたから。で、高校時代は美術部にいましたから。それで、芸大を失敗しているんですよ。
粟田:芸大は何科を。
平井:洋画科ですね。私の同期に独立(美術協会)の重鎮の桜井寛がいます。同じく同期に、井出孫六という直木賞作家もいて。
粟田:そうだったんですね。(『美術手帖』の略歴に記載されている)場所は東村山市で間違いないでしょうか。
平井:はい。
鏑木:お生まれは長野県。
平井:長野県です。佐久市ですね。
鏑木:佐久市というのは、どの辺りなんですか。
平井:佐久市は景観的に言うと、佐久平という田園地帯ですね。東の方には群馬県に連なる小さな山々があって、一番目立つのは、北側に浅間山があるんです。南側には八ヶ岳があるんですよね。それに挟まれた稲作地帯なんですね。それが佐久平と総称されています。そこで生まれました。
私の両親はふたりとも小諸です。小諸っ子ですけれども、父親は教師をやっていましたから任地を転々としていましてね。で、私が生まれたのは佐久市なんです。当時は野沢町、そこで親父が教師をやっていたと、そういうことでした。
佐久市で生まれましたけれども、小学校は上田市なんです。それからまた佐久市に戻って、今度は大町というところ。北安曇郡ですけどね。そこで小学校卒業。それから旧制大町中学校に入学です。
粟田:お父さんは何を教えていらしたんですか。
平井:小学校教師です。親父は甲子園まで行きまして。長野師範学校って、昔は中等学校でしたね。そこが長野県代表になって、甲子園に2度行っているのかな。一度は準優勝ということで、かなり野球好きな人でしたね。
粟田:平井さんは、何かスポーツは。
平井:私はスポーツはあんまり。まぁ鉄棒、跳躍とかね。それから戦中は柔道。集団スポーツは駄目でしたね。それもやったという程度ですから、普通に遊び程度かな。戦時で体を鍛えるためにやってきたとか。スポーツ一家ということでは全くないんです。
粟田:子どもの頃に関心があったことはなんですか。
平井:美術ですか。
粟田:美術に限らず。
平井:美術はまぁ好きで、なんとなく。ひとりっ子ですから。何かをしきりに描いていたということはありましたですね。
粟田:それは絵を描いて。
平井:そうですね、絵を描いて。だから父親が「この子はどうも駄目だな」ってなことをよく言っていたようですね。外へ出て、人と付き合ってスポーツをやって、明るく活発にやるっていうような子じゃないな、ということは母親に言っていたらしいですけどね。
粟田:そうすると本なんかも。
平井:ええ、本は読みましたね。児童文学読本とかね。シリーズもので東西南北の物語を集めた本が10数冊あったかな。それをほとんど読みました。そこでギリシャ神話とか日本の古い神話とか、アンデルセン物語とかね。それから童話関係。聖書のごく簡単なもの。そういったものはほとんどそこで読んでいて、ごく初歩的なものはね。今思い返しますと、東西の古典に関しては大体頭に入っていたなという感じですね。だからこれは時々懐かしく思い出すんです。
鏑木:それはおうちで買ってもらった本だったんですか。
平井:たぶんそうだと思いますね。いつ買ってもらったかは記憶にないですけど。シリーズでありまして。
鏑木:何年生くらいの時ですか。
平井:上田時代ですから、3年生から4年生までですね。
鏑木:じゃあ結構早くから読書をされていたんですね。
平井:そうかもしれません。今考えると、そう思います。
鏑木:3、4年生から読書好きな少年でしたか。
平井:そうでしたね。それがたまたまあったものですから、よく読みましたね。楽しい挿絵がたくさんあって、村山知義の挿絵もあったのではないかと思いますよ。確かめていませんけれど。
粟田:画集というのはどうだったんですか。
平井:いや、それはないです。絵が好きで描いていましたけれども、父親がそういうスポーツ育ちの人でしたから。そういうものをほとんど置かなかったんですね。極めて常識的に『漱石全集』とか『明治大正文学全集』とか、そういったものは皆、揃っていましたけれども。でもそんなのを読み出すのは後のことですからね。中学、高校に行ってからですから。私の小学校の時代は、画集はなかったんですね。画集なんていうのは、僕は終戦後まで知らなかったんですよ。軍事教育たけなわで、そういう家庭環境ですからね。
粟田:終戦といいますと…
鏑木:中学生。
平井:中学3年になってから、父の転任で今度は佐久市の旧制野沢中学校に移るわけですよ。その前、中学2年の3学期かな。ある校長先生のところへ正月祝いか何かで行って、父親と一緒にね。そこで初めて世界美術全集っていうのを見たんです。それでものすごく興奮しましてね。それが頭に残っていて。大町のアルプスに近い村の屋敷でしたから、その先生に(全集の)近・現代部門を1冊お借りして、野沢まで引っ越した覚えがあるんですね。後でもちろん郵送でお返ししましたけれども。それが美術全集を見た初めですね。それはもう、現代美術の鮮烈な洗礼だったんですよ。
鏑木:えっ。
平井:と言っても、ドイツ表現主義とかね。せいぜいピカソやシュルレアリスム辺りまで。熱に浮かされた感じは覚えていますね。不思議な感じだったですね。
それで思い起こしました。まだ大町にいた頃、戦争中ですよ。ピカソの画集っていうか、評伝かな。古本屋で見つけましてね。それを衝動的に購入した覚えがあります。それが父親に見つかりまして、「戦争中にこんなものを読んでは駄目だ」って言われてね。はやく見て、本屋へ持って行って返した覚えがありますよ。向こうもちゃんとお金を返してくれましたけれどね。ですから美術的なことに関しては、あんまり環境は良くなかったんじゃないかと思いますけれど。
粟田:敗戦が中学2年生ですか。その頃のことで覚えていることはありますか。
平井:戦争の頃はね、よく先輩たちが工場に動員される。もっと上の先輩はやはり、予科練に行くとかね。あるいは(軍の)幼年学校へ行くとかってことがあったんじゃないかと思うんですね。それで先輩が特攻隊で亡くなったっていうのを校内集会で校長先生から聞きましたね。そういうことがあります。私どもはまだそこまで行かなかったんですが、勤労奉仕ということで農村へ動員されましてね。そこでお百姓さんのお手伝いをするということが、1年生から2年生が終わるまで続きました。
鏑木:そういう時は学校には行かずに、ですか。
平井:学校には行かないで、直接その農村へ行くか、農家に泊まるんです。そこで一応隊伍を組みまして、出欠を取って。それで各農家へ、何人かずつ配属されるわけですよ。農村ですから食糧豊富なんです。ちゃんとご馳走を用意してくれた。餓えていて、きつい農作業ではあったんですけれど、楽しい思いはありました。引率の先生なんかも、東京から疎開の先生がいらしてね。その先生なんかと、戦争を離れていろいろ話をしたりね。そういう楽しい思いは残っていますけどね。ただ終戦近くなりますと、学校に戻った私たちの方も緊張感がみなぎってきて。幼年学校っていう、陸軍士官の養成学校がありましたよね。陸軍は幼年学校で、海軍は兵学校ですけれど。そこはまぁ一高・東大が並んだエリートたちが行く学校ということで、受験講習会を開くんですね。兵隊さんになるための受験勉強ですよ。その講習を受けたことは覚えています。
粟田:そうですか。
平井:そこで教わったのは、天皇のために死ぬことが一番国のためなんだということから始まってね。軍人勅諭だの歩兵操典だのを読まされたり、そういった受験勉強なんですよ。そういう戦争教育は、ずっと終戦まで受けました。
鏑木:では平井さんも、もう少し学年が上だったら……
平井:そうですね。もっと上でしたら、少なくとも予科練とかね。成績が良ければ幼年学校とか。
鏑木:戦争に行くかもしれないと思われていましたか。
平井:むろんそれはありましたけれど、むしろあの当時は憧れだったんですね。親はどう思ったか知りませんけれど。我々にとってそれは当然である、むしろ行きたいんだという。そういう教育でしたから。
鏑木:では、どちらかというと「行きたい」という感じ。
平井:そうでしたね。
鏑木:かっこいいというか。
平井:はい。ついでにお話しておきますと、我々にとって靖国神社問題というのは、そうした経緯もろもろインプットされて始まっています。「靖国で会おう」というのは、その頃から言われていました。靖国に祀られることは一番名誉なことであるという、要するにイデオロギー装置でしたからね。我々は、そういうのは肌に沁みて教育を受けていますから。ですからああいう安倍首相にまつわる問題が出てくると、また始まったかということで血が騒ぐんですよ。「また始まった。そんなことはもう、やめなきゃいかん」と。彼が歴史を本当に知っているかという、素朴な警戒感と怒りが出てきますね。
ご存知かもしれませんけど、私どもの頃の中等教育というのは、必ず配属将校というのがいたんですよ。少尉から始まって中尉、大尉まで。尉官級ですけど。そういった人たちが学校に配属されて、軍事教育の監視をするわけですね。それに田舎には中国戦線で鍛えられた帰還兵がいるわけですよ。その中の優秀な方が、また学校へ来て教えるわけです。手榴弾の投げ方とか、銃剣術の心得とかね。そこへ持ってきて職員室の配属将校が、先生方はもちろん、私どもを監視するという学校システムでしたね。しかしその将校さんがまた、かっこいい将校さんでね。軍人マントを着て、軍刀を下げてね。「よっ」って毎朝校門から入って来るんですよ。「うわぁ、いいな」っていう、素朴な少年心にね。そういう時代でしたね。
粟田:敗戦直後というのは、いかがでしたか。
平井:敗戦直後は、戦後の混乱でしょう。そこへもって教科書に、アメリカにとって不都合な箇所がありますからね。軍国教育でしたから、その箇所を墨で塗りつぶすということをやりました。それからこれは極端な例ですけど、たちまちアメリカ讃歌が始まりましたからね。日常生活では、進駐軍放送が始まりまして、ジャズがようやく聴けたんですよ(笑)。これはえらい時代になったなという、ちぐはぐな開放感がありましたね。
終戦の日は8月15日、天皇から重大放送があるっていうことでラジオに聞き耳を立てました。からっと晴れた日でね。大町はアルプスが、まだ白くなっていませんでしたけど、よく見える場所ですから。青空の下で、天皇の放送を聴いた覚えがあります。(実際に聴いたのは)家の中ですけれどね。アルプスのその印象と青い空と天皇の声っていうのは、私の終戦の感覚的な印象ですね。それから開放感がずーっと街にみなぎって。しばらくするとグラマンが飛んで来ました、初めて。要するに終戦後の監視偵察ですね。グラマン戦闘機が一機一機、主な都市を回るんですよ。それが大町にやってきましてね。本当に屋根スレスレに飛んで、行ったり来たりするわけですよ。すごくたくましい飛行機だなという印象を受けましたね。パイロットのグリーンのマフラーを、よく覚えてる。見えるんですよ。
粟田:それが見えるくらい。
平井:もうスレスレで来ましたから。瞬く間ですけれど、2、3回往復しまして。それで松本の方へ去っていくわけですけどね。それからしばらくして進駐軍というのがやって来まして、ジープっていうのを初めて見ました。それからガムを噛む青い目のかっこいい進駐軍の兵隊さんっていうのを初めて見ました(笑)。そんなことです。今では考えられませんでしょう。
鏑木:そうですね。
平井:なぜ彼らを近くで見たかと言いますとね。要するにそれまでは軍事教練ですから、各中学校に三八式歩兵銃があるんですよ。それで武器は一切、徴用されるわけですね。一切出しなさいということですから、我々生徒が公の場所に持って行くわけですよね。我々はそれを手伝ったわけですけど、そこに銃を回収する進駐軍がいました。……ところで、木炭車ってご存知?
鏑木:わからないです。
平井:ガソリンがなかったものですから炭とか薪を燃やして、そこから出るガスをエンジンに送りまして、それで自動車を動かすんですよ。ですからトラックや、そんなにありませんでしたけど乗用車に、木炭ガスを発生させるお釜がくっ付いているんです。そういう極めて素朴な装置で燃料を作って、ようやく動いていたわけですね。そこにジープのあのかっこいいのが。もうバックなんか、すごいもんね。スッと止まって、パーっと来ますでしょう(笑)。あの機敏性にびっくりしたんですよ。そんなことで文化や文明の違いっていうのをまざまざと経験しましたね。
粟田:あとはジャズですよね。
平井:軍歌になじんだ耳でジャズっていうのも初めて聴きましたしね。それから英語放送っていうのも初めて。進駐軍放送ですから。
鏑木:ジャズや英語の放送を、たくさん聴かれていたんですか。
平井:ラジオだけですから聴かざるを得ないし、楽しいしね。何となくは聴いていました。しばらくしたら平川唯一さんっていう人の英語会話が、軽快な調子で放送が始まったんですよ。英会話ってやつね。我々が受けてきたのは戦争中のネガティブな英語教育でしたからね。敵性語ですから、大して授業もしなかったんですけれどね。
私どもの英語の先生は早稲田の英文出身の方で、信州大学の教授になられましたけど、エドマンド・ウィルソンの『アクセルの城』を訳した方(大貫三郎)なんですよ。それがなかなかおもしろい授業でね。英語って素晴らしいと思うようになるのは終戦後ね。疎開でいらした先生ですけど、まずは初歩英語。英語の楽しさと欧米文化っていうものの奥深さを、その(三郎)先生から、それとなく教わったような気がしますね。先生は会話が上手というんじゃなくて、読み方に長けていた方だと思うんですけれど、そういう英文学のおもしろさというのは、ちょこっと話を聞きまして、頭に残ってはいます。
鏑木:それは中学生の時ですか。
平井:そうですね。中学1年後半から2年の時。しかし先生も終戦までは、田舎の中学生にそういう文学がらみの話は恐らくしたくなかったんでしょう。勤労奉仕の引率もされていて一緒に行った覚えがあるから、終戦前ですね。終戦しばらく前からもう、教えていらしたんですね。
そのお兄さんが、もともと大町中学にいらしたんですよ。大貫悌二という画家です。だから美術の先生だったんです。その先生が僕にとってみると、戦中ながら非常にユニークな先生。今まで美術の先生というのは、あんまり知らなくてね。せいぜい小学校の図工教育だけですから、初めて専攻課程としての美術というものに触れるわけです。そこでようやく画家という存在がこの世にあって、その方が美術を教えるってことを経験するわけですけれどね。もともとどこかの会員だったのかな。よく知りませんけれども。その方の話がおもしろくてね。
粟田:どんな授業だったんですか。
平井:まず飛鳥・奈良の仏像(の図版)をいろいろ持ってきて、たくさんあったのを覚えています。名前は忘れましたけれど、いかに神秘的かっていうことですよね。仏像の神秘性というのを、いわゆるナショナリズムに引っかけて言うんじゃないんですよ。こう見るとこう見えるんだということを、視点や陰影の変化がらみでいろいろと教えてくださった。仏は拝むばかりじゃなく、こういう美しさがあるんだよということを、ご自分の美感として教えてくださったという気がするんですよ。
そこで旧制中学の美術教育ってものを初めて経験したわけです。もちろん実技がありましてね。実技の時にデッサンから始めるわけですが、その時に絵の具箱を描かされたんですよ。水彩の絵の具箱を目の前に置いて、そういう素朴なデッサンから始まって。その時に僕は、良くできたということで貼り出されましてね。そんなことで、もともと絵が好きだったもんですから、それは当然かなという気持ちはあったんですけれどね。ただ、家庭環境からしても時代環境からしても、いわゆるアートとは縁遠かったもんですから。その先生に初めて接してアートという感触、こういう世界があるのかな、ということを肌身に感じたことは今でも鮮明に覚えています。
鏑木:大貫悌二さんは洋画家の先生だけれど、仏像の話をされたんですね。
平井:実技が多かったもんだから、お話はあんまりなさらなかったんですけど、お話では日本の仏像に関してのものが多かったですね。西洋美術史みたいなことはやりませんでした。戦争中だったから、恐らく遠慮したのかなと思います。その先生も赤紙動員されましてね。兵隊に行きまして、しばらくして終戦になりましたから、戻って来られましたけど。……三郎先生と悌二先生が組みまして、音楽鑑賞会っていうのを戦後早々にやっていました。レコードを持って来まして、同志を募ってね。僕はそこへ参加しませんでしたけども。
鏑木:どうしてですか。
平井:いや、どうしてでしょうね。惹かれたんですけどね。どうですかという勧誘を受けた覚えもないし、どういう風にして入ったらいいのかわからなかったし。
そうだ。これもお恥ずかしい話ですけれども、戦争中の音楽の先生にヴァイオリニストがいましたね。町に住んでいた方です。ヴァイオリンを教えていた先生が、片手間で講師みたいなかたちで音楽を受け持ったんですよ。時々音楽史めいたことをやりましたけど、ほとんど自分でヴァイオリンを弾きながらでした。ある時レコードを持っていらして、ベートーヴェンの第九交響曲。そこで僕は初めてベートーヴェンという名前を聞き、オーケストラというのを聴きました。西洋音楽っていうのはこういうものか、っていうのをそこで初めて。その先生は辞められましてね。もう終戦近くだったのかな。音楽教育もなくなりましたし、我々も授業どころじゃなくてね。勤労奉仕、勤労奉仕でずっと行っていましたから。その後どうなったか覚えていませんけれど、恐らくなくなったんじゃないかと思いますね。
そういった貧しい初体験の中で、戦後でも音楽鑑賞会に参加するという気持ちが動かなかったんじゃないかと思うんですよね。ただ、美術部には入っていました。
粟田:美術部だったんですね。
平井:ええ。悌二先生が終戦で帰って来られまして、美術部を始められましてね。そこへ参加しました。ただし参加してしばらくしたら私はもう転校でしたから、先生の美術部での指導というのはあまり受けませんでした。しかしお絵描きではなく、アートとしての、美術のイニシエーションというのは悌二先生。外国文学のイニシエーションらしきものは三郎先生。本当に短い間ですが、お二方から受けた印象は残っていますね。
粟田:転校されたという話ですけれど、どちらに。
平井:大町中学2年終了の時に、父の転任でまた佐久に戻るわけです。旧制野沢中学ですね。新学制で野沢北高等学校となります。男子校ですけどね。
粟田:高校でもまた美術部に。
平井:ええ。そういうことがありましたので、すぐに美術部に参加しました。
粟田:高校の美術部はどういう感じでしたか。
平井:顧問の先生は荻原孝一という先生で、一水会の会員の方ですね。今の芸大ですか、昔の東京美校の優等生だったという話を聞きました。だからデッサンは相当な方だったんですね。ですから私どもも、デッサン教育はその先生から一応4年間。新制高校に変わって、ただちに高校2年になったのかな。ですからそこへ転校してから卒業までは、美術部の顧問として荻原孝一先生の教えを受けました(注:昭和21年春の転校時は旧制野沢中学3年生、それから旧制4年生、そして旧制5年生時に新学制発足でそのまま新制高校2年生となり、翌年新制高校3年生で卒業)。
粟田:それで芸大を。
平井:ええ。デッサン教育を受けて美術部でそれなりに楽しんで。先生の勧めに乗り、一応、芸大に行くかっていうことでね。
鏑木:芸大を受験することに関して、ご両親は何かおっしゃっていましたか。
平井:私の親はそういうことではあまりものは言わなかったけど、内心はやはり後を継いで欲しいという。信大(信州大学)辺りに行ってね。
粟田:教師という。
平井:うん。教師が一番無難だというのは、心密かにあったと思うんですよ。ひとりっ子ですしね。「どうしても絵をやりたい」なんていうことを言っているものですから、じゃあしょうがないということだったと思いますね。そこで一緒に腕を磨いたのは、桜井寛君ですね。後年彼は武蔵野美大の教授も務めましたが、その時、藤枝(晃雄)さんと一緒だったみたいで。
鏑木:桜井さんは、野沢北高の同級生なんですね。
平井:同じ学年です。部活で僕は部長をやり、彼は副部長でね。桜井君が「俺は絵ばかり描く、そういうことはお前がやれ」ということで、仕方なく僕がやったんですけどね。それで芸大を一緒に受けたんですよ。洋画ですけど。あの頃は何倍だったかな。(洋画家の)伊藤廉さんが主査だったと思いますよ。
それで見事に失敗して。「君たちは、もう1年か2年デッサンをやれば入れるよ」なんて荻原先生はおっしゃったんですけれどね。それで桜井君は翌年、東京教育大に行きました。実は芸大をしくじって、彼と私は武蔵美に行ったんですよ。
粟田:油絵ですか。
平井:ええ、油ですね。彼はしばらくいて辞め、僕は入学手続きする直前で辞めちゃったんです。とてもここじゃ勉強する気になれん、ということで。上京する準備までしたんですけどね。いろいろ考えて、学校の雰囲気を見て、もっと考え直そうということでした。それで1年受験勉強めいたことをしましてね、早稲田へ行ったんです。
高校時代、美術以外に文学関係の友だちもいろいろいまして、ドストエフスキーとかゲーテとかね。どっちがいいとか、文学論をやったりしていましたから。そんな仲間と、僕が言い出しっぺで、藁半紙のガリ版ですが小説あり詩ありの同人誌『斜塔』というのをお粗末でしたが4号まで出しました。その時、井出孫六さんにも寄稿してもらったので、彼の若書きが残っています。こちらは勝手なエッセイを載せましたけれど。高校2年の時ですね。
その間、プルーストを読みましてね。プルーストってご存知でしょう。非常に絵画的な喚起力をもっていますよね。「ああ、こういう文学の世界があるんだ」っていうことを知ったことと、フランス文学。とりわけ実存主義とかサルトルがもてはやされていて、軽薄にもそういう雰囲気に呑まれましてね。文学をやるんだったらフランス文学だなということと、美術と文学どちらの方が向いているかな、といろいろ考えましてね。むしろ文学に行こうかなという気持ちがようやく春から夏にかけて強く芽生えましてね。それからちょっと受験勉強めいたことを始めて。それで翌年受けました。
粟田:その時は芸大は受けずに。
平井:ええ、芸大はもうそれっきりです。だから芸大の人たちに関しては常々、コンプレックスを持っています(笑)。駄目だったもんですからね。ただ、自信がなくはなかったんですよね。この程度だったら入るかなと、受験のデッサン実技で周りの出来映えを見ましてね。だけど見事に落ちました。何倍だったか、ちょっと覚えていませんけれど。
鏑木:当時も倍率は高かったんですよね。
平井:相変わらず高かったはずですね。
鏑木:武蔵美は、雰囲気が合わないと感じられたんですか。
平井:ああいう極端にバンカラというかな、ちょっとそういうのは嫌だなという感じがありましてね。
鏑木:確かに芸大とは雰囲気が違いますね。
平井:そうですね。こういうところで絵を描くんじゃ、ちょっとたまらんなということがありましてね。すぐ入学手続きをやめちゃったんですよ。
鏑木:その頃、文学ではプルーストやサルトルへ興味を持たれていたということでしたが、中学や高校の頃に好きだった画家や彫刻家はいましたか。
平井:やはりピカソ、マチス辺りが紹介されて、いわゆる泰西名画展っていうのがありましてね。そういうのが『美術手帖』辺りから情報として入ってくるんですよ。
鏑木:当時、『美術手帖』を読まれていたんですか。
平井:ええ。美術部にいた時に『美術手帖』が出ますよ、という大きな広告というかPRがありましてね。これはぜひ買わなきゃいかんな、という意識はありましたね(笑)。
粟田:(創刊は)1948年でしたかね。
平井:買ったのを覚えています。ピンクの表紙で、真ん中にポカっと小さな窓が空いていましてね。その中にマチスのデッサンがあったと思うんですよ。そういう表紙を覚えていますね。それが創刊号だったと思います。
鏑木:最初から楽しみにしていて、買われたんですね。
平井:そうだったと思いますね。桜井君辺りと「これはぜひ読まなきゃいかんな」という話をして買った覚えがありますね。
鏑木:周りのお友だちの中でも話題になっていたんですか。
平井:ええ。それも個人で買ったんじゃなくてね、美術部として買った覚えがありますね。
粟田:他に『みづゑ』『三彩』『藝術新潮』なども読まれていましたか。
平井:『藝術新潮』は読みましたね。お金がないもんですから、立ち読みが多かったですね。それとこれも非常に大きな影響があるんですけど、疎開で加藤陽さんという方がいらしたんですね。独立美術協会の会員です。その方が臼田町という所で、私もそこにちょっといましたから。そこにいた時に、この方が疎開でずっといらしていて、佐久地方で文化活動をなさっていたんですよ。その先生が『みづゑ』『アトリエ』などたくさん雑誌を持っていらしたんですよ。それを僕はよく借り出して、読んだ覚えがあります。非常に役に立ったんです。ですからその先生の蔵書を借り出しては読み、ということは厚かましくやっていました。
粟田:美術に関する言論も多かったと思います。そういうものを読むこともありましたか。
平井:そうですね。ほとんど忘れていますけれども、その当時の論争とかは、何となく読んでいたと思います。どれがどうだっていうことは今、思い出せませんけれども、それなりに読んでいたと思いますね。それから『BBBB』とかありましたね。それも創刊されたのをすぐ読みましたね(『BBBB』創刊は1949年)。
鏑木:えーっ。
粟田:それも美術部でですか。
平井:それは個人的に買いましたね。
粟田:そうですか。佐久の本屋さんでですか。
平井:それは本屋に出ていましたね。学校からの帰りでした。
粟田:本屋さんに出たんですね。
平井:それは楽しみで買った覚えがありますね。あの頃、内田巌さんですか。新制作(協会)のね。あの方が活躍していて、あの人の本はよく読みましたね。今でも内田さんは好きですけれども。それから新鮮な装いで出た『小林秀雄全集』とかね。これは部分買い。アメリカの現代文学もいろいろと紹介されましたし、なるべく読もう読もうということで読んでいました。
美術とは関係ありませんけど芸大を受けた時、受験の間に上野の旅館に泊まったんですよ。僕は受験そっちのけで本屋を探し歩きましてね。そこで三島由紀夫の『仮面の告白』を見つけたんですよ。売り出されてすぐ。三島由紀夫っていうのは知っていましたから、すぐ読んでみようということでね。受験の時に買ってきて、まず旅館で夢中で読んだ覚えがあるんですよ。だから初版本なんですよ。そんなことを覚えていますね。それから洲之内徹さん。例の画廊をやっていた。
鏑木:現代画廊の。
平井:原田(光)さんのお父さん。芥川賞候補になった「棗(なつめ)の木の下」が載っている雑誌を買ってきて、これも泊まり先で読んだりね。そんな中途半端なことをしていましたけどね。受験の最中だったんですけれど、そんなことをやっていましたからね。文学へ行こうか美術へ行こうかわからない状態ではその当時からありましたですね。
鏑木:両方お好きだったんですね。
平井:そういうことでしたね。ですから、一方で『BBBB』を読んだりしていたんですけれど。今、思い返しても美術の何を読んでいたか、ちょっと記憶に残っていませんけれどね。ただピカソについては美術部の1年下の下級生がいまして、それが理屈っぽい人でよく論じ合ったんです。それが九州へ転校しちゃって、ピカソ論をハガキで書きながら長い間交換した覚えがありましたね。
粟田:文通されたんですね。
平井:ええ。何を論じたか、ちょっと忘れましたけども。あの頃、ピカソの仕事は雑誌で紹介されましたからね。複製ですけれど、それについて論じたことはありますよね。部活ではわりと絵を一生懸命描いたことはよく覚えています。文字通り消えかかっていた美術部を、桜井君と私どもと下級生たちと一緒になって、かなり活発な部にした自負はありますけど。それがまだ続いていましてね。今もってOBたちが毎年展覧会をやっています。
下級生に芸術院会員になった山本文彦なんかがいます。二紀会ですか。これは高校では一緒じゃなかった。私どもが出てから、しばらくして入ったはずですね。ただ私は夏休みに帰った時に、高校に潜り込みましてね。美術部員と一緒になってデッサンをやったんですよ。その時に山本君がいたんです。ハンサムな少年で、利口そうな子だなっていう。ものすごくデッサンがうまくてね。それが印象に残っています。
鏑木:お付き合いは今でも続いているんですね。
平井:そうですね。今でも続いていましてね。OBたちの集まりが、岳澄会と言ったかな。それは私どもが作ったんですけど、私は今は抜けています。というのは、かなり労力奉仕しなきゃならんということがあって、ちょっと付いていけない面が出てきましてね。立派な会組織になっていますから。ただ、みなさんが(展覧会を)やる時には敬意を表して、毎年行っています。
ですから美術に関してはそういうことだけで、そんなに特別な環境ではなかったと思うんですよね。一生懸命やったという思いがあるだけです。ただ佐久にいた間には、近くに有島生馬がいました。それから東郷青児。それから奥村土牛、野口弥太郎。そういう方が疎開の延長でいましたね。
粟田:錚々たる人たちですね(笑)。
平井:私はほとんど付き合いませんでしたけどね。桜井君は奥村さんに一生懸命コンタクトを取って、親しくしていたようですけれどね。私はそういうことで、絵描きとして積極的にやろうという気持ちが恐らくなかったんでしょうね。ただ加藤陽さんに関しては、いろいろと恩恵を受けました。
粟田:それで上京されて大学に入られるわけですね。早稲田では4年間。
平井:普通は4年間ですけど、私は結核をやりましてね。
粟田:そうですか。
平井:かなり長い間、それもくり返し休学しています。
粟田:そうなんですね。
平井:ですから4年以上ですね。その間、通院で田舎に帰っていたということと、東京へ出てきても学校へ行かないで、遊んでいたっていうことはあったと思います。遊んでいたっていうのは、要するにどっちつかずの体でね。休学手続きしていましたけど、学校へ戻らないで、何年かしてまた学校へ戻ってということですね。
ある時期、治療しながら戻って、私は民科へ入りました。民科っていうのは、民主主義科学者協会。
粟田:ええ。
平井:民科の芸術部会に入っていまして、そこで読書会などやったり、デモに参加したり。それからメーデー事件ですか。
粟田:1952年の。
平井:ええ。あれに参加しましたから。
粟田:そうですか。
平井:這う這うの体で逃げましたけれど。
鏑木:大学入学は何年になりますか。
平井:えっと、何年かな。高校を卒業してから1年遅れましたから。卒業したのは(昭和)25年かな、あとで訂正しますけど。(入学は)昭和26年だったと思いますね。
粟田:1951年ですね。
平井:早稲田を受ける前に、家で受験勉強みたいなことをしていたわけですが、その間に代用教員をやっています。美術の先生。父親が教師をやっていたもんですから、お前の息子も手が空いていたら手伝ってもらいたいんだ、っていうことでね。いわゆる代用教員というかたちで、半年間かな。岸野中学というところで。あの頃は図工と言ったのかな。図工教員として絵を教えたんですね。
それは楽しかったんですよ。なぜかというとね、やっぱり教師っていいなっていうことをそこで初めて知りましてね。だから早稲田へ行くことについては、ちょっと迷ったんですね。教師をこのままやりたいし、文学ということで早稲田へ行きたいしということでね。結局、これもどっちつかずの気持ちで早稲田へ行くことになったんですけれどね。
僕は今でも教師をやっていた方が良かったな、というのがあるんですね。それは正直なところ。生涯を考えると、果たしてこれで良かったかな、というのがまだありましてね。むしろ田舎に骨を埋める気持ちで、普通の仕事をした方が世間のためにも良かったのかなという。これが、まだ心の奥深くに残っていますね。
粟田:大学時代は、民科でどういった活動をされていたんですか。
平井:民科で芸術部会です。それもやはり途中で病気を悪くしましたから、残念ながら退会しましたけれどね。翌々年だったか、休学から戻ってね、アマトゥールっていう組織があったんですよ。
粟田:アマトゥール。
平井:アマトゥール。アマチュアのことですね。フランス語でamateur、ですか。要するに美術のサークルですね。体がきついので絵でも描くかということで、そこへちょっと関わったんですけれど、そこも体調が続かず辞めたわけですね。だから文学部ではあったんですけども、その間にも気持ちの上では右往左往していたというのはあったと思うんです。早稲田はご承知のように文学の同人雑誌が盛んですけれど、そこへ参加するっていう気持ちはなくて、発病後でしたがむしろ民科の方でいろいろ読書会をやって。まぁ左翼ですけどね(笑)。そこで、早坂茂三さんは知っているでしょ。田中角栄さんの政策秘書ですか。あの方と一緒になりまして。上級生ですけど、彼は政治部会だったと思います。政経部会って言ったかな。なかなかいい男で、活動面以外でいろいろ面倒を見ていただいた。
粟田:民科の芸術部会の活動としては、読書会がメインですか。
平井:そうですね、読書会が主だったですね。あとはデモに行くとかね。いわゆる早大事件など、校内は騒がしかった。読書会もほとんど『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(N.オストロフスキー)とか、それからボルシェビキの歴史ですよ。『ソビエト共産党史』とかね。アグネス・スメドレー(Agnes Smedley)の『女一人大地を行く』とかね。それから、蔵原惟人たち日本共産党の文化イデオローグものとか、プロレタリア文学とかね。かといって日共とは関係なかった。特に読まされたのは、石母田正さんの『歴史と民族の発見』。これはよく読み合いましたね。要するに左翼ものですよ。マルクスの『資本論』ももちろん読まされましたが、これは自己学習、第1巻も中途半端で、必要上ちょこちょこ当たった程度。あと仏文だったから、当時評判のカミュの『レトランジェ(L’Étranger)』ですか。『異邦人』ですね。あれを有志と原文で読み合わせしたのを覚えていますね。仏文の人もいましたからね。そんなことをやっていましたね。美術はなかったです、ええ。グループ活動としては民科が最も充実していて思い出も深いですね。
それで僕は、卒論はディドロです。それは民科の流れから入ってきましたね。だから『絵画論』じゃないですよ(笑)。主任の先生が演劇論の先生だったもんだからね。ディドロなら演劇をやってくれっておっしゃるから、じゃあ演劇論を調べましょうってことで、ディドロについてだったら何でもいいから、点はあげるからってことで。
鏑木:先生は何という方ですか。
平井:斎藤一寛(さいとう・かずひろ)先生。フランス演劇史の専門家ですね。
鏑木:結核で休学を余儀なくされたり、しばらく学校に出られなかった時期も含めて、何年くらいで卒業されたんですか。
平井:休学と留年とりまぜて8年かかっています。ですから、ほとんど辞めようかなと思ったんだけれども、親が頑張って出ておかなきゃダメだっていうことで、東京から田舎に引き返したり、また東京へ出たりしてね。私、まだ(体調不良が)残っているんですよ。
鏑木:そうですか。大変ですね。
平井:肺のリンパ腺炎から腹膜炎をやりましてね。要するに粟粒結核ですか。全身に回るんですよ。よく脳膜炎をやらなかった、ということですけども。かなり長い間苦しみましてね。その前に根本的に直せばいいんだけど、入院をちょっとしただけで出ちゃうというかたちが続いたもんですから。田舎の医者でね。出てくるとまた再発するわけですよ。それでまた帰って来たりということを繰り返しましてね。今でも時々、調子が悪くなるんですよ。無理がきかなくなりましてね。老人性結核というんじゃないけれども、無理をするとどこかリンパ腺が腫れてきたり。こちらの専門医にかかると、これはもうしょうがないんだと言われましてね。大事を取るしかないと。
だから最後の2年ですね。一応、通学に耐えられるからということで出てきましてね。その間に取り残した単位をまとめて取って、ようやく卒業ということになりましたね。出席を取る時に松浪信三郎先生に「8年生がいるよ」なんて言われたり(笑)。「ああ、君か」なんて言われたり。そんな恥ずかしい思いをしましたけれど、ともかく卒業はできましたね。今でもね、時々夢の中で「ああ、また授業サボっちゃって(単位を)取れなかったな」っていう、ハッと目が覚めることがありますね。
鏑木:それは大変でしたね。
平井:その間に原稿を書いたり、いろいろとアルバイトをはさんでやっていましたけれどね。その間に考えたことが、懸賞論文に繋がったかなということはあるんです。『美術批評』もその間に読みました。あれは全部読んでいるはずです。引っ越しで、家族が処分しちゃった。
それから、デザインスクールにも通いました。恐らくこのままだと就職できないということで、代々木に日本デザイン専門学校ってありますでしょう。今も続いているらしいですけど。だから早稲田の後に親戚筋のオンワード樫山でアルバイトさせてもらうなどして、そこへ2年間通いました。卒業してからしばらく、それで食べましたね。ちなみに若江漢字さんもそこの卒業生です。
鏑木:デザインの専門学校は、デザインのお仕事をするための勉強ですか。
平井:そう。要するに自立というか、勤めないでもなんとか食えるかな、っていうことでね。
粟田:フリーのデザイナーとして。
平井:うん。それが狙いだったと思うんですけどね。結核をやっていますからね、教師もダメだろうということで。そういう意味では、就職活動に関しては万事絶望的だったんですね。だから手に職をつけて自立するしかないかな、と親との話し合いの中で、自分自身も考えを固めていってね。それもちょっと苦しかったんですけどね。抗生物質はずっと増悪ごとに続いていましたし。だからこの歳まで生きていること自体、不思議に思っていましてね。……その頃は、相対的に調子が良かったんですよ。ですからダイヤモンド社は、デザイン関係で入っているんです。
粟田:ここ(『デザイン批評』第3号、1967年6月)にも「ダイヤモンド・エージェンシー制作スタッフ」と書いてありますね。
平井:内属組織です。その頃のダイヤモンド社の広告は、かなり私がタッチしているんですよね。ダイヤモンド社関係の新聞広告。
粟田:いわゆるグラフィックデザイン。
平井:グラフィックですね。だから今でも日経新聞を開くとダイヤモンド社の広告がありますけれど、その当時はほとんど私が制作担当でやっていたんです。お陰様で、かなり稼げましたけどね(笑)。
粟田:就職というかたちなんですか。
平井:こういう体ですからね、就職は無理ですから嘱託ですね。いわゆる社員じゃないんです。嘱託社員で。だからボーナスは頂けませんでした。
鏑木:じゃあ立場としては嘱託で、デザイナーとして。
平井:デザイナーと言ったか、ディレクターと言ったかちょっとわかりませんけれど、要するに専門職ですね。そういうかたちで契約を頂きまして、そこでもっぱら仕事本位でやってきましたね。
鏑木:今は広告のお仕事はわりと分業されていると思いますが、当時はコピーもデザインもすべてひとりでされていたんですか。
平井:そうですね。私はコピーは作りませんでしたけれど、キャッチフレーズを考えたりということはありました。ちゃんとしたディレクターがいたから、デザイン方針を出すわけですよ。それを私が聞いてプランを考えたり、実際に自分で作ったんです。あの頃はご承知のようにコンピュータはございませんから、写植ですね。自分でデザインして、写植を頼んで。デザインスクールは役に立ったんですよ。自分でどんどん作っちゃったんです(笑)。だからわりと評判が良くて、契約がずっと続いたんですよ。その間に毎日か朝日か主催ははっきりしないんですが、チームとして新聞広告部門の何か、年度賞を頂いたことがあってね。
鏑木:それは1年おきに契約更新するんですか。
平井:そうです。毎年ですね。
鏑木:じゃあこの頃のダイヤモンド社の新聞広告を見ると、平井さんのデザインしたものが見られるんですね。
平井:60年代から70年代には日経新聞の毎週月曜朝刊、全面広告を作っています。全面が雑誌と書籍のPRです。方針は上から決められていて、あとは自分でやっちゃったことも多いんですよ(笑)。
粟田:そうすると、デザインのお仕事はかなり長くされていたんですか。
平井:長いです。細かく覚えていないんだけど、かなり長いです。
鏑木:卒業されてすぐですか。
平井:そうですね。デザインスクールを出て、しばらく見習いをしてすぐそこを紹介してもらって。
粟田:60年代の始めから。
平井:半ばですね。
粟田:今、70年代もというお話でしたけど。ずっと続けられて。
平井:そうですね。70年代の、何だったかな。えっとね、66年で懸賞論文になってね……ちょっと年代は忘れていますけどね。かなり長く続いているんですよ。
粟田:ちょっと先の話になりますけど『デザイン批評』の最終号(第12号、1970年11月)に、平井さんのプロフィールが掲載されていまして。
鏑木:ここで平井さんが「さるエージェンシーを辞めひとりでデザインの仕事をつづけるかたわら、美術批評の筆を執っている」と書かれています。
平井:ああ、恐らくその頃『スキージャーナル』にも関わり出したと思うんですよ。
粟田:『スキージャーナル』。
平井:スキージャーナル(株式会)社。ダイヤモンド社も続けましたけど、スキージャーナル社にも関わり出したんです。要するにデザイン事務所、じゃないんだけどね。私個人の仕事。名前も考えたこともあるんですよ。アトリエにしようか工房にしようか、とか。ただ、その頃は文章も何とか書きながらやっていたんですね。しばらくしてから短大に勤め出したということで、その間も続けていました。注文があったもんですから。
粟田・鏑木:売れっ子だったんですね(笑)。
平井:いやー。当初は短大も非常勤だから、一家は苦しい。ようやく『美術手帖』からも注文がありましてね。
粟田:それはデザインで、ですか。
平井:いや、そうじゃなくて(文章のこと)。『三彩』に書いている頃は、全く相手にされなかった。ほとんどデザイン稼業で生活をつないだわけです。
鏑木:忙しかったでしょうね。
平井:だから、れっきとした書き手じゃないのですね。今は学芸員が多かったり、研究者が多いでしょう。私の場合は本当に脇から、そういったことで入っていったわけですよ。だから私はそういう意味では常々、アマチュアだということを言っているんです。
粟田:先程のサークルも「アマトゥール」でしたね。
平井:それは、建築の人たちが多かったと思いますよ(笑)。
鏑木:少し話が戻りますけど、アマトゥールはどういうサークルだったんですか。
平井:要するに絵を描いたり、絵を論じたりというサークルですね。時々、大隈講堂の片隅で展覧会をやっていました。
鏑木:それは平井さんも出品されたんですか。
平井:私はしていません。記憶も消えていて短い間ですね。『カイエ・ダール(Cahiers d’Art)』を読むような建築科の人が多かったんですよ。建築科の人も絵を描きますからね。
鏑木:平井さんは早稲田で、いろんな学科のお友だちがいらしたんですね。
平井:僕は病気をしてましたでしょう。友だちができなかったんですね。学校に戻っても、教室には知らない人たちだけですよ。そういう意味では、あんまり楽しい思い出はないんですよ。大学図書館が逃げ場で、そこでは至福でした。身を引く感じでずっと過ごしてきましたから、友だちを作るということもないし。勉強も中途半端だったものですからね、そういう意味での挫折感というかな。これはずっと持ち越してきましたね。今でもそうですけれど。極めて偏頗な出自ですね。
だから考えてみるとね、今でもこういう風に細々と書いていること自体が不思議なんですよ。そういうことから言うと、対照的な岡田(隆彦)さんが一緒に出ましたから(注:岡田隆彦は平井がデビューした第5回芸術評論募集にて「氾濫するタマシイの邦:イヴ・タンギーの難破譚につき」で第一席)。
粟田:平井さんが『みづゑ』60周年記念の芸術評論募集へ応募されようと思ったいきさつは。
平井:文学か美術かということはいつもありまして。病気の間に勝手に読んだりして、絵を描くんだったらこういう絵を描きたいな、という気持ちとね。それからこちらとしては、美術をさしあたりどう捉えようかということ。ぼちぼち読んでもきましたから、段々思案が固まってくるんですよね。その時にこういう募集がありましたから、どういう風に実践したらいいかということをこの際考えてみようかな、ということでこれを書いたんですよ。だからそういう意味では、思いつきですよね。かなり思いつきで書いているんですよ。いろいろ研究して、この上に立ってということではなくて、私だったらこうしようというね。ある意味で自己主張的な仕事だったと思います。
お話したような生活を送ってきましたから、これをメモしたのはほとんど喫茶店ですね。もちろん家に帰った時でもですけど。喫茶店でメモして、それをあれこれつなげてね。それでこれを一気に書いた覚えがありますね。
鏑木:それはデザインのお仕事をされながらですか。
平井:そうです。その間、デザインの仕事をしたり。暮らしでかなり忙しかったもんですから、その合間を見ながらね。
鏑木:学校を卒業されてから「私の主題」を書かれるまでの間に何年間かあると思うんですけれども、その間も美術雑誌を読まれていましたか。(コピーを見ながら)これは『みづゑ』に評論募集が出た時の広告(第723号、1965年5月)です。
平井:ええ、これは読みましたね。だから美術雑誌は断片的に読んでいました。これを見て応募したわけですよ。懐かしいね、これ(笑)。ですから、何て言ったらいいかな。落ちこぼれている時に恐らく何かこう、書きたかったんでしょうね。それで喫茶店に行ったりして暇をみて書いた。そういったものが書き溜まってきて、じゃあこれをまとめて出そうかな、ということになったと思うんです。
鏑木:その前からも雑誌には書かれたことはあったんですか。
平井:それは、ありません。
鏑木:ご自分でノートに文章を書かれたり。
平井:僕は岡田さんとは全く違うんですね。岡田さんはもう早くから、僕よりずっと年下ですけど書いていらして、瀧口修造さんとも昵懇の仲と入選時に聞いています。それから慶應で吉増剛造あたりと活動していましたから、そういう意味での早熟さがありますね。私は奥手も奥手。あまりに遅れてきましたからね(笑)。編集者に「あちらはエリートですから」って言われたことを、今でもはっきり覚えているんです。「そりゃそうだな」と思いましたけどね。だからこの文章を書くにあたっても、創作めいたことは試みてきましたが、あれこれ美術について書いてきたということはあまりないんです。そういう意味では、今の学芸員の人たちとはかなり違うんですよね。彼らはちゃんと勉強して積み上げを経てくるわけです。岡田さんは初めからそういうおつもりのようだったし、それはかなり違うと思うんですよね。中村さんもこの時、一緒に出てこられたわけですけれど(注:中村英樹は「両義的イメージの予感」で佳作)。
粟田:中村英樹さん。
平井:ええ。中村さんももう既に、専門志向であったようですし。私の場合は本当に、自分の問題をこういう風に。「私の主題」ですからね、極私的なことから出発して。今でもそうですけれども。そういうことでは、初めからこうだったんですね。
粟田:エピグラフにジャスパー・ジョーンズの言葉が引用されています。図版もジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグが並んでいるんですが。
平井:……(「私の主題」を見ながら)僕はその当時のものを読んで、多少は頭にあったんですけれどね。これは、針生(一郎)さんに言われたんですよ。『美術手帖』に載せるにあたって「ポップのことに触れているんだけども、アメリカの美術についてもう少し詳しく触れた方がいいんじゃないの」って言われたんです。
粟田:応募して……
平井:入選後。皆さんお揃いの伝達会合の時だったと思います。針生さんがこれを読まれましてね。「これを推薦したけれども、自分としてはそういうことを書き入れた方が説得力があると思うね」っていうことを言われたんですよ。それで僕はね、あんまりよく知らないんだけども、よく知らないし、まぁ当面の事としては興味もないんだけどってことで、恐らく東野(芳明)さん辺りを読んだんじゃないかな。それで取って付けたようなことを書いたと思うんですよ。
粟田:なるほど。じゃあ掲載するにあたって、ポップ・アートの部分を書き足して。
平井:そうですね。ちょっと触れるんだったら、もっと触れて説得力を持たせろということを針生さんに言われたんです。『美術手帖』には載せるけれども、少しそういうことをやった方がいいっていうことでした。ちょっと困ったなと思ったの、その時(笑)。こちらの問題で精一杯だったから。
鏑木:そうですか(笑)。応募された時から少し手を入れたものが掲載されているんでしょうか。
平井:手を入れたというか、恐らくそれだけですね。入選決定の後、載せるに際してはそれをちょっと付け加えた方がいいよ、5~6行でも加えた方がいいよ、ということを言われて。
鏑木:(「私の主題」の冒頭を指しながら)じゃあ本当にこの辺りくらいですか。
平井:いやぁ、加えた箇所はわからない。
粟田:瀧口さんの選考結果発表を見ると「ジョーンズの引用句があるが、むしろ今日の芸術のそうした異質の要素を実証的にもっと掘りさげることも一方法だったろう」と書いてありますね。
平井:じゃあ、一応齧って入れたんだ。針生さんにも言われたんですよ。もっとポップのことを書けって(笑)。アメリカのことを書けというね。恐らく、瀧口先生の指摘が針生さんの頭にあったのかな。僕を支持したわけですから、彼にも責任があるわけで、たぶんそういうことをおっしゃったと思うんですよね。載せるについては、そういうことをした方がいいよということを言われましてね。それでちょっと、5~6行書いたのかな。それで持って行って、じゃあしょうがないね、ということで『美術手帖』の編集に回してもらったのを覚えていますけどね。針生さんが土方定一さんと会議中の所まで編集者の指示で持って行って、「これでよろしいでしょうか」とおうかがいを立てた覚えがあります。
粟田:この1回前の1席が宮川淳の「アンフォルメル以後」(第4回、1963年)です。平井さんはここで、宮川さんのジェストとマチエールの弁証法というものを、平井さんなりに解釈されて書かれています。宮川さんのテキストのことやご自分のテキストのことで、覚えていらっしゃることなどはありますか。平井さんのテキストの言葉を借りると、「ジェストとマチエール」に対して「テーマとマチエール」、特に「主題」ということをおっしゃっていますが。
平井:宮川さんは要するに、主題として物事の表現とか表象ということの方に単純に行ってしまうのを、元々拒否していたわけですよね。むしろアンフォルメルについては、例の媒材の物質性というかな。そちらの方のリアルな状態自体を一応頭に入れていますね。それを踏まえて美術を考えないと、習慣的な表現、表象でしかないんだ、ということを言っていると思うんですよね。つまり、メディアそのものがそのまま内容の表現に結びつくかというと、そうじゃないよと。物質条件の中で物事を指し示す絵画の可能性というのはあるんで、その辺りのことをアンフォルメルっていうのははっきりと言ったんだから。それを心情とか、ある意味表現の内容伝達に結びつけるっていうのは、いけないんじゃないか、と彼はたしなめていると思うんです。瀬木(慎一)さんはそれを全然無視しちゃって、アンフォルメルっていうのは心情の表現のように持っていったわけですよね。要するに素材主義というかな。素材の新しい感覚性というかな。そちらの方に訴える表現美学ということに持っていっちゃっているわけだけど、そうじゃないよと。もっと即物的な絵画の可能性というのを踏まえないと。
今でこそ抽象表現主義というのはポピュラーになっちゃいましたけど、ああいうタブローの中の平面性という問題をはっきりと認識することについてはアンフォルメルの問題も(内容)表現の方へ持っていくんじゃなくて、平面上の媒材を通した別の可能性の方の発覚を頭に入れておかないと、絵画問題というのはかなりいいかげんな表象問題になってしまうだろう、ということを言っていると思うんですよね。それを僕は当時あんまり理解はしていませんでしたけれども、僕はむしろそれを踏まえながら、むしろある種別の表現の方に持っていっているんですよ。それを確か、ジェストとマチエールを踏まえるんですけども、やはり絵画は絵画だから、ある何かの表象が可能でない限りは、美術として成り立たないのではないかということがあったんですよね。
ただ、僕は素材主義には持っていきたくない。絵の具の中のマチエールの内面性みたいな、いろいろ深く考えますでしょう。精神性に結びつけてね。そういうことはしたくないと。その点は僕も宮川さんと同じかもしれないですけど、むしろ、なんて言ったらいいかな。形とか色の表現性という、それ自体を広げるのが主題として可能ではないか。それはもっとポジティブに捉えた方がいいかなということで、私の主題としてはこういうことをやりますよ、ということを私風に書いたと思うんですよね。
この前(松濤美術館での個展を)見ましたけれど、頭の中には岡本信治郎があったんですよ。漫画的絵画の、軽薄なね。ああいう図式的な絵も可能ではないかっていう、そういう考えもありましてね。精神主義や内面主義じゃなくて、表面だけの、絵面の中にも別の表現性はやはりあるんじゃないかということ。ポップもそれで考えたんですよ、私はね。だから恐らくジャスパー・ジョーンズを載せたというのは、そういう表面性みたいなことに対する私なりの勝手なアプローチがあって、だったらこういう主題でいこうかということを書いたわけですよね。宮川さんはもっと根本的なことを考えていたと思うんですよ。メディア自体の可能性みたいなことをね。マチエールのことも考えて。メディアって言葉は使っていませんけど。僕はそこまで読み取れていなかったということが、今考えるとあったと思うんですよね。
粟田:針生さんの評を読みますと「宮川淳氏の「ジェスト(行為)とマチエールの弁証法」にたいする批判を出発点としている。筆者は、この理論のうちにひとつの袋小路がひそむことを指摘し、それにたいして主題の概念を再提起しようとする」というように評しています。ただし「今日における主題という概念を、いわゆるテーマ主義とは一線を画した形で提起することは、だれにとっても容易ではない」と。
平井:恐らく針生さんも、宮川さんのそういう視点というのは深く考えなかったところがあるんだと思うんですね。針生さんの行き方としては、彼は社会派ですからね。別様のテーマ性の方にはもともと関心を寄せていらしたと思うんですよ。そういう彼の戦略性があったと思うんですけどね。
粟田:なるほど。
平井:私の方はそれもそうですけども、むしろ軽薄な絵画というかな。例えば岡本信治郎流のね。それがこれから絵画としても成り立ち得るということから始まっているんですよね。僕はその前はわりとシュルレアリスムと社会主義リアリズムみたいなものを一緒に考えていましたね。そういう、つまり戦後美術のああいうモードです。
鏑木:ああ。
平井:それをちょっと受け入れていて、でもああいうのもちょっとしんどいなというのがありましてね。それからもうひとつは、桜井くんと一緒にやってきましたからね。桜井寛ね。彼がいたからよく見たけれど、独立っていうのはひとつの重厚な心情主義的なところがあったでしょう。絵の具の厚さに精神性が出てくるんだ、みたいなね。厚さに精神性を見るような見方ってありますよね。ああいうのも嫌だったんですよ。だから「私の主題」っていうのは、マチエールと言葉とのやり取りの間ではむしろ軽薄な平面性の方へ持って行って、物事を指し示すような行き方がいいのかなということだったと思うんですよね。
宮川さんはやっぱり、ポップを認めていますからね。宮川さんの頭の中には、絵画の根本的な成り立ちには物性も必要なんだけれども、恐らくもう抽象表現主義も踏まえていたと思うんですよね。だから平面性の中に事柄を持っていくという、ひとつの限定性かな。そちらの方に美術としての可能性を見ていくという視点もあったと思うんですよね。だから精神主義とは全く違うんで、その辺りのことを針生さんは恐らく精神主義とは違うけれども、来るべきテーマ性ということの方に、表現ですよ、一種のね。そのことの方にはっきり持っていきたかったのかな、とも思うんですけどね。僕は「表現」という言葉はあまり使いたくなかったんです。ずっと今でもそうで、物事を「指し示す(指示)」という言葉の方が、現代のパラダイムにはいいかなということがありまして。そういう考え方の違いも、僕と針生さんの間にあると思うんですよね。
粟田:民科のご活動もされていて、先程いわゆる左翼ともおっしゃっていました。この頃はそれから10年くらい経ちますけれども、平井さんの中で民科やプロレタリアに対する関心というのはどうだったんでしょう。
平井:要するに戦後美術と同じですよ。社会的抵抗というかな、社会主義リアリズムというか。そちらの方に持っていくのもいいんだけれども、その前にシュルレアリスムという問題がありますからね。単なるリアリズムじゃなくて、シュルの方からそういう問題をちゃんと引き受けられるんじゃないかと。絵画として成り立つんじゃないかという思いがありましてね。僕は絵を描くんだったら、前衛美術会ってあるでしょう。あそこへ参加する気持ちがあったんです。ですから、中村宏ですね。井手則雄さんとは、そんなことで話し合ったこともあります。……だからそちらの方だとかね、ポップとか軽薄っていうアメリカ流のね、あの狭間で僕は揺れていたんですよね。
粟田:なるほど。
平井:宮川さんの考え方もある程度わかりますし、しかし何かやはり表現ということもしなきゃならないわけですし。その間をどういうやり方で行ったらいいのかなというと例えば、岡本信治郎みたいなものがあるんじゃないかという。洒脱な社会性もありますからね。そういう自分なりの主題を、この辺りで見つけていこうかなということで書いていたわけですね。だから宮川さんの問題や宮川さん批判じゃなくて、宮川さんとはちょっと違うな、ということを書いたんですけれどね。宮川さんにしてみれば恐らく「あいつ、全然わかってないよ」と。ここに書いたことはわかってないな、ということで歯牙にも掛けなかったと思いますけどね。曲解誤解、あるいは浅薄っていうかな。恐らく問題にもしてなかったと思うし。
粟田:宮川さんとはお会いになっても、そんなに話はされなかったんですか。
平井:うん。向こうが相手にしなかったでしょう。私もほとんど話しかけたりしなかったし。たまに顔を合わせたら、挨拶ぐらいはしましたけどね。
粟田:じゃあこの「私の主題」についても、特に宮川さんとは。
平井:いやぁ、それはありません(笑)。そんなの相手にしませんよ、恐らく。
鏑木:当時、美術関係のテキストでよく読まれていたものはありますか。平井さんがこれを書かれる前とか。
平井:うーん、特にこれっていうのはないんだけどね。
鏑木:じゃあ雑誌はご覧になっていたけど、っていう。
平井:そうですね。あの頃の雑誌を読み散らしていたんじゃないですか。『美術批評』は読んでいましたけれど。そこ(「私の主題」)で何か参照するっていうのはほとんどなかったと思いますね。誰を超えようとかね、誰かのものをもう少し発展させようっていうのは全くなかったですね。まさに「私(の主題)」ですね。喫茶店で頭をひねりながらメモしていましたから、ほとんどこれはいろいろと読み散らかした上での、私の覚書ですよね。
粟田:「表現行為のオートマチスムの魔圏から脱出し、オブジェ信仰の悪循環を断ち切るためには、テーマとマチエールとの弁証法に、絵画の成立過程をみることがまず必要だ」(「私の主題」『美術手帖』第263号、1966年2月、p.96)と書いていますね。
平井:恐らくメディア帰還でしょうね。メディア回帰というのかな。そういうことだと思いますよ。シュルレアリスムの援用でイメージをいろいろ紡ぎ出す、あれには僕はもう急速に辟易し始めていましたから。それをやるんだったらリアリズムと一緒になったような、例の前衛の方がいいかなという気持ちがちょっとあって。しかも画面の肌合いとしてもっとそれをドライなかたちでやりたいなというのがあったと思うんですね。
粟田:もうひとつ、このテキストは後半にブレヒトの演劇論の話が出てきます。先程、卒論がディドロの演劇だということでしたが、参照したテキストでいうと演劇論の影響があるんですか。
平井:そうですね、スタニスラフスキ・システムってありますでしょう。あれをよく読んでいましたね。例のブレヒトの自己異化に通ずるところがあると思うんですけれど、自分の行為とか、肉体まで客体化するというかな。そういう唯物的な考えはあったと思うんですよね。その前に、条件反射学の林髞(はやし・たかし)という人がいたでしょう。木々高太郎というミステリ作家でもありますね。慶應の先生だったかな(『条件反射学方法論』1940年)。脳の構造を唯物的に捉えたパブロフの条件反射学っていうのがそうですね。そういうのにやたらと惹かれていましてね。ブレヒト指向なんかも、その辺りから出てきた。スタニスラフスキ・システムもそうでした。そういう意味での物質性に対する興味っていうのは、今でも続いているんですけどね(笑)。
そういうことから、今までの美術のあり方に距離を置いて考えてみようかなっていうこともあったと思うんですよね。恐らく、安部公房なんかも影響したかもしれません。安部公房、それから沙漠指向の花田清輝かな。やっぱりあの頃、我々の年代の人たちはね。恐らく中原佑介もそうですし。花田清輝の影響が大きかったと思いますよ、吉本隆明よりはね。いや、私にはディドロがそうだったんですよ。ディドロの「ラモーの甥」なんていうのは本当に唯物論的でね。ドライでおかしくて、乾いた感じでおもしろいんですけどね。
鏑木:ちなみに『デザイン批評』の第3号(1967年6月)、「私の主題」を書かれた少し後に書かれた「いっぽんどっこの唄」。
平井:(テキストのコピーを見ながら)……ああ、水前寺清子さん(笑)。こういうことを書いていたんですよね。今、考えると恥ずかしいですけどね。
鏑木:この時の平井さんのプロフィールには、平井さんが個展を2回開いたことや、詩集『予感』を出されたことが書かれています。
平井:ああ、これは言おうと思っていたの。「私の主題」に結びついているんですよ。銀座に中央画廊っていうのがありましてね。今はもうなくなったのかな。李禹煥もやったそうですけど、私は中央画廊で2回個展をやっています。
鏑木:そうなんですね。
平井:はい。軽薄な絵を描きましてね。
鏑木:それは「私の主題」と同時期に。
平井:同時です。「私の主題」のすぐ後にやっていますから。並行しています。
鏑木:それは絵画ですか。
平井:絵画です。
鏑木:じゃあその時は、文章を書いたり絵を描いたり。
平井:むしろ「私の主題」ですからね。批評家になるっていう気はなかったんですね。
鏑木:そうなんですか(笑)。
平井:(「私の主題」では)絵を描くんだったらこれをやろう、ということを書いたんですよ。いろんなことを考えながらね。
鏑木:じゃあいろいろ探っていらしたというか。
平井:そうですね。だから本当に責任を持つんだったら李禹煥とか、菅木志雄みたいに制作者としても出ていたと思うんですよ。僕の方は書く方がおもしろくなっちゃったってこともあるんですけど(笑)。そちらの方はサボっていますけどね。言葉の罠です。本当はやるべきだったなぁと思うんですけどね。それはもう、ほとんどもうできませんけれども。まさにそうなんですよ。私が絵をやるんだったら、こういうことをやりたいっていうことを書いちゃったんですよ。
鏑木:じゃあ、その時は実践をされてもいた。
平井:そうですね。2回やっていますから。
鏑木:どんな作品だったんでしょうか。
平井:それはね、岡本信治郎が観に来ましたよ。
鏑木:わぁ、そうですか。
平井:ダイヤモンド社に岡本さんを間接的に知っている人がいましてね。「岡本に見てもらえよ」っていうから、岡本さんへ誰かが紹介したのかな。あるいはその頃、岡本さんと針生さんは仲が良かったのかな。わからないけども。針生さんと岡本さんは私の論文についていろいろと話をしたことがあるみたいですね。僕が案内を出したのかどうかは覚えていないですけれども、彼が観に来ているんですね。それで、感想を聞いたりしたことはあります。ちょっとバツの悪い顔をしていましたね。困ったような。実は岡本さんの後を行きたいんだっていうことを、言っていますからね。「こんなんじゃ困るよ」っていうことかなと思ったんですよ(笑)。
鏑木:でも岡本さんも、もし何も感じなかったら、バツの悪い顔をされることもなかったかもしれません。
平井:ええ、だから困ったなというか(笑)。これはちょっと言いようがないというかね、そういうことがあったんじゃないでしょうか。
鏑木:「こういう人が出てきて、これからどうしよう」とか。
平井:恐らく針生さんと話し合ったというのは、それもあったかもしれないですね。「懸賞でこういう人が出てきたよ」というのを針生さんと話して、たまたま僕がそんなことをやり出したもんだから観に来たのかね。そういう意味ではね、勢いよく旗を掲げたはいいけれども、後はどうなったのっていうことがあると思うんですよ。私に関してはね。
鏑木:あとは同時期に『予感』(東洋美術出版部、1966年)という詩集を出されていたそうですね。
平井:ああ、これね。これはその当時、出したと思います。
鏑木:すみません、詩集は拝見できていないんです。
平井:お見せするようなもんじゃないですけど(笑)。もう恥ずかしくて、押入れの中にしまってある。
鏑木:そうなんですか。でも同時期に個展もされて詩集も出されて「私の主題」も書かれて。
平井:そうですね。だから病気をしていて、やっぱり鬱屈したんでしょうね。一気になんとかっていう気持ちがあったかもしれませんね。この間もちょっと苦しんでいましたから。時々、発病するもんですから。
鏑木:そうだったんですね。じゃあいろいろと探りながらも批評の方に進まれるという。
平井:そうですね。注文が増えちゃったもんですからね。針生さんがね、ある時点で『三彩』に書かせたらどうかって、人が不足しているみたいだからって。そういうことを担当から言われましてね。(展評を始めるのは)68年か69年かな。
鏑木:69年ですね。69年の7月号から。
平井:そうですか。ああ、よく調べてくださったなぁ。
鏑木:前任は(田村画廊の)山岸信郎さんで、この号から平井さんへ変わっているんですが、元は針生さんのご紹介ということなんですか。
平井:針生さんの紹介だと、編集部から言われたと思います。ええ。
鏑木:山岸さんとバトンタッチされたっていう感じではなく。
平井:ええ、それはありません。針生さんだったんですね。じゃあ勉強させてもらいます、っていうことで始めたんですよ。その辺りから始めて、結局私の場合は現代美術の学習という感じだったんですね。現代美術っていうのを全くわかってなかったし、お付き合いも全くなかったし。ポッと出のわけのわからん、デザインで食っているのが出てきて、ってことだったと思うんですよね。岡田さんはもうとっくにそういうことで書き始めていましたから。そういう意味では、おずおずと書き出したわけですよね。
これね、僕は今、思うんだけど、観ながらいろいろと考えなきゃならんわけでしょう。それが非常に勉強になったんですね。そのうちに段々わかりだして、お付き合いもできてということだったと思います。お付き合いも知れたもんですからね。第一、『三彩』なんていうのは読まなかったでしょう、皆さん。
鏑木:そうなんですか。
平井:書いてもらった本人が「え?書いてくれたの。ああ、そう」っていう感じだったからね(笑)。「そう、知らなかったな」って。で、本人が読んだかどうかはわかりませんけれど、そんな程度でしたね。だから本当に現代美術というのはこういうものか、ということを、実際に観ながら考えていたということだと思います。
鏑木:確かに『三彩』は日本画が中心ですね。
平井:そうですね。だから向こうにとってはどうでもいいんですよ(笑)。
鏑木:現代美術を積極的に取り上げる時期もありましたが、この頃は日本画に戻っている。
平井:そうでしたね。編集者次第でね。
鏑木:その中でも、展評には必ず現代美術を入れていた。
平井:そうでしたね。だから向こうにしてみれば、ただ入っていればいいわけですからね。これはずーっと続いたんですね。
鏑木:じゃあ書かれるにあたって、編集からの注文とかは。
平井:いやぁ、全然ございません。ただ書いてくれって。「いつまでにしてくれ」、「はい」って(笑)。
鏑木:これを観て来てください、とかそういうのはなく。お好きなものを。
平井:私が勝手に行って書くというかたちでね。現代美術だからいいよ、っていうことで(笑)。
鏑木:確かに、わりと自由に書かれているという印象を持ちました(笑)。
平井:いや、そうです(笑)。だからね、そういう意味では向こうもロクに見ませんから。だから理屈を前に並べちゃって、後はちょこちょこっと流すという(笑)。
鏑木:特に初期はエッセイを前半に書かれて、その後で展覧会について具体的に書いています。
平井:ずっとそうですよ(笑)。だから書かれる本人も「えっ」てなもんだと思う。だから本当に自由にやらせていただきました。向こうにとっちゃ、原稿を受け取ればいいよっていう。
鏑木:でも、実際にデザインのお仕事をされながら展覧会をたくさんご覧になって、展評を10年近く続けられています。
平井:(『三彩』は)8年やったと思う。その後『美術手帖』が続いたから、10年位やったのかな。
鏑木:ええ。大変なお仕事だったのではないかと思うのですが。
平井:そうですね。大変だったし、本当にわからないことだらけですからね。自分で考えなきゃいかんから。だからエッセイみたいのを先に書いちゃうわけですよ。「かくかくしかじか思います」っていうのをね(笑)。
鏑木:でも、それがおもしろいと思いました。
平井:そういうのがよく続いたから、恐らく私なりに現代美術像というのが自分で作り上げられたわけですよね。それでずっと続いてきたかたちが、今でも続いているっていうことですね。
だから皆さんのお役には立たないという感じでやってきましたからね。本当、脇役でやってきましたから。編集担当から聞いたんですが、後年には彦坂尚嘉さんがさすがにしびれを切らして、いい加減にもう平井を降ろせって談判してきたそうです。
鏑木:展評で平井さんが取り上げられたのは、今も活躍されている方たちが多いですけれど、特に印象に残っている展覧会や作家というのはありますか。
平井:私はやっぱり、いわゆるもの派ですね。(展評のコピーを見ながら)これは榎倉(康二)、高山(登)、藤井(博)ね。
鏑木:本当によく書かれていますよね。
平井:(コピーを見つつ)羽生さんは非常に残念ですが舞台から消えちゃいましたけどね。
粟田:羽生真さん。
平井:どうしてるかな……その周囲の人たちによく聞いてみるんですが。
粟田:当時、どんな感じで(展覧会を)観ていましたか。
平井:田村画廊が多かったと思いますよ。山岸信郎さんのところね。それから、ときわ画廊ね。そういうことを通して、皆さんと顔を合わせるということがありましたね。
鏑木:作家さんや田村画廊の山岸さんとは、かなりお付き合いがあったんでしょうか。
平井:山岸さんは、私の場合は one of them ですけどね。私もそのひとりとして、ちゃんと付き合っていただいたと思います。だからいろいろな面で感謝しています。
鏑木:ある時の展評(『三彩』253号、1970年1月)では、原口(典之)さんしか取り上げてない時があったり。
平井:え? ああ、他も一緒にやったのに(笑)。原口は油が好きでね、例の油槽をね。これには驚きました。
鏑木:70年のこの時は、随分印象に残られたのかなという書き方ですね。
平井:いやぁ、これは原口をやってくれっていうことがあったのかなぁ。これも『三彩』ですか。
鏑木:『三彩』です。
平井:時評的なこともありまして、絞っていいよということがあったと思うんですよ。これは田村画廊で観たやつですね(「原口典之個展 MECHANIC-EROS」田村画廊、1969年11月17日~23日)。榎倉さんも多いでしょ。高山さんも。そういう意味で、もの派ですね。関西系のもの派っていうのはそぐわなかったんですね。小清水(漸)も僕はそれほど見なかったね。あんまり好きじゃなかったし。写真の方に入っていった、誰だっけ。
粟田:野村(仁)さん。
平井:野村さんね。関西系の人は、僕の方が入っていけませんでしたね。
鏑木:展評で具体的に取り上げているわけではないですけれども、当時はやはり「人間と物質」展や万博の時期です。展評に入る前のエッセイの部分で、よく万博のことや「人間と物質」展に触れられています。
平井:それはやっていますね、状況的なことをね。『デザイン批評』でもあったと思うんですよ。それから「私の主題」もそうだったんですけれども、例の読売アンパンね。ああいう狂躁っていうかな。破壊主義的なものは、僕はあんまり好きじゃなくてね。なにかいかがわしい。ハイレッド・センターも含めて今や、大変な巨匠になっていますけれど(笑)。ネオ・ダダとかも含めてああいう、ラジカルなのはあんまり好きじゃなくてね。どうせやるんだったら、メディアに還ってやりなさいよ、っていうのがあったんですよ。結局はメディアに還るんじゃないかっていう。絵画の問題や彫刻の問題にいくんだよ、というのはずっとあったんですよ、頭の中に。ああいうのっていうのは文学でもできるし、社会学でもできるし。もっと他の分野でやればいいのになぁという。認識の追求としてね。なんで美術の中に引っ張り込んできてやるのかなということと、いろいろありましてね。その反発の意味もあって「私の主題」というのを書いたってこともあります。
そういう中で、平面でも彫刻でもなんでもいいんですけど、種別形式と僕は言っているんですけどね。各媒体の方に、まともに(その)可能性の中に還るしかないのに、と思っているところに、もの派が出てきたわけですよ。これって恐らく、アンフォルメルでやったような媒体の媒材条件っていうかな。それに対してまともに眼を向け出したな、という。やっぱり“もの”から始まって“もの”から“こと”を発展させていくんだよ、というね。まっとうな足がかりを、彼らは遠回りして見出そうとしているのかな、という。その気運というのかな。ひとつの素地みたいなものを、僕はそこで見ていたんだろうと思うんですよ。僕自身もすべてここから始まるなということで、まともに彼らの仕事にくっ付いていったということがあるんですね。そのうちに、彼らはやっぱりほら、絵に入っていきますよね。李禹煥にしても、板の上に傷を付けることから始まって絵に入っていく。菅木志雄は包装紙を折って、そこに絵の具をちょっと配すだけの、ものから絵に入っていく可能性を、彼はやっていたわけですよね。それから榎倉さんは例のしみですよね。ああいう風に発展していく素地みたいなことを、ものの中に見ていたと思う。もの自体と言いますけれどね。もの自体のひとつの様相の中に、平面なり彫刻になっていく素地を彼らは見ていたなと。ようやくああいう、アンデパンダン的な狂躁じゃなくてね。ああいうある意味でロマンチックな。ネオ・ダダなどはむしろ、壊すことに意味があって、それで美術を超えたというわけでしょう。だから所詮、美術は美術を超えられないよ、ということが僕の中にありましてね。そこに還っていく、ひとつの起点になるのがいわゆるもの派かなという風に、僕は今でもそう思っていますけれど。そういうことを、ちょっと感じていたんですよね。
その後に出てきた全共闘派(美共闘)がもの派をいろいろ言い出したけれど、彼らはそれに逆らいその上に立ってメディア回帰を探っていますからね。もの派というのは、その基線を引いたなという風に僕は思っているんですよ。だからメディア離れはしているんだけども、しかし離れることによってメディアの可能性を反転させて析出したなという、ひとつの重要な役割を彼らは持ってしまったなという。もの自体を示すということよりは、もの自体を示すことにおいて、ものを経てメディアに入っていく。メディアは物ですからね。その可能性の起点を彼らは見ていたかなという意味では、もの派っていうのは非常に重要な意味を含み持ってたし、僕が彼らと僅かでも付き合った時に、それを感じていたんですよね。恐らくそういうことで、彼らのことを一生懸命見ていたんだと思う。
鏑木:平井さんがそのように考えられていたことと……
平井:これほど明快じゃありませんよ、当時は(笑)。
鏑木:でも当時の若い作家たちの活動のしかたが共鳴したというか。やっとこういう表現が出てきたということを感じられた。
平井:そうですね。ものをほったらかすんじゃなくてね。ものを持ってきて、ちょっと刻んでみようか、というところから始まったわけですよ。置いてみようか、とかね。組み合わせてみようかってことでしょう。今までと違ったものだけど、しかしこれってひとつの表現だと僕は思うんですよ。ああいうものの様相というかな。この様相を見てくださいよ、と。ものがそこに取り出されるだけでも、可能性があるんだよということを、彼らはちゃんと言ったわけですからね。ふたつものを持って来ただけでも、そこに何か発信させる機縁があるんだよ、ということを彼らは言ったわけですけれども。まさにこれはメディアなんですよね。ものを通す。ものの中に何かを見る。そこから恐らく絵画に分かれていくわけですし、彫刻に分かれていくわけですからね。そういった条件で。恐らくダダから次の段階といえばもう、それしかないわけですよ。ものをもう一度見直すということをね。そこかな、と僕は思ったんですよね。だから僕が60年代の読売アンパンの混乱というかな。ああいう、かなりラジカルめいた動きには距離を置いてきていて。結局こういう風になってきたなということでは、僕の中には納得感があるわけね。
粟田:(高山さんには)スペース戸塚という場所がありましたよね。平井さんはそちらにも行かれたとおっしゃっていました。
鏑木:『三彩』の展評(第271号、1971年4月)でも「スペース戸塚’70」のことを書いていますね。
平井:これはラジカルでしたよね。
粟田:ちょうどこのスペース戸塚を準備していた時に、三島(由紀夫)さんが例の割腹自殺を。
平井:ああ、11月25日かな。
粟田:ええ。榎倉さんとか高山さんも、この展覧会を作っている時にそれにショックを受けて。
平井:僕はうろ覚えですけど、『三彩』の原稿を書いている時だったと思うんですよね。テレビに飛び込んできてね。書いていた時だったと思いますよ。彼もね、「太陽と鉄」だっけ。エッセイがあるんですよね。F-104自衛隊の戦闘機に乗っているんですよ。その時の心身の恍惚感を書いていて、それを読んだばかりなんです。
肉体性ということでは恐らく、これと通じる所があるんですよね。肉体性というかな。彼らは本当に地に腹這いになってやったりしていましたから。
粟田:パフォーマンスもしていましたよね。
平井:ええ。だから三島は切腹したりね、そういう肉体性の韜晦ということでは、何か感じたかな。これはもう平面で絵を描くのとは違いますからね。野外の共同作業だったし。(「スペース戸塚’70」展評のコピーを見ながら)写真で見ると生々しいですね。
鏑木:本当に。
平井:(コピーを見ながら)これは羽生さんですよね。羽生さんも本当に、純粋にもの派だったんですよ。そういう意味ではね。いや、彼の事を書こうと思うんだけど、連絡が取れないっていうからね。…そんなことで、もの派というのは私にとっては大変意味深い存在ですし、彼らとコンタクトが取れたのは良かったなと思いますね。
鏑木:あとは李さんの『出会いを求めて』の書評(『三彩』第271号、1971年4月)で、まさに先程おっしゃっていたような、美術の中でこういった活動をするんだ、という趣旨に、とても共感されていると書かれています。
平井:じゃあ、ずっと僕の中にあったんですよ。いわゆるもの派は、ですから美術から離れるわけじゃないんですよね。美術をもう一度見直そうということの出発点というかな。そういうことだったと思うんですよね。もっと真面目に基底を見よう、というのかな。そういう風に僕は見ていますけれども。……(書評のコピーを見ながら)今、見ると恥ずかしくて(笑)。
鏑木:李さんとは当時、親しくお付き合いされていたんですか。
平井:いや。私の場合はね、常々申し上げているんですけど、お付き合いは全くないんです。彼らとは付き合っていませんし、書いた作家とも全く付き合っていません。たまに顔を合わせると話したり挨拶はしますけど。いわゆるこの世界の人たちとのお付き合いはこれといってしていませんね。ついでに言うと、美術館のオープニングも行きませんし、ほとんどもう外側にずっといるだけですけどね。
粟田:平井さんが『みづゑ』で賞を取った後、芸術評論募集には李さんや菅木志雄さんが入選されましたけれども、言論を通して彼らとやり取りするということはなかったんですか。
平井:それもないですね。たまたま機会が与えられなかったということもあるんでしょうし、私はもうずっとそういうことでは圏外に去っていましたから。表舞台に出る機会が全くなかったわけですよ。展評など細々と続けましたけどね、それだけのことです。
批評家という言葉は僕の場合、あんまり当てはまらないんだけども、そういう物を書く人間としてはかなり偏った、ずっと周縁にいましたね。ですから、そういうこともありませんでしたね。たまにそういう機会が与えられたら、ドギマギするばかりで、恐らくあんまりうまく適応できなかったんじゃないかと思いますよ。今ここでも僕はドギマギしていますけれど(笑)。
鏑木:それはデザインのお仕事もあって、お忙しい中で批評の活動をされていたということなのか、もしくは意識的にそんなに作家さんとお付き合いされなかったということですか。
平井:両方だったと思いますね。あんまりスポットライトを浴びる立場じゃなかったから、お会いする機会もなかったし。そのままで過ごしてきて、片やそんなことでは食べていけませんから。全く別の所で食べてきましたから、プロとしてはね。だからそういう機会もなかったし、こちらも求めなかったという、両方だと思いますね。今でもほとんど、避けていますから(笑)。
鏑木:当時はデザインのお仕事をされながらですよね。
平井:デザインの仕事をしたり。それから私が45歳かそこらの時から、ようやく短大に行くようになって。
鏑木:先生になられて。
平井:昭和学院短期大学というところですけれども、そこである程度は生活が保障されるようになって、こちらの仕事も少しずつ減らしてきましたけれどね。だから、ある意味では怠惰なアマチュアですね。アマチュアの立場でずっと身を引いてやってきている感じですね。
粟田:少し時代を遡って、針生さんとはこの受賞をきっかけにやり取りはありましたか。
平井:いや、ありません。そういうことで、針生さんともお付き合いはなかったです。年賀状のやり取りは時たまありましたけど、その程度です。針生さんの方が僕をあんまりあてにしなかったし。たまたま「お前は社会派でやって欲しい」ということは年賀状の添書きみたいにちょっとあったことはありますけども、そういう気持ちがなかったから、お返事を何も差し上げなかったんですけどね。だから針生さんとしてみれば、あんまり大したことはないなと思ってたでしょう(笑)。だから、肝心の針生さんともお付き合いがありませんからね。残念ながら批評家とはほとんど付き合いがありませんし。
鏑木:『デザイン批評』や『三彩』を始められた頃に『美術グラフ』でも時評を書かれていますね。
平井:これも時評ですね。
粟田:先に『デザイン批評』のことをおうかがいしたいんですが、先程も出てきた第3号(67年6月)の「いっぽんどっこの唄」。これは針生さんからの依頼ですか。
平井:書くきっかけは針生さんの紹介だと思う。『デザイン批評』の編集委員でしたからね。だから針生さんにはお世話になりましたね。
粟田:平井さんは『デザイン批評』という雑誌自体は、どのように見ていましたか。
平井:あの頃、『みづゑ』の他に『デザイン』という雑誌が美術出版社から出ていましたね。それと『SD』(鹿島出版会)。それらに対するアンチテーゼかな、と僕は思ったんですよ。あの頃、デザインともアートともつかない、ひとつの動きが出てきましたし、デザインそのものが広い意味で捉えられ始めましたから。デザイナーにもいろいろ考える人たちが出てきましたし、そういった風潮にかなりマッチしてる雑誌だなという印象は受けましたよね。これ、反体制派の人たちが多いでしょう。
粟田:先程の話じゃないですけど、反万博とか。
平井:状況に異議を唱える人たちが多いわけですから。
粟田:アジテーション的なものが強い。
平井:70年前後ですから、勢いのよかった人たちですよ。
粟田:(その他の編集委員の)粟津(潔)さん、川添(登)さん、泉(真也)さんと原稿に関して何かディスカッションしたということもなかったんですか。
平井:ありません。ただ編集担当の且原純夫さんから、いろいろ情報をいただきましたが。
粟田:別の雑誌ですけど、横尾忠則について平井さんが一文書かれていて(「今日の問題点展」『三彩』244号、1969年5月)。横尾さんとも。
平井:それもありません。横尾さんはもう、あの頃からスターだったんですね。『デザイン』の金子喬彦さんなんかと間接的な取材に行った覚えはありますけど。
粟田:デザインを実務としてやりながら書いていた平井さんにとって、横尾忠則といった人たちの存在というのは。
平井:いやぁ、これはもうスターもスターでね。若くてかっこいい訳ですよ(笑)。私どもが取材に行ったって受け付けてくれるかどうかわかんなかったし。それから末端でデザインに関わる立場の人間としてもね、とても追い付けないと。日宣美自体が大変な権威だったわけですから。もしデザイナーであれば、これは大変な存在であった訳ですよね、彼は。そういうことをよくわかっていましたから。私がデザインスクールにいた時の教師が、赤羽喜一さん。二科会の人だったんですよ。二科会にデザイン部がありますよね。そこの人だったもんですからね。
粟田:一方で『デザイン批評』第10号(1969年10月)では「日宣美からデザインを奪還できるか」というタイトルで、まさに日宣美の問題を体制批判的に書かれています。
平井:だから素朴にそういう立場で書いたと思いますよ。
粟田:その辺りの平井さんの当時の心境、考えというのはいかがでしたか。
平井:恐らくそういう『デザイン批評』的な立場でしょうね。
鏑木:すごく詳しく書かれていますよね。
平井:日宣美が権威だったから、反日宣美というムードがありましたね。私の中にもね。あの成長期当時のコマーシャリズムに乗っているわけですから、そういうことに対する距離の置き方というのは皆、共通していたわけです。それにつれて日宣美が権威であること自体に、単純に抵抗感があるわけですよね。ヒエラルキーを作っていましたから。デザイン評価のランク付けね。大企業っていうのは恐らく、日宣美の会員じゃなきゃ注文しませんし、そういう意味での体制はできあがっていましたから。そこに横尾さんのスター性が加わったりして、そういう時代だったもんですからね。それに対して私はちょっと状況に乗っちゃっていろいろ書いたと思うんです。
粟田:乗っちゃって。
平井:「よし、やったるぞ」という感じがあったと思いますよ。
鏑木:ここでは若い日宣美の会員に対する、批判を書かれています。つまりヒエラルキーの頂点にいる人への批判というよりは、その下に群がっている若い人たちへの批判。
平井:ああ。(『デザイン批評』を見ながら)どういうことを書いたのかな。……あの頃は日宣美じゃなければデザイナーじゃなかったっていうようなことがありましたからね。それに従うのはどうかなっていうことがあったと思うんですよね。
鏑木:ええ。
平井:だから奪還っていうのは、そうですよ。私のように末端にいる人間がものを書く機会が与えられると、そういう風に反撃するわけですよね。たぶん、そういうことじゃなかったかなと思いますね。恥ずかしい話で。
粟田:あとは少し短い展評で言いますと、『三彩』の「第19回日宣美展は事実上、〈粉砕〉された」という記事(「まぼろしの『第一九回日宣美展』」『三彩』第249号、1969年10月)。
平井:(『三彩』を見ながら)これは……ほとんど忘れてますよ(笑)。
粟田:平井さんはどちらかというと、こういうことがあった、ということを記しておくという立場もあったんだと思いますが……いわゆる彼らと一緒に運動に参加するというよりは、こういう事柄があったということを記しておくという。
平井:ええ、私の場合は元々消極的な性格なもんですから。運動とかね、集団を組んで一緒に何かをやるというのは苦手ですし、それに対してどうも臆病ですね。ですから脇にいて、ああでもない、こうでもないということを言う立場は取ってきたと思うんですよ。日和見というかな。もっぱら自分の問題にしてしまうわけですよ、「私」のね。そういうことでやってきていますから、恐らく批判される方は、黙っていてくれ、と思いますよね。極めて私的な、個人的な立場でものを考えて発言するというね。距離を置くわけですから、あんまり褒めたことじゃないんで。だからその頃、花田清輝のひそみで運動族とか言われていましたけれどね。デザインのあり方は考えても、とても私は運動族には入れませんし、そういうことではアクチュアルな視点は終始なかったと思いますね。
鏑木:でもある意味、引いた視点から見られるというか。
平井:そうですね。あまり役に立ちませんけど、そういうことでやってきましたね。美術に対してもそうですから。……恐らく峯村(敏明)さんとか藤枝(晃雄)さんっていうのは、あるひとつの立場というのを美術の中で築いて、その中で責任を取ってきたと思うんです。そういうことでは全くないですね。私の場合、周縁にいてどうも無責任なことを言ってきたな、という感じがあります。だから徹頭徹尾、周縁ですね。こういう機会を頂くこと自体が、不思議な気分です。
粟田:『デザイン批評』でいうと、もうひとつ。峯村さんが訳されたアラン・ジュフロワの「芸術の廃棄」(第8号、1969年1月)。
平井:アラン・ジュフロワの「芸術の廃棄」という問題は、例えばプロレタリア美術とも結びつくんですけどね。それから例の、60年代のアンデパンダンの狂騒にも結び付くんですけれども。美術で政治運動とか社会運動っていうのはね、それをやるんだったら、美術を離れてきちんとやれということはあるんですよ。「芸術の廃棄」というのは僕は、観念としてはよくわかるんですよね。何かそういうことでアクチュアルなものをやるんだったら、芸術なんて廃棄しなきゃダメよということでは共感するところはあったと思うんですよね。そんなことが書いてあるんじゃなかったですか。
鏑木:折に触れて「芸術の廃棄」について書かれていて、『三彩』の方でも(『三彩』第250号、1969年11月)。
平井:当時の状況批判めいたものを『美術手帖』の年鑑の総括でやったんですよね(平井亮一「新しき表現の位相・その発見を!」『美術手帖』第363号、1973年1月号増刊 美術年鑑)。そうしたら彦坂尚嘉さんから「平井はダダをわかっていない」とすぐに反論がきましたけれど(笑)(彦坂尚嘉「プラクティスと出会わし事―美術=映画におけるラディカリズムの実践をめぐって」『映画批評』第3巻第2号、1973年2月。後に『反覆/新興芸術の位相』田畑書店、1974年に再録)。あの頃、全共闘などのやり方を見ていて「なんだ、それだったら美術なんかやめろ」ってな含みもあって書いていたと思うんですね。だからもしそれをやるんだったら、本当にアクチュアルな場でもってやらなきゃダメだよっていう。さきの東北の震災の問題も、美術家たちがいろいろやって報告しますでしょう。あれ、常々嘘っぽいなと僕は思って見ているんですけれどね。芸術になっちゃう。それ言っちゃうと叱られるんで(笑)。東北の人たちが、来てもらって迷惑だっていうことを言っている人もいるって言うから、それはそうだろうと思って。音楽家たちが行って、自殺しようと思っていたのに、音楽を聴いて少し立ち直ったっていうようなことを聞くと、「ああ、美術ってなんだろう」って思うことはよくありますけどね。
(資料を確認しながら)だから、廃棄する振舞い自体が芸術になっているっていう転倒があったと思うんですよね。これは宮川さんの問題でもありますよね。「芸術の廃棄は不可能だ」っていう。
粟田:宮川さんの問題ですね。いわゆる政治的な(アクチュアルな)活動だけではなくて。
平井:メディアに関わり出すとメディア問題になってきますからね、絵画の問題にしても。それはアクチュアルな問題そのものではなくて。それをそのままにしておいて「廃棄」と言ってもはじまらないんじゃないか、ということだったと思うんですね。だから宮川さんの問題もね、芸術的ノミナリズムに通じている。しかし一度メディアに関わったらもう、廃棄は不可能だろうという。そういう考え方なんです、僕の場合。もともと廃棄は不可能であろう、と。本当に廃棄するんだったらメディアから離れて、現実論理の中にまっとうに入って行かないと嘘ごとになるんじゃないかって考えていますから。
粟田:そうすると、アラン・ジュフロワの問題にしても、もの派の問題にしても、宮川さんが提示した問題が引っかかっていて、平井さん自身はそういう風に解釈しようとしていたという。
平井:まさにそうですね。結局、回り回ってメディア回帰ということだと思うんですよね。メディアに回帰すること自体、表出論理というか表現論理になっちゃうわけですから。これは一種の堂々巡りになりますけれども、ジュフロワの言った廃棄という、本当に廃棄するんだったら、芸術の問題そのものを廃棄した方がいいんじゃないかという当方の考えですね。実は、問題に執着を持ってしまうとほとんどもう、廃棄は不可能だろうという風な考え方ですね。
粟田:あとは平井さんはこの時期、“作業仮設”という言葉をよく使われていますが。
平井:ああ、仮の姿ね。仮設ですね。
粟田:この言葉の意味合いといいますか。
平井:作業仮設というのは、例えば今の問題もそうですけれどね。メディアに入っていくと、表象などと言ってもひとつのメディア問題になるという限りにおいて、世の現実論理もその中の仮設の問題になってくるという。絵の具を塗ったり、土をいじったり、ものを組み立てたりね。そういうことになって本当の主体の問題から離れて、事柄をメディウムとして構造化していくような仕事になってくるわけでしょう。それは仮設であるし、作業仮設であるし。すべてにおいて実体じゃないわけですよね。仮設においていろいろ楽しんだり、観たりするわけですから。それはすでに仮設ではないかということですね。仮設というのは、ひとつの仮構・仮象問題ですね。そのような作業というかな。ものをそのように実践して作るというかな。
粟田:はい。
平井:そういうことだろうと思うんですね。だからアートというのは広く考えると、そうした作業仮設を人生の脇に置いて、その間をいろいろと考えるということかなとも思うんですよね。それは今度、『引込線』(所沢ビエンナーレ実行委員会、2011年)で書いた「換喩の眼差し」。換喩というのはご存知のように、主体と事物と直接関係があるわけじゃないんだけど、例えば靖国神社と言えば鳥居を思い出すでしょう。私だったら、一目で私とわかるこのマフラーかもしれませんけども。人生にとって直接意味があるんじゃないけれども、何かを設え人生の脇に置いて、それとの関わりと隔たりを持つことにおいて、相応に意味が出てくれば、これを認めることによってこちらが生かされるというかね。関わりの問題が出てきたり、生きる問題を考えさせられるような契機ができたりね。花の絵も見てもそういうところがあるんですけど。アートの力というならば、それが力かなという考えがあるわけですよ。ですから、これ自体も作業仮設ですよね。実体じゃないんだけど、主体との間にそういう換喩的な関係ができて、これを愛でるというかな。そういう場が生ずるのではないかということでも、作業仮設ということがあるんですね。
この頃、僕がひとつ覚えのように言い出した“統合”という言葉がありましてね。インテグレーションというかな。統合というのは、そうした関係作りなんですよ。実体じゃないけれども、関係作りが統合であって。例えばこういう物を見て、あるいはもの派の作品を観て、それとの関わりの間をいろいろと感じ考えること自体が統合である。恐らくそれがアートの出来だろうと僕は考えているわけです。実体があるのではなくて、作品という事柄があって物があって、その間をいろいろと考えたり、これも作業仮設ですから。それをどう受け取るかということを取りまとめ考えるわけです。そこにアートが成り立つとすれば、それは統合のやり取りですよ、要するに。そこにいろいろな要素が入ってくるわけです。作家の立場に立つと、どういう展示をさせると誰かに喜んでもらえるかなという、そんな戦略も含めて作品との関わり方ができてくるわけですし。見る方もこれが新しいのかな、これを認めなければマズいのかなと思いながら作品を観たりする思惑も入ってくるわけですよ。だから単にものを観るというのは、状況も含めて美感的なことも含めて、それから歴史も含めてすべてが錯綜してその関係ができる。それが統合の場でもあるという。そこに作品が成り立つんだということに、換喩という問題が出てきましてね。それを書いたんですけれども。そういうことで作業仮設と一応、言っているんです。中村さんも言っているよね、作品って実体じゃないよということ。
粟田:中村英樹さん。
平井:それに関しては「ああ、同じようなことを考えているな」と思ったことがあるんですよね。作業仮設というのは、そういうことでもありますね。こういう統合という場を設けること自体が、作業仮設じゃないかと思いますね。そこでアートが成立とすれば。これってジュフロワじゃないけど、廃棄できないですよね。廃棄しようと思ったら、場から離れないとね。そういう場から離れない限り、芸術の廃棄は不可能だと思うんですよ。
だから「これ、どう思う?」って、突然に物を持って来ていろいろ言うでしょう。デュシャンがそうですけれど、便器を持って来て提出されると、人はあれこれと考えちゃうわけですよ。そこにも必ず別の統合の問題が出てくるわけですし、それが作業仮設だとすれば、恐らく誰かが何かを持って来る、あるいは何かを写す、そのことを前に考えること自体、アートが始まっちゃうわけですよね。そう考えると、芸術の廃棄は不可能だろうと。考えること自体、そうしたメディアとの関係が始まっているわけですから。そういう風にも取れますよね。
粟田:最後に、平井さんは宮川さんの追悼記事を『美術手帖』に書かれています(「追悼 自立する“ことばの織物”─宮川淳」『美術手帖』第428号、1978年1月)。平井さんにとって宮川淳という存在はどうだったんでしょう。
平井:宮川さんというのは、恐らく僕が今考えたようなことも含めて、アートの存立を問題として考えていたと思うのね。もうひとつ、一番重要なことは、彼はものを良く読んでいて考える人でしょう。その上に立って美術について書いたものそのもの、エクリチュールって言葉がありますけれどね、彼は(それを)自立させたと思うんですよね。評論自体が読むに堪え得るものになっていったという意味では、いわゆる評論じゃなくて、「美術について書きましたよ」「じゃあ後で参考にさせてもらいます」というんじゃなくて。美術について書くことそのことが、アートとは言いませんけれど、思想の問題として美術的な営為であるというね。そういうことを、ちゃんとおやりになった人かなと思うんですけれどね。この記事もそういうことを書いているんじゃなかったかな。
粟田:宮川さんの追悼記事を、平井さんが書くいきさつというのは。
平井:これは、覚えてないくらいだからね。単に注文があったから書いたということだと思いますよ。ずれていますが「私の主題」の中で触れていますからね。だったら平井に書かせたらどうか、ということだと思います。
粟田:また次回、その辺のお話をお聞きできたらと思います。
平井:大雑把な印象では、僕は宮川さんに関してはそう思っているんです。各論というよりはメタレベルのことをちゃんと踏まえてそれをまともに書いて、しかも美術評論になっているということでは、恐らくこの人の右に出る者はいないんじゃないですかね。
粟田:宮川さんはいわゆる現場批評というか、展評のようなことはあまりしませんでしたけれども、平井さんご自身は宮川さんの問題も含めながら、展評のようなかたちで展開もされていったのかなと。
平井:もちろん宮川さんほどにはいきませんけれども。自分の問題意識として考えないと書けないものですから。それはずっとありますね。自分の問題意識の中で接点をどう作って、書ける書けないというのがもちろんありますから。その上で自分の問題としてものを考えていこうというのがありましてね。だから常に「私の」っていうのがついているんですね。それはうまく書けているかどうかは別として、問題意識としてはずっとありますけれどね。今でもそうですけど。
粟田:2回目はこの辺りを振り返りつつ、改めてお聞きできればということで、1回目はこれで終わりにしたいと思います。今日は長い時間にわたってどうもありがとうございました。
鏑木:どうもありがとうございました。