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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

平井亮一 オーラル・ヒストリー 第2回

2014年3月31日

天沼会議室(東京・荻窪)にて

インタヴュアー:粟田大輔、鏑木あづさ

書き起こし:鏑木あづさ

公開日:2022年11月28日

インタビュー風景の写真
平井亮一(ひらい・りょういち 1931年~)
美術評論家
長野県佐久市生まれ。早稲田大学文学部卒。広告デザイン制作の実務に携わる一方で、1965 年「芸術評論募集」(『みづゑ』 60 周年記念)で佳作。60 年代後半から『三彩』『美術手帖』『デザイン批評』等々、雑誌・冊子などに展評・論考を寄稿している。
前回に引き続き、大学時代に所属した民主主義科学者協会(民科)芸術部会での読書会、『デザイン批評』を中心に60年代の美術とデザインの問題、現代美術を扱った70年代の画廊の動向、単著『指示する表出―現代美術の周辺で』(新門出版社、1984) などについて話をうかがった。

粟田:2014年3月31日、平井亮一さんの2回目のインタヴューです。

平井:よろしくお願いします。

粟田:前回は平井さんの幼少期から1966年に芸術評論に入選された頃の活動についてお聞きしました。最初に、民主主義科学者協会(以下、民科)についてもう少しお聞きできればと思います。民科は1946年の1月に創立されて、専門会員と普通会員があったようですが、平井さんは……

平井:学生の場合はどうだったんでしょうね。学内に組織がありまして。

粟田:早稲田大学の中に組織があった。それは民科の会員というかたちで入ったんでしょうか。

平井:そうですね、入会していましたから。会員証とか、そういうのはなかったと思うんですけれどね。ひとつのサークル活動で入っていたと思うんですよ。ただその頃、日共(日本共産党)がヘゲモニーを握っていたということはなかったですね。

粟田:平井さんは何年くらいに民科へ入られたんですか。

平井:えっとね……(昭和)30年以前かな。かなり長い間(大学に)いましたから。その間に病気をしていますからね。ちょうど、健康状態がいい時に入っていたと思うんですよ。授業にあまり出ないで、そういうことばかりやっていて。

粟田:昭和30年、1955年頃と言いますと、共産党は……

鏑木:六全協(日本共産党第6回全国協議会)もありましたね。

粟田:日共のヘゲモニーはあまりなかったということでしたけれども、民科の路線も移行するような時期だったのでしょうか。

平井:ちょうど、端境期だと思いますね。ただ、我々はね『ソ連邦共産党史』というボルシェヴィキに関するものを読まされましたね。小説としては(ニコラーイ・)オストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』とかね。ですから、かなりラジカルな路線を学習させられたと思いますよ。させられたという言い方はおかしいんですけれども、そういうテキストを読みましたね。

粟田:民科発足の基礎には「民主主義と知識人の政治責任への協調」があったとありますが、平井さんご自身はどのようなスタンスで関わったんでしょうか。

平井:共産党の路線の問題が、直接私たちの活動に入ってきたという自覚はありませんね。今、挙げたような路線がはっきりした本を読んでいたわけですけれどね。55年体制の、六全協ですか、それ以前だったと思うんですよね。記憶が曖昧ですけれども、恐らく政治性に欠けた文化活動とか科学研究というのはナンセンスだという、そういった考えは皆、共有していたと思うんですよね。
ただ、政治活動は(直接)しなかったと思います。ありきたりだったデモ活動とか、そういうものには積極的に参加しましたけれどね。……政治部会、芸術部会ってありまして、その芸術部会に入ったんですけれどね。

粟田:芸術部会のリーダーというのは。

平井:それはいなかったな。リーダーらしい人はいなかったですよ。なんとなく参加して、読書会を開いてね。時々、懇親会を開くという程度のものでしたね。政治部会には早坂茂三さんがいましたよ、(田中)角栄さんの秘書ね。彼は一緒に研究はしませんでしたけど、交流会の時に出てきて、我々と顔を合わせたことはありますね。政治部会の人たちがどういうことを考えていたかは、ちょっとわかりませんけれども、芸術部会の人たちは政治性を表に出すっていうことはなかったと思います。しかし、政治性を踏まえない文化っていうのは、むしろナンセンスだって考える人が学生の間に恐らくたくさんいましてね。早稲田だと特にそういう雰囲気でしたから、そういう雰囲気にはマッチしていたわけですね。

粟田:活動の場所というのは、平井さんの場合は早稲田大学が中心。

平井:研究活動だけですよ。政治活動するとか、そういうことはなかったですね。あとはプラカードを持ってデモに参加するっていうのは、学内集合があれば積極的にやったと思います。

粟田:読書会というのは、どこでされていたんですか。

平井:当時の文学部校舎の地下に部室があるんです。各サークル活動の部屋を設けていましてね。今は違いますけど、そこがサークル活動のスペースだったんですよ。他にいくつものサークルが入っていまして、その中のひとつが、民科の部屋にあてがわれていました。我々はそこでなんとなくですね。アクティブに「これをやろう」というプランはなかったと思うんですけれど、読書活動だけで。思想関係から芸術関係から今挙げたようなテキストを読みながら、議論らしい議論もしなかったし、サロン的でしたね。いい意味で煮え切らないというかな、生ぬるいサークルでしたね。……皆、真面目だったですね。

粟田:それは勧誘をされたのか、平井さんご自身で入られたんですか。

平井:ポスターを見て入ったんですよ。文学活動、早稲田は文学創作活動がわりと盛んでしたからね。文学活動から入っていこうかと、ちょっと考えていたんです。ちょうどその頃、ディドロを読み出していたんですよね。唯物論者ですか、百科全書派ですから唯物論って言っていいかどうかわからないけど、唯物論的な考え方があって。そのあたりからマルクス・レーニン主義とか、そういうことと重なってきた。
もうひとつ、パブロフの条件反射とかね。それからフランスの生理学者の『実験医学序説』。19世紀半ばに脳活動と胃袋の間の神経作用をフィジカルに、実験的に調べた医者がいるんですよ。ご存じですか。

粟田:(クロード・)ベルナールですか。

平井:ああ、ベルナールですね。そのあたりの読みから「民科の方が文学活動にはいいな」ということがあったんじゃないかと思いますね。

粟田:なるほど。

平井:その前にデモ活動をいろいろやっていましたからね。孤立した、ひとりの漂流学生としてね。そんなことが病気と重なって、満たされぬ思いで入っていったんじゃないかと思うんですよね。

粟田:そうすると、あくまで早稲田のサークルの中で活動に参加されていた。

平井:はい、そうですね。サークル活動ですね。

粟田:民科全体の中での動きとか、あるいは機関誌、民科が出している……

平井:読んだ覚えがないんですよね。買わされた覚えもないし。

粟田:そうですか。

平井:そういう意味でも、生ぬるいサークル的なものだったんじゃないかと思うんですよ。

粟田:民科は、創立から1956年まで全国大会が開催されているようですが。

平井:はい。代表者が行ったと思いますね。

粟田:特に、大会にも。

平井:僕は行った覚えはありません。それともうひとつ、私は中途でかなり体が悪くなりましてね。田舎へ帰っちゃったんですよ。ですから、組織から自動的に抜けたっていうことはありますね。その間にメンバーが佐久までお見舞いに来たりね。「この人たちは、なんて友情に厚いんだろう」って感激した覚えがあります。……結核性腹膜の予後悪化などいろいろありましたから、それがやはり引きずりましてね。結局、組織からは離れましたけれど。そんなことで、僕が抜けた後でどういう活動に入っていったかはちょっとわかりません。読書会だけは鮮明に覚えています。

粟田:そうですか。平井さんの「日宣美からデザインを奪還できるか」(『デザイン批評』第10号、1969年10月)のエピグラフが羽仁五郎さんのテキストですが、羽仁進さんのお父さんの、羽仁五郎さん。

平井:(テキストを読みながら)これは僕、……(コピーを)読んできていないです(笑)。

平井:羽仁五郎さんは、平井さんにとってどういう方だったんでしょうか。

平井:羽仁五郎さんはね、かなりラジカルであったということと、それから日共など組織的な動きからすれば、恐らくこの人は、称揚されていなかったと思うんですよね。ただ、私のような孤立した者にとっては、琴線に触れるところがあって、そういう自立性というかな、それが私の考え方の中にあったと思うんですよね。彼は全共闘の精神的な支えになった面もありますでしょう。私はその前の個人として、一介の市民としてラジカルたらざるを得ないっていう時に、彼を読んだのだと思うんですよ。ちょっと曖昧ですけれどね。そういうことだったと思います。
日共にはまた葛藤がありまして、こういう組織に入っていいかっていうことは常々あったんです。しかしその前にそもそも、組織の一員としてはとてもやれないなぁということがあって。一方で、実存主義なんてありましたでしょう。だから、個人の根源性というかな。今言ったら恥ずかしいような話ですけれどね。ひとりひとりがどう受け止めるかということになると、組織の中ではとても答えられないだろうっていうことがあって。そういうことを訥々と考えた時に、彼の考え方が入ってきたんじゃないかと思うんですよね。

粟田:民科との関わりもあって羽仁さんの文章が出てきたのかな、と。

平井:いや、羽仁さんの話はあまり問題にならなかったですね。むしろその頃は、石母田正さんの『歴史と民族の発見』。あの本をかなり読み込みました。

粟田:平井さん自身は、共産党とは。

平井:ええ、ですからね党派性があって、いろいろありましたでしょう。僕はあまり……関心がなかった、という言い方はちょっとおかしいんですけれど、民科などから深く組織に入っていくようなこともなかったせいもあって、軽く考えていましたね。むしろ左翼運動全般について、いろいろと考えて。状況を個人としてどう受け止めるか、ということだったと思うんですよ。ですから、その前のひとつの段階でとどまっていたんじゃないかな。組織にも入りきれず、入ったらもうこういうことは考えらえないし、日和見って言われるだろうし、と思っていましたね。

粟田:なるほど。

平井:その延長線上で、時代は変わりますが全共闘のああいう動きに対しても、孤立続きの僕は「ああ、また一緒にこういうことをやっているのか」と、あまりシンパシーが持てないところがありました。

粟田:そうするとディドロや『実験医学序説』の関心から民科へ。

平井:関心の動きとしてはそうですね。そういう唯物論的な考え方には惹かれていて、その延長でマルクスを読んだり、レーニンの著作を読んだりということで、思想の問題として考えていたということはあると思います。実践ということでは、体の問題があったからね。人並みには動けない状態だったから、万事身を引いていたんだと思うんですけれどね。ですからどうしても、組織的に考えたり動いたりということは、できかねたという面がありましたよね。

粟田:読書会というのはどんなスタイルだったんですか。

平井:私は仏文だったんですけれど、仏文の人がわりと多かったですね。あとはロシア文学(専攻)がいたかな。でも、いつも顔を合わせるのは4~5人でしたね。そう多いものじゃなかった。その中で時々「今日はこれをやろうか、続きをやろうか」ということで読書会をやりながら、あとは雑談をしてね。「今日はデモがあるから行こうか」とかね。そういうことから言うと、党派性志向というのは希薄だったような気がするんですよ。

粟田:課題図書というか、読み合わせる本というのは、どなたが決めていたんですか。

平井:杉本時哉っていう人がいたんですよ。何かの労働組合の幹部をやっていたと思います。……そうだ、当時から学生消費組合の全国組織にアクティブに関わっていて、その筋の偉い人になったと思うんですよね(注:杉本時哉は大学生協連の初代専務理事。2011年2月28日死去)。彼も仏文だったんですよ。その方がリーダーシップを握っていたような気がするんです。

粟田:では、杉本さんが「この本を読もうか」とか。

平井:はい。たぶんそうだったと思うし、あとはその時代の風潮で評判になった本ですよね。「じゃあこれを読もうか」っていうことだったと思います。その傍らカミュのL’Étranger(異邦人)、あれを原書で読もうとかね。そういうことはありましたね。L’Étrangerというのは、非常に構文が簡単ですから、私でも読めたわけです(笑)。それも全部読み切らないうちに終わったような気がするんですけれど、まぁ私はまた体調崩れで抜けちゃうんですが。そんなことで、極めて緩やかな会合だったと思います。
美術については、特にやれなかったですね。美術に無関心な方が多かったし、私もその頃は美術について、あまり真剣に考えていませんでしたから。……そういえば(早稲田大学)美術史専攻の下田尚利さんがたまに顔を出してました。ある華道流派(大和花道)の家元筋と当時聞いていましたが。

粟田:『デザイン批評』についてもう少しおうかがいしたんですが。

平井:これはね……デザイン関係はもう、読みたくないというか(笑)。

粟田:そうなんですか(笑)。平井さんはこの当時、デザイナーとしての仕事もされながら批評活動、文章を書くという。

平井:その頃、ダイヤモンド社内のダイヤモンド・エージェンシーにいましたから。一介の制作スタッフとしてね。

粟田:最初に寄稿されたのが、第3号(1967年6月)の「いっぽんどっこの唄」。

平井:なにかね、花田清輝流にちょっと気取っているところがありまして。恥ずかしいんですよ、それ(笑)。

粟田:ただ内容を読みますと、例えば「デザイナーの主体性の確立ということも、どうせ主人持ちでなら、まず主人の正体をあばき、主人を選び、そして主人との関係を自覚した上で始めるのがものの順序というものでしょう」と書かれています。『デザイン批評』はデザインの枠組み自体を批判しようという面もあったと思うんですが、平井さんのお立場は……

平井:それも針生(一郎)さんが、担当に紹介してくださったんですよ。編集委員でしたから。粟津潔とか、木村恒久とかね。日宣の主要な人じゃなくて革新派というか、言ってみれば、左翼系の人たちが編集委員になっておられたと思うんですよね、どちらかというとね。そういうことを承知していましたし、私も現にそういう意味では制作スタッフ、一介の労働者でしたからね。その立場で恐らく、ちょっといい気になって書いた。それからも書かせていただいたっていうこと。途中でちょっと洒落た『デザイン』っていう雑誌が美術出版社から出ましたよね(1959年創刊)。羽原(肅郎[はばら・しゅくろう])さんが編集長(注:編集責任者)をやっておられましたけれども。あれにも書かせてもらったんですけれども、ちょっとソリが合わないというか。編集部サイドからは「困ったな」というニュアンスがありました。そういう些細な劣等感とないまぜになったような、それを攻撃に転ずるようなことを僕はずっとやってきたと思うんです。日宣美批判にしても、我々にとって日宣美というのは高値の花でしたし、横尾忠則なんて本当にスターでしたからね。「ああ、いい格好してやんなぁ」ってな感じでね、本当に(笑)。

粟田:横尾忠則さんたちとも、特には。

平井:個人的には全くないんです。粟津さんとちょっと顔を合わせた程度で……、私は例の通り書くだけで、あとは引っ込んでいましたから。そういう場所へは大抵出ませんでした。だからほとんど名だたる人たちと面識はないですね。粟津さんはちょっと仕事のことで1、2度ほど顔を合わせて、それだけのことでした。

粟田:第12号(平井亮一「〈場〉としてのグラフィズム―禁治産者の日常空間」)の中に、安藤紀男さんの「ゲリラ宣言」(注:安藤紀男「ゲリラ宣言―佐藤雄介氏への反論によせて」『デザイン批評』第5号、1968年2月)の記述がありますが、安藤さんとも特に。

平井:はい、そうですね。この人はラジカルでしたね。ですからこういう生き方と、片や小松左京みたいな生き方と、両方あったと思うんですよね。万博の方へ流れていく人と、『デザイン批評』のようにどちらかというと反万博的な動きと、それがあったんじゃなかったかな。安藤さんというのは、後者の方のラジカルな方だったから。僕なんか、中途半端な新参者ですけれどね。確かに世はあげて未来志向というか、現に経済上昇期だったからね。そういう気運は濃厚だったんですよ。だからその勢いに乗ったというか、それに合わせるように、日宣美というのはものすごい権威でね。日宣美というのはまた、企業の方でも価値付けのフィルターをかけるのに好都合なわけですよ。要するにデザイナーのランクを作るわけね。それに呼応して日宣美というのはうまく機能したと思うんです。日宣美に入っていた人たちは恐らく給料も非常にいいし、ペイも高いという。

鏑木:そうなんですね。

平井:スター養成の組織だったわけです。片や団体展で二科会の広告部(商業美術部)がありましたでしょう。あそこも幅を利かせていましたけれど、まぁ日宣美の方がその頃はブランドのクオリティが高かったんだと思います。

粟田:『デザイン批評』は、創刊当時から定期シンポジウムを計画していたようですが、第5号(54頁)になってようやく「毎月の第2週と第4週の土曜日」に開催する、という告知があります。

平井:それは出たことはないです(笑)。

粟田:そうですか。

平井:(『デザイン批評』創刊号を見ながら)ああ、川添(登)さんね。まぁ、権力っていう問題が出てきたんですよね。しかし、その前に僕の方で引いていたんでしょう。恐らく、情報は入っていたと思うんですけれどね。

粟田:ええ。

平井:美術評論家連盟と同じで、総会にも出たことがないという無精者ですから(笑)。恐らく臆してそこも行かなかったと思うんですよね。本当に書くだけの受け身の、消極的な関わり方をずっとしてきましたね。

粟田:でも、それは平井さんのある意味の信念というか、考えがあって。

平井:そうですね。考えがあってというか、美術の場合でしたら一介の観客として書こうということですね。絶対に人の審査をしたり、人選をしたりという選別はしちゃならん、ということがあります。結局、責任を取りたくないということがあるんだよな(笑)。だからそういう意味で、極めて消極的な関わり方をずっとしてきたと思うんですよね。

粟田:もうひとつ「日宣美からデザインを奪還できるか」(『デザイン批評』第10号)には「ペルソナ」展(銀座松屋、1965年)や「空間から環境へ」展(銀座松屋、1966年)についての記述がありますが……

平井:恐らく万博の前のことでしょ。あれは本当に万博にマッチしていましてね。準備段階って言っちゃ悪いんだけど、おのずからそういう雰囲気が醸成されてきて、その核になるものは、恐らく実験工房だったと思うのね。1951年でしたか。実験工房の人たち、あるいはその周辺の人たち。いわゆるエンバイラメント、環境的なことっていうのは、社会的に醸成されてきたんでしょうけれど。イデオローグとしてソフトの方では、実験工房の周辺の人たちが用意したと思うんですよ。「ペルソナ」もこういう動きの一環ですよね。

鏑木:大きく言えばそうだと思います。グラフィック・デザイナー限定です。

平井:そういう雰囲気の方に比べて、私の方はまぁ落ちこぼれで、あれよ、あれよという感じで見ていましたから。それをこんな風に書いているんでしょうね。だから今考えますと、ちょっと恥ずかしい面がありましてね(笑)。
日宣美との関わりというのは、かなり微妙ですよね。反日宣美なんだけど、しかし日宣美の業績はやはり認めざるを得ないということとか、時代の流れというかな……それはあったと思うんですよね。こういう動きは底流に流れていましたけれども、まぁ所詮、反体制は自然過程ですからね。大きな流れの中に呑まれていったと思います。私には苦々しい思いだけが残っていて(笑)。ちょっといい気になっていたな、というね。

粟田:平井さんご自身はデザインをやりながら文章も書くという立場で、60年代のデザインと美術の関係とか、どういう風にご覧になっていたんでしょうか。

平井:僕はですからそういう意味では、末端のデザイナーというのは企業の中で奉仕しなきゃならん、ということははっきりしているわけですから、それはそれでいいんですけれどね。そのあたりのコンプレックスを、こういう屈折で書いてきたと思うんですよ。帰するところ、純粋美術という言い方は古臭いんですけれど、そういうことよりは絵画の中に還っていきたいという、非常にナイーブで、閉鎖的な方に何か還ってきたはずですよ。そういうことになってきた時に、これはもうどうでもいいっていうことが、いつの頃からか出てきましたね。それは例えば、食べるためにこういう仕事をしてきましたけれども、それが終わってからということじゃなくてね。それをやりながらでも、デザインについては書くまい、という気持ちが強くなりましてね。本卦還り。そういうことになっていたし、この雑誌も潰れましたけどね。(1970年11月に)廃刊になりましたけど、ちょうどそのあたりがいい潮時かなということで、デザインについては書きたくなくなって、それはずっと今でもあります。
というのは、やっぱり違うんですよね。何か役に立つということと、美術について考えるということは、煎じつめるとそりが合わないところがあるし。例えば、精神活動には美術が必要だとか、ひとつの精神療法的な面からも美術を考えたいというポジティブな考え方がありますけれども、ものの役に立つ、あるいは精神の糧ということと、どうも美術は違うんじゃないか、というのはずっとありましてね。そんなことがデザイン関係についても書くまい、ということにつながっているんですけれどね。ユートピアっていう言葉がありますけれども、アートっていうのはディストピアじゃないかとさえ思うんですよね(笑)。

粟田:『デザイン批評』のテキストの中で印象に残っているものはありますか。

平井:……うーん、残らないんだよね、これが(笑)。まぁ、読み直せばあるかもしれないけど、ほとんど読む気がしなくて。……うーん、どうなんだろう。そうですね、エンバイラメント、そういう総合的な、ひとつのユートピア的な時代の考え方からは身を引くべきであるな、ということが、こういうことをやっているうちにはっきりしたんじゃないでしょうかね。ちょっと無理をしてやっているところがあったんです。一介の組織内労働者としてものを書くということから離れたくなって、デザインそのものに対する距離の置き方と抱き合わせにしてね。片方で美術の問題が出てくる時に、違和感を感じてきたということがあるんですね。それがここで、はっきりしてきたと思うんですよ。そういうことは書いていませんけれどね。だから今見ますと、やっぱり嫌な感じがする。自分が書いたものに対してね。
むしろ絵の中でしかるべき思いを伝え、社会批判をやった方がいいのではないかな、ということが出てきたんですよ。私が絵を描くんだったら、例えばシュルレアリスムから社会批判の入ってくる中村宏とか、いわゆる戦後派の美術ね。あのあたりに可能性のヴィジョンがあったんです、初めは。そんなこともあって、僕は井手則雄(注:彫刻家、詩人で戦後に日本美術会、前衛美術会の創立に参加)さんに連絡をとったことがあるんですね。そういう時期がありましてね。

粟田:それはこの当時ですか。

平井:60年代に入って間もなく。こういうことをやりながら絵を描くんだったら、そちらの方かなというのがありまして。井手さんと知り合って話をしたり。前衛美術会ってありましたね。

鏑木:はい。

平井:そちらに出そうかな、と彼に話した覚えがあるんですよ。

粟田:そうだったんですね。

平井:それがどういうわけか、こういった問題を考えながらポップ・アートが出てきたり、アメリカの美術が紹介されてきたり、そのあたりが私の中で一緒になってきてね。改めて絵に関わっていくならこういうような仕事にしよう、というのが(美術出版社主催の)懸賞論文の「私の主題」だったのね。その時、この前に申し上げたと思うんですけれど、岡本信治郎の仕事が頭にちょっと残っていて、ああいう軽妙な社会批評のしかたもあるなっていう。そういうことだったんですね。デザインについていろいろ書くというのは、サブというかな。ついでに書けるという不遜な思いがあったと思うんですよ(笑)。

粟田:平井さんの問題としては。

平井:版下作りもやっていましたけどね。デザイン関連はもう、場が与えられたらその場で書きましょうということもありましてね。だからそういう意味では、今考えると根っこがないんですよ。場当たりの、ひとつの綱渡りをやっていますね。そのあたりを総合的に考え始めて、美術に関わり、造形的な仕事をしていくんだったら、こういうことかな、というのをメモに書きながらまとめていったのが「私の主題」だったと思うんですよ。

粟田:ポップ・アートの話が出ましたけれども、「私の主題」の中にも「(第3回)国際青年美術家展」(西武SSSホール、1964年)についての記述があります。

平井:ええ、あれに引きずられているんですね。

粟田:ご覧になっているんですか。

平井:ええ、観ていますね。アンフォルメルも観ています(「世界・今日の美術」展、日本橋高島屋、1956年)。アンフォルメル問題はその頃、今と違ってあまり印象に残ってないんですよね。むしろこの国際展とポップと、岡本信治郎。それも深く研究するんじゃなくて、大雑把な刺激感覚として浸透していたんですよ。だからアメリカの美術を研究しようっていうのは全然頭になくて、その点をちょっと書いたら、針生さんの方から「これでは書き足りない。これを書くんだったらもっとはっきりと書け」と、アメリカ美術に対する関わり方をもう少し書いた方がいいんじゃないか、ということを掲載間際に言われたんです。この前ちょっと申し上げましたね。それで5~6行、加えたのかな。

鏑木:話が少し戻りますが、平井さんのデザインのお仕事先の方たちは、平井さんが『デザイン批評』に書かれていることはご存じなかったんですか。

平井:あの人たちは『デザイン批評』を読んでいなかったです。

鏑木:そうなんですか(笑)。では、話すとかはなく。

平井:絵を描いている人はいましてね。それで、私が入選した時でも「ああ、平井さん、こんなことをやってるの」なんていう程度でした。周りにいたスタッフたちは何も読んでいません。

鏑木:では、平井さんがデザイナーのお仕事と書くお仕事について、いろいろな考えを抱きながらもされていたことは、周りの方たちは……

平井:知らない、知らない。どういうわけか『美術手帖』も読みませんしね。『デザイン批評』は読んでいないと思います。むしろ現場のデザイナーは、読まなかったんじゃないでしょうか。

粟田・鏑木:(笑)。

平井:日宣美(の機関誌『JAAC』)とか『デザイン』とか『グラフィック・デザイン』ならありましたけれど、こういうのは恐らくなんて言ったらいいかな。言葉の方に関心のある人たちの方が読んでいたと思うんですね。だからそんなに売れなかったろうし、結局、続かなかったんですけれどね。

鏑木:では、平井さんがデザイナーとしてお仕事をされている時の実感としては、大半の一般的なデザイナーは恐らく『デザイン批評』はあまり読んでいなくて、限られた方たちが読んでいたという。

平井:だと思いますね。少なくとも私の周辺の人たちは、私がやっていることに関心なかったし、書いていることも知らなかった。

鏑木:平井さんからもお話には。

平井:いや、しませんよ。ほとんどそういうことはしません。隠していたわけじゃないけれど、話はしませんでした。

粟田:『三彩』(第248号、1969年9月)に書かれたSTUPA展とVAVA展(ともに村松画廊)のレビューの一節ですが、前回も話に出たアラン・ジュフロワが出てます。ここで河原温の「VIET-NAM」にも触れられていて。

平井:これは『三彩』ですか。

粟田:『三彩』ですね。

平井:(記事を読みながら)……これは、肯定と否定が半々の書き方ですよね。たぶん、アクチュアルな問題になり得ないという、ひとつの批判なのかな。実は、山下菊二問題について延々と書き継いで、まだ整理がついていないんですけれどね。結局、原稿用紙数百枚になりました。これが、私の戦後総括でもあります。それで、山下さんっていう人は徹頭徹尾、アクチュアルな社会性や政治性を追求したんだけれど、ついに構造として不能であったということ、所詮これも作品づくりで、彼は巧みな画家だったということを言っているんです。
だから、どうなんだろう……河原さんの場合については、日付絵画もそうですけれど、痕跡への配慮は残るんです。痕跡は残るんだけど、その痕跡は要するに絵画じゃないかという。あれは要するに絵画なんですよね。つまりね、絵をきちんと描くという。レタリングでしょう。あの労働って、なんだろうと思うんですよ。河原さんは丹念な数字として残しているわけですけれども。

粟田:どこかで見られたのでしょうか。

平井:何かで見たんでしょうね。

粟田:「在外日本作家展:ヨーロッパとアメリカ」展というのが近美(国立近代美術館[当時])で1965年に開かれています。この作品も出品されていますが、平井さんが河原さんの作品を当時、どのようなかたちでご覧になったのかなと。

平井:「VIET-NAM」っていうのは……いや、見ているはずです。

粟田:「ONE THING」「1965」「VIET-NAM」という3点組の作品です(《Title》1965年)。

平井:非常に両義的ですね。彼は画面に対する仕上げというのを、デイト・ペインティングの場合にも、こだわっているんですよね。きちんとした文字でレタリングしているし、地塗りもしているしね。こういう仕上げというのは、はっきりとした労働の過程として残っているんですけれども、まぁ制作ですよね。いわゆる、記号指示の絵画。そこにすべてを凝縮させるわけですけれども、記号の中に何かを言わせているわけですよね。これはどう取ろうとこちらの勝手ですけれど、恐らくその思わせぶりなところが、問題を後に送り続けるんだよね(笑)。
むしろ僕は、これは「なぞり絵」として見た方がいいんじゃないかと思っています。そこは否定もできないし、肯定もできないんだよね。だから絵として考えよう、と。眼の方からね。視覚的な問題として考えようという風に、僕は割り切っているんですけれどね。で、それにしては思わせぶりだな、ということがあって。でもね「日付に、ベトナム問題があったね」ということになりますからね。いろいろと考えてみようっていうこともありますからね。これって僕は、卑怯じゃないかなと思うんだよね、芸術家としてね(笑)。差し迫って、れっきとした現実認識のミスティフィケーションというか、ソフィスティケーションの実践というか。日本語に韜晦という言葉がありますでしょう。何か思わせぶりで、僕の場合はそれに対して拒否反応が出てくるんですよね。それで、美術に回収されていくだけ。だけど美しい文字だし、一生懸命やっていますからね。一生懸命というのは汗を流してということじゃなくて、精巧な仕上げのものですからね、見るに値する。恐らくこれもそうだったんじゃないかな。今でもそれは引っかかりますね。

粟田:1回目のインタヴューでもお聞きしたんですが、「私の主題」では冒頭にパブロフの条件反射の話が書かれていて、後半は演劇論です。それはディドロとも関係する。ディドロについては直接書かれていないんですが。

平井:むしろスタニスラフスキーとかね。あるいはブレヒトなんか。

粟田:そうするとイデオロギー的というよりは。

平井:そうですね。イデオロギーを表に出すというよりは……ドラマツルギーの問題です。軽薄な鋭い絵を描こうという方法のことだったと思うんですよ。風刺的なね。

粟田:その中に岡本信治郎のようなものが、平井さんの中ではイメージとしてあった。

平井:だから、“機能概念”ということを盛んに言っていますでしょう。絵というのは、もの思わせぶりにやるんじゃなくて、しかるべき機能の中で視覚を刺激したり、言葉を刺激したり、もちろん眼に楽しくなきゃいかんわけです。そういった絵を描こうかな、という軽薄志向、つまり事柄の指示にとどまるという構えですよね。ある意味では、現代美術もそうなってきていますからね。そういう軽薄性というのは、私の中では続いていまして。今でも『美術手帖』なんかで問題になっている絵も、面白がって見ていますけれどね。
私が本当に「私の主題」っていうことに責任を持てばね。李禹煥も菅木志雄もそうでしたけど、彼らは作家ですから。それをずっと通しましたけれど、私の場合は「お前、こんなことを書いて、実践はどうするんだ」と言われれば、「はい、申し訳ありません」と言うしかないですね(笑)。「私の主題」を出した以上は、実践で責任をとるのが本筋ではないか、と。そこが私の弱いところです。
今も描くには描くけれども、本当に取るに足らない絵を描いていまして、まあ写生に過ぎませんけどね。作家として、というのはほとんどなくなっています。ですから“主題”も不発でしたね(笑)。

粟田:同じレビューの中で、ヨシダ・ヨシエさんから「万博に奉仕する美術家諸君に訴える」というタイプ刷りの檄文が寄せられた、とありますが……

平井:ヨシダさんは(インタヴューを)おやりになったんですか。

粟田:はい。ヨシダさんから檄文を寄せられた、そのあたりの経緯というのは。

平井:(展評を読みながら)……これはやっぱり、美術の中でこういうことをやること自体、コップの中の嵐だという、そういう認識だったと思うんですよ。私のあの頃の実感で、美術の中で組織でやることも結構だけれども、むしろ反体制的な美術運動に過ぎないんじゃないかという。万博があったら反万博、日宣があったら反日宣ということですよね。それって、政治の季節というよりは、政治的にアクチュアルな問題が目の前に来て行動が強いられた時に、実際にアクチュアルな関わり方をしていかないと、恐らくひとつのコップの中の嵐で、言ってみれば美術内の文化活動に過ぎないんじゃないか、という。
“砂のような大衆”っていう言葉があったけれど、生活に追われた労働者としては、そんなことやっている暇はないんだよ、という極めて素朴な考えがあったと思うんですよ。ですから、文化人として、文化活動として反体制を言うこともいいけれども、もっとその前にのっぴきならない問題があるという。その時にはやりましょう、ということだと思うんですよね。ヨシダさんはそういう意味では、本当にアクチュアルに文化運動というのをずっとやってきましたからね。それは敬服いたしますけれども、僕はやっぱり彼のやり方にはついていけませんでしたね。

粟田:ヨシダさんとの親交はありましたか。

平井:親交というか、僕は途中で(美術)評論家連盟に入りましたけれどね。入らなくてもいい、というつもりでやっていたんですよ。ところが、岡田(隆彦)さんが事務局長をやっている時に、電話がかかってきましてね。会員の中でこういう人とこういう人を入れたらどうか、という話があって「平井さん、いかがですか」というお誘いになったようです。ありがたい話ですけれど「私は元々そういう意図はなかったですし、私を推薦する人はいないんじゃないですか」と言ったら、「いや、私が推薦します。あとひとりだけ確保してください」というんですよ(笑)。そういう話をしていた頃、ときわ画廊だったか、たまたまヨシダさんと会ったんですよ。そこで「こういう話があるので、ヨシダさん推薦してくれますか」と冗談で言ったら、「いいよ」と(笑)。「じゃあヨシダさんの名前を借りますよ」ということになりましたけれどね。

粟田:(美術評論家連盟に)入ったのはもう少し後ですよね。

平井:書き出してから、かなり後ですね。勝手に書いたことが皆さんの眼に触れて、入れたらどうかっていう話があったんでしょう。

粟田:この当時はどうでしょう。69年頃。

平井:その頃はこれといった付き合いはなかったと思います。

鏑木:ヨシダさんが、いろいろな人に送られた。

平井:そうね、ひとりひとりにそういうものを送ったんじゃないでしょうか。あの方はそういうことに非常に積極的でしたからね。決していわゆるお友だちじゃないんだけど、会うと「やぁ」っていうことはありましたけれどね。特に話し合ったり、腰かけて話したりっていうことはありませんでした。非常に優しい、気配りのいい人だったんですね。だから私なんかも付き合えたんです。……その送り状は恐らく、こちらも当然参加すると見込んでのことで、ヨシダさんのアクティブな活動の一端だと思います。

粟田:少し、70年代の平井さんの展評について。『三彩』で8年ぐらい書かれています。

平井:8年ですか。

鏑木:ええ、10年近く。

平井:ええ、呆れられた覚えがありますけれどね。「なんでそんなに長く書くんだ」って(笑)。

粟田:そのあたりの活動をお聞きしながら、画廊の話なども聞いていきたいと思います。

平井:画廊は私の勉強(の場所)という意味もありましてね。皆さんのようにちゃんと学問を積んで、あるレベルを鋭意研究してということはなくて、むしろアマチュアの状態で自分の言いたいことを書いて入っちゃったものですから。「じゃあお前、現場で書いてみろ」と言われた時に困ったんですよ、実は。どうやって対応したらいいかな、ということがありました。もちろん注文は全くなかったですよ。岡田さんはどんどん(注文があって)、当然のことですけれどね。よく言われている芥川賞なんかの入選と候補との違いっていうのを、まざまざと感じましたけども。
でも、針生さんが『三彩』へ持っていったらしい。担当者によると「こういう男がいて、今、暇なようだから書かせたら」っていうことで、そこから始まったようなんです。現代美術も団体展もあまり頭になくてね。どういう風に対応したらいいかっていうのは、一応『美術批評』とか『美術手帖』は何となく読んできてはいたんですけれども、人の作品について意見を述べるようなことになれば、別問題ですから、それは大変苦労しましたね。だから学習しながら、体験を積みながら書いていったということがありました。屁理屈を先に並べて、これはどういう風に対応しようかというような前口上を自分のために作っておいて、それでちょこちょこっと書く(笑)。

鏑木:(笑)

平井:極めて困ったスタイルで、ずっとやってきました。そういうことだったんですね。こういう作品にはこういう考え方で接したらいいのかな、というのが先に出てきて。それで「さて、」と「じゃあ、これについてどう考えましょうか」ということをやってきたと思うんですね。だからアマチュアが出ていって、プロの世界でいろいろと学ばなきゃならん。画廊は、道場みたいな感じだったんですね。大変ありがたかったです。

鏑木:おっしゃる通り平井さんの展評は、展評そのものから始まるということはあまりなくて、最初の方に必ず平井さんのお考えがたくさん書かれていて、時にはそれがしばらく続いて。

平井:いや、ほとんど。ちょこちょこっと書いて、大体そうですよ。編集者から、これは困るということで。

鏑木:それは言われましたか。

平井:それとなく言われました。

鏑木:でも、そういった考えがあった上で、作家や作品を平井さんがご覧になっている、ということがよくわかる展評ではないかと思います。

平井:はい。でも、後である人から「こういうのは役に立たないんだ。我々研究者にとっては、困る展評だ」と言われたんです。つまり、写真が載っているからデータとして少しは役に立つけれども、どういう作品であったかということが全く伝わってこない、と言うのね。だから後で調べる人間にとっては迷惑だ、と言われた覚えがある。それは当然でしょうけれどね。

鏑木:平井さんは別に、後の人が調べるために展評を書かれているわけではないですもんね。

平井:と思うんですけれども。

粟田:でも事実関係は、ある程度きちんと書いていますよね。

平井:編集者からそういう注文も出ましたし、作家の方にも「せっかく写真を出して期待をしていたのに、これじゃちょっと」と言われたこともありましたしね。「これは当然だな」と、そのへんの葛藤はありましたけれどね。

鏑木:平井さんは78年に『三彩』の展評を終えられるまで、ほとんどスタイルを変えずに書き続けられています。『三彩』の当時の編集者は、藤本(韶三)さんですか。

平井:藤本さんは経営サイドというか、監修ということじゃなかったでしょうか。ただ『三彩』はご存じのように日本画が主体ですからね。現代美術の展評は刺身のツマ、付録みたいなものですから。(展評の担当は)若い編集者に任されていたようです。

鏑木:そうですか。藤本さんが経営兼編集みたいなかたちでいらっしゃって、平井さんのご担当の方は別にいらした。

平井:ええ、別です。藤本さんは、関わりはなかったと思います。思い出すと名字だけの場合もありますが、担当は岡川敏、石田達彦、大渓、それと女性の方一人、と代わってきました。展評は棲み分けをしていましたね。秋田近美(秋田県立近代美術館)の館長をおやりになった田中日佐夫さん、あの方ともうひとり。田中さんは長い間おやりになって、あとはもうひとり(注:松原叔、あるいは田近憲三。初期に含まれる多田信一は、藤本韶三の筆名)。

粟田:大体、3人でまわしていますよね。

平井:ええ、その点はよかったんですよ。田中さんがちゃんとした、オーソドックスな作品をおやりになって、私は箸にも棒にもかからない現代美術ということで、うまくできていたと思うんです。現代美術についてはもう、書いてあればいいよっていうことで、勝手なことができたんですね。だから、その点は助かりました。やかましいチェックもなかったし。ただあんまりそのような書き方がひどいんで、写真だけが並んで、名前だけが並んで、あとはお前の勝手な理屈だけじゃ困るっていうことは、担当者から言われました。ちょこっとしか言われませんでしたけれどね。ただこの前も申し上げたように、その時ちょっと偉かった鍵岡(正謹)さんから、皮肉っぽく「平井さん、田村画廊と何かあるんじゃないの?」なんて言われたことがありましたけれどね(笑)。「冗談じゃないよ」でした。

鏑木:平井さんは展評をたくさん書かれているので、そこからいくつか取り上げていただくというのは難しいかもしれませんが、印象に残っている展覧会についてお聞きしたいと思います。画廊はやはり田村画廊、ときわ画廊、櫟画廊、村松画廊が多いですね。

平井:そうですね。60年代から70年代にかけて、いわゆる現代美術の人たちが個展をやっている会場というのは、そんなもんだったんじゃなかったでしょうか。もっとあったかもしれませんけど、隅々までは見なかったから(笑)。

鏑木:今日もインタヴューの前に歩きながら、田村画廊のお話を少しうかがいました。

平井:そうですね。長い間やってきて、私が修業と申し上げたのは、事象を見ていろいろと考えるという意味での修業、勉強ですけど。やっぱり身に残ったのは、いわゆる「もの派」前後のものと観念のせめぎあった70年代。コンセプチュアルと「もの」とね。それから、しばらくして絵画の問題も出てきますけれども。特にいわゆるもの派ですね。あの人たちの周辺の仕事が、僕にとっては……なんて言ったらいいのかな。ものを考えることについて、非常にプロブレマティックな作用がありました。今もいろいろなことを考えていますけれども、基本になっていると思います。
ハイレッド・センターですか。その他、ネオ・ダダですか。このところ、いろいろ回顧展をしていますけれども、あのあたりのことは僕はね。読売アンパンが63年に終わりますかね。あの狂躁っていうのは万博と同様に、関心を持てなかったんですよ。「結局あなたたちは、何か作品を作るようになるんじゃないか」というのが、どこかにありましたね。こういうのって言葉のレベルでいろいろと考えたり、書いたりすることと同じことじゃないかという。それを事改めて行動に移したり、ものを使ってやっているんで、それ以上のことはもうほとんどできないんじゃないかという。「あなたたちのやっていることは、生活とか社会現実の中では非常に末端的なことであって、その煩わしい確認作業に過ぎない。それを殊更にものを使ったり、体を使ってやっているに過ぎないんで、それは世の現実認識の方が先に進んでいるんだよ」と。それはよく考えれば皆、しかるべき領域での現実認識の問題じゃないかということね。少し歩みを止めてものを使ったりして、考えとしてワンクッション置くのもいいけれども、根本的には社会現実の方が先を行っているんだから、ひとつの“表出拡張”という観念的なロマンチスムじゃないか。ロマンチスムっていうのは、広い意味でね。「山のあなたの空遠く」という言葉がありますけれども、コンセプチュアルの向こうに何かあるんじゃないか、という……。「『何かあるんじゃないか』と言っても、何もないんだよ」ということを、僕は常々考えていましたね。事跡として美学に回収されるだけ。だったらメディア問題の中に還っていって、その中で勝負せざるを得ないのがアートではないか、ということでやっていかないと、欺瞞性が出てくるんですよね。
それは、ものの可能性というかな。ものから始まって、ものについて表現していくというか。絵もそうですからね。彫刻もそうでしょう。ひとつの素材を扱って表現するわけですから、そのものについて、物事の関わり方の中で、ひとつの可能性、自分の感性、視覚。もろもろその可能性に就くのがアート、美術だろうという風に考えていましたから。一部のいわゆるもの派の中での、“物体表出”の問題っていうのはメディア問題として、媒材の問題としてまっとうなもんだっていうのが、よくわかってきたんですよ。そういうことをよく考えるきっかけを与えてくれたのが、彼らだったんですね。その前の、ああいう超出活動とか、ダダ的な仕事っていうのは結局ものから始め、何かを表していく方に還っていくんじゃないかって。実際にそうなりましたけれど。そういうことを考えるには、都合のいい、非常にタイムリーな現場だったんですね。実際にそういうことを見ながら考えて、やはりメディア問題に入っていくべきだな、ということがはっきりしてきましてね。
李禹煥さんがものを並べたことから板に還っていって、板の表面を削ることから入っていきましたでしょう。それで今度は、和紙に入っていきましたでしょう。あれはものの延長として入ってくるんですよね。それから菅木志雄さんは、ものを並べてひとつの関係を構えていくわけですけれど、その中で包装紙をただ折り曲げてね。何かしるしを加える、そうすると絵になるんですよ。デパートのものでも何でもいいけれど、包装紙。ああいうものを折り曲げて。立体ですよね、そこにちょっと折りや線を入れると、絵になるんですね。つまり、包み紙が支持体になるんですよ。これって絵じゃないか、というね。彼はドローイングっていうのはあまり表に出しませんけれども、ものと支持体のあいだの非常に微妙なところを、彼はやっているんですよね。ああ、これは絵になるんだと。それで榎倉康二さんのことはあなた(粟田)がきちんとお書きになったけれども、あのレベルね。地と染みという物質現象から入ったわけですから。それってもの派の延長ですし、もうこれはメディア問題ではないかというのがあってね。そういうきっかけを彼らの仕事が与えてくれたということで、僕は今でもその問題を引きずっていますよ。そこへアンフォルメルの問題が入ってきます。シュポール/シュルファスの問題もそうですね。

粟田:宮川淳さんの問題ですね。

平井:はい、60年代の宮川さんの問題ね。その後70年代の、同じ時期ですけれども、シュポール/シュルファス、絵画の解体作業ですよね。ものに還していくわけですからね。そういう意味で、ひとつのタイムリーな活動ということでは僕にとって印象に残っていて、コンセプチュアルとものの問題っていうのは、70年代にラジカルに出てきましたからね。ちょうど私が行き会ったということでラッキーでしたね。2000年代の今でもああいう仕事、コンセプチュアルな仕事がぼちぼち出てくると、ああ、これは70年代に見た風景だな、70年代に見たサイトだな、と。いわゆる原理的な反復、復帰というか、回帰じゃなくて、やっぱり螺旋を描きながら変わっていくんだな、というのを実感しますね。そういう意味で、あの頃はそういうことが包括的に試された時期だったんですね。そこに私がちょうど展評を書くという羽目になりまして、ありがたい時代に遭遇したなというのが実感です。

粟田:松澤宥さんについても書かれていますが(『三彩』247号、1969年8月)。

平井:諏訪の松澤さんね。いや、プサイは大きすぎちゃってね(笑)。僕は個人的に少しだけ話をしたことはあるんですけれど、あの方の仕事については距離を置いていましたね。さっきの河原温の問題と同じところがあって、プサイを出しちゃうともう、おしまいじゃないかということはありましたね。確かにああいうラジカルな、先端の……何て言ったらいいかな。何か一挙に超越的なひとつの視点を出して、あるいはそれを文字とかものに持ってきて、符号やアフォリズムで包括して言ってしまう、というかな。そこに僕はミスティフィケーションという言葉を使うんですけれど、そういう……何かこう、あまりにも超越的過ぎてね。美術の問題としては馴染まないかな、という。だから信じる、信じないということではないんだけどね。それを認めてしまうと、全部がそこに関わってくるわけですけど。つまり美術っていうのは、そこまでいっちゃうのかな、という。むしろ美術っていうのは、じれったいけれど素朴にメディアと関わって、キャンバスの中の問題でもいいし、木の扱いの問題でもいいんだけど、その限定性の中でこそ考え、見ていく他ないものであろうと。そういう凡庸な認識からしても、松澤さんの問題は距離を置かざるを得ないというのは、今でもそうですね。

鏑木:『三彩』第293号(1972年10月)に書かれている、藤原和通さんの《音響標定》。これは覚えていらっしゃいますか。画廊じゃなくて(建物の)表でされている。

平井:これはどこでやったんですか。

粟田:いくつかの場所でやっているはずですね。

平井:真木画廊でもやったような気もするんですけれど、画廊の中ではやってなかったんだよな。むしろ、ときわ画廊かもしれませんね。ただ、こういう行動を起こしたのは田村画廊の前じゃなかったかな。藤原さんは今、どうなさっていますか。

粟田:オーラルヒストリーをお聞きしようという話も出ています。

平井:やっぱりこういう仕事をお続けになっているのかな。

粟田:テレビ番組の音の仕事もやっているはずです。

平井:恐らく彼は、トータルなジャンルの消失を狙っていたと思うんですよね。造作としても大掛かりな音具ということですから。音楽ともつかず、美術ともつかずね。ですから、恐らくこういうことをやりたかったんでしょうね。

鏑木:写真を見てもわからない部分があるんですが、平井さんがこれについて丁寧に書かれているんです。

平井:書いていましたか。

鏑木:ええ。コンクリを掘って……

平井:ああ、何か引きずって音をゴロゴロするんですよ。(テキストを読みながら)……細かいことは覚えていませんね。ただ、強烈な印象は残っているんですよ。力強くてね。なんでこういう労働をするのかという。だけど本当に音楽ともパフォーマンスともつかずに、まあ力尽くのパフォーマンスですけどね。こういうことをやっていたんですよね、田村画廊の界隈というのは。山岸さんがそうなんだけど、こういうことを許していたんですね。今、サウンドの仕事をやっているんですか。

粟田:恐らくそうです。

平井:ああ、やっぱり音に関わる……これが彼の原点かもしれませんね。可能性をいろいろと広げていく、一つの原点みたいな。だから作りは美術と言えば言えるし、音がらみのパフォーマンスとも言える。

粟田:平井さんの展評を見ますと、藤原さんもそうですけれど、今でいうところのパフォーマンスのようなものも取り上げているような気がするんですが。

平井:やっぱり出くわしますからね。これって何だろうって考えるんですよ。

粟田:そのへんは少し自覚的に掲載しようとされたんですか。

平井:ええ。これはもう、いろいろ考えざるを得なかったですね。見れば見るほど、あれこれと理屈立てなければならない。藤原さんもそうでしたけど、今のパフォーマンスと違って力がありましたからね(笑)。

粟田:「New Out Zap-in」(村田高詩、明石晋、池田正一)というのは、覚えていらっしゃるかわかりませんが、野外キャンプでパフォーマンスをするという(『三彩』第252号、1969年12月)。

平井:(テキストを見ながら)……これは恐らく、記録を見ているんでしょうね。

粟田:そうですね、シロタ画廊でドキュメントを。

平井:私はこういうところ(キャンプの会場)にはあまり行かなかったから。相変わらず出不精というか。

粟田:ええ、現場には行かれていないですけれど、その意義については書かれています。

平井:そうですね、イベントという言葉があの頃、流行りましたから。だからあらゆるものがありましたね。それとパフォーマンスとは言わず、私はもっぱら設営という言葉を当てていました。

粟田:あとは……『三彩』333号(1975年6月)に書かれている、ステラークの展覧会(「マインド・マップ」、真木画廊)。

平井:ステラークがObsolete body: Suspensions: Stelarc(J.P. Publications, 1984)という作品集を出したんですよ。Obsoleteというのは“陳腐な”とか“平凡な”という意味ね。そこへ僕は30枚くらい書いたかな。

鏑木:私、拝見しました(注:「オリンポスの座〈ステラーク―自然・意識・譬喩Ⅱ〉」のこと。『構造』第3号(1983年5月)に転載された)。

平井:作品集には、山岸信郎さんも書いています。これは山岸さんが僕のところに、書けと言ってきたんですよ。他に誰も書く人がいなかったから。「平井さん、書いてくれないか」って。「喜んで書きますよ」ってことで。

粟田:(『三彩』に)写真が載っているんですが、石の下にステラークがずっと横に。

平井:これ、怖いよね(笑)。こういうこと、やっていましたよ。覚えています。これは後の方ですね。この前に鉤で吊るしたのをやったんです。自分の肉体を吊るして。

粟田:それもご覧になっていますか。

平井:見ています。山岸さんが手伝ったんだよ、これ。アルコールで消毒して、鉤をこう筋肉にグッて(刺す)。それでやったんだから(自分の体を吊ったんだから)すごい。なかなか見事な肉体。プロレスラーみたいなね。その後だったと思いますね。石の下に横たわって。

鏑木:そのままじっとしているっていう。

平井:はい。山岸さんの追悼文(「〈追悼・山岸信郎3〉 恰好の演習場」『あいだ』156号、2009年1月)にも書いたんですけど、田村画廊や真木画廊っていうのは藤原さん、ステラークをはじめ、本当に肝をつぶすような仕事ができたんですね。藤原さんの巨大音具も、田村画廊の前を行ったり来たりしていましたから。警察沙汰になるんじゃないかということで、いろいろと神経を使ったっていうことは、山岸さんが言っていましたから。

鏑木:それは音についてですか。

平井:というより、大掛かりな造作と人騒がせへの危惧だったようですね。ああいうことをやると道路交通法に引っかかって、これはやられるんじゃないかということでね。

鏑木:音というのは低い音、地響きのような感じでしょうか。

平井:そうです。地響きみたいな。ゴロゴロ……って。音にもならない音。

鏑木:体に直接響いてくるような。

平井:そうです、そうです。サウンドっていうよりも、なんか不思議な響きですよね。地にこもったような音っていうか。ゴリゴリっていうかね。

鏑木:音自体は大きいんですか。

平井:大きくない。そういう音はしないんです。もっとこもった、陰にこもった、力強い、地の底っていうかな。よく聞こえないくらいの音ですよ。ただ、聞かざるを得ない音です。そういうことだったと思いますね。暗い時にやったと思うんですね。

鏑木:そうですね。確か夜に強行したようなかたち。

平井:夜ならあまり車が通らない。今じゃとてもできないでしょうけれど(笑)。

粟田:場所は真木画廊だったようです。

平井:ああ、これはもう真木画廊になってからだ。

粟田:じゃあ先に田村画廊の頃にやって。

平井:何年からそうなったんだろう。田村画廊の開廊は私が書き出した頃と同じですからね。

粟田:68年とかですかね。

平井:69年だと思います。で、終わったのが2001年かな。そうだ、真木の方が広かったんだ。

鏑木:田村画廊はもっと小さかった。

平井:はい。

鏑木:(資料を見ながら)田村画廊が69年と書かれていますね。

平井:僕が(『三彩』で)書き始めたのが68年ですか。

粟田:69年ですね。

鏑木:じゃあちょうど重なっている。

平井:そうです。ですから、おずおずと(画廊を)回りながら訪ねて行って、開廊直後の山岸さんのところにも行っていろいろと話をうかがって、ですね。あの頃、まだ現代美術をやっていませんでしたから。どちらかというと自由美術家協会系ですね。でも69年には、いわゆるもの派がもうここで個展をしてます。

鏑木:そうなんですね。そのあたりのことを平井さんが追悼文でも書かれています。まだ田村画廊を開廊する前の山岸さんが、五番館画廊というところでオーガナイズしていたとか。

平井:うん、「新人画会」の回顧展です。そういう修業をしていたみたいですね。画廊の仕事を覚えるためもあったんじゃないでしょうか。

鏑木:その頃はご存じだったんですか。

平井:いや、知りません。だから展評を始めてあちこち回っている時に、田村画廊ができたということで行ったんですね。それで彼と初対面で。いや、えらいおじさんがいると思ったんですよ(笑)。僕よりちょっと先輩ですから。

鏑木:当時どんな方々と一緒に、どんなお話をされていたんですか。

平井:あの頃、彼は織田達朗の友人だったんですよ。だから織田さんに紹介されたのも、たまたま田村画廊だったと思います。

鏑木:平井さんは、織田さんとはわりとお付き合いがおありだったんですか。

平井:なかったんですけどね。田村画廊を通して知って、しばらくしてから織田さんが(平井の住む)東村山へ引っ越してきたんですよ、たまたま。私は野口町というところですけれど、彼は廻田町というところで、隣町です。彼の心酔者が何人かいて、引っ越しを手伝ったりしたようです。僕はそういうことは後で聞いて、どうしてこんなところへ来たんだろうと思っていた。だからと言ってこちらの方から挨拶に行くということはしなかったんですけれども、一時、彼の方から時々うちへやって来ました。来ると長話になってね。そういうことはありました。

鏑木:織田さんは、平井さんとお話をしたかったんですね。

平井:でしょう。彼はほら、ああいう人ですからね。画壇付き合いは必ずしも広くなかったんじゃないかと思うけどな。僕もそういう方ですからね。そうかと言って、あまり親しいわけじゃなくて。僕は亡くなってから初めてお宅へうかがったんです。追悼文を書くにあたってね(「ひとつの中継点と《原爆の図》―織田達朗の場所」『あいだ』第145~146号、2008年2~3月)。隣町同士だけど私の方はほとんど行かなくて、初めて彼の家を知って遺影の前でお線香をあげてきました。彼の心酔者が少なからずいて、それはそれで、ひとつのグループを作っていましたけれどね。画家というより、一橋大学の学生運動をやっていた人とか『早稲田大学新聞』の関係者とかね。全共闘じゃないけれども、新左翼ですか。新左翼の連中とも関わりがあって、いわゆるゲバ棒に用心しているふしもありましたね。ですから田村画廊は当初は、織田さんのアドバイスもあったと思いますね。織田さんの支持する作家たちが、度々やっていたんじゃないでしょうか。

鏑木:そうなんですね。

平井:うん、そうだと思います。そのうち現代美術系が入ってきたんですね。追悼文にも書いたけれども、当初から現代美術をやろうという意図があったかのどうかは、私にはわかりません。斎鹿逸郎とか、渡辺豊重とか。それから上原二郎という人が、亡くなっちゃったんですけれどね。この画家と杉原玲子と、当時田村画廊で確か「黒ミサ」と称する性的な非公開イベントを夜半に行なったと、山岸さんから聞いたこともありました。

鏑木:平井さんが書かれた山岸さんの追悼文の中に出てくるのは、主にもの派よりも少し前に田村画廊で展覧会をやった作家たちですね。このあたりで印象的だったものはありますか。

平井:ええ、前ですね。今言ったように、戦後美術の影響を受けた人たちでしょう。自由美術家協会系とね。団体展の中でも自由美術というのは、ちょっと異色でしょう。どちらかというと、反体制がはっきりしているグループですからね。そういった人たちがやっていましたね。でも、すぐに菅(木志雄)さんや高山(登)さんの仕事が現れて驚くことになりましたよ。

鏑木:平井さんは、その頃から行かれていた。

平井:そうですね。私もちょうど行っていて。

鏑木:平井さんは田村画廊・真木画廊が発行していた、ごく初期の『展評』にも何度か書かれています。(例えば「『島次郎“異物”展』にふれて」(1975年)など)。

平井:書いたかもしれませんね。あれは北澤憲昭さんが編集を手伝っていたのかな。あの頃、北澤さんが田村画廊だったか、真木画廊だったかにいましてね。『美術手帖』を積み上げて読んでいましたよ(笑)。彼の出自も美術はお門違いですからね。だから一生懸命、勉強していたんでしょう。

鏑木:北澤さんとはよくお話になっていましたか。

平井:画廊で顔を合わせれば話しました。美術の状況論ですね。「僕の展評、どう思う?」っていうことをちょっと聞いてみたりしていましたよ。もともと読者不在、ナシのつぶてで全然反応がないんだけど、北澤さんなら読んでくれているかもしれないという儚い思いで、喫茶店へ入って話を聞いたり。

鏑木:そうですか。なんておっしゃっていましたか。

平井:それはやっぱり見くびっても悪くは言わないですよ(笑)。そのへんはやっぱり複雑な顔をしていましたけど。

鏑木:でも悪く思われてはなかったかもしれませんよ(笑)。

平井:いやぁ、それはわかりません(笑)。もともと鋭いところがあるから。だから話をしていておもしろいんだよ。こんなに力強く羽搏くとは当時思わなくて、よく勉強している若者だと思うところがあって。画廊に行くと「暇?空いてる?」なんて言って、お茶を飲みながら話をしたり。

鏑木:仲良しですね(笑)。

平井:たまさかの、それもかなり年を食った相手ということでしょうね。そういえば、うちに泊まったこともある。『象』という雑誌、あれを出すにあたって、戸谷成雄と東村山くんだりで相談してたんじゃないかな。戸谷さんは所沢ですからね。そこへ「平井が東村山にいるから」ということで電話がかかってきて、三人で呑んだんですよ。例のごとく話が弾んで、長引いて終電車がなくなっちゃった。戸谷さんは隣町で、私が地元ですから「じゃあ俺のところに泊まろうよ」ということで、泊まるハメになっちゃった(笑)。そんな時期の前に(北澤さんに)『三彩』を紹介したりはしました。

鏑木:北澤さんを『三彩』へ最初に紹介されたのは、平井さんなんですね。

平井:『三彩』はそうだと思いますね。何よりもものを書くのに満を持してる気配がみなぎっているって知っていたから。あの頃、ぼちぼち書いていたようですしね。「だったら『三彩』でやってみたらどうか」と言って、編集担当に紹介した覚えはあります。それが彼にとって最初だったかどうかは、ちょっとわかりませんけれどね。そういう意味では、話し相手にはなって貰いました。当時もっと知見が広くて、立ち入った話をしたのは、赤塚行雄でしょう。赤塚さんも画廊を回ったついでに北澤さんをつかまえて、いろいろと話をしたようですね。

鏑木:それはでは、平井さんもご一緒に。

平井:いや、僕は赤塚さんには『現代美術』(雑誌)の太田三吉さんに紹介された覚えはありますけど、こちらの引きこもりもあって話はあんまりしなかった。赤塚さんの方もこちらを敬遠していたし。

鏑木:前回のインタヴュー前の雑談で「『現代美術』に原稿を頼まれたんだけど、結局雑誌が潰れちゃって載らなかった」とおっしゃっていましたね。その時は何についての原稿だったんですか。

平井:何を書いたんだっけな。……うーん、覚えてないんですよ。太田さんに手渡した原稿も所在不明。『眼』(おぎくぼ画廊発行)で書いたようなことかもしれませんね。あれも読むと……

粟田:平井さんは『眼』にも書かれているんですか。

平井:ええ。おぎくぼ画廊は恐らく、最初に僕が書くのを認めてくれた画廊じゃなかったかな。

鏑木:そうだったんですか。

平井:ええ。『眼』にもよく書かせてくれたし。宮川さんとか中原さんもお書きになっていたし、石子順造さんとかね。それでお前も書けということで、三浦(早苗、おぎくぼ画廊主)さんがスペースを与えてくれた。あの方は恩人ですね。あの頃はほとんど、どこにも書かせてもらえなくて。展評をやる前はね。そんなに書きたい気持ちがあったわけじゃないんだけど、書けたら嬉しいなという気持ちがあったんです。そうしたら三浦さんが、書いてみたらどうかと言ってくださって。そこで赤塚さんとも知り合いになったということはあったと思います。おぎくぼ画廊っていうのは、そういうこともあり非常に印象に残っています。

鏑木:それは「私の主題」で平井さんが出られた、すぐ後ですか。

平井:ええ。だから(『三彩』で)展評を始める前です。その間にそういう話があったのね。

鏑木:三浦さんは平井さんの「私の主題」を読まれていたんですね。

平井:でしょうね。そのへんは聞きませんでしたけれど、書かせたということは恐らく。特に感想はうかがっていないんですけれども、どこかで頭にあったんでしょうね。

鏑木:おぎくぼ画廊の作家さんにお知り合いなどはいらっしゃいましたか。

平井:この間、脚光を浴びた……福住廉さんが作家論をおやりになった、アメリカから帰ってきた、僕みたいに軽薄調の絵を描く人……ポップ調の……

鏑木:佐々木耕成さんですか。

平井:そうそうそう。あの方たち、当時の新進たちがやっていましたね。それから僕の居住地の近くの、鷲見哲彦。あの人たちとかね。そういう人たちとは話をしましたね。大抵は展覧会を見るだけで、作家との付き合いはなかったですね。ただこの前もお話したと思うんですけど、宮川淳さんが来ていたり、中原佑介さんが机を借りて急ぎの原稿を書いていたり、石子順造さんが例の早口でまくしたてたり(笑)。

粟田・鏑木:(笑)

平井:(早口で)「ああ君か、あれ、おもしろかったよ!」なんてね(笑)。そういうことで一言二言は交わしましたけどね。あそこは批評家の出入りが多かったですね。針生さんももちろんいたし。そこに行っただけで、そういう人たちと居合わせるわけです。

鏑木:行くと誰かしらいる、みたいな。

平井:そうですね。そういう意味で、私なんかも受け入れてくれた画廊ということでよく行っていました。画廊賞を出すなど、当時そうしたスペースを維持した三浦さんの功績は大きい。

鏑木:おぎくぼ画廊がなくなるのって、68年でしたっけ。『眼』が廃刊になったのが、確かそれくらい。

平井:ですから、田村画廊のすぐ前ですよ。田村画廊が69年ですか。だから私が書き出してから、間もなく終わったんじゃなかったかな。

鏑木:そうですよね。おぎくぼ画廊の最後の方で、平井さんは関わりがあったんですね。

平井:そうですね。『眼』が出た頃ですからね。編集構想と『眼』というタイトルの発案は中原さんですよね。

鏑木:本当ですか。

平井:うん。それで早速、赤瀬川原平さんがレタリングしたそうです。あの『眼』という字。

粟田・鏑木:初めて知りました(笑)。

平井:三浦さんからそういうことを聞きました。

粟田:おぎくぼ画廊の『眼』は65年から68年です。

平井:ちょうど私が書き始めた頃ですね。

(休憩)

鏑木:平井さんはおぎくぼ画廊がなくなってから、三浦さんとはお付き合いされていますか。

平井:年賀状のやり取り程度ですね。

鏑木:直接お会いになる機会っていうのは……

平井:なかった。

鏑木:そうですか。先ほど三浦さんは、平井さんの恩人のような方だとおっしゃっていましたね。三浦さんとは当時、どんなお話をされたのでしょうか。

平井:私は業界のことを全く知らないもんですからね。いろいろなことを聞きました。現代画廊の状況というかな。そういう雑然としたことはいろいろ初めてうかがいましたね。何もわからないんですよ。どういう人間関係かっていうことも含めてね。

鏑木:(笑)

平井:そんなに深く話したこともないんですけれども、画廊ですから話はいろいろありますよね。そういうことを通してこの世界のミリュー(注:環境)を知りましたね。ついでに申し上げると、その後、現代美術関係のいろいろな話は山岸さんから聞きました。彼がよく話してくれました。

鏑木:山岸さんとは、どんなお話をされたんですか。

平井:いやぁ、本当に下世話な話から含めて(笑)。それから現代美術の生きた状況ですね。彼は論客ですから、そういう角だった話をしました。お付き合いの仕方とかもね。どういう人が、どういう役割を持っているとか。要するに人間関係の、複雑な、我々の知らない現場を彼はよく知っていましたから。百鬼夜行の熱い画廊ですからね、それはよくうかがいました。私の方から、これはどういうことなのかなということを質問したこともあります。

鏑木:印象に残っているお話などはありますか。

平井:いやぁ、下らない話の方が多かったです。

鏑木:雑談という感じですか(笑)。

平井:誰と誰が恋愛関係にあるとか、ケンカしているとかね(笑)。そういう話も含めてね。それからある有名人たちと彼の関わったことで、この人はどういうことをやってきたのか、どういう考え方をしているかとかね。美術誌面で知る以外の話を、いろいろうかがいましたね。雑然としたゴシップですね。特定の人物、批評家たちの実態の一面に触れるなど生々しい話っていうのはここで知ったし、あとは、ときわ画廊の大村(和子)さんね。あそこもそういうことでは、かなり人の出入りの激しい所だったから、おのずからそういう情報は手にしますよね。あの人からもいろいろうかがった。これは皆そうでしょう。だからああいう所に集まって、どうのこうのっていうのは、皆あそこで。作家たちも恐らく情報を掴んでいたんじゃないでしょうか。それは私も同じです。知らないよりましという程度のことですけれど。

鏑木:さっきも少し話に出たこの本について(注:山岸信郎『あるアホの一生:田村画廊ノート』竹内精美堂、2013)、ふたつお聞きしたいことがあります。実はこの本で山岸さんが直接田村画廊のことを書いている文章って、最初だけなんですよね。この中にアルバイトの三浦さんという方がいらして……

平井:ああ、三浦武男さんね。

鏑木:ええ。理論物理を専攻されている方で、この方のお話がおもしろかったとおっしゃっています。

平井:ええ、三浦さんは覚えています。大学院生だったのかな。物理学をやっているということで紹介されて「ああ、中原さんと同じだ」って。

鏑木:そうですね(笑)。

平井:それで物理学と美術はやっぱり関係が深いのかな、と思いながら接した覚えがあります。行くと気軽に話をしてくださいましてね。若い方でメガネをかけていて、静かにものを聞いてね。いつも的確に答えてくれました。物理学のことはもちろんですけれども、哲学や美術についても一家言を持っていましてね。そういう意味では話のおもしろい人でしたね。いまどうして居られるか。

鏑木:当時、田村画廊にいろんな方がいらっしゃったと思うのですけれど、こういう美術に直接関わりのない方もいらして、お話を聞く機会があったんでしょうか。例えば三浦さんであれば物理の方だったり。

平井:えーとね、……追悼文にも書いたんですけれど、さしあたり一番印象に残っているのは長谷川泰子さんですね。中原(中也)と小林(秀雄)が張り合った、あの方ですね。気さくな方で、どうしてあそこへ来たのかな……よくわからないです。懐かしそうによく話をしてくれました。私どもも知っていたようなことですけどね。呼び捨てにしていますからね。「大岡昇平はどうのこうの、小林はどうのこうの、中原はどうのこうの」とかね(笑)。その点、やっぱり実感はありましたね。そういう話を聞きながら、この人がそうだったのかと。……それでこう、やおら懐からゆで卵を取り出して(笑)。

鏑木:入っていたんですか(笑)。

平井:お弁当かなんかで、持っていたんじゃないかな(笑)。

鏑木:突然、ゆで卵をくれたっていう(注:前述の追悼文にエピソードがある)。

平井:「平井さん、どう?」って言うから、恐縮しながら頂きましたけど(笑)。

鏑木:びっくりしちゃいますね(笑)。

平井:だから、山岸さんってそういう所があったんだよね。そういう人を受け入れて、話を聞いてね。彼も文学青年だったから、いろいろ聞いたんじゃないですか。

鏑木:この画廊自体にいろんな人が集まって、いろんなお話をされていたのかなって思ったんです。

平井:そうですね。他に誰がいたかな。……三井滉(みつい・こう)っていう学者がいましたね。アメリカ研究の美術史家。現代アメリカ美術について書いています。東北で大学(宮城教育大学)の教授をやっていらして、あの方は山岸さんと同級生って聞いたな。私は知らなかったんですが、紹介されました。アメリカのフォーマリズムについての本を書いています(『現代美術へ―抽象表現主義から』文彩社、1985)。韓国の画家たちにも紹介されることが多かった。この本(『田村画廊ノート』)は、手元には置いてあるんですよ。ざっとは読みました。

鏑木:平井さんがこの本を読まれて、第2章のノート・メモの中に、これは自分のことなんじゃないかと思う記述があるとおっしゃっていました。どのあたりですか。

平井:えーと、「東野芳明はおもしろい」って書いてあるところなんですよね。あそこのちょっと後ですね。(本を見ながら)……美術は享受するものだ、ということね。要するに、美術は楽しいもんだっていう。屁理屈を並べるんじゃなくてね。

鏑木:(笑)

平井:そういう意味で、批評家の仕事としては、織田達朗と東野芳明はおもしろい、と。で、これは俺のことかな、と思ったところがあるんです。「えー」って思ったんですよね。この本、XとかYがいっぱいいるんですよね(注:同書は文中で人名を伏せて“X”などと表記されている場合がある)。まぁそれはそうでしょうけど。

鏑木:そうなんですよね。わかる人には、すぐわかるのかもしれませんけれど(笑)。

平井:確かここだったんですよねぇ。……ああ、これこれ(「林達夫を読んで、享受と求道」262〜266頁)。ここの2行ね。これはたぶん、俺かなって(笑)。

鏑木:「隠棲的文化主義の失敗者をXという男に見よう。Xを顧みることによって、私は苦々しい思いを自分によせ続けることが必要である。」という部分ですね。何か思い当たられることがあるんですか。

平井:これはね、「平井さんって隠棲的だよね」って、彼が話した覚えがあるんですよ。引っ込みはこちらも自覚してたし。そういうことから始まっているんですよ、この「失敗者」というのは。ただね、これは別にケンカした訳じゃないんだけど、ある時、東村山で選挙があったんです。その時に私の家の近くに市議会議員がいまして、社会党系なんですよ。女の方ですけどね。山岸さんは学習院時代に付き合いのあった方で、その方が立候補したもんですから、彼は竹内博さんの運転で東村山まで来た。その青木さんっていう社会党から立候補した人が、打ち上げの時に山岸さんを呼んだらしいんですよ。アトラクションみたいなかたちで、立候補応援のゲストとしてね。それで、彼が気を利かせて、僕に電話をかけてきた。ところが青木さんっていう方のお住まいは、僕の家の近くで選挙区なの。でも私は、彼女を支持していないんですよ。だから、行くとこれは選挙の旗揚げだからな、マズイなと。近所付き合いしているしね。ということで、あえて断ったんですよ。で、彼の顔を潰したことになるんです。たぶん、そこから彼は感情的にやっぱりおもしろくなくなったんだろうなっていうことは、僕の頭に残っているんです。ある意味で悪いことをしたなっていうね。こちらも、そこまで冷たくしなくてもよかったのかなっていうのがありましてね。それが胸にあって。あるいはっていうことは、読みながら勘ぐった訳ですよ。でもわかりません。

鏑木:そうかもしれないな、という。

平井:うん。その「苦い思い」っていうのは、自分に対しての苦い思いなのか、私が苦い思いをさせたのか。そういう嫌な奴がいるけれども、そのようなのにはなりたくないものだ、という苦い思いなのか。ちょっと、わかりませんけどね。そう勘ぐりながら、おもしろがって読んだんですけれど(笑)。
というのはね、画廊を閉めてからは、ほとんど付き合いがなかったんです。親しかったから、忘恩っていうかね。平井は恩義に報いない、冷たい野郎だっていうことぐらいは思っているかもしれませんね。それはあったと思います。ところが突然、高山登くんから電話がかかってきて「死んじゃったよ」っていうことで、「ええ!」ってなって。後の祭りです。その前に、彼は韓国にずっと行っていたでしょう。そのあたりから、ほとんど私とは顔を合わせていませんし、付き合いもなかったんです。

粟田:ところで、平井さんの著書『指示する表出』のプロフィールを見ると、入江比呂の彫刻についての共著がありますね(『彫刻家 入江比呂のアッサンブラージュ』芳林社、1981)。

平井:これもちょっと書いただけですけれどね。

粟田:そうなんですね。これはどなたが。

平井:これはね、門田秀雄。

粟田:門田さんから声が。

平井:ええ。門田さんから「書いてくれませんか」ということでした。

鏑木:もうひとつ、教えていただきたいことがあります。『三彩』の展評ですけれども、平井さんは78年まで執筆をされています。ちょうどこの頃、『三彩』が一回倒産するんですよね(第372号、1978年8・9月合併号に記載あり)。

平井:そのようですね。新社ですかね。

鏑木:ええ、三彩新社みたいになると思います。平井さんは三彩社が倒産した直後、新社に変わった頃から展評を『美術手帖』の方で書かれるようになりますが、何か理由があるのでしょうか。

平井:いや、それは全く理由はなくて、『美術手帖』の編集の方からお声がかかってきたわけです。その前に谷新さんとやってましたが。

鏑木:ええ、(展評が)対談形式になっている(平井亮一+たにあらた「展評/東京」『美術手帖』第373号、1973年11月〜第388号、1974年12月)。

平井:それで、単独で書くことになったんですけれどね。短い間で、僕は展評が嫌だということを言って、打ち切ってもらった覚えがあります(『美術手帖』第441号、1978年11月から再開)。

鏑木:それは『美術手帖』でですか。

平井:『美術手帖』で。もう展評は耐え難いということで。

鏑木:耐え難い(笑)。大変だということですか。

平井:ええ、いくら万年駆け出しの学習とはいえ、細々見て考える。これにはもう『三彩』でうんざりしてて、もうしんどいということでね。「もう早く降りたい」ということを言った覚えがあります。

鏑木:では三彩社が倒産したので、展評を書かれる場所が変わったということではないのですね。

平井:それは全然ありません。倒産決定も知りませんでしたし。

鏑木:そうだったんですか。

平井:はい。恐らくスタッフの方も狼狽えたんじゃないでしょうかね。だから一人、二人とそれぞれの方へ行っちゃいましたけれどね。ですから、引き継ぎみたいなことはほとんどなくて。たまたま『美術手帖』の方から「どうか」っていうことだったと思います。

鏑木:その時の担当編集者はどなたですか。

平井:対談形式の時に関わったのは、福住(治夫)さんだったかな。その次(78年からの展評のこと)は、大橋紀雄さん。その他での担当が篠田孝敏さん。『美術手帖』に私が書くようになったのは、田中為芳さんの時です。

鏑木:それからのお付き合い。

平井:そうですね。ただ……谷さんと話し合った時に、僕が福住さんにどういうことを申し上げたかというと、僕のようなくたびれた展評子と谷さんのような気鋭の新進を突き合わせるのは、意地が悪いって(笑)。「大変意地の悪い企画ですね」って言ったのは覚えています。「いや、そうおっしゃらずに」ってことで、それがまたおもしろいからっていうようなことを、福住さんが言った覚えがあるんですよね。「いやぁ、これは敵わんな」っていうのが、ちょっとありました。実際、しゃべってみると谷さんはゲラをほとんど直さないんですよ。

鏑木:すごい。

平井:僕はかなり直した覚えがあります。論理的に何を言っているのか、わからない箇所が随分ありましてね。しゃべっている時はわからないんだけど、冷静になって読むと「これ、何を言っているの?」っていうのがありまして。

粟田:平井さんの著書『指示する表出―現代美術の周辺で』(新門出版社、1984)のことですが、こちらを出された経緯というのは。

平井:これは、平岡和雄っていう出版者がいまして。ダイヤモンド・エージェンシーで顔見知りだったんですよ。それで「平井さんの話に乗るよ」っていうようなことがあって、「じゃあ、出してくれる?」ってことになって。それで急ぎで出しました。ところが返本、返本で「損しちゃったよ」と言っていました。

粟田:『指示する表出』は84年に出されていますけれど、70年代に平井さんが書かれたテキストをベースにされています。『三彩』『日本読書新聞』『近代建築』などにも。

平井:つまみ上げてね。

粟田:これは、70年代に平井さんが考えられたことをまとめようとされたのですか。

平井:そうですね。原理的なことに関わるものをここで入れようとしました。作家論も書いていましたけれどね。それを省いて、私の拠って立つ基盤みたいなものを出しておこうという意図がありました。それについて、それらしいものを集めて出そうということだったんですね。

粟田:原理的なところというと、タイトルの「指示する表出」という。

平井:そうですね、現代美術は総じてものごとの表現よりは、事柄の指示を繰り返しているという見立てからですね。これも堅苦しいタイトルでね、もう少し文学的でも良かったんですけれど。

粟田:『デザイン批評』との関係性でおうかがいしたいのは、平井さんは日宣美の問題をどう考えるかというところで、一文書かれています。「いかなる芸術前衛もメタ・デザインもアングラも、やがてものわかりのいい文化管理のコレクションに納められてしまうだろう」(「日宣美からデザインを奪還できるか」『デザイン批評』第10号、1969年10月)。

平井:いい気なもんですねぇ(笑)。

粟田:「万博芸術においてしかり、国際美術展においてしかり、箱根の森美術館においてしかり、美術ジャーナリズムにおいてしかり、そしてもとより日宣美においてしかり。」平井さんの日宣美、あるいは万博、反万博の問題意識の中に「管理」という言葉が出てくると思います。それが『指示する表出』の中にも書かれていますね。例えば「美術とオンライン―表出の位相」。これはもともと『三彩』で「管理(オン・ライン)と美術のあいだ―表現者の位相」というタイトルで書かれていますけれども(第324、326、331、333号、1974年11月〜12月、1975年5月〜6月)。

平井:そうですね。『三彩』で時評のようなかたちで書いていたと思います。

粟田:「管理」というのは、70年代を原理的に語る時に……

平井:大雑把なものですけれど、これは今でも続いている現実認識です。(聞き手の鏑木は)美術館にお勤めになっていらっしゃいますけれど、調査、審級、保存、そういうことはやはり避けがたいことですよね。制度としてそれだけの力がありますし。反面、批評家というのは、どちらかと言えばどうでもいい存在になっている。現に実態は、批評だの原理だのよりは学芸員の活動。それからジャーナリズムですよね。あとは研究活動。その3本の矢。他は刺身のツマのようなことで、私などはその間をウロウロとしているだけのことですけどもね。だからそういう意味での制度というのは、もう避けがたいことですし、ある意味では決まっていますね。美術の評価や歴史づくりというのは、そこで決まってきますね。そんなことについて当時なりに眼の先のあれこれ、いろいろ考えたんでしょうね。ソフト/ハードという言葉がありますけれども、大局としてハードがソフトを規定するということは避けがたいことである、というありきたりな認識だったと思いますよ。

粟田:平井さんは万博も行かれてないわけですよね。万博とも、反万博とも違うスタンスに自分を置くという。

平井:要するにものぐさですね。

粟田:そういうスタンスに身を置かれようとした時に、平井さんが何を問題にするかということで「管理」という側面が出てきたのかなと。

平井:そうですね。個ということを考えた時に、管理の問題というのは直に全面に出てきますからね。至るところが制度ですから。私のような観客にとっては、皆そういう風に見えるわけですよ。こういう組織自体がね。あなた方がおやりになっていること(日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ)も、新しいひとつの制度ですからね。そういう意味での関わり方というのが、何と言うか、肌でわかるわけね。そこでものを考えていますから、そういう発想が出てきたんじゃないかな。

粟田:60年代中頃から後半には、宮川淳さんや『デザイン批評』にも石子順造さんが制度についてテキストを書くという(石子順造「制度としての美術と美術としての制度」『デザイン批評』第10号、1969年10月)。

平井:そうですね。ですからハードもソフトも皆、制度化されているということかな。良きにつけ悪しきにつけね。そういうことじゃないでしょうか。そこまで言っちゃうと当たり前過ぎて身もフタもなくなるんだけど、実感としてはそうですね。だからそこに入っていかないと、始まらないというかな。それはあるね。作家たちもそうじゃないかな。ひとりひとり見ていると、個展でやっている作家たちは皆、心細そうですもんね。心細いっていうのは誰かが観てくれないかっていうこともありますけれども、何かこう、制度の中に入って行けたらなということは皆、求めているわけで。そういう意味での制度というのは大問題ですけれども、これはまた日常的な問題ですよね。それで、彼らはなお活動を続けなければならない。この報われない試みを担保する所以は、じゃあ何か。これは個々のこととして心に残りますから。

粟田:この文章(「美術とオンライン―表出の位相」)は「国民総背番号制」とか、ジョージ・オーウェルの『1984』の話から始まっていますね。

平井:(読みながら)……オンラインですね。当面のことはソフトの面が「制度」となっている、ということだと思うんですよ。アメリカでの抽象表現主義ももはや国際的に制度化されていますし、広義のコンセプチュアリズムは、制度と作品と相互にわたる問題でもあるし、価値評価に関わってきていますからね。そういうことは避けがたいことで、そうでないことを制度にしようっていうのは、ひとりじゃとても無理ですし。一方では、美術館あたりで大々的に特集を組むとか、そういうことをしていかない限り恐らく、制度にならないわけでしょう。それはしかし、必要なことですしね。非常に複雑に噛み合っていますから。そこに噛み合う歯車に参加できればいいんだけど、そうでないとなかなかね。消えてく運命にあるわけです(笑)。
今はどうなんだろう? ネット社会ではそういうのはなくなっていくのかな。ネットに入っていくと、個人個人が参加できるから。例えば、ツイッターでもブログでもいいんですけど、横のつながりができますもんね。お金をかけなくてもね。

鏑木:それはそうですね。

平井:それだけに、見えない制度に何時かもろにオンラインされるのを相対化するような視点を確かにしない限り、個はやっていけない所まで追い込まれるんじゃないでしょうか。

粟田:『指示する表出』の中には、第1回「東京展」カタログに収録されたテキスト(原題は「捨象されない自然」『東京展』東京展市民会議、1975)もありますが、東京展について開催の経緯だとか、実際にご覧になって、あるいは第2回の問題とか、どのように……

平井:この間ね、かつて東京展でラジカルにアクティブに活躍した作家と会う機会があって話したんです。私もそう思っていたんですけれど、今は団体展になりましてね。会員制度になっているんでしょう。私がここで書いたことが現実になっている。会員になる、ならない。それから、順繰りに会員の個展をする、しない。顕彰というか、ある程度務め上げた人たちを個展形式でやっていますよね。もうひとつの権威になっているという。権威主義を排除したはずの団体が、そういう権威的な組織を作ろうとする傾向がありますよね。

粟田:東京展のそもそもの開催の経緯は、平井さんはご存知でしょうか。

平井:恐らく自由出品というかたちだったんじゃなかったかな。アンパン形式のね。僕はそういう風に理解していましたけれども、自主参加ですからね。自主運営が団体展になっちゃっているわけですからね。

粟田:平井さんは、その萌芽があるんじゃないかということを指摘されていますね。

平井:ええ。今、多分そうなっちゃっていますから。だからほとんど関心はありませんけれども、案内状は頂いているんですよ。観に行ったことはないですけれどね。……確かに難しいんですよね、団体展を維持するということは。

粟田:「東京展死亡通知」なるものが送られてきたという(「東京展死亡通知」を受けて『美術手帖』第412号、1976年10月)。

平井:もう死亡しているんじゃないでしょうかね。

粟田:これは、2回目の時。

平井:この間会った作家も、そういうことを感じてもうとっくに辞めていますということを言っていましたからね。これ以上、出さないと言っていますから。

粟田:当時、平井さんは……

平井:いや、そういう可能性は感じていましたよね。そうであってはならないというのが、本当の趣旨ではなかったかということはありましたけれどね。

粟田:この本の構成というのは、先ほど原理的なものを選んだとありましたけれども。

平井:構成というか並べただけの話ですけれども。

粟田:東京展の問題が平井さんの中でどういう風に。

平井:(本を見ながら)……ああ、これですね。これね、確か東京展に関わった人たちが来て「こういう冊子を出すのだけれども、何か書いてくれ」というので、こういう内容でよければ書きますよ、ということだったと思います。他に書くこともなかったものですからね、よし、ということで書かせてもらった覚えがあります。これも、管理や制度を内側から相対化する原点を書くつもりでした。

粟田:東京展には針生一郎さんも関わっていますね。

平井:当初、関わっていたと思います。ヨシダ・ヨシエさんも関わっていたのかな。山下菊二さんなんかも関わっていたと思いますね。で、たちまち去って行かれたと思います。もうひとりいたな。新制作派協会の深尾庄介と言ったかな。この人も、亡くなっちゃいましたね。
それから、これは東京展ではないんですが、玉置正敏という人がいた。新制作派で近畿大学の先生をやっておられた人だと思います。事の経緯は「アーティスト・ユニオン」関係だったかもしれません。当時はそんな運動が盛んだったんですが、アメリカから帰って間もない草間彌生さんが、意外にもこの玉置さんたちと一緒になり、私を呼んで社会党本部の小部屋か何かで、多分ユニオンだったと思いますが、組織や運動か何か話し合ったことがあるんですよ。玉置さんはこちらを担ごうとしたのかもしれません。地味な和服姿で現れた草間さんに正面から「あなたのような人に頑張って貰わなければ……」なんて突然言われてドギマギしましたが、御期待に応えられなかったのは残念でした。どうして玉置さんと草間さんが組むことになったのか、解らないんですが、彼女の慎ましい振る舞いは、耳にしていたニューヨークでの活躍ぶりとはまるで違ったものでしたね。

粟田:入江比呂さんや門田秀雄さんとの関係は、前衛美術会との関連ですか。

平井:前衛美術会との関わりはなかったんですけれども、入江さんと親交のあった門田さんが私の方へ声をかけてきました。こういう本を作るについて、私に書いて欲しいと言ってきて。そこで初めて新橋の喫茶店でお会いして、知り合いになったわけですね。その後、彼は『構造』という個人雑誌を発行することになって「お書きになりませんか」ということを言ってきていただいて、ここから関わりが続いたということですね。あれこれ勝手なことを書かせてもらい、とても感謝しています。

粟田:あとは『三彩』の「美術メモ」では、李禹煥さんと郭仁植さんについての連載をされていますね(「郭仁植展と李禹煥展―自然と企み」『三彩』第354号〜第356号、1977年2月〜4月および第358号、1977年6月)。

平井:ああ、ちょっと時評めいたことを書きましたね。

粟田:郭さんとも平井さんは。

平井:『美術手帖』で作家論をやって、その時に取材ということでお会いしました(「作家論・郭仁植 物に即くとき」『美術手帖』第404号、1976年2月)。

粟田:このシリーズを書かれようと思った経緯というのは。

平井:それはね、その前に郭仁植論を書いていて、その後の問題として、今お話になった『三彩』で書かせていただきました。李禹煥との関係というかな。作品を見比べた時の感想だと思いますね。ただ李禹煥ははっきり言って、郭さんの影響を受けているはずですから。(コピーを見ながら)……これは『三彩』ですか。例えば、李禹煥がガラスを割った仕事がクローズアップされましたけれど、郭仁植はすでにやっていますからね。そういうことはここには書いてあるのかな。……随分書いたな。

粟田:4回にわたって書かれています。

平井:李さんは、田村画廊へもある時期出入りしていたようでね。郭さんも田村画廊にはよく来ていました。僕が郭仁植論をやってからは、そこでたまたま郭さんとお会いしましたね。李さんについて、郭さんがいろいろと不満を言っていたことも覚えています。

粟田:著作にも入っているんですけれども「“平面”をつきぬけて」というテキストでは、「韓国・現代美術の断面」展(東京セントラル美術館、1977年)について書かれています(注:初出『三彩』第364号、1977年12月には「『韓国・現代美術の断面』展にちなみ」の副題あり)。

平井:李さんで僕が一番興味を持つのは、先ほど申し上げたように、ものから平面に入っていったプロセスね。必然性があるんですよ。もの派と言われた人たちがついに絵を描き始めるという、そのプロセスが非常におもしろくて。私は常々、種別形式と言っているんですけれどね。彫刻という種別、それから絵画という種別ね。種別形式の違いっていうのは、事柄が媒材との関わり方で構造として違ってくるわけですけれど、ものとの関わり方が違ってきている。そのプロセスで彫刻という他ない構造ができたり、絵画という他ない事態ができたりするわけでね。根本にはものがあるというのが、いわゆるもの派との関係で私なりに考えたことですけれどね。李さんについて言えば、そこが僕は一番おもしろいと思っているんですね。

粟田:そうすると、これはたまたま韓国の展覧会を取り上げたわけですね。

平井:たまたま注文があったので書いたということだったかな。

粟田:では李さんの問題意識を、70年代のこの展覧会の展評の中で少し展開されたというかたちなんでしょうかね。60年代後半には「韓国現代絵画展」(東京国立近代美術館、1968年)が開かれたりもしていますが、特に韓国の作家への関心というのは。

平井:特に韓国についての関心はないです。たまたまこういう展覧会があったから、ということだったと思うんですよ。私の場合は、どうしても自前の理屈に引きつけながら書かなきゃ気が済まないところがありましてね。それで恐らく、そういうことを書いたと思うんですね。だからね、シュポール/シュルファスとかアンフォルメルっていうのは、私にとって気掛かりな問題だったんですよ。その基本には、いわゆるもの派があってね。先程のことですけど、韓国の作家の画面づくりからものの質料への、こう何か嗜好を取り立てて考えたのもその延長だったと思います。
ところで、私がどうしても“いわゆる”と言っちゃうのは、もの派というのはあんまりぴったりこないところがありましてね。70年前後をずっと見てきている人間には、必ずしも画然としたもの派というのは形成されないんですよね。多かれ少なかれ皆、そういう傾向があったもんですから。何であの人たちだけがもの派になるのかな、というのがあってね。あとは皆、排除されていますからね。

粟田:そうですね。

平井:制度化されちゃっていますから。子細に見ていくとどうもそうじゃないんですよね。もの派的なものは他にもあって、その中のたまたま何人かがクローズアップされちゃっているし、そうじゃない人もいっぱい入っている。野村仁なんかそうですね。それから吉田克朗くんなんかもそう。その後に続く仕事の筋からすれば、むしろ搔い撫でのところがありませんか。ものへの対応でね。あの人たちはむしろ、もの派なんて言われること自体「へっ」っていうことだと思うんですよ。聞いたわけじゃないけれどね。
恐らくたまたまもの派とされている人たちは、70年か何かに座談会があって(「〈もの〉がひらく新しい世界」『美術手帖』第324号、1970年2月)大々的に『美術手帖』で取り上げられましたよね。そのあたりから何となくもの派というムードが形成されてきて、真正と疑似と格付けもされて、あの人たちがもの派の代表になっちゃっていますけれどね。子細に作品を点検していけば、ばらばらで、必ずしももの派という固い核は形成されない、というのが踏ん切りつかない僕の考え方。私の場合は、ものの様態の自己指示というね。自己指示というトートロジーを原理に実践して形式化したのを、恐らく純粋なものの表出と言えば、言えるんだろうと。それはいわゆる今の言われている、カッコつきの「もの派」ではないよというのが、いつも頭にあって。

粟田:なるほど。

平井:だからもの派という時に、僕は「いわゆる」とすぐに言っちゃうんですけれどね。

粟田:峯村敏明さんが、86年に西武美術館で「もの派とポストもの派の展開:1969年以降の日本の美術」という展覧会をやりましたけれども、平井さんはご覧になっていますか。

平井:観ました。まぁですから、その点を曖昧にポスト云々と制度化されていくとああいうプロセスを踏んでいくわけですからね。そういう風に僕は見ていますけれど。峯村さんは「絵画の豊かさ」を企画しましたよね(「絵画の豊かさ」展、横浜市民ギャラリー、1977年)。

粟田:77年ですね。

平井:彼はもの派に対して、ああいう風にものを並べるだけじゃダメで作るべきだって言ってきましたが、結局は良き理解者になっちゃいましたけれども。そういうプロセスを見ていると、やっぱりそのあたりの成り行きは必然でしょう。それはそれとして、もの派の定義っていうのはもう少し広く細かく検証されてもいいような気もしますけどね。

粟田:峯村さんとそのあたりについて、何かお話されたことは。

平井:いやいや、皆さん今更こっちを相手にしません。周辺のノイズに過ぎないから。突き詰めて話をするってことはなかったし、そういう機会もありませんでしたから。ただ、藤井博の作品集(『藤井博:作品・集 1970-1991:現代・美術の外部性』藤井博、2006)の出版記念会の挨拶の時に、藤井さんの仕事に絡めてそういう話をちょっとした覚えがあります。彼もいましたけれどね。そうしたら彼が若干色をなして檀上に立ち、「そういう間違った話はここではやめた方がいい」ってなことで。こちらの応対のまずさもあって、私ははっきりたしなめられましたけれどね。

粟田:そういうことがあったんですね。

平井:まあそれはそれとして、私としては別の方から羽生真などその他もろもろ当時の「物表出」については書かざるをえません。「もの派」はしかし既成事実化されていますからね、はっきりと。もう、インターナショナルのレベルでも通っちゃっているし。まさに制度化され、れっきとした歴史になりましたね。

粟田:そうですね。それでは今日はそろそろ終わります。長時間どうもありがとうございました。

鏑木:ありがとうございました。