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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

中川直人 オーラル・ヒストリー 第1回

2009年2月16日

ニューヨーク、中川直人アトリエにて

インタヴュアー:富井玲子、池上裕子

書き起こし:礒谷有亮

公開日:2010年4月12日

インタビュー風景の写真
中川直人(なかがわ・なおと 1944年~)
画家
大阪芸術大学に学び、また元永定正や聴濤襄治などの具体美術協会メンバーとの交流なども経て1962年に渡米し、以後主にニューヨーク在住。1968年にジャドソン・ギャラリーの個展でデビュー、「Extended Objects(オブジェの延長)」という概念から出発した絵画は大作へとつながり、1970年代はOKハリス画廊で継続的に発表した。ダウンタウンに住み、マイケル・スノウやヴィト・アコンチ、ジョン・ペローなどと交流し、パフォーマンス的な試みも行った。だが1973年にヨガの瞑想を始めたことで作風が変化し、内面的な追及が始まる。この成果が、リアリズムを極めた技法で風景や静物、植物を描きながらシュールな絵画世界として結実している。

富井:それでは、生まれたところからお聞きします。1944年に神戸で生まれたということですが、戦争中ですね。当時の状況を教えてください。ご実家は神戸ですか。

中川:宝塚です。僕が覚えているのは、宝塚の割と大きな家なんで、防空壕をこう作って。庭に。何度もその防空壕に入ったそうです。空襲が鳴った時に。かすかな記憶としては、僕の母が、僕の兄と僕を(連れて入る)。多分僕は2歳だったんだけども、防空壕に入るその像がすごく頭の中にあるわけ。それだけ覚えてる。終戦後は配給で、長い列にお芋や米なんかの配給を、姉やさんか、母の背中に掴まって、待っていたのはよく覚えてます。それで、戦争が終わったのが1945年でしょ。僕の父親は1947年に帰って来たそうです。

富井:戦争に行っておられたんですか。

中川:そうそう。彼はスマトラで2年近く捕虜になっていたんです。彼は陸軍中尉でした。だから非常にきつかったんじゃないかなと思うんだけども。僕はそれは覚えてないんですけども、彼が帰ってくるっていうことがわかって、宝塚の家の前でみんな待って。父親がね、髪の毛をこんな長くして、「戦争ガッチャ、戦争ガッチャ」言うて(中川注:戦争に勝った、の意味。「勝った」が「勝っちゃ」になって「ガッチャ」となまったもの)、踊りながら帰ってきたっていうのをよく聞いたんですよ。子供の時に。

富井:お父さんのご職業は。

中川:父親は、変な言い方なんだけども、日本のエリートコースを通った人です。だから、一中、三高、東大、と出て。東大を出た瞬間にもう召集を受けて、戦争のために。彼は陸軍の中尉です。スマトラにいたんですよね。父親は自分の戦争のことを一言も言わなかったですね。話したくないんですね。ただ、僕は知ってるのは、スマトラで彼の部隊はほとんど全滅したということ。で、彼は奇跡的に生きたんですね。これも面白い話ですよね。

富井:じゃあ出征される前に結婚して、お兄さんと中川さんが生まれておられた、ということですか。

中川:いい質問ですね。これはもう何度も母から聞いたんですけども、戦争に行く前に、少なくとも、結婚生活というものをしてほしいということで、僕の母とお見合いして。あなたもご存知のように、僕の母は村上華岳の長女ですよね。華岳さんと、それから中川(栄二郎)さんっていう、彼はビジネスマンなんですけども、コレクターで、華岳さんの絵をたくさん集めたんですよね。だから中川家の長男と、村上家の長女とを、父親が戦争に行く前に結婚させたんですよ。自分の髪の毛と爪を切って、それを一つの形見にしてたんだよね、その頃は。母はそれを大事に持って。僕が生まれたのは1944年ですけども、多分、父がスマトラか中国あたりから休暇をもらって(一時帰国をした)。その時に僕はコンシーヴ(conceive、受胎)したと思います(笑)。

富井:そうでしょうね(笑)。お父さんは帰ってこられて、お爺さんに当たる方のお仕事を継がれたんですか。

中川:うん。父親のちょっと前に話してもいいですか。

富井:はい、どうぞ。

中川:僕の父親のお父さんはね、中川栄二郎って言うんですけども、僕はつい最近まで栄二郎さんのことをほとんど考えなかったんですけども、この栄二郎さんが、もちろん華岳さんの大コレクターになる人ですけども。彼はね、18歳の時にシアトルに来てるんですよ。1904年です。どうして来たかっていうと、彼はね、大阪のライス・マーチャント。

富井:米商人ですね。

中川:米屋さんの、末っ子じゃなかったのかな。12、3人の子供がいたそうです(笑)。

池上:すごいですね(笑)。

中川:ええ。それで栄二郎さんは自分の両親とかお兄さんとか、お姉ちゃん見てると、みんなライス・マーチャントになって。自分はこれはやりたくない、と。だけどもちろんお金もないし、どうしようかって。で、18歳の時にたまたま中川家の近くに禅寺があったそうです。その禅寺の和尚さんが若い栄二郎を見てですね、「栄二郎、アメリカに行って来い」と。「ここに片道のお金あげるから行って来い」って言って。それで彼は船に乗って、1904年にシアトルに来てるんですよ。これは僕自身非常にいい経験だったんだけど、去年、オレゴン州のポートランド美術館に招待を受けて、レクチャーに行ったんですよ。僕のワイフと子供たちも一緒に、ちょっとヴァケーションしよう、ということで。僕は行ったことないから。で、レクチャーの後みんなで車乗って、オレゴン州ずーっと回ってたんですよ。マウント・フード(Mt. Hood)っていう山があるんですけども、富士山にちょっと似てるんだけども。その山に行く田舎道に、果樹園っていうのかな、大きなフルーツ・ファームがあって。自分で桃だとか、林檎をもいで、小屋に入ってお金を払って。小屋に入るとね、日本人らしい写真がいっぱいあるんですよ。カウンターの後ろにはお兄ちゃんがいて。ちょっと日本語できるんですよ。話していたら、「実は自分のお爺さんたちは、秋田県から1904年に来た」と。僕のお爺さんの来た、同じ年に、シアトルに来てるんですよ。それでオレゴンに来て、フルーツ・ファームを買って。それで戦争が始まって。戦争が始まったら、インターンメント(注:日系人の強制収容)があったでしょ。それでもちろん果樹園も取られて。だけど彼らがインターンメント中に、アメリカ人の友達たちが一生懸命キープしてくれたそうです。で、帰って来たら戻してくれたわけ。

富井:ラッキーですね。

中川:そうです。カウンターの後ろにいたその若い人と話してるとね、この辺には他にも日本人が持ってるそういうファームがいくつかあるそうです。それでふっと思い出して、自分のお爺さん、中川栄二郎さんのことも思い出して。シアトル、オレゴンあたりにはそういう日本人の、仕事っていうのかな、あるんですよ。たとえばシアトルで、一番人気のあるマーケットがあるんですけども、そこもやっぱり日本人が始めたんですよね。昔は野菜ばっかりだったんだけども、今は魚だとか、肉だとか、もうチーズだとかツーリストがいっぱいいるとこです。これはもう1920年ぐらいに日本人の人がやって。僕のお爺さんの栄二郎さんはシアトル辺りに2年ぐらいいて。それでニューヨークに来たんですよ。ニューヨークに8年ぐらいいて。8年いた間に彼は、色んなビジネスを習ったんでしょうね。で、彼のお父さんが病気だっていうことで神戸に戻って、戻った時に神戸商会(神商)株式会社っていうのを作ったんですよ。で、何をしたかっていうと、日本人の女性を美しくするものをアメリカから輸入して。

池上:お化粧品とかですか。

中川:リップスティックとか、マニキュアとか、イヤリングだとか、カスタム・ジュエリー。それを始めたんですよ。彼はそれで大金持ちになったわけ。で、お金持ちの人がみんなするように、まず大きな家を建てて。宝塚の家を見てごらん。ほんとにもう素晴らしい家ですよ。もう西洋館でね。日本の人が来たらもうびっくりするような西洋館ですけど。そういう家を建てて、絵を買い始めたわけ。色んな他の人の絵も持ってたらしいんだけども、ある時たまたま村上華岳の絵に出会うわけ。それでもう、「こんな素晴らしい絵描きさんがいる」、ということで、自分の持っていた他の絵をもうみんな処理しちゃって、華岳さんオンリーのコレクターになったわけ。だけどね、彼の場合はね、戦争が始まったでしょ。戦争が始まったために、もう輸入もできないし、結局会社も駄目になっちゃって。

富井:そうすると、中川さんのお父さんは戦争から帰って来られてからまた事業を始められたということになりますか。

中川:うん。それで僕の父親の名前は敬一っていうんですけども、帰って来て、大変だったでしょうね。まあ色んな話を聞きます。3つも4つも仕事を持って。当時はね、敬一さんの弟たち、2人、それからお婆ちゃん。それから栄二郎さん。栄二郎さんは、パーキンソン病だった。僕はその葬式も覚えてますけど。栄二郎さんは多分、1948年か9年くらいに亡くなったと思う。僕の父親は栄二郎さんの会社、この神商株式会社をまた起こすんですよ。

池上:再興されるわけですね。

中川:そうそう。起こすわけ。で、前よりもまた大きな会社にしたんです。すごいんですよ、これも面白い話なんだけども。だから僕の子供時代っていうのは、アメリカ人、特にニューヨークのバイヤーがもうしょっちゅう来てたんですよ。アメリカ人が。だから僕は外国人に対して全然、シャイじゃないし。しょっちゅう来てましたから。だから僕自身もニューヨークに出て来た時にそういう人たちとちょっと会ったりしてたんですけどね。

富井:お父さんは美術に親しんでおられたとか、そういうことは。

中川:うん。美術大好きですね。

富井:じゃあコレクションなどなさってたわけですか。

中川:彼はしない。彼は音楽の方です。だから彼は朝の4時ごろに必ず起きて、クラシックの音楽を聞く。ステレオなんかをもう真っ先に買って。家中朝早くからもうガンガン、ベートーベンとかショパンが鳴るんですよ。で、みな起こされるわけです。

富井:じゃあ一応迷惑だけど芸術的な環境だったわけですね(笑)。

中川:すごいんですよ、彼は。そういう意味じゃ素晴らしい父親だったな、と思うんですけどね。2年前に亡くなりましたけどね。91歳でね。なかなか面白い人で。ああいうタイプの日本人っていうのは今の日本にはなかなかいないんじゃないかな、と思う。80歳になっても、とにかく彼の書斎に入るとね最近の世界中の経済学だとか、美術の本をいっぱい買ってるんですよ。それを見てね。それを読むだけじゃなくて、ノートに全部記入して。だからノートブックがいっぱいできてるんですよ。ものすごい勉強家だったですね。

池上:素晴らしいですね。

中川:それでね、結局神商株式会社は潰れちゃうわけ。僕が日本出てからですよね、1970年ぐらいに潰れちゃって。だけどその前に、1960年ぐらいに、彼はもう一人、矢野満(やのみつる)さんっていうパートナーと「エクセル」っていう会社を起こすんですよ。エクセルは何をするかっていうと、神商と似てるんだけど、宝石オンリー。ジュエリーですね。世界中のデザイナーとコントラクト(契約)をして、それをみな輸入して。今エクセルは、日本のジュエリーの会社では一番大きな会社になってます。だから大阪でも阪急とかに、もうエクセルのもんばっかり(笑)。だからそっちの方が大きくなっちゃって。神商株式会社は潰れちゃったんですね。

池上:そちらは今、中川さんのお兄さんが継がれているのですか。

中川:中川大剛は全然関係ない。父親は、僕のお兄ちゃんをそっちの方に入れたかったんだけども、でも「まずどっかで修行してくれ。それから入って来い」って。だから僕のお兄ちゃんは自分で自分の会社持ってます。立派にやってます。

池上:皆さん起業家でいらっしゃるんですね。

中川:そうやね、割とね。だから中川家は非常にビジネスの方がすごいんですよ。村上家の方は面白い人たちがたくさんいるんですけども。こっちは文化系です。だけど絵描きになったのは僕だけ。

富井:お母さんも芸術の素養を、お持ちだったんですか。

中川:そうやね。彼女は神戸女子大?

池上:神戸女学院ですね。

中川:そうそう。それでハウスワイフですけども、大正の人で。やっぱり独特な味ありますね、当時の人としては。非常に面白い人やね。書がうまいですね。

富井:書ですか。

中川:やっぱり華岳さんの才能をちょっとこう、もらってるんじゃないかな、と思うんだけども。彼女のお兄さんが、長男なんだけども、常一郎さんっていうんですけど、彼は建築家です。沖縄のね、戦死した日本人の……

富井:記念碑。

中川:そうそう。それを彼がやったんですよ。

富井:中川さんだけが絵描きになった、ということですけども。

中川:そういうことやね。

富井:お絵描き子供の頃から好きだったとか、そういうことですか。

中川:そうですね。僕は、なんで絵が好きやったんやろうね。何か知らんけども、絵を描くのが好きやったね。

富井:じゃあクレパスとか水彩とか。

中川:うん。それで10歳ぐらいの時に初めて油絵具のセットをもらって、描きましたけど。僕がはっきりと覚えているのは、僕が10歳の時に、僕の両親にある時、「僕は絵描きになりますよ」、って。

富井:10歳の時に。

中川:僕は、宣言したわけ。

富井:どうしてそう思ったか覚えておられますか。

中川:I don’t know。どうしてかな(笑)。だけどそれはよく覚えてるの。で、僕の両親がなんかにっこり笑ってるのも覚えてるんですけども。僕は真剣に言ったつもりなんですけどね。毎日、2点か3点ぐらい描いてたですね。絵を。

富井:油絵を描いてたんですか。

中川:当時は水彩画。

富井:やっぱり景色とか。

中川:そう。だから景色だとか。今日はあなたたちが来られるんで、こないだ日本に行った時に、紙の上に描いた絵をちょっと持って帰って来た。

富井:子供の頃の絵を(笑)。

中川:そう。それを見て、今の僕の絵を見ると、「えらい似とるな」、と思って(笑)。

富井:元へ戻ってるんですね(笑)。

中川:あんまり僕は発達してないな、と思った(笑)。

富井:先生に付いておられたんですか。

中川:ええ、そうですね。先生というよりも、具体美術の聴濤襄治(きくなみじょうじ)さんっていう。ご存知ですか。

富井:はい。

池上:まだインタヴューはさせていただいてないんですけど。

中川:今年亡くなったんよね。

池上:(驚いて)あ、そうですか。

富井:もうお亡くなりになったんですか。

中川:今年亡くなったんや。

池上:それは残念なことをしてしまいました。

富井:残念やね。

中川:聴濤先生いうてね、素晴らしい人なんだけども。具体美術の会員としてね、大分活躍してんただけども。僕の近所には元永定正さんがいて。僕らもしょっちゅう行き来して。

池上:12月に元永先生にインタヴューさせていただいて、「中川君よく遊びに来てた」っておっしゃってました(笑)。

中川:よくお酒飲まされてね(笑)。具体美術、聴濤先生もそうですけど、具体美術が僕に教えてくれたのは、「ルールを壊してもいい」っていうこと。日本人って割と伝統を大切にするじゃないですか。「そんなことしたら駄目ですよだとか、「もっと真面目にやりなさいだとか言うでしょ。だけど具体美術がほんとに僕に教えてくれたのは、「It’s okay。大丈夫。壊しても大丈夫。そのかわりちゃんと理屈を作りなさい」っていう。そういうの僕は、やっぱり素晴らしかったと思います。聴濤先生なんかもやっぱり、「中川ちゃん、ちょっと無茶やれよ」っていうような。「無茶やってもええねんで」っていう関西的な考え方っていうのがね。僕はちょっと若すぎて具体のパフォーマンスだとかそういうのには参加できなかったけども、精神的、肉体的にやっぱり良い影響を受けたと思います。もちろん吉原治良さんだとか、白髪さんだとか、みんな会ってますけども。特に田中敦子さん。彼女は僕の個展のオープニングに来てくれたりね。敦子さんこないだ亡くなったんだよね。

富井:そうですね。

中川:その頃は僕は。

富井:中学生ですよね。その頃。大体具体が始まった頃っていうのは。44年生まれでいらっしゃいますから。

中川:そうです。あの頃は、そうやね。中学1年、2年ぐらいやね。

富井:じゃあ展覧会とか見に行ったりしたわけですか。

中川:そうですよ。僕が一番楽しかったのは、そういう具体の人たちと一緒にいること。あんまり僕は発表しなかったけども、色んな彼らの行動だとか、話し合いを聞いて、刺激をもらってたんですよね。特に具体は非常に国際的になったでしょ。だからスペインの何だとか、ドイツの何とかってねえ、外国のこと聞いてるとねえ、ものすごく僕はやっぱりエキサイトしましたよね。それである時なんか「元永さんあなたもう、ピカソよりもすごくなるんじゃない」っていう話も出てたんだけども。何かそういう素晴らしいものをみんな持ってましたよね。

富井:じゃあもっぱら元永さんのとこで具体の人に会ったりしてたわけですか。

中川:そうですね。元永さんと、聴濤先生。この二人ですね。

富井:吉原治良さんの家や、芦屋のアトリエとかには出かけたことはない。

中川:行ってません。行ってない。吉原治良さんに会ったのは、大阪の珉珉だとか、韓国料理のとこですね。

富井:それは具体の人がみんな食べに来てるから(笑)。

中川:そうそう。あるいは会場で。僕はやっぱりちょっと恐ろしかったからね。

富井:吉原治良さんはちょっと恐ろしかった。

中川:ちょっと怖かったね。もう「お前ら、いらんこと言うたらあかんよ」って言われてたから。だからこう黙っていたんですけどね(笑)。それから、やっぱり具体の人でね、田井さんっているんですよ。田井さんていうの。僕の先輩で。彼はね、僕が日本を出たすぐ後で自殺しました。田井さんは僕よりも5つぐらい上だったと思う。ものすごく神経質な人でね。「タイ」はね、「田」と、井戸の「井」で、「智(さとし)」だったと思う。素晴らしい人で、いい仕事してたんだけどね。ものすごく神経質な人。彼はね、聴濤先生のお弟子だったんですよ。何で自殺したのかな?

富井:聴濤先生は中学の時の絵の先生だったんですよね。

中川:そうです。どうして知ってんの。

富井:前に聞きました(笑)。

中川:あ、ほんと(笑)。

池上:ではその繋がりで具体の方たちに紹介されていく、という感じでしょうか。

富井:確か聴濤さんが具体のメンバーになったのは、60年代になってからだと思うから。

中川:僕がニューヨークに出てから後だと思うよね。

池上:あ、そうですか。

富井:ただ、割と元永さんの近くっていうか。

中川:うん。もう一人今思い出しました。藤井治平さんっていう人がいたんですよ。宝塚のちょっと上のほうに住んでた絵描きさんなんだけども。藤井さんと元永さんがものすごく仲良くて、藤井さんのとこでよくパーティーがあったんですよ。子供もいなくて、そういうパーティー好きだったんだよね。だから元永さんたちもしょちゅう来てたわけ。そこで初めて、多分そこで元永さんに初めて会ったんじゃないかな。元永さんは、ニューヨークに来てるんだよ。ロックフェラーか何かの(奨学金で)。

池上:そうですよね。65年からですよね。

富井:少し戻りますけども、中学、高校と美術クラブとかそういうもので活躍して、絵画をしてたわけですか。

中川:そうですね。僕は高等学校では、キャプテン。美術クラブの。やってましたね。うまかったよー、僕は(笑)。

富井:絵が(笑)。

中川:絵がうまかった。

富井:今でもお上手ですよ(笑)。

一同:(笑)

中川:うん。絵がうまかったねえ。

富井:じゃあやっぱりリアリズムで描いてらしたわけですか。

中川:そうですね。あの頃は大阪なんかの、工場なんかよく描きに行ってましたね。

富井:スケッチですか。

中川:ノーノー。オイルで。あの頃の絵ですごくいい絵が残ってます。だから今度日本から持って来ようかな、と思ってるんだけど。

富井:確か団体展、二紀かなんか出しておられましたよね。

中川:そうそう、出しました。

富井:それはやっぱり将来は職業としての絵描きになるっていうことで、出されたわけですか。

中川:そうやね。職業っていうのかな、やっぱり有名になりたかったからね。自分でもちゃんとタレントがあると思ってたから、そういうとこに2、3点出しましたけど、こう言ったらあれだけれども、「レベルが低い」と思った。

富井:それは自分の絵と比べてレベルが低いと。

中川:そうそう。そういう二紀会とか、行動会の人たちとは僕はちょっと。そうだ、聴濤先生は行動会だ、その頃は。行動から具体に行ったんよね。だけど、あんまり僕は感心しなかったですね。その頃から、「海外に行こう」っていう目が向いてきた頃だと思います。

富井:じゃあニュースとか、海外の美術状況とかは色々調べておられたんですか。

中川:よく分かってました。

富井:美術雑誌なんかご覧になってたんですか。

中川:そうそう。当時はね『美術手帖』、それから『藝術新潮』。もうしょっちゅう一生懸命読んでましたよね。だから大体ニューヨークで起こってることは、大体自分では分かっていたと思います。僕がアメリカに行こうと思ったのは、高等学校二年生ぐらいだったと思う。ほんとは東京に行こうと思ってたわけ。東京ではちょうどその頃、ギュウちゃん(篠原有司男)じゃないけども、ネオダダだとか、ジャスパー・ジョーンズだとか、(ロバート・)ラウシェンバーグがこう日本に来始めてたんですよね。で、なかなか面白いことやってるから、僕も東京行こうかな、と思ってたんだけど。僕はもう最初から、日本の団体展で会員になりたいとか、そういう気持ちはもう全然なかったですね。それで東京に行こうと思ったんだけど、何がきっかけだったのかな。僕は当時アメリカのエクスチェンジ・ステューデントで来ていた女性と付き合っていたんで。割とませてたんだな、その頃。

富井:フランスへ行きたいとは思わなかったんですか。

中川:はい。最初フランスに行こうと思ってたの。

富井:じゃあやっぱりパリ。

中川:そう。最初はパリに行こうと思って。あれは何年だったのかな、多分1960年ぐらいだったと思うんだけども。あの頃はね、1960年代のはじめって言うのは、日本もようやく戦争の破壊的な気分から立ち直り始めたんですよね。ちょっと海外に目を向けるぐらいの余裕が出てきたと思うの。ちょうどその頃、小田実さんの『何でも見てやろう』っていう本が出たでしょ。

池上:アメリカ旅行記ですよね。

中川:そうそう。もちろんあれは読みました。僕はもうサイキック(心理的)に「やっぱりこれは海外に出なくちゃいけない」っていう気持ちは持ってたんですよね。最初パリに行こうと思ってたんだけども、多分1961年ぐらいだったと思うんですけども、京都の国立近代美術館でフランス現代美術の美術展があったんですよ。それからちょうど同じ頃に、「アメリカ現代美術展」っていうのがあったんですよ。それがね、多分大阪の阪急かどっかだったと思うの。デパートメントのやつよ。その時に、アメリカの現代美術の(ウィレム・)デ・クーニングだとか、そういう人の絵が来てたんですよ。京都ではフランスの現代美術展があったんですよ。フランスに行くつもりだったんだけども、2つの展覧会を見た時に、もう比較できないくらいにフランスの美術が駄目だったんですよね。みんなきれいな額縁に収まって、作品も小さくして。なんとなく小ぎれいにできてるんですよね。で、アメリカのやつを見ると、もうむちゃくちゃなことをやってるんですよね。具体とちょっと対応してますよね。なぜかこの展覧会の年代がちょっと分からないんですけどね。僕が日本出たのが18歳ですから、その少し前やね。(中川注:1958年4月に大阪の高島屋で開催された「新しい絵画 世界-――アンフォルメルと具体――」展だと思われる。)

富井:割とディファイニング・モーメントみたいな。パリに行くか、ニューヨークに行くかっていう。

中川:そういうことやね。

池上:年代ははっきりさせないと。

富井:そう。せっかくだから、もし今回分かれば。

中川:やっぱり僕は具体の人たちのかっこいいとこ真似してね。タバコぼんぼん吸って、汚いジーンズを着て、絵具いっぱい付けて、髪の毛こんな長くしてさ。

富井:長かったんですか、髪の毛。

中川:そう。ビートルズのずっと前よ(笑)。ビートルズよりこんな長かった。

富井:その髪でニューヨークいらっしゃったわけですか。

中川:そうですよ。

池上:ちょっとお聞きしたいのですが、具体の方々とお付き合いされていて、「抽象の方に行こう」っていう風には思われなかったんですか。最初から写実的な具象をされてたんですよね。

中川:その頃は僕の方向は決まってないと思います。だけど、描いていたのは具象的な絵ですよね。

池上:自然に抽象の方に向かわなかったんですか。

中川:向かわなかったですね。だけどね、ニューヨークに来てから、ブルックリン・ミュージアム・アート・スクール(Brooklyn Museum Art School)に入ったんですけど、その頃の作品は抽象と具象が絡まったような作品ですね。面白い作品描いてたんやけどね。

富井:ニューヨークに来て、ブルックリン・ミュージアム・スクールに通って「割と真面目に絵を描いてた」って、以前におっしゃってました。

中川:ものすごい真面目に描いてたのよ。僕のクラスには荒川(修作)もいたし、河原温もいたし、脇田愛二郎もいたし(笑)。なかなか面白い人がいましたね。けど僕は一生懸命自分のスタイルというのかな、一生懸命自分の方向を探してたと思うんですけどね。

富井:まだ10代の終わりから20代の最初、っていう時ですよね、中川さんは。荒川さんとか河原さんとかはもう少し歳が上でしたよね。

中川:そうそう。僕よりもずっと上ですよね。あの頃の僕の絵っていうのは、日本で描いていた絵っていうのはみな具象ですね。

池上:これだけ周りの方が抽象をされていて、でも最初から具象をされていたっていうのが、逆にすごく自分っていうものをはっきり持っていらしたんだな、という風に思うんですが。

中川:そうかしらね。ただアメリカのその現代美術展を見た時に、デ・クーニングの《女》なんかは、やっぱり(印象が強かった)。だから僕がニューヨークに出てきた頃の絵っていうのは、ちょっとそういう半具象的、半抽象的な、エクスプレッショニスティックな要素が強かったですね。僕はやっぱりデ・クーニングと(ジャクソン・)ポロックの絵に一番、爆発的に、感心しましたね。「こんな絵描く人がいたのかな」と思って。だけど僕は元永さんの絵も大好きだったですよ。「面白い絵描きよるな」ってね。

富井:流したやつですよね。

中川:そうそう。彼は僕の前でこう、実演するんですよ。とても面白かったね。だけど彼はね、普通の人はそうは思わないと思うんだけど、神経がビリビリした人やね、あの人も。細かい人やね。

池上:おおらかにされてますけどね。

中川:でしょ。なんだけども、神経はものすごい細かい人やね。だからこんな大きな絵でも、小さなとこにものすごく神経使ってますね。ここに黄色を入れるか、青を入れるか、ちゃんと考えてるんだよね。だから彼はポロック的じゃないのよね。ポロックはもうアメリカのミッドウェストの、クレイジーな。フォーカス・ポイントがないでしょ、ああいうところって。ほんとに何にもないんだあそこは。ただポカーンとしてるわけ。だからアレクサンドラ(・モンロー、Alexandra Munroe)が、「ザ・サード・マインド」(注 “The Third Mind: American Artist Contemplate Asia, 1860–-1989,” Guggenheim Museum, New York, 2009)で、そういうポロックの全くフォーカスのないところからどういう風にして彼はフォーカスに来たか、っていう一つの交差点のところで、彼女は「禅が入ってきた」って言うわけ。禅のアイデアが。このアイデアはなかなか面白いと思う。元永さんの場合はポロックと似たところもあるんだけど、やっぱり日本人独特の美意識っていうのかな。細かい、非常にセンシティヴなところがあるんですよね。日本人はアメリカ人になれないし、アメリカ人が日本人になれないように、元永さんの場合、そういう風に描いていても、ものすごく日本的な美意識を持ってるんだよね。と、僕は思います。

富井:ニューヨークに来られたのが1962年ですよね。

中川:そう。うん。

富井:前に船で来たという話をお聞きしたんですけども、学生ビザでいらっしゃったんですか。

中川:ノーノー。じゃないですね。あれはね、父親のビジネスビザを利用して来たんです。難しかったですね。ビザを出してもらうのに。

富井:で、学校へ行かれて。

中川:もちろん。それで学校に入って。僕は今の大阪芸大に入って。半年ぐらいいて、校長先生のところに行って、「僕留学さしてほしいんですけど」って言ったら、「一応ここ卒業してから考えましょう」なんて言うからさ。

富井:じゃあもうさっさと自分で。

中川:そう。だから僕の父親に「アメリカに行きたいんだけど」って言ったら、「バカヤロー!」って言われてね。もう大反対。

富井:どうして。画家になりたい、っていうのはOKだったんですよね。そうではないんですか。

中川:どうなのかなあ。まあ僕は次男だから。しょうがないと思ってたんちがう? だけど心の中では絵描きよりもやっぱりビジネスの方に行ってほしかったんじゃないかな、と思う。

池上:絵は趣味にしておいたら、みたいな感じで。

中川:そうそう。決してそういうこと僕に言わなかったから。だけど最初、僕が両親に「アメリカに僕は行くよ」って行ったら、僕の母親はいきなり泣いちゃってね。もうポロポロ涙流して、何も言えなくって。父親も「それはやめた方がいいよ」って言って。しょうがないから僕は「自費で行こう」と思って、アルバイトも始めて。その間に大阪の市役所だったと思うんだけども、パスポートもらうためにアプリケーションも出して。もう、すぐに拒絶を受けて。それでアメリカの領事館に行って。アメリカの領事館は「OK、OK」なんだけども。「お前まずそのパスポートを取ってきなさい」っていうことで。もう結局、6ヶ月ぐらいこっちが「イエス」、言ってもこっちが「ノー」、って言って、困ってたんですよ。それで、ある夜やけくそを起こしてね、神戸かどこかでぐでんぐでんに酔って。うちに帰ってきて。うちでげろげろ吐いて(笑)。夜の12時ごろだったですけどね。僕は玄関のところでげろげろ吐いて、泣いてたんですよ。どないしてもね、パスポートも出ないし、ビザも出ないし。ちょうどその頃に僕の父親が帰ってきたの。父親もぐでんぐでんに酔っぱらってるの。

一同:(笑)

中川:それで僕の上でこう、じーっと僕を見てるわけ。僕は泣いてる。でね、次の朝に僕の母が、「起きなさい!」って言うわけ。「背広着なさい」って。「お父ちゃんがあなたを市役所に連れて行く」って言うわけ。パスポートのことで。「ほんと?」って言ったら、「ほんとです」って。「だけどあそこはもうパスポート出してくれないですよ」って言ったら、「だけどお父ちゃんが一緒に行くから行きなさい」って言って。それで行ったんですよ。この時ぐらい僕の父親が素晴らしい、と思ったことはないですね。役所に入って、女の人が出てきてね、「何ですか」って言うけど、「私はあんたなんかと話しに来たんじゃない」って。「局長のところに連れて行け」って言って。「ちょっと待ってください」って言うんだけど、彼はズカズカーッと入っていってね。ドア、パーンと開けて。そこで15分ぐらい、演説しましたね、彼に対して。彼が言ったのは、「あんたたちはこんな素晴らしい、若い人がね、外国に行って勉強しようとしてるのに何だ」って言うわけ。自分の人生もちょっと言って。そしたら局長びっくりしちゃってね。もうその日にパッとパスポート出たんですよ。もうびっくりしちゃった(笑)。パッともう出ちゃったの。ものすごい説得力でねえ。

池上:お父さん素晴らしいですね。

中川:うん。すごい。

富井:じゃあビザの方もお父さんが。

中川:だからもう次の日アメリカ領事館に行って。もうビザもパッと出たわけ。すごかったですね。それで、僕の母の神戸女学院のクラスメイトで、鈴木さんという方のハズバンドが、飯野海運のパーサーをしていたんですよ、貨物船の。それで僕の母が、「飛行機で行きたくないんだったら、貨物船どう」って言うから。「うん、そりゃその方がいい」っていうことで。

富井:飛行機は嫌だったんですか。

中川:うん。だって行ってさ、次の日に起きたらもうアメリカ、っていうのはちょっとね。僕はもう、恐怖心で。それで、飯野海運の鈴木さんと会って、お願いして貨物船に乗せてもらった。片道で500ドルだったと思います。

富井:それは自分がアルバイトしたお金だったんですか。

中川:そうそう。当時は日本からは500ドルしか持ち出せなかったわけ。今の南アフリカと似てるんですよ。500ドルのトラベラーズ・チェック持って、それで飯野海運の何とか丸っていうのに横浜から乗って。28日間かかって、ニューヨークまで来たわけ。

富井:ニューヨークまで来たんですか。西海岸じゃなくって。

中川:そう。当時の貨物船っていうのは7人か8人くらいお客さんを入れるんですよ。僕が幸運だったのは、お客さんの一人はね、バーバラ・ホワイトさんといって、今でも付き合ってますけど、フルブライトの生徒で。日本に日本の和紙の研究に行っていたんですよ。2年間いて、日本語もちょっとできて。今もニューヨークに住んでますけどもね。もう一人は写真家で非常に有名な、W・ユージン・スミス(W. Eugene Smith)。彼と奥様がやっぱり船に乗っていて。

池上:同じ船だったんですか。

中川:同じ船。たった8人ぐらいのお客さんの中に、この3人がいたんだ。僕の幸運ですね、これ。それでパナマ運河を通って、キューバを通って。ちょうどその時はキューバミサイルの危機の時でした。9月です。フルシチョフとケネディがものすごいにらみ合いがあった時ですよね。だから飯野海運の船もキューバを通る時に、キューバの赤いガンボート、5つか6つ出てきてですね、もう通さないんですよ。僕はもう、「ここでやられるな」と思ったですね。真っ赤に塗ってるわけ、ボートを。で、こんな大きなバズーカで狙ってるわけ(笑)。当時はね、携帯電話なんてないからさ、みんなモールスなんですよ。ピカピカってやってるわけ。何を言ってるかっていうとね、僕は船長室の船長さんの部屋にいて聞いてたんだけども、ミサイルでしょ。「日本からお前たちは武器をアメリカに持っていくんじゃないか」っていうことで、「乗船して調べたい」って言うわけ。だけど船長さんはそれを拒否して。結局ね、半日ぐらいそこで停められちゃって。で、船長さんが、彼の名前忘れましたけども、最後とうとうね、フルスピード。もしも撃ってきたら第三次大戦。もうこれが、「So be it」って言いましたよ(注:「なるようになれ」の意)。「So be it」。もしも撃ってきたらもう第三次大戦の始まり。で、「フルスピード」って。(笑)

富井:大冒険ですね。

中川:もう怖かったよ、それは。ものすごい怖かったですよ。で、バーっと行ったらね、キューバのボートがこうなって。それで行ったんですけどね。

富井:それでニューヨークに来た。

中川:そうですね。

富井:ニューヨークに到着して第一印象、何か覚えてますか。

中川:「何でも来い」っていう感じやったね。怖いものなし。「征服」と言うたらいかんけども、怖いものなしで「もう何でも来い」っていう。「おれはここでやっていける」っていう自信がありましたよね。さっきも言ったけども、貨物船の中でユージン・スミスさんと、バーバラ・ホワイトさんと友達になって。彼らが僕の一番最初のアパートを見つけてくれたんですよ。

富井:どこですか。

中川:12丁目のね、2(アヴェニュー)と3(アヴェニュー)の間だったと思う。だけど、今から考えると面白い経験なんだけども、トラベラーズ・チェック500ドル持っていったでしょ。銀行に行って、それを換えてもらおうと思うんだけど、銀行が換えてくれないんですよ。こんなけったいな英語のできないやつで、なんでこの人がトラベラーズ・チェックを持ってるのか、って。

富井:500ドルっていったらある程度の大金ですよね。

中川:その当時はね。僕は50ドルぐらいトラベラーズ・チェックでキャッシュにしようと思って。でもしてくれないんですよ。僕のパスポートとか見せてもね、やってくれないんですよ。それでとうとうバーバラ・ホワイトさんのところに行って、「キャッシュしてくれないんだけど」って言って。そしたら彼女がもうカンカンに怒ってね、僕と銀行に行って、「キャッシュしなさい」っていうことで。その時に今後のことも考えて、もう500ドル全部キャッシュにしちゃったわけ。それで、アパートでその現金をどこに置くか、ということで。僕一番最初に思ったのは、ベッドの下にお金を隠しておこうと。でもニューヨークに着いて3週間目ぐらいに、ある夜帰ってきたら僕のドアがもう開いてるんですよ。泥棒が入ってて(笑)。500ドルを全部盗られちゃってね。後で聞いたら、ベッドの下にお金を入れるのは、泥棒が一番先にそこを探すからさ(笑)。

池上:そうですよね(笑)。

富井:その後経済的にどうなさったんですか。

中川:突然に文無しになっちゃって(笑)。だけど僕が日本出る時に、父親が「教育だけはちゃんとしてくれ」ということで、「学校に入ってくれ」と。で、「毎月250ドル2年間送ってあげる。だけど、その2年間過ぎたら私はもう切りますよ」って。多分僕の父親は、2年もしたら尻尾巻いて多分日本に帰ってくる、と期待していたんじゃないかなと思います。

富井:もうお金もなくなって、送ってもらえないことだし、ということで。

中川:そうそう。だから250ドルはちゃんと来たわけ。

富井:じゃあ500ドルっていうのは自分のお小遣いみたいなもんでしたね。

中川:お小遣いっていうよりは、最初の生活費ですね。だから2年間はまあよかったんだけども、正に彼は自分の言葉を守って切りましたよね、2年間で。

富井:62年にいらっしゃったわけだから。

中川:そう。だから64年にもう彼からは切られて。

富井:学校は何年行かれたんですか。ブルックリンのミュージアム・スクールは。

中川:3年行きました。

富井:じゃあ3年目は日本からお金来なかった、ということですね。

中川:そういうこと。もちろんアルバイトも色々しまして。バーバラ・ホワイトさんはさっき言ったけども、紙の研究していたでしょ。彼女はウォール・ペーパーのデザイナーなんですよ。彼女に雇われて、やっていたし。

富井:じゃあ一応アートのアルバイトになりますね。

中川:そうそう。それとかね、ミノルタのカメラ屋さんあるでしょ。あそこでパッキングの仕事。それからチャーチ・ストリートの郵便局。郵便局でやっぱりパッキングの仕事(笑)。色々やりましたよ。1964年から10年ぐらい、僕の一番真っ暗な人生の時やね。トンネルの先が全く見えなかった時代ですね。非常に苦しかったですよね。

富井:その頃はでも、もちろん絵は毎日描いておられたわけですね。学校に行って。

中川:もちろん。アルバイトした後、夜帰ってくるでしょ。朝の2時か3時ぐらいまで絵を描いて。また朝出て行って、アルバイトをして。非常に大変だったですね。まあさっきも言いましたけど、ほんとに僕の暗黒の時代やね、その時は。もちろん言葉の問題もあるでしょ。

富井:なかなかできませんでしたか。

中川:できなかったですよ。友達もなかなかできないし。

富井:学校の友達とかは。

中川:いましたよ。だけどやっぱり言葉をマスターしないと。だからその時は非常に意識的に日本人の人とは付き合わなかったです。もう付き合ったらすぐ日本語でしょ。だから僕の一番最初の目的は、「まず言葉をマスターしないと」ということで。だから毎日寝る前に辞書をこう見て、50個ぐらい単語を覚えるんですよ。50個覚えたら次の朝起きたら10個ぐらい覚えてるんですよね。それをもう毎日繰り返して、3つぐらい英語の学校に行って。もう朝から英語、英語でさ。そういう生活がほとんど10年ぐらい続いたですよね。だけど、絵は描いていた。

富井:展覧会とか、ニューヨークにいらっしゃったんなら随分ご覧になったんじゃないかと思うんですけども。

中川:もちろん。当時は今みたいにソーホーだとか、チェルシーだとかそういうのはなくて。当時のニューヨークの画廊ってのは、57丁目と、マディソン・アヴェニュー。それだけですよね。マディソンだったらクーツ(The Kootz Gallery)って画廊があって。そこはピカソとか、ハンス・ホフマン(Hans Hoffmann)、それから菅井(汲)、ザオ・ウーキー(Zao Wou-Ki)。そこにしょっちゅう行って見てましたよね。一つ僕のキャリアにとってブレイクが来たのは、ニューヨーク近代美術館のキュレーターの人で、キャンベル・ワイリー(Campbell Wiley)という人がいて、彼とどういうつながりで会ったか忘れましたけど、僕のスタジオに来て、「ナカガワ、これ面白い」って。近代美術館に当時は、ペントハウスにアート・レンディング・サーヴィス(The Art Lending Service)っていうのがあったんですよ。

富井:桑山(忠明)さんもこの間「それに出してた」っておっしゃってました。

中川:あ、そう? だけど僕はそこで個展したのよ。僕の記憶している限りでは、ずっと後でわかったんだけども、僕と草間彌生さんだけよ、そこで個展さしてもらったの。

富井:でも草間さんからその話は伺っていないと思うんですが。(富井注:草間彌生が参加したのは1962年12月のグループ展。)

中川:やってるやってる。彼女から聞きましたから。

富井:桑山さんは「個展をした」とはおっしゃってなかったね。

池上:個展ではなかったですね。

富井:なんか「作品を貸してた」みたいな言い方をしておられました。

中川:ほんと。あそこは「メンバーズ・オンリー」で、立派な画廊があって。作品を置いて、メンバーの人は好きな絵があれば、まず絵の値段の15パーセントを美術館に払って、展覧会が終わった後に自分の家に持って帰れるんですよ。その絵を自分の家に掛けて。確かね、3ヶ月ぐらい掛けることができるんだ。

富井:じゃあちょっと借りて、試しに、ですか。

中川:そうです。ほんとに好きだったら、後のお金を全額払うわけ。で、キャンベル・ワイリーが1点か2点ぐらい僕の作品を入れたんですよ。そしたら結局売れちゃったの。彼が「Naoto, this is wonderful」って言って。「You wanna have a show」って。それでそこで個展したんですよ。でね、今日あなた来るからさ、ちょっとこれを見せようと思って。(『美術手帖』を取りに行き)これ1968年の。

富井:『美術手帖』。

中川:でね(ページをめくり)、これ。That’s me。

池上:(驚いて)あー(笑)。

中川:これ愛甲健児さんっていって、『美術手帖』の編集長していた人で。ロックフェラー財団の奨学金をもらって、ニューヨークに1年ぐらい来たんじゃないかな。で、たまたま美術館に行って、僕の展覧会をみたわけ。それで僕を探して。今思い出したけど、元永さんが来とったんよ。ちょうどその時に。

池上:じゃあ65年か6年あたり。

中川:そうそう。で、元永さんと悦子さんのいたアパートで僕は愛甲さんに初めて会ったわけ。なんかそんなんやったとおもう。だから彼は見てるわけ、僕の展覧会を。これちょっとお見せしようと思って(笑)。

富井:それ一応年譜で見ると68年になってますけどね。それでさっき見せていただいた中学生の頃の絵と比べると、随分抽象化が進んだ、っていうか、随分ハード・エッジで、何もない空間の中にボールが浮かんでるみたいな感じになってきてると思うんですけども。それはやっぱりこちらへ来てから色々探してるうちにスタイルが落ち着いてきた、っていうことですか。

中川:そうやね。ちょうどその頃、僕は色んな本を読んでたんだけども。もちろんサルトルだとか、カミュなんかの実存主義の本をたくさん読んでいて。

富井:英語で読んでたんですか。その時は。日本語で?

中川:もちろん英語で。だけど僕が一番その頃感化を受けていたのは、マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)。『Medium is the massage』(注:Medium is the Message: An Inventory of Effects, Bantam Books, 1967年)だとか。彼は「メディアっていうのは人間の体のエクステンションである」っていう、非常に面白いことを言ってるんですよね。あるいは「二つの自然があって、あっちの自然もあるけども、今の本当の自然はこのアーバン・ネイチャーだ」っていうことも言ってるんですよね。これも非常に面白いことを言ってるな、と思って。(作品を示しながら)だからこの絵(《Big Table》、1967年)を見ると、一つには抽象的なものもあるんだけども、よく見てみると、静物画のテーブルがちゃんとあるんですよ。床もね、ノン・オーガニックなんだけども、なんとなくこっちの方に行くと、オーガニックになってるのよね。例えばこれと似た作品でね、これ(《This Side of the Room》、1967年)はニューヨーク近代美術館が持ってるんですけども。だから部屋なんかこう、一つの部屋なんですけども。壁があって。だけど段々奥の方へ行くと、オーガニックな要素が出てきますよね。たとえばこれはピンなんだけど、物体がオーガニックな要素を発してですね、色んな悪いことしてるんですよね。悪さをしてるんですよ。これがどうしてこうなっていったかっていうと、こういう自然や、オーガニックなものと。

池上:人工的なものを組み合わせた。

中川:そうそう。こういうのはなんとなくマクルーハン的だと、自分では思ってたわけ。

富井:「Extended Object(エクステンディッド・オブジェクト)」っていう名前は、その「extension(エクステンション)」ってさっきおっしゃったところから来てるんですね。

中川:そう。マクルーハンから来てるわけ。というのは、彼は「Media is an extension of a human body」だとか言ってるから、その「extension」を取って。(カタログのページをめくりながら)ここに出てたんちゃうかな。そう、これ(ジャドソン・ギャラリーでの個展ポスター、 “Nakagawa: Extended Objects & Their Images,” 1968年)。

富井:ジャドソン(Judson Gallery)の時のポスター。

中川:そう。「なんとかエクステンション」って書いてあるでしょ。

富井:「エクステンディッド・オブジェクト」ね。

中川:これは何年だったかな。

富井:68年ですね。ジャドソンだったら。

中川:当時ね、アヴァンギャルドの最もコマーシャルでない画廊があったんです、ヴィレッジに。これはジャドソン・チャーチ・ギャラリー(Judson Church Gallery)っていうんですけども。ジョン・ヘンドリックス(Jon Hendricks)といって、今オノ・ヨーコさんのプロモーションやってる人ですけど、彼はクエーカーなんですよ。クエーカー教徒で、ちょうどベトナム戦争が真っ最中の時ですけど、彼が「conscientious objector(良心的兵役拒否者)」としてベトナムの戦争に行かない。その代わりに、何かノン・プロフィットの仕事をしなくちゃいけない、っていう政府の規定があったんですよね。それで彼はジャドソン・チャーチのディレクターになったんですよ。それで色んな前衛の人たちを招待して。もちろんラウシェンバーグもそうだし、ジム・ダイン(Jim Dine)だとか、イヴォンヌ・レイナー(Yvonne Rainer)だとか、ラ・モンテ・ヤング(La Monte Young)だとか、そういう色んな前衛の人たちを。もちろんヴィジュアルもそうだし、音楽もそうだし。そういう人たちを呼んで、そこでハプニングやったり、展覧会やったり。ジョン・ヘンドリックスがある時…… ケイト・ミレット(Kate Millett)さんご存知?

池上:いや、ちょっと知らないです。

中川:ケイト・ミレットっていうのは、67、8年ぐらいにアメリカでものすごい有名になったんですけども、フェミニズム・ムーヴメントのリーダーとして。あれなんていう本だったっけ。『セクシュアル・・・』。

富井:『セクシュアル・ポリティックス』?(注:Kate Millett, Sexual Politics, Doubleday, 1970)

中川:そう、『セクシュアル・ポリティックス』を書いた人で、『タイム』マガジンの「Woman of the year」になった人ですよ。彼女は日本人の彫刻家と結婚していたの。吉村二三夫(よしむらふみお)さんという人と結婚していて。彼女もずっと前に、その前にフルブライトの奨学金もらって日本にやっぱり2年ぐらいいたんですよ。ケイトさんはジョン・ヘンドリックスさんと非常に仲が良くて、僕の作品が非常に大好きだったんですよ。それで、ヘンドリックスを連れて来て、ジョンが「Oh, this is wonderful ! Let’s have a show!」っていうことになって。それで個展をやったんですよ。

富井:ケイトと知り合ったのは、旦那さんを通じて知り合ったんですか。彼女の旦那さんが日本人だったからでしたか。

中川:そうそう。そうだったと思います。その前に大橋豊(おおはしゆたか)さんって人がいるんですよ。二人とももう亡くなったんですけど。大橋豊さんっていうのは、1954、5年に東京工芸大学で彫金術を勉強されたと記憶していますが、その後、すぐにアメリカに出てきた人です。絵描きですけど。彼は草間さんとものすごく親交があったんですよ。大橋さんと僕はね、これまた面白い話なんだけど(笑)、自分の生計を立てるために、名画の偽物を描いていました。

富井:贋作ね。

中川:そう。フェイク・ペインティング。

池上:それを売ってらしたんですか。

中川:うん。それをある時ね、大橋さんも後で僕と一緒にジョインしたんだけども(笑)。ワシントン・スクエアで野外展あるでしょ。野外展で、僕も自分の絵を出してたんですよね。そしたら非常にクレイジーな人がいて、ちょっと名前は言えないんですけど、アメリカ人の人ですけど。彼が「君はなかなかタレントがある」って言って、「自分はこれからビジネスをするんだけども、絵を描く仕事なんだ。一緒にやらないか」って言うから。それで「ペイはすごくいい」って言うわけ(笑)。

池上:怪しいですね(笑)。

中川:うん、ちょっと怪しいんだけどね。彼のロフトで始めたんですよ。最初はフェイクじゃなかったんだけども、一番最初はホテルができるでしょ。ホテルにはやっぱり3つぐらい絵を入れるでしょ。そのための大量生産の絵を描く仕事だったんですよ。だからね、アラスカに「キャプテン・クック」っていうホテルがあるんですよ。アラスカで一番巨大な、有名なホテルです。そこにキャプテン・クックの生涯の冒険の壁画がある。それは僕が描いたの。

富井:それ初めて聞きました(笑)。

中川:今度行ってごらん。すごい嵐があって、もう船がこんなに傾いて、そういう壁画ずっと描いてるんです。そのキャプテン・クック・ホテルの部屋に作品がたくさんあるんだけども、それも僕がデザインをして、1つのデザインに200点ぐらいかな。それを5種類か6種類ぐらいデザインを作って。海の風景が多かったんだけど、空をこう描いて、しこしことね。

富井:ほんとに大量生産ですね、じゃあ。

中川:そうそう。1点につき僕は2ドルもらってました。一番素晴らしい日なんか80点ぐらい描きました。

富井:160ドルも。いっぺんに。収入ですね。

中川:僕のレント(rent、アパートの家賃)が23ドルでしょ。そういう風に始めたんだけども、僕のボスの人が、「ナオトね、ちょっと別の仕事もしてみよう。というのは、この辺非常に需要がありそうなので」ということで。結局何を描くかっていうと、(クロード・)モネだとか、(カミーユ・)ピサロ、(モーリス・)ユトリロ、メアリー・カサット、(ポール・)セザンヌ、そういう人たちのフェイクを描く。

富井:大体印象派、後期印象派のあたりで人気のあるところですね。

中川:彼らの絵っていうのはものすごく簡単なんですよ。ほんとにもう簡単なんだよ。彼はね、非常にスマートな人間で、非常にミゼラブルな人生をシカゴで送ったらしいんだけど、金のことについてはものすごく切れるんですよね。賢いんですよ。だからヨーロッパに行って、ちょうどその当時のキャンバスなんかを探してくるんですよ。

富井:そこまで本格的にしてるんですね。

中川:そう、本格的。ごっそり持ってくるわけ。それをまたきれいにちゃんと張り替えて。大体普通のキャンバス、前に絵があっても後ろはきれいでしょ。だから後ろを再利用する。たとえば一番いい例なんかは、モネのポプラの木の絵あるでしょ。こう、4つぐらい(ポプラが)あるわけよ。僕らは5つぐらい入れるわけよ。6つ入れたりさ。後ろにちょっと山を入れたり。だからもう何百点と描きましたね。

池上:それを「モネ」っていうふうにサインを入れて。

中川:そうそう。誰が買ってるんかも全然言ってくれないし、僕は聞きたくもないし。

富井:それもやっぱり1枚2ドルだったんですか。

中川:ノーノー。これはVery high price(笑)。

富井・池上:(笑)

中川:これはハイ・プライスで1点にね、200ドルぐらい払ってたんちがうかな、僕に。

池上:1点につき。

富井:高給取りじゃないですか(笑)。

池上:100倍じゃないですか。

中川:そうそう。そこで僕は4年ぐらい仕事してたけど、最後の方になると、もう5人ぐらいアシスタント使って。それでもっと事業拡大して、35ぐらい違う人のサインを僕はちゃんと持っていて。これはまた不思議なんだけど、全くイタリア系の名前なんかでも、その人のバイオグラフィーもちゃんと作るんですよ。

池上:はあ(笑)。

富井:真面目ですね(笑)。

中川:すごいんですよ、これ。ちゃんとできてるわけ。だから聞いたこともない人なんだけど、それらしく見えるんですよ。そういうフェイクするのは割と簡単なんだな、これ。人をだます、っていうのは。

富井:今で言うとアプロプリエーション・アートか、なんかこう若いアーティストのコンセプチュアル・プロジェクトみたいですけどね(笑)。

中川:そういうことやね。

富井:今で言えばね。

池上:当時は(笑)。

富井:当時はマジですね(笑)。

中川:インプレッショニストからどんどん発展していって、マスター・ピースまで。彼が色んなリサーチして、写真とか色々くれるんで。ラファエッロのエンジェルを使って、ボッティチェッリの女を入れて、とか。

富井:じゃあルネッサンスまで遡っちゃったんですか。

中川:うん。ルネッサンスまで遡って、またイタリア人のけったいな名前を作って、バイオグラフィーも使って、描くんですよね。僕らもそういうの上手いからさ。どういう風にするかっていうと、描くでしょ。描いた後、スティーム・ルームってあるんですけど、そこに2日ぐらい入れるんですよ。そしたらもうスティームでカンカンに乾いてしまうわけ。そして出てきたらね、クラックがいっぱいできてるわけ。そしたら今度は他の職人さんがいて、チェーンだとか、釘だとか、サンド・ペーパーだとか、そんなんで色々やるんですよ。ババババっとこう叩いて、色々また塗って。それを何度か繰り返すんですよ。それが出てきたら本当にもう素晴らしい。メトロポリタン美術館に入れても恥ずかしくないぐらい。本当に素晴らしいんですよ。

池上:ちゃんとクワトロチェントな感じになるわけですね(笑)。

中川:そうそう(笑)。そういうのも大分描きました。

富井:中川さんは割と技術的に写実系だから、そういうのはお手のものみたいなことになるわけですね。

中川:そうよ。

富井:それは、ちょうどこのジャドソンで展覧会した頃もまだやってたんですか。

中川:やってました。それでこれまた面白い話なんですけども、僕の絵を集めているコレクターの人がいるんですよね。アメリカ人で。そういう人たちが今僕のその頃の絵をね、一生懸命探してるんですよ。

富井:見つかります?

池上:その贋作が。

中川:はい。3つ探しました(笑)。

富井:(笑)

池上:それはやっぱり個人コレクションに入ってたりするんですか。

中川:オークションに1点出てきましたね。

富井:じゃあ自分で見たら分かった。

中川:分かった(笑)。

富井:あはは(笑)。でもそれは「中川直人作」じゃなくって、一応イタリア人なり、オールド・マスターのサインが。

中川:そう。シカゴで偶然ある人に会って、色々話してみると、僕のその時の作品持ってるんですよ。今度4月に(ニューヨークに)来るんだけど、「この自分たちの持ってる絵の後ろに、サインしてほしい」って言うわけよ。

富井:「中川直人」で?

中川:そう。その絵はフェイクだけど、実は「painted by Naoto Nakagawa」なんだって書いてほしいと。「OK、OK」って言った(笑)。

池上:でも彼らは、オールド・マスターの作品と思って買ってたわけですよね。

中川:そうよ。だからね、多分1980年ぐらいだったと思うんだけど、割と大きなニュースになったんで新聞の記事で読んで覚えてるんだけど。テキサスのコレクターで、インプレッショニストの絵をたくさん持ってるコレクターがいるんですよ。その人がヒューストン・ミュージアムに、自分のコレクションをほとんど寄付するというので、美術館のキュレーターとか、そういう人たちがちゃんと見に来て。色々調べたらしいんだけども、90パーセント以上みなフェイク、っていうことがわかったそうです。はっはっは(笑)。

富井:じゃあ中川さんが描いたものも何点か入ってたんでしょうか(笑)。

中川:いや、あれを読んで僕はほんとに、考えちゃったですね。「ひょっとしたら僕の描いたものが入ってるんじゃないかな」と。僕は見てないから分かんないけども。

富井:モネとか実在した作家の名前を使ってサインしたこともあれば、まったくでっち上げの「印象派的」、あるいは「ルネッサンスのマスター的」なものもあったわけですか。

中川:あります。今のところ僕は3人知ってます。僕の絵を持ってる人。

池上:もしかしたら中川さんが描いたフェイクをまだ壁に掛けてる美術館とかもひょっとしたらあるかもしれない。

中川:大事にしてるんだなー、みんな。

池上:そりゃそうですよ(笑)。

中川:「How is the condition ?」言うたら、「Beautiful!」って。

富井:じゃあカビなんか生えてないですか。

中川:全然生えてないんだ、これ。

池上:自分の持ってる作品が実は中川さんの描いたものだ、って分かった人たちは特に怒ったりはされてないんですか。

中川:全然怒ってないですね。逆に……

池上:面白がっている。

中川:うん。僕の絵を持っているコレクターのお金持ちの人たちが、逆にそういう絵を欲しいんですよ。なんで欲しいのかわからへんけど。

富井:まあ現代美術的に言うとね。

池上:面白いですよね。

富井:コンセプチュアル・アートみたいでね。そう思ってしまえば。

中川:メアリー・ブーン(Mary Boone Gallery)でやってる人いるやん。フェイクばかりやってる人。

富井:(マイク・)ビドロ(Mike Bidlo)?

中川:ノーノー。シャ、シャ…… いるじゃない。

富井:レヴィンですね。シェリー・レヴィン(Sherrie Levine)。

中川:そうそう。シェリー・レヴィン。彼女なんかそういうフェイクでしょ。

富井:それはもうオープンにしてるからね。

池上:もうコンセプチュアル・アートとしてやってるわけですね。

富井:あれはマジにコンセプチュアル・アートで、みんな偽物だって分かって見てるわけですけどね。

中川:そうそう。だから僕もそろそろちゃんとリヴィール(reveal、暴露の意)した方がいいんじゃないかと思ってるわけ。だけど僕のディーラーの人たちは「Nakagawa、please don’t talk about this」って言うわけ(笑)。

富井:でも今これ録音してますよ(笑)。

池上:記録に残っちゃう(笑)。

中川:大丈夫、大丈夫。For the record, I don’t care。だけどちょうど4年ぐらいやっていて、ある時そこに仕事をしていた人たちが、「ナオト、今日ポリスのレイド(raid、手入れの意)があるっていうことを聞いたよ」って言うからさ。

富井:来る、っていうのが。事前に。

中川:どないして分かったのか知らんけど、僕はもうドキドキっとしちゃってね。だからもうその時全て捨てて、I ran, I ran away. Never looked back。だからその後のことは僕は何にも知らない。

富井:逃げたんですね。そうやって辞めたのが大体何年ぐらいだったか覚えてらっしゃいますか。

中川:70年ぐらいじゃないかと思うよ。後で聞いたんだけども、そのボスは刑務所に行きましたよね。

池上:あ、やっぱり捕まったんですか。

中川:捕まった、捕まった。だからI don’t know after that。どういう運命が彼に向かったか、僕はもう全く何も知らない。だけど今言っても大丈夫なのは、もう無効でしょ。

池上:時効(笑)。

中川:あ、時効(笑)。

池上:無効かどうかはちょっと分かりません(笑)。

富井:中川さん一応アーティストになってしまったので(笑)。

中川:そう。ちょっと戻しますけど、ジャドソンでやったのは何年だったっけ。

富井:68年になってますけど。

中川:やっぱり68年にジャドソンでやったのが、僕のキャリアの一つのビギニングですね。どうしてかというと、そのジャドソンでやったオープニングの一日前に、ロバート・F・ケネディが暗殺されたんですよ。だからオープニングに来たのはケイト・ミレットさんと、吉村さんと、それからジョン・ヘンドリックスと、あと1人か2人くらいだったと思う。もう4、5人しか来てくれなかったわけ。これはもうアメリカにとっては大変な日だったんですよね。だけど面白かったのは、展覧会が始まってから2、3日経ってからだと思うんだけど、僕が画廊にいたら、ある男の人が入ってきたんですよ。彼が絵を見て、「Hi, I’m John Perreault」。あなたこないだ会ったでしょ。

富井:ジョン・ペロー。『ヴィレッジ・ヴォイス(Village Voice)』新聞のペローさんですね。

中川:そうです。ジョン・ペローが「I like your work」って。それで「今度自分はフィラデルフィアで展覧会のキュレーションしてるんだけど、君も入ってくれないか」っていうことで、そこから割とポンポンって行ったわけ。それはムーア・カレッジ・オブ・アート(Moor College of Art)です。ウィリアム・ワイリー(William T. Wiley)ってご存知?

富井:今モマだったらその方ですよね。

中川:そうそう。で、今グッゲンハイムにも出てますよ、「The Third Mind」にも。ウィリアム・ワイリーと、それからアラン・ダーカンジェロ(Allan D’Arcangelo)。ハイウェイを描く人。それから割と有名な人が入ってきたんですよね。6人ぐらいの展覧会です。

富井:この「Beyond Literalism」ですか。

中川:そうです。あれが一つのきっかけになって、あれからまた他の展覧会にも招待を受けて。なんとなく。

富井:でもまだ暗黒時代ですね。

中川:まだ暗黒時代。そのちょっと後じゃなかったかな、ガールフレンドができて、そろそろ画廊を見つけようと思って。ジム・ダインの話を聞いて、それにちょっと霊感を得てですね。というのはジム・ダインが画廊を探してる時に、トラックを雇って、レオ・キャステリ(Leo Castelli)のところにバーンと持っていって、「Look!」っていうような感じで(見せたという)。あ、こりゃ面白い、と思って。僕もこれをやらなあかんな、と思って(笑)。それから何年やったかな、アラン・フラムキン(Allan Frumkin Gallery)での展覧会は何年になってますか。

富井:個展でしたっけ。個展じゃなくてグループ展ですね。

中川:個展もしたし、3人展やったんよね、最初は。

富井:1970年ですね。

中川:1970年に自分なりに納得のいく作品ができたんですよ。「これは画廊を見つけなくちゃいけない」、と思って。ジム・ダインのことも聞いたんで、当時の僕のガールフレンドにお願いしてね、大きなバンを雇って。巨大な作品だったんだけども、それを10点ぐらいバンに入れて。レオ・キャステリに行きたかったんだけど、一番最初にレオ・キャステリはちょっと怖かったんで(笑)。まず、41のイースト、57丁目にある、フラー・ビルディング。あそこにアンドレ・エメリック(Andre´ Emmerich Gallery)ていう画廊があったんですよ。

富井:ありましたね。(カタログのページをめくりながら)このあたりのオブジェクトの絵ですか(《Echo》、1970年)。

中川:ノーノー。その前です。

富井:じゃあこういうやつ(《Ear》、1970年)。

中川:もうちょっと前。

富井:じゃあこのあたり(《Untitled》、1968年、《Window on Fire》、1968年など)。

中川:その辺だと思う。何年ですか、それ。

富井:これで68年ですね。このあたり。

中川:そのもうちょっと後かもしんないね。

富井:これ(《Untitled》、1969年)が69年。

中川:OK。その後は? あ、ちょっと抜けてるね。70年のやつが抜けてる。

富井:それはだって(カタログでは)セレクトしてるから。

中川:それで、僕は何にも知らないんで、今から考えると。

富井:エメリックにまず行ったんですか。

中川:そうです。土曜日なんですよ。土曜日ってオープニングの日なんだよ(笑)。こっちはアホやからね、そんなん。若気の至りっていうのかな。こんな大きな絵をさ、持って、エメリックさんの画廊に入って行って。なんか見たら人がたくさんいるんですよ(笑)。オープニングなんだよ。ミリアム・シャピロ(Miriam Shapiro)って知ってる?

富井・池上:はい。

中川:ミリアム・シャピロさんのね、オープニング(笑)。

富井:女性のアーティストですよね。

中川:そう。それでデスクにいた人が「なんで来たの」って言うから、「I came to show my paintings to Mr. Emmerich」って言って。みんなもうびっくりしてるわけよ。

池上:営業妨害じゃないですか(笑)。オープニングに。

中川:そうなんだよ(笑)。こっちはもうミリアム・シャピロさんがさ、ワイン飲んでさ、こう、やってるわけよ。だけど彼女は非常にナイスでね、後で「Good luck !」なんて僕に言ってくれて(笑)。で、エメリックさんが出てきて、「What do you want ?」とかなんか言われたんよね。だから「僕は絵を見せに来た」って言った。彼はそこで、怒鳴ることができなかったと思うの。というのは人がたくさんいたから。だから彼はジェントルマンだから、「Please come in」って、一番奥の部屋にちゃんと連れてってくれた。僕は当時は絵をね、ブラウン・ペーパーじゃなくて新聞で巻いてたんだよ。新聞バリバリ破ってさ、こうして3つぐらいかけたわけ。で、彼の顔見たらもう顔を真っ赤にして怒ってるわけ(笑)。

富井・池上:(笑)

中川:だけど丁重に、「I don’t think I’m interested in your work」って言われたわけ。それでもうしょうがないから、また絵をホールウェイまで持って行って。その時にミリアム・シャピロさんが出てきてね、「Good luck !」なんて言ってくれたから。

富井:今1970年ですけども、その頃までには英語上手になってたんですか。そうやって応対できるほどには。

中川:そうみたいね。なんとかね。それで、そのまま帰るのは悔しいから、ちょっと見てみると、アラン・フラムキンていうのがその下にあったんですよ。「じゃあアラン・フラムキンのとこ行ってみよう」と思って。土曜日でしょ。また下まで降りて、絵をホールウェイに入れて、「ミスター・フラムキン」て言って、僕のイントロダクションをして、「絵を見てほしいんです」言うたら、彼は分厚い葉巻を吸いながらさ、「I don’t look at on Saturday」って言うわけ。だけど「ちょっと来たらそこにありますから見てください、プリーズ!」って言ったんだけどね、「I don’t look at. Go home」って言う。とうとう僕に帰ってもらうためにさ、「If you want, come back next week」って言うわけ。「火曜日に来い」、って言うわけ。「スライドで、絵を持ってくるな」って言うわけ。こっちももう腹立ってね。「OK」って帰ったんだけどね。その2つの経験があんまりひどかったんで、もうレオ・キャステリに行かなかったの。こりゃ駄目だと思って。

富井・池上:(笑)

中川:次の火曜日にアラン・フラムキンのとこにスライド持って行ったの。そしたら彼がね、「面白い」って言うわけ。「OK. I’ll come to your studio」って言うわけ。ほいで来て、「OK, I’ll give you a show」って。だから面白いね、このへんね。

池上:結果的に上手くいった。

中川:そういうこと。やっぱり押してよかったなあ、と思う。僕時々ね、日本人の人に言うんですけどね、聴濤先生も僕に言っておられたんだけど、日本ではね、「今日あそこに行きたくないな」とかさ、「あんまり押したくないな」っていう気持ちがあるわけよ。そういう時に行ったら、「やっぱり行かなくてよかったな」と思って帰ってくるんだって、日本では。ニューヨークでは違うんだ。ニューヨークではウッディ・アレンの言うように、「Success here is to show up」。だからニューヨークでいる場合ね、「嫌だなー」という時は何度かあるじゃない。だけど無理して行くわけ。だけど行くとね、「行ってよかったな」っていうのが100パーセント、ここでは。絶対に顔出した方がいいんです。ここでは「行きたくないな」と思って自分の気持ちではいいんだけども、行かなかったらもうビッグ・ロス。その辺が日本の文化とアメリカの文化とちょっと違うね。ニューヨークでは無理してでも顔を出した方がいいんですよ。だからアラン・フラムキンでもそうだけど、行ってよかったと思う。

富井:年譜で見るとグループ展はしてますけど、個展はしてませんよね。

中川:アランでは個展してないと思う。

富井:その後リース・ペイリー(Reese Paley Gallery)って、ソーホーでできた画廊でも一回グループ展みたいなのはしてらっしゃるんですけども、個展はなくって。

中川:うん。個展はしてないと思う。

富井:個展をしてるのはだから、オーケー・ハリス(OK Harris Gallery)になってからだと思うんですけども。

中川:そうだ。それでリース・ペイリーで、個展が決まっていたわけ。実際リースさんは僕の絵をもう売り始めていたわけ。たとえばバーニーズ・デパートメントストアあったじゃない。バーニーズのオーナーのプレス・ファミリー。プレスマンって言うんですけども。プレスマンはもう買ってるんですよ。大きな絵を。あの絵どうなったのかな、今(笑)。あの時の絵。大きな絵ですよ。それを買ってるんですよ。リース・ペイリーとその個展が決まっていたんだけど、ちょうどその時オーケー・ハリスが、アイヴァン・カープ(Ivan Karp)さんがソーホーに画廊をオープンしたんですよ。オープンした時にアイヴァン・カープが2、3の他のアーティストから、「ナオト・ナカガワっていうやつがいて、面白い絵を描いてるから、見て来い」っていうのを聞いたそうです。それである時アイヴァン・カープが僕に電話してきて、「This is Ivan Karp」って。もうびっくりしちゃってね。アイヴァン・カープっていったらもう幻の人物じゃない。「I wanna come to your studio」なんて言うわけ。「どうぞ」って言うて。見に来て、何も言わないで帰っていったんですよね。3日ぐらいしたらね、「I’m coming over again」って、もっぺん来て。それで「I wanna give you a one man show」って。それでもう決まったわけ。その当時としては、みんなアイヴァン・カープと一緒にいたかったわけ。というのはアイヴァン・カープっていうのはニューヨークのナンバー・ワンの画廊になるとみんな思ってたから。だからすぐ僕はリース・ペイリーを出て、アイヴァン・カープに行ったわけ。そういういきさつがある。

富井:オーケー・ハリスには随分長いこといましたね。

中川:いました。彼は僕の絵を全部売ったんですよ。最初のファースト・ショウはほとんど売れなかったんだけど、2回目からはソルド・アウト。もうウェイティング・リスト。そこで初めてあの暗い……

富井:ダーク・エイジを抜けたんですね。

中川:そやねん(笑)。暗黒の時代から抜けることができたわけ。

富井:最初にオーケー・ハリスで展覧会したのが72年ですから。62年にいらっしゃったのでちょうど10年間。では、これはどの作家さんにもお聞きするんですけど、絵を売って食べれるように、というか生活できるようになったていうのがちょうどその頃ですか。

中川:そうです。それでその頃、僕は21歳の時にさっきトラックを運転してくれたって言った女性と結婚したんですよ。

富井:21歳っていったら来て3年ぐらいですか。18でしょ、こっちにいらっしゃったの。

中川:そしたらもうその時は結婚してたのかな? 結婚してたかもしらんね。

富井:結構記憶が曖昧ですね(笑)。

中川:ちょっとその辺ね。とにかく僕は21歳ぐらいで結婚してるのよ。

富井:早いですよね。

中川:だから最初のガールフレンドと結婚したんやね。僕もヴァージンだったからさ、最初は。

富井:アメリカ人の方ですか。

中川:そうです。ニュージャージーにいる人で。これもまた色んなストーリーがあるんだけど(笑)。簡単に言うと、「あなたの娘と結婚したい」って言ったら、非常に裕福な家庭だったんですけど、お父さんがもう体が震えてんのね。それで自分の奥さんにね、「ナオト君と二人だけにしてくれ」って言うからさ、僕の奥さんとお母さんも外に出て行って。僕はもう殺されると思ったんやけどね。だって彼はもうブルブル震えてるわけ。ライフルかなんか持ってきてね、バーンと打たれるんのとちがうかと思って。彼が言ったのはね、「私はあなたに対して偏見持っていないけども、アジア人の男の人と私の娘を、結婚させることはできない」って僕に言ったんですよね。「そうですか」って僕は聞いた。変なこと言うたらもう殺されると思ったからね(笑)。だけど最後に彼女のお母様が、「もしもあなたが拒否したらね、自分の娘をなくしますよ」って言ったそうです。面白かったのはね、結婚してから1年ぐらいしたらね、彼がね、一緒にどっかでご飯食べた時に、僕を抱きしめてほっぺたにキスするんですよ。その時はほんとに嬉しかったですね。「えー!」と思って。というのは、僕の絵がちょっとだけ売れ始めたんですよね。ある時彼に、「こんな絵が売れましたよ」って言ったら、「そうか」って。「その絵を描くのにどれくらい時間かかったの」って言うからさ、「2日ぐらいです」って。「お前いくらで売ったんだ」って言うから、「500ドルぐらいです」って。「500ドル? 2デイズ? ファンタスティック!」(笑)。

富井:その頃大体、数百ドルっていうのが絵の値段だったんですね。

中川:そうです。アイヴァン・カープさんのとこでやった時もそうだし、フラムキンの時も、リース・ペイリーの時もそうだけども、大体800ドルぐらいやね、最高が。

富井:大きいやつ。

中川:大きいやつ。小さいやつはもう200ドルか300ドルぐらい。だけどレントがね、23ドルでしょ。御の字だよあれは。

池上:全然やっていけますね。

富井:2日で500ドル儲かる、という風にお義父さんは考えたんですね。

中川:そういうこと。ちょうどその頃、74、5年あたりにお金がちゃんと入ってきて、僕の当時のワイフがもうニューヨークを出たかったわけ。たまたまヴァーモントの大学から「教えに来い」っていう依頼があったわけ。それでヴァーモントに移りました。それが1975年。僕の最初の子供も生まれています。1971年に産まれています。アマン君って言うんだけど、心理学者です。

 

富井:最初の奥様と何年ぐらいまで一緒におられたんですか。

中川:10年ぐらいいました。

富井:じゃあちょうどヴァーモント移った頃ぐらいまでに。お子さんはお一人、その方と。

中川:そう。昨日ここに来てました。本当にもう素晴らしい人間やね、彼は。なんでこんな良い子ができたんかな、と思う(笑)。

富井:お子さん全部で何人いらっしゃいましたっけ。

中川:3人です。男の子ばっかり。アマン君が今37歳でしょ、アマンっていうのは「天の人」と書くんですけども。今のナンバー・ツーのキャロラインとの間に子供が2人いて。1人が5月に12歳になるタロウちゃん、それから来月、3月に15歳になるイサムちゃん。この2人がいます。

富井:結婚は2回なさったということで。

中川:そうです。経済的には75年から安定しました。これはもうアイヴァン・カープさんのおかげです。彼は定期的に現金を送ってくれるんですよね。

富井:じゃあ定期的に作品も渡しておられたわけですか。

中川:そうそう。現金でこんな封筒でね、速達で来るんですよ。ヴァーモントの郵便局行くとね、小さな普通の家がポスト・オフィスになってるんだけど。彼がこんなんして(封筒を振るジェスチャーをして)「This is very nice」って(笑)。もう知ってるわけよ。

富井:分かってるんですね、何が入ってるか(笑)。

中川:嬉しかったな、ほんとに、その時は。

富井:ニューヨークでパフォーマンスしてたとか、そういう話も聞きたいんですけれども、どうしましょう。これ随分長くなりそうですから、今日は一回お開きにして、もう一度伺うっていうことにした方がいいかもしれませんね。

中川:はい。これでいいですか。

富井:ええ。面白かったです。ありがとうございます。

池上:ありがとうございました。