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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

中村宏 オーラル・ヒストリー 第1回

2012年3月30日

東京都現代美術館にて

インタヴュアー:鎮西芳美、藤井亜紀、加治屋健司

書き起こし:鏑木あづさ

公開日:2015年1月18日

インタビュー風景の写真
中村宏(なかむら・ひろし 1932年~)
画家
静岡県浜松市生まれ。日本大学藝術学部で美術を学ぶ。1950年代にルポルタージュ絵画を発表して注目を集める。その後も、社会状況と関わりつつ、空飛ぶ蒸気機関車、セーラー服の女学生、流れゆく車窓の風景など具象にこだわり、絵画の可能性を追求している。2007年に東京都現代美術館で開かれた「中村宏・図画事件1953-2007」展を担当した鎮西芳美氏と藤井亜紀氏をインタヴュアーに迎えて、教育者の家に生まれ育った幼少時代、《砂川五番》をはじめとするルポルタージュ絵画やその社会状況との関わり、観光芸術や路上歩行展などの活動、美学校などでの教育活動、各時代の絵画作品などについてお話しいただいた。

鎮西:東京都現代美術館で個展(注:「中村宏 図画事件1953-2007」東京都現代美術館、2007年1月20日—4月1日。名古屋市美術館へ巡回)をさせていただいて、その時に非常に何度にもわたって名古屋市美術館の山田(諭)さんとの聞き取りをさせていただきました。それから少し時間も経ちまして、改めてお話をうかがえればという感じで、順を追ってお尋ねしたいと思います。
先生、ちなみに今年のお誕生日は、もう80周年(笑)。

中村:そこからいくか(笑)。まぁよろしい。

鎮西:浜松の。

中村:出身は静岡県浜松市。間違いありません。

鎮西:ご実家が学校でいらっしゃったわけですよね。多分、最近共学になったというふうなお話だったのですが。

中村:そうですね。

鎮西:最初は裁縫学校というふうに。

中村:そうですね。次には、実はこのこっちの画集のところ(注:「中村宏自作年譜」『タブロオ機械 中村宏画集1953-1994』美術出版社、1995年、pp. 89-97。以下、年譜)の最初に、浜松高等家政女学校(注:現在の浜松学芸中学校・高等学校)ってありまして。家政ですので裁縫だけじゃなくて、お茶お華礼儀作法その他、いわゆる昔で言うところの、お嬢さんの花嫁修業みたいなことで始めたようです、どうも祖母さんが。その辺のことは本当は私、本当は詳しくはあまり知らないんですよ。聞いてもいないし。私が小学校の2、3年生の頃にね、ちょうど死に目に逢ってるんですよ。

鎮西:おばあさまの。

中村:ええ。それ以前は、おばあさんと遊んだりとかということがない、変な家庭でありましてね。あんまり親しくない、いわゆる和気あいあいとした家庭ではなかったので。おばあさんが自分の部屋の中ですごくピリっとして、子どもなんか寄せつけない、孫なんか寄せつけない、そういう家庭に育ったんですよ、実は(笑)。

鎮西:おばあさんは相当、近寄りがたいという感じだったんですか。

中村:そうそう、近寄りがたいんですよ。ともかく偉い人で、子どもまでもあんまり寄りついてないみたいな感じだったので、孫である私なんざ、それこそ「ばあちゃん!」なんつってよくやるような、庶民のああいうことじゃなくて(笑)。

鎮西:ばあちゃん(笑)。

中村:いや、「おばあちゃーん!遊ぼう!」っていう、普通そうでしょう。庶民に限らずね(笑)。

鎮西:じゃあ、おばあちゃんと、一緒に遊ぶようなことは……。

中村:そうですよ。それが一切なかったのよ。

鎮西:相当厳しかったってことですか。

中村:そう。部屋にも入るな、だ。

加治屋:おばあさまは校長をなさっていて、普段もお仕事なさってたってことですね。

中村:創立者兼、校長なもんでね。最初はそんな大げさな学校じゃないので、全部兼務してたんですよね。実はこのみつという名のおばあさんの旦那さんがやっぱり教育者で。自分で不如学舎とかいう、小さい塾のようなものを始めて。

鎮西:私塾のみたいなものを?

中村:私塾を始めて。それを拡大する意味で浜松というところへ、場所とか建物を設定してね。自分の妻であるところの私の祖母を校長として据えた。ここには「祖父万吉創設、祖母みつ校長」って書いてあるけど、厳密には祖母の夫の万吉さんが色々やって、校長として祖母のみつがそこに入ったということ。これ(《四世同堂》1957年)は写真を見て祖母を描いてますが、遊んだ記憶はないし、部屋でさえろくに入ったことないしね。まして家にいるより学校の方にいて色々授業を教えることもしてたんですよね。見たわけでもないからよくわかりませんが、多分礼儀作法みたいなことをね。良き子女を育てるようなことをやっていたんでしょう。

鎮西:前に学校のホームページを見てみたら、創立が明治35年。1902年と書いてありましたが。

中村:明治時代でしたか(笑)。

鎮西:そう書いてありましたよ。

中村:そっちのほうが詳しいわ(笑)。

鎮西:おばあさまがこう、なんて言うんですか。

中村:胸像?

鎮西:ええ。それがちゃんとホームページで見られるようになっていて、びっくりしたんですけど。

中村:へぇ。そんな写真まで流してるんですか。ほう。

鎮西:なので、明治35年。

中村:その時に、開校になってるんですか。

鎮西:一番最初の学校を建てて、ってお話で。

中村:じゃあすぐその時からでしょうね。あんまりそういうこともしゃべってくれなかったりしてね。ほとんど接触はありませんでした。記憶にもほとんどない。亡くなる時に小学校で、たしか学校行ってて2、3年の頃だったと思うんですが、授業中に呼び出されましてね。おばあさんが亡くなったからすぐ帰りなさいって、帰らされて。その時はもう、危篤で呼び出されているのでね。最期の息を引き取る場面に座らされていましたかね。寝てるところにね。もう、前から胃潰瘍かなにかで寝てましたね。医者さんの出入りがあって、昔は入院っていうのはあんまりしなかったですよね。自分の家で、医者さんに来ていただいてて、そこでやってて。最期はおばあさんの部屋に、やっと入れた。その時に入れた。

鎮西:その時に。

中村:その時に入ってよいっていうから、恐る恐る入る。そんな状態ですよ。

鎮西:お家というのは、おばあさまおじいさまから、ご両親で、ご兄姉で。みんな同じお家で学校に。

中村:その時はね。私が生まれた直後はわからないけど、しばらくして物心ついた頃には、もうおじいさんは早くに亡くなっていました。40代くらいで、わりと早死だったようです。祖母のほうが後を全部引き継いでやっていて、一緒に住んでました。

鎮西:先生のお母様っていうのが、みつさん?

中村:じゃない。私の母は春子って言いまして。

鎮西:(みつさんは)おばあさんですよね。

中村:うん。祖母の娘です。祖母は石屋の娘なんですよ。

鎮西:いし?

中村:石、ストーン(笑)。石屋なんね。庭石とかね。私がいた場所、下池川町というんですがね、近くにその石屋がありました。この家は村石といってね。そこの長女かな。長女風でしたよね、そこの長女と私の祖父であるところの、中村万吉というのと一緒になったようですね。養子とって石屋継がせるってんじゃなくて、嫁に出たんでしょうね。中村姓は万吉の方で。自分の家は村石です。

鎮西:なるほど、なるほど。

中村:どういう理由かはよくわりませんが、教育者であるところの中村万吉に嫁いだために、そっちの道にずっと。あるいはもともとそういう方向へ行きたいので、中村万吉さんという割と教育好きの若者がいて、どこでどう知り合ったのかよく知りませんが、一緒になったのかもしれません。最初からちょっとそういうね、なんだろうね。生意気な娘だったんじゃないのかね。当時、そんな教育畑に行こうなんてね。普通、静かに嫁入りして専業主婦になりゃいいものをね(笑)。

鎮西:なんか、通ずるものが(笑)。

中村:あったんでしょうね(笑)。祖父さんはそんなに詳しくは書いてないけど、結構頭のいい人だったらしくて。浜松市の郊外に気賀というところがあるんですがね。変な名前の、本当に田舎の浜名湖の北に街がありまして。そこの生まれで、極貧生まれでね。教育なんかできる身分じゃなかったのを、タダで教育してもらえる場所として、昔は師範学校があった。任官って言って、卒業したら必ず文部省の命令で就職先に配属されて、もう自由にならない。(東京)教育大学の前身の、(東京)高等師範学校ってのがありましてね。そこに入学してます。
気賀という田舎の小さな村から、そこへ行くなんていうのは、かなりのもんだったと思うけどね。学費はタダとはいえ、東京で生活するのには生活費がかかるでしょ。その金も当然ないので、気賀というところに、気賀さんという名主さんがいましてね。その方の書生をやって、それで援助していただいた。

鎮西:ご兄姉っていうのは、先生って3番目。

中村:そうですね。男としては次男。兄貴と、私の間に姉というのがいるのでね。兄、姉、私、妹っていうこの4人。

鎮西:先生が一番仲が良かった、というか。お兄さんは結構離れて。

中村:僕と妹はふたつ、僕と姉貴が三つ、姉貴と兄貴が四つくらい離れてるから、七つくらい私より上ですね、兄は。

鎮西:書いていらっしゃる年譜を見ると、しょんぼりひとりで遊んでる姿が浮かんじゃったり。

中村:そう。お前汚い、うるさい(笑)。たしかに自分で見ても鼻垂らすわ、服なんか替えたこともない、風呂もろくに入らないような(笑)。自分自身でも、余分な子なんだろうななんて思ってた。子どもってそういうこと時々、考えるでしょう。

鎮西:そうかもわからないですね。

中村:橋の下から拾ってきたんじゃねぇか、とかね。

鎮西:だいたいそう言われますよね(笑)。

全員:(笑)。

中村:本当かねぇ(笑)。あなたみたいにしっかりしてると。

鎮西:弟は言われましたよね、やっぱり。男の子は言われるんですかね。

中村:そうです、男の子は特に次男など昔は雑っぽく扱われてね。そのほうが逞しく育つからいい、みたいなこともあったのかな。かなり放っぽらかしでした。

鎮西:逞しく、という感じでしょうね。丁度、先生の小学校時代っていうのは戦争が始まって、という時代になっていきますよね。

中村:そうですね。もう戦争。第二次大戦以前につながってるでしょ、日本は。だから私は満州事変くらいからはもう、知ってましたよ。あっちでドンパチやってるって。日本にまでは影響はなかったけども。

鎮西:じゃあ気配というか、そういうことがもう。

中村:それは当然ありました。気配だらけ。

藤井:生まれた時から13歳ぐらいまでは、ずっと戦争の中にあるわけですよね。

中村:そうですね。13歳、中学1年までだから、そのくらいまではずーっと15年戦争で。それで、戦後革命世代でね。革命やろうとして、失敗して。失敗だらけですよね。戦争は僕がしたわけじゃないけど、負けてる。戦後はちょっと関わったけど、革命しようとして失敗してるね。だから失敗の歴史というか。敗戦が二回あるんですよ、私にはね。僕らの歳の連中って、よくそういうこと言うんじゃないかと思うね。

鎮西:小さい時ってどうだったんですか。

中村:うんと小さい頃?例えば小学校の頃?もう鼻くそみたいな存在でね(笑)。語るに落ちるみたいな(笑)。どうだったんだろう。さっぱりわかんない。ただなんとなく田舎なりに、エリート教育が好きなんですね、我が家は。

鎮西:なるほど。

中村:母親も父親も教育(関係者)で。おばあさん、おじいさんから引き継いだ資産として学校なんていうところにいて。そんなところに生まれてるもんで、やっぱり面子とか、一種の名士気取りがあったんでね。もう、本当に嫌だったんだけれども。静岡県立のね、どこの地域にでもある師範学校っていうのが昔はよくある。県にひとつはあったように思うね。それが浜松にありまして。それの附属小学校(注:静岡県浜松師範学校附属小学校)っていうのがあるの。モルモット小学校ですよね。教員養成所ですから、師範学校は。教師が実習をするために、小学校を基礎クラスだけ作って。6年間ね。そこは教生の先生っていましたよね。そこへ入れられたの。自分の意思もへったくれもないですよね。私の兄姉、全部そこを通過したの。本当に嫌だったですけどね(笑)。私は劣等の方で入ってる(笑)。

鎮西:劣等の方?(笑)

中村:いや、本当に。こんなこと今さら嘘を言ってもしょうがない。劣等生がいて、できる子もいました。それこそ、中ではほとんど完全に分かれちゃってます。できる子とできない子と。ところが今みたいに差別したりいじめられたりってのは、なかったね。できない方は課外授業ばっかり出させられましたよ。

鎮西:課外授業。

中村:うん。つまりできない子はついていけないから、特別残してね。問題を繰り返し繰り返し、わかるまでさせる。そこまで面倒臭くやってましたよ、先生は。そんなやんなくてもいいのに、放っとゃいいのに(笑)。ともかくレベル上げなきゃしょうがないってんで。上の子は放ってあるんですよ、できるから。そんな教育で、1年2年3年と行きましたね。だんだんそんな変な空気でした。3年生くらいからもう、そろそろ第二次大戦ってのが。

加治屋:小学校3年生ですね。

中村:まだ実害はなかったね、空襲はほどんとなくて。最初は勝ってましたんでね。ハワイ辺りからマレー沖海戦も勝っていて。(ガダル)カナルくらいから負けだして、まだアメリカも日本を空襲するほどじゃなくて。東京が一番早い空襲で。その頃は、浜松はまだご安泰なんですよ。一番ひどかったのは、敗戦の年ですけど45年くらいです。

鎮西:空襲が日本に来るのが結構後半というか。

中村:そうです。しかも浜松みたいに、あんなに小さい中小都市なんてのは、最後の1945年です。45年の8月が終戦でしょう。だからどんなに早くても、その年の始め辺りからちらちら来ていて、そして5月6月頃がひどかったと思います。敗戦の年のね。敗戦の当日ってのも当然、適当な空襲はありましたけどね。なんとなく静かでしたよね、あの玉音なんてのを聴け、なんて来た時は。空襲なかったですからね。

藤井:先生、どこで玉音放送を聴かれたんですか。

中村:さすがに浜松でも子どもは疎開せぇって、東京ほど強制ではなかったですね。縁故を頼って。さっきも言いました気賀というところに、親戚がありましてね。そこにいました。そこで聴きました。まだ中学校1年生くらいだと、あんまりわかんないですよね、聴いても。だから大人の人が解説してくれて、その人でさえわかんないから、一般庶民なんかあんな言葉づかい、わからんですよ。それ以前に聴いたことないし、天皇の放送なんてないですから。

鎮西:声聴いたこと、ないですもんね。

中村:ないですよ。ね。声さえ聴いたことないのに、あんな小難しいのを一体(笑)。ただ日本は負けたらしい、とだけ。

鎮西:どうやら負けたらしいです(笑)。

中村:なんの実感もない(笑)。ただなんとなくウキウキした。これで空襲がなくなるって。

鎮西:じゃあ前は結構空襲が。

中村:もう、空襲だらけ。1日1回か2回くらいは必ず来ましたね。

鎮西:工場があったんですか。

中村:浜松は工場だらけ。軍事工場にさせられちゃっててね。今でこそヤマハなんて楽器でオツに澄ましてるけど、あれも全部軍事工場でね(笑)。私の住んでたところのすぐ近くなんですよ、ヤマハの工場が。そこで飛行機のプロペラ作ったり、飛行機の照準器の部品を作ってましたね。絨毯爆撃ってやって。無差別爆撃、相手がやったのは。工場だろうがもう田んぼだろうが民家だろうが、関係なく落として行きました。もう爆弾だらけ。
それが僕なんかに言わせりゃ、戦場へは行ったことはないけれど、戦場以上だったんじゃないかと思うのね、恐怖は。子どもで、武装してないでしょ。戦場ってのは、武装しているプロの兵隊たち。武器っていうのは、ものすごいお守りになるんですよね、実際撃たなくても。もしいざっていう時は、それで戦うわけでしょ。だからものすごいお守りですよ。それ一切なし、子どもは逃げるのみ。それも命を守る戦いだね。なんとか助かろうと、命を保とうという戦いですよね。そういうことの毎日です。

鎮西:先生はいわゆる軍国少年みたいな。

中村:ですよね。もう、そんな意図的なもんじゃなくて。ガキですから、上から言われりゃそうか、で馴染んじゃうという。完全に洗脳、マインドコントロールされるって、子どもは皆されちゃいますよね。親のことはわからなかったですね。しかし多分私の親父は軍国主義者ではなかった。親鸞の浄土真宗の在家仏教者だった。
仏間って一部屋作ってあって、そこで半本格的にちゃんと坊さんと同じように修業できるくらいまで、在家ってやるんですよ。よく座らされて、親父の後ろに(笑)。親父がお経をいくつか知ってて、お坊さんと同じことやって。まぁつきあうのが嫌でね。

鎮西:そうするとその間というのは、お母様の方が学校で教えていらして。

中村:両方でやってました。

鎮西:お父様も。

中村:親父のほうは、養子で来て後継いで理事長兼校長で。親父が進んで始めたのは、なんとジャパン・ミッションスクール(仏教系)。朝の朝礼で講堂に女学生を正座させて、親父が般若心経を檀上で読経。子どもたちが後を追って唱える。

鎮西:全員女の子が。

中村:全部その当時はね、女学校。

加治屋:ちょっと話が戻りますけども。先ほど小学校の時優等生もいたっていうお話で。年譜だと、宇波彰さんが。

中村:宇波ってご存知?

加治屋:はい。

中村:仏文で、翻訳で名を成してる。今、評論家でやっている。ちょっと美術にも関わろうとしましたね、彼は。『美術手帖』やなんかで依頼されて画家ベーコン論を書いたりしている。

加治屋:交流はその後はそんなに。

中村:ええ、卒業後はほとんどありません。1960年代頃、偶然に池袋辺りの喫茶店で私がひとりでぼーっとコーヒー飲んでたら、似たような人いるなーと思って。「宇波くん?」って言ったら、「えっ?!」なんて(笑)。そんな出会いですよ。「なんであなたひとりでいるの」「俺は友だち作れないから」って。「お前もそうだろ」って言ってね。浜松人はダメだねぇみたいな話になって(笑)。東京へ来てもお友達作れないから、ひとりで喫茶店でね(笑)。ものすごく寂しく。そんな出会いで。
それ以降、僕はわりと展覧会やる時は知らせたりする。わりと来てくれたりして。特に評論なんか書いてくれたわけじゃないけどね。1回だけ書いてくれたかな。新聞かなんかに頼まれて。

鎮西:この展覧会(注:中村宏 図画事件1953-2007)じゃないですか。

中村:そうです。この展覧会の時に来て、書いてくれた。

鎮西:東京新聞で(注:宇波彰「『中村宏/図画事件』を見に行く」東京新聞、2007年2月3日朝刊17面)。

中村:東京新聞でしたよね。うん、その時に珍しく彼の方から、新聞社に頼まれたからって書いてくれましたよね。あれが唯一。後にも先にもない。うん。彼はやっぱりあそこまで行った人だから、小学校時代の同窓だからって評論書くのは、照れくさくって嫌だっていうのがあって。まぁその通りだなと思ってね。

鎮西:小学校っていうのがまた(笑)。大学とか高校生だったら。

中村:評論なんて書くような関係じゃないでしょ。だからお互い照れちゃって、それは新聞社から言われたからです。僕は一切知らなかったのね。「いよいよ書く羽目になっちゃったよ」なんて言ってね。もう任せるからご自由に、けなそうが褒めようがって。ただ僕は読ませてもらって、ひとつおもしろいのが、この画家は政治を描いてるってバチっと言ってるのね。
こういうのは、いろんな批評家さんにそれなりには書いていただいても、その辺は皆、逃げてた。批評家さん自身の立場もあったんでしょう。日本の美術批評は今でもエロと政治はご法度なんですよね。

藤井:そうなんですよね。

中村:日の当たる場所の人はやりません。宇波彰も仏文の方の人だから書けたんだろうと。美術畑で食おうと思ってないから。政治を描いたってズボっと書いてくれたんで、僕もちょっとすっとしてね。本当はそれだよ、というのがあったんでね(笑)。それはもちろん若い頃のね、50年代60年代前半くらいまでは。モチーフもやっぱり政治とか社会事件というのがあったんで。エロティシズムも、例えば澁澤龍彦さんのような(人だと書ける)。この人も仏文の人でしょ。だから、美術から違うところの人は平気でそういうこと言えて、かなりハイクラスな評論が書ける。美術の人よりもそういう方の方が、文学やったり翻訳やったりしてフランス事情を知ってる人の方が、よほど解放されてますね。中原さんなんて、非常に親しくつきあわせてもらいましたがね、理工系の人でしょ。だからもっとズバズバ書けばいいのにね。意外に、非常にアカデミックにやろうとしたんですかね。戦後美術のアカデミックっていうのは、いわゆる文部省選定のものじゃありませんが。いわゆるモダニズムとしての、アカデミズムを作っちゃった人ですよね。そっからもう、一歩も出ないですよね。
だからかえって宇波くんみたいにね、ズバっと言っちゃって。まぁ半分無責任だから言えちゃうんでしょうけどね。批評の内容として、良いなと思いましたよ。短文でしたけどね。それ以上はわかりません。個人的に会っても、そんな話はしないもんですから(笑)。小学校時代の、お前一体どこでなにしてた?みたいになっちゃって(笑)。そんな長話はしたことありません。

加治屋:年譜を拝見すると、随分映画を観て感銘を受けたっていう記述が多いんですけども。映画は良くご覧になっていましたか。

中村:ええ、もう(笑)。これ(年譜)には抜け落ちてますがね、後でわかって(注:手持ちの図録の年譜に赤字で)入れているのが、1956年くらいかな。エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』ってのは、非合法で入って来てるんですよ。

加治屋:それをご覧になって。

中村:ええ、それ観てるんで。その重大なものが、自筆年譜に出なくてね。

藤井:非合法で。

中村:なぜかって言うとね、GHQが強かった。ロシア革命の映画でしょ。アメリカってのは神経質なんですね。組合が密かに闇ルートがあってね。国労って、国鉄労働組合ってありまして、当時そこは相当な組織でもう本当に国鉄の会社よりも力があるくらいだったんでね。

藤井:それで届いたんですね。

中村:それを観ていましてね。

鎮西:それは東京へ来てからの話ですか。

中村:当然そうです。

鎮西:これは違うのかな、1954年に大学で「シナリオ概論を選択、エイゼンシュタインのモンタージュ論を学ぶ」って。

中村:うん、本当はそうなの。1954年でしょ…(しばし考えて)。多分この前後だと思うんですよ。

加治屋:日本では1959年に『戦艦ポチョムキン』の自主上映運動っていうのが。

中村:1959年にね。ああ。

加治屋:評論家の山田和夫さんかなんかがやって。確か大学なんかで。

中村:ほう。

加治屋:一方で一般公開は1967年が最初だと言われています。

中村:一般公開が?

加治屋:1967年です。

中村:ああ、だいぶ後ですよね。自主っていうのは、国労がやったって意味かしら。

加治屋:国労かどうかは、ちょっとわからないのですが。

藤井:GHQのあれでもって観られないということは、GHQがいた頃ですよね。

加治屋:そうですね。

中村:もう当然、がっちり。

藤井:だから1952年までの間に、先生はご覧になったっていう。

鎮西:1952年だとまだちょっと、どうだろう。

中村:1952年? っていうことは、GHQはもう1952年でいなくなってるっていう意味? あ、本当。なるほど。それじゃね、ここに今やっと見つけました。1959年に、12月15日。えーっ! そんな詳しく、よくわかったな。暮れも近い頃に、東京八重洲口の国労会館、国鉄労働会館ってのがあって、そこで「『戦艦ポチョムキン』を観る」って赤字で(手持ちの図録の年表に書き)入れてあるんですよね。だから、そのことですね。だからGHQってよりも、なんだろう。GHQはもう解散、解散っていうか引き上げていなかったから、むしろ日本の検閲関係。うん。その後引き継いでね、日本の警察に。まだまだ左翼運動がこの時代、盛んですから。引き継いで警察なり、公安って形でね。思想統制があって、摘発が盛んでした。裏口から入ってくれって。出る時も、ちょっと顔を伏せて、ツーっと行ってくれって(笑)。夜ですよ、しかもこれ。

鎮西:『戦艦ポチョムキン』をご覧になったのは、これが初めて。

中村:初めて初めて。それ以前なんか、多分なかったんじゃないかな。組合の人たちなんかは観ているかもしれないし、専門の人たちは観ているのかもしれません。もっと小さな試写室とかでね。そして僕なんかに呼びかけがあったのはね、これは記憶が怪しいんですがね。日大芸術(学部)にはもう、すでにいてですね。いやいや、いてですね、じゃない。もう卒業もいいとこだよね(笑)。

鎮西:卒業もいいとこですね(笑)。

中村:いいとこ。1955年にもうやめてまして。牛原虚彦さん(の講義を)聞いたのは1954年ですので。

鎮西:この時は映像っていうのは、ご覧になってないんですか。

中村:観てなかった。単なるお話。

加治屋:本で読まれたってことですよね。

中村:本まで読まなくて、牛原虚彦さんがちょこちょこっと講義で、『戦艦ポチョムキン』がどうの、モンタージュがどうのって(笑)。だから聞いてもよくわかんなかったので、それからですよ。古本屋行って、買ったりしたの。エイゼンシュタインの本っていっぱいあったからね。

藤井:じゃあスチールでは見てはいたけど。

中村:ポチョムキンの? スチールもなかったと思う、うん。だからだいぶ日芸に行くまでいて、それからさらに2年も経ってるから、日芸経由じゃなくて。総評ってのがありまして、今で言う連合の前身がね。そこに文化会議っていう組織を作ってました。そこが流してくれたかな。僕がそんな会議に出てるわけじゃない、労働者じゃないからね。ただ日本美術会って組織がもうひとつあって、そこと総評の文化会議と両方いたような先輩たちが。ビラをもらったかなんかでね。ガリ版刷程度の、もらって。たしかこの時僕は、ひとりで行ってますんでね。多分ビラかなんかもらって、それを握りしめて行ったんじゃないかな。もう1959年ですから。実はね、1955年で卒業のはずなのに、57年まで学校にいてね。で、実はお金もらってたのよ(笑)。事務勤務で、雇ってくれたの。

鎮西:研究室にいたってことですよね。

中村:美術の研究室ってのがあって、そこで雇われて講師の先生方の鞄持ちだとか、出席取りとか石膏運びとかをさせていただいて、いくらもらってたかな。5,000円くらいはもらってましたかね、月に。2年くらいいました。1957年くらいまで。そうしてさすがに居づらくなって(笑)。助手の人が気を利かせてやってくださったんだけどね。僕がちょっとダメでね。その間にちゃんと単位取りなさいってことだったんだろうと思うんですよ。もう、嫌で。丁度、砂川闘争なんかも始まっちゃったのかな。で、そっち行っちゃったんですね。

藤井:1955年から行っちゃったって。

中村:そんなこともうやめろって言われて、ちゃんと事務勤務しろって言われてたりした時期に、もう辞めますって、たしか1957年の4月頃にはもう辞めてると。

鎮西:そうですね、1958年に。

中村:あ、1958年に退所になってますね。そうですね。

鎮西:そうしたら、なんですけど。1959年の12月に、映画を実際にご覧になっていると。例えば《砂川五番》(1955年)を描かれたのは、当然もっと前ですよね。

中村:ああ、そうですね。ちょっと前かな。

鎮西:いわゆる《内乱期》(1958年)とか《平和期》(1958年)とか《戦争期》(1958年)とかも、それより前に描いてらっしゃいますよね。

中村:それ、って言うと。砂川より?

鎮西:ポチョムキンを観るよりも、前の時期に。

中村:えーとね、そうですね。あの辺、ババババっと描いてんだね。うん、そうね。年に1点か2点は描いてるから、ここら辺りはまたがってますね。ポチョムキンの前に私は、黒澤映画にかぶれちゃってましてね(笑)。高校時代からもう、ちょっとモグりで観たりしていたんで(笑)。なんと私の時代って、高校生だと映画はいけないんだよ。ひとりじゃ不良になるってんで、父兄同伴(笑)。いい歳して、父兄同伴なんて(笑)。そういう時、兄貴がつきあってくれて。兄貴も映画が嫌いじゃないもんで、一緒に行ってね。小学校くらいからそれやってたかな。戦争映画観たくて。さすがに高校入ってからは、そうやたら父兄同伴ってのもみっともないんでね。一人で観に行った。『羅生門』なんてのは、高校時代だと思うんだけど。

鎮西:1950年、高校3年です。18歳、「『羅生門』を見る」。映画監督への夢をふくらませていたんですね。

中村:ぎゃーっ!そういうことだ(笑)。その辺からなので、モンタージュとかっていう言葉とかは知らなかったけども、なんか映画の手法みたいのがあって、ちょっと兄貴の持ってたキネ旬なんての、昔からありましたね。『キネマ旬報』。あんなの兄貴が持ってて、見たりしてるうちに、映画評論家が当時いてね、その方の論文がちょっと入ってきてる時にね、モンタージュなんてのが書いてあったりして。それなりにね、日芸なんて行った時に映画科の学生なんかに、聞いたりしていたかな。ポチョムキンなんか観る前から。

加治屋:丁度この頃、実は中原佑介さんも京都にいらっしゃって、その時ポチョムキンにすごく関心があったんだけど、やはり観てなかったって書いていますね。でもその理論は良く知ってたようなので、やはり文章とかはあったんですね。

中村:あったんでしょうね。多分その時代に出てたってのは、『映画ファン』とかね。これはもうポピュラーな俳優中心なの。『キネマ旬報』はね、わりと理論家が書いてて、批評家が書いたり。ちょっとハイクラスだったの。映画に対しては、専門的っていうかね。そっちなんか読んでたんじゃないですか、佑介さんも。映画評論が最初は望みだったって言ってますね。美術なんかじゃなくて。

鎮西:じゃあ先生も中原先生も、最初は映画ファンで。

中村:なーんか、どっか似てるんですよね。頭の具合はもう、天地ほど違うけどね。彼は京大まで入ってる、もう優等生もいいとこでしょうけどね。でもね、世代は争えずですね。似たような男がいるんですよ(笑)。大学行ってもつまんないし、みたいなね。

鎮西:大学に行って、映画をしようというふうには。

中村:いや、実は狙ってたのよ。ところがそんなことを相談、ちょっと出したの親父に。ひょっとして、お前適当にやれって言うかと思ったら、さすがに。コレ(お金)かかるから、親にしてみりゃ。そんな勝手させんぞで、もう言下にダメです。絵だって最初、ダメだったの。だけど絵はまだ潰しがきいて、図画の先生とか、美術教師の口がある。ちゃんと教員の試験取れ、と。だから大学は4年生じゃなきゃダメだってんですよ。当時4年生でないと、高校の(教員の)資格が取れない。僕はっきり言ってほとんど絵に興味なかったんですね。

鎮西:絵に?

中村:絵に(笑)。

鎮西:先生、描いたりはしてなかったんですか。

中村:高校の美術の選択で描く程度。

鎮西:おうちで描いたりとかは。

中村:そんなこと、ぜんぜんないです(笑)。学校で描く程度ですよ。興味がないんだもん(笑)。ところが、結構うまいというかね。学校で褒められるもんだから、ああ、俺、絵がうまいのか、みたいな程度で。比較ができるじゃない、学校だと友だち同士の見たりとか。なるほど、俺うまいなぁみたいな程度です。と言って、さらに描こうなんてぜんぜんなくて、むしろ地理部とか地学とかね、そっちのほうが興味あって(笑)。そっちのクラブをつくったりしてましたからね。で、急転直下、芸大なんて言うから、お前に入れるわけない、けれどせめて石膏デッサンの1枚くらいは経験していけ、地理部やめて美術部に入れって美術の教師に言われた。もう、終わり頃ですからね。もう夏休みも過ぎた頃にそんなことを、ブツブツ僕が言うもんだから。先生も呆れ果てて、一浪するくらいの覚悟でやれって言われたんだけど、その当時もう我が家だって傾いてますからね、経済的には。皆そうですよ、あの頃の僕らの時代。金なんかないですよ。見かけは学校屋さんやってるから、でっかい建物見えるでしょう。あれ全部、自分のもんだと皆思うじゃない。あんなでかい家があって、お前金ないのかって。あれ家じゃねぇよって(笑)。俺ん家は便所の横の教員住宅だ(笑)。

一同:(笑)。

中村:いくら親父が校長とはいえ、単なる給与ですからね(笑)。その頃は創立者だ校長だなんて、威張ってなんていられないですよ。全員ほとんど対等の給料制で。校長職ってのは特別職で、ちょっと手当がつく程度ね。だけど日本中貧乏ですんで、親父はみんなそれを返したりしてましたよ。だから正義感ぶってるとか言って、兄貴がね。あの銭をうちに持ってくりゃ、もうちょっとうまいもん食えるのにとか言ってたよ(笑)。ところが親父が金がないんだから、給料だってありがたく思えなんて言ってたですよ。そういう時ですからね。とても映画科なんて、とんでもない。なにをお前は考えてるんだ、となる。で、密かに日芸の映画科を調べた。よしよし、ちょっとズルかまして、行っちゃおうなんて思ったけど(笑)。勇気がなくてね。だけど牛原さんのだけはモグりで出たりして。うん、モグりで行った程度です。映画監督になりたい夢はあったけど、本当はただの夢でね。すぐもう、やめましたよ。やっぱり食えっこないし。
高校時代にひとり、シナリオライターになりたいなんてまたこれ、夢みたいな野郎がいてね。確か野田高梧なんて古いシナリオライターがいましてね、松竹あたりですかね。そいつのを読んだりして、かなりプロっぽくやってた奴がいて。僕と親しかったんでね、俺は映画監督やりたいんだ、ああ、そうかいそうかいみたいなもんで。僕が受験に東京に来て、松竹ってのは大船にあったんですよね。そこへちょっと偵察に行きましてね。門の前まで行って、恐ろしくなって戻っちゃいましたけどね(笑)。それはまだ高校3年くらい、受験の時で来てるからその辺ですね。その頃から一応狙ってはいたけども、俺が映画監督なんかできるわけないと思う。それは相手は皆、美男美女でしょ。あんなの相手にどうだらこうだら言えるなんて、とっても。田舎のイモ兄ちゃんができるとは思ってないもんで。それはもう、憧れだけで終わっちゃってね。でも日芸の映画科の学生とは、結構親しくつきあったりして。その当時はもう皆、黒澤黒澤ですからね。もう大ブームでね。そんな話する方が、おもしろかったですね。話は戻りますが、僕は旧制中学レヴェルの普通中学じゃなくて、工業学校卒です。

鎮西:ああ、おっしゃってましたよね。

中村:戦時工業学校って言って。少年の即戦力を買うってんで、飛行機の修理工とかね。飛行場へ勤めて、飛行機の整備工の養成所的な学校でした。

鎮西:用器画を描かされたって。

中村:うん、用器画を描かされる。それはもう即戦力で。軍が子どもを雇う時代だったの。それを戦時、工業学校って言って、そこへ小学校卒業してぱっと入ったの。そこはちょっとぐらい学科が悪くても、ちょっと製図がうまいとか、飛行機好きとかってだけで入れちゃったんですよね。

鎮西:それは師範学校の環境とは、多分随分。

中村:がらっと違う(笑)。だけど僕は師範学校附属は嫌だったから、固くて。いつも優等生がいて、もう嫌で嫌でしょうがない。これでやっと解放されたっていうことでね。工業系も好きだったもんで、製図なんかも嫌いじゃなかったんで、そっちへ喜んで行っちゃいましたよ。
ところがですよ、その後旧制中学も3年ですよね。そのまま戦後、新制高校になっちゃうんですよね。私の入った工業高校は確か、その前は商業かなんかやってて、戦争に入って商業なんかいらないってやめて工業に変えて、戦争が負けた途端に商業にまた戻った。俺は商業はやる気ないと言って(笑)。そしてその後西高となるその前身の二中っていうところの3年へ編入学した。

鎮西:先生の場合、やっぱりこの工業学校に入られたっていうのが、色々なきっかけに。

中村:そう(笑)。製図描いたり、飛行機いじったり、汽車いじったり、あわよくば工機部に入ってね。国鉄って言った時代に、浜松に工機部と言って。蒸気機関車の修理工場があった。そこへ入りたくてね(笑)。職工さんとして、小学校出たら。汽車いじる職工なんて最高だって思った。次にはそこがダメなら船があるさみたいなもんでね、商船学校へ行こうか、なんて言って、もうメチャクチャ(笑)。船と汽車と飛行機、どれかいいな、みたいなもんですよ。

鎮西:なんでも(笑)。

中村:そうそうそう(笑)。しかも戦争中だしね。もう、憧れだけは巡ったわけで(笑)。結局ひとつもダメだった(笑)。工機部行って、国鉄の職工になるのなんか許さんって言うしね、また親は。商船学校も憧れたんだけど、泳げないんじゃしょうがない(笑)。

加治屋:(笑)。

中村:とにかく訳のわかんないまま、過ぎちゃいました。芸大に入れるとは最初から思っていなかったけれども、半分冷やかし的にね。予備校へ行った。

鎮西:阿佐ヶ谷洋画研究所、というのは。

中村:阿佐ヶ谷へちらっとこれ、確か講習会へ行っただけです。白い紙に白い石膏をデッサンする。先生はなんにも教えない。最初の技術くらい教えてくれにゃわからんじゃない。

鎮西:白い紙に白いものですね(笑)。

中村:陰影法なんて、教えてくれない。見よう見まねで、うまい塾生がいるから、そういうの見て皆覚えるらしいんですね。それで当時、早々にして塾はやめ、日大芸術学部一本に決めた。入学して事情がだんだんわかってくると、いろいろあるじゃないですか、芸術コースが。

鎮西:当時から全部。

中村:ほとんど当時からありました。音楽でしょ、映画、演劇、文芸っていわゆる文学部じゃなくて、小説家養成なんですよ。一番つまらないのが、美術でしたよね。教員養成ですから美術の実技なんてろくになくて。むしろ映画科とか演劇、写真科の学生の方が僕は親しかった。だからエイゼンシュタインも牛原さんの映画科の教室へ出てから知ったようなもんで、美術の中じゃとてもとてもそんな話は出ません。映画科の学生とちょっとコネつけたりしてね。モンタージュってなんだよ、なんて学生同士で話をした(笑)。しばらくしてからVAN(映画科学研究所)が映画科の中にできた。

藤井:映画研究所の。

中村:そうだ、藤井さん知ってるかも。VANっていうのは、日本でほとんど最初のアングラ映画じゃない? 足立(正生)とかそういうのが出てるんですよ。相当進んだ映画を作ってましたよ。『椀』(1961年)というタイトルでね、もうまったくのアングラのアバンギャルド映画ですよ。定点観測みたいにして、お椀だけをでーっと何分も撮ってるとかね。あと『鎖陰』(1963年)なんて、生殖器のない女性の映画。なんかよくわかりませんがね、そういうのを撮ったり。それから城之内(元晴)くんなんてご存知でしょう、あなた。

藤井:《シェルタープラン》(1963年)とかを撮っておられる。

中村:動く抽象画を映画で撮ったりしてですね(注:ヴォルス。『Wols』(1965年)のこと)。そこへ僕は結構出入りしてました。

鎮西:じゃあ先生が大学にいらっしゃった時。

中村:実はもう僕は学生じゃない、その頃は。映画科が一種の日大芸術学部の左翼学生の、拠点みたいになっちゃってましたよね。影でこそこそ非合法でやってるしかなかったようですね。自治会を作ったり。なんと空手部ってのはもともと右寄りなのに、左翼になっちゃったりして。自治会が応援団から色々文句を言われる時に、空手部の連中が来て防衛してくれたりね。で、応援団は右翼なのね。空手は左翼なんて、変な学校。

鎮西:柔道部っていうのは。

中村:柔道部はなかった。空手が盛んだったのね、日芸は。

加治屋:自治会を作られたのは、何年ですか。この美学協というのは。

中村:美学協というのは、自治会傘下になろうとはしてはいましたけど、一応それは美術科だけの学生でしたんでね。自治会ってのは全学でないと、まずいですね。だから、自治会は自治会で単独にありました。ほかのコースの連中だったと思いますね。映画か写真かな。美学協っていうのは、美術だけの横のつながりで行こうっていうんで、日芸だけじゃやっぱ弱いのでね。芸大、武蔵美、多摩美、女子美に呼びかけて作ったんです。ただし各学校ひとりかふたりしか来なくて、大した動きはなかったですけどね。言いだしっぺの日芸が一番多くて、それでも10人くらいでしたかね。たまに会合をやってるんですけど、全然増えなくて。

加治屋:美学協というのは、なんの略称でしょうか。

中村:美術学生協議会、かな。日芸っておもしろくてね、オール日大の中の学部でしかないのに、江古田にポンと飛び地みたいに芸術学部だけがあったので、江古田芸術学校みたいな感じでした。

加治屋:大学に入ってからのことを、もう少し。

中村:大学生活みたいなことでいいんですか。

鎮西:大学生活というよりは、どうなんでしょう。53年くらいからになるんですかね。やっぱり絵をお描きになると。例えば非常に古いのですが、1951年に描かれた風景の絵が(注:『機關』第15号 中村宏特集、1990年に所収)。作品ってもう、多分ないのかなって思うんですけど。

中村:実はあるんですよ(笑)。

鎮西:えっ!本当ですか。先生、今お持ちなんですか。

中村:いやー、調べればあるかな(笑)。多分探せば、そんなに大きな絵じゃないですけどね。

鎮西:なんかそんな感じですよね。

中村:4号程度の、ボール紙に描いた(笑)。

鎮西:油彩ですか。

中村:油彩。相当未熟な、変な絵です。

鎮西:でも相当、ご記憶には。

中村:記憶にはあるね。なんて題名になってます?

鎮西:《風景》(1951年)です。

中村:《風景》? これは、浜松に三方ヶ原ってだだっ広いとこがあって、そこをちょっと想像してね、描いたような気がする。

鎮西:先生、この油彩っていうのはいつぐらいから描かれてたんですか。

中村:油彩はね、実は本当に習ったことなくて。見よう見まねでやりました。日芸に入ってからです。事情があって。僕は絵の方向へ行くってことは、実家の中では言えなかった。秘密にしてたの、実は。僕は大体、地理とか地形を学ぶ文理科に行くつもりでいたもんでね、実は。信州大学ってのがありましてね。そこに地理か地学をやるコースがあるんですよ。そこへ行くなんて言ったりして。急転直下美術系となった。多分兄貴が絵を小さい頃描いていて見せてくれなかったら、絵なんかに興味を持つことはなかったように思うね。最後は消去法でそこへ落ち着いた。夏休みに阿佐ヶ谷へちょっと行ったくらいなので、入試の時に油絵のあの字も知らないんじゃしょうがないのでね。少し買ったのかな、絵の具を5、6本こそこそと。自分の部屋でこそこそと描いたんだけど、描き方も知らない、絵の具の使い方も知らないんだもんね。そんな状態では描いていました。大学へ入ってから誰か教えてくれるくらいに思ってたら、なんにも教えてくれないでね(笑)。大学って大体そうですよね。先生が来てるのに、教えない。来るのは年に1回か2回で、講評だけに来るんですよ。大体そうですよね。

鎮西:指導教授に野口弥太郎って。

中村:うん、弥太郎は講評に来るだけで、絵の描き方なんて教えない。だから見よう見まね。他にうまい奴がいりゃ、それを見たりして描くっきゃなかったんですよ。そんなことをして、見よう見まねでなんとなくこんな絵になっちゃった。だからこれ、1年生くらい、1954、5年くらいに描いた。

鎮西:そうですね、入学された年の制作になってます。

中村:だから油絵具ってこういうふうに厚く塗るもんだよ、とかね。ペインティングナイフなんかでぐっとやると、おもしろい効果が出るよとか、そんな耳学問で聞いて描いたような(笑)。趣味的な範囲。色とかも。

鎮西:これってどういう感じの色だったんですかね。

中村:ごく普通の描写の色です。なんとなく畑っぽいでしょ。畑の面になっているよね。で、空でしょ。真ん中ぼやぼやしたのが、森があって。森がなんとなく緑、手前の畑は土色、空はなんとなく濁ったようなブルー、みたいなことで描いてあるだけです。あとはほとんどこれ、ナイフで描いたと思う。ナイフってのはおもしろい味が出るな、なんて最初に思ったんじゃないかな。筆じゃなくてね。最初に筆でポタポタって置いて厚くしておいて、ナイフでこうやると色んな効果出るじゃないですか、擦れも入れてね。それがおもしろいって言って、唯一残しておいたんじゃないかな。

加治屋:この頃ってどんな絵をご覧になってましたか?

中村:その頃ね、ちょっとこれとずれるかな。ほら、えーとね。どっかちょっと書いたような記憶があるぞ。

藤井:1956年辺りに、列挙されていますね(注:「ドイツ表現主義、ブリューゲル、ノイエ・ザッハリヒカイト、社会主義リアリズムなど」『タブロオ機械』自作年譜参照)。

中村:1956年、そんな後ですか。もう卒業だね(笑)。日本の作家でね、わりと画壇の中で好きだったのは須田国太郎とか。それどっか書いてないですか。

加治屋:1953年に。

中村:あ、1953年に。その辺はね、実は実物を観たってよりも画集かなんか、雑誌かな。

加治屋:原色版って書いてありますね。

中村:そんな程度ですよ(笑)。犬の絵なんですよね。須田国太郎の、黒い犬で目が赤くポツンとあるような(注:須田国太郎《犬》1950年)。それを見た時に、ああいい絵だなって思って(笑)。ちょっとそれを真似したくなったりして、なんとなく見よう見まねで描いたかもしれません。ただああいう画集とか印刷だと、マチエールがわかんないでしょ。どういう描き方したかってことは、やっぱり現物みないとわからない。ただこの時は須田国太郎って名前がいいなって覚えた程度じゃないかな(笑)。やっぱこの時、同時に坂本繁二郎の印刷版なんかも見ましてね。それなんかも、結構いたく感動したりして。近美(国立近代美術館。現・東京国立近代美術館)にわりと古くからあったんですよ。そういうの観に行ったりしてね。そん時に須田国太郎のもあったのかな。それで観て、ああ素晴らしい! この域まで達するなんてできない、なんて時期がありました。確か、この辺。1953年だから、入ってすぐくらいかな。それから実はね、ルポルタージュ絵画なんていって洗脳されていったのも、この時期だと思うんですね。1953年くらい。

鎮西:すごい急に展覧会が。

中村:ドタドタ、急に入ってきてね(笑)。山が好きで遊んでたのが、こりゃまずい、ちっとは絵を描かねばみたいになってね。1953年くらいから、やたら左翼運動が盛んだったんですよ、実際日芸って、美術は。先輩たちの中で、僕の同クラスじゃなくて1年か2年上の連中が、やたら左翼でね。社会主義リアリズム運動を始めたのは、北朝鮮から文工隊として来た人たちだったと思う。

加治屋:年表にあがってた方でも、曹良奎は日本で。

中村:あの人は働き口を見つけて、古くから自由美術でやっていたと思う。

加治屋:あともうひと方、白玲。

中村:白玲さんは、かなり日本化してまして、もう日本語です。普通の。ぜんぜん訛りはない。多分日本に古かったんじゃないかと思う。

加治屋:ふたりとも、北朝鮮の方に戻られたんですかね。

中村:曹良奎さんなんかは、結構しばらく針生(一郎)さんと親しかったんで、手紙だけは来ていたようですが、ある時からぷつんと来なくなったようです。

加治屋:じゃあこの文工隊は、1953年くらいで。

中村:そうです、大体その頃でね。僕は直接じゃなくて、1年か2年上の絵画科の連中を通して知ってたんですよ。2年くらい上に3人くらいいたと思います。ソ連製の社会主義リアリズムバリバリの絵を描いていた。作品も巨大でね。皆、壁画みたいで。うひゃー、とってもあんなの描けねぇやって(笑)。私なんかは腰を抜かした、その迫力だけはすごい。非常に巨大でした。

藤井:ほぼ壁画ですね。

中村:壁画状態。そうです。写真も見せてくれたし、画集も立派なのをどんどん出していたしね。小品はあんまり見なかった。日本美術会のアンデパンダン。そっちに組織的に出してましたね。そっちで主に観ました。日本でも社会主義リアリズムなんていうことがストレートに来たのは戦前ですけど、戦争中途絶えて、戦後また復活させようとした勢力がありましてね、新海さんなんかが、日本美術会で。あの人たちも社会主義リアリズムの夢が、醒めてなかったんでしょうね。もう一回戦後にやろうとした。我々若手は生意気に、そんなのダメみたいになってって。最初から社会主義リアリズムってのは、OKじゃないんですよね。だから花田清輝さんの方にかぶれちゃって、そっち。アバンギャルドって考えの方にみんな流れちゃって。だから花田清輝が、一番勢力になったんじゃないかな。本当は社会主義リアリズムって言ったら、蔵原惟人。蔵原さんは共産党の文化部部長をやってて、イデオローグだったんですよ。その人たちの影響は非常にあると思います。新海さん世代、および…。

藤井:永井(潔)さんとか。

中村:永井さん、ああそうですね。日本美術会という組織はもう、非常に共産党的でしたね。日本アンデパンダンっていうのは、日本美術会が管轄で主催でやってた。

鎮西:逆にすごく、皆でまとまって盛り上がってたくさん描いてらっしゃった時っていうのが、その50…。

中村:54、55、56年ね。実は僕はその時の方が、好きだった。

鎮西:盛り上がってる、皆で描いてる方が。

中村:憧れちゃって(笑)。六全協でふにゃふにゃになってからは、ああもう俺のあれじゃねぇなって思っちゃった。花田清輝にはかぶれましたけども。あの人のは高等すぎてさ、なんだか(笑)。文章としてはおもしろいけど、あれを美術一般とか絵画論として読むなんてのは、ちょっと違うかなと。そういった意味では岡本太郎さんなんかはそういうふうにしていましたけど、全然私は岡本太郎に興味を持てなかったのね。今でも興味ないですけど。ああいうのは苦手で。

鎮西:どこら辺が苦手なんですか。

中村:太郎さんの? どこが? 全部(笑)。もう出身からいやだね。本当にあの人って、お坊ちゃんお坊ちゃん丸出しでしょう。エリートエリート丸出しでしょう。言うことなすことがなんだかいかにも岡本太郎で、対極主義なんて言うけども、あんな対極主義なんてやぼったい言い方は、花田清輝はさすが文学者だから言わんのですよね。

藤井:楕円の論理。

中村:楕円の論理、知ってるわね(笑)。そういうふうにうまく言えばいいのに。何回か会ったことはあります、太郎さんに。ああ、合わねぇと思いました(笑)。

鎮西:花田さんは。

中村:花田清輝はそんなやたら会わないけど、何回かは会って。日芸にいる時、学園祭かなんかの時にね、呼んだことあるくらいですかね。その前後の講演会も、いくつか聞いてますね。

藤井:お話も上手なんですか。

中村:清輝さんは、うまいです。あの人は本当にうまい。岡本太郎もうまいけどね、はったりっぽく(笑)。叫んだり怒鳴ったりね。檄を飛ばすのはうまいね。花田清輝はそういうことはない、淡々と、こう。声がいいし、顔もいいでしょあの人。ヴィクター・マチュア(Victor Mature)って言われてましてね。どっかの俳優だっけ、アメリカの(笑)。『荒野の決闘』という映画に出てますね。ご存知? 知らない? ヴィクター・マチュアって、あれに似てるっていうの。花田清輝と山下菊二ね。似てない?

鎮西:ああ、なるほど、なるほど(笑)。

中村:花田清輝の書いてるものって、文学としておもしろいでしょ。

鎮西:それ自体が。

中村:それ自体がね。ああいう論理ってのは、まだあの時代なくて。後になりますと、吉本隆明が花田清輝を批判したけども。僕は文学としては花田清輝の方がおもしろいと思いました。吉本さんってのは文学じゃなくてね、評論で。かなり口汚い人なんでね。花田清輝コテンパンですが(笑)。花田清輝さんてのは、非常に抽象的ですよね。だからそっちの方が、あの時代はおもしろかったかな。そっちのものは、いくつか読んでいました。その前の蔵原惟人さんのリアリズム論、あるいは社会主義リアリズム論なんてのは、もうあかんなーっていう(笑)。花田清輝さんもあるところまでいくとね、岡本太郎よりも桂ゆき(桂ユキ子)さんを最大に評価していましたよね。

藤井:そうですね。本の表紙(注:花田清輝『さちゅりこん』未來社、1956年)にも使われてました。

中村:そうですか。僕も結構好きでね。ちょっとモンタージュっぽいでしょ。コラージュっぽい(笑)。あの辺、なかなか見事だなぁと思って観たり。

藤井:とてもユーモアがあって。

中村:ユーモアがあって。そうそう、そこがね。そこは、抜かしちゃいかんのでね。ユーモアなかったら、どうしようもないですよね(笑)。

鎮西:当時ご覧になったりとか、交友関係という点では。他の画家の方たちとか、作家の方たちっていうのは、どういう。桂さんなんかは。

中村:桂ゆきさんなんかは、直接には。あの人はもう、はるかに偉い人ですから、有名で。あの人は日本美術会のアンパンなんかにも、出してたんですよね。自由美術かなんかにも、結構出してた気がする。そういうのを観てただけで、ご本人は知りません。会ってもいません。
むしろ僕が会うっていうのはね、ここにもありますけどね。1953年に日芸にまだいる時に、青美連(青年美術家連合)を作ったから入れ、なんて言ってきてる連中がいて、その面々がここに書いてありますよね。安部公房、勅使河原宏、入野(達彌)、桂川(宏)、山下(菊二)、尾藤(豊)、島田(澄也)、その他。青美連なんて会合は結構、ひと月に一回くらい集めては安部公房さんがアジったりする、そういうのがおもしろくて行ってたので、この連中とはわりと会っていて。
画壇のああいう、いわゆる絵の世界にどっぷりの人とは、ほとんど。辛うじて知ってるのは、自由美術の井上長三郎さんですか。板橋でも練馬に近い方に昔から住んでて。井上さんも近いってんで、日芸に特講で呼んだことあったりして。井上さん、小山田二郎さんくらいですかね、画壇で知ってるって言ったら。

鎮西:ご自身で絵を描いていったりされる時、やっぱり今挙げたような中の作家の方たちとかって、ある種の影響関係があったりとか、一緒に描いたりっていうことは結構あったんでしょうか。

中村:ここに出てる面々と? 一緒に描くなんてことはなかったですよね。

鎮西:皆、ひとりひとりで。

中村:もちろん。ソ連じゃないから(笑)。そんなふうに日本はできてません。

鎮西:共同アトリエみたいなこともなく。

中村:ないですね。もう池袋モンパルナスは、とっくにないですからね(笑)。その末端の大塚(睦)さんって人がいて、その人と接触があって。奥さんが非常に親切でいい人でね。腹減らしたガキみたいのに、飯を食わしてくれるもんで、しょっちゅう行ってましたね。

鎮西:ああ、そうですか(笑)。

中村:僕が偉そうにね(笑)。絵はルポルタージュとか、やってはいるんですよ。そういう方法論じゃないんじゃない、と。こんな構図取って、ルポルタージュができるわけない、とかね、偉そうに言ってましたよ。大塚さんは、もともと画壇の美術文化協会に、非常に上品で、きれいなマチエールの抽象的な絵を出品していた。そういう人が、時代が時代だからって急にルポルタージュなんて言ったって。技法自体変えなきゃ無理でしょ、っていうのが僕なんかにはあったんで。偉そうに先輩の大塚さんに向かって(笑)。

藤井:じゃあモチーフが変わっても、技法が変わらない大塚さんに対して、批判的だったという。

中村:そこですよ。大塚さんのような、画壇の中の左翼みたいな人っていた。幻想の中に抽象的に基地闘争を描く、だとかね。一体あんたたちは、いつまで絵描きでいるのとか。ルポルタージュをやるのであれば、社会主義リアリズムのほうがまだましというようなことを言った。

藤井:でも先生は、いわゆるクソリアリズム的な、社会主義リアリズムには行けないわけですよね。

中村:いや、行くつもりでした。

藤井:行くつもりだったけど、でも。

中村:うん。描いてるうちにね、こんなんじゃとても。現に砂川なんて行くと、描き切れないと思ったの。

藤井:描き切れない。

中村:闘争自体の場面を。あの場面を絵画的に再現したくてしょうがなくて、行くわけです。そうすると例えばこう言うと申し訳ないけど、新海さん的な表現だと、リアリズムは単なる写生画となる。そんな闘争じゃないんですよ、あそこは。もう最後は血を見てますからね。オマワリは平気で殴るし、阿鼻叫喚というかね。魑魅魍魎じゃない、阿鼻叫喚のほうだな(笑)。魑魅魍魎なんて言ったら、怒られる(笑)。いや、だんだんとなってきてるんですよ。こちらがそれを描くにはね、リアリズムじゃ無理だってすぐ、行けばわかったね。

藤井:無理っていうか、それじゃ足りないって。

中村:足りないの。抵抗全体を描きたいじゃないですか(笑)。

鎮西:丁度、先生は安保の映画に出られ(『ANPO』2010年。監督=リンダ・ホーグランド)。

中村:あれはちょっとね(笑)。恥ずかしいね。

鎮西:先生は砂川のところに行って、映画は映像としてあったんですけど、とてもじゃないけど全部は映像で描き切れないと衝撃を受けた、と。

中村:そうですよ。描かにゃいかん、と自分ではそう思ってた。それで描けっこないってんで、もう実はお手上げ状態です。リアリズムで描けなきゃ、もう別に僕は他にいい手段を持ってるわけじゃないのでね。もうこれダメかなと思ってる時に、あんな風にエイゼンシュタイン映画のモンタージュの技法を使えばどうか、なんていうふうにしてね。そういうふうにいく方向っていうのは、実はご法度なんですよ。左翼の美術のリアリズムの中では。要するにあれは、モダニズムですから。モダニズムとは敵対しなきゃいけないの(笑)。あくまでリアリズムでいけっていう時にはね、もう描けないと思いました。時代感覚もそうだし、闘争の形だって。昔みたいに構内でわっしょいわっしょい労働者だけがデモして、それを描けばいいっていうのだと、リアリズムでいいのかもしれないけど。リアリズムなんて、そんなのんきな一般常識的なものでは描けないってすぐわかる。それから、警官なんかが来てそれが暴れるようなところっていうのは、あの時代の日本のリアリズムを見ると、敵をほとんど描いてないんですよ。全部味方で。皆、暗い顔して、おっかない顔して。もう深刻で、頑張るぞ、みたいなとこは描くけど。そういうところは、僕は若気のせいか知らないけど、敵を描きたいなと思ったの。ふっ、とね。それで砂川で対決してるところも見たし、オマワリも同時に描くべきだと思った。その時にアメリカも描くべきだって。そこまで描くとなると、ちょっと社会主義リアリズムの手法じゃ無理。すぐわかっちゃうのね(笑)。じゃあ他に方法あるかって言ったら、映画とかだったらザーっとパンすりゃ全部わかるからいいけど、絵でしょ。そうしたら、モンタージュあたりでちょっと不自然でも、画面に全部詰め込んじゃってね。どっちかって言うと、ちょっとキュビスム的見方っていうか、あっちこっちから見て、いっぺんにひとつの画面に詰め込んじゃうような。それをモンタージュ的に、キュビスム的な視点でやることを、思いついたんですね。だからあれも、現場でもちろんキャンバスを広げるわけじゃなくて、帰ってきて描いてますが、あんまりスケッチは取らなかった。写真機なんかも持ってなくって。新聞の写真を多く利用した。実地に行って、現場は体験してるので、そのわずかな記憶と体験と、あと新聞写真ですか。その辺なもんでね。結局なんとなくモンタージュっぽくなるんですね。寄せ集めっぽく。

藤井:例えば先生が心情的にどっちかに加担していたり、なにかの命令があったりした場合には、社会主義リアリズム的な、味方だけを描くみたいなことは、もしかしたらできたかもしれないけれども。でもそうではなくて警官も坊さんも、鉄塔も飛行機も皆、同格で描くっていう。

中村:技法的にうす塗りだから同格になっているとも言える。

藤井:大きさの問題じゃなくて(笑)。

中村:いやいや、わかるわかる。すべてにおいて、同じレベルになっちゃってんのね。平板にね。

藤井:先生の心情的なものっていうのも、あるんですか。

中村:待てよ、そこまで意図的ではないですね。今言ったように、ワイドに全部を描きたい。そういう方が先行してるもんで、どんどん詰め込んでったら、結果的にこう平板になっていってね。良くも悪くも。それで同レベルで描くような、ブリューゲルっぽいような。ブリューゲルの風景みたいになっちゃった。当時ブリューゲルは好きで、画集なんかはよく見ていました。ブリューゲルの俯瞰的な絵っていうのは、あれは同レベルのものとして、風景だろうが人間だろうが、木靴までね。同レベルに見るってところが、非常に絵としてもすごく革命性を持ってたんだって、すでに。ブリューゲルはね。その点、ボッシュと比べられるけど、ボッシュはそうじゃない。あれはもう一種の秘密宗教的なイコンとして描いてるから、どっかこう、一点に集中するように描いてるんですよね。ブリューゲルはもう、かなり民衆的に描いてるから、そこはどうしても同レベルになって、偉い人が特にいるわけでもない。っていうことを聞かされたりしてたんで、青美連なんかで。誰が言ったんだろう、松谷さん(注:松谷彊(まつやつとむ))とかが来て言ったのかな。左翼の理論家ってなかなか勉強してる人がいたの。土方定一さんも、かなりあの人は左に傾いてった人ですよ、当時。『ドイツ・ルネサンスの画家たち』(美術出版社、1967年)だって、そういう見方で文章書いたりしてましたもんね。民衆とか労働とかいう側からね。ブリューゲルなんかも、かなり我々青美連からも評判のいい部分でしたね。なんたって、シュールでダリ。ダリがもう、安部公房がダリ大好きなもんで、ダリだダリだで、皆ダリの真似になっちゃってますがね。私はちょっと、あれは極端すぎててね。ついていけなくて、そうね。やっぱブリューゲルあたりがいいとか、須田国太郎がいいとか(笑)。ちょっと野暮っちい方だったんですけどね。あとはせいぜい、やっぱり古いけれどもレーピンですよね。レーピンの《舟曳人夫》(ヴォルガの舟曵き)なんてのは、当時は好きでさ。もうすごく古本でね。ああいうのって、見てるとイライラしないじゃない。ダリとかシュルってのは見てると、なんかイライラしてきませんか(笑)。これはやりたくないでしょ、やっぱり。だから、結局どっぷりシュールには僕は浸かってないです、本当言うと。シュルの影響って、ちょっとダリの見たりね、エルンスト見たりとかデュシャンが好きってとかってあったけど、そのものっていうことで、そういうのを受け入れて中に入るってあれじゃ、全然ないですね。福沢一郎以下のシュールとか見ると、ああいうのは僕は本当に嫌いだったんです。

加治屋:日本のシュルは、フランスのシュルと、なんか違うところがあるってことですか。

中村:もう、全然違うと思ってんの、僕は。あんなドロドロぐちぐちね、なんか肉の腐ったの描きゃシュルだと。それで地平線を描いて、砂漠で肉の腐ったの描きゃシュルだみたいな、そんな程度の解釈だったんじゃないかと思うくらいでしょ。だからね、その解釈で向こうのシュルを見たとしたら、それはちょっと違うかな。本場のシュルはそんなんじゃないですよね。ダリなんかは現物観ると、似てはいるけど全然違ってて。もっとドライで乾いてて、もっと記号的に描いてるじゃない。日本に来ると、自分の一部を描いてるようにすり替わるでしょ。

加治屋:この頃ダリとかレーピンっていうのは、雑誌かなんかで。

中村:そうです。画集です、ほとんど。僕なんかは当然画集を買える金もないから、日本美術会の人たちって勉強家が多くてね。ああいう左翼の人って真面目なんですよ、あの当時ね。今はどうか知りませんが。戦前からやってる人ってのは結構、ゆとりのある人で金があるんですよね。画集なんかを結構持ってて。自分はあんまり金ないのに、青美連だとか日本美術会なんかが会合へ行くと持ってきて、若いの見ろ、みたいなことでね。結構画集は豊富にありましたよ。そういうのを見る程度だったんですけどね、私は。ブリューゲルとか、皆の画集でしか知らない。だから画集でしか知らないということの知識で絵を描くと、あんな絵になっちゃうっていうのは言えるかもな(笑)。現物を観たりとか、本当にいい先生についてね、ヨーロッパじゃやるんでしょ。そんなの、ないですもんね。本当に見よう見まねっていうか。門前の小僧に近いようなやり方ですよ。

加治屋:青美連の方たちで、特に先生がすごく仲の良かった方とか、交流や影響とか感化されたとか、そういう方っていらっしゃいますか。

中村:います。尾藤豊さんっていう人がいるんですよ。この方はね、いくつくらいになったかな。もう70歳近かったんだけど、交通事故で亡くなってね。ちょっと残念なんですが、一番仲が良くて。もちろん私より10歳くらい上ですけどね。この頃に、ルポルタージュ絵画って流行りまして、私より5歳か10歳は先輩で、上の人ですよね。ルポルタージュ絵画ってものを提唱し勧めた人たちなんですよ。当然その人たちが出して、そういうのを見てますよね。アンデパンダンとか、ニッポン展ってのがありまして、出してます。それなんかを絵で確認して、やっぱ尾藤豊さんっていう人が一番共鳴できるというか、勉強になるな。この時代、この場所では実は、尾藤豊ってスターなんですよ。この面々の中で。一番絵も良いし、人間的にもピエロ的にお祭り男で、モテたんですよ(笑)。僕が絵を見て一番いいな、と思いました。ただ、本当に一時なんですけどね。尾藤さんは赤羽の人で。あそこには、日鋼赤羽って、日本鋼管って巨大な会社がありましてね。戦後接収されてアメリカの兵器廠になったのかな。その時に、地元で猛反対の運動がありましてね。それを描いた絵が何枚かあるんです。その中に《守衛》(1953年)という絵があります。これが本当に衝撃的に思えたんですね。100号くらいあったと思うんですがね。赤羽工廠の門と工場と、そこに守衛が立っていて。確か、米兵が立ってたと思うんですね。その米兵が、確か黒人だったような気がするんですね。それでアメリカの朝鮮戦争に向けての、兵器武器の部分を作っていたんですよ。それの反対運動があって、それを描いたんですがね。デモとか闘争場面じゃないんですよ。赤羽の工廠だけをぴたーっと正面から。門と守衛を描いただけなんですよね。背景に工場があって、煙突がいくつかある程度かな。これが本当に衝撃的でしてね、私には。そんな絵見たことなかったですね、今まで。社会主義リアリズムではもちろんないし。岡本太郎的、桂ゆき的シュル、アバンギャルドでもないしね。ああ、これだと思ったね。本当に初めて見る絵って感じでした。それが残念なことにね、類焼というんですか。隣の火事が燃え移って、全部ほとんど燃えちゃって。わずかに小品が残ってるんですね、その時代の。小河内の山村工作隊ってのがありましてね。そこへ彼が行ってるんですね。その時の小品が一点残ってますね、尾藤さんのね(注:《小河内ダム》(1952年))。それから、確かあれは妹さんだと思うけど、横向きの少女かな(注:《北部の人々・少女》(1955年))。その時代描いた絵があって、その技法で小品がいくつかあるんです。ルポルタージュとして描いたのがね、その後ももちろん描いてますがね。《川口鋳物工場》(1953年)など。ルポルタージュ時代の真っ最中に描いた《守衛》。その絵、燃えちゃった(注:『尾藤豊の戦後美術・1947-1963 大衆と共に歩み続けた時代の証言者』(アートギャラリー環、1998年)、21ページに《歩哨》(1953年)として掲載されている)。その絵が未だに、頭から離れませんね。ルポルタージュ絵画なんて言うけどね。はっきり言って、この辺の連中いっぱい描いてるけど、いいのなんかひとつもないですね、悪いけど(笑)。

加治屋:『批評運動』っていう印刷物は、これは尾藤さんも一緒になさってたんですか。

中村:『批評運動』ね。これは尾藤さんは、多分直接には。なにか書いてます? 頼んだ記憶はあるかな、文章を。一緒にはやってませんね。これは尾藤さんの世代じゃなくて、僕の世代の連中で、3人で始めたかな。一番言い出しっぺはこの、毛利ユリって言いましてね。これもちろんペンネームで、男です。女じゃないのね(笑)。この男が言い出しっぺで、文学指向でね。太宰治バカっていうかね。もうどっぷり浸かった奴で。その前は高校時代も活動して、えらい早熟な男でね。毛利ユリ、本名は榑松栄次って言うんですが、文学指向の男でね。と言って、絵に全然無知じゃなくてね。アンパンとかよく見てて、僕と日芸で一緒で。彼は実は写真コースなんですよ。絵画じゃなくて、写真コースでした。だから砂川なんかでも結構写真撮ってます。この男と私と、もうひとりおおくぼ・そりや(大久保そりや)って、ここに書いてないかな。多分書いてあると思うんですよ。言語論。言語専門家。ひらがなで、そりやって。そのペンネームでいるんですがね。この男と、全部同世代です。彼は日芸じゃなくて、もっと頭良くて。京都大学の何学部っつったかな。文学部のスペイン語だか、トルコ語だか知らんけど、そういうとこを出ててね。言語学をずっと在学中からやってて、卒業後もやってて、風来坊だったんですがね。辞書編纂の小さな出版社へ勤めたりして、なんとか食ってましたけど。ある年までで、後はもうどこへ行っちゃったかわかんなくなっちゃったの。ただ非常にすごい理論書を2冊か3冊、一気に出してるんですよ。こんな厚いやつをね。吉本隆明さんにも『言語にとって美とはなにか』(1965年)っていう、我々は略して「言語美」と呼んでたんですがね。「言語美」批判を大展開したんですね、彼が。これは僕なんか読んでも、わかりません。難しくて。本当に言語の専門家でないと(笑)。京都大学の言語学出たってんだから、これはすごいんだろうって(笑)。もう敬遠しちゃいました。その男と、毛利ユリと私たちが3人で始めました。あとは3人だけで文章をしょっちゅう書くわけにもいかんので、当時前衛美術会とかニッポン展とか、そこの文章をちょっと書ける人たちに頼んだりしてね。尾藤さんにも頼んでるし、入江(比呂)さんなんかにも頼んでますね。吉本隆明。これは材料論か(注:丸江礼二「吉本隆明素材論(絵画と文学) 現代詩批評の問題を中心に」『批評運動』第18号、1960年10月)。吉本さんと毛利ユリって、実はものすごく仲がいいんですよ。毛利ユリを通じて、僕も吉本さんに紹介されたりしてね。個人的にはよく知ってます。入江さんてってのは、彫刻やってた人でね。なかなかこれも文章書ける人。古い、美校時代の人ですよね。三浦つとむさんってのは、これは本当にプロの言語学者で、独学でやった人ですね。ご存知だと思うけど。三浦つとむさんも、かなり左翼へ行っちゃって、左翼って言ってもこの時代の左翼は分裂してましてね。国際派っていうふうな方だと思います。だから首になっちゃった人ですね、共産党を。それで「粛清の論理 安部公房的「批判」について」(注:『批評運動』第19号、1960年)なんつってね、その時のいきさつを書いてるんでしょう。でも三浦さんってのは言語学者なので、言語学の世界では公認の、ちゃんと認められてる言語学者なんでね。大変な人ですが。その人も野に下ってるというか、学者嫌いだったり、学会も嫌いで本当に単独でやってて、最後には吉本さんの『言語にとって美とはなにか』っていうものを、指導してるんですよ。言語論については全く素人ですからね、吉本さんってのは。詩人であり文学者で、その範囲で批評は書けるけど、言語学なんてなったら本当のプロの世界でしょう。わからないので、手ほどきを三浦つとむさんに受けてます。『試行』という雑誌で吉本さんが、あれに呼ばれて三浦さんがほとんど講師役でね。吉本さんの個人の家に行っちゃ、言語とは、みたいのをお説教したんでしょうね。僕は知りませんよ、そんなには(笑)。三浦さんはよく知ってます。

加治屋:ちなみに『批評運動』は今、多分日本で残ってるのは東京都現代美術館美術図書室だけで、12号から18号まで残ってるんです。これが最終号かどうかっていうのは、ご存知でしょうか。

中村:それがわかんなくなっちゃった、私も(笑)。多分18号まで出したらもう、続けるお金もないし、パワーもなくなっちゃって、多分この辺りで終わっちゃってるんじゃないかな。せいぜい。これ、ここ(東京都現代美術館)の図書室の?

藤井:先生がお持ちくださった。中村文庫です。

中村:あ、僕が寄贈したあれですね。ピンクの表紙のはなかった? 確かピンクのが『批評運動』にあった気がするけど、もしないとしたらこれの次の19号が。

鎮西:16、17号がなぜかない(注:中村宏の寄贈資料中に、という意味)。

中村:いや、全部通し番号では入れてません。僕も持ってなくて、飛んじゃって。だから資料としてはちょっと怪しいねこれ。

鎮西:でも残ってるのは、これだけなんでしょう。

中村:そう。

鎮西:普通に1号からスタートしてるんですよね。

中村:うん、1号ね。その3人で出したもんで、3人のうち誰か持ってる可能性あるけども、毛利ユリはもう亡くなっちゃった。遺族の人も、多分わかんないと思う。

藤井:最初はガリ版みたいなものだったんですか。

中村:ガリ版じゃなくて、もうちょっと進歩してて、タイプで打ってくれる業者がいたの。結果はガリ版と同じ作りです。刷ってね。手で書かないで、タイプでパチパチやるのが発明されて、原紙という油紙に穴を開けて。それをローラーで刷ってるんですよね。最初はそれです。だんだん、どういうわけかな。これ、中は全部それだと思いますよ。表紙だけは安くプリントしてくれるとこあったのかな。

鎮西:その茶色いのに姿は近かったんですか。1号から。

中村:1号から12号まではこんなんだと思いますよ。13号からこれになったんだと思いますね。ああ、同じようなのしかないのね。もうこれはね、続き番号ではないんですね。

加治屋:これは3か月に1回とか、そういう。

中村:そんなもんでしたね、はい。だからちょっと資料としてはね、怪しい。単なる記念品みたいになっちゃってる(笑)。

加治屋:いえいえ、とても重要な資料だと思います。

中村:いやいや、本当にただのね。この時代は、こんな刷り物だったのかって。それで終わっていいんじゃないかな(笑)。記念品で。毛利ユリは文学指向だから島尾敏雄論なんて、なかなかおもしろいけどね。それから早くも瀧口修造さんを批判した最初の男だな、毛利ユリは。戦争詩、隠してたのね、瀧口さん。戦争詩がちゃんとあるって、それをどっかからほじくってきて。それから福沢一郎批判もしてるんですよね。あの人も戦争画描いたっつって。やたらその時代ね、戦争責任が花咲いてきて、それに火をつけたのが多分、吉本さんだと思うんですがね。吉本隆明の『文学者の戦争責任』。

加治屋:武井昭夫と『文学者の戦争責任』(淡路書房、1956年)を。

中村:そうだ、吉本だけじゃないですね。武井昭夫と組んでね。あそこでやった。それを毛利ユリは、あれは美術でもやるべきだ、なんて恐ろしいことを言いだして、そのうちにお前のもやるからな、なんて僕なんか言われてて、まぁなんとか助かったけども(笑)。まずは戦後日本のシュルレアリスムからやるって。シュルってのは相当やばいもんだと、あれをやり出したら、絶対戦争責任出てくるってね。瀧口さんと福沢さんを槍玉に挙げて。これに確か書いたはずなんだよな。彼は単行本にしてます。毛利ユリ著『連帯と孤死』(深夜叢書社、1970年)かな。表紙(の装丁を)僕がやってる。あれに収録されている(注:「モダン芸術左翼 滝口修造・福沢一郎」。初出は「シュルリアリスト批判 福沢・滝口の場合」『批評運動』第17号、1958年7月)。瀧口さん批判、もうはっきり批判なんですよ。批評じゃなくてね、批判しちゃってる。福沢一郎も批判してます。だんだんやっていくとか言ってて、シュルやった奴を全部やるとすると、お前もちょっとシュルかじったから、この次やるぞとか言われて(笑)。幸か不幸か亡くなって、助かりましたけど。
戦争責任に関しては、吉本の影響でやりましたけども、かなりきちんとやろうとした男なんですがね。ちょっとあまりにも。高校から共産党に入って活動してた男なんで、それがダメになるってことは、僕なんかよりもはるかに衝撃的なんですね。戦争時代は子どもだから、敗戦よりももっと革命運動の挫折の方がね。衝撃的みたい。それでもうヤケ起こしちゃってね。その後、競争自動車に乗っかったり、単車乗ったりね。よくあの時代に流行った、スピードに乗る男で(笑)。バカみたいな。日活の青春映画みたいな真似事したりね。石原裕次郎の真似したり、本当に笑っちゃう。そうなっちゃいました、最後は。
一番晩年は写真科を出てるので、こっちはうまいんですよ。それで彼の生まれが菊川というところ、静岡県の。その近くに、例の浜岡原発があります。彼が死んだのが2年くらい前で、その前3年くらい。5年くらい前から、あの辺の住民が一斉に立ち上がってんですよ。反対運動で。ほとんど全国区になってませんがね。その時、当然彼も参加して、浜岡原発反対運動の写真もガボガボ撮ってるんです。それをやりつつ、同時にね。なんだろうな、あれ。日本を行脚するとかなんとか言って、俺は写真の芭蕉になるだとか、訳の分からんことを言って(笑)。撮りまくってんですよ、あちこち旅をして。やっぱり砂川行ってるんですよ、私と一緒にね。これ(年譜fig.6)ね、毛利ユリが撮った可能性もあるんだよね。この当時3人くらいいましてね。誰が撮ったかわかんなくなってるから、これ誰が撮影って書いてないですけどね。3人写真機持ってて、写真科の学生がひとりいて、あとはフリーで写真やってて、毛利ユリがいるんで。この時あちこち、撮りまくってたのね。晩年になって、もう一回砂川を確認したい、とか言って。今、きれいになってますよね、(砂川)五番の辺り。そこの写真をいくつか撮ってね。こんな薄っぺらい写真集を出してるんです、彼ね(注:『黒色●虚彩:anachro anarchy;’55毛利ユリ~’05榑松栄次』(ひくまの出版、2006年))。これ、寄贈しなかったかな。僕が文章書いてるんで、持ってきたと思うけどね。

藤井:あります、あります。

中村:薄っぺらい写真集でね。ほとんど自費で出して、それで死んでいってます。だから最後まで反対運動者だったけど、本当のなれの果てでね。写真ももう、ヨロヨロ撮った程度ですけど。それほど優れたプロのような写真ではありませんが。結局、戻るんですね、寂しい話で。一時、卒業直後はね、学研の写真部に入ったはずなんですがね。すぐに嫌になって辞めて。(鎮西が『黒色●虚彩』を見せて)それです、はい。これ、色々撮ってますが、毛利ユリの名前で出てます? 榑松栄次も書いてますね。そっちが本名です。もう、毛利ユリなんつったって通らないからね。実は毛利ユリってなぜ女性名を書くかっていうと、覆面する必要があった時にやったんですがね。昔、美術出版社で『美術批評』が出てましたね。あそこに投稿欄ってのがあったんですよ。トップに、「ラウンド・テーブル」って。あれが一番人気あったの。ほとんどあそこが扇動する勢いの雑誌だったんですよね。あまりにも盛んだったんで、廃刊した。素人の投書ばっかになっちゃって。その中で一番有名になっちゃったのが毛利ユリ。実はあれに何回か書いてるはずなんだよ。しかも美術界に対して、毒づいてるの。ものすごく、汚い言葉でね。ちょっと吉本隆明ばりに書いている。だからそのうちに、すげえ女が現れたっていうふうになってきて(笑)。やっぱり戦後の女はすごい、とか言われちゃって(笑)。そのうちに投稿やめるし、彼は他は全然やってません、文筆を。最初その『批評運動』で、次はその投書欄かな。あとはほとんど。頼まれもしないしね。僕なんかは、絵以外では一番親しかったです。この、毛利ユリとは。
もうひとり(大久保そりや)は、早々にして結婚して、しばらくして行方不明になっちゃってね。ただ本はあります。言語学の。好きな奴がいてね、本を出してくれたりして。相当ごっつい本ですけどね。もう最初の1ページ読んだだけで、嫌になりますけどね。もう、わけのわからんことを書くんですよね。

鎮西:話が戻っちゃうかもしれないんですけども。最初の個展っていうのは、長崎の建物の中でされてると思うんですけど(注:中村宏第1回個展 東京・長崎北荘画廊 1953年3月)。2回目はちょっと個展の話とか、うかがうと。

中村:個展ね。どのあたりの個展?

鎮西:タケミヤ画廊とか。

中村:タケミヤは、いつやったかな。1956年くらい(注:中村宏個展 タケミヤ画廊 1956年7月21日-31日)。

鎮西:進み過ぎですか。もうちょっと前で、確認されたいことありますか。

加治屋:1955年に東京国立博物館のメキシコ美術展で、リベラに興味を持たれたって書かれていますが。ご自身で壁画というか、そういうものは特に。

中村:この当時、壁画ってスタイルにはほとんど興味は持たなかったですね。今もないですけど。壁画よりも、リベラの群像の描き方ね。あれに一番惹かれた。なんていうかな、ヨーロッパのリアリズムと違って、どっちかって言うと、今の言葉で言うヘタウマ絵画でしょう。非常に素朴な。デッサン力がどうだこうだじゃなくて、素人がどんどん描いていくような描き方じゃないですか。ああいうので、あれだけの巨大な仕事をするっていうのも、初めて見たので。ちょっと驚いちゃった。それもあれは、ほとんど国家事業的でしょう。あんな、素朴すぎてね。ところが色々聞いていくと、あれがいいんだって、メキシコとしては。ヨーロッパ的、ルネサンス的なうまさの描写というのは、民衆がついて来ない。半分はわざとリベラ的な素朴さがいいという。その辺でしかも、群衆を描くってあたりがね。妙に懐かしい感じもしたんですね。ああいううまくて、すごいっていうんじゃなくて。中に入っていけるような懐かしさが、妙に残ったんですね。

鎮西:ほかにも結構展覧会って、この時期ご覧になってるんですか。

中村:外国のものっていうのはこの時代、そうそうは来てないんですよね。ダリの《内乱の予感》(1936年)なんかのシュル系とか。マチス、ピカソも、かなり充実した展覧会のような記憶があるんだよね。マチスなんてあれ、国立博物館でやったんじゃないかな(注:アンリ・マチス展 礼拝堂/油絵/素描/挿絵本 1951年3月31日-5月13日 東京国立博物館)。ね。あれ、いつ頃? 1950年代?

藤井:1951年ですね。

中村:ねぇ。確かそれ、観てるんですよ。

藤井:じゃあ上京して、結構すぐの時に。

中村:そう。ああいう時はね、相当充実感がありますね。あんまり娯楽もない時代だから。ダリも、やったのが美術館じゃなくて、ホテルでやってんですよね。プリンスホテルかなんかで(注:ダリ展 幻想美術の王様 東京プリンスホテル 1964年9月8日-10月18日 ほか巡回 主催=毎日新聞社)。

加治屋:ポロックは1951年に日本に来ています。読売アンパンに特陳で出ています。

中村:1951年。そんな昔ね。

加治屋:その時の絵が、今回来てるんですよね。

中村:1951年って言ったら、ポロックにしたって初期の作品でしょ。そうでもない?

加治屋:この時代はもう、ドリッピングの絵画の後ですね。

中村:ああ、そうでしたか。なるほど。読売アンパンね。

加治屋:ちょっと話を戻して。ニッポン展のことをおうかがいしたいんですが。

中村:ニッポン展はね、結構ね。あれは何年くらいだろう。

鎮西:1953年です。

中村:1953年?

加治屋:はい、1953年、第1回ニッポン展に出品なさっていますが。

鎮西:例えばこの経緯ですとか、その辺りというのを教えていただきたいんです。

加治屋:これは針生さんが?

中村:(年譜に)書いてないな。ニッポン展っていうのはね、やはり青美連が提唱して1953年にね。この面々(注:安部公房、勅使河原宏、入野達彌、桂川寛、山下菊二、尾藤豊、島田澄也、池田龍雄、曹良奎、白玲など)が一緒になってやってますよね。青美連ってものを作ったんだけども、青美連は美術の発表団体ではない、ってことを宣言してるんですよ。だから青美連展ってものはないわけ。だからこういうのは安部さんとか、勅使河原さんとかが提唱したんでしょうけど、なんだろうね。若手の美術家の政治運動みたいにしようとした気配があるのね、青美連っていうのは。ここでは美術の話はするけど、制作団体でもなければ発表団体でもないということは、最初から宣言してるんですよね。そうするとね、若いのがどんどん来た時、絵ってのは発表しなきゃ意味ないってのもあるじゃないですか。自分で描いて自分で見るだけじゃ、しょうがないじゃない。それでつきあいが少しあって、ルポルタージュっていうのも、同時進行でやろうじゃないかなんて話もここから出てきていて。だから青美連とルポルタージュ絵画運動と、それからニッポン展っていうのがね。なんとなく3点がセットになって、当時53、4年にあった気がするんですよね。それでルポルタージュ運動っていうのも、私は55年でああいうふうに砂川へ行きましたけど、その前からやってたりして。さらにルポルタージュって言い方をしたかどうか知らないけど、山村工作隊ってのがありましてね。この人たちがガリ版刷で絵を描いたり文章を書いたり、山へ行って工作しながらやっていたようなんですが。私はそれは参加していませんのでね。その時すでにやってる仕事自体は、ルポルタージュなんですよね、すごく。もっと文学に近いような。文章も書き、絵っていったってそんな本格的なものじゃなくて、スケッチでもなんでもいいから、その場所を説明できるような絵だから、むしろスケッチのような漫画のような、挿絵のような、そういうものの方が良いと。同時に文章もつけて補う、というふうなやり方でやってましたよね。小河内とかも含めて。

藤井:『週刊小河内』とかね。

中村:ルポルタージュなんかやってきた小河内の絵も、例えば入野さんとか桂川さんとか、島田さんなんかは行ってるので、その当時のスケッチとかを利用して描いたんだろうという油絵も出てましたよね。最初のニッポン展にね。だから、そういうのを発表したいためにニッポン展と言って、日本を描こう、というようなことを言ってね。日本を描こうってなんだ(笑)。戦争中だって日本を描いてるじゃない、戦争画でね。それと紛らわしくないようにするためには、カタカナで書くしかないだろうみたいな、バカバカしい話があったりしましたよ、青美連で。日本って右翼っぽいから、ニッポンって(笑)。ニッポン展って省略して言っちゃってますが、「課題を持った美術展“ニッポン”」ってカンマで囲って(笑)。長ったらしいから、略してニッポン展でいいや、になっちゃったの(笑)。そこへ発表したのが、彼らの主にルポルタージュの下手くそな絵が並びました。それを観て私は、嫌だなぁと思って(笑)。こんな絵と並べられたくないなって、最初は(笑)。第1回展の時は、河原温が《浴室》(1953年)のシリーズを出品した。多分そうだと思う。ガラガラだったんで、ニッポン展って。応募者がなくて。あれだけ長いものをいっぺんに並べるには、ニッポン展が良かろうって。ニッポン展に賛成したわけでもなんでもないの。スペースがあるってことでね。池田(龍雄)さんは積極的に参加してたから、池田さんが情報を流したんじゃないかな多分。青美連そういうのに出てないもんね、河原温は。

藤井:一緒に活動されていましたか。

中村:いません。

藤井:池田さんは。

中村:池田さんは、僕なんかよりもっと前から、もっとガツガツやってましたんで。池田さんは情報量を持ってました。

加治屋:河原さんって青美連のガリ版刷の冊子に書いていません?(注:制作者懇談会の『リアリズム』と誤解)

藤井:『青美連ニュース』(注:『今日の美術』のこと)?

中村:ああ、書いてるかもしれんが、よく分かりません。

加治屋:関わってたわけじゃないんですか。

中村:青美連には関わってません。ただね、ここにはちょっと記念的に書いておきましたけども、青美連のこととか、ニッポン展に出したのはそれ1回だけなんですよね。その後、運動としては参加してないと。私がタケミヤでやった時も、来てくれなかったのかな。

鎮西:タケミヤは来れなかったので、先生の話によるとアトリエで絵を見せてくれって来たっていう(注:年譜 1956年「下宿に河原温の訪問を受ける。タケミヤ画廊での個展を見逃したので、出品作を見たいとのことであった」)。

中村:そういうこと。1956年に私の住んでる下宿へ来たんですけどね。その時に、そういう理由で来たの。個展を観られなくて申し訳ない、観せてくれということで。それから、「ニッポン展って? ルポルタージュ絵画って何ですか」って。だから、彼は出しただけなんだよね。そういう、あの時代の左翼っぽい若手のやり出した青美連とかニッポン展とか、僕のタケミヤの個展とかを、まとめて知りたかったようですよ。彼はそっち方向へ興味を持ってたみたい。

鎮西:じゃあ先生のところを訪ねて、そういう質問を。

中村:そうです。僕は答えただけでね。彼は入りたいとも、入りたくないとも言わない。ただ興味はあって、当時もう、なんていうんだろうな。もう《浴室》は評判が良くて、一気にスターになっちゃったんでね。ご自身はちょっと嫌気がさしてたみたいね。自分としてもあれを100%いいとは思ってないんですよね。もうあそこから抜け出したいっていうのがあって。僕のところへ来た時から。それで新しい自分の方向として、ルポルタージュ絵画とは何かとなったと思う。それでちょっとの間タブローになって変形の絵があって、ルポルタージュではないにしても、ちょっとリアリズムっぽい非常に象徴性の強い、何点かありますよね。あれ自ら抹殺しちゃってるようなところあるけどね。僕は河原温ではあれが一番いいと思ってんの、未だに。《浴室》はちょっとね、今見るとクエスチョンでね。テーマ性とか、あの時代にやったっていう意味はいいと思う。
それから佐々木基一って文学者が絶賛したっていうことで、非常に象徴的なんですよ。文学者が大喜びしちゃったの、絵描きより(笑)。すでに醒めた状態で私のところへ来てね(笑)。ルポルタージュとはどういうものかとか、軽い気持ちで来ましたよ。構えて来たんじゃなくて。そんな風に僕も説明しまして、そうして彼の一連の次の変形の、名前忘れちゃったけどね。《黒人兵》(1955年)とかいって、下から見た井戸の中みたいなのとか、《つぶて》(1956年)とかいってちょっと変形してタイヤが転がってくるのとか。あの時期ちょっとそういうのあるじゃない。油絵ですかね、なにで描いたか。ちょっとアクリル系だよね、すでに彼。

藤井:でも油だったと思います。

中村:そうですか。一連の仕事がありますよね、ああいう手法で。あれはたいだいね、彼の意識はルポルタージュ風なのを、さらに象徴化してやってるんですよね。《つぶて》なんて明らかにあの当時の学生運動ってのは、やたらと石っころ拾っちゃブン投げてましたからね(笑)。オマワリに向かって。そんなヒントがあるんじゃないかな、って思ったりね。《黒人兵》なんかは明らかにあの時代のGIの黒人兵とか。非常に象徴化のうまい人で、象徴的に、それから図形的にもうまいからね。本当に見事にやっちゃっていますがね。ルポルタージュっていう言い方で、それだけじゃダメだってわかった時に、どうしてもシュルの助けみたいなもので、象徴的にやらざるを得なくなる。抽象画に行くんじゃないんですよ、決して。抽象画に行かないで、象徴のあたりでなんとか踏ん張って、それこそ換喩みたいなことで。モチーフをね。モチーフだけをわりとリアルに扱って、画面構成はすごく象徴的に持ってく。そうするとモチーフはリアルなのに、象徴性を非常に帯びてくるような。換喩するようなね。そういう一連のものが、あるような気がするんだよね、私も含めて(笑)。実はそこを言いたかったか(笑)。シュルってレッテル張られちゃうと、違うよって。リアリズムって言ってもだいぶ違うよ、と。

藤井:ルポルタージュとも違う。

中村:ルポルタージュとも違う。じゃあなんだよこれ、って(笑)。

藤井:非常にアクロバティックな。シュル・ルポルタージュっていう、なんだかよくわからない(笑)。

中村:シュル・ルポルタージュね(笑)。なるほど、そういう言葉もあっていいか。

加治屋:ところで、ちょうど1956年に日本橋高島屋で「世界・今日の美術展」っていう展覧会があって、日本にアンフォルメルがかなり入ってきて話題になりましたけれども。先生はそれに対してどのようなお考えをお持ちだったんでしょうか。

中村:うーん。はい。ほとんど私の守備範囲に入ってないのでね、その企画なり展覧会なりに、実はほとんど接触がないんですよね。

鎮西:ご覧になってはないんですか。

中村:その展覧会は観てない。ただ、個々にそれに影響を受けた日本の作家がいますね。

藤井:菅井(汲)さん。

中村:菅井さんとかね。その辺の絵は知ってます。直接には知りませんが。白髪(一雄)さんなんかもその辺の影響ですか。ただね、気にはなりました。どういうことで気になるかと言いますと、私はどっちかというと所詮モチーフはかなり具象的でね。それを画面の上で組み合わせるみたいなことで、観念絵画なんて言った。あんまり画面の上では冒険的なことはやってない、と自分では思ってるんですよね。だから形まで否定して終わってしまうような、今までの具象性っていうのを一切清算していくようなやり方ですね。これはちょっと違うな、とは思いました。自分としてはね。それで、ほとんど影響を受けようという気もなかった。ただ技法的にね、ドリッピングっていうのはあれ、アンフォルメルの中で・・・・・・。

加治屋:ジャクソン・ポロックです。

中村:やはりポロックが最初ですか。

加治屋:はい。

中村:ああ、そうですか。アンフォルメルは、それ以降でしたかね。

加治屋:そうですね(注:アンフォルメルの方が早い)。

中村:運動としては。アンフォルメルはアメリカじゃなくてヨーロッパから。

加治屋:(ミシェル・)タピエですね。

中村:タピエか。ちょっと入っていけないので、逆に拒否反応が先でカーテンを閉めちゃったようなところがある。ただね、後で見ますと《血井(1)》(1962年)なんて私の絵がありましてね。血の井戸と書いて、「けっせい」って読んでもらってるんですが(笑)。赤一色で、部屋の中らしい、ああそれですね。ちょっと便器らしいもの。そのちょっと前くらいに、アンフォルメル旋風とか称して、吹き荒れたんじゃないかと思うの。

藤井:作品は1962年です。

中村:1962年。まだポロックは来ていないか。

藤井:紹介はされてはいます。

中村:されてはいましたかね。あのドロッピングって技法は、もうすでに東野さんあたりが言ったり。

加治屋:アクション・ペインティングっていうことで。

中村:ああ、アクション・ペインティングっていう言い方でね。そうでしたね。直接それを行動に移して意図的にやったわけじゃないんですが。そういうのを観てたりするので、ヴィジュアル的にはね(笑)。単に輪郭をとって、その中を色塗ってという技法の限界っていうものも、同時にいつも持ってましたんでね。その時に《血井》にちょっと部分的だけれどもドロッピング的な要素があるでしょう(笑)。ちょっと、ややね。そういうところに、表れてるかなって気はしないでもないでもないですね。技法として、ちょっとやってみようという。かわいげにやっておりますよ(笑)。

藤井:ちょっと描いてる後に、それをもう1回輪郭をとり直したりっていう。

中村:うん、結局しちゃうんですよね。ちょっと具象的なところと、バランスとっちゃったりね。汚い雑巾みたいな布に赤い絵の具を浸み込ませてね。画面に押しつけてマチエールをつくる。その時代、まだアクリルなんてあったかな。

鎮西:でもこれ先生、(素材が)カシューって。

中村:カシューです。

鎮西:カシューっていうのは、どういうものですか。

中村:カシューとアクリル、実は同じです。ただネーミングがカシューって言って。カシューっていうのは、漆ですわね。人工漆っていう意味で、多分製法はほぼ似てたんじゃないかと思うんだよね。

鎮西:日本製ですか。

中村:ええ、日本もあるし、あちらからも来てたし。あんまり日本ではまだやってなかったかな、絵の具屋さんが。一番最初はそれを使ってね、いいぞいいぞなんて言ったのは、確か河原温だね。彼のなにかカシューだけで描いたのがあったな。どの絵だったかな、ちょっと忘れましたがね。ちょっとルポルタージュ絵画っぽいような象徴的な、タブローの変形のね。あの中で使ってたんじゃないかな、カシューをね。かもしれない。わりとカシューは古くから来てたの。もう使ってる人がいて、前田常作さんも使ってたような記憶がちょっとあるな。あの曼荼羅とかいう絵の前に、わりとビーっと厚塗りで。

藤井:はい、ありますね。

中村:ね。あれはカシューじゃないかと。やっぱりあの辺の人たちが実験的に使ってましたね、安いし発色もいいしっていうんで。私も及ばずながらやってみましたけどね。

藤井:エナメルみたいな。

中村:そうなんです、エナメルを。

鎮西:ちょっとおもしろい質感ですよね。

中村:うん。いわゆる有機的な油で溶くんではなくて、なんだろうな。ああいうアクリル系のなにかと混ぜる技術ができて、売り出したんじゃないかと思いますね。日本製だと思いますよ、カシュー。我々が使ったのはね。むしろ高級っていうよりも、安くて簡単に作れる。で、発色がいい。で、堅牢だということでやった記憶がありますがね。その時に垂らしたんじゃなくて、ボロキレに浸み込ませて、ちょっとデカルコマニーっぽく、うん。

鎮西:先生、これを描かれた時っていうのは、絵は水平に置いてこの赤いところを、こうやってやってたんですか。

中村:そうじゃないですね。

鎮西:それとも立てて。

中村:ええ。そこはちょっとポロックさんの真似はできなくてですね。立ててイーゼルにくっつけて(笑)。だから、かなり濃い状態のもので、浸み込ませてこう押さえる。

鎮西:(作品を指しながら)こことかは、そういう感じなんですか。

中村:うん。あるいは、そこも上も、全部そうですよね、それ。下が少し筆で塗ってますかね。

鎮西:井戸は多分、筆で描かれてるんですよね。

中村:うん。線みたいなところは筆で。さらにちょっとデカルコマニーっぽく押さえてるんです。布目の跡なんですよね、これ。この辺とかね、全部布で押さえた跡で。

鎮西:要素って言うと変ですけど。要素というか、ある種の自然に出てるっていう部分が、見せてる記号的な部分っていうのもあるっていうか。

中村:そうなんですよね。モチーフの扱いもそういうふうに、テーマががっちりあって描いてた中から拾ってきて、モチーフだけを。それであんまりテーマ性がないような、わりとランダムな構造の中にピュンピュンと置くだけにしていって。それでデカルコマニー風なところと混ざったようなところでね、それをくっつけてったっていう、意味不明な絵になっちゃいましたがね(笑)。それを赤一色でやったっていうところだけがミソですからね。そこですかね。それでカシューだけじゃなくて、油絵具も使ってね。いろんな赤を使ってるんですね、色としては。ただ水性と油性、その辺がどういうふうにうまく使い分けたかね。怪しいけども。水性はさすがにね、下にホワイトひいてるから、油で。使ってないと思いますがね。色鉛筆とかクレヨンとか。

鎮西:最初に画面は白で。

中村:下地をべったり塗ってるんですよ。確かこれ、ベニヤ板なんですよね。違ったかな。なんて書いてあります?もうその頃、ベニヤあんまり使ってないかもしれない。

加治屋:合板って書いてありますね。

中村:やっぱベニヤですか。くぅーっ(笑)。

鎮西:《血井(2)》(1962年)はね、キャンバス。

中村:ああ、そっちは小さかったもんね。

鎮西:そうですよね。大きいのは、板を。

中村:大きいのはお金持ってなくって、ベニヤ(笑)。こういうふうにグリグリ描くっていうのは、ベニヤがいいんですよ。ベニヤとは限らないけどね。もっと今みたいにシナベニヤのやつのほうが、いいんでしょうけども。この時代、ラワンですからね。相当弱いんですよね。腐ってきたり、亀裂がギャーっと横に走ったりね。ベニヤは合板だから、糊が悪くてはがれたり。そういうふうに悲惨な絵になってるの、あります(笑)。近美に入ってる《基地》(1957年)という表面は見られたもんじゃないでしょ。あれはひどいっしょ。

鎮西:あれは、なんと緊張させる作品かっていう(笑)。

中村:かえっていい味でちゃってさ(笑)。いかにも基地って感じ。

鎮西:本当に、よくもってますよね。

中村:よくもってる(笑)。ただね、アクリル系の透明のニスを、かなり厚く塗っちゃったのよ。落ちちゃまずいんで、ドローっと。だからビカビカに光っちゃって(笑)。

鎮西:そうですね。相当な亀裂っていうか。

中村:ね。亀裂はがっちり見えるけども、横から見ると結構厚めに透明乗せてて。あれがそれなりにはカバーになってると思いますが。それもコンディションによっては、危ないかなっていうのがあったりするんですが。いいベニヤの時はいいんだけど、ああいうふうに最初から怪しいベニヤの時は、すぐああいうふうになっちゃったんですよね。それが材木屋から買ってくる時っていうのは、わかんないんですよ素人じゃ。それで売ってるものを買って来て、全部裏打ちして描いちゃうと、後になって亀裂が出てきちゃう。

鎮西:確かに、結構これは。

中村:(笑)。

鎮西:保存されてますよ。

中村:してくれていると思うんですけどね。もう移動したくないと。

鎮西:でもお借りする時も。

中村:なんか言われた?

鎮西:やっぱり慎重におっしゃってましたよ。でも貸してくださったので。

中村:ああ、やっぱりね。ここは管理をちゃんとしてるからでしょう。危ない、おっかないって(笑)。申し訳ない、本当に。ちゃんとやれば良かったんだけど。ベニヤの出来不出来まではわからんのでね。今みたいにシナベニヤってのが、なかったんですよこの時代。全部ラワン(笑)。鉄筋打つための側だけ建材で。乾いたら捨てちゃう材料ですよね。

鎮西:そうですね。型取りっていうか。

中村:平気で皆使ってましたよね。キャンバスなんて使ってる人、少なかったんじゃないかな(笑)。だから、どこまでもつか。《砂川五番》も危ないんじゃないのかな。

藤井:あれはわりと丈夫ですよ。

中村:結構きっちりしてますね。

藤井:ちょっと直しましたけど。

中村:やっぱり。すみませんね。

鎮西:落ちるほどの感じではないですね。

藤井:お陰様で。

中村:お陰さんだね、本当に(笑)。あれね、当時ももうすでに材木屋さんから言われたけども、和紙をべったり貼っちゃうといいって言うんですよ、裏に。あれが直に空気に触れてるから、裏からバリっと取れたり剥がれたりね。合板ですから、糊でくっついてるから、あの時代の糊なんてどんな糊か怪しいもんだから。あとは湿度が一番怖いと、材木だから。で、裏から来ると。表は油絵具だから撥水性のもの。だからピターっと隙間なく裏にコバ(厚み)のほうも含めてぴったり和紙を貼っちゃえば、かなり防げるって聞いた。それは本当は私がやるべきことなんですがね。

一同:(笑)。

中村:もし暇とお金があれば(笑)。和紙貼るだけでも、相当いいみたい。

鎮西:なるほど、じゃあ続いて。

加治屋:そうですね。読売アンデパンダンについてなんですが。第5回(1953年)と第6回(1954年)に出品なさっていますが。この時のことですとか、その後の非常に話題になる時期のことも含めてお考えをおうかがいできれば。

中村:その当時読売だけじゃなくて、(日本美術会のアンパンと)両方に出したと思います。ともかく発表したい、発表したいで。当たるを幸い、アンデパンダン制でちょっと(出品料が)安いところは全部出したような気がする(笑)。あの1年のうちに何回も。ニッポン展だってほぼ、アンパン制。平和美術展ってのがある。あれもアンパン制。それから職場美術っていうのがあって、これもアンパン制でしょう。だから3つ4つあって、僕は全部出してると思う。特に読売だから云々、ニッポン展だから云々ってのはない。ただ2回でやめたっていうのは、確かそろそろもうね。どうなのかな、ネオ・ダダの連中なんか出しだしてません?ぼちぼち。

藤井:そうですね、まだ。先生が、ネオ・ダダの人たちがやってくる前にもう読売にけりをつけたんじゃないかと(笑)。

中村:確かにね、見切りをつけました。ネオ・ダダになって、ああやっぱりやめて良かった、みたいな。僕ははっきり言うと、あれは嫌いなんだよ。ネオ・ダダなんていうの(笑)。全然体質に合わないしやる気もしないしね。私はああいうのは。古いせいかね。どうしてもダメ。だから読売やめたっていうのはね、ああこれは俺のやる場じゃないなと思ってやめました。

藤井:日美(日本美術会)のアンデパンダン展は先生は初めからは出してはおられないですね。

中村:いないですよね。2回目か3回目くらい後で。日美なんてどうでもいいってやったと思いますがね。ただあの時代は戦後まもなくなので、アンデパンダンって言い方がすごく大衆的に受けて魅力があった。日美の委員たちが、抗議に行ったようですよね、読売新聞社へ。展覧会名のパテントの問題で。

藤井:それに、抗議に行った人自身が、読売アンパンに参加しているんですよ。

中村:行かなきゃいいんだよな、あんなもの。

藤井:どっちがいい悪いって話でもないような気がしますけど。

中村:本当だよね。もしそんなこと言うんなら、最初から意匠登録なりね。なんとかなりして、絶対に真似されんようにすればいのに、そんなのしてないしね。それはしょうがないし、第一日本のものじゃない。遠くフランスからのカッパライ(笑)。

鎮西:後から来て同じタイトルでという。

中村:その後アンパンだらけになっちゃった。岐阜アンパンだ、やれなんとかアンパンだって、いくつも出てきましたね。京都もありましたか。日美の方を良しとして、絶対いいなんて思っていたわけじゃないんだけど、なんか絵を出すのに落ち着いてしっかり観る人には観せにゃいかんという、どっちかというと陳腐な古い考えの持ち主なもんで、あんまりああいうところでアヴァンギャルドとかネオ・ダダつって暴れまくってね。すでにインスタレーション風なことをやるっていうのには、未だにそれはついてけませんわね、ええ。だから、ごくオーソドックスな展示方法で良いかな、ということです(笑)。

加治屋:はい。ありがとうございます。

中村:もうひとつ、なんでしたっけね。

加治屋:3点目はルポルタージュについてです。もちろん先生はルポルタージュ絵画の代表的な作品をお作りになっていますが、この言葉はどのように使われてきたのか。もしご存知でしたら教えていただけませんでしょうか。

中村:もう安部公房さんがすでにそういうことをおっしゃってるし、文学の世界じゃルポルタージュ文学って、すでにわりとポピュラーになってましたよね。安部さんがおっしゃる前からあったんじゃないかな。それこそ多分、左翼の方から出てきたと思いますよ。あの時代は労働運動が盛んで、それを同時に体験記録する。それを単に記録じゃなくて、文学として認めていいんじゃないかっていうのがすでにあって、その下地の上で。安部公房さんっていうのは非常に先見の明っていうよりも、時代感覚がすごい敏感でね。カフカが来ると、ばっと影響受けちゃってね。ついに日本のカフカになっちゃうくらいね。芥川賞を取らなきゃ絵描きになるつもりでいたようです。ダリの絵をかなりどんどん紹介したのは、確か安部公房じゃないかと思う。安部真知さんて奥さんも絵描きでしょう。だから自身もダリの真似的な絵がうまい。
そんなわけでルポルタージュっていうのは、すでに文学にありましたけど、美術の世界へそれを持ってきたのは多分、青美連の会合の時に安部公房さんが使ったんだろうと思います。ルポルタージュ文学があるくらいに、ルポルタージュ絵画ってものがあっていい。ルポルタージュ美術とか芸術って言わないで、絵画って言ったような記憶が、僕は非常に頭に残っているの。それからもうひとつね、オム・テモアン(L’homme témoin)っていうのがフランスにあって、「時代の証人」という意味だとかなんとかね。ほほう、みたいな。フランスの若い画家連中が、戦後そういう運動を始めたと。日本でも負けじとやらにゃってんで、それを言ったのは安部公房さん。日本でオムテモアンって言うかどうかっていうあたりでね、多分提案があったような気がしますね。オムテモアンっていうグループ名でやってた日本のグループは、多分ないと思うんですが。エナージとかはあったけど(笑)。

藤井:池田龍雄先生のグループは、しょっちゅう名前を変えるので(笑)。

中村:池田さんらしいね(笑)。そういうのはあったけどね。だからオム・テモアンはないと思うんですが、誰かどっかでやってるかもしれん。多分フランス仕込みのもので、発祥がね。フランスの若手が。当時フージュロン(André Fougeron)ってのがいましてね、フランスに。ああ、ご存知ね。あの人のグループだと思いますが、オム・テモアンってのは。他にもいたと思うんですがね。社会主義リアリズムを主張してましたよね。で、ああいうものだと。あれなら日本にもなきゃいかん、みたいに思ってね。一発やろうじゃないかって、勇ましいことを(笑)。
さっきも言いましたように、すでにルポルタージュって言い方じゃないにしても、実質ルポルタージュをやってた山村工作隊の連中のね、粗末だけどガリ版とかのスケッチがある。それを整理する意味でキャンバスに油絵で、それを見ながら描いた。それをルポルタージュ文学だ絵画だなんて、いちいち言ってないと思う。ただ、それを意図的にそういうものを材料にしたのが青美連で、多分安部さんを通してそこで皆に提案という形で出してね。僕なんかは下っ端で聞いてたのでね(笑)。本当の裏の裏はよくわかりません。安部さんを始め勅使河原、尾藤さん、入野さん、桂川さん、山下さん、白玲さんね。こういう人たちですね。この人たちも、ルポルタージュ絵画って言い方を提唱したと思います。この辺は、池田(龍雄)さんの方が詳しいかな。

鎮西:先生はもう当時は自分をルポルタージュ絵画、あるいはルポルタージュっていう言い方は普通にされてたんですか。

中村:してません、この時はね。青美連で呼びかけがあって、なにやるのかなって言ってた程度ですので。最初からはルポルタージュなんて聞いてません。

鎮西:自分の作品、あるいは他の青美連の方でもいいんですけど、そういう作品に対してルポルタージュっていう言葉を実際使われて呼んだ時っていうのは、大体いつぐらいなんでしょう。

中村:ああ、なるほどね。それがね、多分1953年で青美連の第1回会合っていうのがあって。

鎮西:1953年に参加。

中村:青年美術家連合に参加です。多分この時に提案されているんです。これが第1回の会合だと思うんですがね。一応これは公にして、大きな場所でこんな学生にまで呼びかけがあったっていうのは、この時でしょうね。1953年でしょ。この料亭は韻松亭と言って上野公園にある。坂のちょっと上り口。あそこがこの当時からあって、2階が大広間なの。あそこへ集まりみたいなもんですよ。あそこはよくもってますね。

藤井:立派な料亭ですよ。

中村:立派ですよ、なかなか。結構な値段取るしね。あの時代はそんなに取ってないですよ(笑)。こんな、ごっついような男ばかりがガーっと来たりするからね。だからそこでやって、そこでテーブルだけは並んでましてね。そういう提案がこの人たちからあって、別に反対する理由もないし、反対する人もなかったんで。ここに白玲さんってありますが、運動体の中ではかなり率先してやってました。絵もだんだんこの辺から社会主義リアリズムじゃなくてシュルレアリスムだ、ダリだと。しかし、その後、一抜け、二抜けで皆ほとんど抜けちゃっていて、ニッポン展自身もテーマを持った美術展って言っていながらテーマ性が失せていって、ルポルタージュも小河内からも遠のいてるし、そのテーマを繰り返しやるわけにもいかないっていって。さぁなにやっていいか、ふにゃふにゃだーみたいな時期にすぐなっていくんですよね(笑)。もう1954、5年あたりになると、だんだん怪しくなってくるんですよ。(日本)アンパン自身もね。だからなんて言うかな。僕がエイゼンシュタインがどうのこうのとか、ルポルタージュはもう捉えきれないとか、モンタージュがいいみたいなこと言ってもね、あんまり反応がなくなってきたんですよね。その前だと、そんなこと言おうものならトロツキズムだ、モダニズムの方へ傾いただのって言うようなことが、部内の人たちにあったりするんですが。もう1954、5年にいくとむしろ黙っちゃってて、お前さんなにやってんの、みたいなことで(笑)。あんまり抵抗がない。この当時砂川なんか行ってあんなような絵を描いたのかな。あれ確か日本美術会のアンデパンダンに出してるんですよね。それから品川の国鉄の絵(注:《国鉄品川》(1955年)『図画事件』p.42)とか。わりとその中ではね、評判が立ちましてね。おお、出たか出たかみたいな(笑)。こういう描き方もあったか、みたいな。すでにかなりアヴァンギャルド的だったんですよ、日美も。リアリズムがちょっと、こう落ち目になってる時で。わりと抽象画なんかも、すでにあったりね。アヴァンギャルド的になったりしてたの。ちょっと開き直り的に見えたんですね、僕の《砂川五番》が。妙にリアルだから。現場主義みたいなところがあって。かと言って、社会主義リアリズムってほどきちんとしたリアリズムじゃないし、変な絵に見えたんでしょうね。それで結構合評会なんかで、これ誰?みたいになって。はーい、って言ったら、あ、お前?なんてね。若いね、なんて言われて得意になっちゃってね(笑)。
それでその時って妙に私は燃えましてね。皆ダメなら一丁やってやっか、って(笑)。皆が燃えて盛んな時って、なんか沈んじゃうんだね。ついていけねぇとか。変にあまのじゃくなところがございましてね。そうしたら妙に、当時日本美術会のアンデパンダンってものすごく会合とか、講演会とか批評会って盛んなんです。そういうところで、なにかっていうと《砂川五番》を話題にしてくれたもんでね。いい気分になっちゃっていました。1953年とかの方ががんばってたんじゃないかな。山下さんなんかの、《あけぼの村物語》(1953年)ってのもこの時出てるんじゃない?

鎮西:確か第1回。

中村:第1回ニッポン展にね。この時確か、河原温の《浴室》なんかと一緒に出て評判になりましたよ。ただ山下さんは評判になってない。後になって、だんだん尻上がりに相当重大な絵になってきちゃってね。皆さんこの時はかなり迫力があって、すげぇなーと思ってました。
この時、確か尾藤さんも日鋼赤羽を描いた《守衛》という絵を出してると思うんですがね。小河内の時のスケッチを油絵に描きかえたようなのも出してましてね。相当いいと思った。僕は山下さんとか河原温の絵より、尾藤さんの絵の方が関心持っちゃいましたけどね。ルポルタージュ絵画運動の中じゃ本当に優れていたと思う。技法的には単なるレアリズムとか写実表現じゃなかったんですよね。僕がどう描いたらいいかわからん時に一番参考になり、いいなと思ったスタイルをとってましたね。
だからそういう意味では、ダリ的シュル的なのが圧倒的に多く、リアリズム描写的なのもガーンってあるっていう中では、非常に特徴があり、かつ先見性があると思った。河原温みたいに象徴主義そのものになっちゃうと、またね。評価は高いにしてもね、そういう意味ではルポルタージュと違う。一種の実存絵画みたいなね。自由美術みたいなのってそういう傾向があって、非常に受けた時代です。暗くて、こう。だから曹良奎さんなんかは、自由美術へ出してましたよね。あの辺りで典型的なのは、誰なんですかね。小山田二郎さんとかね、ちょっと否定的で暗いということの中に、風刺性とかね。反社会性含めるような。
文学者が喜んで。ストーリー性が非常に強いでしょう。あの実存的強烈さが、文学者には大モテね。確かにあの時代を本当に象徴してますよね。まだもうひとつ違うかな。まだ僕はルポルタージュって頭があったもんだからね、あの象徴だけで行くと、またそれはそれで優れてるってことはあっても、ルポルタージュってのとは違うというのがあると。もちろん社会主義リアリズムもダメ、描写もダメ、全部ダメで、じゃあなにやるんだよって(笑)。全部ダメ、ダメなんて言ってたんじゃあね。そういう時だったのでね。むしろもっと、古典的なブリューゲル見たりレーピン見たりって、あの辺の方がはるかにおもしろかったんで。しかし、あの時代のああいう絵なんていうのは僕自身に描く能力もないし、今ああいう歴史的なのを描いてもねぇっていう。あんな劇的な場面もないし、僕の周りにはね。さぁて、と思ったんだけど。一番興味を持ったのは、ブリューゲルとかレーピンですね。それからリベラですか。そういったものの部分をね、カッコよく言うとプロデュースしてまとめて、一枚の絵にしたという感じがあったんですよ、《砂川五番》っていうのは(笑)。それをひとつにまとめちゃうと、オリジナルになるような。そういう意識が強かったかな。例えば山下菊二さんの絵の、モチーフについて非常にオリジナリティの強いデフォルメがあるでしょう。ダリもやたらデフォルメがうまいでしょう。デフォルメってやり方、あんまり好きじゃないから。絵がどんどん象徴的になっちゃうんでね。だからその辺も、ルポルタージュとはちょっと違うかな、という時に、尾藤さんの守衛を描いた絵があって、すごくいいと思った。
まとまったところで。では今日は長い時間、どうもありがとうございました。