鎮西:昨日のお話を踏まえまして、その続きというあたりで。先生がついに「タブローは自己批判しない」(『美術手帖』第393号、1975年4月)というテキストを書かれて、その後につながっていたり、それ自体の先生のお描きになるある種の宣言のようなものになっていったかと思うんですけど。お書きになった時のそれに込めたお考えというか。そういった辺りから。
中村:日本美術会およびアンデパンダン展っていう展覧会の中で、闘争場面とかデモだとか基地の反対運動の場面、そういう硬派な熱い場面はだんだん否定されて、平和な、優しい家庭の事とか、女性の綺麗な横顔を描きましょうとかね。子どもの楽しいところとか、なんとなくそういう雰囲気を作っていった。それでアンデパンダンが、急にがらんとするような感じがしまして、日本の作家のリアリズムの人たちは、優しい絵を描き出したっていう状況になりました。
それを見てちょっと待って欲しい、と考えましてね。私はアンチ体制とかモンタージュ、まだそういう場面を描くのはね、自分としては納得できるふうじゃなかったのでもっと続けたかった。まぁちょっと偉そうにね。「タブローは自己批判しない」なんて言いまして。実はこれは日本美術会の機関誌の『美術運動』っていうのがあるんですよ。実はあれは、投稿です。それで日本美術会の絵画状況みたいなものを主に批判して書いた。政治闘争をやる、そういう中でそれにのっとった絵を描いていた。そういう制作者的視点と政治の上での戦術転換。政治的な事件をモチーフにして描いている時に、絵においてそう簡単に変えられるっていうのは、それはちょっと信用できない、ってことを書いたんですね。だから「不審の「自己批判」」(『美術運動』第53号、1957年)っていうタイトルだったんです。最後に捨て台詞的に「タブローは自己批判しない」って檄を飛ばしたみたいなことになったんですが(笑)。そういうことで、その言葉だけを拾って中原佑介さんが当時、珍しく。あの人は左翼でもないし、日本美術会なんかむしろ批判する人なのに、どういうわけだか。どなたかが頼んだんでしょうね、編集部の人が。中原さんに一文書いて欲しい、ってことで。嫌々だったかどうか知りませんが(笑)。書いた時に、リアリズムとか日本美術会のことには、ほとんど興味なかったようだったので、まぁ悪く言えば私をダシにして(笑)。私が書いた投稿の文章をネタにして、日本美術会批判をしたと思います。中原さんとはその前から、個人的にはちらっと会ったりしていたもんですから、私を俎上に乗せて書いたんだろうと思います。その時に特に「タブローは自己批判しない」という一文のところを拾って、ご自身のタイトルにしちゃったために(中原佑介「タブローの自己批判」『美術運動』第54号、1957年)、私はそんなに強調してないのに、文章の最後に(少し書いただけなのに)妙にアピールしちゃいましてね。ちょっと話題になって、部内でも賛成と反対が出ちゃったりしているという、そういうことがあったんです。
私自身は、そこを強調してくれた中原さんには感謝するわけですが、実はそのことがメインでもっと書き続けるよ、と。そういう、闘争場面とかルポルタージュとか。そういう非常に硬派で過激なところをもっと描きたいんだと言って、《砂川》とか《基地》以降も、いわゆるルポルタージュ絵画ではないけれどもね。モンタージュ絵画という形で、あくまでかなり描き続けます。その中で私としては一番印象に残ってるのは《階段にて》(1960年)。これはそれ以降だろうと思うんですが、あれはすでに終わった安保闘争の、確か樺(美智子)さんって人が亡くなった時の状況ですね。その時の状況と新聞写真、グラビアなんかで当然あって、資料として持ってました。その時に私はその場にはいなかったんですよ。その前の日はいたかな。(デモには)毎日はさすがに行ってませんのでね。丁度あの日は行ってません。だからルポルタージュ絵画ってのは、現場へ行ってそこをつぶさに見るっていうのが最良っていうふうに私は思ってましたんで、そういうふうにずれちゃって描くっていうのは非常に、今度はフィクション的要素が強くはなる。いろんな資料を集めなきゃいかん、方法的には。そして私のスタイルからいくと、モンタージュ的方法を取るっていうことで、自分としては比較的気にいってるのは《階段にて》という安保を主題にした絵なんです。現在宮城県美術館にあって、なかなかこちらでは展示が見られないんですがね。この前年のメーデー事件を描きました《革命首都》(1959年)ですか。これもこの当時、そこにはいなかったんですよね。だから全部再構成と、あるいは資料を集め、そして画面の上ではモンタージュふうな構成ということをやっていますので、かなりルポルタージュ絵画ではなくなってまして、モンタージュ絵画そのものになっちゃってますが(笑)。《戦争期》(1958年)、《内乱期》(1958年)、《平和期》(1958年)っていう続き物のような。そして都市風景みたいなのを描いて(《都市計画》1958年)、ちょっと歴史画ふうに。日本をテーマに描いたということがあって、その辺までつなげたと思います。戦後革命とか、戦争とかいうことを含めてね。それから政治事件、安保も含めてそういう題材を、ずっと続けたつもりなんです。それで「タブローは自己批判しない」なんていう言い方にあたるか、どうかわかりませんがね。ちょっと檄を飛ばしちゃったというか、啖呵を切ったので、やらざるを得なかったってこともあって続けてました(笑)。
鎮西:このあたりの作品は、制作した日付がついていたりすることになると思うんですけど。
中村:意識ではかなりシリーズっぽくやってるんですが、きちんとシリーズにしてるわけでもなくて。その時代時代の、自分でここは、と思うポイントの事件を描いたつもりなんですね。だからちょっと前後したりするんですよ。最後はもう歴史画ふうに、歴史画そのものではないですけど描いて。最後はおばあさんみたいに、自分の家のことまでモンタージュにしたような(《四世同堂》)(笑)。
鎮西:昨日最初の頃の方にうかがった、学校を作られたおばあさまということですよね。
中村:そうですね。ああ、それに関連してますね。(作品の)右上のあれ(額に入った写真)なんか、最初の学校の写真を見て描いてます。ボロ家で木造2階の、小さな部屋でね。家政学校を始めたって辺りです。それが祖母が死亡した時の葬式風景を下の方に描いたってことですね。親族が並んでますか。左上が葬式場面で学校葬なんですよ。その影みたいのは、ちょっと絵画上おもしろい効果を出しただけで。誰も彼も影っぽく見えたのかも。葬式場面ですので、影のような雰囲気というか。暗い雰囲気も同時に、冥途の風景を描いたつもりで。下の親族たちは、これはゾンビみたいだけども、実はまだ生きてて、そのおばあさんの娘息子親族を、ほぼ並べたつもりなんですよ。喪服を着た。その辺まででほぼ終わったんですかね、ルポルタージュからの延長でモンタージュへいったっていう。題材は延長してますが、現地で取材するとかなんとかっていうのはもう、ほとんどなくてね。ただ葬式は私がいて、そこはもうそれこそ子供の頃、小学生の頃の体験です。その辺がずれることで、どういうふうに考えたかってことはあります。「タブローは自己批判しない」って言い方をね。タブローだけは維持していって、表現方法とかプロパガンダ的な要素もだんだん減ってきちゃってましてね。一応絵画としての、絵画現実みたいなことで主張しようとして。いわゆる生の現実じゃなくてね、描かれた結果の意味性へだんだんすり替わってます。
鎮西:前に展示した時(注:中村宏 図画事件1953-2007)もそうだったんですけど、同じようなサイズで。四角いフォーマットを保って、その中で絵画としてどうしていくのか、というふうなところに、だんだんシフトして問題化してっていう。
中村:実はそれ、ベニヤ横位置ですよ。それでやった時に、構図の取り方というのに味を占めた。これはいいなということで。ワイドふうな、映画的(笑)。自分の感覚と合ったんですね。で、これだってことでベニヤでばっかり描いてるために、サイズはほとんどそれに合わせているんですね(笑)。
鎮西:確かにそうですね。映画のスクリーンで見ても、すごい極端な構図とか、極端な奥行だったりとか、映画的って。当時、先生の作品は映画と比べるようなことは、周りでされたりしていたんですか。
中村:いや、ないですね。僕が勝手に言っていて、ちっとも受けなくてね(笑)。ダメでしたね。ただ、あんたものすごく横長な絵ばっかり描くね、なぜ?みたいなことでね。そんな疑問はきました。理屈より一見してワイドっていうのは、ヴィジュアル的に気持ちいいんですね。眼が左右についてるっていうか。横に広がるっていうのは、一種の解放感があって。絵としてもアピールする。流行りましたよ、アンデパンダン展の中で。ニッポン展でも。当時の目録なんて見ると、みんなベニヤに横位置で描いてる。
鎮西:これはキャンバスですね。
中村:《四生同堂》は100号でしたね。父親にこれを見せた。なんかようわからんけど、おばあさんの顔が似てるからって、しばらく校長室にかかってたんですがね。
藤井:そういう目的もあったんですか(笑)。
加治屋:ちょっと戻るんですけども。映画的な画面だということで、確かこの50年代後半ぐらいにシネラマとかワイドスクリーンの映画っていうのが随分。
中村:ああ、出てるんですよね。そうです、そうです。トッドAOとかいうアメリカの、ものすごい横長なサイズが出てたり。ワイドの出始めの頃ですよね。そういう影響が多分あると思います。映画の画面に近いということは、そういうことですよね。
加治屋:多分今の映画よりも、横長なので。
中村:うん、ちょっと極端にそうでしたよね。ただワイドの寸法はありますよね。これ3×6は1:2なんですよ、丁度。3尺6尺って言うんでサブロクって我々は言ってましたよね。センチでいうと、1尺が30センチですからね。だから90センチ×180センチ。桟を入れて。3本くらい入れてますね。最初は普通の釘でただ打ってただけ。でも鉄でしょう。皆、錆びちゃって(笑)。錆びてると思うんです、絵の下で。
藤井:(修復の際)錆び止めしました。
中村:ありがとうございます(笑)。相当やばい。錆びているところがポツポツとね。
藤井:(釘の)頭のところが。
中村:後になって釘だけは、鉄をやめて真鍮にした。頭にニスをポンポンと塗ってって、それで下地をやる。その辺は一応ちゃんとやったかな。
鎮西:やっぱりそういう意味では、そうですね。
加治屋:《内乱期》、《戦争期》とか、この辺りですね。
中村:こんなに長く生きちゃったから、昔の手抜きが今になって出てきて恥をかくね(笑)。やっぱその辺もしっかりやらんといけませんね、絵描きってものは(笑)。
鎮西:でも先生の作品は、丈夫な方だと思います。
中村:よくもってますね、そんな雑なやり方でね(笑)。
鎮西:確かにそうですね。
中村:置き場所が、偶然だったんでしょうけど小屋みたいなもので。中二階なのがあって、そこが南向きの部屋で、そこにぎゅうっと詰めてあったの。ある人に言わせると、たまたま南向きで中二階で、通風が良かったんで持ったんじゃなかろうかって。1階で北側だったら、湿度がひどくてね。
藤井:図らずも、正倉院になったと(笑)。
中村:そうかもしれない、図らずもね(笑)。
鎮西:これらの作品なんですけど、展覧会に出品されてるケースは画廊だったり美術館だったりっていうことだと思うんですが。それ以前には例えばそうじゃないような。日本美術会の時代、体育館まではいかないけれども、多くの人が見られるような場所に展示したりとかっていうことってあったんでしょうか。
中村:郡山ですとかね、河口湖畔とかも行ってる。なんとなく基地闘争が近くにあるような場所へ行って、小学校とか中学と交渉してね。体育館借りて、即席に。それこそ今のインスタレーションでたったったったっっと桟を作って、そこへグレーの布を貼っちゃってね。展覧会場にしちゃうような。技術ってほどじゃないけどそういうことを、集団でやってましたね。
鎮西:砂川の後半なんかはそういうふうに。
中村:それも確か砂川に飾った記録があるみたいなことは、府中(市美術館)の武居(利史。学芸員)さんが大分調べられて、そういうのが出てきたって言うんですね。なに小学校か知りませんが、やってるって。
鎮西:じゃあやはりその時は、まだそういう展示を。
中村:ええ、してましたね。僕なんかは当時まだ若かったんで、運び屋というか。運送賃なんかないから、担ぎ係とかね。手で持って、電車で運ぶとかね。そういうやり方で移動してましたよね。一種の移動展のような、ロシアのレーピンとかがやった。それの真似じゃないかな(笑)。行動派みたいな、移動展。よくやってましたよ。
鎮西:そうすると、多彩なメンバーで会場で展示をするという。
中村:ですね。やっぱり東京に住んでてアンデパンダンで委員とかっていうよりも、地元の人たちで。絵描きとかなんとかじゃなくて、一種のプロパガンダですから。地元の人に見て欲しいってことで、変なビラ作ったりガリ版刷ったりしてばら撒くということで集めていましたね(笑)。結構来るんですよね、当時は。あんまり文化事業もないし。絵の展覧会なんて珍しい。もともと図画のお時間の展示くらいしかないもんで、大人の展覧会なんてないから(笑)。結構来てましたよ。河口湖なんかでもやったような記憶があるんですよね。それから郡山でもやってますね。福島県って美術盛んで、地元の絵描きさんが大勢いてね。すごく協力してくれて。
鎮西:この頃になると、60年安保の頃に入ってると思うんですけど。58年、59年頃というのは、もうあまりそういう活動は。
中村:ないですね。ほとんどありません。ですから事件がないし、モチーフがそういうのやってきた人間にとっては、描くもんがなくなっちゃったみたいなもんで。だんだん、村ののんきな風景を描くとかね。街の人間を描くとか。そっちにしていって、もう。革命だ、ほら闘争だじゃなくて、平和平和。なんでもかんでもお手てつないでチーパッパとかって、我々は悪口言って(笑)。絵までそんなになってきちゃった(笑)。まだ世の中、そんなふうになっちゃいないだろうって。その辺になると、僕は浮いちゃってましてね。そんな闘争的なモチーフ、皆ほとんど描いてないもんね。
鎮西:先ほど樺美智子さんの話が出ましたが、60年安保に対して先生はどういうスタンスでいらしたんですか。変な質問ですが。
中村:そうかそうか(笑)。確か60年安保ですから、学校離れてもう10年くらい経ってるかな。主にニッポン展っていうのはずっとやってて私も出していて、一応会員制度を取っていたので会員になってるので。団体として強制的に言ったんじゃなくて、まぁ行こうという程度でね。2、3人ずつ行ってるうちに、現場でお前も来てたの?みたいな状態でしたね。実際、国会議事堂を囲ったデモのど真ん中へ行くと、虚脱状態ですよ、安保闘争なのに。本当にしっかり何かやろうっていうのは、労働組合、後は全学連。委員たちは、それなりに緊張していましたけどね。後は皆、数さえいればいいという闘争ですので。座り込みだけになっちゃってますかね、最後は塀を破って中に入ったり、議事堂の中まで入っちゃってるんじゃないかな。
僕は知らなかったんだけど、赤旗持ってって、ともかく議事堂の屋根の上に赤旗を立てたくてしょうがなかったみたい。国労なんかの人たちは。映画にあるじゃないですか、ベルリンの国会の天辺に赤旗立てたっていう、ソ連がね。赤旗持って飛び込んでね。ほんの一瞬立てたって、噂があったりなかったりっていうのがありました。
藤井:登れたんですかね。
中村:中に入ってもちろん階段から。最後は自然成立と言って。変な流れで時間さえ経ってしまえば成立するっていう、真にインチキくさい(笑)。批准のための討論もろくにしないでね。そういう通り方で通ってるんですよ、あれ。その日は僕は行ってません。テレビで見てた。岸首相がテロに遭って刺された。僕はテレビの画面で見てたかな。
加治屋:こちらの年譜だと60年のところは、「6月行動委員会として吉本隆明、秋山清、鶴見俊輔、織田達朗らと共に参加」っていうふうに出てるんですが。こういう委員会に関わられてたんですか。
中村:吉本隆明さんの提唱です。国会周辺デモに参加。僕も電話受けて、ともかく来てくれみたいなことで、せいぜい言ったって10人程度でした。この田端が最後で、本当に1年くらいしかやらなかったんじゃないかな、これは。この時はすでにいろんな意味で退潮期に入っちゃっていましたんでね。それから吉本さんの意向も非常に強く働いていまして。実は吉本さんって人は戦中に思想形成した人で、多分兵隊に取られてると思います。現地には行ってないと思う。どうです、その辺? 吉本さんに詳しい?
加治屋:軍国少年だったってことはよく書かれていますが、戦地には行ってなかったかと思います。
中村:ただ国内で徴兵って言って、どっかの軍隊には所属してたと思うんですがね、あの年齢だと。ただ戦地へ行く順番を待ってるんですよ。だから彼の年だともう敗戦が来ちゃった。亡くなった時85、6歳でしょ。
藤井:87歳です。
中村:87歳ね。じゃあもう部隊にはどっか所属してて、国内に待機してたと思いますね。でも軍国少年ってこの人は言うけど、男の子は日本中軍国少年でした。私でさえそうですからね。別に珍しくはない。そんなのがありましてね。わりと持ち越してるんですよね、吉本さんて。軍国ってことを。天皇とか。転向するとかしないっていうことを良く、まぁ思想家だからね。その辺はすごくこだわりがあったんでしょう。すぐ転向する奴は全部信用しないって、ぶった切りにしちゃってますよね、吉本さんって。もちろん評論の上で。鶴見俊輔さんも吉本さんに乞われて参加したと思う。それから「埴谷雄高宅にて政治集会を行う」なんてのは、まるでカッコよく(年譜に)書いてあるけど(笑)。自分の家の応接間を貸すから、そういう必要があったらいつでも使ってくれって言うんで。じゃあ使おうじゃないのってことで集まったんですね。ここでの集会っていうのは結構面白かった。偉い人がそこに座って、総括的、哲学的、文学的な、なんか意味不明なことをのたまって。ははーってんで聞いてるだけなんだよ(笑)。これはそんなような集会です。
加治屋:集会っていうのは、何人くらいだったんですか。
中村:あの時代の普通の古い家の応接間って言ったら、どのくらいあるかな。10畳くらいあったんですかね。結構な住宅でした。そこがいっぱいになってたから2、30人は入れたと思うんですよ。
鎮西:すごいですね。
中村:うん、もうムンムンですよ(笑)。雰囲気だけはムンムンで。得体のしれないのがいたりね。相当ヤバいんですよ、公安のスパイが入ったり必ずする。私服で来て、ニコニコしてね。いかにも政治原理、左翼原理を吐く。特別ニコニコしてる奴は警戒しよう、だとかね。その時よく言われてました。やたら知ってるというか、状況をね。ベラベラ皆に言って、いかにもアジテーターみたいにして、俺は左翼だって顔をする奴は疑え、とかね。埴谷さんなんかは常におおらかで、その場で言っちゃってね。公安の方、もしいたら出てくださいとか言って(笑)。そうすると逆に出られない(笑)。こそこそやったらバレちゃうから。まぁそんなふうな半分冗談というか、ユーモラスにやってましたよ、埴谷さんなんていうのはね。
この人は本当に大人というか、大物でね(笑)。警察も怖くない、なにも怖くない。こういう名のある文化人で、しかも左翼的なことも精通してる、戦前からやってきた人っていうのはね、いろんな派閥が欲しがるんですよ。一種のブランドとして(笑)。吉本さんも、あちこちからひっぱられてるんじゃない?俺の派閥へ来てくれ、講演会やってくれって。そういうふうな時代。
だから6月行動委員会も、本当にこれは1回デモへ行って、田端へ行って埴谷さんのところで2、3回やって、金がなくなっちゃったんでやめましょう、でやめたという程度です(笑)。そんなご立派なもんじゃないんだけど、私なんか非常にいい意味で、いろんな人と相まみえたってことはこういうことがあったためなんですよね。埴谷さんなんかひとりで行ったって、ねぇ。会ってもくれないし。講堂の中ではツルシュンとかね、ツルシュンって言ってもわかんないか(笑)。鶴見俊輔さんとか。
秋山清さんっていうのは、戦前非常に高名なるアナーキストなんですよ。コミュニストじゃないのね。と言って、社会主義者でもないし。純粋アナーキストで、かなり高名。詩人なんですよ、秋山さんって。そうして吉本隆明さんが、一番評価してる詩人っていうふうに当時ね。戦争に対して早いうちから反戦詩を書いてるんですね。戦争中に反戦詩を書いたのはあんただけだってね。戦後の詩もあるんですがね、それも吉本さんは非常に高く評価していました。詩集が出てます、もう今は。アナーキズム団体がね、何冊か。結構厚い。『秋山清詩全集』かな(注:「秋山清全詩集」『秋山清著作集』第1巻、ぱる出版、2006年。第12巻の月報に中村宏「1958年3月10日のことなど―秋山清氏へ―」)。3巻くらい出てるはずですね。まぁこういう人で、この時期は我々と組んで一生懸命動いてくれましたよね。ということで6月行動委員会っていうのは、本当はその場だけの、吉本隆明さんの個人的な政治活動という解釈でいいと思います(笑)。あとは60年にいきますと。
鎮西:60年代にいっちゃいます?
中村:ああそうか、その前にまだあるか。なるほど。そうか「タブローは自己批判しない」と言ってから、ごちょごちょ僕が書いたのね。あれだけじゃ、なんか。なんだろうね。啖呵かましただけ、みたいになるのでね。なんであんなことを言ったかということを、同じ『批評運動』っていうのに、「タブロオ論・テーゼ」(『批評運動』第17号、1958年。後に「タブロー論・テーゼ」として『絵画者1957—2002』美術出版社、2003年へ所収)とかね。「タブロオ論・反批判」(『美術運動』第55号、1958年。後に「タブロー論・反批判」として『絵画者 1957—2002』へ所収)なんて、まぁこの当時のものの言い方はこんなふうな言い方が流行ったんですね(笑)。ちょっと読んでて恥ずかしいようなことを書きましたよ。はい。
「タブロー論・反批判」というのは『美術運動』ですから、「タブローは自己批判しない」というものを書いた、同じ日本美術会の機関誌です。これに中原批判を書いたんですよ、実は。私を批判したということがあって、反批判ということで。この時代、こういうことがわりと流行ったんですよ。批判されて反批判。これは喧嘩じゃなくて、論調の上でね。やりあうってことはいいことだっていうことで(笑)。やるんですが、中原さんっていうのはそういうのに慣れてたのかどうか知らないけど。僕が反批判したら、もうそれでぷつん、なんですよね。僕はもう1回欲しかったんだけど。
鎮西:そうですよね。
中村:政治責任を追及してるんですよ、日本美術会は。戦争に協力した、戦争絵画を描いたってことで。じゃあ戦争絵画そのものの、絵画現実はどうだったの、ってのが残るんですよ。芸術性批判、芸術責任、それは誰もなんにも言わないじゃないですか。戦争中に戦争を描いたってことばっかり言うもんだから。なにも藤田嗣治だけじゃないのに、藤田嗣治が代表者になっちゃって。そういう歪みが出てきちゃったと。そういう意味で僕は、自分にとっては結構重要だったっていう一言がありましてね、うん。そう(年譜の)1958年、「政治責任よりも芸術責任を問おうとした、その真意が通じず、痛恨の思い」って(笑)。まぁ痛恨はどうでもいいんだけど(笑)。結局僕がそれ、日本美術会の会合なんかでずっと言ってたりしたんですね。この会は戦争責任をやった、と。そのことをステップに終わって、踏み出すにあたって結局どうなったの?って。描いた絵そのものが、どうだったんですかって。討論会でそれをわーわーやろうと思ったら、孤立しちゃってダメだったということで、痛恨と書いたんですが(笑)。本当はそれは、未だに残ってると僕は思います。
作品そのものの方法論的分析も未だにないもんね。戦争画ってものに対する。近美(東京国立近代美術館)は戦争画を飾っちゃいるけど、あれだけじゃちょっと困るんでね(笑)。あそこの学芸の方は、どうされてるんですかね。ちゃんと戦争画論を書こうとしてるんですかね。わかりませんね。日本美術会は理論家の集まりなのに、やろうともしてなかったし、僕の言ったことがなんのことだったか、わからなかったかも。
ああいう団体っていうのは、あくまで政治論、社会論みたいなことで、事を済ませちゃってきてる頭でしょう。後は社会論とか、一般的な思想論になっちゃったりね。本当に固有の美術論、絵画論がない。そういうことがそろそろ論じられにゃいかんのじゃないの、って我々は言ってましたよ。僕も言ってたしね。主にニッポン展なんか出す方の連中ってのは日本美術会と違ってて、単なる状況論じゃしょうがないだろってことで、もう少し絵画そのものにも現実ってものがあって、そこをもうちょっとやらにゃいかんってのは出てましたね。
鎮西:例えばどなたとか、そういう。
中村:安部さんっていうのは文学の方でね。入野さんとか、桂川、山下、尾藤さん、島田さんなんて人たちは、日本美術会のそういうリアリズムやってきた人たちよりも、ひとつ下になるわけね。かなりそういう、絵画そのものの話ということに、だんだん移ってましたね。
鎮西:先生が書かれたようなことっていうのも、一緒に話したり。
中村:そうですね。吉本さんのところに行ったりして、あんまり絵と関係ないようなことをやったりするので、ちょっとなんとなく離れちゃっていきましたね。むしろこの時、昨日も出た毛利ユリくんとかね。カメラマンですけど。あとこの織田くんなんて、批評やる人とかね。そういう人とか、あと吉本さんとか。吉本さんの家へ行って世間話する程度でしたけどね(笑)。
そういうところの中で、昨日も言いましたかね。三浦つとむさんって言語学者とも会っている。スターリン言語学っていう、また難しいのがありましてね。スターリンって言うのはただの独裁者、政治家ではなくて、すごい理論を持ってるんですよね。スターリン全集ってあるくらいでしょ。あの中に言語論っていうのがあるんです。この時代。今後の芸術の新しい方法論なり思想っていうのは、スターリンの言語学、言語学って一種の表現論なんですよね。言語を分析、解析していくから、そして最後には文字を使う表現というところにいくから。一種の現象論みたいになってますね。ああいう左翼現象論っていうのはなくて、スターリン言語学が唯一ってことで、一斉に芸術系の美学系の人たちっていうのは皆そこへバーッといってます。だから僕らの歳で今はもう、みんな定年で大学なんかにもいなくなっちゃってますがね。そういう人たちでちょっと左翼的な人たちっていのは、皆やってたわけです。
スターリン言語学批判をおやりになった三浦つとむさんの書いた言語学の本がありますんでが、それと吉本さんの『藝術的抵抗と挫折』(未來社、1959年)なんてのを読んだりするわけですよ。吉本さんの話なんか聞くと、勉強してるな、この人といると勉強になるな、と思いました。だからちょっとそっちへ傾斜しちゃいましてね。しかし、だんだんそういうところからも離れましてね(笑)。だんだんしんどくなってきましてね(笑)。
鎮西:観念絵画とかにいかれるんですか。
中村:観念絵画っていう言い方ね。そうですね。間もなく64年にそんな言い方をしまして、中原佑介企画なんて言って内科画廊、ありますね((注:「中村宏★観念絵画」展、内科画廊、1964年2月17日—22日)。
加治屋:62年に「観念主義絵画」(日本読書新聞 第1179号、1962年10月29日)を、日本読書新聞に。
中村:ああそうか。最初はそう言っていました。
鎮西:一連の赤色の絵画が始まって、61、2年あたりに観念絵画という言葉と結びつくんですね。
中村:これね、ルポルタージュからモンタージュへってことで、作画上、感覚的にやってたんですが、もうちょっと言葉としても定着させたいなということで。ルポルタージュっていうのは現場へ行って、それをまるで新聞記者みたいに見て、それを自分の絵画技術に置き換えて描くってことですから、現場主義のほうが大切。それがモンタージュになると、かなり画面の上での仕事になるので、その辺で自分のイメージなりアイディア、その他記憶的なところも含めて、かなり観念操作が必要になってきますよね。机上プランみたいなもので。画面の上での操作が必要になってくる。その辺を、ちょっと言葉はキザだけど「観念のハレーション」とかなんとか言っちゃってですね(笑)。
藤井:独特な響きとか、字面がありますね。
中村:後になると何を言おうとしたのか、自分でもわけがわからなくなる(笑)。ちゃんと解説を書いておくべきなんだね。とにかく、頭の中はごちゃごちゃ、色々モチーフが乱舞してるわけでしょ。それをそれなりの画面の中で、これを拾ってこう置いてこうするって。その操作を観念操作みたいなもんだから、“観念絵画”って言ったんですね(笑)。そっちを中心にした絵、ということでね。だから抽象画になっちゃうんじゃなくて、モチーフのイメージの中を泳ぎまくる、ということですかね。
藤井:自分の中の念を観るんですね。
中村:そうです、まさに観念で(笑)。それの次には、観光になっちゃう(笑)。というわけで、観念絵画というのは、その程度の意味です。そんな難しいことを言ってるわけじゃないんですよ。
鎮西:念で見たものを画面に描かれているんですか。
中村:それ以前は現場へ行ってそこで拾ってるわけですよ。だから写真撮ってもスケッチしてもなにしてもいいんですけどね。砂川っていうのは、主にそれ。それをもう一回再構成はしていますが、まずは現場へ。モンタージュになると現場は行かない。材料はありますよね、写真とか。文章とか言葉もあるし、新聞紙もある。色々ありますわね。それの方が現場になっちゃって。
鎮西:それで観念になると、今度はその蠢いてる様々な念という方が。
中村:そうですね、そっちに行ってね。記録、記憶されたものがあって、それをイメージとして。あるいは描く時には、言葉は軽いけどアイディアとして、デザイナー的に配置したりするんですよ(笑)。そこはあんまり絵描きもデザイナーも、そんなに差はないと思ったんですよね。
鎮西:そうすると観る人は、例えば画面に描かれているものを観る、おかしな言い方ですが、それは先生の念自体がそこにある、というふうに。
中村:そういうふうになっちゃいますね、このままストレートだと。
鎮西:この頃に自立学校で「読絵術」という授業をされているようなのですが(笑)。
中村:ああ(笑)。実はそのことなの。これも読絵術(どくえじゅつ)じゃ語呂が悪いから、読絵術(どっかいじゅつ)って言ったんだけど。普通は読解術だからね。ちょっと語呂合わせで。読絵術なんて、勝手にでっち上げ的に言って。そのことをしゃべったんです。自立学校とはいえ、皆さん挫折して、ぐじょぐじょになっている時だから、この時代。やたら挫折挫折なんていう言葉が流行っちゃって。そういうことっていうのは結局、皆で集まってぐちゃぐちゃ言い合うって、古傷のなめ合いみたいなことが流行るでしょ、必ず。闘争の後はね(笑)。そのひとつなんだ、これは(笑)。過激であるほど、挫折感っていうのも強いでしょ。その集まりなんですよね、自立学校は。自立なんていう言い方もこれ、吉本さんの言葉。
鎮西:これはどういうものなんですか。
中村:谷川(雁)さん、山口健二、松田政男でしょ。三池炭鉱ってのが九州にあってね。そこでものすごい労働運動があったんですね。谷川雁ってそっちの人で、そこで指導してた人ですね。その方が東京でも活動するってことで。山口さんって僕はあんまりよく知りませんがね。谷川さんと左翼思想でやってた人ですね。それから松田ってのは、映画批評家で定着したけど、デラシネっていうか(笑)。闘争やってて、どこ行っていいかわかんないような人が、まただんだん集まってきて。自立もしてないのにね(笑)。そんなところで、僕はその会には入ってません。とにかくしゃべる奴がいないもんだから、しょうがない。わりと傷の浅い中村を呼べ、みたいになったんでしょうね。いわゆる政治家で政治運動してて、挫折なんて位置にいないもんだから。たかが絵描きですから。だから絵を描いてりゃいい、みたいなとこがあったんだよね。傷は浅い、と(笑)。呼ばれて、お前なんかしゃべれ、でしょうがないから、観念リアリズムとかいう言い方もしてました。観念絵画とか、観念リアリズムとかね。
要するに観念っていうのは念を観る、みたいなことをね。その時はリアルなモチーフってものが常にあって、事前にね。それをどう組み合わせるか、と言って、組み合わせた結果を図像化して絵にするっていう話をしてるんですよね。これは一介の方法でしかないかもしれないけど、実は思想、思想なんて偉そうに言うけどね。そんなもんなんじゃないの、っていうことも言いたかったの。その人なりに事前にイメージが頭の中にあって、それをある程度整理整頓して出す。それを非常に概念的に観念的にやると、一見思想ふうに見えるじゃないですか(笑)。念を観る。図像化したモチーフとしての念を読む、です。
谷川さんっておもしろい人で、そういうふうにやって来た人だけれども、それだけじゃやっぱりダメっていうんで、現場で組織対応っていうことで三池へ行ってね。闘争にもっとも加わった人ですからね。単なる上っ調子の、感情的な人じゃなかったですよね。そういう人がまた逆にこの時代になると尊敬され出しているんですよね。だから山口さんは、その弟子みたいな人だと思うんですけどね。自立学校っていう、自立っていうのは確か吉本さんが自立の思想みたいなことを書いてるんですよね(注:『自立の思想的拠点』徳間書店、1966年)。そっからパクってきたんだろうと思われ(笑)。谷川雁さんて人と吉本さんも、ある時期は仲が良くて一緒にやってるんですよね。同じ詩人でね。そういう時期があったので、吉本さんの言ってる言葉もわりと円満にいただいて使ってたんじゃないですかね(笑)。
というわけで一時、闘いの終わった、ちょっと休息みたいなところでこれが出てきたような気がしますね。その時ふっと思ったんだけど、絵を描くっていう行為っていうのは、そういう時になると逆に強いんですね。位置というか感覚が、そんなブレたりずれたり、挫折だーなんて言わないですよね(笑)。その点、絵を描くっていうのはやっぱり時代を超えちゃう技術というか、フィジックな部分が強いから。どんな観念的な絵でも、描く行為を絵描きってのは持ってるために、かなり救われるんじゃないかと。時代が悪くてもね。そういうところで観ていくと、戦争画もかえっておもしろいかなと思ったりするんですよ。ああいう悪い時代にね。命令で美術をやれなんて逆みたいに思うけども、美術っていうのはそういう中でどういうふうに生き伸びるのか、活用されるのかって技術論がひとつ欲しいですよね。それをやったのが、武谷三男って物理学者をご存知でしょう。
加治屋:はい、わかります。
中村:ね、当然ご存知。あの方の技術論っていうのは当時、一世を風靡して。完全に左翼の人なんだけれども、偏らないで。言ってしまえばマルクス主義的技術論みたいなことは言ってましたけど(笑)。マルクス主義に技術論ってあるの?みたいなことなんだけど、その人はあるはずだってことで、そういう上にのっとって書いた人でね。
そういう中で今言ったようなことは、多分僕も読み齧ったりして、三浦つとむさんと会うとそういう話をしてくれるもんでね。耳学問的にちょっと知ったりして。武谷三男の技術論はおもしろいよ、みたいなことでね。案外、芸術なんかも技術論にも適用できるよ、みたいなことを言われたりしていて。その時に、なぜ技術は時代を超えていくか、とかね。本当に超えるっていうことは、どういうことか。マルクス主義でいくと、超えないはずなんですよね。時代時代で完全に終わって次の技術、新しい技術。本当の歴史はそうなってないじゃない(笑)。それはどうなの、みたいな。だから時代を超えるんじゃなくて、時代についてはいるんだけど、技術自体の持ってる時代性があるんですよ。政治とか経済とは別にね。だからいくつも各々サイクルを持って時代とともに動いてるけど、なにかにぴったりくっつくっていうことだけじゃなくて、主に政治経済にくっつくことで世の中動いたように言うけども。そうじゃなくて技術論っていうのはそれとはまた別箇のひとつの歴史を持ってるから。ずれるっていうんですよ、波が。必ずしも一致しない。政治経済っていうのはかなり密着した形で、同じ波で同じサイクルで行くけどね。技術論っていうのは、もっとサイクルが大きいっていうんですね、波長が。
芸術にも歴史、美術史っていうのは当然あるのに、時代とぴったし合ってない部分があるでしょう。合ってる部分もあるかな。でも現代美術っていう言い方は非常に時代を重要視した言い方ですよね。だけどずれてるんですよね、相当。時代っていうのは連鎖かわかりませんが、主にやはり政治経済あたりを中心にしてね。資本主義ですから。流していく時にずれる。そのずれ方を見るっていうのも、ひとつのおもしろい考えである。そこを全部一緒に、同じサイクル、波で動くようにしちゃってるでしょ今は。あれがいけねぇって言ってるんですよね、武谷は。ずれるところをちゃんと見なさいって言って。芸術、芸術っておっしゃるけども、我々はルネッサンス人じゃねぇって。あの時代がそのまま動いてはいない、と。ダ・ヴィンチほどの天才があの技術は、あの技術は未だに使ってたっていいけど、時代とはもう照合してないと。ずれて、紙の上の技術になっちゃってるはずなのに、すごいってやってるけど、それは違うという。それなりの緩慢だけど、一見時代に遅れたように見えるけど(笑)。このサイクル、波が違うっていうんですよね。高さもサイクルもね。現在はもっと細かい波かも知らんけど、芸術の波って言ったら大きくて濃いから、どっかでずれてどっかで合っちゃうような。そこをきちんと全体の歴史ということで捉えないといかん、みたいなことを書いてるような記憶がちょっとあったんですよね。
上部構造ってマルクスは言いますね、芸術なんかも含めてね。あれは非常に不均等な発展をする、みたいな言い方をしてるんですよ。不均等的発展、なんて言い方で、ちょっとごまかしっぽく書いてるのよ。芸術論なんてないですからね、マルクスには。芸術論ないから、勝手に皆作ってるんだよ(笑)。マルクス主義的芸術論とか言って(笑)。スターリンが勝手に作らせたりしてるの。そこには不均等的発展がある、全部発展しなきゃいけねぇって思っちゃってんです、ああいう世代はね。ある意味じゃ正しいですよね。マルクス主義は、諸行無常ですから(笑)。一辺でも止まらないんですから、すべて動くんですからね。その唱え方をすると、芸術だって空間なんつったって動いてるって論理の上ではしないと、辻褄が合わんからそういうふうに書くという面もあるでしょうけどね。
そういう意味で武谷三男さんという技術論者、これは物理学者ですんできっちりした、フィジックな話ですよね。それとわりと仲が良かった三浦つとむさんという言語学者は、これはメタフィジックな話なんでちょっと違うかもしれないけど(笑)。そこはぴったり合わせてやってましたよね、あのふたりは。そして芸術論ってなに、なんて屁理屈っぽく言って三浦さんなんかのところへ行くと、そういう話をしてくれるんですよ。あんたたちは芸術は絶対、みたいなことを言うけどね、ある作家が勝手に才能で描いてるみたいに言うけど、実はあんなの真っ赤な嘘だみたいなことを言ってね(笑)。時代が皆、生んでるんだよ、みたいなね。偉そうに言うもんだから、皆がっかりしちゃったりね(笑)。
そんなもんですかね。だんだんやる気が失せちゃったり。そんな話をここでするんですよ。もう政治の季節はそろそろ去ってて、ほんの部分になってってるんだよね。こういう人たちってのはね、いわゆる連合赤軍とかいうところまでいくほどの極左じゃないもんで、もうついて行ってないんですよ。特に絵なんかやる人は、無理(笑)。むしろ映画やるようなね、足立(正生)とかああいう人たちね。若松(孝司)とかはずっとついてって、すんげぇことになっちゃったけども(笑)。我々はそっちのほうはあんまり関係なくなっちゃっています。
それで今になったって言うとおかしいけど、立石(紘一)なんかが現れて、僕のところへ脅迫電話をよこしたりする段階に入るわけですね(笑)。結局64年というのは。ちょうどこっちもやることなかったんで、よしやで(笑)。俺は観念絵画とか言ってるけども、じゃあ観光とかにするか、って言ったら、ああおもしろいって言うもんだから、そんなことになっちゃった。本当の語呂合わせで言ったのが、こんなになっちゃって(笑)。僕は半分おちゃらけてましたけど、立石は僕より10歳くらい下の男なんです。この男は真に受けちゃって、観光絵画なんていうのを描き始めちゃってね。本当に観光絵はがき持って来て、描いて配ったりして。
それで中原さんが妙にまたおもしろがっちゃってね。なんか中原さんってね、僕はかなりコテンパンにやったつもりなのにね、「タブローは自己批判しない」で(笑)。だけどなんとなく内科画廊を紹介してくれたりしてね。
加治屋:1964年初めの頃ですよね。
中村:内科画廊が発足というか。「観念絵画」展なんてやったのが、1964年ですね。この時は中原さんが紹介してくれたんですよ。内科画廊なんて僕はコネもなんにもなかったんで。あそこは空いてるから、なんかやれみたいなことで。その時に真っ赤っかな絵をね、画集にある《国家論》だとか《血井》とか、その他ありますが。赤い絵だけ並べたんですね。
鎮西:そうですね、中原佑介企画という。
中村:うん。中原さんって左翼なんか好きでもないし、思想なんていう言い方も嫌いな人なので、そういうのは一切関係なしに観念絵画っていうのを扱うよって言って。「赤いユーモア」(注:「中村宏★観念絵画」展リーフレットに中原佑介が寄せたテキスト)とかなんとかね。そういう言い方をされて書いてくれましたけど。それをきっかけにして立石くんと、ちょっとしばらくこの年は。2年くらいやりましたね。66年くらいまではね。
立石くんはそれなりに成果を収めたんじゃないかなと思うんですね。赤塚不二夫って漫画家のところに弟子入りしたりね。そこを飛び出して、今度はイタリアへ行ってオリベッティかなんかの広告を自分で描いたものを売り込みに行ったんじゃないですかね、多分。同時に自分の描いた絵も持って行って、一生懸命画商さんなんかに売りつけようとして動いていたようです。ところが結局すべて単独で行ってね。イタリア語もできないのがうろちょろ(笑)。それで食いつぶして帰ってきちゃったのよ。帰ってきたら、急にまた観光って言い出して、漫画絵画ですよね。(作品の画面をコマのように)区切るような。急にあれをやり出したのね。それを持って帰ってきて、そうして今度は中原さんがまた彼の企画を立ててやって。それなりの作品を作ったんじゃないですかね。彼の業績を認めたということで。
加治屋:先生が立石さんとなさったのは、まず最初に宣言を出されて、多摩川の河原で野外イベントを一日行ったということですか。
中村:そうです。ここ(年譜)に書いてある程度なんですね。この時代、小グループだらけでね。遅れを取ってるんですよ、この会は。僕もそういう世代じゃないので、やる気がなくて、立石にせっつかれてしょうがなくて動いたんで(笑)。ちょっと後発なんですよ。
藤井:でも先生の中では遅れを取るとか、あるいはほかのグループが一緒にパフォーマンスだとかイベントだとか、色々なことをやっているのに対して、あくまでも遅れを取りつつ絵画にこだわるみたいな感じで。そういうところを、結構大事にされているというふうにお見受けするんですけど。
中村:そういうふうに取っていただけると大変嬉しいし、ありがたいです。ところが窮余の一策で(笑)。もう現代美術その他、ネオダダ系なんていうのは、やり尽くしちゃってるでしょう。もうやることないんですよね。立石もそういう中へ入る誘いはあったようです。ところが、武蔵美は出てても絵とか芸術系を出てないんですよね。職業科みたいなところで。それでほかのグループを見ると皆、芸大出だとか武蔵美だ多摩美だってんで、ギンギラしてるじゃないですか。そういうところへ行って、バカにされる可能性もある。歳も一番若かったんじゃないの、当時ね。それで、どうもひとりでぷらぷらしてるような、なんや知らんが鴨長明みたいな野郎がいるなっていって、俺のところへ来たんじゃないかな(笑)。あいつなら乗りそうだ、って。自分に対してね。まんまとひっかかった、彼に言わせりゃね(笑)。
だから2年やって十分って思いましたよ、僕も。もうなんとなく彼は、最初から腰が浮いてるんだもん。眼は泳いでるし腰は浮いてるし。ああ、俺を見てねぇなってもうすぐわかってね。もっとハイレッド・センターとかネオ・ダダとか、そういうふうに話題をつくりたくてウズウズしてるわけですね。だから早々にして、っていうことで。赤塚不二夫のところに行った。あの人と組んだらあの時代、強力ですよね。美術も芸術もないですよ。もう漫画っていう世界でギャーっていけたんだけど。戻って結局タブローで漫画をやるっていうことで、これまたパロディ絵画みたいなね。これまた中原佑介が、よせばいいのにレッテル貼るわけでしょ。ああ、それだそれだみたいになっちゃっているということなんでね。妙に中途半端だから受けちゃったんですね、あれ。漫画でもない、タブローでもない。だけど両方くっつけててね。一種の異種配合みたいな。怪しい部類。それが妙に評判を取りましたよ、彼は。
加治屋:話がちょっと戻ってしまいますが。多摩川の河原で野外展(注:第1回観光芸術展 多摩川河原(日野市付近の中央線鉄橋下)、1964年3月)をなさるっていうのは、どういうきっかけで。当時、野外で展示をするというのは、そんなに多くないですよね。ギャラリーの中での展示はもちろんあると思うんですけど。
中村:展示ではない、パフォーマンス。当時はハプニングって言って、それは大流行りですよ。もうハイレッド・センターも、そこから始まってんです。ネオ・ダダも。読売アンデパンダンに出してた連中だから、オフ・ミュージアムね。ああ、その辺は(藤井が)一番詳しい。
藤井:ふふふ。
中村:オフ・ミュージアムっていうのは、まさに野外でやってもいいみたいなことがあって。
加治屋:でも「オフ・ミュージアム」展は画廊ですよね。
中村:そうなんですよ。
藤井:展覧会自体は。
中村:展覧会、そうなのよ。オフ・ミュージアムっていうのに、小型ミュージアムとしてやって(笑)。
鎮西:つまり河原。ギャラリーとかね、どこかの場所を借りて、その室内でやるというのではなく、わざわざ河原に。わざわざって言ったら変ですけど。河原で、っていうのは?
中村:まぁわざわざだけど。というのはね、きっかけは立石紘一っていうのが読売アンパンに、ブリキで作った富士山を出すはずだった。ただ読売アンパンが、丁度やめになる年だったのね。結構でかかったんですよね、4×7メートルくらいあったんですかね。ブリキでバラバラに作って、組み立てるようになっていて。そんなものを出品するべくいて。上野の美術館は広いので、飾れたんですよ。4×7mで、壁にギリギリ入ったの。さぁそんなもの収容できる場所ない。それで野外になったの。。
一同:(笑)
中村:ないですよ。美術館にコネあるわけじゃない、ブリキで富士山作ろうなんてアイディアもないしね。興味もないしってんで。さぁ困った困ったって、最初の候補は晴海ふ頭。あそこだったらバカ広いからいいだろうって(笑)。調べたら、あれは都の公共のものなんですよ。で、許可がいる。あんな富士山置いたって、許可になるわけがないって。さぁ困ったって言ってね。もう一カ所、どっかあったような気がする。川崎かなんかかな。森の中か山の中っつって。言ってるうちに、誰が言い出したのかな。多摩川の日野の河原ね。あそこは荒地になってて、誰も来ないけれどもうるさい許可制なんてないようだ、っていうことでね。多分立石が見つけて来たんだろうと思うけど。僕は全然動いてないからね。無許可でやっちゃった。後になると、やっぱりあれは都のもんらしいですね、あの辺までは(笑)。許可がいる。だからさっとやって、さっとゲリラの如く帰ろうって。1日どころか数時間しかやってません。その日行って組み立てて、夕方頃になって捨ててきちゃったのかな、全部(笑)。もうこんなもの、持って帰ってもいらないってんで、立石の富士山は全部捨ててきちゃったの。
鎮西:先生の作品は。
中村:僕は井戸ポンプを持ってったから、それは持って帰って来たけどね。僕はほとんどなにも持ってってない。彼のヘルプをしただけで。やる気もほとんどしなくて。8ミリカメラを適当に回してただけですけれどもね。
加治屋:8ミリは残っていますよね。
中村:いやあれは(笑)。
藤井:今上映しています(注:インタビュー当時、東京都現代美術館の常設展「MOT Collection: クロニクル1964-OFF MUSUM」に出品中)。
加治屋:ああ、そうですか。
中村:あんな変なものね(《DAS KAPITAL》1964年)、上映してくださってますか(笑)。あれは立石の富士山をいかにして、ともかくやったって事実だけでも記録に残したいというのがあって。多摩川の場合はね。だから彼としては初期の目的はちゃんと達してるし、良かったんじゃないかと思います。捨ててこようが、なにしようが良かったんですよ。後で中央線(の車窓から河原を)見たら、残骸があった。走ってる中央線ですがね。そっから観た人も何人かいるようです。なにやってんだろう、って。それも実はちょっと計算に入ってたの。誰もあんなところ来ないだろう、だけど電車が走ってるから、中央線が。あそこから絶対見えるに違いないって、比較的鉄橋に近いところに作ったの(笑)。その辺はかなり、単なる広場じゃなくてね。意図的でした。中央線の乗客が鑑賞者であるってことも考えてましたよ。東野さんとか観に来てくれてね、わざわざ(笑)。サム・フランシスとかね。なんにも興味なかったんでしょう。なんじゃこの野郎、バカにしやがってってのはあったと思います(笑)。
一同:(笑)
中村:立石は熱心に説明してましたけど。説明なんか必要ないんですよ。ブリキの富士山が立ってるだけだもんね(笑)。そんなもん説明するだけ、バカにしやがってになっちゃうよ(笑)。ということです。
藤井:でも先生、観念絵画とか観光絵画っていわゆるほとんどレッテル貼りが、わりとお好きでいらっしゃる(笑)。
中村:ええ、好きですねぇ。レッテル貼り大好き(笑)。良く言えばネーミングですよね。言葉。これは重要だと思っていた。
藤井:造語みたいな。
中村:うん、造語。それから、キャッチフレーズ。こういったもんが前提にあると、ものすごく絵の発想がバーッと出る男なんですよね。だからこういうものを描けっていうのは、ダメなんですよ私は。デッサン力はないし、描写力は下手だしね。つまりね、そういった挿絵みたいな文学や小説があって、それを従前に説明するために描くっていうのもいくつかはやったことがあるんですが、結局それもうまくはいきません。挿絵画家みたいに、ストレートに説明するっていうのもダメなんですね。だからと言って、文字、フレーズみたいのは否定しない。それはあって、それをどうやってヴィジュアルっていうか、図像にするかっていう辺りで燃えるんですね、私は。ええ。だからこの辺でやたら(笑)。
藤井:やたら造語が多いんですね(笑)。
中村:申し訳ない。訳分かんないような時があったり。
藤井:造語と先生の創作っていうのが、どういうふうに結びつくのかなと思ったんです。
中村:ああ、なるほど。そうですか。実はそういうことなんですよ。だからこの中で化学反応が起きるんですよね。例えば「タブローは自己批判しない」って言うと、図像になって出てきたり。
藤井:図像!
中村:ええ。こういう図像。あ、これやればどこにも属さないで、おもしろいから話題になるな、みたいなことでビャっと結びついて構図が出てきたり(笑)。
鎮西:それはおもしろいですね。
中村:言葉がないと、それは出てこないね。それであんなストーリー性のある小説みたいな、長いもんじゃダメなんですよね。本当に短いキャッチフレーズみたいなもんでいいんですね。そういうのってね、あるんじゃないかと思うんですね。近現代が入り混じっちゃって、非常に過渡期みたいに難しい時代っていうのは、なんかあるような気がしてしょうがない。そういうふうなものを感じる絵っていうのは、僕は好きですね。ピカソの《ゲルニカ》とか。
鎮西:ところでこの時代だと思うんですが、セーラー服の女の子が出てくる時期ですよね。
中村:実は(笑)。観光芸術のきっかけですよね。観光芸術って言っても、立石はどんなイメージでやったか知りませんが、僕は観光っていうと修学旅行ってのがぽっと浮かんだの(笑)。だから修学旅行、観光。自ら観光へ行くなんて、そんな贅沢な時代に育ってませんので。観光って言い方自体も後ろめたいんですよね。贅沢者、金持ちのやる道楽。
鎮西:その時に観光と言われるようになってきたんですか。
中村:やっとこの辺から言われてきて。観光って言い方も、ちょっと後ろめたい。ちょっとご法度的なところがあるから、わざと使った面もあるんですよ。嫌がらせで。芸術の中で観光って言ったら、貶す意味で。この絵、絵はがきじゃないの?なんて。ほら、日展さんあたりのきれいな富士山見ると、なんだこれ、絵はがきじゃねぇかって。貶す意味で使う。絵はがきが観光に結びついてますわね(笑)。だから観光芸術って言ったら、現代美術の周りの人は本当に意外だったと思います。ご法度を良しとしてるんだもんね。
鎮西:悪口というところからっていう。
中村:悪口をそのまま頂いちゃうとか。キュビスムもそうですよね。そういうエピソードなんかを知ってたもんでね。ちょっと嫌がらせで。よし、じゃあ観光で行こうって(笑)。立石もそういうの好きなもんで、喜んじゃって。というわけね。そういうことから。やっぱりその時も言葉が出てきてね。彼もそういう要素があったんですかね。観光っていうふうに言われたんで、急にダーっと展開できたんじゃないですか。漫画だけじゃあそこまで行けなかったと思うんだよね。ところがタブローへ1回戻って、またその漫画の場面を拡大して、合体して非常に、一種異様なものができたんでしょうね。
鎮西:特にいわゆる観光芸術という場合は、観光というのが先にありということだと思うんですが、一番先にできた。
中村:それなんですよ、最初に観光ありきなんですよ。だから立石はそれで絵はがきみたいなのしか浮かばなかったんじゃないですか。非常に紋切型にね。で、僕は修学旅行しか浮かばなかった(笑)。そういうことだよね。《修学旅行》(1964年)っていう題名の絵があって、今どっかに行っちゃいましたけどね(笑)。
鎮西:外国に(注:プライス・コレクション)。
中村:大した絵じゃないですよ、下手くそなね(笑)。一晩か二晩で急いで、展覧会やるんで。瀧口さんかなんかが主催して紀伊國屋(画廊)で、何展だか忘れちゃった(注:アートクラブ展 古今東西芸術決定版展、紀伊國屋画廊、1964年5月11日—16日)。誘いがあってね。その時に描いた絵なんですよ、50号くらいかな。パパッと描いて急いで持ってって。ということで、セーラー服イコール修学旅行、イコール観光ってなっちゃたの。あんまり深い意味はありません。
加治屋:路上歩行展(注:1964年4月)っていうのが東京駅であるわけですけど、これはどういう感じのものなんですか。例えば時間帯とか。一周した、カタログの方だと半周したというふうに書いてあるんですけど、どういうパフォーマンスをされたんでしょうか。
中村:ああこれね(笑)。実は東京駅八重洲口の方ですね。あっちから始めて。最初は確か一周しようということになったんですが、これは後で記録してるからそういう話になってますが、とてもとても一周なんかできない。100号をこうやって持って歩くってことで、ちょっと甘く考えてましたね。100号って(笑)。
加治屋:重くて。
中村:重くて、くったくた(笑)。ここでは半周なんていきがって書いてますが、実は100mくらいです。丁度通勤時間でね。その通勤の人たちに見えるように掲げて、群衆の中で一緒に歩いてるんですよね。だからただサンドイッチマンがバカなことやってる、くらいにしか見えなかったんだろうと思います。大勢いるサラリーマンたちはね。目立って動いてないですよ。絵看板を運んでる程度(笑)。
加治屋:写真は拝見しました。
中村:あんなふうです(笑)。路上歩行展というのは後で僕が命名したのかな。その時は別に名前があってやってるわけじゃないですね。ただいろんな、ネオ・ダダさんとかがやってる、モヒカン刈やるだとか、素っ裸で走るなんてことは僕の趣味じゃないし、彼も趣味じゃないって言うから。じゃ、てめえの絵をぶらさげて歩こうっていう(笑)。それだけの思いつきです。
鎮西:やっぱり絵なんですね。
中村:やっぱり絵でやろうってことでね、その時も。一種のパフォーマンスには違いないのに、絵をそのまんまを持って歩くという(笑)。
加治屋:人に見せるっていうのがあるんで、人ごみだというのはわかるんですけど。なんで駅なんですかね。
中村:やっぱり人が多いからっていう。圧倒的にね。道でもいいんですよ、無論。いいけど、どこにどういうふうな人間がどれだけいるか、良くわからないじゃないですか、見せるっていっても。やっぱり道っていうのはまとまりがないし、ダーっと広がってますからね。駅前なら比較的いいだろう。東京駅っていうのは、もう新幹線が走ってたんですよね。だからそれとこじつけて(笑)。時代に乗っかろうみたいなことで、新幹線、東京駅、八重洲口。古臭いタブローをそこに沿えたらどういうことかな、って。丁度うまくカメラマンの人が撮ってくれたんですかね。あれも確か立石の良く知ってるカメラマンだったんじゃないでしょうか(注:撮影=平田実)。あの時は関係者なんてひとりも見には来ていませんからね。宣伝もしてないし。全員サラリーマンですからね、ちゃんと真面目に歩いてる。見てたんだか見てないんだか(笑)。
藤井:写真で見ると、静かそうな。
中村:場所が?
藤井:状況が。あんまりわーっとなってないですよね。
中村:なってない。お祭りじゃないもん。ただひたすら続々駅に向かって皆、一斉に一定の方向にね。出勤。
藤井:じゃあ、逆に見せてる?
中村:そう逆に持って同じ方向に歩くのと、対向して歩くのと、2枚あるんですよね。対向してる時は、前に向けてるのかな。一緒に歩いてる時は、一緒に歩いて(笑)。一応見て欲しいっていうのがあってね。ところが見てないと思う(笑)。サンドイッチマンって、あの時代結構いるんですよね。それのちょっと大きいのと思えば、特別ね。僕らも歩いたから、それほど邪魔にもなってないですね(笑)。だからやめるチャンスに困っちゃってさ(笑)。次々押してくるから。早く横へ行って下ろそうじゃねぇかで(笑)。確か休憩したところも写しているかな。ああもう二度とやだって、ぐたーっとしゃがんでるところがあるはずです(笑)。
藤井:新幹線が開通して、オリンピックに向けて一応世の中変わっていく、そういう政治的なことっていうのは狙いの中にもあったんですか。
中村:それはもう最初から明快にありました。わざと古くしようって。立石もダリのクソ真似したような肉の破片みたいのを描いたような、非常に古臭い絵を描いてるんですよね。僕も新幹線をまともに描いてる(笑)。なんだこりゃって絵を(笑)。小学生が喜びそうな絵を描いて。恥ずかしい話でね。よくやるよ(笑)。
藤井:でもそれで残ってますよ。こうやって(笑)。
中村:残って、こんなことやったのって(笑)。ちょっとね、あれはほんの妥協みたいなことで。でももうほとんど、ああいうのは終わってたんだよね。各グループが色々街頭でやるっていうのはね。最後のとどめにならんような、成れの果てみたいなことでやってますんでね(笑)。あんまり我々も乗ってない感じでやりましたね。僕なんかもう、嫌で嫌でしょうがなくて。オリンピックにも変な形で、ちゃかしたようなことをやってるんですよね。ここには書いてないかな。
藤井:書いてあります。ドーナツ食べてる。
中村:書いてありますか(笑)。それそれ。そんなのもこの延長でね。
加治屋:これは『ある若者たち』っていう。テレビ放映されたっていうのは、どちらが先なんですか。向こうからそういう話が先にあったんですか。それとも。
中村:先にありました。長野(千秋)さんという映画監督がいてね、ドキュメントの。その人がテレビ会社と結んで、オリンピックに関わるような、ちょっとパロディ的なものがあればっていって。結構、上はオノ・ヨーコさんから下は我々まで、ぐしゃぐしゃっとありましたよね(笑)。オリンピックにちなんでって言うから、困った困ったで。最後はしょうがないから、五輪マークをドーナツにして食おうじゃねぇかみたいなことで。それで食うからにはでかいほうがいいだろう(笑)。パン屋さんで作ってもらって。結構大きかったよ。それをここへ置いて、ナイフとフォークで。オリンピック公園ってありましたかね。
加治屋:駒沢の。
中村:駒沢ですね。そこの石段かなんかの上で撮りましたよ。やっぱりドーナツってその時わかったけど、ちゃんとあの大きさでなきゃダメなんですね。こんなことしたらね、もう油っこくて。油だらけでブヨンブヨンで、食えたもんじゃないよ(笑)。不味い!不味いって言えないもんだから、しょうがない。立石はパクパク食ってたけどね、私はダメでした(笑)。うぇーって出すわけにもいかんし、まぁ。
藤井:辛い。
中村:辛い辛い。もう早く終われ、早く撮っちゃってよって(笑)。悲惨なもんでしたね。せいぜいそんなもんかな。(年譜を見て)「オリンピックとは食べることである」?(笑)。なーにを言ってんだか(笑)。これは僕は作ってない、このフレーズは。これは立石。ダリがこんなことを言ってるんですよ。芸術は食べること、とかいう言い方をしてるんですね。それをモジってね。エッセイ集みたいなの、ありますよ。それから持ってきたんだと思いますね。
後は土方巽さんっていう暗黒舞踏の人、ご存知ですね。あの人とわりと私は関わりが深いんですよ。ほとんど書いてないね。8ミリ撮った(注:《肉体の叛乱》1968年。土方巽舞踏公演《土方巽と日本人 肉体の叛乱》1968年10月の舞台記録を撮影)です。
鎮西:その後の舞台美術を少しされるようなことって、なさいませんでしたっけ。
中村:舞台美術やれって言って、それらしい動きはしましたが、実際は舞台美術なんかやってません。舞台美術、中村宏なんて書いてあるポスターはあるけど、なんにもやってない(笑)。結局後で聞いたらね、土方さんって人は自分で気に入った名前を並べちゃうんだと。それで適当に入れちゃうと。全部自分でやる人ですよ、あれ。舞台美術から振付からライティングまでね。誰かに頼むなんてことはしない。それで、あれはなんなの?って聞いたら要するにあんたの名前を並べて前衛の絵描きも一緒にやってるよって見せりゃいいだけだってことで。中西夏之くんも、結構そういう形で利用されて(笑)。彼は結構オブジェみたいのを持ってて、舞台にぽこっと置いたりしてることはありました。それからアイディアだけ出して、真鍮板ぶら下げているのとかね。あれ皆、中西のアイディアです。ところがあんなものは舞台美術とは言わないよね。オブジェを置いただけだもんね。だけど舞台美術とか、舞台美術監督とか(笑)。なにも、ひとりでやるのに監督もクソもねぇよな。そんなふうにやる人だった。なにをやるんですか、って言ったら、いやなんにもしなくていいからって。で、ポスター見たら名前があるという(笑)。そんな程度ですが、個人的には結構。土方さんは飲み食い好きで、自分の住まいのアスベスト館という稽古場へ、それらしい人を呼んでは飲んだり食ったりして、一晩中べちゃべちゃしゃべるんですよね。
鎮西:最初のきっかけというのは。
中村:きっかけはね。あそこにお弟子さんの芦川羊子さんっていましてね。この人は女性で、女性の弟子でしたね。この人が女子美出てて、画学生だったのね。それをやめて土方さんにどっぷり浸かって踊り始めた時に、やっぱり絵心があるんで。僕の画集(注:『中村宏○画集 望遠鏡からの告示』)を、出版社の現代思潮社のね、石井(恭二)さんという社長さんあたりからもらったりしてて、それでおもしろいと思って、あなたの絵を土方さんにって。それに出てない?
鎮西:出てます。
中村:芦川さんが言ってきたの。あの画集を持って、これをなんとか踊りにできませんかね、って言うんだけど僕は全然わからないから、どういうことですかって。意味不明だったんですね(笑)。実はできるんですよ、と。土方さんも今まで岸田劉生とか、麗子像を。あなたの絵、《観光帝国》(1964年)とか《修学旅行》(1964年)を振付に土方さんに頼んで、舞踏にできるって彼女は言うもんで。ああどうぞ、できるもんならやんなさいって(笑)。その時に土方さんに紹介してくれたの。この絵を見せてね。これならできる、とか言って。へぇー、そういうもんかねと思ってね(笑)。全然わかんない(笑)。岸田劉生の麗子って絵を振付けて、そうしたら中嶋夏さんっていう人にも踊らせてるんですよ。土方さんの振付で。だからおもしろいセンスを持ってるの、あの人は。
鎮西:先生、ご覧になったんですか。
中村:ええ、本番踊りますわね。それはもちろん見ました(注:D53264機にのる友達ビオレット・ノジエイルの方へ つねに遠のいてゆく風景 PACIFIC231機にのる舞踏嬢羊子、草月会館ホール、1968年8月3日)。呼ばれまして、貴賓席に座って(笑)。貴賓席なんってったって、一番前ってだけでね。最後に舞台の上に立ってくれって言って。振付の最後がね、彼女がばったり倒れて死ぬらしいんだよね。死んだら死体だから、そこへ花を持ってって、置いてくれと。花を持って出てきて置いてひっこむことを、あんたはやってくれと。突然ですよ。呼び出しくらって。もう逃げられないから、しょうがない。やりましたよ。なにも踊りとかは一切なしですよ。ただ花を持って置いてひっこめばいいって言うから。裸になるんですか、そんなのは嫌だって言ったら、いやいやいや、そのままでいいって言うから(笑)。裸でおしろいベタベタなんて。それはもうダメですって言ったら、いやもうそのままの格好でいいって言うから。その方がかえって舞台としておもしろいって言うから、それだけですがね。後ろで観てた人に聞いたら、スポットライトなんですよ、真上から。死体を映してるわけで、そこへ僕が花束持って入っただけだけど、なんだか良かったとかぬかしやがって(笑)。
土方さんの踊りってそういうもんなのよ。区別しないっていうかね。あえて舞台舞台してなくて、舞台がその辺の夜の道路みたいなもんで。だから観てる客の方が、いかにも劇場にいるって気分でしょうげども、舞台の上は普通の通路みたいなね。道路上のようなふうにして。装置なんてないんですよ、一切。舞台美術なんてものは、ない。それがあの時代、逆に非常に新鮮だったんですね。意味も良くわかんないけど、でもあまりにも簡素でなにもないから。なんかおもしろいね。家の中と外が一緒になっちゃうような、そういうイメージ。街頭に夜、こうやって座ってるような錯覚にだんだん陥ってね。本当に芦川羊子さんがだーっと寝てるから、死体のように見えてくるんですよ。だから僕はその辺の普通の通行人っていうことでいいって言うから、なるほどなと思って。
そんな訳で、アスベスト館でも土方さんにちょっと祭り上げられちゃって。No-Olimpic(東京No-Olimpic、アスベスト館、1964年10月11日)って。ここには書いてない(笑)。あんまりバカバカしいから。オリンピックをちょっと文字って、No-Olimpicってんで。会場はアスベスト館、集まれってんで。だからもう、あんまりバカバカしいからやめた(笑)。もういいやって。観光芸術として参加してくれって言うから、じゃ立石くんよ、なんでもやって来てくれと言った(笑)。私はコルク銃って言うんですか、射的の銃を持ってたもんで。お祭りでやる銃があるじゃない。コルクが飛び出すね。あれの結構もののいいの、持ってたんですね。それを貸し出しましてね。これをぶっ放してこいよ、とか言って(笑)。それも延長なんですね、駒沢でやったのと。長野千秋さんって人の映画、ドキュメントですか。そこへ参加したっていうのも、観光芸術としてなもんで。それも本当は書かなきゃいけないんだけどね。ちょっと書いてありません。あまりにもつまんないから、そこはちょっと端折っちゃってますけどね。
それでやってるうちに、また立石っていうのは無礼な男でね。いつのまにかどっかへ行っちゃってわかんなくて、もう僕のところに泊まっていくくらいベタベタしてたのに、ある日ある時いなくなっちゃって(笑)。どうしたんだろうと思ったら、奥さんかな。奥さんから電話がかかって来て、イタリアへ行っちゃったとかなんとか言って。ええ!って。その前に赤塚(不二夫)のところにしばらくいたなんて。後になってわかって。それ以降はもう没交渉になって。いつのまにか消えるように、終わっちゃったっていう。僕ももう、ああいう騒ぎにつき合うのがしんどくなってね。ああ、やれやれ、これで分かれられるかみたいになりましたんで(笑)。丁度良かったんじゃないかっていう。それで僕はそれ以降はあんまり、観光っていうんじゃなくてね。まとめとして、(中原)佑介さん、これ『美術手帖』でこの時に、確かこれに書いたと思うんですが(注:「《観光芸術問答》 往復書簡による」『美術手帖』第270号 1966年7月号)、「美術の中の4つの“観光”」とかいうのがあって。
加治屋:1966年の。
中村:そうですね。その時篠原有司男が。そっちには書いてありますか。
加治屋:4月に「美術の中の4つの“観光”」展(ギャラリー西武、1966年4月15日—27日)をなさったと。
中村:それですね。それを西武でたまたま、西武デパートってのが池袋にありまして。そこに小さな画廊があって、西武企画で大きな展覧会だと思ったら違って。小さな画廊が空いてるから、埋めるものはないかっていう相談だったんで(笑)。篠原有司男っていうのと、横尾忠則にヘルプ願ってね。それで立石と僕と4人で、なんとなく観光っぽい4人だからさ(笑)。それを中原佑介が来て、おもしろいって言うもんだから、じゃ往復書簡でもやるかって(笑)。それで『美術手帖』に持ってったら、ええよええよで。まぁのんきな時代で。企画もなにもなかたんでしょうね。なんでも持ち込めば、いいよいいよって言う時代じゃなかったのかな(笑)。という訳で、ここで中原さんとの往復書簡。これは立石に黙ってやっちゃったもんでね、あいつもちょっと怒ってたらしいんだけど。自分の考えはもうちょっと違うって。まぁそんなことはどうでも。彼はもう漫画の方へ行っちゃってたからね。もうそれ以上は文句言ってこなかったけどね。
鎮西:そうするとおふたりでされた最後っていうのが。
中村:ここにはないけど、アスベスト館でやったNo-Olimpicじゃないかな。明治大学和泉校舎というのがある。
鎮西:No-Olimpicはやっぱりオリンピックの年ですか。
中村:そうです、多分。それから和泉校舎はオリンピックの前かな、後かな。ちょっとこの辺が。
藤井:この64年5月の「明治大学和泉祭」(創造のための破壊展 観光芸術とは何か、明治大学和泉祭、1964年5月31日)っていうのがそれですか。
中村:そうだ、多摩川の続きで出てますね。多摩川でやったのを、ここの自治会かなんかが知ってね。おもしろいとか言って立石のところに話を持ってきたの。これも2人展やってます、どこだったかなこれ。あるんですね、こういう大学がね。
鎮西:翌年の東京芸術柱(東京芸術柱展、東京都美術館、1965年7月2日—10日)って出てきますが、これが最後なんでしょうか。
中村:ああ、これ。1965年ね。
鎮西:芸術柱(げいじゅつはしら)って読むんですか。
中村:我々は「げいじゅつばしら」って呼んでた(笑)。
鎮西:ずっと「げいじゅつちゅう」って読んでました。
中村:どっちでもいいんですよ(笑)。柱っていうより、あれは塔だよとか言われたりね。この時も、確かに彼は共同制作した3×6のポスターがあるんですよね。それを貼っつけましたね。これがほとんど最後かな。あと10月に奈良女子大云々ってのがありますが(年譜1965年「奈良女子大学学園祭のポスターを制作するが、図柄不穏当の理由で廃棄処分になる」)、これは僕が単独で行ってます。観光とは関係なしにね。芸術柱ってのも、相当彼はつきあい的にやった感じだな。彼はもう心ここにあらず、で。漫画の方へ頭が行ってましたからね。
鎮西:この辺りの赤瀬川さんとの関係というのは。
中村;ハイレッド・センター云々ということでは、僕はほとんど関係ないんですよね。千円札裁判には瀧口さんが弁護団長とかやって。そういう時に意見を言える人って呼ばれたりして。どこの喫茶店だか忘れちゃったけどね。そういうところへ行ったりしてるうちに、原平さんと親しくなったと思う。その前にハイレッド・センターとか言って、山手線一周のハプニングがあったっけ。
藤井:それは1962年。
中村:日常的に会ったりはしてません。ほとんどそういうのはないですね。どうも馬が合わなくてダメで。日陰の方が僕は好きでね。尾藤さんのところで飯食わしてもらったりね。大塚さんのところでも。本当にこういう左翼の人たちっていうのは、やることは過激だけど、心は優しき天使ですよね(笑)。本当に皆さん、寂しがり屋なのかな。同病相憐れむっていうか。皆、弱いから。なんか古傷なめ合うのは、僕にはいいですね(笑)。ギンギラギンギラ、日の当たる場所で常に話題をまき散らす。そういう中っていうのは、眩しくてダメなんですよ僕は。だから原平さんとか中西さんとかは眩しくてね。しんどくなってきちゃって。瀧口さんに対してもそうでした。その点、不思議と吉本隆明さんとは妙にウマが合ったっていうかね。行ってもそんなにイライラしないですね。
鎮西:その中でも気さくな方だったっていうのは、結構あるみたいですよ。
中村:僕らみたいなペーペーと話す時は、そんなに構えた話なんて一切ないから、非常に心休まる雰囲気ですよ(笑)。埴谷雄高さんもそうですよ。文章書くと、本当に雲の上みたいな人に思われるでしょう。直に会うと本当にいい人。蕎麦くらいは奢ってくれるし(笑)。貧乏な若造よ、蕎麦くらい食え、みたいなもんでね(笑)。皆、優しいですよ、左翼の人って。そこへつい、べとーって私は貼りついて。一見モダニズムで恰好のいい連中っていうのは、本当はおっかないね。自己中心的でやるでしょ。これがちょっと話しても通じなくてね。そんなの関係ねぇよ、なんてすぐに言ったりしてね。自分だけのレールを引いて、その上を突っ走っていって名を成していくんですよね、モダニズムは。これは私はダメです、そういうのは全然。体質的にダメなんでね。気が合った連中っていうのは、この辺ではいませんね。立石くらいなもんかね。彼はもう新人で、ほとんど無名だったから良かったけど。彼も評判取ろうとしたために、僕から離れて行ってるんでね。それはそれでいいと思うので。どんどんやればいいわけですからね。だから、その後はいません。親しくつき合ってる作家なんていうのはね。学芸の方の方たちとのほうが、むしろ話しますよね、こうやって。
藤井:しますね。
中村:藤井さんはよく知ってると思うけど。結構つき合う人だから。
藤井:つき合いますよ。仕事のうちですからね(笑)。
中村:仕事のうちで、我慢もあるでしょうけど(笑)。ちょっとイライラしない?
藤井:しませんよ(笑)。
中村:ほう。じゃあ、あなたもきっとそっち系の人なんだな(笑)。
藤井:日が当たってない(笑)。日陰と日向の境目にいるんです。
中村:ああ、丁度いいところだね(笑)。両方に行ける、いいね。それもなかなか難しい。そんなことでね、青美連やルポルタージュ運動に誘われていって、檀上に並んでいる人々は絵描きにも見えないし。言ってることは政治の革命の、なんて言うからね。一体なにを始める気なんだろう、って。ちょっと来る場所間違えたかなって思ったけども。でもね、絵の話をすると思ったらしないんだよ。青美連は革命運動をやる、それの一助を願うみたいな。その末端で絵描きも動かなきゃいかん、と。時代は非常時だ、と。
そこへ絵を描くなんていうことになって、どうやっていこうかなって思ったけでど、戦争画家っていたでしょ。あれも戦争って非常時の中で戦争を描くって言うことの意味が、この時僕はちらっとわかったような気がしたのね。革命は内乱みたいなもんでしょう。その時に絵を描く、あるいはルポルタージュやりながら表現活動をやるってことは、ミッション感覚がなければできない。これは戦争画を描くっていうのと似てて、戦争画を描いた画家たちを必ずしも頭からダメって言えないなって思ったり。革命っていうと理論的にはやっぱり最後はマルクス主義が出てきたり、共産党が出てきたり。ああいうのは最後は少数になって、ほとんど自滅に近いようになっていく。
はっと思ったのがヨーロッパのイコン。あれを描かせられたのも、キリスト教に対する殉教。坊さんの仕事のひとつとして、お祈りする意味で描いてるんですよね。人間が描いてるんじゃなくて神の手を借りて描いてるのがイコン。だから手の癖みたいなタッチとか、ああいうのは皆消していく方法ですよね。それにもちょっと似てる部分があって、宗教画を描くようなふうにも連想がいったりね。戦争画にいったり、ここでスターリンの命令によるところの、社会主義リアリズムの絵なんか画集で見ると、さっきの絵なんか見ると憑りつかれたような絵でしょ。だから皆、一種の宗教性があったり、今で言うとマインドコントロールされた方がかえっていい絵ができるみたいなことで、ふっと怖い世界だなって思ったことがあるんですよ。青美連に呼ばれた頃はね。いつもそういうヤバさを感じてるから、それが逆に緊張感になってね。
絵画の現実ってものがあるのに、それなしでテーマだけにおんぶにだっこで描くことも、それをやるってことは不思議というか、怖いというかね。まずい面も感じるんですがね。でもそれをよしとしてた頃、僕もやってた訳ですから他人事じゃありません。
その時に絵画と生の現実と、そこをミックスするとやばい、と。そこを中原さんに言ったんですよ、「タブローは自己批判しない」の中で。本当は僕がそれを言ってるのに、僕を利用して日本美術会を批判したいばっかりに(笑)。日本美術会の代表者にされちゃった。
鎮西:現代思潮社のお話とかって。
中村:少しした方がいい?
加治屋:美学校とか。
中村:ああ、あの辺ね。美学校は、ここに「創設に参加」なんて書いた記憶があるよ。
鎮西:ちょっとその前に。先生は63年にブレヒトの『亡命者の対話』(ベルトルト・ブレヒト著、野村修訳、現代思潮社、1963年)の装丁をやってるでしょう。現代思潮社自体は1957年に石井恭二さんが作られたと思うんですけど。
中村:そんな古いか。
鎮西:この辺りの石井さんや川仁(宏)さんですとか。この本を出されて、装丁をされたを思うんですけども、その辺りのことと。それから多分流れがあったと思うんですけど、美学校の辺りというのもお聞きしたいなと。
中村:ああ、そうですか。一番最初に現代思潮社に仕事として関わったのが、今おっしゃったように、1963年ですよね。『亡命者の対話』の挿絵を頼まれた。誰だったか忘れましたが、当時の編集長が僕のことを推薦してくれたようなんですよ。
鎮西:石井さんではなくて。
中村:石井さんじゃなくて。石井さんは多分、僕のことは知らなかったんじゃないかな。この時代はまだね。なんとなく絵描きで小生意気なのがいるって程度で、知らなかったと思う。編集者の人がどっかの飲み屋でいきなり言ってきたのかな。あんた、挿絵やる気ある?とか言ってね。金になる?って聞いたら、大してならんけど少しは払えるよって程度で。相手はドイツのブレヒトだって言うけど、読んだことなかったしね。よくわかんなかったけど、でも勝手に描いた挿絵で良けりゃって言ったら、いいって言うから。特に読んでそれにつけるような、いわゆる小説じゃないもんでね。あんまり説明的なことじゃなくていいって言うもんだから。じゃあ僕のコラージュとか、タブローそのものをどんどん入れていい?って聞いたら、いいって言うの。大体あんた、ブレヒトの『亡命者の対話』みたいなツラしてるから、みたいな訳のわからないことを言われて(笑)。内容に合わせる必要はないって言うの。これはエッセイですもんでね。本来、挿絵なんてつけるもんじゃないんですよ、小説じゃないから。でもね、当時ブレヒトって言っても演劇でちょっと知られてる程度で、こんなエッセイでしかも亡命者なんていうのじゃ、まず売れないってことがあったんで。せめてヴィジュアル的要素をつければってんでね。それで来たんです。その時に会社まで来てくれって言うんで、石井さんを紹介されてますね。それで本当にそれこそ全部読んでその上で理解したっていうよりも、すでにあるコラージュ、その他ドローイング、版画なんかをを石井さんに見せたら、ああ、こんなもんかって言うんで。じゃあこれを切ったり貼ったりして、装丁に合わせて編集しますからって言って、それ以来ですね。その時は装丁やってくれってところまでいってません、確か。粟津潔さんってデザイナー、あの人が確か僕の前にやってたと思うんだけどね。現代思潮社は、かなり一手にやってたと思います。粟津さんのがもう長くなりすぎちゃって、飽きられてきていたので、誰かいないかなって時に挿絵やったから、ちらちらと装丁もやってくれって言って、やり出したんですね。結構数が増えていったのかな。それはそれでやって、いきなり美学校じゃなくて。
鎮西:画集を出されますよね(注:『中村宏○画集 望遠鏡からの告示』現代思潮社、1968年)。
中村:そうです。石井さんが画集を出してやるって言ってくれて。この時代、画集なんて出すって、とんでもないと思ったもんで。これはありがたいってことでね。もうどんどん乗っかっちゃいまして、やってもらいました。この時の編集長が川仁宏くんって人だったんで、その時に知り合いましてね。ちょっとそんなふうにわけのわからん画集になっちゃって。
鎮西:すごくかっこいいですよ。
中村:いやぁ、寸法も間違ってるしね。
鎮西:不思議なところがありますね。
中村:この川仁くんっていうのは、編集なんか知らなかったよ。石井さんが気に入って、考え方がおもしろいって編集部に入れて、最初の初陣がそれ(『中村宏○画集 望遠鏡からの告示』)なんですよ。だからわからずに見よう見まねでやっちゃって。だから寸法は狂うわ、第一こんな小さな本で絵の原色版の貼り込みなんてしないよね。金がかかるんだよ。手で貼るんだもん(笑)。もっとでかいので余白取ってやらないとダメなんだよ、貼るっていうのはね。それをこんな小さいサイズで、カッコばっかつけてね。イメージ負けしちゃってるんですよ、実は。
藤井:川仁さんもVANに出入りをされてた方ですよね。
中村:そうです。その頃多分、出入りしてるんですよ。色んなアイディア出したりね。彼は実作はしない男で、口だけでね。あとはなかなかイケメンだったんで、ウケて。
藤井:そうですね。
中村:それはもう、本当に役者くらいできそうにハンサムでね。それで要するになんですか、芸術とか美術とかアングラとかが大好きで、その周りをうろうろするようなゴロツキっていっぱいいるんですね。そのうちのひとりなんですね。そのゴロちゃんがいつのまにか石井恭二という人に気に入られて、ちょっと勤めくらいしてみろ、みたいなもんでね。大して長くはやっぱり勤まられなくって。縛られるのが嫌なんでしょ。あっちへ行ってべちゃべちゃ、こっちへ行ってぴちゃぴちゃ、自分のアイディアのいいところを見せまくっちゃ、ちょっとけしかけて。実際やるのは他の人がやってね。自分じゃあんまりやらない。現代思潮社はそうじゃ通らんよ、で石井さんってのは編集者としては厳しい人だったんでね。まずこれやってみろって。実はこの画集は失敗の巻で。川仁くんは製本屋とか印刷屋には徹底的にいじめられた。
鎮西:やっぱり凝ってはいるんですよね。
中村:凝ってはいるけど、どうしようもない(笑)。こんな程度のもんにいちいち貼り付けなんてしないのにさ。ものすごく金かかったんですよ、それ。それで貼り付けでいく時は、昔は原色版っていう言い方がありまして。ものすごく高い、高級な印刷。それでやっちゃってて(笑)。だから印刷された絵の色はなかなかいいでしょ。
加治屋:発色が。
中村:発色がいいでしょ。きれいに出てる。それはありがたいけど、ちょっとね。
鎮西:いいじゃないですか(笑)。
中村:ん? 本当、ありがたいことですよ。この時代、歳からして僕が一番最初じゃないかな。画集なんて出したの。
鎮西:断切りのデザインになってて。
中村:ああ、そうね。その辺なかなか凝ってはいるんだけど。ちょっとめくりにくい。貼り込みの時そんなに小さいなんていうのは、あり得ないらしいです(笑)。もっと豪華本ででっかくて、うんと余白取って。それから表紙の黒い縁の寸法が間違った。
鎮西:これはどうやって。
中村:これも間違えちゃって。表の絵が裏へ、内側に入って収めるんですよ。ところが内側の黒が外へ出ちゃってるでしょ。逆なんです。寸法を間違えちゃって小さすぎて、裏側の紙をでっかくして誤魔化した。本の背が非常に固すぎて、このくらいしか開かない。無理に開くとバリって潰れちゃってたの、最初は。ただこれね、かがってたかな、糸で。糊じゃないでしょ。この時代の製本技術はすごいと思う。
鎮西:これは糸ですね。
中村:糸ね。糸だからもってますね。今みたいに糊だと、潰れちゃうね。バリっと取れちゃう。金はかけてますよね。
藤井:この画集のデザインについては、先生は特にはなにも。
中村:いやいや、そこは僕も相当口を出した。川仁くんひとりじゃちょっと無理。その絵を使って、そういうふうに配置して。その辺は全部僕が割り付け。それから中を黒くして、とか。この写真使ってとか、この絵はいくって辺りは僕がしないとね。でもまぁこの時代これだけ、小さいなりに豪華本を出してくれたってんでね、これはもう感謝感激ですけど(笑)。
藤井:編集者ですよね。
中村;うん、編集者だから、話題作りが好きなんだね(笑)。そんな訳で石井さんって人の世話で、大分ここら辺りはね。『亡命者の対話』の装丁から始まって、画集を出してくれて。次に美学校の構想を立ててきたんですよね。
鎮西:それが1968年に。
中村:そうですね。1968年3月に企画を出されて、石井さんと川仁くんがまずふたりいて、僕にちょっと来てくれって。行ったらこの構想を話されたんですね。
鎮西:石井さんが。
中村:石井さんと川仁くんもそこにいましたよね。だからどっちの構想が先か、なんて話はちょっと。実は今ね、アリスさんとか言うイギリスの研究者が、美学校を中心に聞きに来てるんですよ。
加治屋:アリス・モード・ロクスビー(Alice Maude-Roxby)さん。
中村:ああやっぱり、さすがに情報が早いね。アリスさんていうね。助手の女性が菊池さんて言いましてね。通訳どんどんできる人。美学校について、かなり調べてるみたい。
鎮西:立ち上げの時のメンバーってもう。
中村:立ち上げの時のメンバーは、僕だけになっちゃった。
鎮西:具体的には先生と石井さんと川仁さん。
中村:川仁くんが意見を聞いた人はいるんですよ。今泉(省彦)くんって言ってね。美術に関しちゃ川仁くんは素人だから、色々聞いたみたい。美術に関してどういうメンバーがいいか、みたいなことでね。それで中西と中村を推薦してくれたのは、どうも今泉らしいんだけど。最後は喧嘩で、石井さんを美学校から手を引かせた。僕とか中西のことは、絵描きとして推薦しただけですよ。構想を立てるなんてことはしてなくて、それは石井さんと川仁くんです。主に石井さんだと思う。
鎮西:美学校って名づけたのが自分だと、石井さんはインタビューで。
中村:そんなインタビューがあるんですか。
鎮西:引っ張り出した本なんですけど、その中には。
中村:それ、石井さんが著者?
鎮西:そうなんですよ。ほとんど対談なんですけど。
中村:へぇー。どこが出してるの?
鎮西:これはでもね、現代思潮新社。
中村:自分のところで。なんていうタイトル?
鎮西:『花には香り本には毒を サド裁判・埴谷雄高・澁澤龍彦・道元を語る』(現代思潮新社、2002年)という。
中村:それは石井さんが書いてる? なんとなくは聞いてるんだけど、間違いないです。美学校っていうのは石井さんの発想です。3人集まった時に、どんな名前にするって言って。まず名前からいかないと、人を要請できないからって言って。あーだこーだ、色々出ました。最初は運動だとか塾だとか。学校ってなかなか出せなかったの。作るのは学校じゃないから。そんな大げさなもんじゃないからね(笑)。石井さんって知らぬが仏って言うか、素人の面白さっていうか。学校はどうだって。私は学校はやる気ないですよって言ったら、ネーミングだからいいんだって言って。昌平黌(しょうへいこう)なんて明治時代にあるでしょ。学校の一番最初の。あんなんだって学校じゃないよ、塾だよって言って。石井さんって、そのイメージで言ってるですよ。昌平黌みたいな学校にしたい、みたいな。僕は知らないから色々聞いたら、美術を中心にそれを核にして、これは美術学校じゃないから。それはそれでいい、と。あくまで絵画中心にしていくと。絵画っていうのは、非常に思想性を表現するのにやりやすいもんだっていう認識が、あの人にはあったんです。ヴィジュアルで、タブローも四角いから非常にコンパクトで、思想をぎゅうぎゅう詰め込んで、持ち歩く、眼で見る思想だって考えてて。これは面白い考えだなって、僕なんかもその時はそう思った。
鎮西:ちょっと本ってものの考え方と。
中村:だよね。本の考えをヴィジュアルの一枚の絵に持ってったっていう(笑)。面白いね。だから美術の知識がある人って、なかなかそんな発想はできないもん。ああ面白いってんで、川仁くんも美学校、ああいいじゃないって言って。それ以上縮めようがないからね。学校って言い方は妙に古いのに、そういう時は新鮮に思えちゃってね。川仁くんもいくつかおもしろい、恰好いいようなのを。もうあっと言う間に3人でオッケーみたいなった。
だた中身については石井さんも、そんなしっかり持ってた訳ではもちろんなくて、それを聞きたいってことで実際絵を描いてる僕と、川仁くんという粋な恰好のいい、アングラの世界にいた人で、そっちを知ってるんですよね。実際の。土方さんのところにも出入りしてたし詳しいし、っていう人で。意外な人脈があったりしてね。その辺で色んなアイディア出してくれてって言われて。ただ美術に関しては素人。石井さんもわからん。僕は実作者だから、誰がいいっていうのも、ちょっと言いにくい面があるじゃない。僕も絵を実際に描いてる人だから。で、川仁くんが友だちの今泉くんて、後で校長として、事務長か。事務長として来てもらう人に聞いた。そうしたら中西と僕を推薦したっていうのね。そのまずふたりを確認して、後はまたそっちでやってくれ、みたいな話だったようです。石井さんとしてはもう、絵描きはふたりいれば十分だってなって、そんないらんって(笑)。後は講義でいきたいって言って、どっかに面々が書いてありませんでしたか。一番最初はやっぱり澁澤さんですよね。現代思潮社で翻訳を出してたから。それから種村(季弘)さんも出してたかな。後は粟津則雄さんとかね。自分のところで翻訳をやってくれてた面々がいるんです。当時、東大仏文でね。ご存知かと思いますが。その人たちを講師に、顔なじみだし呼んだんですよ。その筆頭が澁澤さん。
藤井:瀧口先生とかは。
中村:瀧口さんも呼んだかな。
藤井:ポスターの名前に。
中村:一番最初、出てますか。ああ。じゃ、一番最初だけはつき合ったかな。瀧口さんは現代思潮社から本出してないもんね、確か。ただ後になると原平さんを呼んだりね。中西なんて当然、親しいから。瀧口さんに声を掛けたってことも当然あると思いますね。川仁くんは瀧口さんを知ってる人だと思うね。石井さんは知らないんだよ、多分。そうですか。じゃ瀧口さんとかね。シュル系は粟津さんっていう理論の方の人がいて、この人がやってましたよね。なんとね、唐十郎まで呼んでるんだね。2回目くらいですかね。
鎮西:結構すごいメンバーがいたんですね。
中村:まぁ今やすごいけど、あの当時は皆、無名に近いもん(笑)。
藤井:裾分一弘先生も。
中村:も、来てたことある。ダ・ヴィンチ論でしょ。ほんの2年くらいだけで。あの先生はお忙しいからそんな、あんなところに(笑)。それから、インド哲学とか言って非常に特殊な松山俊太郎さんとか。
鎮西:松山俊太郎さんとか入ってるんです、これ。
中村:石井さんとね。ああ、非常に仲が良かったから。それは面白そうな本だね。まだ売ってるの、それ?
鎮西:わかんないですね。
中村:現代思潮社から出してる?
鎮西:そうですね。ああ、現代思潮社って今ほら。これ2002年なので、そんな昔じゃないから。
中村:そんな昔じゃないから、現代思潮新社になってから?
鎮西:そうです、そうです。
中村:もう新社?それじゃもう石井さんがギリギリ亡くなる寸前にくらい出したかな。
鎮西:もしくは絶版かもわかんないです。私も古本で買ったので。
中村:ああ、それはあなた個人のね。
鎮西;そうです。
中村:わかりました。私は石井さんだけは、尊敬申し上げております。本当にセンスがあるっていうかね、時代を読むというか。政治家でもない、なんでもない。編集者で、一弱小零細出版社の社長でしょ。しかしなんであれだけ顔が広いかって。不思議だね。もっと保守的に振る舞えるのに、やっぱりそういうのが嫌いで。それこそゴロつきが好きでね。いつも木刀持ってぞろっと着流しで歩くような。
鎮西:えっ。
藤井:嘘っ。
中村:うん、美学校の中では。
鎮西:本当ですか。
中村:うん。最後はパァンって床を叩いたりね。こうやらないと若者はついて来ないんだとか言って。木刀持って、おっかない顔して。
鎮西:先生より少し年上でいらっしゃった。
中村:うん。4つ5つ程度、上かな。でも相当頭のいい人ですよ。本当に著述業でもやったら、編集者じゃなくてね。現代思潮社っていうのも、あっという間に一代であるところまでいってる。時代の読み方が鋭くて、あの当時、新左翼関係の出版社っていってバカ当たりしたんですよ、その狙いが。もう一種の、特化しちゃったのね。本の種類を。全部出すんじゃなくて。
鎮西:ラインナップを見ても、本当にそうですよね。
中村:でしょう。だから潰れる時も早いよね。そういうのって。そういうブームが去ったら、トタンっともうダメ。新左翼なんていなくなっちゃってるから、そんな時にやってたってダメでしょ(笑)。
鎮西:とは言え、やっぱり。
中村:ね。一時きっちりやった人でね。そこまでなかなか読み込めないし、実際名だたる仏文関係の翻訳者って、皆石井さんの世話になってますからね。種村さんも、もっと大手で出してるしね。澁澤さんに至っちゃ、もう今や大スターになっちゃってるし。
鎮西:この本の発言によると、美学校っていうのが結局70年安保の環境の下で、高校生とかも巻き込まれて、わーわー騒いだりブラブラしたりしていると。ああいう連中を見ていると腕に職をつけてやるか、という気持ちになり、技術というものを重視して作ったんだよ、と。
中村:なるほどね。それも当たってます。3人で集まった時も、石井さんがそれを言ってくれてね。僕に対して、なんであんたを呼んだかという理由として、マニエリスムをやってると認識すると。あの時代ってのはマニエリスムなんかも、どっかへ消し飛んじゃってさ。もうアンフォルメル時代かな。多分。一体お前のやってることは時代遅れで、だけど俺はそれは好きだ、マニエリスムをやりたい、と。マニエリスムって、一種の技術主義的傾向を非常に持った言い方ですよね。それからリゴリズムとかね、なんか難しいこと言ったりするんだけども、そういうことを主義主張として出したい。そういった意味では絵が一番コンパクトでいい、っていうふうに思ってたようです。なるほどな、と思った。これは部外者であるのに、そこまで鋭く見てる人はいないな、と。絵という存在をね。それでとりあえずマニエリスムっぽく描ける人っていうことでお前さんを指名したけど、どうじゃい、って訳なんだよね。私はそこまで絵の技術をしっかりやってません、と(笑)。そこまでやれるかどうか知らんけど、ともかく自分の考えを押し出していいんであれば協力します、と。特別にどっかから技術を持ってくるってことは、いくらなんでももうちょっとしんどいからできない。そうやってまず言ってくれたんで、つき合いますって言ったんですね。
鎮西:この本の経緯では、石井さんがそういうふうにお願いするのは、基本的にやってないとやっぱりおっしゃっていて。川仁さんに頼んだって書いてあります。
中村:じゃあ僕が今言ったのが正しいですよね。僕はその前から石井さんを知ってたんで。中村をちょうだいって、裏では川仁くんに相談したかもしれない。いきなりこんな打合せ会に呼ばれたからね。中西はその時はいなくって、多分川仁くんが推薦したと思います。それで中西くんはリゴリズムとか、マニエリスムじゃない。モダニズムの最先端。一種の表現主義みたいなもんですよね。抽象画とも違う、非常にモダンできれいな絵で。実は石井さんってああいう絵が好きじゃないの(笑)。でも僕だけじゃ偏るでしょ。それで両輪を作る意味で、川仁くんが中西という表現主義をやる最先端の男がいるから面白いってんで石井さんを説得してね。じゃあその二輪で行こうと。そういうふうになったと思います。さらに、立石鐵臣って細密画をやる人。細密の元祖みたいな人。誰がどこで知ってたのかね。よくわからん。これも川仁くん辺りかな。かなり彼は広範囲に人脈を持ってて、図鑑を見て名前を調べて、それで直接電話をしたらオッケー取れたのかもしらん。それで漫画の教室を作ろうっていうのも、わりと早くからあったのね。それで最初に声をかけたのが、つげ義春さん。先生なんかできない、で断られて。ごめんなさい、最初は水木(しげる)さんだ。水木さん、書いてない? 水木さんが俺じゃできないって言うんで、弟子の彼に言ったら俺もでえきねぇ、で、ふたりとも断ってきた(笑)。川仁くんが色々また出してきてね。山川惣治ということになった。
藤井:『少年ケニヤ』の人ですね。
中村:良く知ってるね、彼女(笑)。若く見えるけど、意外に歳なんじゃねぇかな(笑)。で、僕もその時行きましたよ。直接、談判に。まだ健在でね、『少年ケニヤ』。
鎮西:相当お年ですよね。
中村:もうその時80歳も近かったんで、実際は教えるっていうのはできないから、やっぱり弟子を出すからみたいなこともあって、それじゃ意味ないと。山川先生の習わしで、って言って。だから1年くらい、なんとかやってもらったかな。成り立たなかった可能性も大なんだけどね。だから『少年ケニヤ』っていうのがあって、それの本があるんですよね。それを持って来て、原画がいくつかあったかな。それを川仁くんが教室で見せて、これを真似せよみたいなやり方をしたかも知らん(笑)。それで先生に会いたければ、アトリエへ直接押しかけたり。というような、非常に苦労して無理して。1年くらい名前は入ってるはずです。例の案内状にね。その後漫画教師は誰になったんだろう、原平さんが兼業してたかな。
藤井:『櫻画報』の頃。
中村:『櫻画報』出してたかな。
藤井:生徒の中に南伸坊さんもいらした。
中村:伸坊(笑)。イラストの方でものすごく稼いでるからね。人気があるんでしょ、結構。早いうちから面白いって弟子的にやらしてたんじゃないかな。美学校の教室でね。
鎮西:やっぱりそういう意味では存在感が。
中村:原平さん?
鎮西:美学校の。
中村:そうね、一般的社会的にはどうか知らないけど、あるアングラっぽい中では美学校が面白いとは言われてましたね。
鎮西:先生が美学校で教えられてたっていうのは、いつぐらいまでになるんですか。
中村:どのくらいまでだったかね。
鎮西:最近もされてますよね。
中村:してません、ここずっと何十年も。僕は石井さんの考えに共鳴してやってるんで、今泉とはつき合う気はないって言って。
でも結構お金をいただいてたんで。そこそこ食えていましたんでね。最初なんか大変な収入でしたよ。もろにくれるって言うもんでね。月謝は高く設定して、こんなんじゃ来ないよって言ったら、こういうのは安くしたら絶対足元見られるから、いずれにせよ弱小零細だから。最初から高飛車な方がいいんだ、っていうのが石井さんの考えで。そうしたら、それが当たったかどうか。でも、10人内外しか来ませんよ。でもね、10人来たって言って、大喜びですよ。ひとりでも怪しいって言ってたんだからね。当時にしちゃ、高かったと思います。8万円くらい取ったんじゃないかな、1年で。こんな高く設定して、来る訳ないとか言って。来ても、金のある奴がひとりかふたり、職場で稼いでる奴が来る程度じゃないかって。しかも中西くんっていうのはもう、かなりのスターでしたから、彼の方はなんとか数十人は来るけど、お前さんは危ねぇなっていうのがあって(笑)。嫌だなとは思ったら、うまく10人ずつくらい来ましてね。12人ずつくらいで。彼の方が13、4人くらいかな。ほぼバランス取れたの。2年目は2クラス作っちゃったんですよ。
加治屋:先生は油彩を教えられていたんですか。
中村:ええ、もうそれに徹しましてね。一応模範はレンブラントなんですよ。ああいう、古典技法。さらにダ・ヴィンチなんですよ。《モナリザ》を縮小白黒プリントしてそれを模写することから始めた。ダ・ヴィンチに未完の絵が2、3枚あるのね。《聖ヒエロニスム》は下絵のままでしょ。だから実に良く描く手順がわかるの。画集でもわかるくらいですからね。そういうのを参考にしつつ、イエローオーカーとセピアとインディゴブルーで下絵を描かせる。仕上がりはレンブラント風。デッサンはダ・ヴィンチ(笑)。それこそ上、下または奥の方と表面とをモンタージュさせつつ学生にやらせました。そういうふうに訳の分からんやり方で、それを古典技法と称してやりました。
ひとりくらい抽象画やりたいとかいうのがいましたけどね。ここは違うから辞めてくれって、月謝返して辞めさせた奴もいます。それから予備校と間違えて来ちゃったのもいて、これも当然お断りってんでね。だから面接したんですよ。誤解して来た人がいるんで。
加治屋:じゃあわりと年齢層が高い学生が多かったんですか。
中村:美大へ行かない人が約半数。高校は無論出てるから、そうだな。ほぼ20代ですよ。30代はいませんでした。変わり種は、時代なんだろうな。3年目頃に東大全共闘で安田講堂占領事件の残党みたいなのがいた。その前の年くらいかな。この年かな。石井さんはちゃんと見込んでやってんのね。新左翼の落武者を全部いただこうってね(笑)。
鎮西:すごいですよね。
中村:就職も無理。
鎮西:でもなんか、腕に職を。
中村:そう、そこまで仕込んでやってくれって。単なる芸術お遊びとか、カルチャーふうに振る舞うやり方だけはしたくないっていうのはわかってたんで。それでそんな古典技法を無理矢理、押し付けた。だから芸大卒業者も来たり。聞いたら、芸大じゃ古典をやらないって。
鎮西:授業自体は大学が、授業自体がなかった時代ですよね。
中村:そうなんですよ。高校生も大学なんて良くないから行かない子が増えたり。いても中退生が増えたりして、めちゃくちゃな時代だったの。そこを石井さんはちゃんと見込んでますね。すげえ人だと思ってね。これは救いの神として絵を利用するかな、と思ってね。ちょっとそこまでは僕はできないけど、ともかく技術者としてはそこそこできるかもしれない、って。
安田講堂に座ってて頭をやられちゃったような子が、行くところがなくて。本当にそういう子がふらっと来たりね。もともと絵が好きで東大へ行ったような、へぇと思うような子がいたり。早稲田の3年生とかいうのが来たり。何で来たのって聞いたら、やっぱ絵が好きだったんだけど、悶々として、文学部にいたとか言って。
そういう変わり種が来て。あとはほとんど浪人生とか。他の画塾にいて、ちょっと澁澤さんの話も聞きたいとか。レクチャーが好きっていうのも結構多くてね。そっちが聞きたくて来たとか。佐野史郎なんて役者がいますね。絵が好きで確かにうまかったらしいのよ。僕は覚えてないからわかんないんだけど。狙いは唐十郎だったらしいんだよ(笑)。
教場が狭くなったせいなのか、僕が目の上のたんこぶみたいで嫌になったのか、左遷されちゃいましてね。入間という田舎に(笑)。そこに繊維工場の跡の空倉庫へ移った。確かに広いところで、100号くらい描いてもらいたいっていうのがあったんで、かえって良かった。10年目以降くらいは入間でやってたかな。
加治屋:美学校のサイトによると、1969年にスタートして、75年に入間分校ができて。先生は79年までお名前が入ってます。
中村:ああ、10年も経ってないね。じゃ79年までね。ちょうど10年やってます?
加治屋:11年ですね。
中村:11年、そんなもんです。そこで辞めるべきだっていう案を私は出したの。石井さんもお辞めになったし。
鎮西:美学校自体を。
中村:うん、美学校自体を。こういうのは一種の任務を帯びてやる。ミッションがあってやってると僕は理解してたの。時代性をちゃんと背負って、ミッションがあって。そして当時の若者がいてね。あるところまでは一緒に。ある一定の技術を手段にしてね。そこへレクチャーをやる先生方の思想も包んでいるから。これはその時代にのっとってるって僕は認識してたんで、丁度10年目で辞めるのは非常にいいだろうって。
入間にハウスっていうのがあって、その一軒を借りて、画塾をやり出した。4、5人くらいで。僕もそこへ行って雇われて。雇われ講師で行ってました。
鎮西:名前がついていたんですか。
中村:名前だけはね、中村油絵教室とかにさせてくれって言うから、ああどうぞと。彼らはそれなりに金を出しあって、僕に交通費くらいはくれましたよね(笑)。ハウス探してくるのも、彼らがやるっていう。全部、彼らはやりましたよ。それは、最後の一兵になるまでやりましたからね(笑)。ついにひとりになったんで、もう(笑)。お前さんだけ最後つきあうから、お前以降は募集をやめるからって言って、最後ひとり辞めるまで。やっと手打式で、やれやれで。
鎮西:その方たちは今も描いているんですか。
中村:最後の一兵は今、齣展に出してる(笑)。
加治屋:何年くらいなさってたんですか。
中村:入間は多分、通算で5、6年くらいやったんじゃないかな。その時はもう美学校って言ってませんよ。
さっき言ったイギリスのアリスさんですか。最初の5年間くらいが美学校としての存在価値があるように思える、と。その辺だけを調べてるって。北欧のスウェーデンとかノルウェーあたりでもそういう学校形式で、ちょっと反権力で、反アカデミックで自分たちでやるっていうのは。これは必ずしも絵とは限らなくて、音楽だったり演劇だったり。あったらしいんです。イギリスにもちょっとそういう動きがあって、そのひとつとして日本にもそういうのがあったっていうのがわかってきて、それで同時多発みたいな時代だったんで、これはおもしろいっていうんで研究対象にしているようですね。
この前もアリスさんからインタビューを受けましてね。日本の通訳の方も来て、通訳の方がまた詳しくて、日本のことをよく調べてるんですよ。相当詳しかった。僕なんかよりはるかに知ってて。
やっぱ最初の5年間くらいですかね、それなりに石井さんが狙ってた新しい意味での思想運動。思想っていうかね。澁澤さんとか、エロ・グロ・ナンセンス全部含むような。当然、マルクス主義だって反省的に入ってもいいしね。そういう、幅の広いことでやりたかったようですよ。石井さんとしては吉本流、ああいう庶民思想みたいなのも本当は入れたかったんですね。あんまりフランスのかっちょいいような、サドだマゾだなんていうだけじゃ、それもいいけど。日本の泥臭い民俗学的なのも入れたかったようですよ。なかなかいなかったんですよ、その時代、講師さんが。皆、左翼なもんで。だから吉本さんなんか、一番良かったんだけどね。断られました。そういう訳で、一種の思想運動の中の人として絵画をやって、技術っていうのも非常に幅があるでしょ。そうすると表現のための絵画の技術ってことで絞ると、意外や意外ね。あの中にコンパクトに詰まった、箱のように思ってたようですね、あの人は。あの中から思想も出せる、絵も描ける、それから技術も出せる、それからわりとムード的なね。色だ形だマチエールだ、まで出せるから、絵画ってものを非常にコンパクトな、眼に見える思想として考えてたみたい。だからあの人は絵画だけでいいって言ってるんですよ、美学校発足の時は。で、あんたと中西、ふたりだけでいいじゃないって。それじゃとても学校にならんからって、川仁くんがね。だんだん広げていって、漫画も作るわ細密も入れるわでね。赤瀬川は、どれっていうより赤瀬川原平というキャラクターで売れますんでね。赤瀬川原平教室で、やりたい放題やっていいよって。
加治屋:美学校って、ロゴは確か。
中村:あれは原平さんが作りましたね。この人は花文字みたいのがうまくてね。その他、つげ義春とかの、背景をちょっと拡大してね。ペン画で全部。ハッチングって技法がありますね。斜線で描く。あれで全部描いてるの。それを利用する形で、彼のエッセンスで風刺、パロディとして描いてるよね。そういう能力の非常にある人でね。本当にあの人ってアイディアがポンポン出る人だな、と思うね。
教場では酒飲んでてね。なにやってんのか、よくわかんなかったけどね。ぺちゃぺちゃしゃべっていたようだけど。よくわかりませんでした。私は酒が飲めないもんで、一番ウケませんでした(笑)。終わってから(一杯)やるのが目的で、ほとんどが居酒屋行くのが目的で来てるんだから(笑)。酒は飲めねぇ、コーヒー屋行ってコーヒーだけ飲んで終わりじゃ、こんなつまんない話はないもんね。だからウケない(笑)。
藤井:今の3人の話はちょっと。
中村:3人? 入間での最後の一兵のことかな。
藤井:沁みるものがありました。
中村:あ、そう? 哀れでしたよ、本当に。いつもベソかきたくなるような状況です(笑)。でも僕みたいに古い人間はね、いつしか習慣になっちゃうんですよ。行き出すと義務感が出てきちゃって、いつもミッション的に動くから。結構続くんですよね。最後の1回までやっちゃったり。恐らく僕じゃなかったら、とっくに辞めてるのに。
鎮西:そうかもしれない。
中村:だからその辺ね。古い人間で、しょうがないからやってるという。単に嫌だっていうふうに思わないから、習慣って恐ろしいもんだね(笑)。もう行くもんだと思って行きますから、いいんです。その情けなさがだんだん、快感になってきちゃったりね。マゾになってきたりね。それがまたいいんですね(笑)。画塾に向かっていい大人が、ひとりとぼとぼ畑の中を歩くなんてね(笑)。行ったら生徒ひとりなんていうのは、なかなかいいよな(笑)。ねぇ?悲しみの極致というか。情けねぇ話で。それでやってきました。
だから私は、大概の事は耐えられるんですよ(笑)。情けないものに耐えられる。普通、ちょっと耐えられない場合もありますよね。喧嘩しちゃって、プライドもあるし。結構ポイポイ捨てられるしね(笑)。だからウケないこと夥しいですよ。
美学校へ入って、それはそれで淡々とやってましたけど、次に芦川羊子さんが来て土方さんと御目文字にあって。協力するようになって、ここに詩画集(注:『土方巽舞踏展 あんま』1968年)を作ったなんて話が出ていましてね。美学校がスタートしたのが1969年になってますね。企画とかは、その前の年ですけどね。創設し開校したのが1969年4月になってますね。そこで私の工房を作ったと。この頃に稲垣足穂さんとか、松岡正剛くんなんかも知っていました。
鎮西:大変な。
中村:大変な(笑)。稲垣足穂の周りになんとなく、かつて澁澤さんとか美学校とかっていうのがあって、今度はなんとなく稲垣足穂の方へ行くようなムードがありました(笑)。松岡正剛っていうのは実は早稲田の学生で、早稲田新聞の取り巻きのひとりで。
加治屋:そうなんですか。
中村:その時に早稲田新聞との関係もあって、僕のところへ来た。ちょっと記事とか書いてくれないかって。そんな話があったりして、なんとなく知り合ったんですね。「地を這う飛行機と飛行する蒸気機関車」(The high school life 第25号—第28号、1969年6月15日—9月15日で稲垣足穂と対談。後に「機会学・対話篇」として『機械學宣言 地を匍う飛行機と飛行する蒸氣機關車』仮面社、1970年へ収載)、The high school lifeっていうのがあって。彼がそこの編集長をやった時に、僕のところへなんか対談やらないかって来た。当然壊れる企画として、稲垣足穂とならやってもいいよ、って。他は対談なんかやる気ないと言ったら、本気になって稲垣足穂に電話したら、どこのどいつか知らんけども、やっていいって言ってるっていうんだよ。いやいや、これは困ったみたいなことだけど。とにかくこっちも知らぬが仏で、やっちゃったんですね(笑)。
この時代に『遊』という雑誌があって、これはものすごい面白い企画で。彼がほとんどひとりでやったんですがね。当たったんですよ、アングラの世界で。結構大手と張り合うところまでやってるんですね。かなり成長させてから、彼はすぽーんと辞めて、自分でまたなんとか企画とかいって作ったかな。プロモーターみたいなことの才能のある男でね。自分を主役に置いてどんどん売り込んでいくっていう。だけど一体あんたは何者なのって。何を専門にしてるかっていうと、ないんですよね。いつもそこに空白があるので、こんちくしょうで頑張るからあそこまで行けたんですね。ところが本の読破力っていうのが、これはちょっと驚異的だね。一晩に何冊も本を読んじゃうの。本当かね、っていうくらい。でも(書評を)書いてるから、読んだんだろうなっていう。そっちのプロみたいになっちゃって。本を読むプロ、なんかよくわからんけど。選ぶプロとかね、そういう今までないプロの世界を開拓したようなところがあって。これはなかなかおもしろいぞ、なんて面もあるんですね。その男がですね、出てきたりして稲垣足穂の関係で、ひとつのおもしろい空気が出たことは出ましたね。『遊』というものを核にしてね。『遊』という雑誌も、結構売れたりしていてですね。
社会的な意味でのこれは、という事件はもうこの頃になるとほとんどないんですよね。私は美学校に教室を持ちながら流してるだけで、あとは駄文みたいな短文をちらちら書いたりしていましたね。松岡くんが出版の方の人なので、あんたのおもしろい本を企画したいって言って、色々企画したりしたんですがね。
鎮西:社会的な事件っていうのと、お描きになる絵画の、そういったところとの。
中村: 1970年代。『血の晩餐』(番町書房、1971年)とかいって、大蘇芳年の本がごーんと出たりね。ちょっと血みどろっぽい時代がちらちら、底の方で蠢いている。なんとなく不気味っぽい時代になっちゃってね。三島由紀夫が腹切ったなんていうのは、本当に暗ーい感じがしましたよ。僕はこの時代まだ、テレビもなかったのかな(笑)。大塚(睦)さんっていう絵描きの人の家によく遊びに行ってて、大塚さんが三島由紀夫が腹切ったよって。えーなにそれ!って。どういうこと?って。いくら有名でも一文学者が腹切ったからってなんかなるの?程度だったんですが。段々、聞いているうちに妙に政治絡みだったりして。自衛隊がどうのこうのだとか、出てきたんで。
なんかよく掴めなかったね。いきなり右翼絡みの一文学者が、いくら名があるって言っても、腹切って自衛隊がどうのなんてことの結びつきがよくわかんない時でね。裏ではふたつの大きな新左翼派閥が殺し合いがあるんですよね。この時代結構。警察も動いて、嫌な記事が新聞にやたら多かった。変な訳の分からん時代ではありましたね。
鎮西:先生、万博とは何の縁も所縁もないんですか。
中村:ないです。万博っていうのは、大阪でやったやつね。全くないです。注文も来なきゃ、なんもない(笑)。来る訳がないし。あれはね、デザイナーと称する人が、総動員食ってるんですよね。粟津潔さんなんてあれ、左翼だったのに。あの人が急先鋒で音頭取っちゃってね。それで若いのを集めたりして、なんとか館を指揮するだなんて言ったりね。あそこで完全にもう、ああいう世界での反体制とかいうのは終わったんじゃないの。
藤井:そうですね。日本アンパンに出品してましたよね。
中村:そうなんですよ。リアリズム好きな人ですよ。だからその辺まで守備範囲に入れちゃって、巻き込んじゃったということでしょう。ただね、反博運動っていうのがあって、僕は参加しなかったのかな、そこまでいくとね。オリンピックの時はなんとなく、ちょっとバカやったけども。反博の時はやってなかったように思うな。反博かな、土方さんのところで集まって、万博なんか爆破しようだとかなんとか。赤軍派崩れみたいなのが、太陽の塔の上に乗っかって、眼のところから赤旗振って、これは涙だとか言ったとかなんとか。でも登っていって、あそこへ赤旗立ててるんですよね。そういう写真はあるよね、確か。あの太陽の塔の上まで。しばらくは、一日くらいは乗ってたんじゃない。
加治屋:ある程度はいたと思います。
中村:ねぇ。しばらくは。誰かが食糧を運んでるとか。どうしてあそこで飯を食ってるんだみたいな記事が(笑)。誰か、運び屋がいるに違いねぇとか下らん記事だったけど。
鎮西:やっぱりこの時はご自身の作品というのも、ある程度いわゆる古典技法で。
中村:そうですね。空気遠近法っぽいようなのはこの頃ですね。一連の青っぽいようなね。そうそうそう。これも最初のきっかけは、美学校で古典をやれみたいなことを言った手前、自分がそれほどでもないようなの描いてルポルタージュがどうとかじゃ、ちょっと示しがつかなくなってね。それで実験的に、こんなふうにグラシ技法を使って描いてみて。それでこの技法がおもしろいんで気にいっちゃったもんで、しばらく続けてますね。かなりまで続けてますね。1970年代ギリギリまで。《車窓篇TYPE5》(1978年)なんて、窓だけの絵がありますよね。こんなのまでグラシで描いてるんですね。ここまで行くと、もう本当に抽象表現主義から遠く遠く、天まで行っちゃうふうにして(笑)。どんどん古い方へ追い込んでますね。
鎮西:その時にお書きになっているテキストで、呪物という言葉が。
中村:はいはいはい(笑)。ただ始める時に石井さんがリゴリズムだとか、マニエリスムとかの辺りでやって欲しいというのがありましたよね。多分、その延長だと思うんだよね。その絵を見たり評価する方はそういうふうにネーミングしてね。流派みたいにしていいけど。描く方は、言葉に言霊なんて言い方があるように、嫌でもこういうものには囚われる要素があってね。もちろん技術でいいんだけど、その技術がいつの間にか、自分にとってのミッション性を帯びてくると、呪というのに近いようなことになる可能性もあるんじゃないかということで使い出したんですよ(笑)。タブローというひとつの四角いものは、イコンの時代でもそうなのでね。ここには呪というものが描く本人との間で出てこざるを得ないんじゃないかと。一種のスピリチュアリズムみたいな言い方に近くなっちゃうけど。そこまでは飛躍しなくてもね。ずっと振り返って、イコンという言い方は一種のイコノロジーとかいうのにつながるんでしょう?一種の様式っていう意味でしかないんですよね。
鎮西:偶像とか。
中村:偶像とも言えますね。もっと実用的に言うと、ただの様式なんだよね。キリストと十二使徒の。その決まった構図の位置のことをイコンというみたい。様式っていうふうにね。だから技法を決め、四角いタブローに描け、モチーフは色々、ご本人の自由ですけどね。そういうふうにして、どっかイコン性を帯びてくるので、いっそそこまで開き直って呪って言っていんじゃないかってことを、ちょっと口走っちゃったんですが。私自身も、その辺はようわかっていません(笑)。呪って、字がいいじゃないですか。口偏に兄なんて。漢字って形態的魅力があるよね、すごく。だからそんなような程度のことでね。字がおもしろいとか、呪物とか呪術とかくっつけると、さらにおもしろくなってきてね。呪術という言い方は一般的にありますが、呪物っていう言い方はあんまりないですね。当然、仏像とか仏具みたいな物を一切合財に神が宿るみたいな言い方はあるかもしれないけど。物にはあんまり呪ってことを、いくつか本を見たんだけどあんまり言わなくて、術は非常に多い。術を行う時に使う色んな小道具とかね、フィジカルなものを呪物と言っていい程度で、あんまりそのことには重きを持ってないようですね。呪を言う方の宗教的な世界では。
加治屋:中原佑介さんが『現代彫刻』(角川書店、1965年。美術出版社より1982年に増補版、1987年に改訂新版発行)の中で、「呪物」という言葉を良く使っておられました。
中村:佑介さんがね。それはその書物の中で使っています? そうですか。そういうのは大嫌いで、使わない人だと思っていたけど。
加治屋:いわゆる原始芸術と言われている昔の呪物としてのモノと、現代彫刻っていうのは、実は同じような問題関心にあるんだっていうような言い方でした。
中村:ほう。底辺には似たようなことがありますよね。なるほど。それは否定も肯定もしてないんだね。一種断定しているだけで、良いとか悪いとか評価はしてないよね。ああ、そうですか。うん、なかなか見込みありますね(笑)。佑介さん、ちゃんと使っていましたか。ちょっと誤解していたな。そんなの一切嫌いな人だと思っていたの。ああ、そうですか。
そういうのってもう一回考え直しても、確かにいいんですね。古い時代にまやかし的に使ってた時もあったり、あるいはそういうふうに使う人もいるかもしれません。ところがね、人間がモノに対応する時って、嫌でもそういうことがないと。好きとか嫌いとか、ないはずなんですよね。モノはモノですから、元々そんなものはないでしょ。人間と対応する時にやっと出てくる。対応する時っていうのは、相手は単なるモノでなんにもないんだから、呪っていうのを媒介に、一種のイメージとして置かないとなんにも出てこないんですよ。物質との対応ができない。だから唯一対応するためには、呪という一種の、ちょっと怪しいけれどもスピリチュアルふうなもので対応するしかない。僕なんかは思ってましたがね。だからそれの代用をするのが絵じゃないかなと。所詮は。なんだかんだ言うけどね。もちろん用途として、全部とは言わないけど。だから今おっしゃった中原さんの、特に彫刻?
加治屋;はい。『現代彫刻』っていう。
中村:ああ、『現代彫刻』っていうのがあるんだ。へぇ。ああ、本当。ちゃんと言ってますね。へぇ。しかも呪物の役割なんて言ってね。この線の引いたところだけ読みますけどね(笑)。原始美術だけじゃないって言ってるのね。なるほど、現在でもちゃんとそれは生み出す過程としては、内容が違っても根本にはそれがあるっていうね。いやいや、大賛成ですね(笑)。なんだ、じゃあ逆におもしろくないね(笑)。同じことを違う角度から言ってるだけで。だったらあんまりおもしろくないよね(笑)。
加治屋:いやいや(笑)。
中村:違うこと言って、最後一緒じゃ(笑)。しょうがない。俺が美術評論の前は映画評論を目指してたんだよって言う。エイゼンシュタインに関しちゃ、お前さんなんかよりはるかに詳しいよって(笑)。なんで美術の方なんかへ行ったのかって言ったら、そんなもんは成り行きだよとか(笑)。今でも、もう亡くなりましたけどね。映画を最後までやりたかったみたいですね。どんどんやればいいのに。中原さんに映画論ってないでしょ。あります?
加治屋:アニメーションに関する短いものがあります。でもアニメ論です。ディズニー論だったかな。
中村:私も短文でアニメ論を書かされて(注:「「千夜一夜物語」は「一千一秒物語」から生まれる「千齣一齣物語」のオブジェにほかならない」日本読書新聞 第1505号、1969年7月21日。「アニメーション考」として『絵画者 1957-2002』へ所収)。ディズニーはダメって書いたんだよね。あんなつまんねぇもんないって。ディズニーはダメで、押井守がよろしいと。日本の。
藤井:何年前の話ですか、押井守とか。
中村:いや、押井守は後でくっつけたの。この本(注:『絵画者 1957-2002』)を出す段になってね。何年後にこういう、押井守が現れたっていうのはいいことだと。手塚治虫っていうのは、所詮たどっていけばディズニー。ディズニーっていうのは擬人法はうまいけど、逆に擬人法でしかなくて、あれを無理矢理アニメにする必要ないでしょって。アニメという独立したものが、ディズニーの場合はない。ディズニー漫画としては確立して、相当なレベルまでいっちゃったために、逆にアニメの持ってる独自性が消えちゃって、いつも擬人法でしかやってないじゃない。あれが一番うさん臭くて嫌だって、ちょっと書いたことがあるのね。手塚治虫は日本ではその延長にいるって。だから大島渚が、白土三平の『忍者武芸帳』をアニメにするっていう話があって。ところがアニメーターに頼んでアニメにすると、壊れちゃうって。それで、そのまま原画を映してるの。ちょっと映画の工夫で。
藤井:コマをこうやって。
中村:そう、コマをただ動かすだけ。くっくっとか、きゅっきゅっとかね。それだけで一篇を作っちゃってるの。この方が本質を見抜いてるな、と僕は思った。変にアニメーターにアニメにされちゃうと、ダメなんですよね。それにああいう厳しい顔は無理。かわいい顔になっちゃうでしょ、アニメって。眼が大きくて、かわいいかわいいで。恐ろしいアニメもあるのかね。ありますかね。
鎮西:でもなにかモノが動いていくのと、絵が動いていくのとは違うというか。
中村:そうなの、違う。そこがね。だからアニメ論書く人は、アニメそのものは確立してるとしても、アニメを論じようとするとね。その辺がまだもうひとつね。最後はディズニーへ行っちゃうようなことだと、ちょっと違うんじゃないかなと僕は思いますよ。あれは大きすぎて、皆そっちへ流れちゃうけど。もう一息、アニメとしての独立性。あるんですよ、チェコかなんかの映画作家で、変なアニメがね。かつてあったんですよ。いつ頃でしたかね、アニメーション。ええとね、(『絵画者』を見ながら)131p、これね。ご存知かどうかわからんけど、カレル・ゼーマン(Karel Zeman)というチェコ・スロバキアの人で。1958年に、『悪魔の発明』というアニメーションがあるんですよね。これはね、絵を動かしてるの。原画を。口だけとか眼だけとか、だから非常にギクシャクして不自然ですが、描いた原画を動かしてて。アニメーターがまた描きなおしたっていうんじゃないんですよね。そういう変な、不思議なのがあったんですよ。それなんか、非常にいいかなと思ってね。ディズニーの擬人法は見るに堪えん、みたいなことを書きましてね。日本じゃ押井守プロデュースによる『攻殻機動隊』(1995年)とか『アヴァロン』(2001年)。それから、北久保弘之っていうの? 『Blood the Last Vampire』(2000年)とかね。もう、アナログとデジタルをくっつけたような、変なことをやるのね。そういうふうに、矛盾したもので工夫しないと、あんなディズニーみたいにこぎれいに、ただコマで絵も人海戦術でね。機械化して描いたって、それはちょっと違うんじゃないかなと。アニミズムみたいなこととしてやっていいかな、ってことを書いたことがあるんですけどね。アニメーションって、アニミズムから来てるんでしょ?僕はそういう認識だけど、間違うとちょっとまずいけど。
加治屋:アニマっていう意味で。
中村:アニマか。それを吹き込んだかの如く。
加治屋:それが動くっていう。
中村:本来静止のものが動いて、ああ不思議ってことを指すっていう。
藤井:魂が宿ってる。
中村:うん、魂が宿ったかの如く静止画像が動いたってことで、アニメーションって言葉が出てきたと。いいんですかね。その辺、まだまだ開発の余地はあるね。アニメっておもしろい方向へ行くと思うけどね。そんな訳でね。
鎮西:そうしたらですが。多分そうしたお話の根底というか、元になっている本というのが、〈車窓篇〉ですとか、その後の絵画のお話にも繋がるかと思うんですが。ちょっとそろそろ、この辺りでということにさせていただいて、もし先生と加治屋さんのご都合で色々許せば、この〈車窓篇〉の70年代終わりから80年代くらいの絵画から現代にかけてというのを、もう一度お時間をいただいてその機会を持てればいいかな、と思うんですが。
中村:〈車窓篇〉を軸にしてね。その辺ね。
鎮西:そうですね。先生がおっしゃったアニメーションの話も含めてという感じになっていくかと思うんですが。後は今、考えていらっしゃることですとか。できたら6月のお時間のいい時にまた。
中村:はい。70年代後半くらいからね。そうですね。その辺から〈車窓篇〉なんて出てきてますね。
藤井:そうですね。絵が動くところからです。
中村:私の絵は動かないんだよ(笑)。
藤井:でもタブロオ機械(マシン)じゃないですか。
中村:動かしてくれた人がいたけどね。『AMPO』とかいう映画の中で。
藤井:動いてましたね(笑)。
中村:あれには驚きました。あんな技術あるんですね。すごいもんですね。正にあれはアニメだよね。なにも描き替えなくたって、あれ自体動かせるっていうのはね。あれは見てて不気味だったよ。ありゃ気持ち悪いって(笑)。じゃあその辺を今度。
加治屋:よろしくお願いします。
中村:いやー、ご苦労さんでした。