EN | JP

Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

仲里効 オーラル・ヒストリー 第2回

2021年9月22日

沖縄県那覇市、ホテルアンテルーム那覇にて

インタヴュアー:池上裕子、野中祐美子、町田恵美

書き起こし:町田恵美

公開日:2022年3月30日

インタビュー風景の写真

池上:昨日、カメラを再発見したところまでうかがったのですが、今日は東京にお住いの頃の政治活動について、すごい資料を持ってきてくださったので、まずそれについてお聞きしたいと思います。『毎日グラフ』の1971年11月7日号で、「10.21と沖縄の訴え」という大きい見出しが付いていて。昨日話していた沖縄国会について『毎日グラフ』が特集をしているのですが、(頁を繰りながら)この頁からですね、沖縄青年同盟の三人のメンバーが爆竹を鳴らしたというところ。私は勘違いをしていて、国会の建物の外の話だと思っていたんです。国会の外で、建物の外で爆竹を鳴らしたと理解していたんですけども…… 国会の中だった、らしいです。

仲里:爆竹を鳴らして、ビラを撒き、ちょっとした横断幕を掲げながら、「日本が沖縄を裁くことはできない」とか、「沖縄返還に反対する」抗議行動に出た。

野中:これはまさにそのときの写真なんですか。

仲里:そうです。

池上:三人が爆竹を鳴らして、抗議の声をあげているわけですけど、仲里さんも現場にはいらしてたんですか。

仲里:この現場にはいなかったんですけど、その直前に三人の内の一人に傍聴券を渡すために、国会の近くにいました。

池上:当時は今と仕組みが違って、傍聴券を持っていれば国会で議員たちが審議をしているところを見れたということですね。今ではない仕組みなので驚きました。傍聴券というのは、どういうふうに入手するのですか。

仲里:当時はですね、ベ平連と社会党とのコネクションがあるメンバーがいて、彼は社会党の衆議院議員の元秘書でもあったので、そのルートで傍聴券を手に入れて、三人の内の一人に渡すために国会の近くにいたというわけです。

池上:社会党の議員というのは、券をくれるというのが自民党とかだとあり得ないということですよね。少しでもシンパシーを感じているような議員の方に。後でその方に怒られませんでしたか。

仲里:いや、彼らもそういうものはある程度、暗黙の了解というのはあったんでしょうね。秘書をやっていたメンバーのいろんな話を聞いて、了解はしていたと思います。

池上:渡すというのは、何か作戦があるんだというのは薄々わかっていた。

仲里:でもこれ程とは思ってなかったと思います。

池上:爆竹を鳴らすとは思ってなかったですよね。

仲里:そうそう、爆竹を鳴らして沖縄返還そのものに抗議した。

池上:「誰がその券を渡したんだ」ということは後で追及されなかったんですか。

仲里:国会議員の場合は、ある程度特権みたいなのがあったのではないでしょうか。傍聴券を渡したとしてもそういうことまで踏み込めなかったとか……

池上:誰が渡したかわからないけれどもという…… この頁にもポジネガ反転させたような国会内部の写真があります。10.21というのは、国際反戦デーというものがあったんですね。その日にたまたま国会の審議も行われていた。

仲里:(「沖縄国会」の初日は)10月19日です。その2日後の10.21国際反戦デーというのがあって、それに我々沖縄青年同盟が当時の新左翼に呼び掛けて開催した。東京の清水谷公園というのはご存知ですか。集会がよく行われていた。そこで、「沖縄返還粉砕・自衛隊の沖縄派兵阻止」の集会をやっていったわけです。

池上:ほんとに、一連の運動が盛り上がった、ピークに達したような時期だったんですね。

仲里:沖縄の返還協定が国会で調印されていく、ということに対する意思表示と言いますかね。

池上:批准は、11月にされたんでしたっけ。

仲里:そうですね。

池上:だから11月の前にそれを阻止しようと。

仲里:国会で審議して、議決しようとしたわけですね。その冒頭でやった。

池上:これが21日のデモの様子ですか。

仲里:はい。

野中:この中に仲里さんもいらっしゃる?

仲里:はい。

池上:それがですね、衝撃の…… こちらの方でございます(雑誌に大きく写る仲里氏を指して)。

野中:なんかマイクを持って。

仲里:沖青同(沖縄青年同盟)の代表として、集会で挨拶しているわけです。

池上:これは車の上ですか。

仲里:そうです。

池上:車の上に何人か乗ってますけど、中央に占めて。

仲里:一万名規模の集会ですよね。

野中:このとき何を、どういうことを喋ったか覚えてますか。

仲里:うんとですね(笑)、当時書いた文章もありますけどね。沖縄の返還と、自衛隊が沖縄に派兵されることに対する抗議。1969年の日米共同声明にもとづく沖縄返還は日米の共同管理体制への移行に過ぎない、今まさに沖縄は歴史の転換点に立たされている、すべての在日沖縄人は返還協定阻止に起ち上がるべきであるという趣旨のアジテーションでした。

池上:皆さんヘルメットに「沖青同」って書いてますね。

仲里:書いてますね。

池上:これは沖縄以外の方もこのヘルメットをかぶっておられるんですか。

仲里:いや、沖青同のメットをかぶっているのは沖縄出身の学生や労働者。

池上:でもこのデモは沖縄出身以外の人も参加して、

仲里:そうです。沖青同が中心になって他の新左翼諸党派とか、反戦団体とか、ベ平連などに呼びかけて開催された。

池上:この頁に「隊列の人数こそ、他のセクトの大集団に比べてはるかに少ないが」とありますけど、たくさんの人が集まってきて、そのうちの一つのグループとして沖青同やその周辺の人たちもいたと。(頁をめくり、写真を指して)こちらも。この特集が全体として爆竹の事件やデモを取材していますけど、人物にも一人はフォーカスしようということで。

仲里:紙面の構成を見ればわかります(笑)。

池上:全体から始まって、仲里さんにフォーカスする。これは記者の方からどういうアプローチがあったんですか。

仲里:大島幸夫さんという方がいるんですけど、この方が沖縄問題に詳しい方で、なぜか沖縄青年同盟について非常に興味を持っていたわけです。

池上:大島さんは毎日グラフ専属の記者ですか。

仲里:専属だったかのか、或いはフリーのルポライターだったかちょっと覚えてませんね。一番最後に取材者として大島さんの名前が出てますけどね。

池上:彼は、国会で爆竹を鳴らす計画も知っていたんですか。

仲里:ある程度、取材の過程で彼なりの情報を集めてたんでしょうね(笑)。

池上:いや、仲里さんが言ったんじゃないですか(笑)。(大島さんも)そういうことが起きると知っていて、カメラマンと一緒に国会に傍聴券を持って行ったということですよね。

仲里:そうですね、というか、沖青同の組織としてのネットワークがあって。

池上:なんだか自白のようですが。こうやってメディアに後で載るというのも、運動からすれば一つのアピールというか、成果じゃないですか。だから(爆竹を鳴らすのも)やるだけじゃなく、報道させるというのも狙いのうちだった。

仲里:それもひとつのあれですよね。

池上:確信犯ですね。そういう計画を考えていたときに、向こうからタイミングよく取材したいという話が来たのでしょうか。

仲里:うん。大島さんは大島さんなりのネットワークがあるわけですよね。我々と接触していたベ平連の関係者がいて、大島さんもそういうネットワークの中で情報を得たのでしょう。でなければ、大島さんはそれ以前から沖縄のことについては取材したりしているので、彼のアンテナに引っ掛かったということなんでしょうね。

池上:彼はいい取材対象を発見し、いい記事を書かせてもらう、沖青同の方では自分たちを取り上げてもらうという関係で。ギブアンドテイクですよね。

野中:Nさんと出ているのは自分の名前は出さないようにしていたということですか。

仲里:そうですね。この文章の中では、いろんな事実が、例えばメンバーの数とか、事務所があるのかどうかとか、そういうことはオブラートに包んである。これは公安対策として、事務所はあるんだけどないとか、メンバーの数を少なく言うとか、そういう知られては困る微妙な情報は文章の中でオブラートに包んでもらっている。

野中:それは、大島さん自身はご存じだったけど、オブラートにしようと。

仲里:そういうふうにしようと。記事化するときは、公安の対策の中で証拠となることは出さない。

池上:後で検挙されないように。

仲里:代表がいないとか…… 代表がいるとなると狙い撃ちされますからね。そういう対策もこの記事の中ではされている。公にはするんだけど。

池上:ここにも「すべての在日沖縄人は、勇気をもって立ちあがれ」とあります。「在日」という言葉を敢えて使ったと昨日おっしゃっていましたけど、ここでも仲里さんの挨拶のフレーズとして引用されていますね。それから「爆竹ハプニング」の後、国会は実質的な締め出し策を取って、市民は国会を傍聴することができなくなったと(記事に書いてあります)。

仲里:悪いことをしたんでしょうかね(笑)。

池上:日本の民主主義の仕組みにとっては良くなかったかもしれませんが、そういう意味では日本の政治史を変えるような出来事になったわけですね。もう爆竹鳴らされたくないでしょうからね。

野中:(写真が)かっこいいですね。

池上:それこそプロヴォーグみたいにアレたり、ブレたりしていますけれど…… まだ続きますよ。完全に仲里特集になっていますね。下宿まで写って。

野中:これは仲里さんの下宿先ですか。

仲里:そうです。

野中:そこに何人か人が。

池上:たまり場みたいになっていたんですか。

仲里:そうですね。

野中:東京に住んだ二軒目の方ですか。

仲里:もう、時効になっているでしょうから…… 西武池袋線の江古田という、武蔵野音楽大学や日大(日本大学芸術学部)の近くです。

池上:南灯寮もたまり場だったし、仲里さんの下宿もアジトだった。ここでもオルグっていた。

仲里:まぁ、そうですね。

野中:当時の仲間は、今も交流がある方はいらっしゃるんですか。

仲里:沖青同の資料集を発行しようということで、この中の何人かが集まって。(雑誌を指さし)彼はこないだコロナで亡くなってしまった。

池上:この雑魚寝してらっしゃる。これがこたつで、ちゃぶ台ですかね。煙草に火をつけているところでしょうか、こちらが仲里さんですか。

仲里:そうです。

池上:こっち側にも人がいるし。

仲里:そうそう。結構いますよ(笑)。

池上:そんなに広い下宿じゃないはずなのに。

仲里:小さなところですけどね。

池上:まさにたまり場だったんですね。「狭いアパートの一室に」って。

野中:この人にピントが合ってるけど、この方はどなたですか。

池上:これも仲里さん。

仲里:若い時の(笑)。

池上:白皙の美青年でいらっしゃいます。「得意のギターでフォーク」をとありますが、どういうのを歌っておられたんですか。

仲里:恥ずかしくて言えない(笑)……高校のときに、沖縄のKSBKという英語放送もときどき聴いていたんです。ベトナム戦争が本格化していくときでもあり、アメリカで流行っている音楽が流れてくるわけです。そこで初めて、ボブ・ディランの「風に吹かれて」という曲を聴くわけです。非常にショックでした。歌い方といい、全体の(調子も)。それからいかれて(笑)。そういうことも真似事としてやった。

野中:記事によると沖縄民謡も歌っていた。

池上:記事には「復帰へのあいそづかし」という見出しもあって、昨日おっしゃっていた復帰自体への疑問が(紹介されている)。この時点では、米軍が駐留を続けることがはっきりしているので当然かと思いますが、そういう記事になっています。

野中:ここに沖青同パンフから引用されているテキストとあるんですが。パンフレットをたくさん出していたんですか。

仲里:結構出してますね。先ほど言った資料集の中にそれも収録してますね。

野中:全部残っているんですか。

仲里:いえ、なくなってるのもあるんです。

野中:ここの部屋はどこですか。

仲里:これは同じ沖縄出身者がつくっている政治結社みたいなものが別にあったんですね。

池上:なんという結社ですか。

仲里:先ほど言ったように公安対策ということもあって、場所を移動していく。

池上:ふだん集まっている場所ではなく?

仲里:そこで会議をしている様子ですね。

池上:これはルポルタージュ記事ですけど、自衛の為もあって、若干のやらせというか、演出された部分もある。でもこちらのアパートは本当にお住まいだったところですよね。場所は今みたいに簡単に特定できないとはいえ、顔も出して、自宅も写させてというのは結構勇気のいる、リスクも大きいことだと思うんですけど。どうしようかな、ちょっと怖いなというのはなかったんですか。

仲里:ありましたよね。でも大島さんというルポライターの姿勢というのが非常に誠実だった。沖縄をそれ以前から取材していることもあり、いろんな微妙な話もできるわけです。そういった意味で、安心して撮らせたというのもあるでしょうね。

池上:この人だったら信頼してもいいと思われた。大島さんからしても、記事が取れた、写真が撮れたというのは他紙を出し抜くような、自分にしか取れない記事だという矜持があった。

仲里:あったはずです。

池上:これだけ長い記事だということからも、大島さんも力を入れた特集記事だと分かりますよね。おそらく雑誌の編集長に「これだけ誌面をくれ」とか交渉するわけですよね。巻頭特集で29頁まで続くわけですからすごいことだと思います。「爆竹ハプニングの直後 50人近い記者が集まった記者会見でNさん」として、写真入りで載っているので、やはり主犯なのではと思われるわけですが(笑)。

野中:「ギリギリの抗議手段だった 裁かれるべきは日本の議会主義です」とあります。

池上:やっぱり首謀者ですね。

野中:首謀者ですね。発言と立ち位置が。

池上:沖青同というのは代表者はいたんですか。

仲里:代表者は置かなかったですね。

池上:実質的にはリーダーシップを取る人がいて、それが仲里さんだったという理解で(いいでしょうか)。

仲里:そのなかの一人だった(笑)。

野中:国会に入って行った方々を選んだきっかけは。三人が自分で行きたいと言ったのか……

仲里:自主的なものもありますよね。会議の中で話をして、強制はしなかったです。

野中:メンバーみんなでこの人ならいいという話し合いはなされたということですか。

仲里:国会で行動を起こすと、三人の行動隊を組む。3人をどうしても選ばないといけないと話し合う過程で、申し出てきたということです。

池上:Nさん、当時24歳と出ていますね。お若い。

野中:当時メンバーの中でもっと年上の方々も。

仲里:いました。その方が社会党の代議士の秘書をやっていた方で。

池上:傍聴券をくれた方ですね。すごい貴重な記事ですね。こちらが最後の頁ですけども、昨日も話に出ていた沖縄資料センターでお勤めの写真が。どこに勤めているかまで出ちゃって(笑)。

仲里:これが出た後にですね、資料センターに関わった方々は心穏やかではなかったようです。でも主宰する中野好夫さんは沖縄の青年がやることだからそれはいいんだと…… 非常に度量のある英文学者でした。

池上:当時はまだお元気でしたか。

仲里:元気でしたよ。

池上:じゃあもう「不問に付す」と。

仲里:「沖縄の青年たちがやったことだ」と、むしろ庇う方でした。

野中:「Nさんは親切に資料ガイド」とあります。

池上:この記事が出た後、仲里さんだと分かった人もいたと思うんですけど、連絡が来たりとかは。

仲里:特にはありませんでしたね。あのときは毎日動き回ってましたので。

池上:ご両親の目に触れたりとかは。

仲里:昨日の話の前段階として、『毎日グラフ』が当時の飛行機の中にも置かれていたんですかね、よく分からないんだけど。それを見た大東島出身の方がいて、あのことが島にひろがって大騒ぎになったという話もあります(笑)。

池上:その前段階で逮捕されたりとかあって、島に警察が来たということもあったんでしたっけ。

仲里:警視庁の刑事が来たのは、どちらだったかはっきりしないんですけど。その前だったのか、後だったのか。ただ、沖縄の古い資料のコレクターがいるんですけどね。彼は当時大阪にいて、沖縄青年のいろんな集まりとか活動の周辺にいた人なんです。非常に古い資料もコレクションしていて、今はみんなから重宝がられているんですけど、その彼が当時の警察手帳も手に入れたと知らせてきた。警察手帳の中に僕の写真が貼ってある、当時の沖縄の青年たちの組織の図も書かれていて、「おまえも載ってるよ」と。そういうこともあるので、その前に刑事が行ったということもありますかね。

池上:敵もさるものと言いますか。

仲里:その警察手帳を手に入れたことがよっぽど自慢だったんでしょうね。彼がやっているブログの『琉文手帖』に一時それを載せていたんですよ。途中から削除されたけど。

池上:「それはちょっとやめてよ」とか言ったわけではなく。

仲里:向こうから一方的に言ってきて。

池上:すごい記事でした。持ってきていただいてありがとうございました。

仲里:今まで封印していましたけど、資料集が出るということで昨日の話のついでに。

池上:資料集にこれ(『毎日グラフ』)は。

仲里:これは載らないですね。関連したビラやパンフなどの文字資料が載りますね。このときの声明文とか。

池上:本当にすごい記事です。次、何をお聞きすればいいか分からなくなるくらいですが、このことでこれも言っておきたいということや改めて思い出されたことはありますか。

仲里:これは後からですけど、この本に収録されている、沖縄タイムスの文化面「オンリー・イエスタデイ」という連載(注:『オキナワン・ビート』、ボーダーインク、1992年)。これは我々の世代が複数名でリレー形式で書き継いでいくんですけど、そのなかで、昨日話した1972年当時の沖縄の返還が敗北であったということと、連合赤軍事件について当時どういうふうに考えていたかということを書いたものです。1989年に書いた(資料を取り出す)。

池上:1972年のことをここで回顧されているわけですね。

仲里:当時の心境としては、モップスというグループサウンズが歌っていた「たどり着いたらいつも雨降り」(吉田拓郎が作曲)。モップスのその歌とか、ボブ・ディランの「激しい雨」とか「時代は変わる」とか。アメリカンニューシネマの『明日に向って撃て!』の主題曲「雨にぬれても」とか。雨と絡めて、当時の心境を沖縄の「復帰」という名の併合と連合赤軍について書いたものです。

池上:ここで「トランス・ディシプリナリー」という言葉を使われてます。「二つのトランスディシプリナリーの死」があったということなんですけど、その二つとは何でしょうか。

仲里:一つは沖縄の戦後史を決定付けていった沖縄の復帰運動の結末、日本を祖国と幻想しそこに没主体的に同一化していく在り方。それから、我々戦後世代が渦の中にいた新左翼運動や全共闘運動に代表されるムーブメントの結末、その二つを言ってるんですよね。

池上:「トランス・ディシプリナリー」という言葉で、ディシプリンからこぼれるものという意味づけをしておられたんですか。

仲里:さっき言った二つの限界みたいなのをまず限界をどう見定めていくのか、ということと関わるわけですね。そういうかたちの言い方だと思います。

池上:復帰の後、沖青同の方たちは解散したのでしょうか。

仲里:解散というより、いろんな内部の問題とか当時の新左翼党派の影響や状況的なものも絡み合って細胞が分裂していくように分かれていく。

池上:辞めていった人もいれば、新しいグループを立ち上げた人もいれば。仲里さんが関わりを辞めたのは、沖縄に戻られた……

仲里:1972年の暮れです。

池上:東京を離れるので、必然的に関わりも一回途切れるという感じに。他の方たちは、中心メンバーが何人かいらしたということでしたけど、その後はどういう。

仲里:他のメンバーもいろいろあります。沖縄に帰ってきた人たちも結構いますし、向こうで残って、別の運動体をつくろうと試みたメンバーもいます。

池上:その後は時代の流れと共に、大きいグループとしてまとまることはなくなったということで。沖縄に戻られて、沖縄大学で15、6年お勤めになってというところまで昨日はお聞きして、『オキナワン・ビート』は、1992年に出版されているんですけど、フォトエッセイ集というよりは文字の方が多い。この連載を基にした文字中心のもので。昨日のお話しですと、中国大陸の旅で毎日写真をたくさん撮ったことから写真家としての自分が立ち上がってくるというか、そういう話をお聞きしましたけども、写真のスタイルとして好きな写真家と言いますか、インスピレーションになった写真家はいますか。

仲里:『ラウンド・ボーダー』(APO、1999年)の最初のところでもちょっと触れていますけど、フランスのウジーヌ・アジェとか。アメリカのロバート・フランクやウィリアム・クラインとか。それから、ウォーカー・エヴァンスなどですね。

池上:私も最初これを送ってもらって見たときにウォーカー・エヴァンスとかリー・フリードランダーとか、わりと客観的に淡々と撮っているスタイルを想起しました。

仲里:リー・フリードランダーの手法もありますよね。

池上:すごく近しいものを感じました。中国大陸で撮る写真と沖縄で撮る写真では、被写体が全然違うと思うんですけど。

仲里:全然違いますね。昨日も言ったように一つの記録というか、歩いていく風景が中心なんですけど。

池上:中国では写真を撮るということで、この『ラウンド・ボーダー』については沖縄タイムスでの連載の年代が1993年の6月から1994年の12月までと序文のところにあるんですが、間違いないですか。

仲里:正確には、1993年の6月から翌年の12月31日まで。週一回、土曜文化面で連載していました。

池上:最初これを拝見したときに、写真の大きさとテキストが一対一くらいの割り付けになっていて、独特なスタイルだなと思ったんですけれども、その前に連載を大城弘明さんと友利雅人さんの連載があるんですが、大城さんが写真、友利さんが文章で「路上のパンセ」という連載をしていて、それを引き継いだかたちでいんでしょうか。

仲里:引き継いだという側面もあるでしょうね。「路上のパンセ」は文は友利雅人ですがUというイニシャルにしていました。彼が出稿するときに酒に誘われて「こういうのを書いた」とほぼ毎週見せられていた。そういう付き合いがありました。友利は沖縄タイムスの記者だったけど、辞めて別の仕事をしていた、その時期に彼に誘われて、陶芸家の國吉清尚さんや美術家の豊平ヨシオさんなんかとよく酒を飲みながらユンタクしたもんです。國吉清尚さんは読谷に窯をもっていて、土曜日など、寝泊りしたこともあります。あのときはいろいろ絡んでいました。

池上:文章と写真を並列するという連載は踏襲して、でも同一人物がどちらもやったので、評論文と写真が並ぶフォトエッセイになった。これはどこかで書かれておられましたが、「沖縄写真の批評が成立していない」ということを当時考えておられて。だから文章も書いておられるんですけど、写真自体も批評としての表現行為として意識しておられたんでしょうか。

仲里:そういう問題意識はどこかにあったと思います。この連載を始めたのは、その前段階として「路上のパンセ」があって、それは写真と文章が別々の人間だったけど、僕の場合は一人でやることになった。沖縄には力がある写真家が多く存在しますよね。しますけど、それに対して批評はどうかと言えば、淋しい限りである。実作に対して批評というのを自立的に展開させるべきじゃないか。それが沖縄においては欠けていたという問題意識が一点あります。もう一つは、これは僕のバイアスが掛かっているかもしれませんが、風景に対するアプローチの仕方というか、風景論としての批評意識を『ラウンド・ボーダー』に読み取ることができるかもしれません。おそらくそれまでの沖縄の写真家が撮った写真とは、違ってるんじゃないかな。どうなの(町田の方を向いて)。

町田:その年代の写真家はどなたがいますか。

仲里:1980年代から90年代までは、1960年代後半から70年代初めにかけて活躍した人たちだよね。比嘉康雄、平敷兼七、平良考七、それから石川真生など。沖縄の揺れ動く時代状況や基地やアメリカとのコンタクトゾーン、或いは沖縄の島々の光と影や琉球弧の祭祀において生きられている精神世界への関心などがメインストリームとしてあった。そういう写真に対して、写真に比べて、これ(『ラウンド・ボーダー』)は、どこかで抑え込まれていることもあるかもしれません。

池上:それまでの写真家が撮ってこなかったかたちで、沖縄の風景を切り取っている。

仲里:切断面を入れたものかは別として、第一には僕のバイアスの掛かったまなざしが捉えた風景の一断片ということだと思います。それがこれまでの沖縄の写真とは違うかたちだったのかどうかの判断は、見る人次第だと思いますけどね。

池上:いっぽうで写真の評論も書いていかれるわけですけど…… その前に、連載が終わって、フォトエッセイ集を出されて、それ以降も写真は撮り続けられたんでしょうか。

仲里:それ以降も結構あります。

池上:発表はせず、ですか。

仲里:発表はあんまりないですね。

池上:連載が終わった後に風景を切り取っていくのは自分の習慣、一部になったということでしょうか。

仲里:そうですね。

池上:連載が終わると発表する機会がないわけですけど、撮り溜めておくということでご自分としてはよかったんでしょうか。

仲里:撮り溜めるというか、結構な量ではあるんですけど。写真家たちは節目節目で発表していく。僕の場合は中途半端なところがあって、撮りはするんだけど、それを発表するという機会は(あまりない)。グループ展はありますけどね。たとえば、2002年の「フォトネシア」とか比嘉康雄さんを含めた複数名で発表したことはあります。個展としてはなかなかやらなかった。やらないというのは、写真批評をメインにしてやってきたという自制があるのかもしれません。

池上:それとプラス、写真家としての自分というのを前面に出していくのが、バランスがとりづらいというか。

仲里:今でもそうだけど、僕は写真家とは思ってないんだけど(笑)。そういうある意味では中途半端なところがあったりして。言葉で写真に介入していくというところを主戦場にしているということなんでしょうね。

池上:写真を拝見していると個展もやって、写真家としてもどんどん活動していただきたい気もしますが。

町田:こないだ個展をしましたね。二年前が、意外なことに初個展。

野中:それはどういう経緯で個展をされることになったんですか。

仲里:これは、「フォトネシア沖縄」のメンバーが共同で持っているギャラリーがあって、フォトネシア独自の展覧会も年に1回か2回やろうということがあって、たまたま私に回ってきたということです。

池上:写真は今も撮り続けていておられるんですか。

仲里:今も密かに撮ってます(笑)。

町田:個展会場でもカメラを持って、私も偶然居合わせた川満(信一)さんと一緒に撮ってもらいました。

池上:写真集も出していただきたいと思います。別の話も聞いていきますが、1990年代半ばからは雑誌のお仕事や文章を書いていくお仕事を本格化させていくような印象があります。1995年から準備を始められて、翌年に立ちあげた『EDGE』という雑誌についてお聞きできればと思います。創刊号がこちらにありますけれども。

仲里:『EDGE』が創刊した当時は、半年くらい前から複数のメンバーが集まってなにかやろうというのを月に一回くらい話し合いをやっていたんです。メンバーとしては、当時、美術家とか、画廊の主とか、琉球新報や沖縄タイムスの記者とか、芸大(沖縄県立芸術大学)の美術の先生とか、建築家などが集まって話を持ったわけですけど、最初は全体で沖縄の広い意味でのアートというのを意識した取り組みができないかという話があった。具体的な話を進めていくうちに、まずは雑誌を出そうとなって『EDGE』の創刊となったわけです。『EDGE』の内容と誌面構成は、そういったこれまでの話の内容が、雑誌の中にも反映されていくようになるわけです。

野中:展覧会のレヴューのようなものも結構入っている。「セザンヌ展鑑賞」とか。

仲里:これは浅野春男さんという芸大の西洋美術史を専攻にしている先生が担当したものです。

野中:沖縄県内で見たり聞いたりすることのできたアートについていろんな専門家がここで報告する。

町田:あと1995年くらいから美術館も動きが、準備室や展覧会などが出てきているので、その辺とも連動してですかね。

池上:ちょうど創刊号が『沖縄戦後美術の流れ』って終戦50年の、まだ美術館がないから那覇市が中心になってやった展覧会があったと思うんですけど、それを振り返るような記事も出てますよね。そういう動きも見ておられたということですよね。

仲里:メンバーの中には美術関係の専門もいましたので、意識的に取り上げていくのがありました。

池上:仲里さんご自身は、写真も論じる、映画も論じる、文学も論じる。でも意外と美術に関してはご発言が少ない印象があるのですが。

仲里:そうですね。僕は、美術をやっている友人はたくさんいるんだけど。僕自身は周辺の人間で、その中に入り込むまではできていない。

池上:それは、自分は写真だったり、映像が中心的な関心だからということですか。

仲里:そういうこともありますし、美術家たちは徹底して深く沖縄の美術を究めているので、僕なんかが簡単に入っていけるわけはない。ただ周辺で、そういうものを見てきた、友人として話をするとかはありますけどね。それが具体的なある運動まで発展していったのが、美術館の建設が具体化しようとした1990年代、あのときは大田県政になって戦後50年事業として位置づけられ、それに美術館がない県は沖縄だけだったんですよね。ですが、日本の最後の美術館、日本の47番目の美術館として位置づけるのではなく、47の括りから沖縄独自の視点と思想を持った美術館をつくるべきじゃないかという趣旨で、沖縄の表現者を横断して運動をつくっていったわけです。中心になったのは、豊平ヨシオさん、TOM MAX(真喜志勉)、彫刻家の能勢孝二郎さん、建築家の安田哲也さん、そして僕なども加わって、沖縄につくられていく美術館がどうあるべきなのか、ということを、いわば美術館の心臓となる理念創出運動的な位置づけでやっていったわけですよね。その理念は「アウトオブジャパン、そしてアジアへ」ということになった。ちなみにシンポジウムをやったときに全く美術とは関係ない、当時のボクシングの世界ジュニアウエルター級チャンピオンだった平仲明信さんやミュージシャンの喜納昌吉さんなどをパネリストにして、美術専門家からするとなんだと思われるかもしれませんが、表現体としての沖縄の思想をどうつくるべきかという視点でそういう取り組みをやったわけです。

野中:その反応はどうでしたか。

仲里:琉球放送のホールでやったのですが、そのホールに入りきれないほどの聴衆で、結構な反応でした。新聞でもこの問題について、取り上げたりしていましたね。

野中:多くの人が建設を賛成していたのですか。

仲里:勿論賛成、でも内容は問題にする。美術館建設運動というのは結構古く、沖縄の美術家たちの熱心な運動もあったんですけど、結局実現までには至らなかった。1990年代に入って戦後50年の企画の一つの柱として持ち上がったわけです。先ほども触れたように「日本の47番目の美術館としての位置づけではなくて、沖縄の歴史や経験、沖縄の美術の文体をアジアに開いていく現代美術館であるべきだ」と言うのが運動の根っこにありましたね。

野中:現代美術に主眼を置いたものを想定されていたんですか。

仲里:当初、現代美術館だったんですよね。建設構想の段階では。だけど、曖昧になって、最後は美術館だけじゃなく博物館も一緒になった。

野中:できたはいいけど、みなさんが思い描いていた美術館像とはかけ離れていた。

仲里:かけ離れてしまいましたね。

池上:TOM MAXさんの作品で「Museum of Contemporary Art Okinawa」と書き込まれているのがありましたよね。あれは、そういうプランを思い描いていた。

仲里:あの作品は、そういう議論の中で生まれた。TOM MAXがあのとき盛んに主張していた、「美術館なんて要らない。アメリカ軍基地を解放してもらい、その倉庫を美術館にすべきだ」というのが、あの作品。

池上:お名前が出たので、お聞きしたいんですけど、真喜志勉さん、TOM MAXさんとのお付き合いというのはいつ頃から始まったのでしょうか。

仲里:彼のキャラクターというのは非常に抜きんでていて。彼の存在は早くから知っていたんです。

池上:それは沖縄に戻られてからですよね。1973年とかには存在は知っていた。

仲里:知っていました。具体的に付き合いだしたのが、僕の1980年代の初期に沖縄タイムスに連載したコラムがあるんですが、そのコラムを読んで何か感じるものがあったんでしょうね。そういうことで付き合いだしたりして。1990年代の後半だったか、2000年のはじめだったか、沖縄タイムスに「胡天汎(こてんぱん)」というコラムを真喜志勉さんと洲鎌朝夫さんという建築家、そして僕が交代で書いたりしたんです。それから、共通の友人である比嘉康雄さんが2000年に亡くなりますが、その翌年に比嘉康雄写真展をやろうと実行委員会をつくったときにこの3人組が呼びかけるかたちになった。その2年後の山田實さんの展示会もやはり真喜志・洲鎌コンビに僕がくっついてひろげていった。『EDGE』の事務所が実行委員会の事務所も兼ねたりして。あとは個人的に酒を飲んだり、美術とは関係ないのかもしれませんが、僕らが企画するシンポジウムのチラシや横断幕をTOM MAXに書いてもらう。それが非常にユニークで、文字が入らずに絵だけとか(笑)。彼の場合は、年に一回展示会をやっていて、その展評も頼まれて何回か書いたことがあります。そういう付き合いです。それから亡くなる直前に、『越境広場』の創刊ゼロ号の表紙も描いてもらったのが忘れがたいですね。

池上:真喜志さんは仲里さんが沖縄に戻られる前ですけど、沖縄が本土復帰したときには『大日本帝國復帰記念展』をされたりとか。当時そこまで直接的に美術の表現としてああいう批判的なメッセージを発した作家というのは、少なかったと思うんですけど。写真や文学は現実に向き合うというのがあるので多いんですけど、いわゆる現代美術の分野であそこまでの表現をしたのは彼くらいじゃないかと思っているんですが。ああいうことをしてたのはご存じでしたか。

仲里:僕は帰った後からしか分からないですね。1972年にあの展示会がやったことは知らなかったです。

池上:いつ頃お知りになったんですか。

仲里:結構後になってからです。

池上:ご本人から、こういうのやったんだよ、という話はなかったですか。

仲里:真喜志さんは自分の作品のことについては一切話さない。

池上:私も亡くなってから知りました。でも、ああいう作品をつくられていた方だから仲里さんとフィーリングが合ったのかと思います。

仲里:それはあるかもしれませんね。どっかでアンテナが。

池上:似たような感覚で一連の出来事を見ておられたのかなと。

野中:真喜志さんは仲里さんの東京での活動は知ってたんですか。

仲里:知らなかったはずです。

野中:お話はされたことはなかったんですね。

仲里:僕もしなかった。でも感じてたはずです(笑)。

池上:相通じるものがあったのではないかと。あのときのことは、しばらくは改めて振り返って言葉にしたいとは思えなかった時期が続いたのでしょうか。

仲里:潜在的にというか、基本に流れているのはあの時代の経験がなにをするにしても滲み出てくるというか。表には出さなくても、言葉を発する基礎には、あのときの経験が避けようもなく流れ込んでいるというのはあると思います。

池上:1990年代の話もお聞きしていきたいと思いますが、ジョナス・メカスが沖縄に来たときの話があるんですが、日本に来ることが分かってせっかくだから沖縄にも来てもらおうということになったのでしょうか。

仲里:あのときは、日本にメカスが来るということで、『EDGE』の編集のメンバーの中に吉増剛造さんやメカスの日本語翻訳をしている木下哲夫さんとの交流があって、その縁で沖縄にもぜひ行くべきだという話があったそうです。それで我々が受け入れ主体になったということです。

池上:そのときに髙嶺剛さんを交えた映画祭を、基本的にはジョナス・メカスの作品を特集上映され、髙嶺さんの作品も?

仲里:上映しました。それから、4日間か、3日間…… あの時のチラシを探したんだけど見つからなくて、具体的に上映のラインナップとか、何日に何をやったかはっきりしたことは言えないんですけど、メカスの作品を中心にしながら、髙嶺剛と沖縄の若手のつくり手で具志堅剛、そして台湾のインディペンデント映画と映画研究者をゲストに呼びました。映画祭の催しの総称はたしか「ジョナス・メカスin沖縄 実験映画祭」ではなかったでしょうか。そのときに髙嶺さんも来てもらって、ジョナスを撮った。それはのちに『私的撮ジョナス・メカス』としてまとめられています。

池上:髙嶺監督とは付き合いも長くて、懇意にしてらっしゃる。1998年の『夢幻琉球つるヘンリー』という作品では共同脚本として参加されている。これは監督から「入らないか」と、お声掛けがあったのでしょうか。

仲里:その前に、沖縄の戦後の大衆芸能、民謡を支えた唄い手たちが一人亡くなり、二人亡くなりしていく現状に危機感を抱いていました。彼らの仕事をシリーズにして残せないかという話を高嶺さんとしていたんです。そのシリーズ化の企画は断念せざるを得ませんでしたが、『嘉手苅林昌 歌と語り』(を撮った)。嘉手苅林昌ってご存知ですか。沖縄民謡の代表的な唄い手なんですけど。その企画を進める過程で、新しい映画をつくろうとなって『EDGE』の事務所が映画の撮影事務所になったんです。そのために『EDGE』の発行がかなり遅れますけど(笑)。脚本はほぼ髙嶺さんが書き上げていたんです。ただ部分部分で、補うべきところがあって、即興的にちょこっと手を加える。足していく、その程度のものです。

池上:事務所がそういうふうに使われて、プロデュースも関わったということですよね。この頃から映画との関わりも深めていくのですか。

仲里:そうですね。あれは1997年か8年でしたかね。その前1992年に元のリウボウの最上階にホールがあって、そこで「髙嶺剛 映画個展というのをやったりしました。全作品の上映に加え、照屋林助さんとマーニンネーランバンドや新良幸人さんなどに演奏してもらったりしました。その年がちょうど「復帰」20年目ということでもあり、高嶺映画を通して「復帰」を問うというねらいもありました。『(夢幻琉球)つるヘンリー』をつくる前から髙嶺さんとは交流がありました。

池上:沖縄大学を退職されて、フリーになられるわけですよね。失礼な質問かもしれませんが、こういう活動をしながら生活はどのようにされていたのか、疑問に思ったのですが。

仲里:一つは、沖縄タイムス社が中心になって実施した中国大陸3000キロ踏査行の実行委員会にかかわらせてもらいました。その後は、琉球放送の映像ライブラリーで、ちょうどビデオからデジタルに変わっていく放送局の転換期でもあったんですけど、残されたビデオをデジタルに変換していくためのセレクトや情報整理などの作業を結構長くやりました。

池上:全てをデジタル化できないから、デジタルに残すべきものをセレクトする。これ結構大きなお仕事ですよね。

仲里:RBCに残された報道局関係の映像は、ほとんど見たつもりです。

池上:それ自体がすごくいい勉強になるというか。

仲里:そうですね。テレビドキュメンタリーにしても。それまでつくられた番組や素材なども。

野中:それは仲里さんお一人に一任されていたんですか。セレクトとか。

仲里:そうです。もちろん話し合いは持ちますが。

池上:それはどなたか知り合いがいらして。

仲里:昨年亡くなった大盛(伸二)という八重山出身の、最初カメラマンで入って、ディレクターやプロデユーサーにもなった友人なんだけど、彼から誘われたんです。『EDGE』の創刊メンバーでもあり、またRBCで一緒に番組をつくったりもした仲です。

池上:仲里さんが適任だろうと。そういう請負仕事が。それでお仕事もされていたという。

仲里:あとは、三年くらい前まで大学の非常勤で教えていた。70過ぎたら非常勤の定年。

野中:どちらの大学に。

仲里:沖縄国際大学。

野中:分野は?

仲里:アジア研究。なんでもやっていい。

野中:主にどういう授業をされていたんですか。

仲里:映像も結構使ったりしました。香港や台湾映画とか、日本でつくられたアジア関係の映像などを見せながら考えてもらう。アジア史を植民地主義という視点から考え直していくという試みですので、文学作品も取り上げたりしましたが。

野中:いつから始められたんですか。

仲里: 10年は、やってましたかね。亡くなった屋嘉比収さんという方がいて、彼が亡くなる前にやってくれないかという話があって、沖縄大学の専任の先生でしたが、沖縄国際大学でも教えていた関係で。

池上:写真も映像も関係があって、先ほども2002年「フォトネシア」のお話が出ましたけど、これはどういう経緯で、展覧会として立ちあげたのでしょうか。

仲里:県立美術館のこととも関係するんですけど、県の中に、美術館準備室があって、建設に向けてのソフト面での企画をしていいました。そこに翁長直樹さんがいて、準備段階から実績を重ねていくことをやっていました。2002年に東松照明さんの「沖縄曼荼羅」展を県が主催して実現していきます。企画の段階で、僕なんかも協力者の一人として関わっていくわけです。東松照明「沖縄曼荼羅」展の期間中、東松照明と関わりのある沖縄の写真家にとどまらず日本本土の写真家にも呼びかけ、連動展をやろうということになる。本土からは中平卓馬、森山大道、荒木経惟、港千尋、浜昇、野村恵子、石内都、北島敬三、島尾信三などが応じてくる。

池上:会場はどちらだったんですか。

仲里:那覇市民ギャラリーを全室借り切ってやったのと前島アートセンターが入っていた高砂ビルの一角、ここは若者中心でした。浦添美術館で東松照明「沖縄曼荼羅」展、那覇市民ギャラリーと前島アートセンターで連動展というように。そのときの連動展は琉球列像「フォトネシア/光の記憶、時の果実」という名を与えることになった。

池上:すごく見応えのありそうな。三つ同時開催。

仲里:連動展で沖縄サイドのディレクターを僕が、本土側については港千尋さんにお願いし、実行委員との協働作業で取り組んでいったわけです。勿論、中平、荒木、森山などが参加したのは東松照明の存在を抜きにしては実現できませんでしたが。

池上:東松さんとはいつ知り合われたのでしょうか。

仲里: 1995年の戦後50年に、沖縄で初めて東松さんが展示会「戦後日本の光と影」をやったときに、琉球放送で東松照明さんのドキュメンタリー「東松照明 光と影の旅人」を、先ほど話に出た大盛伸二さんと一緒になってつくったんです。僕はインタヴュアーで、宮古まで移動したので追っかけていった。あいさつ程度はあったのですが、突っ込んで話を交わすのはそのときが初めてです。その前から知ってはいたし、会ってもいましたけど…… 「沖縄曼荼羅」展のときの県のカタログに僕も書かせてもらいました。

池上:東松さんの作品ですとか考えをどういうふうに見てらっしゃいましたか。

仲里:彼のライトモチーフは「アメリカニゼーション」、「占領」ですよね。「突然出現した奇妙な現実」としての占領。東松さんは1969年に、そのモチーフをたしかめる最後の場所として沖縄に初めて足を踏み入れるわけです。そのときにできたのが『Okinawa 沖縄 Okinawa』という写真集、沖縄と出会って、痛感させられたのは、アメリカニゼーションの内実の問題だった。基地の金網からアメリカが日本の社会に浸透していく占領のイメージ、そういうイメージが沖縄に来て揺さぶられるというか、再考を促される。沖縄の場合は、基地の金網からアメリカがじわりじわり浸透していくイメージじゃなくて、非常に剥き出しのかたちで暴力的に沖縄社会に喰い込んでいく様相を目撃したわけです。それが『Okinawa 沖縄 Okinawa』という写真集の中ではあらわれているだろうし…… もう一つはその後、東松照明の写真の在り方を変えていく、アメリカニゼーションを拒むもう一つの顔を発見していくわけです。これが沖縄の島々で、アメリカニゼーションの及ばない沖縄の姿に出会って、ショックを受ける。そして島々の中にアジアを発見していく。「アンナン」というのは八重山の島々でよく使われる言葉ですが、一般的にはベトナムを指すんですけど、八重山で言われる「アンナン」は、「南」へのイメージ、つまりアジアの総称として言われているということです。沖縄の中における「南」というものを、東松さんはアメリカニゼーションを拒む、あるいはアメリカニゼーションの及ばないもうひとつの沖縄として発見しなおしていく。そういうアメリカニゼーションを拒むもう一つの沖縄からアジアに向かって広がっていく視線の旅を示したのが『太陽の鉛筆』ということになるはずです。東松照明という写真家によって体現された写真の旅は、沖縄にとっても自らのイメージというか、自己像を検証していく上でも、大きなインパクトを与えたと思っています。

池上:沖縄の写真家の方たちが沖縄を撮る、撮り方にも影響を与えていると言えますか。

仲里:平良考七さんなどは東松照明への反発も含めた影響は確実にあるといえます。

池上:そこは避けては通れないものとしてある。

仲里:沖縄の70年代を前後する沖縄の写真を考える上では、避けては通れない写真家の一人ですね。比嘉康雄さんなんかは、東松さんの写真集を手あかがつくまで眺めたと告白していましたし、写真専門学校の卒論として東松照明を取り上げたとも言っています。絶えず意識されていた。勿論撮る方法や対象は違いますけど。

池上:では今日はいったんこのあたりで。また次回に残りのお話をお聞きしましょう。

仲里:ちょっと余計なことまで話しちゃって。

野中:いえ、重要なお話です。