池上:今日は執筆活動についてお聞きしたいのですが、ご著書を2000年代に入ってからたくさん出しておられて。沖縄三部作と言われている2007年の『沖縄 イメージの縁(エッジ)』、2009年の『フォトネシア 眼の回帰線・沖縄』、2012年の『悲しき亜言語帯』など、沖縄の写真や映像作家を取り上げた本を出されています。これは、それまでに書かれた文章が積み重なって自然に出版という流れになったのでしょうか。
仲里:これは未來社から出された本ですよね。それ以前に二冊、出してはいるんです。一冊はボーダーインクから『オキナワンビート』、薄い本ですけど。沖縄タイムスとか新聞、雑誌に発表した論考やエッセイなどを拾ったものです。2000年には、沖縄タイムス文化面で1993年4月から翌94年12月まで毎週土曜日に連載した写真とエッセイの『ラウンドボーダー』をAPOから出しています。未來社から出された『沖縄 イメージの縁(エッジ)』は、1972年前後の沖縄の転換期をめぐる「映像と時代と私」というテーマで書いたものです。これは『未来』に10数回連載したものをまとめたものです。次の『フォトネシア』は沖縄の写真家についての『未来』での連載と、その他図録などに書いたのをまとめたものです。三冊目の『悲しき亜言語帯』は、沖縄の詩人や小説家、それから戯曲などを取り上げながら、沖縄の言語と表現、あるいは表現にとって沖縄の言語とは何かを読み解いていく本です。一冊目が沖縄をめぐって制作された映画をテクストにした極私的映画・時代論だとすると、二冊目が写真家論、三冊目が文学・思想論ということになりましょうか。三部作という言い方をしていますが、これは未來社の社長が勝手に付けた名前です。大まかな発刊の経緯はこんなもんです。
池上:それぞれ違う表現媒体の芸術について、三冊ともこれだけ内容の濃い著作を比較的短いスパンで出されることが凄いと思うんですけど、この時期に特別書くことに手応えを感じておられたりとか、力を入れていたということはあったのでしょうか。
仲里:未來社の『未来』という雑誌は、当時は月刊誌でした。現在は季刊誌になっていますが、もうすこしそれぞれの発刊の動機や経緯などについて詳しく説明しますと、『沖縄 イメージの縁(エッジ)』を出したのが2007年でした。それを書く直接的なきっかけとなったのが、2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭のときに沖縄映画特集(「沖縄特集 琉球電影列伝/境界のワンダーランド」)が特別プログラムとして組まれることになったんです。その沖縄映画特集にあたってコーディネーターを任されたんです。ドキュメンタリーに限定せず劇映画やテレビドキュメンタリーまで、沖縄をめぐって作られた、どういう映画がどこにあってという悉皆調査から始めて、最終的に70本をセレクトして、映画祭で一週間にわたって、4つの会場で上映しました。まずこの2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の経験が基礎にあります。そのうえで、1972年沖縄の転換期の時代と自己史をシンクロさせていく、いわば、映画をテキストに「時代と私」が交差するところに浮かび上がってくる領野を論じていくスタイルを取ったわけです。二冊目の『フォトネシア』は、沖縄の写真家が中心になりますが、東松照明や中平卓馬も論じています。きっかけとなったのが2002年の東松照明の「沖縄曼荼羅展」です。このときに、東松照明の展示会場が浦添市美術館だったので、会場を別にして那覇市民ギャラリーの全室を借りて、東松照明とゆかりのある本土の写真家(中平卓馬、森山大道をはじめ、島尾信三、石内都、港千尋、北島敬三など)の参加を得て沖縄の写真家との合同写真展をやったりしました。そのときに翁長(直樹)さんが沖縄県立美術館の準備室にいて、彼を中心に企画を進め、それに協力する形で私なども関わっていったわけです。そういう「沖縄曼荼羅展」をきっかけにした熱と渦みたいな経験が第二冊目の『フォトネシア』には活かされているはずです。それと、先程も言った沖縄の写真家たちが何をどのように撮ったのか、それはどういう意味と位置を持つのかを論じていった。沖縄の写真家の視点と、中平や東松など本土の写真家が沖縄をまなざす視線を交差させながら“いくつもの沖縄”を浮かび上がらせていく、そうしたことがモチーフとしてあったような気がします。三冊目についてですが、小説や詩は以前から関心があって、特にこの本の場合は沖縄の言語と表現の関係に視点を当てたものです。沖縄の小説家や詩人たちがなぜ沖縄の言葉を使うのか、そのことによってどのような文学世界が開けていくのか、という沖縄の言語と標準日本語との言語葛藤を通した文学表現という問題意識です。このことは、日本の文学シーンにはない、言ってみれば第三世界、アジア、アフリカ、ラテンアメリカに通じるような独自な文学世界とつながっているのではないかと思ったりしています。やや気取った言い方が許されるならば、ドゥルーズとガタリによる『カフカ マイナー文学のために』(法政大学出版局、1978年)の「マイナー文学」概念に無謀にも挑んだ試みだとひそかに独断していますが、1971年の沖縄青年同盟の沖縄語裁判闘争のときの経験が『悲しき亜言語帯』の原点になっていると思います。
池上:最初の二冊は映画の上映だったり、写真の展覧会だったり、実際の作品を見せるということと連動していたと思うんですけど、最後の言語や小説や詩に関してはそことは違うところから始まっていて、私はお読みして、仲里さんの原体験と言いますか、一番パーソナルなところに関わっている感じを持ちました。その中でも「言葉喰い」や「翻訳的身体」といった印象的な概念が幾つか出てくるのですが、こういう言葉は考えているうちに出てきたんでしょうか。
仲里:沖縄の言語そのものが経験した近代100年の歴史があるとすれば、それは国語というか日本語によって、沖縄の言語が喰われていくというイメージなんです。そのイメージは、19世紀から始まる帝国主義的膨張が植民地を領有していく世界的な現象として、たとえばフランスの植民地でも、イギリスの植民地でもそうでしょう。日本の近代もアジアにおいて唯一植民地帝国になって拡張していく過程で、沖縄をはじめとして台湾、朝鮮、南洋群島などに国語によってその土地の言葉を同一化していくのを政策としてやっていく。そのことが言語社会学的に言えば、国語、日本語が沖縄や台湾、朝鮮の言葉を喰っていくイメージになった。それから、翻訳的身体という言い方も言語の同一化、主体の国民化の過程で、その土地に生きた特に少年少女たちが、自分の頭や身体を改造されていく、そのときの吃音性をともなった現象を「翻訳的身体」という言い方をしていった。
池上:小学校でも普段は無口な子の話が出てきて、本当はそこまで無口でもシャイでもない子なのに、学校に来て「標準語」で喋りなさいという状況では無口にならざるを得ないという印象的なエピソードがあったと思います。
仲里:話はちょっと飛ぶかもしれませんが、岡本惠徳さんという沖縄の文学研究や批評の分野で活躍された方ですが、彼が書いた文に「沖縄になぜ詩人が多いのか」があります。なぜ詩人が多いのかを、なぜ吃音が多いのかと絡めて論じたもので、先程例に出た普段はよく喋るけど、学校では無口になってしまう、無口になるというのは思っていることを「標準語」にうまく乗せることができないということに起因していて、その背景には、日常的には沖縄の言葉で生活していたという事情があったということですね。吃音による言語葛藤が詩に向かわせた、ということです。いまはもう、言語環境は随分変わりましたけれども、そうした吃音性は在日朝鮮人作家の金鶴泳(きん かくえい/キム・ハギョン)の小説『凍える口』の世界と濃淡の違いはあれ共通する経験のかたちがあるように思われます。金鶴泳の場合は家族の葛藤や〈在日〉の生き難さや不遇感と深く絡み合っていますが。
池上:帝国主義の時代にイギリスでもフランスでも似たようなことはやっていますが、現地語を消滅させようとまではしないじゃないですか。共通語として、フランス語や英語を喋ってもらわないと困るんだけど、「きみたちがお互い、現地語を喋るのまでは止めない」という姿勢だった。だけど、日本の場合はそれも完全になきものにしようとしたのが特殊ですし、その中でも沖縄の言葉が結果的に一番危機に晒されてしまったと感じます。
仲里:戦前に沖縄で「方言論争」があったことはよく知られているとおりです。沖縄県知事に沖縄の人はなれなかった。中央から任命されて、沖縄に来て国家の統治政策を体現する。その統治政策の基本は植民地的な同化主義ということになり、その政策の中心的位置にあったのが「沖縄語撲滅」ということになりますよね。これは規模の違いはありますが、台湾における総督府的な性格と共通する制度です。言語を含めて民謡や踊りやユタなど沖縄的なものは禁じていく。日本民藝協会一行が沖縄で見たのはそんな沖縄の姿でした。柳宗悦らが「それは行き過ぎではないか」ということから中央の言論人を巻き込んで論争が始まっていくわけです。沖縄の言語に対する偏見や蔑視は沖縄戦のときも日本軍が出した方針として受け継がれ、「沖縄の言葉を使った者はスパイとみなす」と軍命となって暴力を伴っていきます。言葉は文化や人びとの生き方や歴史意識にかかわるセンシティブな素因をもっているはずです。たかが言葉なんだけど、言葉を巡る沖縄の経験には文化や政治の暴力性が見てとれる。いま話した事例は、沖縄戦後になって終わったわけではないことに問題の深刻さがあるように思えます。戦後は戦後で、僕らの世代を始め沖縄の戦後世代は、日本復帰運動が内面化した「日本人=国民化」とセットになった「国語=共通語」励行運動を体験していくわけですよね。戦前と戦後、近現代を貫き、琉球処分に始まって1980年代まで続いていったというのがあります。
池上:戦後は、沖縄の言葉を使わないでおこうという方針が、沖縄の人たちにも内面化されてしまって、自ら抑圧していくわけですね。それで、『悲しき亜言語帯』で論じられている作家たちは、その後に出てきた世代で、作家によってやり方が違うとは思いますが、シマ言葉を創作に再び取り戻していった作家たちだと思うんですけど。仲里さんは言葉が戻ってきたのをどういうふうにご覧になっていたのでしょうか。
仲里:大きな流れとしては、沖縄の言葉が消えていく、消されつつあるといえますが、取り上げた詩人や小説家たち、例えば、目取真俊さんや崎山多美さん、その先輩にあたる東峰夫さんという小説家たちは、消えつつある沖縄の言葉に対する哀しみというか、傷や痛みを悼みつつも表現に組成し直そうとする意志のようなものを見て取ることができるように思えるんです。崎山多美さんは「シマコトバでカチャーシー」というエッセイを書いています。これはどういうことかと言えば、日本語の中に沖縄の言語を忍び込ませて、日本語の秩序を揺さぶっていく方法です。この方法は、目取真俊さんの小説の中にもあって、沖縄の言葉を取り入れることによって、日本語で書かれた小説の中では見えてこない揺らぎとか痛みや傷や叫びとなって、新しい表現世界を誕生させている。
池上:言語的な苦境に置かれ続けたことで、逆に創作性が増すというか、豊かな創作に繋がっている気もするんですけど、実際に優れた作家が多くて。人口比でいっても、沖縄は言語の作家もそうですし、ビジュアルの作家も多く出ていると思うのですが、そういうふうに考えたりはされますか。
仲里:いま言ったことは、この中で論じた視点と繋がりますよね。沖縄の言語というのはこれまで近現代の過程で強制をともなった文化政策的に抑圧された、言葉を換えれば「ことば喰い」されてきたわけです。抑圧され、喰われてはきたんだけど、特に戦後の小説家、東峰夫さんが『オキナワの少年』でやった試みは、沖縄の言葉をめぐる風景を変え、在日朝鮮人作家の李恢成(り かいせい/イ・フェソン)の『砧を打つ女』と芥川賞を同時受賞したことで話題にもなりました。1972年の初めだったと思います。同化主義的に痛めつけられた言語の傷を逆に表現に転じていくというのが東峰夫さんをはじめ、それ以後の沖縄の作家たちが意識的に試みていくことになるわけです。言ってみれば沖縄の長い歴史の中で、第三の言語の表現領域を獲得していくことができたということになります。
池上:東さんはその後、書くことから遠ざかってしまうのでしょうか。
仲里:まだ書いてはいるようですけれど、数年に一度とかですね。他の作家に比べれば非常に少ないです。
池上:一方で目取真さんのようにおう盛に執筆を続けながら、アクティヴィストとしても活動を続ける方もいらっしゃる訳ですね。
仲里:最近、この中で取り上げた作家たちの表現世界が第三世界と言いますか、植民地を経験した地域、特に韓国あたりで注目されて、盛んに翻訳が行われています。日本文学にはない、東アジアの表現世界と重なるものが沖縄の文学にはあるということになるでしょうか。
町田:「三部作」の後、あまり間を空けずに2015年に『眼は巡歴する 沖縄とまなざしのポリティーク』(未來社)が出て、こちらでは再び映像写真を取り上げていますが、こちらも『未来』に連載されていたものでしょうか。山田實、比嘉康雄、東松さんの論考はカタログですか。
仲里:『眼は巡歴する』は、新聞や図録や雑誌などに書いたのを集めたものですね。
池上:少し前の2013年から、倉石志乃さんと『沖縄の写真家シリーズ 琉球列像』全9巻を出されています。倉石さんとの共同作業になったのはどういった経緯でしょうか。
仲里:これは『フォトネシア』をきっかけに、沖縄をめぐる写真家たちの試みの全体像を見てみようということで、未來社に提案したら乗ってきて、やろうということになった。
池上:これは、一巻につき一人ですか。
仲里:そうです。9名の写真家です。僕の構想としては、沖縄には写真家が結構いるんで、第一期と第二期に分けるくらいのボリュームを考えていた。第一期は、当初は12名を候補に挙げていた。結局9名になってしまったんですけど、その過程でいろいろありまして(笑)。
町田:作家によってはお引受けしなかった方もいるということですね。
野中:予算面でしょうか。
仲里:未來社は比較的自由に任せていて、第一期構想の12名のなかには3名の沖縄と深くかかわり、その仕事は沖縄の写真にとっても避けては通れない「本土」出身の写真家がいましたが、その3名が入ることにチャチが入りまして。典型的な例を言いますと、沖縄写真家シリーズと言いながら、東松照明、中平卓馬、森口轄といった沖縄人ではない写真家をなぜ入れるんだと(笑)。これは沖縄写真家じゃないじゃないかというクレームがあったことがひとつ、もうひとつは本土の出版社が沖縄(の写真)を商品化し消費している、ということでした。
池上:彼らが入るんだったら自分は入らないという選択をした方もいたということですか。
仲里:そういう選択ならいいんです、写真家の意志の自由ですから。しかしあるイデオロギー的なバイアスがかかって伝播していく現象が起きてしまうことを見過ごすわけにはいきませんでしたね。
町田:沖縄出身でなければ沖縄の写真家ではないのかというのは、いまでも言われていることなので、それぞれ考え方があるんだろうなと思います。
仲里:その考えで入らないならいいんですけど、そうではなく、先ほども言いましたように、あるイデオロギー的なバイアスによってゆがめられていくことを危惧しました。僕の考えとしては、東松照明や中平卓馬、森口轄をシリーズの中に入れたのは、沖縄の写真家のまなざしと本土の写真家が沖縄をまなざす視点を交差させること、「沖縄から」と「沖縄への」まなざしの交差によって、そこに何が生まれるのかということを検証してみたかったということがあった。彼らは沖縄と深く関わってきた。関わることによって、その後の彼らの写真が変わっていったこともあるし、それだけではなく、彼らとの関わりで沖縄の写真家たちも変わっていったところがあった。それだけ大きな、というか避けては通れない存在であったと思っています。この「沖縄から」と「沖縄への」の視点の交差への注目した沖縄写真家シリーズは、クレームをつけた写真家もその企画のメンバーだった2003年の東松照明展「沖縄曼荼羅」と連動した沖縄と「本土」の写真家の合同展のときの問題意識を引き継いでいると思っています。
町田:各作家によって頁数も違っていて、体裁(フォーマット)は同じなんですけど、自由性が高い。作家の載せるシリーズを決めるのも仲里さんと倉石さんなんでしょうか。
仲里:基本的に僕で仕込んで、その後、倉石さんに相談する。執筆の割振りも二人で考えて、例えば「中平卓馬さんや東松照明さんなどは倉石さんが解説を担当する」とか、「この写真家は仲里で、この作家は翁長直樹さんに書いてもらおう」というやりとりの結果でそうなったということですね。
野中:シリーズのタイトルは最初からあったのでしょうか。
仲里:山形国際ドキュメンタリー映画祭で沖縄映画特集を「琉球電影烈伝」と名付けましたが、その名付けとその精神の写真版を考えた。
池上:それと関連するかは分からないのですが、東松泰子さんと立ち上げた「フォトネシア沖縄」というプロジェクトについてもお聞かせいただけますか。
仲里:この話は東松照明さんがまだ元気な頃、亡くなる一年前くらいに、沖縄の若手の写真家をどのように育てていくのかということや沖縄という場所を活かしながら沖縄からアジアに向って写真を発信していこう、或いは沖縄に写真専門の空間ができないかどうか、そういうことを写真家も含めて話していくうちに受け皿となる組織をつくろうとなって、「フォトネシア」となったわけです。フォトネシアがどのようなことをやったかというと、最初は写真展です。東松照明が亡くなった後に、追悼する写真展をやりました。これは単なる追悼ではなくて、フォトネシアの設立趣旨の一つであるアジアの作家との交流、そして沖縄からアジアに発信していくということで、参加した作家も台湾の作家が2人、在日、韓国の作家が加わっていく。沖縄からは石川真生、そして東松照明の写真も展示していく写真展が一つ。もう一つは、「フォトネシア沖縄写真学校」です。写真学校は石川直樹とか木村伊兵衛賞や土門拳賞を受賞した写真家たち5人を毎回講師に招いて行いました。それから三つめは「沖縄写真史講座」、これは沖縄の写真史を改めて検証していく講座です。四つめは、沖縄の若手を育成していく「写真のつくり方」、この方は東松泰子さんが中心になっていきます。この4本を柱にして、フォトネシア沖縄が設立されました。
池上:これは今も続いているんですか。
仲里:今も続いていて、ただ去年はコロナでほとんど休止しました。来年からまた再開しようと話しています。
池上:実際に若手が育ってきたなぁという感じは持たれていますか。
仲里:石川竜一は今では評価が確立していますが、東松照明デジタル写真ワークショップの卒業生でもあり、写真学校で毎回講師として来てもらっています。フォトネシアに引き継がれる東松照明デジタル写真ワークショップ出身としては伊波リンダさんや北上奈央子さんや渡久地葉月さんなど、特に女性たちが頑張っていますね。
野中:この学校に入るには試験があるのですか。
仲里:試験はなく応募制で。受講料を払って。
野中:定員制ですか。何年単位ですか。一回入るとどれくらい学べるんですか。
仲里:学校と言うと長いスパンのイメージがありますけど、この場合は集中して、3日。
池上:経験者でなくても申し込めば受講できるのですか。
仲里:できます。経験者もいますが。
野中:いろんなレベルの方が同じ空間で学ぶということですか。
町田:ただすごく安いという金額設定ではなく、3日で2~3万円くらいだったかと。
池上:やりたいと思えば、手が出なくもない。
町田:趣味と言うよりは、ちゃんとやりたい人が参加している感じです。
野中:講師の方はこの学校を出られた方では無くて、先程仰っていたような名だたる人たちですか。
仲里:石川直樹を中心に、石川竜一、この二人はレギュラーで、あと野村恵子、野口里佳など、毎回入れ替わりで、結構豪華です(笑)。
町田:あと沖縄在住じゃなくてもお招きしたりしていますよね。沖縄ということで、皆さん快くいらしている印象です。
池上:編集者としての仕事の話に戻りたいと思いますが、『越境広場』という雑誌を2015年から、先程からもお名前が挙がっている崎山多美さんと立ち上げられます。創刊の意図をお聞かせいただけますでしょうか。
仲里:『越境広場』が創刊したときにあった雑誌は『けーし風』(注:「けーしかじ」と読む。台風が通過した後の「返し風」の意)はご存知ですか。『越境広場』とほぼ同時期に『N27』ができます。『月刊琉球』、あとは『EKE』とか『あすら』など詩人や小説家たちの同人誌があって、『新沖縄文学』と『EDGE』後、文学や思想を含む総合誌はほとんどない状態でした。それではいけないのではないかというのがありました。それと沖縄の若手の書き手を積極的に育てると言えば大袈裟ですが、若手が書く場をつくり上げていこうこと。もう一つは文学や思想を沖縄内に限定せずに広くアジア、韓国、台湾、中国の書き手に開放して、開かれた空間をつくっていこうというのがあって、実際9号、ゼロ号から数えると実質的には10号になりますけど、韓国や台湾や中国の書き手はほぼ毎回登場してもらっています。
池上:韓国や台湾の書き手にはどういうふうにアプローチされるんですか。
仲里:沖縄の文学を翻訳したり、韓国や台湾や中国の表現者で沖縄の文学や歴史や運動に関心を持っていたりする人たちを通して繋がりがあり、編集委員のメンバーとのネットワークもできあがっていますので、そういう人を介してお願いをしています。
池上:書きあがってきたものを翻訳して載せるのでしょうか。
仲里:翻訳の場合もありますけど、だいたい韓国や台湾などの書き手は日本文学や歴史や思想を研究している、日本に留学した経験がある書き手が多いですね。
池上:必ずしも文学作品を書いてもらうんじゃなくて、評論だったりもするんですか。
仲里:『越境広場』は、文学・思想を中心にしていますけど、もう少し幅を広く特集テーマに応じて、書き手も変わっていくことがあります。ただ、毎回意識的にアジアの書き手を登場させていくという方針は変わっていませんね。
池上:そういう試みをしている雑誌は他にはなかなか無いように思います。
仲里:沖縄の中では無いですよね。日本の雑誌の中でも一つのエリアでつくられた雑誌としては珍しいのではないでしょうか。
池上:意識的に継続している雑誌は、私は思い当たらないです。
野中:1号単位で大勢の執筆者がいるなという感想を持ったんですが、あの数はいろいろ入れたら多くなったのか、元々多くを掲載したいという想いがあったのですか。
仲里:特集のテーマがあって、このテーマならこういう書き手がいいんじゃないかとお願いしていく。ただ、レギュラー枠としては、「書評」とか「交差点」というエッセイ枠とか、状況への発言とか文化批評とか、目取真俊さんの連載などがありますけど、レギュラー枠にも若手に書いてもらう。一番大きいのは特集を何にするか、そしてどのような書き手を選んでいくのかということですね。ちなみに町田さんは3回書いている。今度も書くよね。10号は来年が沖縄の復帰50年にあたるので「復帰」とは何であったのかを問い直していく総特集になっています。
池上:半世紀後に改めて問う訳ですね。
野中:それはいつもの厚みでは足りないんじゃないですか。
仲里:そうですね。財政担当はもう少し削ってくれと。
池上:もう誰が何を書くかは決まっていますか。
仲里:決まっています。
町田:編集メンバーに研究者が多いこともあって、特集企画で外部執筆者を依頼するのと同時に編集メンバーも書くので、自ずと執筆者が膨大になるのかもしれないです。
池上:編集メンバーがそれぞれに執筆欲が旺盛な方たちなんですね。あなたが書くなら私も、みたいなとこはあるのでしょうか。
町田:彼らも自分たちの発表の場としても書き手としてというのも多美さんと仲里さんの中にはあるんじゃないかなと思っています。
仲里:編集メンバーにも若手がいますから。
池上:どういう方たちなんでしょうか。
仲里:若手は、なかには中堅に近い若手もいますが、沖縄大学の文学をやっている我部聖さん、沖縄国際大学で同じく文学をやっている村上陽子さん、親川哲さん、高校で国語教師の百地(智二)さん、タイムスの記者で与儀武秀さんなどです。
町田:沖縄出身だけど東京で教員をしているメンバーもいて、東京支部もあります。
仲里:東京外語大学の上原こずえとか。佐藤泉さんとか。
町田:文学の研究者が多いですね。
池上:外部執筆者で西谷修さんや鵜飼哲さんがいらっしゃるんですが、彼らとはどういう付き合いでしょうか。
仲里:鵜飼さんは『EDGE』をやっていたときに書いてもらったり、沖縄に招いて講演会を設けたり、鵜飼さんからは、例えばパレスチナのミッシェル・クレイフィーという映画監督がいて、彼がつくった映画『豊穣の記憶』を沖縄で上映できないかという相談で、じゃあ上映会やろうとか。それからパレスチナの第二次インティファーダという抵抗運動がありましたが、その死者たちの遺品や遺作を展示する「シャヒード、百の命」展も沖縄の佐喜眞美術館の協力で展示することがあったりとか。最初は『EDGE』で書いてもらった以来の付き合いです。『EDGE』には4回ほど書いてもらいました。西谷修さんは東京外国語大学の「沖縄・映像と記憶」というプロジェクトがあって、これはほぼ10年近く継続した企画でした。そのとき僕が毎回呼ばれて話をしたり、映像上映したりがあって。西谷さんの場合は、フランスの映画監督で『レベルファイブ』をつくったクリス・マルケル監督がいますが、そのマルケルと西谷さんは交流があり、『レベルファイブ』を沖縄でも上映できないかということで相談があって、沖縄でも上映して話をしたのがきっかけでした。西谷さんにも『EDGE』に何回か書いてもらいましたし、『越境広場』にも書いてもらいました。東京外大での「沖縄・映像と記憶」をはじめ複数のプロジェクトは、西谷さんや上村忠男さん、それに中山智香子さんなどが中心となって、そのとき以来の付き合いです。未來社から刊行された『沖縄の記憶/日本の歴史』(2002年)や『沖縄暴力論』(2008年)、そしてせりか書房から出された『〈復帰〉40年の沖縄と日本』(2013年)はその果実といえます。
池上:沖縄の問題にコミットしつつ、沖縄の中だけで閉じこもってしまわないような意識を常にお持ちなのかなと感じます。
仲里:『EDGE』の編集方針は、「沖縄にこだわりつつ、沖縄を超える」です。そういう問題意識があって、書き手も沖縄内部にこだわらず外部にも、沖縄を開いていく試みをやってきたように思います。それは『越境広場』にも受け継がれているかもしれませんね。
池上:越境という言葉にも表れているのでしょうか。それは沖縄がナショナリズムにさまざまなかたちで苦しめられてきたからこそ、沖縄ナショナリズムに捉われないという意識なのでしょうか。
野中:沖縄からアジアというのは分かるのですが、南米とかアメリカの方というのは、『越境広場』や仲里さんの関心や沖縄との関係についてはどのように考えていますか。
仲里:ラテンアメリカの場合は、ガルシア・マルケスとかその他の文学者の表現がありますよね。南米はスペインやポルトガルの植民地になっていくわけだし、長い間かけて植民地支配から生まれる葛藤や混交などによってラテンアメリカ独特の表現が生まれてきますよね。ガルシア・マルケスなどは、マジックリアリズムを確立していくわけですけど、沖縄の映画監督の髙嶺剛の映画表現もマジックリアリズム的要素が色濃くありますよね。確立のされ方みたいなのが共通するとは言わないまでも、どこかで繋がっているような気がします。
池上:「グローバル・サウス」という概念がありますよね。帝国主義やグローバル経済によって様々な搾取や抑圧を受けてきた社会集団や、彼らが受けた支配に対する抵抗まで表す概念です。地球上の色々なところにいる彼らが、元々お互いを知らなくても似たような経験を経て、共通点のある表現に結実していく。
仲里:目取真俊さんの小説にしてもマジックリアリズムというか、それに近いようなものを感じさせるところがありますよね。口には出さないけれども、そういうのを意識しているのではないでしょうか。
池上:長年沖縄で沖縄の文化や芸術に関わって活動を続けてこられていますが、いまやっていることや、これから進めたいプロジェクトでなにかありますか。
仲里:この歳になると引き算を始めていて、何かを足していくというか加えていくというよりは、むしろこれまでのものから引いていく。引くことによって生まれるものがあるとすれば、そういうのをやってみたいなというのはあります。抽象的な言い方ですが(笑)。
池上:何を引いて何が残るのか、もう少し具体的にお聞きしたいのですが。
仲里:特にこれはというのは無いんですけど…… いま『未来』で連載している「残余の夢、夢の回流」、これは9回目なんですが、これは僕らの世代、つまり沖縄の戦後世代のアポリアを含めた軌跡といいますか、1972年の「日本復帰」前後の沖縄の転換期の生きざまがどうであったのかを改めて論じ直していく連載なんです。そのことをまず戦後世代の責任のとりかたのひとつとしてやっておきたいというのがあります。同時に、沖縄青年同盟を結成し関わった沖縄の若き不良たちが何に悩み、どのように考え行動していったか、その傷や痛みの痕跡を、700頁を超す資料集としてまとめておきたい。これはかつての仲間たちとの共同作業になります。
池上:その二つは形にしておきたいと。いま改めて沖青同の活動を振り返って感じることはありますか。
仲里:あのとき沖縄の10代後半から20代初めの青年たちが「在日」を生き、考え、行動したことが、「復帰」50年経ったとしても、表には出ていなにしても、沖縄の文化や思想の深層に伏流水となって流れ続けているんじゃないかと思うところがあります。妄想かもしれませんが。
池上:前回、「復帰というのは一種の敗北だった」と仰っていました。本土で新左翼の活動をした方たちも敗北を経験していますが、彼らは50年後の今も苦い思いを引きずっていたり、屈曲を抱えたりしている人が多いような印象があります。でも仲里さんのお話をお聞きしていると、そういう苦い感じをあまり受けなくて。当時考えていたことが「いまの沖縄の文化や表現に繋がっている」という話を聞いて、復帰は敗北だったのかもしれないですけど、その戦いがいまも継続中だからこそ、苦々しい思いを抱えているだけではないのかなと思ったのですが。
仲里:そういうことになるかもしれませんね。沖縄青年同盟だけがやったことじゃなくて、あの時代には多様な試みがあったわけですから。僕らが啓発され影響を受けた「反復帰の思想」がありますが、同世代では他に沖縄闘争学生委員会がやった取り組みもあります。そういう歴史に半ば埋もれていった若き沖縄人たちの活動が発見され直していく素地はあると思います。あの時代にああいうことをやった、ああいうことを考え、ああいう表現をした、その「ああいうこと」が新しい世代に発見されるときに、また別な果実になっていく思いもさせられます。復帰は僕らからすると沖縄の敗北であった。敗北をくぐり抜けることによって何かが見出されていく、敗北から始まっていく何かがあるだろうということです。なかなか伝わらないものではありますが、絶えず発見し直されていく沖縄の思想と行動は、僕らの世代にとってもその前の世代の試みを発見し直すことをやってきたわけだし、その発見し直すことには、前の世代がやったことを批判的に乗り越えることも当然含まれます。いまの世代がどういうふうに料理していくかはまた別の問題ですが。
池上:若手の書き手や表現者に活動や活躍の場をつくるとか、写真家をサポートする活動とも繋がっているんだなというのが分かりました。最後にこれは言っておきたいというのがあればお願いします。
仲里:いろんなことを話したようで自分が暴露されたような(笑)。
野中:若い世代への期待や、彼らをどういうふうに見ているのかについては。
仲里:(彼らは僕らを)どうせ蹴とばしていくわけですから(笑)。先行する世代の宿命かもしれません。
野中:傍から見ていると、親子以上に離れている人たちと対等に接している様子は、あまり他では見ない光景だなと。沖縄の雰囲気というか、(仲里さんたちが)つくってこられた環境がそうさせているのか、それが後世に繋がれて、他の地域ではなかなか見られない現象だなという印象を受けました。
仲里:確かにそれは他ではあまり見られないような関係、光景かもしれませんね。
池上、野中、町田:ありがとうございました。