美術家(絵画)
1933年東京都生まれ。
1952年都立日本橋高等学校を卒業後、(株)凸版印刷のアートディレクターとして26年間勤務。1964年《10人のインディアン》で第1回長岡現代美術館賞展大賞受賞。インタヴュー前の2011年に渋谷区立松涛美術館で開催された個展「空襲25時」は戦争を主題にした展覧会。インタヴューでは独学で水彩画を描き始めた頃から現代まで自作について絵画論を展開。また幼い頃体験した東京大空襲~疎開と戦争時の様子を詳細に語る。聞き手は美術家の山口啓介。2003年に10人の画家と10人の評論家が加わって構想・出発した《地球・爆》を構成する2人の作品論が興味深い。2回目の聞き取りでは、1968年のアメリカ滞在や、ポップ・アートとの関わりについて語っていただいた。
岡本:今から40年以上前、うちの娘がもう50過ぎているんだけど、(彼女が)小学生位の、PTAの関係かな、家内がおばあさんと友達になりまして。孫のことだと思うんです。多分ね。そのおばあさんと仲良くなってね。私は、もともと東京なんだけど、もうすぐ50年になるんだが、鎌倉の極楽寺の山の中にアトリエをつくって住んでいたんです。そこへ、そのおばあさんが遊びに来たんです。それで私、2階のアトリエで絵を描いてたら、彼女が上がってきましてね。「ご主人はどちらのお生まれですか」って聞くんです。で、「私、東京です」って言ったら、「ああそうですか、私も東京です」「じゃあ、東京はどちらでしょうか」「神田です」って言ったら、「私も神田なんですよ」って言って、「神田はどちらなんですか」って聞くから「小川町」「あら、私も小川町だったの」「僕は小川町の3丁目7番地です」って言ったら、「私も3丁目7番地なんですよ」って言うのね。「え!じゃあ同じところにいたんだ」「うちのはす前に更科って大きなそば屋があって。そのすぐ道路挟んだ2軒位先に新星館って映画館があった。それが戦後、遠くにあった南明座がそこに移って来たんだよ。うちはそのすぐそこ」って言ったら、「岡本さん、って言うでしょ。待って下さいよ。もしかしてあなたは、ふうちゃんの息子さんですか?」って言うの。うちの母親はね、婦く子って言うんです。「えー!」って驚いて。「ふうちゃんの息子さん!私は岡本さんちの裏長屋に住んでたんですよ。小さい時。」ふうちゃんと私の姉が、みんな子どもなの。「大の親友でねえ。毎日遊んでたんだ。私は妹だから、ちょっと年が下なんだが、3人で毎日遊んでた。鎌倉でふうちゃんの息子さんに会うとは驚いた!世の中って不思議ですねえ!」って。それで「大きな材木屋さんでねえ。」って言うんです。で、あっ、ちょうどいいや! うちの家内は、岡本家って言うのは代々貧乏人の家系だと思ってたんですよ。私は貧乏人の小せがれだったと。もう信じて疑わない。私は昔はどうだったこうだったっていうのが負け惜しみみたいで嫌だから。もうそこはねえ、昭和天皇に教わった通りにねえ、堪え難きを耐え、忍びがたきを忍んで、僕はひとっことも言ってないの。「家内はほんとに貧乏人の先祖代々小せがれで来たんだと思ってますよ。あなたちょうどいいところへ来た。岡本家についてしゃべってくれませんか」って言ったら、「蓬来屋さんが貧乏人って言うんですか?冗談じゃないわよ」って。昔の材木屋っていうのはみんな大きいのよ。「あんたのところ文房具屋でしょ。格が違う、格が!」って言われちゃったの。それで「へえ」なんて言ってね。「もう毎日毎日朝から店屋もんなんかとっていたような、そういう家なのよ!」なんて言ってんだよ。「大体あの辺はみんな大きいんだ」なんて言ってね。「いいぞいいぞ、もっとやってくれよ」なんて言ってたの。それでどんどん言ってもらったんですよ。そしたらね、家内は元気なく「へえ、あっそう、あっそう」なんて言って。で、ねえ、ま、一通り終わってね。「人はね、見かけによらないんだ。だからあんまり軽々しく言わない方がいいんだよ。俺はじーっと今まで我慢してたんだけどね、本当の事を言うとね、今、新宿駅あるだろ。新宿駅正面から二光にかけての7000坪はねえ、岡本家の土地だったんだよ。だけど、明治はね、あの辺はみんな田んぼだよ。そこを全部売っても、御徒町に100坪しか買えなかった。新宿なんて片田舎だよ。」って言ったの。内藤新宿町って言って片田舎だった。だからね、「僕を見てください。貧乏人の小せがれに見えますか?」「品がいいでしょ!おっとりしてるでしょ。お金のことだってがちゃがちゃ言わないでしょ。それは何故か。生まれがいいからよ」ってね。「だからお前気をつけてものを言えよ」って(家内に)言ったの(笑)。そういうことを言ったことがあるんですよ。
坂上:代々ずっと…
岡本:青梅に関係があるんですよ。よくわかんないんです。おじいさんが死んじゃったから。お墓はあるけど戦災でやられているでしょ。家譜帳なんかないからわからないんですよ。ちゃんとあとで聞いておけばよかったんだよ。それでうちの叔父なんかに、子どもの時に「うちの先祖は何だ」って聞いたら「天照大神」って言うわけだよ(笑)。わかんないんだよね。それでどうもね、紋からいくと桔梗紋だから、丸に桔梗だから、材木屋だから、やっぱり岐阜の方から来てるじゃないかな。明智なんかは桔梗紋ですね。城下町は丸に桔梗とかいろいろなのつけるから。岐阜の方から中仙道通って青梅に来たんじゃないかと思うんですよ。青梅に遠い親戚があるんですよ。母方のね。私が40いくつの時に青梅の土地から300坪岡本家の土地が出て来たんです。私が会社を辞めるころね。それは後の話だけど。それで、青梅からずっと新宿を通って御徒町を通って神田に出て来たらしい。私が赤ん坊の時は、かなり大きい材木屋だったみたいですね。で、うちの母親はお嬢さんで育ったわけね。あの辺の下町の娘っていうのは、みんな三味線なんか習ったりしてるから弾けるんですよ、ちゃんとね。で、ものすごい美人だったの。後で写真見せてあげる。すげえ美人だったのね。で、私が昭和8年生まれだから、その前の7年には日米親善野球でベーブ・ルースが来てるんです(註:ベーブ・ルースの来日は昭和9年)。そんなの見に行ってるんだよ、後楽園にね。グローブ(註:レフティ・グローブ)ってピッチャーがいてね。スモークボールって言ってね、早すぎて球が見えなかったんだって。「本当に見えなかったよ」なんて言ってた。そういう母親でね。うちにはヴァレンチノのブロマイドとかいっぱいありましたよ。それから歌舞伎とかいろいろあった。父親の方は材木町の。あれも神田になるんじゃないかな? そこの材木屋の息子で。かなり大きな材木屋だが兄弟が10人いるでしょ。6番目なんて言うと、長男が後を継いじゃうと、あとみんな出されちゃう。結局他人の飯を食って、岡本家のお婿さんでやってきたわけですよ。両方ともまあ、ちゃきちゃきなんだよね。それでね。私のうちは分家して、鷺宮の駅前。何でそんなところへわざわざ家をつくって建てたかと言うとね、中野刑務所が得意先だったの。それだから行ったんだと思う。ところがね、鷺宮なんて田舎ですからね、その当時は。僕は赤ん坊だけど断片的にね、パッパッと覚えているんですよ。抱かれてね、台所の窓からすぐ畑があってね。その向かいに、夜なんか明かりがいっぱいついていた。駅の。それで電車がポー、ガーと出たり入ったりしてる。それを抱かれて見てるわけ。
坂上:当時、西武鉄道は走っていたんですか。
岡本:西武電車走ってますよ。でも中野のあそこじゃ、他の商売しにくかったんだと思うのね。それで、今度は下谷、御徒町のちょっと浅草寄りに西町っていうのがあるんです。東京市下谷区西町19番地っていうのね。で、店舗借りまして、土間がずーっとあって。だからいるところが少ないんだよ。光は通らない。上から明かりを採るようになってた。それで荷物がダーッと入ったかと思うと、こんな通路になっちゃう位入っちゃう。それがバーっと無くなっちゃうの。そういう風な感じでね。夏目漱石がね、西町と関係あるんですよ。住んでたとか、何か関係あるんですよ。本当の職人町。そこで2歳位から小学校位までそこにいたの。商人ですからね。特にうちの場合は全く知的環境がない。両親なんかもね。全くうちには本なんて1冊もない。まるっきり。せいぜいあるのは大衆雑誌のキング。あんなのが転がってる位。あとは私の講談社の絵本とか。ポパイとか。ベティーブープとかミッキーマウスとか漫画の本がある位。あとは何にもない。その代わりね、感性を刺激するものはものすごくあった。何しろ母親は、そういう調子でね、帯なんか自分で描くんですよ。三角形のパラピンに入れてね、それでこう、帯を。うまいんだよ、それを自分でこうやって締めて。小さいながら「綺麗だなあ」って思いましたよ。すごい美人だったよ。それで、その西町の隣に竹町があってね。そこに叔母さん夫婦がいてね。その叔父さんっていうのは折りの職人でね。一度僕にね、船をつくってくれたことがある。おもちゃのね。カチカチ山のうさぎが乗ってるやつ。あれと同じなのをつくってくれた。それでその辺のオモチャ屋で売ってるのと違って、もっと精巧に出来てる。ものすごくうまいんですよ。それを持って遊んでいたら母親がね、「それちょっと貸してごらん」って。それでこう、ね、うすーく綿を、ぴちっと、1ミリか2ミリ位かな、ピチッと引くんですよ。それに水をスッと入れてね、仁丹の小さいような種をパラパラパラッと入れてね、こういう紐付けて掛けてくれた。するとすこーしずつ伸びてくる。まだ5つか6つかだから。毎日楽しみなんだよ。それで草がみんなこんな倒れないで。まっすぐ立って生えてくる。曲がらないの。まっすぐ。それで大体10センチか、12センチ位ね、子供ながらいいなあと思ったよ。あるいはビーズでいろんな飾るものをつくってみたりね。そういうねえ、感性を刺激するものがいっぱいあった。その代わり知的なものは何もない。それであの、小学校1年でね、我々は、国語は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」って言うんですよ。そのあと妹たちは「アカイ アカイ アサヒ」って。我々は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」。学校で勉強してるんですよ。するとね。母親がね、妹はまだ赤ん坊で抱いて現れるんですよ。私長男で、妹が2人。一番下は赤ん坊だった。何してるのかな?って思ってたら、先生に呼ばれて、「岡本、おばあさんが急病だ。すぐ帰りなさい」だから「先生さようなら」って帰るでしょ。で、うちに帰ってくると、病気じゃないんだよね。関係ないんだよ。本家のおばあさんはピンピンしてる。妹はね、よそ行きの服着ちゃって。それで「これから浅草行くんだよ」なんてね。それで「それ、早く脱いじゃって、早く支度しろ」なんてね。支度して昔の円タクで。タクシーだよ。私の記憶だけど、今のタクシーよりもちょっと大きいんじゃないかな。運転席の後ろの補助席がポッと出るんですよ。で、後ろには親父と母親と赤ん坊が座ってるんだ。で、妹と僕らが向かい合わせで座るんですよ。浅草すぐだから。それでね、何度か、まあ行ってるんだけど。松竹座ね。あそこではね、女剣劇やってるの。大江美智子は初代目と二代目がいて。そのあと浅香光代になるでしょ。その大江美智子の前、不二洋子っていうのがいたんですよ。我々の世代はね。それをね、親父と私とで見るわけですよ。で、母親はね、妹たちをつれてすぐそばの国際劇場でレビューを見る。そのあと待ち合わせて。で、今度は浅草のロックがすぐそこだから。ダーッとね。今はこんなカサカサになっちゃったけど、昔はバーッと、人がね、ダーッと歩いてる。すごいんですよ、もう。ずーっとまっすぐ行くと右側に瓢箪池っていうのがある。その真ん前にね、万世座って寄席があったんですよ。で、なかなか綺麗な建物でね。歌舞伎座の建物があるでしょ、あの屋根みたいな感じで、あれは、クリームだけどこちらは赤いんだよ。なかなか立派な寄席があって。そこで寄席を見て。聞いたり見たりして。漫才とか落語とか。で、帰りはとんかつが多かったなあ、こんな厚いとんかつをね、昔の50銭銀貨。りっぱな銀貨ですよ。あれ。とんかつ。洋食ったってね、カレーライスとハヤシライスとオムライスとチキンライスと、それからお子様ランチ位しかないんだからね、あの時代。うちはね、とんかつはよく食べたね。それでまた円タクに乗って帰って来た。ところがね、うちの親父が材木屋で商売していて、「デフレは怖い、デフレは怖い」なんてことを言っていたんです。昭和の4年が世界大恐慌ですから、当然そのあおりを受けて不景気時代に入っているわけですよ、もう。だから非常に具合が悪くなってきて。だから日本は中国など海外侵略。そういうはけ口を求めていた時期ですね。ナチスは1933年、我々が生まれた時にはもう政権とったでしょ。で、満州事変は1931年か、私が生まれる2年前にスタートしてる。それからもうすぐ支那事変が。日本は支那事変とか満州事変とか言ってるけど、向こうは日中戦争だよね。つまり始まってるわけですよ。
山口:それは岡本さんが、昭和8年生まれでしょう? 何歳位のときにお父さんはそういうことをおっしゃったんですか。
岡本:5つ位。
坂上:1938年位
岡本:その位。戦争はもう始まってた。中国と始まってた。満州事変が。支那事変(註:1937年)はもうちょっとして始まるんだけど。
坂上:だけどまだ家族でみんなで浅草に行ってご飯食べてということが。
岡本:そのことを言おうとしたんだけどね。つまり何て言うんだろうな。幼児ですから、はっきりしたことはわからないけど、そういう不景気だ不景気だって言ってる割りにはのんきだったですよ。うちのまわり全体が。それで、5つの位のときに「デフレって何」って聞いたんですよ。
山口:そのころデフレって言葉は使ってたんですね。
岡本:うちの親父使ってたから。「デフレは怖いデフレは怖い」って。
山口:今と良く似てるね。
岡本:それだからね、「デフレって何」って聞いたらね、「デフレっていうのはね。お金の価値はあるんだよ。それに釣り合わないといけない物の価値がないんだよ」。バランスが取れてないって言うんだよ。お金の価値はあるけど。反対にインフレになると、今度は、お金の価値がなくて物の価値がある。その両方の釣り合いが取れていればいいんだけど、今取れてないんだよ、っていうことを言ってましたよ。その当時。デフレっていうのは。だからね、我々が生まれたときからデフレってものが始まっていて、で、今またデフレが来ちゃってるんだけど。そういういろんな時代を通ってるんだけどね。あの時代はね、非常にものも豊富だし、何か蓄音機のレコードなんかありましたよ。確か鳴るんだよ。僕ははっきり覚えてないけど。何でもあった。どうもこれは私の印象なんだけど、大正デモクラシーの残像みたいなのを引きずっていたんじゃないかな。つまり、永井龍男っていうのがいるでしょ、昔の短編作家。明治の。ね。あれは神田で生まれて鎌倉で住んでる。ところがあの人の、東京石版図絵だったか絵図だったかね、中編小説。(注:『石版東京図絵』)それ読むとね。神田の、我々が生まれた所が舞台で、その頃の子ども達の事が書いてるんですよ。それ読むとね、私たちが子ども時代に遊んでた遊びと全く同じなんですよ。僕らのことを書いてるのかなあ、って思うと、これ明治のこと書いてる。明治の子どものこと。ということはね、明治、大正デモクラシーの残像みたいな遊びを我々はしていた。だからね、世相は、もう不景気だ不景気だって言ってるけど、まだその実際の庶民の動きっていうのは、建前と本音みたいなところがあって、まだ下の部分の庶民感情はね、まだゆるやかなね、ああいう大正デモクラシーの流れを引いてるって感じがね。わからないですよ。私はそういう感じを受ける。
坂上:他の方の話を聞いてると、生まれが1928年とか27年とかあの位の人は、「ほんっとに、あと1-2年早く生まれていたら、大正ロマン、ああいうものを体験できてたから、自分の人生変わっていたんじゃないか」っておっしゃってました。
岡本:だけどね、まあそうかもしれない。うちの母親なんか、ね、大正15年、昭和元年だけど、海水浴行って、写真撮ったりするでしょ。あの頃の写真屋ってものすごくしゃれたものになるの。モボモガっていうのはもっと昭和の我々の頃の7-8年の頃出てくるわけでしょ。うちの母親はもっと早いんですよ。モガの走り。例えばここにね、これがあるけど、これうちの母親ですからね。ここ(「岡本信治郎の世界 東京少年 絵画は笑う」展カタログ、1988年、新潟市美術館)に出てる。この頃の写真屋って、下町の写真屋って何でもしゃれていた。これ、七五三の写真見て下さいよ。この僕の写ってる。この背景、絵描いてあるけどさ、今、こんな豪華なのない。下町でそんなふうにね。何かこう、センスがあるんだよ。今はこう無地(の背景)で撮るだけじゃん。昔は凝ったことをやるわけよ。だから、その水着なんかすごいでしょ。今のファッションモデルみたいでしょ。大正15年っていうんだから。
山口:ちょっと話が脱線するかもしれないんですけど、今ね、例えばデフレって10年以上やってるでしょう。で、僕らは戦後民主主義、の後に生まれた時代で、何かね、大正デモクラシーとデフレ、民主主義とデフレ、って同じような。それは岡本さんから見て、どんな感じですか。
岡本:我々はね、良き時代の残像みたいなのから始まって、そいでデフレみたいなのになって、それで軍国調のすごいのになって、僕も軍国少年になって、それが負けて、今度は一夜にして民主主義国家になって変われって言うんだ。それから今度本当の戦後の混乱期を通って、戦後の高度成長期があって経済大国になって、それでまたいい気になってのぼせ上がった後、デフレ。平成大不況に入ってまた本格的なデフレになっちゃった。本当だったらもう戦争になっちゃうんですよ。こんな不景気になったら。すると軍需産業が儲かって、大体三井三菱とか見てると、何か戦争がないと伸びていかないんだよ。で、戦争があると軍需産業なんかで伸びてるの。ガーッと。今はそんなこと出来ない。昔だったら戦争になっちゃう。似てるんです。そういう意味でね。で、話を戻すと、昭和の、何年かな、私が小学校1年生の時に、夏休みにね、犬吠崎(千葉県)に、夏休み40日位あるでしょ、あしか島って、犬吠崎の灯台が見えるのね。あそこの海の前に家を借りて、家族で行ってるんですよ。親父だけは、商売があるから行ったり来たりしてる。すると東京の子どもが自然のね、あの時は海だけどね。あそこはすごい波がくるんだよ。うちの前に土手があって。土手を降りると赤い砂浜があるんですよ。そこをずっと行くと犬吠埼が見える。太陽が、ものすごいやつが、日本で一番最初に昇って来るんだ。銚子だからね。それで、波がね、遊んでいてもこういう大きな波が追っかけてくるの。で、逃げるわけ。それで、東京の子じゃ見た事がないようなこんな大きいヒトデを初めて見るわけですよ。そういう風なことでね。割とゆったりとしてた。あの頃の東京の下町って割とね、青木繁でも何でも房総へ行くじゃないですか。割とみんな向こうへ行くんですよ。ね。こっち、鎌倉の方に来ないであっちに行くんですよ。
山口:離れているからかな。
岡本:それもあるけど、詩人でも何でもみんな行くじゃないですか。青木繁の《海の幸》とか。ああいうのね。うちもそれで行ってたと思うよ。今の時代と違うから、強烈に自分の中にね、わずか40日間だけど、非常に子どもの時の原点みたいなの、風景として鮮明に残るんですよ。
山口:それは年数で言えばいつ頃ですか。
岡本:昭和13、14年位だね。それで昭和15年が紀元2600年。その時に花電車がいっぱい出るわけ。
坂上:ですけどすでに第二次世界大戦が始まってましたね。
岡本:もう日中戦争始まってます。それでもね。国民感情はそんなでもない。
山口:そうすると、岡本さんはその頃、子どもだったけれども、何かやっぱり、アーティストって先を予感するところがあるじゃないですか。すると、今、その時、何があってこうなってるっていうのありますかね? つまり、その時に、明るいのに急にこう変わった、ていうか。そういうの感じましたか。
岡本:変わったのは、のんびり暮らしていたのが、急激に変わったのは、大東亜戦争が始まってから。昭和16年。12月8日。急に軍国主義的色彩が強くなった。
山口:戦争が始まる前に、世間一般は戦争に対して、「ヤバいかな」って思ったような感じはなかった?
岡本:それはあったと思いますよ。ABCD包囲陣って、経済封鎖されちゃって。日本は中国に入って行くでしょ。みんなもう全部包囲されちゃって。経済封鎖されちゃって苦しいわけ。国民感情としては鬱積した気持ちがあるんでしょうね? あんなにアメリカと仲良かったのにさあ。昭和7年位にはチャップリンだって来てるし。ベーブ・ルースだって来てるし。ものすごく仲良くって親米的だったのにさあ。急激に悪化してくるわけでしょ。とにかく大東亜戦争が始まるわけだ。それで大本営発表。「西、太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス、朕ハ茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス」これと、その真珠湾攻撃と同時にやったって言ってたんだ、日本は。アメリカは何も来ないのに、突然来た!卑怯だ、って。後で原爆の事と絡めてそう言うんだけど。だけどあの時日本人はみんなあの時は同時に行ったと思っているわけ。それで「ついに日本は立ち上がった!」っていう。国民感情としてはそんな感じだった。
坂上:今まで鬱積していたものがあって。
岡本:そうだと思います。新聞なんか一斉に書いたもん。うわーって。よくやったって。それであの時、特殊潜航艇に乗って、真珠湾攻撃して、全部死ぬわけですよ。九軍神。今度の僕の絵の中にみんな出てきますよ。九軍神。戦の神様になっちゃうわけ。実際は一人は瀕死の状態、重傷で捕虜第1号になって戦後現われるんだけど、その時はわからないじゃない。全員死んだと思ってた。それからね。もう軍事色一色。「進め一億火の玉だ!」「撃ちてし止まむ!」それが小学校2年生のとき。もう軍国色に一気に染まるから。小国民は大変だったんだよ。
坂上:高揚感に溢れて。
岡本:高揚感どころか。日本がやたらと強いんだよ。どんどんどんどん、日本軍が連戦連勝なんだよ。どこへ行ってもこてんぱんなんだよ。マレー半島の銀輪部隊。自転車部隊なんですよ。それが、今日はあそこまで行った、今日はあそこまで行った、って。マレー半島を南下して、とうとう2月25日にはシンガポール陥落ってことになった。
坂上:じゃあもう本当に3ヶ月でドドドドドドーっと。
岡本:シンガポール陥落の時は提灯行列だよね。パーシバル将軍と山下中将の、絵があるでしょ(註:宮本三郎《山下・パーシバル両司令官会見図》1942年、東京国立近代美術館蔵、無期限貸与)。映像で出て来るわけですよ。するとね、「何だ、イギリスの兵隊ってのは、洗面器被ってるよ」って。洗面器みたいな平べったい鉄兜被って、半ズボン履いてね。「戦争するのに半ズボンなんて履いてんのかよ」って。
坂上:ああいうのを国民が見て。そういう風に言うんですか。洗面器被ってるよ、とか。
岡本:「洗面器みたいだ。背はでかいけどひょろひょろだ。」なんて言って。ね。それで、大きな旗かついで、YESかNOかってやられるじゃないですか。大きな竿担いで、やって来るわけですよ。それで山下がこうやってさ、虎みたいな感じで。恰幅がよくて、いかにもね、日本の軍隊の象徴みたいな。どう見ても子どもから見ても、「やたらと背はでかいけどひょろひょろだなあ」「腰が全然入ってねえなあ」なんて思って。それで、「見ろ、山下中将、見ろや!」って。それからプリンス・オブ・ウェールズ撃沈なんて。マレー沖海戦の絵、僕ら一生懸命絵描きました。「愛機、南へ飛ぶ」とかね。もうすごい盛り上がったんですよ。小学校3年のときにね、「米英を倒してつくる大東亜」なんて標語つくっちゃって。何しろ聖なる戦いを戦ってると思ってるんだ。ようするに、欧米列強の植民地支配に対して、ついに日本が立ち上がって、「神国日本」正義の味方だ!聖なる戦いだ!って、学校で教わるんですよ。だからもう我々はね、すっごく正しいことをやってるって思ってた。
坂上:何か聞いてるとそういう風な気持ちになるのよくわかる。
岡本:国民感情はみんなそうですよ。
坂上:今のイラクなんか見てたってねえ。
岡本:みんな聖戦? 日本は日清日露、大国相手にみんな勝っちゃって。今度は始まったら、アメリカだってイギリスだってこてんぱんじゃないか、って。南方へどんどんどんどん攻めて行く…。
坂上:だけれども、南方の人達も喜んで。
岡本:最初は喜んでたらしいんだよね。だが本音の部分はそうじゃなかった。大東亜共栄圏には建前と本音があってね。結局は国家的侵略だった。大東亜共栄圏の主導へとつながった「八紘一宇」神国の思想は、世界が平和になり一つになったあかつきには、その世界的頂点に天皇を置くというんだから、もともとおかしいんだよ。
坂上:近所の人とか、そういう人で、兵隊さんで行ってる人とかはたくさんいるんですか。
岡本:いましたよ。行く時は大変な騒ぎよ。勝ってこいよと勇ましくって、旗立ててさ。みんな、「私が今度会うときは九段でお会いします」とか何とか敬礼してやってるから。みんな日の丸の旗を振って。
坂上:近所の人が行ってるってなったら応援の気持ちにもなりますよね。
岡本:だけどね、それこそ建前と本音がやっぱりあるんだよね。そこを僕は言おうとしてるのね。そういう高揚感があって、僕は学校でもそういう軍国調になってきたでしょ。で、うちに帰って来て「天皇は神なんだよ、現人神(あらひとがみ)なんだから」って言ったらうちの親父がね「何言ってんだい、ただの人間じゃん」って(笑)。「どこの馬の骨だかわかりゃしねえよ」なんて言うんだよ。「うわ、ひどいなあ。国賊だよ!大変だよ、そんなこと言ったら」「お前ねえ、表行って余計な事言うんじゃないぞ。憲兵隊に連れていかれちゃうからな」って、そういうこと言うわけですよ。「じゃあね、聞くが、世界中で一番強い軍隊はどこだい」って聞いたらね、僕は日本が一番強いと思っていたわけですよ。そしたら「そりゃあ決まってるじゃないか、ドイツだよ」って。チェッ!嫌んなっちゃうなあと思ったよ。「何で一番強い」って聞いたら、「そりゃあ、決まってるじゃないか! ドイツの機械化部隊っていうのは、お前、すごいんだぞ。あの機械力にはかなわねえ。なんてったってドイツが一番強いさ。」って言うんだ。で、「うちの親父は非国民でしようがねえなあ」と思ったよ。ところがそう言ってる僕がね、学校でそうやって軍国的に教育されてるでしょ、ところがね、無意識にね、「亡ぼーされたるポーランドー」なんて唱ってるんだよ。それもねえ、今は最後文句しか覚えてないが、全部その節知ってるんですよ。それで「ポーランドって国はかわいそうなんだよな」「大国に挟まれて、両方からやられてかわいそうな国なんだよな」って言ってるの。ところがね、そういうこと僕に教えてくれた人は誰もいないんだ。僕のまわりには知的な人間なんて誰もいない。ということはね、やっぱりさっきのデフレの時代に大正デモクラシーの残像があったんじゃないかと思ったのと同じように、やっぱり上はね、熱いお湯みたいに煮えたぎってギャーギャー言ってるけど、市民感情っていうのはゆるやかな動きをしてるから、まだそういう中で、ポーランドはかわいそうな国だとか、歌か何かあったんだと思うんですよ。時代ってのはね、ひとつの時代に染まってるわけじゃないんだよね。庶民っていうのはね。だからうちの親父みたいに「どこの馬の骨だかわからない」って言ってんだから。うちじゃあ母親は大英帝国が大好きだったんだよね、大体。僕は、七五三でモーニングみたいなの着てるでしょ(写真で)。チャップリンだかチャーチルみたいなの。あの頃の男の子は仮装がかって、男の子は陸軍大臣とかね、海軍大将の格好をしてるんですよ。僕だけ、ああいう格好してるでしょ。あれ、着るの嫌だったんだよ。だけどうちの母親はね、英国が大好きでさ。だからうちで戦争の話なんてしないんだよ、全然。まるっきり興味ないんだよ。だけど「焼けちゃったら大変だ」とそういうことは一生懸命言うんだけどね。それだからね、きっとね、そういう歌を唄ってるってことは、時代の流れっていうのは、やっぱり建前と本音があってね、上の方はそうなってるけど下は違うっていう、自然の流れで。だから、じゃなかったら、僕がそんな歌唄えるわけがない。誰もそんなこと教える人いないんだから。それを無意識に言ってるってことはね、そうだと僕は思いますね。例えば、今、デフレだデフレだ、って言ったって、結構みんな贅沢な生活してるじゃないですか。人が死んで自殺なんかしてる割にさあ。ねえ、そういう感じあるでしょ。どうもね、子どもだから確定的なことは言えないけど、そういうね、ひとつの時代ってのは、上と下と、建前と本音、そういうものが必ずあって。庶民っていうのはね、そんな理知的にこう、対応してないから。本能的に体で動いてるから。だからねえ、そういう意味ではね、動きは遅いんじゃないかな。だからそういう。ポーランドがかわいそうだとか何だとか、もう、少し前から流れていたんだと思うんです。
山口:今の話を聞くと、お父さんあまり外に出ていないって話だけど、ドイツのその機械化のこととか、そういうことを知ってるっていうのが…
岡本:あの頃はやっぱり、我々だって知ってたよ。その、もっと激しくなったら、V2号とかさ。V1号なんて、あれロケットの始まりじゃないですか。線路がついてる長距離砲とかさ。そういうのは他の国にないじゃないですか。それにあの頃日本は三国同盟じゃん。
山口:じゃあ、アメリカは。一般の人はアメリカにどう思っていたんでしょうね。
岡本:だから僕はさあ、大人はねえ、ついこの間までは親米で、お互いに仲良くやっていたわけだから、子ども程極端な軍国調は持たなかったんじゃないかと思う。ただ燃え上がっていたことは事実。今度は百年戦争だとか、バカなことを言っていたよ。
山口:今のことを聞いていると、もちろん岡本さんは子どもですからあれですけど、その後、長く生きておられるじゃないですか。何か今の話を聞いていると知らないうちにあっという間に戦争になった。それまでは大正ロマンとかそういう話があった。
岡本:子どもにとってはねえ、大東亜戦争っていうのは突発的に来たよ。僕は突然「臨時ニュースを申し上げます」これだから。
山口:そういう目から見て現代って岡本さんの目からどう見られますか。
岡本:現代?僕らは「不信の時代」って言われていてね。そういう風に価値観が年中変わっているから、そういう意味では、過熱してひとつになって行くっていうような形じゃなくて、やっぱりジーッとこうやって見てるところがあるんだよ。本当はここの時代だったら、昔だったらこうやって当然戦争は起こってるな、とかね、そういうことはありますよ。これから先は文明がひとつの山を越えて、巨大文明がね、いよいよ下り坂に向かっているなあっていう、そういう認識がある。じたばたして何とかかんとかって改善しようとしながら、やっぱり発展的崩壊っていう、ゆるやかじゃなく、今度はこう。一気に来る。ゆっくりじゃない、ガーッと来る。そういう形で来ると思うんだよね。そういうことは感じるの。それでまた話をもとへ戻すとね。小学校の4年生になった時、轟っていう問題の教師がね、僕らの担任になったんですよ。頭が小ちゃくてね、細くて、背が高いんですよ。太ってでかいんじゃなくて、細くてでかい。こいつがね、軍国教師って言うんだろう。とにかく凶暴なんだ。
坂上:先生なんですよね。
岡本:そう。
山口:20代位だったんですかね。
岡本:20いくつか位じゃないかな。それがもう暴力教師でねえ、4年生をバンバンぶん殴る。小学生ですよ。それで、僕が一番ねえ、あの轟が許せないと思っていることがひとつあるんだ。
坂上:その頃って戦争はもうなんとなく日本が負け戦みたいな。
岡本:まだ負けてない。負けてないんだ、表面では。だけどミッドウェーか。あの辺はねえ、「ちょっと変だぞ、こっちが負けてるんじゃないか」っていう意見は多少出てたよ。勝った勝ったっておかしいぞ?っていうのはあったよ。だけどまあ国内は、大変な盛り上がりで。それでその轟がね、どうしてもあの野郎が許せないのはね。あなたたちが考えるビンタってあるでしょ、ほっぺたぶん殴られる。ビンタっていうのはバーンと殴られて瞬間的に痛いのはビンタじゃないんですよ。こうねえ、ひねって、思い切って殴られると顔のほほが、こうねじくれて曲がっちゃったような感じがする。小学校4年生だよ。
坂上:恨みがあるとしか思えないですね。
岡本:恨みどころじゃないんだよ。ヒステリー起こしてすぐ真っ青になる。目が血走ってねえ、これで。一時間中じんじんじんじん、ほっぺたが、ひりひりひりひり痛いの。これが小学校4年生が殴られたビンタですよ。ほっぺたをパチーンじゃないの。僕が一番怒っているのは、朝礼の時間で、先生も生徒もいる所で、校長がね、何か抑揚つけた長いくだらない話をするんだよ、つまんない。でもあの当時の子ってみんな静かに聞いてるんだよ、黙って。騒いだ奴はいないんだよね。1年生から全部いるわけ。そのときね、轟と僕はパッと目が合っちゃったんだ。瞬間顔色がぱっと変わって真っ青になったんだ。「何だ?」って思ったの。何もしてないんだから。何だ何だって思っているうちに、あっという間に目の前に来てね、「あ、殴られる」って思った途端、僕の前の奴が張り倒されたんだ。僕じゃなかったの。その殴られ方がね、思い切って右手で殴って、左足で子供の足払ってるんだ。パーンと殴られて転ぶでしょ。校庭の地面はコンクリート。ベチョッと音がして。瞬間、子どもがピーンと直立不動して立つ。あの当時の子どもはすごいね。4年生の子ですよ。長日部(オサカベ)って、山羊みたいな顔の、細くて、頭のいい子だったの。色の白い。そいつが僕の前にいてね、張り倒された。朝礼で。全部教師がいるところで、そういう殴り方をする。考えられないでしょう。
坂上:ちょっと異常ですよね。
岡本:異常過ぎるよ。今なら犯罪で新聞に載るどころじゃないよ。
坂上:それがみんなが全員見ているという状況で。
岡本:それが当たり前の時代だったんだ。
坂上:空気としてもおかしい国になっちゃってますね。
岡本:おかしいです。完全に。殴る必然性何もないですよ。
坂上:やっぱり時代がおかしくなってる。
(中略)
坂上:1944年。
岡本:そうそう。サイパン島取られて硫黄島も取られてる。今度は我々は学童疎開。東京の子どもはみんな疎開しなければならない、親と離れてね。それで生徒40名位かな。教師が一人で。寮母さんがが二人ね。ひとりは40位だったと思うの。あれは現地で採用。もう一人は僕らの同級生の姉さん。20歳位だったかな。寮母さんとして。お寺へ。埼玉県の禅寺へ行ったんです。
坂上:どの辺ですか。
岡本:春日部からね、3里位入ったところ。その頃のね、本当に田舎。親のことを「ちゃん」「おっかあ」って言うんだよ。
坂上:なんかすごい。昔の。
岡本:時代劇に出て来る農民そのまま。農民が虐げられた時代がずっとあったんだと思う。それでね、生活様式が江戸時代と全く同じだった。
坂上:全然神田と違いますね。
岡本:それで学童疎開をした。最初は田舎の学校に編入されてお寺から通ったわけですよ。その話をすると切りがないんだけど、そこでいじめにあったら大変なのよ。もう逃げ場がないんだから。僕はね、猿山の軍隊ってよく言うだけどね。動物園に行って、猿を見るの嫌いなんです。弱い奴がちいちいしていて。でかい奴はえばっているじゃないですか。その中で共同生活しなくちゃならない。だけど頭のいい子でも脱落者が出るんですよ。落後兵が。集団生活が出来なくなって、寮母さんにべったりくっついた奴がいるんだよ。すると「新井君はしょうがないわねえ」って言いながら、結構面倒みてるの。それがクラスの憎しみの的になっちゃうわけよ。みんなが人間扱いしない。虫けらみたいな。「おまえ死ね」なんて言ってね。「おまえそばに来んな」「臭え、ほら」ってみんなもう面と向かってバンバン言うわけ。それをじいっと耐えてる。そういう時代ですね。お風呂入るんだってね、家庭用の、昔の小さな小判型。40名全員が入るの。まず先生が入って。寮母さんが2人入って。それで我々が2人ずつ入るの。するとね、もうグラグラにね、熱くするわけ。先生が「金玉をギュッと握って、息を止めて、えいって飛び込めば絶対に熱くない!」って。それでみんな2人ずつ「えい!」って。飛び込むんだよ。大体15秒だよね。2人ともパッと飛び出る。「はい、次」。
坂上:そんなに炊かなきゃいいのに。
岡本:そうはいかない。洗うなんてことはないな、ほとんど。だからすぐ体中シラミだらけになっちゃった。我々ね。最初にお寺に着いた時は、どんぶりが届かなかったんだよ。みんな各自お弁当(の入れ物)持って来てるの。それに寮母さんが入れるんだが大きさが違うじゃないですか。これが大変な騒ぎになって。1ヶ月位かな。清水っていう台湾人の子でね。人種差別はないんだよ、その頃。台湾とか朝鮮もいたかな、台湾が2人いたかな。一番クラスで体が大きいんです。それがドカタ弁当みたいにこんなでかいの持ってきてるんです。寮母さんがみんなに入れると「てめえ一人で食う気か!」「きたねーぞ!」ってあちこちから罵声が飛ぶ。すると清水が泣くんです。それで「減らしてくれえ」って泣くの。寮母さんが「みんな同じよ」って。「こんなにでかいんじゃあいっぱい入っちゃうじゃねえか」「おまえ汚ねーぞ!」と、もうあちこちからバンバン出るわけ。一ヶ月位泣いてたねえ。
坂上:じゃあご飯がいっぱい食べられなかった。
岡本:ご飯は一応食べられていたけど、みんなガツガツしていた。お皿もみんな舐めちゃう。毎日毎日大体大根の煮たのとか、さつまいもとか。みんな舐めちゃう。お皿綺麗になっちゃう。それで今考えると、どんぶりひとつ位出してね、「こうだろ、こうだろ」ってやってりゃ済むんだよ。それをやらないで。「みんな同じよ」って。そのために泣いてるんだよ。それで一回ね、私が隣村まで教師にお使いに行ってくれって言われて行ったの。で、戻って来て。3時頃かな。山門くぐって帰って来たらね、ちょうどこれからおやつ食べようって。で、みんなでお寺の縁側に出て、木に上ってる奴もいるんです。お芋が1本。それを食べようとしているところに僕が帰ってきたの。で、寮母さんが大きなザルを持って。フッと振り返ったときに僕が帰って来たの。「わ!岡本君のおやつ忘れちゃった!」そしたら、まわりで食べようとしていたのがみんな緊張してね。バッと。で、「岡本、芋がねえんだってよ!」何て言い出すんだよ。「お前、かわいそう」なんて言って。「どうする?」「芋はうめえぞ」「ほら、うめえぞ!」って。
坂上:あ、くれないんですか。
岡本:くれやしないよ。みんなニヤニヤやりだすんだ。するとね、「かわいそう」とか言ってね。「どうしよ」なんて言うからこっちは「いらねえよ」って言ったんだ。すると「ワ!泣きそう泣きそう!」なんてヤジが飛ぶ。僕は心の中でね、「これは大問題だ!大問題だ!」って怒っていた。別に芋がないから怒ってるわけじゃないんだよ。つまりね、集団生活は、目立っちゃいけないんですよ。学童疎開とかで目立っちゃうといじめの対象になっちゃう場合がある。本能的に子どもたちはそれを恐れているんだ。みんなと同じことをやってりゃ一番いいわけですよ。それをさ、こっちは何にもしてないのにそういう状況。これ、下手するといじめの引き金になっちゃうんですよ。僕はね、それを怒ってるんだ。自分自身は何もしていないのに、こういう形が起こっちゃう。それを怒ってるわけだ。そういうね、時代だったですね。
坂上:自然にそういう風になっていくわけですね。子どもたちが。
岡本:すごいですよ。そういう点は。
坂上:理性みたいなものはまだないしねえ。
岡本:理性なんてものはないですよ。子どもは感情をもうもろにぶつけるから。言い難いことも平気で言うしね。いろいろあります。そういうことは。だからああいうところでいじめが始まっちゃったら大変じゃない。だからそういうことは非常に敏感に、本能的にね、自分がそうならないように注意しているわけです。それから、何で僕はああいう歌を唱ったのか知らないけど演芸会があったんですよ。で、近くの村人も来て。我々ひとりずつ唱わされたんです。そのとき僕がねえ、昔の落語家で兵隊ものってあってね。歌の文句、ナッチョラン節っていうのを覚えていて。それを、長い文章もあるだけどそれを唱ったのね。「ちゃちゃんちゃんちゃん」「これは、くちじゃみせん(口三味線の意)でありまーす」「下士官のそば行きゃあめんこくさい。伍長勤務は生意気で、粋な上等兵にゃ金がない、かーわーい新兵さんにゃ~暇はない~ナッチョランナッチョラン」「これは日本の上等兵様ではないのでありまーす」なんてやってた。何でああいう歌を唱ってたのかわかんないけど、別に反戦的な意味があるわけではないが、僕には小さい時から、笑いに置き換えようとするところがあったみたいだ。
坂上:(この歌は)おちゃらけてた感じですね。
岡本:何か軍隊をちゃかすような歌を唱って、結構受けてましたよ。そういうことやってた記憶ありますね。またおもしろいこともありましたよ。一人ね、脱腸になったって奴がいたのね。そいつが話をしたんですよ。それを5人位で聞いてたの。「脱腸っていうのは、腸がこう下りてきて、大きく膨らんでくるんだ」ってそいつが話をしたの。まずおちんちんの上の方のここね、ここが膨らんでくるんだって。そこでみんな自分のを見るわけだ。見ると何か膨らんでるなあって思うわけ。「おまえどう?」「俺もちょっと膨らんでるよ」するとこれは大変だ。「俺たち脱腸になっちゃったなあ」って。それで教師のところに行ってね。「ちょっと、相談があるんですが」って言って。「何だ」「僕ら脱腸になっちゃいました」「お前らみんな脱腸になったの」「なっちゃった」「そんなことあんの?」でね。「ご飯をたくさん食べると、腸に負担がかかって下がっちゃう」って言うから、「しょうがないからご飯を減らしてもらおうと思います」って言ったの。「だって、お前ら腹減ってしょうがないんだろ。そんなことしてたら、お前」「でも、脱腸になるの嫌だ」なんて言って。「なら、寮母さんに言ったら?」なんて言うんだよ。「チェッ!冷てえなあ、こっちは悩んでんのに」なんてみんなで言って。そんなようなことがあって。ああいう集団生活ってそういうことがありましたね。それから我々ひとクラス田舎の学校に編入されたんだが、田舎の子と喧嘩しちゃってね。みんな付き合わなくなっちゃった。先生もそのうちおかしくなっちゃって。学校行くの止めたんです。それでお寺で勉強するようになった。それまではね、2キロ位。雪が降ると裸足で行くんです。裸足で門のところからね、走って。ダーって行くわけ。途中まで行くと平べったい足の裏がまんまるくなっちゃったような感じがしてとても痛い。
坂上:しもやけがひどくなって。
岡本:しもやけはできなかったよ。だけど足が真っ赤になっちゃって。で、向こうへ着くと、足が真っ赤っ赤。その代わりぽっかぽか。途中で平べったい足がね、腫れちゃってんじゃないかって思う。そういう風に、あの当時の子どもは、結構大変ですよ。それで何だかんだ言ってもね、親が子どもに会いたいもんだから、口実作って、東京へ戻すんですよ。で、僕もね、歯の矯正をさせるんだって言って。ちょっと歯並び悪いところがあったの。矯正させるんだって言って。で、神田へ戻って来たの。その時は神田の家に移ってたんだけどね、東京の歯医者に行って、東京の学校に復学してやってたんです。そうしたら19年の11月1日、一機飛んできたんです、初めて(註:B29が1機で偵察に来た)。本当は18年の4月18日に本土空襲っていうのがあったんです。航空母艦で近くまで来て、飛んで来て、それで京浜地区ちょっと爆撃して、神戸だったかな、どこだったかやって重慶行っちゃったって。これは大したことなかったのね(註:1942年4月18日のドーリットル空襲のこと。東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸が爆撃される)。本格的なやつは、11月1日ね。神田のね、高いとこね、薄墨色のアメリカの飛行機が一機飛んで来たの。
坂上:そういうときはサイレンが鳴るんですか。
岡本:あの時は鳴ったかどうか覚えてないけどね。普通は警戒警報鳴るんですけど。初体験ですよ。確か鳴ったんです。だからみんな空を見たんだと思いますよ。
坂上:じゃあそういうのが来るっていう覚悟はみんな。
岡本:ないない。ただね、東京大空襲の映画はつくってましたね。もし、こうなった場合って言ってね、そういう映画をね。あの当時つくってたな。我々映画館で見たな。東京が爆撃される映画。見たよ。爆撃される。それが高いとこ飛んで来たんです。で、みんな「ああ、あれがアメリカの飛行機だ」って。11月1日に来て。偵察機だね。で、いよいよ11月29日神田がやられたんです。で、ゴーゴー、頭のね、上を行って。焼夷弾の落ちる音がヒューヒューヒューヒューってするわけ。我々はその頃は防空壕ちゃんと掘ってあるから。で、そこへ飛び込んで。目をギュッと抑えて、耳もギュッと押えて。アーッと口開けて、うつ伏せて。目玉飛び出しちゃうといけないから。それから耳を、鼓膜やられちゃうから。で、口へ抜かせると。目をこうやって口をこうやって開けて。で、防空壕で伏せてる。そうするとね、ヒューヒューヒューヒューって音がするんだ。バーンバーンバーンバーンだんだん近づいて来て。それで「バーン!」って来たのね。で、外、入口開いてるから、うちの前の酒屋の白いモルタルがパーッと反射して赤くなるんですよ。で、「焼夷弾落下!」って、で、飛び出すともう、50メーター位先がもうボーボー燃えてる。するともう、うちの親父がね、「お前ね、電車道の向こうに電信柱あるだろ。妹連れてあそこに立ってろ。これから荷物出すからな、そこでお前番してろ」って。そこで妹の手を取ってバーッと向こうへ行ったわけです。怖いも何もないんだ、その時夢中で。するとね、うちの2~3軒先の組長さん。いつもラジオ体操朝早く率先してやってた。防火訓練、出ないとうるさいんだよ。それがさあ、自分の家に、防火用水からバケツで一生懸命自分の家に水をかけてるんだよ。「組長さん!火事はあっちだ!」って言いたいんだけど、そんなこと言ってる暇はない。それで渡ってね、荷物どんどん。ね。で、男手はうちの親父と、中学生のおじさん達。その3人でバンバン。その頃はもう商売やってなくてアパートになってんですよ。うちは。割と綺麗なレモンイエローだった。
坂上:賃貸か何かで貸してたんですか。
岡本:貸してたの。だって、男達が死んじゃってね。我々行ったときはもうアパートに。割と小奇麗な。レモンイエローの四角いアパートだった。それで貸してたんです。とにかく家具をどんどん運び出す。そこへ町内会の警防団のおじさんがやってきて、「坊や、こんなとこにいちゃ駄目だよ、危ない危ない」と言ってね。「今、ここで荷物の番してなきゃならない」って言ったら、「そんなことやっちゃ駄目だ。」で、無理矢理連れて行かれた。そしたら大きなビルの下の地下へね、みんな入ってた。僕らもしょうがない。妹と3人で入って。それでね、朝、警報解除になって出てきたの。で、家へ帰ってきたらね、家の前まで神田駅から全部やられて。家は残ってるんですよ。家の前のそば屋まで焼け野原。真っ黒けになって煙がくすぶってる。家へ入っていったら、畳から何から何にもないんだ。
坂上:全部取られちゃったんだ。
岡本:取られたんじゃないの。全部引っ越しちゃった。火事場の馬鹿力ってやつ。でね、2軒分荷物がなんにもない。畳までないの。空っぽなの。それで3人でねえ、「何もねーよ」って言ってたらね、借りてる若い人が帰って来てね。「あ、お父さんとお母さんのいるとこ知ってるよ」「これから行こう」って言うんだ。そしたら荷物を置いたちょっと先のところに空き家があってね。それでね、空き家へちゃっかり入ってるんですよ。天井へ届きそうな位荷物があって、その端にみんないるんですよ。で、「お前達無事か!」なんて言って。それで僕も子どもながらに、2軒分数時間で引っ越しちゃったよ、って飽きれたよ。たった3~4時間で引っ越しちゃったの。それから「もう子どもはこんなところに置いていかれん。すぐ返さなきゃだめだ」って、それでまた戻されちゃった。うちもどっか疎開しなきゃ、って。で、うちは田舎ないから埼玉県のね、学童疎開したとなり村に家を買ってね、そこへ行ったんですよ。春日部から3里行ったところで、今度は、田舎の学校に通うことになって。で、荷物を全部運ぶことになって。そういうことはうちの親父は一生懸命やるんだな。戦争なんか関係ないんだけど、とにかく自分の家のものは守ろうって言うそういう意識が強いんだ。それでね、「おばあさんの荷物も持って行きましょう」って言ったら、おばあちゃんは「絶対に嫌だ」って言うんだ。「うちだけは焼けない!」って言うんだ。「まわりが焼けてもうちだけは絶対に焼けない。そんな縁起の悪いこと言わないでくれ」って怒っちゃうんだ。それでねえ、お婿さんだからあんまり強くは言えないわけだよね。それでもね、やっとひとつね、タンスひとつだけ。もううんと文句言われて。だけどやっと1個だけ持って来たの。で、それだけ助かったの。
坂上:あとはもう全部家もやっぱり焼けちゃって。
岡本:全部焼けちゃった。全部。おばあさん何もなくなっちゃった。タンス1個だけ助かった。文句さんざん言われたけれど無理矢理持って来ちゃった。その点うちはみんな助かった。そしたら(昭和20年)2月25日大雪の日。また神田がやられたんです。その時は焼夷弾3発くらって焼けちゃった。あのレモンイエローの綺麗な家が燃えるのは雪の日の落城のように美しかったに違いないと子どもながらに思いましたよ。
坂上:もう受け入れちゃってるってことですよね。
岡本:受け入れちゃってるっていうかね、もうみんな焼けちゃってたからね、しょうがないんだよ。だからそういうもんかなって思ってた。それから空襲がどんどんひどくなって、いよいよ3月10日がやってくる(註:1945年3月10日の空襲は過去最大の三個航空団による夜間の超低高度からの焼夷弾で約8万人が死亡した)。で、その疎開先から東京大空襲を見る。そういうことですよね。
(休憩)
岡本: 3月10日、東京から40キロか50キロのところから坊主頭の東京少年が村の中で見てたわけですよ。そうするとね、40キロ位だと、もう火は近くに見えますからね。すごいですよ。
坂上:(空襲が始まったのは)突然、という感じですか。(いきなり)B29が来て爆撃が始まって。
岡本:ラジオがガーっと鳴って「東部防空情報、東部防空情報」って言うんです。確かね、「伊豆南方海上に、数目標あり」から始まったと思うんですよ。普通のいつものやり方は、伊豆の方から入って来て、富士山を横目に見ながら、帝都上空に来て、爆撃して、東南方海上に退去せりって帰って行く。しかし後で日米の記録を見ると東京湾からも入って来てるっていうようなことも書いてあるのね。だから両方から来たのかもしれない。これは子どもの記憶だからはっきりしない。とにかくあの時にラジオで「後続目標続々あり」って言ってた。300何十機か来たんですよ。それで約2時間位爆撃されたわけです。それで、僕の考えで言えば、普通だったら、こっちに落としたら人間はあっちに逃げて行きますよ。あっちに落としたらこっちに逃げて行く。ところがあの時はね、まわりにまず落として最後に真ん中に落としたらしい。これじゃ逃げられないよ。それにアメリカはね、非戦闘員は狙わなかったって書いてあるんだが嘘だよ。あそこは全部非戦闘員ばかりなんだよ、あそこは。何もないんだから。全部、本所深川から浅草から下町全部でしょ。神田は少し早い。もうやられちゃってるから。
坂上:ドーナツみたいな感じで。
岡本:そう。まず回りを塞いで。だから、
坂上:逃げられない。
岡本:そう。本当に。人命を殺すためにやって。それで戦意を落とさせるってことでしょう。あの時司令官が変わったらしい。その前のはそういうことをやろうとはしていなかったらしいんだな。ところが後から変わった奴が、今度はそういう作戦を立てた。今までは高いところを飛んできたわけ。それで上から無差別爆撃で落とすわけです。編隊組んで、昼間に来ると一機位燃えていたりする。ところがあの時は、低空で来たの。顔が見える位のところで来たんですね。それでその司令官は戦後、日本の自衛隊に協力したとかで、大勲位何とかって一番いい勲章もらってるんですよ。この間テレビに出てきました。自分のうちに飾ってあるのよ。勲章やなんか。ウインドウケースに入れて。で、何か、傲然としてインタヴュー受けてた。そいつがやったんだ。
山口:ルメイとかそういう名前じゃなかったですか。
岡本:そうそう何かそういう奴ですよ。ルメイ(カーチス・エマーソン・ルメイ)とかそういう奴ですよ。
山口:戦後の自衛隊をつくったって。
岡本:そうそう。自衛隊をつくって何かやったとか。中曽根とかももらった大勲位何とかってのをもらってんだよ、あれね。向こうの家にすごいウインドウなんかつくっちゃって、飾ってある。賞状とか全部。それで、えばって見せてる。この間テレビでやってたけどね。「あ、こいつだ」って思った。そいつがやったんだよ。それでねえ、あなた、火事で一軒燃えたってすごいですよ。それが下町のほとんどが、わずか数時間の爆撃で全部燃えた。それはすごいよ。めちゃくちゃだよ、とにかく、もう、ガンガン燃えて。それでね、B29が火の玉になって、こんな火の玉になって、途中でバラバラになって落ちたりするの。それでね、僕が一番不思議なことが起こったのは、空襲の猛火の中、突然白色光の巨大火柱が2本そそり立った。天橋立式大爆発? 天空を貫いたか、地に突き刺さったか? 張り裂けるような大音響とともに一瞬にして消えた。あれが何であったか今だに解らない? あの時B29が頭の上に飛んで来て、隣の村が爆撃されたんですよ。村には何もないんですよ。焼夷弾を棄てたんじゃないかな? 帰りに。だってあんなところ爆撃する必要がないんだからね。真っ暗でね。それで農家が数件焼けましたね。竹ヤブが燃えると凄いんだよ。ポンポンポンポンって破裂して。朝までポンポン言ってた。それらを東京少年が見つめているわけですよ。自分の街が焼けてるとこを。今度のシーン(『空襲25時』出品作品)はあのシーンなんですよ。ここへ立つと、あの当時あの少年がね、いまは白髪のね、後期高齢的少年がね、ちょうどあそこへ立つとそういう同じ情景になるようになってるんですよ。今度の絵が。
坂上:(痛ましい空襲の様を岡本さんはキャンバスの上に)綺麗に描くじゃないですか。
岡本:そこら辺は後で説明しますよ。(笑)それはもうちょっと先の話だねえ。つまりそういう大空襲があったってこと。あの時にうちの親父が本所に用事があるって、自転車で出掛けたんですよ。3日間行方不明だった。それがね、もう煙突掃除人みたいに、顔もすすだらけだし、洋服もすすだらけになって。煙突掃除のおじさんみたいな格好して自転車で3日目にやっと帰って来たの。「すごかったよ」って言って。きっと避難民か何かで道が塞がってたんじゃない? 40キロ位に3日かかってるんだから。中野とかもっと先の方まで行ったとか言ってたよ。どんどん自転車でね。自分は自転車乗ってたから、もうバンバン逃げちゃったって。後であそこに行ったらすっごかったよ。めちゃくちゃで。死体だらけで。そんなことがありました。それから、うちの家内はね、永代橋のたもとで燃えたんです。山一証券のビルがあったでしょ、あそこのビルです。あそこで燃えたんですよ。あれは学童疎開が終わって、僕より1つ上ですから、中学生になった時にこっちへ戻って来てた。戻ってるわけだ。もし永代橋のたもとがやられるんだったら、普通だったら皇居に逃げますよ。ところが佐賀町の方はバンバン燃えてるし、こっち側も燃えちゃってて、もう逃げられない。とうとう永代橋の上に戻ったわけ。一晩中。で、他の橋は、どこだか、白髭だったかな、2つ位が全滅してるよ。火が横に走る。橋の上は満員だからね。で、幸い永代橋は助かった。あの(絵の)中にうちの女房が描いてありますよ。13歳の。生還した姿。あの中に出て来る。恐怖が麻痺しちゃうのかねえ。隅田川を火の粉が飛ぶわけです。火の粉ったって家位のが飛ぶから。すると家内はね、おもしろかったって言うんです。麻痺しちゃうんだねえ。それから、新聞記事で、5-6年前か、3月10日の特集やってて。主婦の手記が載ってるんですよ。隅田川のどこかの橋の上だった。橋の上はもうギチギチなんだって。両方燃えてるわけですよ。ものすごかったらしいね。それで念仏をみんな唱えだしたんだって。その念仏がね、だんだん大きくなって、それで、もう大群衆になってね、もう、天に届く位のね、火がゴーゴー燃えてるでしょ。それを凌駕するような大合唱になったらしい。そういうことがあったって書いてありますよ。結局その人たちは助かったんだ。それで僕の絵の中に「念仏マンダラ」って言葉入れたんですよ。そういうことがありました。
坂上:焼けた中にドラマじゃないけれど、みんな助かろうと思って。
岡本:そうそう。念仏を唱えるんだね。うちでもね、疎開先で、艦砲射撃か? すごい音がするんだよ。離れているんだろうけどねえ。ドカーン!ドカーン!って。家がグラグラ揺れるんですよ。農家から買った家は太い柱使ってるんですよ。蚕やるところだったらしいのね。だから柱がものすごい太い。その家がグラグラグラグラ。焼夷弾なんかそんな音しないんだけどね、あれは艦砲射撃なんかじゃないかと思うんだよ、ドッカーンドッカーンって間隔空けて鳴るんですよ。家がグラグラグラグラ。相当離れていると思うんだけど家が揺れるの。それでね、一度、家の庭に落っこったんじゃないかと思うようなものすごい音がした。それで我々は思わず布団被っちゃった。その後はもう麻痺してしまったのか? いっくらでかい音がしても怖くないんだ、全然。1回でっかいのが鳴ったから。あの時うちでね、「念仏唱えろ」って言われたよ。それで「なむあみだぶなむあみだぶ」って。僕もやったよ。その時に。
坂上:中原佑介さんが空襲にあったときは、防空壕の中で隣のおばさんとしゃべってて。で、空襲がやんだなあと思って外に行って。で、またバーッと爆弾が来たから防空壕に戻っておばさんを見たら、自分は平気なのにおばさんは既に丸焦げになって死んでいて。それで、何か、人間って“もの”だなあって言う風に感じて、人間と物質になったって。っていう風にひとつのエピソードとしてあったっていう風に聞いてるんですけど、同じ空襲でもいろいろ受取り方がありますね。
岡本:いやあ、それはいろいろあると思うよ。だってさあ、すぐそばで直撃くう人もいるだろうしさ、焼夷弾のね。そういうのはよく聞くよ。
坂上:中原佑介さんのようにそういう虚無的な気持ちになったというのもあれば、逆に変な話ですが空襲がまた豊かなものを生み出す原動力になっているかもしれない。
岡本:うーん。あのねえ、そうは思わないけど、でも僕なんかから見ると、僕はよく言うんですよ、(展覧会タイトルを)「空襲25時じゃなくて空襲花火にしようか」って言ったんだよ。そしたら光田さんが「それはやめたほうがいい」って。
坂上:何で「空襲25時」っていうのを今年やろうと思ったんですか。
岡本:それもよく聞かれるんだよ、あのね、「25時」ていうのは、戦後5年目位に、ルーマニアの作家が『二十五時』っていう小説を出したんです(註:コンスタンティン・ヴォルヂル・ゲオルギウ著、河盛好蔵訳『二十五時』筑摩書房、1950年)。これは世界的なベストセラーになった。その時僕は高校の2年生で、ベストセラーだってことを知らないで読んだんです。その頃の僕はまだ不条理って言葉を知らないわけだ。戦争文学の最初の出会いなんです。今回は、絵画少年的な、少年的なものがいつも全体に絵の中に重なって出てくる様な感じだし、僕の原点的な意味合いもあるし、現代の不条理性、病理性、そういうものの象徴として『25時』って言葉を使おうと。だけど本当は迷ったんですよ、この言葉を使うの。僕は、もっとね、最初は「空襲少年」にしようかとかね、あるいは「大空襲時代」ってチャップリンみたいな名前にしようかとか、いろいろ迷っていて。一番最後は「空襲花火」にしようかって言ったのね。「悲しき祝祭 痛ましき玉屋鍵屋」っていうような。僕の場合は、単なる悲劇的な意識で、空襲を捉えるんじゃなくて、喜劇でもあるし悲劇でもあるっていうような視点に立って。原爆の図とはひとあじ違うという視点に立っているから。あの絵の中には「玉屋鍵屋」なんて言葉が出てくるんですよね。非常に危険な言葉が出ている。まあ、そういうことはあるんだね。いずれにしてもあの空襲は非戦闘員を狙ったものであることは間違いありません。
坂上:私達(のような一般市民)を殺すために。狙われた。
岡本:そうそう。まさにそういうことですね。そして、あの空襲体験が自分の中で次第に絵画的原点になってくる。僕は18歳位から絵を描き始めるんだけど、その第一主題が「東京大空襲」。「いつの日か、これを描きたい」と。それで何度も挑戦することになるわけです。
坂上:最初にそれを描きたいと。
岡本:思ったのは18の時です。最初は僕のおばあさん描いたりしてるでしょ。その時期は普通に写生とかしたりしてるけど、原風景としてはまずあるわけですよ。いつの日か僕は絵描きになったら、必ずこれ描くんだ、と。そういう気持ちはあったね。そして40歳になって始めて挑戦するんですよ、17歳年下の伊坂義夫と合作『少年戦記』でね。
坂上:じゃあそれまではまるでやっていなかった。
岡本:やってない。出来ないし描けない。まだ戦争画描けない。だから、それはない。それから今度55歳、65歳と何回も挑戦して失敗して、それで今度は70代の挑戦だった。そういう意味では、僕の場合は3月10日。2月25日よりむしろ3月10日の方が、自分の中のひとつの原風景というか、絵画的原点になっているんですね。それで少年期に田舎に疎開するでしょ。村の中でうちの母親が目立ち過ぎちゃうんだよ、あんな田舎行っちゃって。夜なんか三味線弾くでしょ。ペンペンってとんでもないところまで聞こえちゃう。学校行くと、僕は芸者の子になっちゃう。芸者の子って言われちゃうんだ。東京の少年は少ない。田舎の子が多いわけだから、最初はちやほやされて。6年生になるといよいよ旧制の受験ですよね。我々は受験するが田舎の子は高等小学校へ行く。勉強するのとしないのとクラスがまっぷたつに分かれてますます溝が出来てくる。「おい、中学生、落っこったら笑ってやるからな。」って。我々が散々やられた訳ね。まあ僕はそれでものすごい復讐をするんだけどね。すごい悪が一人いて。どうしても許せない。あいつをぶっ殺すって。で、あの頃もう、我々は暴力少年だったからね。今の子どもと違うんだよ。騎馬戦やったってさ、帽子のひもをギリギリ結んで。いっくら引っ張ったって取れないようなね。それで殴り合い。そういうのばっかりだった。とにかく暴力少年ですから。仕返しもすごいんだよ。普通じゃないんだ。半殺しなんだ。もう、子どもの喧嘩じゃないね。それで、とうとうそいつを僕はやったんだ。徹底的に。あのとき、もし、死んじゃうとか、頭蓋骨骨折とか、脳挫傷とか、そうなると、少年院に送られちゃっただろうね。あの当時は民主主義じゃないからすごかったと思うよ(笑)。
坂上:やってせいせいした。正義を実行した、わけじゃないけど、やってすっきりしたとかないんですか。
岡本:正義じゃないですけど、我々散々やられてたからね、一番悪かったの、そいつがね、悪知恵が発達して。何だかんだってあいつにやられたわけよ。顔見るのも嫌だったね。そいつがね。それでずっと狙ってたんだよ。一度あいつを1時間ばかり追っかけて隣村まで行っちゃった。結局捕まらないで学校に戻って来てしまった。二人ともフラフラでとうとう開いている教室の隅に追い込むことが出来た。こっちの殺気に相手は恐怖心で抵抗出来なかったんでしょうね。頭かかえて部屋の隅に座り込んでしまった。僕は机のフタを取って相手をメッタ打ちにした。もしあの時彼が死んでしまったり事件になっていたら、僕は今頃裏街道を歩く反社会的人間になっていたかもね。(笑)あの頃、東京から来た5年生の男の子が田舎の子に押えられてレンズで太陽光線で両目を焼かれてあやうく失明しそうになったことがあった。
坂上:話聞いてると刑務所の中みたいですね。
岡本:その後、彼がみんなに言いつけて大勢で仕返しが来ると僕は思っていた。僕は男としてやることはやったんだ。あとはどうなってもいいや。その代わり、暴れるだけ暴れてやるからと考えていた(笑)。でも彼も男だねえ。言わなかった。しかしこれには二通りの考え方がある。一つは子供だって男のメンツがありますよ。あれだけ叩きのめされてみんなに言いつけて大勢で仕返ししたら、もう男じゃないね。(笑)二番目はあまりにスゴい報復なんで怖くて言えなかったのかもしれない。もし言ったら今度は本当に殺しに行くよ。(笑)その位の迫力があった。大分経ってね、30歳の時にね、同窓会があったんだよね、田舎で。それで、(知らせが)来た時にね、「あんなところ行くかい!」「(誰が)行くか!」ってね。だけど絵描きは好奇心が強いのかなあ。あいつらどうなったかなあって思ってのこのこ行ったの。そしたら東京から誰も来なかった。僕だけ。今度、大歓迎されたよ。みんなに。「よく来たよく来た」って。「今日泊まってけ泊まってけ」って。それでねえ、あれだよ、飲みながらさあ、「あの時は俺らも被害者だった」とか言ってんだよ。「何言ってんだよ、お前ら加害者だよ」って思ったんだけどね。そしたらねえ、マツモトキヨシ、そういう名前なんだよ。テレビで、マツモトキヨシっていうといつもあいつを思い出すんだ。で、そいつ出て来たよ。「どうもしばらく」って出て来たのね。で、こっちも「どうもしばらく」って。2人でね、そのときの話一切しなかった。何もお互いしなかった。あの時。ひとりやくざになってたね。暴力団かなにかのね。やくざにね。
坂上:まあそれだけ激動なことを少年時代に経験して。
岡本:そりゃひどかったですよ。浅草でね、戦災孤児みたいな浮浪者が子ども同士で血だらけになって喧嘩してるんだよ。それを大人が大勢囲んで見てるんだよ。両方とも血だらけなんだよ。それを大人が囲って見てるの。変なもんだよ。
坂上:ああいう戦災孤児ってみんなどうなったんですかね。死んじゃったんですかね。
岡本:いや、死にゃしないよ。みんなね、けっこうしぶとく生きてたよ。僕はよくたかられたよ。浅草の映画館へ行って、見ていると、「おい、ちょっと」なんて連れて行かれちゃって。「おまえ、金ある?」「5円位ならあるよ」って。「今度何かあったら遊びにきてくれよ」「俺さあ」って向こうもチンピラなんだよ、「何何組って言ってくれれば、わかるよ。今度遊びにこいよ」って。こっちはいつも5円位しか持ってないんだけど。
坂上:しぶとく生きて大人になって。
岡本:そうそう。だって通学列車がすごかったもん。だって、あそこは、春日部の方って、3里位あったんだから。自転車で出て来るんだから。それで学校まで、「俺は田舎の学校は嫌だよ。おれは東京の人間なんだから、絶対東京行く」ってね。東京受けて、日本橋の都立中学に入ったわけですよ。
坂上:あ、それで高校が、針生(一郎)先生がいたんですか。
岡本:ああ。針生さんは高校だけど。僕が入った時はねえ、僕が入ったのは昔の一七中なんですよ。小学校の先生がねえ、浅草のあんちゃんで、七中なんですよ。で、七中はいいんだよね。あの当時は二十一中まであって。一応、都立行ってると、親戚でも「頭がいいわね」って言われた。十七中は七中より少し落ちるかな。だけど戦争だから、あの焼け出されて、七中と十七中が一緒になってたんですよ。先生も同じなんですよ。だからまったく同じだった。生徒も混じって。それで七中に本当は彼(先生)は行かせようと思ってたんだと思うけど、田舎の学校だから落ちたら大変だと思ったんじゃないかな。「それで、お前ねえ、十七中行け」って葛飾中学へ行ったの。七中と先生も同じだし。それで行ったんですよ。その頃日本橋に移っていて。それで日本橋中学になり、それで新制の日本橋高校になった。高校になって初めて針生さんが入ってくるわけだ、教師として。それで、今度、そのね、中学入って、普通の都立中学でしょ、焼け跡の中にぽつんとあるわけですよ。それで近所はもう日本橋とか水天宮なんかあの辺防空壕生活している人がいっぱいいたよ。そういう時代ですよ。それが通うのが大変だったの。2時間半かかってね。今の2時間半と違う。電車は屋根の上にいっぱい乗ってる、連結器の上に10人位乗ってるとか。みんな外へもハミ出してるし。便所なんかないんだよ。部屋はあるんだけど、下はないんだけど。そこは一番特等席だったの。あの中8人は入ると後はもう入れなかった。あとはガラス窓が全部ない電車とか。椅子が全部ない電車とか。それが通学列車でしょ。1945年が終戦だから、中学3年頃夜目が見えなくなっちゃったの。栄養失調で。過労で。あの当時はねえ、試験勉強すると、徹夜したりしてやるんですよ。点数で全部行っちゃうんだから。で、点数が足りないと落第しちゃうんだよ。あの当時ね。で、普段は全然勉強しないで、その時だけ遅くまでやるんだ。で、栄養事情ものすごく悪くて。戦争中よりも戦後の方がむしろ悪かった。で、中学3年のときにね、夜目が見えなくなって。電気がついているところは見えるんだよ。真っ暗なところは田舎の道見えないんだよね。で、通ってて。よく土手から自転車ごと落っこっちゃった。県道ってのは砂利道なんだけど、白くボーッと見えるんですよ。月が出てるといいんですよ。月が出てるとボーッと見えるんだけどね。それもやっと見える状態になっちゃって。あれは栄養障害ですね、鳥目になっちゃって。その3年生の頃、やっと東京に戻って来たわけ。だけど、まだそれでもね、工場地帯の、会社の社宅に入ったものだから、工場地帯の中の、一角にあるわけですよ。それ全部焼け跡ですから、夜になると真っ暗でね。銭湯に行かれないんだよね。妹なんかとこうやって肩へこう手をやって歩いていたんだ。
坂上:もう全然見えない状態。
岡本:全然見えない。時々木やなんかがこうバーッと。
坂上:盲人みたいに。
岡本:見えたり見えなかったりって感じで。電気がついてれば見える。ようするに栄養障害ですよね。そういうことがあった。
坂上:でもまあすぐに持ち直して見えるように。
岡本:それはまたしばらくたったら回復して。
坂上:でも怖くなかったですか。一生見えないとか。
岡本:それは思わなかったねえ。鳥目で栄養失調になってっていうのわかってたから。何しろ戦争負けたときに、14日、我々ね、切り込み隊の練習してたんですよ。小学生なのに。で、アメリカ兵が来たら木刀で殴り殺すとか、竹槍で突き刺すとか、パラシュートできたら突き刺してやるとか。本土決戦。沖縄やられてるじゃん。本土決戦。一億総玉砕。そういう感じだったのね。それが一夜あけたら、戦争の敗戦の玉音でしょ。「天皇陛下が何か言うんだってさ。」僕は、「きっと天皇陛下は、もっと頑張れって言うんじゃないかな」なんて言ってさ。それで、隣の農家のおじさんたちと、縁側にラジオ出して、うちの親と妹たちと一緒に聞いたんですよ。何言ってるかわからないんだよね。録音も悪いし。難しいんだ。言葉が。わかったのは「堪え難きを耐え、忍びがたきを忍び」あれだけだよ。あとは何言ってるのかさっぱりわからない。あの日よく言われるけど、晴れてて暑かったって。そうだったかもしれないな。何か夏の印象が強いんだよね、あの時。空がものすごく晴れてたとか。そういうふうに言う人がよくいるんですよ。確かに晴れてたよね。澄み渡って晴れていたかどうかは知らないけどね。夕方になってね、後ろの農家の子が、僕より2つ位年下の子が「何か、負けたらしいぞ。樺太と台湾と、朝鮮はなくなるんだってさ」って。で、こっちも「負けたの?え?負けちゃったの?」なんて言ってたんだ。負けるなんて全然考えなかったから。子どもだからね。絶対に最後に勝つって思ってた。明くる日、16日、小学校へ出席しろって通知が来たの。それで学校へ言ったら、校長がね「国体を護持し、これから君たちは、新日本建設のために立ち上がらなければいけない」って言うんだよ。そのときは6年生位になると、もう国体護持の意味はわかりますからね。「なんだよ。国体護持なんて言葉があるんだ」って思いましたね。「それだったら何も特攻隊なんて行かなくたって良かったじゃないか」とね。一億総玉砕なんて言っていたんだから。玉砕って。で、もう、負けて、捕虜になっちゃいけないって言われてたんだから。国体護持なんてきったねえなって思ったよ。それもえばって言うわけよ。それまで盛んに言っていた校長がよ、同じ奴が言うんだよ。「これからは民主主義国家として新日本建設のために、君たちは邁進しなければならきゃいけない」って。
坂上:すごいですね、その人。それを自分の中で受け入れるだけで大変なのに、それを平然と。
岡本:いやあ、平然と言ってたね。それでこっちは「何言ってるんだよ」って思ったよ。で、その時初めてね、「ああ、言葉を変えれいいんだ」って思ったんだ。言葉を変えれば世界は変わるんだ」って思ったよ。だって、本土決戦って言われていたのが、いきなり国体護持なんて出てきたからさあ。僕はそのポツダム宣言なんか出てたらしいんだけど、知らないじゃない、そんなこと。で、いきなり校長がね「国体を護持し、これから新日本建設だ」って言われたときは「何だよ」って思ったんだよね。大人たち、いわゆる大人って人たちの変身のね、何か憑き物が取れたみたい。パッとみんな。あれだけ狂熱的に騒いでいた人間があっという間に変わったのね。それで「見よ、東条のはげ頭」なんて流行ってね。東条が悪いんだ東条が悪いんだってなったんだ。それからすぐ「カムカムエブリボディー、ハウドゥユードゥーアンドハワユー」なんて流行ってさ。ラジオで流しちゃってね。英会話の本なんてすぐ出た。あっという間に変わっちゃったの。あの時は本当に。だから我々の時代はね、「不信の時代」って言われてるんですよ。全体主義国家を見てるし、その前の良き時代もちょっとは知ってる。それから軍国主義が過ぎたと思ったら今度は民主主義で先頭立ってさ。後はあなたたちも知ってるような形でくるわけだから。我々はだから不信の時代って言われていたわけでね。後の大学紛争とかいろいろあるけど、僕はねえ、安保闘争とか聞いたって全然ピンとこないんだよ。安保闘争の時はね、僕は完全にノンポリですよ。「勝手にやってろ」って横目で見ていた。そんなに大問題って感じがしないんだよ。僕の中では。触れてこないんだよ。よく大学闘争、って言うじゃないですか。それはあなた。それはその人たちはそうなんだけど、僕の中では引っかかってこない。全然引っかかってこない。だからその後、安保闘争が結局終わって、所謂安保が容認されちゃって、急に静かになっちゃって、みんな何もないみたいな感じで、平気な顔して生きてるじゃないですか。これもまた不思議なんだけどさ。あれだけ熱中していた人さあ。ケロッと忘れちゃう。ってのがね。ちょっと僕は不思議でね。僕はほとんど関わりない。朝鮮戦争ですら、僕はね、若かったせいもあるのかな。
(休憩)
山口:さっき、お聞きしてたら、安保、それからまあいろいろあって、朝鮮戦争と。戦争でああいう想いをされたから、自分はピンと来ていないというお話をされていましたね。ところで、僕は、2000年の終りに《枯野(かれの)と幼年期の終わり》という作品をつくって、そのカタログを岡本さんにお送りしてます。僕はその、枯野というのにものすごい興味があって。枯野(からの)、でもいいんですけど。それで船のこと気になっていて、それと幼年期を掛けたんですね。それで、岡本さん、この個展のカタログにある、2008年に、《枯野(からの)》という作品をつくっているのかな……。で、そこに書いてある文章、これはすごくよくわかります。それでね、僕は《枯野と幼年期の終わり》っていうのをつくった時に、幼年期っていうのをつけたんですね。それは、僕は現代が幼年期の時代だなあってずっと思ってるんですけど。僕らの世代は岡本さんから見ると全然戦争経験していない、民主主義経験してきて、それからテレビと、そういう時代に生きて。まあ、しらけた世代だとか言われて。本当にフニャフニャアっとしたバックボーンを持っていると思うんですね。そういうのを自分たちは幼年期だなあって思ってるんですよ。で、今回岡本さんの作品見ると全然違うんだろうけど、幼年期っていうものをずーっと引きずっておられるなあっていうのがひとつある。それで、だからそのあれだけの体験をしたから朝鮮戦争と、それから安保。安保は2回あったと思いますけど、岡本さんは無関心という。何となく僕らもね、世代は違うけどわかるような気がするんですね。僕は2001年の例の9.11あれがあったときはさすがにショックだったんですね。
岡本:あれは僕もショックだった。
山口:それでそこを聞きたいんですけど、本来なら対岸のね、アメリカのことじゃないですか。それで2回の安保とか朝鮮戦争とかベトナム戦争に対して岡本さんのわりあいと、こう、冷淡だったっていうかな。ちょっと上の世代だけど、麻生三郎さんなんかは、戦争に行かれた世代ですよね、それで例の安保で一人女性が死んでますよね。それを見て急に戦争の絵を描くようになったと思うんですよ。で、岡本さんはそこをスルーしているわけですよね。何故9.11、2001年の時にね、そこで戦争が出て来たんですか。
岡本:それはねえ、やっぱり今あなたの言う通りにねえ、ベトナム戦争の時でも、反戦運動っていうものがあるでしょ。ああいうものに対して「みんなで渡れば怖くない」みたいな反戦運動やりますね。アメリカはジャラジャラジャラジャラ音楽鳴らしたりしてね。それでみんなで、たとえば小野洋子なんかが、LOVE AND PEACEとかやるでしょ。ああいう集団的な、ああいう反戦運動に対して僕は「冗談じゃないよ」という気があったんですよ。あんなふうに僕は出来ないよ、っていう気持ちがあった。あれと同じようにね、安保闘争に絡んだ、左翼系を中心にしたね、ああいうものに対するのに、僕は非常にアナーキーな立場にいたみたい。絵を描いていても。それでねえ、何かねえ、自分の最初の受けた、その断絶っていうかね、あれに比べると、何か本質的なものがないような気がして。針生さんなんかに「岡本信治郎はノンポリだ」なんて言われたことがあるんだよ。途中でだんだん「彼はノンポリじゃないんだな」って文章が変わってきたんだよ。最初は「岡本信治郎は政治的コンプレックスを持ってる」何とかって僕に言ってた。そういうこともあるんだけど、ところが9.11っていうのはね、僕は敏感に反応しましたね。それは何故かというと、真珠湾攻撃と神風特攻のパロディだと思ったの。瞬間的に。「何だこれ」って思ったの、最初テレビ見た時。2回目も相手はアメリカじゃないですか、また。それで、奇襲作戦みたいにボーンとやられたわけだ。それで、「何だこれ、真珠湾と神風特攻をテロリストがパロディ化しちゃったのかな」と初めは思った。そこから一気に僕は、自分の少年期にボーンと跳ね返ってくるわけですよ。この中に。そういう意味での、白昼の戦争体験っていうかねえ、自分の中で少年期と、東京から、それからニューヨークから、それからニューゲルニカとか、そういう形で、どんどんどんどん変化してくるわけですよ。そういう形で僕は敏感に反応しましたね。それからもうひとつは、僕らのまず絵画的に出発した1950年代、それから60年代。これはね、絵画的美意識を追求すると同時に社会性とか思想性とかを持っていたわけだ、強烈に。ね。特に1950年代っていうのは、僕は評価しているわけですからね。ものすごく重要な時代だと思っていますから。50年代60年代っていうのはそういう意味で僕の中にその、根本的なところには表面に出さなくても社会性とか政治性というものはなんか付き纏ってあったんですよ。ところがね、あれだな、太平ムードっていうか、世の中白昼化してだんだん明るくなってくるでしょ。経済大国になって。それと同時に一般人もそうだけど、絵描きもさ、あまり社会性とか政治性とか言わないで、絵画のための絵画という美学的に追求するような絵が多くなるわけですよ。そうすると社会性とか政治性が薄れてくるわけだよ。そういうところにドカーンと来て、社会性とか政治性とかをみんな置き忘れたんじゃないかなっていうそういうような意識をみんな持ち始めた。そういうことですよ。そういう意味の関心で、これは僕だけじゃなくて、僕が自分の少年期の体験から、僕は《笑う雪月花(ころがるさくら)》って絵を描きますね、桜のピカドンとかそういうのを描いていたわけです。それで自分で、今度はニューゲルニカを描かなきゃいかん!って思って。それでその展覧会終わったあと。描き出したわけ。今度出たピカソのゲルニカをパロディ化したやつ。それを僕と同年輩の絵描きたちがそれを見て、僕の絵の後ろで演説始めるわけですよ。彼等はやっぱり9.11にショック受けてるわけだね。何故かというとあの50年代60年代に持っていた政治性とか社会性を、まあ忘れちゃってるっていうかな。絵のための絵画だっていいんだよ。ただあの当時敏感に反応していた戦後の政治性とか社会性とかみんな持っていた意識が忘れられていたところへ、ドカーンと来たわけだ。それで僕が描いている絵の後ろで演説始めるわけですよ。それでまず僕の絵画的盟友、伊坂義夫君が逆上して「岡本さん、《続・少年戦記》をやりましょう」と言い出したんだよ。「伊坂君よ、あの時は僕は40歳、君が23歳、17歳年下だね。高度成長期真っただ中。僕等は平和の中の戦記はいかにして可能か? と問い、世代論を逆手に取って、合作「少年戦記」を変形120号を6年かけて50点制作した。戦争を知っている僕と、ゲーム感覚でしか戦争を知らない君とがかもし出す、笑う白昼戦記を描こうとしたわけだ」。針生さんとかヨシダヨシエも力入れてくれて、バックでいろんなこと言ってくれて、あの展覧会をやったんだ。で、結構話題になったんだ。「だけどもしこれからまた「続・少年戦記」を続けてごらん。これから6年かけてやると僕は77歳の喜寿だよ。君は60歳で還暦だよ。これじゃあ世代論を逆手に取ることできないじゃないか、じいさんとじいさんじゃ老人戦記よ。(笑)いやあもう無理無理!」って言ったの。そしたら中国人の王(舒野)さんが現れて、「僕も戦記に入れてください」って言うから、「何であんた入りたいの?」って聞いたら、「僕は旧満州の一番てっぺん、シベリアに接するところでね、生まれました」と。彼のお父さんが、中国共産党の幹部を養成する学校の校長先生をやっていて、王さんが赤ん坊の時すぐ北京に来たわけだ。すると文化大革命が起こって、お父さんが連行されちゃったんだ。お父さんも心配になったんだろうね。で、息子だけでも助けようと思って、故郷におばあさんがひとりで住んでる。おじいさんが死んじゃって、おばあさんだけがひとり、大草原にひとりで住んでた。そこへ、王さんを疎開させたわけです。文化大革命は10年かかったわけで。彼はそこで大草原の中で育ち、そこが彼の絵画的原点になったわけだ。つまり、「岡本さんに空襲体験とか疎開体験があるように、僕にも疎開という体験があるんだ。少年戦記としての資格は僕は十分に持っているはずだ。だから《続・少年戦記》に入れて下さい」って。で、「そうかあ、じゃあ、世代論はやめて、いろんな世代を入れてやればいいか。だけど出来るかなあ?とにかく考えさせてくれ」って。それで、それから先はあなたも知ってるわよね。要するにひとりで僕は2週間考えたわけですよ。僕はもともとアートディレクター生活を26年間やってきたから、だから岡本さんならディレクション出来るでしょって。それはいいけど、ちょっと待て、とにかく考えさせてくれ、と。それで2週間考えたんですよ。それであの企画書を書いたわけだ。要するに、例えば画家を集めて、合作の真の真の真実とは何か? 戦争画のための合作とはどう可能なのか? そしてその方法論はどうしたらいいのか? 日本中に散らばっている絵描きを集めて合作の真実とは何か? ナーンて言ったって、そんなこと出来るわけがないんだよ。僕がやるとすれば、昔、少年戦記、2人戦記というものを僕等がこしらえたんだよ、1年かかって。伊坂義夫と2人で対話して。この方法論を比例計算的に拡大すれば、それは10人でも20人でも物理的にはできるわけだ。ただ、始まったらもめにもめて大変なことになるぞ…
山口:難産でしたね。
岡本:だけど、もしやるとするなら僕にはこれっきゃない。この際、世代論はやめて、いろんな世代を入れてやろうと。企画書を書いて募ったわけ。それで貴方達が入ってきたんだけど。そしてそういうものをつくり出す基盤は、9.11が僕の中では非常に大きかったと思います。
山口:そうですね。これは、2003年かな、4年かな。ある朝ね、岡本さんから電話がかかってきたの。突然。岡本信治郎という作家とはそれまで交渉もない。で、電話口で「岡本信治郎です」って言われたのね。で、その名前には記憶があったのね。それは何故かっていうと、僕が持ってる朝日の『世界の美術』っていうような、141冊かな、あれであれ、中学生のころ取ってたわけですけど、その中にそういう名前の作家いたなって、覚えてたのね。それがこういう絵(インディアン)だったと思うのね。
岡本:これこれ。
山口:で、岡本さんはどうして僕に声をかけられたんですか。
岡本:それは、あなたの、方船(はこぶね)のシリーズ、それを新聞で見た。新聞で。
山口:随分前ですよね。1990年だから。
岡本:その時にねえ、あ、これ面白いな作家だなあ、って思ったんだよ。名前も全然知らない。展覧会も見ていないんだよ。
山口:初めての個展だと思います。ヒルサイドギャラリー(東京)で90年ですね。
岡本:あの時にね、お、これちょっといいねえ、って思った。僕らは1950年代から始まってるわけだから、それに繋がる、何かがあるような気がした。多分隔世遺伝みたいな感じでさ、多分この人は知らないだろなって思った。若いんだから。そういった知らないけど、我々見ても直系みたいに繋がって来る様な感じがしてね。それで非常に印象に残ってた。で、その後たまたま僕はね、高崎に行ったんだよ。
山口:高崎市美術館で、個展(註:「山口啓介 空気柱 光の回廊」展、2003年)をしてましたね。
岡本:あなたがやってたんだよ。それでね、入っていったら、あの船がかかってたんだ。で、アッ? これ、見たぞ!見たことあるぞって思って。それから今度はガラスのところにバーッと植物が貼ってあって。ステンドグラスみたいでこれは面白いな、この作家は、って思って。それでぐるぐる回ってみてたんだよ。
山口:カセットプラントですね。
岡本:何か宗教画みたいなね。ひとつの回廊みたいな感じでやってるわけですよ。彼がいるんだかいないんだか知らないけど、とにかくね、あそこでね、僕は、ひとつの、何か、回廊みたいな感じで、おもしろいなあって思って。それでタイトルがつけてないものが結構あったんだよね。
山口:タイトルは本当は全部ついているんですよね。
岡本:ついてた? 何か青い絵でねえ、
山口:あ、それは《象の檻》だ。
岡本:《象の檻》か。あれが出ていたとき、何でこれ変な檻だ、スタンプみたいなこんなの、出てくるの、何だろうなあって思ったけどね。モネの睡蓮のパロディ化したあれだな、とか。
山口:《睡蓮》もありましたね。
岡本:いいイメージだな。この作家はおもしろいなあと思った。それで、片っぽの、教室みたいな変な部屋あるじゃない。昔の建築の。そこへ入ったら、若者がひとり座ってたんだよ。「これが作者かな?」なーんて思ってたんだよ。違ってた。小学生に何かこれ、やらせたとか何かとか、どうのこうの書いてあった。
山口:あの裏に哲学堂っていう建物があって。あれは、あそこのパトロン、ですかねえ、群馬交響楽団とか、それこそブルーノ・タウトを囲った人がいて。それが地元のゼネコンですか、文化のパトロンがいたらしいんですね。で、そこにはいろんな人がその当時来ていて。で、当時もう彼は死んでいて。(注:高崎の哲学堂をつくらせたパトロンは井上房一郎)
岡本:群馬交響楽団のあれかあ、関係の人かあ。
山口:あの、彼がつくったんですけど、邸宅っていうか、それがライト(フランク・ロイド・ライト)と一緒に来た、ライトの助手で、帝国ホテルをつくるときに助手で来た人(アントニン・レーモンド)がいて、その人の自宅設計図を借りて。平屋なんですけど、すごく簡素でいい家でしたね。それは美術館の裏にあって。
岡本:話戻すとね、この作家おもしれえなあ、って。それで伊坂君にね、言ったんだ。「この作家ねえ、俺入れたいんだ」って言ったらねえ、「おもしろそうだね。何か他の作家とは違うよ」って。それからもう一人何かあなたに似た作家がいるんだよ。安井賞かなにかで、グランプリじゃなくて、優秀賞か何か取ってる、写真か何かで船撮ってる、何かこう描いてね、その人とごっちゃになっちゃう。これも、この作家かな、名前も覚えられないんだ、その時は。その時にやっと見て、山口啓介って。それで伊坂君と相談して声かけてみようかって。「若いんだけどねえ、いけるんじゃないか」ってねえ。それで電話したの。
山口:僕は岡本さんの話し振りを聞いてね、その時、名前が出てるけど、絵が浮んでこない。で、あとで、こう、その話してるうちにインディアンの作品とか言って。その時に失礼ながら、話しながら、ずけずけ言ったと思うんですけど。「あ、お話と絵のイメージが違いますね」って。
岡本:そんなこと言ったかなあ。
山口:僕は言ったと思うんですが。つまり、もっと、こう、お電話の話では闘争的な絵を描く感じがして。それからテーマ性が強烈にあった作家だと思っていたから。僕の中のイメージがこれだから。それと戦争が初め結びつかなくて。そうしたら「そうかね」って逆に言われて。そこが逆に面白かったんですよ。その、そこをこう、何か主張されるわけじゃなくて、あえて「そうかね」って言うのがね。何かそこのときに何かねえ「あ、江戸っ子だな」って思ったんですね、そのときにね(笑)。
岡本:いやねえ、とにかく今の若い世代あまりいいのいねーんだよ。
山口:それでね、これ(松濤のカタログ)、あらためて読んでいて、少しちらっと。ですけど。これ東京大空襲って3月10日でしょ。で、今回の震災が3月11日でしょ。それから9.11でしょ。この数字の符合って何か無気味な感じがするんですね。つまり3月10日と11日でしょ。それと9月11日と11が続くでしょ。
岡本:あのね、正確に言うと東京大空襲は3月10日じゃないんだ。3月9日から始まるの。3月9日の11時位から、まさに9.11だね。
全員:気持ち悪い!
山口:気持ち悪いよねえ。昔オーメンって映画があって、あれは6が3つ並ぶんですよ。何かすごい気持ち悪い。
岡本:人によってはねえ、3月10日って否定する人がいますよ、あれは3月10日じゃないよ、3月9日なの。たしかにそうなの。3月9日の11時位から始まるんですよ、空襲は。だけど実際に爆撃が始まったのは3月10日かららしいんで。入って来たのはね、11時位で。だから、ねえ、9.11になるんだ。それ符合するっていえば9.11って因縁づければそうなる。ね。
山口:それでね、僕は、震災になってからってわけじゃないんですけど、岡本さんの考えをずっと聞いて来て。この中に、2003年から今までの長い歴史があるんですね。それでいろいろとやりとりもあって。ものすごい批判された文章もあるんですけどね。その中で岡本さんがひとつ、想定的な、一応、敵として想定しているのが、《原爆の図》なんですね。さっき言った、丸木位里夫妻の、あの絵。僕、あらためてこの間、見てきました。丸木美術館って、埼玉にあるから。岡本さん、当然現物は見られてるんですよね。
岡本:見てない。
山口:見てないんだ!
岡本:いや、あのね、否定してても、
山口:いや、アンチテーゼとしてね、岡本さんの、
岡本:いや、見ていないから、いけないって、それはまた別の話なんだけど。ヨシダヨシエがしょって歩いてたでしょ。担いで。
山口:実物は見てない。今に至るまで一回も見てないんですか。
岡本:見てない。雑誌なんかでは見てますよ。
山口:それで何となく僕の中のイメージにあるのは、麻生三郎さんがね、この間、近美(東京国立近代美術館)で回顧展がありましたけど、あの時に、彼は戦争に行って、で、10年位戦争の方に向いてない。やっぱり悲惨な経験をしてるから、そんなもん題材にしたくない。ところが60年の安保ですか、それを見て、やり残したことある、って、さっき岡本さん言ってたけど、そういう感覚で、ああいう戦争の絵みたいにね、僕の中の麻生さんって戦争のイメージないんですよ。実はもっと根源的な、人間の解体みたいなのがあって、戦争と結びつかなかったんだけど、この間の展覧会みて初めて、あれだね、ベトナム戦争なり、その安保と結びついてるのわかったんですね。それを聞いていると、さっきの話ね、岡本さんは、40年ぶり位のやりなおしたこと、つまり岡本さんは安保に引っかからなかった、朝鮮戦争もなかったけど、本質的にはね、何か、やり残した事、っていうのが似てるな、って思うんですよ。ただそれはやっぱり気質とか世代の違いで、どこに引っかかるかが違うって言う、感じがするんです。
岡本:何ていうんだろうな、さっき言ったような《原爆の図》、あれを否定じゃないんだよ。ただ、前時代的だって言う、ね、
山口:わかりますね。
岡本:つまりね、ああいう時代にはああいう表現しかないだろうと、描き方、つまり人間の尊厳、ああいうものを求める近代の戦争としては、成り立つんですよ。ピカソがね、ゲルニカを描いた。で、ゲルニカがまさにそれですよ。彼は、戦争は駄目だ!平和がいいんだ!というまさに対立概念。それは人間の尊厳としてね、いわゆる地域性に結びついた近代の戦争を描いてるんですよ。ピカソ、ヒューマスティックな、戦争は悪いんだ、平和はいいんだ、と。それで怒りのゲルニカを描いたわけですよ。それで白い鳩、善意の象徴としてそれを描くわけです。平和の象徴として。ところが21世紀前半の画家は、つまり岡本信治郎は、戦争を対立概念で描こうとしないんだよ。それは、戦争も平和も、という連続性で描こうとするんだ。戦争は駄目だ!平和も駄目だ!そっから笑うニューゲルニカを僕は描いたの。それで、鳩が出て来ないわけだ。それで僕は「BIRD MAN・テロのデッサン」という凶暴な鳥たちを描いたわけ。つまり僕らから見ると、彼は近代の人間の尊厳を守るための戦争観をもとに非常にヒューマスティックな作品をつくっている。アメリカと日本が戦ったのも、非常に近代の戦争みたいな、はっきりしてますよね。ところが僕らの場合には現代の戦争、もっと地球の環境問題まで含んだ、あるいは自分たちが何かをつくることによって、地球をぶっ壊しちゃうかもしれない、人間紀の終焉という感覚まで行ってしまうような、地域性じゃ済まないんだよ、地球そのものをぶっ壊しちゃうような、そういう現代戦争観。近代戦争観と現代戦争観の違い。そういうところから僕はあれを描いたの。だから、原爆の図は駄目だと言ってるんじゃなくて、あの時代はああいうものを描かなくちゃいけなかったと思いますよ。だけどね、ああいうね、ひとつの被害者的な思考と形体で平和を訴えると、そういうのはひとつの手段としてあったかもしれない。だけど僕らが描くとするとああいう描き方は出来ない。それから僕は、自分の絵の枕に詩人の石原吉郎って作家をつかってますよ。石原吉郎ってのはね、まさに極限を生きた人だから。あの人は(ハルピンの関東軍)情報部にいて、翻訳してたらしいのね。それが抑留されて裁判にかけられて戦犯になっちゃって重労働25年。それで大変なところへ行っちゃうんだよ。本当に極限のね、あの人の、『望郷の海』なんか読むとすごいですよね。もう人間の極限のところに行っちゃう。それで重労働25年ですから。それで食べ物でも何でも何でもふたりでひとつだから、お皿もひとつなら、スープも一杯しかない。それをふたりで飲む。このスープの中に豆が入ってるの。これをいかに厳密にふたつに分けなきゃいけないとか。そのためにはまずどうやったらいいかとか。豆を数えて分けるとか、やり方を考えたりするの。それから布団でも何でも毛布をこう、ふたりで背中を繋げて寝る。そのシベリアで木を切ったりいろんな労働をやらされるわけだよ。その時に隊列組んで行く時に、3列だか5列だか忘れたけど、とにかく端っこにいると危ないんだ。ロシア兵の質がものすごく悪いんだ。だからおもしろ半分に撃たれちゃうんだ。うん。真ん中に挟まってるのが一番いいんだ。うっかり転んだりすると、また、逃亡兵と見なされたりする。そういう極限で生きた。それでね、囚人列車は真ん中に通路があって、両端が鉄格子、で、その中にみんな入ってるんだ。それで何年も何年も移動しながら働かされる。つまり動く刑務所みたいなもの。その人が、まあスターリンが死んで、やっと仮釈放になって出て来る。で、日本に帰ってきたら、じゃあ、彼は平和になったのかっというとならないんですよ。これは。日本に帰ってくると、まず親族から否定されたりするんだよね。もう、あの人の手紙を見ると,肉親との別れが書いてあるの。そういう事でね、戦争もひどかったけど、帰って来ても職もないんだよ、赤だろって言われて。それで何もできない。国会議事堂に立っている海抜原器、日本水準原点。通りがかった詩人・石原吉郎氏がそれが北方シベリアを向いていることを発見した。彼の原点です。それは苦い喜悦と言ってもいい。石原氏の詩は、戦争と平和という対立概念ではなく、戦争も平和もという連続性がシベリア北方原点から一本の直線となって沈黙と虚無で貫いている。その点、僕は少年として、家庭の窓から戦争を眺めてきたが、戦争も平和もという連続性という視点は共通している。そういう意味で今回、ピカソの顔を使って「ニューゲルニカ」を描いているが、ピカソに対するオマージュとピカソを風刺する両面から描いているわけです。
山口:僕はね、もう少し違うところから見ているんじゃないかと思うんですね。例えば戦争に行った人が、海軍の、例えば将校でもいいし、兵隊だった人が、傷ついて帰ってくるでしょ。それでシベリア抑留なんて、10年遅れたり15年遅れたりしますよね。その間に日本は復興するじゃないですか。するとね、それだけの命と犠牲を払ったのに、それを省みない社会がそこにあると思うんですね。そこに自分が帰属出来ないっていうね、何かその、これがやったことの結果なのか、ってそういう気持ちをずっと持っていると思う。で、それはもしかしたら日本の多くの人は持っていたかもしれないんですね。例えば両親を殺された人、アメリカ人が来て、でも仕事与えられたり、農地解放してくれたりとか、ものすごく複雑な気持ちを持ってると思うんですね。あまりその部分は沈黙して、語らなかったと思うし。うちの父親なんかに聞いてもやっぱり深くは言わない。他の人も印象としてですけど、戦争の話はあまり言わないし。まあ、父の世代は戦争当時子どもだったこともあるけど、でもやっぱりどこかにあるはずですから。尚更もっと上の親は語らなかったと思うんですね。それで、話を戻しますけど、丸木さんの絵を見て思ったのは、テーマは確かにすごく重たいし必然性あるんだけど、ある意味で絵として非常にのめりこんで。つまり言い方悪いですけど燃えて描いてるんですね。だから絵として、芸術家の気持ちが、刺激されて、言い方が悪いけど、何かこう、楽しんでって言うのか、何ですけど、ものすごく入り込んでるんですよ。それ、いつも岡本さんが言ってるように、絵画ってのはそれが原点だっていうのがあるじゃない。テーマとかそういうんじゃなくて、“絵画然”たる、画家の持っている気持ち。あるいはそこに達成されたもの。そこに、あの戦争画のシリーズは長いけど、とくにはじめの初期に木炭で描かれたもの、には、ものすごくあったんですよね。だから麻生三郎さんにもそれがある。たぶんそういう意味では、この《地球・爆》もピカソも、あまり変わらない気がする。だから、作家が、ピカソがあのゲルニカを描いたときに、怒りだけで描いたと思えないのね。もちろんそれは平和とかそういうことで描いているんだけど、何であんなに大きな絵を、ひとりで描こうと思ったのか。制作の動機が怒りの発火点にはなってるけど、あの絵を見て非常に静かな感じがするのです。僕は実物は一回も見た事ないんですけど。
岡本:僕は見た。
山口:あれはヒューマニズムの象徴としては、記号化されているけど、ピカソ自身は、そこと違うところにいたような気がするし。
岡本:ただね、僕はね、ピカソを擁護したいのはね、あの絵は室内の風景なんだよね、あれがね、室内の中のものを象徴しているようなところがあってね。いわゆる社会主義リアリズムの作家が描いているのと違って、もうちょっと造形的なところがあるんですよ。だけど基本的には、ピカソはやっぱり、戦争と平和を対立概念で描いたことは事実だと思うの。ただね、絵描きがのめりこんで描いたことは、ある種の快楽であるということは、それはわかりますよ。それはね、例えばね、さっき言った詩人の目で、彼が、水準原点、海抜原器を発見したときに、彼は既に喜んでますよ。にがい喜悦ということで。あれは北方に向いているという。それは作家だからだよ。当然それでね、僕は、それを別の形で言えば、埴谷雄高と言う人がいますね。『死霊』書いた、あの人は、僕の記憶に間違いがなければ、これは僕がつくっているんじゃないと思うんだけどね、事実と真実は違う、と言ってるんです。そうすると例えば、今度の震災が起こった。形而下的な現実的事実というものが起こった。それに対して作家である以上、今度は形而上的な、虚としての創造的真実、それはあくまでも対峙するもんなんですよ。その時には現実的事実を形而上的な想像的真実に置き換えるとき、これは当然方法論化してるわけ。当然作家だから持ってるわけです。ここに快楽を持つことはけしからんとは言えないと思うんですよ。作家ってものは、だからそういう情熱があるから描くんでしょ。
山口:つまり、これは難しいところだと思うんですけど、ピカソの絵とか、さっきの丸木さんの初期の絵っていうのは、情熱上の快楽ですか、絵画の、作家の。それとテーマっていうのは相反しながら共存しているわけですよね。だけど岡本さんが、今、まあ、やろうとしてるのは、まあ僕らを誘ってやろうとしてるのは、ご自分の中では、テーマが持ってしまうものの方をね、やっぱりね、何とか除外して、そのこっちの部分がなくても絵画の快楽で成立するような考えを持ってるんじゃないかなと思ってるんです。
岡本:君の話を聞いてると、現実に対して創造的な快楽的な行為は、おもちゃをいじくっているような、事実に対しておもちゃをいじくっているような、つくっているような軽さを感じると。そういうことで自分はもっと現実に肉薄したいと、そういう願望を持ってるということかね?
山口:そういうわけじゃないんですよ。それはピカソとか丸木さんの場合は、その2つはうまいこと共存出来てる、って言うかな。偶然かどうかわかりません。時代なのか。だけど今は両義性というのは当然ありますけど、戦争をテーマとしながら、岡本さんは、あえて平和とか反戦など立場の問題への言及を退けて、絵画の自律性の問題に置き換えているようにも思えるのですが…。
岡本:僕はねえ、否定はしてないんですよ。20世紀前半の画家って言ってるわけですよ。それで、戦争の形態が変わるわけですから、地域性に結びつかない。今度の、例えば、僕、BS、夜遅く見るんですよ。で、寝不足になっちゃうんだけどね。それも、この間すごいこと言ってたんだけどね。例えば空から人工衛星でこうやって見て見ると、日本やなんか、日本列島がわかる位ピカピカ光ってるんですよ。アメリカも。
山口:エネルギーっていうかね、電気をつかってるんですよね。
岡本:本当にピカピカ。輪郭がわかる位。こんなに明るいの!って感じ。韓国もそう。北朝鮮真っ暗。それで、もし、北朝鮮とイランがね、アメリカに向かい合ってる国がもしロケットで核を打ち上げて、アメリカの上空の地球圏外からバーンとやったとする。そうするとアメリカ全土のネット社会、インターネットが全部崩れちゃう。全部崩れちゃう。そうすると全部大停電になっちゃう。すると、もし普通の例えで言えばここで電気が消えたとする。ひとつの都市の電気が消えたとする。これは復旧しようとすれば出来るんですよ。ね。もしそういう状態に全土がそうなった場合は、2-3年経てば回復できる。だけどその中にいるわけだから。インターネットの中に貯められたデータは全部消えるわけです。それから物流も何も、飛行機も飛べなくなる。それから食糧は3日で無くなるらしい全部。それで在庫がそれだけしかなくて。後は全くのどうしようもない状態になっちゃう。こういうね、もう現代っていうのはね、そういう戦争も可能になってきてるわけですよ。やろうと思えばね。それでその危険性をこの間言ってたの。テレビで。そうするとえらいことになるわけですよ。これは。もう半永久的に復活できないんです。アメリカの場合。全土だから。内部にいるわけですから。もう全く手の付けようがない。それでもうあらゆるものが壊されちゃう。電磁波が全部やられちゃうから。上で破裂させただけで。昔の戦争だったら地域だけでパッパッとやったら終わっちゃうんだけど、今の戦争ってのはそうじゃない。これはもう人類の終りみたいなところがあるわけですよ。だから例えば北朝鮮が韓国に対してやったとすると、北朝鮮はもともと黒いんだよ、光ってないんだ。韓国は真っ暗になっちゃったら、北とは全然性格が違うんだよ。あらゆる面で。今の、文明社会の中で生きてるわけですから。北朝鮮はまだ遅れたところがあるからね。暗さの意味が違うんだ。アメリカなんかは原発工場全部爆発しちゃうよ。あらゆるものが終わっちゃうんだよ。水を入れることも出来ない。全部破裂しちゃうしさ。もう、どうしようもないじゃないですか。そういう危険性を現代は持っている。やろうと思ってやれば出来るとこまで来ちゃった。ね。そういう現実の重さのところで絵描きが作品を描いている。現実的事実は重いんだよ、今は、重過ぎるよ。それに対して絵描きが創造的真実でどこまで肉薄できるか。そういう時君が言うように、「軽いじゃないか、おもちゃみたいにいじくっているのはおかしいじゃないか」って。
山口:言ってないですよ(笑)。
岡本:言いそうじゃないか。
山口:ただその、何でしょうね、別に重い軽いじゃないと思うんですよね。芸術の役目、意味があるとしたら、何の意味があるかって時々思うんですよね。例えば文学でね、これはよく引用されるけれど、坂口安吾が空襲を見て、花火のような綺麗さ、っていうような、書いてますよね、堕落論とかで確か。別の詩人は、街やビルがこう曲がったのがおもしろいって書いて。それはこの間、確か、辺見庸さんかな、エッセイでちらっと書いてましたけど。今はね、そういうことを面白がって書くのを許さないような日本のメディアの環境があって、つまりその岡本さん的に言えば、全員でね、日本のこういう悲劇を、抱えてますからね、そういうことを言えない言論が今あるというふうに彼は批判的に書いてたんですね。その前文には、アドルノ(デオドール・W・アドルノ)が「アウシュビッツの後に詩を書くなんてすごく野蛮だ」って書いてるんですね、それを引用してるんです。アドルノって哲学者ですが、美しいものにとても関心があったひとですね。ドイツの。僕はアドルノって去年からずっと関心あるんですけど。そのアドルノがそう言うのは、それは何かピンと来るんですね。つまりあれだけ悲惨なことをやった後に詩を書くなんてのはね、野蛮だって言ってるんです。野暮じゃなくて。
岡本:例えばパウル・ツェランなんてのはアウシュビッツを体験してきた後、結局自殺しちゃいますよね、最後は。だけどそういう悩みっていうのは、今に始まったことじゃない。例えば関東大震災の時に。あの時、菊池寛とかああいう連中が、いかに文学というものが無力であるか、ってこと。芥川龍之介も言ってるんですよ、同じことを。いかにね、現実の重さに対して、作家というものはいかに軽佻不薄だろうと。こんなもんでね、事実の前にどうしようもなんない。しかし文学ってものはそれでもやっていかなきゃなんない、ってことも言ってるんですよ。やっぱり災害とかそういうこういう問題に出会ったときにね、必ずこういう問題が出てくるんですよ、それはあるんだよ。だけどそれを言っちゃったら、誰ももうそういう、現実の形だけで対応するのかって、そういうことになっちゃうじゃないですか。やっぱり現実の原則だけじゃない、観念論、快感原則そういう形でやっぱり進める想像的世界ってものが、むしろ僕はやっぱり逆に必要だと思いますよ。今度も僕は(「空襲25時」展のカタログの)あとがきにも書いてますよ。これ。例えば僕は一極集中的に自分の3部作を描いて、いよいよ展覧会準備が始まってカタログ作りを光田さんとやってるときに、バーンとあれが起こった。これはまずい時に起こったなって思った。それで、少し動揺したんだよ。まさに横っ腹にもうひとつ極が出来ちゃったみたい。多極化しちゃうわけですよ。自分の中で。そうすると自分の思考がね、横目の空間的思考になっちゃう。多分僕の絵を見に来る人達、僕の今度の3部作をね、あれは3つの崩壊を描いてるわけですから。9.11と原爆と東京大空襲と3つのを僕なりの形で書いてる。それに対して見に来た人も今度は横目で3.11を思い出すと考えた。みんな横目になっちゃう。今日本人がこの出来事に対して、何らかの意味で考え始めてる。それは事実だと。いずれにしてもね、そういう状況になった。すると結論的に自分としてはどうするのか。っていうんで僕は2つの道を考え出した。1つは今度の空襲3部作を未完として位置づけること。第2は、戦災及び震災的崩壊の彼方にという命題の元に新しい絵画的出発をすること。それで、戦災には原爆が背後にある、震災には原発がそういう前提のもとでの絵画的出発が必要で、今度のもうひとつの、襲いかかる海について、自分は絵画的出発をすべきだと考えた。本当は最後の終章で終りだったんだけど後記を書くことにした。「78歳のイシュメール的単独航海、これからの絵画的出発に果たして持ち時間があるだろうか」って書いた。だけどあの巨大なああいうものが起こったことに対して、やっぱり作家として描くことは重いか軽いか知らないけど、やっぱり向かうのが作家だと思いますよ。アウシュビッツがあった後、詩を書いたのは何んだって言われてもね、それは書くでしょ。
山口:もちろん、アドルノっていうのは、それからは美学にいくんですよね。それを否定しているわけじゃない。深いところで捉えていると思うんですけど。今の話聞くと、おもしろいなあって思うのは、これ合作ですよね。で、もしこの合作が何かの結果を得ることがあったら、つまり僕たち、合作っていうのは戦争みたいなことをやってるわけでしょ。絵画の中でね。それが崩壊しなくて何かの形になることがあればね、それはひとつの、ものだと思うんですね。そういう方向でいま戦争画っていうのを考えてるんですけど。
岡本:だからね、現実の重みに対してどこまで絵画的真実が対応出来るかって問題がひとつあるけど、しかしそれはね、逆に言えば、作家がひとつのね、命題を見つけうる新しい意味での問題意識ってあるんですよ。やっぱり現実とフィクションとは切り離して、想像と切り離して、それ自体が今度は合わせ鏡のようにさ、逆にそれがまた、現実に反映するわけですから。やっぱり僕は作家的存在ってのは必要だと思います、逆にね。
山口:この連作は2003年に構想があって。これが今だに完成していなくて。それまで、まとめて1回も展示してないんですけど。青梅ではこの間ちらっとやらせていただいてるけど。この、構想は、岡本さんが、いろんな美術関係者に送ったりして、エスキースですね、戦争画の全10作。本物はまだ出来てないから。一部しか出来てないから。興味を持たれるの、初めは。だけどやはり、なかなか実現しないんですね。そのひとつは10作がまだ未完成であることもあるんですけど。どうも最近原発のことを参照してね、何となくね、やっぱり戦争ってものにタッチするということが、さっきの原発に関しても、何となく隠されてるところある。それにタッチするってのは何となく難しいっていうね、そういうイメージはずっと持って。
岡本:美術館のね、建前と本音がありましてね。戦争画は表面的には興味あるけど、うちではやりたくないっていうような。
山口:もっと極端に言えば政治的とか、いろんな困難があるという意味。これはおもしろいエピソード、ちょっと言いますとね。岡本さんがはじめ、一番はじめの原稿のときに、どの位でしょう、100何ページっていう原稿用紙を全部コピーして、それを参加作家ないしはそれに関わってる批評家の人達に,ね、これ位になりますよね、それを全部送られたんですよ。で、何分の一かは僕に対する批判がある。
岡本:いや、みんなに対する。
山口:それはね。何故かというと、今、岡本さんは、「アートディレクター」って自分のことをおっしゃったでしょ。それでそういう立場でこれをまとめるって風になるんですけど。《地球・爆》に岡本さんの同世代の作家は初めは興味を持っていかれるんだけど、結局やっぱりそれは岡本さんのディレクションのもとに形としてはなるわけです。それに拒否反応があって、難産して、何人もがやめてくってことがあったの。そういうことも含めて、この位のものを送った。僕はそれに対して、僕に対してのものにだけ反論を送った。で、だから何かもうすごいことになってたんですね。
岡本:そう。彼(山口)もかなり勝手なことを言ってたよ。
山口:岡本さんは勝手な事っておっしゃってるけど、勝手な事でもあるし理のあることでもあるんですね。ただ、岡本さんのアトリエに泊まって、《鳥人間》を僕が実際にキャンバスに描いてみたときに思ったのは、ああ、岡本方式って自分で言ってるんですけど、「岡本方式でもできるな」って(笑)。つまり、それまで岡本さんがいろんなことをおっしゃったんですけど、それは多分いろんな作家にとって受け入れがたいこともたくさんあるんですね。でもそうじゃなくて、「やってみろ」と。やってみたら、作品として成立するんじゃないかって。岡本さんはそれ言ったら「ほら、はじめからそう言ってるじゃないか」ってそういう話なんだけど、僕らからすると、やっぱりその過程は抜かせないんですね。
岡本:これはもう、あなたとやったし、いろんな人ともやったから、みんな知ってることだけど、ここに彼女がいるからね、もう一度おさらいして言いますけどね、あの、最初から、ゼロからひとつの合作をやろうということは、僕の中では不可能なんです。大合作ってのは矛盾なんですよ、ひとつの。例えば10人いれば10人の思想があり、10人の手法があるわけですから。考え方も違うし。全部違うんです。それがね、寄せ書きならできますよ。ただそれがね。AとBの形態がくっつくこと、これはみんなしょうがないって思うんだよ。これがAの思想とBの形態がくっつくことを認め合うって言ったらね、これはなかなか容認できないんですよ。だから絵画的正論みたいなことを言われて、あーだこーだ言われるとね、これはもう成立しないの。例えば中にはね、絵画ってものは、まず下絵をつくった。絵画っていうのはこういうつくり方するもんじゃない、って言うんだよ。ある時は画面の中をのたうちまわって自分がどこ行くんだかわかんないっていう状態でつくっていくもんだ、って。何度ももう5回も10回も変貌していくんだ、と。そういう無意識のものも含めてこれが絵画だ、と。言うんだよ。それは確かに正論だよ。そういうもんがあってもいい。
山口:というかむしろそういうものが、一般、主流ですね。
岡本:だけどあなたねえ、じゃあ版画をつくるときはどうするんだ、ってことだよ。僕に言わせれば。「版画つくるとき、あなた無目的に行く?」「お金かかっちゃうよ」「自分で何色にしないといけない、効果を考えないといけない、って。ある程度のことをやるでしょ」って。「合作やるときは、そんな無目的なことは出来ないんだよ。絵画的にはあなたの言ってることは正論ですよ、そういう要素もあるんだ、しかしそれはね、じゃあ合作にね、正論だけ言って成り立ちますか? 各自が、おいらのいるとこどこだんべって言って、自由自在にどんどん変貌してたら、これは100年経ったって1000年経ったってまとまらないよ。正論も使い方次第でバカに見えるよ」って言ったの。あの場合。「そんなにのたうちまわりたいんだったら自分の家でやったらいい。合作をやるんだったら、やっぱり版画をつくるのと同じように、90パーセント以上は、ミニスケッチでもわかるようにまで持って行くのが当たり前じゃないか。それが出来ないで絵画の正論だけを言うんだったら、自分ひとりでやったらいいじゃないか。合作やる資格はあなたにはないんだよ。だから正論もね、やり方によっちゃバカに見えるよ」って僕に言われたんだ。そういうもんなんですよ。
山口:今のお話はね、やめられた方に、ここにいらっしゃらないから、ひとつ付け加えるとね、結局岡本さんがいつもこういう合作じゃないご自身の絵を描いている方法論があって、それはエスキースをつくって、それを拡大してトレースする。まさに今描いている方法とほとんど変わらないやり方があるじゃない? それから、もうひとつ付け加えるとしたら、あれ池田(龍雄)さんだったかな? 結局他人の上に描くってことがあるでしょ。で、例えば僕が描くよね、その上に岡本さんが重ねるよね、その上に僕が描くよね、こうすると、一番最後の人間がキリですけど、そこをどこで止めるかっていうのが、無限の混同なんですよね。それを何故岡本さんは出来るかって言うと、さっきの東京少年、伊坂さんかな、のね、2人でね、少年戦記かな、おふたりは特別な関係なんですけど、その方法論で、実は作品つくってたんですね。だから出来ると。
岡本:だからつくったものを計算されて拡大すれば出来るだろうと。
山口:つまり簡単に言うと、今度の戦争画、拡大してやろうということになってる。僕はその一番初めの方法論に全く関わってないから、それを受け入れるのに随分時間がかかった。普通はそれは受け入れられないものだから、大概やめていったんですよね。
岡本:僕はねえ、こういう言い方すると失礼になるけど、音楽的人間は、かなりいろんなことがお互いにね、融通しあって、お互いにつくりあう、そういう能力が(ある)。絵描きはみんな個の人だからね、なかなかそういうところが出来ないんだよ。寄せ書きならいいんだけどね。
山口:つまり岡本っていう指揮者がいて、みんながバイオリンなり弾くなら成り立つんだけど。みんなが指揮者であると、一応、特に岡本さん世代の作家は思っているわけだから、それを岡本さんの下でバイオリン弾けっていうのが無理だと思う。
岡本:だからそういう人は入んなくていい、って言ってんの。
山口:そうなんだよね。
岡本:最初から言ってるんだよ、これしかない、これっきゃないって。合作やるんだったらこれきゃないって。これが嫌なら来なくていいって言ってんだよ。だけど僕が「合作をやりませんか」って言うと、10人中10人はやりたいって飛びついてくるんだよ。僕は長い間武道をやってましたから。それで、大体ね、「7人の侍」って映画あったでしょ。侍を選ぶときに、入口の影でこうやって待ってて、呼び止めるんだよ、そうすると本当に出来る侍だと「ご冗談を」って止まるんだよ。それで、「おみごと」って言うことになる。戦う前にわかっちゃう。僕は武道を長年やってたわけですから。合気道を。33年やってて。歩く時は腰を落としてグッと進む。ところがみんな飛び上がって喜んで入って来るの。キャッキャ言って浮き上がった、飛び上がった状態でね、「僕を選んでくれてどうもありがとう!」なんて言って入ってくるんだよ。ところが僕が本題に入って考えることを言うと途端に飛び上がって怒り出すんだ。総論賛成各論反対なんだよ。合作はね、最初から言ってるけど、矛盾だと。ひとつの矛盾なんだ。鉛筆の芯を削るように個人の論理を純化して行ったらこれは成り立たないんだ。まず矛盾ってことをお互いに認め合って、それで他者の論理、個人の論理じゃなくて他者の論理。だから卑俗なもの、逆に否定形として拾え。鉛筆の芯を削るんじゃなくて、逆に拾って着ぶくれになれ!と言ってるんだ。究極の真理を求めるんじゃなくて、真理なき真理って言うんだ、僕は。そうしない限り、合作ってものの道はないよ。そこを画家はみんな個の人だからわからないんだよ。長年やってると少しずつわかってくるんだよ。だけどわからない。中にはいましたよ、全員がね、均等でなきゃいかん。150号を1人1点づつ与えた方がいいって。だったら個に徹して一人でやればいいんだ。
山口:一言で言うと、岡本方式を受け入れるかどうかね。
岡本:受け入れるかどうか、そう。最初から嫌だったら入らなければいい。
山口:そういう意味で言ったらね、こういう事をかつてやったことがある人たちが戦後の日本にいたのかなって、そこが面白い。
岡本:僕は伊坂君と兄弟分みたいなもんだが、ふたりで少年戦記をつくるとき、最初の一年間はふたりとも絵を描かないで話合いばかりしていたんです。こうだったこうだったこうだったって。形から決めるのもあるしね。それにね、方法的に二人が持ってきたスケッチを合せてこうやって。いろいろやってみる。それで『少年戦記』ってものをつくったんですよ。50点。120号の変形で50点。彼は音楽やってたから、ミュージシャンだったから、受け身の姿勢がうまいんですよ。女子バレーなんかいい例なんだよ。彼はね、役割がセッター、竹下。あれね。こっち(山口)はアタッカー。かなり無謀なアタッカー。チームプレーやらない(笑)。
山口:これはちっちゃな絵画内戦争なんですよね。
岡本:彼(山口)は、野球で言えば、実力ある4番バッター。ところがね、絵描きは、上から下までみんな4番みたいなことになっちゃうんですよ。そうじゃないんだと。やる以上は、いろいろあるわけですよ。この人(山口)は実力はあって、4番バッター、そういう力は持ってるの。だけど一番の問題児。一番うるさいんだ、彼は。僕はもうこれは最後まで続かないなって思ったよ。だけどね、本人は魅力があるもんだから、自分からやめられないんだよ。いろいろブチブチ言って。だけどやめない。(笑)そういうとこジレンマでね、ま、とにかく問題児だ。(笑)だけど、伊坂の場合は男竹下。自分で結論出すんじゃなくてパッとトスを上げるんだよ。すると、僕もアタッカーだから打つんだよね(笑)。だけど僕の場合は、重厚感というより軽さを持った感じで。だから野球で言えば3番バッターみたいな感じかな。で、監督もやってるの。
山口:野村みたいな感じかな。かつての。
岡本:野村はだけど、もっとさ、生涯一捕手みたいな。だけどこっちは江戸っ子だからさ。
山口:食っちゃうのね。
岡本:こちらはパッとやめたりするかもしれない。野村は死ぬまでやるんだろ。これが違う。だけど僕は監督とアタッカーだが後ろで球拾いもするんだよ。あれ大事なんだよ。ところがあれを拾う奴がうちは誰もいない。仕方がないから僕がそれをやるわけ。球拾いしてるわけ。この人全然やらないんだよ。(笑)ほとんど拾わないじゃん(笑)。ほとんど俺ひとりだよ。自分のことだけやり続けて。そいで文句ばっかし言ってるわけ。(笑)。しかし球拾いするってことはいろんな人と関係持つことになるわけだから作品が増えちゃうんだ。僕だけ。みんなが拾ってくれれば僕は減るの。だけど全然。
山口:何枚位ですかね、岡本さん、もう半分位。
岡本:70点位。200点中70点位。
山口:このサイズをねえ。
岡本:だってそれはしょうがないじゃない。彼が、岡本信治郎は多過ぎるって言うんだ。多過ぎるって言うんだったら、球拾いやれってんだよ。にわとりが先か、卵が先かって。
山口:これ(《鳥人間の目、唇》=《鳥人間》)はそういう意味で言ったら正真正銘の合作ですね。
岡本:そう。これは縦軸の合作。僕はね、横軸の合作をね、本当の意味でやりたかったの。ところがね、いいですか、脱線してこの説明をしますよ。あんまり勝手な事を言うんで、堪忍袋の緒が切れて、ディレクターとして、僕はついに爆発したんですよ。それで山口君から電話あったときに、電話でね、一喝したんですよ。その時ね、
山口:やさしい言い方でしたよ。
岡本:やさしかないよ。僕は本気で怒ってたんだから。「重箱の隅をつつくような小賢しい筋論ばっかり言ってるんじゃない!」「鳥瞰図としての地球爆発、鳥の目を持て!」と電話で怒鳴ったんですよ。
山口:怒鳴ってないよ(笑)。岡本さん的には怒鳴ったんだよね。
岡本:怒鳴ったんだよ。そしたらね、明くる日ね、《鳥人間の目、唇》ってスケッチがFAXが送られてきたのよ(笑)。
全員:爆笑
山口:落語みたいな。
岡本:僕はこれを見て笑っちゃったんだよ。怒鳴った明くる日だよ。
山口:いや、僕はもう、怒鳴られた記憶がないから、じゃあ、鳥描くか、みたいな(笑)。
岡本:《鳥人間の目、唇》を伊坂君が見て、鳥の羽根を二つ取って蜻蛉の目に変えたんですよ。そして今度は2人で「さあ、岡本さんどうぞ」って感じで挑戦して来たんだよ。僕はせせら笑って、「お前さん達みたいな若造君に、まだまだ俺は負けないよ。じゃあやってやろうか」って書いたのが、数学のね、コレなんですよ。
山口:岡本さんはね、数学が好きなんですよ。得意なんですよ。
岡本:得意なんかじゃないんだよ、数学は。コンプレックスから逆に興味を持つんだよ。だから数学が好きってわけじゃない、数学のイメージが好き。だから、数学的な面から。だけどその時考えたのが、日露戦争の時の歌だったの。「さんぺいせんの花と散れ」って。
山口:それがね、この間、「人間の条件」、って映画にあったよ。
岡本:あったでしょ。あれ有名な歌だもん。
山口:「人間の条件」ってあの、仲代の長い映画!
坂上:わかったわかった。
山口:9時間以上もあるような。
坂上:本でしか読んでない。
岡本:『人間の条件』って、あれ、五味川純平の。
山口:日露戦争じゃなくて、第二次世界大戦でも唱ったのかなああ。あれだって第二次世界大戦でしょ。
岡本:日露戦争の歌じゃないかな、軍歌だよ。僕はその節回しは知ってるけど、「さんぺいせん」って言うのはね、何かの地域のことなんだよ。それを僕は3人の兵隊が戦うの「三兵戦」に変えちゃったわけ。それでここにね、描いたのは、「三兵戦の花と散れ。PYTHAGORAS³(ピタゴラス三乗)の音楽的算術戦略」って言うんです。ピタゴラスっていうのは、ピタゴラスの法則をつくったと同時に、ピタゴラス教団ってのを持ってた、ひとつの集団で宗教団体みたいなもの。彼は数学者であり音楽家でもあった。ピタゴラス音階っていうのもあるんだよ。とにかく音楽的算術戦略ってことで、3人の兵隊が立たずんでいるところを数式化しようとした。それで、ABCって3人の兵隊がおり、AはBと戦い、Cとも戦う、BはCと戦うといろいろな組み合わせがありますね。次はAはBC連合と戦い、BはAC連合と戦い、CはAB連合と戦う、そういう方法がありますね。それを数式であらわす。で、今度は、ABCって兵隊が三角錐的に立ち上がってきて、頂点のPにおいてABC 3人が同時に戦う、それを数式に示せって描いた。本当は僕が答えを出したかったの。だけど僕は数学が出来ない。難しいんだよ。でもどうしようって困っちゃってさ。だけど別に答えなんて出さなくてもいいんだ。問題にしてしまえばいいんだよ。(笑)後は見に来た人に「答えを示せ」って。お前らが考えろ、ってことにしちゃえばいい。(笑)まずはそういうことをした。まず三角形はグリークノーズって鷲っ鼻。それを逆さにすると女性のデルタ。それで、彼が描いた「鳥人間、目唇」とか「蜻蛉の目」とかに対して、「ギリシャ人の有事における鼻と局部の研究」。それで彼等にガチーンと一発お返ししたわけですよ。続いて国語のお勉強までしようじゃないか!「さ行変格戦争活用」ってのを教えてやろうか。「未然、連用、終止、連体、仮定、命令。戦争をしない、します、する、するとき、すれども、せよ」ってんだよ。それ書いてつけてやったの。国語の勉強までしてやったんだから、ついでに音楽のお勉強までしようって。「三兵戦の花と散れ」って楽譜までつけてあげた。ざまあみろであります(笑)。
山口:今のお話を聞いていると、岡本さんの制作なり、制作のリズムってのは、やっぱり落語っていうかさ、何かありますよね。オチが必ずあるというか、キリとオチがある。
岡本:先々週、王さんが来て、「岡本さんは浪曲が好きなんですか?」って聞くから「好きだよ」って言ったの。で、「何かありますか」っていうから、「ここにあるよ」って言ったの。そしたら「僕に聞かせてください」って言うから「いいよ」って聞かせてやった。
山口:僕も落語聞かせてもらって、描きましたよ。ここに2、3回泊めてもらって描いたんです。
岡本:だけどねえ、その時ににね、彼はね、じゃあ一番ポピュラーなね、広沢虎造の三十石船を聞かせてやった。「中国人だからわかるかなあ」なんて言いながら聞かせてやったら夢中になっちゃった。今度は「唄入り観音経」の三門博っていうの。「これは録音ちょっと悪いけど、これいいよ」ってこれ聞かせたら喜こんじゃった。「もっと聞きたい」って言うから「今日は駄目、また次」って言ったんだ。つまりね、僕が言いたいのは、これが合作なんですよ。僕が言ってんのは、これは縦軸としての合作なのね、これを僕は横軸でもやりたいわけよ。縦軸と横軸と。ここにあるのは、いいですか、僕がね、ここに書いてるの。これはまさにここに書いてあるこれね、「白い箱船、あるいは 工作船のための怒りのデッサン」。いろんなこと書いてる。「黙示録・チエシヤねこよる波のデッサン」とかね。それから「ニューゲルニカ あるいは モービー・ディックのための頭部デッサン」とか。つまりこれ全体が白い方舟ですよ、って言ってるの。もうひとつは「これ全体はモービー・ディックですよ」って言ってるの。ピカソのニューゲルニカの頭部ですよ、あるいは「モービー・ディックのエイハブ船長のくくられた顔ですよ」って。つまりこれは方舟ですよ、または白い鯨ですよ。そういう内容が書いてあるんだ。これ、まさにこれ、投げかけてるの。そうしたらね、今度はそれに対して俺はこう思うと向かってくれば、横の関係が出来る。それをもっとみんな複雑にやりだしたら、これはね、すごいね、研究者が見たとき、デュシャンどころじゃないですよ。ところがみんなそういう知恵が回らないわけよ。僕がいくら示してもやらないわけ。絡み合うの嫌なんだね。王さんもそうだけど、独立してただそこにあるわけ。基本的には、自分の中に入って来られるのが嫌なんですよ。協力はするんだよ。この中にごちゃごちゃ入って来られるのは嫌なの。まあそれでも合作は出来るんだけど、本当のこと言うと、この縦軸と横軸でこうやってやっていけばものすごい、もう後で研究者が出て来たとき、あらゆる問題、文学的な問題も音楽的な問題も政治的な問題も、あらゆる問題にこれが跳ね返ってくる。そうするとこの合作がね、ものすごく深みが出て来る。そういう形で僕はつくらせようとしてる。それからね、この合作は第1番から11番まであるが、ディレクターの性格によって、無性格な《地球・爆》をつくることも可能なんですよ。その点、僕は最初は白い方船でつくらせてみよう。その次は、今度は原爆の図で行ってみよう、今度は動物記。今度は集団の問題を使おうとか、そういう風にみんなに僕は、いろんなテーマを投げかけて、今度はエロチズムだよとか、そういう風に持って行く。そういう風にしないディレクターもいますよ。ただ戦争画1番から11番まで無性格なものをつくる。それでもいいんだよ。でも僕はつくる以上はね、何かひとつひとつのテーマを、今度は「動物記、現代の鳥獣戯画」で行こうとか。今度は「エロチズム」だとか。これは難しいことなんだよね。今度は「極・宇宙論」で行こう。床面は「物体の艦隊」で行こうとかね。そういう形でいろいろ自分の陣営って言うかな、僕の中のディレクターとしての陣営にね、僕の陣営に近づけててつくって行くわけですよ。その辺でもっと反論が出るかなと思ったら出なかったね。そこがね、ディレクターの分かれ道だな。凡庸なディレクターは無性格なものをどんどんつくって。ところが僕はそれじゃあつまんないなって思って。ひとつひとつこれはこういこうとかああいこうとか作っていった。神話と説話とか。靖国問題と花鳥風月。集団の場合、猫とネズミの関係で、集団のところに、個の論理をやってみようとか。そういうふうに大きな問題をね、少しずつ入れてったの。そういう方向付けて僕は、それがディレクター的な、いい意味でずるさっていうかね、そこが狙いですよ。みんなをこう誘導してもってくわけだ。
坂上:ちょっと話がずれるかもしれないですけど、最初、丸木位里とかゲルニカの戦争画を、別に否定するってわけじゃない、前近代的って。で、自分の新しい戦争画を描く。それは時代がそうだったからってさっきおっしゃった。
山口:あれも共作なんだよね。
岡本:共作なんだ。そこが面白い。
坂上:それは何というか、今の戦争画を描こうとしているってのは、いろんな要素が複合的に絡んで来て、いろいろ寄り道をしながら、どういうふうに結果がなっていくのがわからないという。
岡本:あのね、近代の戦争ということのね、たとえばヨーロッパの戦争と日本の戦争って違うんですよ。日本とアメリカの戦争は、戦国時代の戦争と同じことをやってる。太平洋戦争でお互い、やあやあ我こそはアメリカ、やあやあ我こそは日本だって、で、渡り合ってる。ところがヨーロッパはね、密告とか、陸続きでね、スパイ戦になってるの。味方だと思ったら敵だったり、味方の中にスパイが混じっていたり。ちょっと人間関係が陰惨なんですよ。これは現代の戦争に近いんですよね。そういう点では日本とアメリカはものすごく単純なの。
山口:イギリスなんかも島だからなんとなく騎士道がちょっとあったのかなって。
岡本:イギリスは島だからね。離れてるからね。だけど他の国はもっとくっついてるからさあ。
山口:坂上さんの話をちょっと繋げようとするとね、丸木位里夫妻があの絵を描いて、ピカソはその前にゲルニカ描いてるでしょ。僕らはいいか悪いかずっとその後にこういうことをやろうとしてるから、その間の芸術的ないろんなものの、あるいは社会の混乱も当然そこに含んで、それは当然前までのああいう形ではない、というところまでは、確かだと思うんですね。
坂上:いろいろ見ざるを得ないですね。自分の見たいところだけを見るんじゃなくて。
岡本:「何だこの合作は岡本信治郎の作品じゃないか」って言う人もいるんだよ。そういう意見はどうしても出て来る。例えば少年戦記。90パーセントは岡本信治郎で、伊坂義夫は10パーセントって言う人も出て来る。そういう風に言われたよ。合作はそれぞれの面積の大きさじゃないんだよ。力関係じゃないんだよ。
山口:だけど今度はそうならないってこと。
岡本:「そういう事を言う奴をいちいち気にすることはない、君はコンプレックスを持つことはない」と伊坂君に言った。「君の作品が出て来ないなら僕はつくれないわけだ。出て来たから係わり合いが付くんだから。あいつはこんなに描いていて、僕がちょこちょこって描いてるのもある。その逆もある。だからね。ひとつの画面の中で半分半分に描いてあるんじゃなくって、いろいろあっていいんだ。」それでね、伊坂君がしょげてたから。「そんな批評は気にしないでいい、と。作品が問題意識を持って現代的発言ができているかどうか? それが問題だよ」って。「後は、我々自分で出来る範囲内で、後は研究者がいろいろ料理して立ち上げてくればそれでOK。(《地球・爆》全エスキース)下書きだけで4年かかって、やっとこれが出来たわけです。これをそのまま大きくする。その時点でこの絵はね、90パーセント以上出来てる。これはこれで非常に完成度も高い。矛盾をいっぱい孕んでいるものにしては非常に完成度が高い。だが、今の時代は非常に後ろ向きになってるし、予算がどうのとか、ケチくさいことばっかり言ってるけど、そういうことはどうでもいい。僕は今は沈黙の時代だ。今はみんなが発散するんじゃなくって、開かれた鎖国で行こう。閉じた鎖国は駄目だよ。国際的な目を持ちながら今開かれた鎖国で、動かざること山のごとしって感じで。だから今は黙って描こう。」って僕は言ってるんだ。例えば、これは伊坂君が脳みそのデッサンをまず持ってきたんだ。そこでデザイナーの市川君の抽象的なパターンが送られてきたのでそれを使って、僕が軍人を描く…。タイトルは「戦場のスフィンクス・クローン戦記」。次に小堀令子さんが抽象絵画を持って来て、「お願いします」って言うから、僕がその絵をパッと横にしたらアーラ不思議。「奥の奥・コンクリートの山水」っていう要塞のような山水画が出来ちゃった。彼女すっかり喜んじゃってさ、何かトーチカみたいな変な建物が、山水画になってる。そういう具合にどんどん作っていった。これね、市川君がつくった紋章が、少し拡大したらボヤボヤになっておもしろい。そこへ伊坂君がプロペラを描いてきた。「もうひとひねりしてよ」って。それで本当にひねったの。「サイレント爆撃機・マルドロール」が出来た。これは簡単に見えるけど苦労したよ。それと白井美穂さんが描いてきた劇画みたいなの、あれは全員が反発した。ベルサイユのバラみたいなの描いてきたんだよ、漫画みたいなの。そこで僕が「まあ、待て待て。何とか生かそうじゃないか」って。でもこれつくるの大変だったんだ。えらい苦労して何とかまとめた。
山口:白井(美穂)さんは僕が声をかけたんです。
坂上:でも白井さんってあの劇画的なのが魅力って。
岡本:魅力はいいんだよ。誰かが引き取ってくれりゃあいいんだけど、みんな知らん顔。誰も球拾いしてくれないんだから。あなたなんか。
山口:話半分に聞いておいてください(笑)。
岡本:あなたが自分で拾ってくれればいいのにさあ。
山口:それはやっぱり僕は白井さんの自立性を認めてますから(笑)。
岡本:これだってそうだぜ。これ。彼女のスケッチ見た時は驚いたよ。今かっこよくなったけどさあ。これ、ギリシャ悲劇みたいになって良くなったけど。出て来た時はもう、ぶったまげたよ。そいで、ああ、これどうしようって思ったよ。
山口:これね、ほんとにちっちゃな戦争ですよ、絵の中で。
岡本:そう。そうなんだよ。
山口:だからいいんじゃないですか。だから戦争画って言えるような。テーマも動機もね。
岡本:この文章ねえ、あなたにも後で一つあげます。ミニスケッチが出来上がったところで「曲がり角」として僕が書いたんだ。
山口:僕が岡本さんの文章に対して反論を書いたのは入ってるんですか?
岡本:入ってないよ。
山口:それ入れなきゃ駄目だね。全部入れましょう。
岡本:自分の分に入れてもらって結構だけど。
山口:そうじゃなくってね。全部そこにひとつつくって。岡本がこう言ったらこうと。これは記録としては絶対やらないと。
岡本:誰がつくるんだよー、みんなやらないからさー。
山口:やります。やります。
岡本:それはそれでつくってくれい。
山口:これね、さっき言ったけど戦争画の中の作家間の戦いがどういう風に絵画の中でね、それが大事なんですよ。
岡本:この間青梅(市立)美術館で発表し、部分出品した。みんな驚いていたよ。200点中7点ですから。これ僕が指揮したんです。そいでこれ、一番最後に入った平川さんっていうののね。寄稿文。
山口:(他の人に見せる今回の合作主旨の資料は、岡本さんの意見のみを公開するのではなく)全体を見せた方がいいと思うの。こう、隠したりしないでね。
岡本:全体を見せちゃダメなんだよ。プレゼンとしてはね。
山口:見せる見せないじゃなくってね。アーカイヴですから。
岡本:要はね、企画している人の名前と、それから制作風景と、新聞に一部出始めてますから。それと、僕が曲がり角の過程として書いた文章を載っけて。で、後はね、ここは僕がこの間「地球爆通信」ってみんなに出した、それを載っけて。制作過程のひとつとして出した。それから、平川さんが評論第一号で来たから、それを出すと。それから後もうひとつはね、《少年戦記》の文章載っけて。過去にこういうのがありましたって出してるのも。だからね、全体をいっぺんに全部だとこんなに(ぶ厚く)なっちゃうとさ、読まなくなっちゃうし。だからプレゼン用としてこれを見ると全部わかるんですよ。で、これを今つくってるんですよ。どんどんつくってるんだけど、どんどんあげちゃうから、なくなっちゃうんだけどねえ。大変なんだよ、これつくるの。コピー代だって大変なんだ。これね、全部買って来てつくってるの。大変なんだけどね。こういう形で今やってて、いずれどっかでやるようならいいんだが。とにかく我々はね、まず描かなきゃいけないってこと。それからね、いつでも声がかかったときはスタートできるように、僕はね、今度「地球爆通信」に書いたけど、まあ2012年かな、6番位までは、完成させたいと。そうしないと今1点も出来てないんですよ。70点にしたって。1番にしたって君もまだひとつ描いてないだろ、あのでかいの。あれも描いてないだろ、王さんも。彼女(白井さん)も描いてない。
山口:一回ちょっとね、考え直さないといけないですね。
岡本:一回ね、これはねえ、各自が今進行してるから、僕はそれを信用して、やってますけどね。でもこの間一回気合いかけたんですよ。やっぱり作品が1点も完成していないのはまずいよ、と。5番位までは早いところ完成させて、いつでも出品できるような態勢をつくっておこうよ、と。前に光田さんにも言われたんだ、「まだ1点も出来てないんでしょ、まず作品があって、言うべきですよ」って言われちゃったとき、返す言葉がないんだ。だって出来てないんだもん。本当に。ただワーワー言ったって。それはまずいよな。これはねえ、そういうことですから。
(休憩)
(岡本信治郎のオーラルヒストリー再開。18歳くらいで絵を描きはじめるようになってからの歴史を語る)
岡本:それで、18歳位から絵を描き始める。それはねえ…
坂上:絵を始めようというのはやっぱり空襲の…
岡本:それもあるでしょうね。僕の高校は、いわゆる受験校なんですよ。だから当然大学へ行くつもりだった。しかし戦争に負けて親父がひとりで苦しんでいる。田舎に疎開した時、小金を持っていたらしいんだが、それも全部使い果たした。東京へ帰ることも、家を建てることも出来ない。もともと商人なのに商売も出来ない。失意の中で東京の小さな会社へ通いながら一家を支えている。そういう状況の中にいて。僕はね、これはもう大学なんて行ってられないな、って思って。それで「大学行くのやめる、受験しない」って言い出したの。うちの親父がね、「そんなことしていいのかい?」「これからの世の中はね、大学位入らないとまずいんじゃないのかい?」「俺がいくじないんで、お前には苦労かけるなあ」なんて言ってるの。でも口ではそんなことを言ってるんだけど、顔を見るとねえ、もううれしくてしょうがないって感じなんだよ。笑いそうなんだよ。シメシメなんて思ってるんだよ。もともと学校なんかどうでもいい家だったから。喜んでるの。顔にあらわれちゃってるのね。もうちょっと神妙にしたらいいのにって思ったよ。(笑)それでもね、僕は社会に出ちゃった。苦労しましたよ。社会出たら大就職難でしたから。
坂上:結局社会に出たのは
岡本:19才のとき。18で卒業して、19でもう出ちゃった。それが1952年かな。
坂上:朝鮮戦争の特需みたいな。
岡本:そうそう。まあ、特需まで行かないよ。本当にまだひどい時よ。戦後の混乱期よ。だけど建前上そういうことは、特需あったかもしれないけど、一般はまだまだ。大就職難時代で大変だった。
坂上:まだ戦争の傷跡みたいなのは。
岡本:傷跡ってんじゃないけど、まだ戦後の、まだ5年位しか経ってないんだから。それで高校生なんての、商業学校ならともかく就職難で大変でしたよ。高島屋の就職なんて第6次まで試験があるの。あんなところを受けるのに。1回受けに行って驚いちゃった。大学借りてやったんだよ。もう、1万人位来たんじゃないかなあ。僕はもう最初に呆れて帰って来ちゃった。(苦笑)。もうすごいんだよ。講堂みたいなところに10班位あるんだよ。まとめて。高校生がよくこんなに集まったなあっていう位。大就職難時代。今なんて比べものじゃないよ。それで20人に1人位の試験を受けて、僕は中小企業に入ったんです。文房具の会社だったんだけど、印刷部にまわされましてね。それが印刷と関係できた。結局4年そこにいたわけです。その間に絵も一緒に平行して描いた。人生これから、こんなつまんない会社で俺はずっと行くのかなあって、思って。そうすると自分の中で絵描きになれなくても絵が好きだったから、とにかく趣味でもいいから絵だけは描いていこう、と。すると絵を描くってことはやっぱり知識がなきゃあやっぱり駄目だよね。そういう意味で、本だけはちゃんと読んでいこうと。乱読だね、とにかく何もないんだから。要するに絵画が好きな少年で、思想も何もない。ただそういうものやりたいっていうだけの。それで始めたわけです。その間に勤め先で知り合って仲良くなってた友人たちと同人雑誌を始めたわけ。あそこにあった、『梟』(同人雑誌名)の。あそこで「デッサン劇場」なんて漫画を描いた。あの頃、東京タイムスっていう新聞で、毎月同人雑誌評があって、林 富士馬って人が、全国から出ている同人雑誌の批評をやるんです。すごく真面目な。それで時々、我々の雑誌が取り上げられた。
坂上:それはどういうメンバーで。やっぱり職場の人たちと。
岡本:そう。大学生もいるし。あの中のリーダーは、早稲田の文学部行ってて、同い年で頭いいんだよね。それと僕の一番親しかった寺尾(孝之)っていうのと仲良くなって。で、寺尾とその佐藤君(さとう・まさゆき)っていうのが親友で同級生だったのね。それに僕が加わったわけ。そして1956年、昭和31年、5月、僕はデザイナーとして凸版印刷に入るんですよ。22歳。ちょうど大学卒と同じ位。(その前の中小企業では)4年やってた。その8月に、銀座の画廊で、村松画廊で初個展をやる。そこで針生一郎さんや中原佑介さんと出会うんですよ。それからずっとディレクターとしては26年働いた。絵も平行して、まあ2つやってたわけだ。で、25年経つと永年勤続者って表彰されるんです。僕はそこで辞表を書いた。会社でね。「お前なんで辞めちゃうんだよ。」って重役に呼び出されて、「不満か?」って言うから「いや、不満じゃありません」。25年間、現実の原則に基づいて私はディレクターとしてやってきました。一方、その前の年に、池田20世紀美術館(静岡)で、『岡本信治郎の世界展・25年の歩み』(1979年)という回顧展を開きました。つまり現実の世界と快感原則っていうか、観念のいわゆる虚構の世界、フィクションの世界、いわゆる二つの世界を二重に生きた男として、ここは一つの節だと思って辞表を書きました」って言ったら、「二つの世界を生きた男ってのは何となくかっこいいよ、だけどその後の生活できるのかい?」「それはわかりません。家内が今度鎌倉で骨董店を開きましたので、今度は選手交代でね、私は黒幕でやっていこうと」と言ったんです。今までは生活体験の中から絵をやってきたけど、やっぱり長年やってくると、まあ多少そういう知識とかいろんなもんあるんだよ。「今度は芸術至上主義的に少しやっていきたい」って。そしたら「それは結構だ。だけど商売ってのは成功するとは限らんじゃないか。つべこべ言わず、1年間いろ、様子を見ろよ。」と。「ありがとうございます。」「凸版でお世話になって、子どもから大人になったようなもの。凸版には愛着があります。」それならもう1年間と、で、結局26年で辞めた。これを社会に当てはめてみると、最初に入社した時は、日本は貧乏国で大変なんですよ。生活が苦しくて。戦後11年目で。まだひどくて、これからだんだん万博とかオリンピックとかね、どんどん上がっていくわけだ。もうどん底から来たんだから。みんな上を向くしかないんだから。それでとうとう30歳代に入ると、経済大国、世界第2位。それでもう、一億総中流意識と。企業は買収して、ニューヨークの(土地等)買ったりしはじめますよね。中には「まず世界を点で押える。点で押えたら今度はその点の間を埋めて面にする。これが企業戦略だ。」って大きなことを言ってたんだ。これがバブルがはじけて、夢と消えて、今度は大不況になってしまう。こういう中で我々は来たわけだ。まさに企業戦士として、ものすごく働いたんですよ。残業時間が大体月90時間から100時間。それも少ない方なんですよ。工場ではね、1年間眠らない男とかが数人出るんです。どっかで寝てるんでしょうが(笑)。よく労働基準法に引っからなかったなって思うんだけど。1日眠る男とか、2日眠る男とか。とにかく猛烈に忙しいんだ。そういうところを経験しながら絵をずっとやってきたわけですよね。そういうことがひとつあって。僕の場合にはふたまたでやってきた。その後、家内の実家のね、小さな会社だけど、110年も続いてる文房具の会社のね、四代目の社長にされちゃうんだけど、それを10年やった。サラリーマンってのはね、働いてても1週間に1回位は飲みに行ったりするでしょ。ある日みんなと飲んで出て来てね、松屋の前にね、手相見が出てたから、「ちょっと見てよ」って。そしたら「あなたは少年運を持っている」って。「少年運って何」って聞いたら「少年時代あなたは激動でしょう」「そりゃ激動だよ」。みんな激動だよ。あの時代はねえ(笑)。内心それじゃみんな少年運かよ、あの時代は、って思ったよ。だけどそれ言っちゃおしまいだから言わなかったけどね。そういう風に我々は子どもの時代がいろいろあって。その後は占いで行くと、ずっと平凡に行きていける。とにかくあなたは少年時代は激動だった、と。それでまあ、絵を発表し出すのは21の時から。つまり入社する1年前から。あの時に初めてルーブルが来たんですよ、ルーブル美術展が。それで前の会社を抜け出して見に行った。そしたら博物館から上野駅まで並んでいて見られない。それで呆然として、帰ろうかと思った。そうしたら中学と高校の時の絵の先生が偶然通りかかって「君、何してるんだ、こんなところで」「今、これ見に来たんです。これじゃあ仕方がないから帰ろう」と。「俺はね、これから美術館へ日展を見に行くんだ。一緒に行かないか?」「じゃあ御供します」「君は何をやってるの?」「今、企業で働きながら絵を描いてます」「そしたら、じゃあ僕は学校の先生まだやってるけど、京橋でね、研究所の先生もやってるんだ、1週間に2回程度。ヌードデッサンとかやってるから、一度来るといい。それでどんな絵を描いてるんだ?」「いろいろ描いてます」「じゃあ持って来いよ」って。で、行ったんです。そうしたらねえ、みんなヌードのクロッキー描いてる。僕は女の裸を見たことないんだよね。当時20位で見たことないんだ。で、僕も一応クロッキーを描いた。それで終わった後、先生が「君どんな絵描いたんだい?」って。それで見せたら、さっきの下(の階)にあった虹の絵とかあるでしょ、細かいマチエルのああいう絵を。「これ、どうやって描いたんだ?」って聞くんだよ。
坂上:さっき私が言ったのと同じこと言ってますね(笑)。
岡本:それでね、「何?何?」ってみんな寄って来たんだ。そしたら「面白いですねえ」なんて、女の子がね、話かけて来た。ちょっと可愛い顔した、ちょっと小悪魔的な。こいつが今の女房なんだよ(笑)。
坂上:どういう絵を描いてたんですか。ああいうマチエルで、ああいう暗い感じで、ああいう色彩で。
岡本:そうそう。で、「どうやって描いたの?」って言うから「これ水彩画です」って言ったら、「水彩? これ、君ねえ、すぐ上野に出品しないと駄目だよ」って。「どこに出品したらいいんでしょうか?」って聞いたら「決まってるじゃないか、君、日本水彩画会だよ」って(笑)。日展系ですよ、日本水彩画会って。その頃はさあ、新制作っていうのは中小企業の会社にいたときに、原稿頼みに来るから知ってたんだよ、二科とか新制作。ところが日本水彩画会ってよく知らなかったんだよ。そしたら日展の水彩画部なんだよね、あれね。もともとうんと古い明治からある団体だよ。そこへ「これは君、まず、日本水彩画会に出さないと駄目だ」って。それでB全で、3点出したんだ。そうしたら受賞しちゃったんです。みんな騙されたんだよ、あのテクニックに、おじいさんたちがみんな。で、3点出してみんな入って。白滝賞ってのがあったの。白滝幾之助。それはね明治の巨匠ですよ。で、三宅克己って、三宅賞って、2つ並んでるの。1番いいのは、日本水彩画賞。その次の賞だね。で、日本水彩画会ってのは、6月にやってんのね。で、日展は、秋は、水彩画部になってやるわけでしょ。で、白滝賞もらって。まさか受賞するとは。入選するのだって。通るかなあ?と思ってたのに。そしたらね、精養軒があるでしょ、百畳敷き、あそこにダーッとコの字形にお膳が並ぶんですよ。僕は一番隅に座ったのね。一番最後。お膳の中央には明治の元勲みたいなおじいさん達が座っている、ダーッと。で、一番隅っこに幹事が来て「岡本君、真ん中を見て御覧。真ん中に座ってるおじいさんね、あれは石井柏亭の弟で石井鶴三先生だ。これから君を石井先生に紹介します。ついてきなさい」って言うんだよ。それでついて行った。石井鶴三って知らない? 有名な。絵うまいんだよ。吉川英治の『宮本武蔵』の挿絵描いた人。あれだよ。あれは挿絵だけど、もともとは非常に格調のある絵を描いていて、うまいんだよ、とにかく。絵画の達人だよ。あの中の一番の長ですね。割とちゃんとした人だったですよ。何か普段着みたいな格好していた人だけど、ちゃんとした人で。それで、「今度受賞した岡本信治郎君です」「がんばりたまえ」「はい」なんてね。その当時こんなにでっかいパレットくれたよ。お金はくれないんだよ。まだ戦後すぐだから。
坂上:そのころ反日展じゃないけれど、若い人達が。
岡本:そんなことはまだ知らない。反日展もクソもない。まだ全然。美術雑誌も少ししか読んでないから全然わからない。自分だけで描いてる。まさに教養も何もないわけでしょ。自分ひとりで美術雑誌というよりは、画集をね、少ないんですよ、今と違って。それでゴッホの画集とか技法書とかそういうのを読んで。絵の友達いないんだよ誰も。文学やってた友達はいるんだけど。自分の方法は、印刷会社の網点方式で、自分の方法をつくったわけですよ。で、味を占めてね、今度は他にも出してみようって。で、第一美術に3点出して。今度は第一美術賞もらったの。でもくだらないなあって何となく思ったよ。それで今度二科に4枚出したら2枚入った。その2点、14室の2段掛けの上の方に掛けてあった。9室にはね、岡本太郎がいて。吉仲大造の《窮鼠》、芥川(間所)沙織の《古事記》。みんなあそこに集まってた。あそこだけがパッとしてるの。後はどうでもいい。よし!次は新制作だ!って。で、新制作出して。また4枚出して。それでも僕はどっかの団体に所属する気はなかったんです。会員になりたいとか、まだそんなことも考えてないんだよ。要するに道場破りみたいなもんだよ、自分は。日本の水準ってのはどのぐらいだかって知らないわけだから。今度は4枚出したら3枚入選して。受賞候補になった。その時に雑誌に「岡本信治郎が印象に残った」なんて一行出たんだよ。100メートル位走っちゃった。それ持って。喜んでさ(笑)。
山口:いくつの時ですか。
岡本:あれ?21歳。で、今度は明くる年のアンデパンダン(読売)があって、それに出品
したの。そしたらねえ、この《密猟者》(1956年)が美術雑誌に出て。もうひとつ《もぐる人》(1956年)っての出したら、靉謳のと2つ並んで批評が出た。
坂上:それも水彩画で。
岡本:ええ、暗い絵で。「原稿書け」って(言われて)400字詰めで1枚。『美術手帖』に書いたんです。その後、国画会にも出した。2枚出して1枚入って。それでやめたんだ。団体展とりあえず。それでも、まだ続くんだよ、団体展。少しは。さあ次は個展だ!って。それで22で個展(村松画廊、東京、1956年)を開いた。そこで針生さんに出会った。その頃から美術雑誌見出したんだよ、時々ね。すると針生さんの顔が出ている。高校の先生だった針生一郎に似てるんだよな、批評家かあ、おかしいなあ、あの人国語の先生だったんだ。名前も似てるしね。おかしいなと思って。そしたら(画廊が入っているビルの階段を)上がって来た。先生だったことを話したら「君いたかなあ?」なんて言ってたよ。あの時、彼が『美術批評』に初めて書いた。「岡本信治郎は非常にユニークな絵を描いてる。しかし年が若いせいか非常に感傷的なところがある。自分の資質に反逆して、もっとドライに挑戦しないといけない」なんて書いてあった。中原さんも来たの。初めて来てね。で、評論家ってもっと年寄りだと思ってたんだよ。これが批評家かあって思った。彼は絵の前で何かサラサラサラと書いて。今度はあっちに言ってサラサラサラ。こっちへ行ってサラサラサラって書く。それが中原さんとの出会いだった。その時にね、何か、新聞か何かに彼が書いたらしいんだよね。「君の絵は非常におもしろいが非常に内向的で閉鎖的で、閉ざされた感じ。もうちょっと開かれた感じに行った方がいいんじゃないですか」って言っていた。この初個展でヨシダヨシエさんと知り合って「制作会議」というグループをこしらえたんですよ。吉留要、昆野勝、北山泰斗たちと一緒にね。ヨシダヨシエはあの頃詩人だったんだよ。奥さんが前進座の女優で。その頃に「制作会議」をつくって発表した。あれでもそれから1年位で解散してしまった。それからいよいよアンフォルメル旋風がやって来る。あの頃はね、我々は外から影響を受けるっていうはほとんどなかった。美学的にはシュルレアリスム等が戦前から入っていて、歴史的にはわかりますよ。だけど具体的にね、外来文化として何かが入って来るとかってことはなかったの。ピカソ展が来るとか、マチス展が来たなんてことはあるけど。僕はね、アンデパンダンに出した時に、初めて河原温、池田龍雄、池田満寿夫とか。ああいう人たちの絵に出会ったのね。で、ああ、僕と似てるなあ、いいなあ、って。それでアンデパンダンに惹かれて引き込まれていく。その時は河原温は《不在者》(1956年)、靉嘔は《田園》(1956年、東京都現代美術館蔵)出していた。靉嘔はその前はね、女と男の人物がいて、その後から雲がダーッとついてくるようなの。良かったよ。で、アンデパンダンはいいなって思った。僕がアンデパンダンに出品した絵が、美術雑誌に取り上げられたりして。その時にね、自分の描いてる絵と彼らの絵は何か考え方が似てるなって思って。外部から受けるものはね、美学的にはシュルレアリスムってのはわかるけど、他には何もないわけ。それであるとすれば実存主義文学。サルトルとか、カミュ。ああいうものは僕らの若い世代にはピタッと来るわけですよ。日本は戦争に負けちゃって。全く、何もかも失ってるわけでしょ。そういう中で若者たちが初めて絵画的な新しい意識を持って出て来たわけですよ。グループ展、アンデパンダン、個展とか、出して、それで個展ブームが起こってくる。
山口:アンデパンダン(読売)には既にこういう作品を出して。
岡本:《密漁者》(1956年)を出してたよ。これは美術雑誌に取り上げられて。
坂上:本当に自分が描きたいと思っていた作品。
岡本:そうだね。これはちょっとグロッタみたいな感じがするけどさ。これを描いた時、周囲の状況は何も知らなかった。でも後で、同じようなことを考えている作家たちがいることがだんだん解ってきた。
坂上:やっぱり同じような時代を生きて、同じ様な問題意識を抱えて持ってる人たちが自然とそういう表現を持って惹かれあうところがあって。
岡本:そうそう、そういうことですね。
坂上:っていうところに、アンフォルメルというものが、突然…
岡本:そうそう、そういうこと。僕はあの頃非常に燃えてたんですよ。売るとか売らないとかじゃなくて、絵画は批評であると。そういう形で。純粋に。要するに、自分のね、内面から出て来るものを定着させる。僕はね、職業化出来ないまでもそういう形でやっていけたらいいなって思っていた。ある種の聖なるものすらを感じていたんだよ。絵描きっていいなあ、って思ったんだ。それで燃えてたの。そうしたら『世界・今日の美術展』って56年に来たわけですよ。その時サム・フランシスとか出てた。それは非定形絵画ってことで出てきてたんだけど。この間ブリジストン(美術館)でやりましたね、非定形絵画って。あれが似てるんだよ、『今日の美術展』に。あの時の作品も出てるんだけど。あれが本当の意味での、アンフォルメルが一番最初に紹介されたものでしょうね。ところが日本ではね、アンフォルメル イコール アクション・ペインティングになっちゃったの。あのアンフォルメル展の中にはデュビュッフェ(ジャン・デュビュッフェ)やフォートリエ(ジャン・フォートリエ)も入っていた。それが非定形絵画っていうんだけど、日本ではすべてアクション・ペインティングになっちゃった。あの頃タピエ(ミシェル・タピエ)って評論家とマチウ(ジョルジュ・マチュウ)って画家が来て、日本橋のデパートのビルの中でマチウが襷掛けで踊りながら描いたわけだ。篠原有司男も見ていたそうだよ、あれでアクション・ペインティングは大流行になっちゃうわけですよ。もうアクションじゃなきゃ絵じゃないみたいになっちゃう。それと足で描く人もいる。白髪(一雄)ね。絵具をぶつける人もいる。批評家は「イメージは死んだ、もはやアクションあるのみ!」って言うわけですよ。もうどうしようもないよ。流行現象みたいになって。僕はそういう外から入って来る外来文化って知らないからね。まさに黒船なんですよ、僕にとっちゃ。黒船みたいに押しかけて来た。僕はがっかりしちゃったんだよ。何だ、こんなもんか、って。その頃、僕は評論家の江原順さんと知り合っていた。シュルレアリスムの研究家で、僕にとっては兄貴分的な存在だった。一度浅草の観音様のそばの屋台で、鴨居玲、中西勝、中原佑介、江原順さんたちと飲んだことがありました。あの頃“アンフォルメル騒動”で僕はすっかり美術界が嫌になった。イマージュ派の花形だった池田龍雄さんは、一夜にしてセンチメンタル文学的絵画なんて否定されてしまう。密室絵画「浴室シリーズ」で颯爽と登場した河原温も、時代が少しずつ明るくなって来たせいか? 極限状況的視点では捉えきれないような行き詰まりを感じ始めていた。
坂上:時代とズレが出て。
岡本:そういう感じがした、それは確かにあったんです。でもいきなりイメージを否定し、アクション・ペインティングになっちゃった。それで流行現象で、猫も酌子もあれですからね。僕はもう絶望しちゃって。ちょうどその頃、江原順さんが斎藤義重さんについてちょっと書いてね。斎藤義重さんはずっと埋もれていた人だが、それが《鬼》(1957年、神奈川県立近代美術館蔵)でパーッっと出てきた。あれを僕はいいな、と思ってた。しかしその後の斎藤義重の動き、何か変に時流に乗っているなって感じがしてたんだよ。僕はそういうちょっと、狭い感じ、少し意地悪な目で見ていた。そしたらね、江原順さんが、ねえ、斎藤義重を褒めたんで、僕がちょっとね、噛み付いたって程じゃないけど、「江原さんがそんなこと言ってるの変だなあ」みたいなことを一言言ったんだよ。そしたら彼にさあ、バーンって言い返された。しかしこの時、僕は「もはやこれまで」って自分で思ったわけ。別に雪隠詰めになったわけでもなく、余力を残しながら、一気に参りましたって感じだった。
山口:それはいくつの時ですか。
岡本:それは24位か。それで江原さんにね、「僕は、絵やめるよ」って言ったんだ。それから僕はダーッと発表やめた。あの頃僕はよく個展やってたんだよ、ちっちゃな画廊で。みんな評論家は銀座歩いちゃ記事書いてたんだ。それがいきなり、ずーっと出さなくなった。そしたらね、江原順は自分の責任だと思ってねえ。「どうしたんだよ、出せよ」「いや、絵やめたよ」なんて言ってるの。「そんなねえ、変なこと言わないでねえ、素直に出せよ」って言うんだ。「もうやめたんだってば」。それでずーっとね、その間、僕はいつかリターンマッチを、イマージュ派の復権ということを考えていた。僕はこれらの絵のことを「テーマ性絵画」って言ってたんだけど、1950年代を研究している光田由里さんが、「テーマ性絵画って言葉岡本さんありませんよ」って。「じゃあ僕がつくったのかい? テーマ性絵画だよな」「一般的にはテーマ性絵画なんて誰も言っていませんよ」って。「そんなことはないだろ、それじゃ俺が作ったのか」って。「いい言葉じゃないですか」、って言うんだ。だけど僕は、「ちゃんと誰かが言っていたと思うよ」って言ったの。それはそれでいいんだけど。それで、とにかくこんな外来文化みたいなのがいきなり来てね、こんなに崩されちゃうんじゃたまらないと思ってた。イマージュ派っていうのはね、戦後の状況の中から、自分たちが鎖国状態みたいな、そういう状況の中でつくり出してきたものでしょ。これを復権させなければいけないな。いつかリターンマッチをするぞ!と。そのためにはどうしたらいいかって、そのためにずーっと沈黙して。結局3年間沈黙してたんです。その間に僕はいろいろ考えた。それでねえ、「スーラ論」書くんですよ、ジョルジュ・スーラ。それはねえ、同人雑誌やっていた時の僕の親友で、自分では絵は描かないし、小説も書くけど下手だし、いわゆる普通のサラリーマンなんだ。でも他の文学青年と違って、妙に明るいところがあるんだ。「第三の新人」の安岡章太郎とか小島信夫、吉行淳之介とかいろいろいるでしょ、あの「第三の新人」あたりが好きなのね。彼は船会社の一番下っ端なんだよ。彼は両親が早く死んじゃったからね。大学行かないで、サラリーマンやってたんですよ。彼がユニークな発言してね、おもしろいんですよ。それでね、抽象表現主義って言うでしょ。熱い抽象の系列だよ。我々の絵もアクション・ペインティングも夜の画家の系譜をずっと踏んでいるわけ。その延長上で、僕も描いていたわけですよ。美術史で見れば、大体、後期印象派の、例えばゴッホ、ゴーギャン辺りからルドンとかムンクとかアンソールとかシュルレアリスムとか。で、夜の画家系譜ずっと踏んで行って。表現主義とか。その中にアクションペインティングもあった。もう一方は冷たい抽象、スーラとかシニャックとかああいう人達のものからニコルソン、モンドリアン、アルバース、ヴァザルリィとか、いろいろ入っちゃう。そういう2本の系列ありますね。僕は自分の内面的な、内向派っていうか、その中で、何かもうひとつのイメージ的復権をどうやって果たせられるかということを考えたわけですよ。その時に僕の親友が思いつきで言ったことがね、結構いいこと言うんですよ。会社の帰りに一緒に飲んでた。で、盛んに僕が「イマージュ派の復権をしないといけない」とか語ってたと思うんだよ。その時に彼が、「ここに海があるとするよね。海の中には魚がいる、小さい魚を大きい魚が食べたとする、その魚をもっと大きい奴が食べたとする。そういう内面世界も大事だけど、それらを外側から、明るく、のどかで、平和で、楽しくて、スマートで、尚且つ、そういうものをすべて総括した残酷な海を絵描きは描くことが出来ないのかね?」って言ったんだ。その時に僕はハッとしたんだ。彼は本当に無意識に言ったんだが、こちらは強いショックを受けた。僕は夜の画家のことばっかし考えて、常にその延長上で何とかまたイマージュ派を、って考えていたんだが、明るく、のどかで、スマートな絵っていうのはいくらだってあるよ、デュフィとか外側から描いてる。だけど平和で明るくて楽しくて残酷な海って、誰だい?って。そんな絵描きいるの? 美術史上で。で、「待てよ」ってことになった。これはねえ、ちょっとおかしいぞ。美術史は外光派と内向派と平行線で走っている。これは変だぞ。確かに外光派でも、内向派と、平行線じゃなくて、バッテンで交り合う作家がいたっていいじゃないかって考えついんだ。それがねえ、その残酷な海とかを描けるやつだ。こういうことって推理小説つくってるのと同じだよ、ね。このバッテンでクロスする作家は誰だ、一体!って。いないんだよ、誰も。それでねえ、これだ! って思ったんだよ、これだ、こいつを探さなきゃ。その時にパッと浮んだのが、ジョルジュ・スーラの《グランド・ジャット(島の日曜日の午後)》(19884-86年、シカゴ美術館蔵)と《(アニエールの)水浴》(1883-84年、ナショナル・ギャラリー・ロンドン蔵)。あれ、変に明るいじゃないですか。人がいるけどのどかで綺麗で。内面性が描かれてなくて、がらんどうの、人物がいるが、ただ並んでいる。こう…気体みたいにボーッと。スーラは誰もいない「グランド・ジャット」も描いているんですよ。多分習作として描いたんだと思うんですよ。あの中に、内面的な真理描写はないんですよ。それから《水浴》ってのは、テート・ギャラリーにある、後で見たんだけど、みんなこんなんなって寝そべって。平和な明るい風景の中で寝そべって。ひとり水の中で静かに叫んでいるのがいる。その時に頭の中にムンクが浮んできたんだよ、ムンクの叫びが。あれは「ワァー」っと叫んでるわけなんだよ。ムンクはあの男が叫んでるんじゃなくって、バック全体が、赤いのが叫んでるって言ってんだけど。
山口:あれ実は叫んでるんじゃなくて聞いてるんだって。
岡本:そういう説もあるんだよ。だけど一般的には、あれは叫んでるように見えますよ。まあどっちでもいいんだがとにかく叫んでいる。内面性なクローズアップの手法に対して、スーラの「水浴」の中の男の叫びはとても静かなんだ。それで「あれ?」って思ったんだ。それとモネの、日傘を持った婦人像が何点かありますよね、こういう青空をバックにした絵。
山口:顔がないですよね。
岡本:顔がないよね。表現主義だか何だかわからないような変な絵がありますね。明るい中に変な虚無感がある。明るい中の虚無。それでスーラのデッサン見たら、みんな後向いてるんだよ。
山口:顔がないしね。
岡本:顔がない。後ろ向いてる。ハーバード・リードの『モダンアートの哲学』ね、あれ読むと、ひどいこと書いてる。スーラについては。「点描という武器を持った職人的絵馬鹿。二流の詩人である」って書いてあるんだよ。僕は「何言ってるんだ。冗談じゃないよ。」って思ったよ。待てよ、単にスーラは点描の作家じゃねえな、って思ったんだ。これは点景人物の作家だな、点描は手段だな、って思ったんだ。これはね、本当のスーラはどうでもいいんだ、僕にとっては。20世紀のスーラをつくろうとしてるわけだから。現代のスーラをつくろうとしてるわけだから。でもその時、世の中まだ白昼化してないんですよ。だけど、予感として芸術社会学的に考えるとこれからの世の中はもっと明るくなる。もうひとつの楽天観みたいなものがあるんじゃないかって気がしていた。その時に僕は。心理描写が全く入らない外側のがらんどうの人間を描いている男がいるんだ。それが僕が考えているスーラだ。ここでスーラの人物がたくさんいる「グランド・ジャット」と、人物の誰もいない、あの習作かも知れない、誰もいない「グランド・ジャット」を、チェンジング・ピクチャーのように2枚並べて見よう。そうすると、人物は居ても不在、いなくても不在ということになってしまう。それで僕は気づいたんだ。例えば、望遠鏡を覗いてクローズアップの方に拡大してゆけば、人は笑ったり、叫んだり、人間的な感情表現が見えて来る。今度は望遠鏡を逆に覗けば、人は豆粒のように小さくなり、心理面は見えなくなり、物体化した行動だけしか見えなくなる。つまり点景人物という内面性を剥奪された非心理的な物体になってしまうわけだ。逆算の意味で、またクローズアップの方に拡大して行けば、必然的に、人々は感情表現を取り戻し、心理が復活してくるわけだね。僕が言いたいのは、こういう自然主義的な復活じゃなくて、物体化してしまったあの点景人物を、反自然主義的にそのまま拡大してくると、粒子の荒れた巨大な点景人物になってしまう。この点景人物像は必然的に非人間的、非心理主義的、非内面的物体人物になってしまう。僕が考えたスーラ、この視点で世界を眺めれば、人も物もすべて同格された物体的存在、影のような点景人物像を描く手段として、点描という手段を選んだのではないかと、僕は考えたわけです。新しいスーラとして、スーラをニヒリストと規定して、もうひとつの明るい虚無みたいな形で行けば、現代人としてのスーラが出来るだろう、と、考えたわけですよ。それともうひとつ、文学の第三の新人について。第一次戦後派ってのがいる。野間宏とか椎名麟三とか、あの当時いた連中。重く暗いんですよね。極限状況とは言わないけどそれに近い重い世界ですよ。それを地ならしして出て来たのが「第三の新人」と言われている安岡章太郎とか出て来るわけです。日常性という形を回復して。これがね、僕の中で、パパパパっと反応して。河原温や何かが描いていたああいう連中は、まあ状況絵画みたいな、「密室殺人事件」だって中原佑介が言っていたような。そういう戦後の状況の中から出てきた、野間宏と同じような、そういうもんだよ。ところがそれのリターンマッチをするには、極限状況的じゃなくて、日常性を回復しなければならない、と僕は考えた。第三の新人がやったようなことをやれば、出来るだろうと。そいで、小沼丹とかああいう人達見ると、望遠鏡を逆に覗いたような状態で、人物がいろいろ、明るい中に、姦通事件が起こったり、心中事件が起こったり。心理描写がない点景人物的手法の中で起こるんですよ。そういうものが僕の頭のなかにチラチラってあった。これは明るい虚無っていうか、もう一つの日常性を回復させるってことはどういうことかというとね、小市民意識を否定形として逆用すること。つまり、否定形として捨てるのではなく、それを拾うことによって、日常性を回復出来るのではないか。それを使うことによって極限状況を、別の形で、第三の新人がやったような形で、河原温達が止められちゃったものを…あのまま復権は出来ないんだよ。それで、別の形で復権させないといけない。新しい形でテーマ性絵画ってものをやらないといけない。それでそれを使えば出来るだろうと、そういうことを僕は思ったわけですよ。それからもうひとつ。映画があるんですよ。アラン・レネのね、『去年マリエンバートで』って映画があるんです。ちょうどあの頃やってた。あれは死神みたいな男が「去年マリエンバートで会いました」とか、同じことばかり繰り返す。ロブ・グリエのアンチロマンの小説で。それでとうとう死神に連れて行かれちゃう。その映画の中で時々パッパって、幾何学的な庭園が出て来るんですよ。パッパっと。その時、人間がパパパパってシルエットになって出て来るんだよ。あの幾何学的な庭園が、「グランド・ジャット」が僕の中でパパパパっとつながるんだ。そうするとまさに推理小説つくってるのと同じで。文学の「第一次戦後派」から「第三の新人」、池田龍雄なんかがやってた密室絵画的状況絵画ってものを別の形で回復したもうひとつの明るい虚無。それからスーラの「グランド・ジャット」。この3つの話が繋がってくる。それを僕はね、岡本絵画の第三主義ってね、自分で名前つけたんだ(笑)。
山口:それで今に至るこういう作品になった。
岡本:その時に、僕は《第三の男》って作品を描くんですよ。
山口:その話を聞いて、僕は非常に興味を持ったのですが、その友人、僕にもそういう友人いるからわかるんですね。もともとつくる人なんだけど、今はつくってない。だけど言葉で僕を。その人の話を聞いていると、僕はもうひとりの作家が浮んだんですね。それはクレーなんですけど。
岡本:クレーにもそれはあるかも知れない。
山口:むしろ、その…スーラよりもね、岡本さんのこの絵を見ていてもさ、クレーの方が近いんじゃないかな。
岡本:そうかね。
山口:クレーってのはものすごく明るくて残酷でしょ。
岡本:あの頃そこまでね、クレーを深く見てなかった。
山口:そこで、何故クレーじゃなくて、スーラなのか。そこを聞きたいです!
岡本:渋谷の文化村で、何年か前に見た。クレー展、怖いんだよ。
山口:怖いです。
岡本:怖いんだよ、クレーの絵って。
山口:でも明るいでしょ。明るくて残酷。
岡本:明るいけど、怖いんだ。
山口:残酷です。
岡本:うん、何か、ねえ。非常に怖いよ、クレーの絵は。
山口:岡本さんの中には、クレーのようなああいうものは多分ないと思う。
岡本:あの当時は、クレーが日本に紹介されてるのは、比較的日本人が喜びそうなクレーなんだよ。僕はクレーは好きだったけど。
山口:だって、方法論としてはね、むしろスーラよりクレーだよね。
岡本:だってその時はスーラがね!僕の前に強烈に出て来たの!
山口:へえ。
岡本:何~
山口:へえ。
全員:(笑)
岡本:それはそれでいいんだよ。そりゃあ、後で検証すりゃあ出て来るだろうけど。そりゃあねえ、後で言えば。
山口:いや、不思議な感じがして。
岡本:それでね、何しろその、スーラをニヒリストとして規定すれば、現代の新しい美術が出来るだろう、と。そういう形で《第三の男》(1962年)ってのを描こうとした。で、あんちゃんの横顔みたいな、第三の男の顔を描くんですよ、僕は、100号で。あともうひとつ、おだんごの(作品)、串刺しにしたおだんごを描くんですよ。で、ひとつ食べちゃったみたいに点々になってて。で、残りを色分けしたんだ、赤とか青とか。その2点をね、アンデパンダンに出品したんです。出す前に、問題の友達に、僕はスーラ論を持って行って、「君の言う明るくのどかで平和でね、楽しくて残酷なのを僕は考えたよ」ってパッと見せた。そしたら今度は彼がびっくりして「君がジョルジュ・スーラか?」って言うんだよね。だって僕ってそういう要素なかったから、今までね。で、読んだ後、「すごいね、これ。随分膨らましたんだね」って言うから、「そう」って。「これはいけるね」って言うんだ。「君の発言に僕はショックを受けた。自分の中の観念が音を立てて崩れたよ。そいでね、これ三題噺みたいにね、くっつけて書いた」って言ったら、今度は彼が驚いちゃって。僕はね、こうして《第三の男》を出品したんだ。
坂上:勝負に出たっていう意識ですか。
岡本:勝負ったって、アンデパンダン(沈黙していた)3年目に出したの。そしたらね、これが美術雑誌に取り上げられたんだけど、その前に江原さんがいたんだよ、僕の絵の前に、会場に。それでね、「やあ岡本君、いいとこに来た、ちょっとお茶飲もう」って。それでね、「出したなあ、やっと」って。「それにしても今度の君の絵ヘンだね、あれは。どういうわけなんだ」って。だから僕はね、「まあ今の江原さんには僕の絵わからんだろうね」って言ったんだよ(笑)。
山口:その絵ってのはこの画集の中にある?
岡本:この中にあるよ。本当に単純明快なの、この絵《第三の男》。この中にある。僕のスーラ論を立証するために描いたの。100号で。この黄色いコレ。あんちゃんみたいな。
坂上:リーゼントみたいな。
山口:こういうのは、あの、岡本さん、前もおっしゃってたけど、やっぱりああいう戦前、戦後かな?幼少期の、ああいう絵あるじゃないですか、色彩とか、感覚とか。かさっと塗ったりとか。そういうものと繋がってるんですか。
岡本:それはあるかもしれないよね。今その問題じゃないんだよ。
坂上:これは1962年。
山口:僕この年に生まれました。
岡本:生まれた!
全員:(爆笑)
岡本:やんなっちゃうなあ。全く。
全員:(爆笑)
坂上:それまではずっと沈黙して、
岡本:3年間沈黙してた。それで江原さんがさ、「何だお前その態度は。何で俺はわからないんだよ!」って言うからね、「だって江原さんはシュルレアリスムの研究家だよね。夜の画家の系譜をずっと追ってる人じゃないか。僕は今や、もうひとつの外光派ですよ」って言ったの。そしたら、「外光派はいけねえや」って言うんだよね。「だからわからないって言うんだよ」って言って。それでスーラ論出した。そうしたら彼読んで、「こんなこと考えてたのか」って言うのね。「これ3年間ずっと考えてた。それを実証するために今度出品したんだ」。そしたらさあ、驚いちゃってね。彼の中になかったんだ、こういう考え方が。それで驚いちゃってさ。それで、「君は紛れも無い芸術家だよ」なんて言ってた。
坂上:3年間って長い沈黙ですよね。
岡本:そうね。それで、美術雑誌に《第三の男》が出たんだ。そうしたらね、一週間位経ってからかな、美術出版社から電話かかって来た。で、「中原佑介さんが岡本信治郎論をやりたいって言ってる」って言うんだよ。それで、「アトリエでの対話」って言うんだよ。それでやりたいって。その時には僕はね、変えなきゃよかったんだ、三題噺にするのをね。明るい絵だけに絞って、「ジョルジュ・スーラ論」を書き直したんだよ。後で、今、考えるとね、全部入れときゃよかったんだけどね。僕はね、ひとりで考えてるわけですから、第三の新人なんて出してくる自信がなかったんですよ。それで、もうちょっと整理して。どうせならひとつにしたらいいなって思ったの。それがひとつにあったんだよね。少し短くしてたの。それで当時住んでいた大泉学園のちっちゃな家に来たんですよ。愛甲(健児)さんってあそこの編集長とカメラマン3人で。その時ね、中原さんが前に会った時と全然違うんだよね。何かガラス玉みたいな眼してさ、無表情でさあ。ポーカーフェイスで人の顔をジーっと見てるんだよ。前に会った時はもっと普通に話したよなあって思ったが。今度は全くの無表情。ジーっと見て。にこりともしない。何だこの人!変な人だなあって思ったよ。
山口:それは幾つ位の時ですか。
岡本:僕が28、9だな。考えていたのはもっと早いんだけど、発表したの62年だから。それで、中原さんがポーカーフェイスでジッと見ながら、「何で水彩画を描くんですか」なんて聞くの。くっだらねえ質問しやがってって思ったよ。その時は答えなかったの。後で答えたけどね。その代わり僕の「スーラ論」をつきつけた。そしたらね、彼は頭いいんだよね。バーっと読んだの。そしたら「ワー驚いた!」って言うだよ。最初の出だしね。「僕は、ゴッホ、ゴーギャンを現代ニヒリズムの前兆として捉える視点から出発した。しかし、今度は、スーラが僕の第二の出発として大きく浮かび上がってきた。」と書いてあるんだ。それに対して中原さんが、「ゴーギャンを現代ニヒリズムの前兆として捉えるのはわかる。しかしゴッホを現代ニヒリズムの前兆と捉えるのはおかしい」って言うんだよ。僕は、「おかしくない」って言ったんだ。「サンレミの精神病院の鉄格子のはまった窓からゴッホは麦畑を見ていた。あの時、彼は、空を真っ黄色に、山も真っ黄色、麦も真っ黄色、人も真っ黄色、全部真っ黄色にして描いた、厚塗りしてね、そして、おそろしく単純な絵だ。これは、重い書物が語る微笑してる死だって言うんだ。そこには悲しいものは何もない。それは微笑してる死だって言ってんだよ。ああ、僕は今、光の洪水の中のきらめく荒漠の中を太陽に向かって進んで行くのだ、と書いてある。「空も山も麦も人も、すべて同格化して真っ黄色にしちゃう世界。こんな人間も物も同じだって言ってんですよ」って僕は言ったの。「こんなヒューマニストがいますか?」って言ったの。「全部同格化して物質化してんですよ」って言ったの。確かにゴッホは性格的に激情家だったかもしれない。しかし彼は、決して炎の人じゃないよ、単純なヒューマニストじゃないよ、認識者だよ、これは明らかに認識者の目だよ。ゴッホを僕はニヒリストとは言わない。しかし現代社会における、人間疎外とかの前兆として立ってた、最初に立ってた人、それがゴッホじゃないか」って言ったんです。つまり神無き時代、神が縮小化されていく時代に、彼は必至に神を追い求めて、精神の共同体を追い求め、人間の共同体をつくろうとした。でも相手が悪すぎたね。ゴーギャンなんか選んじゃって、それでおかしくなって、駄目になっちゃった。彼は一種の宗教画家ですよ。神を追い求めたわけ。それでマダム・ルーラン真ん中に据えて、左右にひまわりを置くんだ、マダム・ルーランの顔を黄金色に描く。で、あの、ひまわりは燭台だって言うんだ、ふたつ置いてある。聖母子像なんですね。紐を持ってる、その先に赤ん坊がいるという想定なんだよ。マダム・ルーランは揺り籠の紐を持っているわけだ。要するにあれは聖母子像なんです。顔がひまわりと同じ黄金色の顔をしているんですね、そういうものを描く。それをちゃんとゴッホの手紙の中で証明してますよ。ひまわりの絵は、人間の一生みたいに描いてある。若い時から枯れちゃうまで。全部一生描いたみたいな。彼は現代人が持っている人間疎外の原形だな、最初の人です。そういう意味で僕は現代ニヒリズムの前兆として、おかしくない、と言ったんだ。彼は黙ってたよ、何も言わなかった。それから、僕が何故水彩画を描くのか、ってそれね、油絵の場合は、描きながら思考が移動する、そういう傾向がある。絵具を次々に重ねていき、自分の中で、動き出すようなところがあるような気がする。それとすぐ乾かないんだ。描いて時間がかかる。不便なんですよ。僕はサラリーマンで、日曜日しかない。土曜日は半ドンだから。それでそういう中で考えていくと絵画をね、自分は画面の中で歩き回って探しまわるタイプじゃないんだと、まずデッサンの中で考えて、むしろ探しまわって結果を出す。出来たら後はそれをそのままカンヴァスに定着して描くだけなんだ。本番の段階で考えてんだ。そこではね、手探りもやるんだと。そのかわり水彩画の場合は、油絵のように塗り替えが効かないからね。失敗すると終りなんだよね。要するに工場で組み立てるみたいに、設計図つくってやった方が合理的だって考え。そうすると水彩画の方がいいって。そして水彩画の技法を自分でつくって、つまり網点の方式で、一色一色かけていくわけです。まず黒地の上に赤をかけオレンジをかけ、コバルトブルーをかけ、黄色をかけると黄金色が出て来る。網点の形式で。その上で線で固めてくわけね。
山口:印刷会社でやられてたときの経験。
岡本:印刷会社で働いていた網点の。それを自分流につくったんだ。
山口:非常に版画的ですよね。
岡本:それでね、僕の中で、さっき言ったみたいに、画面の中でどんどんどんどん変わって、「おいらの行くとこどこだんべえ」というような絵画づくりは合わないのよ、ちょっと。
山口:合わないね。
岡本:合わない(笑)。ネチネチやってるタイプじゃないんだよ。でもそういう風になっちゃうときもあるよ。思ってた通りにいかなくなっちゃって、画面の上を歩き出す。呼吸が荒くなって焦っちゃって。最後にダメーってことありますよ(笑)。予定が違っちゃった、それはあるよ、人間だから。でもなるべくそういう風にならないように描くわけですよ。今度のもペペペって描いてるでしょ、デッサンで。面相筆でさ、ピカソの顔描いたりしてるじゃないですか。バードマン。あれなんかペペペって描いたように見える。みんな「すごいねえ、すごいスピード感のある線だね」って。本当はスピード感なんかありゃしないんだよ。下地がスピード感があるように描いてるんだよ。それをねえ、今度はきっちり計って。今度はゆっくりゆっくり描いて。スピード感がありますよって感じに描く(笑)。
山口:それをしかも2回3回線をね、
岡本:そうそう。
山口:なぞってね。
岡本:そう。それだよ。そういうことをやってるわけだ。ともかく、中原さんって頭いいから、僕がしゃべったことをもうパッとわかっちゃうんだな、「不在のものの絵画」っていうタイトルで、そこに僕のスーラ論を紹介するの。そしたら美術出版社が「スーラ論」載せたいって…
山口:その本今でも読めるんですか。
岡本:あるよ、『美術手帖』で。ところがね、あの時スーラに絞って、第三の新人だけ取っちゃったんだ。それをあとでなくしちゃったんだよ。
山口:なくしちゃったのが今あるんですね。
岡本:現在短くしたものしかない。光田さんが「それ、惜しかったですね。それ残ってないんですか」って。「なくしちゃった」って。でも今度はしゃべったからね、記録に残るけどね。それで一躍ね、岡本信治郎のスーラ論が世間に知られるようになった。光田さんも今度(松濤美術館のカタログ所収論文で)書いてますよ、スーラのことについて。最初のころは岡本信治郎は、と言えば、すぐスーラ論が出てくるんだよ。
山口:すると、ああいう仕事の中断があって、それでスーラ論があって。
岡本:中原さんは、岡本信治郎は初め、夜と霧みたいな暗い世界を描いていた。だが、1950年代の密室絵画と言われた極限状況的視点に対して、日常性を回復させることによって風穴をあけた、という言い方をしたんだ。読みが深くて、中原さんの文章はうまいんだよ。最後に横顔を描いてある絵を見て、彼が「これは何?」って聞くので、僕が一言。「天皇です」って言って岡本信治郎論は終わるんです。《陛下のりんかく》(1964年)って言う絵です。明るい虚無。倦怠の美学。影としての点景人物。それを表現するために、スーラは“点描”という武器を使っている…。光田由里さんも「いろんな人の岡本信治郎論読んだが、中原さんの文章にはかないませんね」なーんて言ってた。
坂上:この明るい色彩というのはやっぱり3年間虎視眈々と狙っている時に…
岡本:そう、こうして20世紀の影男、スーラが出て来たわけです。それから今度はポップアートが出て来るわけですよ。今度は針生一郎の話になるわけだけど。その前に、何だかんだあるわけだが、今度は岡本信治郎がポップアーチストだっていうことになっちゃうんだけど、ね。まさに外来文化を取り入れたみたいに思われて言われちゃう。自分としちゃ心外な気持ちが強かったわけです。で、ある出版社がね、世界美術全集を作る中に日本の作家も出るわけだ、外国作家と一緒に。その中に僕も選ばれたわけだ、それはいいんだよ、出すのは。それで編集者がうちに来て話してる時、彼は悪気も無いが「ポップアーチストとしての岡本さんはですね」って連発するんだよ。
坂上:美術手帖?
岡本:いや、他の出版社の。彼は別に悪気はないんだが、それが何度も何度も出て来るわけ。僕は黙って聞いてたんだけど、そのうちに僕が笑い出してね、「ちょっとストップ。あんた今ね、相当失礼なこと言い続けているんだが解りますか?」って聞いたんだよ、そしたらきょとんとしてるわけ。「あなたの頭の中にはねえ、日本の現代美術は初めにアメリカの現代美術があってその上で存在していると思っているのかも知れない。でもね、あなたがね、金髪娘と岡本信治郎ができてるって思うのは、あなたの勝手だよ。だけど僕にはね、1950年代という黒髪の初恋の人がいるんです」って言ったの。そしたら彼、真っ青になっちゃった。目の前で。そういうことがありました。
山口:まあ、ポップアートじゃなくって、岡本さんが小さい時からのああいうデザインとか、すごく通じてるものがある。
岡本:それもあるよ。だけど今言ってるのは、もうちょっと美学的にね。そういう岡本信治郎がポップアートだという問題で、ずっとあとの話だが、針生一郎さんとちょっとぶつかったことがある。2001年僕は池田20世紀美術館で「笑う雪月花・ころがるさくら」という大きな個展を開いた。針生さんが原稿を書くことになって、僕の絵を見にアトリエにやって来た。その時、帰り際に「君は何故鎌倉に住んでるんだ。東京下町の人間が何故鎌倉に住んでるんだ?」って聞くんだよ。僕が鎌倉を希望したわけじゃなくて、家内が希望したんだけど、僕はその時、針生さんの質問の意味が解ったような気がした。それはそれでいいんだよ。とにかく彼が原稿書いて、僕に送ってきた。その出だしが、「岡本信治郎がポップアートの影響を受けて明るくなったのは、当然だ」って書いてあったんだよ、一言。いきなり唐突に出て来たんだよ。明るくなったのは当然だ、って。
山口:当然って理由は書かれてたんですか。
岡本:理由は書いてない。それで僕はね、他の人が言う分には僕は相手にしてないんだが、針生さんがこんなこと言っちゃ困るなって思ったんだよ。それで手紙書いたの。「何が当然なんでしょうか?岡本信治郎はポップアートの影響を受けて絵が明るくなったんでしょうか? いわゆるアメリカのポップアートとかイギリスのポップアーチストを意識しながら絵が明るくなったんでしょうか? そもそも岡本信治郎はポピュラーアーチストなんでしょうか?」って書いた。それで「自分の中にアメリカ美術に関心があるとすれば、ジャスパー・ジョーンズの知性と、ジム・ダインの感性と、アンディ・ウォーホールのニヒリズムと、ステラの暴力的デタラメ絵画です。私の関心はそれ位しかありません」。後は「アメリカ絵画はいろいろあるだろうが僕にとってはどうでもいい」って書いた。それに「ポップアーチストと言われている人たちの誰の影響を受けたんでしょうか? 僕は」って書いた。「アメリカの作家の影響を受けたのか、イギリスの作家の影響を受けたのか。影響を受けるってことは、セザンヌの影響を受ければセザンヌみたいな絵を描く、ピカソの影響受ければピカソ的な絵を描く。私は一体誰の影響を受けたんでしょう? それにアメリカのポップアーチストを例にとれば、日常性という問題で私が考える日常性という形での作家はいるでしょうか?」って書いたの。「あのアンディ・ウォーホルは日常的でしょうか?」「私はアンディ・ウォーホールっていうのは日用品を使った反日常的美学の画家だと思ってます」って書いたの。「あと他に、日常性と思われる作家で、岡本信治郎に似ている作家はいるんでしょうか」って書いたの。で、「私が考えてるのは小市民意識を否定形して、それを逆用しながら、日常性を回復して、いわゆる密室絵画とか言われたものを別の形で繋げるためにやったんであってね。そういうかたちで明るくなったんで。そんなような回りくねった形の日常性を扱ってるアメリカのポップアーチストはいるんでしょうか? いるんだったら教えて下さい」って書いたの。そしたらさあ、彼困っちゃったんじゃないの。それからもうひとつは、僕の前の文章に関わる件。「東京少年」カタログの中に針生さんが「自分は、東北の田舎のインテリ家庭の中で育った。」「それで都市に対する…あの頃は疲弊してますね、田舎は、人身売買とか、非常に苦しい農民の生活を見て、自分は、少年時代から青年期にかけて、都市に対する憎しみの念を持って育った」「一方岡本信治郎は、江戸東京の、東京下町の、家庭環境は知識階級じゃない、全く違った環境の中で育った」と書いてある。それでね、都市と農村について、彼が都市を見る目に、何かちょっと、ね、あるんでしょうね。そしてそれが…うちに来たときも、帰りがけにちょっと聞いた「何故下町である君がね、鎌倉に住んでるんだろうか」って言うことにつながってくるような気がする。その時にねえ、僕は、ああ、針生さんらしいこと言ってんなあって思ったんだよ。それに対して僕は、「加納光於とか永井龍男なんかみんな神田で生まれて鎌倉に住んでますよ」って答えてる。太陽がない街の人達の持ってる下町意識、労働者階級っていうか、貧民街も含めてね、そういう貧しい生活をしている階層があります。むろん神田だっていますよ。浅草だってね。しかし浅草とか神田ってのは江戸文化を引き継いでる、町人文化引き継いでる下町っていうものがあるわけでね。下町即プロレタリアってわけでもないんだよ。それで、何故鎌倉へ住むのかって言ったって。僕はね、「鎌倉は田舎じゃないんですよ」って言ったの。山や海があって、自然があっていいんだけど、都会的なんですよ。都会人が住んでる。「だから我々は田舎には住めないんですよ。」って言ったの。で、その時は言わなかったけど、鎌倉選んだのは僕じゃないんだよ、家内なんだよ(笑)。
山口:そういうふうに答えれば(笑)。
岡本:まあその時じゃなく。後で答えたんだよ。「鎌倉を選んだのは僕じゃありません。家内の叔母と家内がワーワー言って。それで叔母さんが一人もんだから、土地が広いから半分使おうってんで鎌倉になったんだよ。鎌倉は土地が広いんでね、買うのに。買い切れないんでおばさんとふたりで買ったんだ」僕が決めたんじゃなくて、家内と叔母がふたりでワーワー「鎌倉鎌倉」って。僕はねえ、海があるとこ行きたい、って言ったんだ。友達がいるんだよ、大磯とか、茅ヶ崎とか。海があるとこ行きたいって言ったんだ。別に鎌倉行きたいって言ってない。そういう風に書いたんだよね。「鎌倉を希望したのは僕じゃなくて家内です」って書いた。そうしたら怒っちゃったんだ。それで、僕が針生さんに電話したらね、「じゃあ書き直すよ」って書き直してくれたんだ。それで、書き直してくれたのはいいんだけど、一番最後に「ところで岡本信治郎よ、」って怒って書いてる。で、池田20世紀美術館長の林紀一郎さんが、「これは困るよ」ってわけだ。「岡本信治郎はあなたに手紙を出したんでしょ。それで、文句あるなら手紙でやんなさいよ。こんなところにこんなこと書かれたんじゃ困りますよ。これだけはやめてくださいよ。」ところが「嫌だ」って言うんだ。「じゃあ岡本信治郎の手紙も載せましょうか」って彼が言うと針生さんが「それは困る」って(爆笑)。それで、結局載せなくていいってことになったの。そしたら印刷屋がバカで、没になった原稿まで一緒に刷って、組んじゃって。それで、そのまま直通で、針生さんのとこ送っちゃったんだ。それ見て針生さん、また逆上しちゃって、「やっぱり載せるんだ」ってことになったわけ。
山口:なるほどねえ。「それにしても岡本信治郎よ」って。
岡本:それで林さんが困って、「岡本君何とかならんか」って。「このまま出すんじゃ…」って。僕は「出したっていいですよ」って言ったんだよ。「だけどね、このままじゃ困るんだ、こっちが困るんだ」と。「何とかしてくれ」って言うんだ。「じゃあこうしよう」って言った。「僕がね、針生さんにおわびの手紙を書く。それを針生さんへの手紙ってんで、今度は針生さんの許可を得て載っけることにしましょうよ」って言ったんだ。「ヤダって言えば載せないけど、いいって言えば載せよう」って。それを書いた。これが「針生さんへの手紙」。針生一郎に、僕が非常に下手に出てるんですよ。で、「恩師に、三歩下がって影を踏まずに歩かないといけないのに、三歩前を歩いて影を踏まないってことをなっちゃった」って書いたんだよ。それで「針生武蔵と岡本小次郎の雪月花合戦は、ここで岡本小次郎が切られたとこで終りにしたい」ということで。あの文章を書いたんだよ。でも、謝って、下手に出ながら、ほめ殺しをしてるんだよ。あの文章は。それで、今度は林さんの方から針生さんの方に「岡本信治郎から手紙が行った? 許可得てくれ」って聞いたの。聞いたら針生さん「いいですよ」って言うからそれで載っけることにしたんだ。
山口:見てるとこれ、相当針生さん怒ってますね。
岡本:怒ってました。針生一郎に反逆した人っていないんじゃないかな? 正横綱に対してこっちは幕下なのにさあ。これが出たらヨシダヨシエさんから電話かかってきて「これはふたりで仕組んだんじゃねえのか?」って言うんだ。ボケとつっこみに似たようなね。針生一郎が突っ込むと僕がボケをやってるみたいなね。これはわざとやってるんじゃないのかと。(笑)その後、中原さんに会ったんだよ、そしたら「読んだよ、おもしろかった。だけどそんなにひどかったの?」って聞くから、「美術館でも評判悪かったんですよ。結果的には弱腰を蹴られたみたいになってやけに効いちゃったんですよ」って言ったら「針生も焼きが回ったなあ」って喜んでんだよ。評論家ってのは仲が悪いのかねえ。(笑)僕がいないときに針生さん僕の個展を見に来たんだって。うんと褒めていたらしい。後で美術館にメールが来て、「長い批評家生活の中で、岡本信治郎にはものすごく腹が立った。しかし今考えるとおもしろい体験だった」って書いてあった。その後仲直りしたの。伊坂義夫が展覧会やったときに、入口がひとつしか無い、で、オープニングパーティやったの。そしたら「針生さんが来るんだってさ!」って言うんで「来たらぶん殴られれそうだから逃げるぞ」って言ってたの。そしたら入って来ちゃった。向こうもニヤニヤしてる。で、ふたりで仲直りして並んで写真撮った。そういうことがあった。それからもうひとつ、高校生の時にね、「針生の授業なんて出られるか!」って僕はよく授業をズラがってたの。で、針生さんが出席取って、黒板に向かうでしょ。その時うしろの扉からそっと逃げ出す。忍者みたいに。校庭の隅に公園みたいなところがあって。そこのベンチで本読んでた。そしたらね、体操の先生に見つかっちゃって、「お前何やってんだ」「ボ、ボク本を読んでます」「でも授業中だろ、誰の授業だ」「針生先生ですが、僕は今気持ちが悪くなってここに来ました。」「君は気持ち悪くなると本を持って飛び出すのか、本読むんだったら図書室があるじゃないか」「でも図書室で読んでたら、他の先生にお前何やってんだ、って言われそうだから、ここきてから本読んでるんです」「ふーん、何の本読んでる」っていうから「ゲオルギュっていうルーマニアの作家で『二十五時』という戦争文学です」「おもしろいか?」「おもしろいかどうかはまだ全部読んでないからわかんないですが、読んでると涙が止まらなくなります」「まあ、いいや、気持ちがよくなったらちゃんと教室に戻るんだよ」って言うから「そろそろ戻ろうかなと思っていたところです」なんて(笑)。それが針生さんの、国語の授業の時。そういうことがありましたね。針生さんが、2001年「笑う雪月花」の時に書いたあの文章もちょっと変だったんだよ。馬場彬が死んで、「馬場彬をしのぶ会」ってのがあったんです。そこで馬場彬のことについて彼は語りたかったらしい。ところが司会者が、針生さんを指名しないで他の人ばかりを指名している。それでとうとう頭に来て帰っちゃったらしい。それから平賀敬の出版記念会ってのがあって、そこで針生さんが馬場彬のことをしゃべったらしいんです。それはね、針生一郎は、自分の批評ってものの原点は岡本太郎から出発してるんだと。つまり「夜の会」の花田清輝とか、いろいろな人たちとの交流を経て、自分の批評を確立してきた。しかし馬場はその外にいた。自分の批評のね。そういう意味では僕は馬場を正当に評価していなかった。それは批評家としては怠慢だったんではなかったかと、そういうことをカタログの文章に書いたんです。それで一番最後に、岡本信治郎も馬場と同じだ、って書いてあって、その一行で繋がるんだよ。その間岡本信治郎は一行も出て来ない。馬場彬のことばっかり書いてあるんだよ(笑)。それで、林さんたちが「これは、最後の一行で繋がるけどね、これはないんじゃないの!馬場彬のことばっかりだよ」って。「最後の一行で繋がるんだけど。岡本信治郎の原稿じゃねえなあ」って。そんなことがあって。で、結局、直してもらった。そういう経過があったんだ。
坂上:すみません。でも、まあ、本当に、何か、針生先生に会いたくなっちゃった。
山口:美術をやっている一部というか、割合多くの人がそうなのかもしれないですけど、針生さんが亡くなる前に、日曜美術館だっけ、あれで取材に行って、肺ガンだったってみんな知ってるわけでしょ。タバコをこう吸ってねえ、やってんですよ。そしたらそのね、一回目(の放送)が出たときにはもう針生さん亡くなってるよね、でもテロップが出なかったんですよ。それがアンコールか何かの時に、下に出たんですよ。あれはものすごく。
岡本:平気でタバコ吸ってたよ。
坂上:わかば。
岡本:一度ね、奥さん亡くなっちゃって、大変みたいだったんだよ。『地球爆』(のための原稿)とか頼んだりとかしてたんで、一回ね、缶ジュースを送ってやったんだよ。ひとりで大変でしょうからって、伊坂義夫君と相談してお見舞いで送ったの。そしたらものすごく喜んで、手紙がきた。
坂上:私、そのジュース飲んだ覚えがある。それで「気が利いてるんだよ、このお中元」って、そうなの。いろんな詰め合わせの野菜ジュースとか。
岡本:いっぱい入ってるの。それを送ったらねえ、もう、感謝感激みたいな手紙が来たの。で、「君が送ってくれたジュースは助かった、と」ね。ジュースを買いに行かなきゃいけないと思ってたら、そこへ、ポンと来たんだって。「君からジュースが送られてきたんで、本当に助かった」って。
坂上:覚えてるー。
岡本:じゃあその時期だ。
坂上:「気が利いてる奴がいるんだよ~」とか言って。伊坂さんの名前がでて来たのは覚えてます。岡本さんの名前は出て来た覚えがない(笑)。
岡本:僕がいつのまにか伊坂になっちゃったんだ。それはまあいいや。何しろねえ、僕には手紙が来たよ。「あれは助かった、」とか。もう弱ってたらしいんだよ。で、バッと送られてきた。ちょうどねえ、ジュース買いに行きたいって。野菜ジュースをね、これを毎日1本飲もうと思ってたらね、これが送られてきた、って。
坂上:そうだったそうだった。
岡本:そういうことがありました。で、針生さん、死んじゃったら困るから、ふたりで録音撮りに行こうかって言ってたんだよ、(伊坂と)そしたら死んじゃった。早く行けば良かった。
坂上:すごくやりたい事をやってしゃべりたいことをしゃべって死んでった人なんだなあって。最初は死んだあとは、亡くなってしまった後は、もっといろいろ話を聞けばよかったとかねえ、後悔したんですよ。
岡本:僕のこれ(2001年「笑う雪月花」カタログ)は読んでるでしょ。僕の文章の中で、針生さんが出て来るんですよ。ハナの会って、針生一郎と中原の会で。あの中で絵描きが集まって、僕が第一回の報告者で、立石大河亜が、全体主義絵画論を書いたときに、僕が中村宏と立石大河亜(当時は紘一)の観光芸術に対して、「中世じゃあるまいし、疑似左翼と疑似右翼が、精神の共同体的絶対なんて形で、一枚岩をほこるってのは、ちょっとアナクロじゃないか?」 で、「最近、全体主義絵画論みたいなものの中で、“おお、ひ弱な民主主義諸君よ、君たちの運動は終わったんだ”なんて書いてる人がいるけどね、そんなものは左の耳から右の耳に抜けちゃってね、僕は痛くも痒くもない」なんて。言ったんだよ。そうしたら立石君が逆上してウワーっと反論しようとしたんだ。その時、池田満寿夫君、横っちょから、立石に対して興奮して「バカだなバカだなーお前みたいなバカは見たことないよー」って叫んだ。すごいよ、興奮して。ウワって感じで。そうしたらさあ、後は立石と池田とふたりで怒鳴り合い。「何だエロ画家!」「何だペンキ屋」ってふたりで怒鳴り合ってね。そしたら針生さんがそばで「そこで池田満寿夫と岡本信治郎が馴れ合うのはケシカラン!」なんて言ってたよ。あのハナの会の記録はどっかにとってるはずだよ。(注:22ページ)要するにね、ひとりひとりまな板の上に乗せられてるような形で、パンツまで脱げって言われてるような感じなんだよ。で、問題提起すると、ワーっと言って来るわけ。それがクセになっちゃって。結局、一年位やって、みんな嫌になってやめた。その後、立石君に会ってね、喫茶店で会って、ローマから帰って来たんだ。そしたら「池田満寿夫さんに会ったんですよ」って言うんだよ。「あの時は、君は生意気だったね、って池田満寿夫さんが言ってた」と。それで、「岡本さんの鎌倉のアトリエに遊びに行きたいな」って言ってた。「今度遊びに来いよ」って握手して別れた。そしたら死んじゃった。僕が鎌倉の近代美術館でで回顧展やってる時に死んじゃったんだ。ま、そういうことでね、話はいろいろつきないけど今日はだいぶしゃべったからこのへんで…。