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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

奥野惠 オーラル・ヒストリー 第1回

2021年11月29日

東京 アートフロントギャラリーにて

インタヴュアー:足立元、鏑木あづさ

書き起こし:鏑木あづさ

公開日:2023年11月26日

インタビュー風景の写真
奥野惠(おくの・けい 1949年〜)
株式会社アートフロントギャラリー代表取締役社長。
第1回のインタヴューは、磯辺行久による日本海を漂うブイの作品《偏西風》と《対馬海流・リマン海流》(「奥能登国際芸術祭2020+」で発表)を糸口に、北海道と能登半島と秋田が結びつく奥野家のルーツから始まる。続いて家族で東京に移り美術に関心を持つようになった頃、そして東京芸術大学における学生運動の貴重な証言、さらにアートフロントギャラリーの前身となる「ゆりあ・ぺむぺる工房」の活動について語られる。

足立:2021年11月29日、アートフロントギャラリーにて奥野惠(おくの・けい)さんのインタヴューをさせていただきます。よろしくお願いします。

奥野:よろしくお願いします。

足立:今日の大きな目的としてはふたつありまして、北川フラムさんとアートフロントギャラリーの活動を側面から理解したいというのがあるのですが、しかし奥野惠さんの個人史こそが重要だと私たちは考えています。ギャラリーに勤める女性として、そしてギャラリーに勤める女性キュレーターの先駆者として。先駆者という自覚はないかもしれませんが……。

奥野:ぜんぜんないですね。

足立:とはいえ、とても大きな仕事をされている方であり、また時代の証言者、時代を見てきた方として、様々なことをご存知であること、そしてなにより美術について非常に深い造詣があるということで、いろいろなお話を聞かせていただきたいと思っています。

奥野:はい。

足立・鏑木:よろしくお願いします。

奥野:こちらこそ、よろしくお願いします。

足立:オーラル・ヒストリーというのは、個人のお生まれから現在に至るまでを、できるだけ時間順におうかがいしていきます。最初に、お生まれからお聞かせいただけないでしょうか。

奥野:はい。生まれは昭和24年、西暦でいくと1949年6月9日、北海道の札幌市で生まれています。両親はもう他界しています。私自身もう72歳になりますけれども、結婚はしていません。子どももいません。私はふたり姉妹で、双子なんですね。妹はずっとアートフロント(ギャラリー)に勤めて一緒にやっているんですが、彼女が加わったのがゆりあ・ぺむぺる時代(後述)。最初は出版の編集をやっていましたが、今はギャラリーの方で一緒に動いています。
札幌から父親の転職のために一家で東京に出てきて、それからずっと東京です。最近、おもしろい事件があったんです。私は大地の芸術祭で磯辺行久先生の制作の手伝いを、もう20年やっているんです。今年は珠洲の奥能登国際芸術祭がひとつ、それから北アルプス国際芸術祭、最近スタートした市原の芸術祭(房総里山芸術祭 いちはらアート×ミックス2020+)。コロナ禍の影響で通常の会期が変則的になり、その3つを同時にやらざるを得なくなりました。
ご存知のように磯辺さんの作品は環境をテーマにしていて、どちらかというと自然を相手にするようなものなんです。珠洲の仕事は《偏西風》と《対馬海流・リマン海流》という風と海の海流をテーマにしたものです、子どもたちとワークショップをやった結果を作品化して展示するようなかたちでした。小学生が1,000個の風船に手紙をつけて3月の偏西風が強い時期に放流して、帰ってきたものを展示したりね。その軌跡を地図上にポイントしたり、GPSをつけたラジオゾンデを放流すると、どこに行ったかがわかりますので、それを地図上にポイントしたり。そういうようなことをやっていたんです。
又2021年9月には海流というテーマで、小学生がお手紙を書いて、ボックスに入れブイにくくりつけ、4つ放流したんです。能登半島の突端なんですけれどもね。それがグリグリ回って、対馬海流を北上する。それが北海道、もしかしたらリマン海流に乗って北朝鮮とか、大陸に行くだろうという想定でやっていました。そのブイにGPSをつけてありますので、毎日刻々と位置を示してくれるんですね。会場の一角、図書館に展示スペースを設け、モニターにポイントされるんです。朝、起きると「今、どこに行ったのかな」というのをチェックする(笑)。そういうのをやっていました。
磯辺先生がテーマにしたのは、能登半島の風土。自然、環境のなかで、子どもたちと一緒に実証実験をやりながら自分たちの環境を知ってもらうというのがテーマでした。それと一緒に、北前船の寄港地っていうのを地図上に提示して、海流がそこに行き着くんじゃないかっていう仮説のもとに、ブイを離したんです(笑)。実際は風の影響が強いんですが、今4つのブイがグルグル廻って、最終的には秋田市のすぐそばと、すぐ下のふたつ。それから新潟の出雲崎。その海岸に着いているんです。初めはどんどん富山湾に入っていって、もう富山湾で終わりかと思ったけど、それが知らないうちに北上していった(笑)。たしかに海流は北前船の寄港地の通りに流れていて、私たちのブイもそれに乗って漂っていたようです。
実は北海道の人っていうのは、故郷をふたつ持っているんですよ。うちの父方の故郷が、能登半島だったんです。それはもう偶然なんですけれどもね(笑)。このような偶然で、奥能登芸術祭では我が家のルーツ探しができました。
美術との出会いっていうのは、中学校、高校っていうのは、どっちかっていうと私はスポーツ少女だったんです。陸上をやったり、卓球をやったり。それと絵も美術部で結構描いたんですけれどもね。だから両方、勉強以外で忙しかった記憶がありますね(笑)。アーティストによくあるタイプ、生理的に作っていないと生きられないというタイプではなかったですね。ただ絵を描くと、必ず褒められた記憶があるんです。別に意識して上手く描こうなんて思わなかったんだけれど、そういう感じで。……そうね、だから美術と体育だけはずっと5でね。あとは普通っていう、そういうタイプの少女でしたね。
大学入試のときになにをやろうかと思って、美術をやりたいなと思ったんですね。それで一浪して(東京)芸大に入ったんですけれども、やっぱり、それなりのアイデンティティが欲しかったんでしょうね。それで描くっていう行為と、アートの世界はおもしろいなっていう、そういうものを見つけた気がしました。妹も美術に興味を持つようになり、美術史を専攻することになっていくのですが…… それでアートフロントの初期の頃のゆりあ・ぺむぺるに出入りするという経緯ですね。

足立:大学に入る前に読んだ本で、覚えているものってありますか。

奥野:ドストエフスキーの『悪霊』とか。やっぱり、小さいときは『赤毛のアン』はすごく好きで、よく読んでいましたね。あとは一般的な小説は好きで、よく読んでいました。

足立:大学に入る前に、展覧会とかも行かれましたか。

奥野:まぁ行ったけど、ごくごく少数。前衛的な現代美術の展覧会を見るっていう感じよりは、普通の「ボナール展」とかね。「ミロ展」「マチス展」とか、そういう本当に普通のところ。やっぱり大学に入ってからと浪人時代までとはまるでギャップがありますので、ごくごく普通の美術好き少女という感じ。「なにか自分の表現をしたいな」と思って油絵を一生懸命描いていたのが、高校から浪人時代。浪人の1年はかなり一生懸命描くのが楽しかったです。

足立:浪人はどこで。

奥野:すいどーばた(美術学院)ですね。

鏑木:この頃はどんな絵を描かれていたんですか。

奥野:やっぱり具象の、そうそう、どっちかというとドーミエとかが好きで。あと、マティスとかね。それからセザンヌとかコローが好きで、そんなようなタッチで描いていましたね。

足立:この頃はそんなに女性は多くなかったと思うんですけれども。

奥野:いや、そうでもないけれども、50人中10人…… そうそう。当時、芸大に男女差があったのよね。

足立:その当時、明確に言われていたんですか。

奥野:いや、後で教えてくれたの。「女子だと、順番で10人しか入れないよ」って。

鏑木:そうだったんですか。

奥野:はい。私が入った頃は、倍率50倍かな。でも女子の方が、うまい人が多かったけれどね。「なんでこんな下手な人が入ったんだろう」と思ったら、男だから(笑)。そういうのはあった。

足立:芸大の油画専攻の定員は……。

奥野:定員50人のうち、10人が女子。40人が男子。

足立:それは大事な証言ですね。

鏑木:衝撃の事実ですね。

奥野:今なら考えられないですね。だって80パーセントが女子だったりするでしょう。

鏑木:それで、芸大に入られてからはどのような学生生活でしたか。

奥野:そうですね、ここからはこの本(北川フラム 著『希望の美術・協働の夢:北川フラムの40年 1965-2004』角川書店、2005年)やインタヴュー(奥野惠 談「アートフロントギャラリーのスタートアップ時代『ゆりあ・ぺむぺる工房』とは何だったか」アートフロントギャラリー[公式サイト]、2021年)と同じようになりますが、私が入学したのが1969年4月なんです。それで1970年代の全共闘の運動があって、1971年までが闘争の一番激しい時代です。1969年1月に東大闘争があって、安田講堂(を全共闘が占拠した)の事件があって、東大の入試がなくなった時代なんですよね。だからその頃ははっきり言って、「絵なんか描いちゃいられない」っていう気分(笑)。
(『希望の美術・協働の夢』の「北川フラム関連年表」を見ながら)あ、ここに書いてある。69年の1月に東大の安田講堂の封鎖があって、この年は東大の入試がなかった。だから私の友だちの同級生で、東大に行く代わりに芸大に来たっていうのが何人かいましたからね。建築系で。

足立:実際に入ると、まずはひたすらデッサンとかもやると思うんですけれども、授業はあったんですか。

奥野:授業は、初期の頃はありました。

足立:69年は授業はあった。

奥野:そうですね。私が大学で学生生活をまっとうしたのって、この1年間だけなんですよ。それで授業があるんだけど、校内では北川フラムがアジっていたりね。看板をいっぱい貼ったり、ヘルメットをかぶっている人たちもたくさんいる。騒然とした状況で入学式があった。入学式でもう、フラムさんがアジってたもんね(笑)。

足立:(笑)

鏑木:えー!

奥野:あれ、なんなんだろうって(笑)。あの人はなんなんだろう、っていうのが最初の記憶でしたね。

足立:乗り込んできたわけですか。

奥野:そうそう、乗り込んだっていうか、そこにいて。奏楽堂で入学式をやっていて、割と自由に入れるからそこにいて、なんかアジってたね。

足立:それは演台に上がるんですか。

奥野:ではなくて、学生の席にいてっていう感じだったのね。

足立:式の途中でしゃべり出すわけですか。

奥野:そうそうそう(笑)。

足立:そこが北川フラムさんとの出会いだったわけですね。入学式が。

奥野:入学式で「あれ、変な人がいるな」っていうのが私の印象ね。その後フラムさんは、芸大の美校の前に守衛室があるでしょう。守衛室の前でアジってた、ずっと。毎日、毎日。

鏑木:門のところ、皆が通るところでアジっていたんですね。

奥野:そうそう。それでビラを配って。

足立:スピーカーとかを使うんですか。

奥野:スピーカーは使っていなくて、拡声器。

足立:拡声器はあったんですね。

奥野:はい。この本(『希望の美術・協働の夢』)を読んでいるといろいろ出てくると思うけれど、その印象が非常に強かったです。でも、嫌じゃなかったのね。なぜかっていうと、私なんかは純粋培養的に絵を描き続けていたので、そういう運動に対しても、まぁ「政府はよくないな」とは思う。でも行動に移すまでもなかった。だけど、世の中にはゲバルトがいっぱいいたでしょう。それとベ平連運動っていうのと、それと新宿でね。
この頃の文化を生むエネルギーっていうか、まぁカルチェラタンみたいな。それから最近では香港の(民主化デモや)雨傘運動とか。時代時代に、若い人が社会に対して抗議のデモをする。そのなかで生まれる、いろいろなエネルギー。それは文化的なエネルギーも、同時に出るんですよね。それを私、若い人たちに味あわせてあげたいなと思ったの。
闘争のあいだもそうなんだけれど、街へ行くと新宿に人が大勢いて、ギターを弾いていて。音楽のジャンルもロックはあるし、フォークソングもあるし、歌謡曲もあるし。それからなによりも私がカルチャーショックだったのは、やっぱり演劇ね。アングラの演劇で青色テント、銀色テント、唐(十郎)さんたちの紅テント。そういうのが新宿の花園神社とか、いろいろなところにあったの。そういうものは皆、若い世代が担い手だったんですよね。それに対してどっちかというと美術は、なにもおもしろくなかったね。そういう記憶があります。
芸大に入って二十歳くらいでそういう文化の洗礼を受けて、一方で北川フラムみたいな人がいて(笑)。そういう人を全部集めて、油画科の1年っていうのが音校(音楽学部のキャンパス)に校舎があって。今は本部があるところね。奥に行くと音校だけど、そこに、いつ頃かな。奏楽堂と同じくらいの建物があったんですよ、小屋みたいな。そこがアトリエで、上と下の2階あって、なぜかそこに入れられちゃったの、50人。で、いる人もいない人もいるし。最終的に、そこが闘争のアジトになっちゃったの。どこからも管理がされないからっていう意味でね。私の同級生は一生懸命、ペトロール(石油系油)で火炎瓶を作ったり。

足立・鏑木:えーっ! すごい。

奥野:そこを出るときは、それを処分したの。「処分しろ、処分しろ」って(笑)。そこにまず行く前に、北川フラムのアジテーションがあって…… そうね、真面目に(大学生を)やっていたのは、夏くらいまでかな。それでフラムさんが問題提起をいろいろとやっている。それを受けて、私たちもなんとか(大学の)機構や行動を変えなくちゃいけないってなって。まず油絵の有志の10人くらいでね。そのうちの何人かはゆりあ・ぺむぺるのメンバーになっていって。
それで「授業を討論会に変えよう」って言って。よくやったな、と思うんだけれどね。アトリエはアトリエだけれど、本校の、今はなんて言ったかな。芸術学科のあるところ。昔は木造の校舎だったけれど、それを建替えて。その後、私が2年くらいのときにそこが壊されて、鳩小屋って呼ばれている今の油絵の校舎になっていくんです。ちょうど、転換期かな。それで古い校舎で美術史の講義をやるとき、先生に対面して「ちょっと出て行ってください」って(笑)。そういうのを、なんとかやっていたっていう経験がある。その頃の友だち、もう今は死んじゃったけど、そういう動きがあって、50人のなかで真っ二つっていうかね(笑)。20対30くらい、どっちかというとフラムさん支持の改革的な動きを良しとするグループと、そうじゃないグループ。
もともとフラムさんが“鬼”っていう集団を作って、討論会なんかをやっていたんですよ。それと油絵1年が合流して、街頭に出て行くっていうのが70年頃ですね。で、それがバリ封をするんですね。(『希望の美術・協働の夢』の年表に)「東京芸大バリケード封鎖」って書いてあるな。これがそういう動きなんだけど。これは、学長選挙があったんですね(注:芸大学長は、小塚新一郎(1961年12月-1969年12月)、福井直俊(1969年12月-1979年12月))。その学長選挙の閉鎖的な選挙のあり方に対して抗議した。
真面目に日本や大学を変革しなくてはと考えていました。そのきっかけは、何でもよかったんです。政治的には70年安保の闘争が各地にあって、党派が出てきた。全共闘真っ盛りの時代。芸大もその機運に乗って、学長の部屋を封鎖しちゃったんですね。それがバリケード封鎖っていうやつです。『希望の美術・協働の夢』にも書いてあるんだけど、そこで感激したのは、建築科の人たちがそのなかと外に椅子とテーブルをすごくうまく積み上げて、まるで川俣(正)さんの作品みたいにバリ封しちゃったんです(笑)。山本圭介さんとか、(山本)理顕さんとかね。そういう、どっちかというと先輩の人たちで、今はもう大御所になっているでしょう。あの人たちが、封鎖してくれたの(笑)。そういうのが、おもしろかったですね。 封鎖して、解除されて、それでアトリエにはもう行けなくて、火炎瓶を処分して、そういうなかで71年に街頭に出て……(バリ封を)1年間やっていたんだ。(『希望の美術・協働の夢』に)「バリケード解除」って書いてあるね。

鏑木:「1月」って書いてありますね。

奥野:それで70年の秋の10.21(新宿で発生した国際反戦デー闘争)っていう闘争と、6.15っていう闘争。そこで街頭デビューしたんですね、芸大全共闘が(笑)。

足立:奥野さん自身は、全共闘の立場だったんですか。奥野さんとか、フラムさんとか。

奥野:もちろん党派は嫌いで。それで三三五五集まってくる反体制風の学生たちと一緒に、「じゃあ参加しよう」って言って、参加したの。

足立:芸大のなかにはいわゆる体制的な、暴力的な人たちっていうのはいたんですか。

奥野:いない、ないない。ひとり、ふたりはいたけど。

鏑木:美共闘の方たちとは交流があったんですか。

奥野:そうそう。交流っていうか、美共闘っていうのは美術家共闘会議。その「美術家」っていうのがね、フラムさんはあんまり好きじゃなくて、そういう囲われた党派性をとにかく嫌っていたわけ。だけど芸大もいよいよデビューかっていうときに、堀さんや彦坂さんたちの美共闘が来たんだよね。

足立・鏑木:へぇー!

奥野:「一緒にやろう」って言って。それでフラムさんはたぶん、協議したと思うの。で、そのときに私、堀さんには会っているの。真っ黒くろの、黒いヘルメットでね。彦坂さんは覚えてないんだけど、堀さんは夢にまで見るような典型的な格好で。タオルでマスクして髪の毛ボーボーで上から下まで真っ黒けで、ゲバ棒を持って現れて、「なんと、この人は」っていうか(笑)。そういう記憶がありますね。向こうはぜんぜん覚えてないと思う。ノンポリなんて邪魔くさい、っていう感じだからね(笑)。
それで全共闘的な動きっていうか、そういう立場で、体制に対してNOを言うことをよしとする友だちたちと、大浦教室っていうのをやっていた。ついに、行くところがなくなっちゃったからね(笑)。(芸大の)大浦(食堂)でたむろしていると、その人たちと皆で街頭デモをしたりする。そのなかに坂本龍一とかね。龍ちゃんとか、何人か有名になった人がいます。

足立:坂本龍一さんが、北川フラムさんがしゃべるときに、そのためのテーマ曲を作ったっていうのを聞いた事があります。

奥野:誰に聞いた?

足立:田中三蔵さん(朝日新聞の美術担当記者、1948-2012)です。

奥野:ああ、田中三蔵さんとフラムさんは同級生か。

足立:そうですね。

奥野:北川フラムっていうのは学生のなかでは先輩だしね。結構カリスマっていうか。もともとカリスマの人なんだけど、我々庶民っていうか、普通の連中と比べると浮いているのね(笑)。
坂本龍一っていうのは(都立)新宿高校でゲバ棒をやっていて、そこからハネていたんですよ。やっぱり本当にませていたので、芸大に入った4月くらいから、入ったと同時にスタイルからもう出来上がっていたのね(笑)。それが私たちみたいな芸大の遅れてきた全共闘とは、ちょっと違ったわけ。龍ちゃんとは仲良くしていたんですよ。『希望の美術・協働の夢』にも書いてあるように、音校で集会をやるのでよく行っていたんですね。奏楽堂。なくなっちゃったけどね、その前は結構自由に使えていたんですよ。そこでピアノを即興でよく弾いてくれて。そういうのはうまかったよね。なかなか良かった。
足立さんはよくご存知だと思うけれど普通、美術(学部)と音楽(学部)が交わることって、ほとんどないでしょう。

足立:そうですね。

奥野:でもこのときはもう、ぐじゃぐじゃだから。いろんな人が加わっていたけど、最終的に作曲のふたりがかなり仲が良かったんですね。堤(政雄。作曲家)さんっていう人と、坂本龍一。それから音楽で加わっているのは、どっちかというとラッパ系ね。ホルンとかクラリネットとか、あんまり練習しなくていい(笑)。そういう人。それから邦楽。能の人たちが割と仲間になったけど、ピアノとかバイオリンとかそういう、1日休むと何ヶ月も練習しないといけないでしょう。そういうので、ついに加わらなかったね。

足立:デモとかのときに、音楽の人たちが一緒にラッパを鳴らすとか?

奥野:そういうことはない。龍ちゃんがフラムさんのために作っていたかどうかはちょっとわからないけれど、私のためにピアノは弾いてくれた(笑)。それはよく覚えています。

鏑木:おお。

足立:芸大のバリケードっていうのは、学長室を封鎖したということに留まるんですか。

奥野:はい、それだけなんです。それも1年間つづいているっていう。

足立:では学長室以外の機能は、ちゃんと動いていた。

奥野:そうそう。

足立:では先生たちも、半ば「学長室だけは」っていう感じだったんですかね。

奥野:そうだと思う。だから全校には広まってはいなくって、やっぱりごく一部に留まっていた。その辺は芸大の特殊性かもしれません。それと教授連中が、割と仲良くしてくれたんですね。だからフラムさんは本当に稀な人で、先生に恵まれていたと思う。いろいろなところに書いてあるから知っているかもしれないけれど、1年早く入学したフラムさんは絵を描きたくて芸術学科に入ろうとしたんです。でも、もともと闘争をやっていたから、芸大を受ける3ヶ月前にお姉さん(建築家の原若菜。多摩美術大学卒業。パートナーの原広司とともにRAS設計同人、アトリエ・ファイで活動)のところに行って初めて木炭をもらって練習を始めて。(入試の)論文のときは万年筆で書いて、まぁ絵はまるでダメだったんだけれど、文章がすばらしく良かったみたい。芸術学科って15人でしょう。で、フラムさんは20番目だったんだって。それでフラムさんを入れるために、そのあいだの(点数の)人たちも含めて、全部合格にしちゃったという伝説がある。だから「田中三蔵は俺のおかげで入れたんだぞ」ってよく言ってたの(笑)。

足立:それは大きいですね(笑)。

奥野:そういう伝説的な話とか。それで水野敬三郎先生の下で仏像の調査をしたりするんですけれども、それ以外にもフラムさんは吉澤忠さんとか、当時の芸術学科の立派な学者さんたちがこぞって文章を評価してくれていたんです。だからフラムさんもそういう人たちとコンタクトをとったり、ちゃんと授業も受けたり、勉強はしていたみたい。(『希望の美術・協働の夢』を見ながら)ここのエピソードを読んでいたら、卒業のときに卒業論文は出したけれども、実は単位が足りていなかった。だけど卒業させてくれたっていう話がありますが、本当は早く出ていってほしいということだったのでしょうね(笑)。入学と卒業が、そういう状況でしたね。先生たちの考え方がとても柔軟だったと思います(笑)。

足立:6.15と10.21の当時の資料はあるんですか。

奥野:いや、資料はないな…… 後でお見せするけど、ポスターは持って来られたんです。その当時のものがいろいろ、見当たらなくて。アジビラとかね。そういうものも、皆あるんですよ。ぜひ見てもらいたいな、と思ったんだけど。

足立・鏑木:へー!

奥野:デモのときの話としては、6.15の日米安保協定の自動延長のときのデモでふたり、捕まっちゃったんだよね。それの救対(救援対策)を随分やったなということ。まぁ皆さん知らないと思うんですけれど当時、何万人とデモ隊がいてフランスデモ(手をつないで道路いっぱいに広がって行進するデモ)っていうのがあって、機動隊が向こうにいて隊列を組んでデモをするんだけど、我々は一番弱い(笑)。前の方にはちゃんと革マルとかがいるわけよ。だけどなぜか機動隊とぶつかる直前に、いなくなっちゃうの。それで私たちの超弱い芸大全共闘が一番前に出て、それでやられて、ふたり捕まったの。それがゆりあ・ぺむぺる工房の創立記念日なの。6.15。

足立:では救対からはじまったと。

奥野:私はそのときは真ん中にいましたね。だけどその後、捕まった人たちの救対で警察に行って、歯磨き粉とかいろいろ差し入れをしたりとか(笑)。そういうのをやっていた。

足立:女性ゆえに、学生運動のなかで役割を与えられるっていうことはなかったですか。

奥野:そういうのはあんまり、感じなかったですね。ただ、必然的に。やる人がいないから(笑)。そういうのは、やろうとは思ったけど。

足立:ご飯を作ったりとか、そういうのは。

奥野:あんまりそういう女子、男子っていう区別は感じたことがないですね。

鏑木:それはほかの大学とは少し違うかもしれないですね。

奥野:そうですか。そうかな。

鏑木:ほかの大学はバリケードのなかで女性が炊事をするなど、生活の面倒をみていたということもあったようです。でも芸大ではそういうことはなかったんですね。

奥野:はい。まったく経験ないな。

鏑木:ちなみに女性はどのくらいいらっしゃったんですか。お仲間のなかに。

奥野:3人か4人くらいかな。

鏑木:では半分とまではいかないけれど、女性もそれなりにいらっしゃったんですね。

奥野:そうね。友だちは、外国に行ったりしたけどね。党派性を嫌っているから、日常生活を一緒にということよりは、「デモをやるぞ」とか「勉強会をやるぞ」とかそういうことで集まって、また三三五五帰っていくっていう感じなので、いわゆる生活を共にするっていうことは一切なかったですね。

鏑木:学校のなかに泊まり込んで生活をするようなことはなかった。

奥野:バリ封のときは何かやったでしょうけれど、あんまり記憶がないです。

鏑木:では、ずっと立てこもっていたということではないんですね。

奥野:ないです。さっき言ったように、先生とも割と仲良くしていたし、「君が言っていることはよくわかるよ。自由大学構想だな」とかね。そういう理解のある人もいたし。私は中谷泰さん(画家)の教室だったんです。でもほとんどアトリエに行ったことがなくて、「たまには顔を出しなさいよ」って言われたことがあったりするけど(笑)。卒業制作をやる以外は芸大にいたことがないから、アトリエも(先述の)小屋みたいなところ以外のアトリエは残念ながら使ったことがないんです。

鏑木:そうだったんですね。

奥野:ただ美術史の授業とか、そういうのは1年のとき、2年のときも授業を受けたけれど、アトリエには行ってなかったね(笑)。そういうのが芸大時代なんですけれど、その後1971年に、運動自体が全国的に沈静化していくのね。フラムさんが、渋谷のジャズ喫茶〈BYG〉の壁画をやらないかっていうので、おもしろそうだなっていうことで一緒に参加した。そこからゆりあ・ぺむぺる工房を作って、そこを本拠地にしていろんな絵を描いたり、舞台美術をやったり。当時のポスターがありますので、あとでお見せします。

足立:このとき、大学3年生だったと思いますけれども、(「社員放談」『希望の美術・協働の夢』p. 64で語られているように)「毎日が救対と絵で過ぎていく」とか「麻雀とちんちろりんでよく遊んだ」という。

奥野:そうそう。よく遊んだんだわ、本当(笑)。1日はこんなに短いのか、と思うくらい。なにしろ夕方になると、週の3日か4日は麻雀をやっていた。私はさすがに体力がないけど、フラムさんは毎日のようにやっていたもんね。

足立:(『希望の美術・協働の夢』p. 37にある、北川と奥野が芸大正門前に立つ写真を指して)この門の前の写真は、何年生ですか。

奥野:これは2年かな。69、70年……どっちかな。ひどいでしょ、このフラムさんのスタイル。下駄。それからね、長靴。それで髭ボーボーで、本当にすごく変な感じだよね(笑)。

足立:奥野さんのこのスタイルも、とてもかわいらしい。

鏑木:ねぇ。

奥野:いやぁ(笑)。

(ここからは『希望の美術・協働の夢』に掲載されている、ゆりあ・ぺむぺる工房制作によるポスターなどを見ながら)

鏑木:すごい! シルクスクリーンですね。

足立:このなかに奥野さんの描いたものもあるんですか。

奥野:はい、あったりなかったり。(「浅川マキコンサート」ポスター、1971年)これはゆりあ・ぺむぺる時代のポスターと…… フラムさんがずっと駿台予備校に行っていて、そこから早稲田に行ったり、いろいろな闘争に行っていたんだよね。

足立:ではこれは、駿台予備校のお祭りなんですか。

奥野:そうみたい。これは私も全然覚えがなくて、倉庫のラックにあったの。
(人形芝居「桜姫東文章」ポスター、1973年)これは粟津潔さんのデザインで、シルクスクリーンもゆりあ・ぺむぺる工房がやったんです。舞台も任されて作った。「桜姫東文章」っていうのは鶴屋南北で、人形芝居をやったんですね。これがちょうど72年頃かな。ぺむぺるを創立してすぐくらいなんだけど、もう、「仕事がきたぞ! やるぞ!」っていう感じで皆でやった。それで一緒にやっていた仲間の古いアパートでシルクスクリーンを刷って作っていたら、途中で火事を起こして、全部燃えたの(笑)。木造アパートが、全部。

足立・鏑木:えーっ!

奥野:それでもう一度、刷り直したのね(笑)。さんざん言われたのは、「ちゃんとお参りしたか?」って。南北のお墓に行ったかって言われたの。これは2回目なので、非常に刷りがいいです。道具を一式買って、シルクスクリーンはよくやっていたんです。

足立:ぺむぺるで。

奥野:そうですね。このクラス(B全サイズ)は大きすぎてうちの事務所ではやれなくて、三河くんっていう人の下宿のアパートで作ったものです。

足立:いい紙を使っていますね。

鏑木:これはケント紙ですか。

奥野:そうですね。これは(刷りの)途中ですね。

鏑木:結構な色数ですね。

奥野:はい。いや、これはうまいと思う。本当にいい出来だと思います。粟津さんのデザインもいいけど。
(「動物図鑑」ポスター、1974年)これはデザインはぺむぺるで、私じゃないんですけれども、メンバーのひとりが担当して。「動物図鑑」っていうのは、作詞の(詩人)水野るり子さんってご存知ですか。

足立:水野敬三郎先生の奥様ですね。

奥野:そう。彼女が動物をテーマにして詩を作っているんです。それを堤政雄っていう友だちが、曲をつけた。唄の水木陽子さんっていうのは、ゆりあ・ぺむぺるの上に住んでいたシャンソン歌手の卵。彼女のデビューのときに、詩と作曲と美術を全部やったという。「牧原ゆき」というのは、フラムさんの芸名(笑)。

鏑木:ああ、そうなんですか。

奥野:訳詞。

足立:奥野さんがこの舞台のときにやられた仕事は、どのようなものだったんですか。

奥野:舞台美術の方で、いろんなものを作って。その写真が40年史(『希望の美術・協働の夢』のこと)のなかにあるので、それをお見せしますね(p. 61)。

足立:道具を作ったり、という。

奥野:はい、舞台美術の方ね。背景とか。(コンサート「初対面コンサート 浅川マキVS. 三上寛」ポスター)これはね、こういう……。

足立:すごい。

奥野:なにしろお金がないから。いかにお金をかけずにやるか。これ(「ガウディ展」ポスター、1978年)はスポンサーがいたので、まだお金を費やすことができたからコート紙を買えたんだけど、こういうときは全然買えないの(笑)。原広司さんの事務所が近所にあったから、そこの青焼を使わせてもらってポスターに使ったのが随分あるんです。これのディレクターというか、プロデュースするのがフラムさんの役割で、これが〈テック(TEC)〉(注:労使闘争のあった東京イングリッシュ・センター)だったんだけどね。こういうポスターづくり。
(映画上映会「M子」ポスター、1975年)これは友だちの友だちで当時、映画づくりをしていた国田(昌子。編集者)さんっていう人がいて、主役になって映画を作ったというポスター(監督:手塚正巳)。

足立:これはポスターだけゆりあ・ぺむぺるという。

奥野:そうそう、そうです。こういう請負仕事。 (新潟ジャズロックカーニバル「神無月・日本海・飢え」ポスター、1971年)これ、知ってます? フラムさんが本格的に音楽をプロデュースした、最初の仕事だったんですけれどもね。

足立:新潟ですか。

奥野:そうですね。私が聞いた話だけれど、山下洋輔のトリオが闘争のあいだに結構、やっていたんですよ。バリ封のなかで(演奏会を)。私は別のところで聴いたり見たりしているんですけど。

足立:芸大で?

奥野:よその大学で、呼ばれてね。昔の学園祭のバリ封版みたいな感じで。そのときに(北川が)山下洋輔の音楽を聴いて、ものすごい衝撃を受けたんですって。それで彼(北川)の新潟の高校時代の友だちが新潟大学にいて、なにかやろうじゃないかということで、山下洋輔さんと頭脳警察、遠藤賢司、この辺の今ではものすごいビッグな人たちを呼んで、海岸縁でコンサートをやったときのポスターです。その話が(『希望の美術・協働の夢』に)入っていると思う。
それから山下洋輔のコンサートを何本かやっているんですよね。〈テック〉がらみでやってたりします。
(学園祭「覚有情 [共立祭]」ポスター)これはね、「覚有情(かくうじょう)」って。漫画、なんだっけ。このことば、知っています? 

足立:わからないです。

奥野:名前は忘れちゃったな。当時、大流行りした漫画(バロン吉本『柔侠伝』)があって、そこに出てくる(主人公の柳勘太郎が背中に彫っていた刺青の)「覚有情」っていうことばをフラムさんがすごく気に入って、「情を覚える」っていうね。これは水俣闘争をしているときの、誰かの写真から起こして作ったんです。この辺はタンポ技法っていって、ストッキングで作っていたんです(笑)。

鏑木:ポンポンって。

奥野:そうそう。そういうのを編み出して作ったり。 (映画上映会「不知火海 医学としての水俣病」ポスター、1972年)これは私が作ったんだな。こういう絵を描いたり。この辺もそうですね。

足立:土本典昭だ。へぇ。

奥野:土本さんがちょうど当時知り合いで。土本さんの娘が、亜理(子)ちゃんって呼んでいたけど、現代企画室でしばらく働いていたんですよね。知ってる? 

足立:そうだったんですか。

奥野:フラムさんがやっぱりね、水俣とか三里塚とか、各地の闘争に対して共感を持っていて、闘争仲間っていうこともあって人脈があるんですね。そこから仕事がきて、我々が作っていく。 (映画「モトシンカカランヌー」ポスター、1971年)これも沖縄のときのです。

足立:奥野さんも水俣に行かれたりしたんですか。

奥野:いや、私はそこまでは行っていないです。(「神無月・日本海・飢え」ポスターを見ながら)この辺は中身は一緒だけど、少しずつ変えてるね。すごいね(笑)。

鏑木:コンサートに映画にダンスに、いろいろなイベントを。

奥野:そうですね。これは私が描いた絵。これはどこのだっけ。演劇があって頼まれて作ったのか、絵を描いたのか。

鏑木:(映画「倭奴へ」ポスター、1971年)こういうのは粟津さんのデザインなんですか。

奥野:いや、これは我々のデザインです。さっきのちゃんとしたやつ、あれだけは粟津さんですね。

鏑木:学生のときにすでに粟津さんと一緒にお仕事をされていたんですね。

奥野:そうですね。ゆりあ・ぺむぺるが始まってすぐくらい。知り合ったきっかけというのは、フラムさんの(義理の)お兄さんの原(広司)さんが、粟津潔の自邸を設計した縁なんです。このヒルサイドとも関係していたんだけれども。それで粟津さんがフラムさんのことをすごくかわいがってくれて、「だったらこれをやりなさい」とか。ガウディ(の映画)もそうですし、さっきの演劇もそうですし。なんだかんだって声をかけてくれたんです。それで結構よく。期待に応えられるかな、と思ったけど。

鏑木:粟津さんは当時、大スターですよね。

奥野:そうなの。ずっと続いていますね。

鏑木:越後妻有には、粟津さんのアーカイブズもあるんですよね。

奥野:そうなんですよね。それで(ポスター兼ニュースレター『銀河通信』を見ながら)これが……。

鏑木:「ゆりあ・ぺむぺる技芸学院」って書いてありますね。

足立:絵を教えていたんですか。

奥野:そう。最初の頃のポスターです。

鏑木:(ポスターに書かれたゆりあ・ぺむぺる工房の住所にある)高木ビルって、現代企画室があったあのビルですか。

奥野:そうです。ご存知ですか。

鏑木:わー、そうなんですね。何度かお邪魔しました。今はお引っ越しされたんですか。

奥野:いや、まだあります。今は倉庫になっている。

鏑木:そうなんですね。もったいないですね。すごく独特な雰囲気、アジト感のあるお部屋でした。

奥野:71年にゆりあ・ぺむぺる工房は、〈BYG〉っていう喫茶店の壁画を描くというので招集された仲間で作ったんです。でも場所がないというときに、あそこが売りに出されていたのね。先輩が見つけてきて、内装をしなくてもいいからということで。じゃあ借りましょう、というときに、そこがまた北川フラムなんだけど、「買おう」って言って(笑)。当時、月々25万くらいのローンで買ったんです。それを稼ぐために、いろんなことをやりました。その出発のときのポスターですね。(ポスターを裏返す)

足立:裏もあったんだ。

鏑木:すごい、裏が『銀河通信』ってなっていますよ。

足立:わぁ。これは貴重な資料だ。

鏑木:この『銀河通信』というのは、当時ゆりあ・ぺむぺるが出されていた、ニュースレターのようなものですか。

奥野:そうですね、今で言う。

鏑木:これ、第1号となっていますね。

奥野:はい。2号目は、ない(笑)。ないけど、いろいろかたちが変わって、その後これがこういうのになって。

鏑木:『天界航路』ですね。

奥野:まだ(北川)省一さん(北川の父。詩人、良寛研究家)がいらして。そこから出版と芸術と音楽と、3つ同時にスタートしたっていう感じですね。

鏑木:(『天界航路』を見ながら)かなり読み応えがありますね。

奥野:『天界航路』を出すときに皆で、取材は手で描こうって。写真を使わないで、取材をして、というのがポリシーでスタートしたんです。文章はフラムさんが、「これは」と思う人に声をかけてやったという感じかな。

足立:奥野さんが描いた絵というもあるんですか。

奥野:あります。これは皆で手分けして。……この辺とか。

鏑木:(奥野が描いた「ルポルタージュ『足尾へ』」の絵を見ながら)写真を使わないでというのは、こういうことなんですね。

奥野:はい、デッサンをしに足尾に随分通いましたもんね。

鏑木:そうですか。絵で伝えるという。

奥野:そうですね。これはタンポ技法で、これは私じゃなくて、うまいのがいるんだ。たぶん有賀くんっていう人。これは私だったと思うな。

鏑木:すごい。エッチングみたいなタッチで。

奥野:(「動物図鑑」パンフレット、1974年)これもなかなか立派でしょう。

鏑木:すごい! きれいですね。これもシルクですね。

奥野:全部シルクですね。

鏑木:これはすごい。

足立:これは「動物図鑑」(のパンフレット)。

鏑木:これを今持っている人は、宝物でしょうね。すばらしいお仕事ですね。クオリティが非常に高い。

奥野:それでね、ここに出ている…… ああこれね。今の話って言うのは(『希望の美術・協働の夢』を見ながら)この辺の話なんですけれど、ゆりあ・ぺむぺるとはなんぞやっていう。これね。これの元になっている話で、これがあるので見せたかったんだけど。

足立:韮崎の(壁画プロジェクト「天路歴程舎」、1971-1978)。

奥野:そうそう、ゆりあ・ぺむぺる工房の出発とか、この辺。ポスターを作ることと、イベントを仕掛けることと、出版をすること。バックボーンを作っていくっていうのを、結構同時にやっていた。食べることと自分たちの勉強っていうのが同時にスタートしているから、学生時代といえども忙しかったな。

足立:これが大学3年生ですよね。71年。

鏑木:これだけのことをされていたら、確かに。

足立:先程見せていただいた、ゆりあ・ぺむぺるの大きなポスターのようなもの。これは自分たちのことばを持たなければいけないと思ったということでしたけれども、そのとき奥野さん自身はどんなふうに感じていたんでしょうか。

奥野:まぁフラムさんがやるなら、やればいいと思うし、やっぱり闘争の後、まず10人もいるわけだから、何かのかたちで食べていかなくちゃいけない。何をして食べるか。だから美術から離れる人もいますけど。それとやっぱり、学校に行かなかったっていうのは結構決定的で、学ぶところが欲しかったんですね。食べることと学ぶこと。それを突き詰めると、こういう風になったっていう感じかな。それとドロップアウトしたために、やっぱり拠点。自分たちの活動の根拠、思想的なバックボーンを作りたくて雑誌を始めた。だからこれが生業と学校と存在アピールみたいな、一連の3つのことですね(笑)。

足立:その根拠のところに、“自然”というのがひとつキーワードにあるのかな、と思ったんです。自然破壊とか。北川さんのひとつの根拠なのかもしれないけれども、奥野さんも北海道で生まれて東京で育って、その根拠たる部分が自然や近代を超えたものとか、そういったものについて、この頃から強い意識を持っていたのではないでしょうか。

奥野:漠然とだけど、そういう意識はあったかもしれない。(足立と鏑木が奥野に事前に渡した)質問票のなかに「読んだ本」というのがありましたけれど、私にとって決定的なのはちょうどこの頃、闘争の合間の勉強会で、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』を皆で読んだりしていたんです。それがかなり、なんていうかな…… 後期のマルクス主義とは別に、初期マルクスっていうのは自然と人間との関係から今の社会を斬っていくところがあって、それが大地の芸術際のキーワード。“人間は自然に内包される”ということ。“人間は自然の一部である”っていうのは、『ドイツ・イデオロギー』のなかにあるんです。それが未だにつづいているっていう感じは、しますね(笑)。

鏑木:原点ですね。

奥野:はい。だからあんまり、昔と今とは変わらない。世の中が変わってもあんまり変わってないな、っていうのはありますね。まぁフラムさんっていう人がそうだからね。

鏑木:さっきバリ封のお話のなかで、自由大学という話もありましたけれど。

奥野:“解体と解放”っていうのがキーワードだったんです。

足立:“解体と解放”。

奥野:はい。芸大解放大学。それが自由大学で「ひらけ、ひらけ」って言っていた覚えがありますね。

鏑木:ゆりあ・ぺむぺるの活動自体が、そういった考えに基づいているのかなという印象を受けました。

奥野:そうですか(笑)。

鏑木:そんなことはないですか(笑)。学校に対してはバリ封などをされていたかもしれないですけれども、学びたかった、ということもおっしゃっていましたので。ここで皆で創作もしながら、勉強もしながら、ということをされていたんでしょうか。

奥野:そうですね。勉強というのは意識はしていなかったけれど、やることがすべて勉強になるっていう環境ではありましたね。
それで韮崎というところで、ステンドグラス風のはめ絵みたいな舞台装置。アクリル板に色を塗ってはめたりして作ったんですよ。このときもそうだったんだけど、舞台美術で大きな壁面に面相筆でこちょこちょ描いていて、超効率の悪いことをやっていて。これは韮崎から東京に来る間に、風でトラックから飛んでいっちゃって(笑)。後ろの運転手から「飛んでるぞ!」なんて言われて、取りに行ったりして(笑)。これはステンドグラスだから、まぁなんとかなったという、そういう感じですね。これは74年ね。

足立:卒業した年ですね。芸大の卒業生名簿を見たら、ひとつ前の年に卒業したのが(画家の)坂口寛敏さん。

奥野:そうそう。知ってる?

足立:はい。

奥野:私は5年いて、フラムさんは6年で、坂口くんは4年でちゃんと卒業してドイツに長く行ったんだよね。

足立:野見山暁治さんもその頃、先生でしたよね。

奥野:そうでしたね。坂口くんは野見山教室でしたね。結構こういうのを手伝ってくれて、仲良くしていたんですよ。

鏑木:一緒に活動されていたんですか。

奥野:部分的に、大きな仕事のときは手伝いに来てくれた。

足立:ほかに同級生で残った方って、多くはないですよね。

奥野:ないない。私の学年は比較的、よその学年に比べて作家になる打率が低いですね。いい作家は坂口くんくらい(笑)。同級生の皆はこんな感じ。この時代、作家活動にとっては中途半端な時期を過ごさざるを得なかったと思います。だから坂口くんは賢明だったのね。ドイツに行く(留学した)っていうのは。何人か外国に行った友だち、彼らの方がやっぱり、作家になる打率は高いかもね。

足立:同時代のものを含めて、そういうものには背を向けるというか、別の学びを見出して行ったということにもなるのでしょうか。

奥野:というか、この頃から私は別に作家になるつもりはなくなって。芸大に入っていろいろな闘争の洗礼を受けたり、なによりもやっぱり才能の…… なんていうかな。才能のある人の洗礼をいっぱい受けたのね。それで(自分を)「こんなのがアーティストになったら大成しないな」って思いました(笑)。

足立:それは美術も含めてなんですか。北川フラムさん以外にもそういう、才能ある人がいたというか。

奥野:やっぱり坂本龍一とか。やっぱりね(笑)。龍ちゃんは19歳で、もうちゃんと即興曲を演奏できちゃうわけよね、ポロポロっと。そういうのを見ているうちに。やっぱりあの頃、一番才能に溢れているのは北川フラムだと思ったな。あとは藤原新也さんとか、同世代では何人かいるんですけれども、アーティストとして大成した人はそんなにいない。もしフラムさんとか坂本龍一とか、そういう人たちを知らなかったらまだつづけられたかもしれないけれど、そんな太刀打ちできないのがいるっていう(笑)。「私の才能如きは」って思いましたね。

足立:今はキュレーターで展覧会や大きなアートイベントを含めて作っていらっしゃって、その頃の経験が生かされているというか、つながっているところってありますか。

奥野:私、一度もキュレーターっていう意識がないんです。いわゆる美術館のキュレーターとか、巷にいるキュレーターというのと、たぶん意識が全然違うと思う。どっちかというと、作家と一緒にものを作るという感覚。それとものを売るっていう、そのふたつはキュレーターにはない感覚だという思いがあって。そのふたつでやってきている感じかな。

足立:今日最後の質問になると思いますけれども、作家と一緒にものを作るという、その作家の基準というのは、たぶん今までの経験で身につけられたと思うんです。作家の選び方というか、どんな作家と一緒にものを作って、どうものを売りたいかということについて、考えはありますか。

奥野:大地の芸術祭と日頃やっているアートワークの仕事では、ちょっと意識が違いますね。それと美術館やこのギャラリーの企画ともまた、ちょっと違うんですね。ここの今のキュレーションはほとんどギャラリーのスタッフがやっているから、私はあまりタッチしていないんです。一番大きくタッチしているのは、アートワークのことと、フラムさんの仕事の地域芸術祭のなかでの作家担当と、まぁときどきキュレーションもやりますけれども、そっちなんですね。だから企画だけが先行するということは、あんまりない。責任を持たないといけないから(笑)。っていう感じで、答えになっているかな。

足立:奥野さんの思想のようなものを、また次回にお聞かせいただけたらと思います。つまりこの頃、『ドイツ・イデオロギー』を読んで以来抱いた、もっと大きな自然と、社会を超えた自然のようなものへの意識、それが今日の活動にどうつながっているか。たぶんその後の話をこれから順々に追っておうかがいしないといけないと思います。

鏑木:そうですね。いろいろと関わってこられたプロジェクトに通底するものということでしょうか。

足立:今日はもう随分お話をお聞きしましたので、どうもありがとうございました。

奥野:では前半戦は終わりっていう感じでいいかな。

足立:そうですね。

鏑木:ありがとうございます。

足立:とても深い話で、感動しました。

奥野:こんなんで、いいんですかね(笑)。

鏑木:もちろんです。貴重な資料も間近で見せていただいて。

奥野:そうですか。本当はもっとレアなやつを持ってきたかったんだけど、ちょっとね。もう一回(探してみます)。これが『Penguin?(ペンギン・クエスチョン)』の合本。次の話題になるやつなんです。

鏑木:すごい。実物は初めて見ました。

奥野:そうですか。これが借金の元になったやつですよ(笑)。

鏑木:(『Penguin?』を見ながら)たくさん執筆者がいて、豪華ですね。

足立:大正時代にアナキストたちが、芸術家のグループを作るんです。

奥野:どこで作るの?

足立:谷中です。谷中で彼らは、食堂をやるんですね。

奥野:へー。

足立:食堂に集まった人たちがアナキストで、食堂主が東京美術学校出身で、大杉栄と一緒にやがて黒耀会というグループを作るんです。しかも食堂で最初は、(平民美術協会という)絵画教室をやるんです。

奥野:(ゆりあ・ぺむぺると)似てるじゃない(笑)。

足立:そして1号だけ雑誌を作るんです。

鏑木:おお、全部一緒だ(笑)。

足立:大正時代のそういう人たちと、同じだなぁと思って。

奥野:そうだ、「現代美術のパイオニア」展(1977年)のカタログも実はあるんですけど、妻有の方に行っているということがさっきわかったの。一度見てもらいたいな、と思って。その辺がご専門でしょう。

鏑木:当時の調査としては、かなり綿密なものですよね。

足立:当時の調査記録があれば。あの月報(『古沢岩美美術館月報』第25号が展覧会特集号として実質的な目録となっている)にしか出ていない資料というのがあって、その出典は一体なんなのかというのを知りたいんです。

奥野:それは私は全然タッチしていないから、他の人に聞いてみます。

足立:年譜を見ると、北川フラムさんは卒業後にすぐ古沢岩美美術館に勤めるという感じですよね。

奥野:そうです。

足立:ゆりあ・ぺむぺるをやりながら、週3回とかそんな感じで行っていたんですかね。

奥野:そんなに行ってないと思う(笑)。

足立:月1回とか、そんな感じ。

奥野:そうそう。フラムさんって同時にいろんなことをやるじゃない。しかもひとりだけじゃやれないから、グループ単位で人を集めてやっているのね。私の方はもう本流(ギャラリーの仕事)というか。「アパルトヘイト否 [ノン]! 国際美術展」(1988-1990年)とかは行っていないからね、その辺はよくわからないけど。

足立:ゆりあ・ぺむぺるで奥野さん自身は、週何日とかそんな感じだったんですか。

奥野:ほとんど毎日行っていた。

足立:毎日ですか。土日もない感じ。

奥野:土日もない。本屋さんをやったり、「アブストラクト」の運転手をやったり。

足立:「アブストラクト」?

奥野:(ゆりあ・ぺむぺる工房の)内装業。免許を持っている人がいないから、私が青葉マークでトラックを運転していたんです。

鏑木:えー! 奥野さんはゆりあ・ぺむぺるにとって欠かせない存在ですね。運転手からデザインから制作から。ほかのお仕事などをしながらではなく、ゆりあ・ぺむぺるをされていたんですよね。

奥野:自宅が東京にあったから、その分活動はできるけど、芸大は特に地方が多いから、他の人たちは食べていかなくちゃいけないから。まず作家になりたいという強い意識がある人は、離れていくんですね。居候みたいな人も、あそこ(高木ビル)に何人かいましたよ(笑)。

足立:ご両親はお嬢さんふたりが一緒に活動をしていて、嫌な顔をしたりとかは。

奥野:いやぁもうブーブー、喧嘩状態ですよ(笑)。

足立・鏑木:今日はどうもありがとうございました。