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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

佐々木正芳 オーラル・ヒストリー 第1回

2021年7月25日

宮城県・仙台市のアトリエにて

インタヴュアー:三上満良、半田滋男、細谷修平

書き起こし:五所純子

公開日:2024年5月25日

インタビュー風景の写真
佐々木正芳(ささき・まさよし 1931年〜2024年)
美術家
1931年、神奈川県横須賀市に生まれる。敗戦後に両親の故郷石巻市に移住、1946年以降は仙台市に暮らす。本インタビューの第1回では、横須賀での戦争体験に始まり、敗戦後の宮城県での生活、1950年代の〈エスプリ・ヌウボオ〉や〈東北現代美術連盟〉への参加、そして、〈自由美術家協会〉会員としての活動などが語られている。インタビュー全体を通して佐々木氏自身の反戦思想が展開され、敗戦後における地域の美術家の姿が浮かび上がる。本インタビューは、JSPS科研費 JP21H00499「デジタルアーカイブ時代における1960-70年代の芸術表現の拡張に関する研究(研究代表:松枝到)」との共同で実施され、インタビュアーとして、元・宮城県美術館副館長の三上満良氏、和光大学教授の半田滋男氏にご共同いただいた。佐々木氏は2024年3月29日に逝去したが、本インタビューは生前に自身が校正を施している。

佐々木:仙台から動かないで、ほとんど仙台の中でもアトリエにいっぱなしみたいな。この質問事項でいっぱいありますよ。話が山のようにあります。

細谷:2回くらいに分けて、今日は、前半のところをお聞きできればと思っておりまして。

佐々木:生まれから始まるとね、ここに敗戦が入りますからね。それまでと、そのときと、それ以後。すんごいあれですね、転換期なんですよね。まったくあれよという感じなんです。なんだこりゃって。全部嘘だったんだって。それでね、本当に敗戦で何もなくなったからね。何もなくなって、いろんなところが火災で焼けてで。教科書ができないっていうかな。教科書を印刷したものを渡されて、(敗戦)直後の話ですけどね、半分くらい墨を塗るんですよ。国会に出すお役所文書と同じくらい墨を(笑)。なんだこれ、嘘だったのか、消さなくちゃならないか、と。あれ、すごくはっきりわかって、はあ、そんなに教育なんてものはでたらめなものなのか、と。人のことは言われたことだの教えられたことは、本当によくよく吟味して考えて、いいものだけ取らないとだめだなっていうのがしっかりわかりましたよ、あのとき。

三上:ちょうど小学校から中学校へかわる頃ですね。

佐々木:生まれたときがノモンハン事件の勃発年なんだよね。でもそれら、みんな遠い彼方の話で、兵隊さんで死んでるのはたくさんいるんだけど、だいたいは誤魔化されてましたし、報道はまったく嘘っぱちばっかし、都合のいいとこだけ知らされてたわけですから、何も感じないで、戦争だからどうこう、何がないというわけじゃないしね、まだそのあたりはね。

三上:お父さんは職業軍人だったんですか?

佐々木:はい。

三上:海軍?

佐々木:いちばん最初に出てくる、石巻からね。小牛田から石巻に。今は女川まで行きますけど、国鉄がありましたよね。

三上:石巻線。

佐々木:石巻の1つ手前の駅が母親で、もう1つ手前のところ、つまり隣村が親父のあれなんですよ。

三上:河南町? 河北町?

佐々木:ええ。河南町になったんですね、そのあとで。今はあれなんですか、石巻……

三上:石巻市になっちゃいましたね。

佐々木:ええ。

三上:じゃあ、ご両親とも宮城で?

佐々木:ええ。農村の、親父は三男。東北の農家の次男、三男が、工場の、軍隊でも警察でも、工場の職工さんでも、全部あれですよ、北関東、東北の農家の次男、三男が身を立てて、18(歳)まで労働力として家の田畑を支えなくちゃいけないでしょう。そこから先は自分の身を立てるために、うちの親父は水兵になって、水兵から上がった特務少尉とか特務中尉とかっていうんですけど、そっちの初年兵から叩き上げの。ただね、電機のほうをやってた。

三上:電機?

佐々木:電機。

三上:技師だったんですか?

佐々木:ええ。だから、ほら、亡くなったのは航空母艦のあれなんですけど、電機(技師)として。あれみんな電機で動いてますから「俺がいないと船が動かないんだ」って言ってましたよ。だからもう、どこかでもう電気が切れて暗くなったりすると「電機長!」って大騒ぎになるって(笑)

細谷:そうか、頼られるわけですね。

佐々木:そう、頼られる。

三上:お父さんが戦死されたのは何年なんですか?

佐々木:ええと、何年だ?

三上:まだ終戦のずっと前ですか?

佐々木:いやいや、航空母艦ですから、航空母艦「蒼龍(そうりゅう)」というのの電機長をやってたわけね。それで、最初のハワイの不意打ちね。

三上:真珠湾。

佐々木:ええ、真珠湾。あれもやってんですよ。電機長だから発電室なんていうのは底にあるものですから、船と一緒に沈んだのは間違いないんです。甲板のほうにいる連中はね、やっぱり船傾くし、飛び込んで泳いで助かるんですよ、けっこう。でも中の人はやっぱりね。部屋にまだ入る前に、何か言付けみたいに言った、副官かな、何だかが、焼けただれた顔で挨拶に来たっていうのを、私は学校に行ってて会ってませんけど、母親から聞いてますけど、そのとき船の中で返事した、そして離れなかったという話を聞いてます。船と一緒に沈んで、そのままですよ。

三上:佐々木さん、子どもの頃、横須賀の風景の記憶なんていうのはありますか?

佐々木:ええとね、これ、いろいろ思い出すことがあるんですけど、海軍もいろんな配属で船に行ったり、陸地にもあるんですよね。軍港の中には船との交信するところとか電機部があるんですけど、軍港地で船に乗ってないこともあるんですよね。そういうときにはほら、毎日家に帰ってくるわけですけどね。だから私ね、横須賀で、生まれたのは横須賀なんだけど、その前に(父が)佐世保に着任してたときがあって。九州の佐世保ですね。それは船が、そこが基地みたいなあれで。佐世保で何年か、2年か1年かいたらしいんです。

三上:佐々木さんが物心つく前?

佐々木:ええ、私はそこで腹に入ったんだって話を聞いてます(笑)

細谷:なるほど。それで生まれたのが横須賀だったんですね。

佐々木:ええ。奈良の……横須賀に帰ってくるときに、奈良を訪ねてんですね。その写真があるんですよ。それに自分がいないのね。それで聞いたら「ああ、このときはお腹の中から見てたんだ」と言われて、うん。それでそのことを覚えているんですよね。それで横須賀行ってね、横須賀で生まれて、いくつになったか、3つ4つくらいのときは、今度はあれだ、ええ、青森県の下北半島にある大湊という軍港があるんですけど、そこに2年くらいいたんですよね。そのとき私が3つ4つくらいのときでね、ちょっと覚えてるんですよね。古い写真なんか見ると、そのときは、陸地勤務だといろいろ楽しいこともあるんですね。家族で山ブドウ狩りだとかワラビ狩りだとかして、みんなで集まって食べて飲んでというような、楽しい期間を過ごしてるみたい。官舎に入ってて、一軒おいて隣というか、そこに同じくらいの(年齢の)女の子がいて、キミコちゃんといって、それでそのキミコちゃんが買ってもらった日傘が欲しくて、赤い日傘を私も買ってもらって、2人で差して行ったり来たりして遊んでたっちゅう、(その)話によって記憶も多少残ってる感じがあるんですよ。

三上:それはお母様から聞いた話?

佐々木:ええ、そうですね、うん。あとね、はっきり覚えてるのは、あそこは恐山の麓ですから、恐山に家族で登ったことがあるんですよ。最初は森の中をずっと歩くんですけど、それから、何もないですよね。全部歩かなきゃいけない、その当時は。それでね、山道に入って、こっちは3つ(歳)くらいだと思うんだけどね、天車(てんぐるま:肩車の意)してくれたの、親父が。それが残ってんですよ、感覚として。股座に父親の耳とか、それが当たってる。それでこっちは頭を、「頭つかんでろよ」って言われてこうやってるわけですけど。それで山を登っていった。上にあがると視界が開けて、あちこちから水蒸気もくもく上がってというところを通って、お寺さんだか神社だかそんなところに行くんだけど、そこで茹で卵をして食べたのも覚えてます。あのね、父親っていうの、死んだのが45(歳)なんですよ、親が死んだのが。私、その倍生きて、今年90(歳)になって、でも父親っていうのはやっぱりね、自分より上で、上でね、お父さんっていう感じがあるんですよ。90(歳)になっても。ずいぶん若く亡くなっても、父親は父なんだよね。すごくね、いい父親だった。で、手は利かないけどね、いや手じゃない、絵はそんなに、絵を描いたなんていうのは、絵はね、よく馬をさぁっと描いて見せてくれたもんだったね。

細谷:お父さんはお描きになって?

佐々木:うん。そのへんに鉛筆でもあって紙でもあれば、お馬さんはいろんな形を描いてくれた。というのは、馬係をやってるわけ、農家で。馬育ての家だった。それであの、毎晩晩酌するんだけど「おい、来い」なんて(父は)言って、(私は父の)胡座に座って。それで馬の話だのね、しながらね、晩酌してた。そういうのをちゃんと覚えてますよ。

三上:佐々木さんのご兄弟は?

佐々木:兄弟はね、6つ上に兄貴がいる。それでちょうどね、3つでちょうどいいところに1人いたんですよ、次男が。私は3番目に生まれてるのね。ただ、私が生まれた2カ月か何だ、4カ月かな……私が4月21日なんですけど、生まれたのがね。その間、上はね、一真(かずま)っていうんです。「一」に、真実の「真」、写真の「真」、一真っていうんです。亡くなったのは功(いさお)。武功の「功」。私が4月21日に生まれて、その真ん中の兄はその年の8月の11日に死んでるんですよね。これはね、明らかに医療過誤なんですよ。

三上:それは横須賀で?

佐々木:横須賀で。それも海軍病院に行ったもんだから。何かね、赤い便が出た。トマトを直前に食べたからトマトが出たらしいんだけど、赤痢と判断して、それで胃腸を洗ったり何だりして。逆に温めたりしなきゃいけない。母親はそれを何度もくりかえし言ってた。亡くした子っていうのは本当にね、それに4つなんてかわいい盛りじゃないですか、もの喋ってきたりね。そのときに亡くなってる。だから「かっちゃん、替わればよかったね」と言われたそうで、長生きしてるのかもしれない(笑)。いや、すごいものですよ。昔、検査なんていったって目で診るくらいのものですよ。今の医療と話が違うもの、全然。だからなんぼそうやって死んだかわからないよ。だからね、我々子ども育つあたりは、私らが子どものあたりは、産児制限が流行ってきていて、大概2人くらいで終わりにしたけど、5、6人いるのが当たり前でね、どこに行ってもね、すぐ近いところに親戚にあたるタカハシさんというのがいて、今もいて、同じ学年のが長男で、ずっと一緒に育ったみたいにして横須賀にいますけどね、そこなんか8人いた。8人いて、私が知ってる間に2人死んでるもんね。姉が結核で亡くなって、あと妹が何かで亡くなって。だから5人くらいは産んどくもんだよっていうのが、全部育つかどうかわからないから。そういう時代なの。だから5、6人、大概いるんですよ。私は兄貴と私と、それは6つ離れてる。喧嘩にもならない。こうやったって、おでここうやったって届かないんだから(笑)

細谷:佐々木さんの下には?

佐々木:いないです。下には生まれなかったですね。

細谷:そうですか。

佐々木:家内は2つ違いの姉がいて、女2人なんですよ。それでどっちもね、兄弟の多い友達を知ってるから、どこかで羨ましいところがあった。というので、うちでは5人いるわけ(笑)

三上:佐々木さんが初めて美術とか図画とかに興味をもたれたのは?

佐々木:ええとね、そうですね、小っちゃいときから描くのが好きで、鉛筆で……母親から聞いたことなんだけど、小学校の真っ白いノートね、雑記帳っていうのかな、あれを渡すと1日で1冊描いて遊んでたというのを聞いてますね。毎日1冊ずつ描いてるって。

三上:鉛筆ですか?

佐々木:鉛筆ですね。

三上:普通の黒の? 色鉛筆とかでなく?

佐々木:いえいえ、黒い鉛筆ですよ、そのときは。

三上:何を描いていたんですか?

佐々木:馬ですね、やっぱり。そのときね、自動車なんて走ってないですよ、めったに。ほとんどが牛、馬。馬車と一緒に通学するんですよ。お父さんが馬描いたりするから、自分も馬を描いたの、よく。で、馬の脚4足だというと、こういうふうでしょう? 左脚……

三上:ああ、順番を。

佐々木:次、どこが地に着くのかって(笑)。なんぼ見てもわからない。

三上:近代画家がみんな関心をもってきたところですね(笑)

佐々木:で、自分が四つん這いになって歩く。そしたらね、こう、こう、こう、こうなんですね。それが、そうかなと思って見ると初めてわかる。そうなんですよ。それがね、馬にもね、競馬なんかにもたまに出る画がある。それ出たら転んじゃうと思うけどね、こうやるのがいるらしいんだね。

三上:揃ってですか?

佐々木:うん。動物でもそうらしいですね。たまにいるらしいですね。

三上:馬は身近にいたわけですね?

佐々木:そうなんです。犬なんていうのも、飼ってる人は特別な人が飼ってたね、シェパードみたいのを。ええ。

三上:軍艦なんていうのは興味がなかったんですか?

佐々木:軍艦は、あの、実際に何度か連れて行ってもらってますから、軍艦を描いたりはあまりしなかったね。その、あまりにも複雑でね、描く気にならない。飛行機、よく描いてた気がするけどね。自分の描いた、幼い時に描いたものなんていうのは、全部取っておかない時代だからね。あとは小学校や何かにあれしても、なにせ、その、まるっきり違う体制の中で育ってたわけで、自分も軍人になるんだと。親が軍人だからね。それしか考えてない。兵隊さんだって下っ端は嫌だけど、やっぱり偉くなる、将軍になることしか考えてなかったしね。

三上:お父さんが馬を描かれていたのは鉛筆? 毛筆なんかは使わなかったですか?

佐々木:毛筆、書もやりました。でも、書ってね、やっぱり、硯だし、磨ってから始めないとできないから、さっとできるのはやっぱり鉛筆ですよね。ただね、描いたら上手かったろうと思います。兄貴はね、絵上手かったですよ。兄貴はなにせ6つ上だからね、私が小学校入るとき、中学校の教科書、その理科の教科書がね、いろんな写真が入っててね、それが、何だろう、あの、知識の宝庫みたいなあれで、興味をもって一生懸命になって見てたものですよ。中学2年のあれでその教科書に骨格の、骨格図が出てて、馬はこれ1本であるという。その痕跡みたいなのがこのへんにみなあるわけですけど。それで、前に出てくるあれが手首ですからね。ここがずっと長くて、最後にここに1枚、蹄が、はい。牛はこう。で、ここの肘がこのへんにこうきてますよね。ここはずっと短くて、肩のこれ。

三上:お兄様のことはうかがったことがないんですけれども、お兄様は?

佐々木:兄貴は中学校のね、あのときは中学校5年ですけど、成績のいい者は4年から上の学校、高等学校とか、陸軍なら陸軍士官学校、海軍なら海軍……何だ、海軍士官学校といったかな?

三上:江田島とか。

佐々木:うん、そうそうそうそう。4年からね、入ってるんですよ。それで陸士を、恩賜の時計をもらって卒業した。小学校は通して1番、中学校もほぼ1番じゃないかな。私も小学校1番だったんですよ、6年間。ふふふ。まったくつまらない、通信簿を見ると。甲乙丙のときは全部「甲」。それから優良可になるのかな。全「優」ですよ。それで6年間通して1番で卒業しましたね。私はとんと絵描きなんていうのは頭になかったです。そういう職業があるなんてことも知らない。はい。ただ家に、床の間に、達磨の掛軸が下がってて、こういう髭の。写真あるな。今持ってきますか。

三上:それはずっとあったんですか?

佐々木:ありましたね。で、よその家の達磨ね。床の間というのは借家でもありましたから。4畳半と6畳と台所とそのくらいしかない長屋のあれでも、3尺の床の間があって、何か下がってましたよ、掛軸が。文字のものもあるし、達磨の絵だったり虎の絵だったり。だから、今なんて何もないでしょう。だから子どもの絵を貼ってやる場所がない。

細谷:そうですね。

佐々木:絵っていうのはね、貼ってみると良く見えるんですよ。そのへんに置いてこうやって見てもだめなの。子どもの絵を指導して、子どもの絵を潰すのは親なんですよ。お母さんが潰すんです。「何これ?」ってやって、ね。まず、ごちゃごちゃ描きから始まって、そのごちゃごちゃを経験的にいっぱいやったのがどんどんすごい(絵になる)。それしかできないんだから。不思議なことにね、頭足人、こう丸を描いて、こう、こう、こう。これを必ずやるんですよ。形が出てくる最初。だいたい丸が、丸が、出発点に戻ると丸になる。このへんでも、イメージです。丸というのはあらゆる概念を総括的に……。大きい丸を描いて「アメリカ」、小さい丸を描いて「日本」、こうやると日本とアメリカが、小さい丸で……。だから大きい丸を描いて「お父さん」、小さいのを描いて「僕」とか、そういうところから始まる。丸から始まるんですよ。

三上:丸で世界を認識していくんですね。

佐々木:そうそうそうそう。だからね、その頭足人のが、その時期が必ずあって、おそらくピカソがやってる。ピカソはね、2歳になると「ピス、ピス」と言うんですよ。ピスって鉛筆のことなんだって。「ピス、ピス」と言ってピスを渡すと、こうどこでも描いて、いつでもそういう……。でもおそらくピカソもそれを、その時期を通ってるはず。ほとんどわかんないです。今子どもに、上の小学生とかいるとこのへんに鉛筆とか残ってたりクレパスが落っこってたりして拾っていたずら描きするけど、そういうことがないと、描くものを与えるなんて考えもしないから、親が。2歳から始まってるんですよ、実は。それを伸ばすことが大事なの。そうするとみんなね、絵を好きな子になる。それをやってるのが私の幼稚園。だからもう幼稚園でも遅いくらいのケースがあるわけ。

細谷:最初の衝動みたいなものですね?

佐々木:そうそうそうそう。それを肯定しないとだめ。人間しかできないんだから。絵は。歌なんて、鳥なんてみんな歌う。鳥の歌もみんな連絡の意味がある。この頃、それぞれ録られて発表した。日本人の学者がね。そのはずですよ。囀りがずいぶん違うもの、声が。

細谷:児童教育というか教育のことは後でまたじっくりお聞きしたいんですけど、ちょっと佐々木さんご自身のことの続きを。

三上:続きでおうかがいしたいのは、終戦のとき、昭和20年の8月15日はどこで迎えられた?

佐々木:それはね、ええと、私ね、中学校に入って、中学校、1学期しか通ってないんですよ。1学期はちゃんと通ってね、それで部活もあって、部活、剣道部に入って、ほら、終わってからやるとね、防具のないここのところに当たるんですよ。ここが痣ができて、いつもそうやって帰ってきてたんだけど。それで夏休みから動員です。夏休みに入ってすぐね、小田原の農家に。労働力、男手をみんな兵隊でとられるから、ちょうど里芋を収穫する時期で……里芋じゃない。薩摩芋。薩摩芋を小田原の農家の畑で、鍬で掘って、こんなでかい薩摩芋。

三上:同じ中学のみんなが行った?

佐々木:ええ。1軒に3人ずつ。2年生を1人つけて、1年生2人。その組で2日とか3日とか、隣、隣と行くんですよ。それで8月に入る……7月いっぱいかな。2週間くらいそうやって小田原に。それから横須賀に戻ったら、学校によって、みな学年によって違いますけどね、私は横須賀中学校というそれに入って、兄貴もそこを出てるんですけど、そこでね、海軍軍需部というのがあって、つまり軍需物資の集散所、集まってくる、倉庫に収納する。必要に応じて運び出して船に積むとか、そういう物の移動。だから担ぐだけですよ。台車っていうのはありましたけどね。物によってはそれで、本当に重い物なんかは台車に載せて、後ろ2輪で前1輪で。今と同じで、後ろの持ち手が倒れてこうなる(畳まれる)。下が板で、車が3つで、押すやつね。それがありましたけど、50キロくらいまでの物は担がせられるんだよね。砂糖の袋なんか。家にはないんですよ。軍需部にはある。

三上:終戦のときは?

佐々木:終戦のときはそこで、まあ、もうそのあたりはね、もう、あっちの倉庫(は)空、こっちの倉庫(も)空でね、何もないんですよ。材木担いでいってね、あっちに積み直して、バカみたいに仕事作って何とかやらせられた。水兵さんじゃなくて、その上の兵曹がついて命令するんだけど。そこでやってて、15日。昼頃何か大事な放送があるそうだと聞いて、昼、弁当を食ってか、集まって、兵隊もいる。そこにいた兵隊はみんな聞いて。本当にガスガスのね、何を言ってるんだかわからないですよ、あの素っ頓狂な声でさ。「天皇陛下」なんていったら、こう(佐々木がその場で「直立敬礼」のポーズ)やらなくちゃいけなかったんですよ。誰かが「天皇」って言ったらみんなこうやらなくちゃいけない。そういうふうに仕込まれるのよ。だからあの中国のこの間の「シーッ」って、あの一員だったなと思います、あれ見ると。あの一員にさせれば(人間は誰しも)なる。

細谷:人間は。

佐々木:人間はなるんだよ、どうにでも。

三上:多くの人はあの放送の意味はわからなくて、周りで説明されて後でわかったと。

佐々木:あのね、意味がわからなかったのは、ええと、「忍び難きを忍び」か。何だっけ。

三上:「耐え難きを耐え」

佐々木:そっちが先だね。「耐え難きを耐え」、あの一節で、ああ、負けたのかなと。大人でそのときから泣いてたのがいなくはないけど、まあ、ポカーンとしたものですよね。そして「明日から来なくていい」と。「学校から連絡が行くまでは自宅待機」ということで、帰ってきた。

三上:海軍の横須賀だと特別な動きみたいなものがあったように思うんですけども、あまり記憶にない?

佐々木:ありますよ。船を造ってますから。それがね、家から見えましたもん。だからそこで船ができあがると船の進水式というのをやりますけど、その進水式のとき、船が尻尾のほうから降りてくるんですけどね、ずっと下がって水に入っていくのが見えたもんですよ。わりと横須賀の駅からそんなに遠くなくて、駅のちょっと離れたところから軍港への出入口があって、兵隊さんが終わると出てくる。朝にはそこに入っていく。

細谷:日本が敗戦になったというのがわかって、それで佐々木さん、率直にどういうふうに思われましたか?

佐々木:そのときはポカーンですね。ただ、明日から行かなくていいんだって。あ、死なないで済んだ、と思った。横須賀はね、いっぺんも空襲してないんですよ。アメリカは使うつもりだから。そうでしょう? 今、第七艦隊の基地ですから。使うつもりですから。たまにグラマンの戦闘機が間違って入ってきたか何かしてババーッと機銃掃射して、ということはたまにありましたけど。

三上:終戦のときは佐々木さん、お母さんと2人だった? お兄さんは?

佐々木:もう兄貴はね、陸軍で航空のほうに進んで少尉になってたんですよ。こっちはね、戦争に負けたので兵隊だから1人でさっさと田舎へ逃げちゃった。何されるかわからなかった。鬼畜米英と教わってた。

細谷:そうですね。アメリカが入ってくるわけですからね。

佐々木:そう、アメリカさんが入ってくる。それでね、どこかで入ってきて、そしたら、農家だと、農家じゃなくても、昔、軒下にさ、玉ねぎ、こういうのを吊るすじゃないですか。(米兵が)それをもぎ取って生で齧ってたって。うわぁと思った(笑)。生で野菜を食う習慣がなかった、日本には。玉ねぎなんて生で食えるのかって。あっちは大喜びでさ。しかも船なんていちばん生ものが不足してるんだから。ははははは。それから人参抜いてね、そのまま食ってたとかさ。あちらではそれがサラダだもの(笑)。それがね、鬼畜米英なんて。まあ、本当にね、素直にそう思ってたんだから。「天皇陛下、万歳」と死ぬんだぞって。そういうふうに教わった。先生なんていうものは都合のいいもので、今度は民主主義を語り始めたからさ。

三上:その後、宮城に来られるのは?

佐々木:兄貴がね、そんなわけで、父親の実家に先に行っちゃって、だから母親と2人で自分も帰省してさ。ふふふ。

三上:佐々木さんの年譜を見ると、昭和21年にこちらに戻られたと。

佐々木:ええと、私……20年ですよね。

細谷:終戦?

佐々木:(宮城に移ったのは)その9月ですよ。

三上:8月に終戦で、9月にはもう。

佐々木:9月のね、5日くらいになっちゃったんじゃないかな。荷物がなかなか列車に積むのができなかったり何だりでね。荷造りに時間がかかって。だから、もう本当にね、要らないものっていうか余計な物はみな燃してね、燃して、剣道の防具を持ってたけど、また剣道やるなんてありえないと思ってるから、燃しちゃったね。そしたら、またちょこっとしたら始まったね。なんだこれは、と思ったんだ(笑)。半年くらいして、半年か1年したらまた復活したんだよ、剣道も柔道もね。

三上:教科書を塗ったりしたのは宮城に来てからの?

佐々木:そうです、はい。宮城に来てからです。だから横須賀中学というのは憧れの中学校だったわけですよ。兄貴もそこを出て、陸軍に進んで。陸軍に進んだというのはね、海軍というのは目が悪いとだめなんですよ。(兄貴は)近視だったのね。だから陸軍のほうへ仕方なしに行ったんでね。親父が海軍だからやっぱり海軍のほうが、で、横須賀の中学から入るのはやっぱり海軍のほうが多かったんです、だいたい海軍の一家だからね。みな東北人で、同じ町に7、8軒、ちょっとした同じ村で同じあれで、お正月なんていうとね、集まって当たり前に仙台弁、東北弁になるのね。だから全然こっちはね、困らなかった。

三上:お父さんもお母さんも出身だったから、こっちに来ても言葉は問題ないんですね?

佐々木:はい。ただね、入ってきてもね、3人してね、どこかにいられる部屋とかがそんな余分にあるわけじゃないんだよね。それで母親の妹が、鹿又の、石巻からだと最初の駅ですけど、鹿又のそこのところにちょっとした駅前の商店街があって、そこで下駄屋をやっている旦那とそこにいたんですよね、店を構えて。その店のね、上が空けられると。ちょうど店構えの上、中2階になってるの。だから真ん中は立ってられるけど、端のほうへ行くともうこんなものしかね、窓があって、窓を開けるとすぐ通りが見える。店の上の部屋を空けて貸してくれる。で、3人ですよ。3人、4畳半に、箪笥と茶箪笥と、仏壇なんてちゃんとしたでかいのがあってね、それを入れて、1列はそれでいっぱいになった。残りは布団でいっぱいになるのね。でも体はまあ、まっすぐになって足ぶつけたりしながら(笑)

三上:母方の叔母さんの家ということになるんですね?

佐々木:ええ。下駄屋をやっててね。

三上:それから仙台に出てくる?

佐々木:ええ。それはやっぱり、仕事を兄貴が探す。そのときいっぱいそういう兵隊さんがどっと出たわけですから、仕事のないね。いろんな関係辿って、ちょっとした会社を作って、建築会社というのがいっぱいできたんですよ。あっちもこっちも戦争で家が焼けて、家を建てるという仕事が山のようにあった。で、そういう戦後ね、どさくさの兵隊さんが組んで作った会社というのがいっぱいあって、戦後の一時期、活況を呈していた時期があって、そういう会社に呼ばれてね。呼ばれてというか、知り合いを辿って入れて、それで仙台へ出てきて、やっぱり田舎の関係で探し当てた、今度は12畳、大きい家でね、12畳の2階の、12畳の部屋に、こう周り廊下がついて12畳。そこへ入って、そこから中学校へ入って。北仙台。

三上:お兄さんが働いて生計を立てていたということですね?

佐々木:まあ、そうですね、うん。軍からは何もまだ下りませんでしたから。

三上:年金が、遺族(年金)。

佐々木:私は即、先生に言われて、奨学金取れるから、もらえるから、奨学金で通学しなさいといわれて、奨学金をもらって。けっこうアルバイトもしましたよ。

三上:鹿又の向こうの学校にもいたんですか?

佐々木:ああ、石巻に7カ月半、2年生の残り、秋から。それがね、こっちではほら、こっちは1学期しか学校に行って勉強してないの。ところが当たり前にやってたから、全然わからないんですよ、その間のあれが。理科だの殊にね、H2Oなんて記号使って、まるっきりわからなかったんだけど、兄貴がまだ仕事にも就けないでいたから、これも優等生だから、何せ恩賜もらってるような優等生だから、全部教えられてさ。家庭教師。だから2年生なんですが、2年生の2学期から、2学期、3学期と、終わったとき、石巻中学で2番になってた(笑)

三上:石巻中学なんですね?

佐々木:ええ、石巻中学。日和山の。

三上:石巻高校になったところですね?

佐々木:そうそう。列車に乗って、ぎゅうぎゅうの(笑)。ぎゅうぎゅうの列車に乗って。列車に乗れないで貨物車の材木の上に乗ったりして行ったこともあるしね。石炭の事情が悪くなって列車が走れなくなって、何だあれは、小学校? 何か女学校があったのかな。その空いてる部屋にそのあたりの人は集まって、先生がたまに回ってくる。「自習」なんて言って。何もしないのさ、自習なんていったって(笑)

三上:横須賀中学、石巻中学、仙台第二中ですね?

佐々木:ええ。

三上:仙台二中で佐々木さんのこれまでのお話をうかがうと、二宮(不二麿)先生が。

佐々木:ええ。今、資料を持ってきます(その時代の写生画を出してくる)。石巻じゃなくて、母親の実家というのがね、北上川の石巻からこう来てね、まだ、何だ、あれ、出口ふたつに。

三上:わかります。

佐々木:あれはやっぱり政宗の仕事だよね。

三上:土木工事で。

佐々木:ええ。それで水害時って話があるじゃないですか。そこの土手がすごく高いんですよ。そこの土手のすぐ傍に建ってるの、母親の実家が。そこに着いた日にね、そこの土手に上がった。そしたら北上川、向こう側がね、霞んでるんだよね。こんなでっけえ川、初めて見た。それを絵に描いた。それ、ありますよ。今持ってきます。だからね、絵はどこかでね、兵隊終わりになったし、死なないで済んだし、その次に絵を描こうかなと思ったんだね(絵を取りに行って、戻ってくる)。

細谷:ここに置きましょうか。

佐々木:ちょっとトイレ。危なっかしいんですよ(トイレに行って、お茶を用意しはじめる)。

三上:お構いなく。お茶持ってきたので。

佐々木:うん、麦茶。兄貴というのはね、絵上手かったんですよ。遠足なんか行ってね、遠足の間に3枚か5枚くらいスケッチしてきたりね。だから6つ上の兄貴と対抗して描く気になってたところがある。

細谷:お兄さんの存在が大きかった?

佐々木:ええ、すごく大きいです。上手かったですよ。

三上:勉強だけじゃなくて、絵の手ほどきみたいなのはあるんですか、お兄さんから?

佐々木:手ほどきなんてのは、教わるなんてことはないですね。

三上:見て(覚えた)?

佐々木:そうそう。手に何か持てば、描くのはごく自然な行為としてですから。(絵を見せながら)これね、火事を起こした。これなんです。東北へ帰り着いて最初の日です。だからね、これが感心するのはね、荷物まとめて、これはマル通(日本通運)で送ってるわけですね。身の回りの物をチッキといって……

三上:切符を買う。

佐々木:また取り出して。そのチッキにね、ちゃんとパレットとね、固まった絵の具と筆とちゃんと入れてきてたんだよね。大きい荷物じゃなくて、手荷物の中に入ってた。それがね、やっぱりよっぽど……(笑)。(絵を見せながら)これはね、田舎で従兄弟で兄貴でなんていうのを描いているんですよ。これは機関場。

三上:揚水機場ですね。

佐々木:田んぼに水をあげるときに働くやつですね。そっちが川下なんです。こっちが川上でね。それを描いてるの。その日に描いたんですよ、その日に。そしてこの裏にね、「国破れて山河あり」と書いてる。はっはっはっは。

細谷:裏に書いてあるんですね。

佐々木:書いてある。くっつけてあるのかな、これ。

細谷:くっついてますね。

佐々木:どこかに書いてある。あれ、書いてない? ふふふ、書いてあったと思ったけど。これはまあ、何か……

三上:これもあれですか、火事(1963年)で焼けたとき?

佐々木:そうです。火事っていうのはね、幼稚園の真似事を始めたときに、借家だったんですけど、あのね、ええ、あれですよ、ええ、そのあたりの南小泉ね、南小泉の庄屋さんの屋敷に建ってる、庄屋さんの借家だったんですけど、それ、何か、一高生の剣道場のために造って使わせてやってた建物を戦時中に半分の棟割り2個の借家に間仕切りしてね、貸してたとこなんですよ。そこの片方をね、最初借りて、所帯持って丸1年目くらいですかね。

三上:じゃあ、この頃のものはだいぶ焼けてしまった? ああ、こうですね。

佐々木:これ、積んであったやつね、ちょうどね、火事で焼ける前の晩にね、絵習いに来てた大学生がいたんですよ。その大学生とね、何だかそういうのを見せたりしながらね、自分のやったデッサンとかを見せたりしながら、夜、日曜日の夜ね、飲んでね、その次の日だったんですよ、火事出したのが。それでね、こっちは当事者だからすぐ、ほら、警察だし呼ばれて尋問されてるわけですけど、だから火事場なんて入ってる余裕がないんですよ。そこね、掘っくり返してね、屋根裏のね、普通ほら、板の天井が上がってるじゃないですか、借家なんてのは。あれ押すとポカッと上がるんですよ。そこにね、置く場所がないもんだから、屋根裏にね、こんな紙、それからキャンバスに描いたやつなんかもみんな、置き場所ないから、そこは湿気らないしね、そういうのをするには都合いい(ので置いていたら)、みんな焼けちゃったんですよ。だけど、なんだかこんな紙の束が燃えてドンと落ちたんじゃないですか。それ、一緒に飲んだ若い奴がね、その直後にね、その上はほら、材木のあれ、その上は瓦ですからね。上がっていって。それで火事って燃えるだけじゃなくて、みんな水かぶってますから、全部。そういうのから掘り出してくれたんですよ。

三上:川瀬(裕之)さんが?

佐々木:そう。

三上:昨日、息子さんにうかがいました、その話。

佐々木:自画像出してくれたでしょう?

細谷:そうでした。

佐々木:それでね、そいつそのまんまね、リンゴ箱2つに入れて、ずっとね、あっちに引っ越しする、こっちに引っ越しする(間も)ずっと持ってあるいていたんですよ。それとたまたまね、邪魔にもなるしと思って、広げて整理しはじめたら、この程度わかるのは……

細谷:残ったんですね。

佐々木:うん。(絵を見ながら)これはあれだ、石巻中学校で授業で描いた。これ、持ち物の中から何かを描けって。で、先生に褒められましたよ。

三上:軍服を着た美術教師がいたって?

佐々木:ええ。だいたいね、その当時、大人の人が着てるのは兵隊服ですよ。簡単に服屋で売ってるようなやつ。手に入るのは陸軍の兵隊服なんです。だから乗馬ズボンなんてここで膨らんでるズボン、陸軍のね、そういうのを穿いてる大人がいたり、帽子は戦闘帽だしね。もうみんなそうですよ、ふふふ。学校の先生もみなそれで着てた。

三上:昭和21年くらいの中学って、美術部みたいなのがあったんですか? 石中は?

佐々木:いえ、石巻にはなかったと思います。

三上:ではこれは授業。

佐々木:うん。

細谷:でも授業でこれだけ……

佐々木:授業で描いた。だから全員(描いた)。(絵を見ながら)これは渡された鍵なのかな。なんかあれですが。これは洋服が、ちゃんとした……

細谷:コンパス。

佐々木:コンパス。いいやつなんですけどね。昔、中学に入ると大工道具一式と製図用の道具一式を買わされて、図画の先生が製図の課題を出し作図する授業を全員のクラス授業でやりました。仙台二中に入ってからもありました。私は兄のおさがりを使っていました。描いたのは小さい方のコンパスで、石中2年の時、授業時間に描いたもので、「ウマイナ!」と先生にほめられました。

三上:これは二中に……

佐々木:仙台に来てからですね。私は北仙台だからずっと歩って、澱橋を渡って学校に着くんですけど、澱橋がもうだいたい川から3間くらい高いかな。(それ)くらいですからね、高さね。だいたいこう、今もしょっちゅう(橋桁が)高いところ知ってますけど、いっつも欄干から水が流れて岩のところで分かれてまた泡立ったりしてるの。ああ、綺麗だなと思って、よく学校の帰りなんか眺めてて、帰ってきて描いた。誰かの俳句にあるんですよ。「燕の中流にして飛びかえる」というのが。それを裏かどこかに書いてあるんですね。

三上:二中に行かれてからは美術部に入ったんですか?

佐々木:美術部はなかったので、私がポスターを描いて。先生に許可を取ってですよ。美術部を作っていいかって。これ、カルトンに入れていたので、そのまま残っています。

細谷:じゃあ佐々木さんからなんですか、美術部?

佐々木:そうです。私と1年上に穂積和夫って、けっこう有名なイラストレーターがいるんだけどね、その人と1級上なんだけど、彼は東京からこっちへ疎開で入ってたのね。で、2人でやったんですよ。私がポスター。それもどこかにとってあるけど、(オーギュスト・)ロダンの《考える人》(1881-82年)ね、あれの写真をこのくらいの大きさに墨で拡大して描いたやつに「美術部部員募集」。10人くらい来たんじゃないですかね。それで学内で展覧会やって、そのために描いたのがこれなんですよ。(絵を見せながら)馬なのね。焼けてるんだけど、こうなるわけね。それでこうなってるんですよ。名前がね。これね、ここのところに虻を描いて、でかい馬がこの小っちゃい虻に。ここに物語があるわけ(笑)。というのは、その後、描いてる私の絵とつながってるなって思いますね(笑)。それで、何か他のことを伝えようとしてた。(絵を見せながら)これも展覧会を開きましたから、そのときに描いた絵なんです。日本画ですね、これ。蛙、青蛙がどこかにありましたね。(絵を見せながら)これはみんなね、授業。おそらくね、夏休みの宿題か何かのあれじゃないですか。何をしてたかとか。こういうのはきっちりやったんですよ、一般授業で。

三上:レタリングっていいましたね。

佐々木:用器画と称して、全部烏口。墨、紙でくっつけて、溜めて、それで、それでやってるんですよ。それでこのゴチック体、イタリック、そういうもので。あれはやっぱりね、すぐ社会に出て何らかの役に立つことを教えてたんですね、うん。設計図まで出てくるんだよ。用器画でみなコンパス使ってこういうのね。これ、図工の先生なの。

三上:図工なのか技術なのかっていう。

細谷:そうですね。

佐々木:(絵を見せながら)それはもううちで、そのあたりはね、絵を描いていこうと思ってたんですよ。やっぱり好きだったのね、うん。好きだから描いて、絵で食うなんてことはまだ考えないんですけど、絵ってものが何か上手くなれば売れるのかと思ってたんですよね(笑)

三上:絵で食べていこうってところですかね?

佐々木:食べるってことまで考えないんだな。ただ進む道として絵を、絵をなんとかやっていこうと思ったんですね。だから……

三上:ドンコ先生というのが……

佐々木:そうそう。二宮先生が教わった……やっぱり二宮先生も石巻なんだけど、実家はね。日曜に通ったらしいんですよね。それは仙台駅、どこか兄貴とかそういうところの家から通ったのかわかりませんけど。そこのドンコ先生というのは野村房雄さんという、水彩で何かの会に出したりしてるようです。その先生はずいぶんおじいちゃんで、でも私行ったときには1年くらいはその先生が来て、この用器画もちゃんと教えてくれたんですよ。それで宿題か何かで、授業時間じゃないと思うね、これ。これは宿題で出されてやってたんだと思う。これ、墨使ってますから、スケッチして、設計図まで。これね、もう、ちゃんと大工さんに渡せるように、柱はどう描く、門の開き方ね……門じゃない、扉ね。それから引き違い戸の描き方、そういうのを全部教わったので、自分のアトリエを設計してあります。ふふふふふ。

三上:これは課題ではなく、佐々木さんが?

佐々木:いや、課題、課題。

三上:課題だった?

佐々木:そうです。全員がやる課題。何か家を(設計するという課題だった)。みんなあっさりしたものを描きますよ。立面図まで描いて。使いにくいだろうなと思ってね(笑)。これじゃ絵描けねえよって。窓ばっかりで、どこにイーゼル立てるんだって。全然そのあたりはわかってない。

三上:でもアトリエってものには憧れというか。

佐々木:そうですね。ふふふふふ。

三上:アトリエ、いちばん広いですね。

佐々木:だから学校の授業も大したものだなと思ってね。これは北仙台。ちょうど旧制二高の運動場があったところくらいの。でね、北仙台駅に近かった。歩いて通ってましたから、歩いて50分、学校まで。自転車でなんて、自転車なんて使わなかったんです。自転車なんて、何かお店屋さんはがっちりした自転車があったけど、普通の人が自転車に乗って走ってるなんてなかったですよ、その頃。どこまでも歩く。ふふふ。歩くのは何ともしない。2里とか何でもないんだね。ひたすら歩く、雨が降っても。それでまあ、あっちこっちに日曜日に台原の山のほうに行ってスケッチしたり。ところが描くものがないんですよ。描くものが家の中に。こういう仏さんにあげる、そういう物とかさ。こんなのだってないから描いてて。

三上:描いたものを批評してもらうんですか?

佐々木:いや、ひたすら自分で描いてるだけです。先生に、野村先生に学校を休まれてから、私は北八番丁にいたんだけど、野村房雄先生の家が北四番丁にあって、どこだかわかってたんですよ。だから絵を持ってね、訪ねたことあります。見てもらおうと思って。そしたら玄関先で見てくれて、ちょっとした何か言ってくれた。でももう学校はその頃ね、お休みになってる。時間があればもう描く、夜でも。デッサンが、行くね、歩っていく途中、木町通、大学病院のね、脇と、仙台弁でいうと「キマットオリ」なんですけどね、木町通に古本屋があって、そこにね、『みづゑ』だの『三彩』だのっていう……

三上:美術雑誌。

佐々木:美術雑誌の、宣伝のやつとかがあって、それパラパラ見たりして、そこでデッサンなんて言葉を初めて知って、デッサンをしなくちゃならないんだなというので、学校に、職員室の隣の部屋あたりにね、石膏像が見えたんですよ。だから先生に言って借り出して、空いてる部屋があるのでそこで1人でデッサン始めたんです。ひたすら、映画ですから。文化は映画です。映画から。

三上:さっきもブロマイドを写している絵がありましたけども。美術雑誌を見るようになると、意識する画家みたいなのが出てくるじゃないですか?

佐々木:ええ。だからいちばん最初に意識したのが、誰だ、あれ、ええと、名前が出ない、90歳で。そのうち出てくると思います。少女像の劉生。

三上:岸田劉生。

佐々木:うん、岸田劉生。岸田劉生の古本が、『美の本体』(河出書房、1941年)というのがあってね、それを買って来て読んだ。それが美術書に初めて触れた1冊。なんだか難しいようなことが書いてあるけど。これはね、頼まれんだよね、友達から。「○○描いて」って。これはね、絵を描いてね、絵を描いて、先生に持っていくんですよ、クラスの先生に。そしたら額に入れて教室に飾ってくれた。それね、小学校でもやったんですよ。でね、小学校の2年生、2年生になって、1年、2年と持ち上がってくれてた、頭つるんと禿げてた松本先生という先生がいたんだけど、その先生が兵隊にとられたんですよ。もうおじいちゃんかと思ってたら兵隊にとられて。それはまだ太平洋戦争の前ですよ。支那でやってるんですよね。太平洋戦争が始まるのが小学校4年生ですから。

三上:1941年ですよね。

佐々木:うん。(絵を見せながら)これはね、二中に転校してから、3年生のとき。これ先かな、後かな。クラスの先生、これ持っていって額縁に入れて飾ってっくれた。そしたら、つまらない授業のとき、自分の絵を見てればいい(笑)

細谷:それはそうですね(笑)。教室に飾ってあるわけだから、見てても怒られない。

佐々木:それがね、これが自画像展(2021年7月15日−9月12日、秋保の杜 佐々木美術館&人形館)のポスターに使った絵《夜の自画像》(1947年)のね、2、3カ月前に描いたやつ。そうして見るとね、これ、格段の差なのね。ねえ。この頬っぺたの焦げ茶色の影。あの、今、中学生、高校生、教えて、デッサンね。高校がすでにそういうの、何ていうんだっけ、あれ。

三上:宮城野高校?

佐々木:「宮城野高校に行きたいんだ」なんて中学2年生くらいになるとね。そうすると試験のあれ、デッサン教えるんですよ。あのあたりってね、すごい成長期ってものを感じますね、教えてるとね。そういうものなんだなと思ってね。格段の差なんだよね、これと。ただ、あれは夜で、完全に寝静まったあれでね。これは本当に焼け跡から。こいつは額縁に入れて部屋に掛けてあったんですよ。だからいちばん最初じゃないですか。紐で掛けてある、焼ける、バタンと落ちる、その上からバンバンバンバン。それにしてもね、ガラスは割れてるだろうし、その上にいちばん上は瓦ですから。(絵を指して)このあたりまで焼けて、顔がちゃんと残ってるんだよね。奇跡みたいな。これを掘り出してくれた。二宮先生はまだ現れてないんです、この頃。ただね、この《夜の自画像》を……これは何だ?

三上:ガマガエル。

佐々木:ガマガエル。仙台に来て初めて見たんですよ、うん。そのへんにいるのを見てね、珍しくて、捕まえて。動物とかって好きですから、植物でも何でもね、飼ってみたの。けっこう蜘蛛だとか蝿だとか捕まえて、だんだん慣れてくると棒に刺したの口元にやるとパクッと食べる。

細谷:コウモリですね、こっちは。

三上:これは模写ですか?

佐々木:写真を。子どもの頃ね、小学生の頃ね、見てた絵っていうのはね、『少年倶楽部』をとってた、兄貴がね。『少年倶楽部』の挿絵、椛島勝一という、これはね、神様かと思ったね。夜寝るときいつもね、枕こうやって椛島勝一を見ながら寝てたんですよ。ふふふふふふ。これ、見つけたから買ったのよ。昨日また見たのよ。そしたらね、やっぱりこれは神様に等しい(笑)。(本を見せながら)波ね、この波。いちばん感動したのはこの波なんだけど。やっぱり大したもんだね、ふふふ。これのライオンね、俺ね、これ信じられないんだけどね、2年生のときに、椛島勝一が挿絵を描いて、南洋一郎という筆者がいろんな冒険小説を書くんだ。ボルネオの島のあれとかで猛獣とやったりとかね。その椛島勝一の『吼える密林』かな、というのの扉にね、ライオンのオスが手をこういうふうにして腹ばって、顔は上げてる。それがついてたの。それを色鉛筆で……あのね、昔の授業っていうのは何か見て描くのね。臨画です。教科書もそういうあれで、写真見て描くなんていうのは何ともしない。私が描くとね、だいたい同じくらいまで描くんだよ。そしたら先生がみんな上がっちゃうの(笑)。順番に待ってるみたいにして、私の絵はみんな先生が召し上げる(笑)。それがね、小学校2年生で椛島勝一の、その表紙じゃなくて、出てた1ページ目の絵をそっくり、左に置いて右に紙を置いて見ながら描くというのをほとんどできた。それをね、持ってった。絵、本当にこういうふうに描いてる、色鉛筆で。

三上:トレースじゃなくて、分けて置いて。

佐々木:うん。それがね、先生が、松本先生が召集されて、その先生を教えたというおばあちゃん先生が替わりに引き継いで入って教えてくれたのね。その先生が来たときに私はその絵を持っていった。とにかくそれで貼ってくれたんだよね。あれ、ちょっと信じらんないんだよね。でもそれ、できたんだよね。だからある種ね、そういう絵っていうのはほぼ血筋なんだよね。たいがい子どもがしっかりいい絵を描くなっていうのは、親もね、何かの親の教室なんかをやると、まず好きな人は来る。描いてみると描ける。ああもうお母さんがやっぱり描けるんだ。色のセンスなんていうのは完全に親からうつる。殊にお母さんですよ。家の中の色を構成するのも、着せるものも。だから潰すのもお母さん。「何これ?」ってやる(笑)。「形がしっかり描けてないとだめ」にしか思わないの、そういう人。一人ひとりのすごい躍動感とか色感とかね、みんなもってるんですよ、いいものを。だからそれをそのまんまにして育てると、みんないい絵を描く。それをね、本当、3歳、3年保育がこの頃主流になってきて、やっとはっきりわかってきたね。

三上:雑誌って、たとえばお兄さんも雑誌を買っていらした?

佐々木:雑誌は『少年倶楽部』だけはとってくれたんですね。私が5、6年生になってもまだ、たしか出ていたと思います。その頃、見てないような気もする。もう出なくなってたかね。もう敗戦間近の頃ね。そのあたりで見てたような記憶はないけど、低学年のときなんかは、まあ、見てましたね。その他ね、油絵なんて見たこともないですよ。

三上:二宮先生のお話をもう少し。

佐々木:二宮先生はね、このあたりで(絵を見せながら)この母の顔を描いたんだけど、これはこの時期のいちばんいい絵だなと思って見てるんだけど、そっくりなんですよね。これなんかね、寝てるからしっかり描いてるんだけど、これはいわゆる石膏デッサンを教わる前なの。ごく自然な描写なんです。石膏デッサンというのはちょっとした物の見方の手順みたいなね、これはやはり西欧合理主義だろうと思うんですよ。物の上と下と、まず紙のどこに入れるかを決めて、そうするとだいたい胸像だと上が顎のところで顔と首から下の体と。それをまずあらかじめざっとの見当でやってみて、ちょっと今度、また測ってそれを確認して、それで初めて、というような進め方です。

三上:二宮先生自身がアカデミックな美術教育を受けてこられたわけですよね?

佐々木:仙台二中から東京美術学校に入って、そこを卒業して、朝鮮半島のね、中学校の美術教師になって行かれたのね。それでね、ロシアがやって来るでしょう、あそこは。それでほら、描けば絵の先生だっていうのがわかってね、スターリンの肖像をさんざん描かされた、1年間。スターリンの肖像を描きに徴用されて、帰国が遅かった。私が石膏デッサン、ベートーヴェンのデスマスクなんかね、逆光にして描いたりなんかしてるのよ。後ろで誰か見てるなっていう、二宮先生も見たね。何も言わずじっと見て行くんだ。そういうことが何度かありましたけど。それで、その《夜の自画像》は二宮先生とまだ出会う前なんですよ、描いたのは。それでその賞に入って、賞品と免状というか賞状をもらえるのに、旧三越の焼け残りが、三越と藤崎くらいしか建物がなかった時代ですから、そこへ行って、仙台一高の先生が、やっぱり中学のときは一中の先生で、(佐藤)多都夫先生ですよ。多都夫先生からもらって。賞品がね、クロッキーブック1冊(笑)。いずれにしろね、やっぱり知事賞をもらったというのは、これは1つの決定打みたいなものだよね。それで描いてるときにね、あれは劉生が言ってるのがわかったような気がしたんだよね、なんかね。内なる美というね、ふふふふふ。美はそこのものにあるのではない、見てるものの心の中にある、という。それはそうだよなっていう(笑)。それを感じ取らなきゃ美でも何でもないわけで。なんか、すごいシーンとした、夜だからみんな寝て、幸いなことに光源が1つなんだよね。

三上:電球?

佐々木:うん。明暗がこのくらいわかることない。あのときに描いていてわかってくるの。これが物の影だとか、そういうね。だからそのときにぐんと何かが進んだと思いますね。そういう実感があるのよね。写真っていうのはまったく写した時のことがわからない。忘れちゃう。絵っていうのは1枚ずつ、描いたときの自分の状態を一緒に含めてね、思い返しますよね。あれがね、火事で残ってくれてなかったらね、絵描きにならなかったかもしれないね(笑)。ただ好きだからね、何かしらやったんだろうね。何せね、高校をほら、芸大を受けたのに、他の全然何も……先生ね、何もそんなこと言わなかった、二宮先生。他に多摩美があるとか武蔵美があるとか全然知らない(笑)。美術学校ってそれしかないんだと思ってた、こっちは。それで美術学校を受けて、いっぺんに通るなんてことは奇跡でもないとないんで、それもね、あれ、くじ引きで場所決まるんですよ。あれってね、石膏だとね、やっぱり自分の好みの「ここを描きたい」というのが先にあって描くんだよね。それは自分1人でやってるときはそうなんですよね。それがね、くじ引きなんですよ。まるっきり何の良さもない(場所だった)ね(笑)

三上:佐々木さんが受けたときは課題の石膏は何だったんですか?

佐々木:何ていうんだか、初めてそこで見たやつだったけど、子どもでね、ただごちゃごちゃ面倒臭くて、真正面で(描いた)ね。後ろ立ってるし、前で座ってね。最前列で、しかも正面なのね。最初っからもう描く意味がない。あたりでは百戦錬磨のこんな長髪した人がガーッとやっていて、圧倒負けもあるし(笑)

三上:その頃、二高の美術室の石膏像はどれくらいあったんですか?

佐々木:そのときね、石膏像がアグリッパとヴィーナスとベートーヴェンのデスマスク、それからセネカだか何だか、もっと小っちゃいね。アグリッパとヴィーナスはこんなものですけど、試験に出るのはこのくらいのでかいやつですよね。そのね、でっかいのをやっぱり描いておかないと、画面に入れるのにうんと難しくなるから。いっぺんね、一高に大きいのがあったんですよ、1つ。で、それをね、3年生になってからですけど、夏休みに「一高に行って描いてこい」と言われて、先生には連絡取ってもらったんですよね。佐藤多都夫先生がいるわけですけど、「ああ、お前か」なんて言って。それ、いっぺんは描きましたけどね。そういうのをちょっと練習するのに3学期の授業が終わったところで、あとは勉強ないし、卒業式まで先に東京に行ってどこかの研究所に潜って、それっで1回でも2回でも描いておいたほうがいいと言うので、それ実行したんですよ。

三上:行かれたんですね?

佐々木:うん。先生も了解の上で。だから私は途中で3年生で二中に来て、入学式も卒業式も出てない。ははははは。ええ。二高を卒業しました。ただね、学制改革が中学4年から高校2年になるんですけど、そこで新制に変わるので。高校の3年……でも3年生で入ったから、3、4と、2、3と、4年は一緒にいるのね。ただね、同期生は最初から入った人は本当に中高一貫校だった。これはすごいよね、うん。中学3年でまた試験ってないですもん。これは意味があると思うよ、学習の上で。受験勉強というくだらないものを省くという。

細谷:そうですね。

佐々木:何にもならない。ある方法を身につけるなんてくだらないですよ、まったく。学問じゃない。その無駄。これを考えないといけないよね、やっぱり。

三上:同期で芸大を受けた方はいらっしゃった?

佐々木:いないです。もうそのときね、もう、二宮先生は芸大に入ると思ったんだね。「俺がずっと見てきて、あなたは3人目だ」と言うの。「ここまで描くのは3人目だ」。芸大のほかは何も言わない(笑)。眼中になかったらしい。私も何にも知らない。ふふふ。研究所もない。何も入ってこないからね、そういうことに関する知識が何もない。絵を目指してるのなんていうのはごくたまにしかいないわけだから。

三上:二宮先生っていうのはそういう方なんですね?

佐々木:うん(笑)。でも昔の旧美術学校もね、油絵科と、師範科というのがあったね、先生になる。それで格段の差なんだね、プライドにおいて。ふふふ。それで塩釜の杉村惇先生。杉村先生は二宮先生の1年か2年下っていうのは、上級とか一応あるじゃないですか(笑)。だから二宮先生には頭が上がらないって。

三上:結局、芸大(受験)は1回で。

佐々木:うん、1回でね。それで行くときには何か苦学して、つまりアルバイトして、アルバイトなんて言葉はありませんでしたから、なんとかやればしたいなと思ったんですよ。入ったってね、背景に親がいないんですから。兄貴のそれにすがってどうこうという問題じゃないしね。いっぺんともかくはそのときはそればっかりやって、他の受験勉強はとんと(やらず)。数学なんてもうわかんなくなってきてたしね、さすがにね。で、東京で受けて、それは叔母の家に転がりこんでっていうか、それは了解の上でだけど、父親の妹が嫁いだ先があって、そこに従兄弟や何かいっぱいいたんだ。4、5人いたんだけど、そこからいろいろちょっとね、探してみましたよ。ところが普通高校を出てね、できることってないんだよね。まずどこかへ行くと「算盤できるか?」、それから「簿記できるか?」って訊かれるんだよね。「自転車乗れるか?」乗れなかったんだよ、俺。ふふふ。横須賀って山だから、三輪車は子どものとき乗ったけど、自転車って練習するところがない。大概、小学校2年生くらいで乗るものですけど、それより大きくなっちゃうと……

細谷:そのままになっちゃう。

佐々木:そのまま。結果は大学になって休学して、そのときに覚えた(笑)。両足が跨いで着くようになってから。

三上:東北大というのはこっちだからということで?

佐々木:いやね、東京で何か自分の腕みたいなものを発揮して食えないかなっていうので、いろいろ叔母や何かも心配してくれて。品川だったんですけどね、いたのがね。町工場も行ったんですよ、あのへんね。町工場の1つ、すぐ傍だったんですけど、そこに行ったことがあるんですよ。そしたらそのときは自転車乗れると言って行ったんだけど、もう朝8 時から行って夜8時まで、最後の掃除して帰ってきて、それから夜の研究所なんて、やってるところはあるんですけど、それも電車で何十分とか乗らないとそこへ行けないとか、そういうことを考えると、勉強も何もできねえなっていうのがわかりましたね。

三上:研究所っていうのはどちらに行かれたんですか?

佐々木:研究所ってね、あの、最初に行って、卒業式もしないで行ったときはね、すぐ駅1つ、私鉄で駅1つくらい乗ったところにたまたまあった研究所に昼間来て、それは大概夜学みたいなんだけど、昼間も席は空いてるからそこで描いていいということで。

三上:二宮先生の紹介ではなく?

佐々木:うん。向こうへ行ってから……

三上:佐々木さんが見つけられた?

佐々木:うん。で、1枚か2枚描きましたけど、それと同じ問題が出たわけでもないしね。結局、アルバイトしながら試験勉強できるはずもないなぁってことがわかってきたし、7月ですかね、そのくらいまで頑張ってあちこちやったんだけど、そこの会社はね、何だ、あれです、ネームプレートっていって、いろんなモーターとか日立製作所ってプレートがある、あれを作ってる。アルミと真鍮板とあって、それに日光のあれでやるのかな。

三上:エッチングみたいに?

佐々木:エッチングの技法ですね。で、それをね、炭で研ぐんですね。長い広い幅の流しがあって、そこに10人くらい職工さんたちが板に載っけて、炭ですよ、炭。硬い炭の、いい炭なんだろうな。ツルツルにテカテカに磨いたのにね、今度、3度研磨とかいって、上から粗めの砂を吹きつけるんですね。そいつを下で受けて細かい目を、それをこうやってね、できあがったのを立てていくんだけど、それをやらせたら、これはデッサンの濃淡を見るのと一緒ですよ。あっというまに上手くなった。ははは。「すごい!」って言われた(笑)。2日くらいで「完璧!」って。

三上:技術はマスターしたわけですね?

佐々木:うん。そういう手仕事やったらね、なんたって集中するからさ。それ一緒で。嘱望されたけど、家から「帰ってこい」って。「お前な、大学だけは出とけ」って兄貴に言われて。兄貴は中学校から陸士に入っちゃって、中学校卒業のあれもないんですよ。社会で通用しないんですよ。給料の格差が違う、同じ仕事して。「大学だけは何でもいいから出ておけ」と言われて、それで、なら東北大か、建築でも入るかなと。穂積くんという人が建築にいたんですよ。でね、一緒に映画の看板描きやったの、アルバイトで。これも面白かったですけどね(笑)。だいたいね、かっこいい俳優のかっこいいところ、好きなところ、ただ好きなように描くんだからね。

三上:さっきのあれとか繋がるわけですね、ブロマイドに写った……

佐々木:あれを看板屋の前にやってたんですよ、高校のとき。友達に「これ描いてくれよ」ってブロマイドを渡されて。

三上:それが看板描きに。

細谷:それが看板描きにつながって。

佐々木:うん。もう墨でさっと描いてもそっくりに描くくらいにできたからね。

細谷:それで建築ではなく?

佐々木:それで、たまたま私の1年前だか私のときからか、共通1次の前テストみたいなあれで、膨大な質問にマルバツとか塗るとかするあれで、時間内にやるっていうあれが、適性検査っていったな。それをね、たまたま文系からやった。理系に入って2枚目くらいで時間が切れちゃったんですよ。「お前な、これ、建築といっても、理系がこの点では絶対には入れない。文系で選べ」って。「経済がいちばん暇だから絵描けるぞ」って。担任も(私が)絵を描きたいのを知ってるから、「経済だったらいちばん」って。そしたらね、東北大はあの頃、大概、(仙台)一高、二高から受けると大概入ってたんですよ。東京方面からの下からの追い上げなんてのはまだない時代で、一、二高だったら大概そのまま望みのところへだいたい(入っていた)。医学部から始まって、医学部、理学部、法学部か。はははは。経済、その次が文学部、そして最後が教育学部。

三上:教育学部は一応、美術の人たちというか、あったんですね?

佐々木:うん。あったんだけど、そんなことは全然考えてなかった。先生にはならない。先生は嘘しか言わない。先生なんかなるかって。結局、先生やってる(笑)。結局、先生やっちゃってる。

三上:二宮先生みたいな先生になろうとは思わなかったですか?

佐々木:うーん、自分で描くのはいいけど……。まあ結局ね、そんなことで経済学部に入りましたけど、でもよく受かったと思うよね。全然12月くらいからちょっと教科書をひっくり返して見たり何だりして、少しは勉強したんだと思うんだね。それで受かったんだから、やっぱり基礎力は持ってたんだな。まだ忘れなかったんだ(笑)

三上:子どもの頃の成績表の話をおっしゃってたから、やっぱり……

佐々木:うん、やればできたの。二高に転校したときも、石巻2年終わったときに2番だった。二高3年生終わったとき「お前ね、転校生で1番だぞ。9番になってる」って。二中の。

三上:東北大に入って、今度そこで美術をやるための……

細谷:ちょっと休憩しましょうか。

佐々木:二宮先生の……

細谷:ちょっと休憩します? ちょっとお茶飲んで。

佐々木:ええ。

(休憩)

三上:じゃあ、お話を続けておうかがいします。東北大に入られてから、美術をどういうふうに?

佐々木:はい、まずね、教養部ですけど、教養部、仙台の空襲で旧制二高が燃えちゃってるんですよね。だから教養部の行くところがなくてね、私は1年目、今の、何だ、そこ来る途中の、何だっけ、何高だっけ、そこに旧女子、女専ですか、があった。その旧女専の建物を教養部に、経済と法学部だったですね、(それら)がそこに。だから1年のときはそこに通ったんですよ。向山高校。あの脇のまっすぐ上がっていく階段は当時から変わりないです。それね、北仙台から通うの大変ですよ。電車で来てね、で、下の橋の向こうで片平丁あたりで降りて歩いて、それであの坂、川沿いの坂をね、旧女専の生徒もそこを上がって足が太くなったんだそうです。だからあの坂を大根坂と言う(笑)。そこでね、大学に来て、実はまた美術部を作ったんですよ、呼びかけて。そしたらね、それを二宮先生が高校になって音楽・美術が選択制になって、生徒が、それまでは全員に教えていたでしょう。それがほんの希望者だけに(減った)。それで授業数が少なくなったので講師格下げを飲んでしまったんだよね。抵抗してやる先生はやってた。でも飲んでしまって、それじゃ給料が足りないから、仙台で研究所を開きたいんだけど参加してくれないかって。喜んでということで、どこかの会社の会議室か何か。一番町。

細谷:一番町の会社のあれでしたよね。書いてありましたよね。拝見しました、はい。

佐々木:そこでね、最初のときは先生1人、生徒1人、モデル1人。ふふふ。次のとき、上田くんと、上田くんといっても1年上なんですけど、上田朗さんというのと横山幸雄というのが2人。これは理学部だったんですけど、理学部では1年上ですけどね。

細谷:それは研究所のほうと、先ほどおっしゃっていた東北大で作った美術部は?

佐々木:東北大で作った美術部はただ呼びかけただけで。展覧会というのは1年にいっぺん、合同でやりましたけどね。

細谷:研究所と?

佐々木:各学部の、一緒に。

細谷:ああ、大学でですね。

佐々木:ええ、片平の講堂を使って展覧会をやりました。

細谷:それは研究所とは別で、大学でということですか?

佐々木:ええ。それがね、二宮先生が作ったのが仙台美術研究所というんですよ。今もその名前の研究所がありますけど、その前に二宮先生がやって。それで、けっこうあっちこっち最後まで借りてやったんですけどね。あの、大学の医学部の中庭みたいなところにあった建物でやったこともあるし、あっちこっち移転しましたけど。

三上:大学のほうの今も続いている東北大美術部というのは佐々木さんたちとは関係ない?

佐々木:(無関係)だと思いますよ、(東北大美術部というのが今も)あるとすれば。

細谷:関係ない?

佐々木:いやいや、全然(関係ない)。つながりがない。だいたいもうね、経済は……。いや、あの、学校行ってないですよ、うん。ふふふ。ほとんど外であれですね、美術家と一緒になって飲んだりしてました(笑)。学校行ってないけど、当時ね、きっちりとったね、ノートをガリ版にして売ってたんですよ。

細谷:なるほど(笑)

佐々木:そういうのがあったんです。それからほら、本出してる先生は本やってるわけですから。

細谷:本読めばいいわけですね。

佐々木:本読んで、今どのあたりって、そこだけ。何もわからないですよ、経済。いちばんつまらないのは簿記とかね、貸方、借方だのね。こんなの学問かいってことでね(笑)

三上:上田さんと横山さんというのが二宮さんの研究所でお会いになったんですか?

佐々木:そもそもそうです。本当は二中で一緒だったんだけど、1学年上だった。で、美術部には参加しなかった。

三上:でも絵は。

佐々木:穂積さんと一緒に。この間ね、突然穂積さんから電話がかかってきてね、ちょっとしばらく10年くらいほとんど連絡なかったんですけど。彼1年上だから91(歳)ですよ。なんだか声も全然変わりなかったけど。だから、なんかそのとき、展覧会、大学の、1年目はそこの向山を借りて、2年になったら西多賀の旧幼年学校跡、そこに理学部と経済と法学部と行ったんですね。それで、そこでも美術部を作って(笑)、そこに来たのが二宮さんの研究所に。だから大学生がいっぱいになったですよ(笑)

三上:研究所はどういう雰囲気でやってたんですか?

佐々木:二宮さんの研究所は、まあ、デッサン、デッサン、デッサンですよね。それからおそらくね、受験も、おそらく(佐藤)一郎さんなんかが出るあたりはけっこう石膏像なんかもだいぶ揃ったようですし。

三上:美大、芸大受験の?

佐々木:うん。受験のをやってたんじゃないかと思いますね。だから(佐藤)一郎さんはむしろあれか、そこで……一郎さんの奥さんはとんでもない美人ですけど、あれは、そう、高校のね、研究会みたいなの、美術研究会みたいなの、私がいるあたりで作ったんですよね。横の電気屋でして。一高の1人が、何て言ったっけな、絵はそんなに上手くないけどまとめ方の上手い人で、それが中心になって研究会みたいなことをやってましたけどね。まあ、石膏デッサンはわかりましたけどね。何か物を面に捉えるとか、それから3点を見て面を考えるとか、何か置くと、この3つで面の向きがどこから見てるかというのが決まるわけだ、見た位置というのはね。そういうようなこととかね。

三上:研究所の頃のあたりから、エスプリ・ヌウボオということがあって。

佐々木:ええ、エスプリ・ヌウボオというのは、私が大学2年でね、2年の1学期というか、前期が終わって試験が始まったときに、西多賀まで行かなきゃならなかったんだけど、電車で長町まで行って乗り換えてね。長町まで行って、長町から……秋保電車があったときです。秋保電車で行って1つ2つが西多賀で降りて、坂登って学校行くんですけど、えらい大変なんですよ。それは、北仙台から最初に乗った電車を降りるときに、ちょっともう具合悪くなってね、家までようやっと歩いて帰ってダウンしたんですよ。もうね、過労ですね。夜、やっぱり勉強なんかしたりして。

三上:上田さん、横山さんが先にエスプリに?

佐々木:ええ、入ってたんです。それで私が休んでる間にエスプリ・ヌウボオというのができた。それは宮城輝夫さんが白石から仙台市に来たんですね、そのあたりで。でね、東北劇場というのは、白石の人がつくっていたんですね。社長というのが白石の人で、何か他の事業もやってたと思うんですけど、あそこに劇場をつくり、白石にも映画館つくってたんですね。

細谷:その看板を穂積さんとお描きになってた東北劇場自体はどこにあったんですか?

佐々木:ええとね、今でいうと、あそこ、公済病院?

三上:公済病院ですかね。晩翠通り、細横。

佐々木:細横なんていって広い通りですけど(笑)、そこの向かい側。今、駐車場か何かになってますけど、あのあたりにあったんですよ。だからね、大学の片平丁の校舎とはすぐで。だからまず映画館に行って、昼に食堂行って飯を食って、大学の食堂で飲食して、掲示板を見て帰ってくる。授業はまったく行かない(笑)

三上:奥様となる河合あゆみさんとの出会いは?

佐々木:それはもうエスプリ・ヌウボオですね。何でしょうね。まあ、本当に、運命ですかね(笑)。おたがいに齢1つしか違わないでしょう。戦争と戦後の体験がまさに同じなのね。ここのね、3年くらいっていうのがものすごく、他の人と違う何かをそのとき植え込まれたといか、体験してる。それがね、どっかで結びつくんですよ。何か困難が起きたときに結びつく。そして何か行き先を決める。そういうことにつながっていたと思いますね。

三上:出会われたのはエスプリ・ヌウボオ?

佐々木:それでね、やっぱりね、絵には惹かれるものがあった、おたがいに。そういうとこがあった。だから、まあ、この本当にエスプリ・ヌウボオ、宮城さんが来なければできなかったろうし、我々はエスプリ・ヌウボオで大したことしないというのはありましたけどね、ありましたけど、一人ひとりは何もまったくやらない。2人でやってたようなものですね、エスプリ・ヌウボオを。宮城さんとはちょっとね。つまりね、絵描きが集まって理屈を言ってるの、いろんなことをね。何でも金がかかってるでしょう。どこかからそれを、寄付とか広告とかいただいてくるわけよ。それをまとめてちゃんと、何とかできる順番にちゃんと支払いをしていかないと成り立たない。それはね、それをこう、まとめてできる人がいなかった。理屈をいう人はいたけれども。そんなことで、まあ、私が……。みんなね、あとほら、若い人がみんな東京行っちゃった。上田さんは福島に行ったんですよね。理学部を出たんですけど、理学部、地質古生物なんですけど、これもね、化石を山行って掘ってね、いろいろ見つけて楽しんでる趣味みたいなものなんですよね。仕事といったら、石油掘り当てるか、そういう会社に入るかね、あとは御用地質検査官というか。

三上:役所の仕事の?

佐々木:そう。「ここは大丈夫です」という地質の判定を、「ここも大丈夫です」と、そういうでたらめをやる仕事しかないんですよね。「それ、だめだ、ここ」なんて言ったら、ほとんど何もできないですよ、日本の場合(笑)

細谷:そうですね(笑)

三上:宮城さんは白石の出身で、エスプリ・ヌウボオのメンバーを見ると仙台グループと白石グループみたいなかたちに?

佐々木:ありましたね。白石の人たちはとてもいい人で、宮城さんが向こうにいたときからだいたい宮城さんより年上なくらいの、何だ、あそこの先生もやってた、あの生活文化大の先生もやってた……

三上:吉見さん。

佐々木:そう、吉見庄助さん。みんなもうすごい齢なんだけど、庄助さんは「ショッケちゃん」って言うんだよね。白石ではショッケちゃんと言ってた。吉見さん、そう、で、宮城さんと、あと鉄道に勤めてる人とかね、若い我々よりちょっと上くらいの人が3人くらいいたんですよ。その人たちと、若手では私、横山幸雄、上田朗、この3人はずっとその研究所に、うん、顔を出すというかな、むしろ最初のうちですけどね。本格的になって(佐藤)一郎さんなんかが入ってきてたあたりっていうのはかなりいい状態でやってたんだと思いますけどね。学校でもやるはやったんだろうけど、でも先生はそんなに行かないからね。だから主に研究所のほうで教わったんじゃないかと思いますけどね。私がいたときはね、壊して今なくなっちゃいましたけど、正面の入口の上が3階になってたんですよ。3階になって、その3階の部屋を部室(にして)、二宮先生と私が使ってた。そこに石膏を据えて、鍵が2つあって、先生が1つ持って、私が1つ持ってね。いつ行っても閉まってれば開ける、出るときは閉めるというあれで。

三上:研究所のほうですね?

佐々木:ええ。美術……3階、その3階の上からかな。上にはどうやって行けたんだろうな。屋上に上がれたんでしたよね。

細谷:それは一番町のところですか?

佐々木:いやいや。

細谷:東北大ですか?

佐々木:そうじゃなくて、二高。二高の校舎。

細谷:二高の校舎を研究所として?

佐々木:いや、部室。それと先生の準備や何か、けっこうね、暇な時間に図面引いたりね、勉強しないと教えられない。大変みたいでしたよ。ああいう役に立つ図式の書き方とかね、そういうのをみんなに教えた時代があったんですね。

三上:エスプリ・ヌウボオの話をまたもうちょっとお聞きしたいんですけど、例会をやっていて。

佐々木:そうそう。初めの頃はそうでしたね。小野さんという人が、小野正彦さんという人が看板屋をやっていてね、それで何だろう、町真ん中の名掛丁の1本裏通りくらいの元寺小路とか何とかいったところがあって、家具屋さんや何かがいっぱいあったところ。だいたい焼けて何もないですから(笑)

細谷:そうですよね、その頃まだ……

佐々木:ええ。バラックです、もう。柱、骨組みもできて屋根もかかってるんですけど、畳は入ってないで、筵で、板の上に筵敷いて。町の真ん中なもんだからよくそこへ、例会の会場にしてね、そこで新しい絵をできたのを持って行ってみんなでなんとかかんとか。

三上:総合批評みたいな感じ?

佐々木:ええ、そういうことをやったりね、年上の人が、経験者の人がいろいろ指導的な発言をしたり、何かそういうことをやってたようですね。

三上:新聞を、当時のを見ると、佐藤英哉(さとう・ひでや)さん? 東北放送か何かにいらっしゃった。

佐々木:ああ、佐藤英哉さん。「えいさい」さんと言ってました、うん。

三上:この方はあちこちに文章を書かれているじゃないですか。

佐々木:そうそうそう。そのね、佐藤英哉さんというのは詩人なんですよ。まあ、何でもよく知ってる人でした。東北放送のけっこうプロデューサーか何か、そういう上のほうになってたみたいですよ。いやあ、まずいろんなことを知ってる人でね。兵隊に行ってるんですよ。兵隊のときね、岡本太郎と一緒だったんだって。太郎さんのほうが上官だったらしいけど、ふふふ。ポン友なんだって。

三上:海外の情報とかそういうことをすごくご存知で。

佐々木:うん。シュール系のことを殊更喜んでね。私の大学、教養部で1年目にだいたいつまずいたんですね。休学しちゃって、2年休学しましたけど、その間にエスプリ・ヌウボオができて、私が復学したとき、そのあたり……まあ、東北大の展覧会に私が描いた絵を並べて、それを見た誰かが目をつけて、エスプリ・ヌウボオに声かけて。ええと、そうです。昆野。

細谷:昆野勝(こんの・まさる)?

佐々木:うん、昆野勝か。本当は今野、法勝と書いて「のりかつ」というのが、昆虫の昆で、カツだけど昆野勝(まさる)で通しましたけど。あの人もほら、東京行っちゃった。そういうことで若手がまあ……横山も千葉ですけど行っちゃって、けっこうね、サトウ画廊の馬場彬さんなんかと千葉の家がすぐ傍でね、それでサトウ画廊の仲間に一緒になってね、いろいろ。口が立つ人で理屈はよく言うんだけど、絵のほうがさ、伴わない(笑)。すぐ馬脚をあらわす。で、叩かれて負けちゃったんだな。力がなくて。自分もそれを悟ってやめちゃったんだ、ふふふ。

三上:エスプリ・ヌウボオもいろんな方がいらっしゃって、入れ替えというか出入りがありますよね?

佐々木:ありました。何だろう、普通のスケッチじゃなければ何でもいいという。何でもいい。だから力も何もあったもんじゃないというね(笑)

細谷:じゃあ、先ほどの佐藤英哉さんは詩を書かれた? 絵も描かれたんですか?

佐々木:いや、絵は見たことがないです。

細谷:じゃあ本当にいろんな。

佐々木:ええ。だから途中からはぷっつり来なくなったけど。「えいさい」さんに頼まれてね、あのとき、そう、東北放送10周年で記念誌の表紙を描いたのが見つかったんですよ。それが私がエスプリ・ヌウボオのあたりでやってた仕事。それでね、私が復学して、上田朗さん……あれ、どれだ? これかな。これだな。(絵を探して)これも焼け残りです。この絵。これ、個展をやったんですよね。三越の向かい側に小さい飲屋街があって、そこでグレースカノとかいう、2階でコーヒー、カフェやってたところで、無料で個展を。カフェで個展だけど。それにね、私が出したらね、それが「えいさい」の目に留まってね、ものすごく喜ばれたね。これなんですけど。そのときの焼け残り。出さないものも入ってますけど、そのときの焼け残りです。それの中に美術館(秋保の杜 佐々木美術館&人形館)に持っていってある《足の裏貴婦人》(1956年)なんていうの、シュール系大好きなものだから大喜びされちゃってね。そしたら写真でやってた人が……

三上:小関四郎(こせき・しろう)さん?

佐々木:うん、小関さんがね、小関さんが全部スライドにフィルムで撮ってくれてね、映写会なんかやってくれた。こういうのがダッと大きくなるとすごいんだよね。

細谷:迫力がすごそうですね。

佐々木:ええ。(絵を見せながら)これはクロッキーです。

細谷:あゆみさんですね。

佐々木:教室、中高校生になって、大きいほうは2人で出てやったりしてましたけどね。このときもそうだ。全部並べたもんじゃないんですけど、そのときの出さなかったものも一緒に見つかったので入れていたんですよ。グレースカノの個展。

細谷:グレースカノ個展ですね、56年。

三上:この頃のエスプリ・ヌウボオのパンフを見ると、映画を作るというのがあって。

佐々木:だからもうね、そんなことできるはずもないのに、夢ばっかり広がって(笑)

三上:監督・佐藤英哉なんですよ。

佐々木:ははははは。

細谷:東北放送との関係なのかな。

三上:脚本が宮城さんと海老原省象(えびはら・しょうぞう)さんで、プロデューサーが布施悌二郎。

佐々木:ははははは。

三上:音楽・佐々木正芳、上田朗。

佐々木:何もやらなかったですよ。

三上:これは結局プランで終わったんですね?

佐々木:うん。私がギターをやったというのはね、ダウンしたからなんですよ。

細谷:そのきっかけで?

佐々木:ダウンして、神経系なんですね。自律神経失調症。それで精神科の先生に、何かもうすっごい不安発作で、このまま死ぬんじゃないかみたいな、あまり食えはしないし、体力がなくなって食えないし。「ともかく歩きなさい」と。「ぶっ倒れても死なないから歩きなさい」。そのときちょうど兄貴が東北電力に入って、それでしみじみと小学校の卒業資格しかないことをあれして、通信で慶應の経済を卒業しますけど、それで大学卒になりますけどね。私が倒れたあたり、倒れて……。アルバイトでけっこうね、看板描いた、何だっけな、3500円かな。3500円、1カ月ね。ただね、次の仕事を探さなくていいんだよね。やってることは他人の絵の具ででっかい絵を思いっきり好きなように描ける。それで勘定して、枚数と給料とを割ってみたら1枚90円。はははははは。でっかい看板も小っちゃいのもあるけどね。それらを合わせて90円。はあ、と思ったけど(笑)

細谷:先ほどのエスプリ・ヌウボオの例会というか、批評しあうんですかね。それはやっぱり持ち寄って絵を見せ合ってということですか?

佐々木:うーん、最初何回かそれをやった程度だと思いますよ(笑)

細谷:宮城さんとかだとシュールの影響がかなりあるのかなと思って、シュルレアリスムの話とかにもなったのかなとちょっと思ったんですけど。

佐々木:それはシュールの話になりますよね。それとね、あと宮城さんはあれだ、何だ、麻薬。これの話を好んでして、何か自分もやるような、本当か嘘だか知らないけど。いやね、何だかで「びびってたよ」って話を誰だかから聞いたけど、本人はやってるはずないんだよね。それはけっこういろいろね、あそこの、生活文化大の先生になってとってもよかったんだけどさ、宮城さんさ。女の子にもててさ。ははははは。ともかくジェントルマンだからさ、常にもうピチッと支度してお出かけしてね。映画の看板描いてるときにね、まだ石巻に……じゃないや。まだ白石にいたあたりだけど、たまに来ることがあったんですよ。和服で、着物きて。で、映画館の2階か何かに泊まってね、2、3日いて帰るようなときがあってね。映画のスクリーンの裏の奥、裏ではないんですけど、裏のあたりの事務所とそれから作業場があって、その作業場のほうでこっちは描いて、映画は今どこやってるか、みんなバンバン聞こえているんですよ。ああ、ここだ!って面白いところだと見てね(笑)

三上:『ニュー・シネマ・パラダイス』ですね。

佐々木:西部劇のちょうどいいとことかさ(笑)

細谷:エスプリ・ヌウボオの例会に出ながら、佐々木さんご自身がシュールに少し惹かれるみたいなところはどうでしたか?

佐々木:私、体質的におそらくね、シュール系のものはもっていたと思いますね。だからこんなのを描いて。

三上:先ほど見せてくれたものですね。

佐々木:で、ダリはまあ、好きだったしね。うん。

三上:同じ時期に自由美術(家協会)に出しはじめますよね。それはどうして自由美術だったのか?

佐々木:いや、そのあたりね、私が出すあたり、出したとき、最初に出したのは1955年なんですけどね。54(年)となってますけど55年です。家内のほうが54(年)から出してる。そのあたりね、自由美術、ほとんどの人がね、やってた。描いてる人のね。5、6人、みんなで小野さんのところへ集めて荷造りして。ふふふ。

三上:小野正彦さん?

佐々木:ええ。それで出してたんですよ。1955年もね、そういうかたちで出した。5人か6人出した。宮城さんも出したんですけど、入ったのは私と家内と2人だけだった。宮城さんも落とされたんですよ。前の年は入ってるんですけどね。それで落とされた人たちはみんなやめた。あとは出品してない。

三上:吉見さんはけっこう自由美術では力をもっていたんじゃないですか?

佐々木:吉見さんは、あんまりそういう会には見えなかったですね。それとね、そのあたりで吉見さんは肺を患って、キョウサイ病院か、東北大の向かいの。

三上:厚生病院。

佐々木:うちの家内もあそこで手術したんですけど、厚生病院に結核のほうで入院してたのね。それで何だか薬で耳が聞こえなくなったとかね、言ってましたけど。そこにお見舞い行ったことがありましたよ。

三上:吉見さんは戦前からの自由美術の難波田龍起とかと一緒に活動されていた方で?

佐々木:ごく親しい間柄のようだった。その関係があって自由美術だったんじゃないかと思うんですけど、でもあのあたり、いちばん活躍してて、いちばん『美術手帖』なんかに常に取り扱われているのはほとんど自由美術だったですよね。麻生三郎とかね。もう『美術手帖』なんか見ていると、やっぱり自由美術がいちばんいいなということで、私は1年遅れて55年から出したんですよね。それから次の年、うん、次の年はね……いや、最初はね、50号なんかを5、6枚送ったんですけど、いちばん小っちゃいのが12号か。12号が入選してね。家内は蝋画を送ったんだけど、それも入選して。2人だけだった。あとみんな落とされて。それで2人だけで見に行ったわけですよ。

三上:その時代、僕なんかは知らないですけど、いろいろ美術雑誌を見ると、鶴岡政男とか小山田二郎とか、ひじょうに個性的な人たちが自由美術にはいたという。

佐々木:そうなんです。いっぱいいたんですよね。それが分裂しちゃうんだけど。

細谷:やっぱりその頃の自由美術に佐々木さん自身も惹かれたところがあったと?

佐々木:そうですね。出すならここだ、と。そうですね、そのメンバー、みんないいですよ。

細谷:自由美術のなかで関心のあった作家とか、当時、佐々木さんの中で夢中になった、尊敬したという方がもしいらっしゃったら。

佐々木:いちばん尊敬したのは鶴岡(政男)さんだね。

細谷:鶴岡さんですか。

佐々木:はい。まあ、奇行においていろいろ言われてるけど、鶴岡さんというのはすごかったですね。いっぺんだけ絵を見てもらったことがあるのね。それはもう何年か出品して、もちろん会員になってからのことですが、ええと、日本画廊で、誰だったかな、相手の名前を今忘れたったけど、二人展を組んでくれたんですね。その会場に行ってたら、鶴岡さんがやって来たんですよ。芸術が歩いてきたっていうようなね、すごいジャラジャラしたのをつけててね(笑)。鎖だの何だのね(笑)。あ、芸術が来た!って。それで話してるんだ。俺はもう帰りの汽車が決まってて時間がないんだけど、先生、私の絵のことを何も言わないから、「先生、何か一言」って言ったわけ。そしたら「何だよ、佐々木さんよ。お前、絵で批評してるじゃないか。人の言うことなんか聞くことない」なんてね。「だけどな、宗教画にしたって、その宗教を超えたものしか残ってないんだぞ」と、それだけ言った。

三上:昨日、秋保の杜の美術館にお邪魔して、井上長三郎さんの絵が何点かありましたけれども。

佐々木:井上さんはやっぱり、その分裂しちゃうから、あそこでね。分裂の原因はほぼ井上さんを嫌った人たちなんだけどね、ふふふ。どこかで親分気質がある。井上さんに私は認められたんですよね。あのね、55年に2人だけ入選して、2人で東京の叔母のところへ泊まってあれしたんだけど、まあ、それは新婚旅行だった。ははははは。結婚式はしてないんですよ。つまらないところに金は使わないと。そんなことには使わないと。ただしっかり決めて結婚しましたけどね。それは二十何年だったかな。両方、家にちゃんと言ってね。兄貴が車が使えるようになってたかな。何かこっちの自分の絵とか布団とかね。家内はタンス、茶ダンス、ちゃぶ台とミシンを持って来た。家内の実家がわりと近かったんですよ。三百人町。親父さんが鍛冶屋でね、農具鍛冶。それもね、実にやっぱり独創的なんだね。三百人町ということは七郷とか六郷という農村をひかえてて、みんな馬車で市場に野菜を積んでくる帰りに寄って話して、いろんなあれですね、代掻きとかね、みんな牛馬に引かせるくらいの農具、それをそこの土地に、土にくっつかないでよく剥がれるとか掘り起こせるとか、そういうのを按配してやってて、本当に評判がよかった。それで、いちばんはね、そのエスプリ・ヌウボオで集まるもそうだし、二宮先生の仙台美術研究所もそうだ、上田朗さんと仲良くなった。上田さんからね、上田朗さんもね、理学部なんですけど、地質古生物で、これも就職先ってないんですよ。東京のね、コネがあって、印刷屋に勤めたんですね。印刷屋に勤めて、何できるあれでもないじゃないですか。何かノイローゼみたいになってね、半分ね、おかしくなって帰ってきて。それで大学、教育学部に入り直して美術の先生になっていくんですけど。帰ってきたときね、お父さんはお医者さんなんですね。お医者さんで、ええと、何病院だっけな。公的な、専売公社の病院長をやってた。内科の先生。耕作先生。

三上:絵も描かれるんですよね。

佐々木:うん、上手いんだよ、とってもね。油絵の仙台の草分けに近い存在だったのね。だから東北展のあれで、菅野廉さんとか、あと誰だっけな、面白い人たちがいたんだけど、そういう人たちも一目置くような存在だったね。

三上:佐々木さんが編集・発行されていた『凍土』(1977年12月から1982年6月まで不定期に6号まで発刊)という雑誌に、毎号「仙台画壇史」を連載されていた……

佐々木:そう。本当にその先のことから書き起こしてくださってね。あれはね、あれですよ、上田さんのところでお父さんがね、アトリエをね、自分も描くし、息子もそんなわけでエスプリ・ヌウボオでやりだしてたあれで、アトリエを建ててくれた。私は長町の、兄貴が電力でヘリコプターを導入したんですね。その導入にあたって社員から希望者を募集したら、飛行機の操縦じゃなくて整備のほうだった。それでほら、手を挙げて、それで大活躍するわけですよ。シコルスキー社のでっかいヘリコプターが来たんですけど、それを学びにね、整備2人、それからパイロット2人、4人派遣されて。半年以上……。アトリエでね、私が大学の片平の本部のほうへ通えるようになって、長町からほら、通うのが大変で、アトリエにね、一緒に入らねえかというふうに、下宿することになったんですよ。それは上田さんの計らいでもあって、朗さんもそんなあれで半分心細くなってた時期だからそれもあったと思いますが。で、そこへいたので大きい絵が描けるようになった(笑)。長町の社宅が、そのヘリポートの社宅に入ってたんですけど、そこで3畳間1つ。6畳と4畳半と、あとは風呂場と台所しかないあれで、3畳1つ。で、兄貴が嫁さんをもらって、それが私と同じ齢で、それで子どもができて、なんてね。こっちも出て行きたい(笑)。ちょうどそれでお言葉に甘えて朗さんのとこへ行ってさ。それでね、すぐに押入れを利用してね、押入れの下に朗さんのベッドがあるんだよね。俺は布団を床に敷いて最初はやったんだけど、押入れから張り出して、こう上っていって上をベッドに使えるように作って、古材を買ってきて作ってね。するとその下にベッドが入って、アトリエも広く使えると。そういうことをすぐやるんですよ、ふふふ。で、ほぼ何でもできるの。

三上:自由美術に出されてた作品はそこで?

佐々木:そこでね、今もときどき会場に出ますけど、《機構》(1956年)という作品ですね。あれを描いたんですよ。アトリエだから描けた。あれは50号と30号をこうやるとちょうどつながるんですよね。50号のほうの、短いほうとね。80号の短いのと50号の長いところがぴったり一緒になるので。

細谷:先ほどの鶴岡さんのところなんですけど、佐々木さん、すごいとおっしゃっていたのが、もうちょっとすごさというのを佐々木さんの言葉で聞きたいなと思って。

佐々木:すごさって、何だろうね。やっぱり、絵が……行動のほうはろくに知らないで、噂話でしか知らないんですけど。いろんな現場に一緒にいたりしてたわけじゃないんで。だから作品だけで見てて、やっぱり発想といいね、それから次々と展開していく力といいね、ひじょうに優れていると思ったんですね。系統もほら、シュール系で、ダリ系ではないと(笑)。ダリ系はね、やったってダリに敵う奴はいないんだから、あれ1人でいいんですよ。そこのバリエーションというかな。自分のものにしたシュルレアリスムというかな。しかもやっぱり、我々ね、西欧人と違いますよ。本当に違うなと思うんですよね。ポーランドに行ったことでね、あのとき1カ月一緒にいたんですけど、作ってきたものにしろ何にしろね。同じことをやってたら絶対敵いやしないなというのがありますね。彼らにないものを、日本人はやっぱり持ってる部分があると。

細谷:逆にですね。

佐々木:彼らと違うかたちでね。やっぱりそれをとことんしてるのは北斎でしょうね。だからピカソも北斎に、本当に感服してるわけでね。北斎のように描きたいと。

細谷:今日はこの自由美術あたりまでで? 他は質問、大丈夫ですか?

三上:自由美術で、井上長三郎さんってずっと戦争というものを引きずっていらっしゃるじゃないですか。

佐々木:ええ、ええ。

三上:これからも佐々木さんのお話を聞きたいんですけれども、やっぱり戦争というものは佐々木さんの創作の中で引きずって、重い……?

佐々木:やっぱり全部それに引っかかってると思いますね、うん。あの戦争体験ね。戦争という、何だ、何だ。あれをやるのが人間でもあるしね。やってしまうのがね。

三上:ある意味、自由美術というグループはそこをずっとこだわり続けている人たちが多くて……

佐々木:そうですね。多分にあれはもってますよね。今、この頃の人はほとんど知らないけどね。私も出ていかないものだからわかりませんけれども。

三上:今日の時代でおうかがいしておきたかったのは、同じ時期ってアンフォルメルという運動があって、56年ですかね、タピエが来てという。そのへんは、たとえば仙台で活動していてエスプリ・ヌウボオの人たち、シュールに関心のある人たちだったんでしょうけども、仙台の絵を描いている人たちにとってアンフォルメルの影響はあったんでしょうか?

佐々木:あるんじゃないのかな。私は非定形のようなもの、ひじょうに異質なものを、平気で描けるようになったのもあれのおかげじゃないかと思うけどね(笑)。ああいうものがあるんですよ、自分の中にね。だからずいぶん描いているんですよね。

細谷:だいぶ時間が経ってしまって、すいません、長々。まだまだ半分以上残ってしまったので、またもしよければ、来月にでもちょっと調整してお邪魔させていただければと思っております。

佐々木:はい、はい。

細谷:まだ……

三上:4ページのうち2ページ。半分もいってない(笑)

細谷:(笑)。でもだいぶこの間のことを途中途中で佐々木さんお話しくださったので、ちょっとまた書き起こしてみますので。

佐々木:井上さんにはね、私は認められていたんですよ。

細谷:長三郎さんですね。

佐々木:ええ。井上さんはやっぱりボス。うん。ボスでね(笑)。僕の役割。これいなくなったらね、これもまたつまんないだよね。いなくなってみたらね、本当に。年取ってきて横暴になってきたようなところがあったりしてね、誰が鈴つけるんだって話になって、周りでちょっと困ったような話になってた時期があったんですけど、そうこうしてるうちにやっぱり亡くなってしまったけど。亡くなっていなくなったら、これもね。いや本当に……

三上:戦前、戦中、戦後と、自由美術に集まった方々の動きっていろんな方向にみなさん行ってしまうので。

佐々木:まあ、エスプリ・ヌウボオは、ここでは2人でやってたのかな。ははは。

細谷:奥様とですね。

佐々木:ええ。私ちょっと咳しますけどね、これは風邪ではなくて、年寄りの気管支にちょっとしたあれが残ってて。

細谷:今日はここらへんにして。

三上:いっぱい喋っていただいたので。

(了)