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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

佐々木正芳 オーラル・ヒストリー 第2回

2021年8月22日

宮城県・仙台市のアトリエにて

インタヴュアー:三上満良、半田滋男、細谷修平

書き起こし:五所純子

公開日:2024年5月25日

インタビュー風景の写真
佐々木正芳(ささき・まさよし 1931年〜2024年)
美術家
1931年、神奈川県横須賀市に生まれる。敗戦後に両親の故郷石巻市に移住、1946年以降は仙台市に暮らす。本オーラル・ヒストリーの第2回では、ポーランド招聘の話や「チェコ侵攻」など社会問題に関わる作品について、さらには佐々木が用いたエアブラシの技法が語られている。また、敗戦後の仙台における美術の動向についても多様に語られたほか、造形を基軸とした幼稚園の経営経験を通して、美術教育についても言及がなされた。インタビュー全体を通して佐々木氏自身の反戦思想が展開され、敗戦後における地域の美術家の姿が浮かび上がる。本インタビューは、JSPS科研費 JP21H00499「デジタルアーカイブ時代における1960-70年代の芸術表現の拡張に関する研究(研究代表:松枝到)」との共同で実施され、インタビュアーとして、元・宮城県美術館副館長の三上満良氏、和光大学教授の半田滋男氏にご共同いただいた。佐々木氏は2024年3月29日に逝去したが、本インタビューは生前に自身が校正を施している。

佐々木:なかなかね、みんな忙しくなって、私は何もできない人で、車もね、まったくやらないで、最初っから運転手付きで。

三上:じゃあ免許を取られたことはない? 車は?

佐々木:ええ、持ってないです。だから身分証明するときね、本当に面倒臭いですよね、あれないと。

三上:たしかに。

佐々木:それで健康保険証を持って。河北新報は載り始めて2回。

三上:何回連載されるんですか、あれは?

佐々木:6回だそうです。(「談[かたる] 人生 仕事/佐々木正芳さん」『河北新報』2021年8月11、18、25日、9月1、8、15日)

細谷:正芳さんの連載?

佐々木:そうです。さっきまではね、蝉の声がすごくてね、これじゃあ蝉の声のほうが大きく録音されてしまいそうだ。

細谷:なんとか大丈夫だと思います。

佐々木:これがピタッと止むときもあるんですよね。夕方とやっぱり朝方のほうが多いみたいで。

細谷:喉が渇いたらお茶を。

佐々木:はい。

三上:前回、自由美術(家協会)あたりまでお聞きして。質問リストの15番あたりまで。

佐々木:前回、何も言わなかったなというのがあるんです。横須賀にまつわる、幼少期のことですけどね、横須賀って1つ2つ駅上がると鎌倉ですから。

細谷:横須賀線。

佐々木:ええ、横須賀線ね。逗子、鎌倉と。月の15日に必ずね、鎌倉の八幡さん(鶴岡八幡宮)に行ってたんですよ。それ、船乗りのあれなんですね、安全祈願。

細谷:戦時中ですか?

佐々木:戦時中です。うん。毎月必ずね、15日行くんでした。

三上:海軍のみなさんが行くんですか?

佐々木:船に乗ってる人が多いと思いますけどね、そうじゃなくても観光地だからいつも人はいますけどね。それであとは田舎から叔父叔母だの、都会って知らないものだからよく来るんですよね。そうすると鎌倉をよく案内したものでした。それで鎌倉に行くとね、階段上がって八幡さんですよね、ずっと。その下の広場の所に、なんだ、宝物館みたいなのがあって、そこに入るといろんな彫刻があったりね、彫刻があったりして、そこは必ず入るんですけど、お客さんが来たときには殊にね。怖いんですよ、彫刻が。それで本当に鎌倉期の運慶、快慶、盛んになっていく時期でしょうから、けっこうたくさんあるんですよね。それが煤けた真っ黒けな感じでね。目玉にガラスが入ってるじゃないですか。あの目が怖いんですね。怖いんだけど見たいの。だからね、怖さというのをね、ひとつの絵の要素、芸術の要素だと思って根づいたようなところがあるんですよね。

三上:その初めての体験が鎌倉の宝物館?

佐々木:そうそう。それでいっつもね、おふくろの袂に隠れて見てたのを記憶してるんですよ。それでも見たいっていう。ガラスが入って引き立ってるのが怖くて、やっぱりあそこがピントだよね。それでね、(東日本)大震災のあと、震災地の慰労のためか、博物館にずいぶんいろんなそういう所から、鎌倉じゃないけど、京都のほうのあれからね、展覧会してね。何回もありましたよね。それで見るとね、行ってみるとやっぱり、運慶なんですよね。それがお寺の中じゃないからぐるっと回って見れるんですよね。仏像だって何だって、背中のほうがこうなって(通常は)絶対入れないあれだけど。国宝の何だかが来た。この間来た、何だ、坐像。

細谷:半跏思惟像。

三上:中宮寺の。

佐々木:うん。これは見に行ったほうがいいだろうなと思って、そしたら足を組んで、足を出してるじゃないですか。それをぐるっと回って見てね、その足がね、指がこうみんな開いてるんですよ。こんなことね、できるはずもないけど、彫り師のね、その神経のなさ。欠点、大欠点を知っちゃってね(笑)。これは良し悪しだなと思った。女の人って殊にさ、だいたいくっついてますよ、足の指って(笑)。見られたもんじゃない。まあ、一般の客はそんなとこ気がつかないと思いますけど、私は見た瞬間に全部だめになった。ショックを受けました。神経のいってないところなんですよ。荒削りでババッとなってましたけど、足の指が5本揃ってなくちゃいけないってことであんなことやっちゃったんだろうなと思って。そういう変なつまらないことまで気がついて見たりしますけど。何かやっぱり絵の中の怖さというね。あとね、家で子どものときに見てた絵っていうのはね、掛軸の達磨しかないんです、家の中にね。これね、兄貴が戦争直後に、陸軍のもう航空士官学校を出て少尉になっていたんだけど、親父のアルバムをね、家で何もしてないとき、作ったんだね。何もないものだから、これが第58期って陸士の卒業アルバムなんですよ、自分の(笑)。それを後ろから使ってね、これみな兄貴がやったんですけど、親父が水兵さんから上がってくる、ずっとね、わかっててやったんだと思う。こういうところ、みんなね、兄貴の字なんですよ。これ、海南島攻略なんて、軍装すると将校だから日本刀持ってるんだよ。日本刀持って提げて歩くんですけど。それでね、これに最後のところで、これ、これがほら、私が。

三上:奈良へ。

佐々木:佐世保から横須賀に帰ってくる途中で奈良に寄ったんですね。(私が母の)お腹の中にいたんだという話を聞いた(笑)。それで、これ、あの、最初の負け戦の始まりですから。

三上:ミッドウェーですね。

佐々木:これが海軍でやってくれた葬儀の、大葬儀をやって。いちばん上の真ん中へんにあるんですけど、これは自分の横須賀の家でやったお葬式の。これは田舎の、つまり父の兄貴、その奥様か。これは母親の兄なんですよね。村で葬送をやったりね、いっぱいあったんですけど。これの中に……お正月に……。写真なんてね、写真機なんてよっぽどの人じゃないと持ってなかった時代ですから、本当に写真屋さんを呼んで撮る。どこだっけな。あ、これ。違う。もっと中のほうか。正月に家族で撮った写真があって。なんでないんだろう。ああ、これこれこれ。この達磨(笑)。この達磨ね、上手いと思ってたんですよ(笑)

細谷:これを小さいとき、ご覧になってたんですね?

佐々木:そうそうそう。

三上:(写真を見ながら)これがまさに正芳さんですね?

佐々木:そうです、そうです。

三上:「八紘一宇」と書いてある。

佐々木:そうなんですよ。八紘一宇なんですよ。もうその気になってるんだから、みんな。本当にみんなその気でやったんだよね。八紘一宇の大精神。それに乗せられてみんな本気にして。

三上:さっきの鎌倉の芸術の怖さというか、もっているオーラみたいなものは、そういう幼児体験から?

佐々木:そうですね。たぶんそうじゃないかなっていうね。何か怖さみたいなものをね、どこかで求めるような。

三上:それとずっと具象をやられているのは何か関係していますかね?

佐々木:ううん、いや、抽象をずいぶんやってるんですよ。白黒の、私の図録に入ってますけど。この頃はね、ずいぶん描いてるんですよ、他にも。(図録を見せながら)このあたりね。ずっと整理してこんなふうになって、それから今度こんなふうに。こういうのってね、まったく何も通じないんですよね、普通の人に。よっぽど絵を知ってるとかそういう人には、だから「今度のいいね」とか、そういうことがすぐわかるんだよね。ところがね、普通の人が見ると何も感じない(笑)。見慣れないんだろうけどね。ともかくね、日本人の家庭の中に絵を貼ってあるなんていう所はおそらくね、今なんて殊にみんな小っちゃくなって、それから壁はみんな硬くなって釘は打てないとかそうなってきてね、貼ってある家なんてほとんどないと思うんですよ。あってもポスター。で、美術館に入って見るという習慣というか文化が育ってないですよね。それをしみじみと思いますね。(自分で)美術館をやってみると殊に。あそこ(秋保の杜 佐々木美術館)にね、10台車が入ってくると、半分はUターンしてちょっと見て「何だ」って一言ね。半分はそのままUターンして帰る。3台くらいの人が降りてきて「ああ、有料なんだ」と言って帰る。ふふふ。「金かかるんだ」と言って帰るね。あとの2人くらいが中へ入って、中へ入った人はけっこう長く見て、そいでコーヒー飲んでお話ししていったり感想言ったりして帰る。そういうものの育ちがかなり問題ですね、日本の場合はね。ヨーロッパの町を歩くと、どこの町に行ったって、どんな小っちゃい村や何かでもありますよね。博物館的なものが。そのへんの、昔使ってた農機具が並んでたりね。

細谷:またその美術館のお話は宮城県美術館の話のところでお聞きしたいと思ってるんですけど、この間、自由美術家協会のことをお聞きして、その辺のことをもう少し。そもそもある種の公募団体の団体の存在意義みたいなものを正芳さんご自身はどういうふうにお考えになっていましたか?

佐々木:あのね、地方にいる者にとっては、あれ(公募団体)がやっぱりね、いいきっかけになって絵を続けて描くんですよね。だいたいそんなことで、そういう役割を果たしていると思いますね。で、ただ、自由美術なら自由美術に出すと、あと他は見ないというふうになるね。そうすると何かちょっと狭い所で「落ちた」「入った」で……。実は私も出品して、いろんな傾向のやつをわざと出すんですよ。そしてどれを採るか。つまりこっちも自由美術の判断基準みたいなものを様子見るわけですよ。せっかく送っても、これが自分でいいと思って送っても、それは入らないで、小っちゃいこういう傾向のもののほうがいいのかなって。あえて送ってね。そういうことを3回か5回、最初のうち、やってましたね。

細谷:地方で活動してる作家にとってはとにかく何かしらきっかけというか、絵を描き進めていくための。

佐々木:だいたいは自分の先生の所属している会に出すようになる。うん。入選すると多少、何ていうのかな、自尊心も周りからの目も上がってくると。それで会に染まって会に引っ張られていくようなところがあるんですよね。だからやっぱり注意しないといけないというのはあった。だから、やっぱり私だって年に1回、自由美術に出すことで絵を続けてこれたと思いますけどね。本当に幼稚園づくりと並行してるんですよ。幼稚園ってあったものじゃなくて、ゼロから始めた。

細谷:今日そのお話もぜひお聞きしたいんです。あと画廊ですよね。

半田:サトウ画廊さんで展覧会なさってますよね?

佐々木:サトウ画廊ですか? サトウ画廊……

半田:銀座にありました。

佐々木:サトウ画廊ではない。フマ……

半田:フマギャラリーでやっていらっしゃる?

佐々木:ええ。フマでやったんですけど、東京ではね、日本画廊。東京駅から歩いてすぐのいい所にあるんですけど、日本画廊ではいつでもやりたいと言ったらやってくれるようなくらいに扱われてました。だからあそこで呼びかけられて何回かやってますけど、私と家内の二人展も企画でやっていただいた。お金払ってやったことがないんですよ、日本画廊。それでね、日本画廊でやると、来るのは自由美術の人だけなんですよ(笑)。それで、だからこっちで東京でドーンと打ち出すときは日本画廊は使わないで。使っても来るのは自由美術の人だけで、他の会の人はほとんど来ないんですよ。それではね、ほぼ意味がないという。自由美術に出してるのと変わりないので。

三上:山下菊二は日本画廊で。鶴岡(政男)さんもやってたし。

佐々木:あそこでね、展覧会やって会って、そしてよくお話ししたりして得るところのあった人は、ええと、名前がすぐ出てこなくなった。何だっけな。ああ。

細谷:画集を見ましょうか?

佐々木:どこかにスクラップで置いてある。これか。ええとええと、ええと、有名な人です。このとき、これこれこれ、この人、この人。

三上:山下菊二。

佐々木:そうそう。この先生がね、私の絵が並んでるときに、山下菊二先生ね、来てくれてね。2時間も3時間もずっと終わるまでお話し聞いたり問いかけられたりしましたね。

細谷:そうですか。それは日本画廊でですか?

佐々木:ええ。日本画廊でかなり扱ってるんですよ。この人の絵は日本画廊から出てきた。だからいいものも何もずいぶんあります、あそこには。

半田:山下さんとどういうお話をなさったか覚えてますか?

佐々木:ええとね、山下さんと何話してたかな。梟を飼って、鳥の頭をいっぱい買ってきて食わせる話とか(笑)。絵の話ってね、あんま直接「ここはこうだ」なんてことは言わないで、だからどこかでこちらを飲み込んで認めてくれてる部分があったんだと思うんですね。だからそんな話は余計で、「ここはこうしたら?」なんてことは一切何も(言われなかった)。こちらが訊けば言うのかもしれないけど、何かそっちの話が面白くてずっと聞いてたような関係で(笑)。私はこの人の作品はすごいと思うんだけど、目玉が飛び出してるところとかこういうのはあまり好きじゃなかった。あるところでこの先生の真似はしないよという感じの作家でありましたね。

三上:この後、天皇制の問題、昭和天皇についてを山下さんは(テーマにした)。

佐々木:天皇ね。もう本当に天皇なんですけど(笑)、困ったものです。だからね、令和っていうの、何だよって思ったね。命令の令じゃないですか。これほど命令の、あの理不尽を思い出さない奴らがこんないい齢になって、総理大臣くらいやってる年代層でも全然……。何て解釈しましたっけ、令和を。とんでもない歌か何かと結びつけて、ええ?!という感じですよ。こっちは令といえば命令ですよ。命令くらい都合のいいものはないんですよ。無責任なんですよ、まさに。誰でも下に言うだけ。「上からだぞ。命令だぞ」。これで全部は行ったんですから、八紘一宇は。ははは。それがめちゃくちゃにしたんですよ。なんで令和なんだよ!と。だから私は令和なんて一切書かない。二〇……(というふうに西暦で書く)。本当にね、命令の令なんだよ。命令としか聞こえないんだよ、私なんか、令と言っただけで。

三上:フマギャラリーのほうだと平賀敬さんとかいらっしゃらなかったですかね?

佐々木:ええと、あの人、何て言ったっけ?

三上:平賀さん。岩手と所縁のある方で、パリにずっといらっしゃった方。

佐々木:ああ、平賀敬さんね。面白い人で、展覧会のときよく来てくれてね。

三上:フマギャラリーというとあの時代だと……

佐々木:あの人と、何だ、写真週刊誌の表紙……

三上:三尾公三さん。

佐々木:うん。三尾公三を売り出してるときだったの。私もほら、エアブラシを使って。

三上:その話を。

細谷:まさしくそこをお聞きしたいと思って。

佐々木:エアブラシはね、どっちが早いかっていうくらいなんですよ、うん。安井賞展にね、出したとき、私は最初っから安井賞の声がかかったのはいちばん最初は自由美術の推薦で出したんですけど、そのときはエアブラシの仕事で、それでね、「150号までいいぞ」と言われて、150もそれに出品するために描いたんですよ。

三上:ちょうど佐々木さんが始められる69年くらいがピークで、三尾公三さんとか森秀雄さんなんかからエアブラシが出てきて、エアブラシというのは当時の画壇というか美術界でどのように受け取られていたのか。

佐々木:私はそれね、こういういきさつなんですよ。これ、東京ビエンナーレですね、第9回。これを見に行ったんですよ。それがね、長男が2歳、で、もう年子が長女で1歳。これをね、2人で抱っこして(笑)、夜行列車ではない朝早くの列車で行って見て帰ってきたんですけど、これにね、これ、さんざん探したんですよ。たしかカラーで入ってたと思うんですけど、(図録には)カラーで入ってない。まあね、このあたりね、このくらいしか入ってないですよね(笑)

細谷:そうですね。その頃はそうですね。カラーが本当に少ない。

佐々木:あと白黒で見たってね、絵なんて何がわかるかよっていうようなもんなんですけど。ええとね。

三上:付箋してあるところですか?

佐々木:はいはい。そう。やっといて気がつかない(笑)。イギリスの作家なんですよ。イギリスの作家でね、これがカラーで入ってたかと思ったけど、なんの、まさにね、コロナを描いていたんですよ。これこれこれ。ただのワッパ。これが色がついてるとね、これもオレンジなんですけど。

三上:ピーター・セッジリー。

佐々木:ピーター・セッジリーという、こういうのが3点くらい並んでたんですよ。私はそのとき吹き付けの、ほら、これがオレンジでね、本当にコロナでしょう。

細谷:核分裂ですね、これ。

佐々木:《核分裂》となってますね、うん。それで、そのときはこれしか、カチャカチャってやってね。

三上:スプレー缶。

佐々木:私は幼稚園の用務員で(笑)、何でも直して、剥がれたところに色を塗るとか何でもやってたので、使ってたんですよ、あれを。

三上:スプレー。

佐々木:だからこれ見てすぐね、それではない、もっとホースであれする。のちにはそれを私使いますけど、エアブラシでやったんだと。こっちのほうしか知らないからこっちでやったんだと思うけど、両方から攻めてね、やるとね、これがまさにね、浮き上がっているようだしね、ひじょうにオレンジ色で、周りが何だったんだろうね。何だか覚えてないけど、周りがオレンジの、これが3点くらい並んでて、あ、何でもアリなんだ!と思ったんですよ。

三上:それがきっかけなんですね?

佐々木:ええ。それをね、使うと乾きがものすごく早いんですよ、ラッカーですから。ですからラッカーシンナーのあれで、3分もすると触れるんですから。それに惹かれたんですよ、何といっても。忙しいなかで描く。乾き待ちしないで済む。ちょっと待つと次のことができる。それでのめり込んでいったの。だからこれで気持ちの上で、あ、これも使えるんだ!と思ったのは……そのとき赤ん坊を抱っこして、重たいんだよね(笑)

細谷:ご長男ですね。これは技法を習得するのにけっこう、自分のなかで習得するのに時間はかかりましたか?

佐々木:やって、ああすればこうなるっていうのがすぐわかるから、面白いといえば面白いですよ。それで私が最初のあたりで使ったのは、そこに物を置いて、それにかけると、その物を取るとその跡が残るじゃないですか。それで、何だっけ、あの、キャンバス釘がそこの棚にもありますけどね、短いんですよ、このくらいの長さで、頭がでかくてね。キャンバス釘を並べて縫い目みたいなのを使う作品を描いたんですよ。あれ、どれだろう。どこだっけな。ちょっとね、いろいろ出てくるんですよ。それと、光線は直進するじゃないですか。エアで吹っ飛ばした絵の具も直進するから、こういう物を置いてガーッとやるとこれの影がふっと、これは行って、こっちは行かない。黒くしといて、こっちから光にあたる。(光に)相当するものを吹き付けていくとそちら側に影ができる。

三上:最初は型紙じゃなくて物を置いて?

佐々木:ええ。あの、型紙もそうですけど、あの、カチャカチャのスプレー缶のほうはそんなに気圧がないからちょっと置いたくらいで動かないですけどね、コンプレッサーで持ち上げると液が出てエアで吹っ飛ばすという仕掛けのやつだと、出す量をここで調整できるんですよね。それでしかもね、コンプレッサーから引いてきて、先を3つくらい、3本くらいに分ける仕掛けもあってね。

三上:ノズル。

佐々木:そうすると3色作っておいて、光の色と影の色とあと必要な色と、それを互い違いに使っていろんなことができてくる。

三上:それは独学で経験で?

佐々木:みな経験です、はい(笑)。それね、試しながらやるのもね、面白いといえば面白いんですよ。それでダーッとこっちに持っていっちゃって、何か仕事してるという感じでね(笑)。いくらか近代的な仕事をしてるみたいな感覚も入ってきて、面白いといえば面白いです。ただしシンナーですから。

細谷:つけないといけないんですよね、口のところに防毒マスクを。

佐々木:ああ、もうイチコロでやられます。よくペンキ屋さんがいますよ、ああ、これシンナー中毒だなんてね。すぐ怒り出したりね。だってね、風呂場なんかほとんどそれでやるのにね、マスクもしないでですよ、ワーッと平気でやってた。あれじゃ3日もやったら病気になっちゃいますよ。こっちはもうね、開けるところは全部開けて、マスクつけて、それでやるんですけど、ストーブなんて燃えてると危ないから冬でもストーブ切って。だから冬場はあんまりできないけど。それとね、30分もすると今度、酸素不足。で、ときどき休んでやるんですけどね。いろんなことができるようになるんですよね。

三上:佐々木さんの絵画のリアリティというか、やっぱり緻密なドローイングをして型紙を作ってというプロセスがあるのかと思うんですけど。

佐々木:いや、型紙を作るんですよ。最初はもう全部そうです、はい。だから……。画集が出てこない。

細谷:持ってくればよかった。

佐々木:あります、あります。用意してあるんだけど、上にまた重なっちゃってて。ずっとやってたんですよ。(画集を見せながら)ここからこれで始めたんです。このとき初めて使ったんですね。これはあの、つまり貼るテープですよね。片面に糊がついてる。

三上:マスキング。

佐々木:そういう薄い飴色のテープがあるんですけど、テープをびったり貼って、テープをカットしてやってたんですね、これなんかのときは。

三上:型絵染めみたいなことですね?

佐々木:はい。それで、こういう外と内とのあれは、紙にここだけ切れ目のところだけ糊のついたのをつけて、それでカッターで紙をカットするんですよ。キャンバスを切らないように紙だけ。そしてこれを剥がして、中をやって。だからこっちを、ここをやるときはこっちを被せちゃって、つまり作ってあるわけ。これなんていうのは複雑だからそんなことしないで、べらっと貼ってね、たぶん。ちょっと忘れちゃいましたけど。貼って、この黒くなってるところは先に黒く塗っといて貼ったんじゃなかったかなと思ったりしますけど。ここから始めて。これなんかは、こういうところはみんな手書きですから、この球もね。この空間とここだけですよね。この妙な線は麻糸。よくある雑な……

三上:梱包に使うやつですね。

佐々木:梱包に使う。ひもに糊つけてキャンバスに貼っておいて、ふふふ、そして白を吹きかける。その薄く黒を塗って、その上に糊を貼って、あと剥がしてこの線を出す。

三上:ここから明らかに政治的というか社会的なテーマが出てくるじゃないですか?

佐々木:ええ。このときは本当に、ソビエトの……

細谷:ああ、チェコ侵攻ですね。

佐々木:チェコ侵攻。赤のカーテンのインチキさというか。

細谷:それはいわゆる〈黙劇〉シリーズ(《黙劇№1 手玉にとったのは何者か》1968年)で佐々木さんが作られていますけど。

佐々木:これがナンバーワン。

細谷:ナンバーワンですね。そのテーマ性というか、チェコ侵攻のことをやろうと思ったのはどういう?

佐々木:あのほら、私、経済(学部)に入ってしまったけど、入ってしまったってね、あれは、あのときはね、芸大、なんで一遍しか受けなかったのかってあれもありましたけど、あのときは高校3年で他の勉強をしないでデッサンだけやってて、それで二宮先生は東京美校の出ですから、ふふふ、それしか頭にないのね。武蔵美も多摩美も全然そんなの問題にしてない。はははは。全然、だから私知らなかった。自由美術の会員なんて武蔵美が多いんですよ。井上長(三郎)さんとか武蔵美の先生やってた時代ありますから、ちょうど私と同じくらいの齢は武蔵美出身が多い。ふふふ。私の場合は、まあしょうがないから、先生がね、家まで来て母親を説得した(笑)。何か知らないけど入ると思ったんだね、俺が。先生はずっと美校を出て、すぐ朝鮮の学校の先生になって朝鮮にいたんですよね、戦争が終わるまで。それでね、「今までお前で3人目だ」と(先生は言った)。「これは描く(人間だ)な」と(先生は思ったのだろう)。3人目で(東京芸大に)入ると思ったんじゃない? 母親を説得に来てさ。何だかわからない。ともかく1回は受けようと思ったのね。そのときはもう他の勉強は何もしてないし、大学で、私はそのとき学校の先生なんか絶対にならないと思ってた。先生って嘘しか言わない。

細谷:体験的にわかってるわけですね?

佐々木:うん。先生なんてね、教育者で特別な大変なことしてるかと思うけど、体制の出先の最先端が先生なんですよ。うん。こっちがちょっと変われば言うことみんな違ってくるわけ。こんなものに絶対ならない、と。ふふふ。だから教職単位、取ってない。取ってないで幼稚園の園長の資格を取るときなんか、あれ、あるんですよね。中学校、小学校以上の……

細谷:資格ですか?

佐々木:うん。(小学校以上の)教壇に立った経験が5年あって、あとなんだかんだあってあってね、5年ないと幼稚園の園長になる資格はないので。とかがいろいろあって、最後の段階に、この人は適当だと思われる人物であればいいという最後のくだりがあるんですけど、それとちょうどいいことにというのか、それもご縁なんですけど、大学終わる前に子どもに絵を教え始めたんですよ。友達のお父さんが、上田朗さんのお父さんがアトリエを作ってくれて、そこに私は一緒に下宿して、上田さん(の家)でご飯を食べて、そこで2人で絵を描いてた。

三上:その頃、奥さんは、あゆみさんも一緒だったんですか? 子どもに教え始めたというのは?

佐々木:ええ。それでそうするとね、上田朗さんと、うちの女房になる……

三上:河合あゆみさんが。

佐々木:それも加わって、夕方になるとみんな集まってきて、いろんな若いのが出入りしてて、それで、それを見てた子どものお母さんがね、「ここに絵描きさんがいるようだから、うちの子に絵を教えてくれないか」と言って子どもを連れて来たの。それが初めて。ははははは。

三上:それが幼稚園へとつながっていくんですね。

佐々木:そうなんです。上田朗さんは最初は理学部、地質古生物なんですよ。地質古生物なんていうのはだいたい仕事はないんですよ。ふふふふふ。あの地質調査、ほとんど御用調査ですから。「ここには危険なものはない」とか、みんな嘘っぱち(笑)。あれを提出するだけ。

細谷:正芳さんは戦争の体験もあって、反戦意識というか、ずっとお持ちでこられたと思うんですけど、このチェコ侵攻はやはりこのとき描かないといけないと思われたんですかね?

佐々木:そうですね、うん。なんだ、赤いほうもそうか、と思ったんだよね。いくらか、経済(学部に)行ってマルクスを齧ったから。いちばんいいとこだけね(笑)。マルクス主義って、マルクスは論理的に資本主義がどうして出来上がってるかというのを明快に解き明かしたよね。そこのところの論理の積み重ねと現実との総合、そういうところで見事な展開だよね。ただね、やっぱり、人間の変な負の部分みたいなもの、そういうものを完全に捨象して論理の世界だけで作り上げたものなんですよ。それで何のことはない、こうこうこうで結局、資本家が、人間の労働力という商品はそれを売って給料を貰ってるという形ですが、これは他の商品と違って簡単に磨り減らないし、だんだんいろんなことで有能になっていく、育っていく。そういうもので資本家が膨らむことになる。

細谷:肥えていくわけですよね。

佐々木:肥えていく。ひたすらその部分で。

三上:時代的にこの60年代の後半って、安保が出てきたりとか、ベトナム反戦運動とか、特に自由美術なんていうのは運動の方がいっぱいいらっしゃったと思うんですけれども。

佐々木:それなんですよ。

細谷:佐々木さんご自身はたとえば60年安保は?

佐々木:もう一切ね、そういうのに出ていかない。一遍も行ったことない。ともかく一緒になってその気になってワーッとやってるのがね、軍国主義でワーッとやってたとの同じ姿なんですよ、うん。だからそうじゃなくて、私は、絵というのはさ、もっとも平和じゃないですか。1人でやってる。音も立てないで。エアブラシなんか使うとダーッと響くので、よそに響かないように布団を重ねて載っけて音立てないで、時間や何かもそういうのも気にしてやりますけどね、1人でこうやって描いてるのなんてね、まったく自分との闘いで、他者にまったく(迷惑をかけない)。音楽なんてうるさいしね。ふふふ。

細谷:寡黙に打ち込めるんですね?

佐々木:寡黙に打ち込んで、もっとも平和な(笑)。だから絵の好きな人を増やせばそれでいいんだと。これはもう1人で……2人でやってきたことですが、1人でできる平和運動さ、と。絵を広めるということは。絵の好きな子をいっぱいつくるということ。たいがいみんな何らかのいいところをもってるんですよ、子どもを教えてみると。うん。ああ!というものを(もっている)。すごいですよ、人間というのは。その可能性をみなもってる。

三上:この時期に、ちょっと後ですけど、ポーランドに行かれるじゃないですか?

佐々木:はい。

三上:それはいきさつはどういったものですか?

佐々木:自由美術というのはそういうような、つまり……

三上:社会主義国への繋がり?

佐々木:ふふふ。どちらかというと、いろんな会のある中の共産党系のが自由美術というくらいの認識があるから、周りからはね(笑)。そういう奴が集まってるんだけど、だからつまり、戦争画を描かなかった連中だという話なんですけど、それに共鳴して自由美術。やっぱりよかったしね、人がね、集まった(人がよかった)。私が入ったあたりはいちばんよかったんですよ。そのちょっと後に分裂しちゃったんですけど。

三上:このときポーランドに行かれたのはどういう経緯で。佐々木さんは?

佐々木:そのとき自由美術がそういうものですから、共産党と仲良いんだよね。自由美術の井上長三郎さんは、共産党の誰だっけ、親分は……この頃、まったく名前聞かないけど。

細谷:70年代ですよね?

三上:宮本顕治?

佐々木:うん。(宮本)とけっこう親しかったみたい。でもね、その話というのは共産党からじゃなくて、社会党から回ってきた。社会党から回ってきて、ポーランドで行ってみてわかったことは、写生会だか何だか全然わからないでね、行ったんですけど、一応絵の道具は持って、絵の具も筆も一式持って行ったんですが。

三上:現地制作されたわけですか?

佐々木:そうそうそうそう。それがね、ええと、1カ月間ね、田舎ですよ、田舎。もう何キロでソビエトとの国境というような所で、ワルシャワから列車に乗って6時間くらい行った所。これで、このLに棒が入って、ビアウオ・ビエージャというんですよね。ズーズー弁と言うけど、あっちも北に行くほどズズズとかね、DにZ入れて発音記号あるじゃないですか。ビアウオ・ビエージャという村で、そこにね、ホテルがあって、もう1軒ホテルみたいなそういうのと。古いホテルと新しいホテルがあるのかな。そこで1カ月、全部で何人だっけ、50人くらいなんです。土地、ポーランドの各県から何らかのセレクトを受けて来るんだと思うんですが、向こうの人が圧倒的に多いんですけど、40人くらいが来てて、私が行ったときは、だから外国の人を常に方角を変えて国を変えて……

細谷:招聘するわけですね。

佐々木:そうそう。3人よこしてくれっていう話が入って、その3人にどういうことか……。つまり井上さんの娘さん……

細谷:井上リラさん。

佐々木:リラさんが入ってるわけ。あとリラさんの、何だろう、お付き人(笑)。これはきっとね、東京でいろいろあって、行きと帰りは自分持ちなのね。向こうで国内に入るまでの飛行機代。

細谷:自分持ちなんですか?

佐々木:自分持ち。ただポーランドに着いちゃったら一切お金は使わせない。たしかにね、お小遣いまで出るんだよ、金なくなったなと思ったら出るので(笑)。1カ月そのホテルに投宿して絵を描く。あのね、絵を描くって最初つくづくね、俺は日本で日本のつまらないことを気にして、それがもとで絵を描いてたんだなって(笑)。よそ行ってね、風景描く人でもないしね、ここでいきなり風景画を描いても……。ただ森がダァーッとあって、ともかく山が見えない。すごいですね、大陸というのは。

三上:何かテーマを言われたわけではないんですね?

佐々木:全然ない。

三上:自由に。

佐々木:それでね、これが終わって5、6年後にね、そのときの……

三上:カタログですか?

佐々木:うん。送られてきたんですよ。そしたら、ふふふ、その中でですよ、ある朝ね、食事してたらね、文化省の人が、女の人でしたけど、視察に来てて、前の晩に泊まって、ご飯食べてるときにすぐ隣だったのね。話しかけられて、3人いてね、私よりみな若いのよ。リラさんだって。もう1人、丸山武男というのが行ったんだけど、10(歳)以上若いのでよっぽどまだ(英語を)覚えてると思ったけど全然だめで、英語のAもわからないくらいで(笑)。しょうがない。それでね、通訳がつくのかと思ったら全然つかない。1人だけ女の人で、英語が、ロンドンに何カ月かいたことがある英語が達者な人がいたの。その人を介して何か言っても、言うのも聞くのもね、(難しかった)。ということで、その人と、本当に青い目の中を覗き込むようにしてさ、この青い中で何を考えてるんだろうなって、本当に透明で中まで見えるみたいな。でもね、綺麗な人だった(笑)。それはよかったんですけど。

三上:佐々木さんの作品が載ってるんですか?

佐々木:これね、これがね、うん。そこで描いたのがこれなんですよ。いろいろね、話なんてできるわけじゃないんですけど、ポーランド語なんて、字引探したんだけどなかったの。日本とポーランド。でね、ここ最初に何か論文がついてるんですよ。うん。そいつをね、わかんないのにさ、ずっと見てったらね、ずっと、何かこの会のことを書いてるんだと思って見てったら、どこかにMasayoshi Sasakiって書いてある。これを見つけたんですよ。あれ、俺のこと書いてるっていうんで。それでね、東北大にやっぱりポーランドから勉強に入ってきたりなんかしてる人もいて、あるコネクションを辿ったらね、翻訳してくれて。

細谷:あ、翻訳が上がってきたんですね。

佐々木:全部じゃないけど、うん。何か非常に難しくて日本語にするのが大変なんだろう。その人が書いてるんですよ、この字と。私の絵に絡めて話が書いてあるんです。そのとき私、40歳ちょうど。まさに50年前の話なんですよね。それでね、そんなに遅れて出たのに……。その朝食事してるときに話したんですけど、「どうだ?」と(訊かれて)、「なかなか描くのが見つからなくて」ということを(私は)言って、そのうち描かねばならぬと、mustと(いう英単語を)使ったんですよ。そしたらお役人に「絵はmustでできるものじゃないでしょう」と。ふふふふふ。「あなた、ここにいてどうですか?」「楽しいです。食べるものは美味いし、風景はいいしね、楽しくやってます」なんて言ったら、「じゃあそのまんまでいいですよ。描きたいと思ったら描いてください」。だからこっちはね、一宿一飯の恩義にあずかってて、何も残さずに帰るわけにいかないという気持ちがありますからね(笑)。だから「I must draw」とか言ったらね、「mustでできるものじゃない。それでいいんだ。描きたいと思ったら描きましょう。それでできるのがいいですよ」とお役人に言われた(笑)。それでやっぱりね、ポーランドが非常に興味深くなってきたんですよね。ポーランドの過去の話をいっぱい聞くんですよね。パルチザン、森に隠れててどうしたというね。過去と現在と未来の3部作を残してきたんですけど、これ見てごらんなさい。絵も何も出してない奴がいっぱいいるの。

細谷:実際描かないで(笑)

佐々木:描かないで、国内の人で(笑)。「俺はこんな所で」……ホテルの中で描くんですから、「(俺はこんな所で)絵を描くなんていうことをできないと。俺は自分のアトリエで描く」なんてことを言って、朝から飲んで(笑)

三上:これでサイズはどれくらいだったんですか?

佐々木:60号くらいです、ちょうど。それでキャンバスも絵の具も使いたいだけ使っていいんですよ。そしてね、何もすることないから、本当に、3枚ね。

三上:3部作を描かれて。

佐々木:3部作。今はね、最終的にね、それがすごいんですよ(笑)。何だろう。ガラス張りのホールがあるんですよね。外からも中が見えて、そこにね、絵が貼ってあったのは知ってるんですよ。そしたらね、それは去年ので、打ち上げのときにそれが初めてわかったんですけど、そこでできあがった絵を、ガラス張りだから、1枚はこっちに内側に向けて、1枚は外側に向けて、ガラスの内側に展示してね、全部。そんなに見てる人はいないけどね(笑)。そこに1年置くんだって。それからね、だからそのとおりありましたから、それは去年の絵なんですね。そこに今年描いたのを……

三上:取り替えて。

佐々木:それで、それが終わったら各地の各県の美術館を回る展覧会を1年かけてやって、次の年にワルシャワ美術館でやると。そしてワルシャワ美術館で買い取ることになる。ただ買ったお金は国内で使わなくちゃいけない。だから私の預金がポーランドにあるはずなんです(笑)

細谷:まだ手をつけてないってことですね(笑)

佐々木:ええ。いずれにしろ、そのドーンと構えた……

細谷:役人?

佐々木:役人というか、その1カ月ずつ回すという。

三上:時間の流れが全然違うんですね。

佐々木:そうなの。本当に感心しました。実に楽しんで、みんな。

細谷:今もワルシャワ美術館に収蔵されている?

佐々木:(収蔵されて)いるはずなんです。うん。これは完全に油絵で描いた。ただ絵の具はね、なんかトロトロみたいでね、日本の絵の具みたいにコロッと出てくるんじゃないんだな。ダラッと出てくる。だから自分も持っていったから合わせて使ったりして何とか(描いた)。それでね、「ああ、今日はいっぱい描いた」なんて夕飯のときに話をしたり、飲んで、その後飲んで話したり。「12時間くらい描いたんじゃないかな」と言うと、「そんなはずはない」と(笑)。「あんたは朝飯のとき、あそこで何時まで食ってた」(笑)

三上:ちゃんと監視されてるんですね?

佐々木:それでね、勘定されたら8時間くらい(笑)。そこでさ、はあ、こいつらはやっぱりものの考え方の違い(があると思った)。こちらは適当に言うんだよね。白髪三千丈の残りみたいなものを我々持ってて、実にいいかげんに過ごしてるなと(笑)。そんなところで異議を唱えてそれを質した人がいた。ああ、これがヨーロッパかと思いましたね。

細谷:その過去・現在・未来という時間軸をある種のテーマとされたということですけど、それはのちの制作活動に帰ってきてから影響があったりしましたか?

佐々木:いや、特にない。こっちではやっぱり日常の中から気になったことを、それからなんとなしに気にしてること、そんなところが発想源になってるから。

細谷:過去・現在・未来で3部構成? 3作品ですか?

佐々木:3作品。「過去」はね、何を描いたんだったか。あれだ。画集には入ってたか。老人がこう、大地に埋まってるの、腰から。それで腰のあたりから木になって、何かね、すごい大木みたいに感じたんだね、ポーランドそのものを。

三上:木が統一的なモチーフになっていたわけですか?

佐々木:そうですね。それで「未来」はもうしきりに工業、工業、工業という話をしてたから。飲んだりしてると日本に行ったことがあるような人が寄ってくるんだよね。それで話しかけるのはたいがい英語だから何だかわかるんですけど。

三上:このときポーランドに行かれたのは往復だけで、途中は?

佐々木:いや、帰り、せっかくだからというので、ポーランドに1カ月いて、あと1カ月を西欧を廻る準備をして行ったんです。丸2カ月、家を空けたんですよ。

三上:それは佐々木さん初めての海外だったんですか?

佐々木:はい、初めて。で、帰ってきたときには飛行機に8時間も乗ってると、ああ、また来れるんだなと思ったけど、あと行けてないというか。その時間がとれないよね、だいたい。金もないし。

三上:そのとき滞在が長いですけど、たとえばパリとか行かれたんですよね?

佐々木:ええ、行ってます。

三上:それでいちばん……

佐々木:ポーランドに行ったんだからせっかくだからと思って、アウシュビッツ(に行った)。そしたらね、ポーランドに入って行く日から、(プロジェクトが)終わった次の日くらいまでしかポーランドの中でのビザが効かない。

三上:このプロジェクトだけなんですね?

佐々木:うん。それで途中でみんなが言うのよ。殊に井上リラさんがさ、「行けるはずだから行こうじゃないか」と言うので、それを申し出たのね。そしたらそのビザが切れちゃうからそれをやるなら先に申請に行かなきゃいけないというので、車でフランスから来た人がいて、それはポーランド人なんだけど、その人が何かやっぱり用があってワルシャワに行かなくちゃいけなくて……そうだ、両親がどっかから帰ってくると言ったのかな。現在はパリにいるんだという女の人だけど。その人が行くんでそれに乗せられて、ワルシャワまで車でワーッと120キロ出てた。すごいダーッと道がまっすぐ(笑)。それでね、ずっと平原ですよ。草がボーボー。決まりきった大きさくらい。それはね、牛を繋いでるんだよね。長い鎖に牛を繋ぐと、そこの所を丸く牛が草を全部食べて。それでまた動かして。畑は3年に一遍か4年に一遍。それも馬耕でね。すげえんだ。行って帰ってくるのに15分くらいで、馬がこんな小っちゃい(ように見えた)。のんびりしてた。そういう所。

細谷:アウシュビッツに行かれたんですね。どうでしたか、印象は?

佐々木:印象は、もう怖いだけです。それでもね、通訳しなくちゃいけない。それも英語なんだよね。まあね、ポーランド人が英語使って喋るのは、ともかくさ、母国語としてじゃなく喋る英語で、それがいちばんわかりやすいよね。ドイツ人が喋ってるのとか。

細谷:僕もそう思います。おたがい拙い英語でやりとりするのが。

佐々木:それでわからないところは「こうか?」「そうだ」というようなことでだいたい話が済むんでね。でもね、ポーランドに1カ月そうやっていて、英語、そういう言い回しもあったな、なんてね。行くときなんてもう英語なんてところまでやってる暇も何もないから。自由美術に出す、自由美術に重なるんですよ。だからね、自由美術に出す作品を残して、2点。何だったかな。これに入ってないか。ええと、あの眼鏡の、ありますよね。砂の上の……。《砂の上の日本》(1971年)をそのとき描いたんですよ、出発する前に。あれで靉光賞をとりました。

三上:それを描いて出かけられた。71年。

佐々木:これと何だったかな、2点なんですけどね。これと、この前かな、これこれ《ずれた思考》(1971年)。この2点をね、描いて梱包して運送屋さんを呼べばすぐ出せるようにして出発したわけです。10月なんですね。9月の終わり頃かな。10月いっぱいポーランドにいて、終わって10月25日か何か、雪が降ってた。最後の日は雪が降ってた。

三上:この頃、先ほど安井賞の話が出ましたよね。安井賞というのは佐々木さんの中で……

佐々木:私は一遍出してみてわかりました。ああ、これはよく売れる作家を、次に(売れる作家を)探している展覧会だと。俺には関係ないけど、見に来る人の層が自由美術を見に来る人とまったく違う、新しい人たちに見せられるということがわかりました。

三上:賞の選考のシステムというのはどういうふうな?

佐々木:もう全然気にしないからわからないですね(笑)

三上:ポーランドに行かれた年の秋に、年譜を見ると「真正安井賞作家展」というのを池袋でやっているんですけれども、これは自由美術の推薦があって?

佐々木:自由美術のね、私そのときね、最初なんですよ。それは自由美術の、各団体で推薦枠が3人くらいあって、その3人に選ばれた。それでね、これの続きみたいなね、ちょうどこれ描いて発表してちょっとしてあれですからね、三島(由紀夫)の割腹事件が起きるので「お前、先取りしたな!」なんて話をよく受けたんだけど。三島の陸軍のスタイルで日本刀を持ってるのと(《黙劇№8 予感》《黙劇№9 予感2》1970年)、それから本の間にこういうのをつけて、これキャンバス釘なんですよ。キャンバス釘を並べてね。それが3体で分厚い本のここのところに顔が埋まって、体がここから生えてる。それでこっちからこう渦巻き状に何かが伸びてて、何か向こうのほうへ方角を指してる。それで何だ、《知の行方》(黙劇№6、1970年)。

細谷:知識の知ですか?

佐々木:ええ。知識の知の、《知の行方》としたんですね。150号なんです。それで3人がね、全部落とされたんですよ。ふふふ。そしたら威勢のいいのがさ、「これはね、3人とも落とされるというのはこんな馬鹿な話はないから、真正……」

三上:真正安井賞作家展。

佐々木:うん。それを自由美術でやりたい、街頭展をやるから、と。それで井上さんの所に乗り込んで、井上さんのオーケーを貰わないとできないから、(井上さんのことが)怖いから、井上さんの所に行ったんですよ。ちょうど展覧会で行ったときの話だから、それ行って。私は街頭展には出てないから、他の人に。落選した人の絵を(展示した)。どこでやってたか。銀座のあれかな。

三上:池袋の西武でたぶん安井賞はやっていたような気がします。

佐々木:街頭に並べて展覧会をやったということなんです(笑)

三上:それは佐々木さんは出さなかった?

佐々木:いや、作品は出てる。

三上:作品は出てるけど、その場にはいらっしゃらなかった?

佐々木:そうそうそう。そんなに簡単に東京に出て行けないですよ。なにせやっぱりね、描くのもエアブラシ使ったのも、夜中に仕事するとかね、なにせ幼稚園やってるんですから。幼稚園ってやっぱりね、命預かってるんですよ。簡単なことじゃないんですよ。よくよくやっぱりいろんなことに気をつけなきゃいけないし。東京とかどこかへ行く気がなかったのかって質問事項にありますけど、幼稚園丸抱えしてるから、そんなこと……。一遍だけ実は脱出を考えたことあるんですよ。それはまだ子どもが小さいときで、長男が(幼稚園の)年中(組)に入ってて、次、長女が年子で、4人年子なんです。5人(子どもが)いますけど、4人年子なんです。で、美術館(秋保の杜 佐々木美術館&人形館)で館長やってる克真というのがいちばん後なんですけど、そこだけちょっと離れて、7年間に5人生んでるんですよね。これもすげえやなと思った(笑)。それってね、家に、幼稚園の中に暮らしてたから、ということはいつでも2人いるんですよ、家の中に。幼稚園も見られる。ちょっと時間があれば絵も描ける。そういうことで二股生きてた。ええ。

三上:動こうと思われたというのは、具体的にどこかというのはあったんですか?

佐々木:ああ、東京まで1時間。東京のど真ん中は厳しいから。うるさいし。東京まで1時間で行ける範囲で、やっぱり私、神奈川県からあれした(育った)から神奈川県を探した。そしてね、1時間で行けるくらい、小田急線の真ん中辺の瀬谷という所かな。そこにね、まあいいかっていう、古い建物、でも大きい建物があって、絵も描く余裕くらいはある。そこが幼稚園もわりと近くてね、予約までしたんですよ。俺はね、あまり乗り気じゃなかったけど、女房はね、幼稚園をやってるのが自分の通った小学校区内なんですよ。南小泉小学校なんですけど、そこへ歩いて10分くらい、ちょっと東北の田んぼから始まったので。すごいですよ。最初は73.5坪。そこに火事を出してしまってね。借家を焼いちゃったんですよ。うん。それはね、職員のちょっと火の不始末なんだけど、こっちはもう責任者だから。もうそのときはすごい、火事なんて出したらもう途端に悪者にされた。うん。もうこっちから「おはよう」なんて言ったって知らんぷりですよ。それまで私が草を抜いて平らにして遊具をセットしてあれした所で遊んでた近所の子の親でもさ。ただね、生徒、通ってた生徒が全部ね、新しい所に来てくれた。それだけ信頼を(得ていた)。そんな所でやってたにしても……私は先生にだけはなるまいと思ってたので、でもね、絵を教えるにあたって、子どもの絵のことなんてまだわかってませんでしたから。終戦から間がないあたりだもんね。子どもの絵なんていうのは何かそういう書画会とか何とかね、いろいろあって、ものすごく……ただ、めたらやったら自由だとか、それからね「子どもはみんな天才だ」とかさ。そんなことってないんだよね。そんなことってないので、子どもをよく見て、子どもの描いたものをいかに理解するかということで、子どもの絵にね、そのまま持たせて返さないんですよ。必ず次の回に、1枚ずつにね……つまり子どもの絵を育てるなら褒めて育てる。何でも褒めて育てろって言うけど、その絵の中の「ああ、いいね、ここ」というところを見つけて、それを親に知らせてやらないといけない。それをやったんです。360人くらいまで、全体としてね。あっちこっちでやってるわけ。10人くらいしかいない所もあるんだけど、そこも回って。月謝200円ですよ(笑)

細谷:何年から始められたんですか? いわゆる幼稚園のことっていうのは。

佐々木:幼稚園のことは……

細谷:でも大学卒業してすぐお子さん……

佐々木:大学にいるうちから始めたんです。友達の家のほら、そのアトリエ作ってあれしたら子どもが来るっていうので、じゃあアルバイトにいいんじゃねえかっていうので2人でね、いろいろ規約とか名前とかさ、考えて。そこでエコール・ノワールというのを。

細谷:もうその時点でですか?

佐々木:そうそう。エコール・ノ「ワ」ールですから。「ア」でないから。

細谷:直しておきます。

佐々木:ir。irは「ウワ」って言うんです。

細谷:エコール・ノワールはどうしてこういう名前にしようと思われたんですか?

佐々木:いやあ、それね、当時ね、フランスの映画で音楽だけが入ってて台詞が入らないで、馬とね、少年との話なんだけど。野馬ね。あれはフランスのね、大西洋岸のほうの話ですよね。野馬の群の大将と少年が仲良くなってという映画なんですけど、最後はね、馬の首にすがって海にずっと泳いで出て行っちゃう。それが「クラン・ブラン」と言うんですよ。クランというのが雄馬。ブランが白。ところがね、エコール……向こう(フランス語)って(単語に)性があるじゃないですか。女性になっちゃうんですよ。女性というのはたいがい物を入れる引き出しとか箱とか、そういうのがみんな女性。とんがった物が男性。ふふふ。エコールというのはスクールですから。だからそのね、クラン・ブランがエコールだと……いや、白がいいなと思ってたんですよ。クラン・ブランというのは白い馬なんですけど、白がね、変わってね、女性でね、ブランシュとなるんですよ。ノワールのほうはノワールなんですよ。で、エコール・ノワールになっちゃったんですけど。でもね、色のなかでいちばん強いのはノワールですよね。色としてもね、のちに宮城(輝夫)さんが絵の教室にエコール・ドゥ・ブランシュというのをやったことがあったけど、エコール・「ドゥ」が入ると……。エコール・ノワールの場合は形容詞として使ってるノワールなのね。

細谷:ちょっと1回休憩しましょう。ありがとうございます。

佐々木:ポーランドであるとき飲んでて、おじさんにさ、「日本に行ったことがある……船乗りで日本に行ったことがある」って言われてさ。「今この国で何がいちばん問題ですか?」って訊いたんだな。そしたら「紙が悪い」って言った(笑)。あの柱の所に茶色になったのがあるでしょう? それね、煙草の……

三上:鳥の下の所ですね。

佐々木:うん、鳥の下のとこね。あれずっと貼っといたら、あれがいちばんゴールデンバットみたいないちばん安い煙草なんですよ。

三上:ポーランドの?

佐々木:ポーランドの。あれはもっと普通の紙の色でしたけど、「紙が悪い」って言ってましたね。どっちみち筆談だろうというのが頭にあるから、メモ帳をいっぱい持っていったんですよ、10冊くらい。なおかつパパッと開いてね、何かで書いて話したんだけど、それをね、「こんな立派な紙を使うな。だめだ」って(笑)。それで煙草の袋を開いてね、「これに書け」。そういう時代だった。でもね、1カ月そこでいて、いろんなそういう外人との接触があって、そこはね、すぐ森林なんですよ。それで北ヨーロッパの森林を人の手を加えないでそのまんまね、残してあるのはそこしかないんだって。そういう国有、国の公園なんだよね。公園というか、そういう場所で。どんなふうに森がなっていくか、写真に撮ったり、それからいろいろなデータを取って、研究所でもあるんですよ。その中にそういうね、建物があって、その半分くらいは美術館というのかな、資料館みたいになってて、昔から使ってた農具とかそういうのがあってね。あとは無数の鳥が並んでるのがあって、それはムクドリっていったかな。ムクドリの一種で、雄がいろいろ飾り羽根を出すんですけど、1匹1匹がみんな違う。ものすごい。ええ、こんなの誰が考えたの!っていうくらい、綺麗な模様のあれになって回っていったりするんですけど、それがダーッと並んでいて、それを、その森をね、着いて数日後かな、馬車を仕立ててね、馬車を仕立ててそれに分乗して、10台くらいあったんじゃないのかな。それでそこの研究所の所長さんがね、着いて説明してくれるんですけど、英語でも言ってくれるのね。そうするとね、面倒臭いんだよね(笑)。こっちでわかんないのに、そこで日本語使うとやっと少し英語の頭になってきたところで、通訳しなくちゃなんない(笑)。それがね、本当に面倒臭かった。でもね、だいたいそんなことをね、そこの所長先生から特別にちゃんと話していただいてね。私が行ったときにはドイツの人が2人、東独の人。あとポーランドなんだけど今フランスにいてという人が1人と、あとリトアニアから2人かな。全部で8人。(資料に)書いてあるけどね。8人行ってね、着いた晩ですよ。着いて、みんなメンバー揃って、席についてね。それぞれね、自分の母国語で挨拶をしてくれと(笑)。しょうがないもん、何でも聞いて、リーダーでこっちは……。だってそれが面白いんだな。外国人って好きなんだね。身振り手振り入ってさ、実に、何言ってんだかわかんなくても、いいなあと(笑)。そういう人がほとんどなんだよね。結婚式の挨拶とかみたいにね。何言ってるかわかんないけども、その言葉、ドイツはドイツ……ドイツ語とフランス語とね、英語の、日本語との辞書はね、3冊持っていってた。そうするとやっぱりすごいですよ、うん。和洋両方が入った辞書を持っていって、わかんないところ1つ、ああこれだ!と、2つくらい指を挟んで「これとこれと」と見せるとわかってくれる。あとは絵を描けば通じる。で、着いて最初の日、まだそういうちゃんとした会席が始まる前にね、男が5、6人固まってなんだかくつくつ楽しそうに笑ってる。ひゅっと見たら「来い、来い」って。何話してるのかと思ったら、つまり性器を国では何と言うか(笑)

三上:男の話ですね。

佐々木:男の話(笑)。笑ったね。そんなことをした。はははははは。いきなりなんとなしに仲良くなった。

細谷:なんとなく場が和んで。

佐々木:なんとなくね、親しく、すっと。

細谷:よかったらお茶。口潤してください。

佐々木:はいはい。これをね、スライドフィルムに焼いた。小っちゃいからね。このあたりまでにみんな持ってったの、私。そいでほら、名刺がわりにね、持っていった。そしたら早速ね、私がいる所では見なかったけど、いない所でみんなで映して見たらしくて、これが入ってたし、最初の、これも入ってた。これはまだ写真撮ってないから。何回か持っていったんですけど。向こうからね、「わかった。あんたの絵はアゲインストの絵だ」と女の人に言われた。うまいこと言ったなと思ってさ、うん(笑)。アゲインストの絵。

細谷:さっき瀬谷の話があったじゃないですか。あれは結局なくなったんですか?

佐々木:え?

三上:仙台を離れて瀬谷のほうに移るという。

佐々木:ああ。それってね、結局、見つけて幼稚園の入園まで決めてきましたけど……

細谷:幼稚園を移して?

佐々木:いやいやいや、幼稚園を移すなんてことはできませんよ。幼稚園は人に任せて、学校の校長上がりか何かにね(託そうと考えていた)。それも決めたんですよ。それから用務的な仕事をする人もね、決めたんだけど、その学校の校長先生上がりというのがね、どうにもやっぱり私の思ってやってきてるものと噛み合わないんですよ、うん。それはね、学校はそこは行かなくちゃならない所だと考えている。幼稚園は来ていただく所なんですよ。

細谷:たしかに違いますね。

佐々木:客商売なんですよ。ね。いかにわかってもらうか。うん。そこなんですよ。そこがね、伝わらない。これはもうあっという間にエコール・ノワールは他の幼稚園になっちゃうなというのがわかって、私はね、出たいっていうのはあまりなかった。

三上:奥さんが?

佐々木:うん。女房はね、幼稚園やってる所が自分が通った小学校区で、しかもいちばん田舎の所、田んぼだから田んぼでやってて、自分は仙台にいっぱなしなわけですよ、つまり。生まれた所にね。

三上:奥さんはつまり仙台から離れたいと?

佐々木:そうそう。そうしないとおそらくね、みんな幼稚園に食われて絵を描いていけないんじゃないかみたいに説得できたの。俺はね、どこかで東京の怖さを知ってるから。ははははは。東京は傍から見てるほうがいいという思いがあって、渋々なんだけど、1日2日、1日くらい子どもらをお祖母ちゃんの所に預けて、兄貴の所にね。それで行って、瀬谷という所で家をあれして(探して)、手付金くらい払ってきてるんだよね。で、帰ってきてだんだん、次の年度の幼稚園が始まる。それから後釜に入る校長先生、退職校長ね、その人が決まる。そしていろいろと引き継ぎの話をするとかいう中で、まったく噛み合わないなというのがあからさまにわかってきた。それでそっちをやめた。俺は実はほっとしてたんです。あんなことやったらそのまんま幼稚園もだめになるし、こっちも絵を描けない、描かないで終わってたと思います。潰れちゃったかもしれない。

三上:幼稚園とは別に、佐々木さんはエスプリ・ヌウボオとか東北現代美術連合展とか関わってこられましたよね。地元の宮城県とか東北とかそういうようなものと一緒にやることの意義みたいなことは? 前にもおうかがいしたかもしれませんけれども。

佐々木:それは何でしょう、やっぱり、ある……つまりね、なんかやっぱり絵描き仲間みたいなのがないと、絵描かなくなるんですよ。(私の場合は)家の中にそれがあるんですよ(笑)。どちらかといえば、レベル高いの、家の中のほうが。だからそれで事足りていて。それと出て行って遊んでたら絵なんて描かない。夜描いてましたから。その頃、夜やってました。夜ね、6時っていうとドーンと座ってビールを飲んで。今でもそうです、うん。今はもう350(ミリリットル)1本と、それからこのくらいでこのくらいのぐい呑に日本酒1つ。ちょっとだけ、20秒くらいちょっと温めて(笑)。それで最後、「ああ、まだビールあった」なんていうくらいで、食べながら、美味しく食べるために飲む。それで最後にご飯とお味噌汁だけ食べる。だから好みの……「あれ、おかずなんて言うんじゃねえよ」なんて息子らが言ってさ、「あれはみんなツマミだ」って(笑)。好きなツマミだけ。

三上:それが終わってから描かれる?

佐々木:いや、8時まで(晩酌と食事をする)。で、8時から10時くらいまで描くと。うん。今はもう夜やりませんけどね。ええ。ただ、もう明日出品とかそういうときになるとやらざるをえなくて、ここをこうしようなんて思うところまでいってなかったりね、しますけど、そういうときは夜遅くまで。若い頃は決まってそうですよね。だからね、だいたいテレビで音楽番組が始まると、家内があんまり好きじゃなくてさ、歌謡曲でも、バッと切り替えちゃうのね。だからこのテレビね、ほとんどテレビ見ながら飲んでますから、結局ね(笑)。朝はテーブルで何も見ないで朝食べるんですけど、夕飯といったら野球見てるとかテレビつけてテレビ相手ですね。それまではドーンと台所にでっかいテーブルがあって、そこに全部揃うと7人で、ここでもね、子どもらが中学校くらいにいなるといろんな議論になったりして、そうやってね、やっぱり世の中の批判ばっかりだったから(笑)

三上:アゲインスト。

佐々木:はははは。そんな話ばっかりで。

三上:家の中ということで、奥さんが画家だったりするということは、傍から見るとけっこう負担になるんじゃないかなと思うんですけど。

佐々木:たしかにそれはあるんですよね。でね、いちばん最初ね、やっぱりね、日本人の場合ね、これ外国でもそうだけど、俳優でも何にしてもさ、旦那のほうがちょっとでも上にいないと絶対丸くなんない。ふふふ。そこをね、まあ、厳しいですよ(笑)。そこは厳しい。だからそういう相手がいたから、ほとんどね、仙台にいても、町で絵描きさんと付き合うなんていうことは……。最初のエスプリ・ヌウボオから手を引いた、私。そのときまではだいぶ町で飲んだりしてました。エスプリ・ヌウボオの本当にアウトになったというのは、結局ね、最終的にはあれなんですよ、『ら・めーる画廊月報』というのがあって。聞いてますか?

三上:ええ、宮城さん、白石の方がやっていた喫茶店の。

佐々木:白石の人だったか何かわからないけど、ら・めーるというコーヒー屋があって、それが鰻屋の2階だった。

三上:最初そうだったんですね。

佐々木:うん。すぐ向かいあたりが丸善か何か、一番町の南のほうですよ。そこにら・めーるという、階段上っていって、その階段の壁に絵を掛けてちょっと展覧会なんか(していた)。私も所帯持つ前にそこでやって、ちょっとね、金を稼ぐのに、「憩と幻想展」とかつけたら、宮城輝夫さんに「何だ」って言われたけどさ。それの看板をね、宮城さんが描いてくれて。

三上:電力ビルの地下に移った後しか知らないんですが、ら・めーるというコーヒー屋さん。宮城先生の作品がいっぱい飾ってあって、白石の人たちが集まっている所だったんですよ。

佐々木:ああ。

三上:そこで『ら・めーる画廊月報』というのは見たことがあります。

佐々木:ああ。それね、3号で終わってるんですけど、あれね、私がやってるんですよ。文章なんか宮城さんも書くし、私もね、展覧会の評みたいなのを書いたりね、名前を変えて。

三上:これが『ら・めーる画廊月報』ですね。

佐々木:これね、それで広告を出してもらうの、お医者さんなんかが入ってるでしょう。そういうの、上田先生の口利きで開業医とかね。

三上:杉村惇論とか書いてありますね、上田先生が。

佐々木:そうそう。ここから始まったんだよね。ちゃんと記録になってんだ。

三上:(私は)ナンバー2号からしか持ってない。

佐々木:3号で終わったんだよね。それ、みなさん、なけなしの100円玉を受け取りに入れて、病院の先生訪ねて広告代貰ってきたりして、印刷屋には何も払ってなかったなんて言うのさ。それで俺が怒ったのよ、つまりは、最終的には。

三上:苦竹美術研究所で「宮城輝夫、佐々木正芳、指導。東北音楽学校ギター部、佐々木正芳」って。

佐々木:それは考えただけでやってませんね。ギターを始めたというのはあれです、俺、大学でほら、休学したじゃないですか。そのときね、何だかわからないんだよね。内科に行ってもどこも悪くないみたいなあれでさ。ノイローゼだろうと言われてたんだけど。

細谷:自律神経。

佐々木:それもあったんだろうど、自律神経失調症というのが正しいあれで、最終的にはこのまま死ぬんじゃないかみたいな不安発作を起こすようになって、そのときは女房の実家に近い、もう1本北の成田町という所に電力の社宅借りてね、入ってたんですけど。

三上:地元の方々とかなり交流があったように見えるんですが、実はあまりその後は?

佐々木:その後は、幼稚園のほうが始まる。火災で焼けて、その秋には田んぼ70.5坪に焼けたのと同じ大きさの建物たてて、もっと小さい11.5坪か何かのちちゃこい(仙台弁=小さい)家を建てて、それでそこへ移ったんですよ。そしたら絵の教室の人がみんな来てくれたんですよ。それまで200人くらいいたんですよね。そういう人たちがみんな来てくれて、そこからすぐね、幼稚園が誰でも入るようになってくる。それと団塊ジュニアという階層があるんですけど、団塊の世代の人の子ども。団塊ジュニアが膨らむ時期で、幼稚園が足りなかったんですよ。

細谷:第2次ベビーブームですね。

佐々木:それでほとんど毎年のようにね、1部屋建てて。

三上:(入園)申し込みのときにね、列ができたという話を聞きました。

佐々木:ええ。前の晩も行列ができてっていうね。

三上:佐々木さんの幼稚園というと行列した思い出があるって、僕らくらいより上の世代が(話していた)。

佐々木:この頃でもね、前の晩から並んでたりしたんですよ、数年前。それがね、ここでがくんと悪くなってきた。なぜかというとね、公的資金で保育料が……。そしたらね、幼稚園はせいぜい3万かちょっとくらいか。そのくらいなんだけど、保育園だと7、8万。余計貰ったほうがいいなっていうんで、保育園のほうに動いてる気配があるんです。がくんと減ったんですよ。だから1年、2年前かな、赤字になって(笑)。それまでずっとね、3割負担でやってたんだけど、赤字出して1割になった。病院に行って薬代のほうが安かった(笑)

三上:地元の話にもう一度戻しますけど、その後、東北現代作家展をやったりして、県外の方々とも。

佐々木:そうですね。それはやっぱり自由美術が1つの繋がりで、いちばんは自由美術の秋田。秋田が盛んだったんですよ。それはね、いちばん上で引っ張ってたのが私と同い年生まれの人でね、池内茂吉さん。私よりは何年か後に会員になったけど、その人がね、わざわざ私の所を訪ねてくれたんですよ。それで「秋田と一緒にやらないか」みたいなね。それに乗っかったんだね。秋田に毎年のように、秋田でちょうど竿燈の時期に自由美術の、中学校の先生が主ですけど、ほとんどが中学校の先生で、まあ、絵を描いてる人ってだいたいそうだよね。学校の先生を傍らでやって、それで絵を描いてるんですよ。それでけっこうね、若いので元気のいいのがいたり、繋がりがあってね、面白い。うちではその展覧会に2人で出すから、ちょうど竿燈のときに展覧会が終わる形でね。あそこは、何だっけ、あの美術館。

三上:平野(政吉)。

佐々木:平野さんね。あそこの美術館に行くと、あのでっかいパノラマの。

三上:藤田(嗣治)。

佐々木:藤田さん。つくづく上手いなと思って、見てるとね。でも藤田さんの最高の作品はあれですよ、鉄条網。《アッツ島玉砕》(1943年)です。

三上:戦争画。

佐々木:あいつが最高ですよ。ふふふ。あいつは戦争を高揚する絵じゃないよね。厭戦の絵ですよね。あれはね、誤解したね。藤田は日本を怒って離れた。藤田さんのいちばんのあの描写力をあそこでね、惜しげなく見せて、あのくらい怖い絵ってないけど。あと初期の、やっぱり、細い線の、宮城県美術館にも入ってるけど、あれはやっぱり出てれば行くたび見てるけど、どうやって描いたんだろうか(笑)

細谷:今でも見入りますか?

佐々木:見入ります。ただ白く塗ってあるだけみたいなんだけど、決して決してね、そうじゃなくて。

三上:シッカロールを使ったとか何とか。

佐々木:ええ。

三上:東北の作家との繋がりって、その後ずっと、70年代後半に福島とかで現代作家展って。

佐々木:結局ね、福島は上田朗さんが行ったから、行ったら福島は橋本章さん、橋本章さんがまとめてた前衛的な気風をもったグループがあったわけですよ。それで作家もなかなか力のあるね。でもみんな中学校の先生。ただね、橋本章さん、個展やると見に行って絵を買ったりしてるけど、本当にね、ボスなんだよ、あの人。それであの展覧会やって、福島で最後、福島で2回やりましたけど、1年置きにね。1年置きに私、東京でフマギャラリーで個展やって、それで1年置きにしたんですけど。

三上:現代作家展は佐々木さんが組織されたというか?

佐々木:これは、まあ、私というより、家であれしたんですけど、女房が威勢のいいときだったんですよね。全部金をもってやったんですよ、仙台でやったとき。「作品を出すのだけ送ってください。あとはいいです」で声かけて、やって。

三上:佐々木家としてやったわけですね?

佐々木:ああ。青葉画荘にいた人がその会場を取ってくれたんだけどね。それで年末か何かだったんだけど、そこが空いてて、それで有名になるちょうどいいくらいの人に声をかけて。

三上:それがきっかけで『凍土』(1977年12月から1982年6月まで不定期に6号まで発刊)という雑誌を出されますよね?

佐々木:ええ。

三上:それはどういう思いで作られた?

佐々木:そうですね。「佐々木さんはこの土地に何も働きかけてないよな」みたいなことをある人に言われたんだよね。新現会(新現美術協会)の誰かにね。ああそうか、そういえばそうだなと思って、何もしてないといえば何もしてないなと思ってね(笑)。それで状態もよかったんですよね。

細谷:拝見すると、批評にけっこうこだわったというか、「批評」というのを一つ置いたんだなと思ったんですけど、そこはいかがでしょう?

佐々木:うん。地方、殊に仙台には批評がない。いろんなグループで展覧会やるけど、展覧会やって「今度のはいいね」とかああだこうだで、それでいっぱいやって終わっちゃって、何か批評に値するような討論みたいな話し合いみたいなものって出てきてないっていう感じがしたのね。だからそこのところをちょっと刺激して、少し本気度を上げたらいいんじゃないかっていうようなことでね。

三上:針生(一郎)さんとヨシダ・ヨシエさんを招いてシンポジウム。

佐々木:まあ、声かけやすいからね、やったんですけど。針生さんは何といったって仙台の人だからね。あれは一郎さんだからさ、針生味噌醤油屋の一郎さんで、何もしないで家に(笑)。ずっと気にしてるのね。つまり針生さんの長男を入れたんですよ。今はあれが、その次か何かが一緒にやってるんでしょうけど、針生さんも人の親だななんて。年賀状や何かに「暮れの贈答にはぜひうちの味噌醤油を」なんて書いてる(笑)。その針生さんね、年賀状をくれるんですよ。それにね、年賀状、こんなこと書いてあったんだね、最後のあたり。(年賀状を見つけて)これだ。これね、字がだんだんだんだん、針生さんも俺みたいに早く奥さん亡くして、懐かしいから、それ。

細谷:これは本当に晩年ですね。針生さんとのお付き合いっていつ頃からなんですか?

佐々木:そうですね、いつ頃からなんですかね。私がフマで展覧会やって、一応注目されるようになってからじゃないかな。

三上:「成熟など拒否して」と書いてる。針生さんらしい言い回しですね(笑)

佐々木:これを言われたんじゃね(笑)。まあ、そう思う人もいるでしょうし。ただね、150号もキャンバス貼って、あそこに裏側になってそのまんま置いてあるんですけど、ここで150号描くというのはとてもね、ちょっとでかすぎて描きにくいんだけど、何回も幼稚園の中であっちへ動いたりこっちへ動いたりしてたしね。

細谷:先ほどの『凍土』で東北には批評がないという、仙台には批評がないという。東北から、あるいは地方から東京へ何かを打ち出すというよりは、仙台で東北で批評なりを成熟させていこうという意識のほうが強かったということですかね?

佐々木:そうですね。東京へ打ち出すというまでの元気はないですよね。それでそれほどの力も揃ってないと思うし。ただ仙台では、まあ、新現会なんてみんなね、ずっと、あれね、学校の先生の集まりだから続いたんですよ。だからそれがね、秋田では自由美術なんですよ、うん。学校の先生っていろんな事務ができる。クラスの会計とかいろいろあるでしょう。だからね、エスプリ・ヌウボオはそれがまったくなかった。うん。広告料を集めても印刷屋に払わないで、宮城さんにそれをあげたなんていう。だからシステムを持たなきゃだめだろうと。システムをしっかり整えようよと俺が言い出した、最後。そして、何だったっけな、何かね、尚絅(女学院高等学校)の先生になって東京の人が仙台に来て、そしてエスプリ・ヌウボオに入って、話の上手いというか、そういうところがあって、その人が会計みたいなことをやってたみたいなんだよな。

三上:エスプリ・ヌウボオは白石のメンバーがけっこういた?

佐々木:ええ、いました。最初のうちだけだけどね。何だっけ、長生きした、何さんだっけ、東京の自由美術の、あちらの、白石の……

三上:吉見(庄助)さん。

佐々木:うん、吉見さん。吉見学園ってそういう裁縫学校までやってる一族ですけど、吉見さんは100(歳)過ぎまで生きたんじゃないかな。庄助さんっていうんだよね。ショッケちゃんって呼んでたね(笑)。ショッケちゃんって呼ぶんだ。

三上:東北のというか宮城の作家のなかで、宮城輝夫さんが出てくるんですが、佐々木さんの宮城評というか宮城さんに対しては?

佐々木:ええとね、まあ1つは、いろいろ私の紹介の論文を書いてくれた最初の人が宮城さんなんですよ。ふふふ。それと私に、前衛でなければならぬというね、重い課題を飲み込ませたというか、それを宮城さん……。いちばんは女房と出会った仲人さんみたいな人(笑)。それで宮城さんはね、画廊主とか、よく言うんだけど、宮城さんの絵を見せるとね、もう「クレーだ」って。外国人なんかもね、「おお、クレー」で決まっちゃうんだよ。いや、クレーと違うのよ。クレーがやったのと宮城さんがやってることは、もっとこう、根源的だよね。クレーのはもっと自由で、形もあんなにきっちりしない。ずいぶん違うんだけど、クレーに囲われて宮城さんはすぐ消えちゃう。

三上:すいません。ちょっと時間もあれなので、画廊の話をうかがいます。

佐々木:極星画廊ですね。あそこに一番町……一番町なんですけど、友達の呉服屋があったんですよ。つまり、あいつは何て言ったっけ、呉服屋があって、大学の入口でしょう。就職するにあたってまず……

三上:スーツを作る。

佐々木:うん、スーツを。そういう注文を取って、自分の所で縫製するあれでね。中村善次郎だ。一番町一丁目一番地、親の代からの中村洋服店。二高の同級生で共に絵画部の親友でした。それも亡くなっちゃったけど。それが2階建ての建物だったんだけど、それをビルに建て替えたんですね。それで上のほうを、いちばん上は自分たちの住まい。6階か7階かそれくらいまであったけど、その下はお店ですよね。2階から3階、4階、5階くらいがアパートみたいになってるんです。作ってある。それを1コマね、建て替えるときに付き合わされたのよ。私とね、同じように懇意にしていた中村昭太郎さんという耳鼻科の開業医やってた人なんだけど、それで1コマ買わされて付き合ったのね。それで事務所にね、貸せるからっていうことで。最初のあたりはずっとね、事務所に貸してたんですよ。ところがそのうちにそういうような事務所向きのビルが他にできて、ぼんぼん移って空いちゃって、2年か3年か、ただ維持費みたいなのを納めるだけになったのね。そこが空いてたので、うちの娘がほら、1人だけだけどね、(東北)生活文化大学……もうね、自由美術は女の子は東京の美術学校に出さないと決めたのよ。見てるから、絵描きさんの周りでうろちょろして捕まってこういうふうになっちゃうともうあれだからね。適当なことやってるからね、みんな(笑)。それで自分もそこでいいって行って、尚絅(女学院高等学校)に行っててね、ずっと家で教室を、大学生になっても友達一緒に、幼稚園から一緒の友達と来てたりなんかして絵を描いて、だんだん本当に水彩で……あれは普通の家に行くと油絵を出すと匂いがこもって(しまうから)、アトリエがないと困るんですよね。だから水彩にして、で、水彩が自分流の水彩で、色が上手い子でね、やっぱり。色は敵わないなって。それが学校終わったので「あそこで画廊やってみるか」って言ったら乗り気になってね。それで吊るためのほら、仕掛けを取り付けたりして。

三上:レールとか。

佐々木:画廊を開いたんですよ。娘の葉子。

三上:参考にした画廊みたいなのはあるんですか?

佐々木:いや、特にないです。特にない。ただ、ふふふ、レールちょっとつけて、どこへでも(吊れるようにした)。壁は真っ白にして。やっぱりある程度金かけてね。それのあれがありますよ、ほら。(資料を見せる)

細谷:画廊ですね。

佐々木:極星画廊。ここから発行したことにして、私の最初の画集……最初も最後もないけど。

三上:美術館で販売してるやつ。この間……

細谷:手にしました。

佐々木:あれをそこで出したことにして、それでそのときは電話かけて「こういうわけだから針生さん、書いてよ」と頼んだ。あの画集というのはね、フマで展覧会やってちょっと当たってた。週刊誌や何かバンバン取り上げてね。あのあたりなんて『週刊ポスト』に、誰だっけ、あの先生、3ページくらい持ってたんだよね。瀬木慎一さんだ。

細谷:あと『朝日ジャーナル』の表紙もけっこう正芳さん手がけていましたよね?

佐々木:ええ。何せ日本中の駅に置いてあるんだよね、週刊誌っていうのはね(笑)

細谷:それはどういう繋がりで?

佐々木:あれは何のことはない。ある日、電話がかかってきて、「あんたの絵を使いたいから」。展覧会で撮ってあるんだね、写真。

三上:公募展の作家で使われている人がかなりいますね。

佐々木:それで……

細谷:「使っていいか?」ということですか?

佐々木:ええ。「もう使うから」と。そのまんまでは出ない、細くなるということは言われてね、だから「明日の何時までに表紙の言葉を書いて送ってくれ」と。

細谷:「表紙の言葉」って、たしかにありますね。

佐々木:「編集会議でそう決まったから」ということで、表紙の言葉。

三上:『朝日ジャーナル』、『週刊ポスト』もですか?

佐々木:『週刊ポスト』は後ろの3ページ使って。当時、美術評論家の瀬木慎一さんがそこを持っていたんです。いまやヌード写真(笑)

三上:山形の相澤嘉久治さんがやっていらした雑誌にかなり。相澤さんと何か交流があったんですか?

佐々木:相澤さんは何だっただろう。何かで、表紙に使いたいというので……。山形で東北現代美術連盟展をやった時、私が県知事賞をとってるし、山形県内を何ヵ所か廻る展覧会に出していて、多分、私の作品を見ていたのだと思います。

三上:相澤さんもアゲインストの人ですよね。

佐々木:向こうから電話か何かくれたのかな。それから1度会ったことがあるけど。電話でお話ししたことはよくあるんです。そして1年間、私の絵を使ったこともありました。ああいうこと、あの時代よくやってたね、各地で。相澤さんは厳しいことをやってましたよね。山形の新聞と対立してね。

三上:服部(敬雄)さんに対決して。

佐々木:ええ。いや、河北新報の悪口みたいな、「こうあってほしい」のほうのあれだけど。それもずいぶんやったんだけど、私。

三上:でも『凍土』のほうはちょうど宮城県美術館ができるところで、かなり美術館に対する思いみたいなものが誌面に載っているんですけど、当時の宮城県美術館ができるというっことに対する正芳さんの思いはどういったところがありました?

佐々木:やっぱりね、1つ、いちばんはね、河北展のお城になってほしくないというのはあった。ふふふふふ。いちばんは。

細谷:もう三上さんは宮城県美術館を退職してますから大丈夫ですよ(笑)

佐々木:いや、あの美術館は、ふふふ、けっこう、うん、あれをね、私の《望郷》(1978年)を入れるからと。そのときあれですよ、《望郷》は私、断ったんです。その頃、もう自分で美術館を作ることを決めて、土地も買ってあったので……今、何の話をしてた?

細谷:河北展のお城にされたくはないと。

三上:(宮城県美術館が)できるときの話です。

佐々木:そうですね。それと、みんなに声かけてみようというのがありましたね。あのとき『凍土』の、あれが2号目か3号目かだったですけど、2号目かな。そこにみんな積んでありますけどね。

三上:2号です。2号が、「美術館建設への提言」というのが2号(1979年)で。

佐々木:そうですね。あいつに、あれ、私、原稿用紙で27枚かな。最後、漫談みたいになったけど。市民ギャラリーを東北現代作家展で初めて使ってみたんですよ、あのとき。

三上:ダイエーにあった。

佐々木:ダイエーの7階にあった。それが唯一だったんですよね。それの搬入をやってみたら大変なんだ。荷物のエレベーターと同じで、いかにも邪魔者が来たという感じで(笑)。それであんな長い文章にしたんだけど。

三上:事務の女の子の話とかも書かれてましたね(笑)

佐々木:何やってんだか知らない(笑)。実際何もしないでいるんじゃないかと思うよ。何人かいたんだけどね。

細谷:あとは『凍土』でいうと、石川舜さんも書かれてますけど。村上善男さんも書かれてますね。繋がりというか?

佐々木:村上さんはいちばんの繋がりは何でしょう。

三上:三島学園にいた時代?

佐々木:三島学園に入る前ですね。入る前に、画廊の青城かな。

三上:ギャラリー青城。

佐々木:青城さんで知り合ったのかな。ただ村上さんは注射針で注目を受けてたことは知ってるので……。ああ、そうだ、東北現代作家展。いや、そうじゃない、そうじゃない。その前か。その前の仙台アンパン。

細谷:アンパンですか、64年の。

佐々木:ちょうどあれの年だったんですよね、オリンピックね。63年に私、火事を起こしているので、その64年だから、もうね、仙台アンパンのときはほとんど何もできないから、そのとき作った小っちゃい冊子のカットね、それを担当しただけなんですよね。それと、あの黒い絵を本当に一晩で1点(笑)。3点揃えて、あれは80号かな、80号か60号ですけど、一晩で描いた。それもアトリエじゃなくて教室なんですよ。アトリエなんてものはまだ持てなくてね。教室は空いているんですけど、夜中、油使うと匂いがこもる。もうね、2、3時間前にやめて、換気扇ガンガン回して部屋全部開けてね、子どもが来る前に匂いをとらなくちゃいけない所で描きました。はははははは。

三上:村上さんが美術館ができた後のことについて、3号ですかね、次の号で、今まで宮城県の人が現代美術を見ることに慣れてないという話を書かれていた。行ってみたらみんな触りまくりでという感じで。

佐々木:何せね、村上さんは盛岡に行くとまず良く言う人がいないんだよね。何なんだろうねっていうくらいね、すごいひどい言い方してるんだよ。あそこに、いまだにやってるあれがあるじゃないですか、絵の塊が岩手に。

三上:エコール・ド・エヌ?

佐々木:何だっけ。俺もそれに呼ばれて参加して。

三上:エコール・ド・エヌですね。

佐々木:うん。あそこの連中なんか、みなとんでもないひでえこと言ってる。

三上:大宮政郎さんが人望があって。

佐々木:村上さんはほら、生活文化大に来たから。生活文化大にうちの娘が入ったときにはもうね、(村上さんは)いなかったんですよ。もういなくなったんだね。

三上:ちょうど『凍土』で……

佐々木:でも仙台のあそこに籍があるうちは、何かといっちゃあ夕方、飲み屋であって、一緒にお話ししながら飲んだり。あの人、だいたい夜のご飯を飲み屋であれしてましたね。

三上:「炉ばた」(仙台市国分町にある飲食店)とか行ってましたね。

佐々木:「炉ばた」も行ってましたね。

三上:天江(富弥)さんが店主でいた頃。

佐々木:ニシンの、焼いたニシンの1匹ドーンとあれして飲んだりしてましたけどね。それでね、途中でパッと立つんだよ。いかにも忙しいんだ(笑)。「じゃあまたね」みたいなね。

細谷:石川舜さんの印象ってどうですか?

佐々木:石川舜さんはね、僕が思うのに、やっぱりエスプリ・ヌウボオのできあがるあたりに、もっとずっと若くて中学生か高校生かそのくらいで何か接点があったんだね、うん。私もね、彼の……一番町のどこかあの辺に住んでたみたいだから。中華屋さんかな、やってた。

三上:今、141ビル(三越定禅寺通り館)があるあの辺り。

佐々木:うん。それでね、店で中華作ってることなんかもありましたよ。何でもなく、いかにも上手にパッパッとやってあげて出したりなんかしてくれてましたから。

三上:さっきいろいろファイルされてましたけど、地元の作家でこの人というのはありますか?

佐々木:宮城県で言えばやっぱり舜ちゃんかな。私の知ってる範囲ではね。あと今を盛りの青野(文昭)くん。青野くんの、この間の、でっかい、あそこの6階使ってやっていた……

細谷:せんだいメディアテークの。

佐々木:あれはね、なんだか古家具だけがいっぱいで、古家具の匂いだけがして、ちょっと広げすぎて、何を見せようとしてるんだか。ちょっと神がかったようなところもあったりして。僕はあの人の、前にやってる作品で言うと、やっぱりあの壊れた家具や何かをぎゅっとさらに潰して形にして、すごいね、鋭利な中にある種の美しさがあってという、いい作品を見てるので、あそこではね、何かやりすぎて、ちょっとこれはどうなのかなと思って、うん。しかもね、あれ順番に見ないと成り立たないのに、その順番が最後までわかんなかったのね、いろんなもの渡されたのを見ても。だから誰かがそれを、うろうろ、ただあっち行ったりこっち行ったりして見てる人がいたら、それ(順路)をちゃんと指示(する人がいればよかった)。

細谷:ルートを?

佐々木:うん、ルートに乗せることをしなければいけなかったと思う。いちばん最後に見るべきものをもう先に見ちゃったりして。

細谷:あの大きいやつですね。

佐々木:ええ。あれがちょっと汚らしくてさ(笑)。うん。そのまんま「すごい」とは言いがたかった。つまんないところでやりすぎてるなっていう、そんな感じで見てましたけど。遠い親戚にあたるんですよ、あの人のね。お母さんを私が抱っこしたことがある(笑)。私の、何だろう、従兄弟。従兄弟といっても、その従兄弟が、叔父にあたる私の父親とほぼ一緒に育ってるというね。昔のことだから、私の父親の母というのが、前の奥さんを亡くして後添いでできた最初の子がうちの親父で、あと妹がいて弟がいるんですけど。その連中と、長兄の、さっきのあれに載ってた祖父さんの子どもが一緒に育ってる。甥のほうが叔父さんより齢が上。2つくらい上で、一緒に育ったんだと。あそこに写ってたお祖母ちゃんの次男の人が強寿(つよし)さんというんだけど、強いという字に寿で強寿さん、その人が私と従兄弟にあたるんだよね。その従兄弟の子どもが青野さんと結婚して、青野くんが(生まれた)。

三上:青野さんと話をしたことは?

佐々木:あります。そのことを話したよ。「どこかで繋がってるんだよ」って。

細谷:じゃあそろそろ。もうそろそろ時間も迫ってきたので、これちょっと定番の質問なんですけれども、佐々木さんが、正芳さんが長年に渡る創作活動の中でもっともいちばん大事にしてきたこと。それは幼児教育でも関わるかもしれませんが、大事にされてきたことっていうのはどういったことですか?

佐々木:やっぱり自分のオリジナリティかな。それとね、日本のもっている美というかな、何かそれを失わないようにというようなあれがあるんだよね。

三上:具体的に日本の美というのはどういった?

佐々木:どういうことでしょうかね(笑)。やっぱり運慶にあらわれているようなものみたいな。

三上:運慶の作品が象徴的に。

佐々木:それから絵だと(葛飾)北斎か。あそこまで描けないけどね。ピカソも降参してるんだよ。

三上:佐々木さんはずっと社会的なテーマがあったと思うんですけども、今の日本とか世界の政治状況とかいろいろおっしゃりたいことがあると思うんですが。

佐々木:何にも変わらないのかなという感じね。うん。だってイスラムなんて何も変わってないじゃん。まあ、仏教だって何も変わってないでしょうけど。仏教っていうのは怠慢だと思うんだよね。ふふふふふ。だってそれでいてね、仏教徒ではないんだよね、自分はさ。うん。それでいてお線香あげたい気持ち、花を供えたい気持ち、それはあるんですよ。だから生活仏教というものがある。ふふふふふ。それはお寺さんが広めたのかもしれないけど、お寺がさ、仏教の経典の中に言っていることをもうちょっとわかりよくさ、しなくちゃいけないよね。いつまでも中国の言葉でやってたらさ、何も伝わらない。だから私、家内の葬式するとき、無宗教でやったの。それは宮城さんの葬式に出て、ああ、これいいなと思った。無宗教でやって。それ葬儀屋に言ったら「何でもいいですから」って。うん。そうすると、まあ……。いやね、兄貴とね、おふくろを同じ年に一遍に(亡くして)、2、3カ月違いくらいで葬式出した。で、おふくろのほうが後なんだよね。兄貴が先に亡くなって、その後、おふくろが98(歳)か何かで亡くなってね。亡くなるところをちょうど私は病院に行ってて見ましたけどね。甥っ子2人いたんだけどちょうどどこかへ出て行って。それをすぐスケッチしました。うん。どこかにある。どこかに入れて、なんだか見つからないけど。

三上:もう1つ、(東日本)大震災、2011年3月11日、あの日はどこにいらっしゃいました?

佐々木:あのときは向こうの居間の、私がこの間ね(座っていた)2脚ある片方、いちばん入口に近いほうに座って、この間私が座ってたところに長男が座ってね。テーブルの辺りには新年度用品、次の年度の……

三上:3月、4月ですもんね。

佐々木:うん。それを品定めして、今度はいろんな所からみんな持ってきてあるので、それ開けて、こっちのほうがいいとか何を取るかなんていうのをやってるところをガーッときた。後ろが観音開きの戸で、何のあれもなかったのね。みんなガラスや何か落っこって、後ろで粉々になって、目の前のテレビは転がり落ちそうで。息子がまずはあそこのガラス戸を開けてね、そこに立ってて、「いいから立つな。そこに座ってろ」なんて言われてさ。それで本当に揺れるのを見てましたよ。うん。すごいんだもん、視覚が視覚じゃなくなった。それくらい揺れてるんだよね。そこをね、カラスがワーッと飛んでいった。

三上:あの日の光景と、それ以降のテレビとか沿岸部に行って見てる風景とか、僕のなかで風景というのが全然変わってしまった気がするんですけれども。

細谷:沿岸部の風景が……

三上:あれ以降、変わったものってありますか?

佐々木:何も変わらないですね。ふふふふ。だって地震はその前もあるでしょう。宮城県沖。あれは向こうで、何だ、その地名が出なくなったりして……そうだ、南光台だ。そこにアトリエがあったとき。前にいた所でね。それは木造でしたからけっこうね、外に飛び出して、本当にこうなってるんですよね。それで傷んだ所があって直したりしました。しかも幼稚園はそのとき、かなりね、見ると園舎のほうへちょっと傾いてるように見えたんですよ。長い建物なんですけど、それを建て替え工事に入りました、その前の宮城県沖地震のときね。

三上:いちばん最後の定番の質問をしましょう。

細谷:これからいろんな形で表現活動を志す人とか、あるいは若者に、何かメッセージでもあれば。

佐々木:ええとね、いや、いろいろ若い人がやってるのを見て、私はね、感心してるんですよ。私らが何か新しいこと、人のやらなかったようなことをやらなくちゃいけない、前衛であれと言われたあたりに、どこ見てもみんなやってあるんだよね(笑)。みんながやってないことなんて何もないんじゃないかみたいに思ったんだけど、今やってる人たちって、やっぱりね、電子社会に入って、その中で赤ん坊のときからこんなことして育ってきて、何でもなくそれを受け入れて、それを使って表現したりして、それで、へえ!と思うようなことを平気でやってるんだよね。それができてる。だからある意味、いいんじゃない? こっちは手でやるか、せいぜい吹き付けの機械を使ったくらいでさ(笑)、何か新しいことやったようなつもりになってみたりしたけど、それなりに思いついたものをやっていけばいいんじゃないのかなって思いますよね。それと圧倒的に違うのは、豊かな文化の中で育ってるということ。うん。だって私なんか油絵なんて河北展で初めて見た。ふふふ。それまであの達磨と、それからあれです、お父さんを写真で描いてくれた肖像画。これはね、今見て本当にデッサンのしっかりした人のいい仕事だと思います。あのくらい(私は)描けないなあと思うくらい、よくできるんだ。

三上:擦筆画。

佐々木:ええ、擦筆画ですね。それが新聞の記事になってたけど。その、絵描きさんなんていうのを初めて見たんだ、そのとき。羽織袴でね、来たんだね。すごいハンサムな男の人でさ。座る格好といい、お辞儀する姿といい、何とも立派でした。はぁ(見惚れるように)と思って見てた。そしたら額縁に入った写真を、やっぱり写真を引き伸ばしたのと違うんですよね。絵なんですよ。よくできてると思いますね。

細谷:絵をこれから志す人たちに何かアドバイスというか、言葉があれば。

佐々木:さあ、それはね、本物をやっぱりたくさん見ることじゃないかなと思うんですよね。昔の絵でも、それからピカソの絵でもね、実物をしっかり見ること。印刷物じゃわからないものをね、それで受け止めるから。あとは何だろうね。何かもう若い人はバンバンやるんじゃない? ふふふ。

細谷:長々ありがとうございました。本当に多岐に渡るお話で、興味深く聞かせていただきました。

(了)