編集者、元『草月』編集長(1986–1998)。
1946年、佐賀県生まれ。早稲田大学法学部卒業。1971年より株式会社草月出版に勤務し、いけばなとともに美術、文学、音楽などを扱った草月会機関誌『草月』の編集に携わる。1986年から1998年までは編集長を務めた。第1回では生い立ちから草月出版への入社まで、入社前年にリニューアルしたばかりの『草月』編集部の様子、海藤日出男をはじめとする『草月』の関係者についてなどをお聞きした。
戦後の草月会機関誌は『草月人』(1949–1950年)、『草月』(1951–1955年)、『いけばな草月』(1956–1969年)、『草月』(1970年–現在)と変遷する。1951年創刊の『草月』は編集に勅使河原宏、安部公房、桂川寛が参画。いけばな批評を美術評論家にゆだね、書き手に文学者や美術家らを多く起用したことから、いけばなを造形芸術として確立しようとする当時の彼らの志向がうかがえる。この方針は以後の機関紙にも継承され、1970年に改題、新装した『草月』は、その内容と大判増ページによる刷新が話題となった(読者投稿欄の名称は、「ラウンド・テーブル」だった)。なお本文中、『草月』の記事は号数と年月のみを表記した。
鏑木:あらためまして、本日はどうぞよろしくお願いいたします。
立川:よろしくお願いします。
鏑木:最初に、立川さんご自身のことをおうかがいできればと思います。お生まれやご家族、ごきょうだい、学生時代のことなどを教えていただけますでしょうか。
立川:生まれは1946年12月22日です。九州の佐賀市生まれです。
鏑木:高校を卒業されるまでは、佐賀にいらっしゃったんですか。
立川:いえ。5つまでは佐賀にいたのですが、父が母方の祖父が経営していた工場に勤めていまして、そこが左前になったんです。それで長崎の佐世保から船で1時間くらいの大島というところに、中学校の教師として赴任した。ですから5つからは大島に、小学校6年の12月までいました。
鏑木:12月。
立川:はい。井上光晴が、崎戸というところの炭鉱のことを書いていたでしょう。その隣の島です。
粟田:当時はまだ、炭鉱の町という感じだったんですよね
立川:崎戸も大島も、両方とも炭鉱です。
粟田:大島も、炭鉱の町。
立川:炭鉱ですね。
粟田:その頃の町の雰囲気はどうでしたか。
立川:炭鉱というのはものすごく格差のあるところで、炭鉱夫と職員と呼ばれている人たちとはもう、雲泥の差なんです。
粟田:でも小学校に行くと、一緒になる感じですよね。
立川:ええ。それと当時は佐世保が近いこともあって、たぶん混血の人たちも何人かいたと思います。顔立ちがぜんぜん違いましたからね。そういう記憶がありますね。
それで長崎というのは原爆を受けていますから、かなり反戦教育に力を入れていたように思います。長崎の原爆で被災した、長崎大学の永井隆博士のドキュメンタリー映画『長崎の鐘』を見た記憶があります。だから、戦争は絶対に嫌だ、という考えが植え付けられていますね。
粟田:小学校の授業のなかでですか。
立川:授業でもやったと思いますし、幻灯でも見たような記憶がありますね。修学旅行で長崎原爆資料館にも行きましたし。
粟田:お父様はどんな教育をされていたんですか。
立川:彼は数学の教師でしたけれど、子どものときにチラッと「戦後、天皇制はやめちゃえばよかったんだ」と言っていましたね。
鏑木:それは立川さんがおいくつくらいのときですか。
立川:小学校高学年か、正確には覚えていないな。政治的な話をしたときに、チラッと言っていました。
鏑木:年齢的に、お話の意味はわかる頃。
立川:もちろん。私は小さい頃から、天皇制には疑問をもっていましたから。
鏑木:終戦直後のお生まれですよね。
立川:そうです。大島から都会に行くとなると、佐世保なんですよ。佐世保っていうのは進駐軍がいましたから、たまに行くといい気持ちはしなかったです。威張っていましたからね。それで、ちょっと海が荒れると、米軍がガードしちゃうんですよ。
鏑木:どういうことですか。
立川:嵐に乗じて敵が入ってくる、という想定なんでしょうね。海が荒れると湾の出入り口のところに、海底まで届くような網をカーテン状に垂らすんです。そうすると佐世保から大島に帰ろうとしても、閉まっちゃっているから帰れないんですよ。米軍について言えばほかにもありますが、そういう嫌なことしか覚えていません。
粟田:お母様はどんなお仕事をされていたんですか。
立川:母親は普通の主婦です。母の父親が、戦中は軍需産業をやっていたんですね。そこで儲けて、戦後に板金工場を立ち上げたんです。そこで父も働いていたのですが、左前になって大島というところに行くはめになった。
粟田:ごきょうだいというのは。
立川:4人です。4つ下の弟と、7つ下の妹がふたり。妹は双子です。
鏑木:立川さんは、お兄さんなんですね。
立川:総領の甚六。貧しいのに、総領の甚六というね(笑)。怠け者だし。
鏑木:いえいえ。
立川:そういうことがあるからかわかりませんけれど、弟や妹たちは努力家ですね。
鏑木:ごきょうだいとは、どのようなご関係ですか。
立川:いろいろありましたので、一緒に遊んだ記憶があまりないんですよね。私は勝手に生きていましたからね(笑)。きょうだい愛などは、子どもの頃は薄いですね。
鏑木:少年時代は、どんな風に過ごしていらっしゃったんですか。
立川:なににも興味を持てない人でしたね。
鏑木:こんな遊びに熱中した、とか。
立川:そういうのがないんです。だから、ボーッとして生きていたんです。
粟田:本を読んだりとか。
立川:ぜんぜんない。
鏑木:スポーツとかは。
立川:スポーツもできませんし。勉強は、ちょっとできましたよ。不思議なことに、なんにもしなくても。小学校、中学校くらいまでは。
鏑木:やはりお父様が先生でいらしたことは、関係あるんでしょうか。
立川:どうなんでしょうね。だから自らなにかに向かって努力するとか、なにかが好きだとか、興味を持つということが、ほとんどなかったですね。自分でも不思議なんですよね。未だに、特になにかが好き、というのがないんですよ。だから僕はどういうかたちであっても、なにかが好きな人って、すごく憧れますね。一所懸命できるじゃないですか。それで達成感もあるでしょう。ところが好きなものや趣味がないと、人生であまり達成感がないんです。
それで端折って言いますと、その後、小学校6年の12月に大阪に移った。先生の給料があまりにも安いからって、親父が友だちの会社に入ったんです。それで大阪に3年間いて、高校は横浜です。
鏑木:では中学校は大阪で過ごしたんですか。
立川:大阪です。嫌で嫌で、仕方がなかった。
鏑木:なにが嫌だったんですか。
立川:意地悪だから。
鏑木:大阪の方が。
立川:ええ。やっぱり、ことばがね。ことばの文化がそれだけ発達しているのかもしれないですけれど、ことばに表裏があるんですよ。そのことが、九州で育った人間からすると、よくわからないの。
鏑木:外様のような扱いだったんですね。
立川:もう完全によそ様扱いですね。だからいじめられるんですよ。自然とどこかでいじめられているわけ。それで結構大変だから、早く離れたいと思いました。だから高校に入ったときは、ホッとしましたね。横浜は、ことばに表裏があるわけじゃないから。
鏑木:横浜に移られたのは、どうしてですか。
立川:父親の転勤です。同じ会社なんですけれども、大阪の営業所から本社へ。小さな会社ですけれどもね。
鏑木:横浜に移られてよかったですね。
立川:私にとっては楽でしたね。
粟田:高校生活はどんな感じでしたか。
立川:高校生活もさっきお話したように、なにもしないでボーッと過ごしていましたね。ただね、すごく運動神経が鈍いんで、高校のときにスポーツはできるようになろうと決めました。だから球技とか、もちろんレベル的にはものすごく低いですけれども、できるようになりましたね。それだけは、やりました。
鏑木:打ち込んで練習されたんですか。
立川:いやいや。打ち込んでやったら、1年の夏に体を壊しちゃいましたから。
鏑木:野球ですか。
立川:いや、卓球。
鏑木:卓球部にいらっしゃったんですね。
立川:1年のときはいました。でも体を壊しちゃったから、辞めました。
粟田:高校になると、親からちょっと自由に動けるようになりますよね。
立川:そうですね。僕は1年間、横浜に住んでいた父方の大叔父のところに下宿していましたからね。そういう意味では親元を離れて、自由は自由でした。
粟田:ひとりでどこかに行ったとかは。
立川:いや、そういうのもあんまりないな…… 出不精なんですよね。本当に無精にできているんですよ。
鏑木:映画とか。
粟田:音楽とか、ラジオとか。
立川:いやぁ…… 映画は友だちとよく見に行きましたけれどね。もっぱらアメリカ映画ですね。
鏑木:印象に残っている映画はありますか。
立川:印象に残っているもの…… 試験が終わるたびに必ず一緒に映画を見に行く友だちがいて、昔は2本立てとか3本立てでしたから、そのおかげで『ウエスト・サイド物語』(1961年公開)を16回見ました。
鏑木:それは、大好きじゃないですか(笑)。
立川:好きっていうより、併映しているからですよ(笑)。
鏑木:そうか。では成り行きというか。
立川:成り行きです。
鏑木:でも16回っていうのは、すごいですね。やはり当時、『ウエスト・サイド物語』は映画として新しかったんですか。
立川:そうですね、名曲ばかりで。(レナード・)バーンスタインですね。
鏑木:映画から触発されたことなどはあるんですか。
立川:触発されたというよりも、「俺ってすごくダメだな」と思ったことがあります。『世界残酷物語』(1962年公開)っていう映画のテーマ曲が「モア」なんですよ(作曲:リズ・オルトラーニ)。それで一緒に行った友だちが、「あれ、すごくいい曲だったな」って言うので、「なにが?」って(笑)。後で曲を聴いて、つくづく「俺って音楽がなにもわからないんだな」と思いましたね。
鏑木:そのときは響かなかった?
立川:ぜんぜん響かなかったです。そういうことが多いんですよね。
鏑木:そうですか(笑)。そうは言っても中学高校の頃というのは、いろいろあるかと思います。
立川:中学校のときは、ある意味で防衛するのに忙しくて。それでも少し勉強ができたから、軽減されたとは思います。あれで勉強ができなかったら、たぶん徹底的にいじめられていたでしょうね。
鏑木:勉強はお好きでしたか。
立川:だから、嫌いだってば(笑)。なにもしていない。ほとんどしなかったですね。中間テストや期末テストになると、慌てて付け焼き刃でやっていましたけれど。
鏑木:得意科目はあったんですか。
立川:得意? 社会ができましたね、小学校のときは。
鏑木:歴史などですか。
立川:うん。大島から転校したとき、6年生の3学期だけでしたけれど、大阪の小学校で僕は社会がダントツでできたんですよ。そうすると、皆びっくりするわけです。「この田舎者が、なんでこんなにできるんだ」って。小学校のときだけだと思いますけれど。とにかく勉強が嫌いだから、どの科目が好き、ということはないんですよね。
鏑木:読書はされていましたか。
立川:読書はほとんどしていないですね。たとえば動物学者のシートンっているでしょう。これは覚えているんですけれども、小学校のときに親に「シートンの本を買って」と言って、買ってもらったんですよ。でも、まったく読まない。どうしてなのか、そういう性格って自分でもよくわからないんです。あるとき、シートンという人に興味は持つんでしょうね。それで、シートンの本を読みたいな、と思うけれども、買ってもらうと読まない。
あ、そういえば一所懸命読んでいたのは、貸本屋のユーモア小説。自分にユーモアがないから(笑)。
鏑木:それは具体的にどんな作家のものですか。
立川:いや、もうぜんぜん覚えていないです。
鏑木:子ども向けというわけではないんですか。
立川:いや、子ども向けです。子ども向けのユーモア小説。そういうのがあったんですよ。
鏑木:貸本屋さんの全盛期だったんですね。
立川:全盛の時代です。
鏑木:貸本屋さんには、よく行かれていたんですね。
立川:一時期ですけれどもね。
鏑木:漫画とかは、どうですか。
立川:漫画はね、僕はそんなにたくさん読んでいないと思う。『赤胴鈴之助』とか、そういうのは読んでいましたね。
鏑木:ユーモア小説の方が印象に残っているという感じなんですね。
立川:いや。読んでいたという状態は記憶にありますけれども、なにをどう読んでいたかはまったく覚えていない。ひどいもんですね。漫画は『イガグリくん』とかね。でも手塚治虫は読んでいないな。高校のときはさすがに『世界文学全集』とかが家にありましたから(笑)。
粟田:お父さんが持っていたんですか。
立川:そうですね。親父が買ったんだと思います。『日本文学全集』はなかったと思います。映画はチョロチョロ見ていましたけど、音楽はほとんど聴いてない。僕らの年代では誰しも、ビートルズだけは聴いていましたけれど。
鏑木:そういうものに対しては、娯楽や教養として接していたという感じ。
立川:いや、教養という風には考えたこともないですし、たぶん高校時代に文化ということ自体を考えたことがないと思いますね。絵を見たいとか、音楽を聴きにどこかに行こうとかは、ないですね。大学のときも同じです。
鏑木:大学で法学部を専攻した理由は……
立川:ほぼないですね。
鏑木:そういうものですか(笑)。
立川:ただ、せっかく大学に入ったんだから、と思って、半年くらいは法律の勉強を一所懸命にしたかな。毎日、6時間から7時間くらい。でも向いてないと思って、すぐに止めましたね。それも飽きて(笑)。
鏑木:大学はどちらですか。
立川:早稲田です。
鏑木:早稲田に行こうと思った動機はあるんですか。
立川:ないです。その頃、国立大学の学費が年間12,000円だったんで、できたら国立に行こうと思っていたんです。でも、なにしろこういう性格なものですから、受験勉強を半年もやると、飽きちゃうんですよ。それで結局、遊んじゃう。それでなにもしないでいると、試験のときに忘れちゃうんですよね。受験のときに「あれ? こういう問題をどこかで見たことがある。考えたことがあるんだけどな」と思って。そういうことが2年つづいて、2浪しました(笑)。
鏑木:そうでしたか。2浪で早稲田に行かれたということは、大学に入られたのはいつですか。
立川:1967年。現役なら1965年に入るんですよね。
鏑木:最初は法律の勉強をされていた。
立川:そうですね。1年生のときは遊ぶと決めていたんで、(出身高校の校友会である)横浜翠嵐高校稲門会といったかな。そこで結構、遊んでいたんですよ。ダンスパーティを開いたり、飲んだりとか。1年間はそういうことをして過ごしましたね。
鏑木:青春を謳歌されていますね(笑)。
立川:まぁ許してくれるだろうと思って(笑)。1年間は遊ぼうと思ったんです。
鏑木:やっぱり楽しかったですか。
立川:楽しかったというか、友だちは増えましたけれどね。
鏑木:それは大事なことですよね。
立川:でも、つづいていないですよね。やっぱり遊び友だちだから。
鏑木:そうなんですか。パーティのほかには、どんなことをしていたんですか。
立川:ハイキングとか。
鏑木:遊ぼうって決めていらしたというのは、やっぱり高校までの学生生活で……
立川:いや、遊び癖がついているんですよ(笑)。私はさっきお話しましたように、とにかく怠け者ですから。勉強はしないし。
鏑木:羽を伸ばそう、という感じなのかと思ったのですが。
立川:羽を伸ばそうじゃなくて、昔の楽な生活に戻りたい。なんもにしない。情けない話ですね(笑)。
鏑木:いえいえ(笑)。法学部に入られて、将来のお仕事も見据えていらしたかと思いますが、いかがですか。
立川:それで2年生になって、法律の勉強をしようと思って始めたんですけれども、半年くらいで「あ、無理」って(笑)。
鏑木:具体的に、なにを目指していらしたんですか。
立川:弁護士になろうと思ったんです。
鏑木:それで勉強してみて、やっぱり無理だな、と。
立川:無理だと思いました。飽きるし、覚えられないし(笑)。
鏑木:法律関係のお仕事はいろいろあると思いますけれど、他の仕事のことは考えられなかった感じでしょうか。早稲田の法学部は皆さん、弁護士を目指しているんですか。
立川:いや、そんなことはないと思いますよ。弁護士になりたいとか、司法関係の仕事に携わりたいという人は1年のときから勉強をしています。だからそういうサークルが、いくつかありましたよ。
鏑木:法律関係の仕事に就くための勉強会。
立川:そうです。要するに勉強会。
鏑木:そういう方たちとは距離を置いていたという感じですか。
立川:距離を置いてというか当然、志が違うわけですから。敬して遠ざける。
鏑木:その後、将来のお仕事についてはどうしようと思っていたんですか。
立川:もう、将来のことが考えられなかったんですけれども、やっぱり4年生になったときにはさすがに、人には言えなかったですけれども、すごく焦っていましたね。それでいくつか普通の企業を受けましたが、試験勉強をしていませんから、採用してくれるわけがない。出版社もいくつか受けて、3次か4次くらいまでいった出版社もありましたけれど、皆落ちました。
それで奇特な友だちがいて、『草月』の編集部員募集の広告を見せてくれたんです。(71-73号、1970年の奥付に掲載された「草月編集部員募集」を見ながら)そのなかに「11月末日まで」と書かれた広告があるでしょう。たぶん、それを見たんです。
鏑木:73号(1970年10月)ですね。
立川:そうです。友だちの妹が草月流をやっていて、それで一応、心配してくれたんだろうと思うんですけれども、その人が「こういうのがあるぞ」って見せてくれたんです。広告には履歴書のほかに「自筆の原稿400字×3枚(テーマは自由)」とありますが、なにを書いたかは覚えていないんですよ。ぜんぜん覚えていない。だから、たまたま入ったんです。
この雑誌を見たときは、もちろんいけばななんてまったく知らないわけです。でも4年生のときに、なんとなく美術や文学志向のグループと付き合っていましたから、その分野に多少の興味はあったんだろうと思うんですよ。たとえばその頃、古本屋でダリの1枚刷りのグラビアを買ってきた友人がいて、「すげえだろ」って見せられるんですよ。その人は、すごく感動しているわけ。それで「そうなの? こういうのに感動するの?」という感じで、なんとなく見ていましたね。池田満寿夫の版画を最初に見たときは、「なんだ、この絵は。空に窓がある。おもしろい」とは思いましたよ。その程度ですよね。でも、漠然とそういうことに関わりたいな、という。文学とかね。そういうことがあったので出版社を受けましたし、この『草月』を見ても、いけばなのことはわからないけれど、ほかのページを見るとバラエティー豊か。(73号の目次を見ながら)「詩+写真」なんて、すごくおもしろいと思いましたね。
鏑木:「詩+写真」は『草月』リニューアル初期のコーナーで、特徴的な記事のひとつですね。
立川:そうです。すごくおもしろい発想だなって思いました。
鏑木:詩人と写真家が、毎回違う組み合わせでコラボレーションする。
立川:これはね、最初に写真を選ぶんですよ。写真を選んで、それを詩人に持って行くんです。それで、詩を書いてもらうんです。
鏑木:そうなんですね。では編集部員募集とともに、雑誌本体もご覧になったんですね。この号の「詩+写真」は、関根弘さんと東松照明さんです(関根弘「吉原細見」+東松照明《海の花》)。
立川:東松さんは沖縄の海の写真で、すごく強烈でしたね。それから福沢一郎さん画・文の「ギリシャの旅」。こういうものを見て、ひょっとしたらおもしろいかも、って思ったんです。
(目次を見ながら)あ、金井美恵子だ(金井美恵子「恋人たち」、画・宇佐美圭司)。金井美恵子さんは、多少読んでいたんですよね。だから「デビューしたばかりの金井美恵子を掲載しているんだ。そういう雑誌なんだ」と思ってね。
鏑木:後ほど詳しくうかがいますが『草月』はいけばなと、美術や文学などを同じ芸術として掲載している雑誌です。記事の執筆者とそこに絵を描いている人が等しく扱われていることも、特徴的だと思います。
立川:金井さんは私が20歳の頃、『現代詩手帖』に投稿していた詩を読んだんですよ。それに衝撃を受けて、何回か連続で読んだ記憶があります。「すごい人がいる!」と思った。金井さんは確か、僕より年下ですよね(1947年生まれ)。金井さんがきっかけになったのかどうかわかりませんが、この頃、森万紀子さんとか、大庭みな子さん、倉橋由美子さんといった女性作家の小説を何冊かつづけて読んだ覚えがあります。
鏑木:ちょっと話が前後してしまいますけれど、67年に早稲田に入られて、この頃は早大闘争などがあったと思います。
立川:ロックアウトしていたかな、ともかく学校にはほとんど行っていませんから。していたとすれば、早稲田の法学部は民青(日本民主青年同盟)が強くて、たぶん他のセクトが封鎖したんですよね。これは後から聞いた話ですけれども、民青はあかつき部隊という武闘の部隊を持っていて、そこがロックアウトを解除したと。そう記憶していますから、私が入った頃、法学部は封鎖していなかったと思いますね。他の学部はしていましたけれども。
鏑木:立川さんご自身は特に関わりはなかった。
立川:私は当時でいう、ノンポリです。別に政治に関心がなかったわけじゃなくて、関心はすごくあったんだけれども、学生運動にはあまり興味がなかった。興味がなかったというか、たぶんすごく小心者で臆病だから、ああいう暴力沙汰は嫌なんですよ。
鏑木:そういう方は当時、たくさんいらっしゃったのではないかと思います。
立川:それに学生同士でツノを突き合わせて何派だ、何派だって。内ゲバなんて、バカなことをやるな、と思っていた(笑)。
鏑木:少し引いて見ていたところがありますか。
立川:引いていましたね、完全に。要するに学生運動をやっている連中が、参加しない人たちをひっくるめて、ノンポリと呼んでいた。社会的にも、そう言えば十把一絡げにできる。その頃たぶん無気力とか、そういうことばが流行ったと思うんです。私はその無気力世代の典型です。フーテンもいましたしね。簡単に言えば、日和見ですよね(笑)。だけど僕と違って、4つ下の弟は随分やっていましたね。
鏑木:そうでしたか。それは世代的なこともあるんでしょうか。
立川:どうなんでしょうね。弟は4つ下で1浪して、僕は2浪していますから。
鏑木:同じ早稲田なんですか。
立川:いや、あいつは東大に行って、1年でやめて、また浪人して京大に行っています。「東大は嫌い」とか言っていた(笑)。そういう人でした。だけど本当に勉強家でしたから、どちらに入っても当然というか。それで東大でもやっていましたが、京大に行っても学生運動をやっていたんじゃないかな。
鏑木:この頃の立川さんのお考えをお聞きできて、よかったです。それで当時の『草月』と編集部員募集の広告をご覧になったのが、きっかけだったわけですね。
立川:そのときの試験は、面接だけだったんですよ。それで(同期が)3人入ったんです。ひとりは女性で、東京芸大の美学を出た人。
粟田:芸術学科ですね。
立川:ところが3人入って、ほかのふたりが半年も経たないうちに辞めちゃったんですよ(笑)。
鏑木:どうしてですか。
立川:言い方がすごく難しいんですけれども、あるとき僕はその女性から日曜日に呼び出されたんですよ。それで「立川さん。私、辞めようと思うのよ」って言うんです。だから、「なんで?」って聞いたの。別にそんなにきつい仕事ではないし、まぁきついことはきつい仕事ですけれどもね。そうしたら「立川さんを見ていて、『私は無理』って思った」と言うから、「なにを言っているの、あなた?」って思った。だって彼女はちゃんと美学の勉強をしていて、僕は完全にフーテンだから。だから「なにを見てそう言っているの」って彼女に言ったんですけれども、辞めちゃったんです。
もうひとりは、会社に来なくなっちゃった。その人は自称詩人(笑)。名前は覚えていないな。
粟田:立川さんが入られたとき、編集部は何人いらっしゃったんですか。
立川:楢崎さん(楢崎汪子、ならさき・ひろこ 1925-1987。『草月』『いけばな草月』を経て、1970年から1974年までリニューアル後の『草月』初代編集長を務めた)がいて、もうひとり新井さんという女性がいて、東大の4年生がふたりアルバイトでいたんです。
(100号記念特集号、1975年6月に掲載された写真「三田の編集室で」を見ながら)佐藤(絹子)さんがいたんだ。小坂井(澄夫、ノンフィクション作家の小坂井澄)さんは尊敬すべき先輩で、随分お世話になりました。小坂井さんは『いけばな草月』の後に、『週刊明星』の記者になった。その後、草月流の流史『創造の森 草月1927-1980』(草月出版、1981年)を執筆されています。
(同じく写真「赤坂タカラ椅子会館の編集室」を見ながら)うわぁ、懐かしい。これが大岡(信)さん、加納(光於)さん。これが海藤(日出男)さんですね(1912-1991。1970年から『草月』顧問、1974年から1986年までは編集長を務めた)。
粟田:(掲載されている写真の)年代がまちまちなんですね。(同じく写真「赤坂草月会館地下の編集室」を指して)この地下の編集室の写真が、最初の頃ですか。
立川:そうです。これが私の入った頃です。
鏑木:設計した丹下健三が、倉庫としてつくったという部屋ですね(100号記念特集号の立川による記事「地上から地下へ」にあるエピソード)。
立川:そうです。あの記事はどうして私が書いたんだろう。それで結局、明治大学で教えていた大岡さんに頼んで、彼の弟子というか教え子を紹介してもらって、その秋にふたり入ってきたんですよね、アルバイトとして。それで、次の年から社員になった。
鏑木:立川さんが入ってすぐ、同期のおふたりが辞めてしまったから。
立川:だから困っちゃったわけですよ。東大のアルバイトふたりも僕が入ってすぐ、3月末にひとり辞めて、4月か5月にふたり目も辞めちゃったんですよ。ひとりは銀行に入って、もうひとりの東大の人は、この人も自称詩人でしたが、社員になるかどうかっていうときに、それは嫌だということで辞めちゃった。
楢崎さんは東大が好きで、それでまた東大にアルバイトの募集をかけて、来てもらっていましたね。最初はそういう回し方をしていました。
そういう意味では、すごく忙しかった。なにも知らないんですよ、僕。だってレイアウトのレの字も知らないんですもん。
鏑木:当時の編集の方たちは、割付もやっていらしたんですよね。
立川:昔は原稿をもらうと、清書するんです。つまり、生原稿に文字指定をするわけにはいかないから、まず原稿を書き起こして、次に読み合わせをする。それだけだって、すごく時間がかかるんですよ。
鏑木:清書を印刷屋さんに渡して、活版が上がってくるということなんですね。その時代の編集を、われわれは全然知らないんです。
立川:今は編集者と筆者との関係も、ものすごく変わっているわけです。昔は筆者のところへ、直接原稿を受け取りに行っていましたから。原稿を依頼するときは、必ず先に手紙を書くんですよ。「着いた頃にお電話を差し上げます」と書いて、それで電話をして、場合によっては打ち合わせもある。ものすごい手間暇がかかるんです。
鏑木:本当ですね。今は原稿依頼がメール1本のときもありますから。
立川:でもその方が、人が育ちます。
鏑木:おっしゃる通りだと思います。そういう段階を経て、信頼関係ができていくわけですもんね。
立川:ええ。僕はそういう意味で、ずいぶん筆者の方々に育てられたと思いますね。
粟田:最初に担当したライターの方や欄、コーナーというのは覚えていますか。
立川:最初に担当した人は…… 誰だろう。(75号、1971年3月の目次を見ながら)連載「植物学への招待」の岩波(洋造)さんですよ。植物学者ですね。この人はとてもユニークな方でしたね。
粟田:ラインナップというのは、編集部のメンバー皆で決めるんですか。
立川:そうです。ただ、門田勲さん(かどた・いさお、1902-1984)なんかは“ありがたもの”と言いまして、基本的には編集長が担当して、要するに原稿を依頼して書いていただいたものではない。門田さんは勅使河原蒼風さん(1900-1979)の奥さん、葉満(はま)さんというんですけれども、その親戚筋だと聞いています。
鏑木:そうなんですね。『いけばな草月』の前身の『草月』の最初から、ずっと変名「無舌子」で書かれていますよね。少し調べたら朝日新聞の学芸部長などもされていたようなので、どういう繋がりなのかと思っていたんです。
立川:門田さんが書かせろと言ってきたのか、蒼風さんが気を遣って書いてくれませんか、と言ったのか。蒼風さんは人を持ち上げるのがうまい人だから、たぶんそういうこともある。どちらかはわかりませんけれど(笑)。ともあれ、門田さんは名文家として知れ渡っていた人です。
粟田:この当時、(勅使河原)宏さん(1927-2001)ももういらっしゃいますよね。
立川:(草月出版の)社長が宏さんでしたね。
粟田:宏さんのネットワークというのもあるんですか。
立川:宏さんのネットワークは、水上勉さんですかね。ちょっと後に「育てる思想」という連載をされています(95号、1974年8月から)。
鏑木:それでは宏さんの意向はそこまで強く働いているわけではなく、一部そういった記事もあるという感じなんですね。
立川:うん、一部だけですね。(前述の立川による記事「地下から地上へ」に)2号だけ粟津潔さんにレイアウトを頼んだ話を書きましたけれど、あれはもう青天の霹靂でしたね。なにも言わないで突然「頼め」と言うから、「えーっ!」となって。
粟田:勅使河原宏さんが。
立川:うん、そうです。だから、頭にきたので書きました。
粟田:頭にきたから書いたんですね(笑)。
立川:はい。結構、編集部員の皆が頭にきていました。粟津さんにではなく、(勅使河原)宏さんのやり方に。僕が書いたのは、そういう意味です(笑)。
鏑木:トップダウンだったですね。
立川:だからかなり大変だった。だけど、後は懲りたんだと思いますね。
鏑木:うまくいかなかった?
立川:うん、うまくいかなかったですね。
鏑木:ラインナップや関わる人々の選定に、蒼風さんや宏さんの意向がどのくらい反映されているんだろうと思っていました。でも今のお話だと、そこまでではなさそうですね。
立川:『草月』は草月会の機関誌ですから、(記事のために)いけばなの作家に「いけてください」という依頼をします。それを写真に撮って掲載するわけです。その人選は、家元である勅使河原蒼風さんが全部やっていました。亡くなるまで。
鏑木:毎号、巻頭は必ず蒼風さんの作品のグラビアですよね。
立川:そうです。いけばなの作品に関しては、誰にいけてもらうかも含めて、蒼風さんが全部やっていました。
鏑木:そこにはやはり、草月会の会誌としてのスタンスが非常にはっきりと反映されるわけですね。
立川:はい。1980年に(第三代)家元が勅使河原(宏)さんになってからは、勅使河原さんの作品(図版)の選定だけは彼がやっていました。“いけ込み”というんですけれども、毎月作品をつくるんですね。その写真をストックしておいて、そのなかから選ぶんです。たとえば季節をテーマにして選ぶとか。そういうことはしていましたけれど、ほかのいけばな作家の人たちに依頼するのは全部、編集部でやっていました。宏さんの代になってからはね。
鏑木:それは大きな違いですね。
立川:まったく違います。経費面からいうと、草月出版の負担が増えた(笑)。
粟田:1972年に『草月』で「いけばな論草月賞」を開始したとき、立川さんは編集部にいらっしゃったんですよね。どういういきさつで始めたんですか。
立川:海藤さんの発案です。(118号、1978年6月の「いけばな論草月賞募集」を見ながら)最初の入選者は佐瀬智恵子さんか。第2回入選者の海老塚暁泉さんというのは、海老塚耕一さんのお父さんですよ。
鏑木:そうなんですか。
粟田:海藤さんはどんなことを考えていたんでしょう。
立川:美術と同じように、いけばなを一所懸命にやっている人たちが、それについて考えないわけがない。いろいろなことを考えているはずだ。それをことばにして発表してもらいたい、というような趣旨ですね。応募者はほとんどが実作者ですから、ほぼ100%。応募規定ではテーマ分けしてありますが、基本的にはテーマがあってもないような感じになるんですけれどもね。
もうひとつは、『美術手帖』の「芸術評論募集」があるでしょう。あれに対抗するようなニュアンスも、若干ありましたね。だから賞金が高いんです。入選作は20万円ですよ。
鏑木:すごい。
粟田:『美術手帖』の場合は書き手を発掘するということもあると思いますが、「いけばな論草月賞」にもそうした趣旨があったんですか。
立川:若干、そうしたこともある。若干じゃない、半分以上はそういうこともあったかな。いけばなをやっている人たちに、いけばなを批評してもらう。
粟田:その後、実際にはどうだったんでしょうか。
立川:結構、書いてもらいましたよ。だからやっぱり、書き手ですね。実作者の書き手が欲しいという、そういうことが海藤さんの頭にあったと思います。「『美術手帖』はいくらだ」って、気にしてもいましたね(笑)。でも『美術手帖』の場合は、批評家を発掘しようという明確な意図がありますからね。もちろん『草月』にも、いけばなについて批評を書く実作者っていうのが生まれなかったわけじゃないですよ。
鏑木:今のお話だと、どちらかというと、作家が自分のことばで語れることが必要、という趣旨なんですね。書き手の発掘ということも、もちろんあったと思いますけれども。
立川:発言をしてもらう、というかね。ええ。
粟田:審査員も、海藤さんの意向ですか。
立川:そうです。
鏑木:ずっとこのおふたりですね。
粟田:中原佑介さんと、大岡信さん。
鏑木:少し話を戻して、立川さんが担当された記事は、ほかにどういったものがありますか。
立川:(75号にある(T)「新刊紹介 別所直樹著『はなやかな才女たち』」を見て)これ、ひどいですよね。これはたしか、まだアルバイトのときに書いたんですよ。記憶にあります。随分、乱暴なことを書いているな…… (奥付の発行日を見て)そう、3月20日だ。2月くらいに入ってすぐ。アルバイトによく書かせるな、って思いますね(笑)。
鏑木:入社が決まった後は、アルバイトをされていたんですね。
立川:はい。「すぐ来てください、明日からでも」というから、「それは助かります」とか言って。アルバイト料が入りますから(笑)。
鏑木:正式な入社は、4月1日ですよね。
立川:はい。でも私、大学を卒業したのが6月なんです。授業料を使い込んでいたんで、その分を大学に持っていって、引き換えに卒業証書をもらいました(笑)。
鏑木:そんなことがあったんですか(笑)。では1971年の6月に卒業されたんですね。
立川:卒業証書には3月31日と書かれていますけれどね(笑)。ひどい息子ですよ。
鏑木:最初の頃は、どういったお仕事をされていたんですか。
立川:もう、全部やらされました。
鏑木:編集部のなかで、書き手に対する担当があるわけですよね。
立川:(『草月』の目次を見ながら)土門拳の連載「わが古寺巡礼」は、土門さんのお弟子さんで中村春雄さんという、すごく写真の焼きの上手な方がいたんです。もともとは写真家なんですけれども、土門さんに「お前はそっちに行け」と言われたという方です。
土門さんは、実は私の高校の先輩なんですよ。だから高校に入ったときに、「先輩に土門拳という人がいる」とは聞かされていた。
鏑木:そうでしたか。立川さんは、土門さんの担当をされていたんですか。
立川:いや、土門さんに関しては全部、中村春雄さん経由です。だから中村さんが土門さんの指示で写真を焼いて、それで中村さんのところに原稿が届いて、という。
鏑木:この土門さんの連載は、かなり長くつづいていますよね(70-126号、1970-1979年)。ずっと立川さんがかかわっていらしたのですか。
立川:いや、僕って決まっていたのかな。決まっていたかもしれません。というのは、僕は中村さんに随分写真のことを教えてもらいましたから。「ダメだよ、こんなんじゃ」とか言われてね(笑)。基本的に『草月』の記事の写真は全部、中村さんのところで現像していたんですよ。
鏑木:立川さんがご自分で撮った写真ですか。
立川:ほかの編集部員の写真も、全部です。
鏑木:そうか。当時、記者の方たちは撮影もされていたんですか。
立川:もちろんです。「全部できなきゃダメだ」というのが、基本方針でしたから。
鏑木:そう考えると、編集ってすごいお仕事ですね。写真も撮れなきゃいけない、文章も書けなきゃいけないし、レイアウトもできなきゃいけない。
立川:写真に関して海藤さんに言われたのは「とにかく前へ行け。『おい、ダメ!』って言われるまで前へ行け」ということ。その頃の編集部にあったカメラは標準の50mmレンズのものだけですから、「前に行って撮れ」と言われましたね。
写真で最初に出合ったのは、森山大道です。大学のときにね。どうして森山大道に興味を持ったのかは覚えていないですけれども、「この人はすごい写真を撮るな」と思った。大学3年か4年のときかな。
鏑木:なにでご覧になったんですか。
立川:なにかな。
粟田:アレ・ブレ・ボケの頃ですか。
鏑木:『Provoke』(プロヴォーク、1968-1969)の頃ですね。
立川:犬の写真かな…… とにかく衝撃を受けましたね。他の写真を見ているわけじゃないから、なんでそう思ったかはよくわからないですけれど、森山大道さんは覚えていますね。そういうものがポツポツとあるんです。たとえば文学にしてもそれほど深くはやっていないですけれども、そういうことが小さいながらも積み重なって、それで出版というのに結び付いたのかなという気がしますね。
鏑木:立川さんが企画した記事もあったと思いますが、いかがですか。
立川:この頃はどうかな。(リニューアルが)70号から出発しているので、その後もどこかでリニューアルしているんですが、そのときには出したかもしれません。
鏑木:初期はまだ、そういう感じではなかったでしょうかね。『いけばな草月』が1970年に70号で『草月』にリニューアルしたときは立川さんはまだ入社していませんが、次のタイミングで連載が増えるのは1974年くらいかな。飯島耕一さんの「女…その世界」とか、高橋睦郎さんの「人形考」とか。94号と95号(1974年6月、8月)では「年表・いけばなの歴史」とか「図説・いけばなの歴史」とか。
立川:それらはたぶん、楢崎さんの企画ですね。飯島さんは、「楢崎さんに、死ぬまでやれと言われた」と言っていましたからね。楢崎さんは、すごく優秀な方です。昔は詩人だったと、それは日向(あき子)さんから聞いたのかな。確認した話ではないんですけれども、楢崎さんは岩波書店で辞書の編集をやっていた。そこから蒼風さんが引き抜いたと、聞いたことがあります。
鏑木:そうですね。楢崎さんは、文献でわかる範囲だと『新日本文学』や、そこを出た人たちがつくった『人民文学』で、もとは詩を書いていたようです。岩波を経て、たぶん安部公房などとの繋がりだと思いますけれど、最初の『草月』に入られたようですね。楢崎さんは、『いけばな草月』時代から編集長をされていたんでしょうか。
立川:そうだと思います。あまり深く聞いたことはないんですけれども、たぶんかなり古くから。
蒼風さんがパリに行ったときは、海藤さんが面倒を見ているはずなんです(蒼風は1955年、パリ・バガテル宮殿で個展を開催)。海藤さんはマチス展(1951年)などの大きな展覧会を持ってきた人ですから、蒼風さんはかなり信頼を寄せていたと思います。同行した息子の勅使河原(宏)さんと海藤さんとは、すでに面識があったようです。宏さんは、1950年に世紀の会の一員として安部公房、桂川寛とともに、読売の海藤さんを訪ねていますから。そういうグループというか、あの当時の人たち、文化に関わっている人たちってグループをつくったり、一緒に飲んだりしていますよね。
粟田:50年代はサークル文化運動も盛んでしたよね。
立川:シュルレアリスム研究会なんかも、そうですよね(1955年に飯島耕一、大岡信らが立ち上げた研究会。『美術批評』に研究会の報告が掲載された)。ずいぶん多彩な人がいますし、そういう意味では違う経験、僕らが経験したことのない人の集まりというかね。結構、熱い集まりがあったんじゃないかと思うんですよね。
粟田:立川さんは、そことはちょっと距離があるという感じですか。
立川:ある、というよりも、遅れてきた世代ですね。だから、たとえば中原さんも10歳以上も年上なわけで、僕が小学生のときにはすでに経験している。
鏑木:世代が違うという感じ。
立川:時代が違うんですよ。僕が入社した頃は皆、一家をなしちゃっているから(笑)。そういうことが、僕の知らないところで同世代にもあるのかもしれないし、もっと若い人の世代でもあるのかもしれませんけれど、私はそういうところに属したことはないですね。
鏑木:今のお話で、ちょっと雰囲気がわかりました。
立川:楢崎さんと海藤さんも昔から知り合いだったみたいで、1970年に『草月』をリニューアルしたときにも、だいぶ海藤さんの知恵が入ったんじゃないかな、と思うんです。『草月』は天切りのA4変型版(280 x 210mm)なのですが、それを決めたのは海藤さんだと、楢崎さんから聞いていますから。それで海藤さんが顧問になられて、楢崎さんが辞めるまでしていらした。
これは中原さんから聞いた話ですけれども、飲み屋で楢崎さんが男の人と喧嘩して、いきり立った男が楢崎さんの顔にバーンと酒をかけても、表情ひとつ変えなかった。そういう話を聞きました。まったくすごい人ですよ。
鏑木:立川さんから見て、どういう上司でしたか。
立川:うーん…… 僕は結構いじめられましたね(笑)。
鏑木:編集部に男性が少なかったということもありますよね、きっと。
立川:いや、新井さん以外に女性はいなかったですよ。
鏑木:そうか。では、男女比の問題ではないんですね。厳しい方だったというか。
立川:厳しい…… ある意味で好き嫌いがはっきりした人でした。
鏑木:楢崎さんが編集長でいらしたときに、楢崎さんならではの企画とか、お考えが雑誌に反映されている部分はあるのでしょうか。
立川:楢崎さんは、社会の情勢につねに関心を持っていましたね。たとえば文化大革命が起きたときに、ある朝、突然紅衛兵のようないで立ちで出勤してきて、びっくりしたことがあります。まだ、文化大革命の評価が定まらない頃ですよ。だからそういう意味では、かなり左翼の人ですよね。ベトナム戦争に対しても関心を持っていましたし。
鏑木:ベトナム戦争の終結について言及した編集後記がありましたね(86号、1973年2月)。
立川:だからたとえば「今日の断面」のような企画は、たぶん楢崎さんだと思いますね(「今日の断面」はファッション、レジャー、公害問題など、当時の社会的な事象について毎回異なる書き手によって執筆されたエッセイ)。
粟田:(75号、1971年3月の目次を見ながら)この「今日の断面」第4回の文・山口勝弘さんとイラスト・赤瀬川原平さんなども、楢崎さんのご関係なんですか。
立川:山口勝弘さんは、実験工房に入っていましたよね。楢崎さんは瀧口さんとも当然、交流がありましたし、そういうことでいえば楢崎さんの人脈かもしれない。でも、編集会議などで誰に原稿を頼むかということは、僕らも結構自由に発言していた記憶があります。楢崎さんは、理想としてはですけれども、男女の別はないとか、学歴で差別しないとか、そういう方ではありましたね。
鏑木:新人でも、意見はきちんと取り入れられる。皆が対等にアイディアを出し合って企画を考える。それはいいですね。
立川:それはありました。
鏑木:理想が高いというか。
立川:うん、理想が高かったんだと思いますね。そういう意味では入ってから、ここは自由なところなんだ、って思いましたもん。
粟田:「地下から地上へ」では、74年に労働組合ができたとも書かれています。そのあたりのいきさつというのは。
立川:労働組合をつくったのは、端的に言うと賃金が安かったからです。入ったときは私の初任給が4万5,000円でしたから、水準よりやや低かったんですよ。それで1年、2年経つうちに日本の経済が急成長しまして、世間の賃金がバーっと上がったんです。ところが2年目か3年目くらいから抑えにかかられて、低いままだった。上がらなかったんです。1970年の初任給の平均は、6万円くらいです。私が入社したのは71年で、それが4万5,000円ですから、かなり安い。1年目で1万円、2年目は8,000円の昇給という具合で、73年のときは6万3,000円。記憶をたどると、この年の団交で12万円近くまで上げさせた。それでやっと水準並みでした。
そのときは勅使河原宏さんが社長だったので、記事にも書きましたけれど「労働組合をつくりました」と伝えました。結構、大変だったんですよ。出版労連(日本出版労働組合協議会。1975年より連合会)というものがあるんですけれども、そこに相談して結成して、その傘下に入りました。
鏑木:そのときの委員長はどなたがされていたんですか。
立川:あのとき委員長は誰だったかな。僕かもしれないですね。
鏑木:そうですよね、きっと。草月出版の労組ということですもんね。
立川:草月出版労働組合、ですね。
鏑木:記事によれば、宏さんは「慶賀すべきこと」とおっしゃっていたそうですね。
立川:おっしゃっていましたけれども、すごく嫌がっていましたね。さっき言いましたように、賃金が安いから組合をつくったわけです。それで賃金交渉をしたけれど、ぜんぜん渋いんですよ。交渉相手は勅使河原さん、ひとり。ところが、ひとりの女性社員の給与を内密に上げていたことが発覚したんですよ。
鏑木:それはひどいな。
立川:ひどいでしょう? それは経理部長が独断でやったらしいんですよ。つまり「安すぎる」と文句を言って、それで上げさせたらしいんです。
鏑木:個人的に交渉したということですか。
立川:組合とは別にね。それが組合の結成と前後しているんですよ。たぶん結成の前にやっていますね。
鏑木:なるほどね。
立川:そのことは、その女性が教えてくれたんだと思う。そうじゃないと、わからなかったと思います。それで勅使河原さんとの団交で、こんなひどいことをやっているじゃないか、と。それで彼も認めて、バーンと上がった。100%近く。勅使河原さんとの団交は、これが最初で最後です。
鏑木:倍?! それはすごい成果ですね。
立川:いや、それで世間並です。それまでが低すぎたということです。
鏑木:では、組合にはきちんと成果があったということですね。
立川:それ以来ずっと、賃金としてはある水準は維持していましたね。
鏑木:すばらしい。
粟田:草月出版は出版社として運営していたわけですが、経営状況はどうだったんですか。
立川:経営状況については、僕は編集長になるまでは、あまりよく知りません(立川は1986年10月より編集長)。だけどその後の決算書を見ると、カスカス。要するに在庫調整で黒字を出すような、そのくらいの経営状況ですね。だから決して潤沢にあったわけじゃないです。ただ海藤さんの時代には、たとえば85年9月には草月出版でイェイツ原作のダンス『鷹の井戸』(グループMAによる公演)を主催したりしていましたから、多少の余裕があったかもしれません。
鏑木:催事の企画もしていたわけですね。1970年4月に雑誌がリューアルするとともに、海藤さんが顧問として『草月』にいらっしゃるタイミング、1971年4月に草月会出版部から株式会社草月出版として独立するタイミング、そして直接は関係ないかもしれませんが1971年4月に草月アート・センターが解散するタイミング。いろいろと重なっているように思いますが、それらに相関はあるのでしょうか。
立川:アート・センターに関しては、たぶん勅使河原蒼風さんが、脱税で挙げられたから活動中止になったのだと思います(1970年1月、勅使河原蒼風は巨額の脱税容疑で国税局より摘発を受けた)。蒼風さんは「日本の現代芸術のパトロン」とも称されていたらしいのですが、結局それで、自由にできる金がなくなったんだと思います。ある意味で操作をして使えていた部分が、査察に入られて全部、根こそぎやられた。資金面ではそういうことだったと思うのですが、これはたぶん楢崎さんから聞いた話ですが、1969年10月の「フィルム・アート・フェスティバル’69東京」で造反グループが草月会館に乱入するという事件があって、蒼風さんが嫌気がさしてやる気をなくした、そういう面もあると思います。両方相まって、もう運営していけないということになって、71年4月にアート・センターが解散して、奈良(義巳)さんも辞めたんだろうと思いますね(なら・よしみ 1929-2016。元フィルムアート社代表。1958年から1971年まで草月アート・センターに勤務し、1968年には勅使河原宏らと『季刊フィルム』を創刊した)。
ところが、あれは草月会として募集したのかな。草月ホールに71年に入った人がいるんですよ。
鏑木:解散前ということですか。
立川:はい。草月ホールを運営するために、アート・センターがなくなったと同時に入った人がいるんです。だから彼なんかはたぶん、幻想を持っていたと思うんです。アート・センターで働けるって。そういう不幸なことはありましたね。
リニューアルに関しては、70年を期してということで、楢崎さんを中心に前々から準備を進めていたのでしょうね。海藤さんも加わっていた。ですから、脱税事件は青天の霹靂ですよね。
それで71年に草月会出版部を株式会社草月出版として独立させたのは、まぁきれいに見せるというか、勅使河原蒼風さんが法廷を出て、記者会見で「恐れ入りました」と言ったのを受けて、雑誌としての透明性を保とうとしたのではないでしょうか。さっき言いましたように、蒼風さんは編集にはほとんど口出しはしませんけれども、そういうかたちにした方がいいんじゃないかと、たぶんこれは海藤さんの意見でしょうね。
鏑木:100号(1975年6月)の奥付によれば、海藤さんは70号から顧問をされています。海藤さんは、その前身である『いけばな草月』から顧問のようなお仕事をされていらっしゃったんでしょうか。『いけばな草月』はスタッフのクレジットがまったくなくて、わからないんですよね(100号の奥付には「おしらせ 四月三十日付で楢崎汪子編集長が退社しました。代わって本誌七〇号から編集顧問をしてきました海藤日出男が新編集長になります。」とある。対外的にはこのときはじめて、海藤が顧問であることが明示されたと思われる。なおスタッフについては94号、1974年6月の奥付ではじめて「編集人 楢崎汪子」の記載が見られる)。
立川:海藤さんが読売を辞めたのはいつだろう。
鏑木:67年です。
立川:たぶん、なんらかのかたちで楢崎さんが相談していたとは思います。楢崎さんと海藤さんは、師弟関係みたいな感じでしたから。
鏑木:70号から正式に顧問という役職に就くかたちでいらっしゃったのかな、と思ったんです。
立川:それはそうだと思います。70号からです。その前は、そういうかたちじゃなかったと思うな。それは推測の域に過ぎませんけれども。
鏑木:海藤さんは顧問として、具体的にどういうお仕事をされていたんですか。
立川:たぶん、顧問のときには編集会議には出ていなかったような気がする。そういうことを嫌がる人だった。顧問と編集長は、立場としては違うじゃないですか。だから編集長の仕事を尊重するというか。人の仕事をすごく尊重する人でしたから、出ていなかったと思いますね。でも、たとえば僕らの文章を見るとか、そういうことはしていらっしゃいました。
ただ、海藤さんが出勤するのは(夕方)5時前後ですから。出てきて、金曜日などは画廊のオープニングが毎週のようにありましたから、そこに行くとか、ちょっと遅くなると「飲みに行こうか」って、皆で飲みに行くとか、そういう感じの人でした。でも僕らの教育は、顧問のときにもされていました。
粟田:教育というのはどういうことをされていたんですか。
立川:たとえば文章を見るとか、さっきもお話しましたように写真の撮り方とか。撮り方というか、心構えですね。編集者としての、人との付き合い。レイアウトを教えてくれたのも海藤さん。どう手紙を書いて、どういう手順でやるかというのは、楢崎さんに教わったような気がします。そういう細かいことは。でも文章の書き方を教えてくれるというか、添削してくれたのは海藤さんですね。海藤さんには独特のやり方があって、たとえば「見てください」と原稿を渡しますよね。そうすると、すぐに読んでくれるんですけれども、その後は自分の机の脇にポンと置くんですよ(笑)。それで1日経っても2日経っても、返してくれない。
鏑木:緊張する(笑)。
立川:本当に緊張しますよ。僕は気が小さいくせに気短かなものですから、「海藤さん、どうでしょうか」って聞くと、「うん?」とか言って原稿を添削して、「はい」と返してくれる。『暮しの手帖』の花森安治ほどひどくはないですけど、だけどまぁ、よく直されましたよ(笑)。あれこれは言いませんけれども、新聞の記事の書き方みたいなもの。
粟田:デスクみたいな感じですね。
立川:ええ、それは教わりましたね。あれは自然と身に付きますね。
鏑木:私は、海藤さんは編集部全体の舵取りのような役割をされていたのかと思っていたんです。でも今のお話だと、ぜんぜん違いますね。
立川:ええ、舵取りはやっぱり楢崎さんがしていましたね。昼間は。
鏑木:昼間は(笑)。
立川:だって海藤さんは、編集部に1時間もいないんですもん。
鏑木:そうか。そういう意味では、私のイメージとはぜんぜん違いますね。先程のようなお話はある意味、実務的な関わり方だと思いますし。
立川:うん、そういう実務的なところもありましたし、精神的な面も非常に教わりましたね。それはどこでかというと、夜の教室です。飲みながらです(笑)。
鏑木:海藤さんについて語ることのできる方は限られていますので、今日はぜひ立川さんに、夜の学校のお話も含めて教えていただければと思っておりました(笑)。
立川:海藤さんは、本当におしゃれな人でしたね。(中原佑介「追悼・海藤日出男」『美術手帖』645号、1991年10月を見ながら)この写真、かっこいいでしょう?
鏑木:本当ですね。われわれは海藤さんのお顔もほとんどわからないくらい、あまり表立って語られることが少ない方ですよね。
立川:でも、そうでもないと思いますけれどね。というのは、やっぱり人脈がすごかったですもん。たとえば銀座で人と会って飲むときは、全部自費で行っていたと、海藤さんに直接聞いたことがあります。「それで随分、前借りをした」と言っていましたね(笑)。
鏑木:海藤さんが、読売から?
立川:ええ、自前。草月出版のときは、交際費は経費として使っていましたから、その話を聞いたときにはギャップが、僕のなかにはちょっとあった。読売のときには(経費を)使わなかった、というような言い方をされたときに。
筆者と編集者は飲む機会がありますし、飲んだ後は最後までちゃんと送り届けるというのが、僕らがしつけられたことでした。だけどそういうときは、必ず経費で落していましたから。筆者と飲食するときに自分で出すということは、考えられない。その辺、海藤さんは私的に会うときと公的に会うときを、きちっと使い分けていたんじゃないかと思いますね。仕事のときは当然、経費を使って然るべきですが、たとえば新人を発掘する場合ね、若い人で、こいつすごいな、と思ったらちょっと呼び出して話す、ということがあるわけでしょう。そういう場合に、自費でやっていたんじゃないかと思いますね。書籍代も相当使われていたようですし。
中原さんの海藤さんに対する追悼文に、(ピエール・)レスタニーが「夜の帝王」と言ったと書いていますが、言い得て妙です。呑助だから言える(笑)。レスタニーは、呑兵衛もいいところですからね。
鏑木:皆さん、よく飲まれますね(笑)。そういうところで、親密にコミュニケーションを取られていたんですね。
立川:基本的に、そういうところです。覚えていることは1%もないですけれども、でもどこかで大事なことが見え透いていく、っていうのはありますよね。酔っ払いですから、なんども同じ話をするわけですよ。そうすると、覚えていくものが随分あるんですよ。
粟田:それで100号から、海藤さんが編集長になられるんですよね。実際に海藤さんが編集長になってから、誌面のつくり方とかは変わりましたか。
立川:変わったと思いますけれどね。
鏑木:一見してドラスティックに変わった感じは、あまり受けなかったんですよね。それも、意識的だったかもしれないですけれども。
立川:そうですね、それほど。(中原佑介の連載「芸術を超えて」をまとめた抜刷を見ながら)でも、こういう遊び。海藤さんは、こういうことが好きだったんですよね。抜刷にするとか。まぁ、これは中原さんだからやったんでしょうけれどもね。
鏑木:他の方の抜刷もあるんですか。
立川:ありますよ。(『秘冊・草狂』シリーズの1冊、中原佑介と高松次郎の共作「レコード盤宇宙論」、1974年3月刊行を取り出しながら)参考に持ってきました。これは8冊あるんです。池田満寿夫、瀧口修造、大岡信・加納光於、武満徹・杉浦康平、谷川俊太郎・駒井哲郎、それから針生一郎・リラン、サム・フランシス。
鏑木:一時期、『草月』にあった色刷のページの抜刷りですね。それを冊子にしたということですか。
立川:そうです。これは特別仕様なんですよ。高松さんの版画が入っています。
鏑木:初めて見ました。
立川:このシリーズに関しては、完全に海藤さんがつくったものなんです。
鏑木:奥付を見ると部数限定と書かれていますけれども、当時は関係者のあいだだけで頒布したんですか。
立川:そうです。著者と図版の作者で、半々じゃないかな。50部ずつ。これは特別です。
鏑木:『秘冊・草狂』というシリーズ名は、「ひさつ・そうきょう」と読めばいいんですか。
立川:そうです。ネーミングは、瀧口さんです。本当は全部持ってこようと思ったんですけれども、肝心の瀧口さんの「三夢三話」だけが見つからないんです。瀧口さんは、封筒もつくってくれたんですよ。それに入れていたはずなんだけど。
鏑木:文学者や批評家の方たちとアーティストが、文と絵でコラボレーションする企画ですね。厚みのある紙に多色刷りで印刷されている、特別感のあるページ(79号、1971年12月から不定期で掲載)。
立川:これは池田さんから始まったんです。池田さんはもちろんご自分で絵を描いて、たしか本にしたときにフィルムをはさみ込んだんじゃなかったかな。その2回目が瀧口さんですね。
鏑木:そうなんですか。
立川:池田満寿夫さんが小説らしきものを書いたのは、たぶんこれが初めてです。「ガリヴァーの遺物」。
鏑木:芥川賞をとる前ですよね(池田満寿夫が「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞するのは1977年)。
立川:相当前です。(『秘冊・草狂』全冊揃いの画像を見ながら)そうそう、これです。このシリーズでなにを言いたかったかというと、池田さんが小説を書き始めるでしょう。「レコード盤宇宙論」では高松さんは線の消えるシリーズ(〈平面上の空間〉のこと)。これはその後も発表しているんです。谷川さんは「タラマイカ偽書残闕」の続編を、他の雑誌で書いています。
鏑木:新しい表現の出発点になっているんですね。
立川:うん。それは海藤さんの慧眼だと思いますね。
鏑木:『草月』が場を与えたことによって生まれた表現がある。
立川:そういうことですね。それは海藤さんの大きな仕事のひとつじゃないかな、と思います。
鏑木:これが海藤さんのお仕事だということは、当時の関係者の方たちはご存知なのかもしれないのですが、私たちにとっては初めてうかがうお話です。
立川:僕は若いときは、批判しましたけれどね。
鏑木:どうしてですか。
立川:「老人の慰みもの」とか言ってね(笑)。そうしたら海藤さんに「君、こういう風に言ったんだって?」と言われました。それで(小さい声で)「はい」って(笑)。悔しかったということもあるんですよね。だって、すごくいい仕事じゃないですか。だから悔しまぎれに、仲間内で酔って軽口を叩いた。するとそういうことを、話す人がいるんですね。「なんで海藤さんが知っているんだろう」って思った(笑)。でも海藤さんが、「そういう面もあるかもしれない」と言ってくれたので、救われましたけれどね。
粟田:当時の立川さんのことばを見ると、「サロン的な雰囲気」とも書かれています。
立川:そういう感じですね。そこにも書いていますけれども、本当にいろいろな人が来ましたね。
粟田:一柳慧さんとか、武満徹さん、寺山修司さんなど。
立川:それから、秋山(邦晴)さんがよく来ていましたね(あきやま・くにはる 1929-1996。作曲家、音楽評論家)。秋山さん、中原さんはもちろん。だからここから出てきた新しい仕事というのが、海藤さんが意図されていたのかどうかはわかりませんけれども、ありますよね。
粟田:「地下から地上へ」というタイトルは編集部の移動(引越し)のことを指していると思いますけれども、60年代はアンダーグラウンドな雰囲気が強かったと思います。ニュアンスとしてはそういうことも含んでいるのかな、と思いました。
立川:はい(笑)。それは確実にあります。
粟田:60年代から70年代へと移り変わっていくなかで、立川さんはどのように感じていたのかな、と思いました。
立川:僕の感じで言うと…… 1970年代というのは、一気に軽くなりましたよね。景気がよくなったすぐ後に、第一次オイルショックになったというのはありましたけれども。70年を越したとたんに明るくなっちゃった、軽くなっちゃった、という印象がありますね。本当に変わった。なんでこんなに軽くなったの? というような変わり方をしたと思います。もう一度ありますよね、90年前後の浮かれたバブルの時代。だから1970年を越えたときとバブルと、僕は2回経験しているんじゃないかな。後はずっと重いでしょう。
鏑木:今もまだ、つづいていますよね。
立川:ぜんぜん違う話ですけれども、90年頃の初任給がだいたい22〜23万円だったと思います。そして現在の初任給(の平均)がだいたい20万円。2、3年前に、ハッと気が付いたんです。日本はいったいどうなってるの? って思いましたね。ひどい世の中ですよ。草月出版は、ひとりの人間が1日8時間働いて食えない、というのは絶対にあり得ない、というのを基本にしていた。組合をつくった頃はちょっとひどかったですけれども、それを除けばね。(立川は会社を)2000年で辞めているから、その後は賃金がどうのこうのということは考えずにいたけれど、今の若者たちはよく反乱を起こさないな、と思いますね。
鏑木:本当におっしゃる通りだと思います。
立川:そう言う意味で、僕は軽い時代を経験したように思います。万博があって、あれで美術も変わりましたよね。(第10回日本国際美術展)「人間と物質」展という、大きな節目もありました。これは余談ですが、篠田達美さん(第2回で詳述)が「人間と物質」展を見て「その後、しばらくは美術を見なかった」と言っていました。彼はきちんと勉強をしていて、美術がすごく好きだったけれど、そのくらいショックだったらしいです。
たとえば現代音楽にしても、武満さんが「今日の音楽 Music Today」を始めるのが73年(西武劇場オープニング記念として武満徹が企画・構成した現代音楽祭。1992年まで、毎年開催された)。現代音楽というものが浸透していった、なんでも受け入れられるようになった。ある意味での風通しの良さが、70年代にはあると思うんです。
私の場合はさっきも言いましたように、美術の経験がまったくありません。音楽もそうで、実際に頻繁に聴くようになったのは現代音楽からでしたし、美術も現代美術から入っている。だから僕は、ちょっと特殊な接し方をしているんですよね。非常にヘトロドックスな関わり方というか。それはありますね。
鏑木:ある意味、この時代の美術や音楽だったからこそ、という部分もあるんでしょうか。
立川:そうですね。編集部には、現代音楽の三枝(成彰)さんなんかも来ていらしたかな。秋山さんが連れてきたのかな…… 秋山さんだったと思いますね。
鏑木:編集部が地下から地上に上がった後も、なんどか引越しをされているんですよね。
立川:草月会館は、前の丹下さんのピロティ風の建物(旧草月会館)。草月会館を出たときは、タカラ椅子会館というところです(1971年8月移転)。その後が青山フラワービル(1974年9月)。
粟田:(青山フラワービルの画像を見せながら)これですか。
立川:そうです。
粟田:どの辺りにあったんですか。
立川:これはですね、こどもの城から渋谷方面に道路を1本へだてたところです。
粟田:(100号記念特集号に掲載された写真を見ながら)これが編集部ですか。4階でしたっけ。
立川:そうですね。(写真のキャプション「100号記念号の追い込みに忙しい現在の渋谷の編集室」を見て)これ、本当かな。たぶんこれは、タカラなんじゃないかな…… タカラのときが、いちばん人がよく来ていたような気がします。『秘冊・草狂』のようなものをつくっていましたから。だから頻繁に来ていましたね。
鏑木:青山フラワービルに移ってからは、しばらくこちらですか。
立川:1996、7年かな。勅使河原(宏)さんに、強制的に(1977年に竣工した、現在の)草月会館に移らされたんですが、それまでは。だんだん収益が上がらなくなってきて、僕ら、というか僕が勝手なことをやっていましたから(笑)。
鏑木:当時、編集長ですもんね(笑)。
立川:それで後半は結構、関係がギクシャクしましたね。
鏑木:そうだったんですね。それでは本日最後の質問として、草月アート・センターに深く関わっておられた奈良義巳さんと秋山邦晴さんについて、立川さんとの交流のなかで教えていただけますでしょうか。
立川:奈良さんはちょうど入れ違いなので、アート・センターの頃はぜんぜん知らないんです。奈良さんとは、中原さんが『草月』に連載した「美術が語る花鳥風月」(1993-1995年)をフィルムアート社で書籍化しようという話になったときに、原稿の書き直しをめぐってお会いするようになったのが初めてです。
鏑木:立川さんと時期が重なっているかはわからないのですが、奈良さんの奥様は東野(芳明)さんの妹さんで一時期、『草月』編集部にお勤めだったと思います。
立川:奈良さんの奥様が東野さんの妹さんというのは、僕もどこかで聞いたことがあります。でも、会っていないからわかりません。
鏑木:それでは、編集部時代は重なっていないんですね。
立川:奈良さんとの話は、ほとんど中原さんの原稿のことです。「なんで進まないんだろう」って、暗い話ばかりしていました(笑)。結局、出版にはいたりませんでしたね。
鏑木:わかりました(笑)。ありがとうございます。もうひとり、秋山さんについてなぜお聞きするかと言いますと、立川さんの書かれた「地下から地上へ」に秋山さんが1973年、草月出版の嘱託としていらしていたことが書かれていたんです。教科書を出版することになったというお話です。
立川:(「地下から地上へ」を読みながら)「72年の翌年」……
鏑木:教科書の企画とともに「会議室が第二編集室となり、嘱託として秋山邦晴氏を迎え」たという。
立川:そういうことがあったな…… ありましたけれど、これはポシャりました。
鏑木:では、実際にはいらっしゃっていないんですか。
立川:いや、秋山さんは来ていました。でも、教科書の企画は潰れました。草月流で教科書ができたのは、勅使河原宏さんが家元を継いでからです。だからこれは、たぶん半年か1年も経たないうちにポシャったと思います。
鏑木:そうでしたか。秋山さんは、雑誌の編集には関わっていないんですよね。
立川:関わっていないです。筆者としては、連載「伝統の冒険」(雅楽やこぶし、声明などを取り上げ、日本の音楽の伝統的な特質について考察したエッセイ)。あれは結構すごい発見をなさっているんじゃないかと思いますね。たとえば、銅鐸を叩いたに違いないという仮説を出されたのは、秋山さんですから(「銅鐸に秘められた謎」77-78号、1971年8-10月)。あれを最初に読んだとき、僕らはびっくりしましたね。「え、本当ですか?」って(笑)。秋山さんは相当慎重な人でしたから、いろいろ調べられたと思うんですね。銅鐸を叩いたことは、今では通説でしょう。
鏑木:当時その説が斬新だったということを、初めて知りました。
立川:あれは本当にびっくりしました。そういう意味では、すごく力を入れて書いてくださっていたという、ひとつの証拠ですよね。
鏑木:そうですね。立川さんが秋山さんとご一緒されたお仕事というのはあるんですか。
立川:ないですね。「伝統の冒険」はもう始まっていたと思います(連載は71-86号、1970-1973年まで)。誰が担当していたんだろう。ちょっと覚えがないな。
鏑木:では秋山さんが草月出版で嘱託をされていたのは、そんなに長くはないんですね。
立川:たぶん蒼風さんが、(教科書を)出したいと言ったんじゃないですかね。それで草月出版にちょっとスペースがありましたから、たぶんそこにいらしていたような気がします。おぼろげにしか覚えていませんけれども。
鏑木:秋山さんは後年、多摩美術大学の先生をされていましたが、草月の資料のお仕事をされたり、『TBS調査情報』に草月アート・センターのことを執筆されたりもしていますよね(連載は285-289号、1982年12月-1983年4月。のちに『文化の仕掛人』青土社、1985年に収載)。
立川:そうですね。草月会の資料室にいらしたんです。
鏑木:それはいつ頃なんですか。
立川:かなり長くいらしたと思いますよ。秋山さんがお亡くなりになったのが……
鏑木:1996年です。
立川:現在の草月会館ができたのが、1977年でしたっけ。そうすると、資料室ができたのはいつだろう…… すぐにできたと思います。資料室は、勅使河原宏さんが家元になった80年前後にできたと思います。勅使河原(宏)さんが一度、秋山さんを外そうとしたことがあったんです。でも逆に秋山さんに説得されて、待遇を上げて、そのまま継続して資料室の責任者をつづけてもらった。だから結構、長くやっていらしたと思いますね。
鏑木:そうだったんですか。秋山さんがされていた草月会にまつわる資料のお仕事は、非常に重要だと思います。だから具体的にどのようにされていたのかな、と思っていました。
立川:そういえば秋山さんが、音楽評論家としてすごく怒っていたことがありましたね。具体的に誰のことを指していたのかはわかりませんけれども、「楽譜を読めない奴が音楽評論を書くなんて、あり得ない!」と怒っていたことがありました(笑)。
鏑木:そうでしたか(笑)。それでは本日はこの辺で、次回は編集長時代のお話を中心にじっくりと教えていただければと思います。本日はありがとうございました。
粟田:どうもありがとうございました。
立川:ありがとうございました。