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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

立川正憲 オーラル・ヒストリー 第2回

2023年3月3日

神奈川県横浜市の貸会議室にて

インタヴュアー:鏑木あづさ、粟田大輔

書き起こし:鏑木あづさ

公開日:2023年12月30日

インタビュー風景の写真
立川正憲(たちかわ・まさのり 1946–)
編集者、元『草月』編集長(1986–1998)。
1946年、佐賀県生まれ。早稲田大学法学部卒業。1971年より株式会社草月出版に勤務し、いけばなとともに美術や文学、音楽などの芸術文化をあつかった草月会機関誌『草月』の編集に携わる。1986年から1998年までは編集長を務めた。
第2回は前回のつづきとして1970年代後半以降の『草月』や工藤哲巳との出会い、編集長時代についてなどをお聞きした。編集へのスタンスやいけばなの家元制度に対する考え、1990年代に『草月』で連載を手がけた田窪恭治、篠田達美などの書き手についても語られている。なお本文中、『草月』の記事は号数と年月のみを表記した。

鏑木:本日もどうぞよろしくお願いします。ここからは立川さんが編集長になられてからのお話を中心にお聞きしたいと思っています。

立川:その前に、先日のインタヴューの後で思い出したというか、言い忘れていたことがあるんです。1986年に海藤(日出男)さんが引退されて私が編集長を継いだとき、草月出版の制作部門を編集部と企画制作部のふたつに分けたんです。その体制になったとき、中原(佑介)さんが草月出版の役員になった。

鏑木:それは初耳です。

立川:(インタヴューの前に鏑木へ)「中原さんは、草月出版へまるで社員のようにしょっちゅう来ていた」と話したでしょう。だから中原さんとの距離があまりに近すぎて、そのことを言い忘れていました(笑)。

鏑木:中原さんは社員ではないけれども、草月出版の関係者ではあったんですね(笑)。

立川:たぶん海藤さんが、中原さんに草月出版を託したんだと思います。私が辞めたとき(2000年)にも役員をしていましたのでね。ただ中原さんは、経営にはまったく口を出していません。やっていたことといえば、春闘と秋闘ですね。要するに組合との団体交渉に会社側として応じていた。

鏑木:それでは本当に役員をされていたんですね。つまり、評議員のようなものではない。

立川:ではないです。株式会社ですから。海藤さんも団交はあまり好きではなかったみたいですが、ひょっとしたら若い僕らにやらせるのはかわいそうだと思ってくれたのかもしれませんね。それで中原さんに引き受けてもらったのかな、役員を。

鏑木:具体的に、役職名はあるのでしょうか。

立川:いや…… そのときは私も、とくに気にしていませんでしたからね。取締役社長は勅使河原宏さんでしたけれども。

鏑木:では、取締役のひとりでいらしたということですね。

立川:私が辞めて、会社が草月会に吸収される2001年7月まではやっていらしたと思うんですよね。春闘と秋闘が終わった後に中原さんと一緒に飲むと、「立川、俺でいいのかよ」という言い方をしていました。だけど経営にはタッチしないし、無論、編集方針にもタッチしていません。

鏑木:取締役は、何人かいらしたんですか。

立川:いえ、彼だけだと思います。門田(勲)さんとか亀倉(雄策)さんなんかは、たしか株主でしたね。だから海藤さんも取締役ではあったんです。

鏑木:大切なことを教えていただき、ありがとうございます。

立川:それから海藤さんについて、いくつか話があるんです。海藤さんと瀧口(修造)さんのなれそめは、ほとんど知られていないと思います。海藤さんはシュルレアリスムに興味があって、丸善から関連する本が出たという知らせが来ると、その都度注文に行っていたそうです。すると、かならず(注文リストの)最初に「瀧口修造」と書いてあった。その頃、瀧口さんと直接の面識はなかったそうですが、いつ行っても瀧口さんの方が先に書いてある。それで、瀧口さんという人を強く意識するようになった、と。そういう話を、海藤さんから聞いています。
海藤さんは戦中はベトナムの特派員でしたから、いろいろ大変だったと思います。サイゴンの話で一番おもしろかったのは、あの人には博才もあるらしくて、カジノで勝ちだしちゃって、周りの連中も海藤さんと同じように賭けたら、ものすごい勝っちゃったんですって。カジノというのは経営者の方がヤバくなると、建物に火を付けちゃうのだそうです。それで気が付いたら、消防車が周りを囲んでいたというんです。慌てて逃げ出したと言っていました。金を持っていったのか置いていったのか、その辺は聞きそびれましたけれども。
サイゴンから日本軍が撤退するときは、最後の飛行機に乗ったと言っていましたね。「床の割れ目から、海が見えた」と(笑)。日本に帰る飛行機は、それが最後だったそうです。敗戦色の濃い頃だろうから、昭和19年とかその辺りじゃないですかね。

鏑木:バタバタと撤退する感じだったということですよね。

立川:そうです。民間人というか、特派員とかそういう人たちは生命からがら、帰ってきた。ベトナム戦争のサイゴンとかも、たぶんそういう状況ですよね。
終戦直後に読売争議があって、もちろん海藤さんは組合側で、でもあれはすぐにGHQに潰されちゃうんですよね。そのときに徳間(康快、とくま・やすよし。徳間書店初代社長、読売争議の頃は読売新聞社に勤務)さんと一緒だったと聞いたことがあります。
海藤さんはその頃に文化部に配属されたんだろうと思いますけれども、終戦直後に瀧口さんを口説いて記事を書いてもらっていますよね。それ以前の戦前に丸善での出会いがあった、ということは先に話した通りです(海藤の文化部への配属は争議後の1948年、瀧口の読売への執筆は1950年から)。
その後かどうかわかりませんが、海藤さんはパリの特派員になっていますよね(1952-1955年)。そのときにマチスとピカソ(1951年)と、ゴッホかな。ブラック(1952年)もそうなのかな。1958年にゴッホ展があるんですよね。実は正力(松太郎)さんと海藤さんは、仲が悪かったようです。それで正力さんが一度、海藤さんの首を切ろうとしたことがあったそうです。ところがゴッホ展の契約があった。かなりの金額で、海藤さんのサインなわけですよ。それで結局、正力松太郎は海藤さんを切れなかった。これも海藤さんから聞いた話です。だから、「そういうことは結構、大切なんだよ」って言っていましたね。お金というのはすごく大切、稼ぐということは大切かもしれない、という話(笑)。私はまったくダメでしたけどね。

鏑木:正力松太郎が海藤さんの首を切ろうとした理由は、なんだったんでしょうね。

立川:うーん、やっぱり海藤さんは争議のときに組合員だったでしょう。そして正力松太郎は元は警察官僚ですから、水と油の関係だったんじゃないですか。

鏑木:労使の間柄として、ですね。

立川:あの頃の対立って激しいですからね。根本的に相容れないものがあったんでしょう。でも、そのこと以外に悪口は言っていませんでしたけれどね。正力に呼び出されて「クビだ」と言われたから、「ゴッホはどうするんですか」と交渉した、と。要するに、何かしら弾を持っていなければ人との戦いには勝てないよ、ということです。

鏑木:おもしろいお話ですね。

立川:工藤哲巳さんと海藤さんの関係についても、お話させてください。工藤さんは読売アンパンで出てきて、海藤さんは彼のことをすごく買っていた。工藤さんがパリに行くにあたっても、推測に過ぎませんがいろいろと応援したのではないかと思います(工藤の渡仏は1962年)。
私が初めてパリに行ったのは1977年だったんです。ポンピドゥー・センターが開館記念に、デュシャン展をやっていたんですね。そのとき、海藤さんが「工藤のところに行ってこい」というので、工藤さんを訪ねました。海藤さんがその前に連絡しておいてくれたんだと思うんですけれど、アパートの玄関に「日本人、お断り」っていう看板が貼ってあった(笑)。「えーっ」と思いながらも入ったら、すごく良くしてくれたんです。2月だったんですけれども、ポンピドゥーのすぐ近くのボーブール画廊というところで、工藤さんの個展があったんです(「危機の中の芸術家の肖像/鳥籠 コンピュータ・ペインティング」、2月16日-3月12日。2月26日には工藤、前野寿邦、海藤和とともに後述のハプニング「あなたの肖像」、「危機の中の芸術家の肖像」、「脱皮の記念品」を行なった)。
僕は工藤さんにとって海のものとも山のものともつかない、初対面でしょう? まぁ海藤さんの知り合いだからということはあるけれども、すごく大事にしてくれて、そのハプニングを撮ってくれと言うんです。それで僕は写真をたくさん撮ったはずなんですけれども、どこにいったのか。工藤さんには全部お送りしたと思うんですよね。(写真を見せながら)これが工藤さんで、これが前野さんですね。

鏑木:前野さんは、どうしてこんな派手なメガネをかけているんですか(笑)。

立川:それは工藤さんのデザインだと思いますよ。それで、これが私です。このときに海藤和さんも参加しています。和さんの紹介のされ方は、アクトレス(海藤和は美術評論家、海藤日出男の子女。1985年、オックスフォード近代美術館で開催された「再構成 日本の前衛1945-1965」展などに関わった)。昔は本当にアクトレスだったんです。「ヘアー」っていうミュージカルがあったでしょう。

鏑木:日本版の「ヘアー」ですか(1969年初演)。

立川:ええ、あれに出演しているんですよ。このときはロンドンに留学していたんですね。和さんは着物姿で、ペニスのオブジェにアイロンがけをした。その姿も撮ってあるはずなんですけれども、その写真が見つからない。

粟田:(写真を見ながら)立川さんはたしかに、カメラを持っていますね。

立川:持っているでしょう。皆にはジャーナリストって紹介されたんです(笑)。前野さんは美術評論家、という風にね。それで巨大なサイコロがあって、1 x 1 x 1mくらいかな。その中に前野さんが入って、数字の打ってあるレシートのような長細い紙をどんどん外に出していく。会場中にフランス語の株式市況を流すんです。

鏑木:フランス語のかぶしきしきょう?

立川:日本でもあるでしょう。企業名を言って、何円、何円高とか、何円安とか。今は電光掲示板になっていますけれど、昔はラジオでそういうのをやっていた。

鏑木:ああ、お経みたいな。

立川:そうそう、それを流した。つまり、お経ですよ。日本に帰ってきたときのハプニングは、安齊(重男)さんが撮った写真を見たことがあるでしょう。あのときはお経だったと思いますが、パリのときは株式市況だったんです。壁にはものすごく大きい、通称NECO(NECOプリントのこと)っていう工藤さんのオブジェを大きく引き伸ばした写真を展示していました。あれは縦3〜4m、幅は2mくらいかな。正式にはなんていうのかわからないけれど。

鏑木:それはすごいイベントでしたね。実際に見て、どう思われましたか。

立川:おもしろかったですよ。前にもお話したように、私の美術体験はたかが知れています。そうやって引き入れてくれたのは、嬉しかったですね。前野さんも結構、嬉々としてやっていましたよ。

鏑木:(写真を見ながら)前野さんの格好が、個性的ですよね。

立川:そうですね。これ、洋服はグリーンだったと思いますよ(写真はモノクロ)。

鏑木:立川さんもお若いですね。貴重なお写真だと思います。

立川:そりゃ、若いですよ(笑)。この写真は、たまたま家で見つけたんです。これ、誰が撮ったんだろう。このとき僕が撮った写真を見て、海藤さんが「あ、(グドゥムンドゥル・)エロが来ている」って言っていましたから、とにかくいろんな人が来ていたんでしょうね。画廊が人でいっぱいでしたもの。

粟田:そのイベントは『草月』で記事にはなったんですか。

立川:1行。

鏑木:え?

立川:(T記者[立川正憲]「変わるパリの美術地図 ポンピドー・センターの波紋」111号、1977年4月を指して)ここに書いた、1行だけです。この記事は日本に帰ってきてから、今井(俊満)さんにも取材して書いた。海藤さんが「デュシャンじゃなくて、こちらを書きなさい」と言うもんで、「はい」って(笑)。

鏑木:この記事は、ポンピドゥー開館当時のパリの雰囲気がよくわかりますね。

立川:パリでは何軒か画廊をまわった覚えがありますが、影響力のある画廊の具体的な名前は今井さんに教えてもらって、それで書いた記事ですね。

鏑木:当時のパリのギャラリーの名前などもよく知らなかったので、そういう意味でも興味深く読みました。

立川:前野さんにもお願いして、一人芝居に連れて行ってもらいましたね。ともかく、工藤さんのハプニングをあんなに身近に見られるなんて、ある意味参加させてもらったので、それは貴重な体験でした。
それともうひとつ。1983年は私自身にとって転機というか、大切な年です。83年にマイアミでクリストの「囲まれた島々」があって、草月出版でツアーを組んで中原さんも参加してくれて見に行ったんですね。

粟田:(146号、1983年2月に掲載のツアー参加者募集の記事を見ながら)このツアーは元々、どういう経緯で企画されたんですか。

立川:これは中原さんと相談して、「ツアーを組もう」という話になった。

粟田:この時代、勅使河原宏さんがティンゲリーの映画『動く彫刻 ジャン・ティンゲリー』を監督していますよね。

立川:そうですね。それで1982年の4月に、クリストのドキュメンタリーの上映会をやったときに、ティンゲリーの映画が併映されています(「映画と講演の夕べ」、なんば高島屋および草月ホールで開催。中原がクリストについての講演を行った)。クリストの企画は、いくつかあるんですよね。(記事を見ながら)これはクリストが実際に来たときですよね(「クリスとの講演と映画」草月ホール、1982年10月13日)。
中原さんが書いたクリストの本を出す、という話はその前からあったんです(中原佑介『クリスト Christo works 1958-1983 神話なき芸術の神話』草月出版、1984年)。当初は日本語と英語の併記にということでした。でも諸事情で難しくて、1982年にクリストが来たときに、海藤さんから「クリストに『英文は横書きで日本語は縦書きだから、併記の本は難しい』と説明して来い」と言われたんですね。それで、そのとき京都にいたクリストとジャンヌ゠クロードに説明に行ったらジャンヌ゠クロードがものすごく嫌な顔をして、あの人には嫌われちゃったんだけれど(笑)。そのとき、中原さんは弁護してくれた。「海藤が言っているんだから」ってね(笑)。今考えると、説明に無理がありますけどね(笑)。そういうこともあったのですが結局、日本語だけでやろうということになって、つくることができたんです。

鏑木:たしか立川さんはこの本の担当ではなかったのに、海藤さんからそういう役割を任されたということでしたよね(笑)。

立川:ええ。それで83年にクリストの「囲まれた島々」を見て、中原さんたちが帰った後も私は休暇をとってニューヨークに1ヶ月くらいいたんです。その後に勅使河原宏さんがヨーロッパデビューしたというか、パリとイギリスのカンタベリーでいけばなのデモンストレーションをやるというので、その取材に行ったんです。その足で、勅使河原さんはバルセロナに行って映画『ガウディ』を撮っているんですね。それで私も同行して、若干その取材をしました。
その後も1ヶ月休暇を取っていたのでパリに戻ったんですが、2ヶ月の馴れない外国生活のせいで、工藤さんのお宅にうかがっているときにくたびれて高熱を出してしまったんです。そのときに工藤さんが、すごく面倒をみてくれた。ホテルにおかゆを持ってきてくれたりね。それは私が海藤さんの部下ということがあったと思いますけれど、本当によくしてもらいました。

鏑木:旅先でご病気になられて、しかも外国ではかなり心細かったのではないかと思います。日本語が通じる方がお世話してくだされば、安心ですね。

立川:本当にありがたかったですね。

鏑木:もちろん最初は海藤さんの紹介でしたが、工藤さんが立川さんに信頼感を持たれていたからではないでしょうか。

立川:どうでしょうね。工藤さんが日本で東京芸大の教授になる(1987年)、その前かな。工藤さんが日本に帰っていらした頃は、かなり頻繁にお会いしていましたね。
最初にパリに行ったときは朝からビールを飲んでいましたけれども、アルコール中毒で入院して治療なさってからは、エスプレッソを1日に10杯くらい飲んでいらしたようです。日本に帰ってきてからもコーヒーを飲みながら、いろいろな話をしてくれましたね。彼はすごく思考の幅が広くて深い人でしたから、話に魅了され通しでした。とくに天皇制の構造について、富士山を比喩に話されたことが印象に残っています。

鏑木:工藤さんの晩年に、とても親しくされていたんですね。

立川:東京芸大の教授になられてからは、それほどお付き合いはしていないと思います。工藤さんがお亡くなりになったのは、何年ですか。

粟田:1990年です。

立川:1990年に亡くなったとき、お葬式は海藤さんが仕切られたのかな? ともかく、あんなに悲しそうな海藤さんを見たのは、瀧口さんが亡くなったとき(1979年)と工藤さんが亡くなったとき、その2度だけですね。お葬式は上野でやったんですけれども、僕がそのときに泣きそうになったら、工藤さんの奥さん(工藤弘子)に「私が泣いていないんだから、泣かないように」と言われてね(笑)。工藤さんと海藤さんのお付き合いはいろいろとあったんでしょうけれども、僕がそうした人と知り合いになれたのも海藤さんのおかげですね。
海藤さんが自分の部下をどう扱ったかといういい例ですが、1980年前後だったか、飲んでいてたまたま、磯崎新さんと白井晟一さんの話になったんです。そうしたら、海藤さんが「じゃあ、取材に行ってきたら」と言うんですよ。磯崎さんは大分の出身で大分県立大分図書館とか北九州市立美術館とか、白井さんの建築は佐世保にあって、長崎にもある。親和銀行です。僕ともうひとり、編集部員に「行ってきていいよ」と言うので、僕たちは当然記事を書かされると思っているから、写真を撮って取材もして帰ってきた。それで海藤さんが「どうだった?」と聞くから「いやぁ、すごいです」という話をしたら、「あ、そう」って、それで終わり。記事を書けとも、なんとも言わない。なんでそういう風に自由にしてくれたのかというと、たぶん自分の眼で見て、経験を積めということでしょう。そういうことへは金を惜しまないというか。

鏑木:いい上司ですね。

立川:いい上司ですよ、本当に。そういう意味では、恵まれていたと思います。それは僕だけじゃなくて、他の編集部員も多かれ少なかれ、そういうことはあったと思います。
僕はこの前後に、鼻の病気をしているんです。鼻の病気というのはとてもやっかいで、思考力がなくなっちゃうんですよ。記憶力も悪くなるんです。それで手術をしたんですけれども、手術前は本当にひどかったんです。「俺、こんなにバカだったかな」と思うくらい。それですっかり自信をなくしちゃって、海藤さんに「辞めます」と言ったんです。そうしたら引き止めていただいて、それで残ることになったんです。あれがなかったら私はもう、どうなっていたかわかりませんね。だから本当に、恩人です。仕事を教えていただいたという意味でもそうですけれども、人生をどうやらこうやら組み立てられたということでも、恩人ですね。辞めちゃっていたら、どうなっていたんだろう。

鏑木:当然ながら海藤さんも、立川さんに辞めないで欲しかったのではないでしょうか。だってそのとき、立川さんが一番ベテランでいらっしゃったんですよね。

立川:いえいえ。僕が入社した1971年の秋に大岡(信)さんの教え子が入ってきて、その人はものすごく優秀な人だったんです。同僚ですけど、編集という仕事について随分啓発されました。86年に海藤さんが辞めて私が編集長になったときも、当然その人がなると思っていた。先程も話しましたが、そのとき草月出版の制作部門を編集部と企画制作部に分けた。で、編集部は雑誌だけに専念して、企画制作部は増刊号や草月展のカタログ、新刊を手がけることになった。仕事としては企画制作部の方が大変なわけで、彼はそちらの方の責任者になったんです。これは後から中原さんに聞いたんですけれども、この配置は海藤さんと中原さんで決めたと言っていました。その人は最終的には勅使河原(宏)さんがどうしても欲しいと言ってきて、草月会の方に引き抜かれましたね。勅使河原(宏)さんが亡くなった後に、今の家元(勅使河原茜)とうまくいかなくなって辞めたようです。
海藤さんは雑誌『草月』の仕事をしながら、一方で、たとえば『西脇順三郎の絵画』(恒文社、1982年)という画集をつくったり、ミロと瀧口さんの詩画集『ミロの星とともに』(滝口修造詩、ジョアン・ミロ画、平凡社、1978年)を編集したりしていました。海藤さんは、「君たちに余裕があれば手伝ってもらうんだけど」とおっしゃっていましたが、まったくお手伝いできませんでしたけれどもね。だから『草月』の仕事だけでなく、他の人たちから信頼されているからでしょうけれど、そういう仕事もなさっていました。
雑誌『草月』に関して海藤さんは、「最高の機関誌をつくる」という言い方をされていました。機関誌というのは、営業面でいえば宣伝しなくても売れる。固定客、つまり蒼風さんのお弟子さんがいますから蒼風さんがいる限りは売れる、ということが成り立つわけです。
蒼風さんが亡くなる前年、1978年に『勅使河原蒼風の世界』という別冊シリーズを出したんです。シリーズは1冊で終わりましたけれど、蒼風さんを徹底的に解剖するという本ですね。写真は篠山紀信さんで、篠山さんとはこのときに初めて仕事をしていただいたんです。撮影現場は、おふたりともかなり緊張されていて、火花が飛んでいるという感じでした。そういうことがあって蒼風さんが危うくなったときに、海藤さんは「あと1年はもつ」と言っていたんです。つまり蒼風さんの遺産で、この雑誌の売上も維持できる。そういう見通しを持っていた。これはすごいことです。その後、(第二代家元の勅使河原)霞さんは、すぐにお亡くなりになってしまったので、宏さんが(第三代)家元になった。

鏑木:(1978年の総目次を指しながら)『勅使河原蒼風の世界』というのは、これですね。

立川:そうです。これは本当に、蒼風さんのいわゆる総括という感じですよね。蒼風さんは、このときはそんなに体調が悪いわけではなかった(蒼風は1979年没)。

鏑木:70年代の終わりとともにお亡くなりになられたんですね。

立川:勅使河原蒼風さんというのは、昭和天皇と同じ1900年生まれなんです。後になりますけれども、土屋恵一郎という最近まで明治大学の学長を務めていた人がいまして、専門は法哲学なんです。でもしゃれた人で、能とかダンスとかを評論するんですが、あるとき「勅使河原蒼風について書いてみたい」と言うんです。それで1989年に連載したんです(「勅使河原蒼風と社会」182-187号、1989年)。6回書いてもらって連載を単行本にしたいというので、僕は反対したんです。「せっかく1900年生まれのふたりがいるんだから、天皇のことも取材して絡めて書いたら? その方が絶対おもしろくなるから」って言ったんだけど、結局『勅使河原蒼風』(河出書房新社、1992年)という本を出しましたね。ちょっと残念です。この人はなかなかすごい人で、「立川さん、あなたは覚えるという読み方をしていないから、すぐに忘れるんです」なんて言うんですよ。当たっているから怖い(笑)。

粟田:時期によって異なると思いますけれども、『草月』は当時どれくらいの売り上げだったんですか。

立川:平均でいうと、3万5千部くらいだったと思いますね。一番いいときは5万部近く売れたんじゃないかな。

鏑木:『草月』は、草月流の会員の方が希望して購入するものなんですか。会費をお支払したら自動的に送られてくる雑誌、ということではないんですよね。

立川:そうではありません。

鏑木:それで5万部っていうのはすごいですね。

立川:だから草月流というのはそれだけ大きかったし、力もあったんです。そういうことがあったから、海藤さんは「機関誌として最高のものをつくる」と言っていたんですね。彼はあまり具体的な方針をどうこう、という人ではなかったけれど、ある意味では雑誌をつくりながら、それを伝えていくみたいなことがあったんだと思いますね。これはエピソードですけれども、詩人の飯島耕一さんが最初に海藤さんに会ったときに、なんにもしゃべらないんですって。海藤さんの方からしゃべってくれない。それで飯島さんが癇癪を起こして、「なんで黙っているんですか」と言ったと、そのくらい寡黙な人。
海藤さんがお亡くなりになったときは「身内以外は中原さんと飯島さんと草月出版の編集部員だけに知らせてくれ」という遺言だったと、お聞きしました。だからお葬式は家族とその人たちだけで営んだ、と思います。「と思います」と言ったのは、私は出席していないからです。お亡くなりになった10年後にご家族が同じメンバーを招いて供養なさった。ところが実は僕は、そのときも参加できなかった。亡くなられたときも、10年後のその会にも行っていないんです。怪我をしていたか、入院していたか、変な巡り合わせがあるんですよ。あんなに目をかけていただいたのに、きちんとお送りしていないんです。(中島理壽「戦後美術とともに歩んだ 海藤日出男さんをしのぶ会」新美術新聞、1991年11月11日に掲載された写真を見ながら)これが飯島さんですよ。上の左が大岡さんで、隣が吉岡実さん、これが西脇順三郎さん、これが東野(芳明)さん。
そういうことがもうひとつありましてね。海藤さんが、亡くなられた同じ年に、クリスト&ジャンヌ=クロードの「アンブレラ」のプロジェクトが完成したのですが、その前の1年間、ジャンヌ゠クロードに「アンブレラがひらくまで」という連載で進捗状況を書いてもらっていました(192-198号、1990年)。

粟田:立川さんが依頼したんですか。

立川:そうです。それでほぼ構想が固まって、傘を差す場所に杭を打ち込むというので、中原さんと一緒に取材に行ったんです。頭が赤塗りの木杭が点々とある田んぼの風景を見て、なぜだかとてもすごくエロチックな感じがした。どうしてそう感じたかはわからないけれど、そう思って楽しみにしていたんです。
それで「アンブレラ」の初日に行ったんです。そのときは佐谷(和彦)さんもご一緒したと思うけれど、理由は忘れてしまいましたが、傘が開かなかったので見られなかった。それはそれで残念でしたが、大々的に記事を載せようと思っていたからクリストにアポをとって、中原さんと一緒にインタヴューに行くことにしていた。ところが、その日にカリフォルニアの傘が風に飛ばされて、そのせいで人が亡くなるという事故が起きた。それで急遽、傘を皆たたんでインタヴューもなし。だから僕は、実は「アンブレラ」を見ていない。杭だけしか見ていない。

鏑木:プロジェクトの過程を、ずっとご覧になっていたのに。

立川:見られませんでした(笑)。そういうことがあるんです。

鏑木:少し戻りますが、1978年から1980年にかけて、アラン・ジュフロワが連載しています。これはどういう経緯だったんですか(「パリからの通信」118-131号)。

立川:ジュフロワとは海藤さんが、パリの特派員時代からの知り合いだったかもしれませんね。

鏑木:ジュフロワは元々、シュルレアリスムの詩人なんですよね。

立川:そうです。ジュフロワが編集長を務めていた雑誌『XXe Siecle』の46号(1976年9月)で、日本美術の特集をやったんです(“Spécial Japon”としてジュフロワ、針生一郎、中原佑介などが執筆)。このときに日本の受け手になったのが、海藤さんです。

鏑木:そうだったんですか。それは窓口として、ということですか。

立川:そうです。そういうことがあって、1978年から連載をしています。たしか1977年だったと思うんですが、ジュフロワが来日したことがあるんですね。そのとき、編集部にジュフロワが海藤さんを訪ねてきた。海藤さんによれば、ヨーロッパの批評家は日本と違って、特定の作家と強固な関係を結んでいることが多いから、ジュフロワもそういう作家たちから旅費の足しにと持ち運びできるような小作品を餞別としてもらってきている。その先の相談に乗って欲しい、ということだったらしい。ともかく、連載が始まったのはその後からですね。だからその来日の折にたぶん、海藤さんが依頼したんじゃないかと思います。ひとりの作家を取り上げて紹介するという内容で。

鏑木:連載には工藤さんや荒川(修作)さんも入っていますね。当時のジュフロワが日本でどのように感じで受け入れられていたのか、イメージがわかなかったのでお尋ねしましたが、今のお話で経緯がわかりました。

立川:そういうことですね。ただ文化参事官になってからは、私は一度も会っていないですね。

鏑木:そうですか。ジュフロワは日本といろいろ縁がある人なので、後にそういう役職に就かれたのでしょうか。

立川:それはわかりません。(立川が持参した『XXe Siecle』を手に取り、巻頭にあるミロのリトグラフを見ながら)豪華な雑誌ですよね。
海藤さんの書き付けをご家族に見せてもらったことがあるんですけれども「作家からもらった作品は、すべて作家に返却するように」と書かれていました。「この人は本当に物欲がないんだな」という印象を持ちました。僕の記憶違いかもしれないんですが、そういうことがあったと思います。

粟田:ところで、当時『デザイン批評』はご存知でしたでしょうか。

立川:(雑誌『デザイン批評』を手にとりながら)この雑誌はぜんぜん知らないな。風土社……

粟田:『草月』の書き手は、割と『デザイン批評』と重なっています。泉真也さんとか、それからジュフロワも。

立川:あ、本当だ。峯村(敏明)さんが訳しているんだ(アラン・ジュフロワ「『芸術』をどうすべきか 芸術の廃棄から革命的個人主義へ」『デザイン批評』9号、1969年6月)。

粟田:泉真也さんも一時期、『草月』に書かれていますよね。

立川:はい。泉さんには、長く連載していただいていましたね(泉は164号、1986年より毎号「橋」、「噴水」、「門」など異なるテーマでのエッセイを連載)。木村(恒久)さんもそうですね。木村さんは、僕は付き合いが長いです。

粟田:なので、書き手が『草月』と重なっていて。

立川:結構ダブりますね。

粟田:(『デザイン批評』6号の特集「Expose・1968 シンポジュウムなにかいってくれ、いまさがす」を見ながら)これは草月会館ホールでやったイベントです。

立川:この頃は僕はなにも知らないですね。へぇー…… うわぁ、結構ダブっていますね。

粟田:そうなんですよ。領域を横断するようなところがあったので、その辺りが『草月』にも通じるということが、ちょっと見えてくるというか。

立川:そうですね。

粟田:でも粟津(潔)さんとの関わりは、ちょっとネガティブという話でしたよね(第1回参照)。

立川:いや結局、勅使河原宏さんがああいう強権的なことをやられたから。

鏑木:トップダウンだったことが問題。

立川:そうなんですよ。別に粟津さんがどうこう、ということはまったくない。白川静さんってご存知ですか。後年、粟津さんと漢文学者の白川さんと、甲骨文字をめぐっての対談を2号にわたって掲載しましたからね。

粟田:『草月』で、ですか。

立川:そうです。『草月』に載っています(「漢字の宇宙」234-235号、1997年)。

鏑木:それは逆に、それまでそういう風にはやってきていなかったということなんですね。つまり、そこだけ唐突にトップダウンで話があったから、頭にきたということ。

立川:そうです。勅使河原(宏)さんというのは根が映画監督ですから、ちょっとそういうところがあるんです。だからさっきお話したように、海藤さんが草月出版を中原さんに託したというのは、そういう部分だと思います。中原さんは、そういうことはしない人ですから。

鏑木:もうひとつ、立川さんはいわゆるいけばなの家元制度について、どのように考えていらっしゃいましたか。差し支えのない範囲で、お聞きできればと思います。

立川:海藤さんに言われたのは「機関誌といえども雑誌だから、草月流には入るな。いけばなを習うな」ということです。それは徹底していましたね。つまり、批評性と独自性が保てない。家元制度のなかに入ると、それは完全に一門だから。

鏑木:それは重要なことですね。

粟田:立川さん以外の編集者、皆さんもということですか。

立川:もちろんです。ただ、残念なことに社員の中には後年、草月流に入門して習っている人がいましたけれどもね。でも、それは編集部の人じゃない。

鏑木:そうですか。でも、なんていうのかな。難しいところかな、というのもわかります。

立川:草月出版の制作部門で働く人として、草月流から独立性を保つためには、やっぱり習っちゃうとまずい。株式会社である意味がない。家元制度のことを少しお話しますと、収奪機構だという人もおられますから、その側面がないとは言いませんが、僕個人としては非常によくできた経済機構だと思っています。お金を払って資格を取れば、誰でも教えられるんです。それは実力さえあれば、ですけど。そういう意味では、ものすごい経済的機構をつくりあげている。それにいけばなの普及という面で考えても、すごく役立っていると思います。ところが一人ひとりを作家として見たときに、果たして自由にものがつくれているかとなると、それは疑問符がつきますね。すごい作家は何人もいますけど。
1980年に勅使河原(宏)さんが家元を継いだときに、彼はかなり改革しようとしたんです。お金の流れは、実際にちょっと変わったんです。お金の流れは変えて、なおかつ草月流というものを、作家集団と位置づけようとしたんです。でも猛反発をくらって、結局それは実現できなかったんですけれどもね。だって何万人っているんですから、師範だけで当時、2万人くらいいたと思いますよ。今は1万人くらいみたいですけれども。もちろん師範のすべてが教えているわけではありませんが、何割かは教えることで生計を立てているわけですから。
僕がさんざん、いけばなだけではなく他のジャンルのことも雑誌に載せます、となぜ言い訳がましく(編集後記などで)言っているかというと、購入者の大半は雑誌にスタイルブックを求めていて、いけばな以外の記事はいらない、という意見が結構耳に入ってきていたからです。つまり、技術があればその真似をして、生徒に教えることができるから。そういうスタイルブック、手本が欲しい、ということに対する、言ってみれば反論なんです。

鏑木:遡ってしまいますが、立川さんが草月にお入りになる前の1960年代には、草月会や新興いけばなの方々の活躍で、いけばなブームのようなものがあった。そういう流れのなかで『草月』という雑誌が新しくなったり、他の流派の方々との行き来もあったと思いますが、その辺はどうでしょうか。

立川:流派間の交流は、いまでもいろいろな形で行われていますが、機関誌というレベルでの交流は皆無といって差し支えありません。

鏑木:そうですか。それともうひとつ、立川さんが会社に入られるちょうど前年に、勅使河原蒼風さんの脱税事件がありました。立川さんは心配ではなかったのかな、と思いました。

立川:なんにも心配していなかったですね。

鏑木:そうですか(笑)。「この会社に入って大丈夫かな」などと思いませんでしたか。

立川:入ったときには、すべての什器に国税庁のシールが貼ってありましたよ(笑)。「すごいな、徹底してやっているんだな」って思いました。

粟田:マルサ、ですよね(笑)。

鏑木:かなり物々しいですね(笑)。

立川:(『草月』初代編集長の)楢崎(汪子)さんに聞くと、一斉に入ったそうです。「びっくりした」って言っていましたよ(笑)。

鏑木:そのことがスキャンダラスに報じられていたのを、ご覧になっていましたか。

立川:見ていました。テレビで(蒼風が記者に囲まれて)「恐れ入りました」って言っているのを見て、「ああ、こういう人がいるんだ。金持ってるな」って(笑)。

鏑木:でも、その会社に入るということに対しては、特に心配はなかった?

立川:ぜんぜん心配じゃなかったです。僕は雑誌だけしか見ていないから、「この雑誌はおもしろい」という感覚でしたから。50年代、60年代の話に戻ると、草月流の上の人たちは本当にちょっとした中小企業の社長くらいの年収はあったそうですよ。それくらい稼いでいたそうです。大げさな話だと思いますけれど、入門したい人が列をなしていたくらい、と聞いたことがあります。

鏑木:すごい影響力だったんですね。

立川:もうひとつは、戦争で夫を亡くした人たち、戦前にいけばなを習っていた未亡人たちが、師範で身を立てたということもあったと聞いています。

鏑木:たしかにそのことについては、古い『草月』で時折、触れられていますね。

立川:さっきも言いましたように、そういう面ではうまくできた経済機構なんです。

鏑木:先程のお話だと、最盛期は5万部くらい。

立川:僕の入りたての頃は、それくらいだと思いますね。その後はどんどん衰退していきますけれども、当時の草月流はそのくらいエネルギーがあったんだと思います。

粟田:読者は皆、草月流に入っている人ですよね。

立川:そうです。もう、99%そうです。

粟田:自由に書かせるということが基本だと思いますけれども、ライターに書き方を変えてもらうとか、編集の方から草月で学んでいる人に向けて書いて欲しいと依頼するとか、そういうことはなかったんですか。

立川:たとえば展評を書いてもらうときは…… でも、それはなかったと思うな。バイアスはかけていないと思いますね。

粟田:では、むしろ書き手が自分で少し変えるというか。

立川:それはわかりませんけれども、依頼する側としてそういうことを考えて頼んだことは、僕は一度もなかったです。

鏑木:そういう意味では機関誌ではあるけれども、あくまでも一雑誌として。

立川:そうです。ただ、一度だけ依頼原稿をボツにしたことがありました。安東次男さんに頼んだ原稿で、たぶん家元制度について書いてもらったと思います。それは僕が担当だったんですよ。入ってすぐのことです。海藤さんと楢崎さんが「これは載せられないな」と判断なさった。

粟田:読んでみたい(笑)。

鏑木:うん(笑)。これは掲載されなかったんですか。

立川:はい。原稿をお返しに上がったとき、安東さんもそんなに怒っていなかった気がする。引き受けてくださるときも、「俺に書かせるの?」という言い方をされていましたから。しかし、編集会議で安東次男という名前を出して通っているわけですから、そのときは新人だし、ちょっとショックでしたね。こうしたことは、本当にその一度だけです。

粟田:中原佑介さんの連載「現代芸術入門」は、AとBが対話するかたちで書かれています(101-116号、1975-1978年)。ああいうスタイルは、編集部と話し合いながら決まったという感じですか。

立川:いや、あれは中原さんのスタイルです。目先を変えるという。たぶん、そういう風にした方が読みやすくなるという、彼のアイディアです。

粟田:中原さんの発想。

立川:そうです。

鏑木:中原さんのものとしては、若干異色ですよね。

粟田:「入門」だからですかね。

鏑木:編集部から、草月会の会員の方に現代美術について教えて欲しいとリクエストがあったのかと思いました。

立川:(資料を見ながら)「現代芸術術入門」は101号、1975年8月からですね。連載は編集会議で決めたんだと思いますよ。

鏑木:その後、単行本にもなっていますね(『現代芸術入門』美術出版社、1979年)。

粟田:草月出版ではないんですよね。

立川:営業力がないんですよ。『クリスト』も含めて何冊か出しましたけれども、大岡さんの連載にしても(『風の花嫁たち 古今女性群像』、1975年。『いけばな草月』および『草月』の連載「女……その神話」をまとめたもの)、和歌森太郎さんの『花と日本人』(1975)にしても結局、流通に乗せても営業力がないですから。つまり営業部門はあっても、草月流のなかだけで売っているわけですから、外に出したときのノウハウがないんです。それはやっぱり、無理でしたね。
「現代芸術入門」は、「芸術を超えて」の次の連載ですね(70-85号、1970-1972年に連載)。「芸術を超えて」はこの当時起こっていること、1970年の「人間と物質」展前後の現代美術の問題を連載していて、中原さんがいちばん問題提起していたときで、これはやっぱりすごいですよね。「芸術を超えて」は、あまり文を長くは書いていませんね。

鏑木:そうですね。この連載はグラビアが多くて、テキストは少ない。

立川:(「芸術を超えて」の抜刷を見ながら)懐かしい。中原さんの『草月』での連載というのは、いま起きていることから、だんだん時間を拡げて俯瞰するようになっていくわけです。「現代芸術入門」に関しては、ある意味での現代美術の総括。現代芸術とは何だ、ということを落ち着いて考えてみよう、という視点だったと思いますね。

粟田:中原さんに限らずですが、読者からの反響というのはどうだったんですか。

立川:アンケートを取ったこともあるんですが、無きに等しかったですね。

鏑木:それはちょっと寂しいですね。

立川:本当に寂しいんですよ。それは、家元制度の弊害です。読者は草月出版と草月流は一緒だと思っているから、どんなに「(草月出版は)株式会社です」と言っても、「そうじゃないだろう」という感じで、本音があまり聞けない。

鏑木:外からは違いがわかりにくい、ということはあるかもしれませんね。

立川:話を戻すと中原さんが、「今日の造形」(99号、1975年4月)でとりあげたパリ・ビエンナーレの榎倉康二さんの《壁》(1971)は衝撃的でしたね。榎倉さんは、若くして亡くなられましたけど。中原さんの連載は「現代芸術入門」の次に「絵画と彫刻のあいだ」になって、その後はしばらくないんですよね。

鏑木:連載が少し途絶える時期があります。

立川:「絵画と彫刻のあいだ」(133-139号、1980-1981年)。これは中原さん、ちょっと力尽きましたね(笑)。

粟田:中原さん以外で、思い入れのあるライターはいらっしゃいますか。

立川:何人もいます。たとえば木村恒久さんは痛烈な批判精神の持ち主で、すごい人でしたね(『草月』のリニューアル初期からコラム等を担当したほか、連載「木村恒久のスナップショット」166-187号、1986-1989などを執筆した)。余談ですが、昨日、テレビでたまたま漱石を取り上げた番組を見ていたら、病気の後に「おかゆがこんなにおいしいものとは」という文章を残しているんですよね。あるとき木村さんとどこかで会ったときに、木村さんも胃の病気をしていますから「ご病気をされたそうで」と言ったら、小さい声で「立川さん、おかゆって本当においしいね」と言うんです(笑)。それがすごく印象に残っている。
北山善夫さんとはいまでも親しくお付き合いしています。「いけばな再考」という座談会の連載をやっていたときですね、初めて会ったのは(デイヴィッド・ナッシュ、北山善夫、勅使河原宏 談「いけばな再考1 座談会 植物という素材をめぐって」141号、1982年)。上野でデビット・ナッシュなどが出品して、木をテーマにした展覧会をやっていたんです(「今日のイギリス美術」展、東京都美術館、1982年)。北山さんとは妙にウマが合ってそれからずっと。あの人は絵画に方向転換してしばらくつづけていましたが、最近また立体の作品を制作しているようです。

粟田:北山さんも『草月』で書いていらっしゃるんですか。

立川:ええ、書いています。連載はないですけれどもね。

粟田:立川さんが編集長になると、書き手のラインナップが少し変わると思います。

立川:それはやっぱり、意識的に若くしようとしたと思いますね。

粟田:当時はニューアカデミズムの頃で中沢新一さんとか、粉川哲夫さんなども書かれていますね。

立川:それはかなり、意識していたと思います。

鏑木:内容的にもそうだと思いますし、立川さんに編集長に変わられてから、『草月』という雑誌が非常に現代的になったという印象を受けました。編集長を引き継いだときに、意識されていたことがあったんでしょうか。

立川:先程言いました海藤さんの方針と、基本的にはそれほど変わらないんですよね。

鏑木:「最高の機関誌」。

立川:うん。僕が編集長になった頃、雑誌には書いていませんけれども、社内では「いけばなを太らせる」と言っていたんですよ。皆、笑いましたけれど。

鏑木:それはどういうことですか。

立川:つまりいけばなも美術、表現のひとつであるからには、美術に限らず表現というものがどういう風に動いているのか、それを見る人たちはなにを要求しているのか、社会のなかでの位置づけはどうなのか、それを知らなければということです。そのためには無論、美術の動向も知らなければいけないし、社会の動きも知らないといけない。だからこの機関誌は、“雑誌”でなければならない。いけばなを中心としているけれども、雑誌たろう、と思ったんですね。いけばなをいけばなだけの価値観で語ったら、やせ細っていくしかないと。

粟田:なので、いろいろなものが交ざり合っている。

立川:いろいろなものが交ざり合って、入れ込んである、という感じです。海藤さんはちょっと大回りなところがありますけれども……

鏑木:大回り?

立川:スケールが大きいから「ドン!」って来るんですけれども、私の場合は、チョコチョコといろいろなものを入れている(笑)。その辺の違いはあると思います。

粟田:87年に「ウォッチ」という欄ができますが、あれはどういう意図だったんですか。

立川:あれなんか、まさにそうです。あれは社会現象、美術も含めてですけれども、ジャンルを問わずにいま、なにがどういう風に起きているか。これはどう見たらいいのか、というような視点だと思う。

粟田:立川さんのアイディアですか。

立川:もちろん僕だけじゃなくて、編集会議のなかで出てきたと思います。それはやはり、編集部が自由でなければ絶対に出てきません。「なんでもいい」と言うと語弊がありますけれども、そういう雰囲気でないとそうした会議はできませんからね。

粟田:立川さんが編集長のとき、編集メンバーは何人くらいいたんですか。

立川:増減があります。スタッフの数は多いときには6、7人いたかな。少ないときは、それこそ4人とか。キツいんですよ。

粟田:毎年掲載されていた草月会の年表は、決まりの仕事なんですか。

立川:いや。あれはなんだか、無駄な時間を使っていましたね(笑)。そう言うと怒られますね、きっと。

鏑木:年表と総目次は一時期、毎年掲載されているんですよね。かなり仔細に、草月会の活動をまとめています。

立川:たぶん、僕が編集長になってからはやめたんじゃないかな。

鏑木:そうなんです。90年代に入ってからは掲載がなくて、どうしてだろうと思いました。

立川:手間暇かかるので、それだけの余力がなかったんだと思います。(資料を見ながら)それから創刊200号記念特集号(1992年2月)。あれは「えー! 俺、こんなに雑駁なことをやったんだ」と思わざるを得ませんね(笑)。

鏑木:100号にくらべると、200号は振り返りのような記事は少なかったですね(笑)。

立川:「なんだよ、これは」って(笑)。ひどいです。手抜きもいいところ。

鏑木:いえいえ(笑)。この頃はもう、そういう感じではなくなっていたのかな、と思いました。

粟田:『草月』という雑誌のひとつの役割は、年表をつくることだったという。

立川:それは海藤さんも含めて、あったと思いますね。でもそれは余力がないとできない作業です。

鏑木:草月会の資料としてすごいんですけれども、きっとかなり大変なお仕事でしたよね。

立川:本当に。資料としては、後年の人にとっては有効ですけどね。

鏑木:よく考えたら海藤さんが100号(1975年6月)で編集長になられたときは、60代なんですよね。

立川:そうです。あの人は1912年生まれだから、63歳?

鏑木:編集長が海藤さんから立川さんに継がれたとき、立川さんは40代ですよね。だからやっぱり、雑誌が若返ったというか。

立川:それはたぶんそうだと思いますけれども、海藤さんが僕に編集長になるようにおっしゃったときに、「70歳を超えて雑誌の編集長をやっているのは、グロテスクだ」と。その前から、彼は何回もそのことを言っていた。海藤さんというのは美学の持ち主だったから、「この人もそんなことを考えるのかな」と思いましたけれどね。というのは、海藤さんは若かったですからね。

鏑木:そうでしたか。ひょっとしたら80年代の後半に、編集長が70代というケースはそんなに多くはなかったんではないでしょうか。

立川:そうなんです。『美術手帖』が30代の人を編集長にするとか、どんどんやっていたんですよ。そういうこともあって海藤さんとしては若干、忸怩たる思いがあったんじゃないかな。

鏑木:70代になられて、お仕事のボルテージを下げたいということもあったかもしれませんね。

立川:それはあるかもしれません。だけど毎晩、飲んでいましたからね(笑)。それにしても編集長になることになって、私自身が一番びっくりしました。

鏑木:そのお話は意外でした。

粟田:ヒエラルキーは比較的ないということでしたが、編集長になって変わったことはありましたか。

立川:うーん、あまり変えないつもりでしたけど、どうですかね。海藤さんからは、編集長は独断的に編集権を行使するもの、という考えを植え付けられていましたが、それは内部に対してということではなくて、上に対してということです。上というのは要するに、経営者です。

鏑木:独立性を保つ、ということですね。

立川:そうです。それは徹底していました。

鏑木:編集部のなかでは編集長も編集部員も対等に、でも表立って対応する必要がある場合には編集長の役割、ということでしょうか。

立川:そうです。経営陣を含む外部に対して、内部に対してもね。つまり、責任のありか、ということです。それは、どこまでできたかわかりませんけれどもね。実際、自分でやってみてやっぱり、圧力を受けたこともありますしね。『草月』の筆者に勅使河原季里さんという、勅使河原宏さんの娘さん(長女、第四代家元・勅使河原茜の姉)がいます。

鏑木:季里さんは、『草月』でずっと連載をされていましたね。

立川:僕が一度、連載をやめたことがあるんです。そうしたら、勅使河原さんが妙に圧力をかけてきた。

粟田:宏さんが、ですか。

立川:ええ。「季里の連載はおもしろいって言っている人が多いぞ」とかね。そうやって、ジワジワ攻めてくるんですよ(笑)。彼女は芸術一般に精通している人ですから、切り口さえ見つかれば筆者としてはなんの問題もないと思い直して、また連載を始めたんです。そんな些細なことはありましたけれど、勅使河原さんは基本的には雑誌の編集に口出しすることはなかった。
勅使河原宏さんは、雑誌にとってはもっとも身近な取材対象です。記事の量も多い。草月流家元としての活動は措いたとしても、私は1980年から約20年間におよぶ彼の社会に向けた作家としての創造活動、表現活動は刮目に値すると思っています。なにしろ55歳からのスタートですから。韓国国立現代美術館(1989年)、直島のベネッセアートミュージアム(1993年)、ミラノのパラッツオ・レアーレ(1995年)、広島市現代美術館で竹のインスタレーションを中心に据えた大規模な個展の開催(1997年)。パリ・ユネスコ本部庭園で開かれた大茶会のプロデュース(安藤忠雄、エットレ・ソットサス、シャルロット・ペリアン、崔在銀、勅使河原宏が茶室を制作、1993年)。映画監督としては『ガウディ』(1983年)、『利休』(1989年)、『豪姫』(1991年)の制作。リヨン(1992年)とジュネーブ(1996年)の歌劇場ではオペラ「トゥーランドット」の演出・舞台美術を手がけ、「大地の魔術師」展(ポンピドゥー・センター、1989年)や「Japan Today」(デンマーク・ルイジアナ美術館、1995年)に招待出品。ほかにも公共空間での作品制作、庭園や橋のデザインなどなど、ともかく活動範囲は多岐にわたっています。『草月』は草月流の機関誌だからと言ってしまえばそれまでですが、かなりのページ数を割いて勅使河原さんのそれらの仕事を掲載しています。ですが、これが機関誌の限界というべきでしょうが、彼の社会的認知度は、草月流家元に毛が生えたくらいで留まっているように思います。

粟田:さっきの話に戻りますが、1990年に読者アンケートをしたと書かれています(192号、1990年10月の編集後記)。そのなかで「花(いけばな)の記事を多くして欲しい」という声があることに触れています。その影響なのか、1990年代に入ると、いけばなの記事が増える印象を持ったのですが。

立川:それはたぶん、増やしたんだと思いますね。くたびれてきた、というのもあるんですよね。編集長をやって、もう5年経っているでしょう。特集とか、よくがんばってこんなにやったな、と自分でも驚くくらいやっていますから。あるときはちょっと、小休止していますね。1990年の188号について、(このインタヴューのために記してきた)自分のメモに「刷新、スケールダウン」と書いてある(笑)。

鏑木:では、意識的にそのような方向へ。

立川:そういった部分はありますね。

粟田:読者アンケートというのは例年、定期的におこなっていたんですか。

立川:1年に1回くらいだった思いますね。アンケートって、難しいんです。アンケートを取って読者から「いいですね」と言われるのは、いちばんつまらないじゃないですか。批判してくれないとね。でも批判してもらえるようなアンケートの取り方って、すごく難しいんです。それは海藤さんも「アンケートって簡単じゃないんだよ」と言っていました。要するに、問う側の問題ですよ。

鏑木:たしかに問いかけ方ひとつで、回答が変わってしまいますよね。

立川:だから、完成形はありませんね。

鏑木:ところで田窪恭治さんの連載(「表現の現場から」206-227号、1993-1996年。のちに『林檎の礼拝堂』集英社、1998年としてまとめられた)について、教えていただけますか。

立川:田窪さんと知り合ったのは、たぶん1992年だったと思います。勅使河原(宏)さんの紹介です。最初に会ったときにすでにファレーズに行っていたはずですから、日本に帰って来ていたのかな。もしくは1990年の暮れですね(田窪は1989年7月、礼拝堂の近隣に一家で移り住んだ)。
サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂の仕事を紹介したのは、前野(寿邦)さんなんです。礼拝堂は前野さんの奥さんのモニックさんの実家のすぐそばの村にあるので、彼女が仲介している。前野さんは、プロジェクト化して修復するというつもりではなかったそうです。前野さんは関西人だから、「チョイチョイとやればいいのよ」なんて言っていた(笑)。それは、彼なりの慮った言い方だと思います。宗教、文化などなにもかも違うのだから、と。始めはそういうことで、頼んだらしいんです。
ところが田窪さんは違うように解釈をして、大仕事になったんです。91年か92年かわかりませんけれども、勅使河原さんの紹介で彼に初めて会ったときに、「中村錦平さんのところに行きましょう」と言うんですよ。中村さんは、前衛陶芸家でしょう。僕もそんなに詳しくは知らなかったんですけれども、多摩美の先輩なのかな(中村錦平は田窪の多摩美の1級下の陶芸家・中村康平の兄)。そのときに錦平さんに話していたのは、資金をどうやって調達するかという話だったと記憶しています。思い違いかもしれせんが、ともかく支援できるんだったらということで、「大した金にはならないけれども、『草月』で連載をしてみたら」ということになったんだと思います。
僕は田窪さんの作品はほとんど知りませんでしたけれども、話してみるとすごく頭の回転が早くて、早熟だった。だって多摩美の受験に来て、そのまま新宿に居ついたというようなことを話していましたからね。だから、この人はおもしろいものをつくるかもしれないな、ということがあった。金銭面でなんとかできないか、と考えあぐねていたときに、勅使河原さんの若いスタッフと雑談をしていて、なんとなくそういう話になったんです。そうしたらその人が、「基金を集めたらいいじゃないですか」と言ったんです。僕にはそういう発想はまったくなかったから、「ああ、そういえばそうだな」と思った。こういうプロジェクトに賛同してくれる人がいれば集めてもいいな、と思って、勅使河原さんに相談して発起人になってもらったんです。田窪さんは社交の上手な人だから、企業人からなにから、協賛者がいっぱいいるんですよ。彼がその人たちの名簿を持っていて、それを借りて書状を送ったら、50人くらい集まったのかな。あれ、なんて言ったかな。(立川の)女房は「かわら募金」と言っていたけれど。

鏑木:213号(1994年4月)で記事になっています。「ガラスかわら募金」という名前で、寄付した人の名前が礼拝堂に刻まれるという。

立川:それでだいたい、2千万円以上集まったんです。それはプロジェクト遂行の一助にはなったと思いますね。

鏑木:いまのお話だと、連載当初の趣旨はプロジェクトの広報的な意味合いだったんですね。

立川:そうです。両方ありますね。

鏑木:資金集めということもあったかもしれませんが、結果として読み応えのあるドキュメントになっていますよね。

立川:村野藤吾賞をもらいましたからね(1999年)。

鏑木:立川さんは、『草月』にはスタイルブックが求められている部分もあったものの、雑誌として美術や文学、社会にまつわる記事などを並行して掲載していく、ということを貫かれていたと思います。編集長が変わるタイミングには、なにか経緯があったんですか。

立川:いまになって冷静に考えると、1997年か1998年にいけばなの初心者、あるいは興味を持っている若者向けのいけばな雑誌をつくろうとしていたんですよ。これは私の見通しの甘さ、力不足のせいで大失敗しましたけれども、その頃から勅使河原(宏)さんとの関係がまずくなった。それで僕が辞めると言ったのか、辞めろと言われたのか、その辺は覚えていませんが、責任を取ったのかもしれません。その頃のことは、記憶にないんですよね。僕は編集長を、1998年に辞めているんです。
次の編集長には「僕は口を出さないから」と言って、編集会議には出ていませんでしたけれど、隣席にはいましたから、若干の影響はあったかもしれませんね。草月出版で、1999年に『現代いけばな花材事典』という本を出したんですが、1998年からはほとんどそちらの方にかかりきりだった。その本はとにかく出さないと、ということで、膨大な費用をかけていましたから。

粟田:(書影を検索して)これですか。

立川:そうです、これです。これは東大の大場秀章さんという人に監修していただいた。本当に時間がかかりましたね、15年以上かかったんじゃないですかね。

粟田:これは、書き下ろしなんですか。

立川:書き下ろしです。大場さんのお弟子さんの清水(晶子)さんという、すごくできる女性がいて、その人が文章を書いてくれました。植物の部分は、全部そうです。僕が直したら、ひどく怒られました(笑)。

鏑木:ひとつ、よくわからないことがありまして、立川さんが編集長を退任された後も、『草月』の奥付にはしばらく「編集人」としてお名前が記載されています。240号の編集長交替の挨拶で「編集・制作部長としての職に専念することになり」と書かれていますが、これは、草月出版全体の編集の責任者ということですか。

立川:そうです。編成替えしたんですね。1986年に編集部と企画制作部のふたつに分けたのを、たぶん…… たぶんですよ。1998年に編集制作部として、1本にしちゃったんですよ。私がその部長になった可能性がありますね。

鏑木:先程の事典も含めて、草月出版全体の総括として。

立川:そうだと思います。

鏑木:だとしたら、『草月』の奥付にお名前があっても変ではありませんね。

立川:うーん、そうかもしれないけれど、僕の概念から言うと変です。

鏑木:雑誌の奥付としてはおかしい?

立川:おかしいです。

鏑木:雑誌によって編集人ということばの意味が違うのか、外から見ると「どうして編集人がこの方のお名前なのかな」と、わからないときがあるんです。

立川:雑誌によって違うと思います。

鏑木:そうですか。立川さんが会社をお辞めになったのは2000年ですか。

立川:2000年の1月に辞表を出して、たぶん有給を使って、正式には2月か3月になったんじゃないですかね。その頃のことは、まったく覚えていないんです(笑)。事典を出したのが最後の仕事じゃないですかね。

鏑木:立川さんが雑誌から異動された後、『草月』はさらにいけばな雑誌的になっていきましたね。

立川:もういまや、いけばなだけですね。

鏑木:その前の『草月』を知る者としては、ちょっと寂しい気がします。

立川:僕の頃はやはりニューアカもすごく意識していましたし、90年くらいかな。筆者としては、安齊重男さんや篠田達美さんにかなり協力してもらっていますね(安齊や篠田は『草月』で多くの記事や連載を執筆した)。

鏑木:篠田さんはある時期から、ずっと書かれていますね。

立川:篠田さんは、東京国際フォーラムの美術作品の選定をしていたでしょう。世界中を飛び回っていたんです。一方で、『みづゑ』の仕事もしていた(1990年より『みづゑ』編集長)。だから美術出版社の誰かに、ふざけて「篠田さんに、そんなにたくさん仕事をさせるなよ」なんて話したこともあるくらいです。当時の篠田さんはそれくらい売れっ子、大活躍でしたね。彼はいつ倒れたんだっけな。その後に一度、(アートコーディネーターの)内田真由美さんと彼を訪ねたことがあるんです。退院なさってからは、頭ははっきりなさっていましたね。だから本当に…… あれはいつだっけな。中原さんとラスコーに行ったとき。

鏑木:1995年から1996年ですか。

立川:思い違いかな…… クリストの「ライヒスターク」はいつだったかな。

粟田:1995年です。

立川:じゃあ、やっぱり彼が倒れたのは、1996年ですよ。「ライヒスターク」は、篠田さんと一緒に行ったんですよ。96年に(立川が中原らと)ラスコーに行ったときに、旅の途中で篠田さんが倒れたと聞いた。

粟田:篠田さんとの出会いは、どういう経緯だったんですか。

立川:最初はなにか忘れましたけれども、展評を頼んだんですね。あれは誰の作品だったかな…… 僕は担当はしていませんでしたけれども、埼玉近美の展覧会が最初です(「地・間・余白 今日の表現から」183号、1989年)。それで篠田さんは明解だ、ということで連載をお願いしたんだと思いますね。

粟田:篠田さんのサイトを見ると、2011年に『草月』で連載と書かれていますけれども、立川さんはもういらっしゃらないですよね。

立川:それは私は知らないですね。ラスコーから帰って見舞いに行ったけれども…… すごく変な話をしていいですか。その前、1994年にアヴィニヨンに一緒に行ったんです。アヴィニヨン演劇祭というのがあって土屋(恵一郎)さんのプロデュース、勅使河原さんの舞台美術で能「スサノオ」を上演したんです。篠田さんに、取材を頼んだのかな。その辺の経緯は記憶にありませんけれども、とにかく一緒だった。で、僕は体が丈夫じゃなくて、すごく疲れやすいんです。スタミナがないんですよ。それで、気療って知っていますか。(しばらく手を擦ってから)ちょっと手を貸してください。

鏑木:ええ(手のひらを差し出す)。

立川:(鏑木の手の上に、自分の手をかざして)こうすると……

鏑木:あ、あったかい。

立川:あったかいでしょう。こういうやり方があるんです。それで僕は元気になるために、同行していた気療師の人に気を送ってもらっていたんです。そうしたら篠田さんが「一緒に行ってもいいでですか」と言うので、「どうぞ、どうぞ」と。篠田さんに、木にも気があると言うと、彼はアカシアの木に一所懸命、手をかざしていた。それで、彼が倒れたでしょう。脳幹出血で、重篤だった。で、奥さんはアヴィニヨンでの篠田さんの体験を聞いていたらしくて、ずっと(首に手をあてて)こうやっていたんですって。

粟田:その人は、日本の方なんですか。

立川:日本人です。その方は土屋さんの紹介なんです。篠田さんの奥さんが言っていましたけれども、患部に手を当てると手が痛くなるんですが「たぶん、それで助かったんだ」って。そういうこともありました。(篠田のサイトを見ながら)この人、いい男ですよね(笑)。

鏑木:篠田さんは、90年代の『草月』の代表的な書き手ですね。

立川: 94年、95年と一緒にヨーロッパに行っていますね。95年はヴェニス・ビエンナーレと、「梱包されたライヒスターク」を見るツアーで一緒でした。私はベルリンでツアーの一行と別れて、ルイジアナ美術館(デンマーク)の「Japan Today」っていう展覧会を取材に行ったんです。勅使河原宏さんが出品していましたから。他に堀(浩哉)さんとか、柳(幸典)さん、戸谷(成雄)さんなどが出品していました。でもこれは、あまり大きく載せた覚えがないんですよね。
もうひとつ、勅使河原(宏)さんの作品は随分、篠山紀信さんに撮ってもらっています。蒼風さんと篠山さんの出会いは海藤さんがつくったんですが、1977年が初めてなんですよ。その後、篠山さんに新しい草月会館(1977年竣工)を撮ってもらいました。だけど蒼風さんが亡くなったときかな。篠山さんには「勅使河原宏のいけばなは撮らないからね」と言われたのですが、スケールの大きな竹の作品をつくるようになってからは、撮っていただけるようになった。

粟田:最後になりますが、草月をお辞めになった後、立川さんは2001年に『17歳のテンカウント 日比谷線脱線衝突事故で逝った麻布高生・富久信介の生涯』(亘香通商)という本を書かれています。僕も当時すごくショックを受けたので、いまでも印象に残っています。これを書かれた経緯というのは。

立川:その親父と僕が高校のときの同級生なんです。

粟田:そうだったんですね。

立川:最初は女性の同級生から、富久くんの息子が亡くなったと連絡が入ったんです。(事故が起こったのが)午後2時とか、そんな時間でね。麻布に入ってからはあまり勉強していなかったようだから、最初はどうせサボっていたんだろうというくらいに思っていたら、試験が午後からで、それで事故に遭ったと。親父にとっては勉強もスポーツもできる、自慢の息子なんですよね。あまりにも落ち込んでいたから、友だち連中が代わる代わる彼の家に行って、毎晩のように飲んでいたんです。それでいろいろと話しているあいだに、「息子のことを、なにも知らない」と言い始めたんですね。17歳って、親とほとんど話さないでしょう。だから「スポーツができて、勉強もできて自慢の息子ではあるけれども、なにも知らない。それが悔しい」と。しばらくそういう話を聞いていたんですけれども、たぶん書けないわけじゃないから「俺が書くよ」と言ったんです。どこまで迫れるかはわからないけれども、とにかく息子の友だちに聞きまくって、お前の息子がどうやって生きていたかを書こう、と。それがこの本だったんです。
それで麻布の連中とか、小学校のときの同級生、予備校の先生、小学校の先生。全部聞き回って、それで書きました。ボクシングを練習していた大橋(秀行)さんのジムにも行きましたね。

粟田:大橋ジムですね。

立川:あのときは麻布の連中がインタヴューの最初に、「こいつはどういうやつだろう」って値踏みするんですよね。

粟田:どういう人なんだろうって、警戒している。

立川:そうなんです。でも結構、話をしてくれました。いまだにお線香をあげにくるみたいですよ。2023年ですから、もう23年経っているんですよね。皆、40歳ですよ。命日は3月8日です。毎年、行きますけれどもね。
本にも書きましたけれども、僕も17歳のときに友だちと海に行って、その友だちが溺れ死んだんです。そのときに毎年、命日にお線香をあげに彼の家に行っていたんですけれども、親御さんの悲しみは痛いほど伝わってくる。だけど、僕は20歳になっても21歳になっても結局、親御さんに対してことばというのが出せなくて、そいつとの話もあまりできなくて。そういうことがあってね。そういう原体験があったんで、富久という友人が嘆いている気持ちが、ある意味でわかるというか。僕は子どもはいませんけれども、それなりの経験は積んできたから書けるかな、と思ったんです。

粟田:なるほど、ありがとうございます。

鏑木:本日もたくさんの貴重なお話を、どうもありがとうございました。

立川:ありがとうございました。