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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

高階秀爾 オーラル・ヒストリー 第1回

2010年6月4日

国立西洋美術館にて

インタヴュアー:林道郎、池上裕子

書き起こし:畑井恵

公開日:2013年6月16日

更新日:2018年6月7日

インタビュー風景の写真
高階秀爾(たかしな・しゅうじ 1932年~)
美術史家・美術評論家(ルネサンス以降の西洋美術、日本の近現代美術)
東京大学教養学部卒業後、1954年、東京大学大学院在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、1959年まで滞在。帰国後、国立西洋美術館の研究員として1971年まで勤務。1971年から1992年まで東京大学で教鞭を執り、1992年から2000年まで国立西洋美術館館長。2002年より大原美術館館長。2012年、文化勲章受章。聞き取りは、東京大学での教え子である林道郎を聞き手として行われた。4回にわたって、フランス留学や美術館勤めの時代から、研究・評論活動、東京大学での教育、また国際学会での活動まで、多岐にわたるトピックについてお話しいただいた。

池上:今日はオーラル・ヒストリーということで、先生の長年にわたる美術との関係やご活動をお聞きしていきたいと思います。まず、1932年生まれでいらっしゃいますが、東京のどちらでお生まれでしょうか。

高階:今は東京都ですが、当時は府かな。東京府下、保谷(ほうや)というとこです。保谷町。「保つ谷」と書きます。あれは北多摩郡だったかな、当時は。今は西東京市ですけどね。東京都になってからは都の中ですが、生まれたときはまだ東京府だから、府下ですね。

池上:保谷町というところは、お育ちになったあたりは、どういった雰囲気のところでしたか。

高階:そこは府下だから、住まいというよりも、うちの祖父の別荘があったんです。みんな知ってるかな、僕は小学校五年ぐらいまでは、佐々木姓なんですよ。

池上:あ、そうなんですか。

高階:ええ、今は高階ですけれども、うちの祖父が佐々木秀一といって、高等師範学校の、附属小学校の主事をしてました。

池上:はい。

高階:東京高師、附属小学校主事。鶴見俊輔さんが最近書かれた岩波新書の中で、あれも附属小学校ですよね。そのときの校長先生が、朝の訓辞のときに長々とうるさいこと言わないで、時には「あー、今日は天気がいいね」って言って、引っ込んだとか(笑)。祖父がその人なんですけどね。僕は生まれたときから、そこに養子に行くことになってたんです。だからその祖父の佐々木姓で。祖父というのはうちの母の父ですけどね、子どものときにそっちに行ったのかな。東京にも、もちろん家があったんです。小石川にあったんですが。ていうのは、祖父の家は、五人兄弟だけど全部女の子。母は一番上だったんですけど。それが高階に嫁に行っちゃったから、佐々木の跡を継ぐのは最初の子、っていうことだったんだと思います。結局その後もその四人姉妹、それぞれ結婚して子供は男の子がいなくて。それから高階もあとは女の子しかできなかった。で、高階がいなくなる、っていうんで、結局僕は小学校のときに高階に戻るんです。そして佐々木家は、うちの母の一番下の妹が養子を取りました。で、佐々木を継いだんです。昔は家が大事ってことがあったもんですから。ですから私は、たまたま生まれたのは保谷で、その後もちょこちょこ行ってました、別荘なんで。でも普段住んでたわけではなくて。そして、もちろん田舎です。周りはだだっ広い畑で。今はなんかやたらにベッドタウン化しちゃってますけれども。庭があって、畑を作ったりなんかしていたところです。ただ、生まれて僕はすぐに四国行ってるんです。もちろん生まれたときの記憶はないけれども、二月生まれでその年から四国に行きました。ていうのは父が高松高等商業学校というところに勤めてました。文理大を出てるんです。それで、今は香川大学になりましたが、当時は高松高商と言っていて、首相だった大平(正芳)さんなんかも教えたらしいんだけど。彼は高松高商出身ですから。父がそこの教師をしてたもんですから、生まれてすぐ、母も一緒に四国に。幼稚園はずっと高松です。だから記憶でいうと子どものときは、高松の栗林公園行ったとか幼稚園行ったとか、っていう記憶で。東京は小学校からです。小学校一年のときに、やっぱり東京がいいだろうって。うちの父は少し遅れて東京に戻ってきました。

林:お父さんは何を教えてらしたんですか。

高階:えーっと、哲学。

林:哲学ですか。

高階:高松高商で、僕は小学校一年のときに東京に来て、父は三年のときに東京に戻る。いずれ高松高商から東京の高等師範へ戻るってことがあったんでしょうけども。で、哲学。日本精神史とか、倫理学とかっていうのを教えてました。だから小学校一年から二年、三年の途中までは、父は高松で単身赴任ですよね。うちの母は行ったり来たりしてたけど、母も東京に戻ってきて、僕と姉もいましたから。で、その佐々木の家にしばらくいて、あとは家を借りたんですけど。だから小さいときの記憶っていうと、高松の幼稚園ですね。で、小学校一年のときから、附属に入ったということです。

池上:で、そのお住まいは。

高階:小石川ですね。戻ったときはその祖父の家です。父が高松から帰ってきてからはその近くに借家を借りて。小石川です、どっちも。

池上:お母様はどのような感じのお方だったんでしょうか。

高階:うちは母方の方が青森の出身です。うちの母はごく普通の、今で言う主婦なのかな。結婚をして。祖父がその高等師範の主事、つまり教育者だった。その奥さん、母の母は、やっぱり国語の先生です。どこかの女学校の教師でした。二人とも教師で、まああんまりお金はなかったかもしれないけど、一応知的階級で。

池上:お父様も先生ですからほんとうに教育者一家でいらしたんですね。

高階:そうです、教育関係ですね。そしてうちの母は、お茶やったり、一応お茶の看板を持ってるとかですね。しかしそれはお嬢様芸でしょうっていうふうに言われましたわけで。あと結婚したらずっと、父と一緒に高松に行って、家庭をっていうことですよね。

林:高階っていう姓は珍しい姓ですけど、もともとはどこの。

高階:これがですねぇ、だから後で。

林:高階隆兼(注:鎌倉後期の宮廷絵所絵師)とかでてきて(笑)、ええ。

高階:ええ、戦争中のことになるとあれですが、秋田なんです。うちの父は。

林:秋田ですか。

高階:秋田の、今は仙北郡の千畑っていうんですが、角館の近くですね、南の。ここは佐竹藩があって、後で美術史にも関係する。小田野直武とか、秋田蘭画の発祥の地なんです。角館は昔から京都と非常に縁が深くて。佐竹曙山(しょざん)っていうのが、秋田の殿様です。それが秋田市にもちろんお城があって。角館にその支藩があって、佐竹の北家っていうんです。そこの城代をずっとしてるのが、佐竹さん。その町の中学に戦争中は疎開しました。だから小学校はずっと附属で、中学も附属に行きました。高等師範の附属中学。中学に行ったのが昭和19年だから、終戦の前の年ですね。でも東京は危なくなってきたっていうんで、中学入って半年ぐらいでもう疎開したんです。で、父が秋田だから、ということで。それまでも夏休みにはちょっと帰ったりしてたから。父の家は完全に百姓です。今の大曲っていう町から、歩くと一里半ぐらいあるのかな。だから冬なんか歩くのが大変だっていうぐらいです。そこに夏中学の一年の秋からまる二年。ちょうど一年後が終戦です、昭和20年だから。昭和19年の9月から21年の9月まで、角館中学。一年、二年、三年までですね。そして、三年のときにまた附属に戻ってきた。附属は一年の初めと、三年から行こうということになりました。角館は、行ってたときはあんまり知らなかったけど、そういう歴史があるっていう。秋田蘭画とか全然知らなかったんです。古い町なんですよね。東北で一番大きな武家屋敷が残ってる。直武の家もその前をしょっちゅう通ってたんだけど、知らなかった。今も残ってますし。秋田蘭画を持っておられる方もいろいろあって。で、その佐竹の殿様っていうのがいて、町では校長先生よりも偉いっていう。卒業式とか学校の行事があると、来るわけですよ。相当のお年の方が。それが校長先生より偉い顔をしてそのへんにいる(笑)。当時あの土地の人は皆知ってました。そのお殿様にお嬢さんがいて、お姫様と呼んでたんだけど、そのお姫様が後に僕の同級生と結婚した。お宅にいろいろ、直武の、捲りになってるスケッチやなんかがあって。それから佐竹の押し花の花葉集とか、これは展覧会に使わせてもらった。で、メインの公の日記やなんかは、かなり面白いんですが、それは図書館に入ってる。僕が見た偉いおじいさんのお姫様は僕の友達の奥さんだけど、その血筋にあたる佐竹っていうのが、今秋田県知事になってます。佐竹知事。

池上:すごいですね。

高階:地方ってのはすごいですよね。

林:そうかぁ。

池上:脈々と。

高階:ずっと秋田市の市長をやっていて、去年の選挙で知事になったのかな。ああ、それからもうひとつ。平福百穂の故郷ですから、角館は。近代で、彼はもう、僕がいたときから偉い絵描きさんで、歌人でもあった。岩波文庫の装丁なんかやってるんですよね。彼はデザイナーですから。僕が通った中学校も、百穂がいろいろ気を入れて作って。学校の記章とか旗とか、建物まで彼がやってた。人を角館に引っ張りたかったんですね、文化の町だって。角館は、今でもそうですけど、奥羽本線からちょっと離れてるわけです。奥羽本線は横手、大曲、秋田と行くから、大曲から別の支線に乗らなきゃいけない。不便だから、最初は中学校も大曲に作るっていうのを、綱引きをして分線に持ってきた。平福百穂がやったらしいんですけど。大曲にはしょうがなくて農学校ができた。だから中学があの頃は角館。で、その記章から何からデザインもしたし、建物も、これは火事で焼けちゃいましたけど、ちょっとこうしゃれた、木造ですけど、ピンクに塗ってあったり。それから校歌は島木赤彦と斎藤茂吉に頼んだとかね(笑)。

林:そうなんだ。へぇー。

高階:とかいう、面白い所でしたけれども。そういう文化的な都市で、秋田蘭画について後でいろいろ興味をもって調べたときには、僕は角館にいたことが非常に助かりました。友達がいるとか。太田さんとか、コレクターの方を友達に紹介してもらうっていうことがあった。小学校は、僕が出たときは国民学校って言って。小学校五年か六年のときに、小学校っていうのはやめて国民学校にしたんですよね。フォルクス・シューレ(Volksschule)の真似なんかで。卒業と言わないで修了と言ったのかな。だから僕は小学校は卒業してない(笑)。小学校を卒業してないだけじゃなくて、中学は四年から高校行きましたから、中学も卒業してない。で高校は一年で終わっちゃったから高校も卒業してない(笑)。だから大学まで、小、中、高は卒業してないんですけどね。小学校のときは名前が国民学校になって五年で終わって、高等師範附属中学校に入りました。それが半年ぐらいで、もう秋田に。まあ、授業はなかなか良かったと思います、今思えば。あの時代、昭和19年ですけども、ちゃんと英語の授業なんかやってましたし。やっぱりきちんとした学校だったと思います。で、角館行ってるときはもう勉強どころじゃなくて、農家の手伝い。あの時代、大人はみんな戦争行ってるから。勉強はあんまりしなかった。そこで初めて、田んぼを、田植えから、草取りから、刈入れから、手伝って。あれは面白かったです。勤労奉仕をしながら勉強してたんです。だから二年間ほとんど勉強してなかったですけど。

林:その附属の授業で英語があったっていうのは、戦時中でもそれは全然問題なくやってたということですか?

高階:やってましたね。まったくそれは自由だったですね。ダイレクト・メソッドをやってて、それをずっと受けてれば僕ももう少し、君ぐらいできたかもしれない(笑)。入ってきた、要するに中学一年、まだ全然英語知らない。で先生が来ていきなり英語で「Good morning. How are you?」、もういきなり英語でしゃべるんですよ。

林:ネイティヴで。

高階:いや、日本人。非常にいい発音でしたね。向こうに行ってた人だと思いますけども。

林:明治の英語教育が残ってたんですね。

高階:そうなんですね。それで一人ずつ「My name is ~」って言わせて。だから夏休みまではその英語の授業も非常に良かったな。それは切れちゃいましたけどね。夏休みからは、田舎ではまるで違ったんでしたから(笑)。で、終戦の頃までは英語の先生は小さくなっていたような感じで、戦後になって進駐軍が来て英語の先生が逆に引っ張り出されて、「あー、あの先生がジープに乗ってたぞ」とかいう感じでした(笑)。で、高等師範の附属は実験教育校ですから、新しいことをやる。教生が来て教員養成をやったり、っていうことをやってました。そこに一緒にいたのは平川(祐弘)君なんかですよね。

林:芳賀(徹)さんも。

高階:芳賀君も途中で疎開しちゃったけどね。戻ってきたときはまた一緒になりました。

池上:そういう学生生活を送られていて、ご家族や先生が美術に興味を持たれるようになったきっかけというのは、どのへんにあったんでしょうか。

高階:直接美術史をやろうというのは、大学を出るときかな。

池上:じゃあ、幼いころからというのとは、少し違うんですね。

高階:違う。うちの父は哲学や精神史ですけど、画集は持ってたんですよね。それで、うちにそういう本はありました。クラウゼンの翻訳だとか、平凡社の美術全集とか。でも、あんまり展覧会に連れていってもらったことはありません。上野でやったやつとか。まだだって、終戦前ですよね。秋田に行く前の昭和17年、18年、19年頃も、展覧会はずっとやってましたもんね。

池上:何か印象深かった展覧会などございますか。

高階:古いとこではレオナルド・ダ・ヴィンチ展っていうのが、これは紀元2600年だから、昭和15年か、上野でやりました。これは絵よりも、飛行機の模型とか、デッサンのコピーとか、万能の天才と言われたとか。それから、あの頃は府美術館ですけど、そこの展覧会に何回か父に連れていかれて。あれはなんだったのかな、やっぱり団体展かな。父は「この絵がいいね」とかなんとか言うけど、分かんなくて。だから絵葉書だけちょっと買ってきたとか。あとは、講談社の絵本がありましたね。これは割におもしろい。『少年倶楽部』とか、ああいう子どもの見る雑誌の挿絵で、柳川剛一とか樺島勝一の名前知らない? 少女雑誌だと中原淳一ですか。柳川剛一っていうのはなかなか面白い人で、岩手に記念館があります。ジャングルの冒険物語を講談社に持ってきて。樺島勝一っていうのは、軍艦の絵が綺麗だとかね。講談社の『少年倶楽部』なんか、なかなか贅沢にできてたと思います。日本のいろんな画家が描いてる絵を見て、これは誰が描いたっていうのをあてっこするのは面白かったですよね。そばに名前が書いてあってそれを隠しておいて、「この絵は誰だ」って。「柳川剛一だ」、とかね。

池上:お友達とそういう遊びをされるんですね。

高階:ええ、友達と。それは半分お遊びで、特に美術ってことは全く考えてなかった。しかも田舎、つまり角館にいたときは、もっぱら田んぼですからね。冬はスキーだとか、夏は泳ぐとか、あとは働きに行くとか。戦争中でも、空襲は最後の頃に一度来た程度で。勉強はだいぶ遅れたと思います。三年の秋に東京に帰ってきて、やっぱりかなり差があるなと、みんなと(笑)。

林:ああ、そうなんですか。

高階:ええ。ただあの頃は、四年から受けられたんですよね。中学は五年ですけれども、四年から高校を受けることが可能で、だから一高を受けたら、通っちゃったから、そこで旧制一高に移ったと。芳賀くんや平川くんも一緒だな。これはまだ旧制です。これが実は最後の一高なんですよ(笑)。

池上:一年だけだったんですよね。

高階:一年だけ。それも、僕は一年で終わりになっちゃったんですが、僕の一年前の人は三年間やりました。だからちょうど切り替えの時で、ほんとに一年間だけだったのはわれわれの世代。でもまあともかく旧制高校に入った。あの頃の一高は、昔の全寮生活が残ってたから、寮生活を一年やりました。もちろん戦後ですから、食糧がない辛いときだったんですけどね。お腹はずいぶん空いてた。でも勉強はよくやってくれるのが旧制高校はよかったと思いますね。

林:その頃はじゃあ美術っていうわけではなくて、もういろんなことを。

高階:そう。で、文科系にするか理科系にするか、一高に受けるときもその話はうちでやってたんですけどね。父もそうだし、祖父もそうだし。なんか周りからは「おまえは理科に行け」とか言われる。理科も嫌いではなかったんですけど、なんだか文科系が当たり前みたいな感じで。一高は理科と文科に別れるわけですよ。

林:ああ、そうか、入るときに別れる。

高階:ええ。だから文科に入って、寮生活を一年間やって、終わりになったということです。その時に、授業は昔の一高だから、もちろん最初のうちは理科と同じようなことやってたと思います。平川君なんか理科に行ったんだけれど、要するに一般教養的なこと。まず語学ですね。ドイツ語をそこでやって、僕は寮も独文、ドイツ文学研究で。それぞれ研究会があって、それが寮を持ってますから。

林:そうなんだ。

高階:24時間、独文研究室の寮にいました。今と違って語学が非常に熱心で、毎日ありましたから。先生が二人いて、かわるがわる。竹山道雄さんにも僕は習ったんで、それは非常に良かったと思います。で、一高はかなり強引で、夏休み前に一応文法は全部やって、夏休み後はもうテキスト読むとか(笑)。そういう感じで、ドイツ語はかなりきっちりやらされて。であとは、普通の国語とか歴史。『論語』を読むとかね。歴史は日本の歴史と世界史の授業っていう、教養のあれだった。面白かったのは、寮生活が初めてだし、あそこの寮は汚いけども一部屋に5、6人いて、先輩が一緒にいるわけだ。そこで読書会とか、どんちゃん騒ぎとかやってた。少し真面目な、週いっぺんの読書会やって、それから、うーとなって、歌を歌ったり、というような、いわゆるバンカラな生活をやりました。しかし、食事が非常に辛かった。もちろん食堂があるんですけど、もうおかゆみたいなご飯と、お水飲むだけとか。まかないの人も大変だったと思う。一応食事があるんですけど、とても足りないっていう感じだったですね。

林:外国語は、やっぱりドイツ語をやる人が多かったですか。

高階:あの頃はドイツ語の方が多かったかな。まずドイツ語があって、フランス語の方が少なかったかな。フランス語はなんとなく軟弱だっていう感じが(笑)。

林:へえ。そういう感じがあったんですか(笑)。

高階:学問とか、自然科学もドイツ語が。

林:ああ、そうですね。

高階:だから芳賀君も平川君も、ドイツ語でやりましたよね。高校ではドイツ語で。ところが一年で終わりで、制度がよく分かんなかったけど、旧制高校が大学になると。で、独立するか東大と一緒になるか、ぎりぎりまで我々には分からなかった。いずれ東大の一部になるか、独立した大学になるか、あるいはどこか他と一緒になるかとかなんとか、がたがたして、結局東大の教養学部になる。そのまま大学になるんだから、これは新制です。

池上:受けないでもいいということですか。

高階:受けないでもいいとみんな思ってたら受けさせられました(笑)。

林:入試が二回あった(笑)。

高階:だから、一年経ってまたすぐに入試があったわけですよ。それでみんな、驚いたっていうか、怒ったんだけど。入試をとにかく受けさせられて。だから我々の仲間でも落ちた人もいます。それで一年遅れて。

池上:形だけの試験ではなかったんですね。

高階:ではないんです。かなり厳しかったんですよ。他からも入ってきて。ということで、まあ僕はたまたま入った、芳賀君たちも入ったんです。ちゃんとした試験でした。語学もあり、物理化学もあり、数学もあり、国語もありっていう、厳しい試験。

林:今じゃ考えられないですね(笑)。

高階:そうですね。だって五科目ぐらい、全部やったんですからね。それで、新制大学一回生。新制大学は最初の二年間は教養学部で、文科と理科に別れます。そこで語学と一般教養をやって、ドイツ語は分かってたから、フランス語にした。「ドイツ語既習、フランス語未習」ってクラス。

林:ああ、なるほど。

高階:フランス語はそこで初めて、ABC(アー、べー、セー)から始まったわけですよね。そして一年半ぐらいで進学、つまり教養から今度専門課程に移るというときに、みんなどうしようかって迷ったわけです。そのときはまだ僕はいろいろと本郷にもちょこちょこ顔は出してたんですけど。国文に行こうか、って国文のゼミ行ったり、英文が面白かったから英文学行ったり。だけど、どうもよく分からないし、みんなぼやぼやしていたら、そこの教養学部が、二年だけじゃなくて、さらに三年、四年もやると。つまりシニアコースもある教養学科を作るっていう話が出てきた。それは一高の先生方が中心になってやられたんです。つまり、一高も単に東大の下っていうのは、許さなかった。自分たちもちゃんとしたんだ。偉い先生がいましたからね。竹山道雄さんとか、前田陽一さんとか、木村健康さんとか、そういう先生方が、教養の一、二年もやるけども、三、四年も、少し人数を限ってやると。教養学科というのが、初めてできたわけです、三年目に。じゃあそこ行こうかって。それの第一回生。芳賀くんも、平川くんも、本間(長世)くんも、みんなそこに行った。

池上:それを選ばれたのは、理由があったんですか。

高階:他にどこにも行きたくなかった。行っても、よく分かんなかったことと、その教養学科は、地域研究をやった。つまり従来のように、美術史とか文学史とかをやるんではなく、国別にやると。最初はドイツかフランスかイギリスかアメリカか。それから国際関係論。それから科学史、科学哲学。この六つ。今少し増えましたけどね、人文地理とか。

林:まさに今の駒場の現状ですね。

池上:ええ、まったくそのとおり、という感じですね。

高階:で、そのどれかを選ぶんですよ。つまり、僕はちょっと英文学に興味があったし、国文にも興味があったし、美術のことはどうだったかな。要するに自分ではいい加減で、なんだか分かんなかったわけですよ。そうすると、フランス科だと、フランス語をまずできると。それから、フランスの文学だけじゃない、歴史もやるし、科学とか美術とか、要するにフランスに関する徹底研究をしますと。これはアメリカでいったら地域研究だと思います。アメリカだと、地域研究もやるし、文学も美術も、経済も政治もやります、というんで。僕はなんとなく、フランスに行きたいと。フランス映画なんか、みんな見てた頃ですからね。ルネ・クレール(René Clair)とか(笑)。

林:やっぱり映画の影響が大きかった。

高階:映画の影響は大きかったですね。つまり戦後だと、もちろんテレビはない。それから、演劇、浅草なんか行く余裕はない。まあせいぜい映画。

林:そうか。テレビがない時代に映画があったんですもんね。

高階:映画ですよ。だから映画座に行って、安いところでっていうのが、唯一芸術的な。だからルネ・クレールの古い映画、「パリの屋根の下」とか、そういうのはずいぶんよく見てましたね。それからフランス語も面白いし。英語にしようかフランス語にしようかって。教養学科のときもイギリス科に行こうか悩んだ。アメリカ科には本間長世が行った。本間長世さんは、高校では一緒で、小学校では僕の先輩なんですよ。

林:そうですか。

高階:小学校のときからよく知ってるんです。小学校のときはうちのすぐそばで、一年上なんだけれども、体を壊して、小学校のとき遅れたんですね。一時期、胸を壊されて。小学校のときは、もう一年違えば大先輩。そしたら高校で一緒になって。彼とは一緒に仲良くしたんです。彼は、「いや、アメリカ科に行く」って。僕は半分軍国少年で、鬼畜米英とかいう時代だったから(笑)、ヨーロッパの科にしようって。ドイツ語には竹山さんがいて、ドイツ語にしようか。それから、イギリスは英文学が割に面白かった。僕は高等師範で、福原麟太郎さんにうちの父がずいぶんお習いしてて、家によく連れてっていただいた。欧米文学も面白いしっていうんで、教養学科でもどこ行こうかって、少しあちこちふらふらしてたんです。やっぱり、地域研究だといずれフランスへ行きたいっていうんで、フランス科になったんです。そういう感じですね。

林:当時、英文学とか、フランスのものもドイツのもの含めて、どこが面白いって判断するときに、翻訳素材はあったでしょうけど、それでも、そんなにはなかったでしょう。

高階:いや、ほぼなかったですね。

林:なかったですか。

高階:僕がまた知識がないから、国際関係科っていうのは外交官を養成する、って先生から聞いて。でも外交官って何をするんだかよく分かんない。翻訳ではしかし、フランスのものの方があったでしょうね。われわれがあの頃読んだのは、マルタン・デュ・ガールの『チボー家(の人々)』(Les Thibault)とかね、

林:ああ、『チボー家』かぁ。

高階:それから、ロマン・ロランとかね。

林:ロマン・ロランね(笑)。

高階:あれは一生懸命読んだ。

林:ああ、そうですか。

高階:それから、ロシア文学科はなかったんだけれども、ドストエフスキー、トルストイですよ、翻訳ではね。米川正夫訳。それからあとは、シェイクスピア。それは翻訳ではなくて、シェイクスピア面白いんでっていうんで、一高時代、私は専ら本ばっかり読んでた。そういう文学関係ですよね。英文学、研究社の『英文学(叢書)』という、今でもある非常にいい叢書があって、それは全部揃えて買って、今でもありますけどね。で、結局、やっぱりフランスに行けるから一番いいなっていう感じで、フランス科に行って。先生は前田陽一先生。非常にいい先生でした。ドイツの竹山道雄先生も、たいへんいい先生だった。あの頃は、学生は先生のお宅に伺うんですよね。行って、ピザなんかをご馳走になりながら話をする。先生も大変だったと思うけど。前田先生のとこにもしょっちゅう行って。イギリスは木村健康先生って。これもいい先生で、これは経済の先生だったんです。だからイギリスに行く人はわりに、政治経済関係が多かったかな。話が面白かったんですが。早坂さんとか、経済、社会学関係の人かな、やっぱり。そこはちょっと顔を出したけど、やっぱり文学か、芸術学が居心地が良いというのでフランス科に行ったっていう感じですね。授業はそうするといろんなことやらないと。語学はもちろん非常に、いろんな先生方について。もちろん文学も読まされたり。それからフランスから先生を呼んで、実際のプラクティックもやって。ただ、教養学部のときでも本郷から出張講義があるんですよね。その出張講義で、美術史の矢崎美盛先生が来られた。あなた知ってますか。

林:いや、知らないです。

高階:これが大変偉い先生だと思う。東大美術史、当時の美術史の教授です。この人はもともと哲学の先生ですが、岩波の哲学叢書の中にも載っておられた偉い先生だった。それが当時は本郷の美学・美術史学の教授。それが週にいっぺん、美術史の講義に来る。他の先生も来るけれども、その講義は非常に面白かったんですよね。

林:美術史という、ディシプリンそのものはもうすでに、本郷では。

高階:本郷にはありました。

林:あったわけですね。

池上:何年ぐらいにできたんでしょうか。

高階:美術史は古いですよ。明治に既にできてますから。

池上:ああ、そうですか。

高階:美学と一緒だ。

池上:美学・美術史という講座で。

高階:講座でありました。

林:そうでしたね。

高階:だから児島喜久雄先生とかね。

林:児島先生。

高階:レオナルドの先生。児島さんの後が矢崎さんだった。児島さん亡くなられて。矢崎さんそれまで、九州大学におられて、招かれてきて。ヘーゲル哲学なんかをずっとやっておられた。岩波にその本も書いておられた。美学の方も、もちろんされてたんですよね。美学・美術史教室の主任になってる。講座では一般美術のお話をされてたんです。そのお話が面白いし、だからそれじゃあ本郷のゼミにも顔出そうかって、顔は出してた。行って、ゼミのちょこっと端っこにいたり。

林:そのころのゼミって、スライドを使ってたんですか。

高階:スライドはなかなかなくてですね。講義のときはやってましたな。つまり大学三年、四年の講義。ガラス版のスライドです。

林:ガラス版のスライドですね。

池上:ああ、ちょっと大きいやつですよね。

高階:助手の人が、それを操作してました。で、スライド使った講義で僕が聴いたのは、富永惣一さんが非常勤で、彼は専任じゃないけれども、美術史の授業を持ってるわけです。それを聴いて。そのときに助手の人がスライドをやってた。白黒ですけどね。ゼミはもう研究室で、スライドなんか全然なしで。本、あるいは写真とかですね。絵葉書出したりなんか(笑)。まあ、人数も少ないですからね。それで、やってました。ゼミは原書講読と、それから矢崎先生は非常に幅が広い方で、日本建築の基礎とかいうこともやっておられた。そういうので、話は面白い。で、要するに、卒業のときに大学院をいろいろ考えなきゃいけない。大学院も新しいんですが。つまり卒業して就職する人は就職するんだけど、僕はなんとなく就職は考えなくって、フランスに留学したいと。だけど、卒業したら大学院はどこに行くか。その時は、駒場に大学院ないから本郷ですよね。本郷には英文とか国文とかあって、ゼミにはちょこっと顔を出したけどやっぱり美術史は面白いから、美術史の大学院に行きたいなっていうことで、矢崎先生のお宅にも伺いましたね、その頃。

林:ああ、そうですか。

高階:ええ。よく、いろいろ教えてくださった。矢崎先生のお仕事は、もともとのご本はヘーゲルのものがあって、岩波で出してる思想家叢書の中でヘーゲルをやっておられる。美術に関しては、岩波で昔出して評判になった、「子ども美術館」っていうのを中心になってやられて。岩波新書で二冊くらい出されたかな、絵画の見方に関して。でもメインのご本は、僕は駒場の講義でも聞いたんですが、『アヴェマリア-マリアの美術』(岩波書店、1951年)っていう、これは非常にいい本ですよ。

林:それ見たことあります、古本屋で。

高階:ええ、今でも価値がある。これは聖母子像のイコノグラフィーですね、今から思えば。聖母子像にはいろんなタイプがあると。ビザンチンタイプとか、その時にマリア様はどっちの手で抱くとか、イエスがどういう格好するとか、いくつかの系列がある。そして、図像を読むことですね。例えばラファエロの聖母子像は、周りに聖人がいる。これはこういう意味がある。そういう絵ときをきちっとやってく。それは面白かったですよね。その頃までは、いわゆる美術書なんか全然なかったし。平凡社の古い美術全集でも、何回も彼が書いてるぐらいです。ちょうどその頃平凡社から新しい美術全集が出始めて、これは立派だって私の家も買ってたから、眺めてましたけど。解説はまあ、綺麗だとか、作家はどういう人だとかって程度で。矢崎先生はしきりに、絵を読むっていうことを『マリアの美術』でやって。今でも非常にいい本だと思います。僕は学生に読ませたけれども。

林:原典講読ていうのは、矢崎先生の授業の中で、どういうものを読まれたんですか。

高階:この時は、ジョルジュ・サール(Georges Salles)の『ペルシャ美術』っていうのを。

池上:幅広い方なんですね、ほんとに。

高階:幅広いっていうか、僕のときもそうでしたけど、美術史の先生は一人ですからね、西洋関係は。それから、当時日本美術では、大学院で米澤……

林:米澤先生ですね、おられました。

高階:彼が中国専門だけど日本のこともやる。東洋専門。矢崎先生と二人だから、矢崎先生は日本のこともやらなきゃいけないし、西洋のこと全部やんなきゃいけないわけ。だから、それは大変ですよ、古代から何から。その僕が行った最後の年は、ジョルジュ・サールの『ペルシャ美術』の、英文版を使ってましたね。それを写真に撮って読むとかですね、原典購読。もう一つが日本の建築について。これは日本建築の基本知識、枡組(ますぐみ)とは何だとか、虹高梁(にじこうりょう)とは何かとか、日本の間口・奥行きがどういうふうになってるっていうこととか、きちんと教えてくださった。逆に言えば、今よりは、なんでもやった。日本では今は建築史あんまりやんないですよね、美術史では。工学部に行って。だから僕がフランス行ってびっくりしたのが建築史をやらされたことです。だから僕のときでさえ、それは少し増えたけれども、やっぱり西洋のことは全部やらなきゃいけなかった。だからルネサンスもやるし、19世紀もやるし、中世もやるし。矢崎先生はおひとりで全部やっておられた。ただお体が弱くて、これまた悲劇なんですけど、大学院が4月からっていうときの3月に現職で亡くなられたんですよ。しばらく病気で、ずっと休んでおられて。だから大学院がずっと遅くなった。実際の授業はもう夏休みぐらいまでなかったんですけどね、全体として。矢崎先生のご葬儀が、確か3月だったかなぁ。もうぎりぎりで。僕は大学院に行きたいっていうことを決めてたときに、亡くなられて。もちろん大学院に入ったんですけど、矢崎先生はいらっしゃらない。そのときは美学・美術史ですから、中心は美学の竹内先生。彼はドイツの現象学。それから米澤先生がおられた。で、大学院のときも入試があったわけですよ。まあ面接ですけどね。それは竹内先生が中心に。矢崎先生は病気で、もう来られない。竹内さんからなんか難しいこと聞かれたけれど(笑)、まあ一応入って。美学・美術史でで、入ったら研究室ごとに別れるんですよね。美学研究室、美術史研究室って。美術史に来たのが3人、僕を入れて。あとの2人は前から研究室にいた。1人が水尾比呂志さんっていう。

林:ああ、はい。

高階:水尾さんとはだからそこで。

林:ああ、そうですか。

高階:彼はもうよく知ってる。僕は、美術史研究室はあまりなじみがないわけです。よそ者で入ってきたぐらいですからね。

林:同級生なんですか。水尾さんは。

高階:大学院では同級生です。学部でも同期だろうけど、一緒ではなかった。僕は教養学部で、向こうは美術史でしたからね。顔合わせたぐらいだけれども。大学院のときに一緒になって。彼は日本美術史をやるっていうことで、わりに親しくいろいろ教えてもらった。そこで現職の先生がおられなくなって、その後少し間が空いて、吉川(逸治)先生が来られた。東京藝大におられたんですよね。藝大から移られるので、かなり急だったっていうか、実際に授業されたのは後半からだったですね。ですから夏休み以降。そのときには、なんかフランス行きたいと思ってたから、アルバイトもしながら、フランス行くのに金がかかるとか言ってね。政府給費留学生を狙ったわけです。まあみんなそれを狙ったわけだけど。そうすると、向こうに行けば学費くれるけど、行く費用は自分で持つ、っていう制度ですから、それでアルバイトをするとかですね。

池上:アルバイトはどういうことをされたんですか。

高階:大学院入ってから、家庭教師です。学部のときでも一部やってたかな。大学受験生の家庭教師。だけどこれは十ぺんぐらいです。僕は二人ぐらい教えたかな。一人はうまくいったけど、もう一人は僕が教えても、だめだったんですね(笑)。なんか信用失っちゃって(笑)。それから大学院に入るちょっと前から、日仏学院。飯田橋にありますよね。あそこにはフランス語の勉強で行ってたわけです。そこの院長秘書に。芳賀君もやってたけど。

林:なんか、このあたりに出てましたね。

池上:この、芳賀さんとの対談。

高階:そうか(笑)。だからそこで事務的なことをやりながら、わずかだけど給料もらって、少しずつ貯めてっていう感じだったですよね。そして、試験を受けたいっていうので、フランスの留学生試験を受けて、通ったので次の年に行くわけですから、吉川先生とはほぼ1年かな。先生が来られたのが秋で、授業はもちろん受けてたんだけど、「もう試験を受けます」って吉川先生に。そこでまたいろいろ教えていただいて。フランスのこともよくご存知だった。で、通ったってことがもう、次の年の春に分かった。秋から行きますっていう。だから大学院も、実質一年でしょうかね。アルバイトしながら、ということでした。

林:吉川先生は、やっぱり中世美術を。

高階:最初のときは中世美術を、ご自分のサン・サヴァン(礼拝堂)のお話とか。中世美術の講義をなさって。それから、ゼミはいろんなことをなさって。大学院では人数少なかったけど。セザンヌとか。後に『近代美術への天才たち』(新潮社、1964年)っていう本を書かれたけども、吉川先生はわりに、近代現代にも関心持っておられた。『近代美術への天才たち』っていう本は、『藝術新潮』に連載されてた。これは近代美術じゃなくて、近代美術への巨匠で、ジョットから始まって、近代が始まりますよ、っていう、作家紹介みたいなもんです。それのもとになるようなゼミで、セザンヌがこういうっていうことを、これは図版も、スライドじゃないな。画集の汚いのとか絵葉書持ってこられてね(笑)、みんなに回しながらやってました。それからちょうどそのころ、ル・コルビュジエの翻訳をやったんです。坂倉準三っていう建築家がコルビュジエのお弟子さんで。

林:お弟子さんですよね。

高階:ええ。坂倉準三さんは建築家としてあの頃活躍しておられたけれども、もともと美術史出身なんですよね。

林:ああ、そうですか。

高階:東大美術史。富永惣一さんと同級生。美術史にいたときには最初ルネッサンスとか、そのうちゴシックをやるとか、卒論は確かゴシックだったと思いますけど。しかし建築やりたいっていうので強引にフランスに行って、コルビュジエのとこに押しかけて一緒になったって。ずーっとフランスにおられた方なんです。坂倉さんはフランス時代わりに親しくおつきあいしたんですが。彼は1937年の、パリ万博で。

林:パリ万博の日本館。

高階:あれ、ピカソの《ゲルニカ》が出て。

林:はい、《ゲルニカ》が出た万博ですね(注:スペイン共和国館に展示)。

高階:あの日本館が非常に評判良かった。

林:はい、そうですよね。

高階:あれはほとんど最初の作品ですよ。日本でも無名で。

林:確か賞かなんかもらったような気がしますけどね、あの万博で。

高階:そうです。万博の建築賞、グランプリ取ったんです。

林:はい、そうですよね。

高階:万博だから、日本はあの時は商工省。今の経産省。商工省が肝いりで、日本の宣伝ってことで、何を見せるか。で、日本のパビリオンを出す。1937年ですからね。日本館を出す。その建築を、最初は岸田日出刀さんと東大の偉い先生が中心になって委員会作ってやって。そのときはもう完全に帝冠様式で、日本式の、という案を出して。しかしそれは、ここでやったら場所が合わないってことで、たぶんだめだったんですよね。結局、実際に作るのは現地の人だから。それでどうしようって。最後に、坂倉さんがちょうど帰ってきたばっかりで、向こうのことよく知ってるからあいつに任せようっていうことで入ってきたんですね。だから坂倉さんとしたら、そんな大役っていうのは、考えてもいなかったらしいですけどね。そのとき面白いのは、日本風の和風建築でやれっていう指定を受けてた。それを無視してああいうのをやっちゃったわけですよ(笑)。ガラスと鉄だから。それで、日本では商工省が怒ってね。パビリオンごとの建築コンクールにそれを出さなかったんですよ、日本側は。これはもう自分のではないって。
それで、自薦でも他薦でも出さなくて候補にならなかったのが、審査員の(オーギュスト・)ペレ(Auguste Perret)なんかが行って見た時に「これがいい、出せ」(笑)って言われて、そしたらグランプリ取っちゃった。あれは無くなって惜しいけど、資料を見ると本当に面白いですね。非常に新しい。確かに鉄とガラスだけど、日本的な空間構成。斜面を使ってるから非常に作りにくい所だけど、張り出しをうまく使って。しかも斜面の木をなるべく活かしてるから、中と外が非常にうまくつながって。向こうの人には、これは非常に理論的な空間。つまり、閉ざされてないとか、スマートだとかいうんで、非常にお褒めをもらったんです。岸田日出刀さんもその賞を取ってからがらっと変わって(笑)、なかなかいい建築家だって書いたり。それは井上章一さんの日本建築の本にも載ってます。それで坂倉さんの先輩に前川(國男)さんがおられたわけですけど、坂倉、前川というのはコルビュジエのお弟子さんです。それでコルビュジエが日本に紹介されて。そのときに坂倉さんはコルビュジエと非常に親しくて、コルビュジエの理論を紹介するって約束してこられたんです。コルビュジエの本を日本で翻訳しますって。コルビュジエもやってくれって。日本にも客があったから。
ところが坂倉さん忙しくてできないんで、誰か下訳をしてくれる人を、パリ時代の友達を通じて探した。これは丸山熊雄先生が中心だったんです。やはり僕が教養学科でお習いしたフランス語の先生です。学習院大学に移られましたけど、東大で、前田陽一先生なんかと一緒に教えておられた。フランスにずっと行って来られて、パリ滞在記を書いておられます。非常に面白い。純粋な文学青年で、もうやたらに本をよく読んでた先生で。坂倉さんも向こうに行っておられて、1920年代っていうのはわりに良かったわけですよね。わりに日本も景気良かったし、まだ戦争になる前で。それで仲良く、みんなであちこち回ったりして。その縁で坂倉さんが丸山先生に、「じゃあフランス語できる学生に誰か、手伝わせてくれ」と。それで「坂倉さんとこ行け」って言われて、初めて僕は行って。そしたらコルビュジエの本を、これはコルビュジエと相談して、二冊、まずやると。それは『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』(L’unité d’habitation de Marseille, Souillac – Mulhouse, 1950)と『マニエール・ドゥ・パンセ・ユルバニスム』(Manière de penser l’urbanisme, Boulogne, 1946)。都市計画はかくありたいって。どっちもマルセイユから来ましたけど。それを翻訳するということで、坂倉先生から下訳を頼まれて、お宅に伺ってその本を見せてもらって。建築のことはまだ全然知らなかったんですけどね。面白いって。坂倉さんも美術史の仲間でもあったでしょうから、いろいろ教えてくださって。建築用語なんか何も知らないですから。非常に面白かった。

林:六本木にあったあの事務所ですか?

高階:赤坂。そうですよ。

林:ああ、あそこですか。

高階:そこへ僕は毎週伺って、「これだけできました」って見ていただいて手直しして。

林:磯崎(新)さんの隣ですよね。

高階:そうそう、磯崎さんのすぐそば。

林:先生が、宮脇(愛子)さんの仕事を手伝うために僕を一回連れていってくださったことがあって、実は。

高階:そうだっけ。

林:そうなんですよ。彼女のパリの展覧会の準備のときに先生に連れていってもらったことがあって。そのときに、坂倉さんの事務所がそこだよっていうことを教えていただいたことがありました。

高階:そうそう。よく覚えてるね。だから、柳さんは坂倉さんが大家だったとか言って(笑)。そこに、しょっちゅう通ってたんですよね。そして、最初はコルビュジエの『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』を翻訳した。坂倉さんは吉川(逸治)さんとも親しくて、要するに美術史仲間ですから、坂倉さんのおうちに伺うと、吉川さんが来てて喋ってたりね。

林:ああ、そうですか。

高階:坂倉さんは建築家仲間からはやや外れてたんです。当時の建築学は、井上章一さんが書いているように、東大系か早稲田系が全部やってた。で、後から藝大系が出てくる。坂倉さんは東大だけど美術史からっていう。東大の建築は工学部だから、ちょっと外れてるんだけど。お仲間は今泉篤男、富永惣一、吉川逸治なんかで、ヨーロッパ回るときも富永と一緒に建築見て回ったとかね。富永さんが思い出を書いておられます。しかし、自分は建築やりたいっていうことで、強引にやられた。だから、そこで吉川先生とも会ったりしながら、コルビュジエやってますって言ったら、吉川さんのゼミで「おまえじゃあそれ発表しろ」とかね。だから、「コルビュジエのユニテ・ダビタシオンとはこういうものです」っていう単なる紹介ですけど、本にこう書いてあると。ピロティっていって、建物を上に持ちあげた、そんな集団住宅を作りましたと。吉川先生のゼミではそんなことをやってましたね。そして、あの本は図版がメインだから、ほとんどもとの形と同じ大きな版で、図版もそっくりで日本語にしたやつを出した。これは、僕がパリに行ってから丸善から出ました。最近、ちくま学芸文庫で復刊になりました。

池上:ああ、そうでしたか。

高階:ちくま学芸文庫で、コルビュジエの『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』(筑摩書房、2010年)。この単語が非常に訳しにくいんですね。要するに集団住宅とか集合住宅なんだけど。去年はコルビュジエが世界遺産になるとかでいろいろ話題になって。復刊版はもちろん新しい訳ですけれど、あれは山名(義之)さんがやったのかな。あとがきに、最初は坂倉さんが出したと。そして新しい訳者の方も坂倉さんの訳を参考にして読んだということが書いてありますけど。やっぱりコルビュジエの建物を紹介するのには非常によかったと思います。それをまずやって、その次は都市計画の本。これは都市計画はいかにやるべきかっていうので、これも元の本と同じ造本で、図版入りで出した。これも僕が向こうに行ってる間に出ました。坂倉さんがパリに来られたときに持ってきてくださったんですけどね。それで建築はなかなか面白いって。それで少し話飛びますけど、当時パリに行くには飛行機か船です。もちろんジェット機じゃなくて、飛行機だったら南回りで三日ぐらいかな。カルカッタかどこか、休憩地で泊まって。でも飛行機の方がちょっと高いんですよ。船だと一カ月かかるけど安い。っていうので、結局船で行ったんですが。それはまた面白かった。そこで初めてフランスの生活っていうのを知ったわけですから。船はマルセイユに着くわけです。着いたら、驚いたことに僕に迎えが来てたんです。誰かと思ったら、マルセイユ柔道クラブの副会長っていうわけ。その人が高階を迎えに来た。なんでって聞いたら、「イヴ・クライン(Yves Klein)の友達だ」って。僕はイヴ・クラインとは日本で親しかった。君は会ってるかな、イヴ・クラインは。

林:いや、会ってないです。

高階:ああ、もう亡くなっちゃった。ずっと日本にいたんですよ、その頃は。

林:そうでしたね。柔道家として。

高階:柔道家としてね。フランスで一番柔道の強い人。

林:柔道の本も書いてますよね。

高階:本も書いてます。柔道の専門家だと思ってたら、後で画家になってた(笑)。当時は、とてもそうは思ってない。

池上:でも本人は、東京でも描いてたっていうふうに言ってますよね。最初のモノクローム・ペインティングは東京で描いたって。

高階:そうですか。僕は見てない。ただお母さんが画家。マリー・レイモン(Marie Raymond)っていうの。お母さんの展覧会を日仏でやったりして。

池上:そのご縁でお知り合いになったんですか。

高階:いや、彼はフランス語の先生で日仏に来てました。当時日本にいたフランス人って少ないから、ごく限られた先生方の入れ替わりだった。イヴ・クラインも先生として来てるから。しょっちゅう会ってました。なかなか面白い。柔道の話やなんかもしたんですよ。僕が中学校の頃柔道部だったって言うとね(笑)。秋田では柔道部だったんです。

林:ああ、そうですか。

高階:つまりどっかに入んなきゃいけないから。戦争中は剣道か柔道か。終戦後なくなっちゃいましたけどね。水泳部になったりね。終戦前はしがない柔道家。たいしたことはできないけれども、一応、柔道とは何か、ってことぐらいは、しゃべれるわけですよ。乱取りってなんだとかね(笑)。これはこういう意味だって、校舎の中で。で、講道館の話とか、非常に面白かったんですよ。それこそ、素人二人だから(笑)。日本の武道の話なんかもしてたんですね。だから彼とはわりに親しかった。彼はマルセイユの柔道クラブに行ってたらしいんですよ。僕は知らなかったんだけど、高階っていうのが行くと。ベトナム号で着くっていうのも、彼から連絡がいってて、迎えに来てくれて。向こうは「日本の柔道のこと知りたい」って(笑)。それは困っちゃったんだけど、非常に親切にしてくれて。それでマルセイユに一晩泊ってパリに行くわけですけど、「どこでもご案内しましょう」って。イヴ・クラインってのは偉いんだな、向こうの人にとっては。「イヴに言われたんだから、なんでもやる」って。マルセイユも僕は初めてで、今から考えればノートルダム・ド・ラ・ガルドとかいっぱい教会あるのに、コルビュジエを見たいって(笑)。そしたら、「なんであんなものを」って(笑)。評判悪かったらしいんですよ。「あんな変なものに行きたいのか」って。ちょっと離れてるとこなんですけどね。僕は本の訳をしたし、見たいって言ったら親切に連れてってくれた。スクーターの後ろに乗せて、ばぁーって行って。それで中の人と交渉して、ずーっと中も見せてもらった。それは面白かったです。屋上まで全部見せてもらって。初めてコルビュジエの建築を知って。マルセイユで見たのは、美術館も行かなくてコルビュジエだけで(笑)、そのあと柔道クラブに行って(笑)、いろいろお話を聞かせて。それは弱ったんだけど、適当に話して。非常に親切にしてもらって。そして、その次の日にパリに。コルビュジエ関係はパリでは大学都市に行きましたけれども。すぐそばにスイス館があったところ。コルビュジエのことはずいぶん興味があって、現代建築は面白いなっていうのがありました。それでパリに着いたら九月から始まって、ということですよね。

林:マルセイユからパリっていうのは、電車ですか。

高階:電車です。汽車ですよ。あれは、どれくらいかかったかな。朝早く発って夕方着くんだから、丸一日かかったでしょうね。今みたいに新幹線はなかったわけですから。

林:ああ、そうですね。イヴ・クラインとはその後、どうでしたか。

高階:彼がパリに戻って来てからしょっちゅう会いました。戻ってきて、やあやあってことで。だから彼が展覧会やってたときに行ったりしてました。あの、イリス・クレール(Galerie Iris Clert)の展覧会。日本の美術雑誌にブルーの作品の広告を出したいんだけど、紹介してくれとかね。面白かった。一ページ全部ブルーで、文字も展覧会案内も全部ブルーでやったりとか。彼は非常に気のいい人ですね。快活な人。それからこんなことやりたいんだっていうアイデアをいろいろお聞きしました。だから、最後はああなると思わなかったけれど。火の建築をやるとか水の建築をやるとかね。そんな話が全部来て面白かったね。水の彫刻、空気の建築をやるということを話してましたね。

林:当時先生は、パリに行かれる前に、勉強でお忙しかったと思いますけど、日本の現代美術の状況とか、展覧会とか、そういうものは……

高階:日本の現代美術は、なかったですねぇ。あんまり行かなかった。展覧会ではなくて、僕は行く前は芝居をもっぱら見てました。

林:ああ、そうですか。

高階:本間長世さんっていうのは芝居が好きで、歌舞伎が大好きで。だから大学院でも、教養学科にいた時も、暇があれば。当時の歌舞伎は全部見てますね、毎月。歌舞伎座ができたばっかりで。それから新劇も、劇団民藝、俳優座、文学座と三つしかなかった。これはかなり見てます。滝沢(修)の『炎の人』だとかね。三好十郎だとか。三好十郎面白かったなぁ。歌舞伎座の場合は、午前、マチネー、夕方と、通しで見るんですよね。歌舞伎座の三階で。今ちょうど壊されるところ。

林:壊されてるとこですねぇ。

高階:ええ。あの三階にしょっちゅう行っていて。当時は歌舞伎座と明治座と新橋演舞場があった。

林:その当時の学生にとっては、歌舞伎座に見に行くっていうのは普通のことだったんですか。

高階:好きな人はね。だから本間さんとはよく一緒に行った。でも普通の人はなかなか行かないでしょうね。

林:そうでしょうねぇ。

高階:ええ。ただ三階席は、まあアルバイトしてれば行けるぐらいの感じ。映画館よりはちょっと高かったかな。平土間はもちろん高いけれど、三階席ならば行けると。見えにくいですけどね。延若の楼門五山桐でずーっとせり上がると、上が見えなくなっちゃうの、三階からだと(笑)。面白かったですよね。だから僕は国文に行こうと思ったのはわりにそれが好きだったことがあって。だいたい、昼夜通しだと弁当二つ持ってくわけですよ。食堂行くと高いから。すみっこで弁当で食べながら。だから(フランスに)行く前は、美術関係はむしろそっちの方が多かったですよねぇ。

林:じゃあ、瀧口(修造)さんとの交流なんかもその、もっと後の。

高階:交流は、帰ってきてから。

林:ああ、そうですか。

高階:だから美術は、クラインとはもちろんつきあいがあったし、パリでは堂本尚郎、それから今井俊満。僕は最初日本館にいて、そこで今井俊満と一緒になって、ちょっと遅れて堂本君がやってきて、パリの画廊周りをよくしたんです。そこで(ミシェル・)ラゴン(Michel Ragon)やなんかとも会ったし、菅井汲さんもいたかな。それから田淵安一。田淵さんは美術史の先輩だから、ちょっと上ですけれどもね。というようなことで、画廊を回ったりなんかして、美術に興味を持つようになったのはそれからだろうなぁ。

池上:現代美術という意味では、ということですね。

高階:そうです。もちろん古いところも見て回ってはいました。現代美術っていうのはそういうことで。で、ラゴンと(ミシェル・)タピエ(Michel Tapié)と、彼らはちょっと微妙な関係なんだけど、どっちも現代をやってて、どっちとも付き合ってはいました。ラゴンが『抽象芸術の冒険』(L’aventure de l’Art abstrait, Robert Laffont, 1956)という本を書いて、これが面白いよっていうから、それじゃ訳そうかということで、最初の翻訳がそれ(『抽象芸術の冒険』紀伊國屋書店、1957年)なんですね。吉川先生に見ていただいて、吉川先生と連名で。これはつまり、情報はほとんどない時期でしたから。日本にいたらもちろん分かんない。フランスでこういうのがあるとか、新しい戦後美術のことはほとんどなくて。あれは1947年か8年かな。サロン・ド・メ展っていうのが高島屋でありました。これ年代見ればすぐ分かります。

池上:あれは51年じゃないでしょうか。

高階:そうだ、51年です。ということはもうかなり後だな。45年に(戦争が)終わって51年。それでその時(リュシアン・)クートー(Lucien Coutaud)だとか(ジェラール・)シュネーデル(Gerard Schneider)だとか(ピエール・)スーラージュ(Pierre Soulages)だとかいう名前を初めて知って。こんな絵があるよっていう。あのときはオム・テモアン(注:Homme Témoin、目撃者の意。1948年にベルナール・ロルジュ(Bernard Lorjou)やベルナール・ビュッフェ(Bernard Buffet)などが時代の目撃者足ることを目指して発足したグループ)にロルジュ、(アンドレ・)ミノー(André Minaux)がいて、それからシュルレアリスム系でクートー、(フェリックス・)ラビッス(Felix Labisse)、それから抽象系でシュネーデル、スーラージュ。みんな初めて知ったわけですよね。あれはけっこう日本でも評判だったと思います。パリに行ってみると、そういうのがあっちこっちにあると。ラゴンと話をしていて、こんな人たちがいる、っていうことで。抽象芸術に関してはラゴンもかなり自分の目で見てますから、抜けてるところもあるけれど、クロニクルを出して。だからそれを翻訳して日本に知らせましょう、っていうので、わりに早い時期に戦後美術の紹介をしたんです。で、一応翻訳をして吉川先生に見ていただいて、全頁出したんです。新しい潮流の紹介っていうことで、わりに評価されましたね。

林:そうですねぇ。

池上:タピエとラゴンていうのは、評論家としての性質っていうのは、どのように違ったんでしょうか。

高階:タピエはわりに、実際の画廊経営にかなり立ち入ってましたね。そして、アンフォルメル系が非常に強い。(ジャクソン・)ポロック(Jackson Pollock)やなんかを紹介して、アメリカにも目があって、従来のものとは違う前衛系をかなり強く出してました。ラゴンはむしろ伝統的なものを。抽象でも、フランス伝統の青年画家。抽象画家だけども伝統は知っている連中ですよね。スーラージュやシュネーデルなんかももちろん入ってるんですけど。それから、アンドレ・ロート(André Lhote)の系統とかですね。同じ抽象でも、そちらの方を強く推したかな、という感じがあって。日本に来たときはヌーヴェル・エコール・ド・パリっていう話で、抽象芸術の文献に出てる(ジャン・ミシェル・)アトラン(Jean Michel Atlan)とかですね。僕はアトランに非常にひかれたな。あの時はおもしろかった。それから(アントニオ・)サウラ(Antonio Saura)とか、(アントニ・)タピエス(Antoni Tàpies)とか。まあ、タピエスはアンフォルメルでもあるわけだけど。そのあたりを一生懸命紹介してた。『シメーズ(Cimaise)』っていう雑誌があって、それの中心だったのかな。『シメーズ』は国際的だけどヨーロッパ中心で、スペイン、オランダ、ベルギー、コブラ(CoBrA)の紹介もしてましたね。タピエの方は、ポロックを初めてやった。アメリカの新しい抽象表現主義やアクション・ペインティングも、最初から入ってたし。そして、あの「激情の対決」展(注:「Véhémences confrontées」、1951年にタピエが企画した展覧会)なんかは、もちろん両方の人が入ってるんだな。

池上:アメリカとフランスとっていう。

高階:そうですよね。それは手が早かったんでやったんだと思います。いくつか前衛画廊があって、ファケッティ(Galerie Paul Facchetti)とかスタドラー(Galerie Stadler)とか。それから、ややエスタブリッシュした人はギャラリー・ド・フランス(Galerie de France)。スーラージュなんかはもうそっちに入ってたかな。それから、具象的なビュッフェがちょうど出てきた頃かな、クリティック賞取って。これはギャルリー・ダヴィッド(Galerie David)というところ。

林:先生はラゴンの抽象美術の本を訳されているんですが、その当時日本で、そういう本を出版社が出すっていうこと自体が、今の状況と比べるとかなり違うなっていう気がするんですけど。

高階:そうですよね。全然(情報が)なかったから。あれは紀伊國屋が出してくれたんですけど。

林:マーケットは結構あったっていうか。

高階:それなりにですね。つまり他になかったからでしょうね。ちょうど僕がフランスに5年行って、59年に帰ってきたとき、紀伊國屋はちょうど新しい紀伊國屋新書というのを作っていて。最初に書いてくれって言われたのは『世紀末芸術』ですが、出版にずいぶん力を入れていた。戸上さんなんかは美術が好きで、美術書の輸入もやってましたから。本の輸入でかなり稼いだかもしれないね。丸善とか、あの頃は外国の本を輸入してたから。それで出版もしてくれて、わりによくやってくれた。建築もそうですけれども。

池上:それで、美術史を学びに留学されたっていうことなので、大学の話もお聞きしたいんですけども。パリ大学の付属美術研究所、これはソルボンヌの一部になるんですか。

高階:そうです。美術をやる人はソルボンヌに登録するんだけど、「Institut d’Art et d’Archéologie」っていうのが別の場所にあって、美術史の講義はそっちでやる。付属施設ですけれども、スライドがあったり、普通の教室と違う設備があるんですね。ですから、まずソルボンヌの学生に、登録します。そのときは僕は大学院に入ったばっかりで、今と違ってtroisième cycleなんかないですから、要するに、東大教養学部卒ですよね。Licence、学士で行った。それは向こうのLicenceと同じかどうかっていう審査があって。今は、行けるようになってると思いますけど、書類をいろいろ出して、Licenceの最初からやるっていうことになって。授業は専らInstitut d’Artっていう美術研究所へ行きました。手続きは全部ソルボンヌでやるわけですけど。あれも今は分かれちゃった。大学が68年で分かれちゃったから。美術関係図書が揃っていて、図書室は非常に充実してましたね。ビブリオテーク・ドゥッセ(Bibliothèque Doucet)っていうとこがあって。周りにいろいろ、中世の彫刻の模刻がずらっと並んでいた。そういうのがリッチに使える、古めかしい建物です。今でもありますけど。レンガ建ての建物に通いました。

池上:当時、どういう先生がいらしたんでしょうか。

高階:授業を受けたのは、ピエール・ラヴダン(Pierre Lavedan)さん。これまた建築の先生なんだな。彼の最後の年で、その講義っていうのは、これは非常に印象があって。ルーベンスの時代とヨーロッパ美術。要するに17世紀論です。バロック論ですよね。それに建築が入るわけです。ラグダンさんはだから、建築と都市計画の専門家。その最後の年だったのかな。非常に面白い講義だった。スライドはまだガラス板だったでしょうけど、とにかくスライドをやたらにたくさん見せてくれて。学生はそれを一生懸命。試験の時はスライド見せて、それにコメントしろとかいうのをやって。それから古代はジルベール・ピカール(Gilbert Picard)先生っていう、偉い先生ですよね。それでピカール先生が、古代ギリシャのあの青銅の騎士、オーリージュ(aurige、仏語で御者の意)っていう、手綱を持って立っているやつ(注:《デルフォイの御者》、紀元前5世紀)。デルフォイ(考古学博物館)にあるんですけど、あれについての講義を一年間なさったんだな。面白いの。

池上:それだけで。

高階:それはもちろん、背景をずっとやりながら。それを一年間やったんですよね。そういう授業を初めて聴いて、一生懸命聴いて。それからゼミは、「トラヴォー・プラティーク」(注:travaux pratiques、演習形式の授業)ってやつです。それはラヴダン先生が中心で、彼は17世紀をやってたけれども、ゼミでは近代をやってたんですよ。ゼミのテーマをずらっと出して、それぞれみんな何かでやれっていうんで。ゼミやったら大変だって皆に言われてたけど、なんか最初はやらなきゃいけないかと思って。テーマの中にドラクロワが入ってたんです。それでドラクロワの壁画で、一生懸命発表した。

林:それがドラクロワ論のもとになってるんですね。

高階:そうです(笑)。ドラクロワは前からちょっと興味があったから。そして、その次の年にラヴダン先生は変わられちゃったわけなんですよね。その次に来られたのがシャステル(André Chastel)さんなんです。

林:ああ、なるほど。

高階:シャステルさんに僕はいろいろお世話になった。ラヴダン先生は、その「トラヴォー・プラティーク」で一度発表して、一生懸命書いてやったら、「お前はなんか読み過ぎる」って。「読まないでしゃべれ」とか言われたんだけど(笑)。要するにテキスト書いてきたからね。「トラヴォー・プラティーク」ってのは、絵を見ながら説明するんだけど、テキストを読むようじゃいかんと。最近の美術史学会の発表は皆、読み過ぎるんじゃないかな(笑)。そうではなくて、ちゃんと中身が全部分かってて、聴衆に説明するようにしなきゃいかんということですね。確かにそうだと思う。なんか発表文を、最初から読んでいるような形だったので、怒られたのを覚えてる。そのときに、これは吉川先生からもお話があって、近代をやるならばシャステルさんに相談に行けと。シャステルさんはまだソルボンヌではなくて、エコール・デ・オート・ゼチュード(École des hautes etudes en sciences sociales、社会科学高等研究院)で教えてられた。あの人はちょっとフランスの美術史学会でも異様というか、やや別で、ジャーナリストでもありましたよね。『タイムズ(Times)の記者で、フランスに戻ってからは『ル・モンド(Le Monde)』にずっと書いておられた。非常に良い批評を書いておられる。『ル・モンド』に、展覧会批評も書くし、現代美術批評も書くし、ビュッフェを辛口で書いたりなんかして面白かった(笑)。そして、エコール・デ・オート・ゼチュードの講義を持っておられた。そのシャステルさんのとこに行けって言われたんだけど分かんなくて、『ル・モンド』に行ったんですよね。ル・モンドでシャステルさんに会いたいって言ったら、「じゃあ手紙を書け」って言われて。それで手紙を書いたのが始まり。それは行ってまもなくです。そしたら、そのエコール・デ・オート・ゼチュードの授業の後にちょっと会うから、来いって。そこで一回初めてお会いした。
その時に、ドラクロワに興味があったし、ドラクロワをしたいって言ったら、「まずとにかく絵を見なきゃいけない」って、そりゃまあそうですよね。ルーヴルやなんかのはもちろん見てるけれども、特に壁画のことだから一回は見ないといけない。サンシュルピス(教会、Église Saint-Sulpiceやサンポール・サンルイ(教会、Église Saint-Paul-Saint-Louis)は見られるけども、特にブルボン宮は見られない。非常に難しいんですよね。それを紹介してあげようって。ああいうとこは非常に親切でね。いきなり日本から来た学生に。まあ吉川先生の名前もあったんだけども。あそこのビブリオテークは普通には見せられないからビブリオテケール(bibliothécaire、司書)の人を紹介してくれて、「ゆっくり見なさい」って。それで僕は行って、壁画の研究ができたんです。ブルボンのサロン・デユ・ロワとか、ビブリオテークとか、それからセナ元老院の天井画も見せてもらって。そのビブリオテケールの人に、いろいろ本なんかも聞いて。まだ何も知らないけれど、その論文は図書館に行ってあわてて読んで、やっつけ仕事でやったんです。
それで、シャステルさんの講義面白そうだっていうんで、端っこに加わってたんですよ。そしたら、一年後にソルボンヌに来られたわけですよね。そこからもうずっとシャステルさんの授業を。最初の年は、イタリアが専門の方ですから、イタリア美術と、それから世紀末美術の講義をされて、非常に面白かった。その世紀末美術も建築から始まるんですよ。(アンリ・)ラブルースト(Henri Labrouste)とかね、ヴィオレ=ル=デュク(Eugène Emmanuel Viollet-Le-Duc)なんか、つまり鉄とガラスの建築から。それからあの人は視野が広いから、イギリスの建築、アーツ・アンド・クラフトとか、アール・ヌーボーとか。美術もちろん入ってくる。それが最初の講義で、もう一つはフィレンツェですよね。実際に美術史の勉強としては、とにかく絵を見て回れってことは言っていたから、美術館にしょっちゅう行ってよく見る。それから、特にドラクロワはあちこちの地方美術館にも行けって言うので、休みの時には地方を回るように。
最初に9月に行って、まだよく分かんない、ラヴダン先生の頃なんですが、春休みっていうのは学生がロマネスク美術を巡る旅っていうのをするんですよね。カソリックのなにかがオーガナイズして、割と安く行けるのがあって。それに加わって、バス旅行でずっとロマネスク回る旅に。友達と一緒の小さい部屋で。その帰りに南西フランスとブルゴーニュを通って、ラスコーに寄ってくれたんですよ。ラスコーが見られた時期なんですよ。非常に僅かな時期、オープンしてて、ラスコーの中に入れたの、非常に良かった。その後は入れなくなっちゃったから。そういうことを最初の時にやったんです。次の年は、もうシャステルさんが来られて「フィレンツェ行く」って言うから、フィレンツェに二週間ぐらい行って、フィレンツェをずーっと見て回った。

林:それは実際に絵の前でシャステルさんが話をされるという。

高階:する。シャステルさんも忙しいから、四六時中ではないんですよ。学生たちのプログラムがあって。それはソルボンヌの学生たちだけです。ロマネスクの時は誰でも入ってこられたけど、ソルボンヌは彼のクラスだけですから。そうすると、今日はウフィッツィに行けとか、今日はなんとかってプログラムがあるわけですよ。それから教会を回る。それを自主的に回るのも全部プログラムがあるわけですよ。それから郊外に行って、メディチ家の別荘は、これはちょっと面白いから、シャステルさんがついてくる。いくつかではシャステルさんがいて、そこでは説明してくれるわけです。あとは少し先輩の人がいろいろ調べてきたり、自分たちで勝手に見て回ったり、ということでした。それは面白かった。二週間ゆっくり見てまわった。それから先輩では、パリに柳宗玄さんがおられました。ちょうど行き違いで。僕は東大の大学院で、柳さんはパリに行ってらして、パリであっちこっち回っておられた。パリでお会いしたときに、地方の教会や中世の建物を回んなきゃいけない。彼はスクーターで回るって。それで僕はスクーターを買って、夏休みなんかはぐるぐる回って。

林:でも大変ですよ。スクーターで回るのは。

高階:モン・サン=ミシェルまでスクーターで行った。

林:モン・サン=ミシェルまでスクーターで!

高階:ええ。びっくりでしょう。

池上:すごいですね。

高階:途中でなんか動かなくなって大騒ぎしたりね。ユース・ホステルに泊まって、あちこち美術館を見て回るっていうことは、やりましたけどね。だから見て回るってことは、かなり大事だった。それから、外国人のための「シヴィリザシオン・フランセーズ(civilisation française、フランス文明)」っていう講義がソルボンヌにあって、週に一ぺんぐらい。これは、外人学生は行って聴ける。それと、エコール・デュ・ルーヴル(école du Louvre)に、オーディトゥール・リーブル(auditeur libre)っていう、つまり聴講生。外国の留学生ならば聴講生になれるっていう。あれもまたいっぱい授業があるから、面白い。近代は、ドリヴァルさんがやっておられた。

林:ああ、ベルナール・ドリヴァル(Bernard Dorival)ね。

高階:ベルナール・ドリヴァル。僕が先生として一番お世話になったのはシャステルさん、それからドリヴァルさんでしょうね。エコール・デュ・ルーヴルのドリヴァルさんの講義はだいたい聴きました。彼はだいたい19世紀から20世紀、その次はLes Étapes de la peinture française contemporaine(現代フランス絵画の諸段階, 3 tomes, Gallimard, 1943–1946)なんかをやっておられました。それを三冊本読めとか言われて、長いんだけど読まされたり。ドリヴァルさんの講義も非常に見事にやってらして。助手がいて。シャステルさんも助手がいたわけだけど、助手が「トラヴォー・プラティーク」をやる。それにちょっと顔を出したりして。その助手がミシェル・オーグ(Michel Auge)っていう、後にヴェルサイユの館長になった人だけど。彼が「美術だけじゃなくて他の知識がないと、ドリヴァルさんの講義は分かんないよ」とか言われて、それは授業を聴いて回るってことでしょうかね。あとは、ルーヴルではドキュマンタシオン(documentation)。これは、最初はどうしていいかよく分かんない。ドラクロワを調べる時に、資料はドキュマンタシオンにあるよって言うので、行って。その頃は、今みたいにカタログやなんかなくて、ドラクロワの一番いい展覧会が30何年、32年にあったのかな。それのカタログが手に入んない。図書館に行けばあるわけで、それをもとにしたカード作りをドキュマンタシオンでやってたわけですよね。そのカードを写すとこから始まってね。

池上:索引みたいになってるカードですか。

高階:索引みたいになってるんですね。ドキュマンタシオンてのはよくできてるなって思ったのは、ドラクロワならドラクロワを見ると、展覧会の略歴なんかがずらっと出る。それで特にドラクロワと関係のあるとこだけ一生懸命写して。今だったらもう全部本になっちゃってるから(笑)、それで済むんですけどね。もう手探りですよね。勝手がよく分かんないことをやってたんですね。

林:実際にものを見るっていうこと以外に、シャステルさんやドリヴァルさんの講義っていうのは、イコノグラフィーとか、そういう方法論的なこともやっぱり話されてたんでしょうか。

高階:ええ。シャステルさん、わりにそういうことを非常に言っておられましたね。僕は(エルヴィン・)パノフスキー(Erwin Panofsky)の名前を聞いたのはそこで初めて。

林:ああ、そうなんですか。

高階:日本ではまったく知らなかったでしょうね、あの頃。パノフスキーだとか、(エドガー・)ヴィント(Edgar Wind)だとかっていう話は。シャステルさんはちょうどご専門ということもあって、そのアプローチの仕方がイコノロジーというんだと、僕はそこで教えてもらって。イコノグラフィーのことも、向こうで中世やって、初めて知って。中世美術で読まされたのは(アンリ・)フォション(Henri Focillon)と、フォションは難しいからまずエミール・マール(Emile Mâle)と。マールをずっと読まされて。だから、意味を見るっていうのはマールで教わったんですよね。シャステルさんはイコノグラフィー、クリマ(climat、風土)、それに新しい精神的風土っていうことを良く言っておられましたけどね。クリマ・スピリチュエル(climat spirituel)。その時代の雰囲気が、目に反射してくる。目を通してそれを見ることが必要だっていうことで。それから、新しいフィロロジー(philology、文献学)というけれど、美術に関しても言語学的に手法が必要だと。意味と絵の部分をどう組み合わせるかっていうことをしきりに言ってらっしゃってね。それはなかなか面白い講義だった。ホラティウスの「詩は絵の如く」論でも、学生たちに新しいそういう本や論文をいろいろ紹介すると同時に、学生に読ませて、それを紹介しろとかいうことをやってましたから。

池上:当時留学生っていうのは、他にはどんな国から来てたんでしょうか。

高階:美術史関係で言うと、だいたいヨーロッパの主要な国からはみんな来てましたよね。だけど特に来てたのは、東欧関係が多かったかな。チェコとか、ユーゴとか。シャステルさんのオート・ゼチュードのゼミでは、ロベール・クラン(Robert Klein)がいた。ロベール・クランって知ってる。

林:はい、知ってますよ。なんだっけ、主著は忘れちゃったけど(注:La form et l’intelligible, Gallimard, 1970)。

高階:フォルムのなんとかって、非常に売れた本で。

林:売れた、いい本ですね。

高階:彼はシャステルさんの助手みたいなことをやっていた。15世紀のゼミでラテン語のポンポニウス・ガウリクス(Pomponius Gauricus)の彫刻論の翻訳ってのをやってて、僕は端っこで聞いてたんですけど、それをロベール・クランが中心にやっていて。それは後で本になりましたけれど。それから、ルネサンスの遠近法についてもやってました。あの人は東欧の、ユーゴかなんかの人なんだな。よくできる人だなと思った。それからアルゼンチンから来た人に、スペイン語を教えてやるとか言われて。日本語やりたいからって。それはまあものにならなかったけど。それからイタリアから来た人がいたかな。

池上:やっぱり当時は美術史をやるんだったら、フランスで学ぶのが良いというふうに、世界で思われていた時代だったんですね。

高階:わりにそうでしょうね。

林:非西洋圏からは、留学生はいましたか。

高階:ええ、韓国の人も一人来てました。ブラジルの(ヴァルテル・)ザニーニ(Walter Zanini)っていうのは、後に批評家になって、サンパウロでなかなか活躍した。韓国から来たリンさんていうのは、ソウルの現代美術館の館長になったし。わりに新しい美術のことやってる人もいましたね。

林:日本人に対する、なんか偏見みたいなことってなかったですか。差別のようなもの。

高階:差別みたいなことはなかったでしょうね。ただ、会話になかなか入れないってことはありますよね。

林:まあそれは。ええ。

高階:授業はなんとか分かるわけですよ。まあ分かんないこともあるけれども。でも学生同士とか、まったく分かんないよね。わーわー言われて。

池上:速いし、若者言葉だったりするんですよね。

高階:そう。それから、バックグラウンドね。要するに今のうちの孫みたいなもんだな。ジャニーズがどうの、って分かんないよね。日本語だけれども。関ジャニがどうのこうの、何それっていう(笑)。だから、一緒に行くといろいろ教えてもらうこともあって、そういう仲間は面白かったけど、未だに分かんないこといっぱい。だからフランス語では最初は苦労しましたね、発表するときやなんか。まあ今でも苦労するんだけれども。でもそれはかなり大事なことでしょうね。そして、日本美術に対する関心っていうのはあんまりなかったな。ギメ(美術館)の人でダヴィッドさん、これは吉川先生のお友達で、ギメのコンセルヴァトリス(学芸員)だから日本美術に興味あって。偉い人だから、ご挨拶はした。ただ、僕は54年に行って59年に帰ってくるんですが、58年に、日本古美術巡回展ってのがありました。これは戦後、日本が文化国家であると、軍事国家ではないですよ、っていう証拠として、日本美術をヨーロッパ巡回させた。アメリカも行ったらしいです、別に。

池上:それはまずアメリカに行って、成功したからヨーロッパにも来たんだと思います。

高階:ああ、そうですか。そうでしょうね。アメリカでも評判良かったらしい。

池上:はい。

高階:それでじゃあヨーロッパにもやりましょうと、ローマ、ロンドン、パリ、ドイツを回る。パリに来たんですよ。だからこれは、調べれば分かりますが、たぶん58年だったと思います。ほんとにすごく重要な。あなたはまあもちろん知らないよなぁ。アメリカはニューヨークでやったの。

池上:はい、他の都市にも。ちょっと今その頃のことを調べているので。

高階:そうですか。すごくいいものが行ってますよね。

池上:もうほんとに国宝展なんですよね、内容は。

高階:雪舟の秋冬山水、それから天橋立、それから(長谷川)等伯の松林図、とても今は(海外には)出ないですよね。古代の夢違観音や埴輪、それから近代の日本美術院まで。下村観山とか。ものすごくいいものがいっぱい来てましたよね。酒井抱一と光琳の屏風があった。あの風神雷神の裏が。

林:ああ、裏が。

池上:アメリカに行ったのとだいぶ重なってますね。

高階:そうでしょう、だいたいそうだと思う。よく考えるとまあほとんど初めてですよ。僕が大学にいる頃は、これはまあみんなやってたけど、和辻(哲郎)さんに習って、古寺巡礼はやりました。だから見られる彫刻は見てましたけど。絵なんかはほとんど見られないですよね。全部その時初めて見て、これはすごい、面白いって。フランス人も非常に感心したけども、ちょっと関心の仕方が違う、っていうことはありました。

池上:どういう感じで違うんですか。

高階:まあ人にもよったかなぁ。そのときの感じで言うと、雪舟より抱一の方が面白いとかね。水墨の持ってるあの線ってのがまだちょっとピンとこないとかですね。しかし、皆非常によく感心して見てましたね。だから僕が付き合ってる範囲では、美術史仲間なり、先生方だから、日本の差別っていうことはまったく無い。普通の人はもちろん、日本は中国の一部だと思ってるぐらいの人いっぱいいたと思います。ベトナムとどう違うんだ、っていう(笑)。でも大学では、美術関係の研究者もたくさんいて、日本は文明国であると。シャステルさんなんかは非常にそれを言っておられましたね。日本には非常に高い文明があるっていうことを分かっておられる方が多かった。

林:当時の同級生というか、学友って言うんですかね。同じところで学んだ人は。

高階:少し先輩で、ジャック・チュイリエ(Jacques Thuillier)。

林:ああ、ジャック・チュイリエがそうですか。

高階:彼にいろいろ教えてもらって。シャステルさんの助手みたいなことやってたんで。ミシェル・オーグ(Michel Hoog)も後でオランジュリーの館長になったから、ずっと一緒に付き合ってくれた。モネをやってますね。

林:(フランソワーズ・)ルヴァイアン(Françoise Levaillant)さんていうのはもっと後の。

高階:ルヴァイアンさんはもうちょっと後ですね。もう少し下ですから。彼女とも今は非常に親しいけど、日本に来たときに知り合ったんだな。

林:ああ、そうですか。

高階:ええ。それ以来、日本のことをよくやってくれるし、非常にいい方ですよね。それから同世代だと、フランソワーズ・カシャン(Françoise Cachin)。

林:ああ。フランソワーズ・カシャンかぁ。

高階:彼女がいっしょだった。ずっとシャステルさんの弟子で、あの頃はフランソワ―ズ・ノラ(Françoise Nora)っていったんだ。結婚してフランソワーズ・カシャンに。彼女は美術館関係ですから、ずっと一緒で、非常に親しくしてましたね。それから、もうアメリカ行っちゃったけど、ドイツから来た(ヴィリバルト・)ザウアーレンダーさん(Willibald Sauerländer)。これは中世のロマネスク彫刻の、非常に偉いボスですけれど。シャステルさんのゼミを一緒に取った中では、ザウアーレンダーがいて、カシャンがいて、僕がいて。そんな感じだったでしょうかね。

池上:アメリカからの留学生というのは、来られなかった。

高階:アメリカからもいたはずですよね。一緒に残ってる人はやっぱりいないんだなぁ。

林:画家には、サム・フランシス(Sam Francis)とか。

高階:ああ、サム・フランシス(笑)。同世代のアーティストとか、いろいろ人に会ったりするようになるのはアメリカに行ってからかな。

林:ドリー・アシュトン(Dore Ashton、美術批評家)はその頃じゃないですか。

高階:アシュトンもアメリカに行ってからですね。

林:アメリカ行ってからですか。アシュトンもその頃、パリに行ってたようなことを。

高階:いや、あれはね、石黒さんと親しいんだよね。

林:そうそう。石黒ひで(注:哲学者)さんとね。

高階:ドリーもひでさんに紹介してもらったんです。僕がアメリカ行った時に。だから(クレメント・)グリーンバーグ(Clement Greenberg)を知ったのはアメリカに行ってから。それから後は、メイヤー・シャピロ(Meyer Schapiro)とか、(ルネ・)ダノンコート(René d’Harnoncourt)だとか皆その辺ですよね。

池上:今サム・フランシスの名前が出たので、ちょっと画家とのお付き合いについてもお聞きしたいんですが。ジョルジュ・マチウ(Georges Mathieu)ですとか、サム・フランシスですとか、ザオ・ウーキー(Zao Wou-ki)ですとか、ああいうアンフォルメル系の画家たちとのお付き合いっていうのは、ありましたか。

高階:ええ、そう親しくってわけではないけど、タピエとはしょっちゅう会ってました。顔見知りだから会うとやあやあって。彼らが日本で評判になったのが57年かな。

池上:57年ですね。

高階:彼らが東京に行くときには、僕も堂本くんも向こうにいたんで、日本のいろいろなインフォメーションを。こういうカタログもあったらいい、というようなことをタピエを通してしました。だから実際の日本の様子は見てないけど、こんなこともあったよって。帰ってきてからもその話を聞いたりはしましたね。

林:アンフォルメルっていう言葉自体は、やっぱりパリでもその頃けっこう流行って。

高階:はい。非常に流行りました。ええ。「Un art autre(別の芸術)」と。

林:「Un art autre」ね。

高階:「Un art autre」が、タピエの言葉で。ただ、しょっちゅう深く付き合うっていうのは、スーラージュだったかな。

林:この間回顧展やってましたね、パリで。

高階:いい回顧展だったよなぁ。

林:たまたま僕、パリで見たんですけど。面白かったです。

高階:ああ、そうですか。それから、アトラン。これはラゴンが非常に親しかったから。フランスで亡くなっちゃったけどね。

林:スーラ―ジュとはどういう、親交が。

高階:彼はギャラリー・ド・フランス系だったけれども、展覧会やそういうとこではしょっちゅう会うわけですよね。

林:ああ、ヴェルニサージュ(注:vernissage、展覧会のオープニング・レセプション)とかですか。

高階:ヴェルニサージュで会って、ラゴンからも話を聞いたりする感じ。スーラージュも日本に興味を持っていて、日本に行くときに日本のことを教えてほしい、って言うので。彼は僕が向こうにいる間に、日本に行ったんですよね。

林:あ、そうなんですか。

高階:50何年かな。

池上:それは個展か何かで行かれたんですか。

高階:ええ、ずっと回ってやるんだって。なんかの展覧会に出したのかもしれない。その時に日本の能を見て、「能はゆっくりで退屈しないか」って言ったら、「いや、もっと長くてもいい」とか言って、面白がってましたけど。特に書道には興味持ってましたよね。だからスーラージュはしょっちゅう家に行ったし。日本文化会館でも、アドバイザーお願いしたりして、親しくしてたかな。

林:高階先生ご自身は、アンフォルメルのあの動きは、どういうふうにご覧になったんですか。

高階:あのねぇ、全体的な流れはよく分かんなかったけど、アクション・ペインティングっていうのはアメリカであって、あれと並んで面白いなっていう感じはありました。アクション・ペインティングが紹介されたのが、やっぱり58年かな。パリで。ポロック。

林:59年。

高階:59年の春。

池上:59年の頭ぐらいですね。

高階:そうです。僕が帰る直前。

池上:ポロック展と「新しいアメリカ絵画」展が、一緒にあったんですよね。

高階:あれは別々にヨーロッパ回ってたのが、近代美術館で一緒になった。

池上:そうですよね。

高階:その時に僕は初めて、ポロックを知ったわけです。クリフォード・スティル(Clyfford Still)とか、ウィリアム・バジオテス(William Baziotes)とか、非常に面白いなと思って。ただしフランスではかなり反発が多かったですよね。あんなもの、っていうので。だからそのときはもちろん作家は知らなくて、作品だけ見て。しかしタピエがそれをしきりに言ってたから、アンフォルメルと同じで、つまりあの頃は抽象か具象かっていうことが非常に強かったわけです。しかも新造形主義、要するにドニーズ・ルネ(注:Denise René、ギャラリスト)系やモンドリアン系、デ・ステイル系の……

林:冷たい抽象。

高階:幾何学的な冷たい抽象か、熱い抽象かっていうんで。実際に画廊を見て回ったり、その展覧会を見たこともあって、断然熱い抽象画が面白いって言ってたんですよね。

池上:タピエが。

高階:いや、僕もそう思ったんですよ。

池上:ああ、高階先生も。

高階:それで見ると、ポロックも熱い抽象に入る。それからアンフォルメルもそうだ。これが面白いっていうんで、抽象的というか、表現主義的な抽象が、非常に今や現代美術の中心であるという感じは強く持ちましたね。

池上:その時まではポロックなんかもあまりご存じなくて。

高階:知らなかったですね。作品は。その時初めて、実際に作品を見て回った。

池上:パリではネガティヴな反応もあったっていうのは、どのようなことが言われてたんでしょうか。

高階:ええとね。僕はそれで確か、『藝術新潮』に報告を書いたと思うな。

林:すごいですね。

池上:ちょっと、調べないといけないですね(注:高階秀爾「アメリカ美術の逆襲」『藝術新潮』1959年11月号、pp. 144–155)。

高階:59年の頭ですよね。僕が日本に帰る前だから。その1月か2月だったら、3月か4月に書いたのかな。「ヤンキー・ゴー・ホーム」って、(ピエール・)レスタニー(Pierre Restany)が言ったんだ。要するに、造形的な構成が無いっていうことですかね。

林:先生はその頃から、日本のジャーナリズムにはもうお書きになってたんですか?

高階:その頃は、やっぱりニュースをいろいろ出す。フランスに日本人はあんまりいないわけだから、たまたまフランスにいる人に、日本にインフォメーションを送ってくれってのがあったわけです。僕がやったのは、『ふらんす』っていう小さい雑誌。

林:はいはい。

高階:あれに毎回送ってました。新しい美術のことをっていうんで、画廊回りしてこんな展覧会がありますよって。これは単に紹介ですけどね。そして、『藝術新潮』にも前から。タピエが行ったときも芳賀くんが日本でいろいろ進めてました。ラゴンのこともあったし、なんかあれば紹介してくれって。アメリカ展のときは『藝術新潮』がパリの反応を(書いてくれ)っていうので、レポートしましたけど。

池上:レスタニーは確か、「US Go Home」、でも「Come back with a Second Pollock」っていうふうに言ったんですよ(笑)。

林:ははは(笑)。

高階:ああ、そうですか(笑)。

池上:だから反発しつつも、けっこう認めてるっていうような感じだったと思います。

高階:そうです、ずいぶん惹かれてた。そう。レスタニーと僕はわりに親しかったんだな。評論家仲間では面白い人でした。

林:美術史を研究しに留学されるわけですけれども、美術史家っていろんなタイプがいて、現代美術にはまったく興味がなくて、その研究だけに集中するっていう人は多いですよね。

高階:ええ、もちろん。

林:で、その現代美術に関する文章、その受容について書かれたりするっていうことは、先生としては、それもすごく興味があって。

高階:ええ、あまり抵抗は無かったですね。

林:抵抗は無かったですか。

高階:ええ。確かにソルボンヌの先生方も、批評家なんてだめだとかっていう人もいるわけで、今でもいるかもしれないけれども。一つはシャステルさんがずいぶんやっておられたから。

林:ああ、なるほど。

高階:シャステルさんは新聞に非常にいい批評を書いておられました。それから、日本でも吉川先生は現代もいろいろやっておられる。ただ、僕は日本に帰ってから、あんまり新聞なんかやるなよって吉川さんに言われたけれどね。写真展の批評なんかやりましたからね。まあ大学だともちろん、古いところをきちっとやる。ソルボンヌはそれが非常に強かった。だからその意味では、シャステルさんはちょっと特別だと思います。あれだけ広く、どっちもうまくやっておられた方はね。

林:シャステルさんって、『ファーブル・フォルム・エ・フィギュール』(Fables, formes et figures, Flammarion, 1978)っていう本に、けっこう短い文章がいっぱいありますけど、あれは、ジャーナリスティックな文章を集めたものなんですか。

高階:あれは『ガゼット・デ・ボザール(Gazette des Beaux-Arts)』っていう、ジャーナリスティックっていうよりも美術雑誌やその他で発表されたものですね。でも非常に広いでしょう。

林:いや、あれは面白いです。

高階:現代までずっと入っていて、あれはたいへんに良いわけ。ジャーナリスティックなやつは『ミロワール・ド・ラール(Miroirs de l’art)』っていう、リーヴル・ド・ポッシュ(Livre de poche)に入ってます。これは非常に面白くて、『ル・モンド』に出た中で、特に19世紀、20世紀美術に関する展覧会評を集めたもの。ピカソについて書くときはピカソ展についての評が。ピカソについては、二、三本あったかな。展覧会ごとに、『ル・モンド』に書いて。ビュッフェのことも書いて、それは私が書いたよという話をしたりとか。現代の作家についても、短いものだけれども大変よく書いてましたね。もちろん、古典的なものも『ル・モンド』に書くわけですよ。18世紀の展覧会があったら『ル・モンド』でルーヴルについても書いてたけれど、現代美術のものだけを集めたのが『ミロワール・ド・ラール』という一冊の本になってます。現代って言っても要するに19世紀からですよね。だからドラクロワの展覧会評とか、(テオドール・)ジェリコー(Théodore Géricault)あたりから始まって、まさに現在まで。

林:先生も、自分がものを書くときの一つの参考に。

高階:ええ、非常にそうですよね。フランス人だから文章はたいへん難しいけれどもね。でも非常によく大事なことを言っておられる。ポンピドゥー(注:ポンピドゥー・センター、パリ国立近代美術館が入っている)に行ってからは、他の批評家、ジャン・クレール(Jean Claire)と親しくしてて。今度アカデミー・フランセーズに入りましたよね。

林:ああ、そうですか。

高階:ええ。去年入って。あの人は文学にも非常に興味があるし。

林:強いですよね。

高階:ええ。シャステルさんもやっぱりソルボンヌ系の、調べてきちんとやる先生。彼やポンピドゥーの人たちは、もっと広く、ジャン・クレールなんかは心理学とか医学とか、政治学とか。要するにボーダレス。それから国境も、フランスの人はわりにフランスのことばっかりするけど、イギリスとかアメリカとか、広い。そういう点でシャステルさんは非常に広かったなと思いますね。

林:僕は先生の若い頃の文章ってあんまりちゃんと読んでないんですけど、6年ぐらい前だったかな、宮脇愛子さんの個展の評を書かれてるのを読みました。

高階:ああ、そうかもしれない。

林:ほんとに早い頃の。

高階:はい、最初の頃です。宮脇さんがまだ全然知られてなかった頃です。

林:そうですね。これは前から僕うかがいたいと思ってたんですけども、先生はその頃から一貫して、文体に揺れがないというか。

高階:そうかな、それはよく分かんないけれども。

林:なんか、最初から完成された文体をお持ちだという感覚が僕にはあって。しかも非常に明晰で、もう流れるように文意が伝わってくるっていう。文章は最初からああいう感じで書かれてたんですか。なんか悩んだこととかあるんですか(笑)。

高階:僕は悩んでる。文章書く時っていうのは非常に悩んでますよ。

林:そうですか。それにしても、最初から本当に。

高階:いやもう、辛い。もっとすらすら書きたいっていうのはあるけど。ただ、フランス語のテーム(thème)、作文の影響はあるかもしれないです。

林:ああ、そうですか。

高階:それは非常に明晰に、分かりやすく書かないといけない。自分の言いたいことだけじゃなくて、相手に伝わるように、しかも論点をはっきりするっていう。日本語からの和文仏訳もそうだけど、フランス語でレポートを書くときに、トロワ・ポワン(trois points)って、フランスのレトリックですよね。最初の序章があって、間は三つに分けて、最初にテーゼを出して、その次に反テーゼを出して、これはこう言ってるけれども実は逆にこう言えるかもしれない。しかし、それは違ってる。三番目できちんとやると。トロワ・ポワン式で書く。それは、フランス語のコンポジションではやらされました。それで日本の批評を読むと、なんかわけの分かんないことが出てくるんで(笑)、こんなのではちょっと読むのも大変だと。要するに論理がちっとも論理的に動かないということと、それから言葉の使い方の定義がはっきりしない。レアリスムでも、同じ文章の中で違った使い方をしたり。そういうことは僕は、あってはいけないっていう感じはありますよね。

林:それはフランス語で勉強されて、帰ってからそういう感覚をお持ちなんですか。その前からもうそういう感覚を。

高階:うーん。

池上:東大でフランス語の専攻をされていた頃からでしょうか。

高階:ああ、教養学科の丸山先生のテームは、フランス語で書けと。もう幼稚な文章だけど、書くとずいぶん丁寧に直してくださったですよね。お手本の文章をきちんとやれっていうことで、フランス語の模範文をちゃんとあたって、とかね。模範文は誰がいいんですかって言ったら、マルローなんかはだめだとかね(笑)。僕も確かにいいと思った文章には教えられた。エミール・マールは非常にいい。それから文学者では(アンドレ・)ジッドですね。新しいのはサルトルもマルローもだめ。中身はともかく文体の模範にするのにはよくない。それからベルクソンは非常にいい。そういうようなことは教えられて、文章を論理的に分かりやすく進めるっていうことは、日本語で書くときも心がけた。自分でもよくわけの分かんないようなことを書いたり、いきなり話が飛んだりすることがあったら具合悪い。それ以外に書けないからしょうがないと思うんだけれども。

池上:少し話が戻りますが、パリに留学されていた頃の日本人のコミュニティ、例えば堂本尚郎さんや芳賀徹さん、今井俊満さんなんかのお付き合いについてもう少しお聞きしたいと思います。

高階:日本人の中では、堂本さんと一番親しかったでしょうね。しょっちゅうアトリエに行ったし、お家にも行ったし。今井さんともそりゃ親しかったです。日本館で一緒で。あの人は夜に絵を描くんですよね。大きい絵で部屋には入りきらないから、廊下に大きい絵を出して夜中に描いてる。それで夜に説明を聞いたりするってことがあったり。堂本さんは奥さんが来られてから、ご自分の家があったから。いろいろ翻訳なんか頼まれて、タピエの文章がよく分かんないとか。こういう意味だよって一緒に考えたり、飯食いに行こうとか、展覧会回ろうとか、しょっちゅう行っていて。しかも、堂本君が病気になったんだな。結石の手術をするときに、大変だっていうんで一緒に病院に行ったり、お見舞に行ったりして。それから日本の人が来たときにアトリエを見たいって言うんで、佐藤朔さんを連れていくとかですね。それで堂本君のとこには壇一雄が来たとかね、で「お前も一緒に来いよ、飯食おう」とかって、わりにお付き合いしました。だから一番親しかったのは、堂本夫妻ですよね。それから、藤田嗣治……

池上:それをお聞きしようと思ったんですが。

高階:これが日本人とは付き合わないっていう有名な人だったですね。つまり日本に対する恨みがあるんでね。

池上:追い出されたようなところがありますよね。

高階:事実、追い出されたんでしょうね。だから僕よりずっと年上の方であれば、お付き合いしたのは藤田さん、野見山さん、菅井汲さん、菅井汲さんはまあちょっと上くらい。藤田さんは日本人とは会わないけれども、附属の縁で会った。

池上:はい。附属小学校の先輩にあたられるんですよね。

高階:大使館の参事官で附属を出てた人がいて、その方が附属会っていうのをやった。何カ月かにいっぺん。その時に、藤田さんが出て来られるんですね。

池上:彼はその会だけ例外的にお付き合いをしていたということですか。

高階:ええ、そういうことです。附属会に来られると、もう一番の長老ですから、皆が藤田さんの話を聞くと。そうすると昔のパリの話はするけど、絵の話は絶対しない。それで、パリの話はあんまりしないんだな。小学校の話とか(笑)、附属会だから。子どものときにいたずらして怒られたとかいうような話は、たいへん面白いお話をされた。ただご自分の絵のことは、聞いてもおっしゃらない。なんにも言わなかったな。

池上:じゃあアトリエを見に行かれたりとか、そういうことは。

高階:それは亡くなられてからですね。エソンヌ(Essonne)に行ってから。今は記念館になりました。その前に奥さまに、「そのままですよ」っていうのをちょっと見せていただいた。だからお仕事の様子なんかは全然知らない。後でお話を聞くだけですよ。ただお宅にうかがうと、それは林洋子さんがいろいろ書いてるけども、お裁縫道具とかあって。彼がまた器用で、お裁縫鋏とかあって。くけ台っていうのは知ってる? 昔の人がお裁縫するときにこう高い針があって、上に丸い玉があって針が刺さってるお裁縫道具ですよ。うちの母なんかも使ってる。そういうのがちゃんとあって、それを誰が使うかって、藤田さんが使うんです。奥さんじゃなくて。お裁縫が好きなんですよ。非常にそういうのが好きで、お子さんがいなかったからお人形を作って、ちゃんと布団とか衣装を作って着せ替える。ということをなさる。そういうお裁縫道具とかが全部揃ってる。手仕事が好きな方で、また器用な方だったということは後で、仕事場のあとを見せてもらって、奥さんから聞きました。

林:アンフォルメルの周辺だと、さきほど名前があがった富永惣一さんもけっこう盛んに紹介されて。それから、読売の海藤さん。

高階:ああ、海藤日出男さん。海藤さんは書かなかったんじゃないかな。

林:いや、一本書いてますね。当時の『美術批評』っていう雑誌に、なかなかいい文章を。

高階:あ、『美術批評』に。

林:海藤さんとか富永さんとも、先生はパリで会われた。

高階:それはパリではなくて、帰ってからです。

林:ああ、そうですか。

高階:富永さんはもちろん、学校の授業は聞いてたけど、それだけで、帰ってきたときには、西洋美術館に行きましたから。富永館長だから(笑)。

林:館長だから。

高階:富永さんのお家にも行って。そうすると、富永さんのお家と、瀧口(修造)さんのお家と近いんですよ。非常に近いんです。それで、展覧会なんかあると瀧口さんのお家に。その隣が海藤さんのお家なんですよ(笑)。

林:ああ、そうだ。海藤さんは瀧口さんの大家さんですよね、確か。

高階:瀧口さんのお家にもよく行って。海藤さんは読売の編集者で、堂本君とか大岡(信)君とかに書かせてた。それで僕に写真展の批評をやれって言ったのは海藤さんです。つまり、美術批評はもう既に、我々より少し上の世代で、瀬木(慎一)、針生(一郎)が美術批評をやってたわけです。我々の世代だと、中原(佑介)、東野(芳明)、大岡信。特に読売は東野、大岡に美術を書かせてました。そこで美術はあっちがやるから、お前は写真の展覧会をやれって、面白いこと言う。写真展の川田喜久治だとか、僕は初めて見た。この間、川田さんの回顧展を写真美術館でやってた。批評では僕の最初の文章だったんだけど。批評はね。海藤さんとはそれでいろいろお話をうかがって。瀧口さんのお家に伺うと、また彼も話好きだから、いろいろとお話をうかがって。

池上:それは日本に帰ってこられてから。

高階:帰ってからです。全部それは。

池上:瀬木慎一さんは同じ時期にパリにいらしたかと思うんですけど。

高階:ええ、何回か来られました。滞在ではなくて、展覧会とかなんかで来られたときに。

池上:ああ。住まれていたわけではなかった。

高階:なかった。ずいぶんよく来られましたね。展覧会やるとか、シャガールの展覧会やるとか。日本で戦後やったピカソもそうですね。その時にパリに来られて。

池上:お付き合いがあったりされましたか。

高階:一緒に画廊回ったりなんかしましたね。通訳を頼まれたり。瀬木さんあんまりできないんですよね、フランス語。英語ではやるけれども。だから。

池上:『シメーズ(Cimaise)』に批評というか文章を書いたりされていたので、よくお書きになるのかと思ってたんですが。

高階:フランス語で。これは翻訳でしょうね。

池上:ああ、そういうことですね。

高階:だけど、英語も頼りないんで。瀬木さんのグリーンバーグね(笑)。君、知ってる? すごい翻訳。

林:『SD』の、先生と瀬木さんのやり取りを読みました(笑)。

高階:いや、最初は『三彩』かなんかに書いてたんですよね。翻訳を。

林:『三彩』から始まって。ええ。

高階:あんなもんは、だから……

林:結構あれは厳しい(笑)。

高階:でもそりゃ酷いって。いくらなんでも。ただ批評家としてはずっと上の世代にあって。少し若くて、後からっていうのが東野さん、大岡さんぐらいかな。ちょっと後から宮川淳っていうのが出てくる。僕は、結婚式の仲人は、瀧口先生と富永夫人なんですよ。変な話でね。西洋美術館にいたから、富永先生にお願いしたんです。富永先生「いいよいいよ」とか言ったら、なんか外国に行くって。あの頃は、外国に行くのが館長でさえ難しかった。予算が。僕は西洋美術館に入って10年間、全然外国なんか行ってないですからね。今の学芸員の人は、展覧会だとかなんかって、いろいろ機会がある。でも当時は全く外国なんか、そうは行けない。富永先生も展覧会かなんかの話で、とても他に行くときがない。ちょうど僕の結婚式の時にフランス行くことになって、仲人引き受けてくださったのに行けないって。それで瀧口さんに頼みました。でも瀧口さんは「自分は絶対そんなことやらない」って。

林:ええ、そういう性格ですよね。

高階:絶対しないっていうんで、もう強引に頼んで。ただ富永さんにもお願いしたんで、瀧口修造と富永夫人が仲人っていう、非常に変な(笑)。瀧口さんにはほんとに悪いことしたと思った。もう嫌だ、嫌だっていうのをお願いして。だから、お付き合いはしょっちゅうしてました。

池上:お話が楽しくて、いろいろ聞きすぎてしまいましたが、今日はそろそろこのへんで。ありがとうございました。