美術家(グラフィック・デザイン、絵画、立体、版画、コラージュ、アニメーション、実験映像など)
武蔵野美術大学デザイン科在学中に篠原有司男と出会い、ネオダダや反芸術の活動をともにする。卒業後はグラフィック・デザイナーとして多忙を極める一方、ポップ・アートに触発されたアーティスト・ブックやコラージュを多数自主制作。1970年代には実験アニメや実験映像を多くてがけ、1980年代には立体作品も制作するようになる。今回の聞き取りでは3回に渡って戦争体験やアメリカの大衆文化との関わり、1960年代の前衛美術シーン、2012~13年に再発見された1960年代末~75年制作のコラージュ群、1970年代の映像制作、アートとデザインの領域にまたがって仕事をしてきた体験、また1991年より京都造形芸術大学で教鞭を執った経験などについて語っていただいた。
池上:では始めます。よろしくお願いします。お生まれのところからお聞きしていきたいと思いますが、1936年にお生まれということでよろしいでしょうか。
田名網:はい。
池上:3人兄弟のご長男ということで。子ども時代はどのような環境で暮らされましたか。
田名網:子どもの頃というのは、戦争が始まったのが4~5歳ぐらいだと思うんですよ。もうちょっと経ってからかな。その辺あとではっきりしますけど。
池上:でもまあ太平洋戦争になったのが1941年ですから、やっぱり5歳ぐらいですよね。
田名網:そうでしょうね。
池上:日中戦争は1937年から始まってますけど。
田名網:そういう時代だったんで、普通の家庭生活というか、平和な生活というのはほとんどなかったんですよ、子どもの時から。要するに戦争前で、日本が非常態勢だったんで、母親なんかもすごく大変だったと思うんですね。それからもちろん食料難の時代も来てたし、食べるものも、今の子どもが食べるようなものはあんまり食べれなくて。食事も白いご飯とかじゃなくて、麦ご飯とかお芋とか、なんかそういうものを食べてたような気がするんです。だから子ども時代は、いわゆる普通の環境で過ごしてないんですよ。
池上:お父さまはどういうお仕事をされていたんですか。
田名網:うちの父親というのはね、どうしようもない父親で。その時代にはよくいたんですけど、だいたい親父がつくった財産を息子が潰すという、そういう典型的ないいかげんな父だったんですよ。結局、最終的にはうちのお祖父さんがつくったお店を――京橋、日本橋の高島屋の裏の服地問屋だったんですよ、洋服の――その問屋を放蕩息子が潰したっていうね、もう典型的な、その時代によくありがちな家だったんですよ。
池上:高島屋の裏にあって、高島屋に生地を仕入れて。
田名網:高島屋の裏は繊維街だったんですよ、昔は。服地問屋とかそれに類するお店、あの辺一帯は全部そういうお店だったんです。
宮田:代々続くお店だったんですか。
田名網:いや、代々じゃなくて、お祖父さんが一代でつくったんです。だから田名網商店といって、問屋なんですけど小売りもして、番頭さんとかそういう人がいる、いわゆる典型的な日本のお店だったんですよ。
宮田:日本橋の、東京のお生まれだったんですか、お祖父さまも。
田名網:千葉です。
池上:東京に出てきて一旗揚げてという。
田名網:そう。要するに立身出世のお祖父さんだったわけですね。
池上:田名網さんが覚えていらっしゃるお父さまというのは、あまり働かずにブラブラされているような……。
田名網:何というのかな、家の恥をさらすようなんだけど、要するにどこか行っちゃって帰ってこないわけですよ、芸者さんのところとかに行って。それで親の店は、まあ商店だから日銭が入ってくるわけですよね。それを番頭さんからもらって、で、遊びに行っちゃうという、そういう生活で。だからうちのお祖母さんは一時勘当したりとかして、僕は小さかったから事情は後になって母親に聞いたわけですけど、だから母親はすごく苦労したんですよ。
それで僕が後年に美術の方に行くということになって、うちの母親はものすごく反対したんですよ。というのは、父親をずっと見てたんで、そういうことをするとまたうちの父親みたいになっちゃうんじゃないかということで。職業そのものもそうなんだけど、親戚中が大反対したんですね。それは、父親のいいかげんさというのをずっと見てたから。だいたい、その頃テレビに出てくる絵描きはろくな役じゃないのよね。酒飲んで、親のお金をみんな食いつぶしちゃって、貧乏で、最悪の状態の画家が出てくるわけです。だからそれ見てて。うちの母親が、隣の部屋にいると、「敬ちゃん、ちょっといらっしゃい」って、行くと、絵描きが出てくる場面なんだよね(笑)。「あんたもゆくゆくはこうなっちゃうんだよ」っていうのをね、毎回毎回聞くんですよ。だから僕は、そのことはこのあいだのインタヴュー、BEAMSの雑誌(『IN THE CiTY』第8号、2013年7月)にも書いたんですけど、それがすごいトラウマになって、母親の足音がパタパタッと廊下ですると、絵とかそういうのをバッと隠すっていうね、そういうのがずっと続いたんですよ。
池上:ちょっと後ろめたい感じ。
田名網:そうそう。絵を描くということが、うちの父親と結びついちゃうんですよね。
池上:お父さまも絵は描かれたんですか。
田名網:いや、全然そういうんじゃないんですけど。
池上:遊び人とリンクしちゃうという(笑)。
田名網:単なる遊び人だったの。
池上:お祖父さまとの記憶は。
田名網:お祖父さんは、僕が小さい頃に亡くなっちゃったので、ほとんど記憶はないんですけども。お祖母ちゃんがしっかりしてたんで、屋台骨を支えてたという感じですよね。
宮田:お店の造りといいますか、今、私たちはそういうところに行きたくても行けない、想像しかできないんですけど、どういう建物だったかというのは。
田名網:建物は3階建てで。だいたい1階が商店で、番頭さんとかが働いている場ですよね。僕たちは2階に住んでたんですよ。で、3階が倉庫になってたんです。建物としては結構大きい建物だったんだけど、1階はすごい忙しい場所なんですよね。僕なんかは、下に行って番頭さんが働いてるのを見たり、3階の倉庫には服地の問屋なんで服地があって。タグってあるじゃないですか、あれがこういうふうにロールになって巻かれたものがもう何百本とあって、それがずらっと棚に整理されているんですよね。それを切って、タグとして貼るわけですね。それがすごいきれいで。今のタグっていうのは、ロゴが入ってるだけで、小っちゃいじゃないですか。昔のって、背広の裏なんかに付けるのはこんなにデカいんですよ。
池上:名前も書いたり。
田名網:名前を書いたり、絵が描いてあったり、金糸銀糸で刺繍があったり、すごい豪華なんですよね。それがステータスだったわけですよ、スーツの裏側に縫い付けてね。僕はそれを服に巻きつけたりして遊んでました。
宮田:服に巻いて(笑)。
池上:それは京橋のところなんですよね。
田名網:そうです。で、京橋にいたんだけれども、お店がすごく繁盛していて、お店を拡張しなきゃならないというんで、僕たちは自宅を、中目黒1丁目1番地という目黒駅からすぐのところに引っ越したんです。
池上:ああ、そういうことなんですね。
宮田:弟さんたちは京橋時代にお生まれになったんですか。何歳違いですか。
田名網:5歳違い。だからその時はまだいないと思うんですよ。
池上:目黒に移られてから?
田名網:そうです。
宮田:三男さんが6歳違いで。小さい頃、兄弟でどういう遊びを。仲は良かったんですか?
田名網:小さい時ってね、家でもちろん遊んだことはあったけど、一緒に遊んだほとんど記憶がないんだけど。
池上:ちょっと離れてるというのもあるんでしょうか。小さい頃の5歳ってだいぶ違いますもんね。
田名網:そうなんですよ。
池上:当時の中目黒というのはどういう感じの街だったんですか。
田名網:僕が住んでた中目黒1丁目1番地の家というのは、住宅街のどまん中にあって、大きいお屋敷がいっぱいあるような屋敷町ですよね。その時、景気が良かったと思うんだけれども、僕が住んでた家は平屋の家なんですけど。お祖母ちゃんが離れに住んでいて、父親と母親と僕と小っちゃい赤ん坊がいる。そういう家族構成でした。
池上:京橋とはだいぶ違う環境に。
田名網:「おおみよ」さんと「こみよ」さんという、二人女中さんがいたんです。二人ともみよさんという名前で、おおみよさんというのは大きいんですよね、こみよさんというのは小っちゃい人だったんです。僕はおおみよさんとしょっちゅう一緒に買い物に行ったり、おんぶしてもらったりして、すごく遊んでもらった記憶があるんですよね。
池上:どういう遊びをされるんですか。
田名網:うちの目黒の家の真ん前に、禿げ山という山があったんですよ。禿げ山といってもそんなに大した山じゃないんですけど、まあちっぽけな山なんです。その当時、いよいよ戦争が始まるということで、防空壕を掘るおじさんが来て2人作ってるんですよ。掘って、壕内に木を組んでいくわけですね。僕はそれが面白くて、毎日のように見に行ってたんだけど、それが最高の遊びだったんですね。おじさんたちがお弁当食べるのをみるのも好きだった。
池上:戦争が始まると今度はそこに入ることになるわけですね。
田名網:防空壕のすぐ前に、火事なんかが起きたときのために池に水を溜めておく貯水池があって。それもわりと大きな貯水池で、そこにオタマジャクシとかカエル、それから小さな魚とかいっぱいいるんですよ。それを捕っては遊びましたね。
池上:そういうなかで、服地問屋にお生まれになって、お母さまは美術の方に進むのは大反対だとおっしゃってましたけども、ご家族やご親戚なんかでそういう方面に携わっていた方はいらっしゃらなかったんですか。
田名網:いや、一人もいないんですよ。親戚中探しても。ただ僕が唯一楽しみだったのはね……。 父親の弟が、その当時慶應大学に行っていて、残念ながら出征して戦死しちゃうんですけど。その叔父さんというのが、ちょっとマニアックというか、趣味が多くて、その当時としては非常にモダンな人で。その叔父のスキーの道具とか登山の道具とかがうちの中目黒の家の納戸にしまってあるんですよ。
池上:一緒にお住まいだったわけじゃないんですよね。
田名網:僕が物心ついた頃にはもう叔父さんは戦地に行っちゃってたから。だから叔父さんが、帰ってくるときのために、納戸にしまってあるわけですね。その納戸に僕が興味を持って、しょっちゅう入り浸ってたんだけど。何を見るために行ったかというと、そこに錠のかかった本棚とか、叔父の集めたいろんなものがあって。その本棚の中にね、その当時の映画の雑誌とか、絵ハガキとか、ポスター類とか、新聞の切り抜きがものすごい量あったんですよ。僕はまだ小っちゃかったんだけど、それにすごい興味を持ったんですよね。そこで見てると、うちのお祖母ちゃんが「叔父さんの大事なもんだから、あんた見ちゃいけない」っていうんで、見つかると怒られるんですよ。だからお祖母ちゃんがいない留守を見計らってそこに入って、本とか絵ハガキを見るというのがもう最大の楽しみだったんですよ。
池上:特に印象に残っているハガキとかありますか。
田名網:僕が一番面白いなと思ったのはね、その頃、日独伊の三国同盟の時代で、ナチスドイツと日本って同盟国だったわけですよね。それでヒトラーの絵ハガキとか、イタリアのムッソリーニの絵ハガキとか、それから裸の少年兵みたいのあるじゃないですか、「少年は総統に身を捧げた」というコピーがついたもの。
池上:ヒトラー・ユーゲント。
田名網:ゲルマン民族の、逞しいハダカの男女が体操してるような。そういう絵ハガキがものすごい数あるんですよ。ハーケンクロイツのマークがあるでしょ。あれが絵ハガキの真ん中に金で浮き彫りになってるんですよ。それがすごくきれいというか、その当時の僕の周りには絵本も何もなかったでしょ、非常事態なんで。印刷物があったとしても非常に粗末なものだったんですね。ところが叔父が集めていたドイツ製の絵ハガキというのは、すごい豪華なんですよ。浮き彫りになってたり、金色のマークがピカピカ光っていたり、子供がみても魅力的なんですよね。特にナチス関係のものは、その当時たぶんナチスが宣伝活動のために、どんどん発行してたと思うんですよ。同盟国なんで日本にも入ってきてたんでしょうね。それをうちの叔父がコレクションしてたんだと思うんです。
池上:それが原体験みたいなところにあるんでしょうか、田名網さんの。
田名網:そうかもしれない。それからね、映画の本で、『LIFE』ぐらいの大きな『スタア』という雑誌が叔父さんのところにいっぱいあって。それは、だいぶ後になって僕が神田の古本屋で見てる時に、「見たことあるな」と思って。そしたらうちの叔父さんの本箱にあった雑誌だった。それがすごくオシャレな本なんですよ、本文のレイアウトも、本の大きさも、写真も。表紙は絵だったんだけど、それもすごい印象に残ってるんですよ。
宮田:それはカラーなんですか。
田名網:表紙だけカラー。たぶん戦争が始まるちょっと前で、まだ日本に余力があった時代だったと思うのね。それが急にこういうふうに(手を下に向けて)なったんだけど、その最後のあがきみたいな頃の本なんですよ。だいたい十銭ぐらいなの。
池上:スターの写真とか、そういうものが入っている。
田名網:そうそう。その当時のハリウッドスターの写真がいっぱい入ってるんですよ。
池上:その叔父さまはどこに出征されたんですか。
田名網:マレー。戦死したのは、どこか分かんないんですよ、そういう時代だったんで。だけど戦死したという知らせが来て。その時、うちのお祖母ちゃんも大変だったんだけども。僕はお祖母ちゃんの部屋で一緒に寝てたんで、戦死した時なんか毎日泣いてましたよね。
宮田:だんだん戦争に向かっていく時に、子どもながらにすごく感じたことってどういうことですか。
田名網:戦争が始まるっていう恐怖はまだよく分からないんですよ。戦争がどういうものか分からないから。ただうちの母親とか周りの大人を見ていると普通の状態じゃない。それで、ああこれは大変なことが起こってるんだな、と分かってきて。玄米を、そのままじゃ食べられないから一升瓶の中に入れるんですよ。それを上から棒でつつくのね。そうすると皮が取れるじゃない。それを新聞紙の上にバーッと出してうちわで扇ぐと皮だけ飛んでいく。そうすると中にお米の粒が残る。それを炊いて食べるというので、棒でつくのをよくやらされましたよね。
池上:子どもの仕事というか。
田名網:そうそう。そういうことがずっとあって、だんだん食べるものも悪くなっていくわけよね。最初のうちはご飯とか出てたんだけど、そのうちだんだんお芋が多くなってご飯が少なくなるとか、おかずがなくなるとか。ああこれは結構大変なんだな、と。あと灯火管制といって、外に光が漏れないようにしなきゃいけないので、電球もものすごく暗いのね、囲いを付けて外に光が漏れないようにして、卓上だけぽーっと明るくなるわけよね。夜はそういう生活なので、だんだん大変なことが起こってきてるというのが子どもながらに肌で感じるようになってきたの。
池上:疎開をされてますよね。それは何歳ぐらいの頃なんでしょうか。
田名網:疎開したのは、戦争のかなり末期で、もうまずい状況になって、目黒の家の周りにどんどん空襲が迫って来て危なくなってきちゃったんですよ。近隣も危険になってきて、疎開せざるを得なくなったんだけど、その直前なんていうのは、アメリカのB-29がもう何百機と飛来するんですよ。空がもう飛行機だらけになっちゃうんだよね、見上げると。それが照明弾、焼夷弾を落としていくわけですね。絨毯爆撃といって、隙間なく爆弾を落としていくから、一つの地域が全部パッと消えちゃうんですね。それで結局全部焼け野原にしちゃうんだけど。我が家の中目黒の家のところだけが奇跡的に残ったんですよ、順番が遅かったから。だけどうちの道を隔てた隣はもう焼け野原なんです。戦争が激化してどんどんすごいことになっていったので、疎開せざるを得なくなって新潟へ逃げていったのね。
宮田:新潟に行かれる前、すでに中目黒の時に小学校に上がってたんですか。
田名網:いや、上がってないと思うんですけどね。
宮田:新潟に行かれる時、年齢的には小学生ぐらい?
田名網:直前ぐらいかもしれない。でも小学校へ行くもなにもね、もう小学校が機能してないんですよ、その頃は。先生もいなくなっちゃうし。
池上:入学してたとしても授業はもう。
田名網:先生がいないのよ、出征しちゃってるから。
池上:新潟は何かご親戚のつてですとか、そういうものがあったんですか。
田名網:それはね、僕の母親の妹の旦那というのが、その当時外務省にいたんですよ。その関係で、新潟の農家の離れみたいなところに住めることになったんです。その理由というのがね、それは僕も後でいろいろ聞いて分かったんだけど、その外務省に行っている叔父というのが、僕が新潟へ疎開してる時もキャンディとかいろいろなものを運んできてくれるんですよ。その時はよく分からなかったけど。だから叔父さんが来ると大喜びなんだけど、叔父さんはなんで持ってきてくれるのかなとしばらく考えてた。そうしたらその叔父が、「敬ちゃん、ちょっと人に会いに行くから一緒にいらっしゃい」というんで、僕は叔父さんに付いて、新潟の六日町というところにいたんだけど、自転車に乗ってちょっと離れたところに行くんですよ。そしたら日本風のわりときれいな家があって、外国人が住んでいるんですよ。
池上:ほう。
田名網:そこに叔父さんは食料とかいろんなものを持って行くんです。僕たちが行くと、そこの住人が、お菓子とかを、別の部屋にテーブルがあってね、食べさせてくれるんですよ。多い時には月に2回ぐらい行くわけね。「今日も行くよ」というとなんかうれしくて、お菓子とかいろんなものをくれるから。本とかも見せてくれるし。そしたら、後で分かったんだけどね、インドの独立運動の政治家でチャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)という、ものすごく有名な人がいる。この人が日本に亡命して、日本政府がかくまっていたんですよ。この人はすごく特異な政治家で、日本の政府に荷担したということで、日本に亡命して、日本の外務省がこの人を新潟にかくまってたわけ。それで外務省の僕の叔父がこの人の担当だったわけね。子どもを連れて行った方が怪しまれないじゃないですか。
池上:ですね。
田名網:それでその叔父は僕を連れて、親子のような感じでそこに出入りしてたんだと思うのよね。僕が赤痢になったんです、新潟にいた時に。その時例えばストマイ(注:抗生物質の一種)とかそんなのないじゃないですか。ところがお医者さんがその時手に入らないような注射をしてくれて、治ったんですよ。叔父の関係で、そういう薬とかも日本の外務省から取り寄せてくれたらしいんだけど。
池上:チャンドラ・ボースが日本にかくまわれていたというのは初めて聞きました(注:ボースの来日は1943年5月16日とされる)。
田名網:後で、飛行機事故で亡くなっちゃうんですよ、この人。
池上:そうですね、台湾で客死してますよね。
田名網:この人、面白い変な人でね、ナチスにも協力したりしてるんですよ。その時はチャンドラ・ボースといったら日本人なら誰でも知ってるような人だったのね。
池上:ボースはそこに家族で?
田名網:家族はいたかどうか分からない。女性もいたけど、側近だと思うんです。側近の人は何人かいて。みんな日本語がペラペラで、行くといろいろ遊んでくれたりして結構面白かった。普通の家なんですよ。だけどそこに日本の政府がかくまって。たぶん護衛みたいな人もいたと思うんです。
池上:あまり人目につかないようにされてたんでしょうね。
田名網:そうそう。その当時お米なんかもちろんないわけですよ、もうどこにも。それが叔父さんが、お米とかお菓子とかお砂糖とかすごい量を持って行くのよ。
池上:国賓扱いでかくまって。
田名網:日本の恩人なんで、そういうものを運んでいったんでしょうね。結局僕は毎回必ず一緒に。「今日は行くよ」というとうれしいんですよ。
宮田:新潟では周りの、地域の人との交流もあったんですか。
田名網:わりと大きい農家の離れみたいな、家を借りて住んでたんで、そこの家の人とはもちろん交流もあるし、周りは結構きれいな川が流れてたりして。六日町というところで、周りが全部山なんですよ。だから飛行機が入ってこれないわけ、山に囲まれてるから。だから非常に安全なところだったですね。爆撃も全然なくて。トンボを捕ったり魚を捕ったりして結構楽しかったですよね。
池上:近所の子どもと遊んだりとか。
田名網:そうそう。
池上:東京で経験した空襲と全然違う世界ですね。
田名網:そうそう。灯火管制もないんですよ。夜は電気もちゃんとついてて、空襲警報も鳴らない。
池上:新潟はどれぐらいおられたんですか。
田名網:いや、ちょっとですよ。だって戦争が始まってから終戦までもうあっという間ですもん。2年か、3年とかじゃないですかね。
池上:2年ぐらいは新潟にいらした。じゃあ、田名網さんのもう一つの原体験として、空襲中に空爆の光を、お祖父さまが飼っていらした金魚の金魚鉢越しに見たという思い出を語られていると思うんですけれども、それは目黒での体験なんでしょうか。
田名網:いや、その辺がちょっと複雑になってきてるんだけど、うちの父親の放蕩で持ちこたえられなくなっちゃったわけですよ。お祖母さんが年とってきて、借金かなんかでたぶんお金が回らなくなったんだと思うのね。で、母親の方の実家が芝・白金にあるんですよ。そっちに僕と母親とが避難していったわけですね。お祖父さんというのは、母方のお祖父さんなんですよ。その家に金魚の大きな水槽が、畳一畳ぐらいのがあって。
池上:すごい大きいですね。これくらい(両手で持てるくらい)だと思ってイメージしてて(笑)。
田名網:いやいや、そうじゃないの。もう巨大な水槽なの。要するに金魚の養殖というか、それが趣味なんですよ。
池上:じゃあたくさんその中に金魚がいて。
田名網:今だったら一匹500万ぐらいするような、ランチュウとかデメキンとかすごい大きい金魚なんですよ。それが大きな水槽の中にいっぱいいるわけ。ちょうどその真ん前に縁側があって、そこで僕は宿題とかやってたわけですよね、水槽の真ん前で。そこの水槽の前に僕が行くと、金魚がヒュッと寄ってくるんですよ、毎日のことなんで。餌とかやるから。そのすぐ横に、防空壕が掘ってあるんです、われわれは空襲になるとそこに避難するわけ。そのちょうど真上に水槽があって、まるでスクリーンみたいなんですよ。空襲というのは昼はないんですよ。B-29は夜に来る。照明弾で明るく照らして、狙いを定めて焼夷弾を落とすわけね。だから必ず夜で、このぐらい大きい金魚なんで、ウロコに照明弾の光が反射するわけですよ、金魚が動くから。それがものすごくきれいなんですよ。防空壕って、中に入ったら何もすることないからじっとしてるわけですよね、1時間も2時間も。子どもだからその水槽を見るぐらいしかないわけね。その金魚をずっと見てると、その照明弾が照らした直後に焼夷弾が落ちるから、もうパッと明るくなるわけ。それが何か映画のスクリーンみたいに見えてきちゃうわけですよ。
池上:ほかに視覚的な娯楽とかがもうないから。
田名網:あと真っ暗だから。
池上:では白金と目黒と両方で空襲は経験されているんですね。
田名網:そうです。
池上:空襲は、金魚のそれがきれいだったというのとはまた別に、すごく恐いものとしてあったんでしょうか。
田名網:いやー、恐いっていうかね、夜寝てるじゃないですか。そうすると空襲警報が鳴るわけですよ、ウーウーとね。もう寝間着とか着ないからね、その当時は。要するに母親もみんな服のまんまで寝てるわけですよ、すぐ逃げられるように。空襲警報が鳴るとすぐに禿げ山の防空壕に逃げるわけですね。それでね、その時もう弟がいたんだな。僕が乳母車を押したという記憶があるから。空襲が終わって壕から出てくると、何体も死体が横たわってるんですよ。道路に、片腕がない人とかね、足が取れちゃってるとかというのが、転がってるわけ。
池上:それは防空壕に入るのが間に合わなかった人たちということですか。
田名網:間に合わなかったか、それとも家に爆弾が落っこちて、そのまま死んじゃったとかね。それか、家の中で死んだ人を運んできて並べたのかもしれんないんだけど。とにかく空襲が終わって道路を見ると、死んでる人があちらこちらに転がってるわけ。母親が、「見ちゃいけない」っていうんで、僕の目をこういうふうにふさいでずっと連れていくんだけど、見えちゃうのね。そうするとそこに死んだ人が、もう5、6体ぐらい転がっている日もありましたよね。
爆弾の熱風っていうのはすごい熱いんですよ。もうこの辺が、ものすごく熱いサウナってあるじゃないですか、そのぐらい熱いのね。だからこの辺がもうヒリヒリっと焼け焦げるような気がするんですよ。水で絞ったタオルを顔に巻いて座ってるわけね、じゃないとやけどしちゃう。防空壕ってそんな乾燥してなくて、山からの水が垂れてきて、足下が水たまりなんですよ。だから冬なんてすごいことになってて。膝から下は水があるのよね。そこに足をつけて、ずっといるわけ、終わるまで。上が熱風で、下は寒いんですよ。
宮田:匂いとかも記憶されていますか。
田名網:やっぱり焦げ臭いような匂いはすごかったね、何か焼け焦げた匂いが。朝起きて外へ出たら、隣の家がないんだもんね、前の日にあったものが。だから子どもながらに、これは大変なことなんだなというのがだんだん分かってきたのね。
池上:次は自分の家かも、とか、次は自分が死んじゃうかもというような恐怖心はありましたか。
田名網:そういう恐怖心はなかったけど、でも大人はそうでしょうね。だって絨毯爆撃が、ここまで来たら次来るという。
池上:分かりますもんね。
田名網:だんだんと迫ってくるわけだもんね。
池上:1945年の8月に敗戦という形で戦争が終わるわけですけど、その時のお気持ちというのは覚えていらっしゃいますか。
田名網:その時はぼく新潟にいて、天皇陛下の有名なラジオの放送があるじゃないですか。僕も分からないながらに、大人がみんな泣いてて、それで聞きましたよね。その時に、それは僕だけじゃなくて、後で磯崎新さんとかずいぶんいろんな人が書いてるんだけどね、青空が、もう抜けるような青空なんですよ。排気ガスももちろん何もないでしょ。自動車も走ってないんだから。煙突の煙も何にもない。だから空が絵に描いたような青い空で。「すごい青空だな」と思って見てましたよね。
池上:皆さん書いていらっしゃいますよね。新潟でも天気が良くて。
田名網:そうなの。こんなすごい青空って見たことないってぐらいの青空だったんですよね。
池上:まだお小さくていらっしゃるので、戦争に負けて悲しいとか悔しいとかいうような気持ちは。
田名網:そういうのは分かんないんですよ。分かんないんだけど、天皇陛下の話があって、それをみんながうなだれて聞いてる。きっと戦争が終わったんだなというのは分かったのと、あと天皇陛下というのはもちろん分かってたから。
僕が小学校へ行ってた頃なんていうのは、新聞で天皇陛下の写真が出るじゃないですか。あれ全部切り抜くのよ、生徒全員が。というのは、後で新聞の上に腰掛けたり、おにぎり包んだりしたらまずいじゃないですか。そのために陛下の写真だけを切り抜いて、箱に入れて、夏休み終わった後持って行くんですよ、学校に。それどうすんのか知らないけど。
池上:どうするんでしょうね(笑)。
田名網:ものすごい量よね、だって毎日のように出るんだから。それを生徒がみんな箱に入れて持って行って先生に渡すと、先生がうやうやしく写真を持って行く。
池上:ほう。天皇陛下でおにぎり包んじゃまずいと。
田名網:そうそう。だから子どもが切り抜く係で、一枚も逃さず切り抜いた。だってお祖母ちゃんのとこに天皇陛下の写真飾ってあった。
池上:田名網さんはご真影を見て何か思ったことは。
田名網:ないけど、僕の家の隣に、後年ドイツで指揮者になった甲斐直彦さんという人がいて。その人の家って西洋館なんですよ、その当時めずらしい。日本家屋ばっかりだった隣に突然すごい西洋館があって、その人のお父さんは外交官で、その息子は音楽家ですよね。お母さんもたぶん音楽家だったと思うんだけど。その頃みんな洋服は着てないんだけど、その家だけがお母さんも洋服を着てるんですよ、その時代に。だからすごい家なのよね。その人はたぶんその頃大学生で、よく遊んでもらってたんですよ。「遊びにいらっしゃい」というので家に行くと、戦時中の大変な時にね、今で言うショートケーキみたいなのをお母さんが出してくれるんですよ。それでフォークで食べるんですよ。僕の家なんてそんなどころじゃない、お芋を食べるっていうような時代でしょ。
池上:普通はもうそういう状況ですよね。
田名網:普通はお芋と大豆とか食べるわけですよね。ところがショートケーキみたいのが出てくんの。ホットケーキか。それが食べたい一心でいつも行くんですよ。壁には額縁に入った泰西名画が掛かっていてね、テーブルがあって、ちゃんと椅子に座ってお茶とか飲むんですよ。すごいなあと思って。僕が遊びに行く息子さんの部屋も洋間で、ベッドなんかがあるわけ。それはすごいカルチャーショックでしたよ。うちに帰るとお祖母さんがご真影を拝んでるんだもん。だからすごいギャップがあんのよ(笑)。
池上:敗戦になって新潟から帰ってこられるわけなんですけども、しばらく千葉におられたというふうに聞いているのですが。
田名網:それはね、父親と母親の離婚問題がゴタゴタして。うちの父親の方のお祖母ちゃんがもともと千葉で。一時家のゴタゴタがひどくなってきちゃって、下の弟はもちろん大変なんだけど、僕の面倒まで見切れないということで、僕はその父親のお祖母ちゃんの家にちょっと預けられたことがあるんですよ。たぶんその時千葉にいたの。
池上:ご両親は離婚されたんですか。
田名網:その直後に離婚した。
池上:戦争が終わった直後に。
田名網:ええ。
池上:その後、お母さまは働ながら田名網さんと弟さんたちを。
田名網:そうそう。うちの母親は働きながら僕たち兄弟三人を育てた。
池上:服地問屋を、ですか。
田名網:いやいや、服地問屋は父親が潰しちゃったから。
池上:ではお母さまは何を。
田名網:実家の方の兄弟が金物問屋をやってたわけ、お鍋とかね。うちの母親の弟が経営してたんで、そこで働いてた。
池上:じゃあやっぱり苦労されて3人を育て上げられたんですね。
田名網:苦労したと思う。
宮田:千葉にはどれぐらいおられたんですか。
田名網:千葉はね、2年ぐらいいたかもわかんない。
宮田:新潟から、東京に戻ると思っていたけども千葉に戻られて、その千葉の印象というか、何か覚えておられることは。
田名網:千葉はね、あんまり印象がないんだけど。とにかくお祖母さんと一緒に住んでて。お祖母さんの実家に世話になってたから、そんな楽しい家じゃなかったですよね。
池上:ちょっと肩身が狭いというか。
田名網:そうそう、肩身が狭くて。
池上:映画にこの頃目覚めたというか、通うようになられたというのは。
田名網:家のすぐ近くに映画館があったんですよ。そこの映画館に裏口があって、そこにシート(幕)みたいのがあって、シートを捲るとただで入れちゃうんだよね。そこからもぐり込んでよく観てたんだよね。
池上:それは見つからないように(笑)。
田名網:見つからないっていうか、その当時子どもはみんな入ってたの。その当時はわりとうるさくなかったんだね。子どもはみんな入ってんのよ。
池上:どういう映画をご覧になったんですか。
田名網:そこで観たのはね、どういう映画って、タイトルだけ言うと、『ジープの四人』(レオポルド・リントベル1952年公開、モノクロ、スイス)とか。アメリカの兵隊の映画でしょ、たぶんその頃だから。
池上:占領期ですものね。
田名網:その『ジープの四人』というのはタイトルも覚えてるんだけど。それ以外のタイトルが出てこないんだけど、その頃よく映画を観てましたよ。
池上:そこでかかっているものを何でも観るというか。
田名網:うん、必ず見に行くから。
池上:そのあとしばらくしてからまた目黒の方に戻られて。
田名網:うん。
池上:その頃は小学校の高学年ぐらいですかね。
田名網:目黒に田道小学校というのがあって、そこに通ってた。
池上:そこに復学じゃないですけれども、ちょっとインターバルがあって戻って。
田名網:そうそう。その時は小学校自体ももうガタガタなんですよ。ほかの小学校も一緒に来て合併の授業をしてた。ほかの小学校が焼けちゃって、そっちの生徒も来たりして。だから勉強といっても勉強できるような環境じゃないのよね。一つの教室に100人ぐらいいて、イスもなくて下に座ったりなんかして、勉強どころじゃないという、そういう感じだったですね。グラウンドなんかもグジャグジャになっちゃってて。
池上:学校以外ではどういうふうに過ごされていたんですか。
田名網:学校以外は、禿げ山に行くか紙芝居を見るか、とにかく娯楽も何にもないのよ。本もなければ何にもないでしょ。いわゆる子どもらしい遊びみたいのは何もなくて。子どもってね、今考えたらものすごくおそろしいの、石合戦っていうのをよくやってね。石の投げ合い。
池上:こわいですね(笑)。
田名網:ものすごくこわいでしょ。でもこんなにコブつくったりすごいことになっても、石合戦っていうのやるんですよ。そのぐらい遊びがなかったんだね。ほかに何もないから、もう石の投げ合いぐらいしかないのよね。
池上:結構こわい遊びですね。中学も地元の中学に上がられたんでしょうか。
田名網:中学はね、品川に森村学園というのがあるんですよ、そこに行きましたね。
池上:それでは電車で通うんですか。
田名網:電車で。
池上:それはなぜ、わざわざ品川まで。
田名網:その時は白金の、母親の実家にしばらく居候してたから、だから僕の学費とかはたぶん母方のお祖父ちゃんが出してたと思う。父親がもう事業に失敗しちゃったから。
池上:それは私立の中学校?
田名網:私立。
池上:田名網さんは、お勉強は得意でしたか。
田名網:いや、得意じゃなかった。なんかねえ、記憶するというのがダメだったね。
池上:得意な科目というのは。
田名網:いや、でもね、その頃は勉強といってもそれどころじゃなかったんですよ。まともに学校に行って勉強して何かするというような状況じゃない。教科書なんかもほんとに粗末なものだったし、学校自体そういうカリキュラムができてなかったんだと思うんですね。
池上:じゃあ特に勉強が嫌いでも困らなかった。
田名網:みんなそういう生徒ばっかりだから。
宮田:授業で美術の授業とかもあったんですか。
田名網:美術もあったと思うけど、美術の先生もほかの科目を兼ねてやってたんじゃないかな。専門の美術の先生とかはいなくて、とりたてて美術をやったという記憶がないんですよね。
宮田:その頃、絵を描いたりとかいうのは?
田名網:絵はもう好きだったの、小っちゃい時から。だから絵ばっかり描いてて。まあ漫画ですよね。母親がそれをものすごく嫌ったから、漫画ばかり描いてるというのをね。「この子は漫画ばかり描いてて」というのをもう耳にたこができるぐらい聞いたから、漫画というと母親の顔がバッと浮かぶんですよ。
池上:今でも?(笑)
田名網:今でも。みんな変だって言うんだけど、今は絵を描くのが仕事だから、べつに絵を描いてても恥ずかしくもなんともないじゃないですか。でも今でもなんかね、ハッと気配みたいなのを感じて、隠しはしないけどなんかあわてるよ、一瞬(笑)。「あ、まずい」って、バッとこうね。なんかそういうね、トラウマがすごかったんだと思う。
池上:子どもの頃の根強いものが。そこがひとつの原動力みたいになってる部分はありますか。
田名網:いやあ、それは分かんない。でもその時、僕の時代に、子どもが絵を描くということに賛成する親なんかいなかったと思うのよ。どこの家庭でも「そんなことしちゃいけない」という。
池上:「絵描きになりたい」と言われればそうでしょうけども、子どもがお絵描きする分には……
田名網:いや、だから漫画ばっかり描いてるから、ほかのことしないで(笑)。それが、「あんたは、こんなことしてたらろくな人間にならない。お父さんみたいになっちゃうよ」って、こうなるわけですよ。
池上:ある意味呪いのような(笑)。
田名網:そうそう。
宮田:一番初めに描いた漫画ってどんな漫画だったんですか。
田名網:一番最初の漫画体験というのは、手塚治虫とかのもっと前、田河水泡の『のらくろ』とか、『タンクタンクロー』(阪本牙城)とかね、『冒険ダン吉』(島田啓三)とか、だいたいそのあたりですよね。それを模写するわけ、そのまんま忠実に。
池上:紙を当てて、とかではなくて?
田名網:うん。模写がものすごく好きで。10ページぐらいそのまま描いてたこともある。
宮田:それは何歳ぐらいの時ですか。
田名網:それは小学校の高学年ぐらいじゃないですかね。もう戦争終わってから。
宮田:漫画は、買いに行くんですか、それともお友だちに借りたりするんですか。
田名網:どうだろう。でも買わなきゃないから、たぶん買ったんだと思うけどね。
池上:そういうお小遣いとかは?
田名網:お小遣いの記憶はないけど、買ったんだろうなあ。買わなきゃないもんね、家に。
池上:お母さまは漫画がお嫌いということだったから、買うお金はくれたのかなとちょっと疑問に思ったんですけど(笑)。
田名網:その頃、子どもってお小遣いなんかなかったのよ、今の子と違って。今は小学生はいくらとかあるじゃない。でもその頃子どもお小遣いないもん。だから友だちに借りてきたり、そういうことをしたかも分からないけどね。だんだん大きくなって、僕は手塚治虫が一番好きになって、手塚治虫の漫画ばかり描いてたんですよ。手塚治虫に毎日ファンレター書いてたから(笑)。
池上:実際に切手を貼って投函されてたんですか。
田名網:うん。昔はね、少年雑誌の端に漫画家の住所が出てんのよ。
池上:へえ。
田名網:「手塚先生に励ましのお便りを出そう」というんで、端っこのとこに住所が書いてあるの。
池上:じゃあ宝塚の住所だったんですかね。
田名網:宝塚かは忘れちゃったけど、住所があって、そこに手紙を毎日書く。まあファンレターですよね。今度のあれはどこが面白かったとか、もう細かく書くわけ。返事はもちろん来ないんだけど、それを毎週書くの。
池上:どの作品が一番お好きでしたか。
田名網:手塚作品は全部好きだけど、『ジャングル大帝』(注:『漫画少年』1950年11月号-1954年4月号に連載)とかね、好きだったですよ。
宮田:お手紙はハガキに書くんですか。
田名網:ハガキ。おふくろがハガキをいっぱい買ってるのを盗んできて、それに書くんだけど。後になって、手塚さんとアニメーションの会合とかで、月に1回ぐらい会うようになったんですよ。それでね、ある時隣に座った時にハガキの事を思い出して、「昔、先生のところにハガキを毎日出してたんですよ」という話をしたんですよ。手塚治虫の漫画に出てくる「(アセチレン・)ランプ」というキャラクターがいるんですよ(注:『ロストワールド』(1948年12月刊行)などに登場)。ランプがパッとつくの、ロウソクみたいな。そのキャラクターが僕一番好きで、その絵を描いて送ってたわけ。「100通ぐらい送ったと思いますよ」と言ったらね、「ああそう、申し訳なかったですね」って、それで4、5日経ったら手塚さんから手紙が来たんですよ。ハガキにね、「遅くなりました」って書いてあって、ちゃんとランプの絵を描いて送ってくれたの。
池上:へえー、素晴らしい。それは今も大事に。
田名網:それがね、その話をしたら「ぜひそれを載せたい」という雑誌があって、探したんだけどないんですよ、それが(笑)。
池上:もったいない。ぜひ見つけ出していただいて。
田名網:ほんとそうなんですよ。
池上:『漫画少年』という雑誌に投稿するようになったということなんですけど、それはどういう感じのものを投稿されてたんですか。
田名網:それは4コマ漫画とか1コマ漫画とかで、その当時『漫画少年』とあと2つぐらいしかなかったんですよ、少年雑誌が。特に『漫画少年』というのは漫画に力を入れていて、手塚さんの漫画とか、あといわゆる絵物語で山川惣治とか小松崎茂とか当時の人気作家がいて、その人たちが描く連載が何本かあって、一番人気だったんですよ。10年ぐらい前に、昔の『漫画少年』ってどういう本だったのかと思って古本を探して買ったんだけど、もうペラペラの本だった。僕の印象としてはすごく豪華なカラーの本だったんだけどね。探してみたらほんとお粗末な本だったんだけど、その頃、僕の目にはすごいものとして映ってたのね。
池上:そこに投稿して掲載されることも。
田名網:投稿して掲載されるとこんなバッジみたいのをくれるんですよ。その頃の『漫画少年』というのは、投稿欄にものすごくページを割いていて、特選が5人ぐらいいて、入選が10人ぐらい、あと何百人って名前が小さく出るのよね。最初は小さい名前だったんだけど、だんだん特選とかに入ってるんですよ。赤塚不二夫とか、横尾忠則とかも出てましたよ。
池上:出てるんですか。それは見たいですね(笑)。
田名網:篠山紀信も出てた。
池上、宮田:へえー。
宮田:それは見たいですね。
田名網:それはすごいよ。面白いなと思ってね。
池上:各界で活躍するようになる人たちが。
田名網:赤塚不二夫なんて必ず出てんの。
池上:漫画家の原一司さん(1915-1957)のところに出入りをされていたというのも同じ時期ですか。
田名網:同じ時期。それはね、うちの父親が法政大学を出てるんですよ。原一司さんはたまたま同級生だったの。原一司さんというのはその当時大変な人気漫画家だったんですよ、『カンラ・カラ兵衛』(1948年~)と『ヨウちゃん』(1948年~)を描いててね、その当時の出版社のドル箱になるぐらいの人だったわけね。その原一司さんのところに、僕が漫画が好きなんで、うちの父親が連れて行ったんですよ。そうしたら原先生というのはすごく優しい人で、「じゃあ描いたら持ってらっしゃい」というんで、二月とか三月に1度ぐらい描くと持って行って見てもらってたんですよ。1年ぐらい続いたのかな。そしたらある日、「もう見てあげられないから」というハガキが届いたんですよ。しばらくして結核で亡くなっちゃったんです。その頃結核がすごく重くて、病気が移るといけないのでもう来ちゃいけないということだったわけね。最後に僕が父親と一緒にお見舞いに行った時に、原先生はすごく痩せて寝てたんですよ。結核だから喀血するじゃない。このくらいの(両手に収まる程度の大きさの)痰壺みたいなのが枕元に置いてあって、フタが開いてたんですよ、少しね。その中に血を吐いたガーゼが山盛りになってんの。それを見た時に、「ああ、もうだめなんだな」と僕は思ったのね。先生は、元気ももちろんないし、これでもうお別れだなと思った。僕はその先生に自分が漫画家になろうという夢を託してたわけですよ。ところがその先生が亡くなっちゃったんで、漫画家になれなくなっちゃったと自分で思って、美術学校に行くことにしたんです。もうそれしかないから。
池上:当時、漫画科なんて美大にないですしね。
田名網:そう。それに似たようなものは美術学校だなと思ったわけ。
池上:イラストレーターの沢田重隆さん(1918-2004)のところに通われていたというのは、それは美大受験のためなんでしょうか。
田名網:それはね、美校(武蔵野美術学校、現・武蔵野美術大学)に入るか入らないかぐらいですね。沢田重隆さんというのは、その当時、イラストレーターとしては大人気の人だったんですよ。少年雑誌の挿絵は描くし、広告の絵ももちろん描くし、少年雑誌の表紙も描いていた。なぜ行ったかというとね、僕の母親の妹の子どもというのがわりとかわいい顔をしてて、「キミ、ちょっとモデルになってくれないか」って声をかけられたらしいのね。写真に撮って、先生がそれを油絵で描くというのが少年誌の表紙だった。叔母さんが、「じゃあ一回敬ちゃん、沢田先生のとこに絵を見てもらいに行ったら?」というんで、僕を連れていってくれて、それが先生と知り合うきっかけだった。
宮田:その頃は高校生ぐらいだったんですか。大学に入る前。
田名網:そうそう。大学に入る前だと思う。
宮田:高校生活というのはどんな感じだったんですか。
田名網:高校生活はね、僕はほとんど記憶がないんだけどね。高校生活で一番記憶に残ってるのはね……。 僕、三田高校に行ってたんですよ。近所に画材屋さんがあって、僕は絵が好きだから、その画材屋さんにしょっちゅう行ってたのね。でも絵の具とか買えないじゃない、お金もないからね。そしたらその画材屋のおばさんが、「アルバイト」と言ったかどうか分からないけど、ちょっと頼みたいことがあるって言うの。「何ですか?」って言ったら、当時の人気画家の林武とか梅原龍三郎とかゴッホとかを模写して、真似して描いてこいって言うのよ。「そしたら絵の具とかいくらでもあげるから」って。それで絵の具をいっぱいくれるんですよ、キャンバスも。一番最初に描いたのはゴッホだと思うんだけど、結構うまくいったんですよ。で、持って行ったら、「これはいい」って、「もっとどんどん描いて」って。それを偽物として売ってるわけよね、豪華な額縁に入れて(笑)。
宮田:そういうことか(笑)。
池上:だろうと思った。
田名網:「どんどん描きなさい」って言うの。それでどんどんやってたわけ。その画材屋って高校のすぐそばにあるから、僕はしょっちゅう画材屋へ行って、「これオレが描いたんだ」って友だちに自慢するじゃない。そのうちにそれが話題になっちゃってね、学校で職員室に呼ばれて大変なことになっちゃったの。要するに贋作を描いてるってね。
池上:実際に売ってたんですか。
田名網:売ってたの。だけど贋作じゃないのよ。見るからに下手な偽物なんだけど。でも学校側にしたら、そういうのを高校生が描いて、それを画材屋が売ってるっていうのは「とんでもない」っていうわけですよ。
池上:田名網さん、ギャラはもらってたんですか。
田名網:もらってたんだよ。いくらもらってたか忘れちゃったんだけど。
池上:じゃあ現物支給みたいな感じで。
田名網:現物支給で。絵を持って行くとちょっとくれんのよ、お金はね。あとは「絵の具とか好きなの持って行っていいよ」って言うから、「じゃあおばさん、これだけもらっていい?」言うと、「いいよ」って。
池上:でもいい取引ですよね(笑)。
田名網:そう。「じゃああんたね、次はルノワール描いてらっしゃい」って言うのね。で、ルノワールの絵葉書を渡されて。それを1週間ぐらいで描いてまた持って行くわけ。そうするとまた交換に絵の具とかくれるわけ。
池上:で、うまくいってたんだけれども。
田名網:お小遣いもあるし、絵の具もあるし、これはいいなあと思ってたら突然だめになっちゃった。
池上:「やめなさい」と。
田名網:うん。
池上:絵を描くのは家で描くんですよね。
田名網:そう。
池上:それを、さっきのお母さまの話ですけど。
田名網:もう隠れて。うちのおふくろはお店で働いてるじゃないですか。その時にバーッと描いて隠しておくわけ。
宮田:その時に描いていた絵というのは油絵なんですか。
田名網:油絵。
宮田:油絵の技術というか使い方というのは。
田名網:その頃はまだ美校行ってないから、油絵の技法も何も分からない。ただ見よう見まねで描いてるわけ。だけど画材屋にしょっちゅう行ってたから、そこのおばさんが教えてくれるわけ。これをちょっと入れるとツヤが出るよとか、この絵の具は高いからなるべく安い絵の具にしなさいとか、細々と教えてくれるわけ。ああ、この種類の絵の具は安くて、これは高いんだなとか、そのおばさんにみんな教わって。
池上:そこでもう美術教育を。
田名網:キャンバスはいきなり描かないで、下塗りしてからの方が描きやすいからって、下塗りも教えてくれんの。で、下塗りをして、その上に描いていく。
池上:田名網さんが絵がうまいということを見抜いたその人もすごいですね。
田名網:そうなの。「あんた今度、絵を持ってらっしゃい」って。もちろんその時結構うまかったんですよ、絵はね。だから「あっ」と思ったんじゃない? おばさん、「これはいける」と。
池上:なかなかすごいおばさんだ(笑)。
宮田:高校生の時に画家の名前、ルノワールとかゴッホとかそういうのはお店で知ったんですか。
田名網:いや、そうじゃなくてね。その頃図画室というのがあったんですよ、高校に。音楽室と図画室があって。僕の高校の2年ぐらい先輩に、後年画家になった、小栗さんという人がいたんです。ちょっと名前がよく分かんないんだけど、団体展なんかに出してた人だと思う。その人がね、ユトリロとか佐伯祐三とかが好きでね、パリの街並みを真似したような絵を描いていた。それがいっぱい図画室にあって、「あ、これ面白いな」と思ったんです。その先輩はすごくうまいのね。当時の人気のある、ゴッホとかルノワールとかモジリアーニとかそのあたりの人を画集で教えてくれたんですね。それで「こういう絵があるのか」というのを学んだんですね。というのは、僕はそれまでは美術に関心が全然なかったんだ。要するにサブカルチャーというか、漫画とかポスターとかにしか興味がなかったんです。主に漫画に興味を持ってたんだけど。いわゆる純粋なファインアートのようなものに興味がなかったんです。
ところが、その画材屋さんのおばさんのせいだと思うんだけど、いろいろ模写なんかしているうちに、「なるほど、この絵描きはこういうふうに描くんだ」というのがだんだん分かってきたんですよ。それでちょうどルノワールを描いてる時に、そのおばさんが、「あんた、聞いときなさい」って言うの。「こういうのは印象派っていうの」、「印象派ってどういうように描くの?」っていったら、「こういうのが印象派」。世の中、自然の中にはいろんな色があって、肌といってもただの肌色じゃなくて、この中には赤も黄色も青も全部あるんだよというのをね、そのおばさん美術学校に行ってたのか分かんないけど、教えてくれんのよ。「ルノワールの絵はただ一色で塗っちゃダメ。いろんな色をこういうふうに重ねて塗りなさい」って言うのよ。「あっ、なるほどなー」って目から鱗ですよね。
池上:そこで美術教育を受けたんですね。
田名網:うん。それで結局50枚ぐらい描いたから。
池上:それは知らなかったです。当時、映画もたくさん観ておられたと聞いていますが。
田名網:中学生ぐらいですね、映画を観たのは。それは目黒に僕が住んでいた時で。目黒の権之助坂の途中に目黒パレス(座)という映画館があって、そこはいわゆるB級映画専門なんですよ。A級の映画というのは一切上映しない。館主の好みで全部B級なんですよ。映画というのは1時間半ぐらいじゃないですか。B級というのは30分か40分なんですよ。短いの。だから悪者が出てきて、良い役が出てきて、それに滅ぼされるという、ストーリーが全部単純なのよね。そういう映画ばっかりやってて。西部劇なんかでもいっぱいあったんだけど、ジョン・ウェインは出てこない。B級の映画スターというのは、映画の歴史の中に残ってない人たちばっかりなんだけど、人気はすごくあったわけ。そういうB級スターというのがいっぱい出てて。アメリカのB級スターというのは、梅沢富美男みたいにどさ回りしてるんですよ。早撃ちの拳銃ショーとかを見せながら。
池上:実際にそういうこともやってる人たちなんですね。
田名網:そうそう。目黒パレスの館主というのはたぶんものすごくマニアックな人だったと思うんですね。その当時、B級映画の大スターでケニー・ダンカンという早撃ちの西部劇スターがいて。その人が来るっていうのよ、本物が、ある日。入口に書いてあんの。ケニー・ダンカンって。
池上:「来たる」と。
田名網:うん。それでね、ものすごい興奮して寝れないんです、夜。お金も高かったんだけど、見に行ったの。そしたらそのケニー・ダンカン主演の映画を上映した後に本物が出てくるんですよ、舞台に。金髪の、一緒に来た女優さんみたいな人の頭にリンゴを乗っけて、それを拳銃でバーンと撃つわけですよ。で、リンゴがパーンとね。後で聞いたらウソらしいの。リンゴに爆薬の小っちゃいのを入れといて、スイッチみたいなのでパーンとなるのね。本当には、撃ってないのよね。だから早撃ちはウソなんだけど。リンゴをパーンと割る。もう一つやったのは、板の前に金髪のきれいな人が立ってる。それをバンバンバンバンと撃つと体にそって穴が開いていく。あれも何か仕掛けがあって、アメリカのショーで使ってるやつを持ってきた。それにビックリしてね。
池上:そうとは知らずにみんな興奮して見てるわけですね。
田名網:ショーといっても15分ぐらいで終わっちゃうんだけど(笑)。そのあと日劇でも。ほんとは日劇が本番なんですよ。だけど目黒パレスにもちょっと寄ったという感じで、早撃ちのショーをやったわけ。その頃の西部劇のB級スターというのは、全米を回っている旅役者なんだよね。それをハリウッドのB級のプロデューサーがピックアップして、映画にちょっと出させて実演をやってショーにするという、そういう興行主がいたんだね。それからもう一人はもうちょっと有名なんだけど、ロイ・ロジャースというスターで、その人は、後で調べたらアメリカのハリウッドのドル箱スターのトップになったぐらいの興行収入をあげるスターなんだけど、僕はいろんな映画の歴史の本を探したんだけど、ほとんど出てないのよ。B級スターとして一瞬光ったんだけど消えちゃったわけよね。でもロイ・ロジャースというのも、すごい金ピカの服を着て、(アンディ・)ウォーホル(Andy Warhol)のポップアートみたいな人なのよ、要するに。あの頃はそういう西部劇スターがいっぱいいた。みんなでどさ回りをしながら全米を回って、日本にもそのB級映画がどんどん入ってきた。
宮田:その映画館ではアメリカの映画がほとんどだったんですか。
田名網:アメリカの映画もやったし、フランスの映画もあった。僕がそこで見て一番うれしかったのは、ウォルト・ディズニーのモノクロの『蒸気船ウィリー』(1928年アメリカ公開)という、ディズニーが一番最初に作ったアニメーションがあるんですよ、そういうのを本編の間につなぎでちょっと映すのよ。それがもう僕は最大の楽しみだったわけね。
池上:そういう映画の体験があって、高校で美術というものにちょっと触れて。それで、美術大学への進学は、結局お母さまをどういうふうに説得されたんですか。
田名網:それは、うちのおじさんとかも来て、「お前は母親を泣かして、それでいいと思ってんのか」ってもう寄ってたかって(笑)。
池上:ご長男ですしね。
田名網:お説教されて、それで何とかしなきゃいけないっていうんでいろいろ探してみたら、デザイン科があるのが分かったんですよ。デザイン科なら、学校のパンフレットを見たら就職もあるとか書いてあるから、ここに行こうと思って、それを一応見せたわけですね。僕は最初、洋画に行こうと思ってたんだけど、デザイン科ならいいということで、「じゃあしょうがない」となったわけ。
池上:絵描きになりたいというのがすごく強かったわけではないんですか。それともほんとは絵描きの方に行きたかったんだけど、という。
田名網:画材屋さんで模写をしてて売り絵を描いていた時に、絵は面白いなと思った。だけど僕がほんとに好きなのはサブカルチャーで、漫画とか絵物語とかが好きだったわけですよ。だけど原一司さんが亡くなって、もう心の支えがないじゃないですか。ほかの方法で世に出るよりないなと考えたと思う。
池上:じゃあデザイン科は悪い選択じゃなかったわけですね。
田名網:デザイン科は、入ってみたらべつに悪くはなかったですね。
宮田:漫画家とイラストレーターというのは、はっきり分かれてたんですか。
田名網:「イラストレーター」という言葉自体が、僕が高校の頃にはなかったんですよ。僕が美術学校に入ってしばらくしてから「イラストレーション」というものがあるというのが分かったぐらいだから。それまではみんな挿し絵だったんです。
池上:それが絵だったり、漫画っぽいものだったりいろいろあって。
田名網:そうそう、「イラストレーション」というものが認知されたのは、僕が美校に行ってる頃なんですよ。
宮田:沢田先生からはどういう指導を受けたんですか。
田名網:指導を受けたというよりも、僕は先生のとこでスクラップを整理したり雑用をしてたから、先生が描いてるのを目の当たりにしてるじゃないですか。僕らがとても真似できないぐらいうまい人なんです。「イラストレーターというのもいいな」と思って。それで成城にすごい豪邸を建てちゃうし、プール付きの。
池上:儲かるんだと(笑)。
田名網:イラストレーターは儲かるんだなと思って、それでこれ以外ないなと思ったんです、先生を見てね。
池上:すごいですね、個人の家でそんな。
田名網:それがたぶん五十前だと思うよ。
池上・宮田:へえー。
宮田:沢田先生の紹介で阿佐ヶ谷の美術研究所に通われたという。
田名網:そうそう。今でも阿佐ヶ谷美術研究所ってあるけど、阿佐ヶ谷の美術研究所をつくった三輪孝さんという先生がやっぱり挿し絵とか描いてたんで、沢田先生と友だちだったんですね。そこを僕が紹介してもらって。武蔵美に入る前にデッサンを勉強しなきゃならないんですよ、入試があるから。
池上:最初は東京藝大も受けられたんですか。
田名網:東京藝大を受けて落っこちたんですよ。
池上:藝大にその頃デザイン科って。
田名網:あった。その頃は図案科って言ったんじゃないかな。
池上:そうですね。
田名網:だから武蔵美もデザイン科かな。図案科かな。
池上:デザインという言葉自体が定着するのが1950年代以降ですものね。では1年目に藝大を、2年目に武蔵美を。
田名網:いや、同じ年に両方受けて。家の事情もあったし。だから藝大に行って落っこちて、すぐ武蔵美に行ってという感じですね。
池上:武蔵美ではどういう授業をとって?
田名網:武蔵美はデザイン科なんだけど、まだデザイン教育のシステムやカリキュラムが何も完成してない時代なんですよ。ただデザイナーの先生が来て、デザインの真似事のようなことを教えるというだけで、まだデザイン教育そのものが、教科書も何にもなかったんですよね。それで武蔵美に入った時に先生の作品とか見せてくれるじゃない。それがなんか笑っちゃうぐらい下手なのね。「もうこんな人にオレ教わるのイヤだな」と思って(笑)。それであんまり勉強しなかったんですよ。課題とかあるじゃない? もういいかげんなものを描いて出しといて。先生の作品を見たとたんにもうやる気なくなっちゃったもんね。
池上:特にこういういい先生がいたとかは。
田名網:だけど1年に一遍か二遍ね、その当時日本のグラフィックデザイン界のトップだった亀倉雄策とか、原弘という非常に有名なグラフィック・デザイナーが来るんですよ。その時はもう張り切って課題とか描いて出すんですね。当時原さんはすごい偉い先生で、10分で帰っちゃうのよ。30作品ぐらい並べてあるじゃないですか。悪いのは何も言わない。これはなかなか面白い、これは何とかと言うでしょ。もう出て行っちゃうの、忙しいから。それで終わりなんですよ。終わりなんだけど、僕が出してると必ず褒めるのよ、「これはいいね」とかね。まあ一言ですけどね。
池上:その10分の中で必ず目に留まるという。
田名網:「これはなかなか面白い。君、このままどんどんやりなさい」とかね、そういうことを一言だけ言ってくれるんですよ。それは唯一の励みなの。それだけで持ちこたえてきたという。
池上:ほかの先生はまあいいや、という感じだったんですか(笑)。
田名網:原弘先生が来る時だけものすごく張り切ってたんです。先生が「君はお酒飲むのか」と言うから、「はい」って言ったらね、その当時、今もあるけどゴールデン街ってあるじゃない、新宿に。そこによく行くから、「金曜日の9時頃にいらっしゃい」って言うのよ。僕は友だちと一緒に「これは行かなくちゃいけない」っていうんで、そのゴールデン街に「あんよ」という店があってね、そこへ行ったら先生いないんですよ。お金ないじゃないですか。「原先生いますか」って言ったら、そこのマダムがね、「弘ちゃんはね、あてになんないよ」とか言ってね、「あなたね、いいから弘ちゃんのお酒飲みなさい」って言うのよ。それで原弘先生のボトルがあってね、「いいのかな、先生来なかったらまずいですよ」って言ったらね、「いいわよ。弘ちゃんにつけといてあげるから、あなたどんどん飲みなさい。おつまみ何か食べる?」とかいって、チーズとか頼んじゃって、それをママがどんどん出してくれるわけ。「もう大丈夫かな」って言ってたら先生が入ってきたの。その時もうボトル半分ぐらい飲んじゃってた(笑)。
池上:怒られなかったんですか(笑)。
田名網:怒られなかった。「あれ、相当飲んだな、君たち」とかってね。先生にそれから結構気に入られて、また呼んでくれるんですよ、その飲み屋さんに。それでよくごちそうになった。
池上:原先生は武蔵美の先生ではなかったんですか。
田名網:武蔵美の教授なの。武蔵美の中で一番偉い先生なんだけど。
池上:ああ、だからたまにしか来ないんですね。
田名網:めった来ない先生だった。
宮田:大学は吉祥寺にあったんですよね。
田名網:吉祥寺にあった。
宮田:お家から通われてたんですね。
田名網:そうそう。井の頭線で通ってたの。でも最初の受験の時に行った武蔵美は「これが美校か」と思うぐらいのみすぼらしい学校だったわけ。ガラスは全部割れてるんだよね。廊下はこんな(両手を広げたくらいの)穴開いてんの。地面が見えちゃうの。もうすごいボロボロでまるで馬小屋みたいなの。こんなとこで大丈夫なのかなっていう学校なのね。でも入っちゃったんだからしょうがないと思って行ってたんだけど。
ある日ね、洋画の教室に行ったの。そうしたら床に穴が開いてるから、足がズボッと入っちゃったりするの、もうボロボロだから。そこに板を打ち付けてあるんだけど、その周りがまたボコッとなっちゃって。「気をつけてください」と書いてあるんだけどね。で、行ったら、ものすごくいい匂いがするわけ、なんか香ばしいような。そしたら焼き肉やってんのよ。その頃焼き肉なんてとんでもないわけでしょ。みんなお金もないし、学生は。そしたらものすごく煙が出て。僕は肉が大嫌いなんだけど、匂いはいいじゃないですか。パッと見たら、だるまストーブがあるんですよ。そのだるまストーブの上で肉を焼いてんのね。で、みんなで食べてるわけ。なかに僕の友だちいるじゃない。「田名網、入れ入れ。ちょうどいい時に来たよ」って。僕は焼き肉食べないんだけど5、6人で食べてるわけ。「なんで君たちこんなカネあんの?」って言ったらね、「ちょっと見ろよ」ってガラス窓をパッと開けたらね、犬の死骸、野犬。
池上・宮田:ひぇーっ!
田名網:その頃、武蔵美の周辺って野犬がいっぱいいたんですよ。野犬を殺してその肉を食ってるわけ。
池上:こわすぎる。
田名網:ものすごくこわいのよ。それで僕は吐き気がしてすぐ逃げたけど。その話を、だいぶ前なんだけどラジオに出た時に、「学生時代の思い出を話してください」って言われて話しちゃったわけ。そしたら放送局に武蔵美の事務局から電話がかかってきて。「君ね、何ということをしてくれたんだ」って言うから、「えっ、何ですか」って言ったら、「そんなね、武蔵美で野犬食べたなんて言ったら学校がつぶれるよ」って。「そうか、まずいこと言ったな」と思って。
池上:いやあ、たくましいですね。洋画の方の友だちって、同窓生に荒川(修作)さんや赤瀬川(原平)さんがいらしたということなんですけども。
田名網:その場には荒川と赤瀬川はいなかったけどね。
池上:赤瀬川さんや荒川さんなんかとお付き合いはありましたか。
田名網:ギュウチャン(篠原有司男、1932-)なんかとよく、内科画廊とかに行ってたから、赤瀬川とかはよく会ったし、荒川はギュウチャンなんかとネオダダイズム・オルガナイザーズというグループつくったじゃないですか。その時代はよく遊びましたよ。
宮田:美校に行っている頃は、美校以外の何か好きなものだったり、暮らしというか、興味があったり、どこかへいつも通っていたとかいうことはあるんですか。
田名網:美校に行ってた時は、特別なにかしたという記憶がないです。
宮田:古本屋めぐりをずいぶんされていたという。
田名網:昔から好きだったから。古本屋さんは趣味というよりも勉強で。神田の神保町は今でもよく行くけど、もう中毒みたいなもんよね。
宮田:画廊めぐりなども大学に入ってから始められたんですか。
田名網:そうですね。銀座にその頃貸し画廊がいっぱいあって、ギュウチャンと一緒に毎日のように出歩いてた。銀座にイエナという洋書屋が1軒だけあって(イエナ洋書店、銀座5丁目)、そこなんかもよく行って。ポップアートもイエナで初めて知ったんだもん。
池上:それは本が入ってきてたんですか、それとも雑誌ですか。
田名網:雑誌。アメリカの雑誌で。それもすごく面白くて。イエナにギュウチャンと行ったんですよ。前に『銀座百点』(銀座百店会、2010年10月号No.671)に原稿を書いたけど。植草甚一さんっているじゃないですか(注:映画・ジャズ評論家)。あの人はイエナにしょっちゅういるのよ。その頃、植草甚一さんって僕全然知らなかったんだけど、その植草さんが、本をものすごくいっぱい持って下りてきた時、階段から下に落っこちちゃったんだよ、本を抱えたまんま。それで僕とギュウチャンが、本とかを拾ってあげたの。そしたら「君たちは美校へ行ってるのか」って言うから、「はい」って言ったら、「今すごい最先端の面白いのがあるから、俺が教えてあげる」って。僕たちはポップ・アートなんて聞いたことないわけですよ。図版が出てる雑誌を見ながら「これが今一番面白いんだ」って教えてくれたの。その絵は誰のだか分かんないけど、とにかくそれを見た時は目から鱗だった。すごいなという印象で。これが「ポップ・アート」だというのを植草さんがその時教えてくれたんですよ。
池上:『Art International』という雑誌があって、その雑誌を見て篠原さんはポップ・アートを知って衝撃を受けたとおっしゃってたんですけど、一緒におられた時に二人で見られたんですかね。
田名網:そうかもしれません。小さな図版に衝撃を受けましたね。
池上:ああそうですか。ギュウチャン、つまり篠原有司男さんとは正確にはいつ頃どういうふうに知り合われたんですか。
田名網:彼の弟が武蔵美の同級生で。あ、違う、阿佐ヶ谷の研究所にいたんだ。阿佐ヶ谷の研究所に弟がやっぱり受験で来てて、僕がデッサンを描いてたらよく横に座ってたんですよ。画板ってあるじゃないですか、絵を挟む。それにグジャグジャの油絵が描いてあるわけ。「君、それ面白いじゃない」って言ったら、「いや、これ俺の絵じゃなくて兄貴の絵なんだよ」って言うのね。「お兄さん何やってるの?」って言ったら、藝大生だって。「うちの兄貴すごい面白いから連れてくるよ」って。
池上:弟に言われるという(笑)。
田名網:言った翌日、一緒に阿佐ヶ谷まで来たわけ。
池上:速い(笑)。
田名網:その日からなんかもう気が合っちゃって、その翌日から毎日のようにいろんなとこへ行ったりして。
池上:弟さんよりもギュウチャンの方が。
田名網:弟とは全然つきあいないの。僕が武蔵美で課題とかやってるじゃない、そしたらギュウチャンも一緒に武蔵美に来て隣に座って課題やってたもん。その頃は武蔵美もいいかげんな学校だったから、誰が座ってても何にも言わないんだよね。今だったら大変じゃないですか。それで一緒にポスターカラー塗ったりしてたもん。
池上:ギュウチャン、藝大に行ってなかったですからね。
田名網:その頃はクラスの連中も、ギュウチャン面白いから、「ギュウチャン、ギュウチャン」ってみんな仲良くなって。
池上:年はでも、3~4歳違うんじゃないですか。
田名網:4歳ぐらい違いますね。
池上:でも全然そんなことは関係なく。
田名網:そう。弟と僕がたぶん一緒だから。
池上:篠原さんと画廊を回ったりなんかして、ギュウチャンが『前衛の道』(美術出版社、1968年)に書いておられるんですけれども、1957年にミシェル・タピエ(Michel Tapié)が来た時に一緒に作品を見せたって。
田名網:ミシェル・タピエは今井俊満という画家が連れてきたんですよ。ギュウチャンのおばさんが今井さんを知ってて、「あんた、絵を見てもらえば」という話があって、それで麻布かなんかに、その時タピエと今井と、それからサム・フランシス(Sam Francis)が一緒に来てて、絵を描いてたんですよ、大きい絵を。それでギュウチャンと僕が、小型トラックで絵を持って行って、並べて、タピエと今井とサム・フランシスに絵を見てもらったんですよ。そしたらね、ギュウチャンのはそれほど言われなかったんだけど、僕のはめちゃくちゃ褒められて。「世界・現代芸術展」という展覧会があったんです、その年(ブリジストン美術館、1957年10月11日~11月10日)。
池上:ありましたね。
田名網:その準備のためにたぶん来てた時じゃないかと思うんですね。
池上:それはどういう作品、絵を?
田名網:僕のはね、真っ黒い画面で、コールタールを全面に塗って凹凸を作ったような変な絵なんですよ。
池上:どれぐらいの大きさですか。
田名網:150号ぐらい。
池上:大作ですね。
田名網:うん。
宮田:タイトルはあったんですか、作品名。
田名網:タイトルはもう忘れちゃったけどね、とにかくいっぱい描いてたんだよ。
池上:当時はわりとそういう作風で描いていらした。
田名網:そう。デザインの勉強そっちのけでやってたんですよ。学校が面白くないから。
池上:じゃあデザイン科にいながらも洋画の人たちがやってるようなことを。
田名網:その頃のつきあいというのは、ギュウチャンとか三木富雄とか赤瀬川原平とかそういう連中だから、デザインの話とかはないわけです。
池上:なさそうですね、彼らは。
田名網:そういう連中っていわゆる反芸術的な生き方をしてるから、いわゆる昨今の現代の美術ともちょっと違う、言ってみればアウトローじゃないですか。そういう連中とばっかりつきあってたから、ちょっと思考回路が変になっていたんだね。それで三木富雄(1937-1978)が、彼は僕と同い年なんだけど、その頃ギュウチャンのおばさんと結婚してたんですよ。ギュウチャンのおばさんだから、三木とは親子以上の年の差よね。杉並に住んでてたわけ。そこにしょっちゅうギュウチャンと遊びに行ってるわけですよ。おばさんは銀座でバーをしてて、マダムなんですよ。だからすごく羽振りがいいわけ。なぜ行くかというとね、そのおばさんがお客さんからお寿司買ってもらったりするじゃないですか。折り詰めの高級なお寿司とか、いっぱい持って帰ってくるのよ。おばさんが帰ってくるとみんな大喜びよね。それからお寿司とかいろんなもの食べるんですよ、お酒とか飲んで。そこへ泊まって、朝になるとギュウチャンが、イッコちゃんって言うんだけど、「イッコちゃん、パンか何か買ってきてみんなで食べようよ」と言うのよ。するとそのおばさんが、その当時いくらか分かんないけど、お金をくれるわけですよ。そのお金を持って逃げちゃう。毎回。
池上:ひどい!(笑)
田名網:毎回逃げる。でね、また次に行くでしょ。そうすると、「イッコちゃん、何か買ってくるからさ、お金ちょうだいよ」ってもらうでしょ。で、「タナさん、逃げちゃお」って。
池上:おばさんも分かってるけど、やさしいからあげてたっていう。
田名網:分かっててくれたんだと思う。
池上:ギュウチャンらしすぎますね。
宮田:画廊めぐりなどで必ず行く場所だったりルートみたいなのは。
田名網:必ず行くのは村松画廊、その当時一番面白い展覧会をするので有名なところで。村松画廊(京橋、1942-1962、1965-2009)とサトウ画廊(銀座、1955-81)。それから銀座画廊というのもあったな。でもだいたい、村松画廊に行ってたと思う。それからその後でできた内科画廊(新橋、1963-67)は、ギュウチャンはほとんど日参してたからね。村松画廊も、空くと僕たちに安く貸してくれたんですよ。「いくらでもいいよ」ということで。それで村松画廊ではよくやらせてもらったんだけど。そこに「村松のおじさん」というヘンクツおじさんがいて、そのおじさんがいつも説教するのよね。
池上:村松画廊の画廊主ということですか。
田名網:いや、画廊で雇われてるおじさんなんだけど、酒飲みの結構面白いおじさんで、そこに行ってよく酒なんかごちそうになったりしてて。荒川修作の、棺桶みたいな作品、あれもそこで発表したのよ、最初。それから工藤(哲巳)とか、ギュウチャンはもちろんやってるんだけど、そういう連中にはほとんどただで貸してたんじゃないかと思うね。
宮田:その頃、美術以外のデザインの情報というのは何か、大学以外でどういう……
田名網:僕が美校に行ってた時の同級生に――今『週刊朝日』とかに、似顔絵を描いてる山藤章二って知らない? もう一人、ついこの間亡くなっちゃったんだけど、日暮修一という『ビッグコミック』の表紙を描いていた――似顔絵のうまい人が二人いたのよ。彼らが「銀座の松屋で面白い展覧会をやってるから行こう」っていうんで、僕とその連中とで行ったの。そしたらそれが日宣美(日本宣伝美術会)展だったんですよ。その頃、僕は反芸術の方のつきあいばっかりだから、もう絵ばっかりやってたんだけど、それも面白いかもしれないと思って見に行った。ほとんど面白くなかったんだけど、その中に、粟津潔さんの、《海を返せ》という日宣美賞(1955年受賞)をとった作品があったの。漁師の顔を画面いっぱいに描いたポスターで、その絵を見た時に、「あ、こういうデザインでもいいんだ」と気づかされたんですよ。
池上:メッセージ性があるようなもの。
田名網:メッセージ性もあるし。それまではすべて定規で描いたいわゆるモダンデザインが全盛だったわけですよ。
池上:ちょっと幾何学的な。
田名網:その中で粟津さんのそれだけがバーンと際立ってたんですね。
池上:あれはほんとに印象的に顔がバーンとありますね。
田名網:こういうとこ(人物の胸のあたり)にもコラージュで布を貼ったりして。こういう表現方法でもいいんだと、その時に僕ひらめいたんですよ。それでデザインの領域でもやればできるんじゃないかと、その翌年(1958年)に僕がその日宣美展に出したらそこで受賞したんですよ。2年生の時なんだけど。そしたらね、その当時公募展というのは今と違って結構新聞に出たりするんですよ。仕事もいっぱい来ちゃって。
宮田:大学生なのに。
田名網:それでデザインを真剣にやろうかなと。
池上:すでにデザイン科にいたにもかかわらず、寄り道してまた戻ってきた。
田名網:意志薄弱です。
池上:それまでの反芸術的なあたりも少しお聞きしたかったんですけど。村松画廊で「メタリック・アート展」(1958年10月26-30日)をやっておられたり、先ほどのタピエに見せたコールタールの絵をたくさん描いておられたりして。いまおっしゃった日宣美で粟津潔を見るまでは、そのまま反芸術的な作家、いわゆるアーティスト的な道に進もうとされてたんですかね。
田名網:そう。親にはもちろん言わなかったけれど、そういう方向に向かっていた。というのは、一番仲良かったのは三木とかギュウチャンとか田中信太郎とかだったので、どうしてもそっちの方に向かっちゃうんですよ。そうするとデザイン科にいながらデザインをないがしろにしてるわけでしょ。ところが日宣美展で受賞しちゃって、仕事が入ってきちゃった。お金も入ってくるじゃないですか。そっちの魅力も捨てがたいわけよね(笑)。どうするかものすごく悩んだんですよ。
池上:結局はデザインの方に、社会生活としてはとりあえず進もうという決断はどこかでされたんですか。
田名網:うーん、決断したっていうか、仕事がものすごく忙しくなっちゃったんですよ、仕事がどんどん来ちゃって。それでそっちに時間を割けなくなったという時期があって。それでもうとにかく、「いいや、やるとこまでやろう」というんで日常の仕事に没頭したというか、そうなっていっちゃったということですね。
池上:べつに作家として、アート活動みたいなものをやめようと思ったわけでは。
田名網:やめようとは思ってない。その時期はもちろん大きなものはできなかったけど、版画を作ったり、いわゆるアートブックみたいなものを作りだしたんですよ。そのきっかけというのは、河原温が「印刷絵画」(1959年)を発表した時があるんですよ。それは印刷したものなんだけど、印刷物も複製として、複数の画として流通してもいいんじゃないかというメッセージがあって、それを河原温が発表したわけね。僕は、「これは面白いな」と思って、印刷物を不特定多数の人に配布していった方が、画廊でやるよりいいなと思ったんですよ。それで自家版の本を出したわけ。だからイラストレーションとして出したわけじゃないんですよ。
宮田:ちょっと戻ってしまいますけれども、日宣美で特選を受賞された《花嫁と狼》というのはどういう作品だったんですか。
田名網:それはね、その当時フランスでモダンバレエがすごく人気で、ローラン・プティ(Roland Petit)という有名な振付家が演出した作品なんですよ、「花嫁と狼」というのは。ローラン・プティが、ジャン・カルズー(Jean Carzou)というアーティストに――(ベルナール・)ビュッフェ(Bernard Buffet)みたいな絵を描く人なんだけど――その人に舞台装置を頼んだ。僕はローラン・プティの演出がものすごく好きだったので、描いたんです。
宮田:特に日宣美はテーマがあるわけではなくて?
田名網:うん。演劇でも書籍でも広告でも何でもよかったわけ。僕はたまたまモダンバレエのローラン・プティのものを。それ以外にあと《狼》というのもあったんだけど、プティのものをいくつか描いたんですよ。
宮田:それが評価された点というのは、具体的に何か。
田名網:僕は粟津さんの作品を見て、デザインでは禁じ手だった油絵で描いたんですよ。油絵で描くということは、その当時のデザインの常識ではあり得ないわけですよ。みんなポスターカラーできちんと描いている。僕が出した時に一緒に受賞したのは杉浦康平さん(1932-)だから。全然違うじゃないですか。杉浦さんは正統的なデザインをする人でしょ。僕の絵はそういう意味でいうとちょっと異端だったわけね。でもそれを評価したんだと思うんですよ。その時の審査員の一人が恩師の原弘さんなんです。だからたぶん原先生がすごく推してくれたんだと思う。
池上:受賞理由というのは。特に教えてもらったのは?
田名網:いや、それ以後もいろんな作品を出したけど、非常に異色の作品で面白かったというのはあるんだけど。でもそれに類するものは、武蔵美の課題で描いてたんですよ、油絵で。それを原先生が来て「これは面白い。このまま続けなさい」というんで継続したんです。
宮田:日宣美以外に、全日本観光ポスターコンクールだったり、毎日商業デザイン賞を取ったり、日宣美はまた特別な機会だったとは思うんですけど、デザインの作品を発表する場というのは?
田名網:観光ポスターのコンペとかその頃いくつかあって。賞金出るじゃないですか。そしたら僕の手法というのが受けて、結構いろんなとこで賞を取ってお小遣いかせぎになったわけですよ。
宮田:お仕事が来るというのは、そういうデザインが求められてお仕事が。
田名網:絵を描くというのももちろんあったけど、卒業の頃になると広告代理店の博報堂が、「うちに来ませんか」という申し出があったんです。
池上:すごい見込まれ方ですよね。
田名網:そう。博報堂も試験もしないで入れてくれたんですよ。それとね、僕が美校にいたら集英社という出版社から電話がかかってきて。「ちょっと君に頼みたいことがあるから、神田の神保町に集英社ってあるから、今日学校が終わったら来てください」っていうんですよ、いきなり。集英社も知らなければ何にも知らないじゃないですか。それでいろいろと探して、集英社に行ったんですよ。そしたら集英社と小学館というのは姉妹会社なんですよね。実際は小学館で頼まれたんだけど、編集の人が来てて、『マドモアゼル』(1961-1968)という女性誌を発行する、と。その頃、女性誌なんて『主婦の友』(主婦の友社)とか古いものしかなかったんですよ。「マドモアゼル」なんてタイトルで女性誌を出すなんていうのは珍しかったんですね。なので、それのアートディレクションしてくれる人を探してたわけ。そしたらなぜか僕に白羽の矢が立って呼ばれたんだけど、僕はまだ美校の2年生だから、デザイン用語も知らなければ何もできないわけじゃないですか。だけど編集を始めるまでに1カ月ぐらいの間があったんですよ。で、もうやっちゃおうと思って、「できます!」って言って、その1カ月間の間にイエナとかへ行って洋書とかいっぱい見て、印刷の本とかも読んで勉強したんです。それで見よう見まねで『マドモアゼル』という仕事をやったんですよ。そしたらそれが結構評判良くて、そのままずっと仕事になったんですよね。それをやってる流れで、集英社が『PLAYBOY』の版権を買って出版するというので、「じゃあそれもやってください」というんで、その仕事もやることになった(1975年)。
池上:じゃあほんとに学生の頃から仕事がきてしまった。
田名網:そうなの。だから学生の時はめちゃくちゃ忙しくて。
池上:じゃあ卒業する頃には就職も決まっているし、仕事にも困らないし、というのでどんどんデザインの方に。
田名網:うん。でも博報堂は2年で辞めちゃったんですよ。
池上:ほかからの仕事が増えすぎて?
田名網:うん。博報堂に勤めてるんだけど、ほかから電話がかかってきたりするんでだんだん居づらくなって、それで辞めざるを得なくなっちゃった。
池上:何か言われたりはしたんですか。
田名網:いや。デザイナーがいっぱい並んでるんだけど、その頃は、朝行くと、営業の人が仕事の依頼書を各デザイナーの机に置いていくんですよ。今日はこれを、というので。5つぐらい袋が置いてあるんですよ。その中に、こういう絵を描いてくださいという依頼書があって、それをその日やるんですね。ところが僕はそこでバイトの絵を描かなきゃなんないから、袋が山積みになっちゃうんです。
池上:溜まっちゃうんですね(笑)。
田名網:これはまずいことになったなと。周りも雰囲気があまり良くないじゃないですか。最初のうちは「俺が手伝ってやるよ」とかいって助けてくれるんだけど、そのうち知らん顔になってくる。そうするとだんだん居づらくなってきて、それで辞めちゃったの。
池上:博報堂での仕事自体は面白かったんですか、それともバイトで来る方が。
田名網:バイトの仕事って面白い仕事が来るんですよ。
池上:だって田名網さんじゃないと、って来るんですものね。
田名網:博報堂の仕事というのはね、もう最低の仕事なんだ。新人だから。カレンダーを作るとかじゃなくて、新聞の「突き出し」って小っちゃい広告があるでしょ、どうでもいいやつね。それをやるのよ。このくらい(両手の人差し指と親指で四角をつくるくらい)の中にものすごい情報量を全部入れなきゃなんないんですよ。それが慣れてないからうまく入らないんですよ(笑)。クロスワードパズルみたいなもので、うまい人がやると全部きちっと入ってちゃんと読めるんだけど、下手なデザイナーがやると入んないのよ。それを毎日毎日やらされるわけ。ところが外から来る仕事は、見開きに絵を一枚描いてくれとか、面白い仕事なんですよ。だから比較にならないでしょ。
池上:突き出しができるようになったから何なんだ、っていうのがありますよね。
田名網:そう。だからだんだんイヤになってきちゃった。
池上:で、独立しても外からの仕事で生活は成り立つだろうと。
田名網:そうそう。
池上:ちょっと戻るんですけれども、美校を卒業される前にご結婚をされたんですか。
田名網:いや卒業してだいぶたってからです。
池上:それは美校の同級生の方ですか。
田名網:いやいや、全然関係ないんです、学校とは。紹介で知り合った。
池上:お仕事もされているし、結婚しちゃおうという。
田名網:そうそう。その時は仕事もやってて、結構生活は安定してたんですよ。
宮田:すごいめずらしいですよね。
池上:めずらしいよねえ。
田名網:そうなのよ。その頃ね、原稿料をもらいに集英社に行くんだけど、振込とかがないんですよ。それから1万円札もない。だから、例えば何十万円というお金をもらうとすごい束になっちゃうわけよ。
宮田:何十万円とかもらうんですね?
田名網:うん。
池上:当時の何十万円ってすごいですよね。
田名網:その頃、博報堂の初任給が1万7500円なのよ。
池上・宮田:えーっ!
田名網:博報堂で月給1万7500円の時に、何十万ってくれるんですよ。
池上:その集英社とか小学館が。
田名網:うん。
池上:なんでそんなに集英社の方はギャラがいいんですか。それが相場だったんですか。
田名網:雑誌のデザインの価格がまだ確立されてなかった。今は1ページいくらとか、だいたいの相場が決まってるんですよ。ところが僕が『マドモワゼル』とかをやり始めた頃はまだ初期の頃で、雑誌のデザインにどのくらいのお金を払っていいか出版社自体も分からなかった時代なの。だからすごい高くしてくれたんだと思うんです。僕も全然知らないから、そのままもらってたわけ。後になって聞いたら結構みんなびっくりしてたけど。
原稿料を初めて家に持って帰ったんです。黒いボストンバッグにお金が結構入ってて。それをおふくろに「はい」って渡したんですよ。そしたらね、喜ぶかなと思ったら、バッと開けたとたんに顔色が変わって、「あんた、何してきたんだ!」って言うのよね。「何してきたって、仕事してもらった」って。「あんた、仕事でこんなお金をもらえるはずがない」って言うのよね。それで大変な騒ぎになったことがある。
池上:何か悪いことをしてきたんじゃないかって。
田名網:父親のことがあるから。それでようやく説明がついたんだけど。
池上:お母さんもかなりとらわれていらっしゃるんですね(笑)。
田名網:そうそう。
宮田:その頃、お父さまと会ったりとかはされてないんですか。
田名網:父親が僕のとこに電話してきたけど、やっぱりおふくろのことを思うと、会ったりしない方がいいと思ったんですよ。だから父親とは全然会わなかった。
宮田:思春期というかいろいろ人生に悩む時期、お金にはあまり困ってなかったかもしれないのですけど、何か悩んだりした時に相談する相手というのはどなただったんですか。
田名網:相談する相手……
宮田:特にそういうのはなかったんですか。
田名網:相談とかはしなかった。
池上:もう全部自分で決めて。
田名網:うん。僕が武蔵美に入って、30歳ぐらいまでの間というのは、あんまりお金の苦労もしなかったし、ほとんどのことが僕なりにうまくいってたんですよ。だからそういうことは全然なかったの。
池上:前衛の作家さんたちとはずいぶん違う(笑)。
田名網:そのかわり飲みに行ったりすると、全部僕が払ってたから。
池上:篠原さんが、当時ほとんど住み込んでたみたいな話も聞いてますけども。
田名網:そうそう。僕が独身の時、赤坂に部屋を借りていた時も夕方になると帰ってくるんだよね。
池上:帰ってくる(笑)。ご結婚される前から家は出ておられたんですか。
田名網:というのは、仕事が忙しくなっちゃったじゃない。だから家にいると迷惑がかかるので、赤坂に部屋を借りて、仕事をしてたんですよ。その時はギュウチャンもしょっちゅう来てたから。独身の時から来てて、結婚してもそのまんまずっと来てたの。
池上:新居もその赤坂のところで。
田名網:新居はすぐそばの南青山に借りて、そこが新居になったんだけど、その時もギュウチャンは来てたから。
池上:ご迷惑ではなかったんでしょうか(笑)。
田名網:でもうちのワイフもギュウチャンのこと好きだったんで(笑)。二人でしょっちゅう将棋やってるんですよ。僕が仕事してるじゃないですか。そしたらね、早指しといって、パパパパッとやって、一つの勝負がだいたい2分ぐらいで終わっちゃう勝負があるんですよ。僕が寝て、朝起きたらまだやってんの。すごいんですよ、94勝68敗とかね。
池上:どっちが勝ってるんですか。
田名網:いや、分かんないけど(笑)。
池上:ギュウチャンにちょっとお小遣いをあげたりして。
田名網:ギュウチャン、朝出かける時お金ないから、その時は50円、必ず。
池上:50円で、当時何ができるんですか。
田名網:50円あったら、電車乗って、おそばとか食べられるんじゃないですか。電車賃とパン買ったりおそばを食べたりできる。
池上:ほとんど居候ですよね(笑)。
田名網:うん。
池上:読売アンデパンダン展のことをお聞きしたいんですけれども。1962年のアンパンに出品されていて。その頃はもう独立してデザインの仕事をされている時だと思うんですけれども、いわゆるアートっぽい制作も一方で続けておられたんでしょうか。
田名網:そうです。読売アンパンも2回ぐらいは出してると思う。
池上:ですよね。最初は何年でしたか。
宮田:受賞された年なので、1958年ですね。
田名網:ああ、その頃出してた? 真っ黒いコールタールを塗った絵だと思うんだけど。
宮田:はい。《尾瀬沼》というタイトルで。
田名網:そうだ、そうだ。出してた。
池上:では1958年が、アートの方もすごくやっていたし、だけど、特選も受賞されたので、デザインの方にちょっと舵を切っていくような年で。62年にもう一度出されたのはどういう作品ですか。
田名網:それも、だいたい同じようなものかもしれない。
池上:村松画廊でもこの年にやっぱり個展をされていて。やっぱりデザインの一方で、そういう制作にも興味があったということですね。
田名網:そうですね。美校の先生は、「君は一生懸命デザインをやらないから、もう学校やめなさい」とかよく言われたましたから。
池上:先生の目から見るとあまりいい生徒ではなかった。
田名網:そう。
宮田:うらやましかったのかもしれない(笑)。
池上:そうですね(笑)。
田名網:その頃はいろいろやってたんだけど、仕事は忙しいけれども時間も結構あったんですよね。
池上:だからそういう制作も。アンパンは、ギュウチャンに「また出そうよ」とか言われたり、そういうのもあったんですか。
田名網:それはあったかもしれない。ギュウチャンはその頃杉並に住んでて。杉並の公団に中庭みたいなのがあって、そこで作ってたから、しょっちゅう遊びに行ってた。
池上:ギュウチャンの「ボクシング・ペインティング」というのは実際に作っているのを見たことはありますか。
田名網:だってしょっちゅうやってたから。
池上:めずらしくなかった(笑)。
田名網:だけどね、一番最初の切っ掛けは、(ジョルジュ・)マチウ(Georges Mathieu)が日本に来て、日本橋の白木屋のショーウィンドーで実演をしたんですよ(1957年)。その時僕は一緒に見に行って。
池上:一緒にご覧になったんですね。
田名網:そう。それで「すごいな」と思って。そのあとですよ、ギュウチャンがこれ(ボクシングをする構えをして)をやりだしたのは。
池上:ギュウチャンはその時、何か言ってましたか。
田名網:忘れちゃった。
池上:田名網さんもやっぱりマチウのパフォーマンスというか公開制作はすごいなと。
田名網:いやあ、あれは面白かった。こんな表現もあるのかという驚きと同時に、なにをやってもいいんだという表現することの面白さを知ったね。
池上:制作する過程までも作品の一部というのが。
田名網:今井さんがマチウのアシスタントをやってたんですよ、絵の具を出したり。
池上:デザインの方は、賞を受賞されたり、常に評価が高いというのが結果としても見えていたと思うのですが、アンパンに出されたものというのは、周りからの評価というか、何か言ってもらったりというのはありましたか。
田名網:それはまったくなかったなあ。あの頃はだって、アンデパンダンの中でももう最下層というか。
池上:最下層(笑)。
田名網:「なんだこいつら」という感じのグループじゃないですか。
池上:たしかに。その一味と見られちゃうと。
田名網:そうそう。だからほんとは出してもらいたくないっていうような人たちだもん。
池上:評価もなにもという。
田名網:うん。だって展覧会が終わったら、あと多摩川に作品を捨てに行くんだもん。村松画廊でやってもどこでやっても、終わると全部捨てに行くんですよ。
池上:田名網さんもそうやって捨てておられたんですか。
田名網:うん、だって置くとこないし。みんな終わる日になると誰かにクルマを頼んで捨てに行くわけ。
池上:もったいないな、とかいうのは。
田名網:もったいないって、だってその時は絵が売れることもないし、要するに保存しておく必要がないのよね。
池上:もし場所があれば取っておきたいということもなかったですか。
田名網:場所があってもたぶん取っておかないと思うね。
池上:じゃあ作ることっていうのが目的。作って見せるというか。
田名網:そうそう。だって昔、内科画廊でやってた時だって、ギュウチャンが「今日から展覧会だ」っていうんで、昼頃行ったら誰もいなくて、待ってたら、ギュウチャンがバケツにタワシとかペンキとかいっぱい入れて上がってきた。「絵どうしたの?」って言ったら、「いやこれからだよ」って。紙を壁面に貼って即興で描いちゃうんだもん。
池上:オープニングの日に。
田名網:朝に。
宮田:1963年ぐらいに作品集、実験絵本的なものを出されるのですけれども、先ほどもちょっと話題に出ましたが、どういう本だったんですか。
田名網:それは、アメリカのコミック雑誌を下敷きにした本なんだけど。自費で印刷した。展覧会をしないでこれを直接配ったらいいんじゃないか、という意図で作った一番最初のものなんですね。
池上:さっきの河原温さんの印刷絵画に触発されて。
田名網:うん。その頃はアートブックという言葉ももちろんなかったし、本を芸術作品として作るという考え方も、ウォーホルなんかが出てきて認知されてきたけど、それまではほとんどなかったんですね。
宮田:何部、何冊ぐらい?
田名網:1000冊ぐらい。
宮田:すごいですね。
池上:結構たくさんですね。
田名網:そうなんですよ。1000冊というと大変な数ですよね。でもその頃安かったんです、印刷。
池上:白黒ですか。
田名網:白黒。
池上:それ見たことないです。
田名網:これは復刻版だけど、これあげますよ。
池上:『田名網敬一の肖像』というのは……
田名網:初版は1966年ぐらいだと思うんですけど。
池上:宮田さんが言っている実験絵本というのは?
宮田:卵……
田名網:『卵形』というの? 山本太郎さんのね。あれはもっと前かな。
宮田:私が絵本と作品集を一緒にしてしまったかもしれないです。絵本をまず1963年に出されて。
田名網:はい。5冊ぐらい作ったから。『田名網敬一の肖像』は1966年なんですよ。
池上:では実験絵本は1000部も刷ってなくて。
田名網:そうですね。そっちはそんなに刷ってないかもしれない。
宮田:依頼されたわけではなくて、ご自分で。
田名網:うん、こういうのもみんな。
池上:こっち(『田名網敬一の肖像』)が、さっきおっしゃったアメリカン・コミックを下敷きにしていらっしゃるという?
田名網:そうです。
池上:アメコミというのは普段どこで見つけておられたんですか。
田名網:銀座のイエナですよ。あとなかったんですよ、いわゆる洋書屋さんというのが。だからあそこで見る以外になくて。
池上:イエナは、いわゆる洋書のほかにアメコミも扱っていたんですか。
田名網:うん。その頃は『スーパーマン』とかが、アメリカでもものすごい人気があったんですよ。
池上:ですよね。アメコミ雑誌ですね。
田名網:そういうのがいっぱい出てたんです。すごく安かったんですよ。その頃は10セントで売ってたから。
池上:それを日本へ持って来るといくらぐらいで買えたんですか。
田名網:30円とかそういう感じじゃないですか。
池上:当時、洋書でカタログとか美術雑誌はすごく高かったと聞いてるんですけど、コミックは安かった。
田名網:コミックスは、あんなの何百万部と出すわけじゃない。
池上:読んだら捨てるものですもんね。
田名網:それでこんなペラペラでしょ。だから学生でも買えるんですよ。
池上:アメコミのどういうところに惹かれておられたんですか。
田名網:アメコミは、すごくポップな感じじゃないですか。色も原色で画面構成もスピーディーで映画みたい。登場するキャラクターもかっこいい。もうありとあらゆる魅力的要素が入ってますよね。だから好きだったんだな。
池上:田名網さんの中で、ウォーホルみたいないわゆるポップ・アートと、いわゆるアメコミみたいなポップな文化、そういうものというのは特に区別とかはされてなかったんでしょうか。
田名網:ポップ・アートは、アートとして独自の表現世界があるから別だけど、要するにアメコミはポップ・アートの源泉みたいなもんじゃない、(ロイ・)リキテンシュタイン(Roy Lichtenstein)の絵を見るまでもなく。それを絵にした衝撃というか、それが面白かったんだと思うんだよね。
池上:そうか。ポップ・アートを、さっきおっしゃった植草さんに紹介されて。
田名網:リキテンシュタインの印刷の網点を大きく拡大した驚きもあるけど、その原型はアメコミの一コマだから。
池上:原型を知ってるから余計に衝撃が。
田名網:僕はデザインをやっていたので、オフセット印刷って、網点があるじゃないですか。印刷技術がなければグラフィックデザインは世の中に存在しないから、その印刷というものに対する興味がすごくあったんですよ。印刷の多様な面白さ。1960年代の後半から1970年代にかけていろんな実験的な映画を作ったんだけど、それも印刷技法というものを映画の中に取り込んだらどういうものができるかという実験だった。だから印刷が表現の基盤にあったわけですよね。
池上:じゃあポップ・アートに関してもそういうところからの興味で、単にアメリカのイメージを扱ってるからというだけじゃないわけですね。
田名網:そうですね。
池上:特にウォーホルに注目されていたんでしょうか。
田名網:ウォーホルは、考え方と領域の横断に衝撃を受けました。例えば、実験的な映画、雑誌の出版、それからアートブックを作るという、表現を一つにこだわらないでありとあらゆるものを表現の手段として取り込んでいく、その姿勢に影響を受けたと思うんですよね。だから、例えばウォーホルの実験映画の『エンパイア』(1964年)とかは面白いと思わないんだけれども、表現の手段として様々なメディアを駆使する。そこに興味を持ったんですよ。
宮田:持っている領域みたいな。
田名網:うん。だからほかのポップ・アートの作家、ジム・ダイン(Jim Dine)とかリキテンシュタインとかいっぱいいるけど、作品は面白いとは思うけども、生き方とか思想とかバックグラウンドとかには、それほどの関心はなかったんですね。
宮田:ウォーホルみたいな人は国内にはいなかったということですよね。
田名網:いなかったよね。世界にもいなかったんじゃない?
池上:ですよね。ウォーホルは、思想は面白いけど、作品そのものは別にものすごく影響を受けたということではなくて?
田名網:面白いものもいっぱいありますよ。
池上:特にどういうものというのは?
田名網:僕は、ウォーホルの出版物が結構好きなんですよ。出版物いっぱい出しているじゃないですか。飛び出す絵本とか、こんな分厚い、似たようなモノクロ写真ばっかりレイアウトしたものとか。それから雑音なんかも克明に記録した日記の本。
池上:ウォーホルの日記( The Andy Warhol Diaries, Warner Books, 1989)ですね。
田名網:やっぱりウォーホル独特の切り口だと思います。
池上:ポップでもほかの作家はそこまでやらないですよね。
田名網:例えばリキテンシュタイン、たしかに漫画を拡大して絵にしたというのは、それはすごく面白いんだけれど、でも彼はあのスタイルを延々と続けたわけじゃない? だから作品としての価値は上がったかもしれないけど、彼の生きざまみたいなものは絵に現れてないもんね。
池上:わりとまっとうな画家なんですよね。
田名網:いわゆる画家だよね。
池上:画家人生を追求したというか。
田名網:僕はあんまりね、面白いと思わなかったんですよ。どこか破綻しているような作家に引かれますね。
池上:その当時、日本に居ながらにしてウォーホルのそういう情報というのは結構入手できたんですか。
田名網:いや、その頃は美術雑誌もなかったし、『美術手帖』はあったと思うけども、ほとんど美術ジャーナリズムは機能してなかったんじゃないですか。今はポップ・アートの記事って一般誌にも出るけど、昔はなかったと思うの。だからほとんど洋書ですね。
池上:全部買っておられたんですか。
田名網:いや、買ってない。立ち読みですよ。
池上:アメコミは買えるけど、そういう画集だったり本格的な美術雑誌は立ち読みして。
田名網:そうなんですよ。この前見ていただいたNHKの番組、僕があれを作った時、ウォーホルが大丸で日本で初めて展覧会をするので、来日したんです(注:NHKの番組「文化展望:ポップ・アートの世界——アンディ・ウォーホルを中心に——」1974年12月4日放送)。その時に僕がNHKに依頼されて、ウォーホルの作品と顔を使ったメインビジュアルを作ってくださいという注文が来たんで、僕がカメラマンと一緒に撮影に行ったんですよ。楽屋にウォーホルがいたんだけど、疲れてるのかしらないけど不機嫌で、質問しても何も言わないのよね。だからこれはだめだと思って。写真も撮れないし、話も聞けないから、番組ができないじゃないですか。これはもう自分のアニメーションでやるしかないと、それでああいう映像になっちゃったの。本当はウォーホルの顔を使って、もっとウォーホルの絵に近いイメージで作ろうと思ったんですよね。それができなかったの。
池上:ウォーホルの写真を撮って、ウォーホルがやっているような、ポートレイトみたいな。
田名網:そう、コマ撮りにするとか、色を変えるとか、いろいろやろうと思ったんです。ウォーホルの顔を使って。ウォーホルが協力してくれるっていうんでNHKの人も頑張って行ったわけですよ。ところが下向いちゃって、写真が全然撮れない。それじゃあライティング(照明)もできないでしょ。
池上:NHKのクリューがあらかじめ撮影していた展覧会の風景の様子ですとか、あと高階(秀爾)先生が進行をされているところですとか、寺山修司さんとか、いろんな方が出てきますよね。
田名網:そうそう、ウォーホルの作品が複製を執拗に繰り返す、もっと複雑なものをやる予定だったんです。
池上:今の時点でも十分すごいと思うんですけど、あれは。
田名網:それを写真でやろうとしてたのに、もう全然計算が狂っちゃって。
池上:アニメとかを入れる予定ではなかったんですか。
田名網:アニメーションなんて全然使うつもりはなかった。
池上:田名網さんが一緒に行ってウォーホルを撮影したフィルムや映像は結局ない。
田名網:ないんですよ。
池上:あるものだけでやらないといけなかったという。
田名網:そうそう。NHKとしても、あれは特番で、放送日も決まってたんですよ。8時から9時までかな。だからその日までにできないとまずいということで、時間もなかった。それでどうしようかと言ってる間にどんどん時間が経って、ああいうふうになっちゃった。
池上:この間、高階先生にあれを一部お見せする機会があって、すごく面白がっていらっしゃいました。奥さまも大喜びして(笑)。あの放映をご覧になってなかったそうなんです。たまたま日本にいなかったか何かで。だから「これは今初めて見た」といってすごく喜んでいました。
田名網:へえー、そうなんだ。でもね、あれを見た若い人は面白いって。
池上:あれはすごく斬新で、NHKの番組ではあるんですけど、田名網さんの作品といっていいんじゃないかと思うんですけど。
田名網:今のNHKだとたぶんだめだと思うんです。
池上:放映できないですよね。すごく特殊なピカピカした効果が入っているので、あれはたぶん放映できないと思います、今は。
田名網:そう、フリッカー入ってるから今だったら放送できないと思う。あの頃だからよかったんだけど。
宮田:何年?
池上:1974年に放映されたんですけど、NHKの「文化展望」という番組で。
田名網:ウォーホルがあんなにしゃべってるってないんだってね、映像で。
池上:らしいですね。
田名網:あれはビックリしてるみたいよ。映像の中でウォーホルが(あんなにしゃべって)。
池上:日本に来ているから、アメリカにいる時よりもひょっとしたら気軽に話していたのかもしれないですよね。その時はNHKの人が撮って、そんなに機嫌が悪くなかった時だったんですかね。
田名網:その時は疲れが取れてたんじゃない(笑)?
池上:ああ、オープニングのその日にやって来たんですか、彼は。
田名網:そう。オープニングの1時間ぐらい前だった。
池上:本人の画像が使えないというので。でもキャンベルのスープ缶がバーッて出てきたり、映像がどんどん反復されていったり、田名網さんのほかの映像作品にも見られる、ほんとに「複製に次ぐ複製」という原理がすごく出ていると思うんですけども。それもやっぱりウォーホルの思想に結構感銘を受けていたというところを出していらっしゃるんですか。
田名網:うん。
池上:あれはほんとに面白い作品だと思います。それができてNHKの人に渡して、「これはやりすぎでは」みたいなことは何も言われなかったですか。
田名網:言われなかった。結構評判が良かったという話だったんで。あとは何も言われませんでしたよ。
池上:当時のNHKは今よりもひらけていたんでしょうか。
田名網:どうなのかなあ。その頃、僕ね、NHKの経済番組とかいろんなのをやってたんですよ。
池上:あ、そうなんですか。経済番組でどのようなことを。
田名網:真面目な経済番組で、かなり過激でエロティックなアニメーションをつくったんだけど、それも全部大丈夫だったね。
宮田:経済の番組で自由にやるっていうのはどういう(笑)。
田名網:コミカルな犬が歩いている絵があるんだけど、それ今シルクスクリーン版画として売ったりしてるんだ。1000枚ぐらい、床といわず天井といわず壁面全部に貼りめぐらして、その中で経済評論家が話をするというだけなんだけども(笑)。そういうセットを作っても、「それでいいです」っていう。「これはダメでしょう」というのでも大丈夫だった。
池上:実際にスタジオの中のセットもしておられたんですか。
田名網:そう、セットも全部作った。
池上:それは今見られるんですか。
田名網:いや、見られない。NHKのあの番組だって、長い時間かかって探してくれたんだもん。
池上:探せばあるかもしれない?
田名網:探せばあると思うけど。
池上:そのウォーホルの特集番組って、ウォーホル本人は見たんでしょうかね。
田名網:見てないでしょ。
池上:もうアメリカに帰っちゃってるし、わざわざ送ったりもしなかった?
田名網:うん。
池上:たぶん見たらすごく喜んだんじゃないかと思うんですけど。
田名網:すごく怒ったりして。
池上:同じ年に松本俊夫さんも『(アンディ・ウォーホル=)複々製』(16ミリ/23分、1974年)という映画を作っておられますけど。
田名網:そうそう。
池上:それはご覧になってますか。
田名網:観ました。何回も。
池上:田名網さんの特集番組とほとんど時期が一緒なんでしょうか。
田名網:そうですね。松本さんはウォーホルが好きだったからそれで作ったんだと思うんだけど。松本俊夫さんとは、1975年に渋谷のパルコ劇場で「映画の彼方へ」という上映会をやりました。各人が1年間で10本くらいの短編を作って、かなり充実した見応えのある内容になりましたね。この時の映画はDVDにもなって、今でも海外の映画祭や美術館で上映しています。京都造形芸術大学で教えるようになったのも、松本さんに呼ばれたからなんですよ。
池上:特集番組のアートディレクションをされた時にはそれは観ておられたんですか。それとも後になってから?
田名網:松本さんの映画の方が後なんじゃない?
池上:素材は違うんですけど、手法は結構似てるところもあるのが面白いなと思ったんですけど。それでは、ウォーホルについてお聞きできたところで今日は一回終わらせていただいて、また次回。
田名網:どうぞ、どうぞ。大丈夫ですか。内容がちょっといいかげんすぎないですか。
池上:いえいえ、大丈夫です。