田中爲芳 オーラル・ヒストリー 第2回
2023年5月10日
東京都武蔵野市、田中爲芳邸にて
インタヴュアー:三上豊、細谷修平、鏑木あづさ
書き起こし:鏑木あづさ
公開日:2025年7月14日
編集者
第2回は、おもに1970年代後半の『美術手帖』編集長時代(1974年11月-1978年4月)のお話をうかがった。特集、連載、各記事の編集の実際を中心に、編集部の様子、広告収入、発行部数など、当時の出版社の実情にも触れながら、田中氏の雑誌づくりへの考えが語られている。また『美術手帖』退任後に手がけた『美術手帖』増刊や『別冊美術手帖』の企画編集、審査会の運営にもかかわったADC年鑑など、のちに初代編集長となった『デザインの現場』(第3回で詳述)の前哨ともいえる仕事についてもお聞きした。
なお、本インタビューは田中氏自身による編集が施されているが、インタビュー内容と大きな異なりはなく、時代状況が田中氏の視点から語られている。
三上:田中さんが編集長だった時代の『美術手帖』は(三上も在籍していたため)話が内輪になってしまうので、今回は主に鏑木さんから質問してもらうことにします。最初だけ私から振りますので、個々のことは鏑木さんに聞いてもらいます。
鏑木:たしかに三上さんのように当時の会社の中をご存じの方がお聞きするのと、私のように後からそれを知った者がうかがうのでは、違う部分もあると思います。今回は両方の視点からお聞きできればと思います。
三上:さっそく『美術手帖』のことですが、田中さんになる前は福住(治夫)さんが343号から375号まで(1971年6月−73年12月)編集長をやるわけですね。その後の半年くらい、編集長が川合(昭三)部長になっているんです(376-386号、1974年1月−10月)。どうして部長が(編集長に)なったんですか。実質的には1年間近くですが、あの頃はもう椎名(節)さんがやっていたのかしら。特集のラインナップを見ると、結構普通の内容が並んでいるわけですよね。それまでのものと比べると。
田中:はっきりは覚えていないですね。人事異動の都合もあったのかな。私が『みづゑ』の編集長になったときも同じような形だったですね。
三上:そうなんですか。田中さんのお名前が出るのが、387号(1974年11月)なんです。
田中:この頃には、赤瀬川原平の「第二次千円札事件」もありましたね。その翌年には福住編集長が異動し、後任を川合昭三がつとめていた。私が『みづゑ』を何月までやっていたか忘れたが、たぶんその後すぐに『美術手帖』の編集長をやらされたと思いますね(『みづゑ』は834号、1974年9月まで)。なにしろ福住編集長時代に売り上げ部数が落ちたりして、何とかしなきゃということだったと思います。私にとっては『美術手帖』の編集長が一番しんどかったですね(笑)。
三上:そう思いますね。傍から見ていても感じました。
田中:福住時代の前衛的な(?)編集部を引き継いだので、やっぱりメンバーも5、6人と多くなると、いろんな考え方の人がいるからね。『みづゑ』やその後の『別冊』、増刊、『デザインの現場』みたいに2、3人とは違いますよ(笑)。
細谷:では、川合さんはお名前を出しているけど、実質的に編集長としては……。
田中:福住さんが異動して、私が編集長になるまでの一年近くは一応、川合さんが編集部をまとめていたのでしょうね。たぶん椎名さんを中心に。
三上:ところで、中垣(信夫)さんが表紙や目次のデザインとして名前が出てくるのが、376号(1974年1月)なんですよ。中垣さんは杉浦(康平)さんのデザイン事務所にいて、それで前から知っていた椎名さんが頼んだのですね。
田中:そうでしょう。中垣さんは武蔵野美術大学で杉浦さんの教え子で、卒業後杉浦事務所に入った最初のデザイナーだと思います。杉浦さんの書生みたいな関係で、杉浦さんがドイツのウルム造形大学の客員教授として招聘されたときに同行し、留学生として得意のダイヤグラムを学んだということです。1973年に独立して自分のデザイン事務所を開設したのを機に、椎名さんが前から知っていて『美術手帖』のエディトリアル・デザインを頼み、その後美術出版社の多くの出版物のデザインをやってもらっていましたね。
三上:田中さんが編集長になったときのメンバーは、福住時代の椎名さんや篠田(孝敏)さんのほかには大橋(紀生)さんたちですか。
田中:他には六川進、人事異動で『デザイン』の編集部にいた出村弘一、書籍編集部の佐藤とき子(E.H.ゴンブリッチ著、友部直訳『美術の歩み』上・下、1972年や美術選書『ムンク』鈴木正明著、1978年などを担当)で、当時は広告課にいた大橋さんは後から加わった。
三上:(大橋さんは後からなので)それで5人ですね。
田中:個性的な面々で、まとめていくのが大変でした。比較的に波長が合ったのは六川で、椎名、篠田はなかなか難しかった。企画会議をやっても六川はまとめ役、椎名、篠田は人の言うことの揚げ足を取りあったりしてね。出村、佐藤は中立(笑)。
三上:という内情です。では、どうぞ(笑)。
鏑木:はい(笑)。いま挙げていただいた編集部の方たちは、佐藤さん以外すべて男性ですよね。
田中:福住時代は男性ばかりだったから、それで一人入れたんですよ。大下正男前社長時代は、『美術手帖』は編集長が上甲(ミドリ)さんで、女性編集者がほかに2、3人いて、男性は1人か2人だったように記憶しています。ほかに展覧会案内の欄は田村(敦子)さんにずっと頼んでいましたね。たぶん宮澤壮佳さんが編集長だった時からでしょう。
鏑木:田中さんの編集長時代は編集部員の異動はなかったんですか。
田中:佐藤さんが書籍の編集部に戻って、大橋さんが来た。
細谷:それで三上さんが入ったのは?
三上:六川さんが鎌倉近美の酒井忠康さんに引き抜かれて、『江戸時代図誌』(1975−78年)をつくるために筑摩書房に転職したんですね。それで六川さんが空いたので、誰かバイトでもいいからいないかということで、名古屋大学時代の同級生で和光大学で教えていた前田耕作さん(第1回参照)に田中さんから話があったんだそうです。
田中:そうなんですよ。神頼みで「誰かいない?」って前田さんに聞いたら、「三上っていうのがいるから、行かせるよ」ということで、それで来たんですよ(笑)。
三上:3カ月のバイトでもいいからってことだったんです。それで半年ブランクがあって、入社試験があるから受けてよと言われて……。
細谷:なるほど。
鏑木:三上さんがアルバイトをしていたのは、1976年ですか。
三上:そうですね。
鏑木:それで入社されたのが、77年。
三上:その後には越前隆君も来るし、もうひとり名前を忘れたけれど来ましたよね。
田中:越前君はアルバイトだったよね。
三上:そうです。(日本)エディタースクールに通ってましたね。
田中:ほかに私の編集長時代には『美術手帖』には新人はとっていなかった。私の後の編集長は誰だっけ。
三上:木村(要一)さんですよ。
田中:そうだったね。
三上:椎名さんとのトレードで木村さんになったのは、結構劇的でしたよね。『みづゑ』の編集長だった木村さんが『美術手帖』の編集長に、椎名さんが『みづゑ』の編集長になるわけですからね。その人事って、田中さんが仕掛けたんじゃないですか(笑)。
田中:どうだったかな、忘れましたよ(笑)。
三上:そういうことにしておきましょう(笑)。
田中:人事権なんか持ってたわけじゃないけど、こういう案はどうですかとか提案したらそうなってましたね。まだ組合員だったと思うけれど。企業内組合の典型だったから、賃上げだけじゃなく、どうせ金なんか出せないって言われるわけで(笑)。団体交渉のたびに、会社がもうかるためにはこうしてほしい、ああしてほしいと経営内容の提案をしたり、人事のことにも口出してましたね。そうしたら、勝手に人事にまで口出しする影の人事部長だって揶揄されて(笑)。
細谷:では団交の流れの中で、人事のことも意見するわけですか。
田中:いずれにしても専門出版社ですから、大手の出版社のように本も売れないじゃないですか。一応出版労連には入れてもらってたけれど、要求も低いし、結果も最低のほうでしたね。
雑誌の中では『美術手帖』が一番部数を多く出してましたが、宮澤(壮佳)編集長の時代で、3万部ちょっと超えたかなという程度。実売部数はせいぜい2万部でしたね。『みづゑ』は多くて1万部つくって、実売は多くて7、8千部、半分売れたらいいって感じでした。一般誌のように大手企業の広告も入らない。美術学校や画材メーカー、美術展の告知広告や画廊といった業界関係のものが入ればいい方でね。書籍なんかもベストセラーなんて出ない。何年かかかって版を重ねるものがたまにある程度です。
三上:やっぱり書籍は啓蒙的で学校教材・副読本になるような、安い実用書や技法書ですね。
田中:戦後すぐの大下正男社長時代のような豪華限定本(写真集や売れっ子画家たちの作品集など)の時代じゃなくなってきましたからね。『みづゑ』はクオリティー・マガジンとして、大企業の広告を入れてもらうように、大きな広告代理店(電通や博報堂など)に頼めないかななんてことを団交なんかで提案したりね(笑)。
細谷:団交で言っていくんですね。美術出版社の組合は、他の出版社の組合との付き合いはあったんですか。
田中:それほど深く付き合ったことはないですが、前にも言ったけれど、平凡社労組とはよく相談してたんじゃないかな。また出版労連に入っていたから、メーデーなんかでは代々木公園から新橋の土橋まで、毎年行進してましたよ。また近所の出版関係の組合のストなんかの応援に行ったりね。前回にも言ったけど、一時期派手にストなんかも打ってましたね(笑)。団交ではさっきも言ったけれど、余計なことまで口出しするから、役員の間では田中を一度営業部に移動させようなんて言われていたらしいのね。川合さんから漏れ聞いて、そんなことになるなら会社を辞めようかなと思ったんですよ。なにしろ編集しかできない、編集バカだからね。だけど結局営業部には異動させられなくて、40年以上いちゃいました(笑)。
鏑木:田中さんは、編集者気質なんですね。
田中:そうですね、編集者でしかない。編集者から学校の教師になったり、執筆者の側になったりする人が多いですが、自分で文章を書くのは苦手でね。だから読者を想定し、ある本をつくろうと企画を練り、それを誰にどのようなテーマで書いてもらうか依頼し、でき上がった原稿をチェックし、さらに執筆者と納得いくまで打ち合わせて推敲し、最終的に最初のイメージに近いものができ、さらに多くの読者に受け入れられたら編集者冥利ですね。自分では原稿を書けないで、人に書いてもらってさらに注文をつけるなんてね(笑)。
鏑木:田中さんは“書かない編集者”とおっしゃっていますけど、『美術手帖』の編集長として、『出版ニュース』(1975年3月下旬号)に寄稿されていますね。
田中:そんなこともあったか、全然覚えていないですね(笑)。そういえば『デザインの現場』のときも、業界の新聞の取材を受けたことを思い出しました。
編集者がどのような読者を対象に、どのような編集方針で自分たちの雑誌をつくっているかとかいったことを、機会があれば的確に伝えることが大切だと思っているんですね。一編集者としてね。
鏑木:この記事からは、田中さんのスタンスがよく伝わってきました。田中さんに代わってから『美術手帖』がまた変わっていきますよね。
田中:私の前が福住さんでしょ。まあ雑誌というものは美術界の当時の状況を反映するので、その最先端の前衛的な方向に行きすぎてたんですよね。だから一般的な美術愛好家の読者から離れて、売り上げ部数が落ちていってた。それで私は『美術手帖』の創刊時の初心に帰って、徹底的に啓蒙する方針をとるべきだと思ったんです。
鏑木:田中さんには、最初からイメージがあったんですね。
田中:自分がつくる雑誌や書物は、それにかかわるときに読者を想定したり、どういう形で出せばいいかを考えますね。だからチームを組んで数人でつくる雑誌は、編集長が方針を提示して、違う考えをもった人もいますからなんとか折り合いをつけていくわけですね。同じ一つの材料でも、見せ方によって違う。それを編集会議で絞り込んでいくわけですが、小難しく屁理屈を言う者もいたりしてもめることがある。できるだけ誰にでもわかりやすくしようとしていたわけです。
美術の世界は理屈じゃない、単純に言えば興味がもてるか、好きか嫌いかといった感覚的な世界だと思うんです、一般的には。もちろんそれを生業の職業とすれば別ですよ。
細谷:『美術手帖』の啓蒙というのは、いわゆる美術ファンもいると思うんですけれども、それよりも一般のひと向けですか。
田中:近頃は美術ファンどころか美術専門の学生でも知らないという人がいたりね。取材に行っても「『美術手帖』は見てません」と言われたりして、がっかりしたことがありますよ。美術関係の学生も見てない雑誌、なんでつくってるの、だれのために……。
鏑木:それはいつ頃ですか。田中さんが編集長のときですか。
田中:いや、私が『美術手帖』をやりはじめたころも多少ありましたが、もう少し後ですね。私たちが雑誌で作家の所に取材に行くと、多くの作家は『美術手帖』や『みづゑ』はバイブルみたいなもので愛読してましたよ、と気持ちよく取材に応じてくれましたね。むしろ取材されたくて売り込んでくる作家もいたぐらいですね。だけど雑誌の内容があまりにも最先端の小難しいものが中心になりだして、読者が離れていったんですね。
細谷:編集長になってからはどうでしたか。やっぱりまず、美術専門の学生の読者を増やしたいとか、美術ファンたちに向けてとか。
田中:もちろん。だから美術愛好家とかね。美術館で開催されている展覧会によっては、ものすごく人が入っているでしょ。こういう人たちの一部でもいいから『美術手帖』や『みづゑ』を見て読者になってくれればなと思いましたね。
鏑木:具体的な読者のイメージがあったんですね。
田中:すべてではないですが、こういう一般の美術愛好家も対象にね。イギリスに、『The Burlington Magazine』という雑誌がありますよね。あれは非常に権威がある美術専門誌ですね。『みづゑ』はもともと明治末は水彩画の手引きで、啓蒙的な雑誌としてスタートしたんですが、戦後、新生の美術出版社になって、本格的な専門出版社として、それまで出してた『みづゑ』の大判の利点を生かした、きれいな図版中心の鑑賞用で専門性もたかいクオリティー・マガジンにし、新たに『美術手帖』を手軽な美術の啓蒙雑誌としてA5判(小型判)で刊行したんです。できるだけそういうすみわけをしようと。
鏑木:『みづゑ』は割とシンプルな構成だったと思いますが、『美術手帖』は記事もたくさんあって、編集部員も倍いらっしゃる。雑誌の内容やつくり方は、どのように決めていたんでしょうか。
田中:特集主義というか、それは『みづゑ』のときから大特集主義でやってたんですが、『美術手帖』でもそうしようと、とにかくまず何を特集するか決めていた。内外の美術館でやっている展覧会の情報を集めたり、それぞれがやってみたいテーマを出し合い、編集会議にかける。同じテーマや材料を選び、雑誌同士でぶつかることも当然ありますが、雑誌によって全く違いますね。ほかに連載や、作家紹介や時事的情報など、『美術手帖』の方が読む記事が多くなり、図版は参考図版とか挿図的に扱うことになりますね。
鏑木:『みづゑ』よりは日本の作家が多いですね。
田中:必ずそうとは限らない。内外の情報や資料・材料に常に目配せしてますから、日本であまりこれまで紹介されていなくても、特集になったり、作家の紹介で取り上げたりしましたね。そうしたものが取り上げ方では評判になったりね。そのためにも海外主要都市に情報や話題を集めてもらう人と契約して、毎月世界の美術の話題を「今月の焦点」として書いてもらってましたよ。ニューヨークを中心にアメリカは画家の近藤竜男さんとか、フランスは誰に頼んでたんだっけ。
鏑木:前野寿邦さん。
田中:前野さんだった。前野さんも近藤さんも、『みづゑ』でも頼んでましたね。世界の情報はいろいろ役に立ってましたね。ほかには連載ですね。毎年、今年はどんなテーマで誰に書いてもらうとか、長期連載になるかとかね。六川さんの企画で鎌倉近美の酒井(忠康)さんに頼んだりとか(「幕末風景画誌」396−408号、1975年7月−76年6月)。それから誰に頼んでいたかな。
鏑木:田中さんの時代には、波多野哲朗さんの連載「体験史としての戦後映画」があります(391-401号、1975年3月−12月)。これは田中さんの企画ですか。
田中:多分そうでしょうが、担当はほかの人にやってもらってると思います。前にふれたと思いますが、波多野さんは草月アート・センターにいましたから、その頃から知っていて頼んだんですね。『美術手帖』はいわゆる美術の世界(絵画、彫刻といったもの)だけでなく、広く芸術全般(映画、舞踏、演劇など)にわたって取り上げていましたからね。編集者にはそれぞれ得意な分野があって、私があまり得意じゃなかった舞踏とか演劇(特に暗黒舞踏派やアングラ演劇)は篠田さんや、椎名さんに任せていましたね。
鏑木:毎月の1号の雑誌に対して、編集会議はどれくらいやるものなんですか。
田中:取り上げるものによって違いますよ。特集などで大きな展覧会を取り上げるような場合はそんなにもめないですから。いわゆる企画もので、誰かが提案するときは、形が決まるまでかなりすったもんだして、3日も4日ももめることがあったりね(笑)。
鏑木:先々の予定はどれくらい前に決まっているものなんですか。
田中:毎年年末に年間企画会議をやって、1年間を通してどういう方向で雑誌をつくるかといった大きな流れを話し合ったり、特集などは前もっていろんな情報や材料がある程度わかっているものを決めておいたり、連載なども決めて、担当者も決めておきます。毎号の具体的なことは前の号の作業が終わってすぐにね。
三上:出張校正が終わって一服したらね。
鏑木:それではあらかじめ、この時期にはこの特集を、ときまっている部分もあるんですね。
田中:連載以外、特集などはそんなに前もって決まってなかったね。大きな企画展は新聞社の企画部が絡んでいるものが多かった。とくに大衆受けのする観客動員の多い展覧会は、朝日新聞社や毎日新聞社、読売新聞社やNHKなどの宣伝力のあるものが多く、東京新聞社がかかわった企画に比較的個性的で面白いものがあったように思いました。『みづゑ』のほうがヴィジュアルが中心だから、いい素材のある大きな企画展を取材することが多かったですね。『美術手帖』ではヴィジュアル素材だけでなく、どういった角度で、どういった原稿を依頼するかが問題で、会議でもめて大変なときもありましたよ(笑)。
鏑木:そうですか(笑)。特集や記事のアイディアは皆さんで持ち寄って、もめることもあるかもしれませんが、ある意味民主的に決めるんですか。
田中:要するに、言い出したものがある程度組み立てのたたき台を出し、依頼できる執筆者候補の案も出さないと、なかなかうまく進みませんよね。それをもとにそれぞれに考える。代替案などを出し合ってブラッシュ・アップして、決めるんですね。
鏑木:毎号、結構な数の執筆者がいらっしゃいますよね。
田中:いますよ。その都度担当者を決めて、こういう視点で書いてほしいと執筆者と打ち合わせて頼むんですね。テーマによってはなじみの執筆者が決まっていて、スムーズにいきますが、新しいひとも探さなきゃマンネリ化しますよね。
鏑木:誰が担当するかというのは、どうやって決めるのですか。
田中:それは企画編集会議で決める。自分が担当したいという場合もあるし、割り当てられる場合もありますね。
鏑木:連載はひとりの担当の方がされるんですか。
田中:そうですね。だから六川さんが鎌倉近美の酒井(忠康)さんの連載を担当し、酒井係とかね。編集者によってそれぞれずっと連載などで付き合っていて、例えば、椎名さんなどは編集経験が長いから東野(芳明)、中原(佑介)、藤枝(晃雄)係といった具合にね。
細谷:針生(一郎)さんは誰だったんですか。
田中:針生さんは面倒くさいというか、原稿もらうまでにてこずりますからね(笑)。
細谷:では、編集長が自ら(笑)。
田中:前回のインタヴューでふれたけれども、リヒターの翻訳本を針生さんに頼んで大変な経験をしましたからね。原稿取りが面倒だったから、別の若い執筆者を探して、できるだけ避けてたね(笑)。
三上:だから頼まなくなっちゃうんですよね(笑)。
田中:針生さんに連載を頼んだことはあったかな。
鏑木:田中さんの時代にはないですね。
田中:そうでしょう(笑)。
鏑木:特集や連載のほかに、いつも決まっていたのが作家論だと思います。それもやっぱりいろいろな方からアイディアが出て、その都度いろいろな方が担当されるんですか。
田中:そうそう、その時代を反映したある傾向の作家たちを、テーマによる連載とは別の連載のようにして取り上げたりしていましたね。例えば毎日新聞社がやっていた「現代日本美術展」のような展覧会をきっかけに、受賞して目についた作家たちとかね。
鏑木:すごく時代が反映されているな、という感じがします。
田中:福住編集長時代はもっと前衛的な作家たちを取り上げていましたね。例えば、多摩美術大学で「美共闘」(美術家共闘会議)を結成して、反体制運動に参加していた、彦坂尚嘉やその取り巻き連中たちをね。
細谷:多摩美系ですね。
三上:多摩美で教えていた斎藤義重さんが大きいんですよ。
鏑木:ところで、田中さんは、編集長でいらしても記事の担当も含めてお仕事をされてたんですか。
田中:もちろんそうですよ。編集長を入れても6人の体制ですよ。連載を担当することはなかったけれども。
三上:ルネ・ユイグの連載をしていましたよね(ルネ・ユイグ、高階秀爾・中山公男訳「芸術と魂」419−474号、1977年4月−1980年12月)。
田中:以前にユイグの『見えるものとの対話』高階秀爾・中山公男訳(全3巻、1962-63年)が『美術手帖』で連載された後、単行本にしたのは私だったんですが、「芸術と魂」も連載したんでしたっけ。あまり覚えてないですね。
三上:田中さんがやっていたんじゃないですか。
田中:ほんと、はっきり覚えてないな。
鏑木:編集長ならではのお仕事もあると思いますが、具体的にはどのようなものですか。
田中:そんなの特にないですよ。みんなと一緒で(笑)。まあ、あるとしたら、全体の進行やなんかを見て、うまくまとめることかな。
鏑木:編集部員の方たちよりも、売上面など目を配らなければいけないこともあるんですよね。
田中:それは当然ですよね。だから、編集会議なんかはどうやったら読者を増やせるか、ということが重要なテーマでしたよ。あまり小難しくつくっては読者が離れるからね。取り上げ方がついつい理屈っぽくなることが多くて、編集会議を延々と3回も4回もやって、最後はもうお通夜みたいにだまっちゃったりね(笑)。
鏑木:やっぱり私たちから見ると、編集長が変わるごとに雑誌全体のカラーも変わっていく感じがします。
田中:それは変わりますよ。同じテーマを取り上げても、こういう方向で行こうとかは、編集長によって違うのが雑誌ですよ。
鏑木:そういう舵取りのようなことが、田中さんのお仕事なんですね。田中さんが提案された特集というのはあるんですか。
田中:いろいろあるから、あんまり覚えていない。その雑誌を見れば想い出しますがね。
鏑木:象徴主義の特集は、田中さんの提案ですか(特集「象徴主義の作家たち」415号、1977年1月)。
田中:そうそう、一時流行っていたアール・ヌーヴォーが少し飽きられて、それらも含んで象徴主義というくくりで、海外の美術館で展覧会が開かれていたんですね。それらのカタログを取り寄せて、新年号で華やかに見せようということにしたんだと思います。
三上:この号は一番売れて、2万8,000部だしましたね。増刷にもなった。
鏑木:増刷ってすごいですね。
田中:アール・ヌーヴォーや象徴主義は、それこそ海野弘さんや種村季弘さん、大御所の澁澤龍彥さん系統で、以前からよく書いてもらってた。
細谷:それは時代ですね。
田中:ベルギーだったと思いますが、前年に象徴主義の大展覧会をやっているのを知って、すぐカタログを取り寄せてたんです。
三上:3冊くらい、向こうの展覧会カタログがね。
田中:そのころあちらこちらで、大小の象徴主義の作家たち関連の展覧会が開かれていて、カタログを手に入れてましたね。日本ではあまりまだ知られてない、こんなに面白い作家がたくさんいるんだと。それらをもとに新年号で派手に象徴主義の作家大特集を組もうということになり、海野さんに相談したんだと思いますよ。
鏑木:そのカタログが情報源だったんですね。
田中:いろいろ話が前後するけど、芳年の特集の提案は私だったかな(特集「芳年―狂気の構造」387号、1974年11月)。『美術手帖』の編集長になって最初の仕事でしたね。
辻惟雄さんの『奇想の系譜』(1970年)が大評判になってたので、雑誌のイメージ転換のつもりでやったんだと思いますよ。
細谷:部数でいうと、特集「明日への10年 日本美術の新世代」(400号、1975年11月)もありますね。
田中:それは400号記念をどうしようかということで、これからの日本現代美術をリードしていくのは彼らだって、作家名鑑的に総花的に紹介したんですね。
鏑木:これは400号記念なんですね。ひとり1ページを使って作品と解説で構成されています。
三上:この特集に、版画や日本画の作家を入れたのは、田中さんでしょう。
田中:そうですね。いわゆる前衛作家だけでなく日本画や版画で新しいことをやってる人も入れようと。
三上:桑原住雄さんが書いていますよね。
鏑木:田中さんならではの、偏りすぎないようにという配慮ですね。
田中:福住編集長時代は、どちらかといえば最先端の前衛的な作家を取り上げることが主流で、偏ってたんですね。彦坂の系統とか、コンセプチュアル・アート的なものがつづいたりね。すると、読者傾向も偏って、これまでの多くの読者が離れていった。だけど別に新しいものだけじゃなくて、芸術・美術の世界は広いんですよ。歴史的に古い美術の中にも、今の時代に通じる新しさがあって、そういったものも現代の視点で取り上げていく。ジャンルも純粋芸術・美術だけじゃなくて、日本画や版画や工芸などにも新しい表現はある。過去の芸術・美術を見直すことも大切で、例えば明治・大正時代の夭折の画家たちを今の視点で取り上げてみようとかね。
細谷:それは編集の面白さですね。
田中:ある傾向に拘って編集する方が、やりやすくて楽かもしれないけど、マンネリ化しちゃうし、飽きられる。広くいろんなことに目を向けて、どう料理しようかなって編集するのが雑誌で、より楽しいでしょう。
細谷:三上さんによるとこの400号記念号も、比較的売り上げがよかったようですね。
三上:うん、これが2万4,000部ですね。
田中:こういう記念号は売れるんですよ。読者にとってはまとまってみられるし、取り上げられた作家は自分で少しはまとめて買うし、自分の周りの人たちにも買ってもらえるからね、そこがミソ(笑)。
細谷:それは買いますよね(笑)。
鏑木:こういうかたちの作家紹介は、その後も『美術手帖』でつづいています。
細谷:最近の『美術手帖』でも、ついこのあいだも、作家を100人選ぶとかありましたよね。
鏑木:そうでした。編集者が変わっても何年かに一度はやっていて、私たちもよく参考にさせていただいています。
田中:雑誌の定番企画みたいなものですね。比較的によく売れますからね(笑)。
鏑木:それだけじゃないと思いますよ(笑)。
田中:いやいや、それが一番大きい(笑)。
細谷:特集「芸術家としての女性」(407号、1976年5月)。これについても聞いておきたいです。
鏑木:リンダ・ノックリンの巻頭論文、「なぜ女性の大芸術家は現われないのか?」(松岡和子訳)の原著は、1971年の『ART news』です。その5年後にこういうかたちで翻訳を出されたのは、なにか意味のあるタイミングだったのでしょうか。
田中:あまりよく思い出せないですが、松岡さんに翻訳してもらってますね。たぶん椎名さんが松岡さんから言われたのかな? あるいはこちらから頼んだのか?
細谷:この頃はウーマンリブの運動もあり、国際女性年が1975年です。
田中:そういう機運が起こっていたので企画したのかもしれないですね、思い出せないが。特集記事のひとつとして、世界の女流作家の「古今女性作家名鑑」があって、執筆者が大島清次、木島俊介、佐々木直比古、末永照和、千足伸行。
鏑木:ここで、なぜか日本人は上村松園ひとりなんです。海外の作家は戦後の美術家も何人か紹介されていますが、日本人だけ少し不思議なセレクトになっていると思いました。
田中:それもそうですね、覚えてないけど。たぶんノックリンが『ART news』の記事で触れてた作家たちなのかもしれませんね、松園は海外でもよく知られているから。いま見ると海外の作家たちのリストも、私たちや日本の執筆者が選ぶのとは違うように見えますね。
鏑木:そうですね。ただノックリンは近代が専門なので、テキストで言及されている現代の作家は(ルイーズ・)ニーヴェルスンだけなんです。でも「古今女性作家名鑑」には、ほかにも現代作家が掲載されています。
田中:だから肝心なことで覚えてないことが多いですけどね(笑)。
細谷:この特集は、まだ売れてるんですよ。古書ですけれども。
鏑木:そうなんです。この特集号は一時期、やや入手困難になっていました。ノックリンのこのテキストは、今年3月の国際女性デーにART news Japanのサイトで新訳が公開されました(野澤朋代訳)。いま改めて読まれているので、お聞きしました。
細谷:それでは1回休憩しましょうか。
(休憩)
三上:ところで田中さんは、毎月の編集ノートのようなものはつけていないんですか。
田中:つけてない。日々のスケジュール手帖はあるけど。
鏑木:編集ノートって何ですか。
三上:自分の覚えですよ。自分の担当はこれだとか、誰が何を担当するとか。
田中:毎月台割は作っていて、それには担当者も書き入れていたと思いますが、残してはいないし、終わったらもうすぐ次のことにかかってたでしょ(笑)。
『デザインの現場』をやりだしてからは、編集後記をそれぞれに書かせてましたね。『美術手帖』のときは、なにもやってません。
三上:田中さん時代はやってないですね。その後でやりはじめたかな。
田中:やってないでしょ、覚えてないけど。さっきも言ったけど、『デザインの現場』では最初から皆取材こぼれ話じゃないけど、編集後記は書いていた。(今回の聞き取りに当たって)自分の後記を読んでいたら、出だしはいつも季節のことを書いてましたね(笑)。
鏑木:田中さんは『デザインの現場』の後記で、その時々の気候のことを書かれていますよね。
田中:型どおりに毎月ね(笑)。
三上:宮澤さんの時代は、後記をやっている時期があったと思います。
鏑木:宮澤さんは、巻頭言のようなものも書かれていましたよね。
田中:ああ、そうかもしれない。
鏑木:あれはすごく斬新というか、姿勢が読み取れるという感じがしました。
田中:宮澤さんは個性的で、そういうのが好きだったからね。言いたいことがあった人だから。宮澤時代には、前にも言ったけど3万部以上出して、売れていましたよね。ニューヨーク帰りで、ポップ・アートの洗礼を受けて、ウォーホルの大特集なんかしてね。
細谷:時代の風を浴びてきたわけですね(笑)。
田中:ヒッピー族とかも横行しているときで、本当かどうかわかりませんが、俺はアメリカで、麻薬や幻覚剤(マリファナ)も経験してきたと自慢そうに話してました。
鏑木:福住治夫さんから昔お聞きしたんですが、宮澤さんが編集長の時代には『美術手帖』をキオスクに置くという話があったそうですね。
田中:あったことは覚えていますが、結局置いてもらえなかった。
鏑木:それくらい売れていたということですね。
田中:一時期ね。世界中に活気があふれてた時代だったからね。その時代にうまくあったということでしょう。その後そういう状況は全くないし、多様化の時代ですからね。ただコンスタントに1万部から1万5,000部は売れてましたよ。
鏑木:1万5,000部というのは、いまから見るとやっぱりそれなりの数だと思います。
細谷:そうですね。
田中:そうでしょうね。いまは無理でしょう。
三上:だけど、田中さんの時代にも2万部、だいたい売り上げが1万7,000部くらいはずっとキープしていました。
田中:1万7,000部で売れたと騒いでたんだから、たまに2万部を超える特集もあったね。
三上:(実売部数が)発売部数の70%いっていればいいという。制作部の入澤(美時)が毎月つくる、原価表ってあるじゃないですか。あれを見てると雑誌は毎月ほとんど変わらない。
田中:時々記念号とか、特別に力を入れた号では変わるんですね。
三上:雑誌は広告を入れているから、広告収入と広告ページ数の原価のバランスはどうやって取っていたんですか。
田中:広告も含めて雑誌が成り立つわけで、広告があまりとれない雑誌は大変ですよ。専門出版社の雑誌のスポンサーはその専門関連に限られている。一般企業はほとんど広告スポンサーにはなってくれないですからね。美術系の学校や画廊とか。
三上:画材屋もありますね。
田中:広告スペースも小さいし、広告費も安い。大企業広告に比べれば10分の1、いや100分の1だね。
三上:そこが音楽専門雑誌とは違うところですね。同じ専門雑誌でも。音楽雑誌だと、ピアノ1台でいくらって、絵具とは桁違い(笑)。
鏑木:『美術手帖』は広告がたくさん入っていると思っていたけれど、そういうものなんですね。
田中:学校とか、たまに入る大きな企画展の広告は1ページ大で入ることがあっても、単価が安い。数だけは多く見えたとしたら、情報欄や展覧会案内欄の何ページかにわたって入っている、4分の1広告とか3分の1広告のせいですね。
三上:広隆社っていう、美術出版社専属の広告代理店が四谷時代は同じビルの中の同じフロアの一室にあったの。そこが一手に引き受けてたんです。
田中:ほかにも美術広告社とか、3、4社が専属に近いかたちで広告を入れてくれてましたが、電通・博報堂といった大手代理店はほとんどお呼びでない。小さな代理店同士が、少ないスポンサーの住み分けをしていましたね。
三上:いずれにしても、桁が違うもん(笑)。4分の1ページの広告が数万円だからさ。
細谷:そうですよね。桁が違いますもんね。
三上:それではまた雑誌の中身に戻って、始めましょう。
(休憩おわり)
鏑木:それでは特集について、つづけてうかがいます。特集「戦争と美術 戦争画の史的土壌」(424号、1977年9月)についてはいかがでしょうか。
田中:これは戦争画が返還されて公開されるということで、この機会に戦時下の画家が戦争とどう向き合ったかを史的に再考しようということで企画したものですね。(1970年、戦後GHQに接収されていた戦争記録画のうち153点がアメリカから無期限貸与され、東京国立近代美術館に保管された。1977年3月、修復を終えた49点が新収蔵品展で公開される予定だったが直前に中止され、7月に常設展で4点のみが公開された)。その前にも『みづゑ』で戦争画を取り上げて、藤田嗣治とのトラブルがあったりしたので、戦争画をやるのは難しい問題もあるけれど、この機会にぜひ再考しようということでやったんですね。
細谷:言い出しっぺは誰ですか。
田中:誰ということではなくて、なんでもないときに戦争画を唐突に企画にのせることはないので、こういった機会は逃せないということです。
鏑木:このとき戦争画は、東京国立近代美術館が直前で全点公開をやめて、結局点数を絞って公開するということがありました。
田中:戦争画の扱いにはいつも難しい問題があったんですね。描いた画家たちにも、進んで描いたのではなく、描かされたとか、今更触れてほしくないという人も多かった。もちろん、進んで描いた人達もいましたよ。私の親父もシナ事変(日中戦争、1937年)のとき従軍画家として召集され、上海に行ったようですが、いわゆる戦争画を描いたかどうか、何も話さなかったですね。スケッチはしたようだけど……。
三上:教員だったんでしょ(第1回参照)。
田中:教師だったけど、兵隊じゃなく、従軍画家としてね。戦中には、たとえ反戦思想をもっていても(親父はどうだったか聞いたことはない)、招集拒否はできない時代でしたからね。
鏑木:この号の巻頭には、特集の経緯が書かれています。例えば、この画家からは作品図版が借りられなかったとか、ご遺族から断られたとか。割と生々しく、具体的に書かれています。これは田中さんが書かれたのでしょうか。
田中:(『美術手帖』を見ながら)はっきりとは覚えてないけど、そうでしょう。最初の文章は針生(一郎)さんに書いてもらってるけど、いろいろ大変でしたね。
細谷:大変だったというのは。
田中:さきほども言ったけど、今更出されるのは嫌だとか、遺族からも、戦争に加担したように取り上げられるのは困るとか。軍部からの依頼で描かされた人もいましたからね。中には戦争画として優れた絵もある。宮本三郎のものや、藤田嗣治のものはね。針生さんは自分で言ってたけれど、戦時中は軍国少年、戦後は共産党にも一時入党し、左翼的な論陣を張っていたし、戦争と戦争画についてもたびたび書いていた。
鏑木:この号の反響はいかがでしたか。
田中:特にすごく売れたわけではなかったと思います。
鏑木:国内の話題をあつかった特集として、非常にタイムリーだったと思います。
田中:(『美術手帖』を見ながら)戦争と美術を考えるために、当時の状況を知ることができる格好の材料として、戦争末期の昭和19年(1944年)の雑誌に掲載されていた記事を再録してますね(藤田嗣治「戦争畫制作の要點」と座談会「國防國家と美術―畫家は何をなすべきか」秋山邦雄少佐+鈴木庫三少佐+黒田千吉中尉+荒木季夫+上郡卓、『美術』1944年5月)。なぜ戦争画を描かなければいけなかったのか、それを踏まえて、現代のわれわれが戦争画にどう接すればいいのか、なぜ近美が全面公開ができなかったのか、結局戦争画ってなんだということですね。
細谷:めずらしく松田政男さんが書いていますね。これはどなたの流れですか。
田中:誰だったかな。針生さんかな。
三上:篠田さんか椎名さんじゃないかな。
田中:椎名さんかな。ほかに執筆者は織田達朗さんとか。
鏑木:あと、ヨシダ・ヨシエさんですね。
田中:ヨシダさんは戦争画なら俺だと言って売り込んでくるような人だったから(笑)。
そうではないでしょうけれど、原爆の図の丸木美術館などにも深くコミットしてましたから。
細谷:なんとなくわかります。
鏑木:編集部員の方は何人かかかわっていらっしゃるんですよね。
田中:全員ですよ。
三上:特集はいつも全員でやります。何らかの形でね。
鏑木:全員で手分けして特集をやるんですね。
田中:そうそう、全員で手分けしてね。図版の材料集めだとか、特別に撮影しなきゃいけない時もありますからね。
三上:流れとしては、『美術手帖』では、それぞれが担当した執筆者の原稿をとってきて、表記などを整えるけれども、校閲関係は校正部があるから美術出版社の決まりや統一などチェックして、入稿する。
田中:美術出版社はあまり厳密な書き方というのはなかったね。
三上:いや、『美術手帖』は厳しい方じゃないですか(笑)。『文藝春秋』や文学系の出版社は、作家の方が偉いからいいなりに近くて、バラバラ。
田中:まあ、美術出版社で頼む執筆者は文学者のように文章に拘る人はいないし、文章よりも図版のほうが大切。それほど長い原稿じゃないのに、不統一だと読みづらい。平凡社は厳密で、校閲部が充実していて、大変よ。美術出版社をやめてから、つい最近は平凡社で本を出してもらってるから、痛切に感じますよ。
鏑木:結構違うものなんですね。
田中:それぞれ会社で方針があるから、いろいろです。著者が書いたままに近い形で出してるものが多い。誤字、脱字などの基本的なところは校閲がチェックしますから。
鏑木:『美術手帖』のことであとふたつ、うかがいたいことがあります。先程、世界の話題のお話がありましたが、「今月の焦点」はほかに「美術論壇時評」があります。あれは田中さんの時代の途中から、匿名で書かれるようになったんです。1974年は早見堯さん、75年は平野重光さんで、76年からは匿名です。それがどのような経緯だったか教えていただけませんか。また匿名の書き手にどなたがいらしたか、覚えていらっしゃいますか。
田中:よく覚えていない。そういえば平野さんが書いていましたね。毎月の美術界のいろんなジャンルの出来事を、各2ページでトピックスとして取り上げていた欄ですね、いわゆる雑記事。1975年まではそれら全体を括るタイトルは付いてなかった。私が編集長になった翌年の76年から、「ART FOCUS-今月の焦点」として、13、4本をいろんな人に書いてもらってますね。その中の一つが「美術論壇時評」で、1976年からはただの「美術時評」というタイトルになっている。77年以降は匿名で、「美術時評」という冠もとれてますね。これは誰が担当してたのかな。
三上:年間の編集会議で連載などを決めるときに、「今月の焦点」の個々の担当も割り当てていたんじゃないですか。
田中:ジャンルによって強い人がいたから、例えば舞台関係(演劇や舞踏など)は篠田さんがやっていた。
鏑木:「美術時評」が匿名になったのは、理由はあるんですか。
田中:「美術時評」の冠をとった後、匿名にしてますよね。たぶんひとりの傾向じゃなくて、何人かの目で、持ち回りで書いてもらった方が偏りがなくなるとか……。
細谷:複数の眼を持たせるために。
田中:何人にお願いしていたか、まったく思い出せないけど。
鏑木:少し後の時代にはなりますが、時評の書き手だったことを私が直接うかがったのは、平井亮一さんです。
田中:平井さんはいろいろ書いてもらってましたよ。この欄にも割とたびたび名前が出てきますね。
鏑木:平井さんは、何度かお名前をかえて書いたとおっしゃっていました。回によって書きぶりが結構違うので、明らかに平井さんのときと、そうではないときがあるんです。
細谷:それはそれで面白いですね。
三上:平井さんのほかには、あの頃だと末永照和さんもいますよ。それは私が担当したから。
鏑木:ああ、そうなんですか。末永さんならきっと、全然違う傾向で書かれますよね。
田中:書く内容も傾向も、変わってくるからね。しかし、全く覚えてないから、ふたりだったのか、もっとランダムな人選だったのか。その前まではひとりが1年間通して書いていたわけだから、偏りが出るというか、多様な出来事をタイムリーに書いてもらおうということだったかもしれない。
鏑木:そうですね。論壇全体の時評なので。
田中:もう少し広い意味で、目をかえてやった方が広がりが出るからね。
鏑木:もうひとつ。この時期、少し前の『美術手帖』とは書き手がだいぶ変わってきたと思います。美術館の学芸員が、随分と書くようになったと思うんです。
田中:美術館の取材が多いということもあったけど、学芸員にも書いてもらった方がいいんじゃないかという話はしてましたね。批評家や美術記者のような物書き専門の人だけじゃなくてね。
鏑木:それは意識的な選択だったんですか。
田中:意識的にです。美術館の学芸員たちは時事的な批評の文章を書くところが少ない。展覧会を企画して、そのカタログに解説を書くとか、館報に報告的な文章を書くとかでね。
鏑木:そうですね。当時の展覧会カタログは巻頭に館長の挨拶文、テキストの執筆は批評家が多くて、学芸員はどちらかというと解説を書いていた。
田中:ほとんど作品解説とか作家解説。だからそういう人に、時代に沿った評論なども書いてもらおうと、よくそういう話は出ていた。
鏑木:そうですか。田中さんとしても、そういうお考えだったんですか。
田中:『美術手帖』の初期のころにはむしろ美術館の学芸員に、いろんなテーマで書いてもらっていますよ。鎌倉系(神奈川県立近代美術館)とか、近美(東京国立近代美術館)、西美(国立西洋美術館)とかね。
鏑木:書き手としての学芸員は80年代になるともっと増えるんですけど、70年代は過渡期だと思います。田中さんの時代にはもう、御三家は全然書いていません。連載は少しありますけども。それは彼らの年齢的なこともあると思います。
田中:御三家ねえ。中原(佑介)は彫刻や前衛的なもの、東野(芳明)はアメリカ現代美術、針生(一郎)は社会的なものとかね(笑)。三人三様の癖がありましたね。針生さんは遅筆、東野さんは悪筆とかね(笑)。
鏑木:たしかに東野さんは悪筆ですね(笑)。
田中:ミミズがはったみたいな字で、ほとんどの人が読めなかった。解読係がいたんだもの(笑)。
鏑木:それは編集者の方ならではのお話ですね。
細谷:美術館学芸員に書いてもらおうと思ったのは評論ですか、それとも研究論考ですか。作家紹介的に書いてもらったりとかも。
田中:ものによっては、どちらもですね。展覧会に絡んでいろんなテーマが考えられますよね。直接展覧会の作品解説や作家紹介だけでなく、展覧会を取り巻く背景とか、展覧を広く楽しめるようなテーマを見つけて書いてもらう。学芸員は解説がほとんどで、ジャーナリスティックに書く機会が少ない。
鏑木:美術館がいまのような企画展をやりだしたのがこの頃だから、美術館の展覧会が雑誌に取り上げられるようになったのも、この頃かな。その前は、読売アンデパンダン展とか、毎日現代展とか、そういうものが中心ですね。
田中:新聞社が企画にかかわった展覧会が多かったでしょう。だから各新聞社の企画の人たちからの情報も大事だった。美術館独自の企画展でも新聞社や、テレビ局(とくにNHKなど)が共催という形でやって、大いにメディアを使って広報してもらう。
鏑木:そういうことも並行して、ということなんですね。
田中:美術館の学芸員はあまり書くところがないということを、鎌近(神奈川県立近代美術館)と世田谷美術館で館長をしていた酒井忠康さんが、嘆いていましたね。学芸員にジャーナリスティックな原稿を書かせてあげてよ、とね。
鏑木:カタログともまた違う視点で、記事にしていますもんね。
田中:あとは、毎日新聞の美術記者だった峯村敏明さんとか、たにあらた(1947-2020年)さんもよく登場してもらってますね。
鏑木:そうですね。この頃は完全に、峯村さんと藤枝晃雄(1936-2011年)さんの時代です。御三家に代わってね。
田中:そういえば、新御三家なんて言われていたけれど、峯村さん以外誰だったっけね(笑)。
三上:彼らよりちょっと前に、宮川淳(1933-77年)、岡田隆彦(1939-97年)がいたでしょう。ちょっと下には早見堯さんたちが出てくるしね。
田中:宮川さんや岡田さんはちょっと御三家という仕事の仕方じゃなかったね。宮川さんはジャーナリスティックというよりも、美学者、美術史家というかね。岡田さんは『美術手帖』の編集部にいた詩人でもあって、同じ詩人仲間の長田弘(1939-2015年)と同期入社だったんです。
鏑木:ああ、岡田さんと長田さんは同じ年に美術出版社に入社したんですね。よくわかっていませんでした。
田中:そうですよ。その翌年に同年生まれの岩崎清が入ったんです。
細谷:話は変わりますが、1980年に美術出版社は四谷から神保町に引っ越したんですね。
田中:雑誌も単行本もあまり売れなくて、業績不振の大赤字経営で、大借金を抱えていたんですね。
三上:社長の大下敦さんが、社員全員を3階の編集室に集めて挨拶したときに、負債が4億って言ったかな。
田中:4億か5億だよ。いろいろもめてたようだけど、会社のビル(土地も)を買ってくれたのが、『日刊アルバイトニュース』の学生援護会だったんですよ。大下正男時代からブレーンだったか、重役だったかの今泉篤男さんが手回しして、5億だったかで売れたんです。
鏑木:知らなかったです。学生援護会の傘下にいたのは、いつまでですか。
田中:傘下にいたわけでなく、不動産として買ってくれたんです。
鏑木:それで引っ越しをされたんですか。
田中:そうです。本社だけね。系列会社のデザインセンターとサービスセンターは、四谷の本社ビルの後ろに別のビルを建てていましたから、それらはそのまま今もあるんじゃないかな。
三上:神保町は稲岡っていう、紙の問屋さんのビルを借りたわけですね。
田中:取引のあった紙問屋さんの稲岡が、神保町の専修大学前に8階建てのビルをもっていて、そこを借りたのが1980年かな。
三上:1980年です。
田中:この時、私はもう『美術手帖』の編集長ではなかったですよ。四谷時代の1978年に『美術手帖』は下りて、たぶん役員で編集部長になっていて、『美術手帖』の別冊・増刊号の編集部を立ち上げて、神保町に移ったときは、別冊から発展した『デザインの現場』の編集長だったと思います。神保町では最初は、ビルの7、8階の2フロアを借りていたと思いますが、売り上げも上がらないので無駄だということで、すぐ8階ワンフロアになったと思います。それで、どういう訳だったか忘れましたが、私の率いる『デザインの現場』編集部だけ、隣の小さな蕎麦屋のビルの一室(4階だったかな)を借りて独立し、その後専修大学前交差点の角の小さなビルのワンフロアに移り、1年ごとに動いていた感じで稲岡ビルに戻ったと思います。
鏑木:すごい。特別扱いですね。
田中:3、4人のチームだったけれど(ほかにアルバイトやフリーの編集者も2、3人いた)、田中御殿ができたなんて揶揄されてましたよ(笑)。
鏑木:増刊号は1978年とおっしゃいましたが、何からはじまったんですか。
田中:毎年増刊号として出してた、データブックである「年鑑」は本誌の編集者ではなく外部の編集者に手伝ってもらって、私が編集人という形で出したりしてました。『美術手帖』の編集長を離れて、独立した編集部になって最初に出したのは、「現代美術の三〇年」(『美術手帖』436号、1978年7月)です。『美術手帖』が1948年に創刊されて、ちょうど30年目でもあり、目まぐるしく展開してきた戦後の美術を総括する意味で企画しました。なかでも「年表」(「現代日本美術三〇年」北澤憲招+編集部[編])は大仕事でした。北澤さんとふたりで、何日も徹夜したと思いますよ。
細谷:どこかへ泊まり込んだんですか。
田中:ずっと会社で眠ってる暇もなかった。仮眠もしなかったかな(笑)。ふたりとも若かったんだよ。
鏑木:私はこの年表、「現代美術の三〇年」で知ったギャラリーや展覧会が、とてもたくさんあるんです。北澤さんならではの年表で、いまではなかなかわからないことが、ここに凝縮されていますよね。
田中:北澤さんが熱心でね。とにかくふたりで項目選びや資料探しを延々とやってました。本当に大変な仕事でした。
細谷:北澤さんとのお付き合いというのは。
田中:誰かの紹介だったかな。思い出せませんが。
三上:『美術手帖』にいろいろ書いていましたよ。
田中:そうでしたね。福住時代だったか、2号つづけて年表を企画してましたよね(「現代美術の50年」354-355号、1972年4-5月号)。あれは誰がやったんだっけ。
三上:あれは彦坂さんと刀根(康尚)さん、赤塚行雄さん。
田中:ああそうだったか。いずれにしても、北澤さんとふたりでやった年表は大変でした。
鏑木:そうだったんですね。一見コンパクトに見えて、すごく情報量があるんですよね。
田中:いろんな資料を集めたり、資料室に入りびたりで、『みづゑ』や『美術手帖』のバックナンバー(自社の雑誌は創刊以来のものを年ごとに合本にしてあった)はもとより、他社の雑誌や出版物を、全部ひっくり返してね。資料室が割と充実していた。
三上:あの資料室って、田中さんが1960年に入社したときから、もうあったんですね。
田中:資料室は前からあったと思いますよ。資料が命みたいなところが出版社にはあるから、新しいビルが建ってから充実して、整理されて使いやすくなってたですね。
三上:そうでしょうね。写真の紙焼き資料なんかもありましたね。
田中:そうそう、写真資料のキャビネットがならんでた。
三上:台紙に張ってあり、データも書き込まれてたですね。そのとき資料室の横田実さんもいましたか?
田中:司書の資格をもった横田さんは、私より1、2年後にきたのかな。それ以前は総務の人が見ていたのかもしれない。覚えてませんが……。
三上:この年表って、あの資料室がなかったらできないですよね。
田中:そうですよ。なにしろかなり充実した資料室だったからね。具体的にどんな仕事の段取りでやったか、いまは全然覚えてない。
鏑木:もうひとつ、山梨俊夫さんが事項解説を執筆し、受賞記録を編纂されています。いまから見ると、どうして山梨さんだったのかな、と思いました。
田中:山梨さんは神奈川近美にいましたね、若手学芸員として。たぶん酒井忠康さんが、彼はこういうオーソドックスな仕事には適任だよと推薦してくれたのか、以前たまに原稿も書いてもらっていましたしね。あまり信用おけない人じゃ困るものね。
鏑木:そこになってくるわけですね(笑)。
田中:そうです(笑)。
鏑木:この号の編集長は田中さんですが、スタッフの方は何人くらいいたんですか。
田中:増刊、別冊の編集部は私を入れて、ほかにベテランの女性編集者がふたり。
三上:これはふたりでしたね。
田中:河野葉子さんと佐藤とき子さん。河野さんは大ベテラン。それまでも別冊号をひとりでやったり、制作や広告の仕事もしてましたね。佐藤さんは以前に『美術手帖』をやって、その後書籍をやってた。
鏑木:編集長は、何年かに1回は変わるわけですよね。
田中:そうですね。3、4年おきにね。それで『美術手帖』本誌以外に、別冊や増刊号を年に何冊か、季刊ペースで、売れるテーマで考えてくれということだったんです。
鏑木:では企画から全部、田中さんがかかわって。
田中:私が中心にかかわって、企画も、編集作業も。
鏑木:この号は、巻頭で座談会「現代日本美術はどう動いたか」(針生一郎+東野芳明+中原佑介+峯村敏明+岡田隆彦[司会])に参加した批評家たちが、もの派について話していることもあり、いまでも参照されることがあります。というか、ほとんどもの派の話ですよね。
田中:もの派全盛の時代でしたからね。戦後の60年代の反芸術からはじまってね。司会は、美術出版社をやめて評論を書きはじめていた岡田さんに頼んで、御三家に峯村さん(新御三家の一人)をまじえた、そうそうたる面々でした。それに「ドキュメント19」として、30年間を10年単位のⅢ期に分けて19テーマを、当時活躍していた執筆陣に書いてもらった。資料的にも充実した、後々まで役に立ち、必要とされるものをね。
鏑木:非常に充実していますよね。最初からそういうイメージでつくられたんですね。
田中:そうですね。例えば、三木多聞さんに書いてもらった「公募団体」などは、公募団体が結成当時の理念からかけ離れて、ダメになっていく頃だったので、検証してもらった。かつては『みづゑ』や『美術手帖』で、団体展の受賞記録を掲載したり、春秋の団体展がはじまったときには紹介してましたね。大下正男社長の時代には、団体展がはじまると、社長自ら団体展の受付嬢たちの労をねぎらって差し入れをしてましたよ。いつも取材でお世話になるといって。増刊号で毎年データブックとして出していた「美術年鑑」などでも団体を紹介してるしね。
鏑木:最初の増刊号にも、年鑑の蓄積があったわけですね。
三上:ベースとなっているのは、やっぱり年鑑なんですよね。年鑑は、1956年くらいから出たんですよ(「年鑑1957」119号、1956年12月臨時増刊号)。もうひとつは、東京文化財研究所の「日本美術年鑑」。そのふたつが基礎資料になっていて、生きてくるんですよね。
田中:年鑑にいろいろな記録がはいっているから、それらを見ればわかる。
三上:田中さんは78年のこの後、増刊号や年鑑の編集長をやりますよね。
田中:「年鑑」は『美術手帖』本誌の編集長だったときにも、75年だったか、かかわってますね、奥付によると。たぶん河野さんが実質はやったんでしょうが。1978年以降は正式に増刊・別冊編集部になったので、増刊号の「年鑑」(毎年刊行)は当然当編集部で出すことになったんですね。外部の編集者の手を借りてたと思います。
三上:翌年に「アクリル画―材料と表現」(448号、1979年4月増刊)と「版画―基本と展開」(457号、1979年11月増刊)をやるわけですよね。「水彩画を描く」、これは別冊でしょう(『別冊美術手帖』1号、1982年夏号)。
田中:ほかにも編集部を立ち上げた1978年に、「材料と表現」をシリーズ化して出そうということで、その最初として「絵を描くための道具と材料」(440号、1978年10月増刊)などもだしていて、その後も「日本画」(80年4月)、「デザイン」(80年8月)、「陶芸」(81年4月)、「デッサン」(81年7月)、「写真」(81年11月)、と出しましたね。そして、1982年から別冊に変えて第1号として最初に出したのが「水彩を描く」ですよ。別冊は本誌とは別扱いですから、本誌の通巻ナンバーではなく第1号になるんです。
三上:「水彩」の後、「美術ガイド みちのくの美」を別冊2号(1982年秋号として出し、3号として「凧をつくる」(1982年冬号)。この3冊で別冊が始まりますね。
田中:そうですね。このラインナップを見ると、1980年から編集部のメンバーが変わってますね。私と大橋(紀生)さん、出村(弘一)さんの3人に、編集アルバイト兼ライターとして中島優子さんが加わったと思います。季刊の定期刊行物としての別冊と同時に、毎年の増刊「年鑑」と「美術学校案内」も出していた。2号目の「みちのくの美」は東北新幹線が開通したのをきっかけに企画したんです。岩手出身の画家で、以前から画材や技法のことで原稿を頼んでいて、親しかったし、いつも味のある文章を書く人だったので、高橋忠彌さんに巻頭を書いてもらいました。
三上:すごく親しいですよね。
細谷:宮城県美術館が確か1980年ごろに開館したので(1981年開館)、それかなと思いましたけれど、どちらかというと東北新幹線なんですね。
田中:いや、新幹線なんですよ(笑)。盛岡まで開通したときかな。津軽出身の画家の村上善男さんもいました。彼もものすごく親切な人で、盛岡や仙台の取材では、おおいにお世話になりました。
細谷:書き手としてもですね。
田中:書き手としても、高橋さんとはまた違って、いい文章を書くし、出村さんがすっかり村上びいきだったからね。
三上:大橋さんもメンバーだったんですね。
田中:そうです。盛岡や仙台は3人つるんで取材に行きましたね。村上さんも付き合ってくれて、夜は一緒に飲み屋にも行きましたよ、取材と言ってね(笑)。
細谷:本当に美術というよりも、民芸を含めて工芸まで全部。
田中:美術よりも民芸や工芸というか。
細谷:博物館とかもですね。
田中:(『別冊美術手帖』を見ながら)こけしの制作工房もほとんどめぐりました。昔、美術出版社で「こけしガイド」や「こけしの描彩」なども出してましたよ。
細谷:書き手もいろいろな人がいて、博物館の学芸員の方も書いていますね。
田中:そうですね、そういう人じゃないと地元のことは書けないしね。
細谷:そうですね、書けないですよね。
田中:こういう企画をやってるときは楽しいんだよね(笑)。及川廣道という仙台のカメラマンに取材撮影を頼んで、彼は熱心に撮ってくれましたよ。別冊には、こういった時事的な取材ものも入るけれども、その後の別冊でも、増刊号以来の「画材と表現」ものにずっとこだわり続けてましたね。美術出版社の原点でもある、技法書にね。画家などの実作者でも、自分が使ってる道具や材料(画材ほか)の正しい知識のない人が多く、自分の表現にあっているかどうかとか、せっかく苦労して制作した作品が、年代がたったらボロボロになってしまうとかね。
鏑木:もうひとつ、田中さんが増刊号の編集長をされていたときから、「美術学校案内」がはじまります。
田中:「年鑑」のほかに「美術館ガイド」(全国美術館会議編集、1952年から2、3年ごとに刊行され、美術出版社が請け負って編集・出版していた)のようなデータブックも、以前から増刊号で出していたんです。そこで、読者対象でもある美術を学びたい人向けに、いつも広告をいただいている美術系の学校を紹介する、ガイドブックをつくろうということで始めたんだと思います。美術学校というのは、誰がなにを教えているの、とか。
鏑木:そうなんです。この増刊号は、それがわかるんですよね。
田中:美術学校は全国にたくさんあるけれども、それぞれ、どういう考えでやっているのかとか。また学校を網羅して紹介することで、広告スポンサーも協力してくれるだろうし、学生にとっても、1冊にまとまった本でいろいろ比較できるしね。
鏑木:それは田中さんの発案だったんですか。
田中:そうだったように思いますが、編集部みんなでやったものですね。データだけでなく、「美術学校スケッチ」として、口絵もつけて芸大や女子美、多摩美、武蔵美などの主要美大を撮影取材しました。
鏑木:増刊号はデータが充実している点もすごいんですが、学校の取材記事がとても読み応えがありますね。
細谷:なるほど。
田中:撮影取材などでは、例えば芸大の絵画科はどんな様子か、彫刻科は何しているか。野外で石をコツコツ彫ってるところを撮ったりね。版画科はどんな制作をしてるかと。
細谷:面白いですね。学校案内と言えども、記事にして出す。ジャーナリスティックな。
田中:雑誌の形で出すのだから、ただのデータブックじゃ面白くないからね。毎年出してたわけじゃないから、前とはまた違った様子に代わってたりね。それぞれの学校の雰囲気の違いを、うまく伝えられれば成功ですよ。
鏑木:田中さんのこれまでのお仕事が増刊号のアイディアにつながっているんですね。
三上:学校案内の編集は、アルバイトの人もいましたか。
田中:データなどを収集するためや、取材してもらうために、何人か頼んでたと思います。フリーの女性ライターなどね。
鏑木:前に増刊号をやってた人たちもですか。
三上:これはちょっと違いますけど、画材なんかの取材だとライターさんが何人かいたんです。
田中:画材の増刊号のときは、女性のライターが何人もいましたね。美大出の人が多かった。
三上:70年代になると、女性ライターが台頭してきましたね。
田中:美術出版社に出入りしていた女性のライターも、多かったですね。
三上:女性誌に美術欄ができる時代になってくるんです。
田中:私が増刊、別冊から離れてからあとも、本づくりには必ずひとりアシスタントとして、女性アルバイトがついてくれましたね。2、3年で入れ替わってましたが。
鏑木:それでは一時期は男性編集者が多かったかもしれませんが、その頃から女性が増えてきたわけですね。
三上:女性のライターというよりも、男性のライターっていないんですよ。
田中:そんなにはいないけど、男性もいたよ。画材やなにかのとき、ライターとして取材してもらったりした。しかし、いわゆるフリーターはほとんど女性だったね。女性のほうが当たりがいいから(笑)。
鏑木:それは気になる発言ですね(笑)。
三上:もうひとつ聞きたいのは、ADC年鑑のことですよ。ADC年鑑というのは、ちょっと特殊なものですよね。美術出版社というよりも、東京アートディレクターズクラブがつくるもので、編集・制作の本づくりの作業と発売を美術出版社が請け負ってたんですよね。そうすると田中さんの前の担当は、誰がやってたんですか。
田中:私は本づくりは直接やってなくて、それまでいろんな人が引き継いで担当してたんです。毎年、本づくりには半年以上かかるので、私の管理のもとに、外部のフリーの編集者に頼んだ方がいいんじゃないかということになったんです。作業量が非常に多いので、アシスタントをひとり付けて、非常に有能な編集者の井筒章子さんにお願いしました。3、4年続けてやってもらいましたが、彼女の都合で辞められたときに、なかなか適当な人が見つからなくて、また社員の編集者でやろうということで、篠田(孝敏)さんが本づくりを担当し、大橋(紀生)さんが私の代わりに見ることになったんです。この年鑑は1957年に『年鑑広告美術1957』(後に『ADC年鑑』と書名変更)として創刊されていて、以来ずっと、美術出版社が請け負ってきたものですが、その頃はADC事務局は銀座にあって中曽根三枝さんという、しっかりした女性が取り仕切っていた。大橋さんの後、また私が返り咲きで全体を見ることになったとき、中曽根さんがもうお歳なので事務局をやめるということで、事務局ごと美術出版社で面倒見てほしいということになった。中曽根さんが、「田中さんならきちんとしてくれるので、安心ですよ」といって、当時のADC会長の向秀男(1923-92年)さんや事務局長の青葉益照さんを説得して、引き受けることになったんです。美術出版社は事務局の社員を募集して、1991年に堀内由香さんが入社し、今もやってますけどね。
鏑木:ADC年鑑に田中さんが関わられていたのは、増刊時代と重なっているんですか。
田中:最初関わったのは増刊時代というか、後の『デザインの現場』の編集長のときですね。編集部長になっていたので、ほかの出版物も責任者として見ていました。ADCに返り咲いたときは『デザインの現場』の編集長ははずれて、本づくりもしながら役員として全体を見てたと思います。
鏑木:いまのお話だと、ADC年鑑の事務局が田中さんに移ったということでしょうか。
田中:事務局の管理もしてましたね。毎年審査会があるんですよ。そういったこともね。
三上:1週間くらいやっていますよね。
田中:年鑑は、毎年全国の一般のアートディレクターやデザイナーとADC会員たちが、前年実際に使われた1万点近い作品を応募してくるんです。広い会場(私がかかわっていたときは、浜松町にあった都立産業貿易センタービルのワンフロア)で朝から晩まで一日かけて、出品料を取って、受け付けて整理する。そのために、学生アルバイト、武蔵美や多摩美、あるいは桑沢(デザイン研究所)から3、40人来てもらってね。率先してよく働く学生もいたけど、ADCのお偉い先生に会えるからといってくるのもいたね。そうした学生が、卒業して、今度は一般の出品者として作品をもってきたりね(笑)。
翌日から三日がかりで、アートディレクターズクラブの会員(7、80人)全員で審査するんです。大きな作品は、ポスターのB倍判・10連貼りとかね。広い床一杯に並べるのが大仕事で、ポスターだけじゃなく、新聞広告や雑誌広告、机の上に並べて審査するパッケージ・デザインやら、ブック・デザイン、マーク・ロゴのデザインやらと、大小とりまぜ、多ジャンルに及んでましたからね。それを繰り返し入選作を選び、さらに受賞作まで決める。もう、一大イヴェントですよ(笑)。
鏑木:田中さんは、審査会の事務局をされていたんですか。
田中:このイヴェントの全体を仕切っていたんですね。返り咲いてみたら大混乱状態。会員は偉そうにしてるし、アルバイトはうまく動いていないしで。ちゃんとコントロールができなくなってた。
三上:田中さんはデザイナーを先生って言わないし(笑)。
田中:「こんな風にやってたら、何日あっても足りないよ」とか言ってね(笑)。私が前にやってたときには大して混乱してなかった。全体に目配せして、的確に指示するものがいなかったので、嫌がられても全面的にしゃしゃり出て、強引に進めたんですよ。審査はチップ制にして、審査員それぞれに違うマークのチップを、決められた枚数もって、たとえば、フロア全体に大きなポスター作品が並べてあるところで、自分がいいと思った作品を選びチップを置いていって、チップの数を数えて入選や賞を決めるんです。作品の周りを数十人の会員が歩き回って、中にはポンとチップを投げる人もいて、アルバイトの学生たちがはいつくばって、審査の邪魔にならないように気を使いながら票数を数えやすく整理するんです。それぞれのジャンルに会員の責任者がいて、頃合いを見て、わたしと相談して、何票以上、何点あるかをアルバイトのチーフに数えさせて、決めるんですが、なにしろ広い会場で大声で指示する。三日間ですよ。大運動会のようで、へとへと(笑)。美術出版社をやめてからもつい最近(2017年)まで、審査会だけは手伝ってほしいといわれて、駆り出され、2019年まで受付の日だけ、老骨にムチ打って手伝ってました(笑)。
細谷:この間じゃないですか(笑)。
田中:80歳過ぎまで(笑)。
三上:それは一番長いでしょう(笑)。
田中:いまのADCの会長の細谷巖さんが私よりひとつ上。はっきりモノ言う人で、お互いに言いたいこと言いながらね(笑)。
鏑木:ADCの審査会の裏に、田中さんのご尽力があったとは、知りませんでした(笑)。
田中:ADCの審査会がうまくいってるらしいと、工藤強勝さん(1948-2023年、グラフィック・デザイナー)が、JAGDA(日本グラフィックデザイン協会)の会員で、JAGDAの年鑑の審査会を仕切らされていたので、参考のためとかいって見学に来たことがありましたね(笑)。
三上:工藤さんはこの前、亡くなってしまったから。
田中:そうなんですよ。私より一回り下なのにね。残念だけれど。桑沢デザイン研究所の所長(2020年)になったばかりだったのに。
三上:ADCは広告畑の人が多くて、エディトリアルの人も少しいたけど、会員の持ち回りで会の側の年鑑の編集長とブック・デザイナーの担当者を一人ずつ決めるんだけど、田中さんはいつか「本づくりをよくわかってない人がほとんどで、困ったもんだ」と言ってましたね。
田中:結局、美術出版社の担当者がほとんど実作業はしてましたけどね。
三上:それ以降は、堀内さんがやっているんですか。
田中:堀内さんは事務的なことすべて。会場の段取りをしたり、会員やアルバイトの世話、金の問題とかね。受付の日には例えばポスターのB全1枚1万円とかの出品料ですから、大金が集まるので、夕方には銀行に預けに行ったりと、てんてこ舞いですよ。いろんな苦情も堀内さんに言ってくるから、そうしたことをさばくのに、私が行ってるときは緩衝材の役目をしてたんですね。審査に関する作業は担当編集者がやるのでね。いまは実物出品じゃなくて、データで受け付けてるようです。テレビコマーシャルは別に会場を借りて、先行して審査してましたね。実写して。
三上:それを5、6年前までやってた(笑)。
細谷:すごいですね。つい、この間ですよ(笑)。
田中:「来てくれ」って言われるから、まぁ「元気な限りは行くわ」と言って(笑)。
三上:ひとつ確認しておきたいんですけれど、ADC年鑑は最初、亀倉雄策(1915-97年)さんの時代は凸版印刷がやっていました。それが田中一光(1930-2002年)さんになったら、大日本印刷に代わりましたね。そのとき田中さんは美術出版社でなにをやっていたときですか。
田中:たぶん『デザインの現場』かな。
三上:あのとき大日本の営業が、田中一光さんのお陰で大きな仕事がうちに来た、ということで社長賞をもらったようですね。あれは一光さんの意向だろうけれども。
田中:一光さんは、大日本印刷が銀座に開設したggg(ギンザ・グラフィック・ギャラリー)のマークをデザインしたり、大日本との関わりが強かった。亀倉さんは凸版との仕事が多かったんだと思います。一光さんはセゾン・グループ(西武流通グループ)の堤清二(1927−2013年)さんとも深い交友関係にあって、セゾン文化のアートディレクターとして裏方を担っていましたね。
鏑木:亀倉さんから田中一光さんに代わったのは、いつ頃なんですか。
三上:80年代です。あれはデザイン史のなかの1コマだと思うんですよ。亀倉さんは田中さんに、禅譲したんですよ。その発言を、皆の前でしたの。
鏑木:どういうことですか。
三上:「田中一光に、俺の後を継がせる」と。そういう話を聞いたことがあります。
田中:そうだっけ。私はその話は知らないけど、亀倉さんが陽で、一光さんがどちらかというと陰と、ふたりは真逆の性格だったように思いますね。
三上:外にいてもそういう感じでしたね。一光さんの事務所は昔、青山の外苑前交差点の角のビルの上にありましたね。
田中:洋服のブランド、ヴァンジャケットの石津謙介のビルで、屋上にヴァンの大きな看板があり、目立ってた。
三上:「ああ、ここだったな」という感じで、いまは影もかたちもないね。
田中:話は変わるけれど、ADCでのつきあいで、美術出版社のマークのデザインを変えることになったとき、松永真さんに私が頼んだんですね。
三上:あの団子マークは田中さんがかかわったんですか。
田中:そう、あの団子三兄弟のマーク(笑)。その後、2008年だか9年頃から佐藤卓さんの新しいマークに変わっていますがね。
細谷:では次回はそこから伺いましょうか。
田中:たいした話じゃないけど。
鏑木:今日も貴重なお話を、どうもありがとうございました。
(了)