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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

田中爲芳 オーラル・ヒストリー 第3回

2023年6月7日

東京都武蔵野市、田中爲芳邸にて

インタヴュアー:三上豊、鏑木あづさ、細谷修平

書き起こし:鏑木あづさ

公開日:2026年2月13日

インタビュー風景の写真
田中爲芳(たなか・ためよし 1936年~)
編集者
第3回は、第1回、第2回に続き、聞き手に元美術出版社の編集者・三上豊氏をお迎えし、おもに1980年代の『デザインの現場』編集時代のお話をうかがった。画材屋と共同した取材広告記事の立ち上げや、道具と材料さらにはデザイナーの仕事場に着目した独自の編集方針などが語られている。また、この現場性への視点が活かされた『マンガ|スーパーテクニック講座』の制作過程についてもお聞きした。そして、美術出版社退社後、2000年代以降の単行本や画集の編集、デザイナーや写真家との共同の現在についてもお話をうかがった。
なお、本インタビューは田中氏自身による編集が施されているが、インタビュー内容と大きな異なりはなく、時代状況が田中氏の視点から語られている。

三上:今日は『デザインの現場』とそれ以後のお話が中心になると思います。

田中:『美術手帖』の増刊号とか別冊号の話からですね。

三上:別冊と増刊号、前回はそこまでお聞きしたんです。

田中:前回にもお話ししましたが、『美術手帖』から独立して増刊号編集部を立ち上げて、最初に出したのがこれで(「日本の現代美術三〇年」『美術手帖』463号、1978年7月号増刊)、その後に画材と表現をシリーズ化して1981年まで増刊号として出したんですよ(最初が「絵を描くための道具と材料」440号、1978年10月号増刊で、以後6、7冊「アクリル」「版画」「デザイン」「陶芸」「写真」など)。1980年には増刊号の編集メンバーが変わって、1982年の「水彩画を描く」(『別冊美術手帖』1巻1号、1982年夏号)から独立した雑誌扱いの別冊号になったんですね。別冊号編集部として。画材と表現のシリーズは「版画」を除いて、全部単行本化しましたね。

鏑木:それは増刊号で出されたものを、単行本化したということなんですか。

田中:そうです。増刊号で出して3年目くらいにね。

鏑木:それはやっぱり、ニーズがあったからですか。

田中:この画材と表現のシリーズの増刊号はよく売れましたね。でも増刊号という雑誌の形のままでは本屋さんでは長く売れないですよ。だから単行本に変えて、書籍として流通させれば、よく売れれば重版もできますから。なかでも1980年に出した「デザイン|道具+材料」はよく売れた。特にいろんなジャンルのデザイナー(第一線の現場で活躍するイラストレーターからデザイン事務所や大企業の工業製品のデザイン部門まで)の仕事場の取材が評判で、それで『別冊美術手帖』で多様なデザイナーの仕事場20か所以上を取材して編集した「デザインの現場から」を3号立て続けにシリーズ化して出したんです。

鏑木:「デザインの現場から」の最初は別冊2巻4号(1983年春号)ですね。

田中:そう、83年に春、秋、冬号とね。この「デザインの現場から」が、またよく売れた。それでこれを独立したヴィジュアルな新雑誌として出すことにしたんです。判型も『美術手帖』(A5判)より大きく、週刊誌大(B5判)にして『デザインの現場』としてね。

鏑木:そういう流れだったんですね。

細谷:単独の雑誌にしよう、というのは誰が言ったんですか。

田中:私が役員会議で提案したんだと思います。よく売れていたし、以前に『リビングデザイン』(1955-58年)から『デザイン』(1959-72年)、『季刊デザイン』(1973-77年)、『デザイン』(1977-79年)と、デザイン雑誌を継続して出していたんですが、部数が伸びなくて、結局デザイン関係の雑誌は休刊にしていた。

鏑木:最後の『デザイン』の休刊は1979年でした。

田中:現場取材だけで出したので、『デザインの現場』はデザイン界の『FOCUS』と一部では揶揄されていましたね(笑)。『FOCUS』は、当時、新潮社から出ていた写真週刊誌で、スナップ的な写真を中心に編集した覗き趣味のような雑誌ですね。最初は『別冊美術手帖』の枠で隔月刊の独立した雑誌としてスタートしました。

細谷:じゃあ、しばらくは『別冊美術手帖』がついてるんですね。

田中:取れたのは1986年かな。私が役員としての立場で、全体を見ながら単独でいろんな編集企画を進めるために、出村弘一さんを編集長にして、それをきっかけに単独の隔月刊雑誌にしたんですね。

三上:タイトルに“現場”という言葉を入れたのは、さっき覗き趣味という話もありましたが、その辺につながってるんですか。

田中:以前に出した増刊号の「デザイン|道具+材料」のときからというか、増刊号の道具と材料シリーズでは、最初の「絵画」からいつも必ず十数人の作家の仕事場(現場)取材をしていましたし、先ほども言ったように評判がよかった。増刊号の売りの一つだったんですよ。とにかく材料や道具の紹介だけでなく、それを作家たちが実際に現場でどう使っているかを見せようと。すると、人によって使い方はいろいろあって、それが参考になるし、面白いですね。「え、こんな使い方もあるの?」とか。だから『デザインの現場』の前に『別冊美術手帖』で出した3冊は「デザインの現場から」としたんですね。独立して「から」を取って単独の雑誌らしくね。

鏑木:『別冊美術手帖』のときの「デザインの現場から」という特集名は、田中さんが出されたんでしょうか。

田中:そうだったと思います。編集部の3人で相談しながら。

鏑木:「デザイン|道具+材料」というタイトルとは、少し意味が変わってきますよね。

田中:当然変わってきますね。「デザイン|道具+材料」というときの現場(仕事場)取材は、主体の道具と材料の知識を紹介して、それがどこでどう使われているか、その実態を見せることで補完しているんですね。この記事がさっきも言ったように一番興味を持たれた。実際の現場で道具や材料はデザイナーにどう使われているんだろうとか、どんな事務所で、どんなメンバーでやっているんだろうかとかね。覗き趣味じゃないけど、そういう仕事をやりたいと思っている人たちや、同じような仕事をしてる人にも参考になるんじゃないかと。

鏑木:きっと当時は、そんな雑誌はなかったですよね。でもそれが後々、別の新しい雑誌として立ち上がるくらい売れたということなんですね。

田中:そうですね。特に大判(B5判)の独立したヴィジュアル・マガジンにしてからは、隔月の定期刊行物らしく、特集の記事を組み、ほかに連載記事として「ふるさと手わざ紀行」、技法の「handmade working」、画材の「デザイン[道具・材料]百科」、それからトピックスの「DESIGN FORUM」、メインの「デザイナーの仕事場」(10人前後の取材記事)などで構成しました。ほかに、編集部の主体的な提案で企画広告のページ「PRのページ」をつくろうということで、7、8本の見開き取材広告記事を編集部でつくったんですね。これまで美術出版社のスポンサーは画材関係、学校、美術館・画廊がほとんどで、まずそこから始めようとなった。それで、美術出版社内に事務所を置いていた、専属に近い広告代理店・広隆社の堀井武夫さんと相談したんです。

細谷:広告を記事にしたんですね。

田中:「企画広告のページをつくりたいので、協力してくださいよ」ということでね。最初は得意の画材メーカー関連でね。

鏑木:(目次のコピーを見ながら)この「PRのページ」というところですか。創刊号だとホルベイン画材、丸善美術……。

田中:そうそう。最初は全部画材関係です。

鏑木:こういうページをつくるということも、田中さんのアイディアだったんですね。

田中:そうですね。「日常生活の身近なモノづくりをしているデザイナーの『デザインの現場』を取材する雑誌をつくれば、広告が取りやすいんじゃないか」ということでね。美術出版社のこれまでのスポンサーの画材屋や画材メーカー、学校の広告だけじゃなく、一般大手企業の広告にも展開したかったんです。それで広告部を通じて、電通や博報堂といった大手の広告代理店にも掛け合ってもらったんですが、専門書の出版社の雑誌というイメージが強くて無理なんです。それで、先ずはこれまでつきあってくれていた画材関係のスポンサーということになったわけです。「材料と道具」の記事を連載シリーズ化して、関連して見開き2ページで各メーカーの画材をデザイナーに使ってもらって、その現場を取材する「PRのページ」という企画広告を始めたんです。それでさっきも言った、広隆社の堀井さんと2人で東京はもちろん、関西の画材屋やメーカーにもお願いしてまわったんです。毎号打ち合わせにも行きましたね。

鏑木:堀井さん?

三上:広隆社の社長さん。

田中:広隆社は『美術手帖』のメインの広告代理店で、2人でやっていた小さな代理店だけれども、特に画材関係や学校、画廊が専門。

鏑木:『美術手帖』のホルベインの広告で作家さんを取り上げているのも、似たような感じなんですか。

三上:『美術手帖』の表4のあれは、ホルベインさんのほうで取材してつくった、いわゆる広告原稿。

鏑木:そうですか。あれは全然、別なんですね。

田中:そうです。『デザインの現場』のほうは、画材屋さんとその都度、取り上げる画材と作家を相談して決めて、編集部が仕事場を取材して記事にしたんです。いずれにしても、広告をできるだけ多く入れないと雑誌は成り立たないですね。雑誌そのものの売り上げだけではとても無理です。一般雑誌に近づこうとしても、やはり専門誌扱いですから、実売部数は知れている。

鏑木:そうなんですか。

田中:『美術手帖』も『デザインの現場』も部数はあまり変わらないんじゃないかな。

三上:2万部ちょっとですね。

鏑木:え、でも2万部って結構な数ではないでしょうか。

細谷:専門雑誌としては結構な数ですよね。

田中:そうかもしれないけど、製作原価がかなりかかっていますからね。『デザインの現場』では、とにかく幅広く取材対象を広げて、デザインの面白い商品が出たとか、これをやったのは誰だとか、読者が興味を持ちそうなものに目配せしていましたね。例えば、最近の文房具が面白いと思ったら、その会社のデザイン室を取材したり、新車の車のデザインが気になるから自動車メーカーのデザイン室やデザイナーをとか、コンピュータ時代になって、1980年代初めにアメリカのApple社がMacintoshを出して、それが新しいデザインツールとして使われているというので、その現場を取材、紹介するとか。

細谷:広告でもあり記事でもある、ということですね。

田中:編集部がつくった取材記事で、スポンサーからは画材提供と、編集制作費はもらっていますが、広告部の広告費収入とは別扱いですね。

鏑木:『デザインの現場』の表紙タイトルの横には、当初から「生活を作る」というキャッチ・コピーが入っています。いまのお話だと、日常生活の中で気になったデザインが取材の対象になっているということですね。

田中:そうですね。普段の生活の中で使われているものは、どんなものでも全部誰かデザイナーがかかわっている。そのデザインが素晴らしくても、ダサいと思うものでも。そうしたものづくりにかかわっているデザイナーが、何を考え、どんなところで、どういう作業をしているかということですね。だから「生活を作る」なんです。

鏑木:そう考えると、70年代末に休刊した『デザイン』とはまったく違うアプローチですよね。

田中:だから『リビングデザイン』からはじまった『デザイン』という雑誌は、デザインの理論追及とか、デザイン批評的なところが強かった。『デザイン批評』(1967-71年、風土社)という雑誌も出ていたでしょう。

細谷:それまでのものは、本当に専門誌という感じですね。

田中:以前の雑誌は、デザイン界の第一線で活躍している人たち、グラフィック界じゃ亀倉雄策さんとか田中一光さんといった、すごい人を取材し、批評家たちが評論紹介している。『デザインの現場』では、そういったデザイナーも含まれますが、さっきも言ったように、我々が見せたいのは、デザインされたものが主体で、誰がどのようにして生み出したのか、理屈でなく、その現場の有様を紹介した方が、読者にとっても面白いんじゃないかと。「ああ、こんな工夫をしてつくっているんだ」とか「こんなこだわりでデザインしてるんだ」とかね。ものの見え方も変わって来るし、デザインへの関心も深まるんじゃないかと。

細谷:そうすると、いわゆるデザインの専門雑誌というよりも、より一般の人たちに向けてデザインのことを。

田中:そうですね。生活の中で、デザインという意識をもってものを見れば、楽しいし、面白いよ。ものによって、なんでこんなに使いにくいのとか、格好つけてデザインしすぎだよとか。

鏑木:おそらく当時はポストモダンのデザインが流行っていた時代だったと思いますが、『デザインの現場』を拝見していると、もう少し身近な、生活に密着しているものを取り上げていることが多いですね。

三上:ちょっと話が変わりますが、年代を確認しておきたいんですが、1986年の4月の『デザインの現場』13号で、田中さんが編集人という肩書になってますね。14号、86年6月から編集長が出村弘一さんになります。そうすると編集人ということで、田中さんがちょっと上になっているわけです。編集人になっても、『デザインの現場』の編集には関わっていたんですか。それとも、もう少し外れていたんですか。

田中:この年、久しぶりに3人の新卒を採用した。藤崎圭一郎さんを『デザインの現場』編集部に、楠見清さんを『美術手帖』編集部に、今や美術批評家として活躍している椹木野衣さんを営業部に入れたんです。それをきっかけに人事異動をして、たぶんそのとき私は取締役編集部長の一人になったんでしょうね。そのときの人事移動で大橋紀生さんが『美術手帖』の編集長になったんです。それで私は、雑誌全体をトータルにみることになり、直接それぞれの雑誌の編集には関わらなくなった。それで、単独でいろんな本の企画・編集もやることになったんですね。企画に応じてその都度、外部からアシスタントの編集者をつけてもらってね。

三上:1988年から、「漫画」のテクニック講座が始まりますよね。

田中:最初は『デザインの現場』の1988年3月号増刊として、『マンガ|スーパーテクニック講座』をつくったんです。

鏑木:そうですね。『デザインの現場』26号となっています。

田中:『デザインの現場』増刊号で、『マンガスーパーテクニック講座』を、どういういきさつでつくることになったのかは思い出せないですね。

三上:だって田中さんは、ほとんど漫画を読んでないじゃないですか(笑)。

田中:そうなんですよ(笑)。ほとんど読んでなかったし、漫画そのものにはあまり関心はなかった、むしろ漫画の食わず嫌い(笑)。

細谷:漫画嫌いだったんですか(笑)。

田中:少年時代は戦争中で、田舎暮らしだったから、漫画といえば田河水泡の「のらくろ」、横山隆一の「フクちゃん」とか、長谷川町子の「サザエさん」といった新聞や雑誌の連載などの4コマ漫画。その後は、上京して美術出版社に入る前年(1959年)に、『週刊少年マガジン』(講談社)と『週刊少年サンデー』(小学館)、1968年に『少年ジャンプ』(集英社)などが出て、それらが発売された日の満員の通勤電車で見ている人がやたら目についた。だけど、私は一度も週刊漫画雑誌を買ったこともなかったですね。1990年代には『ジャンプ』が600万部を超えたとか、そんな漫画大ブームを横目に見てた感じです。アニメ化された劇画(手塚治虫「鉄腕アトム」など)を見た程度です。

鏑木:どこから出てきた企画だったんですか。

田中:いきさつは先ほど言ったように覚えていませんが、『デザインの現場』や別冊・増刊号で、道具・材料や技法・表現とその現場取材をテーマに拘って雑誌づくりしているのを見て、「マンガの現場」もつくりませんかと、デザイナーの小森ネコ(本名:松井美奈)さんから声がかかったんじゃないかと思います。小森さんと何をきっかけに知り合ったかも思い出せないですけれど。そういえば漫画の道具や材料はやっていなかったけれど、美術出版社的なアプローチでやれば面白いなと思いました。漫画家志望の少年たちも多いし、漫画のシリーズを出し始めてからですが、晴海の東京国際展示場、その後の有明の東京ビッグサイトでのコミケ(コミックマーケット)も2、3度行ってみましたけど大盛況でしたからね。

鏑木:小森さんは、何のデザイナーさんなんですか。

田中:グラフィック・デザイナーです。エディトリアル関係の仕事もしていたデザイン事務所にいて、その後独立した人で、美術出版社のほかのセクションの人と仕事をしていたのかもしれない。やさしい技法書などのデザインもやっていたようだから。やはり思い出せないけど。

鏑木:『デザインの現場』でお仕事を依頼されたことはないんですね。

田中:ありませんね。ほかのセクションでもやさしい技法書をつくっていたからね。1986年以後は私は役員になっていて、単独で企画・編集をしていた。いつも編集アシスタント一人についてもらっていて、企画によって外部のスタッフに頼んだり、臨機応変に外部の人に来てもらっていました。先ほども言ったように、『マンガ|スーパーテクニック講座』はたぶん小森さんからの話だと思います。早速具体的につくろうということになり、彼女の妹の漫画に詳しい、まついなつきさんや、編集アシスタントとして一緒に編集作業をしてもらった六田美佐子さん(その後の2冊のマンガテクニック・シリーズも)をはじめ、編集コーディネーターとして参加してもらった広井てつおさん(村野守美氏に師事)や、漫画界の大御所・手塚治虫氏のアシスタントを務め、手塚プロダクションにも在籍し、青年漫画界に村野イズムを定着させたといわれる村野守美氏も紹介してくれたんだと思います。

鏑木:ではそういう具体的なお話が、小森さんからあったかもしれないんですね。

細谷:企画案が。

田中:そうですね、たぶん。なにしろ漫画界は門外漢だったからね(笑)。具体的には彼らから話を聞いて、巻頭で村野さんに「漫画とその表現」を書いてもらい、広井さんに「マンガの基礎テクニック|マンガの現場」を書いてもらい、さらに、この号のタイトルを象徴するようなテクニシャンの福留朋之(フリーのマンガ家アシスタント)さんに「背景|街景のスーパートーンテクニック」という、スクリーントーンを自在に操った魔術師的超絶技法を駆使した、リアルな表現を披歴してもらった。すごいテクニックだったですね(笑)。

鏑木:田中さんがびっくりするくらい。

田中:そうです。それでほかには、漫画家の仕事の現場を「MY WORKS」というくくりで、池上遼一、江口寿史をはじめ、かわぐちかいじ、内田春菊、桜沢エリカ、上條淳士、大友克洋ら、当時の人気漫画家25人を取材しました。金沢で少女漫画を描いていた森川久美さんには「少女まんがのエクリチュール」というタイトルで、少女漫画の魅力について語ってもらった。ひろき真冬さんには「CALLING」というオリジナル作品を描いてもらい、そのスーパーテクニックについて語ってもらっています。

細谷:私はまだ表紙しか見ていないですけれども、池上さんやかわぐちさん。あとは若手が多いですね。

田中:表紙は売り出し中の若手も若手、上條淳士さんに頼んだんですよ。小森さんの推薦でね。それで小森さんと一緒に小田急線の成城学園前まで頼みに行った。

鏑木:あの表紙は書下ろしなんですね。

田中:成城学園前駅の近くの喫茶店で会ったんです。こちらは親父でしょ(笑)。長い赤毛で、ナウい恰好をした青年で、Yokoとか言ったかな、一緒に仕事をしている女の子を連れて現われたんです。

細谷:よく覚えていますね(笑)。

田中:そりゃ忘れませんよ、自分の息子より若いカップルで、どう話していいか戸惑っちゃいますよね(笑)。だけどとにかく「マンガのこういう雑誌をつくるんだけど、あなたに表紙の絵を描いてもらいたい。それと仕事の現場の取材もしたいと。小森さんがいま売り出し中で勢いのある上條さんに頼もうということでね」と言って頼み、快く引き受けてもらった。その後、このときだったか、原画ができて受け取りに行ったときだったか、「僕たちもこれから新宿のほうに出かける」というので、一緒に電車に乗ったら、ほかの乗客からきょろきょろ見られちゃってね。どういう取り合わせだろうとね(笑)。

鏑木:上條さんがその恰好では目立つでしょうね(笑)。

田中:話はズレるけれども、うちの(田中のパートナーでウェアラブル・デザイナーのこと)が、つい最近まで毎年吉祥寺のギャラリーで服飾の展示会をやっていたんですが、そのギャラリーは漫画家の展覧会もしょっちゅうやっていて、数年前たまたま、うちのがやる前の週に江口さんがやって、うちの後に上條さんがやることになってたんですね。何年振りかで江口さんと上條さんに会いましたね。江口さんとは比較的最近(それでも17、8年前)までいろんな本づくりでお世話になりましたが、上條さんとは雑誌の表紙を頼んだとき(1988年)以来30年振りに会ったんです。「お互いに昔とは変わったね」とかいうことになって(笑)、驚きました。

鏑木:表紙が上條さんだから目を引いたということもあるんですね。上條さんのファンの方が買うということもあるでしょうし。

田中:そうですね、とにかくよく売れましたよ。普段の美術出版社の雑誌ではありえない3万部以上を出して、すぐに売り切れましたね。

細谷:上條さん以外にも、大友克洋さんや江口さんなど、当時人気のあった漫画家がいっぱい出ているから。人選は基本的には小森さんからの提案ですか。

田中:編集コーディネーターの広井さんを中心に、小森さんやその妹さんのまついさん、六田さんら、編集にかかわった人たちから提案してもらって、相談して決めたと思います。村野さんの所には私も一緒に依頼しに行きました。江口さんや大友さんは私の近所の吉祥寺界隈に住んでいたので、依頼や取材には一緒に行きましたね。取材する皆さんの作品はほとんど読んでなかったけれど、付け焼刃で大友さんの「AKIRA」を読んで、勉強して、画材と表現のシリーズでの作家取材同様に紹介しました。

細谷:美術家の現場を取材するのと、漫画家の現場を取材するのでは違いはありますか。漫画家はここが面白かったとか。

田中:特に違いはないですね、モノづくりという点では。ただ、美術家はたいてい、別に締め切りがなく、自分一人の世界で一枚の絵を描いている。雑誌連載など、劇画のような物語漫画は、締め切りがあって、多くのページや多くのコマをつくるので、スミ入れ、トーン貼り、背景描きなど、多くのアシスタントを使って、分業で描いてる人も多く、工房作業ですよね。とにかく取材に立ち会って、いろんなタイプの漫画家を取材できたのは楽しかったですよ。一冊目に村野さんや広井さん、特に福留さんのトーンテクニックを中心に、『マンガ|スーパーテクニック講座』を出したのは大成功で、大評判になり、初版から3万部以上をつくってすぐ完売だったと思います。それで2カ月後に単行本化して書籍扱いにし、それもすぐ売れて2カ月間に3刷りまで行きましたね。その後も重版を重ねて、たぶんトータルで10万部近く出したと思います。

鏑木:すごい。やっぱり漫画は、読者層が全然違うんですね。

田中:この「マンガ|スーパーテクニック講座」をシリーズ化して、翌年の1989年に『デザインの現場』3月号増刊、33号として「マンガ|基礎テクニック講座」、90年にやはり3月号増刊で「マンガ|応用テクニック講座」を出し、いずれもその年の4、5カ月後に単行本化しました。「基礎テクニック講座」の巻頭で、手塚治虫さんに「漫画を描くということは……」というテーマのインタビュー取材をお願いし、了解を得て予定していたんですが、病気のため不可能になり、それまでに書かれた文章などから引用してまとめて記事をつくりました。残念ながら手塚さんはこの雑誌が出る直前に亡くなられて、ご覧いただけなかった。この号ではほかに、佐藤真由「マンガの道具・材料の使い方」、ちばてつや「ぼくのマンガ人生」と、汐崎まことのコミック「うらうら」、それと例の通り「MY WORKS」として、いしかわじゅん、蛭子能収、小林よしのり、しりあがり寿、松苗あけみ、岡崎京子ら29人を取材しました。表紙は松苗さんです。3冊目の「応用テクニック講座」はキャラクターづくりをテーマにしようということで、表紙が吉田戦車、巻頭は永井豪「キャラクターは漫画のキー」、一本木蛮「キャラクターづくり|技術編」、小林まこと「キャラクターはとにかく顔!」、多田由美のコミック「ハリウッド・コーリング」、「MY WORKS」で、きたがわ翔、鈴木由美子、吉田戦車、ささやななえ、赤星たみこ、山田芳裕らを取材しました。それまで漫画関係の出版はしていない門外漢の美術出版社では、漫画家に接触する手掛かりがない。取材するための連絡先などを、漫画雑誌を出している多くの大手出版社の編集部に頼まなきゃいけないんですよ。小学館や集英社、講談社の編集部に「この漫画家を取材したいんですけど、どうしたらいいですか」って、お願いをしたんですね。そうしたら小学館の漫画雑誌編集長に、「美術出版社でどうして漫画にかかわる雑誌を出すの」って言われ、「漫画家に作品を描いてもらう雑誌ではなくて、美術出版社の領域である、漫画を描くための道具・材料や表現といった技法書で漫画家さんたちを取材したいので」ということでお願いし、皆さん快く教えてくれました。もちろん断られたこともありましたけれど。先ほども言ったように、テクニック・シリーズがよく売れたのを知って、小学館の編集長に「うちでやりたかったよ」と言われましたね(笑)。この3冊のシリーズの後、1994年から95年にかけて季刊『別冊美術手帖|マンガテクニック』として4号まで定期刊行し、その後『別冊美術手帖|コミッカーズ』とタイトルを変えて出してましたね。これらは楠見清さんが編集長だったかな。「マンガテクニック」の1号の表紙は、かわぐちかいじさん、3号は江口寿史さんに私が頼んで描いてもらい、1995年に原画を精巧なリトグラフで一枚ものの版画のように印刷し、それぞれにサインをしてもらい、それぞれ100枚だったと思いますが……。

鏑木:え、原画がリトなんですか。

田中:いやいや、原画は手描きの作品ですよ。

鏑木:それは付録のような形で、ですか。

田中:単発の作品として、希望する読者にたぶん1万円ぐらいで売ったんだと思いますよ。値段は忘れましたけどね。

三上:一応、1995年の4冊で「マンガテクニック」は終わるんですね。結局、86年に取締役部長になっているんだけど、田中さんはずっと現場につきあいますよね(笑)。

田中:いや、つきあうというよりも自分で新しくやりたい企画を考えて、やってたんですよ(笑)。

三上:だって、記事を書くわけじゃないんでしょ。

田中:記事は書かないよ。編集企画を立てて、取材を手配して、アシスタントのライターやカメラマンと一緒に取材に行って、記事にしてもらう。あくまでも生涯現役の一編集者でいたわけです(笑)。

鏑木:1986年から取締役部長になられている。

田中:いや、それもはっきり覚えていない(笑)。

三上:結局ね、ずっと同じように仕事をしてるし、現場にも行くじゃない。だからいつ役員になったか、わからないんですよね(笑)。

鏑木:ご自身では、境目がないんですね。

田中:辞令が出たような気がするけど、思い出せないし、どっか行っちゃった。古い話だから(笑)。だけど役員会議には出てましたよ(笑)。

鏑木:さっきも少しお聞きしましたが、『デザインの現場』の第1号では、奥付では田中さんは最初から編集人なんです。このときは(奥付に)編集長という役職の方はいらっしゃらない。

田中:編集人兼編集長だったんですね。

鏑木:出村さんが編集長になってからも、田中さんは以前通り編集人のまま名前が残っている。このときに、さっきおっしゃっていたようにお仕事の内容が少し変わることがあるのでしょうか。全体的なことをなさるとか。

田中:編集会議には出ていたのかな、編集の実作業は全部新しい編集長に任せていたと思いますが。覚えていないな。

鏑木:ところで、前回の最後におっしゃっていた、松永真さんに依頼して新しくできた、美術出版社のお団子マークの件についてですが。

田中:ああ、あれはね。役員会議で、たぶん社長から話があったんだと思うけれども、会社のマークを新しくしたいと。当時、松永さんが『ADC年鑑』の編集担当をしたり、ADCの会員賞を何度も取ったり、活躍が目立っていたので、それで松永さんに頼もうということになったんだと思います。前回にも言ったけれど、その頃から(1980年代終わり頃)、私は東京アートディレクターズクラブ(ADC)の審査会で会員たちとも深くかかわっていたので、私から松永さんに頼んだんです。松永さんはマーク・ロゴのデザインでも賞を取ってますから。

三上:松永さんは、エディトリアル・デザインにはほとんど関わってないでしょう。

田中:そうだね。ただADC年鑑は、会員の回り持ちというか、松永さんもマークを頼んだ前後に、編集を担当してますよ。

鏑木:そのお仕事の流れで、松永さんにマークを依頼したんですか。

田中:それもありますね。マークを依頼するにあたって、美術出版社がどういう会社機構になっているかを伝えたんです。まず、本社として雑誌や書籍などを刊行・販売する、いわゆる「美術出版社」が初めにあって、その後、展覧会カタログを受注してつくったり、デザイン関連の業務を行う「美術出版デザインセンター」、画材や学校教材をあつかう「美術出版社サービスセンター」ができ、3つの株式会社からなるグループ会社だということをですね。それを受けて、松永さんが、BSSとあの3つの丸印(お団子)を組み合わせたマークを提案して来たんです。本社はBSSの上に横一線に、デザインセンターは右肩上がりに、サービスセンターは山型に3つの団子を載せて、使い分けたものをね。

鏑木:美術出版社の本の背表紙に、BSSの上に横一線のマークがついていましたよね。

田中:(メモを見せながら)これ、松永さんがお団子マークのデザインを提案して来たときのメモです。

鏑木:へぇー。これは何に掲載されたんですか。

田中:どこにも掲載してませんよ。プレゼンのメモです。

細谷:プレゼン資料ですね。おもしろいですね(笑)。

三上:この前のBSSというマークは誰がデザインしたんですか。

田中:誰だか覚えていません。ブラウン管時代のテレビ画面のような枠の中にBSSを入れた、これですよね(BSSマークを見せながら)。

鏑木:松永さんのお団子マークになったのは、80年代ですか。美術出版社のマークの変遷というのが意外と調べられなくて。

三上:80年代ですね。私がまだ美術出版社にいましたよ。会社のお団子マークがついた新しい紙袋ができてきたときのことを覚えている。

田中:はっきりとは覚えてないけど、たぶん80年代後半でしょうね。

鏑木:お団子マークは3社で実際に使い分けていたんですか。

田中:使い分けてましたよ。各社の名刺なんかにも入れて。その後、2000年代になってまた佐藤卓さんに頼んでマークを変えました。なんだかわかりにくいマークにね。

鏑木:あれは確か、“美”という文字をアレンジしたんですよね。

田中:そうです。私は、なんかわかりにくくなったね、と言った覚えがあります(笑)。若社長(大下健太郎)に代わった頃だったと思いますが、彼が佐藤さんとつるんで、何か仕事をしていて、直接頼んだように記憶しています。グループ分けもやめて、また一つになった。

三上:またちょっと部長職の話をうかがいたいんですが、新入社員を入れるじゃないですか。それで面接をしますよね。田中さんは誰のときくらいから面接に立ち会っているんですか。嶋埼吉信さんですか。

田中:いや、もっと前。編集長時代からで、『みづゑ』に原田光さんが入ったときくらいからかな。

三上:私の後に入ってきた新入社員は嶋埼さんなんですよ。教育大(後に筑波大)の山口勝弘さん(1928-2018)のところにいた人なんですが。彼が美術出版社に入ったときは、上甲(ミドリ)さん、宮澤(壮佳)さん、田中さんの3人が面接官だったんですよね。

田中:そうですね、編集部の3部長時代。

三上:その後に塚本千春さんが入ったときも同様に3人の部長が面接されていますよね。だから1986年には部長になってるんですよ。

田中:先ほども言ったけれど、その前の『みづゑ』や『美術手帖』の編集長のときから、人事に口出してたんですね。「影の人事部長」なんて言われてたみたいだから(笑)。

鏑木:そういうことなんですね、わかりました。部長3人体制とおっしゃっていましたけれども、私たちは出版社の部長さんが、具体的にどのようなお仕事をされているのか、イメージしづらいんです。少し教えていただけますか。

田中:特別にないですよ。役員会議が週一ぐらいだったか、午前中にあってね。社長以下全役員(編集3部長のほかに、営業・広報・広告部長、総務部長)が必ず出て、会社の経営状況や、人事のことや、最近出した出版物のことなどが話題でね。売り上げ状況のデータを出されて、あまり芳しくない状況が多かったから、「もっと売れる本を出してよ」とか「書店をもっと回って、積極的に営業活動してよ」とか、お互いにけん制しあってることが多かったですね。それ以外ではほかの編集者と同じで、企画立案、本づくりの毎日ですよ。

鏑木:田中さんは編集部長なわけですよね。

田中:そうですが、3部長それぞれ得意な分野ですみ分けていましたね。上甲さんは最古参の編集者で、美術関係に知り合いが多かったから、画集や作品集・豪華本が多く、やさしい入門書・技法書も手掛けていたし、宮澤さんはムックなどをつくっていたけれど、部長になって2、3年後に退社し、信州・松代の池田満寿夫美術館の館長になりましたね。その後釜に雲野良平さんが部長になって、澁澤龍彥や三島由紀夫系統の稀覯本をつくって、評判になっていました。

三上:そういうことになりますよね。雲野さんのほうが先に辞めたんですか。

田中:どうだったかな。社長が若くなって比較的早く、折り合いが悪くなって、2005年頃に、前後して辞めさせられたという心境でしたよ。3人とも70歳になってたからね、上甲さんは80歳を超えてたんじゃないかな(笑)。

三上:結局ね、辞めても田中さんみたいに、美術出版社で本を出すから、わからなくなっちゃうんですよ(笑)。

田中:辞めたのは2005年かな。森山明子さんの『まっしぐらの花―中川幸夫』を、杉浦康平さんの所でやってもらったのが2005年で、社員としてやったのはこれが最後かな。
辞めてすぐに森山さんから頼まれていた、前衛華道家の半田唄子さん(中川幸夫夫人)に師事し、半田さん亡き後に中川さんのアシスタントとして務めた、いけ花作家の千野共美さんの『千野共美の花』を、美術出版社で2005年の年末に出しましたね(奥付は2006年1月11日)。2006年以後は会社は辞めたけれど、それまでの人とのつながりで、頼まれたりして、本の企画・編集・制作は続けていますよ。いまだにやってますよ。

三上:1999年から社長はもう大下健太郎さんになってたんでしょ。

田中:親父の前社長の大下敦さんは、体調も悪くなって、息子に社長職を譲り、美術出版社(グループ3社)の会長という形になって、役員会議には出てはいましたね。健太郎社長になってデジタル部門にも手を出して、最初はよかったけれど、あっという間にそれが命取りになった。会社の経営状態もさらに悪くなっていましたね。それで、さっきも言ったように、敦社長時代を支えてきたロートル編集部役員を次々と辞めさせて、若返りを図ったんでしょう。しかし、われわれが辞めて10年後の2015年に倒産し、本屋などで知られているTSUTAYA(蔦屋)のCCC Group(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)にブランド雑誌『美術手帖』などとともに買収され、現在に至っていますね。私は辞めてからも、先ほども言ったように本づくりから抜けられなくて、辞めてすぐに世田谷美術館の酒井さんの紹介で、辻川一徳さん(田中と同じ歳で、フジテレビでアナウンサーを経て、報道部で働き、70年代後半にロンドンのBBC 日本語放送に出向、海外勤務が長く、90年代に世界文化賞の仕事に携わり、受賞者たちを訪問しインタビューした)の『われらが時代のビッグ・アーティスト』(フィルムアート社、2006年)という「高松宮殿下記念世界文化賞受賞者12人へのインタビュー」というサブタイトルのついた本をつくりましたが、美術出版社には頼みたくなくて、以前から付き合ってたフィルムアート社の奈良義巳さんに頼んで引き受けてもらったんです。その翌年(2007年)に、渋谷区立松濤美術館でやった「大辻清司の写真|出会いとコラボレーション」展のカタログを頼まれ、これもフィルムアート社でつくり、同時に単行本としてフィルムアート社から出しました。

鏑木:松濤美術館の大辻清司展のカタログは、田中さんのお仕事だったんですね。

田中:それから2009年に、磯江毅さんの作品集(『磯江毅|写実考Gustavo ISOE’s Works 1974-2007』美術出版社、2009年。2011年に同社より増補版を刊行)。増補版は「[特別展]磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才」展(練馬区立美術館:2011年7月12日-10月2日、奈良県立美術館:2011年10月22日―12月18日)のカタログとしてそれぞれの美術館で販売されました。この企画は、銀座にあった彩鳳堂画廊(現在は京橋)のオーナーの本庄俊男さんが磯江さんの作品を扱っていて、ほとんどもっていたんです。「ちょっと見てほしい絵があるんだよ」ということで画廊に行ったら、《深い眠り》という大作の横たわる裸婦をはじめ数点の作品があったんですね。それまで磯江さんの絵は見ていなかったんですが、圧倒されるスゴイ作品なんです。「これはスゴイ絵描きだね」と驚いていると、本庄さんが「画集をつくりたいんだ」というので、すぐ「それ私につくらせてよ」ということで、本格的な画集だから美術出版社で出させようということで、美術出版社に頼み、私が編集・制作を引き受け、中垣信夫さんにデザインをしてもらったんですね。最初は制作費が800万円近くかかるということで、本庄さんのところで何百部かを買い上げるということで補ってもらって、自費出版のような形でつくったんです。これが思いもよらず大評判で、書店に出したら1週間足らずで3000部くらいがすぐ完売というありさまでした。美術出版社は画集などの専門出版ですが、個人画集でこんなに売れたことはなかった。すぐ増刷ということになって版を重ねたときの売り上げ分配などで、美術出版社の営業部の彩鳳堂さんへの対応が悪く、本庄さんとトラブルになったんです。

三上:その頃は営業がいたんだ(笑)その頃の営業はどなただったかしら。

田中:昔から営業はいたよ(笑)。ただ、あっという間に売れて、半年もしないうちに版を重ね、3版までつくった。その後も何版まで出したのか覚えてないけれど、2年後の練馬と奈良での展覧会のカタログとしても販売したので、トータルで3万部以上売れたんじゃないかな。本庄さんとトラブルになって、美術出版社では増刷できなくなり、2015年に広島県立美術館でやった展覧会には、本庄さんが別の会社でカタログを兼ねた新しい画集をつくりましたね。それも売れたようです。

三上:本庄さんとはいつからのおつきあいなんですか。

田中:『みづゑ』の編集部以来ですから、40年以上前です。画廊回りでよく行っていたし、日本画関係の取材もよくしましたよ。

鏑木:日本画のこと、とおっしゃいますと……。

田中:彩鳳堂は日本画の画家中心に扱っていましたから、日本画の特集などは、本庄さんによく相談しましたね。彩鳳堂は日本画ばかりじゃないけれども、いい作家をあつかってた。われわれの好みの(笑)。

三上:『みづゑ』好みの、ですよね(笑)。

鏑木:退社前後の話になりますが、遡ってお聞きします。86年から部長になられて、2005年頃にご退職です。1990年あたりから後の書籍や雑誌のお仕事は、具体的にどんなことをされていらっしゃいましたか。ADCがお忙しかった頃だと思うんですが。
 
田中:ADCはそんなに忙しくないですよ。審査会関係だけですから、3日間が大変で、浜松町の都立産業貿易センタービルの大展示場のワンフロアを使って、まず、まる一日、応募作品の出品料を取って、受付整理、2日目と3日目で審査会。会員全員参加で審査会をする建前だから、60人前後の会員が来る。偉い先生がたがね(笑)。前後の準備や後始末の数日だから、季節労働ですよ(笑)。

鏑木:ではADCがお忙しいのは審査会のときだけ。

田中:仕切り屋ですから、細かいことは直接しない。とにかくいかに要領よく済ませるかですね。審査後の本づくりの段取りも、最初のころは、会員の編集担当者と美術出版社の担当者で『年鑑』の頁だてをやるときに、参加して一緒にやりましたね。田中一光さんが編集長で、遠藤亨さんがデザインを担当したときだったと思いますが、一光さんから、新宿の京王プラザホテルの上のほうの階でガラス窓の大きい部屋を借りてくれないかといわれ、借りたんです。レイアウトの打ち合わせのためだけでなく、掲載に決まった700点以上の作品のカラーポジフィルム(当時はフィルムから製版していて、千枚以上になった)をもっていって、窓ガラスを大きなビュアー代わりに使って、ページ割を組み立てました。2、3日こもりっきりで、その段取りをしたり、手伝ったりしていましたね(笑)。

鏑木:ああ、台割り通りに窓にフィルムを貼って見せるということですか。

田中:そう。大きな窓に貼ったコピー用紙に見開きごとのポジを止めて、一度に2、30見開きはできたんじゃないかな。そのための京王プラザホテル(笑)。

鏑木:それはすごいお話ですね(笑)。

田中:一光さんは、自分の仕事でも事務所の窓を使ってやっていたんですよ。広い窓のある事務所でしたからね。結局、私のADC年鑑の仕事は審査会がメインで、後は時々相談を受けていた程度ですね。

鏑木:田中さんはそれ以外には、書籍や雑誌のお仕事をされていたんですか。

田中:そうですね。それ以外の書籍や雑誌づくりが忙しかったですよ。90年代前半は、さっき話した「マンガテクニック」関係の後は、そのときに知り合った江口寿史さんとの仕事が続きますね。まず、江口さんに監修してもらって、マンガ、アニメやイラストのリアルな人物描写の参考資料として編集した「ポーズ集」シリーズ。「応用テクニック講座」でキャラクターづくりをやった延長上になりますね。このシリーズは1994年から96年にかけて、全5冊です(最初が、「基本ポーズ[BASIC POSE 1152]」、以下「動きのポーズ[MOVING POSE 1223]」、「日常のポーズ[DAILY POSE 1007]」、「二人のポーズ 1 [COUPLES 1 891]」、「二人のポーズ 2[COUPLES 2 437]」、以上すべて美術出版社。96年と97年にインナーブレイン社で2枚のCD-Rとしても出版)。

鏑木:すごい。毎年出ていたんですか。

田中:これが話し出すと、またすごいことをしてたんですよ(笑)。美術出版社の出版物や資料が保管されていた倉庫が目白台にあって、その3階を写真スタジオとして使っていた。そこに可動式の八角形のモデル台を持ち込んで、ヌードモデル(女性2人)と、カメラマン、スタイリスト、アシスタントの編集協力者と私で、一冊のポーズ写真集の原稿写真1千カット以上を撮影したという大仕事(笑)。

細谷:いろんな角度からの写真、とおっしゃっていましたね。

田中:そう。教材を扱ってた美術出版社のサービスセンターのカタログに、手動の八角形のモデル台があったので、それを借りてね。モデルさんにその上に乗って指定のポーズをとってもらい、ワンポーズを8カット撮るんですよ。ヌードでまず撮り、同じポーズの着衣を、ものによって制服とジーンズのようなカジュアルな普段着の2種類をね。カメラは固定して、八角形の台を手動で8回動かし、その都度シャッターを押す。ワンポーズ終わるまで、モデルさんには「8カット撮るまで動かずにじっとしててね」とか言いながら(笑)。モデル台は動かすのが重くてね、アシスタントと2人がかりで、時にはカメラマンにも手伝ってもらって、何しろ1冊全部で150ポーズですよ。重労働でしたね(笑)。何日かかったのか全く覚えていませんが。2冊目の「動きのポーズ」のことはほとんど覚えていないですね。ただ、3冊目以後の、「日常ポーズ」とか「二人のポーズ」は、高田馬場近くにあったハウス・スタジオを何日間か借りて、台所や、ふろ場や、寝室と、とにかくに日常生活のシーンでのポーズを設定して撮影しました。

細谷:デイリーですね(笑)。

田中:このポーズ集のシリーズには元ネタがあってね。アメリカの出版社だと思いますが、日本の新書判くらいの小さなヌードのポーズ集が出てたんですね。いろんな角度で撮ったものだったと思います。はっきり覚えてないけど、江口さんが持ってたんじゃないかな。江口さんはリアルな人物を描くために、いろんな写真のスクラップをマメにしていて、描くイメージに一番近い写真を参考にして描いてたんですね。それで江口さんにこのシリーズのカヴァーのイラストも、人気のあった江口流のかわいらしい女性の絵で描いてもらい、監修者にもなってもらったんですね。

鏑木:あれは普通のポーズ集の表紙ではないですもんね。

細谷:ではポーズ集をつくろうというのは、田中さんの企画だったんですね。

田中:そうです。これがまたよく売れて、2カ月足らずに3刷までいった。

鏑木:では90年代前半は、ポーズ集のお仕事が結構お忙しかったんですね。

田中:これだけではないけど、3年間やったから。それで江口さんと関わりができて、江口さんがイラストの作品集をつくりたいということで、ポーズ集とほぼ同時進行で2冊出しました。連載ギャグ漫画で売れっ子になった江口さんだったんですが、自分が納得するまで描き直したりして原稿が遅れ、締め切りに間に合わないで雑誌に穴をあけることが多かった。「落とし屋、江口」で有名だった(笑)。漫画は減ったけれど、江口さんの絵は人気があって、イラストの仕事が多くなり、雑誌の表紙や、ファミリーレストラン「Denny’s」の広告ポスターやメニューの絵など、80年代後半から90年代に描いたイラスト作品を、2冊の作品集にして同時発売で出したんです(『江口寿史の世界』[1]1980年代、[2]1990年代、美術出版社、1995年。2000年に2冊をまとめて『江口寿史の世界 普及版』として刊行)。翌年の96年には、2冊の作品集の絵に12点の新作を加えて、江口寿史ポストカード『ONLY IN DREAMS』(総32葉)をつくりました。

鏑木:そうか、ポーズ集をつくっているときに同時に作品集やポストカードもつくったんですか。

田中:そういうことですね。そのあと大きな本としては、1997年に『凧大百科|日本の凧・世界の凧』という600頁を超える、大図鑑をつくりましたね。

鏑木:凧は『別冊美術手帖』1巻3号(1982年冬号)でも特集されていますよね。

田中:そうですね。凧についてはもっと前(1969年)にも、学芸大の広井力先生が『凧・たのしい造形』という凧づくりの入門書を、美術出版社で出しています。しかし、この『凧大百科』は大変な本でした。石油関連会社、東新エナジーの会長で、「日本の凧の会」創立発起人で相談役の比毛一朗さんが蒐集した、2千点を超える日本だけでなく世界中の凧のコレクションを、特別に撮影して編集したんですよ。

細谷:コレクションですか。

田中:そう、個人のコレクションです。日本橋に「洋食屋たいめいけん」の「凧の博物館」がありますけどね。比毛さんのコレクションは保存がよくて、その凧を美術出版社の倉庫3階の例のスタジオ(ポーズ集でも使った)に運び込んで、片っ端から撮影しました。中垣さんにデザインしてもらい、化粧函入りの豪華図鑑で、定価も1万5千円を超える本でしたが評判がよく、結構売れましたね(笑)。

鏑木:田中さんはヒットメーカーですね(笑)。

田中:いやいや(笑)。それが97年でしょ。それより前、91年に、新倉孝雄さんの写真集『SAFETY-ZONE 1961-1991』(美術出版社、1991年)をつくりました。新倉さんは、桑沢デザイン研究所で写真を教えていた大辻清司さんの教え子で、大辻さんに師事していたカメラマンです。都市の人間のその場でしか発見できないありのままの姿を、気ままに撮り続けたモノトーンの写真で、「決してひとりよがりではないけれど、分かりにくい写真」と大辻さんに評された写真集です。その後、2001年の「9.11」アメリカ同時多発テロ事件をきっかけに、それまでもたびたび行っていて『SAFETY-ZONE』にもニューヨークの写真がありましたが、新たに『NEW YORK 1995-2002』(美術出版社、2003年)という写真集を、今度はカラーでつくりました。
そのあと98年には、遺族から頼まれて、日本画家の中村正義さんの『創造は醜なり』(美術出版社、1998年。「中村正義の美術館」10年目のしるしとして、美術館用に新装版を名古屋の浜島書店がつくっている)というエッセイ集をつくりましたね。最初に仲介して頼んできた人は、70年代初めに学生運動で暴れて事件を起こし、指名手配されて、中村さんたちが匿ったことのある人で、ちょっと名前を思い出せないんですよ。

細谷:中村正義が匿っていたんですか。

鏑木:美術関係の方ですか。

三上:いやいや、闘争の人。

細谷:誰だろう。

田中:ちょっと調べてみますよ。ああ、「あとがき」に中村さんの奥さんが書いていました。竹本信弘(別名:滝田修、1940-2024)だった。渋谷の喫茶店で会いましたよ。京都大学の大学院を出て、京大の助手のときに京大闘争が始まり、新左翼活動家・理論家として過激派の教祖的存在になっていた。71年の朝霞駐屯地での過激派の「赤衛軍」による自衛官殺害事件の共謀共同犯として指名手配され、潜行中の70年代後半の一時期、小田急沿線の百合ヶ丘あたりで、中村さんや画家の山下菊二さんたちが匿っていたんです。
中村さんは豊橋の出身で、私が学生だったころには名古屋の日本画のボス的存在として活躍してましたね。日展の異端児と言われ、歯に衣着せぬエッセイなども評判で、話題になっていました。小田急沿線の読売ランドにアトリエ兼住まいを移され、その同じ敷地内に「中村正義の美術館」を開設して、私が『みづゑ』や『美術手帖』の編集をしていたときに、2、3度取材でうかがったことがありましたね。
そのあと同じ98年には『浮世絵艶本集成』全5巻(美術出版社、1998年)をつくりました。

細谷:これは春画ですか。

田中:春画です。よく売れました(笑)。これは以前、銀座のリッカー会館のビルにあって、リッカー・ミシンが倒産後、横浜そごうに移った平木浮世絵美術館(銀座では「リッカー美術館」)の館長の佐藤光信さん(「『浮世絵艶本集成』では、ペンネーム:佐藤黄雀という名前で解読。田中は雑誌の編集時代以来、浮世絵の原稿を頼み、親しく付き合っていた)に、なんかの展覧会で会ったときに、「歌麿や北斎の艶本が数冊あるけど、その解読本をつくらないか」という誘いがあって、横浜まで見に行って、早速つくることになったものです。『浮世絵艶本集成』の5冊は、喜多川歌麿『道行・恋濃婦登佐男』、葛飾北斎『喜能會之故眞通』、歌川國芳『春色入舩帳』、歌川國貞『艶紫娯捨餘帖』、歌川國麿『風流枕拍子』で、それに『浮世絵艶本集成[全五巻]解読』を別にだし、その後全部まとめて函入りにして販売しました。

細谷:これはどこで出したんですか。

田中:美術出版社からですよ。その頃、春画の本がほかでもぽつぽつ出てたように思います。同じ98年に楠文夫さんの『中國の硯|硯臺[イエンタイ]』という豪華本。

鏑木:よかったらここで休憩しましょうか。

(休憩)

田中:休憩前に話し始めた本をもってきますよ。

三上:それなら一目瞭然ですね。

鏑木:ありがとうございます。田中さんって、いつも何かしら本を出していらっしゃるんですね。毎年、何冊か出されていますもんね。

細谷:すごい量ですよ。これが全部、美術出版社からということですよね。90年代だけでも、こんなに。

鏑木:やはりこうしたことは、お聞きしないとわからないですね。お名前を調べてもわからない情報なので。

細谷:編集担当というのはね。あとがきでたまに「お世話になりました」と出てくるくらいですからね。

(田中が別室からこれまでに手がけた書籍をたくさん抱えて戻ってくる)

田中:でかくて重い本が多いからね(笑)。まだあるよ。

鏑木:ありがとうございます。(田中が手がけた本を見ながら)あ、これが中村正義さんの本ですね。この『バックミンスター・フラーの世界』(美術出版社、2001年)も田中さんのお仕事なんですか。この頃、バックミンスター・フラーが見直されていましたよね。なんだか全部、知っている本ですね。

細谷:ああ、これは『現代アートシーン 1960年代・70年代・80年代の222人 酒井啓之写真集』(美術出版社、2008年)ですね。

田中:酒井さんが2007年に亡くなったときに、しのぶ会をやったんです。大辻清司さんの紹介で、1956年に美術出版社の専属カメラマンになって、87年に退社するまでの30年間、彼と一緒に仕事した、特に編集者は多く、元社員も含めてかなりの人が集まったんです。その会の世話役をしたんですが、そのとき、彼が撮りためて、退職時に整理し、50音順のファイルブックにまとめておいた写真のネガが、目白の倉庫に膨大に眠っているので、それを本にしようということになり、私がつくることになってできたんですね。

三上:酒井さんが美術出版社に入ってきて、しばらくすると『みづゑ』や『美術手帖』で作家や評論家の訪問取材の連載などが出てきてますね。

田中:瀧口修造さんのオリーブの木のある家に行ったり、岡鹿之助や斎藤義重、麻生三郎、東山魁夷らの大御所のアトリエや、とにかく200人以上取り上げている。作家紹介をやるとなると、ただ作品を見せるだけでなく、アトリエで制作しているところも見せる。あるいは使っている道具や材料も一緒にね。だから作家を紹介するときは必ず酒井さんを伴って、車で動く時代じゃなかったから、重たい撮影機材を一緒に持たされて、電車やバスで行くんです。とにかく重い(笑)。酒井さんは寡黙な人だったから、撮影するときは黙々と撮ってくれる。こちらは「アトリエ全体を撮って」「手元も撮って」「ここはこういうアングルで」なんて言いながらね。とにかく美術出版社の雑誌も書籍もほとんどやってたから、膨大な量ですよ。

三上:あのときはベタ焼きをつくったの?

田中:つくったよ。

三上:そのベタ焼きはどこにあるんですか。

田中:この本のブック・デザイン全般を中垣さんにしてもらった。膨大なベタ焼きを見てもらい、相談しながら組み立ててもらったんです。出版物に掲載するにはまず肖像権があるわけで、著作権者の連絡先を調べ、一人ひとりに必ず許諾を取らなきゃならないんです。増刊号で『年鑑』をだしていて、作家や評論家などの名簿(連絡先付き)を掲載していたので助かりましたが、ネガがあった人には許可願を出しました。返信ハガキを入れて、封書のあて名は全部手書きでね(笑)。物故者で連絡先がわからない人は、美術家連盟や取引画廊などに問い合わせて、とにかく大変な仕事でした。河原温や篠田桃紅はいろいろ交渉したけれど、断られましたね。ほかにも数人はいたかな。この作業は酒井さんの未亡人(恭子さん)と一人娘(知子さん)に手伝ってもらって、何カ月かかかりましたね。知子さんは編集アシスタントとしてもね。

三上:今、酒井さんのネガは全部、東大に入りました。12万点くらいかな。

田中:カラーポジの作品写真もかなりあったでしょう。4×5や35ミリフィルム。

細谷:(本を見て)ああ、これがさっきの『凧大百科』。あれ、『「具体」ってなんだ? 結成50周年の前衛美術グループ18年の記録』(美術出版社、2004年)もそうなんですか。

田中:「具体」の本は、ブック・デザインを引き受けてくれた永原康史さんが、兵庫県立美術館の学芸員・平井章一さんから頼まれて、美術出版社で出してもらえないかということで、私が引き受けたものだったと思います。兵庫県立美術館での「結成50周年記念『具体』回顧展」(2004年1月24日-3月14日)を機に刊行したもので、ヨーロッパのスペインや、イタリア、ドイツ、パリの美術館でも「具体」を回顧する展覧会が開かれ、大評判で、日本の前衛美術に関心が高まっていたんですね。特に「GUTAI」はね。今もそうですよね。

鏑木:(本を見て)これが中村錦平さんの本だ(中村錦平『東京焼自作自論 日本vs西欧モダンの拮抗が生んだやきもの』美術出版社、2005年)。

(田中が再び本を抱えて戻ってくる)

細谷:(本を見ながら)これが硯の本ですね。それで、これが春画?

田中:全5冊でつくって、函入りにしたんですよ。(自分の手掛けた本を眺めて)オレは一体何屋さんなんだろうな(笑)。

鏑木:こうやって見せていただくと、本当にオールジャンルという感じですよね。

田中:面白いと思えば何だって関心を持つというか、何でも美術出版社の領域に引き込んで、企画を立てたんですよ。面白がれないとやっていられないですよ、仕事なんて(笑)。

鏑木:(『中國の硯|硯臺[イエンタイ]』[美術出版社、1998年]を持ちながら)ずっしり、ですね。

田中:定価が3万円もする本なんですが、結構売れたんですよ。著者の楠さん(「硯の資料室」室長)が自分で売りましたからね。この本をつくるきっかけは、1997年の『美術手帖』3月号増刊で「新しい画材ガイド・水墨」をつくるときに、東京芸大の文化財保存学日本画研究室の紹介で、硯の話を取材したことで、翌98年に、楠さんが自分で定期的に毎月つくっていた『東京精華硯譜』という40頁足らずの小冊子(資料室で毎月開いていた「洗硯会」という鑑賞・即売会のカタログ代わりの本)を、美術出版社で引き受けて、同時に豪華本もつくることになったんです。

鏑木:(奥付を見て)田中さん、この本は2カ月で再版と書いてありますけれども……。

田中:そうなんですよ。

細谷:すごいね。

鏑木:初版が何部で再版になったんですか。

田中:これは最初何部つくったかな。著者が500部買い上げで、美術出版社分も500部だったと思います。

鏑木:え? それが全部売れて再版したんですか。

田中:高い本なのに評判も良く、著者分も足りなくなったんですね。

鏑木:それもすごいですね。

田中:楠さんが洗硯会などでコレクターを開拓し、当時は骨董的な意味でも硯のブームがあったんですね。文士、書家、日本画家、寺の住職などの間で。その頃だったと思いますが、西武百貨店(池袋)で硯フェアが開かれて、即売会をやったりして、大盛況で、中國宋代の端溪の名硯に、1千万円以上の値が付いたといって騒がれた。

鏑木:当然ですけれども、この本に掲載されている硯の図版は、この作品集のために全部撮影をされているんですよね。

田中:この本のときは、扉の写真を櫻井ただひささんに撮ってもらった以外は、特別には撮影してません。もともと楠さんがコレクションしている硯で、全部自分で撮影して、ポジ・フィルムを持っていたんです。新たに撮影代がかかってないから3万円ぐらいの定価で済んだので、改めて撮影からやっていたら5万円の定価をつけてますね。

鏑木:撮影はご本人が、ですか。

田中:本人が全部撮影して持っていた。コダックのブローニー判のカラーフィルムで。

鏑木:印刷原稿として、それが使えたんですね。

田中:少し時間のたっているフィルムは色補正したりしているけれども。最近はもう全部デジタル化していますね。フィルムからデジタル化するにはひと手間かかります。その後も楠さんの硯の本は、最近までいろいろつくり続けていますが、全部デジタル撮影です。

三上:櫻井さんがおっしゃっていましたよ。

田中:そうなんです。硯の本は全部櫻井さんに頼んでます。

鏑木:これ、本を撮影させていただきましょうか。

細谷:背表紙を撮っておきましょう。これは知らなかったですよ(笑)。

田中:楠さんの硯の本はまだまだありますよ。比較的大きな本では、『中國の名硯◉現代から古代まで』(美術出版社、2005年)、美術出版社を辞めてからもほかの出版社で出してもらってます。『文房至寶|硯・墨・筆・石印』(河出書房新社、2013年)、『古硯|東京精華硯譜』(平凡社、2016年)、『東京精華硯譜|中國硯大全』(平凡社、Ⅰ|端溪について、2021年、Ⅱ|中國硯採石地を訪ねて、2022年、Ⅲ|宋代硯と太史硯、2022年)などで、まだつくるつもりですよ、お互いに生きてる限り(笑)。

鏑木:(細谷と撮影しながら、『浮世絵艶本集成』を指して)これ、ずいぶんきれいな本ですね。

細谷:造本がすてきですね。

田中:『美術手帖』の編集にいた篠田(孝敏)さんの釣り仲間のデザイナーでね。

鏑木:(奥付を見て)芹澤泰偉さんですね。

田中:そうです。芹澤さんはジビエ料理なんかも得意で、伊豆の山奥に猟をしに行って、猪や鹿を獲ってきて、篠田たち仲間を呼んでジビエ・パーティーなんかやってたみたいですよ。

鏑木:こうやってきれいな函に入っていると、大切にしたくなりますね。

田中:白倉(敬彦)さんていたでしょう。春画のことをやってた人。

三上:エディシオン・エパーヴのね。

田中:エパーヴの。彼については佐藤光信さんなんかに言わせれば、「白倉は艶本や春画のことを分かったつもりで、余計なことをしている」と、不評でしたね。
ところで、2001年に出した『バックミンスター・フラーの世界 21世紀エコロジー・デザインへの先駆』(ジェイ・ボールドウィン著、梶川泰司訳)は大変だった。

三上:翻訳が難しいね。

田中:翻訳した梶川さんは、フラーが亡くなるまでフィラデルフィアのフラー研究所で共同研究をしていて、1988年に広島でシナジェティクス研究所を設立し、所長をしてた人なんです。原書は1996年に出ていて、『美術手帖』の編集長だった楠見清さんから梶川さんに翻訳の依頼をしたとのこと。翻訳が上がってから私の所に話が来て、つくることになったんですね。とにかく難しい本でした。
翌年には海野弘さんの『モダン・デザイン全史』(美術出版社、2002年)をつくりました。『デザインの現場』で1993年から2002年まで10年近く連載したものをまとめた600ページ近いもので、「長いものを書きたい」という海野さんの願いを受け入れて、連載を決めたのは私で、連載の担当者は何人もリレーし、本にまとめたのは私なんです。海野さんとは雑誌の編集をしていたときからの長い付き合いで、よく専修大学前の喫茶店「珈琲館」で長話をしてましたね。この本はよく売れて、翌年第2刷りを出してます。
海野さんとはほかにも仕事をしていて、同じ2002年に海野さんが原稿を書いた『天野喜孝全版画集1991-2001』(美術出版社、2002年)という大変な本をつくりました。大ヒットしたゲームソフト「ファイナル・ファンタジー」のキャラクターやヴィジュアル・コンセプト・デザインを担当した天野さんが、注文仕事とは離れて、気ままに自分の描きたい世界を表現したいということで、リトグラフを始めて、10年間で900点を超す作品ができたんです。そこで全作品とデータを収録した、カタログレゾネをつくりたいと、企画協力したアールビバンという会社から美術出版社に依頼が来たんだと思います。それで私が対応してつくることになったんです。天野さん側の希望は、ただ書店で売る作品集をつくるだけでなく、エディションが3種あって、美術出版社から流通を通して書店販売する普及版(定価5千円)と、直筆サイン入りリトグラフ版画1点が付属する「豪華版」(限定250部)、サイン入りリトグラフ3点が付属する「超豪華版」(限定100部)をつくりたいと。限定本はナンバー入りで天野さん側(アールビバン)が販売したんだと思います。250部のほうは定価30万円だった。この本は中垣信夫デザイン事務所にやってもらいました。豪華本の表紙は総革張り・金箔押し、天金塗りの上製本で、布クロス貼り・金箔押しの化粧函入りの立派なものです。ほとんど売れちゃったんじゃないかな。
その後さらに、海野さんとは『レイモンド・ロ-ウィ|消費者文化のためのデザイン』(グレン・ポーター著、海野弘訳、美術出版社、2004年)をつくりました。

鏑木:田中さんは『デザインの現場』以来、デザイン関係のお仕事を多くされていましたが、もともとデザインそのものに興味をお持ちだったんですか。

田中:それはありますよ(笑)。この前後には、武蔵野美術大学の基礎デザイン学科の教授の向井周太郎さんの著作集『かたちの詩学』(美術出版社、2003年、別冊『向井周太郎コンクリート・ポエトリー選集』と合わせたケース入り)を、向井さんのゼミ出身で、ADCの会員でもあった原研哉さんが、瀟洒な原デザインの典型的な本としてまとめたものです。向井さんとも原さんとも以前からよく知っていたので引き受けました。中垣さんも武蔵美の基礎デザイン出身ですよ。

鏑木:いわゆる絵画や彫刻という純粋美術とはまた違う意味で、デザインに対しての興味ですね。

田中:自分のための高邁(?)な芸術作品か人のための日常の生活用品かという、目的は違うけれども、創作して作品や商品(モノ)をつくり出すということでは同じでしょうね。そういう意味で、アートもデザインも興味ありますよ。

鏑木:では、違和感などはなかったんですね。

田中:変な話かもしれないけれど、自分で本の装丁などやりたかったし、入社した頃は、全部自分でレイアウトも装丁もやってましたね。学生時代は屁理屈言って絵を描いてたけど、ブック・デザインも楽しかったですよ。表紙の文字など、ただ活字の組みっぱなしじゃ間が抜けているので、一文字ずつ切り貼りしてバランスよくしたり、そういうことが得意だったから、頼まれてほかの人のものまでやってた(笑)。

細谷:手作業が。

田中:そう。だから増刊号なんかで、ちょっとしたカットやイラストや地図なんかは自分で描いてましたね。

鏑木:本当ですか。

田中:複雑なものはだめですよ(笑)。頼むほどのこともない地図なんかは手書きで文字まで書いてましたよ、まだ写植が普及してない時代ですがね。癖のある字だけど評判は悪くなくて(笑)。

鏑木:田中さんはもともと制作をされてましたしね。

田中:なんでも手早くやりたい方なんですよ。なんでもちょこちょこやるけど大成しない、典型的な器用貧乏なんですよ(笑)。

鏑木:いえいえ。田中さんのように上手に何でもやっちゃう人から見ると、他の方の仕事が気になってしまうんでしょうね。

田中:だから人の上にたつ器じゃないんですよ(笑)。ところで、前衛陶芸家の中村錦平さんの『東京焼 自作自論』(美術出版社、2005年)があるでしょう。これもいろんなエピソードがあるんですよ、できるまでにはね。中村さんは金沢の九谷焼の窯元のやきもの師の長男として生まれ、金沢美術工芸大学彫刻科を中退、銀座の割烹「中嶋」で日本料理と魯山人の器を実学した後、やきものをはじめ、世襲したちゃわんやをテコに、伝統の形骸化に疑いを持ち、旧来の価値観に挑戦して、海外でも活躍していたんですね。九谷に反逆し、日本独自のアートを追い求めて、青山の工房で焼く自分の作品を“東京焼”と標榜していた。そんな中村さんとは、1973年に乾由明さんが『みづゑ』の作家紹介の連載で取り上げて取材したのが最初で、中村さんは多摩美術大学に講座を開設したばかりのころです。その後、『美術手帖』81年4月号増刊の「陶芸」を、笠間の伊藤公象さんと2人に協力してもらってつくったんです。東京・南青山の根津美術館のそばの自宅兼工房「るるるる阿坊」(設計・齋藤裕)ができたばかりのときで、相談にたびたび伺ったり、その後も親しく付き合ってきました。そんなこともあって、作品集をつくりたいということで、引き受けて、ブック・デザインを工藤強勝さんに頼もうと提案したんですが、気に入らないという。私がずっと一緒に本づくりをしていた中垣さんの後輩の鈴木一誌さん(杉浦康平事務所から独立したデザイナー)に頼みたいという。鈴木さんの家も中村さんの家を設計した齋藤さんが設計していて、鈴木さんともお互いによく知っているので、いいだろうということになった。鈴木さんのことは知ってたけれど、私はこれまで一緒に仕事はしていなかったんです。ちょっと個性の強いデザイナーというふうに思っていたのでね。やはりそうでした(笑)。しかしできた本はなかなかなもので、中村さんのイメージにぴったりでしたね。

三上:今も名前が出てきたんですけれども、『美術手帖』時代から中垣さんとのお仕事が多いですよね。中垣さんのやりやすさというのは、どんなところですか。

田中:馬が合うというのか、お互いに言いたいことが言えるからですよ(笑)。中垣さんとやりだした最初から、中野坂上にあったデザイン事務所(今は新宿公園に面した十二社通り)に、あるときは編集部がみんなで行って、企画の内容から見せ方まで、侃々諤々、互いに言いたいことを言いあいながら仕事を進めていましたね。

鏑木:中垣さんは『美術手帖』に関わる前は、なにか大きなお仕事はされてたんですか。

田中:杉浦事務所にいたときから、杉浦さんが平凡社の百科辞典をやっていて一緒にやっていた。その頃から平凡社の「東洋文庫」のシリーズも彼が最初からやっていて、今もやってますね。

鏑木:独立されてからレギュラーでされたのは、『美術手帖』が初めてなんですか。

田中:いや、他にもやってたみたいですよ。

三上:やってたっけ。そうでしたか。

田中:業界誌(?)もやってたようだし、さっき言った「東洋文庫」もね。とにかく中垣さんには、その後たびたびことあるごとにお願いしていましたね。美術出版社をやめてすぐ、森山明子さんに頼まれてつくった『千野共美の花』(美術出版社、2006年)は、よく一緒に本づくりをしていた工藤強勝さんにデザインをしてもらったんですが、千野さんから最近頼まれてつくった『千野共美 いけばな自在』(平凡社、2020年)は中垣さんに頼んでつくりました。
今度、酒井忠康さんの李禹煥に関する本を、平凡社で出してもらうことになって、いま準備をしてるんですが、やはり中垣さんに頼んでいます(このインタビュー後に刊行、『余白と照応 李禹煥ノート』平凡社、2023年)。

三上:ひとつダメになった例として、建築家の長谷川逸子さんの作品集があったじゃないですか。

田中:あった、あった。あれは昔、美術出版社でデザイン関係の編集をしていた、先輩の藤原千晴さんが、「長谷川さんがこれまで設計・製作したすべてを入れた全作品集をつくりたがってるんだけど、あんたまだ編集の仕事してるんでしょ、あんたできない?」と言ってきたので、以前に一度長谷川さんになんか建築のことで頼んだことがあって、面識があったので、「やってもいいよ」ということで、引き受けるつもりで伺ったんですよ。編集補佐ということで、建築雑誌の編集をしていた人が一人ついていたんですね。話次第では平凡社で出してもらおうかなと思って、ブックデザインは中垣さんに頼みませんかということでね。とりあえず中垣さんも一緒に行ってもらって、長谷川さんがどんな作品集にしたいのか聞いて、具体的に収録する作品写真や設計図の資料を見せてもらい、中垣さんが見せ方や本の組み立てのプレゼンの資料をつくったんですね。それをもって再度打ち合わせに行ったら、長谷川さんは気に入らなかった。中垣さんは長谷川さんの建築作品をまずヴィジュアル中心に見せ、設計図やデータは従属的にいれればいいと。しかし長谷川さんは見え方よりも全作品のすべてのデータを収録することが大事だと、譲らない。決裂して本づくり自体をお断りしたんです。編集補佐をやってた人も結局辞めたようでした。その後忘れたころに重い大きな書籍が送られてきました。長谷川さんの作品集は結局、鹿島出版会から2015年に出て、デザインは中野豪雄という人がやったようです。中垣さんを交えて話した意図とはずいぶん違うように思いますが、まあ大変な本です。

三上:ところで、これからの田中さんの仕事は、先ほども伺ったけど、今も継続している硯の本になりますよね。これは4冊目かな。

田中:さっきも言ったように硯の本は、手を変え品を変えつくり続けていますよ。

細谷:この『東京精華硯譜|中國硯大全』全3巻(平凡社、2021-22年)というのは。

田中:それが一番最近の本。ほかに2020年から、『硯の栞』という楠さんの硯の資料室のお得意さんに配る28頁ほどの小冊子。年2回、5、6月ごろと年末(年賀状代わり)で、一種の商品カタログでもあるようです。(別室から小冊子を持ってきて)関心があればあげるよ(笑)。

三上:田中さんは、硯に興味はあるんですか。

田中:ありますよ。ずっと付き合っていれば。硯は深い世界ですよ(笑)。

三上:じゃあやっぱり、知識は増えた?(笑)。

田中:知識も増えたし、もともと書をやりたいと思って、道具をそろえたんですが、場所や時間がね。いまでも持ってますけど……。井上有一さんの様な世界。でもあれはかなり広いスペースがいりますよね。周りに墨汁が飛び散ったり(笑)。本気でやる気がないのかな、やれない理由ばかり並べてね(笑)。硯や墨などは中国のものばかりじゃなく、日本の雄勝(石巻)や雨畑(甲州)の硯、墨は奈良の古梅園といったものまで買ったりね、筆は広島と道具にだけ凝る(笑)。

三上:やっぱりいい硯と普通の硯というのは、全然違うものなんですか。

田中:ただの道具ではなくて、愛用品でもあるので、いいものを持てば豊かな気持ちになる。中國硯などは時代によって違うし、石の産地によっても違う。中でも宋代の端溪硯が秀逸ですね。また、新しい硯はそのまま使えるわけじゃなくて、墨を滑らかに磨るために目立てをするんですが、産地によって違うようです。
楠さんは、あの広大な中國の硯石の産地をすべて回って、写真を撮ったり、取材したんですね。楠さんは、もともと明治時代初期に祖父が毛筆を製造する筆匠精華堂を立ち上げ、戦後になって父が台東区根岸の、かつて江戸時代の文人画家・酒井抱一の居住地の風情のある庭園付きの「雨華庵」の跡地を引き取り、毛筆だけでなく広く書道用品を扱う「精華堂」を始め、中國製品も積極的に扱いだした。そこの次男坊で、文房至宝、特に中国の硯に高校生の頃から強く惹かれ、以来ますます入れ込んでいるんです。精華堂では毎年3千面の中國の古硯を輸入し、小冊子を出し、展示会を開いていた。千客万来で、愛硯家の書道家、文士、政治家などの著名人、川端康成なども来ていたというんですね。

鏑木:このような撮影のしかたというのは、硯ならではのものなのでしょうか。美術作品の撮影とは違うような気がします。非常に独特ですね。

田中:硯の石に微妙な紋があるでしょう。かなり微妙な色むらのような、墨流しのような模様があるものなど、見えにくい。ライティングの角度などによって見えてくるものや、表面を水に濡らせば見えるものがあって、時には洗面器に張った水の中の水面ぎりぎりに入れて撮ります。

細谷:この表面の色がきれいに出ないといけないわけですね。

田中:今はデジタルカメラで撮っていますから、モニターで確認しながら、少し明るくとか、暗くとか言って2、3カット、シャッターを切るんです。最適と思ったものを原稿にするんですが、印刷の色校正でさらに微妙な修整をします。楠さんは先ほども言いましたが、まだ『中國硯大全』の続きを出したいと言ってます。

細谷:楠さんが?

田中:そう。しかし「もう写真集はいいんじゃないですか?」と言ってるんだけどね。もし出すなら、中國硯のガイドブックというか、解説書的な読み物、硯の見所、おもしろさ、硯の種類、産地、時代による違いなどについて書いて、図版は参考挿図程度の見せ方にするならやりましょう、と。なにも原寸に拘らなくて、A5判でね。

細谷:そうしたら一般の人たちの手引きになりますよね。

田中:そうすれば特殊な世界ではなく、多くの人に興味を持ってもらえるんじゃないかと思いますが、よく考えれば結局は骨董の世界でしかないのかな。楠さんは徹底的に原寸志向ですからね。原寸では掲載できない大きな硯もあり、本の版面一杯に見せて寸法を入れています。

鏑木:そうだったんですね。彫刻などとは明らかに違う撮影のしかたなので、不思議に思っていました。

田中:表面の俯瞰、裏が面白いものは背面、蘭亭硯などの周りに掘られた絵柄が面白いものは斜め撮りというふうにね。結局、楠さんが新しく出したい本もこれまでと同じ形の本ですね。微妙な硯の色の再現性に拘って、『中國の硯|硯臺[イエンタイ]』は京都に本社のある日本写真印刷(日写)で印刷しました。日写は印刷技術では最上級の印刷所で、京都の寺社や博物館の国宝級の絵画の複製などを手掛けていて、印刷代も超一流ですね。
最後にもう一つ、退社後につくった大きな本のことに触れておきたいですね。三上さんと一緒につくった『日本の20世紀芸術』(平凡社、2014年)とその海外版『The 20 th Century Art in Japan』(東京美術倶楽部、2019年)です。この本をつくるきっかけは、京橋の彩鳳堂画廊に展覧会を見に行ったとき、画廊のオーナーの本庄俊男さんに会ったことからなんです。久しぶりに会って話してたとき、本庄さんが中国の現代美術の作家名鑑のような本を見せて、「日本では現代美術家の作品を一望できる本は出てないよね、どうして出せないの」という。その話を聞いて、「相当費用がかかりますよ(実際に制作原価は3千万以上かかった)。最近はそんな大きな本は、出版社が独自企画としてはできないし、時間も人もかかるから。でも、制作費用のめどが立つならぜひやりたいし、つくらなきゃいけない本だね」と言いましたね。そのときだったか、後日だったか、本庄さんから連絡があって、東京美術倶楽部(古美術品、書画骨董、茶道具、近現代の絵画・工芸を扱う美術商の団体で、会員は500名余。美術品の評価、売却、鑑定や美術品交換会[オークション]などの事業を定期的に開催)の事業として、費用は何とかできそうだからやりませんかという。一人ではとても手に負えない仕事ですから、三上さんに相談し、企画書を作って提案したのが始まりです。明治以後の近現代を、20世紀というくくりで、10年ごとの章立ての作家名鑑を兼ねた近現代の日本の芸術史としてね。書名を美術でなく、芸術としたのは、絵画、彫刻、工芸だけでなく、写真、デザイン、パフォーミングアーツ、いけばな、書に至るまで、幅広い芸術ジャンルを取り上げたからです。取り上げた芸術家は2千人近く、それぞれ作品を1点は載せてね。美術館の学芸員など、40人ほどの執筆者に書いてもらいました。監修を酒井忠康さんに頼み、私たち2人のほかに女性のスタッフ3人、制作進行ひとりのチームを組んで、美術倶楽部にも専属で関わる女性スタッフを置いてもらって、4年近くかかりました。ブック・デザインは中垣信夫デザイン事務所です。例の通り。大変な作業量で、よくできたなと思っています。それと、出版の流通にも乗せようと、平凡社に版元をお願いして、書店でも販売し、かなり売れたようです。定価が3万円もしたのにね。日本語版ができてすぐ、海外版も作りたいというので、三上さんと2人で5年後に出しました。海外版は東京美術倶楽部が、海外の美術館などに日本の現代美術作品を紹介するためのツールとして使ったとのことです。作家・作品の選定や、著作権の交渉、カラー図版の原稿の手配を、それぞれの執筆者と何度も打ち合わせるなど、500頁以上の本づくりが大変だったことを話し出せばきりがないですね。

鏑木:田中さんは、これまでにお聞きしただけでも本当にオールマイティ、オールジャンルでお仕事されている編集者だと思います。

田中:そうですね。自分のテリトリーに拘って本をつくる編集者とは違って、何でも面白がって、自分の領域に引き込んでつくっちゃう。無節操なヤツだと思われてるんでしょう(笑)。以前に酒井忠康さんとよく話してたことで、過去に出版されて今絶版になって手に入らない芸術関係の名著がいっぱいあるけど、今の若い人に読んでほしいものを選んで、「芸術選書」として、ペーパーバックの手ごろなシリーズを出せないかなとね。平凡社の下中順平社長にも話してたんだけれども、本屋さんが廃業する時代になっちゃったからね。

細谷:最後の質問です。かつての本を再販すれば、という話とも繋がるかもしれないですが、若手編集者、あるいはこれから編集者を目指す人、若手の作家や出版業界の人たちに、田中さんから何かメッセージがあればお願いします。

田中:時代が変わってきましたよね。私がやってた時代と違って、ペーパーメディアが存続できるかどうかが問題でしょう。デジタル時代のことはあまりよく理解できないからね。しかし、編集者じゃなくてもそうだけれど、好奇心をなくしたら終わりですよ。何にでも「え、これどうなっているの?」とか「なんで?」とか、それが原点じゃないかな。私の場合はそれが芸術関係の世界で、何でも面白がったり、不思議がるというか。それを、追及して、人にも役立つ本やデジタル手段で表現できたらということですね。

鏑木:まさに田中さんのこれまでのお仕事に通じるお話ですね。

田中:だからこれまであまり関心がなかった世界でも、おもしろがれるテーマが見つかれば、自分の世界に持ちこんで、挑戦しちゃう。漫画関係がまさにその一例ですね。

鏑木:それがヒットに繋がっているから、なおすごいですね。

田中:自分が入れ込んで、これはいけると思ったモノでも、売れない本もあったしね(笑)。

細谷:田中さんのお仕事が、これからも楽しみですね(笑)。

田中:でももうオレの出る幕はないでしょう。やりたいことはあるけれども、楠さんと硯の本を出すくらいで。超高齢者で、歳だもんね(笑)。振り返ってみるといい時代だったんですね、美術出版社も健在だったし。昭和の編集者だね、新しい時代にはもうついて行けないんじゃない(笑)。

鏑木:本日もお時間をいただきまして、ありがとうございました。

(了)