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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

吉野辰海 オーラル・ヒストリー 第2回

2018年5月27日

埼玉県秩父市、吉野辰海アトリエにて

インタヴュアー:平野到、鏑木あづさ、宮田有香

書き起こし:宮田有香

公開日:2023年9月26日

インタビュー風景の写真

〈今回の聞き取りについて〉

インタヴューは、主に『吉野辰海 犬の行方』(埼玉県立近代美術館、2012年)を参照しながら行った。本書を参考にした部分については、本文で( )内にページ数と図版番号のみを記した。上記以外の文献については書名、出版者、ページ数等を記した。

宮田:吉野辰海さんのオーラル・ヒストリー、インタビュー2回目、2018年5月27日です。インタビュアーは埼玉県立近代美術館の平野さんと、鏑木さん、宮田です。どうぞよろしくお願いします。

吉野:こちらこそ、よろしくお願いします。

宮田:前回はネオ・ダダに入るところのさわりを伺って、詳しくは次回にしましょうということになりました。1960年(大学2年生の時)に参加されたネオ・ダダ(ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)について、その経緯を詳しく教えてください。

吉野:はい、武蔵美の(話)はもういいんですね。1960年3月に(第12回読売)アンデパンダンに出そうと思って作品を作っていたんだけど、それはちょっとアンフォルメルふうで、自分では気に食わなくて、とっととやめたんです。それでも、アンパンの会場(東京都美術館)ではギュウチャン(篠原有司男)と会ったりしました。その時、ギュウチャンは《こうなったらやけくそだ!》か《地上最大の自画像》を出していて、そのスケールと汚さにビックリして、「篠原さんとちょっと言葉を交わした!」って感じだったのね。三木(富雄)の作品だとか、荒川修作の《砂の器》だとか、工藤哲巳のロープの縛りの作品を見て、すごい興奮状態で会場から帰ってきた。その時はたぶん田舎に帰って親父の砕石所の出席係をやっていて、朝行って一日、本を読んで、また夕方に帰ってくるという(毎日を過ごしていた)。
4月に、ネオ・ダダの1回展が終わった直後くらいに東京に戻ってきて、石橋(清治、のちに別人と改名)と会ったんだよね。彼の出品作品を見せてくれたのだけど、それはケント紙3枚に早稲田通りでトラックのタイヤ痕をつけた、そういうプリントの作品。これにはすごく興奮して、「石橋、良い作品作っちゃったな」って僕は言った。というのは、その頃の僕らのなかで、時間的な表現をどうこうする、みたいな話し合いをしていたんでね。石橋ともちょっとそんなことを話した。その後くらいかな、石橋が吉村(益信)さんのところ、(新宿)ホワイトハウスに1、2回顔を出したんだろうと思う。4月に石橋が三木となんだかとがったみたいでね。それで「オレはもう嫌だ。吉野、代わりに行け」ということで「じゃあ俺が敵を取りに行ってやらぁ」って行ったんだけどね。

鏑木:敵を取る(笑)。

吉野:4月の30日くらいだった、土曜日。暦を見てないからわからないけれど、だいたい土曜日にパーティーをやっているってことだったのね。土曜日に新宿の西口…… いや東口か。みなさん今はご存知ないと思うけれど、あそこはね、出口に便所があって、ものすごく臭かったんだよ(笑)。もう鼻をつまみながら出口を出て、それで角筈の電停(路面電車の停留所)を通って。西武新宿線があるあたりはまだぐちゃぐちゃでバラ線が張ってあったり、左側は西武新宿の駅で右側はずっと材木屋で、そこを通って行くと職安通りにぶつかる。大久保までは行かない、半分くらいまで行ったところ。今の職安通りはすごく広くて立派な道になっているけれども、その頃は車2台がすれ違うのがやっとっていうくらいの汚い小道で、そこにルンペンふうの人がいた。すぐそばに職安があったんでね。職安通りを渡って、ちょっと右に行ったところに丸石酒店という、俺たちがよく世話になった店があってね。(店主の)丸石も良い人で、息子がマッサン(吉村益信)の美術教室みたいなところに通っていたの。それで丸石酒店のところまで行ったら、やたら腰を振った汚ったない格好の奴が歩いてきた。誰だ? と思ってよく見たら、ギュウチャンだ。「篠原さん!」って声をかけたら「よぉ、おまえか」って。後で気がついたけど、ギュウチャンは(近眼で)ほとんど見えていない。でも誰かに声をかけられて「おっ、おまえかっ」って言うのは、ギュウチャンの常套でね。なんだかんだ言って単なるフレンドリーな人で、一緒にトコトコ歩いてマッサンのところ(注:吉村益信の自邸、新宿ホワイトハウス)に辿り着いた。
その印象は、という質問がありますけれども、ゴミゴミしたアパートのなかに一戸だけ、白い建物がスッと建っている。2階家で、背が高い建物ではなくて、白いリシン仕上げの(モルタル)壁面と板の門がステン色で、あの当時としてはしゃれた風情だった。ちょっと大きな窓が開いて、まだ大きなガラスなんて貴重な時代だったのに、ちゃんとそういう窓を設えてあった。中に入ったら板の間で、ストーブがあって、まっすぐ行くとトイレとバスルームになっている。お風呂じゃなかったな、シャワー室。それとトイレ、洋式便所があって。右側はアトリエになっていて、アトリエにはマッサンの作品がめちゃくちゃたくさん置いてある。マッサンは、誰が描いたと特定できないようないろんなスタイルをやってきているから。誰の作品だろう? っていうくらいにね。
いろいろ人が居る中で、かなりがたいが良くて、まぁ言ってみれば太っている感じの人が、マッサンだったのね。僕自身は「美術家で太っているやつがいるはずがない」という固定概念がちょっとあったから、「こいつが美術家か」と思った。後でそれを言ったら、マッサンはすごく悔しがっていたけどね。それで、マッサンに会って「石橋の代わりに来ました」みたいなことを言ったんです。そうしたら、壁に近い2階に上がる階段のすぐそばで、脚立のようなものの上に乗った、真っ白い三つ揃いのスーツを着た、カッコつけている三木富雄がいた。あとは汚い連中でね。ギュウチャンなんて、4月30日だっていうのに白い半袖の開襟シャツで、薄汚れている。ズボンも白っぽい木綿のズボンだけれど、これも薄汚れている。ズッグ靴の後ろをペタンコに履き潰していて、これもメチャクチャ汚れている(笑)。まぁギュウチャンが一番汚かったかな。最初に行った時は、誰が誰だか特定はあんまりできなかった。三木はわかった、ギュウチャンもわかって、マッサンがわかって。それから土曜日ごとに顔を出すようになっていって……、それで5月、6月となっていくのだけども。
5月中旬くらいに日米安保条約について、その頃付き合いがあって、前にも説明したかも知れない。米谷さん。

宮田:予備校が一緒だった方ですか。

吉野:御茶美(御茶の水美術学院)で一緒で、武蔵美を一緒に受けて、一緒に落ちたっていうね。その米谷房子さんのご亭主が、北海道のお金持ちなのだけど、北海道の日本共産党のオルグだった。彼から岸内閣が担当していた60年の日米安保協定の改定について勉強させてもらって、それが後の6.14のゼネストから6.15の国会の討ち入りへとつながっていく。だから4月に入って、30日に顔を出して、それからみんなとちょっと馴染んでいって、メンバーの特定ができるようになった。
ただね、安保のことはネオ・ダダのなかでは話はしなかった。僕はその頃既に田辺三太郎、その頃は田辺利之(トシユキ)だけども、彼を誘って、ネオ・ダダに顔を出すようになっていた。それで田辺を誘って6.14のゼネスト、その頃国鉄のストをやっていたんで、三鷹で一晩、鉄路を枕にして寝転がったんです。朝方に日本共産党がおにぎりを二つずつくれて、「見事なものだな。日本共産党って捨てたもんじゃないな、飯までくれるんだ」って嬉しくなったりした(笑)。その頃は体力が本当有り余るほどあって、食う食わず、寝る寝ないなんて関係なしにね。
翌日の6.15は国会に移って、朝からまわりをグルグル走り回ったりしました。そこにジャッキー(ジャクリーヌ・ポール)が写真を撮りに来たりしていて、お互いニコニコ笑いながらやっていたけどね。そのうち、昼前後だったかな。千葉大が「西門から入るから集まれ」っていうので西門に行ったけど、千葉大は腰砕けで、どうも入らない。武蔵美は惨めな格好でチョロチョロ動いている。それはきっと諦めなんだろうけれどね。女子美は大きな女の子が威風堂々と先頭に立っていた。まあ後ろはチビだけどね。あの頃はだいたいチビが多かった。
今度は早稲田が正門から攻めるっていうんで、みんな正門に集結して始まった。どうやら長い指揮棒を持ったお巡りがいっぱい、その辺をウロウロしている。警備しているのは黒い制服を着たお巡りで、ずーっと国会と正門の間に並んでいる。いよいよ討ち入りが始まってメリメリと門が壊れて、あのでかい門柱がぶっ倒れて、2、30メートル入ったところで、その長い指揮棒持った奴が、右の方からバーッと走ってきて、飛び上がりながら棒を後ろに反らせて殴りかかってきた。後から聞いたんだけども実は第3か第4か、大森にいる一番獰猛な機動隊だったらしくて、そうすると右側の前列にいた連中のみんなの頭から血がバーッ、バーッと吹き上がってね。「ヘぇ、血が上がるんだ」ってびっくらこいて。それが雪崩れてきて、僕と田辺は前からだいたい7列目くらいの左の方にいたもんだから逃げようと思ったけど、後ろからガンガン押されるものだから、逃げるも何もできない。もう息が詰まる、何もできない。とにかく息をしたかわからないうちに、ビショビショの風体でボタンも一個もなくなっていた。それで、押し合いの中からちょっと外れてホッとしたところで横を見たら、モヒカン刈りの奴が一人動いているわけ(笑)。「なぁギュウチャン、どうしたんだ? 目立ちすぎるよ」って言って、その頃「丸通」っていう運輸会社があったんだけど、誰かにもらって持っていたそこの帽子の中にタオルを入れてかぶっていたのを、ギュウちゃんに渡してね。
見物するのも何ももう疲れちゃって、田辺と二人で新宿に行った。あの頃、新宿で一番安い店、あの辺はどこも安いけれど、鶴亀っていう天丼屋があったんです。これはアジかイワシの天丼、いや、フライかな? それをびしょびしょのお汁にくぐらせて、それを汁ごとバチャっと飯の上にかける。滋養があるって、俺たちみんなに人気があったの。それを食って、首をガッと上に向けてテレビを見た。あの頃、お店にあるテレビっていうのは、ほとんどが天井に近いところに設えてあったんだね。それで僕らの国会討ち入りの情景を見ながら、身体が乾くのを待っていた。テレビで国会を見ているとき、まだ装甲車に乗っかってドンドンやっている連中がいたけどね。それで帰ったんだろうと思うね。今じゃ何も記憶がないっていうね。それが6.15。東大の樺美智子さんが亡くなった。
そのなかでエピソードを言うと、武蔵美の広川晴史というのがいて、彼はお巡りの車の上に乗ってドンドンってやっている時に拘束されちゃって、なかなか帰してもらえなかった。なぜかっていうと、体型からみるとどうも指導者っぽい。風体がそうだし、それからしゃべり方もそうなんだね。何か、ものを至徳しているようなしゃべり方。でも、もともと何にも知らないわけだね。安保のことも、それがただ面白いからって行っていたわけでね。3週間くらい拘束されて、その間黙秘した。知らないから何もしゃべることがない。「知りません」とか何とか言ったって(笑)。それで武蔵美の文化祭の時に、まだ2年生で学籍があったんで、ちょっと顔を出してみたら、どうも「広川を奪還する運動」とかいって、たぶんその時は秋山祐徳太子が武蔵美の委員長かなんかをやっていたと思う。なんかバカらしいからそれは無視して、また帰ったけどね。そんなことが安保がらみの話。

宮田:その3日後の6月18日に「安保記念イベント」というのに、参加されています。

吉野:その頃(ホワイトハウスには)既にいろんな媒体、週刊誌やらテレビやらがいろいろ取材に来るようになっていて、ネオ・ダダとしては何か踊って見せなくちゃいけないっていうことになったんだろうと思う。吉村、篠原あたりの提案だったと思うね。それでショーをやる(注:「6月19日零時で安保条約が自然承認されるのを抗議したイベント」『ネオ・ダダの写真』福岡市美術館、1993年、p.64参照)。6.18のタイトルがあったと思う。「安保なんとか」っていうふうなタイトルを一応付けたと思うな。(資料を見ながら)ないみたいね。自分では覚えてはない。

宮田:何かタイトルがあったんですね。

鏑木:それは「安保記念イベント」という名前ではなくて。

吉野:記念? か何か、ちょっとわからないね。…… 6.18ショーは、この頃はもう田中(信太郎)もいるし岸本清子(きしもと・さやこ)ちゃんもいるし、三木とか工藤もしょっちゅう顔を出していたというのもあるんです。吉村さんの古くからの友人だとか、まだ油絵具で絵を描いていたような人たちは、ほとんど来なくなった。6.18の頃になると見物に来る連中も、ちょっと過激なことを見ようという心構えで来るような人たちが多くなった。コシノジュンコが来たりね。それから音楽評論やジャズ評論をやっている女性の、作詞家でもある……。

鏑木:湯川さんですか。

吉野:湯川さん。湯川れいこさん。彼女も(昭和)11年くらいの生まれかな。海軍大将かなんかの娘だね。来るっていったって、とにかくネオ・ダダっていうのはなんじゃい、っていう人が野次馬根性でやってくるわけだから。学生やら、ダンスやっている連中やら。

平野:毎週土曜日にそういうことをやっていたんですよね。見に来る人たちは土曜日に何かをやっているとわかって来ている。

吉野:そうそう。土曜日にやっているって。

平野:土曜日にネオ・ダダが集まっていろいろやっているっていうことは、もうだんだん伝わっていたということなんですね。

吉野:ダンスをやりたいってやつも来たしね。

宮田:範囲が広いですね。集まっていた方たちの。

吉野:6.18は何か扮装していたような、写真がちょっと残っていたような、(平野に向かって)見たことあります? ないか。

平野:福岡市美術館でやった「ネオ・ダダの写真」(1993年)で、出ていたかも知れませんね。(注:「安保記念イベント 吉村益信アトリエ 1960年6月18日」『ネオ・ダダの写真』pp.28-29)

鏑木:それは可能性ありますよね。

吉野:それは持ってきてない?

宮田:そのカタログは持ってきてないです。

吉野:ダンス・パーティーとかロックンロールとか、あの頃流行っていたしね。プレスリーの「ハウンド・ドッグ」。ハリー・ベラフォンテとかも出てきて、格好よく「バナナ・ボード・ソング」をやりだしたりなんかして。みんなでジルバをやったりね。だから美術集団というより、単なるパッパラパーのガキ集団みたいだったね(笑)。ジャーナルでの扱いはそういうものだった。ビート世代だとかね。そういうことで『週刊新潮』のグラビアページに載ったり、それからテレビまで取材しにきて。
取材に来る人は、最初は安い酒だけどトリスかなんかを持ってきていたね。そのうちにこっちの方も「トリスなんかじゃな、サントリーにしろ」とか言って、リクエストを出したりして(笑)。誰かが「シロ」(サントリーホワイトの愛称)って。その上が「角(瓶)」だからね。角のうえが「ダルマ」(サントリーオールドの愛称)ってやつだから。そこまでは自分たちを高くかってない(笑)。

宮田:翌月の7月に第2回ネオ・ダダ展が開催されます。

吉野:第2回が7月の1日から10日。6月中に、だいたい仕事が始まると1週間は(作品を)作る時間もないくらいでやるんだけどね。その時もパンフレットを作って、デザインはマッサンがやって。マニュフェストみたいなものを中に入れたと思うけれど、原案はだいたいギュウチャンが作ってね。「狼は生きろ、ブタは死ね」みたいな感じなんだけど。短いコメントを(紙面に)いっぱい散りばめたのは、みんなで出し合った。主導的なのは赤瀬川(原平)だったね。「歩くたんびに屁がもれる(クソが出る)」だとか、そういうの。ナンセンスでちょっと何か馬鹿らしいこと。それを入れた。それで瀧口修造さん、瀧口修造先生が詩を出してくれたんですよ。それ、ここに出ている?(注:「ダダは諸君をくすぐるだろう」からはじまる25行の詩。吉村益信「断面のスナップ」『ネオ・ダダの写真』p.5に全文掲載)

鏑木:(複写した「第2回ネオ・ダダ展案内状」を出して)読めるのはこっちかな。

吉野:これ、俺も持っていたんだけどな(cat. no. 51, p.68)。それには何箇所か誤字脱字があって、それをチェックもしないでね。みんなで恥ずかしがったけど、後の祭りだった(笑)。それで初日を迎える。この展覧会のパンフレットをみんながどうやって配ったかは知らないけれど、ギャラリーとかは(当時は)何軒かしかなかったから、その辺りにばらまいたりしたんだろうと思う。休みなしで10日間。始まったら10日まで、夜行ったら誰かいるし、そんなことをやっていましたね。
1回目は「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」っていうグループ名だったけれど、東野芳明さんが、ジャスパー(・ジョーンズ)とか何人かがアメリカでネオ・ダダ、ニュー・ダダっていうのをやっている、というわけ。それでネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ。オルガナイザーという言葉は、あの頃、戦後の日本人でちょっとインテリジェンスをかぶっているやつは、赤っぽくないとどうもインテリじゃないという脅迫観念があってね。まだマッサンなんかはかぶっている部分があって、オルガナイザーって入れたんだけど、それはやめようってことで「ネオ・ダダ展」になった。
1回展に出したのは俺の友達の石橋だとか。岩崎(邦彦)は1回展にも出していなかったけれど、あと何人か抜けて、その時に田中、田辺利之、岸本清子、吉野の4人が新しく加わった。
その頃はまだ「吉野辰治」なんだよね。その時はみんな親がつけてくれた名前でやっていたんだけど、そのちょっと後に、(質問リストにある先の質問の答えを)先に言っちゃうけれど、ギュウチャンのおっかさん(が判断して改名した)。ギュウチャンのところは、自分の家系から一人美術家を出すっていうことを使命にしているような家族で、伊藤というおばあちゃんから従兄弟だとか、いや叔父さんか。ギュウチャンからしたらちょっと若い、中日新聞に勤めていた巖(がん)ちゃんっていう叔父さんがいたり、それから三木と結婚する、ギュウチャンが「お姉ちゃん」て呼ぶ郁子さんがいた(注:伊藤郁子。篠原有司男の母方の祖母。峯村敏明「三木富雄論 第三章[連載第4回] 耳以前の二相—物質的混沌から肉体的形象へ」『引込線2013 essays』引込線実行委員会、2013年、p. 156参照)。ギュウチャンの場合は、やれ! ってみんなが応援している。ギュウチャンのおっかさんは伊藤の長女で、早い時期の女子美の出身なんだよね。高島易断っていうのかな、悪い名前を良い名前にするっていうのをやっていた。だから篠原有司男も、最初の名前は牛の男だったもの。そのうちコウイチっていう名前になったみたいで、親戚の中でもギュウチャンのことを「コウチャン」って呼んでいる人がだいぶいた。それからまた「ウシオ」にもどって、今度は文字数をやたら増やした「有司男」になったね。ギュウチャンのところは西田町っていう、荻窪(駅)から行く電電公社の社宅。親父が勤めていたのが電電公社だった。ちょっとした土間と板の間と四畳半くらいで、家族で住むにはあまりにもちっちゃいんだね。ギュウチャンが帰った時はどうやら押入で寝ていたらしいんだけど、九州派の桜井(孝身)さんも行った時は押入に泊めてもらったって(笑)。

宮田:二人で押し入れで寝たんですかね(笑)。

吉野:家族全員じゃ寝られないんだ。せがれたちは、どこかに行っていないとならない。そこに俺たちが遊びに行くと、自分のせがれの友達が来たって、おっかさんはすごく嬉しがってくれて、チャーハンか何かを作ったりしてくれて。
そのおっかさんが、みんなの名前をみてくれるということで、荒川は「すごくいい」って。赤瀬川は赤瀬川克彦、原平。ゲンペイは最初はさんずいの源平だったの。ところが「さんずいはいけません!」とか言われてね。そんなんで僕も、吉野辰治が吉野辰海に。「辰治だとケンカが多くってダメ!」ってことで、辰海になった。それから誰だろうな。田辺は三太郎という自分の名前を使うなら、それでいいだろうと。それから、風倉匠作(しょうさく)だったのが、匠(しょう)だけになった。おっかさんが言うには、この名前を三千回書きなさいって。慣れるまで体に覚え込ませる。

宮田:みなさん書いたんですか。吉野さんも。

吉野:そりゃ書いた。あと改名したのは……あとはみんないいんだ。良い名前で、美術家に向く名前をつけられて。それで2回展以降はみんなその改名でね。それでみんなずっと。まぁ赤瀬川は小説を書くのに、別でペンネームを使っていたけれど(注:尾辻克彦)。あとの連中はみんなそういう名前でやってきたんですね。

鏑木:そうだったんですね。吉野さんは、もともと辰治さん、だったんですね。

吉野:そう、タツハルの辰治ですね。

宮田:2回目の展覧会に出すにあたって、どんな作品にしたのか教えてください。前回は、たしか休憩時間に伺ったので、もう一度、この火を使う作品についてお伺いできればと思います(p. 70)。

吉野:僕はその頃、強引に家を出てきて金がないから、姉の家に世話になった。家の隅っこの方に寝泊まりさせてもらって、飯をタダで食べさせてもらっていたのだけど、まだ武蔵美に在籍していたんだな。姉の家は、甲州街道に面していたんだ。甲州街道の幡ヶ谷近辺は道具屋だとか材料屋がものすごくいっぱいあったんだね。何か作るのに不足はなかった。姉の家の隣に、坂口さんっていう建具屋さんがあってね。その家に同じ歳ぐらいの職人さんがいて、俺が言うと何かいろんなものを作ってくれる。出品作のパネルみたいなものは、みんな作ってくれた。

鏑木:これですか(p. 70)。

平野:それは吉野さんの自作ではないんですか。

吉野:うん。まぁ自分でも作れるけどね。でも建具屋さんは機械もあるし、作るのが早い。甲州街道で買ってきたちょっと太目の針金だとか、ブリキ板2枚、それとアメ横に行っていわゆる電気花火というのと、龍なんとかっていうニューっとした変な形で出てくる花火を仕込んで、ニクロム線で発火するようにしてね。コンセントに差し込むと、そのニクロム線が発熱して花火に(火が)移っていく。とりあえず人間がそばにいなくても、自動的に火がつくっていうものだったんです。それを持って隣の坂口さんのところから、昔は自転車の横にリアカーがついたサイドカーというやつがあったんだけど、それに乗っけてもらって自分で漕いだか、あるいは同じ歳の職人さんが持っていってくれたかして、搬入した。
その時はマッサンが入り口で待っていて「作れないんだ。うまく作れない!」とか言っててね。そのうち(吉野の作品を見て)「あっ、ブリキか」って言って、今度はブリキを買いに行って、それに垂木のフレームを作った。仕事をやりだしたら、そんなの2、3時間で作れるから。マッサンのところにはいつも希塩酸があってね。何であったかは知らないけれど、希塩酸をぶっかけて。その時、写真家も何もいない時に、すごいパフォーマンスみたいなことをやってね。斧でガンガン殴り出して、作品を2枚ぐらい作ってね。マッサンはそれ。僕は部屋のコーナーのところに一番に作品を持って行って、コンセントが使えるようにセッティングして。後は赤瀬川がタイヤチューブで作った《ヴァギナのシーツ》みたいなのだとか、荒川はセメントに綿を貼り付けた〈棺桶〉シリーズの最初みたいなやつね。それとギュウチャンは木の根っこに釘を一生懸命打ち込んで、ものすごく無駄な作品を作っていた(笑)。

一同:(笑)。

吉野:風倉さんはモビールみたいなやつだとか、豊島はガラスの欠片をいっぱい埋め込んだやつだとか。まだみんな自分の作品というものには、なんて言うんだろう。一個の道筋をつけられていないぐらいの時。どちらにしても、作ったらまたすぐに捨てるということが前提にあるから、捨ててもいいものっていうね。素材の値段から何から含めて、捨てるのを前提で作る。アンデパンダンもみんなそうだけれども、絵が売れるなんて誰も思っていないわけだよね。
絵っていうのは、僕らは油絵具で描いたものを絵だと思っていたから。自分たちがやっているのは美術ではない。美術をぶっ壊しているもんだと。自分たちは美術家のつもりではいたけれど、誰かからいいマージンをもらえるような表現ではない、ということは分かっていたわけだ。それで始まって、10日間やったんですけどね。僕の作品は夜になって暗くなってから点火して。下のブリキのやつは発火したんだけど、上の方の、三角の作品は(p. 97、A1)。

平野:ブリキって、こちらが発火したということですね。

吉野:三角の作品まではちゃんと火が回っていかなかった。それでマッチを持って行って、後ろから点けてやった。自分の体で隠して。

鏑木:(写真を見ながら)ここ、吉野さんが後ろから点けていますもんね。

吉野:ここ、マッチをつけて。

鏑木:そうですね、点けていますね。

宮田:10日間毎日、夕方になったら点けていたんですか。

吉野:いやそうじゃない。

吉野:初日の1回で、終わり。その後は残骸をただ出していただけ。

宮田:やってみて、いかがでしたか。

吉野:(新宿ホワイトハウスの)周りはアパートが密集しているから、みんなで窓を開けて首を出してわいわい騒いでいたら通報した奴がいたらしくて、お巡りが来た。マッサンか誰かが、ちゃんと「いや、芸術です」とか言って追い返したんだと思うね。

宮田:同じ月に、鎌倉の海岸で「ビーチショウ」というのをされて。

吉野:その後ね。その会期中にね、マッサンとギュウチャン、どうもあの二人がとんがるようになってきて。

平野:第2回の時ですか。

吉野:第2回展の時ね。会場で二人で殴り合いをやるだとか。そんなことをやってたね(笑)。

平野:第2回展の時に、事前に自分はこんなものを出すとか、一切相談はしないでされたんですか。

吉野:うん、そんなのは何もなし。

平野:みんな結構狭い空間に作品を持ち込むわけじゃないですか。早い者勝ちですか。

吉野:そうそう。それで、田中がどんな作品か、岸本サヨちゃんがどれかって、後から全然特定できなくてね(注:岸本の名は”さやこ”だが、当時は「サヨちゃん」と呼ばれていた)。どれが誰のだとか、名前は一応書いていたんだけどね。あとタイトルを書いたかどうか。名前は、書いていた。…… それでオープンの時はいろんなカメラマンとか週刊誌だとか、『漫画読本』、『アサヒ芸能』、新宿にあったちょっと三流誌みたいなのは何だったかな。あの新聞社はよく付き合ってくれた。(注:書き起こし確認時に吉野から「『内外タイムス』だったかも知れない」と追加情報あり。風俗記事で紙面が構成されたタブロイド版で8頁くらいのものだったと記憶しているとのこと。)

平野:新宿ですか。

吉野:それが今思い出せない。

宮田:(日本)読書新聞とかじゃないですか。

吉野:新聞とかいう名前が付いていたかな。 ……初日に、後に「時間派」をやる土居樹男さんと、ふざけて殴りかかったりしてたんです。マッサンが止めに入って、椅子の座面を持って僕のパンチを避けたりしていたら、どうやらマッサンの歯に拳が入ってしまった。僕の左手の中指のところの軟骨がポロっと取れてしまって、痛いなと思ったけど、しようがない。工藤と一緒に二人で帰ったのだけれども、新宿の西口で焼酎なんか舐めながら工藤が「吉野、それ痛むぞ」と言うんだよね。そうしたら翌日、ものすごく手が腫れまくったんだよ。病院っていうところには行ったことがなかったから、姉が連れて行ってくれて手術を受けて、そうしたら3日後くらいにまたパンパンに腫れて。そういった傷は全部縫っちゃいけないらしいんだけど、インターンが全部縫い詰めてしまったんだよ。それで中に膿が溜まっちゃって、それから緑膿菌みたいになって、「手を切るから」って言われたの。「手を切るのはやめてくれ」って、翌年の1月くらいまで3回ほど手術をしたりしたんです。

平野:絵を描けなかったってことですよね。だって右手。

吉野:左手。あんまり仕事はできなかったけどね。なんかいろいろ(治療を)やって、12月くらいになって金が必要だからと思って、職安に行ったら自衛隊を勧められた。でも自衛隊には行かないで、キャバレーのボーイか何かを勧められたけれど、右にトレイは乗せられない。左手に乗せなきゃならない。そうしたらトレイをすぐ落っことしちゃうんで、これは仕事にならない。それで系列の美人バーか何かに回されて、そこのカウンターの下に潜り込んで、ビールの栓を一生懸命抜いていたの。また手が腫れて辞めちゃったけどね。
翌年の1月ぐらいに幡ヶ谷から、今度は阿佐ヶ谷に移るんだね。移る前に、3回目のネオ・ダダ展をやるんだけど。手の怪我は、1月に自分で「たこの吸出し」(注:軟膏の商品名)を買ってきてね。ろうそくの火で縫い針を一所懸命消毒して、手術痕に針を突っ込んで膿をものすごくいっぱい絞り出して、血まで絞り出したら、やっと治ったんだ。やっぱり医者で治らないものは自分で治すしかないっという感じ。
2回展の次が日比谷画廊。その前に、材木座の安養院の話がある。あれはTBSの発案だったと思うんだけど。

宮田:そうなんですね。

吉野:ビーチショーをやる。安養院は鳥居良禅さんという詩人がお坊さんだったの。洒落た格好で、ルノーの上をちょん切ってオープンカーにして乗っていた。俺たちと一緒に行動しながら、坊主らしからぬ感じで嬉しそうだったよ。あの頃はセドリックが一番上等の車だったみたいで、鎌倉までの国道を100キロくらいでぶっ飛ばして行った。運転はもちろんTBSの運転手。当時は交通規制とかあんまり感じていなかったのね。車があまり走っていなかったし。それで大磯あたりの松林をビューっと飛ばして。それと並走して、あの頃はカミナリ族とも、マッハ族とも呼ばれていた、豊嶋壮六のお兄ちゃんの配下の連中とね。相撲の国技館がある街……。

鏑木:両国ですか。

吉野:両国のすぐそばの横網町という所に豊嶋壮六さんのお宅があって、そのお兄ちゃんが若者に人気があってね。 それで、お兄ちゃんの配下の連中がイタリーの何百万もするようなバイクを、こんなマッチ棒のみたいに短いハンドルが付いているようなやつをぶっ飛ばして、一緒に鎌倉の材木座まで行ったんだ。100キロって今は平気なスピードだけど、あの頃は信じられないスピードだったね。そんなんで行って、ガチャガチャ体に海藻を巻きつけたりね。白い布をずっと波打ち際に張ってぐるぐる巻きとってみたりして、大して面白いことはしなくてね。自分たちの中で一番受けたのは、大磯のロングビーチの飛び込み台の上から、風倉さんが飛び込んだ。あれ10メートルの飛び込み台かな。あの上から飛び込んだなんてすごいなって。風倉さんがトップ賞になってしまった(笑)。(企画としては)大したものではなかったね。

宮田:TBSの依頼ということは。

吉野:依頼じゃなくて取材。

宮田:取材ということは、TBSはテレビ局なので動画を撮られて。

吉野:それは見てないね。流さなかったんじゃない? 面白くないから。 (注:ビーチ・ショーはTBSの番組「北から南から」で放映されたと『’95ネオ・ダダ〈一断面〉』大分市教育委員会、1995年ほかの年譜に記載されている。)

宮田:その後、9月に第3回のネオ・ダダ展が。

吉野:第3回展は日比谷画廊ですね。(資料を見ながら)それは、僕は(怪我で)手が上がらなかったから大したものは作れなかったけれども、田辺だとか、升沢金平さんは初めて参加して、木下新さんとそれから平岡弘子さんも参加した。金平さんは体に壊れた電球なんかをぶら下げたりして、後の写真でいろいろ出てくるような、あの危険なパフォーマンスというか、出立ちだね。マッサンが体に「ネオ・ダダ」と書いた紙を巻きつけるのと、それについてまわる赤瀬川。その3人が写った写真は、よく見るやつだね。それで、田辺がドラム缶のデカい作品を出した。金平は綿のはみ出した布団にションベンを引っ掛けて《帝国ホテル》という、汚ないのを出した。瀧口さんだとか東野さんが初日に来て写っている写真が残っているけれど。その頃は荒川は参加していないと思う、2回展までで。
それで、あまりに汚いしうるさいからと言うので、とうとう3日目に追い出されて、会期としては3日間。日比谷画廊というのは東京都の経営なのだけど、向こうに権限があったんだろうね。9月1日から7日までとなっているけれど、9月3日までで終わり。1日、2日、3日。

宮田:吉野さんは、手を怪我されていたので作品は出さなかった。

吉野:作品は、第2回展に出した押し潰したやつを下に置いて、ろうそくを使ったものを事前に作っておいたのだけど(pp. 71, 97)。ぐるぐる回る作品も作ったと思う。

平野:小型モーターで回るドローイング・マシーンですよね。写真で見たことがあります。

吉野:オートマチック・ドローイングみたいなものをね。あれは成功ではなかった。自分の記憶の中で曖昧になっているのをみると、どうも成功はしなかったんだな。

鏑木:平岡さんは日比谷画廊の頃に入られたのですか。

吉野:平岡さんは阿佐ヶ谷に住んでいて、ネオ・ダダの連中とはいつもよく付き合っていたので、その時初めて出したっていうこと。

鏑木:もともと、よく遊びにはいらしていた。

吉野:うん、遊びに来るだとか、僕らがその阿佐ヶ谷の家に行くとか。平岡さんというのは徳島の旅館の娘さんで、お金があったんだよ。それで持家があったところに、荒川が目をつけて潜り込んでいたんだ(笑)。荒川はそこで絵画教室か何かをやったりしてね。

鏑木:へぇー。

吉野:それでその時には(自分は)阿佐ヶ谷の成田2丁目っていうところに移転していて、駅からの帰り道に日大の相撲部と、花籠(部屋)の前を通るんだよね。前を通ると連中は浴衣1枚で紐も使わずにまわしの中に着物の裾を突っ込んで、道路に水をまいたりして頑張ってやっている。俺も負けてられるかと、薄いジャンバーの下にTシャツ1枚でプルプル震えながら歩いてた。(実際に)あまり着るものがなかったから、寒かったけどね。
その頃がだいたい60年。日比谷の後に、富田栄二さんとか一部は「ビザールの会」(注:9月に結成)とかね。たぶん、銀座のガス・ホールでやったんじゃない?

宮田:ガス・ホールって『ネオ・ダダの現在 ’96』(佐野画廊、1997年)には書いてあります。

吉野:ガス・ホールを借りて、ビザールの会というくだらない会をやったんだね(注:9月30日)。あまりにもくだらない。それにはマッサンとギュウチャンが出演していたけども。二人とも出られるところがあれば何でも出る。マッサンは頭を坊主にして、鉈でガンガン物を壊していたんで、それでテレビにも出たんだよね。
翌年、61年はアンパンに(出品した)。阿佐ヶ谷の下宿先というのは鳶職らしくて、自分の家の周りに材木だとか材料が置いてあって、土間もあるけれど、家の外を利用して何とかものを作る余裕があった。周りが畑ということもあったしね。ギュウチャンのところも、親父が与えられていた官舎の周りは空き地だとか畑で、みんなでトウモロコシをかっぱらって焼いて食べたり。空き地ではボクシング・ペインティングが始まっていた。ゴミ溜めなのか空き地なのかよく分からない、そういうところで始まったんだよね。
(質問リストを見て、)ビザールの会なんてどうでもいいよ。それで翌年になりますけれど、マッサンは石崎浩一郎の妹の翠さんと結婚しちゃったんだよね。誰か(注:津田信敏)の弟子だったのか、翠さんは「女流アバンギャルド」という三人の若い女性のダンサーグループで、よくネオ・ダダのところに遊びに来ていて、それでマッサンと結婚することになってね。僕は夏休みだったかな? いなくてね。帰ってきたら、もう誰も寄り付かなくなっていた。寄りつけなくなっていたというかな。新婚家庭のホワイトハウスになっていたんだね。

平野:吉村さんがご結婚されたのは61年でしたか。

吉野:60年(秋頃)じゃないかな。

平野:60年だ。みんな、なかなか行きにくくなった。

吉野:石崎は成城(学園)のいいところに家があって、そこに自分とおじさんの家もあった。そのおじさんの家に、瀧口さんがたしか東映に勤めていたころ、下宿していたんだね。だから石崎コウちゃんや翠ちゃんのことを、本当にちっちゃいころから可愛がってくれていて。だから「瀧口のおじさんに仲人してもらう」とか言って、瀧口のおじさんが仲人になった(笑)。

一同:瀧口先生が「瀧口のおじさん」になって(笑)。

吉野:瀧口さんも、石崎が評論家になった時、「あの子が評論家ねぇ」って言っていたことがあった。瀧口さんは声が低いから、一人にしか聞こえないの。 はい、次は翌年に移ります? 1961年。

宮田:はい。1961年に(第13回読売)アンデパンダンに出す経緯を伺えればと。

吉野:1961年は阿佐ヶ谷の成田町で作ってね。今ちょっと題名が思い出せない。彼が知っていたのかな? 内科画廊を撮ったりしている。

宮田:西山(輝夫)さんですか。

吉野:そう、西山さん。あの人はアンパンから見始めたわけではないんだよね。

宮田:1963年のアンパンからです。

吉野:(資料の図版を指しながら)その前の年だから。これは62年だから。

宮田:そうですね。西山さんのスクラップブックは1965年からなので、写ってないです。(注:1965年から1966年にかけて西山が見た展覧会や参加したイヴェントで記録したスナップ写真やチラシを貼ったスクラップブック。2017年にアーティスト・ユニット「ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダ」によって3冊セットのアーティスト・ブックの1冊としてその複製版『Teruo Nishiyama: scrapbook 1965-1966』〔第1部〕、《scrapbook》Hikotaro Kanehira、statements、2017年が作成された。)

平野:題名は《生殖性霊現展開図式》ですよね。これ、題名はわかっているんですよ。

吉野:それは、50号ぐらいの平たい白い台の上に、ガラスの箱があって、その上に増殖図が描いてあった。中に胡粉でできた固形の増殖図の立体図みたいなものを入れている。増殖というのは、どうもその時は、中西や工藤の影響があったんだろうと思うね。自分の中で考え方が、まだほとんどまとまらなかったというかね。

平野:これが今の増殖タイプですね。これは記録写真が残っていないんですよ。誰か撮っていれば貴重な写真なのに。

吉野:あの頃は写真を撮るって人がいなかったからね。何か取材があって写真を撮られるというのがね。

宮田:初めてアンデパンダン展に出してみていかがでしたか。

吉野:いや、わからなかったね。何だかんだと言ってビギナーだったから。ネオ・ダダ展の2回目に出したという作品が、世間に(初めて作品を)出したということなんだね。それから入れ込んで(3月の)アンデパンダン展に出したけども、入れ込む割には地味な作品を作ったものだなと思いましたね。人からの影響もあったけども、増殖だとか、いろんな情報が増えていく時代だということは、肌で感じていたのだろうと思う。その翌年の《日本の猫は二階に住む》とか、その次の〈MONO-KUI〉とか、そこにも方法論があるにはあったということだね。

宮田:その頃に大学を辞めることになりますけども。

吉野:辞めるというより、辞めさせられた。自分の所には何の通知もないのに、母親のところに「もう本校の生徒ではありません」みたいな通知が行ったらしくて。だから、「あーそうですか」ということです。60年いっぱいは学籍があったのかな。61年の3月までで終わりで。それはアンデパンダンが終わった時点ですね。(入学した時に)学校債権を買わないと学校に入れてくれないということで、一番安い学校債権は1万円かな、それを買っていたんだ。その金を返してくれるって言うから、1万円と、2万円、何かでポケットに入っていたお金があって、翌年の4月は豊かに暮らした覚えがありますけどね。安酒をちょっと飲めたし、昼飯の時にラーメンくらいちゃんと食えたしね。それまでは飢えまくっていたからね。
1960年の2回展の前は、友達の跡を継いで土方をやって、隣の新宿だとか世田谷区のあたりの現場で一所懸命に泥はねか何かをやって、ヘロヘロになっていた。その時だって、食い物はドカ弁に入っている飯とシャケの塩びき、きゅうりの塩漬け一本が定番なんだね。それで徹夜しながら、朝方になると体が寒くなってくるような栄養状態。その頃はシェイプアップしてたからね、体重が50キロなかったからね。

宮田:働きながら同時に制作をされていたんですか。

吉野:仕事が少ないからね。それに、なるべくアルバイトはしないで。働くのはあんまり好きじゃないから。人見知りするから、どこか行って仕事を探すっていうのはね。友達が探してきた後を継ぐとか、自分の家に帰った時に親父の仕事で出席係をやったり、そんなことをやってうまく誤魔化して金をもらっていたんだけどね。

宮田:1962年も63年も、続けてアンデパンダン展に出されますよね。働きながら制作のことも常に考えていたんですか。

吉野:ネオ・ダダが終わった後に、赤瀬川が丹青社というところでレタリングのアルバイトをやっていたんです。丹青のアルバイトは藝大が多かったのだけども、手配師に専務の甥の広川晴史という、アンパンの出品拒否にあった者がいるけれども、彼が丹青の学生アルバイトの担当、というか手配師みたいになっていた(注:広川はハリボテの人形に出刃包丁を持たせた《そろそろ出かけようか》を「広川政文」名で第14回読売アンデパンダン展に出品したが撤去された)。おじさんが専務だったから、俺たちは広川のことを「広川専務」って呼んでたんだ。広川の方が本家で、専務は分家だとか言って、広川の方が威張っていた。あいつは何にもしないで手配師だけをしていたんだよ。
俺たちは初めは雑用係みたいだったけれど、やっているうちにアカちゃん(赤瀬川)はレタリングをやって、俺は立体担当になってね。「ロシア展」とかってなると、日本人と体型が違うからロシア人のマネキンを作るわけだ。骨盤の形も何も違う、モデルがいないからどうしようって、女子美の女の子を連れてきて、参考にするって言っても何にも参考にならなかったんだけどね。とにかくモデルが必要だって、そんなことしながらふざけながらやってた(笑)。
それで2、3年は丹青に行ったのかな。最後の1年くらいはアカちゃんと俺と広川で、自分たちでも「特殊能力者隊」と言っていた。三木よりはやく耳を作品化していた、すがのとしのりさんという人がいて、すがのさんも入れて4人が丹青の特殊能力者っていうことでね。350円のアルバイト料金だったけども、150円値上げして500円にしてね。「仕事がない時は来なくていい」とか言われるのに、毎日ハンコ持って行って、会計に金もらっていたもんだから、顰蹙を買っていましたけれどね。

平野:マネキンを造るときはもうFRPを使っていたのですか。

吉野:いや、FRPではなくて石膏で作っていた。

平野:原型を作って。

吉野:石膏で原型を作って。まだFRPは(使っていない)。

平野:まだ高かったか。

吉野:その頃、もう少し後になると、理研(理化学研究所)がタダでくれるようになるのだけど、まだ使い方が固定化してなかった。女子美の女の子をモデルにして、粘土で原型を作って。

宮田:奥様との出会いがその頃だったのですか。

吉野:もうちょっと後だね。彼女も丹青でアルバイトしてたらしい。当時は丹青では会ってないんだけどね。

宮田:そうなんですか。丹青にお勤めになりながら、制作のことを常にどんなふうに考えておられたのですか。

吉野:だいたいアルバイトだから、休めばいいと思っていた。61年は何をやったかな? 読売アンパンぐらいでしょ。あとはやってないと思う。62年は丹青のアルバイトに行く前に、4月からか5月ぐらいからか、磯崎新さんのところに行っていました。新(しん)さんが「空中都市・新宿計画」のモデル(模型)を造るのを手伝いに行ったのかな。夏休みを挟んで2ヶ月くらい。 それで9月くらいから丹青に行くようになったのかな。丹青は湯島天神のすぐそばに研究所があった。川の方というか順天堂(医院)に近い方に裏門があって。角には角打が出来る酒屋があって、たいていそこで角打ちを1、2杯飲んで、それからみんなで新宿の方に向かって行って。それで新宿で翌日の電車賃だとか必要最低限のお金を2、30円を残して、それ以外は全部使っちゃった、みたいな感じ。姉には申し訳なかったけれど、飲んで終わりだったね。やっぱりアルバイト料が安かったのかな、500円になっても。あの頃のアルバイト料をいうと、土方が500円、サンドイッチマンが500円。赤瀬川が丹青で働く前にサンドイッチマンをやっていたけど。まだ映画が盛んだったので、エキストラが500円かな。それ以外はあんまり500円というのはなかったかな。その中で土方をやったり、強引に丹青の特殊技能者になってしまったりしましたね。

宮田:1962年(3月)の第14回読売アンデパンダン展に、先ほど出てきた《日本の猫は二階に住む》(p.97, A3)という作品を出されますけども、働きながらこの構想を考えていたのですか。

吉野:その頃は、また阿佐ヶ谷から幡ヶ谷に戻っていて、構想だとかそういったことはあんまり考えなかった。常態で作品のことしか考えてないから。いつ展覧会があるから構想するっていうんじゃなくて、当時からずっと、いつも考えているんだね。何か展覧会があったら、1週間で作らなきゃならないっていうときは、1週間で作れるものを作る。「日本の猫」は甲州街道の改修工事で出た丸い街灯のボールを拾って使ったりしていますけど、それは2週間以上かかったんじゃないかな。

宮田:大きな作品ですよね。

吉野:胡粉の上に黒い墨汁を塗って、ここ、黒い墨汁を塗ったところをペーパーで削って絵を描いている。あとは親父が仕事で使っていた烏口をもらって使って、何となくこのへんの墨汁の絵を描いて。だから材料費は安い。

宮田:この時に、時間と動きへの関心というものがすごく表れていると思うんですが、継続して関心を持たれて。

吉野:それと、ちゃんと出てこないんだけども、スクリューという動き。まだその時は増殖だったか。それからもう1点はナンセンスなものを作ったような気がするけどね。「法的には午後2時」っていう。瓶の中にションベンが入っているようなね(注:《法的には昼食后》p. 97, A4)。

宮田:(図版を見ると)動いているように見えますけども、動く作品だったのですか。

吉野:いや、動きはしないけどもさ。バネを使ったから引っ張ったら動く。ちょっとした振動で動くようにはなっているけど。

宮田:この頃は、作品を作りながら引き続き画廊巡りもされていたんですか。

吉野:そうですね。現代美術をやっている画廊というものが、そんなにいくつもなかったから。当時は現代美術という言葉自体がなかったけども。お絵描きではない美術をやっている所は、ほんの数個だね。1週間で差し替えだったので、1週間に1度は回る。

宮田:必ず見ていたんですか。

吉野:御茶美の時から。行って話をしたりして、美術をする人たちと交流ができていったというのはありますね。ネオ・ダダのときは飛躍的に交流が多くなっていたんだよね。

宮田:その頃に、ネオ・ダダのメンバー以外で特に交流をされていた方はいますか。

吉野:(資料を見ながら、)ネオ・ダダのメンバー以外っていうと、アンデパンダンの、この時かな。小島信明がミルクのドラム缶の中に、会期中ずっと立っていたんだよね。それで小島信明と仲良くなった。あとは「グループ音楽」も小杉(武久)さんだとか刀根(康尚)ちゃんとか、それくらいから出し始めていた。武田明倫(たけだ・めいりん)はまた別の、彼は完全な音楽評論で動いていたので、実作者ということではなくて付き合っていましたけどね。

宮田:1963年に。

吉野:(メモを探しながら)63年。

宮田:質問がとんでも大丈夫ですか。

吉野:はい。

宮田:63年に〈MONO-KUI〉の制作が始まってきますが。

吉野:この時は、三木富雄に「俺、蕎麦を食う人間を作ろうかな」と話したら、「それはいいじゃない」と三木が反応したんです。蕎麦は情報のことで、情報を食い尽くすという考え方。それだったらもっと大口を開けて食うような形でと思って《MONO-KUI JOINT》(p. 98, A5)みたいなものにしました。ジョイントというか、2点の繋がりがあったってことなんだ。それはあんまり形が良くないし、いい作品だとは自分では思っていない(笑)。それが、その年の「(GROUPE) SWEET」展に繋がっていくってことなんだけどね。

宮田:その前に吉村さんが渡米されますが、その時の影響というのは。

吉野:62年ね。61年に、荒川が行って、平岡さんが行って、それから工藤が(62年にパリに)行って、マッサンさんが行って、金平と、ゾロゾロ行き出すんだ。

宮田:みなさん行ってしまわれて。

吉野:ギュウチャンは残っていたし、新しい(メンバーの)田中(信太郎)と僕と小島がいた。それから坪内一忠さんと谷川(晃一)もいたし。ネオ・ダダにいた連中がベースになるけれどいろんな交流ができていった。
…… 「63年の《MONO-KUI JOINT》で不満な作品」と(メモに)書いてある。この年にアルバイトのほうは、新宿の駅ビルができて、ちょっとしたきっかけでビル全体の装飾の指示をする羽目になった。それは広川のサブなのだけど、あいつは体があまり動かないから俺が全部やるということになって、請け負った会社からアルバイトに来てくれって頼まれて。そのアルバイト先で自分が設計図から見積まで全部作成した。そんなこんなでやっているうちに社長よりも給与が高くなって、主任が青くなってね。元陸軍中佐の会計係、高梨さんから、社長と同じくらいのお金にしてくれないかと半分くらいに値切られまして、いいですよと言ったこともありますね。それが63年。 62年に一個忘れていた。62年の「敗戦記念晩餐会」っていうのを8月15日にやったんですよね。

平野:そうですね。

吉野:国立市公民館のすぐそばに、美術批評をやっていたヨシダ・ヨシエさんがいたんです。当時は批評の仕事っていっても、あまりなかったかもしれない。見事に荒屋みたいなところに、せがれ二人と住んでいた。公民館はタダだから何かやろうっていうことで。その後だと思うけど、あの頃、椿近代画廊はできていたんだな。その近くで土方(巽)さんだとかアカちゃん(赤瀬川)とか何人かが集まって。マッサンもいたね。何かやろうとなった時に僕は〈MONO-KUI〉をやっていたから、「何か食うものを」って言ったら、土方大先生が「それでいこう」ということになった。土方さんは偉い人だから、四の五の言わない。それから「敗戦記念晩餐会」というネーミング。これはヨシダ・ヨシエのお得意が出てきて、ネーミングしたってことなんだよね(注:副題は「芸術マイナス芸術」)。
それで8月15日の午前中にアカちゃんと刀根康尚さんと集まった。刀根さんは浅草の「五三屋」という靴の素材を造っている会社をやっていて、ライトバンの乗用車があったから、それに乗ってきてね。当時は、新宿の新田裏の柳の下にモツの卸屋があって、一斗缶の中にレバーだとか何だとか一杯詰め込んであってね。レバーだったか脳みそを5キロくらい、それと鶏の丸焼きも3羽買って、帰り道に深大寺(東京都調布市)を通って、寺の林の中で鶏1羽を3人で平らげて、「うまい!」とか言って(笑)。それから国立に行って、僕は台所でクッキングを始めて、みんなで食べ始めた。4、50人の参加者があって、何百円かだった入場券、参加券を普通に買ってくれて、飯が結構食えるくらいの金額。でも何も食べさせてくれないからブーブー言い出したけれども、何も食べさせないで自分たちだけで食べて。そのうち土方さんが裸で踊り出して、小杉さんは体に紐を巻き付けるわ、刀根ちゃんも一緒になって。今度は風倉さんが裸になって、鉄で造ったちっちゃな錨をガスの火に近づけて(炙った)。裸の体に押し付けようと何回も何回もためらっていた時に、何かブオーっと飛んでいったと思ったら土方さんで、風倉の胸にその錨をブチュッと押し当てた。

宮田:おー痛そう。

吉野:そしたら煙がモワッと出て、またその臭いがね。料理の匂いと違った焼き場の臭いが立ち込めて。その時はマッサンも歯ブラシで歯をずっと磨くパフォーマンスをやってたから、歯を磨いて血だらけ。みんな食えると思って集まってきたのにほとんど興醒めしていた(笑)。

鏑木:晩餐会ですもんね(笑)。

吉野:全員食欲を無くして帰って行った(笑)。残った食べ物は、ヨシダさんのせがれが腹をすかして待っていて、モツを食ったりしていたけど。それでよかったって言って。

宮田:強烈ですね(笑)。

吉野:後で(記録を)見たら、升沢金平なんかも参加していたね。あと何人か参加しただろうと思うけど。

平野:敗戦記念晩餐会では吉野さんは特に何かされたのですか。

吉野:ただクッキング(笑)。

平野:クッキングだけしたと(笑)。

吉野:今でもクッキングは得意だけど。まだ21(歳)だしね。1歳違うと読む本が違ってくるし。3歳違えば、幼稚園児と中学生くらいに完全に違う。マッサンとギュウチャンは8歳違いだから。そうすると大人と幼稚園児くらいに違う。 ……荒川も行って、マッサンも行ってみんな行っちゃって、63年。

宮田:〈MONO-KUI〉のイメージは。

吉野:〈MONO-KUI〉のイメージは、その頃60年を過ぎて、日本の社会にメディアの数がやたらと増えたというのがあるんだね。テレビが新設されたり、週刊誌やら月刊誌が新刊されたりね。情報というのが今までとはちょっと違った状態、横溢な状況になったというかな。多い状態になった。それを自分のなかで何とか制御しなくちゃっていうね。情報を遮断すれば済む話だけど、遮断するのではなく情報を制御したい気持ちになったんだな。情報を制御するために、かじったり、飲み込んだりする役割として〈MONO-KUI〉が登場してくる。

宮田:1963年にはアンパンに出された後、新宿第一画廊、ルナミ画廊と立て続けに。

吉野:4月に新宿第一画廊での(グループ)SWEET。その前にやっている1回目(1963年3月、カワスミ画廊)は僕は参加していなくて、2回目の第一画廊での「(グループ) SWEET」展から。そしてルナミ(画廊、銀座)がその年にオープンして、その翌月のオープニングでも3回目の「グループSWEET」展を開く。1カ月後だから何にも作れない。出してはいるけれども、バタバタしてあんまり記憶に残ってない。ギュウチャンは石膏で、ほとんどぐちゃぐちゃの人物を作っていたけども、小島はまだかぶり物にたどり着いていなかった頃だと思う。だからどんなのだったかなぁと思うね。どうも記憶がはっきりしてない。

宮田:新宿第一画廊というのはどういう画廊だったのですか。

吉野:(新宿駅)中央口近くに新宿第一ビルというのができてすぐで、そのオーナーの娘さんが5階か6階にギャラリースペースを作って、新宿第一画廊というのが始まったの。始まってすぐだからまだタダだったのか、俺たちは画廊代を払うっていうことはなかった。払った覚えがないからタダだったんだろうと思うね。その後に、アカちゃんが「あいまいな海」だったか展覧会をそこでやる(注:個展「あいまいな海について」1963年2月)。そのビルは、後々は森英恵か誰かが買い込んだ。あそこ、駅の中央口から3軒目か4軒目のところだった。
3回目は別として、2回展のSWEETはね、参加メンバーはどこかに書いてあるみたいに赤瀬川、石崎浩一郎。石崎は昔から知っているのだけど、彼はハーバード大に留学して、アメリカでポップ・アートってやつをちょっと見たりして帰ってきたんだね。石崎が参加して、小島信明、篠原有司男、中西夏之、田中信太郎、三木富雄、豊島壮六、吉野辰海、それだけ大勢の人間。あんまり広いスペースではなかったんで、(展示は)ぎしぎしみたいな格好で。入口一番手前に《MONO-KUI》(p. 98, A6)があって、テレビの取材が来た時に《MONO-KUI》の歯(のアップ)から始まって、「やった」と自分では思ったけどね。

宮田:グループSWEETはどのように集まったんですか。展覧会をするためにお互い声を掛け合って、集まったのですか。

吉野:声を掛け合って、みたいなものだね。みんなどこかでいつも会っていたわけだ。電車(賃)も10円くらいの範囲でしか乗ってない(笑)。山手線に乗るか、俺だと幡ヶ谷だとか京王線で10円区間。山手線なら20円(区間)。あと南の大森辺りの中西なんかは、大田区辺りから新宿までは20円くらいになるけども。そういえば、この頃はまだ谷川は一緒じゃないけれど、その後は谷川とも行動を共にするようになる。でもまあ、田中と僕がいつも一番下っ端というか、ガキ扱いだったんだね。

宮田:この63年の9月のシェル美術賞展で《MONO-KUI 男役》と《MONO-KUI 女役》(p.98)が佳作を取ります。

吉野:シェル賞というのは「第7回シェル美術賞」。僕はその頃、参宮橋に住んでいたんだ。カミさんと一緒に住み始めた頃に、カミさんの知り合いで参宮橋にボロッちい小屋を持っている人がいて、タダで貸してもらった。どうも昔は染色工場だったみたいなんだけども。匠かなんかの壺を買って献上したら、タダでいいって。そこで作り出して篠原、小島、木下新さん、その辺がみんな参宮橋に来だしてタダで使って、今度は田辺が来て、家主というか門番みたいにそこにタダで住み始めてね。そういうとこでやっていて、シェル賞の時は新さんが出す、小島も出すって言っていたのかな。
木下新という人は一日2時間しか働かないんでね。毎日来て、2時間くらい働いて、俺の住んでいるアパートにトコトコ来て「(新宿にある酒場の)ぼるがに行こう」って言った後は、焼酎をかっくらって、ゆったりしている。新さんのところは奥さんが仕事していて、ジゴロだったんだね。1日何百円かもらって来るわけなんだけども、飲み屋に行ってもあんまり人におごるってことができないんだ。決まった金額で生活しているもんだから。
そうやっているうちに、(シェル賞の締め切り)3日くらい前に「あっ、俺も出そう」って思いついた。パネルを作って、1日で胡粉を塗って下地を作って、鉛筆で1日で描いた。だから2日くらいでできたのかな。

平野:これが再制作ですね(pp. 76-77)。

吉野:(使ったのは)鉛筆と墨汁ぐらいだからね。

平野:《MONO-KUI》は、最初は立体だったじゃないですか。なぜ立体で作ったものを今度は平面にしたんですか。シェル賞が平面じゃないと応募できない条件だったからですか。

吉野:そうそう。男役と女役というので。男役は自虐的で、女の方はいつも溜め込む癖があるから袋があって。女性って袋が好きだからね。なぜか知らないけど(笑)。ゴミの缶(受け)が袋になっている。ゴミ缶に捨てられた後、咀嚼するような状態に持っていくということだね。ま、ああだ、こうだ説明してもしようがないような絵だけども。
この時、田中信太郎と木下新さんがやってきて「どうも良い賞をもらうぞ。中原(佑介)さんが言ってたぞ」って言うんでね。新さんと信太郎が「酒買ってこい」って俺に言って、どうも俺に奢ってもらおうと思って来たみたい。なけなしの金で酒を買ってきて3人で飲んでいたら、どうも違うなと。最終的には佳作賞になって(笑)。賞金はこの時は5,000円。飲んだら終わりっていう感じ。佳作はアカちゃんとギュウチャンと俺。それで、一等賞は清水のお兄ちゃん、(清水)晃だね、《色盲検査表》で。2位と3位は誰だったかよくわからないけど。

平野:調べればわかりますよ。(注:二等は穴見清、三等は重延櫻子、平賀敬、他2名。)

吉野:誰かいたんだろうけど。シェル賞に出したのは1回だけで。アカちゃんとギュウチャンはまた翌年出すけどね。

平野:このシェル賞の作品は設計図風ですが、何かの設計図を意識して描いているわけではないんですよね。

吉野:そう、設計図風。その前に、(フランシス・)ピカビアが好きだったっていうことはあるけども。

宮田:ピカビアはどういうふうに出会ったんですか。

吉野:それは絵を本で見ているうちに。(マルセル・)デュシャンと友達だし、非常にナンセンスな絵を真面目に描いているところがある。

平野:ピカビアの図版を見たというのは、美術雑誌か何かですか。

吉野:雑誌はあんまり出ていなかっただろうな。

平野:(美術)全集みたいなものですか。

吉野:そのあたりじゃないかな。(テーマとしては)ダダあたりかな。シュールリアリスムは出ていないだろうから。

宮田:立体を作るときに、この平面のようなメモを作られたり、イメージを(固めてから)。

吉野:あんまりやらないですね。

宮田:イメージより先に作る。

吉野:《FOOT WORK》(p. 100, A17)も、ほとんどぶっつけ。これは、「ハンド・ワーク」シリーズ(pp. 99-100)を何個か作っていたから慣れていた。

宮田:立体を作った後、平面を作る際に、何か特に考えたことってありますか。発見だとか。

吉野:別にあんまり考えていない。絵にしようと、そのくらいのことだろうな。絵にするというのと、なんというのかな。ナンセンスな部分を強調するとか、なるべく時間の経過というものが見えるように、そういうことを気にしてたんだろうと思うね。

宮田:奥様と出会うお話が出ましたが、どういった出会いだったんですか。

吉野:さあ、そりゃどこかで会ったんでしょう。

(休憩)

吉野:(『美術ジャーナル』49号、1964年6月に掲載されている「OFF MUSEUM」展の会場写真と集合写真、35名の出品作家リストを見ながら)俺たちで言うと、土居樹男、オッチャン(オチ・オサム)もいたんだ。(木下)新さん、佐野(正義)君、稲浜(美材)、小島、田中信ちゃん、中西夏之さん、清水さん、ちょっと(歳)下の藤井(健男)君も大野(博)君も。須賀(啓介)ちゃん、豊島壮六、アカちゃん、白石かず子がちょっと出入りしていた。瀧口(修造)さんもいたし、宮田國男だって。作品出していたのかな?

宮田:すべり台の作品を出していたって清水さんが教えてくれました。

吉野:そう。刀根、武田メイリン(明倫)も出していたんだ。森口陽って『美術手帖』の編集者。

鏑木:そうですね。

吉野:市毛(冨美子)さんだろ。市毛さんは岸本と同級生だから。

鏑木:そうなんですか。

吉野:多摩美の同級生だから。田村あっちゃん(田村敦子)は『新婦人』の編集者だ。高松(次郎)だ、浅川(邦夫)だろ(笑)。

吉野:久保田成子、小杉武久。

鏑木:大体知っている方ですか。

吉野:(記事の作家リストにある)「ハリーさん」は知らない。

鏑木:基本的にはやっぱり、お友達のグループですか。

吉野:まあ、友達というんじゃないけれど、あの頃は連絡をかなりよく取れるような。

鏑木:作家仲間、ですね。

(休憩終了)

宮田:休憩中に見ていた1964年の『美術ジャーナル』の時期から再開します。64年に初めての個展を内科画廊でします。その経緯を教えてください。

吉野:64年ですね。内科画廊。宮田(國男)さんが始めたのね。あの頃インターンだったんだよね。(新橋)駅前(のビルの中)にあった、お父さんの内科診療所を画廊に新設して。宮田さんは中西なっちゃんをものすごく尊敬していて、中西さんの言うことをよく聞いて、それでやった。63年から始まった。

宮田:63年の6月から始まりました。

吉野:それで俺は64年の2月(24-29日)に、個展「MONO-KUI SHOW」をやった。日立電動工具色スプレーというのがあって、今のエアースプレーに比べて粒子が粗いものだけど、その時期に出てきたエアースプレーを使った作品。カットしたテープで押さえて露出するところに吹き付けて、石膏で作ったものを貼り付けた。こういうのは石膏ですね(p. 99)。これはちょうどオリンピックの年で、亀倉雄策のポスターからちょっといただいて、やった。作品点数がまとまっていたというのはこの展覧会が初めてだね。

宮田:この案内状は吉野さんのデザインなんですか。(注:1960年代前半に画廊巡りをしていた西山輝夫氏が保管していた内科画廊の個展案内状を見ながら。案内状の裏には、個展を見た西山による出品作品のタイトル等のメモがある。個展当時、吉野と西山は面識がなかったが2000年以降、この案内状の存在をきっかけに対面している。)

吉野:自分でやったんだろうと思うよ。

宮田:自分で刷って。

吉野:いや、これはどこか印刷屋がした。自分でデザインしたものを印刷に出したと思う。

宮田:いろんな人に送られたんですか。

吉野:あの頃は、郵送はあんまりしなかったかもしれないね。

宮田:もう手渡しで。

吉野:うん、手渡すくらい。周りにいるのは、だいたい毎日会っているような連中ばっかりだから。それで自分たちの内輪で評価しあう。あとは数少ない美術のジャーナリズムだとか新聞みたいなのがちょっと取材に来る程度だったと思うね。

宮田:当時どんな批評、評価を受けましたか。

吉野:あんまりなかったんじゃないかな(注:三木多聞・日向あき子「作品合評」『美術手帖』236号、1964年5月に掲載あり)。

鏑木:内科画廊で個展をすることになった経緯というのは、あるんですか。

吉野:みんながやっていたから。それと宮田さんが、やってないやつに対しては、やれって言ったんだよね。

鏑木:じゃあ宮田(國男)さんに。

吉野:看護婦さんが受付をやっていた。

鏑木:知らなかったです(笑)。

吉野:画廊代はタダだから、(人を呼ばないと)画廊が動かない(まわらない)。それで、宮田さんが言ったのか、中西なっちゃんが言ったのかわからないけれど、評論家を呼べと。俺は評論家を呼ぶのは嫌だから、呼ばなかった。東野さんを呼んでもらいたいだとか、中原さんを呼んでもらいたいとか言うんだけど、電話しなかった。それでも、仲間内では評判が良かったんだろうと思うね。

平野:ちょっと作品の大きさがよく分からないですが、大体この手の部分が実寸大くらいの大きさですか。

吉野:えーとね、これが30号ぐらいかな(p. 99, A13)。50号とか。あとこれは(A14)横長のベニヤ板2枚。これが90×360センチぐらい。《タイト・ロープ》(A16)だったと思うな。上(部)にバランスがついているけど、タイト・ロープなので。

宮田:この頃、東京オリンピックの熱気はすごかったですか。

吉野:別にね、テレビもなかったし。俺は参宮橋に住んでいたから、目の前の甲州街道をアベベ(・ビキラ)が走っていたんだけど、見ようとは別に思わなかったね。

宮田:でも町の中は激変したんじゃないんですか。

吉野:うん。《MONO-KUI》(p.98, A-6)を作る時は、アパートが西参道に面しているところで、そこに高速道路を作り始めた。その時工事用に色んな材料が置いてあったんだけど、(作品図版を指して)この下に板があるんですけどね、これが40センチ、(手で測りながら)45センチくらいか。1メーター40センチくらいの、水を堰き止める栗の木でできた矢板というので。栗の木というのは枕木に使うような堅牢な素材なんでね。それを2枚かっぱらってきて、それを下のベースメントにしたんです。もうあれから何十年も経っているから、かっぱらったって言ってもね。

平野:ベースメントってここのことですね。(pp. 74-75,1966年の再制作)

吉野:そう、そこの下に木材をさして。

平野:茶色いここの部分ですね。

吉野:そう。厚みが3センチぐらいあって、幅が40センチ、長さが1メーター50センチくらいあって。多分サイズが(カタログに)書いてあると思う。

平野:そうですね、幅が248.0センチになってますね。

吉野:ここまでだろうな。これがそんな長くないってことだ。1メーター50なかったな。それを2枚使って。

平野:そうですか。

吉野:青い方は再制作。それが内科画廊の個展の作品。栗の木は、三内丸山遺跡だとか吉野ヶ里遺跡に行かないと古い木材はないだろうね。
その次は「OFF MUSEUM」がありますね(1964年6月17-22日)。メモにも書いてあるけれど大人数でやった。というのは、都美館の「読売アンデパンダン展」が前の年に出品拒否をして、こういう作品は出しちゃだめだという都条例を作った(注:1962年12月の「作品陳列規格基準要綱」)。読売新聞はそれに乗っかって、アンデパンダンなのにそういった規制があったらどうしようもない、やめようって。新聞社側でも、長いこと担当されていた海藤日出男さん一人に、アンデパンダン展の責任を押し付けたようなかたちで処理したと聞いたものだから、俺たちもみんな、じゃあもうやめようと。都美館でするのをやめようとなって、新宿の椿近代画廊へ行った。あそこは椿原(憲)さんが始めて、村松画廊をみていた矢崎恒平さんがコンサルタントを、まあ、指導役みたいなかたちで椿近代画廊をみていたのね。僕らがやると人が来るっていうんでやらせてくれたんだね。この時もタダ。椿も村松もタダでやらせてもらった。「OFF MUSEUM」は、さっき読み上げたように雑多なメンバーでやった。ただもう一方で、都美館での通称「針生アンパン」(「アンデパンダン64年」展)に参加する者もいました。谷川なんかはそっちの方に参加していた。ここに名前がないということはね。64年は椿近代画廊でもう一つ、「LEFT HOOK」展があるんだね(12月8-13日)。「LEFT HOOK」は少人数になって、ネオ・ダダから篠原、小島、田中、坪内、岸本、吉野というメンバー。「LEFT HOOK」はボクシング用語なんで、俺はそれに対応して《FOOT WORK》というボクシング用語の作品を作った。それは100号ぐらいのパネルに足が突き出ている3点。

宮田:cat.no. A17ですね(p.100)。

吉野:その写真『美術手帖』が1点、誰かが1点を持って、自分も1点持っていたのかな。それでその頃、三木の耳だとか、小島のかぶり物、坪内も人体を扱うような作品で、僕も身体的なものをちょっと扱った。東野芳明さんが、アメリカでそういうイベントをしようと、ボディアートというネーミングで有名なシドニー・ジャニス(・ギャラリー)かなんかに企画を持っていったんだよね。帰ってきてから「銀行も連れてこないで展覧会をやらせてだなんてって追い返された。問題外と蹴られた」って言っていたけども。
日本の美術シーンというのは、アメリカのようにきちんとマーケット原理でできているようなシーンではなくて、絵が売れるというのはまだ、三越と高島屋で値段をつけてやっているという具合の時期でね。南画廊にしても東京画廊にしても、外国の作品はちゃんと値段がついているけれど。あとは、斎藤(義重)さんやオノサト(・トシノブ)さんとかは、ちょっと値段を振って売っているっていうくらいでね。だから日本の中で現代美術は、今でもマーケットとして存在しているとは言い難いところがあるけれども、実際はどんな社会でも表現というものはあるわけだから、現代美術をちゃんと認可してやっていかないとね。それを良い悪いという範囲じゃなくて、一個の社会(のなか)に今はあるんだからね。簡単に言うと行政の責任もあるかもしれないけどね。だって江戸時代のものばかり売ってやっていてもね。まあ今は文句を言っている場合じゃないから、やめておききますけど。
「LEFT HOOK」は三木の耳と、小島信明さんのかぶり物、あと田中がちょっとハードエッジ風の作品でね。そんなメンバーでみんなそれぞれ出したんだろうと思うよ。

平野:田中信太郎さんは、トランプのハート型のやじろべえみたいな作品。

吉野:そう、ハート型のやじろべえ。ちょっと芽を出し始めているようなね。それで俺を除いたみんなは調子に乗っていくけども(笑)。それで次は1965年に移っていくわけだ。65年というのはこの頃はまだ。

平野:「Big Fight」ですね。

吉野:そうですね。「Big Fight」と言うのは「LEFT HOOK」と同じような。

宮田:これは西山さんが撮っていた写真をスクラップ(ブックに)したものです。

吉野:(写真に添えられた西山のメモを見ながら)坪内一忠さん、え? 佐野君が入っている。

宮田:これが吉野さんの作品です。(「Big Fight」の記録写真は)この前のページから始まるんですけど。

吉野:これ「Big Fight」だ。「その他」、ほんとだ。(展覧会告知ポスターを撮影した写真を見ながら)「LEFT HOOK」より人数が多いぞ。

宮田:そうですよね、20人くらい。

吉野:これ(ポスター)は印刷だからね。

宮田:ピンク色のですよね。

吉野:「LEFT HOOK」の時は俺がレタリングをやって、シルクスクリーンで刷ってね。シルクスクリーンをギュウチャンのところでやった。

宮田:横に長いやつですよね。

吉野:そう横長。小島、吉野、中西さん、ギュウチャン、人数が多いなこれは。赤瀬川、トポロジーね。夏ちゃん、これは誰だ? ギュウチャンかな? 違うな。瀧口さん? へぇーこんな作品、デカルコマニー以外の作品も作っていたのか。

平野:瀧口さんが出している。

吉野:これ、瀧口さん(の作品に対する西山氏のメモ)、「1日は他の全ての1日によく似ている。ヘラクレイトス」。

鏑木:これも瀧口さんって書いてありますね。

吉野:「雨でソラリゼーションされる」って書いてある。「ソラリゼ、される」って。音楽評論家の武田明倫、刀根ちゃん、田名さんも入ってる。田名網(敬一)っていうのはネオ・ダダの時からずっと一緒にいる。本当いつも一緒だったんだけどね。一忠さん、佐野君、多田圭介もいたな。大西清自さん、幸美奈子ちゃん、布施(明伸)もいたね。布施さんは俺が彼の作品(ゴム風船)を突いて壊したことがあったな。これ中島由夫? 中島はパフォーマー。スウェーデンまで行って、ロシアからずっとシベリア鉄道で行って。この間会ったけどね。(注:「LEFT HOOK」展に出品していたのは実際には中島寿夫。)

宮田:そうですか。

吉野:うん、渋谷でなんかやっていたんだよね。すごく懐かしがってくれたけど。

平野:CoBrAの作家とも関わった人ですね。

鏑木:埼玉の方ですよね。

吉野:スウェーデンのウエノバという所に、日本人何人かで集まってやっていたというのがあったね。……田中、田村あっちゃんも出していたんだ。

宮田:この時期は、みなさんご自分の作品の中心が結構見えてきている感じが。

吉野:いや、まだだね。この時見えていたというのは、三木富雄にしても、耳をやっている時間というのはすごく少ない。数年の間だからね。三木は40代初めで亡くなるけども。小島さんにしても数年で終わってそんなに長くはない。これ、高松の影だ。

平野:この頃から高松さんは名前が出始めますが、どうでしたか。

吉野:この時初めて影を出した。瀧口さんが非常に面白いって言って褒めていたけどね。

平野:東京画廊で「アイデンティフィケーション」の個展をする1966年(7月)の手前ですから。

鏑木:そうですね。

吉野:下々まだ見えてないもんなぁ。まついもおっていうのもいたな。

宮田:土佐派の方だと思いますけど。

吉野:林三従(はやし・みより)さん。

鏑木:林さんはどういう作品なんでしょうね。テレビっぽいですね。

吉野:テレビモニターだ。あの人は瀬戸内何とかって、企画していた(注:「備前アートイヴェント」1987-1997年開催)。瀬戸内海でクルーザーを運転しているっていう人だったけど。ちょっと豪快っぽい美人なお姉さんっていう感じ。(スクラップブックを閉じて、)これは彼(西山氏)のを復刻したやつね。こんな詳細に撮っていたんだ。 それで「Big Fight」は《HAND WORK》を出品した(p.100, A19)。

宮田:この頃からFRPを使われているんですか。

吉野:いや使ってないと思う。それはFRPじゃないと思う。

平野:でもA19、これはFRPじゃないですか。

吉野:え? FRPはそれには使ってないと思う。

平野:(カタログを確認して)再制作では使っている、と書いてある。

吉野:再制作には使っていると思う。前からスクリューだとか永久運動に興味があって。ロシアのモダニズムで永久運動が出てくるんだけども、あれはありえないという話なんだけどね。その時は、俺もジョークを含めてその永久運動を《HAND WORK》に持ち込んでいる。無理な運動なんだよね。

平野:まさにその回転運動だとか、最初に出てきた時間の変化だとか、それにちょっと身体的なものが絡むように。

吉野:この時は、コンセプトがそういうふうになっていたから。

平野:なるほど。でもこのへんは、吉野さんの造形的な関心が、集約されてきているという気がしますけどね。

吉野:まだね、その言い訳みたいなやつが多く出ているっていう感じがしますけどね。言い訳というか、運動なら運動として見えているものがね。

平野:なるほど。

吉野:それから66年は、今度は村松(画廊)で4人で個展をやったんです(注:1966年5月7-12日「吉野辰海個展—party doll」ほか)。ギュウチャンのプロデュースで、例によって村松は画廊代はタダだということでね。あっ、画廊代はあったんだった。矢崎さんがものすごく安く設定してくれたんだ。画廊代の結論だけ先に言うと、俺が年末にちょこっとお金を持って行ったら、矢崎さんがものすごい喜んでくれて。「お金を持ってよく来た。ちょっとこれで酒買ってこい」って言って、酒を買って二人で飲みまくった。払わないやつが多かったんだ。「俺は別に金をとる気はなかったんだ」って喋りながら(笑)。
その時、大西(清自)、谷川、小島、田中と僕の連立個展を(計画されて)。大西さんを誘ったんだけど、階段の下しか場所がなくて、その場所じゃあ嫌だということで大西がやめて。4人が1ブースごとに仕切りを置いてやって、ビニールを使った作品を出した(pp. 100-101, A21-24)。谷川は例によってインカの絵みたいなのと、小島はかぶり物、田中はその時はハートのプライマリー(・ストラクチャー)みたいな作品、やじろべえのような作品を出した。それで、初めての従業員として良子ちゃんが村松に入った。

平野:川島さんですか。

吉野:川島ヨシベイが入ってきて。あの時面白かったわって、後からすごく懐かしがっていた(笑)。

宮田:川島ヨシベイって呼んでいたんですか(笑)。画廊を引き継がれた後に、そういう交流がたくさんあったんですね。

吉野:画廊を引き継いだのは矢崎さんが亡くなってから。矢崎さんが亡くなって村松・川島画廊みたいになって。その頃はあまり付き合わなかった。埼玉県立近代美術館には、田中信太郎の「やじろべえ」と僕の小さい「水犬」を寄贈してくれたみたいだけど。

平野:田中さんの作品の寄贈の話は、ありませんでしたが。

吉野:当時は買ってくれたんだね。あの頃は儲かってたんだよ、彼女は。川島良子ちゃんと、それともう一人、山口侊ちゃん(注:1980-2010年に銀座で開廊していたギャラリー山口のオーナー、山口侊子)が、あの頃儲かっていた。みっちゃんは、借金を多くしてでもちょっと頑張ろうとして、後はだめになっていったけどね。
それでこの時は全員の個展が非常に好評で、ちょっと取材されたりもしたんだろうと思うね。全体に好評だった。矢崎さんも良い作品が出たって言って非常に嬉しがって。(注:『村松画廊 1942-2009』村松画廊、2009年、pp.077-078参照。)

宮田:この頃は評論家の方たちとの交流も、毎回あったのですか。

吉野:東野さんだとか、中原さん。針生さんとはあまり交流はなかったね。針生さんはね、全部を見ている人だったから。現代美術だけでなく、もうちょっと年上の連中も一緒に見ているような感じだったね。

平野:(カタログに掲載された図版を指して)これは色がないですけども、結構派手な色ですよね。

吉野:派手。赤と黒だから(A23)。

平野:赤と黒なんですか。

吉野:黄色と赤だとかね(A24)。

平野:素材もビニールシートでできているんですよね。

吉野:布団針で縫って、中に綿(わた)を入れて。だからビガビガって。あとね、ギュウチャンがこれを見て、「ドールフェスティバル」の時にアクリル板を使い出すの。あのとき「ちょっと、ちょっと!」って思ったけどね。

鏑木:ビニールシートって、当時は新素材という感じですか。

吉野:これはね。(立ってアトリエ内を移動する)

鏑木:取ってあるんですか。

平野:篠原さんのアクリル板を使った〈花魁〉の方が後だったんだ。

宮田・鏑木:そうですね。

(吉野がビニールシートを持って戻ってくる。)

鏑木:これはちょっとハイテクなような感じがしますね。

宮田:テカっとしてね。

(一同、アトリエ内の保管棚に移動し、吉野から素材について説明を受ける。)

鏑木:高価ではなかったですか。

吉野:ビニールの値段というのは、素材としては絵具よりも安かった。

鏑木:そうなんですか。使いやすかったんですね。アクリルの方はどうだったんですか。

吉野:アクリルはまだ新素材で。

鏑木:吉野さんは良い素材を見つけられたんですね。

吉野:いや、使ったのはその1点だけ。その頃は素材とか、発表するものは1回ごとにどんどん変わっていったってことなんだね。

鏑木:それではこれは、この時だけの素材の使い方ということだったんですね。

吉野:そうだね、これはこの時だけの素材だね。

鏑木:ずいぶん目立つ作品ですよね。

平野:その後に篠原さんが〈花魁〉シリーズでアクリル板を使った。

吉野:そう言うとギュウチャンには申し訳ないから。ギュウチャンは、それだけ貪欲な人だから、やるとなったらそれを(周りを気にせず)目の端に捉えているという。次の〈ドールフェスティバル〉という傑作をつくっていったわけだから。あれは東京画廊での個展ね。だからそれも、参宮橋のアトリエで作っていて。アクリルをやるにはあの時金がかかってね。ギュウチャンはどこかから金をもらったんだね。ロックフェラーか何かの。

宮田:ロックフェラーの奨学金ですね。(注:ロックフェラー三世基金による奨学金は1969年。正しくは1965年末、ウイリアム・アンド・ノーマ・コープレー財団による賞金。篠原の東京画廊での個展「ドールフェスティバル–女の祭」は1966年2月。1967年にかけて制作された〈花魁〉シリーズに使用された素材は、この期間にプラスチック板からアクリルに変わっている。)

吉野:2,000ドルくらいもらってね。70何万円かな、あの頃でいうと。それで半分くらいは親や、いくこちゃん、三木のカミさんだった叔母さんに取られて。

宮田:取られたんですか(笑)。

吉野:「私が今までお金をあげていたから、あんたは生きているんだから」って取られて、それで2、30万残っていたかな。それで、ハワイっていうキャバレーになぜか毎日通っていた。ギュウチャンはキャバレーが好きだったのかも知れない。楽しかったのかも知れないね。ギュウチャンはあんまり酒が飲めないから、俺たちも相伴にしなきゃならない。ペラペラした変なサテンみたいなスカートを履いた女の子たちの隣に座って、まずい酒をね。俺はああいう女が居る店って、暗い感じがして嫌なんだけどね。小島とギュウチャンと俺と3人でいつもキャバレー通い。ハワイ、ね(笑)。
それで67年になりますけども。それでいいのかな。連立個展が終わって、それで何月だったかな。

平野:5月ですね。

吉野:66年はそれ以降やってないということだな。67年にしばらくして、参宮橋のアトリエが無くなっちゃうの。その時に作品から道具類から何まで、なんにも無くなったんだね。というのは、貸してくれていた長澤さんというのは外務省の職員で、当時はオランダに赴任していた。それでオリンピックの時に、長澤さんのご亭主が何かで亡くなってしまったってことだったんだね。そういうことで(建物が処分されて)無くなってしまってね。

宮田:大打撃ですね。

吉野:うん。ガックリきたけども、まあ、しようがないと思ってね。それでその時にまた参宮橋のあたりでアパートを探して、きしむアパートからちょっと高級住宅地に移動して。玄関入ってすぐ洋間と日本間がある部屋に移った。酔っ払って帰ってきて、玄関のすぐのところで寝ているのがいつもだったけどね。2、3年住んで。
その時にオチ・オサムがロサンゼルスに行くって一晩泊まって、小さなバッグにパンツ1枚とウイスキーの角瓶2本入れて「桜井さんに持って行くんだ」っとか言っていた。羽田(空港)から飛んで行ったんだけども、ウイスキーを取り上げられちまって、あいつ、パンツだけ持って桜井さんところへ行ったって。

一同:(笑)

吉野:小島か、田中がいたか知らないけれど、何人かでオチが持って来たウイスキーを取り上げて飲んじゃったって。桜井さんへの手土産が無くなってしまった。

宮田:海外組との連絡は頻繁にあったんですか。桜井さんのお名前が出ましたけど、ほかの方とのネットワークは。

吉野:頻繁じゃないけど手紙のやりとりはしていた。ギュウチャンはマメだから、1969年に行った時は頻繁に手紙が届いてね。というのは、飯も食えないしお金もないから、手紙を書くのが精一杯でね。何か送ってくれだとかも含めて。僕は、ニューヨークの田辺とも手紙で多くやりとりしましたけど。
その次は67年に、村松画廊で個展をやる(2月2-7日)。「INTERIAL」展っていうのはね、「インテリア(interior)」じゃなくて「インテリアル」って言ったら、岡田隆彦センセイに、彼は同い歳なんだけども、「この字(スペル)間違ってるよ」って言われて。ハッと気がついたけれども、「これは造語だ」とか言って誤魔化したことはあります。
この時、理研がポリエステル樹脂だとかガラス繊維、カラーの着色料を試供品として無料で出してくれた。けれども、後になって出てくる使いやすい素材ではなかったね。いろいろな混ぜものでもゲル状にできるといった、そういう技術はまだなくてね。非常に苦労しながらポリエステルでそれをやった。その頃のポリってめちゃくちゃ臭いんでね。高級住宅地にある家の中でやったらちょっとまずいな、と思って裏庭に逃げた。身体がフラつくしね。工藤は小さなアパートでポリをやっていたけれども。

平野:これ(p. 101, A25)は可動式だから形を自由に変えられるってことですよね。これは3点とも、元々は型が同じなんですよね。

吉野:そうそう。

平野:同じ型なんですね。それを違う形態で。

吉野:可動式で立ち上げたり椅子みたいにしたり。女性の後ろ姿みたいにはなっているんだけど。これ(A26)が座った形になるんだ。

平野:なるほど。

吉野:これ(A25の手前)は立ち上がった形。ポリエステル樹脂で、グリーンを後ろに吹きかけて、前はピンクのタオル地を貼り付けてある。

平野:結構派手な。

宮田:すごい色合いですね。ピンクのタオル地。

吉野:それが個展。(メモを見ながら、)「67年くらいから三木、小島、田中、ニューヨークから帰ってきた吉村マッサン、みんな売れているけれど自分はアウト!」ってことで少し悩む時期に入っていくっていうのが、この後なんですよね。
背景に、美術の急激なファッション化みたいなのがあったんです。美術界がかなりごちゃごちゃっとなって、ほとんどの記事がいろいろなシーンを紹介する、原稿用紙をただ汚してみたいなっていく。美術学校は多くなかったし、執筆する連中は、学校の教員になっていないとまだ食べていけないような時代だった。原稿用紙で飯を食おうだなんて、1枚500円の原稿料でもうガンガン書きとばしていかないといけない。それでまた太田三吉さんが、「現代」……「芸術」?

鏑木:(雑誌)『現代芸術』ですか。

吉野:『現代芸術』を始めて、9号で終わるけども、いろんな執筆者が増えてね。彼らも原稿用紙で飯を食おうと、現代美術ばかりじゃないけれども書いていた。太田さんというのは資産家だったからね。それでまたお金を使って。10号目は原稿を電車の中に全部忘れちまって、それで10号は出なかった。(注:『現代芸術』は1965年1月から1967年5月まで10号を刊行。)

鏑木:そうだったんですね。

吉野:「9号は小島で、10号は吉野、お前の特集をやるよ」と言った原稿が全部電車の上に乗っかって。

宮田:それはショックですね。

吉野:それで67年に、参宮橋から下落合に移るんだよね。その頃、下落合には吉村さんが住んでいた。ニューヨークに行く前に買ってあった家があって、ニューヨークにいる間は石崎浩一郎とその両親が一緒に住んでいたんです。そこにマッサンが帰ってきて住み出した。聖路加病院のすぐ側だけども、ちょっと不思議な場所。僕もその近場の、植木屋の家に引っ越した。植木屋と同じ間取りの面白い家があったんだよ。小さい家にウチは二人で、向こうは家族が5人くらいいて。日本の職人さんというのは昔っから狭い家に住むっていうのがあったかもしれない。下落合に移ってからは(本格的に)図面屋みたいな仕事をやり出したの。それまでもずっとデザイン画だとか図面だとか、ドラフターを買い込んで、せっせ図面を引いて稼いでいるっていう感じだったね。それが67年。

平野:さきほどの美術のファッション化という話に戻るんですが。それは例えば環境芸術みたいなことで、発注を受けて何かを作り始めたというのはあったんですか。

吉野:それもちょっと流行り出した。

平野:なるほど。もう一つ原稿の話が出ていましたけど、確かに60年代末に向かっていくにつれて、いろんな美術雑誌が出て、実際はクオリティが伴わなかったですけども、言説の中で。

吉野:クオリティが伴わないし、社会背景が違うっていうか。(海外と)社会の状況がまるで違うのに、日本にもポップ・アートがあるっていう前提でポップ・アートを描き出すとか。大量生産、大量消費はないから、日本にポップ・アートが生まれるはずがないって俺たちは思っていたのに。日本はまだ、シマダヤの粉末ジュースごときを飲んでいたわけだからね。まぁそれも大量生産には違いないけれども。経済的なところでいうとアメリカは1ドル360円だけども、1970年に行った時には1ドルが1,000円くらいの価値があったね。 60年代の後半は、万博に流れ込んでいくまでに、ポップ・アートを含めプライマリー(・ストラクチャー)も入ってきたりもする。あれを見ていると関根(伸夫)君なんかも、後のアースワークに近いような仕事まで辿り着いていった。つまりそれは「もの派」だけども。

平野:いろんな雑誌が出て、それがまぁ一種の言説まみれになり、言葉のインフレーションみたいなものが一つの美術状況を形成していた。

吉野:そうそう、だから『美術手帖』が一所懸命いろんなものを持ち込む。というか、ただ持ってくる。『藝術新潮』くらいは落ち着いたものをやっていたけども。

平野:なるほど。

鏑木:そうかもしれません。

吉野:『みづゑ』も落ち着いていた。『美術手帖』は「狂濤乱舞」の時代だね。 …… 68年にはまた幡ヶ谷に移転するっていうことがありますね。美術制作ではないんだけども、この時に、九州派の米倉徳さんが制作部の部長をやっていた京屋マネキンという会社があったんです。日本のマネキン屋っていうのは70年の万博に合わせて、みんなイベントを企画していたんだよね。七彩(工芸)だとか、東京マネキンとかを含めて。それで京屋の話を聞いていたら、どうもこいつらではやれそうにないなと、俺にまかせろ、ってことでその仕事を引き受けたんですね。 それで70年に、万博の方は東野さんがサブ・ミュージアムみたいなところを企画して、それはなんとかファミリーみたいなもので、ちょっとだるい企画だったんだ(注:万国博美術館の庭で開催された「ホーム・マイ・ホーム」。吉村益信が代表を務めた会社「貫通(かんつう)」も参加した。「貫通」については後述)。それと僕は万博ってやつに、あんまり賛成ではなかったんだよ。反対運動をしている連中のように反対と思っていたわけじゃないんだけれども、どうも万博という、ただ盛ん、みたいなのはね。会場に行ってみても一番良いのは(岡本)太郎さんの塔くらいなものでね。あとは丹下(健三)さんと(磯崎)新さん、黒川紀章とかも、単なる未来志向みたいなところで一つも面白くなかったというのもある。太郎さんの塔だけがね。岡本太郎はあんまり好きな作家じゃないんだけども、あの万博会場では非常にいい作品に見えた。

平野:実際に行かれて、万博をご覧になっているということですね。

吉野:いや、万博(の期間)は見ていない。6月にアメリカに発ってしまうから。2月、3月というのは京屋の全国展開のイベントを持ち回って、ちょっと稼いで小銭が入ったの。それといろいろな商売人と話していると、懇切丁寧に説明しなくちゃいけないから、ものすごくだるくなってくるんだよ。美術家だったら、だいたい「こんなことやりたい」とバッと言えば、みんな「あーそうだ」と返ってくる。普段考えていることが同じようなことだから、わかるんだろうと思うんだけど。普通、一般人相手には、美術のような考え方に持ち込むだけで3日くらいかけないといけない。美術イベントというのは金勘定からショーイングというのが題目なんでね。それに合わせるということにかなり苦労した。 九州の京屋は、吉村さんの名前が必要だってことでマッサンも入れたんだ。マッサンと小島と僕と3人連名で京屋の仕事を受けて、まぁ僕が一人でやったようなもんだけどね。それで各セクションで、音楽の小杉さんだとか写真の森永純さんだとか大西は扱ったかな。そういう協力を仰いで、イベントをやったってことですね。 後で質問リストにも「貫通」(注:吉村が代表を務めた会社)のことが出てきますけれど、マッサンが貫通をやるって、その時にもうだいたい決まっていたんです。京屋が終わって、マッサンは、万博の繊維館のディレクションをやり始めていたんで、ちょっと稼いでいた(注:貫通の活動は万博前後を含む1年程度。スタッフには小林はくどう、カワスミカズオ、田中紀男、山本豊津、浜田郷(剛爾)、雪野恭弘らがいた。『吉村益信の実験展 応答と変容』大分市美術館、2000年、p.146より)。 でも(僕は)「ちょっとニューヨークへ行ってくるわ」って言って、帰ってきてから考えようと。マッサンはガメツイ人間なんで、一緒にやるのは嫌だなって思ったんだよね。 あの人は、「吉村ブラザーズ」と言われる大分の商売人のせがれで、あとの9人の男の兄弟のうち、マッサンだけが商売をやってない。ところがね、商売っ気たっぷりなんだよ。『宝石』っていう雑誌があったけれども、そのなかで吉村財閥って特集されたことがある。金がある。金をどんどん稼いでいった。金のない貧乏人の作家とお金持ちの作家っていうのが、ネオ・ダダにはいた。須賀啓介という作家がいて、須賀ちゃんなんていうのは、吉村のことを「ああ、戦後のあれでしょ」って。須賀は戦前の財閥のせがれなんだよ。「戦後の商売人でしょ」ってな感じで、須賀ちゃんはマッサンのことをそう言っていましたね。だからいろいろだよ。いろんなところでも言うけど、三木富雄だって親父がものすごく努力して英文学者になっているんでね。お母さんは「口から花を出せる」っていう。中央沿線で「口から花を出せる」っていうのは3人いるって、それはギュウチャンのおっかさんが言っていた。その一人が三木のお母さんで、三木のお母さんは三木のことをものすごく可愛がった。三木富雄の友達っていうことで、俺たちへの当たりも非常に親切で。

宮田:69年の「第9回現代日本美術展 現代美術のフロンティア」に、案内状の作品を出されます。

吉野:69年は、これはマケットね(p. 101, A27)。

平野:そうですね、アスファルトの。

吉野:《18㎡アスファルト》ってやつ(p. 101, A27)。

宮田:この作品の時が、さきほど、いろいろと思い悩むとおっしゃっていた時期と重なるんですか。

吉野:それはもう入っています。というのは、どうしてもプライマリー(・ストラクチャー)みたいな考え方に傾いていってしまって。自分の中で、考え方自体が自分の本意ではない、みたいなところがあった。持っている金全部つぎ込んで作った作品だったけどね。

宮田:アスファルトは高かったですよね。

吉野:いや、そんなことはない。いつもの通り、安く作るっていうのが使命で。その時は仕事で図面を引いたりしていて、下請けの大工さんがいたんでね。作る場所も、そういう工場を借りてあったし、鉄骨を組まして、その鉄骨の組み上げだとかも下請けの連中にやってもらったりして作った。それでも50万円くらいかかったけれど。

平野:けっこう大きいですよね。3メートル×6メートルのアスファルト板なんですよ。これ、写真に写っているのはマケットなんです。

宮田:そうなんですね。

吉野:それで何で俺、あの時アスファルト板を持ち上げたのかなって思った。見た目で持ち上げたんだ。鉄骨も使わないでただアスファルトを並べればよかったなと、後から思ったけどね。そうすれば金もかからないで、もっと考え方をスッキリできたんじゃないかな。それを見ると何となく残念で、その時の写真は残していません。

平野:そうなんですね。

吉野:その後で須賀啓介が鉄骨をくれって言うので、あげたけどね。

宮田:1970年の貫通の話を伺ってもいいですか。

吉野:はい。万博の時には、僕はそういうわけで京屋でやっていたんです。万博会場には3回程行ったけども、誰が何をやっているんだというのはちょっと小耳に挟んだぐらいでね。あんまりタッチというかコミットしてないね。

宮田:吉村さんが帰国されて、戻ってきて、また交流が盛んになっていって。アメリカから戻られた吉村さんの影響力というのは大きかったですか。

吉野:いや、特になかったと思うね。マッサンはマッサンでやっていたし、ネオ・ダダのメンバーは最初から人がどうかではなく、自分の表現はどうしようかと考えるのが全員の姿勢みたいなところがあったんでね。だから、人から言われてどうのこうのというのはあんまりない。全員がね。

宮田:アメリカの美術との状況の違いだとかを聞いたりするというのは。

吉野:そういうことはもう日本に入ってきていた。アメリカの状況というのは、ポップ・アートにしてもなんにしてもね。それから東野さんたちがやっていたことも、周りでジム・ダインと一緒にやったのはすごいなとは思ったけれど、同じ地平でものを見ていたというか。ただ石崎が帰ってきてから(1968年頃)、(クレス・)オルデンバーグの活動については、ちょっと目を見張っていたところはありますけどね。 アメリカの場合だったら、1962年のアンパンくらいかな。ジャン・ティンゲリー(Jean Tinguely)が来日したんです。

鏑木:63年かな。

吉野:63年か。ティンゲリーがその時、ギュウチャンが《こうなったらやけくそだ!》を竹ひごで作ったのを見て、「これブロンズで作ったら面白いね」って言った。つまり彼らの目線って、マーケット目線なんだよ。ブロンズなら売れるって。このままではどっちにしても売れっこないんだから、日本との開きはそういうところにあった。だから俺が花火を使ったっていうのと、ティンゲリーはネバタであのデカイ作品を、ダイナマイトでぶっ飛ばしていたっていう本格さ、落差をものすごく感じたけれども。向こうは金になってやっている、こちらは何をやっても金にならないっという状況ではあった。 だから万博は、ほとんど見てない。マッサンが何か作っていたり、四谷シモンが何を作ったりという情報はあったけども、会場がオープンしてからは行ってないですね。その前の準備中にちょっと行ったくらい。70年は2月から京屋の仕事をやって、それで3月くらいに終わって、手元にちょっとお金ができた。 それで、時間を作ってちょっとニューヨークでも行ってみようかなと思った。その前年にカミさんが妊娠していて、出産が9月くらいというので8月いっぱいくらいまで、ともかく行ってこようと思って。一人で出産させるのはまずいから帰ってこなきゃって。それとアメリカの領事館かイミグレーションで、もう移民はなしだ! っていうことになった。沖縄から何人、2人くらいかな。韓国から2人くらいの移民枠はあるけども、もう日本人の移民はなし。それと金をいくら持って来るか。その頃は500ドルを持っていく必要があったのだけど、俺はどうも500ドル持って行かなかったんだよね。だからそれは何とか田辺や友達の所にやっかいになったりして。それから女房の姉夫婦が、第一勧業銀行の支店をつくりに行っているっていうんで、何かあった時に金くらい借りられるなと、甘い考えでね。(注:1965年に改定され68年に発効されたアメリカの移民法は、年間全体の上限を規定し出身国別割当枠を課さず、優先順位は家族呼び寄せなど人道主義的視点が重視された。)

宮田:大きいですよね。

鏑木:あちらに頼れる人がいるっていうのはあったんですか。

吉野:頼れるっていうのは、友達は頼れる存在だね。ただギュウチャンは俺を頼ったけれども(笑)。それで、アメリカの独立記念日ごろにハワイ経由でニューヨークにたどり着くんだけど、太田三吉さんがちょうど何かのイベントをするとかで、太田さんも一緒にニューヨークに着いた。独立記念日は7月4日か。じゃあ着いたのは6月3か4日くらいだ。それともう一人、ヨシダ・ミノルがサンフランシスコから家族連れでアメリカ大陸横断してニューヨークにたどり着いた。

宮田:そんなに重なったんですね。みなさん同時にニューヨークに居たんですね。

吉野:同時に。田辺の所に行って一杯飲んでいたら、みんな集まってきて。太田三ちゃんなんて、もう「ホテルに帰らない」とか言い出して(笑)。 それから、メインに見たいと思っていたフィアデルフィア美術館のデュシャンのコレクションを見る。MoMAやグッケンハイム美術館をちょっと見て、そのうち暇になったんで、暇なヤツがやっている釣りをみんなでやり出したの(笑)。それで、桑山忠明さんの弟の(桑山)タダスキーっていうのがいるんだけど、彼はもともと陶芸家で、だからロクロを持っていたんだ。ロクロの上にキャンバスを置いてぐるぐる回してやった作品が、当たっちゃってね。どんどん制作ができるんだから(笑)。ある時、それをトラック1台に載せてニューヨークにあるギャラリーの中央店に運んでいたら事故にあって、キャンバスが破損したらしい。それで膨大な損害料が入ってきて、タダスキーは非常にお大臣という感じになって。何かっていうと金はいつも100ドル札を出して払うから。

一同:へー。

吉野:100ドルって言ったら1ドル360円で俺たち計算するからね、3万6千円だから。今で言ったら1万円くらいかもしれないけど、3万6千円パッと、何払うんでも100ドル札なんだよ。ジジイみたいな感じで、細かい金は使わないんだよ。それでフォルクスワーゲンのデカいワゴン車に乗っていて、タダスキーとみんなで釣り三昧。

平野:タダスキーさんも一緒だったんですね。

宮田:実際アメリカに行かれていかがでしたか。行く前に人から聞いていたのと行った後では、印象とか。

吉野:美術シーンはほとんど興味がなくなっていたんだよね。

平野:同時代美術に興味がないってことですか。

吉野:それとそのファッションの走りがアメリカだからね。画廊一つが一つのファッションを出すみたいな形になっていたけど、アースワークから何まで、そのファッションというものを信じなくなっていた。どっちにしてもどん詰まりになるんだけどね、アメリカのシーンは。

平野:デュシャンの作品の(通称)「大ガラス」や「遺作」を見た時の印象を聞かせてください。

吉野:デュシャンの「遺作」を見た時はびっくりこいたね、やっぱり。へーって。東京では写真は見たことなかったけれど、瀧口さんがブラジルあたりでこういう版画が出ているとか(教えてくれた)。こうやって女性が寝ているここに星が点々とあって。また瀧口さんが「これには何か意味があるんですよね」と言うので、「こんな細かいことをほじくり返すのか」って思ってね(笑)。瀧口さんだから意味があるんだけど、その意味は一個もわからないな。その後に《グリーン・ボックス》を東野さんだとかが一所懸命ほじくり返していたけど、あれは宗教的なものだとかって誰かが言っていた。それとマルセル・デュシャンは、そんな大した意味がないことに意味をつけていくっていうね。レディメイドもそうなんだけど、その天才。意味がないのに無意味をつける、そのナンセンスに意味をつけていくっていうところがあるから。真面目に何かを読み解いていくというようなものと、ちょっと相容れないところがあるのかもしれないね。パフォーマンスはよくわからないけれども。ただデュシャンは、《Tu m’》(1918)みたいな作品も作っているじゃない。あれはあんまり良くないよね。(油彩は)何点かしかないんだよね、デュシャンは。レディメイドだったら帽子掛けやスコップやら自転車の車輪だとか、レディメイドだからいいっていうのはあるかもしれない。最初の、階段を降りる絵画だとか、あれでアメリカで有名になるんだからね。「大ガラス」とかよりも。

宮田:デュシャンの作品を見た後は、ずっと釣りをしていたのですか。

吉野:ずーっと釣りってことじゃないけどね(笑)。その辺でグダグダ遊んだりね。ギリシャ人のセクションに一人で行って、船員たちと飲んだりね。田辺には「危険だから行かないで」って言われたけれど。あいつはビビり屋だから。

平野:荒川修作には向こうで会ったりされたんですか。

吉野:荒川には、ギュウチャンと田辺と僕とヨシダ・ミノルさんとで、荒川のあのビルディングのアトリエを訪ねた。白いマーブル(大理石)が敷いてある、こんなアトリエを見たのは初めてだなと思った。それで、マドリン・ギンズが帰ってきたの。荒川が俺らを紹介しようと立ち上がってくれたのはいいけど、マドリン・ギンズは無視して行ってしまった。荒川以外の日本人は苦手なんだよ。

宮田:その頃のお互いの制作についても話題になりましたか。

吉野:制作の話をしたのは、(河原)温さんくらいかな。温さんは毎日やっている仕事を見せてくれた。まずタイプでやっている100万年を「そろそろ600万年にしないといけないんじゃないかなぁ」とか言いながら。それから、毎日会った人間をメモしているものだとかね。次の、1971年の「毎日現代展に何を出そう」とか。あの時やっぱり温さんも招待されていたんだと思うね。出してないかな? 峯村(敏明)か誰かに出した《I am Still Alive》の葉書を、「毎日(現代展)」で貼り付けたかもしれない。(注:出品し、長岡現代美術館賞を受賞。)

宮田:71年の展覧会「(第10回現代日本美術展)人間と自然」(東京都美術館、5月10-30日)のオファーは、前の年にきていたんですか。

吉野:そうだと思うね。ニューヨークに行った時に温さんとそんな話をした覚えがあるんでね。

宮田:結構早くからオファーが来ていたんですね。

吉野:それは針生さんの企画でやった。僕自身はそういう企画は、少し懐疑的だったんだよ。そういうふうな流れの中でね。その、言ってみれば、アメリカンテイストで動いていく流れってやつに、非常に懐疑的になっていたね。

宮田:「人間と自然」展にはどんな作品を出されたんですか。

平野:これ(《案内板》cat. no. A28, p. 101)、ですよね。

吉野:企画書とか招待状(出品依頼状)をアクリル板で挟んで、鉄のフレームで作った(掲示)台に(吊るすかたちで)持ち上げた。6枚、両面あったと思うんだよ。

宮田:裏表。これは一種の(出品)拒否、というか。

吉野:いや、拒否ということじゃなくて、僕は全体にちょっと不信感みたいなものがあって。こういうふうな、まぁ言ってみれば企画書がもうすでに表現の種、みたいになっているんじゃないかってことだったと思うね。企画書から発生したものじゃなくて、発生する以前のかたちを。

宮田:なるほど。見に来る人はオファーされている内容はわからないですよね。

吉野:それで70年代。(1970年)8月に帰ってきて。

宮田:8月に帰ってきて、奥様の出産に立ち会われたのですか。

吉野:立ち会いはね、友達と新宿の日赤の産院に行って待っていたら、看護婦さんか助産婦さんに「待っていてもしようがないよ」って言われて、二人でトボトボ飲み屋に逃げ帰って、そうしたら産まれていた。カミさんが文句言っていたけどね。そう言ったって主導権というか命令権は看護婦さんの方にあるわけだから。変なおやじが二人で廊下で赤ちゃん待っていても。…… それで産まれてちょっとしてから、女房の母親が、おばあさんが一緒に住んでいたのね。この脳足りんの亭主は釣りしかしないから、逆さまにして「りつ」という名前にしたらどうだ? って。

平野:そういうことだったんですか。それはそれは(笑)。

吉野:それはいいじゃないって、それで「りつ」。釣りの逆で「律」っていう名前にした。そういう経緯なんです。おばあさんが。

平野:それは素晴らしいな。凛々しい美しい名前だなと思っていたのですが(笑)。

宮田:この年に、仙台の美術館で「不在展」というのに出されていますけども、どんな展覧会だったのですか。

吉野:それねぇ、わからないようなものを出しているね。大体その頃、自分で何をテーマにしてどうやっていくかということを、ハッキリ明確につかまないでタブローなんかを作ったりしていたから。

宮田:仙台での、地元での初めての展覧会への出品ということになりますか。東京で制作を始めてからの。

吉野:そうかな? 高校の先輩後輩がだいぶ出しているような展覧会で、それに誘われたんだろうと思うね。あんまり自慢のできる作品を出したわけではないから、ほとんど自分でも忘れかかっているという(笑)。何回か、1、2回出していると思う。東北電力のホールだとか、あるいはデパートの会場だとか2回くらい出した記憶があるね。まわりのヤツらに比べれば、絵にする能力を持っているわけだから、そんなに見劣りするような作品ではなかったと思うけれども、自分でも何をしているのかわからないなっていう、そんな感じ。

宮田:72、3年はもう。

吉野:70年に娘が産まれて、甲州街道に面した所に住んでいたんだ。今は高速の4号線というのが走っているんだけど、そこで(開通のための)工事が始まって、3階に住んでいたんで路面と部屋の床がちょうど一緒くらいの高さになった。排ガスをどんどん撒き散らすようになって、それで娘がコンコンと変な咳を出して。親戚が来て、「おまえは、娘を殺すつもりか」とか言われたんです。それで、前に出てきた米谷さんという人が探してくれた、入間にある米軍ハウスに移った。それが72年。娘が2歳の時。

宮田:その時は、お仕事はどういうことをされていたのですか。

吉野:デザイナー。でも俺はもう、デザイナーを辞めようと思ったの。というのは、ニューヨークから帰ってきて娘が生まれた。娘の手前、真面目に美術家になろう、って。デザインってやつは消えるんですよ、仕事が。まぁ、今は違うけども。あの当時は万博もそうだけど、オリンピックのポスターにしても1回使い終わったら、今みたいにちゃんとミュージアムに納めるだとか考え方はなくてね。店舗にしても3年くらいして原価が償却できたら、また次のをつくるって感じで。だから、ちゃんと美術家になろう、娘の手前、恥ずかしくない親父の姿を見せてやろうという、そういうふうな感じで(笑)。

宮田:制作に。

吉野:ただ、飯を食うためにはそんなことをやったり。それから今度は、売り絵だ。入間に移ってから売り絵をガンガン(描くようになった)。風景画。水辺と魚だとか。それと「円画」。同心円の縦型のスクリューに収まるような円を描いてね。それを田舎に持って行ってとにかく売る。同級生から何から。

平野:仙台に、ってことですか。仙台というか宮城に。

吉野:宮城にいる友達に。高校生からの友達は俺がこういう立体をつくると誰も思ってないからね。絵を描く人だと思っているから、絵の注文がある。肖像画もあるし風景画、海の風景だとか水辺の風景だとかね。俺らの所は桜が有名なんで、桜の風景だとかね。1枚30万だとか、立体をつくって後でも売ったりして、ちょっと良い収入になった。だから1年くらい一所懸命描いて、車に載せて持って行って。 その頃の思い出としてはね、あれは中国から来た松虫なのかな。緑色の、声が高い松虫がよく鳴き出して。最初は横浜辺りだったらしいけど、それから都内にも移って、4、5年経ったら荒川近辺まで来た。俺は荒川を越えて大宮を通って東北自動車道に乗って(宮城に)行くのだけど、そうすると(松虫も)1年毎にどんどん(北へ進んで)行って、宇都宮まで行ったりね。ということは4、5年そんな売り絵生活をやっていたんだろうと思うね。

宮田:この頃ギャラリー・マット・グロッソ(gallery MATO GROSSO)での個展があったようですけども。

吉野:マットグロッソ? 個展はやってないんじゃない。

宮田:あ、グループ展です(「’100人 現代作家油絵展」1973年12月21-31日)。

吉野:個展はやってないと思います。あそこは岩城義孝さんが、自分のカミさんが持っているビルの2階でそのマットグロッソという。

鏑木:岩城さんは何の方ですか。

吉野:岩城さんというのは、何の方かわからないです(笑)。

鏑木:作家さんではないんですか(笑)。

吉野:同志社(大学)の出身なんだけどね。富山出身で同志社に行って、結婚したカミさんがビルを持っていたり。カサイ興産ビルっていうビルだけども、今、風花(かざはな。注:新宿にあるバー)が入っているビル。あれはもう売ったらしいけど、そこの2階の一方をギャラリースペースにして、彼らもそこに住んでいて、下は飲み屋なんだけどね。

平野:その飲み屋の2階がマットグロッソなんですか。新宿ですね。

吉野:そう。今で言うと。えーとね、風花の上にはあいつらが住んでいて、もう一方の左側に日本料理屋みたいなのがあって、その上がマットグロッソ。それが70年かなぁ。そこは中原さんと石崎がちょっと絡んで、岩城がオープンした。これはもう完全企画画廊で、岩城さんのところも富山の精密機械のメーカーだって言っていたから、ちょっと金を持っていたんじゃないかな。まあいろいろわからない男なんだけどね。後でまた俺の世話や手伝いもいろいろやってくれるんだけど。

宮田:100人展とか参加人数が多いですが、その頃はどんな作品を出されていたのですか。

吉野:えーとね、その頃もまだちょっと方向が見えないような、マットグロッソでやった時、楊君、楊伯郷君が発行している小雑誌があって、なんていう雑誌だったかな。その寄稿者や執筆者の展覧会をやるだとか、あるいは小杉武久さんが、彼の楽団で……。

平野:《キャッチ・ウェーブ(Catch Wave)》の。

鏑木:タージ・マハル(旅行団)。

吉野:「タージ・マハル・トラベラーズ(Taji Mahal Travellers)」って言うのかな。彼らの展覧会は非常にいい展覧会で、演奏したりして。小杉さんの《キャッチ・ウェーブ》のスコアを絵にしたのを出したこともあったけどね(注:「小杉武久 キャッチ・ウェーブ・ショウ」1975年3月)。それが釣りをしている男と横たわる女だったんだよね。後につながってくる作品がそのへんから出てくる。

宮田:そういうオファーがあったんですね。

吉野:オファーじゃなくてね。それは、しゃべっていると、「じゃあそのスコアで絵を描こう」ってなるんだよ。

宮田:そうなんですね。このあたりから、アーティスト・ユニオンが始まりますね(注:アーティスト・ユニオンは1975年、「ジャンルを超えた芸術家のための活動体」として結成された)。

吉野:アーティスト・ユニオン(についての質問が質問リストの)何枚目かに入っているけども、「アーティスト・ユニオンは別にすべし」って書いているうちに書いちゃったな。

一同:休憩しましょうか。

(休憩)

鏑木:ここからは私が長らく関心を持っている、アーティスト・ユニオンのお話をお願いします。まずアーティスト・ユニオンの結成の経緯について教えていただけますか。

吉野:俺はあんまり考えたくないのね、ユニオンのことは。戦後になってからも日本に「作家」はいない、アーティストとしてわかっているやつがいないんじゃないかと思って。だからアート・シーンに割って入って、俺が「作家」になろうと思ったんだよね。だから、概略だけ。

鏑木:概略だけでも、教えていただけたら嬉しいです。

吉野:(メモを見ながら、)1975年、と思ったな。ちゃんとした情報は資料で確認できると思います。75年に吉村益信がヨーロッパはパリ、アメリカはニューヨークとロサンゼルスを回って、ぶらぶら遊びながら帰ってきた。2、3ヶ月かかったのかもしれない。パリで工藤とか、あるいは吉岡康弘、それから桜井孝身なんかと会った時に、ちょうど(1968年に起きた五月革命の中心地)カルチエ・ラタンの闘争の後だったんです。その時のヨーロッパ各国、特に北欧なんかの対応は、パリにいる自国の人たちを保護するようなきちんとしたシステムを作っていたらしいけれど、日本の領事館は、二人以上集まる時は届け出をしろとか、ただ示すだけ。例によって代議士が来た時だけは付き合って、普通の国民は近寄るなってことなんだろうと思うけれども。 その対応に不満を持ったことを、彼らがマッサンに話したんです。どうも日本美術家連盟(注:1949年設立)というのは今まで何の対応策も取れなかったということで、それに代わるような組織を作れないだろうか、というのが最初だったらしい。それをマッサンが持って帰ってきて、それですぐ、一緒にやろうってことになったんだよね。俺は暇だったもんだから、しようがないなと思って一応やる羽目になった。それで既に、「アーティスト・ユニオン」という名前だけは考えてあったんだ。ユニオンというのはアメリカの職の組合でユニオンってあるのだけども、その頃はまだ美術家というものが日本の中でどれだけ認知されているのか、どういう代物がアーティストというものか、僕らのなかでもはっきりは特定できていない、というのはあったかもしれないね。 それで最初の会合に石崎浩一郎、ヨシダ・ヨシエ、渡部伸彦、土居樹男、石松健男なんかを集めて、とりあえずみんなでどうしようかと話し合った。そこで会合費はこうって決めて、もうちょっと輪を広げて会合と会員の募集をかける。というのは、金がないんだね。会合を開いて会員を募集すると、1万円の会費をまず払ってもらって会員にして、それを運営資金にしようということになった。会員を募集するのに月刊のニュースペーパーみたいなもの、『アーティスト・ユニオン』を出そうということになって、それを最初は石崎だとか渡部伸彦、印刷媒体に強そうな人が担当した。数が多いものだから、今度は郵送代を安くしないといけないということで、文化庁で第三種郵便物っていうのを申請しようと思ったんです。その時は文化庁というものを何とも思わないで、ただ桜井さんとマッサンと僕と3人で受付に行って「出版局を紹介してもらいたい」って言ったんだけれど、誰も取り合ってくれないんだ。ところがね、桜井さんが受付に出てきた課長補佐の名刺を見た時に、「課長補佐っちゃあ、どなしこえら(偉)かと?」って博多弁で言ったんだよね。

一同:(笑)

吉野:そうしたら、その課長補佐がどうやら博多の人間らしくてね。「オギャー」って(驚き)もんだよ。「博多の人ですか!」っていうことで、それでとりあえず中に入れてもらった(笑)。普通、文化庁に来るっていうのは代議士だとか、誰かの名刺に裏書きもらって、それを持って来るのが当たり前なんだよね。一日300人くらい来るらしいんだよ。みんな名刺の裏に(紹介者の氏名を)書いて来るんだけども、名刺に書いてきても入れてもらえない人もいるらしくてね。まず「どなしこ偉かと?」でとりあえず入れた。それで各セクションを案内してもらっているうちに、村田慶之助さんと出会っちゃったんだよ。小島信明が海外交流で申請を出した時に、村田慶之助さんが担当だったの。それで小島が行く前に一緒に飲んだりしていたんだよ。

平野:(芸術家)在外研修ですね。

鏑木:文化庁の。

吉野:研修で1年間ね(注:吉野によれば、欧米をまわり1971年に帰国するはずだったが5、6年帰国しなかったとのこと)。担当者だった慶之助さんに会って、「あれ! 先に連絡してくれればいいのに」という話になって、それで出版局にもう一回戻って、そこで第三種郵便物っていうのかな、安くなるんですよ。三分の一のくらいの値段で送れるようになる。 それから会員の募集が始まって、パリとかニューヨークとか、ロスの代表を決めたんです。日本の中では東京、とりあえず吉村益信の住所を事務局にして、それで始まってね。 何回か会合をしているうちに、各セクションというか、美術ばかりじゃなくて1960年代の最初みたいにいろんなジャンルが横断するみたいな、石崎が最初に提案したインターメディアみたいなかたちにしようってことになった。建築は磯崎さん、美術はマッサンでよくて、ダンス(舞踏)は土方(巽)さん、演劇は寺山修司さんなど、写真と音楽は誰だったか、今は思いだせない。

鏑木:(持参した資料を見ながら)吉岡康弘さんのお名前があります。

吉野:じゃあ(写真は)吉岡さんだ。吉岡さんは、途中でパリから帰ってくるんだけどね。それと音楽は「グループ音楽」かな? 一柳さんかな?

鏑木:小杉さんのお名前があります。

吉野:小杉の名前になっている? それならそうだ。ニュース(『アーティスト・ユニオン』)は何号くらい出すんだ?

鏑木:これは1号(1975年4月15日号)です。

吉野:1号。じゃあ決めてから1号を出したんだ。

鏑木:そうなんですね。

吉野:名古屋、大阪、瀬戸内、九州、北海道でまずは各地の代表者と支部を作ってね。それで都美館が改築の最中、あれは新築だね。学芸課長の所へマッサンと二人で会いに行った。会員になった連中から展覧会をやりたいって声が出始めて、展覧会をするスペースを都美館に求めようってことになったんです。朝日(晃)さんが学芸課長で、借用の話をしているうちに険悪になって、ちょっと喧嘩別れみたいになってね。マッサンと二人で美術館の裏で銀杏を拾って帰ったんだけど。

一同:かわいい(笑)。

吉野:そうしたらマッサンが銀杏に負けてしまって、1週間くらいひどい状態になって(笑)。

一同:(笑)

吉野:銀杏かぶれのひどい目にあったし、美術館は、その時は萬木(康博)君と齊藤(泰嘉)君、両学芸員が担当だったんだけど、朝日課長から、マッサンはネオ・ダダ本体だから外せないけど、吉野のペーペーは外せってなったわけだ。俺は参宮橋のスタジオが壊された時に何も無くなっているからね。そんなこと痛くも痒くもねぇなって、思ったけれども。

鏑木:そうでしたか。

吉野:あと「1960年代展」(注:「現代美術の動向II 1960年代 多様化への出発」展、東京都美術館、1983年10月22日-12月18日)にも顔を出したけども。萬木君と齊藤君は、そのときのカタログに俺の作品の写真を使ってくれていたんだよね(注:p. 116「事項解説 ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」に、吉野が第2回ネオ・ダダ展に出品した作品《DANGER》へ火をつけている様子が掲載されている)。それは彼らが本当に抵抗した証だと思う。参宮橋のアトリエのことで、作品が壊されたので1点もなかった。そうなったら、作品をリメイクするしかなかったからね(注:本展にまつわる作家と美術館のやりとりは以下を参照。赤瀬川原平・石松健男・吉野辰海 談「ネオ・ダダは不定形のエネルギーそのものだったのだ」『美術館ニュース』[東京都美術館] 373号、1983年1月および赤瀬川原平・石松健男・吉野辰海・石崎浩一郎 談「アンダーグラウンド そしてハプニング」『美術館ニュース』[東京都美術館] 374号、1983年3月)。 それで、(ユニオンで)会場を借りるのは朝日課長だと埒が開かないので、力を持っている管理課長の方に話をした。

鏑木:そうですね。

吉野:管理課長と話をして、ユニオンの方は今度は5、6人でみんなで役割を決めて。石松はプレス、「プレス」ってなるのね。かわなかのぶひろが、録音係だとかね。俺らは折衝をするってことで、それで彫刻室を40日間ゲットできた。まあ快くやってくれたのはありましたけどね。それで2、3回くらい展覧会をやったかな。

鏑木:そうですね。76年から都美館でユニオンの「シンポジウム」(展覧会)をやっています(「アーティスト・ユニオン・シンポジウム’76」東京都美術館、1976年1月7日-25日)。

吉野:僕は1回目は出ていないけれども。

鏑木:そうですよね、吉野さんのお名前がなくって。

吉野:2回目は出した。あとは展覧会をやらなくなっても、まだ寺山さんの劇団が使ったりしていた。(借用枠をもらうと)アーティスト・ユニオンが返すことはできないんですよ。(会期予定の期間を使用しないで)返したい、と言うと「返せない」って言われる。

鏑木:返すとは。

吉野:アーティスト・ユニオンが毎年借りている40日間を貸すことになっているから、こっちがいらないと言っても返せない。役人仕事だから。

鏑木:そういうことですか。

吉野:だから寺山さんが、天井桟敷を何回かやって。

宮田:そうなんですか。

吉野:よく知らないけれど。その後は、各地の会員みんなと話をするために、旭川から鹿児島まで移動したんですよ。日本中で美術家の組織をつくるということで、とにかく美術を本業としている作家は東京と大阪と、名古屋にちょっと。それと博多にオチ(・オサム)とか茂久さん(菊畑茂久馬)とか、何人かいて。茂久さんはほとんど金になっていなかったけど、美学校の講師とかやっていた。 日本中の美術家は、ほとんどが教員なんだよ。教員の椅子をみんな奪い合いっこしていた。(ユニオンの)会員になった連中は、何々会(などの公募団体)に入れなかった奴ら。

鏑木:なるほど。

吉野:それじゃどうしようもないな、と思いだして。展覧会をやろうっていったって、どんな展覧会もできるわけではないんだね。それでも、一応会員が200人以上になったんだよね。

鏑木:すごい数ですね。

吉野:うん、数としてはね。日本中でどこにも行けない人たちなの。何々会も会員に何かを上納したりして会友になって、ずっと一所懸命やっていくらしいんだけどね。それはよくわからないけれど。だからそのうちに、金がないところでやっているから、めちゃくちゃ疲れてきた。

鏑木:そうですよね。

吉野:始めて2年くらいかな。途中でマッサンが、家族のことでガックリきてしまうことがあったりして。まぁ、そのうちまた二人でやっていくようになるけども、俺は完全に飯の食い上げだから、(ユニオンのために)何かに行くときはマッサンが会費からちょっと出してくれた。あとは地方に行くと、地方の連中がちょっと金を捻出してくれて、また次の場所へ行く、みたいなね。俺が鹿児島まで行く時に、桜井さんも10万ぐらいくれて、そうやっていましたけどね。 それで、最終的には神戸の具体美術(協会)の嶋本(昭三)さんに(ユニオンの運営を)渡すことにして、神戸に行って何回か話しをした。初めに思っていたような、今までの日本美術家連盟に代わるような組織、それよりももう少しスマートな組織にしようっていうのが、どうもできそうにないっていうことになった。俺自身も、「アーティスト・ユニオン」という限りは、アーティストというものの社会的な認可が必要だと思うのでね。どうもつらいなと思って、嶋本さんに渡すことにした。渡した途端に、メールアートの会みたいになってしまったんだね(笑)。それはしようがないことなんだけど。それで何とも無責任な肩の荷の降ろし方を俺たちはしたってことなんだね。

鏑木:そうでしたか。いろいろとご苦労があったのだろうと思いますが、私はアーティストからの問題提起として、とても大切なことだったのではないかと思っています。

吉野:アーティスト・ユニオンだけに絡まないで、日本の文化というものに対しての目線が、どうなっているのかってことなんだよね。

鏑木:吉野さんは、日本で美術家が、どうすれば自立してやっていけるか、という視点で常に考えてらっしゃるわけですよね。

吉野:社会ってものを構成するためには、アーティストが、自称アーティストだけが動くのではなくて、どうしても、そういうふうなセクションというか、表現、そういうものを社会としては持っていなくちゃならない。いわば遊びみたいな部分で判断をしたり、思考的なものも、あるいは行動的な部分でもやっぱりそういう幅みたいなものがある社会が、豊かであるというのは確かなんだよね。…… でもまぁそれは、理想論でしかないんだよ、この国にとってはね。

鏑木:いえ、とても大事なお仕事だと思います。手弁当だったとおっしゃっていましたが、私が『アーティスト・ユニオン』を見た限りでは、展覧会は赤字がなかった、会費だけで何とか成立したと、会計報告でとても評価されていますよね。ほかの美術批評家も一部、展覧会の内容というよりも……

吉野:いろいろな人間が書いているはずだ。

鏑木:そうですね。芸術家による新しい組織の模索に可能性を感じる、という趣旨のことを書いている人もいます。ユニオンは美術館に対してさまざまな問いかけをなさっていて、それは大事な活動だったと思います。当時の美術館は、今とは全然違う。この頃の都美館はまだ公募展の貸会場で、1975年に新館ができて美術館の体制がかわってからようやく主体性のある作品収集や企画展を担うようになった。つまり美術館が今のようには機能していない、ちょうど過渡期なんですよね。

吉野:まあ、上向いている成長の段階だからね。

鏑木:そういうことへの問いかけもあったのだなと。

宮田:(『アーティスト・ユニオン』を見ながら)ずいぶん写真が載っていて、すごいですね。

吉野:みんな死んじゃったけど、渡部伸彦、ナベさんなんかみんな一所懸命編集していたんだよね。

鏑木:あとですね、アーティスト・ユニオンの「ファイリング・センター」を作ろうという提案も、重要だと思いました。

吉野:それはちょっと、ね。

鏑木:うまくいかなかった感じですか。

吉野:うまくいかなかったね。

鏑木:当時の美術館ができていなかったいろいろなことを、アーティストたちが代わってやっていこうという発想ですよね。

吉野:提案があっても、資金をどうするかっていったときに全部のしかかってくるからね(笑)。

鏑木:やっぱり、どうしてもそういう部分があったわけですね。もう一つ教えていただきたいのですが、「60年代展」をやりましょうという話が持ち上がったなかで、ユニオンに展覧会を、という話があったのでしょうか。

吉野:それは、ない。「60年代展」とは関係ない。吉村が持って帰ってきた時点で、最初のパリの話が起点になっている。「60年代展」っていうのは、近美で1回やっている(注:「1960年代 現代美術の転換期」東京国立近代美術館で開催後、京都国立近代美術館へ巡回、1981-1982年)。

鏑木:都美でやる前ですね。

吉野:都美でやる時に、工藤から「近美とは違うかたちでやろう」っていう連絡が入ったんです。美術館が「やろう」っていうのではなくって、俺たちがコミットしてやろうっていう話ですね。俺なんて外されると思っていないから「じゃ、やろう」って言っていたわけでね。

鏑木:『アーティスト・ユニオン』が創刊された頃に「60年代展」についての記事が出てくるので、それがユニオンのシンポジウムと同じなのか違うのかが、よくわからなくて。

吉野:うんうん、そう。

鏑木:それは最終的に、都美館の「60年代展」になっていくんですか。

吉野:「60年代展」のことが出たかなぁ。あんまり記憶にない。

宮田:ネットワークが大きい。

鏑木:そうそう。アメリカにもヨーロッパにも作家の仲間たちがいるから、そこが支部になっている。平野さんからも質問があればどうぞ。

平野:(鏑木が持参したファイルを見て)『アーティスト・ユニオン』は何枚かしか見たことがなかった。

宮田:私もです。

鏑木:ユニオンのシンポジウムは都美で開催されたので、『アーティスト・ユニオン』は東京都現代美術館に移管された都美の旧蔵資料群にあります。ただ機関誌だけではわかることと、わからないことがあると思っています。

宮田:次回は70年代後半から80年代で、あともう1回(聞き取りをお願いします)。

吉野:犬の作品になったら、ちょっとあるけども、作品を出すようになってからは、あんまり話すことがないから(笑)。

一同:そんなことないです(笑)。

平野:《投影装置の犬》(cat. no. 1, pp.18-19)はこれから。この作品に関連するドローイングも重要なので、表現の再起動のところを、もう1回(笑)。やはり重要なところですので。

鏑木:そういうところで作品が出てくるということが大事だと思います。この先は、作品のことを中心にお聞きしたいですよね。

宮田:今日はここまでにして、次回は作品、犬のモチーフが出てくる装置からお話を聞かせてください。お願いいたします。

一同:ありがとうございました。