EN | JP

Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

吉野辰海 オーラル・ヒストリー 第3回

2019年4月6日

東京都新宿区、新宿ホワイトハウスにて

インタヴュアー:平野到、鏑木あづさ、宮田有香

同席者:宮田佳(特別協力)、下坂浩和(撮影協力)

書き起こし:鏑木あづさ

公開日:2020年2月17日

インタビュー風景の写真

〈今回の聞き取りについて〉

今回は1960年に吉野が参加したグループ「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(ネオ・ダダ)」の拠点となった新宿ホワイトハウスを見学しながら、当時の様子や、1961年頃にメンバーで行った増築についてうかがった。
新宿ホワイトハウスは、1957年12月に美術家の吉村益信(1932-2011)がアトリエを兼ねた住まいとして建てたもので、建築家・磯崎新による設計としても知られる。3間のアトリエと1間半のキッチンがある1階、寝室がある2階から成り、周囲がバラックばかりだった中、外壁が白く目立つ建築物であったことから命名された[注1]。吉村の結婚を機に、1960年10月頃、拠点を失ったネオ・ダダは事実上グループとしての活動を終えた。大型の立体作品を大量に制作していた吉村は、アトリエとして手狭になったことを理由に1962年1月、新宿ホワイトハウスを医師で画家の宮田重雄(1900-1971)に売却し、下落合に家を購入して転居、8月には夫婦で渡米した。1963年4月以降は、宮田の子息で画家の宮田晨哉(1925-2009)が新宿ホワイトハウスを自宅兼アトリエとした。
見学と聞き取りにあたっては宮田晨哉氏の姪で所有者の宮田佳氏にご協力、ご同席をお願いし、当時の青焼図面や資料などもご持参いただいた。
なお聞き取りの最中、新宿ホワイトハウスやネオ・ダダ、吉村益信については、下記6冊の文献を参照している。書き起こし本文では『書名』と掲載ページのみを記している。合わせご参照いただきたい。

①黒田雷児 編『ネオ・ダダの写真(流動する美術III)』(福岡市美術館、1993年)
②大分市教育委員会美術館建設準備室 編『ネオ・ダダJAPAN1958-1998 磯崎新とホワイトハウスの面々』(大分市美術館、1998年)
③菅章 編『吉村益信の実験展 応答と変容』(大分市美術館、2000年)
④磯崎新・吉村益信・赤瀬川原平・藤森照信 談「新宿ホワイトハウスを巡って 半世紀前の回顧―ネオ・ダダと磯崎新の処女作」『新建築』86巻4号(2011年4月)pp. 42-49
⑤(Y.M)[前山裕司]「新宿ホワイトハウス / 磯崎新」『戦後日本住宅伝説 挑発する家・内省する家』(新建築社、2014年)pp. 38-43
⑥平野到・吉岡知子・前山裕司 編『吉野辰海 犬の行方』(埼玉県立近代美術館、2012年)

 

(全員でホワイトハウス前に集合して)

平野:(外観は)そんなに変わっていないですか。

吉野:うん、ガタイ(建築構造)としては同じ。継ぎ足したんだよね。

平野:継ぎ足したのは、(正面向かって左の)あの屋根が斜めになっている部分。

吉野:継ぎ足した増築部分以外の本体の建物は、シンさん(磯崎新)が、マッサン(吉村益信)に口頭でしゃべったことを、マッサンは器用だから自分で図面を起こして発注しちゃったと聞いている。あの頃、吹き抜けのアトリエだなんてね。大体、アトリエを持っている奴なんて、ほとんどいなかった。

平野:このブロック塀自体は、同じなんですよね(注:当時のブロック塀の写真は小林正徳が撮影した「田中信太郎とその作品」『ネオ・ダダの写真』p. 33などがある)。

吉野:同じだと思う。

平野:(塀の中央が抜け、代わりに木枠がはめられている)ブロックは木枠の部分だけが違う。(建物の入口右にある樹木を指して)あの木はありましたか。

吉野:木はなかったな。これは20年くらいじゃないの、アオギリは。

平野:窓は全部同じですかね。

吉野:窓は同じ。

宮田:吉野さん、何年ぶりにいらしたんですか。

吉野:(家主の宮田佳氏に向かって)一昨年くらいに、ギャラリー58にいらっしゃったでしょう。

宮田佳:行きました、私。

吉野:その後でうかがったら、(佳さんが)いなかったの。

宮田佳:ああ、そうですか。カフェになっていた時でしょう。

吉野:「うかがいます」って言って、ギャラリー58の長崎(由美)さんと、あと誰か3人くらいで。あなた(宮田佳)が、いらっしゃらなかったんで、お店をやっている方と話して。「こんな店は潰れた方がいい」なんて、ほざきながらね(笑)。

宮田佳:ここは貸していたんです。知り合いの人が、カフェにしたいって言うから。

吉野:それでカフェにしたの?

宮田佳:ええ、空き家になっちゃうから。

吉野:そうだね、(カフェの店主は)名前が宮田さんっていう人じゃなかった。

宮田佳:ええ、向野(実千代)さんっていう人がやっていたんです。

平野:もう少しディテールについてうかがいます。ここからずっと白い壁が立っている。だからほとんど四角形です。(増築部分の)あの屋根の部分、あそこはどうなっていたんですか。屋根の部分は、白い壁をずっといくと、ちょっと左側に出っ張る感じになっている。

吉野:あれはね……下に差し込んだんだよな、トタン屋根を。

平野:ああ。じゃあ屋根はちょっと、こっち側に出る感じだったんですね。

吉野:(増築部分の)この地面はね、1間半くらいの空き地。

平野:じゃあここは何もなくて、単なる空き地だった。

吉野:一升瓶はゴロゴロあるから、一升瓶2本に水を入れてビニールパイプを買ってきて、それでレベル(水平面)を測りながら基礎をやって。それはマッサンとふたりでやったな。下にブロックを置いたんじゃなかったかな。
それでね、(壁は)モルタルを塗ったんだよ。これは田名網(敬一)、タナさんやなんかもやったの。ところが素人はヘラでやれないの。それで皆、素手でやり出したのね。で、下にラスメタルっていう金網を張っていたんで、そこに(手が)引っかかる(笑)。そこへセメントのアルカリで、手がやられちゃうんだよ。皆、手がボロボロになっちゃって(笑)。それでちょっと休憩したことがあったな。

平野:じゃあ、あそこは全部手で塗ったんですか。

吉野:手で塗ったの(笑)。

平野:すごい(笑)。

吉野:最後はヘラかなんかで押さえたと思うけど。おかしいよね、本当に。

宮田佳:(増築部分の2階正面外壁にある)あのドアはどうして? (外から上がれる)階段がないのに。ただ「ドア、作っちゃおう」みたいな感じ?

吉野:そうだね(笑)。

鏑木:えー(笑)。

平野:ここを増築した目的を詳しく聞きたいと思っていたんです。なんでここを、増築したんですか。

吉野:下(1階アトリエ部分)が、作品でいっぱいだったんだよ。マッサンはとにかく、ものすごく作品を作るんだよ。めちゃくちゃね。ただね、オリジナリティがない(笑)。それがおもしろいんだよね。どこかの誰かのような感じの作品が、いっぱいあるっていうことなんだよね。

平野:増築したのは、1961年なんですかね。62年にはもう。

鏑木:吉村さんは渡米されていますね。

吉野:61年くらいだろうな。60年の秋口(10月)に、翠さん(石崎翠。美術評論家・石崎浩一郎の妹)と結婚しているから。だから60年の……冬じゃなかったな。

平野:ということは、61年なんだ。

鏑木:ですね。60年7月(1日~10日)に、第2回ネオ・ダダ展をここでやっていますよね。

吉野:そうだね。その前の4月くらいから皆で集まっていたんだよね。俺も4月末から参加して、それで6.15の国会議事堂の討ち入りがあって、俺と田辺(三太郎)と、ギュウチャン(篠原有司男)も入っていたのね。ギュウチャンはデモの経験がなかったって言って。その前日は6.14ってゼネストだった。国鉄はみんなストして、俺は三鷹で田辺と2人で線路の枕木を枕にして寝転がっていたの。そしたら日共の人がおにぎりを2つずつくれたんで、日本の共産党も捨てたもんじゃないなと思いながらね。それで翌日はそのまま国会に行って、ぐるぐるまわったりして「岸(信介)を倒せ」とか、そのうち「岸を殺せ」とか言ったりして。その前にハガチー(ジェイムズ・ハガティ)を羽田で阻止しているからね。6.15の時は西門から千葉大(か東京医科歯科大)が入るって聞いて、西門に行ったらどうも奴らは腰砕けで、正門から早稲田が攻めるって言うからね、じゃあそれだって正門に行って。7列目くらいだったかな。かなりの人数だったからね。田辺と竹の棒を半分ずつにして、4、5尺ぐらいの、それで戦おうと思って。そしたら第3か第4機動隊、これも殺し屋の集団なんでね、白い棒を指揮棒のようにしてね。その棒は鉄棒を中に仕込んだ相当長い棒でね。指揮棒だと思って、指揮者が多すぎるなと思いながらバーと入っていったの、国会の方。そしたら右の方からウォーって指揮棒を持った奴らがやってきて、飛び上がって棒を振り下ろすんだよ。そうするとやられた奴は(頭から)ビューっと血が飛び出す。俺はチビだけど、田辺は背が178くらいあるから、当時としては大きいんだけどね。左サイドから入って右、左と、とにかくザーっと双方向から総崩れになって、左側の最前もやられ始まったんで、みんな後ろに下がろうと思ったら、後ズゥーっと押しているんで下がれない。だからその時だね、樺美智子さんが圧死したっていうのはね。というのは呼吸ができないんだよ。それで這々の体で何とか出てた。出たらね、シャツのボタンが1個も無くなっていた。ちょうど6月で薄いシャツを着ていたんだね。ハァーとか言って出て、パッとみたらギュウチャンが居るんだよ。モヒカン刈りのギュウチャンが。これはマークされたらイチコロだって(笑)。俺は帽子にタオルを畳み入れて被っていたんで。マル通(日本通運)の作業用の帽子だったけどね。その帽子をギュウチャンに「一応、被ってろ」ってやって。ただ後ろからこう(モヒカンが)出ていたけどね(笑)。それで3時か4時、夕方くらいかな、新宿まで辿り着いて。西口の鶴亀という一番安い、魚のカツを2匹ぐらいのせて、ビショビショの汁をかけて、俺たちにとってはそれが大ご馳走なんだけどね。職安通りもこれくらい(新宿ホワイトハウス前の私道を指して)の道だったんだよ、幅がね。職安通りのそこに天ぷら屋があって、カツを売ってくれる店があって、5円だったかな。5円のやつが2つ入って汁がかかって、飯の上にのっかって。

平野:酒屋(丸石酒店。吉野と篠原有司男が出会った)っていうのは、そこ(の角)にあったんですか。

吉野:職安通りからこっち(北側)に入る所の(北西)角に。あのビルはまだ残っているんじゃないかな。

鏑木:建物は残っている?

吉野:うん、建物は残っている。あんな汚い感じだった。このへんじゃもう、でかいビルだったけど。丸石の親父は山形県出身で、その後ジュータン・バーを経営していて、そこに俺の高校の時の先輩で国鉄にピッチャーで入ったやつがウエイターをやらされていて、声をかけるのが失礼かと思って声かけなかったけれど。俺たちの(白石)高校は一級上が甲子園行ったんだよ。あの高校が百何十周年を迎えるけれど、甲子園に行ったというのは一度きりだね。

平野:建物の話に戻りますけれど、(増築は)たぶん61年の。

鏑木:春ですか、夏ですか。

吉野:えーとね……いいシーズンだからやったんだよ。

鏑木:ああ、じゃあ春なのかな。

吉野:「作れ」っていう指示があったりしたわけじゃなくて、「じゃあ、継ぎ足すか」っていう、アイディアだよ(笑)。継ぎ足しちゃおう!

平野:この増築部分に関するメモっていうのが、残っているんですか。

宮田佳:ええ、今日持ってきました。手書きのね。増築のためか、わからないですけれどね。

吉野:え? メモが残っている?

平野:藤森さんのインタヴュー(『新建築』の)記事でもメモは出ているんだけど、小さくてよく見えなくて。

吉野:それをお持ちになったの? 誰が書いたんだろう。

平野:藤森さんのインタヴューの中では吉村さんが書いたって言っていましたけれど、見てもらった方がいいかもしれません。

吉野:俺は大工さんが仕事をするのを、じっと見ているのが好きなガキだったから。

平野:でも吉野さんが吉村さんの指示にしたがって、大体こういう手順でって。

吉野:大体、俺が指示したんだよ。

平野:手伝ったのは、どんな方ですか。

吉野:最初はネオ・ダダのメンバー。まぁ、ギュウチャンなんかは手伝わない。田名網なんかは一生懸命、手伝った。田名網は最初からいつもいるんだよ。タナさんは山下清の真似がうまいんだ(笑)。

鏑木:田名網さんが。

吉野:兵隊の位を聞くと「あー、そ、そ、そうだな。ちゅ、ちゅ、中将くらいかな」とかね。バカなことをしゃべっていたの。バカなことしか喋ってなかったんだな。タナさんはその前、日宣美(日本宣伝美術会)で賞を取って、60年くらいになると『明星』とかなんとか、いろんな週刊誌が増えてきたんでね。そのレイアウトをやって、あの頃すごく稼いでいた。まだ武蔵美の学生だったんじゃないかな(笑)。サラリーマンの初任給が1万ちょっとだった時代だよね。タナさんは仕事は早いし、だから夕方は暇だしお金持って来てくれるからね。で、ゴールデン街のちょっと上の方のポリスボックスをちょっと下がった所に、「かがり」っていうバーをやっている浅草生まれの女性がいて、その彼女とタナさんは結婚したの。料理がうまくてね。タナさんの家に行って一杯やろう、なんていう時には、素早く美味しい料理が出てきて……最近、タナさんも元気だからね。がんばってる。

平野:近年も、精力的に展覧会をされていますよね。

吉野:今度、スイスでやるなんて言っていたけどね。

平野:あそこの(増築部分の2階外壁にある)扉っていうのは、作品を出したり入れたりするためですか(注:外には階段がない)。

吉野:いや。うーん……今思うとね、あの頃から「なんでここに扉があるんだ?」っていう話はあったの(笑)。

鏑木:あの扉は、開くんですか。

吉野:どうだったかな。

宮田佳:開きますよ。もう今、ずれてきちゃっているけど。隙間風が入ってくる。

吉野:ハシゴをかければ登れる。壁を抜いたからね、内側からは入れるようになっているんだよね。

平野:その下は、何なんですか。

吉野:下は倉庫。

平野:倉庫なんですか。

宮田佳:そうです、そうです。ドアもこの当時のドアだったんですか。

吉野:そうそう。

宮田佳:今はガタガタで、外れそうなんだけど。

吉野:下は窓も何もないでしょう。

鏑木:そうなんですね。

吉野:この門扉だって、昔と同じだよ。

宮田佳:これも? これもガタガタなんだけど、一応とってあるんです。

平野:これ(ブロック塀)は当初からあったんですか。

吉野:うん。この高さだったんだ。

鏑木:じゃあツタは生えているけれど、外観の原型はすごく留めているんですね。

吉野:同じ。リシンの吹き付けの仕上げだとかね。

平野:増築するための材料っていうのは、どこからどうやって調達したんですか。

吉野:もう、材木屋はこの辺にいっぱいあったしね。(新宿駅)西口に行けば、でっかい金物屋もあったし。

平野:(左側にまわって)そっち側って、何かありますか。

吉野:ただ塞いだだけだからな。何もないはずだよ。

宮田:(2階西側の外壁にある出っ張りを見て)出っ張りがありますね。窓ですか。

吉野:あれは窓じゃなくて、棚を作ったんだな。

宮田佳:(内側に)棚がありますね。

鏑木:それが飛び出ているんですね。

吉野:(隣家との境を見て)いっぱいいっぱいになっているな。あの頃、境界線があまりしっかりしていなかったのかな。

鏑木:当時はもうちょっといっぱいに建てられていたんですね。

吉野:塀があったのはこの辺で、あの頃こっち側(左隣)は、ボロいアパートだった。ちょっと(奥に)下がったようなアパートだったな。

鏑木:じゃあ今は変わっているんですね。

吉野:だから窓から(隣の)おばさんが顔を出して、騒ぐとどうのこうのと。隣だったかな……

平野:では、中も見てみますか。

(門を入ってまず左側、西側の増築部分へ向かう)

宮田佳:(増築部分1階の引戸を開けながら)微妙に金具が外れちゃって。

鏑木:あ、作品が。

宮田佳:(おじさんの)作品で、まだ2階にも大きいのが置いてあって。

平野:(倉庫のようになっているのを見て)結構広い。こうなっているんだ。ちゃんとしていますね。

吉野:(増築部分の内側の壁を指して)これが外壁だよ。

鏑木:ああ、これが元の外壁ですか。

宮田佳:水道のメーターとかも、奥にあるんですよ。

吉野:床下は腐っているだろうと思うけどね。傾いでいるから。

宮田佳:2階も床が危ういなっていう感じですよ(笑)。

吉野:(天井を指して)だってこれ、垂木だもん(笑)。

宮田佳:でもその割には持っていますよね(笑)。

吉野:垂木の間隔が狭いから。(北側を差して)あの換気扇は後でつけたんだ。

宮田佳:そうです。そこに下水が、マンホールじゃないけれど、そこに流れるようになっているんですよ。向こう側(突き当たり、北側)の壁ももうボロくなったんで、ビニールで(覆っている)。

吉野:(元の外壁の北側半分を差して)こっちは風呂場のガラスになっている。

宮田佳:そうですね。

平野:(元の外壁を確認しながら)そうか、これがオリジナルか。

吉野:(配管を指して)こういうのは、後で(宮田)晨哉さんがつけたんだ。水道とか、パイピングしたりとかね。

宮田佳:そうですね。これは皆さんが、手作りでやられたということなんですか。こういう所も、土台を作って?

平野:何日くらいでできたんですか。

吉野:どのくらいかかったんだろうな……

平野:1週間とかじゃ、できないですよね(笑)。

吉野:そんなに短くない(笑)。もうちょっと時間がかかっていると思うよ。……このトタン板も、マッサンが得意だったからね。《Danger》(1960年、マグネシウム、火ほか/注:吉野が最初に発表した作品)を持ってきた時もマッサン、すぐにトタンを買いに走ったから。

平野:やっぱりちょっと、(増築後の形と当初の形では)印象が違いますよね。当初の壁を見ると、ミニマルな感じがする。

鏑木:「実直にモダニズム建築をつくりたかった」っていうのが、わかる気がしますね(注:『新建築』p. 43で磯崎が語っている。この発言の前後は次の通り。「まず三間立方にしたかった。実直にモダニズム建築をつくりたかった。この形式はル・コルビジエの『シトロアン住宅』(1922年)を意識したと思います」)。

吉野:(入口に向かって右、東側に植えてある)アオギリはいつから生えているんだろうね。

宮田佳:すごく伸びちゃって。毎年切っているって、カフェの人も言っていましたけれどね。

吉野:これ、2本あるんだ。

(しばらく増築部分を眺めた後に全員で入口から建物内に入る。建物は東西に横長で、引戸の入口は中央から東寄りにある。入ると東側が吹き抜けのアトリエスペース、西側が2階建ての居住スペースとなっており、1階にキッチン、バス・トイレ、2階は寝室となっている。北側に東から西に向かって階段がある)

吉野:(見渡しながら)ふーん、こうなっているんだ……

宮田佳:この(1階中央に南北に伸びてある逆L字型)カウンターは、カフェの人がつけたんです。

吉野:(カウンター越しに北西側を見て)そっちを厨房にしたのか。

宮田佳:そうそう、そこを厨房にしてやっていましたね。

吉野:この階段は同じ。(西側のスペースに移動し、北側に位置する扉を開けて)このタイルは新しいな。トイレも新しい。

鏑木:(西壁を指して)元のキッチンは確か、そちらなんですよね。

平野:(竣工当初のキッチンを指して)これが当時、最先端だったという。

宮田佳:元のままで、日本で初めてのステンレスのシンクだって言っていましたね(注:1956年製/『新建築』p. 44図版キャプション参照)。

鏑木:当時のキッチンとしては、すごくおしゃれだったんですね。

宮田:(キッチン前の)床のピータイルも当時のものですかね。

吉野:(キッチンの手前を指して)で、ここにストーブがあって。(もう少し入口側を見て)……この辺かな。(カウンターの後ろにある間仕切りを確認して)この壁は新しいのかな……新しいんだな。これ、なかったもんな。

宮田佳:ここはカフェがくっつけたのかもしれないですね。もしかして。

鏑木:ああ、きれいですもんね。

吉野:(間仕切りの一部分の格子小窓の障子を見て)こんなの、どっかで拾ってきたのかな。

宮田佳:これはうちのおばあさんの家を壊した時、カフェの人が使うっていって持ってきたんですよ(笑)。だからこの壁は新しいんですよね。

吉野:この壁は新しい。これはなかったと思う。

平野:吉野さんの最初の作品である《Danger》は、どこに設置されていたんですか。それを今日、聞きたかったんですよ(注:《Danger》は1960年7月の第2回ネオ・ダダ展で発表された、火を用いた作品。石松健男による写真「火を放つ吉野辰海 作品《Danger》」などが残されている。『ネオ・ダダの写真』pp. 30-31参照)。

吉野:(アトリエ奥の北東角を指して)このコーナー、この角。

平野:ああ、ここですか。なるほど……

吉野:マッサンの作品をその時どこに持って行ったんだろうな。表に出したのかな、1週間。なにしろ、部屋の全部が作品で埋まっちゃっていたから(笑)。

平野:(宮田佳さんに向かって)最初に発表した作品なんですよ。

鏑木:位置としては、入口から見て突き当たりの右角ですね。

宮田:(石松の写真を見ながら)これは2階から撮った写真っていうことですかね。

吉野:うん、上から撮っているんだろうな。これは石松ちゃんの写真。

平野:(石松の写真にある、吉野が火をつけるために乗っているベンチのような台を指して)これは板のようなものに乗っているということですよね。地面からちょっと浮いている。

吉野:なんかあったんだな、ここに。こっちがメインの作品なんだよ。

平野:でも、(火をつけるために)台の上に乗っているんですよ。この空間の配置が、いまひとつわからなくて。

吉野:俺が立っているのは、台の上だね。

鏑木:台があったんですか。

吉野:いや、そんなことはひとつも覚えてないけどね(笑)。

鏑木:壁沿いに台か……椅子かな、これ。

平野:不思議な感じで。

吉野:何かここに置いてあったんだろうな。台みたいなものが……。

平野:そうですか。ここなんですね。ところでこの有名な集合写真のカットは、どのポジショニングですか。これも重要な(小林正徳が撮影した「ネオ・ダダの集団ポートレート」のこと。「革命芸術家のホワイトハウス」を謳った第2回ネオ・ダダ展の案内状にある写真とは異なるカットで、ネオ・ダダの11名がアトリエの1階から2階を見上げている)。

吉野:(南側の角を指して)これはこっちだね。

鏑木:ああ、こっち。なるほど。この角に皆で集まって、上から撮っている。

宮田佳:(顔を見上げて)こういう感じで。

平野:そうですね、この床板の目が(写真と同じ方向)。いやぁ、ようやくわかった(笑)。あと、(階段横にある)このストーブは。

吉野:(入口付近を指して)ストーブはあっちだよ。当時はこんなでかいストーブじゃないからね。だるまストーブ。

宮田佳:これはたぶん、うちの叔父さんが後からつけたんだと思います。

平野:あと、檻に入ってふざけて撮っている写真。(アトリエ奥の壁を指して)あれはたぶんここだと思うんだけど(注:「集団ポートレート(檻)」『ネオ・ダダの写真』小林正徳撮影、p. 60参照)。

吉野:檻に入っている?

鏑木:皆で木枠みたいなものに入って、おどけた感じの。

吉野:ああ、この写真と同じ時だよ。だから誰かがアイディアを出したんだろう。

宮田佳:(ファイルから青焼きとメモを出して)これが図面とメモです。

吉野:(メモを見ながら)ああ、そうそう。……これはマッサンの字じゃないな……。俺でもないし。誰の字だろう。「納戸」……。(注:このメモについて『新建築』では次のようなやりとりがある。藤森照信「こちらの図面[メモのこと]は吉村さんが描かれたのですか?」吉村益信「覚えていませんが、これは私の字みたいです。西側の増築部分が描かれているから、増築時の確認用の図面でしょうか」)

平野:(売買に関する書類を見ながら)金額が書いてありますね。

吉野:これはマッサンの字じゃないけれども、マッサンが(宮田)晨哉さんに売る時に書いたものかもしれない(注:武蔵野美術大学で教鞭を執った画家の宮田晨哉を指す。宮田重雄の子息で、宮田佳の叔父にあたる)。

宮田佳:こういう家です、ということをね。

吉野:この値段で売ったということ。(読みながら)「アトリエを見たい場合は」……石崎(浩一郎)の住所が書いてある。これ、マッサンがニューヨークに行ってからじゃないかな。浩ちゃん(石崎浩一郎)の親父と石崎浩一郎が、マッサンが買った下落合の家に住みだして、またそこも俺と田辺と石崎浩一郎の3人で、家をぶっ壊しながら直したんだけれどもね(笑)。

宮田佳:買った年が、昭和37年って書いてある。

吉野:これはマッサンの字だ。こういう字がマッサン。(メモを指し)この字はマッサンの字じゃないと思うんだよ。

平野:ああ。

宮田佳:じゃあ誰か、不動産を紹介した人が書いたとか。

吉野:不動産屋かな、これ。もしかして。

宮田佳:でも不動産屋は通していないでしょう。

吉野:この辺は不動産屋がやったということかな。

宮田佳:私が思うのは、吉村さんって児島善三郎さんのところにずっといたじゃないですか(注:吉村益信は武蔵野美術大学に在学中、国分寺の児島善三郎の旧宅(遠藤新・設計、1937年)に間借りしていた。『吉村益信の実験展』pp. 26, 126参照)。うちのおじいちゃん(宮田重雄)が、児島善三郎さんと知り合いだったから、たぶんそっちから話がきて、おじいさんが息子用に買ったんじゃないかと思うんです。買ったのは、おじいちゃんだから。それかもしかしたら、うちのおじいちゃんか叔父さんが。

吉野:いや、これはたぶん不動産屋が書いたんだろうと思うよ。

宮田佳:でもなんとなく、うちのおじいちゃんの字かもしれないな、みたいな気もしなくはないんですよね。

吉野:だって、マッサンより晨哉さんの方が年上だからね。晨哉さんはお金持ちの倅だから(笑)。

宮田佳:叔父さんはこの時、お金はなかったはずよ。おじいちゃんの方がお金があったから。だからたぶん児島善三郎さんから、ちょっと買ってくれないかね、とか言われてうちのおじいちゃんが買って。叔父さんはパリにいたかもしれなくて(注:1958年から1961年)、息子用に買って与えたみたいな感じなのかな、と思うんですよ。

吉野:まぁそんなに厚遇されるとやっぱり、大した絵描きにはなれねぇな(笑)。

宮田佳:だからうちのおばあちゃんも、「学校の先生でおしまいか」なんてよく言っていたけれど(笑)。

吉野:いや、先生としては非常に落ち着いた、いい先生だったと思うけどね。

宮田佳:(資料がまとまっているファイルを見ながら)あとは地図とか、登記関係のものは全部取ってあります。こういうものは司法書士の人とかがやっているのかもしれないですね。

吉野:(地図を見ながら)これもマッサンの字じゃないな。「大久保通り」……こうなっているんだ。

鏑木:(地図を見て)これが職安通りですね。それでホワイトハウスがここですよ、っていうことですね。

宮田佳:うん、うん。

吉野:道がこんなに細かったんだ。「職安」……俺も職安に行ったことがあったけど、自衛隊を紹介されたことがある。「自衛隊のデザイナーっていう手もあるんだ」とか言われて(笑)。

鏑木:へぇ(笑)。

宮田佳:(資料として持参した雑誌の記事を見ながら)叔父が住んでいた時は、こんな感じです。インテリア雑誌か何かの記事だけど。

宮田:おしゃれ。

鏑木:(記事にある)このストーブは今のストーブですね。煙突がそうですね。

平野:ネオ・ダダの時のストーブとはポジションが違うんだね。

宮田佳:これは叔父さんが後からつけたんですね。

吉野:(ストーブは当時)入ってすぐの所にあったね。

宮田:この青焼き(図面)、すごく状態がいいですね。色がこんなに濃い。

吉野:日焼けしていない。

宮田佳:これは工務店が作ったんですかね。磯崎さんじゃないから。

吉野:これ、図面屋が描いた図面だね。工務店の図面じゃないよ。マッサン、図面屋さんに頼んだのかな。施工図はマッサンは描けないから。こういう部屋の構造とか、屋根の構造だとか。床の構造だとか。

平野:屋根がこう(平らに)なっていて、ここに今、斜めになっている部分を継ぎ足した(増築した)っていうことなんですね。

吉野:そうそう、そういうことだね。だから、ここに差し込んだっていうこと。

平野:なるほど、なるほど。

下坂:(青焼きの平面図を指して)図面はこの部分が裏表、逆向きになっているんじゃないですか(注:『新建築』p. 46の図面カラー図版のキャプションでも反転していることを明記している)。

吉野:これがね……逆転しているんだな、これ。

下坂:ええ。だから図面を作ったときはこの向きだったけれど、建てる時にこれを裏返して作っているんだと思うんですね。

吉野:そうだ。こっち側が階段になっている。だから反転、間違ったと思ったけど、反転してあったんだ。あるいは……

下坂:この図面で見ると、道路がこっちなので、キッチンがこっち側にあるという図面になっているんです。

吉野:そうだね。

平野:なるほど、これはそういうことなんですね。

吉野:だから、この通りには作っていないよ。作る段階で(図面が)反転しているということだね。

下坂:そうですよね。

鏑木:それは意図してのことなんですか、それとも間違えて反対に申請しちゃったということなんですか。

平野:これを作る時、まだ吉野さんはいなかったから。

鏑木:そうか、それはわからないですよね(笑)。

吉野:(登記を見ながら)この中里さんっていうのは、マッサンが仲良くしていた不動産屋さん。結構手広くやっていて、百人町のちょっと広い家に住んでいたんだよね。……国分寺、これはこの前だな。まだ児島善三郎さんの所にいた時の(住所)。

宮田佳:それで許可通知が。建築許可(申請)をこうやって出したっていうことなんですね。昭和32年っていうことは、1957年。

吉野:だから58年くらいに建て始めたっていうことだね。

平野:じゃあ上の階のレリーフも見てみましょうか。

(全員で2階へ)

宮田:(宮田佳氏に向かって)貴重な資料をありがとうございました。

鏑木:すごくきちんと保存されていらっしゃるんですね。素晴らしいです。

宮田佳:ねぇ。家にまとめて、ちゃんとあったんですよ。

吉野:丁寧なお仕事をされている、っていう感じがするね。

宮田佳:(階段を上がりながら)倉庫(増築部分のこと)には叔父さんの絵がギュウギュウに入っていたので、全部出して見られるようにしてあります。

鏑木:ありがとうございます。

吉野:(2階奥、増築部分を見て)あ、ここも部屋にしてあるんだ。……これは俺、見ていないな。マッサンひとりでやったんだな。これ、(増築の施工の)最後はマッサンがやったんじゃないかな。

宮田佳:じゃあ吉野さんたちがこの部屋を最初に作った時は、この壁はベニヤ壁か何かだったんですか。

吉野:いや、これをやったのはマッサンだからね。この下は外壁だよ。こっちは……これはベニヤだ。

鏑木:さっき外から見た時に、外壁から飛び出ていたのはこの棚ですか(中央に造りつけの棚がある)。

宮田佳:この棚ですよね。

吉野: 60年代の初めに作ったもの(作品)は、下落合の家に持っていったんだけどね(注:吉村が帰国後の66年から69年にかけて住んだ)。下落合に谷になっているゴミ溜めがあって、それを飯村隆彦と石崎浩一郎と俺と3人で持っていった。飯村の家は中野で電気店をやっていたんだよ。ちっちゃいミゼットみたいなトラックがあったから、それに積んで行って、ゴミ溜めにマッサンの作品を全部捨てたの(笑)。

宮田佳:えー!!

吉野:だってあの頃はアンパン(読売アンデパンダン)だって何だって、(展覧会が終わったら)帰りは作品を持って帰らないんだから。帰りの運賃がもったいない。60年代の初めの作品はマッサンも、自分のオリジン(原点)じゃないとは思っていたと思うよ。とにかくマッサンは作品を作る人だからね。もう、ガンガン作っていた。俺がものすごく勉強になったのはね、作家っていうのは作品をめちゃくちゃ作るものだっていうこと(笑)。それは勉強になったと思うんだよね。

鏑木:宮田(佳)さんは日頃、ここをどのようにご利用になっていたんですか。

宮田佳:うちの叔父さんの絵が、物置みたいにいっぱい入っていたんですよ。(外からは入れない)ドアの部分は開いちゃうんで、紙で塞いで(笑)。

吉野:(窓を見て)これ、曲がっているな(笑)。たぶん下がってきたんだろう。 61年くらいから(60年ほどを経て)、今日初めてこれを見たんだよね。大体、2階はマッサンの寝室なんだよね。だから2階は俺たちはあんまり登ってこなかったの。 この床、こんなにいっぱい人が乗っても大丈夫なのかな(笑)。

宮田佳:雨漏りが心配なくらいなんですよ。

鏑木:実際は大丈夫なんですか。

宮田佳:一応、大丈夫です。

吉野:ちょっとした材料は使ったけれど。真ん中(骨組のこと)とかはね。でも後は全部垂木だから、バラックみたいな造りだよね。

鏑木:そうは言ってもこれだけ残っているんですから、しっかり作られているんじゃないですか。

吉野:しっかり作ったっていうか……奇跡だろう(笑)。雨漏りはしなかったっていうことか。あるいはこの壁に貼ってある作品が、ちゃんと油を塗ってあるのかもしれない。

鏑木:なるほど、そういう処理がしっかりしてあるんですね。そういう意味では、やっぱり素人仕事ではないですよね。

吉野:(部屋の天井中央に位置する天窓にはまっている半透明の波板を指して)これは抜いたのかな……この板は昔からあったんだよ、こういう素材として。風倉(匠)がこれでモビールを作ったことがあった(注:風倉の作品は小林正徳撮影「風倉匠作品」『ネオ・ダダの写真』p. 33と思われる)。

鏑木:では当時のまま、使われているんですかね。

吉野:まんまじゃないかな。

鏑木:そうか。電気がないから、窓は採光なんですね。

宮田:設計的にも、ちゃんと採光になる。もともと増築は作品を置く場所として?

吉野:いや、何の目的もない。ただ、ウワーッと作ったんだよ(笑)。1階にあった作品を片付けて、ここに入れたんだろうと思うよ。点数としては、めちゃくちゃあったからね。

宮田佳:(『新建築』の取材の時)赤瀬川(原平)さんは「磯さんは来ないだろうな」っておっしゃっていたんですけれども、お見えになって懐かしがっていて。

吉野:赤ちゃん(赤瀬川)のお兄ちゃん、隼さんと新さんが同級生だからね(注:吉村は1957年5月、赤瀬川隼の結婚式披露宴で母校・大分第一高等学校の一級上だった磯崎新に出会い、アトリエの設計を依頼した。『吉村益信の実験展 応答と変容』pp. 113-130参照)。

宮田佳:吉村さんがその対談の後、すぐに亡くなってしまったんですよね。皆、何十年ぶりだって。対談の後に飲みに行くっておっしゃっていた。

鏑木:そうだったんですね。

宮田佳:楽しい思い出だったんだなって思って。

宮田:そうですよね。

吉野:あの頃(1960年初め)の作品は、誰も持っていないっていうかね。捨てたやつを、拾ってきて持っているっていうのはあるけれど(笑)。ギュウチャンが川に捨てた作品を、「流さないで」って(画廊春秋のオーナー)浅川邦夫がもらっていた(笑)。この間テートで展覧会をやっていたとき、カタログの表紙になっていたよ(注:Jessica Morgan and Flavia Frigeri eds.,The World Goes Pop, London: Tate Publishing, 2015)。 汗かきながらね(笑)。太っていたから、仕事するとすぐ汗をかくんだよ、マッサンは。

吉野:まぁマッサンの作品は、あまりシゲシゲと見たことはなかったけれど(笑)。

鏑木:意外とそういうものなんですね。

平野:(階段の上のスペースに出て、階段から寝室に入る左脇にある)この棚の配置などはそのままですか。

吉野:これは昔と同じ。

平野:吉野さんがネオダダの宴会の時に、ジャンプして宙返りしたっていうのは、ここから?

吉野:そうそう(笑)。飛んで、下に敷いてあるマットの上で前転したの。

鏑木:えー! 結構な高さですけれども。

吉野:この壁も同じ壁かな。

宮田佳:ボードの下は元の壁ですけれども、白い部分はカフェの人が断熱のボードを貼っているので。

吉野:石膏ボードを貼り付けたんだな。

宮田佳:インシュレーション、冷たくならないようにするやつ。寒さよけで。

鏑木:(一部、貼られていない部分を指して)こっちはオリジナルですね。残っている壁。

吉野:(寝室は)ワンルームなんだよね。

宮田佳:障子もなかったって、吉村さんたちが。

吉野:そうそう。だから階段を登ってきたら脇に棚があって、その横にベッドがあった。

鏑木:この吹き抜けの高さはきっと、大きな作品を作れるようにということだったんですよね。

吉野:そういうこと。こんなに大きいのは作っていなかったけれど。

鏑木:でもやっぱり、アトリエをメインとして。

吉野:吹き抜けはやっぱり新さんがかっこいいと思って、したんだろうと思うよ。

宮田:本当に、すごい空間ですよね。1957年にこんな高さの吹き抜けがあるなんて。

吉野:広さでいえばね。今ならアトリエで使うには贅沢な空間だけど。当時はアトリエなんて持っている奴はいないわけ。

宮田:いろんなパーティがあったんですよね。いろんな人が来たって。

吉野:いろんなパーティがあった。そればっかりやっていたっていう感じだよね(笑)。

鏑木:それも広さ故ですよね(笑)。

宮田:照明は当時のままですか。(吹き抜け天井からぶら下がっている)蛍光灯。

吉野:うーん、そんな感じだよな。

鏑木:蛍光灯がこれしかないのに、これだけ明るいってすごいですね。窓がうまく切ってあるっていうことなんでしょうか。

平野:(窓ガラスを指して)これ、手作りなんだ。

宮田佳:平らではない、昔のガラスですよね。

平野:(網入ガラスなので)飛散防止なんだ。

宮田:今では手に入らなそうですね。

平野:工業生産ではできないガラスですね。

宮田:(寝室の)襖は後からつけたんですか。

宮田佳:全然わからないんです。でもベッドルームだったということは、ドアとかはあったんでしょうかね。

鏑木:ここはお天気が悪いと、暗かったりするんですか。

宮田佳:しますね。あと、今は乾いている時期だからいいんだけど、もしかしたら台風の時とか、水が漏れているんじゃないかと思うんですよね。叔父さんの絵を出したら、カビまではいかないけれども、ちょっと端が湿ったようなものもあったんです。なんとかしなきゃ、と思っているんですよ。

吉野:材料としては、50年代のラワン材。南洋の輸入材。ほとんどがラワン材でできている。

宮田佳:(窓辺を指して)このへんは嵐の日なんかには、漏るんだと思うんです。もうボロボロになっているから。

吉野:この家は庇が少ないと思うんだよな。(窓の外がツタで覆われているのを見て)これじゃホワイトハウスじゃなくて、アイビーハウスだな(笑)。50年経てば、こんなもんだろうと思うんだよな。

宮田佳:60年近く経っている。

吉野:建ててから60年だな。

鏑木:吉野さん、さっき増築の時は吉野さんと田名網さんが活躍されたとおっしゃっていましたが、それ以外の方々は。

吉野:あと、もっと……もう、わからないよ(笑)。とにかくいつも集まっている人間がいたからね。

平野:それはアルバイトじゃなくて。

吉野:アルバイトとか、そういうんじゃない。いる奴が手伝うっていうこと。マッサンは器用な人だから。

平野:61年の段階では、吉村さんがまだアメリカに行こうっていうことがないから、増築をしたんですよね。いつからアメリカに行こうとしたのかと思って。

吉野:最初に61年に工藤(哲巳)が(パリに)行って、荒川(修作)が(ニューヨークに)行って、それからマッサンかな。マッサンが行ったんで、今後は(升沢)金平だとか、豊島(壮六)。田辺だとか。ギュウチャンがなかなか行かなかったっていうのは、イミグレーションでいつも拒否されるんですよ(笑)(注:篠原有司男の渡米は1969年)。「お前、ちょっと手を出してみろ。これは土方の手だ、アーティストの手じゃない」って(笑)。俺は70年代に行ったけど、60年代末はもう、日本人の移民はなしということになってね。韓国と沖縄から何名かっていうことで。だから向こうに行ったらもう皆、仕事をしていたから。マッサンなんか、やりすぎて強制送還直前でね(笑)。

宮田佳:アートじゃない仕事をされていたんですか。

吉野:そうそう。大工をやったり、店舗改装をやったり。イタリー人の大工を使って、頭は日本人の方が切れるから。

宮田佳:吉村さんはもともと、大工仕事ができたんですか。

吉野:それは皆そうだよ。日本人の作家っていうのは、ガーデナーになってもいいし、料理人になってもいいし、大工さんになってもいいし(笑)。

宮田佳:何でもできたんですね(笑)。

吉野:日本人は一生懸命やるからね。スーパーで潰れたようなものすごく安い缶詰、そういうものを買ってきて食べながら、一生懸命働くんだよね。日本人で、家を作った奴もいるしね。近藤(竜男)さんも家を作ったな。田辺も家を作っているしね。俺が1970年くらいに行ったとき、田辺の給料が高給だった。そんなに高給な給料っていうのは、日本じゃ考えられなかった。だから日本人でも家も作れた。
だってこっちは、ジュースの素を水で溶かして飲んでいるような時代。その頃はクーラーもなくて、黒い扇風機が1台あったくらいだから。皆、黒い扇風機を回して、それも法事や何かの時で、親父が持っているくらいのものだったからね。それでシマダヤのジュースの素を飲んで、5円のアイスキャンディーをかじって(笑)。ガキどもはね。

宮田:(篠原有司男と土方巽が)屋上で裸踊りをしたのは、ここですか。

吉野:ここじゃない。それは駕籠町の新さんが借りていた家で、パーティをやろうってことになって(注:「NEO DADA + TANGE’S TEAM: Art + Architecture + Dance… Something Happens」文京区駕籠町109番地、大和郷の磯崎新宅、1962年8月25日)。

平野:壮行会ですか。

吉野:その時、マッサンの壮行会を兼ねていたかもしらん。

平野:それでパトカーが来たっていう(笑)。

吉野:新さんは丹下(健三)さんの仕事で東欧の、どこだっけ。コンペで丹下さんがそれを獲って、やったのが新さん(注:1965年3月よりスコピエの再建を計画するコンペティションに参加。磯崎新は丹下の下で渡辺定夫、谷口吉生、井山武司らと共にこの設計を担当)。だから非常に優秀だった。丹下さんは《東京計画1960》っていう堅気で立派なものを作っていたけれど、俺が駕籠町に新さんのアルバイトで行って新宿計画っていうのをやっていた(注:磯崎新が1960年6月に発表した淀橋浄水場の跡地の開発計画(空中都市)を指す。同年の9月より丹下健三の下で《東京計画1960》の設計を担当する)。こっちはバルサでポールを何本も立てて、まず新宿の街を爆破しちゃう。そこに高層ビルを作るっていう、そんなモデル(模型)を作っていたことがあった(注:吉野辰海は木下新と共に空中都市の模型を制作)。2ヶ月くらいの間ずっと作って、その間じゅう新さんとよくしゃべったの。もう、いろんなこと。ガウディのこととか、建造物の重心の取り方とか。重力を逆転して作るだとかね。それとよく似ているのが、仙台の松島の瑞巌寺。あれは臨済宗のお寺なんだけど、僧が穴を掘って籠って座禅を組むとかね。あそこはすぐ海の側、だから風と波で柱が斜めになったりして。それがガウディの公園の柱と、よく似ているとかね。そんな聞きながら。あとは丹下研に井山武司とか近澤可也がいて、そいつらが遊びに来ると連中は話が高度なんだよね。62、3年で「ドップラー効果」なんて言われて、「なんだべな?」なんて思ってね(笑)。解説を聞いたら「ああ、そうか」って思うけど、俺は科学に敷衍する能力がないからね。例えば救急車がやってきて、時間と一緒に音がすーっと音が消えていく、あれもドップラーだって言うんでね。
あのね、ネオ・ダダって俺たちもまだ、二十歳だからね。もう、ノータリンもいいところなんだよ(笑)。だから一生懸命、焦ってダダとかシュルレアリスムの本を読むしかないわけだよ。ちょっと年上の連中が、2~3年上がればそれだけで読書量が増えるわけだから。そんなんで、3~4歳上だと赤瀬川とか荒川がいるし、7~8歳上だとギュウチャンとかマッサンとか。ギュウチャンは本は読まない人だったけど、まぁマッサンもそうかな。あとは新さんみたいな人だとか、いろんな人間がどどっと来ていた。『漫画読本』の編集長だとかね。田中(信太郎)を一生懸命追いまわしていたけれどね(笑)。

(全員、階段を降り1階へ)

宮田:改めてここに来て今、感じられることってどんなことですか。

吉野:自分の頭の中が、明瞭なことを感じている(笑)。時間っていうのは、そういうもんだね。60年くらいか。ずっとその前、40年くらい経った頃から皆の中で、俺の記憶が一番正しいっていうことになったんだよ(笑)。

宮田:よく覚えていると(笑)。

吉野:赤瀬川がネオ・ダダについて書く時、『TBS調査情報』に書いたのかな。

鏑木:今、文庫本になっていますね(赤瀬川原平『反芸術アンパン』(筑摩書房、1994年)。『いまやアクションあるのみ! 〈読売アンデパンダン〉という現象』筑摩書房、1985年の改題。1985年のあとがきに月刊誌『TBS調査情報』(TBS調査局調査部)に1982年3月から4回連載したものを書籍化したとある。ネオ・ダダの活動の全貌については「第四章 無償のスペクタクル」pp. 123-151に書かれている)。

吉野:村上紀史郎が編集長で、マッサンと俺も来てくれっていうんで、しょうがなく俺も行って。というのは、赤瀬川は言ってみればドキュメントを書こうとしているわけじゃないからね。マッサンはそれが、すごく嫌なんだよ。ドキュメントっぽく書いてもらいたいっていうのはあるんだよ。赤ちゃんは散文にしちゃうから。

鏑木:うん、うん。

吉野:まぁ、そういうことだからね。大分で展覧会があった時にネオ・ダダの連中、生きている奴が皆来てマッサンが気分を良くして、ネオ・ダダの再編成みたいなことを口走っていた。皆、「そういうことは無理だ」っていうことを言っていたけどね。それは無理だよね。

宮田:それはいつ頃の話ですか。

吉野:何年だろうな。大分で……これか?(『ネオ・ダダJAPAN1958-1998 磯崎新とホワイトハウスの面々』1998年を持って)この時に亡くなっているのは岸本清ちゃん(岸本清子/1988年没)くらいだったかな。あとは皆、生きていたんだよね(注:「ネオ・ダダ〈一断面〉展シンポジウム」(1995年10月、コンパルホール、大分)でもネオ・ダダのメンバーが複数登壇したため、この時の可能性もあり)。

宮田:この場でお話をうかがえて、本当に良かったです。宮田さんも、ありがとうございました。

(吉野と宮田佳で記念撮影をして)
宮田佳:ありがとうございました。私、先生のファンで今日ね、サインをもらいたくて。(『吉野辰海 犬の行方』埼玉県立近代美術館、2012年を出しながら)犬のシリーズが大好きなんですよ。

吉野:いやぁ、小っ恥ずかしいことを(笑)。

宮田佳:私、先生の作品が大好きで。ちょっとかわいそうな感じもあったりね。エピソード、ご自分の愛犬が終戦の頃にいなくなっちゃったっていう。それもかわいそうだな、と思ってね。このワンちゃん、こういう顔だったんですか。

吉野:いや、ドイツ・ポインターだったから、そういう形の犬ではあったけどね。ドイツ・ポインターはもうちょっと精悍な感じではあるけれども。飼っていたというか、友だちだったんだよね。同じ5歳だから。5歳の犬っていうのは相当、長じているわけだ。こっちはまだ、いたいけなガキなんで、犬に保護されていたっていうか(笑)。戦後は、本当に食糧事情が悪くてね。犬を供出しろっていうのがあって、親父が猟銃を持って「てめぇら、犬を持って行ったらぶっ殺すぞ」って言って、犬を守ったっていうのがあったけど。土手の桜の木に、犬の肉をぶら下げて売っていたからね。

宮田佳:本当?! じゃあ先生の作品で犬がぶら下がっているのは、そういうのもあるんですか。

吉野:(当時は)日本人も食っていた。あるいは土木工事で来ていた土工が。あの頃の犬っていうのは繋いでおかなかったから、フラフラその辺にいるのを水の中につけて殺して、それで食べちゃっている。

宮田佳:ええ! そんな。

吉野:僕ら、そういう世代だからね。食い物がなくて腹を空かしているガキ。食い物だけじゃなくて、日本の戦後っていうのは何もなかったから。

宮田佳:先生その頃は、どちらですか。

吉野:宮城県です。戦争が終わってすぐに、海兵隊がやってくる街だったけど。

宮田佳:その当時にドイツ・ポインターなんて珍しいんじゃないですか。

吉野:親父が趣味でハンターをやっていたからね。それと土建屋をやっていたから、ちょっと金回りが良かったっていう。あと、子どもの頃に大工さんが家を建てたりする時に、じっと見ているのが好きだったの。

宮田佳:それで学んだというか。

吉野:そうそう。

宮田佳:でもそのワンちゃんは行方不明になって。

吉野:わからなくなって。でも犬はいたけれど、使い物にならない犬は親父がすぐ処分するっていう。

宮田佳:ええ!

吉野:いい犬じゃないと、使い物にならないから。後でイングリッシュ・セッターを飼ったけど、それはすごくいい犬で進駐軍の連中がよく借りに来ていた。

宮田佳:そのワンちゃんはずっといたんでしょう。

吉野:19歳の時までね。

宮田佳:ああ、よかった。

吉野:2、3歳でもらってきたやつだったから。

宮田佳:先生も犬が好きなんでしょう。

吉野:好きだけどね、今は飼えないから。犬っていうのはやっぱり、一緒にいてあげなくちゃいけない。

宮田佳:私もワンちゃんが大好きだけど、昔はお母さんやおばあちゃんがいたから飼えた。今は海外に住んでいるから、全然飼えない。十字架にワンコが下がっている作品ね、9.11が関係しているって書いてあったから(《SCREW 犬販売台I》1997年、『犬の行方』p. 122, C15-1)。

吉野:うん、あれはちょっとね。あれより前に、単体の作品を作ったんだよね。そうしたら9.11があって、あの頃、俺はアメリカっていう国が嫌いになっていてね。どうもアメリカっていうのは人肉を食べるみたいな感じ、その頃そういう状態になっているなっていう思いでね。その後に作ったのがなんで2本になっているかというと、あれはツインタワーを意識していて(注:《SCREW 犬販売台II》2001年、『犬の行方』p. 44)。

宮田佳:ああ、なるほどね。あの作品で先生の思い出のワンちゃんがいなくなっちゃったっていうことと、日本もそうだった(犬肉を食していた)っていうことを今、聞いたけど、犠牲のような感じがして……

吉野:イギリス人みたいに「絶対に食わない」っていうんじゃなくて、日本人も(社会の)下層民は食っていたっていうことだね。日本はパリが封鎖されたときに動物が全部いなくなった、みたいなことは……

宮田佳:なに、その話。

吉野:1800年代にパリが封鎖されたことがあってね。最初にブローニュの森から動物がいなくなって、猫からネズミから全部いなくなって。その絵か版画があるんだよ。肉やら何やら、ぶら下がっているのが。

宮田佳:そうなんですか。

吉野:ヨーロッパ人はやっぱり、肉を食わないと食事をしたっていう気分にならないんだと思う。日本人みたいに、白い米だけでっていうのはね。大根の葉だとかなんとか、飯にはなんかが入っていたからね。

宮田佳:量を増すためにね。

吉野:そうそう。豆が配給になったんだけど、これがまずくてね。幼稚園くらいの時はちっちゃい茶碗で、豆を抜くとご飯が半分くらいになってね(笑)。

 

 

〈1963年以降の新宿ホワイトハウスについて〉
宮田晨哉は慶應義塾獣医畜産専門学校(1947年)と東京美学校油画科(1952年)を卒業後、文化学院講師を勤め、グループ「造形集団」(1953-55)や国画会で活躍。1958-1961年のフランス留学から帰国後、1963年、武蔵野美術大学油絵学科講師に採用されると同時に新宿ホワイトハウスに住みはじめた。以降、夫妻の生涯の住まいとし、1995年に同大学図書館で開催された「宮田晨哉教授作品展」の図録冒頭のポートレイトは、建物内の階段を背景に撮られている。2009年からは宮田晨哉の姪である宮田佳が所有し、仕事場とするほか、2013年4月から2019年3月までは宮田の友人である向野実代がカフェ・アリエとして運営し、音楽会や講演会等、さまざまなイヴェントを開催した。現在はアーティスト集団Chim↑Pomがアトリエとして活用している。宮田家が長く大切に管理し、活用し続けたことによって、「新宿ホワイトハウス」は建設当初の空間を現在も残している。

 

 

〈2回目の聞き取りについて〉[注1]
磯崎は新宿ホワイトハウスの設計について、『新建築』(2011.04, p.43)の座談会記録では、当時はまだ大学院生で設計経験もなく建築士資格も持っていなかったため図面だけ描いた、と話し、2012年4月1日に行なわれた『磯崎新オーラル・ヒストリー』の冒頭では「[新宿]ホワイトハウスの原型のようなものを僕がつくった」と語っている(『磯崎新オーラル・ヒストリー』辻泰岳と中森康文による全4回のインタヴュー、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ    URL:http://www.oralarthistory.org/archives/isozaki_arata/interview_02.php)。
「書き起こし本文注」にある『TOTO通信』(2016. 春号)では、『新建築』の座談会に同席した藤森照信が、掲載されなかった磯崎のネオ・ダダとの交流について、重要な回想を紹介している。
新宿ホワイトハウス周辺(緯度:35.698775814169494/経度:139.70155835151672)の当時の状況は、オンラインで閲覧可能な国土交通省国土地理院撮影の空中写真(1957年撮影)で、複数の住宅と思われる建物が確認できる。2019年11月16日に開催された「磯崎新の謎」展開催記念講演会(コンパルホール、大分)で、磯崎新と小野正嗣と鼎談したユキノ恭弘(画家)によれば、吉村が新築の挨拶代わりに、窓から隣の家に一升瓶に入った醤油を手渡していたと当時のエピソードを紹介していた。関係作家の証言としては田中信太郎「ホワイトハウスの季節」[2009年]『Shintaro TANAKA』(BankART1929編・発行、2014年)を、当時の新宿周辺の様子はオンライン「新宿区史年表」昭和(戦後)~平成時代(http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/70kinenshi/category/showa/ )も参照した。